2020年10月 1日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の62もののふの児(ちご)や女に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の62もののふの児(ちご)や女に

もののふの児(ちご)や女にたわむれて
       心おくれぬ事はあらじな

 武士が子供や女に遊び興じていては、心が臆する事にはならないか。

 卜伝は生涯独身で、家督は養子を迎えて継いだとされています。兵法家として何時でも力を発揮するには、後髪を引かれる生き方を自分に、許さなかったのでしょう。
 兵法者としての誰にも勝負では負けないと云う誇りが先に立って、何の為に兵法を志すのかの目的意識が柳生石舟斎宗厳とは違った生き様をして来たのかも知れません。
 卜伝(延徳元年1489年生まれ)より19年ほど遅れて生まれた上泉伊勢守信綱(永正5年1508年生まれ)は、上州箕輪城落城が56歳(永禄9年1564年)でした。武将としての半生を、敗北の人生として過ぎ、兵法家として踏み出した第二の人生だったのでしょう。卜伝は、その時75歳、第三回廻国修行中でした。
 其の2年後上泉伊勢守は柳生石舟斎宗厳(38歳)に新陰流影目録を印可しています。
 
 卜伝は元亀2年1571年第三回の廻国修行から戻ってすぐに没しています。82歳でした。生涯兵法者であり続けようとしたのかも知れません。

| | コメント (0)

2020年9月30日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の61もののふの足踏み延べて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の61もののふの足踏み延べて

もののふの足踏み延べて仰向きに
      寝ては勝負に勝たぬもの哉

 武士たるもの足を広げ大の字になって寝たのでは、勝負に勝てないのは当然だ。

 仰向けに寝るのは当たり前と思っていたのですが、駄目だと云うのです。仰向けに寝るのは良いとしても、大の字になって寝る様な、前後不覚に寝る様では、何時如何なる状況にも応じられる、心構えとは言えないと云うのでしょう。
 全く他人を意識しない様な環境ならばいざ知らず、室町時代中期からの下克上や夜盗の横行を考えれば、普段から寝ていても周りの変化を認識できる訓練をして置く、刀をいつでも取れる状態に置く、刀が無ければ代る物、他人の存在を意識する所では爆睡はしない。
 
 この歌を卜伝が歌った時、弟子の誰かが廻国修行の際、前後不覚の爆睡状況で、つついた位では起きる事もしなかったのかも知れません。訓練次第で相当敏感に反応できる睡眠状態は作り出せるはずです。
 現代でも、地震・津波、豪雨・洪水・山崩れ、火事。など反応は人それぞれでかなり違います。危険予知能力は訓練できそうです。

| | コメント (0)

2020年9月29日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の60もののふの軍の場(にわ)に持つもの

道歌
6、塚原卜伝百首
6の60もののふの軍の場(にわ)に持つもの

もののふの軍の場(にわ)に持つものは
        梅干しにますものはあらじな

 武士が軍に臨んでその場に持つものは、梅干し以上のものはある訳がない。

 梅干しを中国渡来の薬として伝来し梅の木も伝わった様です。平安中期の「医心方」の食養編に記録されているのが古いものです。「医心方」とは宮中の官医鍼博士丹波康頼が書きあらわしたものです。
 その梅干しの薬効は「味は酸、平、無毒、気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を静め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる、下痢を止め、口の渇きを止める」(トノハタ梅と日本より)。 梅干しは中国から伝来した当初は、烏梅(うばい)と云って梅を燻製して乾燥させた真黒いものだったとか。日常お目に掛かる梅干は梅を塩漬したものとは製法が違っていた。
 梅干に含まれるクエン酸が血液さらさらや疲労回復、殺菌、防腐効果をもたらし、食中毒カルシュウムの吸収を促し、ピロリ菌の活性を抑制し、 虫歯予防、バニリンはダイエット効果も期待できる。梅干しの酸味からパロチンの分泌を促し食欲増進。ポリフェノールは抗酸化作用がある。
 梅干屋さんの宣伝文句からの抜粋ですが「医心方」の漢方の効能は経験値によるものでしょうが凄いものです。

 梅干しの庶民への普及は江戸時代、戦国時代の薬物から携行食となって、梅林が各地に出来普及していったのでしょう。卜伝の時代比較的安価な万能薬でもあり、製法も簡単。
 見ているだけで唾液が促進され食欲が進み、薬物として効くとあっては「梅干しにますものはあらじな」と云うのも頷けます。
 現代でも梅干しは好まれている食べ物と云う感じがしますし、製法も昔と変わらないのも凄いと思います。クエン酸の効果だけを期待するならば薬品などあるでしょう、食べ物ではレモンが梅の4、5倍含まれています。加工食品ではやっぱり梅干しでしょう。
 

 

| | コメント (0)

2020年9月28日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の59もののふの坂と馬上に指す刀

道歌
6、塚原卜伝百首
6の59もののふの坂と馬上に指す刀

もののふの坂と馬上に指す刀
       反りを打たぬは不覚なるべし

 武士が坂道や馬上では腰に指す刀は、反りが無いのは不覚である。

 この歌の「指す刀」ですから腰に佩く太刀ではなく刀です。卜伝の生きて来た時代は、武士は馬に乗って腰に佩いた太刀を片手で持って斬りつけていた。
 戦闘方法が変化し、雑兵に槍を持たせて攻め込み、白兵戦になると腰に指した刀を抜いて戦った、此の時の刀は両手で持つように変化してきている。
 卜伝の経験値から、坂や馬上では反りのある刀が良いと云う。では何故そう言うのかは卜伝の解説は無さそうです。識者の著書や発言から求めても納得いく答えにはなりそうもない。
 馬上では抜刀しやすい反りが要求されるのか、片手斬りつけには反りが深い方が有効なのか、いくつか意見は有っても反りの深い太刀から、短目の打刀ならば、反りなど気にするほどのことでもない。
 まして「坂」でのことでは、帯刀した場合、2尺3寸程度の刀で反りが深いとか浅いなどは問題なく、抜刀にも支障は感じない。卜伝の時代に戦法の変化や太刀から刀への移行があったが、太刀の反りは大方7分から1寸程度、刀は3分から8分程度の様です。
 卜伝の歌心は、今まで使い馴れた状況が変わってしまい使い勝手に違和感を感じるのか、懐古趣味の強い一面を表しているのか、そんな気もします。
 刀の長さ重さバランス反り柄の太さ長さ鞘との相性そんな事を気にして見ても、何振りも刀を試すわけにもいかず、如何に調子よいものでもその場に無いとか、折れたとか、この歌で云う場の条件が変わってしまうとか。
 私は、寧ろ、状況次第でどのような刀でも問題なく抜き付け出来、業を打つ事が出来る稽古に身を入れたいと、居合を始めた時から思っていました。刀が合わなかったから死ぬのでは武術とは言えないでしょう。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年9月27日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の58もののふの味好みするな

道歌
6、塚原卜伝百首
6の58もののふの味好みするな

もののふの味わい好みするなただ
        常に湯漬けを食するぞよき

 武士は食べ物の旨い不味いと味わい好き嫌いをするものではない、ただ常に湯漬けを食べているだけで良い。

 卜伝独特の食に対する発想でしょうか、湯漬けさえ食していれば武士は良いのだと云うのでは、現代風に言えば食が偏って満足に体を維持できない。
 卜伝の教えには大きく変化していく室町時代に何処か時代を受け入れられず、坂東の田舎暮らしから抜けられず戸惑っていた雰囲気が漂う気がします。
 卜伝の生きた室町時代は、歴史教科書では足利尊氏が建武式目を制定し将軍となった1336年から15代足利義昭が織田信長に京都から追放された1573年237年間のことになります。卜伝は1489年生まれで1571年に没しています。室町時代中期から後期に生きたわけです。
 この時代、国内は戦争に明け暮れていた時代であると同時に、海外から多くの文化がなだれ込んできた時期でもあり、日本文化も著しい変化と発展を来した時代でもあったのです。
 食生活も、以前は一日二食であったものが、雑兵に雇われたりして庶民は戦場での習慣などから一日三食に変わり始め、食事内容も醤油が使われ始め、味噌を使った味噌汁が呑まれ、食事の品数も増えて来た。茶の湯や懐石料理なども始まり、米を炊いて食すようになり、漁業の発達から魚料理や、漬物も出されるようになってきている。

 楽市楽座などで豊富な食材も手に入るようになったと云えるでしょう。農業の発達から農民も裕福な者が現れ、武器を持った郷士なども現れたと云えるでしょう。最も厳しい時代でもあるが、生き生きとした時代でもあったと思います。
 現在の日本の基礎的文化はこの時代に形成されたと云っても可笑しくないでしょう。

 それなのに卜伝の歌は一昔前の暮らしを愛でるが、幾つもあって何故それが好ましいのかの解説が聞こえて来ないのです。何時の時代でも底辺を生きる人は、衣食住に変化は起こせない、だからと云ってそれに合わせるのでは、兵法など学ばなくとも良い、変化し進歩するから底辺にも恩恵があるもので、其処から抜け出られる事もあり得るものです。
  

| | コメント (0)

2020年9月26日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の57もののふの刀のつめ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の57もののふの刀のつめ

もののふの刀のつめを知らでこそ
      常に不覚のえてしあるらめ

 武士が刀のつめを知らないのであれば、常に不覚をとるであろうな。

 「刀の徒免(つめ)」とは、「つめ」を武術的な発想で漢字に書けば、詰・積・摘ぐらいでしょう。刀を兵法に置き換えた刀法の間積もりや間を詰める事、相手の出足を摘み取るなどを知った上でさらに命を懸けて相手と立合はなければ、必ず不覚を取るであろう。スポーツ剣道や古伝の形の伝承位のレベルでのことでは、卜伝の兵法の詰めが出来ません。
 卜伝の兵法の基礎は飯篠長威斎の起した天真正神道流とされています。長威斎直伝との話もある様ですが、長威斎の死後卜伝が生まれたと云う事の様で疑問です。卜伝は実父吉川覚賢から家伝の鹿島中古流と戸田系の外之物を学び、養父塚原土佐守安幹から神道流は習ったとさています。
 武術流派は幾つも起こり消えていくのも常のことでしょう、現在稽古されている流派の形やその業の数々は決して流祖の起こしたものと同じとは言えません。然しその奥の奥に残っているかもしれない。それが他流とどれほどの違いがあるのかは計り知れないと云うより、究極は同じ所に行き着く、そして死ぬまで求め続けることになる、と思っています。

 卜伝は武器の良し悪しをどの様に捉えていたでしょう。此処では刀と云う武器の「刀のつめ」ですから刀の材質あるいは鍛造にかかわる「詰」について、「刀の性質を知らないのであれば、常に不覚を得るのは当然である、」と読むのも一つかもしれません。
 鎌倉時代には既に刀の製造技術における「鍛刀法」、鉄を打ち、鍛え、日本刀とする技術は完成されていたと云われます。「折れず曲らず良く切れる」のが日本刀と云われます。その構造は刃の部分は炭素含有量の多い堅いもの、内側の芯は炭素量の少なく柔らかいもの。その組み合わせに四方詰・本三枚詰・甲伏などの方法があります。
 甲伏は柔かい芯鉄を堅い皮鉄でくるむ二種類の鉄でできている。本三枚詰は三種類、四方詰は四種類と云うようになります。卜伝はこの様な鍛造法で作られた刀をどこで作られたのか知る事で刀の良し悪しを知ったのでしょう。大和・山城・相州・備前・美濃の五箇伝を指していたかも知れません。

 「卜伝百首の歌心も知らないで良く解説するよ」と云われても、歌を読んで弟子に語った口伝を知らない、卜伝の新当流を知らない、卜伝の兵法の奥義を知らない、卜伝百首の原本をそのまま書写したものを見た事も無い。まして百首を正しく読み下し、解説したものを知らないの知らないづくしなのですから、この歌など現代の誰が解説しても其の人の力量の範囲でしか解説されないはずです。
 恐らく古文書読解の大家でも、剣術の大家でも歌心の周辺を掠るのが精一杯と思います。
 
 

| | コメント (0)

2020年9月25日 (金)

第34回・35回古伝研究会

第34回・35回古伝研究会

 無雙神傳英信流居合兵法(無双直伝英信流・夢想神傳流の古伝)の研究会を7月より再開しています。
 今年の課題である抜刀心持之事(現代の奥居合の古伝)を中心に古伝神傳流秘書に沿って研究いたします。
 尚第8回違師伝交流稽古会はコロナ感染予防として来年度に延期いたしました。来年度は抜刀心持および古伝神傳流秘書による坂橋流之棒を 研究発表致します。
「古きを尋ねて新しきを知る」ご参加いただいた方々が夫々「逢人皆我師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。「俺の指導に従え」と云う「習い稽古する」稽古会とは異なります。古伝を読み参加者が自ら「工夫する」研究会です。 尚、「無雙神傳英信流居合兵法抜刀心持之事」は6月1日~6月22日までのミツヒラブログにその手附及び解説を投稿してあります、古伝研究会ご参加ご希望の方は出来れば事前にご参照下さればと思います。
 
1、第34回 
  10月8日(木)  見田記念体育館
  13:00~17:00
  10月22日(木) 鎌倉体育館
  15:00~17:00
2、第35回
  11月12日(木) 見田記念体育館
  15:00~17:00
  11月26日(木) 見田記念体育館
  15:00~17:00
3、住所
  見田記念体育館
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
  Tel0467-24-1415
  鎌倉体育館
  駐車場鎌倉体育館駐車場
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
  鎌倉警察署向い側
4、アクセスJR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
5、費用:会場費等割勘つど500円
6、参加申込直接見田記念体育館にお越しください
      *コロナ対策として事前に参加連絡をお願いいたします。
   sekiun@nifty.com
7、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
     
湘南居合道研修会 鎌倉道場
8、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
    
sekiun@nifty.com

9、注意事項:
  ◉コロナ対策として以下の事項に一つも該当しない事
  ・平熱を越える発熱
  ・咳、のどの痛みなど風の症状
  ・倦怠感、息苦しさ
  ・嗅覚や味覚の異常
  ・体が重く感じる、疲れやすいなどの症状
  ・新型コロナウイルス感染症「陽性」とされた者との濃厚接触があった
  ・同居家族や身近な知人に感染が疑われる方が居る
  ・過去14日以内に、政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされている國・地域等への渡航又は当該在住者との濃厚接触がある
  ◉マスク着用、3密を避けるetc

     2020年9月25日ミツヒラこと松原昭夫 記
   


   
  

| | コメント (0)

道歌6塚原卜伝百首6の56もののふの踏むぞ拙き

道歌
6、塚原卜伝百首
6の56もののふの踏むぞ拙き

もののふの踏むぞ拙き皮草履
      児や女のかざりなるべし

 武士が足に履く粗末な皮草履は、稚児や女の飾りに過ぎない。

 此処では「皮草履」の文字があてがわれています。「足袋」とは違うのでしょう。草履ですから材質が皮であっても鼻緒のついた突っ掛けでしょうから、戦場で履くような代物にはならないというのでしょう。履物によって行動の仕方も変わってしまいます場に臨んでは場に合う履物と云うのでしょうか。
 卜伝の歌は、俺はこう思うが先に有って、何故そうする、そうすればこうなる、が読み切れません。実戦経験からくる教えだから.兎や角云わず其の儘信じろと云われても困ります。
 

| | コメント (0)

2020年9月24日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の55もののふの寒きを侭に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の55もののふの寒きを侭に

もののふの寒きを侭に足袋はきて不覚をかゝぬ事はあらじな

武士が寒いと云う侭に、早々に足袋を履いて不覚を取る事は無かろう。

 鎧を着た場合の足は、この歌では素足が当たり前のように聞こえるのですが、読み間違いがあるのでしょうか。
 平安時代から大鎧の足は貫(つらぬき)という毛沓で毛皮製の袋状の浅い沓を履いています。武士や漁師なども履いていた様です。戦国時代では革もしくは木綿の足袋を履いたとされています。下級武士や雑兵も足袋に草鞋履きです。
 寒ければ動きが鈍る、卜伝の生国は北関東ですから寒さは厳しかったでしょう、それだけに、多少の寒さで足袋を履く様では冬の寒さをしのげない、寒さに慣れるのも必要でしょう。足袋を履いた方が不覚を取らないはずです。

| | コメント (0)

2020年9月23日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の54もののふの帯は狭きを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の54もののふの帯は狭きを

もののふの帯は狭きを好むべし
      広きは刀抜けぬ所なり
別伝
もののふの帯は狭きを好むべし
      広きは刀抜けぬ故なり

 武士の帯は狭いものが良い、広い帯は刀を抜けないからだ。

 珍しく、何々だから何々という何故を読み込んであるのですが、この帯は着物の帯なのか鎧の帯なのか、刀と云っていますから太刀では無く打刀です。抜けないのは鞘ごと帯から抜き取るのか、刀を抜き付ける時に鞘送りも鞘引きも出来ないと云うのか何の解説もありません。
 此処では鎧を付けた場合の上帯と云う事で其の上帯の幅が広いと上帯に直接差し込む刀が抜きずらくて不覚を取ると云うのでしょう。上帯も二重若しくは三重に巻きます。
 胴丸の上から巻いて前で結ぶ長さは12尺程度、幅は2寸ほどで麻の角帯ですから、現在居合などで着物の上から巻いて袴を着ける角帯と同じ様なものと思えばいいでしょう。

 私は絹織り袋帯の400cm×9cmの角帯を締めて居合を稽古しています。帯を臍下に三重に巻いて一重の上に刀を差しています。無双直伝英信流の場合は小太刀は帯下に差す習いです。腰がグット安定して気持ちが良いです。

 此処で云う「広きは刀抜けぬ故なり」の状況は感じた事はありませんが、剣道の黒い木綿の帯ですと、刀が落し差になるので嫌いです。
 
 

| | コメント (0)

2020年9月22日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の53もののふは女にそまぬ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の53もののふは女にそまぬ

もののふは女にそまぬ心もて
      是ぞ誉の教えなりける

 武士は女に染まってしまわない心を持つものだ、これこそ名誉なことという教えである。

 「女にそまぬ」とは、女に感化される、女にかぶれるなどが本来の意味ですが、さてどの様に卜伝は思っていたのか疑問です。
 卜伝は82歳の生涯と云われています。その内三度の廻国修行に出ています。
 第一回が16歳から29歳までの13年間、第二回33歳から44歳の11年間。第三回が67歳から82歳の15年間です。
 82歳の生涯の内39年間は廻国修行で16歳で第一回廻国修行に出ていますから、16歳から82歳の66年間が成人した卜伝でそのうち39年は廻国修行であれば27年間は国に居た事になります。生涯独身の様でしたが、29歳から33歳の4年間、44歳から67歳に23年間つごう27年は生国ですから其の辺りで娶っていたかもしれません。
 嫁をもらっていても、いなくとも女に現を抜かしたり、かぶれたりしない事が武士の誉だと云うのです。卜伝には三人の男子がいて家督を譲る際、彼らの器量を試した逸話があります。「自分の居間の入り口の暖簾の上に小さな鞠をのせ、潜ればすぐ落ちる様に仕掛けてまず嫡子彦四郎を呼んだ。彦四郎は見越しの術をもって頭上の鞠を見つけて、そっと取って妻戸の側に置いて部屋に入った。卜伝は又、もとのようにして次男源五を呼んだ。源五が暖簾を上げて入ろうとすると鞠が落ちてきた。アッ!とおもわず腰に手をかけたが、鞠であることに気づいて静かに座した。同じ様に三男や弥藤太を呼んだ。弥藤太が暖簾を開と鞠が落ちてきたので、刀を抜いて之を斬った。三子の動作をみて卜伝は長子彦四郎に一刀を授けて「汝能くその器にたへたり」と賞して家督の相続を許したという。(武芸小伝)」

 彦四郎を養子としたことは史実上のこととされていますが、実子三人のことは疑問です。茨城の武芸(剣の巻)より。

 

| | コメント (0)

2020年9月21日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の52もののふの身に添て指す

道歌
6、塚原卜伝百首
6の52もののふの身に添て指す

もののふの身に添て指す刀には
       椿の油みねにぬるべし
別伝
もののふの身に添て指す刀には
       椿の油身にはぬるべし


 武士が身にそえてさす刀には、椿の油を峯に塗るものである。
 別伝は「椿の油身にはぬるべし」で峯だけでなく刀身に塗るとなります。

 この、椿油を刀に塗るのは刀身を錆から防ぐために塗るのか、鞘から容易に抜き付ける滑りやすさの為なのかと疑問が湧きました。それは刀に椿油を「刀の峯」に塗るのだと云うからなのですが、椿油は乾燥しない植物油ですから鞘の中で行き渡るのかな、など取り敢えず置いておきます。
 刀の錆止め油には「丁子油」が知られていますが、丁子油は寛文12年1672年頃にインドネシアモルッカ諸島あたりから輸入されてきたもので、卜伝の時代には丁子を香料として使用していた程度の様です。
 椿油は8世紀位から搾油されて使用されていた様で料理にも、髪の毛の手入れにも、刀の手入れにも重宝な油だったのでしょう。

 刀の手入れは、刀身を鞘から抜き出し、柄をはずし、和紙で油を拭い、打粉を打って油と錆などを拭いとる。布に丁子油を含ませて刀身に塗るのです。この時植物油の椿にしろ丁子にしろ酸化するので長い間放置して置くと錆の原因となります。
 江戸時代の刀の手入れ法は作法に従って丁子油で手入れをしていますから、現在でも武術とその刀に特別な思い入れを持って精神性を保持している様な人はその範囲を一歩も出ることは出来ません。

 近年は、拭い紙は何度も繰り返し和紙を使用するのも錆を塗りたくっている様なものですから、ティッシュペーパーで拭い捨てる事がお勧めです。
 打粉には内曇砥の砥石の粉が含まれているので疵の原因と成るので使用を刀屋さんは嫌います。
 
 居合などでは納刀の際に何度も峯を鯉口に当て辷らせますので峯に当たり傷が出来、そこから錆がでます。切先なども指で触れる業など有って錆びやすいのです。
 刀鍛冶の方の手入れ法は、油をまず拭き取り、打粉を打って拭き取り、又打粉を打って拭き取り、三度程打粉を打って拭き取り、それから丁子油を塗る、と話されています。

 現代の刀屋さんの方法は、まずティッシュペーパーで油をふき取ったら、ベンジンを綿などにしませて刀身を拭く、一拭きで古い油は拭き取れるので、刀の膚に疵をつける打粉は打たない。次に機械油(ミシン油)を一塗りする事で充分、と話されています。ベンジンや機械油に化学変化の起る危険性は特に無さそうですが、打粉や植物油より良いはずです。油なら何でもと云って菜種油やゴマ油などは乾燥性ですから不向きです。

 刀は武士の魂と云って、武士でもない人が武士の真似をしたがる様な人は従来の侭が好ましでしょう。
 昔の武士はもっとおおらかに新しいものに接し、取り入れていったはずです。現代の武術趣味の方は、懐古趣味と云うより何処かずれていて、世の中の為に役に立つのか疑問です。
 
 上泉伊勢守信綱が柳生石舟斎宗厳に訓示したとされる一文「兵法は時代によって、恒に新たなるべし。然らざれば、戦場戦士の当用に役立たず。また忠孝節義の道を践み行うことはできない。」柳生延春著柳生新陰流道眼、始終不捨書序文より
 
 
 

 

 

| | コメント (0)

2020年9月20日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の51もののふのいつも身に添え持つ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の51もののふのいつも身に添え

もののふのいつも身に添え持つべきは
        刃つくる為の砥石なるべし

 武士が何時も身に付けているべきものは、刃を立てる為の砥石である。

 この歌で「いつも身に添え持つ」べき砥石の「いつも」とは、合戦に赴く時は当然のこと、卜伝の様に廻国修行を年中している人もでしょう。武士が刀を差して家を出る時は、携行用の砥石を忘れないで持つべきなのでしょう。前回の携行食は冬は「炒り豆」、刀には「砥石」

 切れ味の悪くなった刀の刃を付けることを寝刃といいます。この寝刃を砥石で研ぐために卜伝はいつも持ち歩けと云う、この砥石は円い砥石に真中に穴を開けて紐で吊るして持ち歩くなどの話もあります。寝刃を研ぐ事を「寝刃合わせ」といいます。

 窪田清音の剣法略記の「ねたばの事」原文の儘載せておきます。
 「ねたばとは引けたる刃を附するを謂う。此の称の起る所以を知らざれども猶剃刀の手合せのごとし。戦場には絶えて用ひず。こもりもの放し打等にもねたばを附けざること多し。但ためし等には古へより為せしことゝす。
 刀の刃は引け易きものなれば、引けたる刃を改め、刃業をよくせんとすることにして、引けざる刃には無用のことゝす。据へ物の試み等は折れ屈り刃味を試むる習はしなれば、能く刃を立てゝ斬るべきを例とす。
 ねたばの合せ方は鍛へに応じ、日の程に由り、刃の剛柔に由り、きり(横に刃を附くるを謂ふ)にも、たつ(縦なり)にも筋違にもつくることならひなり。
 其の方先づじょうけんじ砥石を以て筋違につけ次に中名倉砥を以て前のとめを去り、又こまなぐらをかけ、其の後合せ砥をかくるを順とす、然れども少しく刃先の引けしは合せ砥のみ引て刃を立つるなり。
 又ほうのきねたば、炭ねたば等の合せ方あり。其の詳は累々試みざれば知り難し。又砥石、炭などを用ふることなく其の処に有り合せたるものにても、仮りには附くものなり。然れども刃かたく、かけ易きものは砥石に非ざれば能く立ち難し。」

 無双直伝英信流居合の古伝無双神傳英信流居合兵法の「当流申伝之大事」に砥石で研ぐ以前に血糊を拭う話があります。
 「早拭之大事ひえたる馬糞へ太刀を差込候得ば如何様の血糊にても其のまま除き申す也。詮議之時なんを逃る秘すべし秘すべし。亦一伝芋がらを煎じ其汁に奉書の紙を浸して干し上げて後、ヒダを付け、其のヒダに真菰(まこも)の黒焼きを入れ置く也、刀の血を拭うにすき(すぐ)と除く也。久しくして血コガリ付きたるには息を吹きかけて拭う也」
 効果あるのか無いのか、申し伝えです。 
 

 

| | コメント (0)

2020年9月19日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の50もののふの冬の軍に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の50もののふの冬の軍に

もののふの冬の軍に炒り豆を
      持たずは不覚知らではあるべし
別伝
武士(もののふ)の冬の軍に炒り豆を
      
持たずは不覚得てしあるべし

 武士が冬の軍に臨む際、炒り豆持たずに出たのでは不覚を取るのは当然と知るべきである。
 別伝も同様の解釈で良いのでしょう。

 この歌の何故は「冬の軍に炒り豆を持つ」事とはどの様な理由に依るのでしょう。何せ、くどいようですが武士の食時は一日二回だけにせい、と云いながら出陣前には湯漬を食って行けという、今度は、冬の軍には炒り豆を持てと云うのです。
 炒り豆ですから、間食の食べ物、所謂携行する行動食でしょう、冬と限定して炒り豆を持たなければ不覚を取るとまで言いっ切っています。入炒り豆は大豆でしょう。
 大豆は味噌、醤油の原料としても日本には定着している弥生時代に中国から伝わったと云われています。

