2019年10月18日 (金)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合3本目

曾田本その2を読み解く
45、長州藩相伝神道無念流立居合12本12剣の業と
曾田本神道無念流立居合12本
3本目

曾田本神道無念流居合立居合
(意義)
前進中後方より敵来を呼ぶにつき二回追詰切る也
(動作)
前進中左へ振り返り右足を踏出し敵の右肘を抜打ちに切り次に左足を踏み込みて切り右足にて更に切り込む也、続いて二本目第4の如く体を転じ切り返しをなす、次に納刀。
二本目第4:両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置に置き左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ。

木村高士著長州藩相伝神道無念流居合立居合
後方切上げ、二足一刀正面打込 霞切返し 納刀。
後敵抜打 歩行中、後方より敵が我に抜刀しようとするに先駆け、右足が前に出たとき、刀の柄に右手をかけ左足を軸に後に方向転換し、右足を踏出して後敵の右肘を下方より抜付ける。(抜付の要領は一本目と同じ。)
一本目抜付:右足より三歩進めて間に入る。前敵が我に抜刀しようとするので、左足が前に出たとき(二歩目)刀の柄に右手をかけ、右足がでると同時に前方の敵の右肘を下方より逆袈裟に切上げる。右手は切手で拳は相手の肩の高さとする。
後敵打込 後退する敵を二足一刀に追って、刀は左廻りに上段に冠り正面に打込む。
霞切返し 前に同じ
二本目霞切返し:またしても敵が反撃して来る気配に一歩進めて霞に攻める。敵は我の面を打って来るので、左足を左斜め前に踏み出し、切返しのごとく敵刀を右にすり落し、刀を右から頭上に回転させ、右足を左足の後方に引くと同時に左斜上段から敵の右肩に強く袈裟に打込む。
納刀 前に同じ

神道無念流立居合3本目は敵が後ろより来て切ろうとするのを察して、左足を軸に左回りに振り返って右足を踏出して敵の右肘に下から抜き付け、敵怯んで後退するのを追って左足を踏み込み上段から切り下し、更に右足を踏み込んで上段から切り下す。敵反撃せんと上段に振り冠るので霞の構えとなって、敵打込むや霞の構えから敵刀を払い流し、同時に左足を左前に踏み込み右足を左足の後方に引き付け右肩より上段に振り冠って敵の右肩より八相(逆八相)に切り下す。
一本目二本目との違いは後方に振り向く動作と云う事になる様です。振り返って敵の右肘を切り上げ、退く敵を追い込んで二度切り下ろす際敵は体を退いて外すのでしょう、受け太刀になる動作は手附に見られません。我は空振りして上体を前に屈したりたたらを踏むことなど、無双直伝英信流の大江居合の居合道型に見