 無双直伝英信流の古伝無双神傳英信流居合兵法に「兵糧丸」の作成の心得があります。
「蕎麦の粉、能く酒に浸して日に干し堅め、又酒に浸して堅め、三度酒に浸して仕申す也。
 白米粉に而
 人参和人参吉
 たとえば蕎麦粉三匁に白米一匁、人参も一匁を交ぜ合わせ、直径三分位に丸目、米の粉を衣に懸けて良く干し堅め持つべし。一粒服すればニ三日飢えず、是を食する時は気力常より強く、勇力大いに増す也。蕎麦粉を仙粉と云う。米を寿延と云う。但し糯(もちごめ)大いに吉。
 平常の用心には人参入れずしても吉、旅行等に用意すべし。」

 この様な兵糧丸は、言い伝えで江戸武士も知って居たと思いますが、大豆を炒ってそのまま持参するのは簡単で良さそうです。蛋白質もとれるし、ぼりぼり噛むのも心を落ち着けそうです。

 卜伝の軍の場に臨む食事は、食事らしい食事は一日に二食とする事。いざ出番の前に湯漬けを一杯かき込め、携行食は冬は炒り豆が良いと言って居ます。冬以外の携行食はどうなってしまうのでしょう。他の季節でも炒り豆でいいとは思いますが。

| | コメント (0)

2020年9月18日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の49もののふの軍の場(にわ)に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の49もののふの軍の場(にわ)に

もののふの軍の場(にわ)に出る時
       湯漬けにしくは無きと知るべし

 武士が戦場に赴く時には、湯漬けを一杯食して行くに越したことはない。

 へそ曲がりなので、前回の歌を直に思い出してしまいました。「もののふは妄りに食をせぬぞ良き日に二度ならで好みはしすな」でした。日の出と共に起き出して、朝飯を食べて敵情を見るにまだ突き込んで来る様子が見られない。「いざ!」という時に湯漬け一杯を流し込んで駈けだして行く。そんな光景が浮かんできます。
 「一日二度しか食べるなって言ったのにな~。朝飯が湯漬けじゃな~」

 朝飯は一日の大切なエネルギーとなるはずです。ご飯二杯に干物、みそ汁一杯、たくわん。「いざ出陣」の時湯漬け一杯にたくわん。兵糧丸はここぞと云う時に一粒。
 そう云えば、若い時に登山をして居ました。朝食はお米のご飯に味噌汁、おかずは漬物と干物位。昼飯は無しで夕食はカレーライス、か、ごった煮。登山中は携行パックを日数分用意し、随時チョコレート、ビスケット、アメなどを口に入れて歩いたり、岩を攀じたり。何か似ている。

 
 

| | コメント (0)

2020年9月17日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の48もののふは妄りに食を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の48もののふは妄りに食を

もののふ(武士)は妄りに食をせぬぞ良き
         日に二度ならで好みはしすな

 武士は、むやみに食をとらないのが良い、日に二度以外には好きな時に食べるものでは無い。

 武士の食事は一日に二度で良い、食べたいときに食べるものでは無いというのでしょう。二度と云う事ですと朝と晩で、昼は食べないのでしょう。
 「日に二度ならで好みはしすな」、適当な時に食べないで決まった時間に食べるのだと云うのでしょう。「食べ物の選り好みをするな」とも聞こえて来そうですが、この歌も卜伝の戦場往来の経験から得たものなのでしょう。
 戦場では明るくなってから起きて朝食をとり戦いの場に出る、暗くなったら互に引いて夕食などと云う事が約束事とはあり得ないでしょう。それとも朝飯前の一稼ぎをして遅い朝食、当日の状況で引くなり叩いて置いて夕食、どれも定時は無理のようです。
 人の食と健康を考えると朝・昼・晩の三食が医学的には好ましいとか、戦場で戦うともなれば「腹がへっては戦はできぬ」というように、消耗したエネルギーは随時補う事も良い方法でしょう。
 卜伝の経験値なのか昔からの言い伝えなのか、このまま受け入れる気にはなりません。「腹八文目」にしておかないと、満腹では動作も鈍ると云われますが、そうであれば間食の必要性は高いでしょう。何事も、自分の体で試してみて一番よい方法を自得すべきでしょう。その方法が守られない状況は有り得るのですから、想定によって稽古をしてその時どうなるか経験して置くのはやるべきでしょう。
 戦争は異常時です、その中で常に平常の身心を維持する事が出来るとすれば、起きた時に一食、寝る前に一食、間は兵糧丸などでつなぎ空腹に陥らない様にして、軍に集中する事かも知れません。

| | コメント (0)

2020年9月16日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の47置く刀夏は枕に冬は脇

道歌
6、塚原卜伝百首
47置く刀夏は枕に冬は脇

置く刀夏は枕に冬は脇
      春秋ならば兎にも角にも

別伝
夏冬を知らで立置く太刀刀
      かならず不覚あるとしるべし
*
刀を置いて寝る時は、夏は枕許に横にして置く、冬は布団の脇に置く、春秋ならば兎に角いずれでもよい。

別伝
夏冬の太刀刀の置く位置を知らずに、壁に立てかけて置くのでは、必ず不覚を取るであろう。

 刀を置いて眠る場合の春秋の位置に就いて、指摘しています。何故その様にすべきかが解説されていないので自分で研究して見る以外知り様がありません。
 枕許、左右の脇、それらの柄の位置など研究した上で、季節による違いを認識して自得せざるを得ません。
 卜伝が言うのだからと云って素直に受け入れる人も居るでしょうが、その様な気持ちは持ち合わせていないので困ったものです。

 別伝などはもっと不可解なもので、太刀刀の置く位置を知らずに立てて置くなどとんでもない、不覚を取るであろうというのです。
 夏冬の違いも別伝にはこの歌では何も歌わず、寝る時か起きている時かもわかりません。
 同じ信友の書写した別伝には47首目に「置く刀夏は枕に冬は脇春秋ならば兎にも角にも」と48首目に「夏冬を知らで立置く太刀刀必ず不覚有ると知るべし」と並べられています。二首で歌っているのでしょう。二首で歌っても「何故」の答えは読めません。
 どこが尤も良い位置なのか、解ったとしても、時と場合で其の位置に置けない事もある。何処に有ろうとも即座に取って抜刀できる状況になる工夫の方が良さそうです。
 更には、無刀で応じられる稽古もすべきものでしょう。
 日中でも人と接する場合、目上の者には座した右脇、同輩や下級の者には左脇等の決まりを稽古でしてきましたが、其の抜刀については殆ど稽古されていないものです。水鴎流に有ったと記憶しています。

 卜伝のこの歌から、決まりは有っても無い様なもの、時と場合でどのように始末しておくのかよく考え、対応しなさいよと云われている気がします。
 マニュアル人間には兵法ではなりたくないものです。
 

 

| | コメント (0)

2020年9月15日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の46草摺と蓋手(こて)臑当と脇立は

道歌
6、塚原卜伝百首
6の46草摺と蓋手(こて)臑当てと脇立は

草摺と蓋手臑当てと脇立は
     好み好みに兎にも角にも

 草摺(くさずり)と蓋手(こて)臑当(すねあて)と脇立(わきだて)は、好きなようにすればいい。

 鎧の部位の名称が上げられています。広辞苑を参考にしてみます。
 草摺とは、鎧の胴の下に垂れた大腿部の被護物。大鎧では騎馬の際の防護で前後左右の四間草摺、徒歩武者は胴丸の開発に随い歩きやすい八間草摺に変化して、卜伝のころは八つに分割された八間草摺が普通だったと思われます。雑兵は草摺無しであったようです。

 蓋手は籠手、肩先から左右の腕を覆うもので、布帛(ふはく)の袋をつくり鎖、鉄金具をつけて仕立てる。

 臑当は膝から下踝までをおおう武具。鉄または皮で作る。

 脇立は兜の鉢の左右に立てて威容を添える装飾。

 大鎧を参考に解説されている様ですが、日本の甲冑は大鎧を元に改良されていったと云えますから充分でしょう。但し雑兵の鎧はかなり簡略化されていた様です。
 卜伝の歌の対象は上級武士を描いているようです。卜伝の死後鉄砲が伝来し戦闘に用いられ、関ヶ原の戦い迄30年そこそこですから当然鉄砲対策の当世具足も南蛮具足も知らない事になります。

| | コメント (0)

2020年9月14日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の45いつとても鎧の下の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の45いつとても鎧の下の

いつとても鎧の下の肌巻は
       綿入る絹にしくはなかりけり

 いつであっても、鎧の下に着けるは肌巻(ふんどし)は、綿の入った絹の布に変わるものは無い。

「肌巻」とは、はだおび、ふんどし。
 木綿の到来は、8世紀に入って来ているのですが定着せず、戦国時代になって輸入品として定着して来たとされています。絹、麻、カラムシ、木綿などの中から動物性繊維は絹で高価であっても膚には良いものだったのでしょう。「綿入る絹」は綿は綿状のものの総称で、此処では真綿から織った絹のふんどし、吸湿性もあって肌着には最適と云われる。
 この内容はNETで調べた程度のものです。ミツヒラは繊維や衣類については専門的知識はありませんので、興味の有る方は其の道の専門家にお尋ねください。



 

| | コメント (0)

2020年9月13日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の44心ある昔の人の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の44心ある昔の人の

心ある昔の人の着し鎧
     胸板ばかり札(実 さね)厚くせり

 心得のある昔の人が着ていた鎧は、胸板の札を厚く作ってある。

 卜伝の云う昔の人とは何時頃の人で其の鎧とはどの様な鎧なのか特定できません。胸板の札を厚くするのは矢で射られても貫通して心臓に到達しない目的でなされている筈です。
 鎧の歴史を駆け足で勉強して見ました。
・弥生時代 短甲といわれるもので胴を守る金属製のもの、兜、草摺、肩鎧、籠手、脛当てなどもそろい、古墳の埴輪から伺い知ることが出来る。
 革や鉄の小札を繋いだものも出来始めてきている。兵士たちはコート状の布に革や鉄片を綴じ付けたもの綿襖甲を着けていたと云われます。
 現存しているものは見た事もありませんし、鎧の呼称などは後世の人に依るのか解りません。
・平安時代 弥生時代の延長上で改良が為されていたでしょうが、武士階級の台頭により現在見ることが出来る大鎧が平安末期には出来上がっています。大鎧は騎馬戦に対応したもので馬上での騎射や片手打ちの太刀に対する全身防護鎧。徒歩武者は昔からの軽装の胴丸を着用していた。平安末期には軽く着用が容易な胴丸に兜、袖、籠手、脛当をつけ、元々胴丸に附属していた草摺と共に上級武士も着るようになった。
・鎌倉時代 戦闘方法が変化し騎馬の武士に対し、下級の徒歩武者が増え、上級武士も馬上から降りた白兵戦向きに胴丸が主流になって、大鎧は権威の象徴となって行く。
・南北長時代 胴丸が更に簡略化され腹当、腹巻となって背中の開いた胴の前を防護する鎧に変化して行く。更に札の縅方も小札を横に縅していく毛引縅から、間隔を荒くし縦に並べる素懸縅に簡便化された。
・室町時代 更に、小札を縅すのではなく、一枚板を使った板札を並べて行く。
・室町時代末期 南北朝時代後半から簡略化して徒歩による白兵戦、鑓の使用などの戦闘の変化に合わせ変化して来た腹当、素懸縅、板札による時代は、鉄砲の伝来から其の使用によって当世具足へと変わってゆく。(笹間良彦著「図説甲冑のすべて」を参考としたネット情報より)
 甲冑とその兵法については、特段の興味は持ち合わせていませんので、不十分な処はご容赦ください。

 卜伝の歌う鎧とは、大鎧は既に象徴として着られたとしても、実戦では胴丸の簡略化された、毛引縅か、腹当あたりを指すのかと思います。其の胸の辺りを厚手の小札で威すか、板札の胸の辺りを厚板にする事だろうと思います。
 大鎧の胸当ては左右に有って、左脇を覆う鳩尾板(きゅうびいた)、右脇を覆う栴檀板(せんだんいた)でカバーされています。 
 
 

 

 

| | コメント (0)

2020年9月12日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の43鎧をば其色々に縅とも

道歌
6、塚原卜伝百首
6の43鎧をば其色々に縅とも

鎧をば其色々に縅とも
     たゞ手軽きにしくはあらじな

 鎧を色々の色の糸や革紐で札(実)を結んだとしても、たゞ手軽に着用できることにお及ぶことはあるまい。

平安・鎌倉をへて南北朝辺りまで、鎧の札を縅す紐を草木で綺麗に染め、赤糸縅とか、美しく仕立て上げる風潮があったのでしょう。平家物語などでも語られ賛美されたのでしょう。室町時代に入ってもその風潮は残って雑兵にも広まっていたのかも知れません。
 卜伝は鎧で己の身分や地位を誇示する個人戦から集団戦に変わりつつある時、きらびやかな事よりも実用性を語ったのでしょう。

| | コメント (0)

2020年9月11日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の42甲をば軽く手軽く真甲の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の42甲をば軽く手軽く真甲の

甲をば軽く手軽く真甲の
      実の厚きを好み着るべし

 甲(兜 かぶと)は軽くて手軽で真向の実(さね)が厚いものを着るのが良い。

 鎧兜の兜の良し悪しを述べています。軽くて手軽に被れ、兜の鉢の真中の板が厚いものが好ましい。と云います。

 兜の変遷も調べて見ると面白そうですが、そちらの趣味の方にお任せしておきます。
 古墳時代の埴輪にも甲冑を着た武者が埋葬されて素朴な姿に懐かしさを感じます。平安・鎌倉時代の大鎧、南北朝時代から室町末期までの鑓、長刀など武器に対しての対応と集団戦法への変化が読み取れます。
 武器と其の防具の開発は現在でも限りなく続いているのです。
 然し、国境なきコロナウイルスのようなものの攻撃に対し人類の対抗すべき相手は、同じ人類では無い時代に突入したことを強く感じます。

 やるべき事は人同士の殺し合いの武器の開発者やそれを駆使する軍人の手には負えないものであろうと思います。更には、限られた区域の為政者の権力維持の為の旧態依然たる思考にも手を付ける時代とも云えるのでしょう。麒麟は来るのでしょうか。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年9月10日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の41長き柄の鑓は短くする

道歌
6、塚原卜伝百首
6の41長き柄の鑓は短く

長き柄の鑓は短くするとても
      其時々に障りあらじな

 長い柄の鑓を短くしたとしても、其の戦いの時々の状況によっては障りはないだろうな。

 鑓の柄を短くしても差し支えないだろうと思うよ、と解釈したのですが、この頃の文書の解釈として正解であるかはなんとなくスッキリとはしません。
 前回(6の40)の歌が「鑓の柄は長きにしくは無きとても所しらずば不覚たるべし」でした。
 卜伝の「其時々に」があくまでも個人対個人の戦いならば、鑓が長かろうが短かろうが場に応じたものであれば問題は無いでしょう。兵法の極意は、心を静め相手の動きに応じて新陰流ならば「色付色随事」、相手が動かなければ、動くように仕かけて動いた処を打つ、鑓の場合は突く。
 是が、集団戦法で槍衾を作って攻め込む場合では、まちまちの長さより統一した長さで尚且つ相手集団も鑓隊であれば、長い方が有利かもしれません。
 卜伝のこの歌は一対一の個人戦を私は想定して、相手の得物が太刀であろうと薙刀であろうと鑓であろうと、自らの手に合う鑓であれば十分であり、後は相手より力量が勝っているか否かであろうと思います。但し前回の歌による、場所次第による考慮は欠かせない事をも意図していると思われます。
 卜伝百首で何を示そうとしたのか、時々疑問に陥ります。

| | コメント (0)

2020年9月 9日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の40鑓の柄は長きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の40鑓の柄は長きに

鑓の柄は長きにしくは無きとても
      所しらずば不覚なるべし

 鑓の柄は長いものには及ばないとしても、戦う場所の状況を知らなければ不覚を取るであろう。

 鑓の穂先も「槍の穂の長きにしくは無きぞとて其身重きは不覚なるべし」と歌っていました。穂先の長さが三尺に近いものも大身鑓では残されている様です。
 此度は槍の柄の長さが、相手より長いものが有利というわけですが、所によっては長さが仇になる事は充分あり得ます。木の枝はもとより地形にも左右されそうです。

 戦国時代の槍衾を作り突き懸けていく集団戦では二間鑓3.6m三間鑓5.4m、信長は三間半6.3mと長く、この長い鑓で多人数を以て鑓衾を組んで攻め込まれると壮観だったでしょう。
 卜伝の歌の鑓の戦いは、集団戦を指しているのか一対一の試合を意図しているのか、説明されていませんし、長柄の鑓は戦国時代後半の戦法の様ですから廻国修行などで持ち歩くなら九尺鑓か二間鑓位が、持ち運びにも鑓術を繰り出すにも適当だろうと思います。 

| | コメント (0)

2020年9月 8日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の39羽なくて空に走り登る

道歌
6、塚原卜伝百首
6の39羽なくて空に走り登る

羽なくて空に走り登るとも
      手さえぬ鑓に勝はあらじな
別伝
羽なくて空には得てし登るとも
      手さえぬ鑓に勝はあらじな

 羽もなのに空には走り登る事が出来ても、手の冴えない鑓にでは勝事はないであろう。

 別伝の「得てし」は、ともすれば。ややもすれば。よく。ですから、「ともすれば登る」で祐持の書写と心は同じでしょう。羽が無いのに空に登ってしまう程のすばしこさが有っても、鑓の腕前が冴えないのでは勝てる訳は無い。と云うのですが「手さえぬ鑓」で冴えた鑓使いが見えて来ません。
 鑓は戦闘の道具でもあったでしょうが、一般では獣を捕獲する道具であったはずで、すばしこい獣を突き刺して仕留める事は猟師ならば可能でしょう。然し人との対戦では、相手が刺突の速さが上回っている、或いはより長い、突いたら叩き落されて逆に突かれるなど、長物の闘争術が必要でしょう。
 鑓は刺突の武器とばかり思って、その直線的操作での稽古形はそれらしいのですが、決められた演武形は形だけならば難しいとも思いませんが、棒や薙刀、太刀の操作も知るべきでしょう。 そんな事を歌っている様にも思います。

| | コメント (0)

2020年9月 7日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の38鑓の穂の長きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の38鑓の穂の長きに

鑓の穂の長きにしくはなきとても
                   さのみ重きは不覚なるべし

別伝
鑓はたゞ刀に合わせ持ぬべし
       尺に余れる穂はし好みそ

 鑓の穂が長い事には及ぶものは無いとは言え、むやみに重いものは不覚である。
 
 別伝
 鑓の穂は単純に刀に合わせ持たないのである、尺を越える穂は良いであろう。

 鑓は有史以前から使用されていたことは知られています。木、竹、石、銅、鉄と変遷して一般庶民が動物や魚の捕獲に使用されていた。同時に戦いにも使われていた筈で突く事を目的にしていますが叩く効果も大きかったでしょう。
 日本では鉾(ほこ)・矛・戟・鋒などの文字があてられ「ほこ」とよまれています。やりは鑓は槍の字ですが「ほこ」とも読むのもある。
 鉾と鑓に区別は、現在では穂を柄の上から被せるものが鉾、柄に茎を差し込むのを鑓と区分けしているけれど、何れも刺突の道具であって使い勝手では意味は無さそうです。
 平安、鎌倉時代には鉾、鑓に関する記述は顕著で無いのは、私見では貴族や武士の持ち物では無く下級の兵士や従者の持ち物で、名のある武士の持ち物では無かったのではと思います。薙刀なども同様の事を推察します。その頃の戦では一騎打ちのような目立ったことを興味本位に書き込んであるようで、当然一騎打ちの前後に雑兵の白兵戦もあっただろうと思います。武将が長刀を揮う時代は室町時代前後からで、鑓による戦闘方式が表面化するのは室町時代に入ってからが顕著でしょう。槍を揮う武将の物語は、雑兵から出世した武士などからより広まっていったとも思います。この辺の整理は小笠原信夫著「日本刀日本の技と美と魂」を参考にさせていただきました。

 という事で、雑兵による鑓の集団戦は卜伝の頃から見られたでしょう。
 鑓は刺突する事が目的でもあり、相手を叩くことを考慮すれば、穂先が長い事は打撃の効果は大きい筈です。然し重くなってしまうのでせいぜい一尺程が妥当だろうと、歌っているのだろうと思います。

 卜伝百首も書かれてから年月が過ぎると順番の入れ替わりや、文言の違いも起こる様です。この歌も別伝とは異なります。
卜伝百首の参考資料を紹介しておきます。
1、此処での藤原祐持の書写した卜伝百首は弘前図書館に収蔵されているもので慶応2年8月1866年のものです。綿谷雪先生によるもの。
2、別伝としたのは、田代源正容の写しによるもので天保10年1838年のものになります。
3、今一つの別伝は今村嘉雄編者代表の日本武道全集第2巻の卜伝百首で加藤相模守藤原信俊の元亀2年1571年に原本から書写されたものを天明6年1786年に信俊の孫によって書写され沢庵の序文の入ったもの。この写本がいくつか現存すると思われます。
 元亀2年1571年は卜伝が第三回の修行より戻り、没した年でもあります。


 

 

 
 

 

| | コメント (0)

2020年9月 6日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の37太刀刀持たる敵に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の37太刀刀持たる敵に

太刀刀持たる敵に小長刀
      しすます(為済ます)時に相打と知れ

 太刀や刀を持った敵と対する時に、我は小長刀を持って応じる、「しすます時(為済ます時)」に相打と成ると知れ。

 祐持によるこの歌の下の句の書写の文字は「志春満須時耳」の草書体です。通常の読みでは「しすます時に」か「しずます時に」になります。
 「しすます時に」とすれば「為済ます時に」ならば広辞苑では、しとげる。なし遂げる、なし終る。まんまとしとげる、うまくやる。

 卜伝の歌心は「太刀や刀を持った敵に小長刀で打ち合っても、うまくやれても相打ちが精一杯だと思いなさい。」前二首と合わせ考えるとこんなところでしょう。
 いずれにしても小長刀では長所は生かしきれないよ。と歌っているのでしょう。
 北条五代記に長柄刀の優位性に関東では太刀、刀の柄を長くするのが流行ったと記されています。一寸でも柄が長ければその分有利と広まったそうです。居合の始祖林崎甚助重信(林崎かん介勝吉)・田宮平兵衛業政(成政)の教えと北条五代記は述べています。
 卜伝は27首目(2020年8月27日掲載)に「柄はたゞ細く長きを好むとも、さのみながきはまた嫌ふなり」を歌い、柄も長さは程々が良いと歌ってきました。
 小長刀も大薙刀も、流行り出した長柄の鑓も卜伝は良くは言わなかったのでしょう。 

| | コメント (0)

2020年9月 5日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の36手足四つ持たる敵

道歌
6、塚原卜伝百首
6の36手足四つ持たる敵

手足四つ持たる敵に小長刀
      持て懸るとよもや切られじ

 手足の四つが健全な敵に対し、小長刀を持って懸るとまさか切られる事はあるまい。

 この歌は「手足四つ持たる敵」は、手足健全な敵と読めばいいのでしょう。敵の武器の特定も、歌からは読めません。
 上の句を敵についての状況であるとすると「手足四つが健全な敵に(が)小長刀」でそれを「持って懸ってくると」と読めます。
 それでは我は「よもや切られじ」ですから、「我は何故切られないの」と其の何故が見えません。
 前出の和歌は「長刀は二尺に足らぬ細身をば持つは不覚のあると知るべし」で、今度の歌では敵は「小長刀」ですから二尺(兵具雑記では二尺三寸以下)に足らず敵は不覚を取るはずなので、我は、斬られる事はあるまい。

 手足四つの健全な敵が小長刀を所持して懸って来る、よもや切られる事はあるまい。

 そのように解せるのですが、我はどのような武器で応じるのか読めません。前出の和歌の卜伝の故事により二尺九寸の太刀で応じる、のでしょうか。
 
 冒頭に掲げたこの歌の解釈は「手足四つが健全な敵に対し、我は小長刀を持って懸るとまさか切られる事はあるまい」としておきました。しかし、それでは前出の歌の解釈では、我は不覚にも敵に斬られてしまうはずなのに、「何故切られないの」と云われてしまいます。敵は健全な手足を持つ優れた兵法者であれば無刀でも長刀には応じられる筈です。
 前出の歌と今回の歌ともに、卜伝の三十七たびの戦場往来、或いは十九度の試合による実戦経験から示された教えと云われますが、「何故」の問いには歌は語ってくれてはいません。お前が未熟だから歌われていない心が読めないのだろうと云われても、卜伝の兵法が残されているわけでは無いので「凄い人だったのだろう」とは思う事としてもそれ以上はトレースできません。
 
少年の頃に、卜伝を讃える話は手に汗握る楽しい講談本でした。(大日本雄弁会講談社編著「塚原卜伝」、中山義秀著「塚原卜伝」)

 

 

| | コメント (0)

2020年9月 4日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の35長刀は二尺に足らぬ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の35長刀は二尺に足らぬ

長刀は二尺に足らぬ細身をば
      持は不覚の有ると知るべし

 長刀(なぎなた)は刃渡り二尺に足らない細身を持つのは、思慮が足らない事と知るべきである。

 この「長刀」は、薙刀、長刀、胴突刀。ここでは「なぎなた」と読んでいます。
「不覚」とは、精神のまともでないこと、正体もないこと。思慮のゆき届かないこと、不注意であること。卑怯なこと、臆病なこと。思わず知らずすること。広辞苑より。

 卜伝の云う「長刀」がどのようなものであったか、綿谷雪著「図説古武道史」では「薙刀」は刃の長さ二尺三寸以上を大薙刀、以下を小薙刀といい、柄は持ち手の耳の下から足もとまでが普通の標準であった=「兵具雑記」。卜伝は薙刀をつかうときは刃長二尺五寸ほどの大薙刀を用い、小薙刀の価値はみとめない。そのころ薙刀の名人といわれた梶原長門と武州川越で戦ったときも、門人どもが心配して試合を避けるよう忠告したが、梶原が一尺四、五寸の小薙刀をつかうと聞いて卜伝は、「三尺の刀でさえ思うように人は斬れないでないか。一尺四、五寸の小薙刀に斬られるようでは、斬られるほうが弱過ぎるのだ」といって、二尺九寸の刀で試合場に出かけ、何の苦もなく梶原をたおした=これも「武具要説」山本勘助談。と引用されています。

 この、卜伝の逸話が全てを物語って居るわけでは無く、卜伝の力量がそうさせたと云えるでしょう。兵法はその人の生まれながらに持ち合わせている、事に応じる認識度合いによるのでしょう。師匠についてその度合いを更に磨き上げたり、師匠の考えや癖を取り込んでいく、それが習い・稽古・工夫によるものなのでしょう。すべてを真似したのではきっと負けばかりでしょう。

 薙刀(長刀)の生まれと、その武器としての形状、使用法についての歴史的経過や容易に刃長二尺を越える物を見る機会もないのでよくわかりません。
 槍と同様に古くは雑兵の持ち物で、戦闘方法が変化して行くにしたがって、地位の有る武士にも持たれたのかも知れません。
 卜伝の刀の長さにこだわる考え方は、戦場での集団兵法のありかたによるところに由来しながら、卜伝そのものは個の技量を高めていったように思えます。後の新陰流を興した上泉伊勢守信綱から柳生石舟斎宗厳による無刀の考え方とは、卜伝百首からはまた一味異なるものを感じます。

 

 

 

| | コメント (0)

2020年9月 3日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の34目貫にはゆゝしき習い

道歌
6、塚原卜伝百首
6の34目貫にはゆゝしき習い

目貫にはゆゝしき習いあるものを
       知らで打つこそ拙なかりけり
別伝
目釘にはゆゝしき習いあるものを
       知らで打つこそ拙なかりけり

  目貫の装着には昔からの仕来たりが有る物を、知らないで打つことは愚かな事である。
別伝
  目釘の装着には昔からの仕来たりが有る物を、知らないで打つことは愚かな事である。

 目貫と目釘は戦国時代以前の太刀拵えでは同じものだったかもしれない、との話もありました。目貫を柄糸の下若しくは上に装着するのにはズレない、外れない、手の内の違和感をもたらさないなどゆゝしき仕来たりがあったでしょうし、現代拵えでもその道の達者のものと粗製乱造の模擬刀のものとは異なります。
 是も卜伝の時代には戦場で破損した柄などは、下級武士は自分で補修していたかもしれません。拵え師でも柄と茎を繋ぐ穴の位置は刀身のバランス上何処にどの角度でなど、細かい教えもあったかもしれません。柄巻の無い太刀などには目貫と目釘が一体であったものもあるように聞きますからその貫通のさせ方には特別な習いがあったのでしょう。
 江戸時代には、刀の長さが決められてきましたから、新しい刀は兎も角、戦国期の刀を長さ調節の為摺上げが行われたものも見られます。それらの古い目釘穴は摺上げられて無くなって居たり、形勢が残っていたり、古いものはそのままに新しい穴を穿たれていたりします。古いものが残って居る茎の穴の位置を見ても、何故そこに、という様なものもあって、「摺上げだから」位で置き捨てていますが、答えのない興味の湧く處かも知れません。
 真剣をもって激しく打ち合う事の無い現代では目釘の位置まで気を廻す素養が失せているかもしれません。せいぜい目釘の弛みをチェックするのが精一杯です。

       

| | コメント (0)

2020年9月 2日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の33目貫にはたゞ生き物を好べし

道歌
6、塚原卜伝百首
6の33目貫にはたゞ生き物を好べし

目貫にはたゞ生き物を好むべし
      二足四足の習い有けり

 目貫に使用するデザインはもっぱら生き物を好むべきである、二つ足、四つ足による秘事があるものだ。

 「たゞ」は、それであってほかではない意を表す。多く「のみ」と対応して用いられる、単に。その事が主となっている意を表わす、ひたすら、もっぱら、全く。わずか、たった。ただし、しかし。
 「習い」は、なれること、しきたり、習慣。世の常、きまり。ならうこと、学ぶこと、学習、練習。口授されて学ぶべき秘事など。(広辞苑より)

 目貫のデザインについては、現存する物を見ても特に生き物それも鳥や獣ばかりではなく、爬虫類もあれば花、家紋などもあるものです。
 卜伝は特に「生き物を好むべし」と云うのですから、植物も生き物と云いたい処ですが、「二足四足」と下の句にあるので鳥や獣位に絞ったのかとも思えてしまいます。
 何故そのように絞ったのかの理由は「口授されて学ぶべき秘事」があるものだと奥深そうに読んで見ました。
 柄に装着された目貫を見ながら、目貫は短くて高い(厚みのある)ものはダメで長いのがいい、次はデザインで鳥か獣と特定しているようで、そこまで厳しくチェックするほどの事を理解出来ている現代武術家と自負される先生はおられるのだろうかと首を捻ってしまいます。
 目貫は清水橘村著刀剣全書によれば「目貫なるものは、目貫穴を貫きて其柄の抜けぬやうに止める料である・・目貫に対して目釘と云ふものがあるが、これは往昔は目貫と同じものを謂ったらしいが、何時の代よりか全然別のものとなってしまったのである」
 卜伝の時代は、戦闘方式の変化により、太刀から打刀への変遷があり、柄の有り様も変わっていったと云えます。その上戦いの無い平和な時代の江戸時代には刀は武士と云う地位の象徴となってしまったのです。現代では地位の象徴である刀を以って居合など稽古し人前で演武しているばかりですし、一般の剣道家も竹刀剣道か木刀による江戸期を古流とする形に留まるにすぎません。
 目貫の存在が歴史の中に埋没してしまったとしても、仕方のない事なのでしょう。

 日本刀の本身を使って居合の稽古をしています。はじめは刀屋さんから拵え付きの刀を求めるなりお仕着せのものでも、何の疑問も持たずに我が身を合わせる様にして稽古をして来たものです。
 家伝の刀も拵えは既に消えはててしまい、或いは破損して見るに絶えない。あるは軍刀に変わってしまいなど其の儘では稽古に向かない。目貫なども無くなって刀身は錆だらけです。
 一振り研ぎに出し、拵えを作ってもらえば、小道具込みで30万~40万円は飛び出て行きました。熱心に稽古すれば痛むのも早いもので柄は汗と油とともに擦り減って来る。鞘もいつの間にか鯉口が削られ甘くなる、塗りは当たり疵で情けなくなる。
 一念発起して、自分で柄を革巻きに直し、目貫も骨董屋さんの店頭で見かけた素朴なものを買い求めて付け替え、鞘も鮫革を張って塗装し直すなどやって、細かい所は兎も角一腰モデルチェンジさせて見たものです。
 既に何年も一日も欠かさず稽古して来ましたが何ら不具合を感じません。卜伝百首を読み解きながら、道場での空間刀法による居合の稽古では刀の良し悪し以前の運剣の術理の良し悪しすらおぼつかない、藁など据え物を切って見ても同じ事です。
 戦場で刀を以って命を懸けて戦い抜く事とは全く異なる事で、現代を生きる者には理解できない事を、卜伝は歌っているとしか言いようは有りません。
 
 
 

| | コメント (0)

2020年9月 1日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の32目貫をば長きを好む

道歌
6、塚原卜伝百首
6の32目貫をば長きを好む

目貫をば長きを好む方はよし
      短く高き目貫嫌えり

 目貫の長いのを好んで柄に添えるのは良いが、短くて背の高い目貫は好ましくない。

 この歌の祐持写しは「長きを好む方はよし」と書写していますが、別本は「目貫をば長きを好うてはらて短き高き目貫きらへり」と読んでいます。
 卜伝百首の原本は現存しているのかいないのか不明です。それなりに卜伝百首が読まれていますので参考にしながら勉強しているのですが、別本の「好うてはらて」は私には「長いのは良い、腹て短く高い目貫は嫌う」と読んで見ますが「腹て」とはでつまづきます。
 卜伝の実戦から身に覚えた良し悪しですから、其れなりにと思いますが、和歌の短い文章ではすべてを語り切れていないために泣かされます。「卜伝の刀の柄巻は菱巻を嫌って、革紐を平に巻き付けた柄巻に目貫を柄巻の上に添え柄紐で押さえ漆で固めた」のかなと勝手に想像してしまいます。
 其の為柄を握った時、目貫が短く背が高いと手の内に違和感があり、斬撃の際に影響するのかなど思いめぐらします。

 卜伝の言いたいことが聞こえて来ないのは、室町時代中期から末期の日本史レベルの情報はあっても、刀剣に関する情報は細切れの「刀身・鎺・切羽・鍔・縁金・淵頭・柄・鮫革・革糸・目貫・目釘」などが主で、それも部品ごとの材質やデザインなど細切れ情報に過ぎません。

 戦う際の柄の太さや、長さ、固さ柔かさ、柄手の握方などの情報が無い。部品から読み取れと云っても無理でしょう。読み取るには卜伝の業技法に通じなければ読み取れません。
 刀装具としての部品の材質や形、芸術性は十分あっても、兵法の有り様は、それでは読み切れないものです。
 戦国期の部品類は江戸期にも、多少色香が変わっても同じ部位に使用されているのですから、其処から夫々の流派の極意業を持って読み取ることになるのでしょう。
 

| | コメント (0)

2020年8月31日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の31菱巻に巻たる柄

道歌
6、塚原卜伝百首
6の31菱巻に巻たる柄

菱巻に巻たる柄は手の内の
      悪しきものぞとかねてしるべし

 菱巻に巻いた柄は手の内がしっくりこないので、良くないと予め知っておくべきである。

 「兼ねて知べし」と兼の文字を使っていますがここは「予て」で、何かと兼ねるでは無く、あらかじめの「予」でしょう。

 卜伝の実戦より身に付けた経験値は、柄巻の糸で巻いた柄を濡れたら乾きにくいと否定し革巻きを主張し、更にその革巻きに依る菱巻は手の内がしっくりこないと否定しています。
 卜伝の云う菱巻とはどの様な巻き方であったか資料が無くわかりません。しかし現存する刀の拵えから見れば、殆んどが菱形に鮫革が覗ける巻き方になっています。其の菱巻の巻き方に、一工夫されて菱の交点の部分を工夫したひねり巻きだの何だのと名称がつけられています。
 

| | コメント (0)

2020年8月30日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の30柄はただ革にまされる物は無し

道歌
6、塚原卜伝百首
6の30柄はただ革にまされる物は無し

柄はただ革にまされる物は無し
      糸にて巻くは濡れて乾かず

 柄巻はもっぱら革に勝れるものは無い、糸で巻いてあるものは濡れるとなかなか乾かない。

 革巻きの柄の方がいいと云うのですが、その理由は糸巻きでは濡れるとなかなか乾かないからだと云います。
 革巻きに巻き替えた刀を持って居合の稽古を始めた時、藁切りの集団に参加している古参の者が、「革巻きだと夏は汗で滑って良くない、木綿巻きがいいよ」と訳知り顔に言い寄ってきます。特に稽古で夏でも汗をかいて手の内が滑った事も無く、不便を感じたことは有りません。
 木綿にしても絹にしても、汗をかくほどの事は無いので変わりは有りません。汗っかきは冬でも汗をかいていますからそれも一理あるでしょう。
 鹿の裏革で巻いた柄などは、使用経過によってさらにしっくりして来て手に馴染みます。絹は堅い感じがしてなじみ感が木綿より無いので飾っておくには良さそうです。木綿は稽古し過ぎで擦り切れてみじめです。
 
 さて、卜伝の推奨する革巻きの効能が、濡れても糸巻きは中々乾かないと云う事ですが、濡れた柄は程よい湿りならばしっくりくるでしょうが雨中の場合は滑るのでしょうか。実験して見ればいいようなものですが、後始末が厄介ですから、其の気にはなりません。卜伝の体験からの言葉でしょうから、「そんなものか」という事にしておきます。
 卜伝の時代は太刀から打刀への変遷などの、戦闘方法の変化が進んだ時代でした。一騎当千の強者の時代から、歩兵による白兵戦に於いては華美なものでは無く素朴で実用性に富んだ刀装具が好まれたでしょう。その反面実用面から非実用性の部分を削り取って行くと芸術性が高まったのではないかとも思います。武器としての日本刀の頂点にあった時期かもしれません。
  
      

| | コメント (0)

2020年8月29日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の29よき鮫の裏をば

道歌
6、塚原卜伝百首
6の29よき鮫の裏をば

よき鮫の裏をばさのみとらずして
       巻きたる柄に強くこたゆる

 よい鮫革の裏をさほど取らずに巻いたので、柄に強く影響している。

 鮫とは、此処では鮫革の略。鮫の皮(実は南方産のアカエイの近似種の皮)を乾かし製したもの。近世、輸入され、刀剣の柄又は鞘に用いた。さめ。
 さのみとは、そのようにむやみに。そうばかり。さほど、別段に。広辞苑より

 鮫革の表は乾いて硬くなったものは、ワサビの磨りおろしに使われる程、細かく硬い粒々があります。裏は特に取り去る程の凹凸など無いでしょうが大変堅いですから綺麗に慣らしておかないと柄に巻いてから凸凹したりすることは有るでしょう。
 卜伝百首はその様な柄の制作過程での巧拙を歌っているとも思えないのですが、理解できません。
 「よき鮫の」の歌い出しの「鮫」の文字は、祐持の書写した卜伝百首では「鞕(こう)」の様で文字不明です。他のものは現代風に改められ「鮫」とされていますのでそれをここでは採用して見ました。
 「裏をばさのみとらずして」の鮫革の裏から何を取るのか解りません。アカエイから剥いで日干しにされた革は非常に硬く裏側も硬く平滑ですから特に思い当るものが有りません。卜伝の時代には凹凸の激しいものが有ったのか鮫とは言え輸入ものでは無く、国産の劣悪品だったかもしれません。
 「柄に強くこたゆる」何が柄に影響し、それが斬撃の際に悪影響をもたらす原因なのかサッパリです。この時代でも柄木に鮫革を巻き柄糸を巻いていたでしょうから、現代の居合に使用している日本刀の状況から考えを巡らせても浮かぶものは見えて来ません。
 卜伝百首の歌の中で意味不明の歌としてしまうには、わが拙さの方が先行してしまいます。納得できるご教授頂ければ幸いです。
 ちなみに鮫革の事であれば、自分で朴木を削り、鮫革を巻き、牛の表革、鹿の裏革なども柄巻して本身の柄を拵えて居合に使用しています。
 



| | コメント (0)

2020年8月28日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の28柄鞘の太きを好む

道歌長い
6、塚原卜伝百首
6の28柄(鞆 とも)鞘の太きを好む

柄鞘の太きを好む人はただ
      まだもの慣れぬ故と知るべし

 柄や鞘の太いものを好む人は、単にまだ、太刀を持つ事に物馴れない為であると知るべきである。

 柄とは、刀剣などの、手で握るところ。筆の軸。欛(つか)
 祐持写しのこの歌の柄の文字に鞆の文字が使用されています。原本が有りませんから不明、誤字と見ておきます。
 鞆(とも)とは、弓を射る時に、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐまるい革製の具。平安以後は武官の謝礼用の形式的弓具となった。
 釧(くしろ)とは、装身具の腕輪の一。臂にまいて飾りとした輪。多く小玉、小鈴をつけた。ひじまき。

 この歌心は、武器の何たるか、どの様に持ち、どの様に使い、それによってどの様な結果が出るかを知らない人に対する戒めでしょう。
 武器になれていない為に、太く丈夫そうなのを良いと思ってしまうのは、当然かもしれません。
 鞘など太いものは、握るにも力が入りにくい、重く、腰への当たりもあって長い行軍には不向きでしょう。鞘も柄も太すぎればしっかり握れないなど、自分の身に余る事の度合いが未経験の為物馴れない選択行為だと云うのでしょう。
 身に余るも足らぬもあらゆる習い事で進歩を妨げ不必要な力を出させられてしまいます。

 

| | コメント (0)

2020年8月27日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の27柄はたゞ細く長き

道歌
6、塚原卜伝百首
6の27柄はたゞ細く長き

柄はたゞ細く長きを好むとも
      さのみ長きはまた嫌うなり

 柄は、たゞ細くて長いものを好むとしても、そのようにむやみと長いのは宜しくない。

 北条五代記巻第四「関東長柄刀の事付かぎ鑓の事」(関東資料研究会発行より)
 「見しは昔。関東北條氏直時代(小田原北条五代天正18年1590年秀吉により落城す)まで。長柄刀とて人毎に。刀の柄をながくこしらへ。うでぬきをうて。つかにて人をきるべき躰たらくをなせる。・・人聞きて其むかしの長柄刀。當世さすひとあらば。目はなのさきにさしつかへ見くるしくも。おかしくも。あらめとわらひ給ふ所に。昔関東にてわかき輩。みな長柄刀をさしたりし。老士の有りけるが。此よしを聞。耳にやかゝりけん。申されけるは。いかにや若きかた〵。さのみむかしをわらひ給ひぞ。古今となれ共。其心ざしは。おなじ得のみ有りて。失なく。失のみ有りて。得なき事有るべからずと。先賢の作れる。内外の文にも見えたり。それ人をそしりては。我身の失をかへり見る。是人を鏡とすと云々。・・
 さて又長柄刀のはじまる仔細は。明神老翁に現じ(弘治2年1556年)。長柄の益を林崎かん介勝吉(林崎甚助重信の誤認でしょう。天文11年1542年生まれ~元和3年1617年奥州へ旅立ち再び帰らず(武芸太白伝より))と云ふ人に伝へ給ふゆへに。かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に。是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し。柄に八寸の徳。みこしにさんぢうの利。其外神妙秘術を伝へしより以後。長柄刀を皆人さし給へり。
 然に成政が兵法第一の神秘奥義といつは。手に叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。勝事一寸にして伝たり。其上文選に。末大なればかならず折れ。尾大なればうごかしがたしと云々、若又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をば。おそれよと云をきし。光武のいさめを。用ゆべしと云りむかしの武士も。長きに益有るにや。太刀をはき給へり。長刀(なぎなた)は古今用ひ来れり。
 扨長柄の益といつは。太刀はみじかし。長刀は長過たりとて。是中を取たる益なり。又刀太刀長刀を略して。一腰につゝめ。常にさしたるに徳あるべしそれ関東の長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは。大益なるべし」

 卜伝の没したのが元亀2年1571年第三回の廻国修行を終えて国へ戻り82歳で没しています。
 卜伝70歳ごろに長柄刀が関東では流行ったのでしょう。柄が一寸長ければその分有利と説く、長刀(薙刀・大太刀・長巻・自在剣)など柄は長い、それらと太刀を合わせて長柄刀にしたと云う訳でしょう。
 卜伝は、長すぎるべきではないと云って、完全に否定しているわけでもない様です。
 戦国時代の戦闘方法の変化とそれに合わせた武器の変遷は、現代から俯瞰するとめまぐるしい様に見えますが、現代でも同様でもっと殺傷力の高いものまでもっと速い速度で進化していると云えるでしょう。

 既製品の模擬刀の柄は25.5cm~26.5cm位でしょう。剣道形の木刀寸法に準じている様です。

 

 

| | コメント (0)

2020年8月26日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の26新鍔は如何に厚くと

道歌
6、塚原卜伝百首
6のの26新鍔は如何に厚くと

新鍔は如何に厚くと切れぬべし
     たとえ薄しと古き好めり

 新しい鍔はどんなに厚くとも切れはしない、譬え薄くとも古い鍔が好みである。

 卜伝の時代は室町時代(応永元年1394年~文禄4年1595年)の200年間、其の内卜伝は延徳元年1489年生れ~元亀2年1571年死没82年間ですから室町時代中期から末期を生きたと云えます。応仁の乱から始まる戦国時代の群雄割拠の中を兵法者として生きたと云えるでしょう。日本国の統一が為される前にこの世を去ったと云えます。

 そんな中で、戦闘に明け暮れていた時代の新鍔よりも南北朝時代その前の鎌倉時代の鍔の方が好ましいと云うのでしょう。
 太刀は鎌倉時代のものに名刀と云われる物が目立つとか、鍔も、鎌倉時代に続く南北朝時代は太刀の鍔として小ぶりであったらしい。
 室町初期には薄く大きいものが使用されていたらしいが、中期に入る頃から白兵戦向きに厚く小ぶりに変わっていったと云われます。鍛えられた鉄地に花などの形を透かし彫りした簡素ながらホッとするようなデザインが甲冑師や刀匠師の手によってつくられています。室町末期には複雑な図柄の透かし鍔も作られ次の時代に引き継がれています。

 卜伝の「たとえ薄しと古き好めり」とは何時頃の誰が作ったどんな柄であったのか、手元資料からはうかがい知ることは出来ません。鍔は刀の調子を自分に合うように整え、その図柄によって心を潤す日本人らしいものであったでしょう。この歌は卜伝の趣味嗜好を歌っているばかりと思うのも寂しい。
 然し、其の人の力量に大きく影響されるもの、或いは其の流の業技法に何としても必要なものに依るとも思います。良し悪しは自分で限りなく求めていく以外に無さそうです。
 歌い出しの「新鍔は如何に厚くと切れぬべし」は当然の事ですが、鍔には刃があるわけでは無いので切れる訳は無い、太刀、刀を打ち込むには切先バランス、手元バランスによる良し悪しを言われるのですが、そのバランス調整には鍔は大いに有効でしょう。

| | コメント (0)

2020年8月25日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の25鍔はたゞ切り抜きあるを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の25鍔はたゞ切り抜きあるを

鍔はたゞ切り抜きあるを好べし
      厚く無紋を深く嫌へり

 鍔は、ただ紋様の切り抜きのあるものを好むべきで、ただ厚いだけで何も紋様の無いものは使う気はしない。

 「鍔はたゞ切り抜きある」の捉え方ですが、円形か楕円の鉄板に茎の穴を開けただけの鍔では無く、何かの紋様をくりぬいた透かしのある鍔をいうのでしょう。
 鍔の役割に、拳の楯であること、刀と使い手のバランス調整、打撃の用など実用面ばかりではなく、鍔自体にその人をふつふつと匂わせる芸術性も持ち合わせて、自分も周囲も心を和ませたり静める役割も忘れられません。

 鍔の制作者は、甲冑師、刀匠師、鏡師、太刀金具師、鍔専門も居たでしょう。
 武芸者の選ぶ鍔について、元東京国立博物館刀剣室長加島進氏、日本相撲協会医師で愛刀家の林盈六氏、松永木材会社社長愛鍔家による「日本のデザイン鍔の美」里文出版に纏められていますので引用させていただきます。ご了解ください。
「本当にいい鍔とはどういうものかを論ずるに当たって、生命をかけ、修羅場を何回もくぐり抜けて来た先人達の鍔に関する説に耳を傾けるのも必要なことと思う。
①地金・・鉄の鍛錬良好なものならば新古は不問
②大キサ・・径三寸内外(実際問題として二寸八分より三寸一、二分迄か)
③厚味・・薄手一分二、三厘、あまり高くない土手耳を可とす
④形・・長円形、木瓜以下随意(ただし、割込木瓜、碗形その他異形は不可)
⑤装飾・・小透し、地透し、腐らかし程度の肉彫、据紋、平象嵌、布目象嵌、滅金(めっき)、無地打込を可とす。生彫、高彫据紋、生透し、繋の小さな大透しは不可。」

 大きさについて「鍔の美」で云う処の3寸2分で97mmに成ります。2尺3、4寸の刀にはかなり大きめです。3尺程の太刀の鍔としては見た目のバランス的には良いのかも知れません。
 ちなみに市販の居合刀に装着されているのが72~78mm程度、剣道の竹刀の鍔は76㎜、軍刀は縦70㎜横56mm。

 

| | コメント (0)

2020年8月24日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の24皆人の知らでや恥をかきぬらん

道歌
6、塚原卜伝百首
6の24皆人の知らでや恥をかきぬらん

皆人の知らでや恥をかきぬらん
      鍔の詰めある習いありとは

 ここにいる皆の知らないからといって恥をかくなよ、鍔競り合いの習いがあることを。

皆人とは、すべての人。
「鍔の詰め」とは、鍔競り合いと読んでおきましたが、鍔そのものを以て詰めてゆく業があったのかも知れません。

 新陰流は受け太刀にならずに、往なすとかあたり拍子に転じるもの、合し打ちのような相手の打込みを切り落として勝などの兵法としては完成された術が示されています。
 鍔そのものを拳の楯のように保護的に使うのではなく積極的に使う術は知りません。
 現在の竹刀剣道などを見ていて、鍔迫り合いが見られますが、鍔を積極的に使用した詰めは見られません。

 無双直伝英信流居合兵法の古伝無双神傳英信流居合兵法の太刀打之事7本目独妙剣に鍔競り合いからの応じ方が示されています。
「相懸り也打太刀高山遣方切先を下げ前に構へ行く場合にて上へ冠り互に打ち合う、尤も打太刀をつく心持有、柄を面へ返し突き込み勝」
 このままでは読み取れない方もおられるでしょう。
 打太刀上段に構え待つ所へ、仕太刀下段に構え間境で上段に振り冠り打太刀の真向に斬り下ろす、打太刀同時に仕太刀の真向に斬り下ろす。此処は新陰流の合し打ち、一刀流の切り落としです。勝負はついてしまう処ですが、相打若しくは、双方の中間で刀を合わす、または摺り上げる様にして鍔で請け、一歩踏み込み鍔競り合いに持ち込み、仕太刀は打太刀の面に柄頭で打ち突く心持ちで、体を沈めて打太刀の小手下より柄頭を返すや打太刀の面へ柄当てする」
 この組太刀は古伝に残るもので現在では眼関落の業名で無双直伝英信流居合の形に残されています。
  いま一つは無双神傳英信流居合兵法の大小詰・大小立詰に残されたもので柄留・鍔打返の業に「相懸りに懸り我が刀を抜かんとする其の手を留められたる時、柄を放し手を打ちもぐ也」
 これは、我が刀を抜こうと、左手を鍔に掛け右手を柄に掛けて抜き付けようとする時、相手は我が柄手の右手を押さえて来る、我は右手を柄から放し、左手を以て相手の右手を上から鍔を以って打ち据える。
 現在ではこれらを演じる人も少ないのですが、特段の技術を要するものでは無く、戦いの際に起こり得る状況に応じる自然な動作とも云えるでしょう。
 卜伝から直に「鍔の詰め」を聞いて見たいものです。

 これらの応じ方が始祖林崎甚助重信から伝わったものか否かは不明ですが、そうであれば林崎甚助重信は塚原卜伝や上泉伊勢守信綱の戦国末期を生きた兵法者です。足軽による白兵戦では、兵法の形に準ずる打ち合いなど期待する方がおかしいもので、実戦で身に付けたそれぞれの得意技をもって戦ったと思います。


| | コメント (0)

2020年8月23日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の23鍔はたゞ太きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の23鍔はたゞ太き

鍔はたゞ太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き
別伝
太刀はたゞ太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き

 鍔はたゞ太いものが良いのに、細いものを好むのは兵法に拙い人である。

 別伝
 太刀はたゞ太いものが良いのに、細いものを好むのは兵法に拙い人である。

 歌い出しが「鍔」と別伝では「太刀」となっています。どちらが卜伝の原本なのか解りません。
 兵法に拙い為に鍔であろうと太刀であろうと「太きに若くは無き」の効用が理解できません。お前なんかに判る訳はない、卜伝が歌う程なのだからきっと明瞭な意味がある、と解った様な事を云うのも情けないことです。世の中にはそんな似非師匠が多いですね。
 居合いの始祖と言われる林崎甚助重信の一番弟子田宮平兵衛業政による無双直伝英信流の兵法の和歌に「鍔はたゞ拳の楯と聞くものを太くもふとく無きはひがごと」という歌があります。このくらいの事で良いのではと、思います。
 真向に打込まれた相手の刀を我も真向に応じて鍔で受ける、下段から摺り上げて鍔で受ける。ないとは言えないが情けないのは、突き込んだ際鍔が無い為右手が滑って刃で指を切る、鍔が有れば防げるとか。大きく重い鍔を付けて真向に打込むと斬撃力が高まりより両断出来る、など鍔の使い方は工夫して見れば幾つも有る様ですが、鍔も決して安くはありません。武具選びは余裕のある方にお任せしておきます。
 林崎甚助重信の生きた時代は天文11年1542年~元和3年1617年(特定できず))の頃でした。
 戦闘では太刀から打刀に変わりつつある時、さらに鉄砲伝来は天文12年1543年のこと、林崎甚助重信2歳の頃と成ります。

 別伝の「太刀はたゞ太きに若くは無きものを」は、後世の人が写し間違いをしたとも思えるのですが、全く利が無いとも言えません。
 歩兵による利便性は以前の太刀より短く軽いものが好まれたはずです。しかし室町時代末期の背景から片手打ちの初期の打刀から、重ねの厚い寸伸びで両手で操作する打刀に変わって来ています。

 「鍔はたゞ太きに若くは無きものを」は無双直伝英信流に伝わる兵法の和歌のこの歌は卜伝百首からの盗用かも知れませんが証拠は有りません。無双直伝英信流として成立した時代は江戸前期末でしょうから卜伝百首は伝え聴いていても不思議ではないと云えます。
 
 兵法の極意に達していない、寄せ集めの雑兵による白兵戦では切り合いの際、鍔によって小手を切られる処を守られたとも云えるでしょう。
 小さい鍔より大きい鍔の方が拳を守ったとも言えない事も無さそうです。

| | コメント (0)

2020年8月22日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の22今の世は太刀は廃ると

道歌
6、塚原卜伝百首
6の22今の世は太刀は廃ると

今の世は太刀は廃ると云いながら
      刀も同じ心なるべし

 今の世は使い勝手の良い打刀に太刀が廃ると云われているが、刀も何れ同じような事になるだろう。

 卜伝の生きた時代は室町時代中期(応仁元年1465年~天文23年1554年)から末期(弘治元年から文禄4年1595年)の戦国時代そのものを生きた(延徳元年1489年~元亀2年1571年)兵法者云えます。

 室町時代の初期(応永元年1394年~文正元年1466年)南北朝時代には、中間距離に有利な槍が戦闘に使われ歩兵の騎兵に対する攻撃力が増大した、騎馬戦から集団戦に変わって行った。
 切る為の太刀から突く槍、薙ぎ払う薙刀、三尺を越える大太刀が出現する。騎兵より歩兵集団への変化が従来は太刀の指副えであった打刀が徒歩には便利な為変化して来た。 
 この戦国時代の中期の戦闘方法は、徒歩戦が主力にかわり甲冑も攻撃性を高めた腹巻、刀も2尺2寸前後の片手打ちの刀が流行る。中間距離の闘争では槍が威力を発揮し騎馬に対しても徒歩戦に於いても有力であった。
 この期の終わり天文12年1543年にポルトガル人によって鉄砲が伝来し更に室町時代後期の戦闘方法や武器の変化も興っている。
 織田信長が鉄砲隊を三列銃隊に編成し武田の騎馬隊を壊滅させたのは長篠の戦いで天正元年1573年、卜伝の死後2年後のことであった。 
 鉄砲の使用によって陣頭に立って働いた武将や騎兵の役割は無力化し、鉄砲隊を主力とした歩兵の集団戦が主力と成り、甲冑も隙間の無い一枚の鉄板で出来たものが現れている。刀も片手打から寸法の伸びた重ねの厚い両手で使うものに変化した。(得能一男著日本刀辞典を参考とする)

 現存する刀の出来た時代と、戦記物に書き記されている戦闘方法の変化を合わせて歴史を見直してみるのも面白いものです。武田の騎馬隊が長篠の戦いで総崩れになった話は、戦記物の過剰表現とする人に出合いましたが、鉄砲を充分用意してその欠点を補う戦略は、楽市楽座を含め充分な資金力を手に入れる工夫を施し、従来からの戦法から抜け出れなかった武田軍を壊滅させるに十分だったでしょう。
 武田の騎馬隊についても日本の馬は小型で騎馬戦に不向きと言っていますが、この卜伝百首には武士の載る馬についての歌もあり、日本の馬は現存する天然記念物の馬よりも大きく、改良の為に海外からの輸入馬も多々あった様です。

 現在から過去を透かし見るのではなく、過去の遺物から過去をハッキリ見捉えた上で、語る姿勢が欲しいものです。卜伝百首のこの歌も、現在の打刀もいずれ廃れると歌っています。
 その心は太刀へのノスタルジアであったとすれば、其処には、乱れた天下を我が手にというよりも、兵法者として誇り高き自己実現の方が強かったと思えます。
 卜伝より遅れて生まれた上泉伊勢守信綱(永正5年1508年~天正5年1578年以降不明)は長篠の戦いを知り、兵法のあるべき姿を伝え残した新陰流を興し、その兵法を歌う柳生石舟斎の兵法百首とは、卜伝百首はまた一味違います。是も時代の変化によると云えるのでしょう。

 
 


    

| | コメント (0)

2020年8月21日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の21打籠を打ちて響きの悪しき太刀

道歌
6、塚原卜伝百首
6の21打籠を打ちて響きの悪しき太刀

打籠を打ちて響きの悪しき太刀
      帯ぬは武士の習いなりけり

 打込みをして響きの良くない太刀は佩かないのが武士の習いである。

 書き出しの「打籠」とはこのまま読めば「うちかご」試切りの為に斬りつける籠かとも思えるのですが、そんな打ち籠がこの時代に在ったのでしょうか、籠は木や蔓、竹或いはヨシや茅、稲などのしなりは有っても堅い材料で編まれている筈ですから、其れに向かって試切りすれば刃を痛めてしまいます。
 この使われ方は、打籠は打込みの当て字というより「うちこみ」と読みます。意味は、中に入れて出さないようにする、押し込める、閉じ込める。この音を「打ち込み」の言葉にあてたのでしょう。
 刀は上段に振り冠って打ち下ろしますと、「ヒュッ」という刃鳴りがします。その際の音が鈍かったり甲高かったり、或いは音もしない、そんな事を歌っているのでしょう。
 打込みが巧みであれば、木刀でも棒でも鋭い風切り音はするものです。錬磨を重ねた武士による打込みで響きが悪いものは、その人の手に余るもの、或いは調子が合わないもの、刀刃に問題があるものなどでしょう。
 
 何年か前のことですが、居合の七段位になった、藁切りの好きな人が、新たに真剣を買い求めたのです。刃鳴りが小さいと云ってすでに鎬に樋は彫ってあるのに、更に深く彫り直させています。刀はその分軽くなり風切り音も「ぴゅー」と甲高く鳴っています。
 「違うよ」と云いたい処です。居合をやる人は樋のある刀を好み、音を立てて悦に入っていますが音に惑わされて誤った運剣をして居る可能性は否めません。
 刀は生きているとは言いませんが、あらゆる性格をもっているものです。あるレベルを越えなければ使いこなすことすらできないものです。

 軽くて樋のある模擬刀で稽古している現代居合人は、基礎になる体作りが疎かになっていて如何に華麗に特定の形を演じられて居ても武術とは言えないでしょう。

 この歌も読み誤れば、刃鳴りの気分だけで刀の良し悪しを判断するのだと歌っている様に誤解しそうです。それ以前にやるべき体作りは当時の武士には出来ていたと信じたい。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年8月20日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の20勝ち負けは長き短き変わらねど

道歌
6、塚原卜伝百首
6の20勝ち負けは長き短き変わらねど

勝ち負けは長き短き変わらねど
      さのみ短き太刀な好みそ

勝ち負けの勝負では太刀が長い短いと云う事ではどちらが勝つかは特定できない、そうであっても短い太刀を好むものでは無い。

「さのみ」とは、そのようにむやみに、そうばかり。さほど、別段に。
「・・な・・そ」とは、どうか‥してくれるな、どうかしないでください。してくれるな、なさるな。

 勝ち負けの勝負は太刀の長さで有利だとか不利だとかは、どちらとも言い難い、長い方が間を取りやすいし、殺傷力も短いより有るようなので、短い太刀を別段に選択する必要などない、短いものも、打ち込む際より間を詰めれば良いのであって大きく踏込むとか有るでしょう。あえて短いものを選択する程の事でもないよ、扱いやすい長さの太刀を持つべきだろう。そんな、歌心の様に思えます。

| | コメント (0)

2020年8月19日 (水)

道歌塚6原卜伝百首6の19切れるとて新身の太刀を帯びる人

道歌
6、塚原卜伝百首
6の19切れるとて新身の太刀を帯びる人

切れるとて新身の太刀を帯びる人
      必ず不覚あると知るべし

 良く切れると云う事で新しく打たれた太刀を帯びる人は、必ず不覚を取ると知るべきものである。

 「新身の太刀」とは、新しく打たれた太刀。
 「帯人は」とは、帯びる、帯する、佩く。

 この歌も、卜伝の実戦によって身に付けた経験値から出た歌かも知れません。「新身の太刀」の「新身」をどの様に解釈するかなのですが、戦いに使われた事の無い太刀、よりも下ろしたての太刀のように切れても、折れず曲らず刃こぼれしない実戦から評価できる太刀ならば安心して佩くことは出来ても、実戦で使われていない、其れも打たれて間がないものは信頼できないと云うのでしょう。
 その上、戦国時代には太刀の需要が著しく高くなって、粗製乱造の太刀も出回っていたのかも知れません。
 先祖伝来の太刀で戦場を駈け廻って来た、誉疵のあるものが良いとも言えそうには有りません。「新身の太刀」の意味を取り違えているかもしれません。焼き刃が固く据物切では見事に両断できても、打ち合えば忽ち刃こぼれして鋸刃の様になってしまう。それを研ぎ直したものを使用すべきだ、など頭だけクルクル働かしています。

 
 

| | コメント (0)

2020年8月18日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の18反りの無き太刀をば嫌う

道歌
6、塚原卜伝百首
6の18反りの無き太刀をば嫌う

反りの無き太刀をば嫌うべし
      切る手の内の廻る故なり

 反りの無い太刀は良くない、斬りつけると手の内で太刀が廻ってしまう。

 この歌の「反りの無き太刀」の古文書解読で「鮫の無き太刀」というのが手元に有るのですが、書き出しの「反」と「鮫」の判読間違いでしょう。
 「鮫の無き太刀をば嫌うべし手の内の廻る故也」で解釈出来ない事も無いでしょうが、手の内で握るのは柄ですから、柄糸の下の鮫革が無ければ柄糸が柄の木を滑る事は有り得そうです。鮫革を柄木に張っていない、柄糸も巻いてない柄は奈良か平安時代にはありそうですが手の内が廻るとも思えません。
 此処は反りの無い直刀を云うのでしょう。直刀は叩きつけた瞬間に防具に阻まれれば、反動で角度が変わるかもしれません。そこへ行くと反りのある太刀は反りに沿って食い込んで行く引き切れるとでもいうのでしょう。
 塚原卜伝の実戦経験から身に付いた教えでしょうからそんなものかも知れないと素直に受け止めてみました。
 そんなことを知ってか知らずか、江戸時代前期に直刀がはやったとか、維新前の志士たちの中にも長い直刀がはやったように刀剣書籍に記されてもいます。直刀の良さは突きにある様です。

| | コメント (0)

2020年8月17日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の17太刀の寸臍に比べて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の17太刀の寸臍に比べて

太刀の寸臍(ほぞ)に比べて指しぬべし
         我が身の丈に合わぬ嫌へり

 太刀の長さは、切先を床に付けて鍔が臍の高さを越えてはならない、自分の身の丈に余る太刀を持つものではない。

 太刀ですからこの長さで良いのかも知れませんが、凡そ刃渡り3尺位の太刀になりそうです。この時代特に決められた太刀の長さがあった訳でもないので、長巻と云って刃渡り3尺柄も3尺のもの、大太刀といって刃渡り4尺から5尺に余るものなども戦場では使われた事もあったように書かれているものもあります。
 腕力に任せ刃の着いた長い鉄の棒を振り回している様なもので剣術と云えるものかどうか疑問でもあります。卜伝の剣術が太刀を佩いた状況からどの様に操作されたのか、その片鱗は古流剣術に残っているかもしれません。
 然し太刀の長さを「臍に比べて」という長さを要した運剣は新陰流に伝わる大太刀による燕飛や静流自在剣に垣間見れるのかも知れません。この歌の歌心は卜伝の剣術を知らない私には何にも聞こえてこないのは仕方のない事です。

 塚原卜伝の生きた延徳元年1489年~元亀2年1571年は下克上と戦国乱世真っただ中であり、刀も太刀から打刀への時代、薙刀から鑓への時代と移り行く時、卜伝54歳の時には種子島へ鉄砲が伝わった時代でした。

 現代では、居合をやる人が真剣を持っていたりしていますが、戦国時代末期に始まった居合で、太刀による居合だったでしょう。江戸期に打刀による居合に改変された技を研鑽しています。
 その寸法は現代刀を特注すれば別ですが、先祖伝来の刀か市販されている古刀・新刀・新々刀・現代刀を使用していますので、短すぎ或いは軽すぎ、或いは長すぎ重すぎなどを使いこなしている様です。反りも浅いの深いの、調子も手元調子ばかりではありません。 
 江戸時代初期に刀の刃渡りの長さに制限を設け、寛文10年には太刀は2尺8寸9分を以て限りとし、大脇差は長さ1尺8寸を以て限りとしています。更に刀は2尺3寸、脇差は1尺5寸などという定寸が決められたようです。

 現在は、アルミか亜鉛のダイキャストによる模擬刀が安価で本身と同じような拵も出来て、登録不要ですから容易に手に入るようになってきています。
 初心者は模擬刀から習い始めその刀身の寸法は大方販売者の進める寸法になっています。
  
  市販されている模擬刀の身長に対する長さを参考までに見てみます。主として無双直伝英信流、夢想神伝流などの居合を稽古する人を目安にしている様ですから流派によって前後が有るかもしれません。
身長140~145cm 2尺1寸~2尺1寸5分
  145~150   2尺1寸5分~2尺2寸
  155~160   2尺2寸5分~2尺3寸
  160~165   2尺3寸~2尺3寸5分
  165~170   2尺3寸5分~2尺4寸
  170~175   2尺4寸~2尺5寸
  175~180   2尺5寸~2尺6寸
  180~185   2尺6寸~2尺7寸
  185~190   2尺7寸~2尺8寸
 江戸時代に定寸が定められ、それ以上の太刀や打刀が摺上げられてしまいましたから、古刀や新刀で望んでも3尺に近い本身は現代刀として打ってもらわなければ簡単には手に入らないでしょう。
 
 

 

          

| | コメント (0)

2020年8月16日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の16三寸に足らぬ馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の16三寸に足らぬ馬

三寸に足らぬ馬をば昔より
      軍の場には嫌うなりけり

 四尺三寸(130cm)に足らない馬は昔より軍の場(庭)には嫌うものである。

 「三寸に足らぬ」をどの様に解釈すべきですが、何処かに馬の体高の基準でもあればいいのですが見当たりません。現代の基準でポニーとされる馬は147cm(四尺8寸五分)以下です。「三寸足らぬ馬」を考えると、4尺三寸(130cm)か五尺三寸(160cm)と成ります。
 現在残って居る日本の在来種は八種ありますが其の内道産子、木曽駒、対馬馬が大きいもので135cmそこそこですから四尺五寸程で、他は120cm(4尺)足らずです。
 五尺を越える馬も居たとされますが、四尺以上を寸刻みで呼んでいた様なので四尺八寸を越える馬を「八寸(ヤキ)に余る馬」で大馬と認知していた様です。(ウイキペディアを参考に考察)
 「三寸足らぬ馬」は四尺三寸(130cm)に満たない馬という事で、軍場としては不適としたのでしょう。
 これらの馬の大きさについては当時の骨の発掘などからも推察されます。大方は平家物語や昔語りの書物からの引用ですから有名な大将の馬は過大評価されて居る事も有るでしょう。
 

| | コメント (0)

2020年8月15日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の15乗り下りとまた扱いの

道歌
6、塚原卜伝百首
6の15乗り下りとまた扱いの

 乗り下りとまた扱いの安きとて
        小馬を好む人は拙し

 乗り降りするのと、扱いが容易という事で、小さな馬を好む人は愚かである。

 拙しは、巧みでない。おろかである、劣っている。運が悪い、薄命である。(広辞苑より)
 この歌心を考えて見るのですが、乗り降りが容易で扱いやすいと云う事が「拙い」と一蹴されてしまう事の意味はどこにあるのでしょう。
 大きく逞しい馬は、乗り降りは厄介ですが、乗ってしまえば「名あるもののふ」として周囲を圧倒する風姿が得られて一目置かれるでしょう。
 見た目の偉丈夫は何かと手柄を立てる切っ掛けが得られるかもしれません。しかし、拙しと言われるには、組し易しと思われ忽ち敵に囲まれてしまう。馬の体力がなく直にへばってしまう。などあるのでしょう。

| | コメント (0)

2020年8月14日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の14癖有れど強き馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の14癖有れど強き馬

癖有れど強き馬こそよけれとて
      進まぬ癖の馬を乗るぞよ

 癖は有るけれどとにかく逞しく強い馬が良いだろうと手に入れたが、進めと指示しても膠着して動かない馬に乗ったのでは困ったものだ。

 馬の癖に「膠着」といい、「馬が物を見たり、異常に緊張して、動かなくなってしまった状態をいう。馬場に出た後、騎手の指示にもかかわらず動かなくなったり、ゲートが開いても発進しないケースがある。」JRAより。
 大きい、強い、逞しい、速いばかりでは、普段は問題なくとも、いざ戦闘開始という時周囲の歓声や雰囲気に「膠着」して動けないのでは機を逸してしまうわけでしょう。
 「癖有れど」歌い出しですから、馬の癖にある、グイッポ、咬癖、蹴癖、身つ食、その他の習癖は兎も角として、膠着したりあとびきでは困ったものです。
 
 


 

| | コメント (0)

2020年8月13日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の13馬はただ普通に強き肝ぞよき

道歌
6、塚原卜伝百首
6の13馬はただ普通に強き肝ぞよき

 馬はただ普通に強き肝ぞよき
      勝るゝ肝と無肝嫌へり
*
 馬はただ普通に強い「きも」であればいいので、「きも」が強すぎたり、弱々しいのは良くない。

 前回の馬の癖に紹介した、あとびき・グイッポ・膠着・咬癖・習癖・蹴癖・身っ食などが言われますが、ここでは「あとびき・膠着」などは特に戦闘では、いざという時後退りしたり、固まってしまったのでは役に立たないでしょう。
  
 肝とは、肝臓。内臓の総称、五臓六腑。精神、気力、胆力、きもだま。工夫、思案。肝・胆。広辞苑より。
 肝とは、きも、肝臓。勇気をたくわえるもととなる内臓。学研漢和大事典
 胆とは、きも、ずっしりとした勇気や決断力、きもったま。学研漢和大事典

| | コメント (0)

2020年8月12日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の12もののふの鎧の下に乗る馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の12もののふの鎧の下に乗る馬

もののふの鎧の下に乗る馬は
       癖ありとても強き好めり

 武士の鎧を着けて戦場で乗る馬では、癖が有っても強い馬が好まれる。

 馬の癖とはどんなものが有るのでしょう、その癖が有っても強い馬の方が良いと云います。


 戦国時時代の馬はどの程度の大きさだったかハッキリした答えは得られないけれど、武士が平均身長160cm程であれば体重60kg近辺、鎧が30kg、鞍は10kg以上はあるでしょう。それだけで100kg、更に戦闘用具が刀や薙刀、鑓、弓矢などあったでしょう。
 日本の在来種は小型な馬ばかりが天然記念物になって2000頭ほど大事にされています。其れだったなどと言われていますが、平安時代の馬にしても戦国時代にしてもモンゴル系の馬が使われていた様で、これ等と違ってモンゴル系の大型種が軍馬として使われていた様です。
 日本における馬の歴史は、5世紀ごろからで古墳から馬の骨や馬具が出土しています。
 奈良時代には伝馬や駅馬の制度なども出来、乗馬馬の牧場などもあった様です。大陸との交流から軍馬の導入などもあったと思われます。
 平安時代には競馬や騎射などが行われ、馬による武術の研鑽も盛んだったようです。平家物語にもある様に馬と一体になった話も伝わっています。馬の産地は関東以北に発展した様です。
 このころにはいい鎧を着た武士が馬に乗って騎射するなど盛んだったと思われます。
 鎌倉時代以降には、騎馬隊なども編成されて、馬術はますます盛んになって行ったのでしょう。一騎打から騎馬隊への変遷もあって当然馬は大きく力強いものが好まれたと思います。
 現存する天然記念物を頭に描くのは間違いでしょう。少なくとも体高140cm以上を要求されたと考えられます。それではなぜ天然記念物の馬が小さいのかの答えに、大きくて強い馬は軍馬や農耕や荷馬車などに持っていかれ劣った馬が残されたと解説されているものもあり、一概に嘘とも言えません。

 武田の騎馬軍団などは話だけの嘘などと云う人も居ますが、日本の歴史をたどり他国との交流を考えれば当然モンゴル系の馬もヨーロッパの馬も輸入されたでしょう。馬を使い慣れれば騎馬軍団なども編成する事は可能です。
 生き残るには時代の最先端を行く心づもりが無ければ、置き去りにされても仕方がないことで、歴史は語っています。

 馬の癖が今回の課題でした。JRAによる馬の癖を紹介しておきます。

あとびき:運動中あるいは馬をつなぐ時などに後退する癖。後退癖の俗称である。

グイッポ:馬の有害な癖の一つであるさく癖の俗称である。上歯を馬栓棒や壁板などにあて、それを支点にし、頭に力を入れ、空気を呑み込む癖をいう。退屈あるいは他馬のまねが原因であり、空気を呑み込むために風気疝(ふうきせん)になりやすい。軽度のうちは矯正できるが、習慣性となった場合は矯正は難しい。

膠着:馬がものを見たり、異常に緊張したりして、動かなくなってしまった状態をいう。馬場に出た後、騎手の指示にもかかわらず動かなくなったり、ゲートが開いても発進しないケースなどがある。

咬癖:人や他の馬をかむ癖。

習癖:馬の馬房内または運動時の忌むべき様々な癖の総称であり、略語で表されているものなど、調教や飼養管理面で矯正を行う必要がある。

蹴癖:人や他の馬を蹴る癖である。蹴癖馬は人馬に危険を及ぼすため、厩舎では目印として尾に赤い布をつけ危険防止に努めている。

身っ食い:馬が自分の体を噛む癖のこと。稀には馬体に傷が残る程激しいものもある。退屈、ストレスが原因である。


 

 

| | コメント (0)

2020年8月11日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の11武士の其の名を挙げる例えには

道歌
6、塚原卜伝百首
6の11武士の其の名を挙げる例えには

武士の其の名を挙げる例えには
       昔も今も馬をこそ言え 

 もののふの名を挙げるための例には、昔も今もその持ち馬を讃えるとも云える。

 良い馬に乗る武士は、馬の良し悪しで其の心得を推し測られるのは昔も今も変わらない。と歌います、前回が「もののふの実知るべきは馬なれや心懸けぬは愚かなるべし」でした。
 人馬一体に依る戦場往来は、馬共に凛々しく惚れ惚れとした気に敵味方ともさせられたのでしょう。
 戦国時代の逸話の一つに山内一豊の妻の故事にある様に、貧乏でも駿馬を欲しがる一豊に、実家から嫁入る際に「事有る時に」と持たされた大金を渡して手に入れさせた内助の功の話はほほえましい。
 平家物語では梶原源太影季のする墨と佐々木四郎高綱のいけずきの宇治川での先陣争いなど名場面の一つでしょう。当然、駿馬を乗りこなす馬術も無ければのことです。
 そんな駿馬は当時の日本には居なかった、武田の騎馬隊も、馬上での一騎打ちも嘘っぱちと、私を笑った人が居ます。天然記念物として生き残りの日本固有の馬は確かにポニーで背丈140cm以下です。不断テレビで見る馬はサラブレッドでヨーロッパで開発されて歴史的には短いものです。戦国時代には蒙古馬や西洋との貿易による馬なども輸入され高値で売買された様です。
 日本の歴史はその時代を生きた庶民や、其処での暮らし、其の家畜などは上の空です。
 おかしなブログに左右されて、信じ決めつける人は幸せです。当時の牧場で飼育された馬は強く逞しい馬は商売になっても、きゃしゃで臆病な馬は売り物にならない。それでも荷物運びなどに使われたでしょう。騎馬武者が不要になって来た戦国末期には馬の市場も縮小されたか廃業でしょう。江戸時代ではもっと極端に軍用馬の需要はなくなり、農耕馬とか荷物運び一部は乗馬用、放置されて野生化した馬を見て日本固有種は使えないなど嘘八百でしょう。
 話半分でも信実に至ろうとするのは、史料が何処にあるのか誰に聞けばよいのかそれだけでたった57577の和歌に翻弄されて、寝ていても思いつけば跳び起きる程です。これ、不幸では無く真実の幸福かもしれません。

 

| | コメント (0)

2020年8月10日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の10もののふの実知るべきは

道歌
6、塚原卜伝百首
6の10もののふの実知るべきは

もののふの実知べきは馬なれや
      心懸けぬは愚かなるべし

 もののふの本当に知るべき事は馬であろうか、心懸けないのは愚かな事である。

 「もののふ」は、武士と書きます。上代では朝廷に仕えた官人であったのですが、時代が下れば武勇を以て仕え、戦場に立つ武人、つわもの、ぶし。(広辞苑より)
 卜伝の場合は、鹿島神宮の鹿島氏の卜部で神卜を司る家柄の神職吉川左京覚賢の次男で、鹿島氏の支城の一つ塚原城主の塚原土佐守安幹の子新左衛門安重の養子となっています。生来は塚原城主となる事を約束されていたはずです。茨城県剣友会編「茨城の武芸」より。

 卜伝は1489年生まれで1571年に没しています。
 82年の生涯の内廻国修行に3回出ています。茨城の武芸より(林崎明神と林崎甚助重信年表より引用)
 第一回は16歳~29歳 13年間
 第二回は33歳~44歳 11年間
 第三回は67歳~82歳 15年間
 通算すると廻国修行は39年間になります。塚原城でのことは29歳から33歳の4年間と44歳から67歳迄23年間と云えるのでしょう。兵法者ではなく「もののふ」として暮らした時期は廻国修行より短いものです。
 「もののふ」としての弓、馬はその期間は特に心がけて手放せないものだったのでしょう。廻国修行には馬に乗り替え馬も数頭連れ、門人は300とどこぞの講釈師が喋っています。

| | コメント (0)

2020年8月 9日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の9弦はただ太きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の9弦はただ太きに

弦はただ太きに若くは無かりけり
       細きは根矢をささぬものかは

 弓弦は太い方が良いので、細い場合は戦で矢が敵に刺さらないものだ。

 根矢とは、征矢、鏑矢、狩(雁)股などの矢の俗称(広辞苑より)。鏃(矢の根)を含む矢の事でしょう。
 弦は現在では丈夫な合成繊維のケプラー、ザイロン、アラミドなどが使用されて、細くて硬く強いものが出来ています。
 細ければ弓の返りが早く弦音も高いが弦は切れ易い。太ければ弓の返りも遅く、弦音も低いなどで上級者は細い弦を好むとか言われている様です。
 卜伝百首では、弦は太い方が良いと云って、細ければ敵に当たっても弱く刺さらないなどと云うのです。卜伝の時代では麻かカラムシの弦が主だったでしょう。天然繊維としては丈夫で強いとは言え細ければ直に切れてしまい戦闘では予備を持つとしても、ほど良い丈夫さと鋭敏さが必要だったのでしょう。

 カラムシは其の繊維で衣服なども作られていたものです。麻は弥生時代から使用されていた様ですが、カラムシはもっと古くからのものの様です。栽培されているものは知りませんが、現在でも畑の周辺や野原などにも自生しています。ついでに木綿は戦国時代以降に栽培されている様です。
 現在では弓の強さに対し太さの基準なども明確になっている様ですが、卜伝の時代ではどうだったのでしょう。
 

| | コメント (3)

2020年8月 8日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の8夏冬に好む矢

道歌
6、塚原卜伝百首
8夏冬に好む

夏冬に好む矢の根有る物を
      知らぬは射手の不覚なるべし

 夏冬の季節によって良い結果の出る鏃(矢の根)がある事を知らないのは射手の不覚である。

 歌のままの直訳ですが、さて、前回の近い敵遠い敵に対する鏃の選択の習いに、更に夏だ冬だと云う時の矢の根の選択を知らないのでは不覚を取ると云われています。
 次いでですが、雨と晴れ、雪や風なども矢は影響されるのでしょうね。
 残念ながら、歌の意味は解らないでもないのですが、状況に応じた矢の根の選択について解説されたものが手元にありません。卜伝百首の解説者としては「不覚なるべし」です。
 現代の弓道などでも的場の的と射る場所は屋根付きでも吹き抜けですから、季節にも雨風にも矢は影響されるでしょう。近間用のもの遠間用、巻き藁用などが用意されている様です。
 鏃の遠近夫々、夏冬のそれぞれについて現代の稽古用鏃にも工夫があるのでしょうか。
 整備された弓道場での稽古では何ら支障のないものでも、いざ戦闘と云う事であれば使用する用具の準備や熟練した扱いがなければ効果は薄いものだったでしょう。
 参考文献などご存知の方は、コメントでご教授頂ければ幸いです。

| | コメント (0)

2020年8月 7日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の7近き敵遠き敵をば

道歌
6、塚原卜伝百首
6の7近き敵遠き敵をば

近き敵遠き敵をば射る時に
      矢の根の習いあると知るべし

 近間の敵や遠い敵を射る時には鏃についての習いごとがある事を知らなければならない。

「矢の根」とは、鏃(やじり)の事でした。鏃にはどんなものが有るのか、戦国時代に使用された鏃を形と使用法を調べる事になります。
 矢は、稽古用の的矢(まとや)と戦闘用の征矢(そや・せいや)とに分けられると思います。
 的矢は現代でも使われている矢の先端にかぶさるように装着している鏃か、鏃の先端の鏃身部(ぞくしんぶ)が短くさして鋭利ではないものが使われていたかもしれません。
 此処では征矢についてどのような形や性能を持つ鏃を遠近によって使い分けろというのでしょう。空気抵抗の少ないもの、茎部の長い、短いもの、などによって飛距離や殺傷力の強弱があって、幾種類かを使い分けていたのでしょう。
 
 鏃(板付・矢の根・根)の種類(刀剣ワールド鏃の基礎知識より)
 尖矢(とがりや)
    柳葉(やないば)・槙葉(まきのは)・尖根(とがりね)・たて割・のみ形・椎形・十文字・長のみ形・長椎形・剣先・鳥の舌
 平根(平根)
 雁股(かりまた)

 戦闘用では大まかに言えば遠間には鏃は小さく鋭くて軽いものと云えますが、距離によってどれが適切であるかなどは手持ちの鏃による経験値や、射る角度などあるのでしょうね。近間は幅広で大き目は有効でしょう。鎧を射通すならば細身で返しなど無い方が良さそうです。

 卜伝百首の8首目の歌も矢の根について歌っています。戦国時代では、鏃の形状によって、使い分けていたのでしょう。どれをどのように使用するのか、弓を持ったことも無いので付け焼刃では此処までが精一杯です。弓を学ばれておられる方にお任せしておきます。

 

 

| | コメント (0)

2020年8月 6日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の6矢の根をば細く

道歌
6、塚原卜伝百首
6の6矢の根をば細く

 矢の根をば細く穂長きに好みたり
      當る矢先の抜けよかるべし

 鏃の部分は細く、矢の穂の長いものを好むのである、矢が当たっても矢先の抜けが良い。

 文字のまま読んで見ましたが、どうでしょう。もっと奥に重要な事が隠されているかもしれない、とも思えるのですが。
 それよりも書かれた文字や古語の言い回しが読み切れていないかもしれません。

 「矢の根」とは、鏃(やじり)、板付、根。
 「矢の穂」とは、矢の竹の部分、矢柄。
 「當る矢先」とは、鏃が命中した所に突き刺さる状況でしょう。

 「抜けよかるべし」とは、鏃が細く矢の竹が長ければ、鎧の上から射ても抜けが良いだろう。刺さった矢をわざわざ抜くことを強調するとも思えませんので、こんな風に読んで見たのですが如何でしょう。

 矢の根は鏃(やじり)と云う事ですが、鏃は先端の鏃身部(ぞくしんぶ)と柄部の頸部と茎部(なかごぶ)で構成されています。その茎部は竹で出来た矢柄に挿入されているので細く長いものであれば簡単にずり落ちる事も無く刺さっても鏃は体内に残っても矢柄は容易に抜き取る事が可能です。此の事を指して歌っているかもしれません。然しこと、獣を射た場合の事ならいざ知らず、戦場で敵に刺さった矢を抜き取ることを意図した配慮であれば疑問です。
 
 別の解釈は、是と云って思い浮かばないのですが、ご存知の方はご教授ください。

 

| | コメント (0)

2020年8月 5日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の5予ねて知れ軍の場に持つ弓は

道歌
6、塚原卜伝百首
6の5予ねて知れ軍の場に持つ弓は

予ねて(兼ねて)知れ軍(いくさ)の場(にわ)に持つ弓は
         少し力の勝る好めり

 あらかじめ知っておきなさい、軍場で持つ弓は、力量より少し強めの弓の方が好ましい。

 原文は「兼ねて知れ」ですから前の歌「弓はただ己の力にまかすべし手に餘りたる弓な好みそ」で手に余る強弓は好むべきではない、と歌っているのに対し、「でもね、合わせて知っておきなさい、軍場では少し強い方がいいのだよ。」と云うのかも知れません。
 此処では「兼ねて」を「予ねて」の文字に置き換えてみました。

 「兼ねて」は、ある事のみでなく他の事物をもあわせふくめる、一つで二つ以上の用をする、二つながら持つ。などでしょう。
 「予ねて」は、前以って、あらかじめ、前々から。などです。
 この歌の卜伝による直筆のものであれば良いのですが、後世の者による写し書きですからその人の思いが狂わせることもあります。
 「かねて」の文字は「兼ねて」で「祐持写」が為されています。他の天保十年田代源正容による写しも「兼ねて」ですから「兼ねて」でしょう。

 歌心は、軍場では、火事場の馬鹿力の譬えを連想しましたが、さてどうなのでしょう。昇段審査や奉納演武の際一段上の強い弓を引かれる話も有りやにも聞きます。居合をされる方が同様に普段は模擬刀で稽古しているのに真剣を持ち出して昇段審査や奉納演武をされていますが普段の稽古より「気」が入る事を仰います。

| | コメント (0)

2020年8月 4日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の4弓はただ己が力

道歌
6、塚原卜伝百首
6の4弓はただ己が力

弓はただ己が力に任すべし
      手に餘りたる弓な好みそ

 弓はただ自分の力に任すものだ、手に余る弓を好むのではないぞ。

 直訳して見たのですが、歌心が伝わってきません。弓を引くためには自分の力を越える様では役に立ちそうにありません、力量に合った強さの弓を持つべきで、力量以上の強弓は好むべきではない。
 「好みそ」の「そ」は何々してくれるな、と使われた禁止の意味を持つ「そ」を引用しました。

 弓の強さを卜伝の当時はどのように表していたのか、気になります。

 平家物語の那須与一「・・これを射損ずる物ならば、弓きりをり自害して、人にふたたび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんと思召さば、この矢はづさせた給ふな・・小兵といふぢやう、十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる・・」
 矢は大兵のつわものが十五束を引くので多少短いが、弓は強いと言って居ます。

 同じく平家物語の弓流「・・いかがしたりけむ、判官弓をかけ落されぬ。うつぶして鞭をもって、かくよせてとらう〵どし給へば、兵共、「ただ捨てさせ給へ」と申しけれども、つひにとッて、わらうてぞかへられける。おとなどもつまはじきして、「口惜しき御事候かな。たとひ千疋・万疋にかへさせ給うべき御だらしなりとも、いかで御命にかへさせ給べき」と申せば、判官、「弓のをしさにとらばこそ。義経が弓と言はば、二人してもはり、若しは三人してもはり、をぢの為朝が弓の様ならば、わざとも落としてとらすべし。尫弱(おうじゃく)たる弓を、かたきのとり持ッて、「これこそ源氏の大将。九郎義経が弓よ」とて、嘲弄せんずるが口惜しければ、命にかへてとるぞかし」とのへば、みな人これを感じける。」弓に弦をつける事を張るといい二人かかりが二人張り、三人がかりを三人張りという、保元物語の為朝は五人張りだったそうです。
 
 弓に関する知識は全くありませんのでネットで調べたもので、信頼性には乏しいかもしれませんが、武器は時代と共に進化します。
 古いものを其の儘用いる事も当然なので、何時からそうなったなどの事は大まかなものほど流れが解りやすいので参考にさせていただきます。
 弓にも歴史があって縄文時代はイヌガヤを削った単一素材で長さ160cm程という。
 弥生時代以降は2m以上の長い弓が威力や飛距離の必要性から改良されて来ている。
 平安中期までは単一素材の丸木弓で、神事などの儀式にも用いられ精神性を持つ武器となってきている。
 平安中期以降に木と竹を張り合わせた弓となりより高い威力を持った。
 平安後期から鎌倉時代では「三枚打弓」といって木芯の前後に竹を張り合わせたものが出て来る。
 室町時代中期には「四方竹弓」で木芯の四方を竹で囲んだ作りとなる。
 戦国時代後期では芯を竹ヒゴとし、外竹、内竹、側面を木とした「弓胎弓(ひごゆみ)」があらわれ現代でも使用されています。

 弓の強弱による「弓力」を現代での目安は「体重の3分の1×70~80%」ですから体重60kgの人ならば14kg~16kg。
 若しくは「握力の半分×70%~80%」ですから握力40kgの人は14kg~16kgを目安とするなどの事があるようです。

 この歌の様に己の力量を越える弓はダメだと云う事は戦場に出た際の実戦での取り廻しの容易性の事と思います。稽古には力をつけるために力量を越えるもの、「かたち」を整えるには、弱い弓を引くなど工夫次第でしょう。

| | コメント (0)

2020年8月 3日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の3もののふの射るや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の3、もののふの射るや

 もののふの射るや弓矢の名に立てゝ
        国を治むる試なりけり

 もののふの射る弓矢は名誉にかけて国を治めるための試みなのだ。

 此処は、弓矢に懸けて国を治めるのだというのです。もののふの勤めはそうでなくてはならない、人として名誉あることと歌います。
 是だけのことを歌い上げるのですから塚原卜伝の環境はどうなっていたのか、兵法者として生きたのでしょうがその思いは何処にあったのか、前回の柳生石舟斎宗厳とどこが違うのか、塚原卜伝の出自を調べざるを得ません。

 延徳元年1489年 鹿島神宮神官鹿島氏の四家老の卜部覚賢(あきかた)の次男として生まれる。
 父卜部覚賢は飯篠長威斎家直の高弟

 後、鹿島家の分家で、もと平氏姓の塚原土佐守安幹(やすもと)の子新左衛門の養子となる。
   鹿島氏は坂東平氏の一族で大掾氏の分家常陸鹿島の武家(軍事貴族)在庁官人、後地頭として鹿島神宮の惣大行事職を世襲する。

 概略この様な系譜で、戦国時代末期近くの武家として由緒ある出自と云えるのでしょう。この歌の裏には、何時の日にか「国を治る」地位を得たい思いがあるのかも知れません。然し卜伝の生涯は兵法者として名を残した事ばかりが伝えられています。塚原氏の常陸鹿島神宮での役割は何であったのでしょう。それが卜伝の生涯とどの様に繋がっているのか興味のある処ですが、どなたかにお任せします。ミツヒラブログは卜伝の兵法を学ぶ事が主眼です。


 

 

| | コメント (0)

2020年8月 2日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の2もののふの魂なれや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の2もののふの魂なれや

もののふの魂なれや梓弓
      春日の影や長閑からまし

 武士(もののふ)の魂であろうか、春の日にうつる弓の影は静かに落ち着いたものである。
 
 「武士の」書き出しは、2首目の書き出しは仮名による「む士」、一首目の書き出しは漢字の「武士」と使い分けていますが、卜伝百首では「もののふ」の読みで良いのでしょう。
 塚原卜伝の生きて来た時代は「武士の魂」は弓であって、太刀・刀では無かった様です。戦国時代末期に鉄砲の伝来があって戦闘方法も大きく変わり、飛び道具は弓から鉄砲へと移って行く、その寸前に世を去ったと云えるのでしょう。
 江戸時代では飛び道具は鉄砲が主ですが、武士の持つものは大小二本差しですから「武士の魂」は刀に移行した。武士の魂が「弓」と卜伝に言われて違和感を覚えるのもそのためでしょう。
 現代では刀を神聖視するのは、その面影を拠り所にする、「日本人の魂」といって一部の商売人や、懐古趣味の人ぐらいのものでしょう。
 最近の刀剣女子の出現によって、芸術性が見直されています。拵えを含めた刀の芸術性を全ての刀剣に当てはめるのは疑問です。
 神聖視か芸術性は兎も角先祖が大切にして来た刀への個人的思いの方が強いかも知れません。
 一方では遺産として残された子孫の方が迷惑がって引き取り手を求めるのも頷けます。

 「梓弓」は「あずさゆみ」、梓の木で造られた弓を表しています。弓に懸る枕詞ですがどうでしょう。弓の材質の時代考証はその道の先生にお願いするとして、卜伝の時代の弓は竹と木の張り合わせた弓で梓の木で創られた弓では無さそうです。

 卜伝のこの歌の心を読み取るのは夫々の思いでいいのだろうと思います。農作業に従事する人がクワや鎌に己の魂を抱くのも有りでしょう。ゴルフクラブでもいいのかも知れません。
 「いやいや、命を懸けて戦う時の武器なのだからそんなものではない」と言われるのも「ごもっとも」です。
 居合で真剣を携えて稽古も演武もしています。「真剣と模擬刀では思いが違うよ」と云われ、そうかとやって見ますが、此の処木刀でも真剣でも、果ては素手でも何等違いを感じる事はありません。
 武器を象徴としてその良し悪しを論ずるより、武術は心の置き所にあるのでしょう。

| | コメント (0)

2020年8月 1日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の1武士の名に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の1武士の名に

武士の名にあうものは弓なれや
        深くもあおげ高砂の松


 武士(もののふ)の名にあうものは弓で、高砂の松の様に人々から深く敬われるであろう。

 武士と書いてここは「もののふの」と読むのでしょう。もののふは武勇をもって戦陣に立つ武人、つわもの、ぶし。武士は弓矢をとり用いることを勤めとすること。ゆみやとり、ゆみとり。武士とは武芸を習い軍事にたずさわった者、さむらい、もののふ、武者、武人(広辞苑より)

 高砂の松とは何処の土地の相生の松を卜伝は言って居るのか解りません。一般的に知られているものは兵庫県高砂市の高砂神社境内にある黒松と赤松が基部で結合した相生の松を指します。
 百人一首では「たれをかも知る人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」と歌われています。卜伝は廻国修行の途中で高砂の松を見知ったとも思われますが、私は小倉百人一首にある、或いは古今集からこの歌を聞き知って、高砂の由来を引用したのだろうと思います。
 この歌の作者は9世紀から10世紀の人で藤原興風古今集に収録されています。小倉百人一首には、鎌倉幕府の御家人宇都宮頼綱が京都嵯峨野の小倉山に別荘を建てた際、その襖に付されています。其の百首が小倉百人一首なのです。歌は藤原定家によって選ばれています。

 武士のことを「ゆみとり」と云ったのは卜伝の生きた時代背景から、太刀・薙刀・弓を扱う武人を云い、弓への憧憬は源平盛衰記や平家物語の時代への思いからによると思います。那須与一の扇を射る話や、義経の八艘跳などでも武士の持つ武器のメインでもあったのでしょう。種子島の伝来は卜伝54歳の頃でその威力が喧伝されるのは卜伝死後10年の長篠の戦い以降でしょう。武器も薙刀から鑓、太刀から刀、弓から鉄砲へと大きく変わって、戦闘方法も変化していく時代だったと思います。
 そんなことを思いながら、この卜伝百首の一首目を読んでいました。この歌で卜伝は何を伝えたかったのでしょう。武士の象徴であった弓について卜伝は何を残していったのでしょう。
 卜伝の時代には意味のある歌も、現代ではと云うより私には何も心に響いて来ない。

 塚原卜伝は延徳元年1489年生まれ元亀2年1571年83歳で没したとされています。 

 この期間の主な出来事
長享元年 1487年  愛洲移香斎愛洲陰流を興す
  2年 1488年  香取神道流飯篠長威斎没す
延徳元年 1489年  塚原卜伝出生
永正2年 1505年  塚原卜伝第一回廻国修行に出る
                                (卜伝16歳)
  5年 1508年  上泉伊勢守秀綱上州大胡に生まれる
                               (卜伝19歳)
*上泉伊勢守は卜伝より19歳年下となります、
   卜伝が上泉伊勢守に師事した話がありますが、さて如何なものでしょう。
      15年1518年  塚原卜伝第一回廻国修行より帰る
                                (卜伝29歳)
  16年1519年  北条早雲没す
大永2年 1522年  塚原卜伝新当流を号す。
            塚原卜伝第二回廻国修行に出る
                                (卜伝33歳)

天文2年 1533年  塚原卜伝第二回目廻国修行より帰る
                                (卜伝44歳)

  3年 1534年  織田信長生誕
  6年 1537年  豊臣秀吉生誕
  11年1542年  林崎甚助重信生誕
            徳川家康生誕
      12年1543年  種子島伝来
弘治2年 1556年  塚原卜伝第三回目廻国修行に出る
                                (卜伝67歳)

永禄2年 1560年  織田信長桶狭間の戦い 
  4年 1561年  川中島の戦い
  10年1567年  伊達政宗生誕
元亀2年 1571年   塚原卜伝第三回廻国修行より帰る
                                (卜伝82歳)
                                 塚原卜伝没す82歳)
天正10年1582年   本能寺の変
慶長5年 1600年   関ケ原の戦い

 

| | コメント (0)

2020年7月31日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の81から95

道歌
6、塚原卜伝百首
6の81から95

81、む士能狩漁を好ま須ハ
      い可なる事も身をかくさ満し
 もののふの狩り漁(すなどり)を好まずは
      如何なることも身をかくさまし

82、武士能雪にや希多流手足をは
      酒あ多ゝ免天洗とそよし
 もののふの雪にやけたる手足おば
      酒温めて洗うとぞよし

83、む士の夜る乃眠を覚まし徒ゝ
      四方能左王きを聞くそゆゝしき
 もののふの夜の眠りを覚ましつつ
      四方の騒ぎを聞くぞゆゝしき

84、武士能其暁を志らぬこそ
      鼠取道志ら奴祢こ成れ
 もののふの其の暁を知らぬこそ
      鼠取る道知らぬ猫なれ

85、武士ハ軍能事を常々尓
      思王さ里世ハ不覚阿るへし
 もののふは軍の事を常々に
      思はざりせば不覚あるべし

86、む士は鞠琴鼓枇杷笛尓
      心つく須ハ愚那類遍し
 もののふは鞠琴鼓枇杷笛に
      心盡すは愚かなるべし

87、む士能知ら天中ゝ拙なきハ
      弓馬鑓堂兼天志るへし
 もののふの知らでなかなか拙きは
      弓馬鑓と兼ねて知るべし

88、武士ハ古き軍の物語
      常耳聞なハ便あるへし
 もののふは古き軍の物語
      常に聞くなば便りあるべし

別伝
 武士の如何に心の猛くとも
      知らぬ事には不覚あるべし

89、む士の心尓懸天知へきハ
      可川可多礼奴乃敵能色阿以
 もののふの心に懸けて知るべきは
      勝つ勝たれぬの敵の色あい

90、武士の心能内尓死の一川
      忘礼さ里せ盤不覚あらしな
 もののふの心の内に死の一つ
      忘れざりせば不覚あらじな

91、武士能学不教ハ押並天
      其之究尓は死の一川奈利
 もののふの学ぶ教えは押し並べて
      その究(極)みには死の一つなり

92、武士能まよ不處ハ何奈らむ
      いきぬいきぬ能一ツ成介里
 もののふの迷う処は何ならむ
      生きぬ生きぬの一つなりけり

93、む士能心能鏡曇ら須ハ
      立逢敵越う川し志類へし
 もののふの心の鏡曇らずば
      立逢う敵を写し知るべし

94、武士ハ生死不多川を打捨天
      進む心耳し具こ堂ハなし
 もののふは生死二つを打ち捨てて
      進む心にしく事はなし

95、学ひ怒る心耳態の迷てや
      態耳古ゝ路のま多迷不らむ
 学びぬる心に態(わざ)の迷いてや
      態(わざ)に心の又迷うらん


 以上で「慶応二丙とら祐持写」卜伝百首を終りますー
  次回から一首ずつ卜伝百首を読み解いてみます。柳生石舟斎宗厳の兵法百首と読み比べて楽しんで見たいと思います。毎日一首ずつ読んで行きますので終るのは11月7日頃になるでしょう。
 

| | コメント (0)

2020年7月30日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の61から80

道歌
6、塚原卜伝
6の61から80

61、武士能足不ミのへ天あをむきに
       祢天ハ勝負尓勝多ぬもの哉
 もののふの足踏み延べて仰向きに
       寝ては勝負に勝たぬもの哉

62、武士の児や女尓た王むれ天
       心於くれ怒事は阿らし奈
 もののふの児(ちご)や女にたわむれて
       心おくれぬ事はあらじな
別伝
 もののふの児や女にたわむれて
       心溺れぬ事はあらじな

63、武士能勝負能場耳出る時
       跡と左右耳心ちら春な
 もののふの勝負の場(にわ)に出る時
       跡と左右に心散らすな

64、む士能暑き寒きの分ちなく
       野山を可け天身をさら須遍し
 もののふの暑き寒きの分ち無く
       野山を駈けて身を晒すべし

65、武士ハ心耳懸よ水游
       志ら須把常に不覚阿流べし
 もののふは心に懸けよ水遊び
       知らずは常に不覚あるべし

66、武士ハちから遊ひを常にせよ
       さら須ハ筋能延ひた王むへし
 もののふは力遊びを常にせよ
       さらずば筋の伸びたわむべし

67、武士能心たゆめハおの川可ら
       膚ハ肥天身楚重具成流
 もののふの心弛めば自ずから
       膚は肥えて身ぞ重くなる

68、む士の者し累刀を指すこそ春
       もた怒敵をも川と知るへし
 もののふのはしる刀を指すこそは
       持たぬ敵を持つと知るべし

69、む士能刀の目釘見も世須耳
       腰に指すこそ拙奈可里介里
 もののふの刀の目釘見もせずに
       腰に指すこそ拙なかりけり

70、武士能酒を過須楚不覚成る
       無下耳呑マ怒もま多愚成
 もののふの酒を過ごすぞ不覚なる
       無下に呑まぬもまた愚かなり

71、武士能月額を剃る剃刀を
       加里に女能手尓もとらすな
 もののふの月額を剃る剃刀を
       仮に女の手にも取らすな

72、む士能夜能枕耳二重帯
       置ぬハ阿王礼不覚成るへし
 もののふの夜の枕に二重帯
       置かぬはあわれ不覚なるべし

73、む士能夜る能祢まきの絹耳こ楚
       裏表をハせぬ者と知礼
 もののふの夜の寝巻の絹にこそ
       裏表をばせぬ者と知れ

74、む士の夜る能枕耳鼻紙を布天
       祢るこ楚教へな里介利
 もののふの夜の枕に鼻紙を敷きて
       寝るこそ教へなりけり

75武士の加つ介類笠能布の緒を
       加里二作る裳習ひ成里介れ
 もののふのかづける笠の布の緒を
       かりにつくるも習いなりけり

76、む士能道行時耳逢人の
       右ハ通らぬもの登志るへし
 もののふの道行く時に逢う人の
       右は通らぬものと知るべし

77、む士能道行時に満可里可と
       よけ天通楚心阿り介里
 もののふの道行く時に曲がり角
       避けて通るぞ心ありけり

78、武士の道行連の阿る時盤
       いつも人をハ右耳見天由け  
 もののふの道行く連れのある時は
       何時も人をば右に見て行け

79、む士能夜るの道尓ハ燈を
       中尓持世天王しを行へし
 もののふの夜の道には燈(ともしび)を
       中に持たせて端を行くべし 

80、武士の常に踏足古ゝろし天
       古とに臨天乱れぬ楚よし
 もののふの常に踏む足心して
        事に臨みて乱れぬぞよし

| | コメント (0)

2020年7月29日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の41から60

道歌
6、塚原卜伝百首
6の41から60

41、長き柄の鑓は短く春るとても
      其時々耳さハ里あらしな
 長き柄の鑓は短くするとても
      其の時々に障りあらじな

42、甲をは軽く手軽く真甲の
      実(さね)能厚きを好ミき累へし
 甲をば軽く手軽く真甲の
      実の(さね)の厚きを好み着るべし

43、鎧をハ其色々尓おと須とも
      たゝ手軽き尓志くハあらしな
 鎧をば其の色々に縅とも
      ただ手軽きにしくはあらじな

44、心ある昔能人の着し鎧
      むない多斗利さね厚く勢利
 心ある昔の人の着し鎧
      胸板ばかり札(さね)厚くせり

45、以つと天も鎧能下能者多巻ハ
      綿入絹耳志くハ奈可里介利
 いつとても鎧の下の肌巻は
      綿入る絹にしくはなかりけり 

46、草摺と蓋手(こて)臑當と脇立ハ 
      好尓免にも加く尓も
 草摺と蓋手臑当と立ては
      好み好みに兎にも角にも   
 
47、置刀夏盤枕耳冬ハ脇
      春秋ならハ兎にも角にも 
 置く刀夏は枕に冬は脇
      春秋ならば兎にも角にも 

別伝
 夏冬を知らで立置く太刀刀
      かならず不覚あるとしるべし

48、武士ハ妄耳食をせ怒そよき
      日耳二度奈ら天好はし春し奈
 もののふは妄りに食をせぬぞ良き
      日に二度ならで好みはしすな 

49、武士能軍能場(所)尓出る時
      湯漬尓しくハ奈幾と知へし
 もののふの軍の場(場所)に出る時
      湯漬にしくは無きと知べし

50、武士の冬の軍尓炒豆を
      持春ハ不覚志ら天は阿るへし
 もののうの冬の軍に炒り豆を
      持たずは不覚しらではあるべし
別伝
 もののふの冬の軍に炒り豆を
      持たずは不覚得てし有るべし

51、武士能いつも身尓添持べきハ
      刃徒くる為の砥石なるへし
 もののふの何時も身に添え持つべきは
      刃作る為の砥石なるべし

52、もののふの身二添て指刀尓は
      椿の油ミ年耳怒るへし
 もののふの身に添えて指す刀には
      椿の油峰に塗るべし
別伝
 もののふの身に添て指す(持つ)刀には
      椿の油身にはぬるべし

53、む士ハ女にそ満ぬ心もて
      是そ本まれの教へ奈り介類
 もののふは女にそまぬ心もて
      是ぞ誉の教えなりける

54、武士能帯ハせまきを好へし
      広きは刀怒所奈利
 もののふの帯は狭きを好むべし
      広きは刀抜けぬ所

55、む士能寒きを儘耳足袋者きて
      不覚を加ゝ怒事ハあらしな
 もののふの寒きを儘に足袋はきて
      不覚を欠かぬ事はあらじな

56、む士の不む楚徒多なき皮草履
      児や女のか左里成邊し
 もののふの踏むぞ拙き皮草履
      児(ちご)や女の飾なるべし

57、武士能刀乃徒免越志ら天こ楚
      常尓不覚のえ天しあるらめ
 もののふの刀のつめを知らでこそ
      常に不覚の得てしあるらめ 
 
58、武士能味好春るなたゝ
      常尓湯漬を食春流そよき
 もののふの味好みするなただ
      常に湯漬けを食するぞよき

59、む士能坂と馬上耳指刀
      そり(鎬)をう天怒ハ不可くなる邊し
 もののふの坂と馬上に指す刀
      反りをうたぬは不覚なるべし

60、む士能軍の場尓持物盤
      梅干に満須ものハ阿らじな
 もののふの軍の場(にわ)に持つものは
      梅干しにます物はあらじな

| | コメント (0)

2020年7月28日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の21から40首

道歌
6、塚原卜伝百首
6の21から40首

21、打籠を打て響能あしき太刀
      佩奴ハ武士の習奈里介利
 打籠(うちこみ)を打ちて響の悪しき太刀
      佩かぬは武士の習いなりけり

22、今能世は太刀ハ廃といひな可ら
      刀も於奈し心なるへし
 今の世は太刀は廃ると云いながら
      刀も同じ心なるべし

23、鍔はたゝふときに志くハ奈幾物を        
      細きを好む人そ徒多なき
 鍔はただ太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き
別伝

 太刀ハ只ふと幾尓志くハ奈幾物を
      細幾をこのむ人そ徒多那幾
 太刀は只太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き 

24、皆人の志らてやをかきぬらん
      鍔の徒め阿る習ひありと盤
 皆人の知らでや恥をかきぬらん 
      鍔の詰めある習いありとは

25、鍔ハ多ゝ切ぬきあるを好べし
      厚く無紋を深く嫌へ里
 鍔はただ切り抜きあるを好むべし
      厚く無紋を深く嫌へり

26、あら鍔ハ以可尓厚くと切ぬへし
      たとひ薄きも古き好免里
  新鍔は如何に厚くと切れぬべし
      譬え薄きも古き好めり

27、(鞆)柄ハたゝ細く長きを好とも
      さのミ長きはま多嫌ふ成
 柄はただ細く長きと好むとも
      さのみ長きはまた嫌う也

28、鞆(柄)鞘のふときを好む人ハたゝ
      ま多もの奈れぬ故と知邊し
 柄鞘の太きを好む人はただ
      まだもの慣れぬ故と知るべし

29、よき鮫能裏をは左のみ志とら須して
      巻たる鞆(柄)を強くこ多由る 
 よき鮫の裏をばさのみとらずして
      巻たる柄に強くこたゆる

30、鞆(柄)ハたゝ革にまされる物ハ奈し
      糸に天巻ハぬれ天乾可怒
 柄はただ革にまされる物は無し
      糸にて巻くは濡れて乾かぬ

31、菱巻に巻たる鞆(柄)ハ手能内の
      悪きものそ堂兼天知るへし
 菱巻に巻たる柄は手の内の
      悪しきものぞと兼て知るべし

32、目貫をハ長きを好む方ハよし
      短く高支目貫嫌邊利
 目貫をば長きを好む方はよし
      短く高き目貫嫌えり

33、目貫尓はたゝ生物を好へし
      二足四足の習阿里介利
 目貫にはただ生き物を好べし
      二足四足の習い有けり

34、目貫尓ハゆゝしき習阿る物を
      志ら天打こ楚拙な可りケ里
 目貫にはゆゝしき習いあるものを
      知らで打つこそ拙かりけり
別伝
 目釘にはゆゝしき習いあるものを
      知らで打つこそ拙かりけり

35、長刀ハ弐尺尓多ら怒細身をば
      持ハ不覚能阿類と志類邊し
 長刀は弐尺に足らぬ細身をば
      持つは不覚のあると知るべし

36、手足四川持た累敵尓小長刀
      持天懸るとよもや切ら連し
 手足四つ持ちたる敵に小長刀
      持ちて懸るとよもや切られじ

37、太刀か多な持多累敵尓小長刀
      志春満須時耳相うちと志連
 太刀刀持たる敵に小長刀
      しずます時に相打ちと知れ
     
38、鑓の穂能長き尓志具ハ奈幾と天も
      さのミ重ハ不覚成るへし
 鑓の穂の長きにしくはなきとても
      さのみ重くは不覚なるべし 
別伝
 鑓ハ多ゝ刀尓合せ持ぬへし
      尺尓余連る穂者な好ミそ
 鑓はただ刀に合わせ持ちぬべし
      尺に余れる穂はな好みぞ
        
39、羽なくて空尓は志り登る共
      手三へぬ鑓耳勝ハ阿らしな
 羽無くて空に走り登るとも
      手さへぬ鑓に勝はあらじな 
別伝
 羽なくて空には得てし登るとも
      手さへぬ鑓に勝はあらじな 

40、鑓能柄盤長きに志くハなきとても
      所志ら須ハ不覚奈る邊し
 鑓の柄は長きにしくはなきとても
      所知らずば不覚なるべし 

      -以下次号ー    

| | コメント (0)

2020年7月27日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の1から20首

道歌
6、塚原卜伝百首
6の1から20首
卜伝百首の原本の写しでもあれば良いのですが、適当なものが手に入らないので慶応2年8月に藤原祐持が写したものを元にしてそこにある全歌95首をまず読み上げてみます。
 文字の読み取れない歌も其の儘記載しておきます。

1、武士の名耳あふものハ弓なれや
      婦可くも阿ふけ高砂の松
 もののうの名に合う物は弓なれや
      深くも仰げ高砂の松

2、む士能魂那れやあ川さ弓
      者る日の影や長閑可らまし
 もののふの魂なれや梓弓
      春日の影や長閑からまし

3、武士の射や弓矢の名尓立て
       国をおさむるためし成介里
 もののうの射るや弓矢の名に立てて
      国を治るためしなりけり

4、弓はたゞ己の力にまか須へし
      手尓餘里堂る弓なこ能み楚
 弓はたゞ己の力に任すべし
      手に余りたる弓な好みぞ

5、兼天志れ軍の場尓持弓ハ
      少し力能まさる好免里
 予(兼)ねて知れ軍(いくさ)の場(にわ)に持つ弓は
      少し力の勝る好めり

、矢能根をハ細く穂長尓好多里
       當る矢先の抜よかる遍し
 矢の根をば細く穂長に好みたり
      当たる矢先の抜けよかるべし

7、近き敵遠き敵をはゐる時は
      矢能根の習いあると知へし
 近き敵遠き敵をば射る時は
      矢の根の習いあると知るべし

8、夏冬耳好む矢能根の有物を
      志ら怒盤射手能不覚成へし
 夏冬に好む矢の根の有るものを
      知らぬは射手の不覚なるべし

、弦ハ只婦とき耳志くハな可り希里
      細きハ根矢をさゝぬ者可ハ
 弦は只太きにしくはなかりけり
      細きは根矢をさゝぬものかわ

10、む士能実知へきハ馬那連や
      心可け奴ハ愚なる遍し
 もののふの実(げ)に知るべきは馬なれや
      心懸けぬは愚かなるべし

11、む士乃其誉を挙る例尓は
      昔も今も馬を古そ以え
 もののふの其の名を挙げる例(ため)しには
      昔も今も馬をこそ云え

12、武士の鎧乃下耳乗馬ハ
      くせあ里と天も強き好免り
 もののふの鎧の下に乗る馬は
      癖ありとても強き好めり

13、馬は堂ゝ普通につよき肝そよき
      勝るゝ肝と無肝嫌へ里
 馬はただ普通に強き肝(きも)ぞよき
     勝るゝ肝と無肝
嫌へり

14、具せ阿れと強き馬こ楚よ介礼とて
     進ま怒癖の馬を乗ぞよ
 癖有れと強き馬こそよけれとて
     進まぬ癖の馬を乗るぞよ

15、乗下堂ま多扱の安きとて
     小馬を好む人ハ徒多なし
 乗り下りとまた扱いの安きとて
     小馬を好む人は拙なし

16、三寸に堂らぬ馬をハ昔よ里
     軍の場尓は嫌不成介里
 三寸に足らぬ馬をば昔より
     軍(いくさ)の場(にわ)には嫌うなりけり 

17、太刀能寸臍尓くらへ天指ぬへし
     我身の丈け尓阿王怒嫌へ里
 太刀の寸臍(ほぞ)に比べて指しぬべし
     我が身の丈に合わぬ嫌へり 

18、反のな紀太刀をハ嫌ふべし
     切類手能内の満王る故成
 反の無き太刀をば嫌うべし
     切る手の内の廻る故也

19、切れ累と天新身の太刀を帯人ハ
     必不覚有ると知へし
 切れるとて新身の太刀を帯人は
     必ず不覚有ると知るべし  

20、勝負ハ長支短支可ハら祢堂
     さのミ短支太刀奈このミ楚
 勝ち負けは長き短きかわらねど
     さのみ短き太刀な好みぞ 

         ー以下次号ー

| | コメント (0)

2020年7月26日 (日)

道歌5柳生石舟斎兵法百首参考資料

道歌
5、柳生石舟斎兵法百首参考資料(順不動)

1、柳生石舟斎兵法百首 竹田七郎殿 慶長6年2月吉日
  奈良女子大学術情報センター
2、宗厳(石舟斎)兵法百首 竹田七郎殿 
  慶長6年2月吉日 宝山寺蔵 今村嘉雄著史料柳生新陰流下巻
3、史料柳生新陰流 今村嘉雄著
  心陰流兵法目録事 石舟斎
  心陰流截相口伝書亊 石舟斎
  兵法截相心持の事 柳生宗矩
  玉成集 柳生宗矩
  月之抄 柳生十兵衛
  朏聞集 柳生十兵衛
  武蔵野 柳生十兵衛
  当流の兵法 柳生十兵衛
  柳生新秘抄 
  他
4、正傳新陰流 柳生厳長著
5、剣道八講  柳生厳長著
6、上州剣客列伝 長岡慶之助著
7、肥前武道物語 黒木俊弘著
8、柳生論語(兵法家伝書・不動智神妙録) 岡山研堂著
9、兵法家伝書 柳生宗矩著 渡辺一郎校注
10、不動智神妙録 沢庵著(池田愉訳)
11、柳生新陰流道眼 柳生延春
12、負けない奥義 柳生耕一平厳信著
13、生命知としての場の論理 清水博著
14、一刀流極意 笹森順造著
15、日本剣道史 山田次郎吉著
16、心身修養剣道集義正続 山田次郎吉著
17、剣道の発達 下川潮著
18、日本武芸小伝 綿谷雪著
19、武術叢書 早川順三郎編
20、剣と禅 大森曹玄著
21、柳生新陰流を学ぶ 赤羽根龍夫著
22、柳生の芸能(神戸金七編)赤羽根龍夫・大介校訂
23、柳生の芸能(外伝勢法) 赤羽根龍夫・大介校訂
24、新陰流(疋田伝) 赤羽根龍夫・大介校訂
25、徳川将軍と柳生新陰流 赤羽根龍夫
26、剣の法 前田英樹著
27、一発逆転の武術に学ぶ会話術 多田容子著
28、禅と合気道 鎌田茂雄・清水健一著
29、柳生新陰流極意無刀の伝 村山知義著
30、柳生兵庫助 津本陽著
31、念流の伝統と兵法 樋口一著
32、五輪書 宮本武蔵著 渡辺一郎校注
33、論語 金谷治注
34、論語 吉川幸次郎著
35、品川東海寺所蔵 柳生新陰流兵法覚書
        新陰流兵法心持
        玉成集五ヶの身位の事
36、柳生石舟斎 吉川英治著
37、雑兵物語 金田弘編
38、図巻雑兵物語 監修浅野長武・校注樋口英雄
39、日本武道全集第一巻 編者代表今村嘉雄
40、etc 

 

| | コメント (0)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の奥書

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の奥書

兵法百首 奥書
奥書は今村嘉雄著史料柳生新陰流の原本の写真は途中が抜けていますので、奈良女子大学学術情報センターによる兵法百首を原本として、今村嘉雄著史料柳生新陰流「宗厳(石舟斎)兵法百首(慶長六年二月吉日 宝山寺蔵9)」の読み下しを参考に締めさせていただきます。

「ある夕暮のつれづれに、大和国躰其歴々たづぬるに、年寄死去し或はいづくとも行かたしらずなり、其内の者どもさすが手柄よう人とある者どもも、かひなく成はて、まことにうへにのぞみ、乞食などの風情になるまま、宗厳も入道して法名をそうごん斎名をば石舟斎と云、六十余、いくほどなき露命とありながら、浮世をわたりかね、年にも似合ざる兵法をつかひ、朝夕を且々つづけ侍る事もほいならず。しかはあれど、道をたて兵法の師と号し修行する輩、其流稽古をもきはめず、手柄だての口上にほこり、仕合をし、うたれ、一流の師に科をきず、宗厳年月笑止に存ずるのみ、詞もつづかざるかたはらいたき兵法百首、狂歌をつらね侍る也。第一、石舟斎子供幷極意をお目に懸け弟子衆は此の狂歌を相忘れてならず、御分別御工夫尤候たるべく候也。 
 言のはの 露も続かぬ 口すさび 残らん跡の 名のはぢぞうき

 竹田七郎殿 参       
 柳生宗厳(花押・印)
 慶長六年二月吉日  」

*
 ある日の夕暮れの徒然に、大和の国体に昔からの名家の方々を訪ねたが、年寄りは死去し、或いは何処ともなく行方が分からなくなり、その家の者達は、甲斐性もなく成り果てて、まことに飢えに苦しみ、乞食などの様になりはてている。
 宗厳も入道となって法名を重々しく斎名を石舟斎と云う。六十歳余り幾ほども無い露ほどの儚い命でありながら浮世を渡りかねて、歳にも似合わないのに兵法を使い、朝夕を唯々続けている事も本意ではない。
 然しながら、道を立て兵法の師と呼ばれ修行する輩、其の流の稽古も極めず。誉められた事に誇り、試合をし、打たれ、其の流の師に過ちをとがめられることも無く、宗厳はいつも困った事だと思っている。
 いうべき言葉も続かない片腹痛き兵法百首の狂歌を連ねるものである。第一に石舟斎の子供や極意をお目に懸けた弟子衆は、此の狂歌を忘れてはならず、歌の心を分別し工夫することが大切である。
 言葉の露ほども続かずに口ずさんだ兵法百首、心に残る事も無いのでは、我が名の恥であると憂えるものである。

 竹田七郎殿 参る
 柳生宗厳(花押 印)
 慶長六年1601年二月吉日

 石舟斎直々の手解きを受けた当時の弟子は兎も角、400年以上前の言葉で歌われた歌も、新陰流の勢法も朧に棒振りばかりを稽古してあるべき姿も知らないミツヒラには、口ずさんだ歌と云われても読み解くのは一苦労です。
 手元に多くの新陰流の資料は揃っていても、総て読んでいたわけでも、まして理解していたとも言えません。
 今村嘉雄先生の読み下しと我が読みを並べ、時には歌の文字だけ五七五七七と三十一文字を打ち込んだまま頭を抱えているばかりでした。木刀を持ち出し勢法の一人稽古をしてふと気づく事もあり、何か昔読んだ本にあった事など思い出して見たりもしました。
 しかし、読み終えて見れば棒振り稽古に明け暮れていた日々から、コロナウイルス騒ぎでステイホームを求められ、稽古にも通えず却って新陰流の伝書をまともに読む機会に恵まれ少しは前に進めたかもしれません。
 無双直伝英信流居合兵法の古伝無雙神傳英信流居合兵法の神傳流秘書を読み解く際、最も思想的にも術理にも当時のままの古流剣術を求めて柳生新陰流春風館関東支部に入門し、この兵法百首を読み終えて、新陰流の影が色濃く残る古伝の居合をより理解し得た気がしています。

 2019年11月から道歌として兵法歌を続け読みして来ました。次回から卜伝百首に取り組んでみます。2020年11月まで懸りますので、この一年は歌ばかりです。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年7月25日 (土)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の102浮かまざる兵法故に石の舟

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の102浮かまざる兵法故に石の舟

兵法百首
う可満佐留兵法ゆへ尓石乃舟
      くちぬうき名也春衛尓のこさん

浮かまざる兵法ゆへに石の舟
      くちぬうき名やすえにのこさん

浮かまざる兵法故に石の舟
      朽ちぬ浮名や末に残さん

 浮かぶ事のない兵法だけれど、石の舟は朽ちる事の無い浮名を将来に遺して置こう。

 石舟斎の兵法百首の最後の歌です。百首と云いながら102首数えられました。四十首から四十九首までが「是より卜清十首」という事で他人の歌が入ったのか百首を越えました。

 この句は、石舟斎だから石の舟なので、兵法によってだけでは世に出て浮かぶ事はないだろう、しかし石の舟だから朽ちる事はない、浮名を将来に残して置くぞ。
 相変わらず「世を渡る業の無き故兵法を隠れ家とのみ頼む身ぞ憂き」と憂いた状況を笑い飛ばしているのか居ないのか。新陰流兵法で徳川政権の思想を支えて来た自負は有っても、縁の下である事は変わらない。
 柳生家は、戦国時代末期に徳川家康に仕えて家康が天下を取ることによって一万石を越える大名になったわけです。この時代は秀吉を筆頭に天下を取る事は誰でもチャンスと才能を得られれば可能であったかもしれない、そんな噂は京に近ければ近い程聞えて来たのでしょう。
 石舟斎の環境からは、武将として世に出る事はかなわず、秀吉の検地によって領地を取り上げられ貧困にさいなまれるほどの苦渋を味わってもいます。
 上泉伊勢守との出会いによって、上泉伊勢守の悲惨な半生と武田信玄の誘いを断った心情も理解していたとしても、捨て去れなかった夢の人生だったのかも知れません。
 その上、織田信長の足軽などによる集団戦術戦法の変革、鉄砲導入によって刀による戦いは功を得られない時代になって行った、戦国時代末期の状況が重なります。
 
 石舟斎の兵法百首は2020年3月21日に読み解き終わっています。
 多少なりとも柳生新陰流を学んだお陰で全くの白紙では無かった為に、石舟斎の歌心を読み取れたかはどうでも、ミツヒラの「思いつくままに」誰のアドバイスも頂かないままに読み終えてしまいました。
 歌は、読んで自分の思った様に理解すればよいので、誰かの教えを習い覚えて「読めた」を繰返したのでは「読めた」になりそうも有りません。
 石舟斎の兵法百首について「無刀の伝」の著者村山知義氏は、「宗厳も当時の兵法家の常として、文字のたしなみなく、この「兵法百首」は歌になっていないものが大半だが、いま私が首をひねって見ても、意味のつかめぬものがたくさんあるのには困ってしまう・・」と愚痴っています。その反面塚原卜伝の「卜伝百首」は「少なくとも卜伝のは意味のつかめないものはない」としています。私は卜伝百首にはホトホト困惑させられていました。石舟斎兵法百首の次はこの「卜伝百首」に取りくみます。そして再び「柳生新陰流」に戻ってきます。
 しばらくは「無双直伝英信流」の古伝「無雙神傳英信流居合兵法」から離れます。
 今後再び読み返す時に新たな思いがあって、今回の読み直しをしなければ我慢出来ない事がきっと来るはずです。その時前の解釈を覆せればそれだけ石舟斎の心に近づくことが出来たと思えればうれしいものです。

 

| | コメント (0)

2020年7月24日 (金)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の101兵法の上手は道理正しくて

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の101兵法の上手は道理正しくて

兵法百首
兵法の上手ハ多う里たゝしくて
     目徒希さぞ〵奈り也春紀也う

兵法の上手はたうりただしくて
     目つけさぞさぞなりやすきやう

兵法の上手は道理正しくて
     目付さぞさぞなりやすきよう

 兵法の上手な人は、物事のそうあるべき事を正しく見極めるので、目付はさぞや容易く出来るであろう。

「道理」とは、物事のそうであるべき理義・すじみち・ことわり。人の行うべき正しい道・道義。 

 石舟斎の目付については新陰流截相口伝書亊では、いくつか示されています。
 三見大事で「太刀さきの事・敵之拳の事・敵之顔之事」。
 目付二星之事で「敵の目」。
 嶺谷之事、付三寸二つ之事、十文字「腕のかがみ嶺は右、谷は左」・「味方の拳」・「十文字勝」。
 遠山之事で「敵の肩を見る事」。
 太刀間三尺之事で「無刀の時の間合い」。
 二目遣之事で「盗み目」。
 目付けが正しくできる事によって敵の働きをを知ることが出来る、「色に付け色に随う事」も可能になるわけでしょう。

 これらの歌を読んでいますと、普段の稽古のありようを見直してみるべきだろうと思います。大抵は今日は燕飛を稽古しよう、三学円太刀だと、木刀を持ってただ決められた形をなぞって何度も練習を繰り返す、袋竹刀を持ち小手を着けて打ち合う。
 確かに順番通りの形は出来ている様ですが、目付もいい加減、間合いもいい加減、何も出来ていないのです。新陰流の数ある勢法の棒振り体操を繰返して居ても健康には良いのでしょうが、疑問です。
 今日は目付、次回はこれこれと目的を以て稽古すべきなのでしょう。そしてその事の道理を味わいつつ稽古すべきなのでしょう。
 面白い人が居ます、自分の打ち間の感覚と仕太刀が外れていると、「間が近すぎる」「間が遠い」と打太刀が仕太刀の立ち位置をとやかく言って居ます。
 仕太刀が何処に立って居ようとも自分で自分の打ち間に近寄るか、離れるかは足踏み一つで決まってしまうのに、相手は斬られる位置にいつもいる訳は無いのです。
 そうかと思うと、三学円太刀で仕太刀で左肩を相手に差し出し、打って来ればと待つのですが、打ち込んできた袋竹刀の切先は我が左肩にどう見ても届かない、右足を踏み込んで小手を打ったら「形が違う」だそうです。左肩に当たらないのですから知らん顔して置けばよかったのでしょう。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年7月23日 (木)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の100常々に五常の心無き人に

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の100常々に五常の心無き人に

兵法百首
徒年〵尓五常能心奈紀人尓
     家法の兵法允可ゆる寸奈

つねづねに五常の心なき人に
     家法の兵法允可ゆるすな

常々に五常の心無き人に
     家法の兵法允可許すな

 常日頃五常の心を持たない人に、家法である兵法の允可を許すな

 原本では允可の文字の草書体を使用しています。今村嘉雄著史料柳生新陰流では印可と読まれていますが印のくずし字とは思えません。但し新陰流の相伝には印可の文字を主に使用していますので意味は同じとしていいでしょう。

 允可とは、聞きとどけること、許可。
 印可とは、印信許可の略〔仏〕師僧が弟子に悟道の熟達を証明すること・允許。芸道の許し・允許。

 「五常」とは、儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。
 白虎通では、仁義礼智信。
 孟子では、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。
 書経瞬典では、父は義、母は親、弟は恭、子は孝

 前回月22日99回では「五常」は仁義礼智信を歌に詠み込み「兵法の極意に仁義礼智信たへず嗜み気遣いをせよ」と歌っています。従って此処での五常は仁義礼智信を、常々心がける人に家法の兵法の允可を与えると読み解きます。

 五常の仁義礼智信の意味
 仁:人を思いやること。
 義:利欲にとらわれず、なすべき事をすること、正義。
 礼:仁を具体的に行動として表したもの。
 智:道理を能く知り得ている人。知識豊富な人。
 信:友情に厚く言明をたがえないこと。真実を告げること。約束を守ること。誠実であること。

 戦後の教育では五常については勉強する事も無かったと思います。仁義礼智信の意味を知れば、素晴らしい教えですが孟子や書経ではこれでいいのかと考えさせられる筈です。為政者によって人を思い通りに動かす思想とも思われ、本当に人が望む事であるかどうか、言いなりに生きるのは楽かもしれませんが本来の人の心とは言えないでしょう。
 石舟斎の時代に仁義礼智信をどの様に考えられていたか、石舟斎はどう思って行動していたか定かではありませんが、柳生宗矩の兵法家伝書や柳生兵庫助の始終不捨書、柳生十兵衛の月之抄などから家族の一端や思想は見えてはいるのでしょうが、名を成して生き残る厳しさの方が目に付いてしまいます。
 

| | コメント (0)

2020年7月22日 (水)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の99兵法の極意に仁義礼知信

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の99兵法の極意に仁義礼知信

兵法百首
兵法乃極意尓仁義礼知信
      多え須多し奈ミ機遣をせ与

兵法の極意に仁義礼知信
      たえずたしなみきつかいをせよ

兵法の極意に仁義礼智信
      絶えず嗜み気遣いをせよ

 兵法の極意には儒教の云う仁義礼智信(人を思いやり、私欲に捉われず成すべき事を為し、礼を重んじ、ものの道理をも弁え、友情に厚く誠実である事)を絶えず心がけ心遣いする事である。
 兵法百首の原本写真では仁義礼知信ですが多くは信義礼智信で知は智を用いています。
   知は、知ること。さとること。しりあい。つかさどること。ちえ。智。
 智は、ものごとを理解し、是非・善悪を弁別する心の作用。ちえ。知能。賢いこと。はかりごと。是非正邪を弁別断定し煩悩を絶滅する精神作用。(広辞苑より)

 すでに兵法百首には孔子の学而編から「温良恭儉譲(おんりょうきょうけんじょう)は新陰の兵法の法度極意なりけり」と極意を歌い上げています。此処では兵法の極意として儒教の五常「仁義礼智信」を上げているわけです。新陰流としては兵法の極意で常に嗜むものは仁義礼智信と新陰流の侵してはならない法度に温良恭儉譲が示されています。
 何れも現代にも当たり前として持つべきもの、守るべきもの、と云えるでしょう。然し封建時代の考え方として下位の者に、我慢を強いる様に押付て来るような事も見られ、それは現代にも引き継がれている感もあって、人類あまねく分け隔てなく、仁義礼智信であり温良恭儉譲でありたいものです。

 「仁義礼知信」とは儒教の五常又は五徳
 「仁」:人を思いやる事
 「義」:利欲にとらわれず、なすべき事をする事。正義。
 「礼」:仁を具体的に行動して表したもの。
 「智」:道理を能く知り得ている人。知識豊富な人。
 「信」:友情に厚く言明をたがえないこと。真実を告げる事、約束を守る事。誠実である事。
 
 「嗜」とは、好んである事に心をうちこむ・精出しておこなう。常に心がける・常に用意する。心をつけて見苦しくないようにする・取り乱さない。つつしむ・遠慮する・がまんする。
 「気遣い」とは、あれこれと心をつかうこと・心づかい・気がかり・心配。

 温良恭儉譲とは、温(おだやか)で良(すなお)で恭(うやうやしく)して儉(つつましく)して譲(へりくだり)であること。
 7月14日No91「温良恭儉譲は新陰の兵法の法度極意なりけり」と歌っています。

| | コメント (0)

2020年7月21日 (火)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の98兵法師仁に心のなかりせば

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の98兵法師仁に

兵法百首
兵法師仁尓心の奈可り世は
     くらゐ上手能可ひハあらし奈

兵法師仁に心のなかりせは
     くらい上手のかひはあらしな

兵法師仁に心の無かりせば
     位上手の甲斐は有らじな

 兵法師に慈愛の心が無いのならば、上手の地位にあってもその甲斐は無いものだ。

 「師」とは、学問・技芸を教授する人・師匠・先生。僧侶、伝道者など宗教上の指導者。専門の技術を職業とする者。軍隊・いくさ。僧侶や講談師などの名に添えて敬意を表す。
 「仁」とは、孔子の教えを一貫している政治上・倫理上の理想。博愛をその内容とし、一切の諸徳を統べる主徳。天道が発現して仁となり、これを実戦すると人事・万物すべて調和・発展すると説く。愛情を他に及ぼすこと・いつくしみ・おもいやり・博愛・慈愛。ひと・人物。(広辞苑より)

 兵法を指導する者に慈愛の心が無いのならば、業技法の上手であっても意味の無い事である。兵法を何の為に修行するのかが解っていないのに、技術が上手、試合はいつも勝ってばかりいる。
 そんな人はチョット見渡せばすぐ目に付くものです。それは強いという本人の認識や周囲の声が為せるもので、自己以外は見下しているものです。武術はコミュニケーションの最終手段に用いるものと極端な事を云った人が居ます。それはそれで正しいのですが、其の前に、どれだけ相手を理解し、互に和せるものを見出す心と行動は武術の修行から培えるものとも思えます。 兵法の行使で解決を図るのでは「仁」者とは言えないのです。
 石舟斎の兵法の思いは、「和」する心、人に対する思いやりの心を持った継承者を求めているのでしょう。 

| | コメント (0)

2020年7月20日 (月)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の97兵法の弟子を仕立てぬ師にあらば

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の97兵法の弟子を仕立てぬ師にあらば

兵法百首
兵法の弟子を志多てぬ師尓あらハ
       花実を可祢ぬ上手成介り

兵法の弟子をしたてぬ師にあらは
       花実をかねぬ上手成けり

兵法の弟子を仕立てぬ師にあらば
      花実を兼ねぬ上手成けり

 兵法の弟子を育てる事をしない師であるならば、花ばなしい兵法と実のある兵法を兼ねる様な事の無い上手であろう。

 直訳すればこの様になります。
「花実を兼ねぬ」の解釈を、花とは、美しい・華々しい。上辺だけで真実味が乏しい。
 実とは、中身・内容のある事。まごころ。

 「弟子」とは、師に従って教えを受ける人・教え子・門人。
 「仕立てる」とは、「仕立つ」、こしらえる。布帛を縫って着物を縫う。教えこむ・しこむ・育てあげる。

 この歌の歌心は、石舟斎はどの様に解釈すれば「よし」とするのでしょう。
「弟子を人の師になれるように育てられない様な者は、上手であっても師とは言えない」とでも解釈すべきものなのでしょうか。やはりこの歌は「弟子を育てようとしない師であるならば、大勢の弟子を持ち上辺の華やかさを良しとしない真実の上手であろう」と歌心を読んで見たいものです。その様な師に出合えた上弟子は、上辺の花実に捉われない自ら兵法の真髄に向かって修行する真実の人であってほしいものです。

| | コメント (0)

2020年7月19日 (日)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の96兵法の争い位は小太刀にて

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の96兵法の争い位は小太刀にて

兵法百首
兵法のあらそひ位ハ小太刀尓天
       多可ひの弟子をせひしくらへよ

兵法のあらそい位は小太刀にて
       たがいの弟子をぜひしくらべよ

兵法の争い位は小太刀にて
       互いの弟子を是非し比べよ

 兵法の優劣の位は、小太刀の勝負を互いの弟子に打たせてその是非を比べればわかる。

 「是非」とは、是と非と・道理のあると道理のないと・よいこととよくないこと・よしあし・正邪。よしあしの判断・品評。

 柳生宗冬の兵法物語に「長きに短きにて、短きは習いも多し。昔より一寸おとりて勝を上手と申しならわし候。長き物にて必ず勝つ習い知らざるもの也。長き物にてはそばへよせず。長き程ひかえて、あさく勝心持、これ長き物にてかならず勝習也」

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊に「小太刀一尺五寸迦(はずし)の事」が記載され口伝となっています。柳生延春著柳生新陰流道眼には解りやすい解説がありますがここでは柳生十兵衛三厳の月之抄より引用します。資料は今村嘉雄著「史料柳生新陰流」より。
 「小太刀一尺五寸之はづしの事 老父云、当流の小太刀は、三尺の刀を半分にして一尺五寸の小太刀也。此の小太刀三尺の刀と同し様に成所を云。我身左右の肩先一尺五寸のはじと定る也。切るに随いて其身をはずせば小太刀敵の首へあたるものなり。三尺の太刀も同事なり。九尺柄の鑓も三尺の刀とひとしくなる心持なり。此心持を以て兵法遣い候へば、小太刀にても勝と云う心持を専とするなり。
 亡父の録に小太刀一尺五寸かくし事、付り替り身の事と書せる。又云、替り身とは、左を出して右を替り、右を出して左へ替る心持なり。太刀にてはづしと云は、其太刀ほどのはづしの心持なり、手にてはづすも其手ほどのはづしの心持なり。・・」

 この歌による小太刀の勝負は、太刀と小太刀の相互入れ替え、小太刀同志などを演じればその是非は読み取れそうです。石舟斎の新陰流截相口伝書事を充分理解し稽古した者がこれで演じるもので、小太刀同志で打ち合いのはずみで勝負あったなどと云う物とは程遠い、一瞬の勝負と成るでしょう。

 

| | コメント (0)

2020年7月18日 (土)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の95世を保ち国の護りと成る人の

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の95世を保ち国の護りと成るひとの

兵法百首
世を多もち國乃未も里と成人の
       こゝろ尓兵法徒可ハぬハ奈し

世をたもち国のまもりと成る人の
       こころ尓兵法つかはぬはなし

世を保ち国の護りと成る人の
       心に兵法使わぬは無し

 世の中の平和を保ち、国を護る人は、心に兵法の極意を以て政治を執り行うのである。

 この、世を保ち国を護る人を、石舟斎は徳川家康を指して歌っているのでしょう。「鳴かざれば鳴くまで待とうホトトギス」と歌われ、石田三成を大阪城から関ケ原におびき出した家康の戦法は、上杉征伐とばかりに会津を目指し、江戸を留守にして居ます。取って返す素早さはまさに、新陰流の極意です。
 石舟斎は宗矩を伴い文禄3年1594年に家康に京都で謁見しています。その際新陰流の兵法の思想を示したのでしょう。
 家康に仕官を求められて宗矩を託して柳生の庄へ戻っています。石舟斎68歳、宗矩24歳、家康51歳のころであったでしょう。其の6年後慶長5年1600年に関ケ原の戦い、其の出会いの後9年後慶長8年1603年に家康は征夷大将軍となっています。武術哲学にはその人の生い立ちや、人生経験からくる学びが根底にある筈です。家康の戦法には嵩に懸かる殺人剣ではなく活人剣に依る新陰流の懸待表裏の思想が脈打っていたのかも知れません。 

| | コメント (0)

2020年7月17日 (金)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の94兵法の利方それぞれ数ふれば

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の94兵法の利方それぞれ数ふれば

兵法百首
兵法乃利可多それ〵かそ不礼ハ
       お本ひ奈留可奈希んこんの徳

兵法のりかたそれぞれ数ふれば
       おほひなるかなけんこんの徳

兵法の利方それぞれ数ふれば
       大いなるかな乾坤の徳

 兵法の利する事を夫々数えてみれば大変なものだなあ、乾坤(天地)いっぱいの徳がある。

 「利方」とは、利益のある方法・便利な考え方。
    同じ音読みで「理方」があります、この意味は、理窟・原理。此処では「利」の文字が原文では使用されています。
 「お本ひ奈留可奈」は「おほいなるかな」よみは「おおいなるかな」は「大いなるかな」意味は、大きいものだなあ・大変なものだなあ。
 「乾坤」とは、易の卦の乾と坤と。天地。陽陰。いぬい(北西)とひつじさる(南西)。

    武術の教本は一般的には、其の流の発生の由来と目録による業技法の手附が主なものですが柳生新陰流の場合は江戸中期以降には業手附が整備されている様で、それ以前の石舟斎の伝書である新陰流截相口伝書亊や没茲味口伝書からは業技法についての手附は見られません。新陰流の兵法修行するに当たっての心構えが主となっています。

 柳生宗矩の兵法家伝書などでも、解りやすい兵法書と云っても、どんな勢法があるのか、何を読めばいいのか解らない、前に紹介しておいた三学円太刀一刀両段などでも勢法の流れは解っても細部は「口伝」とされてしまいます。
 どんなに細かい手附が合ったとしても、時代とともに変化し、指導者によっては自分の癖に合う様に形を変えてしまう事も有るでしょう。然し石舟斎の新陰流截相口伝書亊・没茲味口伝書、柳生兵庫助の始終不捨書は現在でも新陰流を学ぶ根本の考え方として生きています。
 それは「目付」であったり「色に付き色に随う」や「風水の音を知る」、「まろばし」や「懸待表裏」、「無刀」などの考え方は新陰流の兵法の思想であり根本原則であるからでしょう。
 柳生宗矩による兵法家伝書の殺人刀、活人刀がその根本思想を体系ずけて解説されています、活人剣が「相手の働きに随って勝つ」根本思想であれば、「相手を威圧して勝つ」事とは全く異なるもので、この思想は、磨き上げればまさに「乾坤の徳』とも云える思想でしょう。
 清水博著「生命知としての場の理論柳生新影流に見る共創の理」でうたう「リアルタイムの創作知」で、これからの時代益々人としても国としても磨き上げなければならないものなのでしょう。
 
 
 

| | コメント (0)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の93慎まず兵法面に出しなば

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の93慎まず兵法面に出しなば

兵法百首
徒ゝし満追兵法面尓出し奈は
      人尓尓く満れ者ちや可くらん

つつしまず兵法面に出しなば
      人ににくまれはぢやかくらん

慎まず兵法面に出しなば
      人に憎まれ恥やかくらん

 謙虚な気持も無く兵法が出来るとばかりの態度を見せていれば、人に疎まれ恥をかくであろう。

 「憎まれ」とは、にくい、にくし。うとましい・かわいげがない・気にいらない。腹だたしい・けしからぬ。みにくい。不愛想である・無骨である。風変りである。感心だ・あっぱれだ。(広辞苑より)

 石舟斎の時代は戦国時代末期で、刀での一対一の戦いから、足軽や雑兵による集団戦に変わり、鉄砲伝来を受けて其の戦いに大きく変化した時代です。
 家康による天下統一が為され「元和偃武」による戦の無い世の中へ入り始めの時期だったと思われます。
 石舟斎は兵法百首の歌で、兵法者としての極意の心得を伝えていますが、もう一面では兵法が出来てもその役割はさしてなく、悶々とした思いに明け暮れた事がうかがえます。
 兵法者として名が出れば、たちどころに勝負を挑まれ木刀や袋竹刀での形稽古の名人ぐらいでは、戦場往来して来た雑兵にさえ勝負にならない人も多かったかもしれません。
 この歌の「憎まれ」は、人を斬った事も無ければ戦場を駆け巡った事も無い兵法者を「気に入らん」として、相手にもされず、「恥をかく」面目を失うことも意味するとも思えます。

 この事は現代では、竹刀剣道で多くの試合で勝負して来た者が本物の武術を修業していると思い、古流剣術ばかりの者は形だけの演舞者と捉える事との関係などとも似通った感情になるものかもしれません。
 双方の言い分はどうであっても、武術は武術の積りで学ぶものでしょう。
 武術を口にする勝ち負けにより評価するスポーツと武術と云う名の武的演舞を完成させるために精神論を前面に押し出すものと、共に修行と云う名で武術と云うのも何か勘違いしている様に思えてしまいます。互に分け隔てようとするおかしな風潮に上泉伊勢守も石舟斎も苦笑いでしょう。
 古流剣術の演武を演舞と書くのは誤字ではありません。形ばかりに捉われて良し悪しを評価する稽古を揶揄しています。場の状況に応じて習い覚えた形に変化させて演ずることが出来なければ唯の踊りです。
 

| | コメント (0)

2020年7月16日 (木)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の92兵法は隠し慎む心より

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の92兵法は隠し慎む心より

兵法百首
兵法盤可くし徒ゝ志む心与り
      まさる極意ハあらしとそ思ふ

兵法はかくしつつしむ心より
      まさる極意はあらじとぞ思ふ

兵法は隠し慎む心より
      勝る極意は有らじとぞ思ふ

 兵法は、逸る心を抑えて、控え目にする事より勝る極意は有るまいと思う。

 新陰流截相口伝書亊の「色に付き色に随う事」「打ちて打たれ打たれて勝事」「懸待有之事」などの教えを心に付ける事によって新陰流の極意ともいえるのでしょう。
 前回の孔子の学而編を引用した「温良恭倹譲(おだやかですなおでうやうやしくてつつましくてへりくだりである)は新陰の兵法の法度極意成りけり」に引き続く、棒心を前面に押し出さない心のあり様を最上の極意とすると歌っています。

 この歌を読みながら、兵法の極意として、「俺は兵法に通じているとばかり態度に示すこともなく、控え目にする心に勝る極意は無い。」と読み解くことの方が一段上の極意とも言えます。
 何事も控え目であるべきを、隠すことと思い込み「兵法などとんと心得は無い」と兵法修行は人間性形成が目的なんだから、人とは争わないと引っ込んでいたのではこれも場の状況に応じる「リアルタイムの創出知」の修行足らずとなってしまいます。人としてもこれでは役立たずのでしょう。武術を学ぶ事は何なのか改めて思い出させる歌です。・・程度問題かもしれません。

 
 

| | コメント (0)

2020年7月15日 (水)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の91温良恭倹譲は新陰の

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の91温良恭倹譲は新陰の

兵法百首
おん里やう也希う介ん志やうハ新陰の
      兵法の者川と極意成介り

おんりょうやきょうけんじょうは新陰の
      兵法のはっとと極意成りけり

温良恭倹譲は新陰の
      兵法のはっとと極意なりけり(柳生厳長)

怨霊やきょうけんじょうは新陰の
      兵法の法度と極意成りけり(今村嘉雄)

 温良恭倹譲(おだやか・すなお・うやうやしく・つつましく・へりくだり)の心は新陰流の兵法に於いて侵してはならない法度であり、同時に極意である。

 この歌は、今村嘉雄著史料柳生近陰流では原本の写真にこの歌の部分が抜けています。今村嘉雄著史料柳生新陰流兵法百首の読み下しも参考にしましたが、原本の読みが違うようです。

 ここは柳生厳長著正傳新陰流から柳生石舟斎自筆の兵法百歌一巻を参考にさせていただきました。但し原本の読みは「温良や恭倹譲は・・」となるのですが「温良恭倹譲は・・」で「・・や・・」が抜けています。

 今村嘉雄氏の「怨霊や恭倹譲」では、怨霊の語句をこの歌にあてて「受けた仕打ちに恨みを抱いてたたる死霊・生霊になるのは法度で、恭倹譲(うやうやしく・つつましく・へりくだる)は新陰流兵法の極意である」では、勝負に負けても祟ってはいけない、恭倹譲(相手を尊び慎ましい気持ちでその栄誉を称える)のが極意である。・・でも歌にはなりますが、石舟斎の歌心であろうか疑問です。

 温良恭倹譲の語句は孔子の論語巻第一学而第一にある「子禽、子貢に問いて曰く、夫子の是の邦に至るや、必ずその政を聞く。求めたるや、そもそもこれを与えたるや、子貢曰く、夫子温良恭倹譲、以て是を得たり、夫子の之を求むるや、其れ諸れ(これ)人の求むるに異なるか」
 の一節から引用されている様です。
 意味は「・・・孔子は温(おだやか)・良(すなお)・恭(うやうやしく)・倹(つつましく)・譲(へりくだり)だから、どこの国でも政治の相談を受けることになる。それは他の人の様に自分から求めるのとは違う」。

 孔子論語の第一巻ですから学而編は論語の一番初めに出て来る処です。
 「子曰、学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして愠(うらみ)ず。亦君子ならずや」で始まります。
 
 石舟斎の兵法の極意はまず「温良恭倹譲」で人に接するもので、恐れられたり、威圧する様ではならないと云うのです。
 武術の指導者に往々にしてある、段位が上位の事で権威を嵩に権力を振りかざす様では、困ったものです。
 
 

 

| | コメント (0)

2020年7月14日 (火)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の90いのち身を素直と習う兵法は

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の90いのち身をすなおと習う兵法は

兵法百首
いのち身をす奈をと習兵法者
       志ら者能志あひさ多そこと奈る

いのち身をすなをと習ふ兵法は
       しらはのしあひさたぞことなる

命身を素直と習ふ兵法は
       白刃の試合沙汰ぞ異なる

 今村嘉雄著史料柳生新陰流の兵法百首ではこの歌は原文写真は抜けています。奈良女子大学学術情報センターの原文写真を原本とします。今村先生の読み下し文のみ参考にさせていただきます。
 
 命、身のやり取りを実戦其のまゝに習う兵法なのだが、白刃の試合における勝負を論じ究める事とは別物である。

 「すなを」とは、飾り気なくありのままなこと・質朴・純朴。心術の正しいこと・正直。おだやかで人にさからわぬこと・従順・柔和。
 「白刃」とは、さやから抜き放った刃・ぬきみ。
 「沙汰」とは、水でゆすって砂金や米などの砂をとり除くこと・物の清粗をえりわけること・淘汰。理非を論じきわめること・評定・裁断・訴訟。政務を裁断処理すること。定めること・処置・取り扱い。主君または官府の指令指図。たより・しらせ・報知・音信。評定・うわさ。行い・しわざ・事件。
 
 稽古では、「真剣ならば」とよくいう事で、そのつもりで心がけるのですが、やはり刃筋や物打での打込みは甘くなってしまうものです。木刀ではまだましでも袋竹刀ではさらに甘くなってしまいます。そんな稽古試合での勝負など、白刃であったら平打ちしたり、深々と打込んで始末におえないみじめなものです。

 稽古と真剣勝負とは、根本的に違うよ、と読み解いて見たのですが石舟斎の兵法百首の一つとしてこれでいいのでしょうか。兵法は命も身も傷つけることなく相手を倒すことを習うものと思っています。白刃の仕合とは違うと云われても、解らないではないが、そんな稽古などしたくないいものです。

| | コメント (0)

2020年7月13日 (月)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の89兵法を下手ぞとあらば争はで

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の89兵法を下手ぞとあらば争はで

兵法百首
兵法を遍多楚とあらハあらそハて
       よ尓志ん可う能人尓をしへ与

兵法を下手ぞとあらばあらそはで
       よにしんかうの人尓おしへよ

兵法を下手ぞと有らば争はで
       余に親交の人に教えよ

 兵法を下手だと云うのであれば口論などしていないで、私と深い交わりのある人に話して見れば。

 「争う」とは、互に張り合って勝とうとする・競争する・また喧嘩する・口論する。
 「争はで」とは、否定することをしないで・いかにも尤もと思われるならば。
 「しんこう」とは、「信仰」、信じたっとぶこと・宗教活動の意識的側面。「親交」、深く交わること・深い交際。(広辞苑より)

 この歌も、石舟斎の歌心が見えなくて悩まされます。読んで見たのですがこれで精一杯です。それでも良い解釈になったように思います。下手だ間違っているなど、稽古では同輩同士では間々あるものです。
 へぼ同士でとやかく言って居ても始まらないので、直に師の処へ、「こう打込んだらこんな風に返された、何か変なので、本当はどうするのですか」と解っていても、口論しても意味無いので聞きに行く私・・。
 三学円の太刀の一刀両段で相手の左肩に打込んだら、相手は見事に我が袋竹刀を叩いて来る。相手の切先は思いっきり叩いて来るので我が右肩の右に抜けてしまっています。我袋竹刀は右に外されているのですが・・意味ない動作です。其処から再び打ち合いが始まってしまいます。ここは、相手は我が袋竹刀を打つのではなく左肩を躱して同時に我左拳に打込む業なのです。新陰流は、外した時が切った時と云う基本的な事が解っていないために起こる事なのです。「新陰流に受け太刀は無い」常日頃から言われているのですが、形ばかりにこだわるへぼ先輩の教えによる誤った動作なのでしょう。
 

| | コメント (0)

2020年7月12日 (日)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の88人を斬らん心はしばし兵法に

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の88人を斬らん心はしばし兵法に

兵法百首
人を幾らん心は志ハし兵法に
      王連可う多連ぬ奈らひして未天

人をきらん心はしばし兵法に
      われがうたれぬならいしてまで

人を斬らん心は暫し兵法に
       我が打たれぬ習いしてまで

 人を斬るのだという心持ちなのに、暫しの間兵法の稽古に我が打たれぬ習い迄している。

 これでは新陰流の兵法の根元にも程遠い様で、石舟斎も苦笑している様です。
 「われがうたれぬならいしてまで」の下の句の動作を思うと、相手の打込みを受太刀になって防護している姿を思い描きます。受太刀になったはいいのですが、しっかり受けてしまえば其処に居付いてしまいます。相手が更に打込んで来る又受太刀となる、下がり乍ら受けていたのでは其の内壁に追い込まれるか、拍子を外されて斬られてしまいます。
 刀の構造から受太刀は刃で受けるのが原則です。木刀や竹刀ならば気にもしないのですが、日本刀の刃はボロボロになってしまいます。受けるだけの余裕があるのならば、受太刀となる動作に随って往なして打込んでしまうなど課題はあるもので、剣道型や無双直伝英信流居合道形の演武で真剣で演じるならば其処まで見せてもらいたいものです。

 石舟斎が上泉伊勢守から伝授された三学円太刀の一刀両断を柳生流新秘抄から見てみます。
 「・・此構へ下段にして車の太刀なり。巡り打たん為に弓手の肩をさし向けて見せ、敵より肩を切るとき、車に打こめば、身の捻りにつれて肩はをのづからに外れ、二星を勝なり。二星と云ふは敵の両拳なり。・・」今村嘉雄著史料柳生新陰流より。

 我は左の肩を差し向け、此処を切れとばかりに誘い、敵が肩に斬り込んで来るのを、身の捻りで外して二星に打ち込んでいます。一般に手に入れられる柳生新陰流の教本は、岩浪文庫の柳生宗矩の兵法家伝書の付・三学円太刀の方が古い勢法ですから少し違いますが考え方は同じです。

| | コメント (0)

2020年7月11日 (土)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の87旅にして勝とばかりの兵法は

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の87旅にして勝とばかりの兵法は

兵法百首
多ひ尓して勝と計能兵法は
      い川連も地うちと多ん成介り

たびにして勝と計りの兵法は
      いづれも地うちとたん成けり

旅にして勝つとばかりの兵法は
      何れもちうちとたんなりけり

 旅に出て、何時でも何処でも勝てるとばかりに思う兵法は、その場では何れも間違った打込みで、その時の愚かなはずみに過ぎないよ。

 「ばかり」とは、「計る」数量を計る。物事を推し考える、考える・分別する・推しはかる・予測する。
 「ちうち」とは、「ち」は地の文字ですが「智・知」か「痴」でしょうが此処は「痴」として、おろかなこと・おろか・無知・正しい認識の欠如。
 「とたん」とは、ちょうどその時・はずみ・ひょうし。 

 この歌の歌心が何となくわかる様で、解らない。上の句は兎も角下の句の「何れもちうちとたん」をどの様に読むのか解りません。心の赴くままに石舟斎の思いはここかなと、精一杯読み解いてみました。旅に出なくとも、お前の腕ではそんな処か、と云われそうです。
 此処まで87首読んで来ているわけで、こんな事を云いたかったのだろうか、あんな事かも知れないと思う次第です。新陰流に少しは入りこめて来たような。突き放されそうな。

 あまり考えずに、これでもいい感じです。「旅に出て我が新陰流は何処でも勝てると思っていても、何れも地面を打ったり、覚束なくトタントタンと棒振りしているばかりだ。」
 是ではいくら「ミツヒラ 思いつくままに」でも酷いかな。
 作家の村山知義氏は「無刀の伝」の中で「宗厳も当時の兵法家の常として、文字のたしなみなく、この「兵法百首」は歌になっていないものが大半だが、いま私がいかに首をひねって考えて見ても、意味のつかめないものがたくさんあるのには困ってしまう。」と書かれています。ついでに「これを宗厳より35歳年長で、元亀2年1571年に死んだ塚原卜伝の「卜伝遺訓抄ー卜伝百首」とくらべて見ると、少なくとも卜伝のは意味のつかめないものはない。しかも卜伝のは遥かに実戦的、実用的であり・・」とされています。
 此処まで言われたら卜伝百首も読まないわけにいきません。この石舟斎兵法百首の後にこの7月27日から「卜伝百首」に取り組みます。

   

| | コメント (0)

2020年7月10日 (金)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の86兵法を習い其の身のふりかゝり

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の86兵法を習い其の身のふりかゝり

兵法百首
兵法を奈らひ其身の不りかゝ里
      こゝろ己と葉尓気遣をせよ

兵法をならひ其身のふりかゝり
     こころこと葉尓気遣をせよ

兵法を習い其身の振り懸り
     心言葉に気遣をせよ

 兵法を習い其の身に降りかかって来る人の気持ちや言葉に、あれこれと心を使いなさい。

 「こころ」とは、知識・感情・意志の総称。思慮・おもわく。気持・心持・思いやり・なさけ。情趣を解する感性。望み・こころざし。特別な考え・裏切り・あるいは晴れない心持ち・ふたごころ。おもむき。事情。趣向・くふう。意味。わけ・謎解きの根拠。
 「気遣」とは、あれこれと心をつかうこと・心づかい・気がかり・心配。(広辞苑より)

 兵法が出来るだけのことで、仕懸けられる事もある、其の際には相手の思いや、言葉のはしはしにも気を使って争いを起すな。当然自分の思いや言葉にも気を使えというのでしょう。
 相手の気持ちも考えないで一方的に決めつけるなど兵法の極意からも遠いことだと諭されている様です。なかなかそこまでになり切れなくて困ったものです。
 最高の極意は戦わないで和すことでしょう。

| | コメント (0)

2020年7月 9日 (木)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の85義理情深き弟子にと兵法の

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の85義理情深き弟子にと兵法の

兵法百首
きり情不可き弟子尓と兵法の
      極意をおしミひしや者多さん


ぎり情ふかき弟子にと兵法の
      極意をおしみひじやはたさん

義理情け深き弟子にと兵法の
      極意をおしみ秘事や果たさん

 人の踏み行う正しい道を歩き思いやりの深い弟子には、兵法の極意を伝授しない事を惜しんで秘事を伝授しよう。

 「義理」とは、正しい道筋・ひとのふみ行うべき道。人が他に対して交際上のいろいろな関係から務めねばならぬ道・対面・面目・情宜。血族でないものが血族と同じ関係を結ぶこと。わけ・意味。
 「情け」とは、もののあわれを知る心。ものをあわれむ心・慈愛・人情・思いやり。みやびごころ・風流心。風情・興趣。男女の情愛・恋情・恋ごころ。情事・色情。義理。情にすがること・お慈悲・おなさけ。
 「おしみ」とは、「おしむ」愛しむ・惜しむ(手放さねばならぬものを)捨て難く思う・愛情を持つ・名残惜しく思う。いとしく思う・深くめでる・いつくしむ。物惜しみする・出し惜しむ。大事にする・尊重する。(広辞苑より)

 義理の意味の複雑な事から、金品授受や過度なへつらい、忖度、など極意の秘事を伝授すべきでない者への伝授は無いと思いたい処ですが、現実の世界では、それも世渡りの一つの如くあるとすれば、その様な事で得た極意を実戦で使えるのかどうか疑問です。
 極意の秘伝は、習い覚えた事を正しく伝える事の出来る人であり、其の為には正しい人の道を歩き、人への慈愛に満ちた人であるべきでしょう。
 師たるもの目録授与された程度のものをもって権威を得たとばかりに弟子を抱え、権力を振り回す様なニセモノを見抜く目も必要なのでしょう。
 石舟斎も柳生の庄の土地を秀吉の天正13年1585年の検地の頃、かつての剣友であり、弟子でもあり、敵味方で戦った松田何某の密告によって柳生の領地を全部没収されたとか苦い経験も歌には秘められていそうです。


 

| | コメント (0)

2020年7月 8日 (水)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の84我が太刀に我と非を打つ工夫して

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の84我が太刀に我と非を打つ工夫して

兵法百首
我太刀耳我と非を打工夫して
       川もり位の古ゝろよくしれ

我太刀に我と非を打つ工夫して
       つもり位のこころよくしれ

我が太刀に我と非を打つ工夫して
       積もり位の心よく知れ

 自分の太刀に、自分で何処が悪いのかを指摘する位の工夫をして来る心づもりが欲しいものだ。

 石舟斎の太刀の何処が悪いのか指摘する位の考えをもって臨む位の心が欲しい。

 「非を打つ」とは、まず「非」とは、道理にあたらないこと・よこしまなこと・不正。うまくゆかないこと。あやまり・きず・欠点。非難。
 名詞に冠して、そうでない意を表わす語。「非を打つ」とは、わるいところを指摘する・非難する。
 「つもり」とは、つもること・かさなり・かさなった結果。前以っての計算・見積。心ぐみ・考え・予想。程度・限度。酒宴の最後の酌・おつもり。
 「位」とは、物の等級または優劣。人や芸術作品などの品位・品格。数値のけた。(副助詞的にグライとも)体言、活用語の連体形、各助詞などいついて、大体の程度や、それに限定する意を表わす・ほど・ばかり・だけ。(広辞苑より)

 この歌も、稽古に臨んでの門人の心構を諭している様に聞こえて来ます。自分のでき具合位自分で考えろ、師匠の何処に問題があるかを事前事後でも指摘できる位の心掛けも大事だ、との歌心とも聞こえて来ます。この歌心が後に柳生兵庫助による始終不捨書になったと云えるかもしれません。
 兵法百首を残した石舟斎の心は、百首の一首目から人生においても兵法に於いても、其処に居付いてしまわない心、新陰流截相口伝書亊の色付色随事・懸待有之事などに明確です。
 

 

| | コメント (0)

2020年7月 7日 (火)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の83兵法は利かたと聞かば少しにも

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の83兵法は利かたと聞かば少しにも

兵法百首
兵法者利可多と聞ハ春こし尓も
       幾ゝし流徳を何尓多とへん

兵法は利かたと聞はすこしにも
      きゝしる徳を何にたとへん

兵法は利方と聞かば少しにも
      聞き知る徳を何に譬えん

 兵法は利のある事と聞けば少しでも聞き知る恵を、何に譬えれば良いのだろう。

「利かた」とは、利益のある方法・便利な考え方。
「徳」とは、心に養い身に得たところ・人道をさとって行為にあらわすこと・道徳・善導・正義が行為にあらわれること。道徳的に善い行為をするような性格の習慣。生来有する性質・天性・品性。人を感化し、また敬服させる力・名望・徳化。恩恵を施すことまたそれを受けること・めぐみ・おかげ。幸福、財産を有すること・富・裕福。利益・得分・もうけ。

 石舟斎の「一流の紀綱・柳生家憲」には、他流と試合しても何の足しにもならずかえって恥をかき、師にも難を及ぼすとして法度としています。その反面「他流を育て相尋ねる事尤も也、世上修行するほどの仁は、一つ二つ是非共に然るべき極意を存ずる者也」とされています。
 善いと思う事は積極的に聞き知る事は何にも譬えられない徳である。と歌っているのでしょう。
 そう云えば尾張柳生には林崎甚助重信の弟子長野無楽齋槿露の弟子の系統による居合が組み込まれていたり、宮本武蔵の圓明流による二刀勢法、還流の槍、新当流薙刀、静御前の静流薙刀(自在剣)、十兵衛杖などが通常の稽古にも組み込まれています。

| | コメント (0)

2020年7月 6日 (月)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の82兵法は鍛錬軽業その外に

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の82兵法は鍛錬軽業その外に

兵法百首
兵法ハ多ん連ん可留王さ其外尓
      奇妙の古ゝろ弟子尓奈らハ也

兵法はたんれんかるわざ其外に
      奇妙のこゝろ弟子にならばや

兵法は鍛錬軽業其外に
      奇妙の心弟子にならばや

 兵法はまず習い極めること、身軽に業を演じられる事、其の外には、普通とは異なる優れた業技法を身に付ける、その様な心持ちの弟子になる事だ。

 「たんれん」とは、金属をきたえねること・きたえること。ならいきわめること・錬磨すること。修養・修行を積むこと。酷吏が、罪のないものを罪に陥れること。
 「かるわざ」とは、危険な曲芸を身軽に演じるもの。甚だしく冒険的な計画又は事業。
 「奇妙」とは、珍しいこと・不思議なこと。普通とはかわってすぐれていること。

 鍛錬・軽業・奇妙を心がける自分の心の弟子になる事だと云うのでしょう。誰かの弟子になってもそれらを身に付けられる様には成れない、自分の心掛けだ。と歌っているのでしょう。まさにその通りでしょうね。成りたい者には自分が成るつもりにならなければなれっこないでしょう。師とはそんな弟子の気の付かない事にそっと手を貸すだけでいいのです。俺の言う通りやれ、俺の真似をしろでは師匠を超えられっこない。

| | コメント (0)

2020年7月 5日 (日)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の81兵法に積位を習い問へ

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の81兵法に積位を習い問へ

兵法百首
兵法尓積くらゐを奈らひとへ
      未保う耳こゝろ可け奈行末

兵法に積くらいをならひとへ
      まほうにこゝろかけな行末

兵法に積る位を習い問へ
      真法に心かけな行く末

 兵法に沢山ある業の位を習い問いなさい、そして真実の法を見出す様に心がけるのだ行く末までも。

 この歌は、全く心に響いてきません。無理やり読んで見たのですがスッキリ来ない。読み下しが間違っているのか、文言にあやまちがあるのかそれすら浮んで来ません。そこで、単語を1つづつその意味を確認しつつ、私ならばこの句はこう読むとしてみました。
 「積る位」とは、兵法にうず高く積み上げられている様な業技法と読んで見ました。
 「ま法」とは、真法・真実の法・まことの法。魔法の語句はこの当時使われた例を知らない。魔法であれば、不思議な事柄位が丁度いい。
 「心かけな」とは、心懸けるなり、と断定的に云う場合の断定の助動詞として「な」をおいた。

 石舟斎の歌心がこの解釈であったか否かは、知る由もない、私なら、自流の業でも他流の業でも、知りたいと思ったらとことん考えてみて、やって見た上、疑問にぶつかれば人に聞くなり、伝書やその流の手附や考え方から、真実はどれか、自分の持ち業として納得できるか突き詰めてみるのです。今ある自分をフル活動させて。国文学としての解釈には全く興味はなく、武術の心得として石舟斎に迫れればうれしいのですが・・。ミツヒラ 思いつくままに。

 

| | コメント (0)

2020年7月 4日 (土)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の80新陰を余流となすと兵法に

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の80新陰を余流となすと兵法に

兵法百首
新陰を余流と奈須と兵法に
      きめうのあらハ習多川祢ん

新陰を余流となすと兵法に
      きめうのあらば習たずねん

新陰を余流と為すと兵法に
      奇妙のあらば習い尋ねん

 新陰流を、どこぞの流から分れたに過ぎないものと云う、其の兵法に優れたものが有るならば出かけて行って習いたいものだ。 
 
「余流」とは、本流から分れた流・支流
「奇妙」とは、珍しいこと・不思議なこと。普通とはかわってすぐれていること。

 新陰流は、上泉伊勢守が石舟斎に授与した印可状に記されている様に「某、幼少より、兵法兵術を志すに依って、諸流の奥源を極め、日夜工夫鍛錬致すに依って尊天の感応を蒙り、新陰の流を号し天下に出でて伝授せしめんと、上洛致す処、慮らず参会申す・・」。と述べています。
 新陰流目録では「・・上古の流有、中古念流・新当流亦また念流有り、其の外は計るに勝てず。予、諸流の奥源を究め、陰流に於いて別に奇妙を抽出し、新陰流を号す。予諸流を廃せずして諸流を認めず・・」。更に詳細に新陰流の由来を明確にしています。この文章から新陰流は陰流を基に其処から優れた兵法を抽出した「新陰流」だから陰流の余流と云う見方もあって然るべきとは思えますが、それ以前に念流や新当流を学んで奥源を究めているわけで、陰流だけの余流とは言い得ないものでしょう。更に云う「予、諸流を廃せずして諸流を認めず」ですから、新陰流はそれまでの兵法の借り物ではないと言い切ったのです。

 石舟斎も近隣の兵法を学び終わっていたとしても、上泉伊勢守と試合して歯が立たず、改めて学び直したもので、余流呼ばわりには腹を立てるよりも、そんなに優れた兵法を持つならば、学んで見たいと歌っています。
 この歌心を、素直に受け止め上泉伊勢守の新陰流の単なる伝承者では無く、私は、兵法の真髄に迫ろうとする前向きな石舟斎の心を感じます。
 新陰流の稽古ばかりではなく、どこぞの稽古でも単に自流の業技法を上手に真似て伝承者として事足れりでは、移り行く時代に応じられる訳は無いでしょう。

  

| | コメント (0)

2020年7月 3日 (金)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の79兵法の用をば内につつしみて

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の79兵法の用をば内につつしみて

兵法百首
兵法の与うをハ内尓津ゝ志ミ天
      礼義乃二川尓心ミ多須奈

兵法のようをば内につゝしみて
      礼義の二つに心みだすな

兵法の用をば内に慎みて
      礼義の二つに心乱すな

 兵法の働きを心の内に控えもって人を敬い利害を捨てて条理に随い、心を乱さないこと。

「よう」とは、用。役に立つこと・また役に立てる事・使用。用事。用むき。働かせること・活用・運用。費用・入費・また費用のかかる高価なこと。大小便をする事・用便。ある目的のためであること・ため。
「つつしみ」とは、慎むの古語。用心する・あやまちがないようにする。うやうやしく畏まる。物忌みする・謹慎する。重んずる・大切にする。ひかえめにする・大事をとる。
「礼」とは、社会の秩序を保つための生活規範の総称・礼義作法・制度・文物などを含み、儒教では最も重要な道徳的概念として「礼記」などに説く。礼儀。うやまって拝すること・おじぎ・礼拝。謝意を表すことば・また、謝礼として贈る金品。供物・礼奠。
「義」とは、道理・条理・物事の理にかなったこと・人間の行うべきすじみち。利害をすてて条理にしたがい、人道のためにつくすこと。意味・わけ・言葉の内容。他人との名義上親子・兄弟など肉親としての縁を結ぶこと。
「礼義」とは、礼と義と。人の行うべき礼の道。
「乱す」とは、統一をなくす・ばらばらにする。平静な状態をかきみまわす・混乱させる・煩わせる。(広辞苑より)

 この歌での礼義の意味は、礼と義に分けて二つの文字の意味をよく噛みしめて、心を乱すなと云うのか、礼義の熟語として捉えるのかですが、いずれにしても儒教の五常(仁・義・礼・智・信)から引用されたものと思えます。

 俺は兵法の達人だと見るからに切るぞとばかりに、いつどこからでも来るなら来いと全身に漲らせるのを内に秘めて、人の心を思いやり、利欲に捉われずに人としてやるべきことを行うそれが本来の兵法の用なのだ、誤り用いては成らんぞ、と石舟斎は戒めています。
 礼儀を、ともずれば、師匠に礼を尽くせとばかりに、昇段審査で金品を要求したり、弟子を己の奴隷のように扱う権威を嵩に権力を振りまわす為の真逆の行為を行う輩も、何故か武術をやる者に多いのは本来の意味を学ばなかった似非者なのでしょう。
 

| | コメント (0)

2020年7月 2日 (木)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の78兵法に不思議奇妙は多き世を

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の78兵法に不思議奇妙は多き世を

兵法百首
兵法尓不しき奇妙ハお越き世を
       者礼のミと思不知恵そは可奈き

兵法に不しき奇妙はおおき世を
      われのみと思ふ知恵そはかなき

兵法に不思議奇妙は多き世を
      我れのみと思う知恵ぞ儚き

 兵法には、誰も思いつく事も普通の事とは思えない様なことも多い世界なのだが、我のみのが知っていると思う分別は儚いものである。

 「不思議」とは、不可思議の略・思いはかられぬこと・いぶかしいこと・あやしいこと・奇妙。
 「奇妙」とは、珍しいこと・不思議なこと。普通とはかわってすぐれていること。
 「世」とは、時世・世間・世の中・・・(広辞苑より)

 上泉伊勢守が石舟斎に伝授した影目録に「中古流、中古念流、新当流、陰流、其の外は計るに勝ず。予諸流の奥源を究め、陰流において別に奇妙を抽出し新陰流を号す。」と記されている様に、当時の中枢ともいえる兵法を学び其の中から愛洲移香斎の陰流の「奇妙を抽出して」新陰流としたとしています。その後、手を加えているかもしれませんが決して「新陰流にしか無い」というものでも無いでしょう。他流も日々進歩している筈で、当然「我のみ」と思うものでは無いはずです。
 他流と試合をして優劣を競うのではなく、その流の奥義を学べと迄石舟斎の家憲も述べています。他流は愚か、自流の他道場への出稽古すら良い顔をしない似非師匠など何を考えて居る事やら、「他流を学べばお前の形が乱れる」と形ばかりにこだわった意味不明なもっともらしい嘘をつく人も居るものです。

 この歌心は無双直伝英信流にも「世は広し我より外の事なしと思うは池の蛙なりけり」と伝わっています。

| | コメント (0)

2020年7月 1日 (水)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の77兵法の師となるならば弟子にまづ

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の77兵法の師となるならば弟子にまづ

兵法百首
兵法の師と奈留奈らハ弟子尓末つ
       者川とをゝしへ心よくミ与

兵法の師となるならは弟子にまず
       はっとをおしえ心よくみよ

兵法の師となるなるならば弟子にまず
       法度を教え心よく見よ

 兵法の師となるというのならば、弟子にまず法度を教えて弟子の心をよく見なさい。
 
 此処での法度も石舟斎の一流の紀綱・柳生家憲で良いのだろうと思います。

 「この流には、第一仕相無用たる可き也。
 其の仔細は余流を廃せずして道をたしなみ、幾重にも他流を育て相尋ねる事尤也。世上修行するほどの仁は、一つ二つ是非共に然る可き極意を存ずる者也。執心の道を育て、兵法建立の心、後代の為を存ず可し。家流に執心の仁は、先ず浅きより深きに至る。一文は無文の師、他流勝べきに非ず。
 きのうの我に、今日は勝つ可しと分別し、上手奇妙は、稽古鍛錬工夫上成ると、古人師伝にも申つたへらるることなれば、刀にて腰をふさげたらん者、一世の間の意思、所存、其の身の覚悟を分別の仁、懇望執心においては、相伝有る可し。
 努々、表太刀以下を稽古無く、他流の是非を嘲弄し、仕相好き、慢心の人へは、家法相伝有るべからざる也。」(柳生厳長著正傳新陰流より)

 新陰流は他流と試合をする事を無用とする、第一にと云う訳ですから一番の法度なのです。その理由は勝ったの負けたのと争い他流に勝ったと云って他流を嘲弄し、世の中から消してしまうようなことはあってはならない。負けたと云って大恥をかく事にもなる。他流の極意を一つ二つ持つぐらいのことであるべき事だと云います。
 「執心の道を育て、兵法建立の心、後代の為を存ずべし」、と他には見られない広い心持ちを感じられます。
 恐らく師であった上泉伊勢守が北条や武田に敗れたとはいえ武将でもあり、兵法者としてもすぐれた人物だったのでしょう。幾つもの他流を尋ね磨いた思いを引き継ぎ、自らも柳生の庄を預かる者としても、兵法者としての誇りも高かったのでしょう。兵法者としてただの棒振り名人では無かったと云えるのでしょう。
 「弟子にまず法度を教え」の法度の内容が「なるほど」と思えるもので、どこぞの道場に掲げてある「師の教えに従順たれ」などのものとは違います。私の様に「何故」を連発する者でも意味がよくわかります。

 

| | コメント (0)

2020年6月30日 (火)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の76兵の法と書きたる兵法を

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の76兵の法と書きたる兵法を

兵法百首
徒者ものゝ法と書多留兵法を
      いらぬとい不毛無念奈ら春也

つわものゝ法と書たる兵法を
      いらぬといふも無念ならずや

兵の法と書きたる兵法を
      要らぬと云うも無念ならずや

 つわもの(兵)の法(兵法)と書く兵法を、不必要だと云う(人が居るのは)残念なことである。

「つわもの」とは、「兵」戦争に用いる器具・武器・兵器。武器を執り戦争に加わる人・兵士・剛健な人・また、手腕を振う人・猛者。強者。
「無念」とは、妄念のないこと・正念。口惜しく思うこと・残念。(広辞苑より)

 兵法とは「つわものの法」「兵法」と書くのに「兵法」など要らないと、時の権力者の誰かが言ったのでしょう。当時の兵法とは現在広義に捉えられている、戦の仕方・用兵と戦闘の方法・兵学・軍法よりも狭義の剣術などの武術を指すことの方が一般的であったようです。
 戦国時代末期は大きく戦争の方法が変化し、白兵戦よりも、鉄砲や大砲、堀を設けた城郭での攻防、政治的懐柔策などの方が大切であったと云えそうです。
 一対一の剣術主体の兵法は、現代のミサイルや核兵器による戦争に対し、小銃や機関銃程度の位置付けにしかならないと考える人も芽生えて来ていたでしょう。
 石舟斎はその様な時代に剣術の修業は人格形成は勿論、戦略戦術思考を育てる絶好のものと考えていたかもしれません。

 武士道と云う名の元にカビの生えたような精神性を云ってみても、「この人何を言いたいのだろう」と首を捻るばかりです。
 剣道が勝ち負け優先の当てっこスポーツであるならば、勝つために何をすべきかにひたすら励む人でありたいものです。ただ、気になるのは多くの勝負け優先のスポーツが現役引退を迫られる時があり、体を壊して退かざるを得ない人を見ます、その時「これは武術とは違う」と思わざるを得ません。
 激しい稽古によって体を壊して使い物にならないのでは稽古の方法の誤りでしょう。若者に打ち負けるような武術では習う意味も無さそうです。

 石舟斎の生きた時代は、刻々と変わる状況変化の中で「リアルタイムの創出知」は出来て当たり前のことだったのでしょう。それは形をたどる事だけでは生み出せそうにありません。

| | コメント (0)

2020年6月29日 (月)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の75身命の守りと使う兵法の

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の75身命の守りと使う兵法の

兵法百首
身命の満もりと徒可不兵法の
       者川とを人乃おこ奈ハぬそうき

身命のまもりとつかう兵法の
       はつとを人のおこなはぬぞうき

身命の守りと使う兵法の
      法度を人の行わぬぞ憂き

 体と命を守る為に使う兵法なのに、禁じて居る事を守らない人が居る事は不本意である。

 「身命」とは、からだといのちと。
 「守り」とは、まもること・守護・警護・守備、守護神、おまもり。
 「法度」とは、おきて・法律、禁令・禁訓。
 「憂き」とは、うい・うし。物事に対して希望的になれず、心が閉ざされて感じられること、またそのような感じをおこさせる状態を表す語。苦しい・つらい・気にくわない・不本意だ・憎い。ものうい・気がすすまぬ。つれない・無情だ・つめたい。気がかりだ・可愛い・殊勝だ。(広辞苑より)
 石舟斎の云う「法度」の範囲をどこに置いているのか、一つは門弟とはいえそれなりの身分の者も居たかもしれない。元和偃武の武家諸法度を指しているのか、柳生新陰流の法度か、家憲なのか。
 武家諸法度は元和元年1615年に徳川幕府によって発行されています。この兵法百首は慶長6年1601年には竹田七郎宛てに送られていますから、武家諸法度ではありえないでしょう。
 柳生新陰流の兵法の法度とは何かですが、稽古に於いてやってはならない事は有でしょう。「身命の守りと使う兵法」と云うべきものでもあるでしょうが、稽古の都度指摘されて門人は納得されているでしょう。
 そうなると天正17年1579年発行の一流の紀綱・柳生家憲がもっとも該当しそうです。
 
 柳生厳長著正傳新陰流から一流の紀綱・柳生家憲より抜粋させていただきます。
「・・歎いても嘆かわしきは、奥義に疎き仕相(試合)だで、其の身の恥辱かくのみならず、某甲(それがし)の道を沙汰し、兵法一流の師に難をきすること、まことにまことに不覚の次第也。兵法一儀にあらず、いづれの芸能か、稽古なくして上手のあるべきや。此の流には、第一仕相無用たる可き也。其の仔細は、余流を廃せずして道をたしなみ、幾重にも他流を育て相尋ねる事尤也。世上修行するほどの仁は、一つ二つ是非共に、然る可き極意を存ずる者也。・・」

 禁じて居る事の第一は仕相であると云い切っています。
 
 略年表をもう一度作成しておきます。
 永禄8年1565年  上泉伊勢守より新陰流印可・石舟斎無刀取りを上泉伊勢守に披露
 永禄9年1566年  上泉伊勢守より新陰流目録相伝
 天正17年1579年 柳生家憲
 慶長6年1601年  兵法百首
 慶長8年1603年  新陰流截相口伝書亊 柳生兵庫助利厳へ伝授
 慶長9年1604年  没茲味手段口伝書 柳生兵庫助利厳へ相伝
 慶長10年1605年 石舟斎没す
 元和1年1615年  武家諸法度
 

 

| | コメント (0)

2020年6月28日 (日)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の74兵法の極意に心至りなば

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の74兵法の極意に心至りなば


兵法百首
兵法能極意尓心い多りなは
      いちこ見佐本の命奈ら未し

兵法の極意に心いたいなば
      いちごみさほの命ならまし

兵法の極意に心至りなば
      一期操の命ならまし

 兵法の極意に心が至ったならば、生涯で最も大切な事であろう。

 「一期」とは、一生・一生涯。
 「操」とは、定めた意志を固く守ってかえぬこと。つねにかわらぬさま。つれないさま・平気なさま・我慢するさま。
 「命」とは、生物の生活する原動力。寿命・生命・生きている間・生涯。命の絶えること・死ぬこと。唯一のたのみ・よりどころ・もっとも大切なもの。(広辞苑より)

 この歌の解釈は、石舟斎の生きざま其のものなのだろうと思います。若き日の夢は一国一城の武将であったか、場合によっては天下取りも夢であったろう。
 然し、様々な条件が一気に崩れていく戦国末期の事、夢破れて兵法一筋に生きる決意は辛かっただろうとも思います。然し天下も徳川の時代に一気に変わり元和偃武によって世の中が治まって来ると、その中心に自分も立って居る事を認識したでしょう。
  兵法の極意を上泉伊勢守によって開眼し、新たな生き甲斐が芽生えて、この歌を読む境地になったのだろうと思います。
 兵法を突き詰めていくと無刀の境地に至り、兵法で磨き上げた心が、争いに至らない心を得て、更に大きく羽ばたいたと云えるかもしれません。

 

 

| | コメント (0)

«道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の73無刀さへ切りかねたらんその人の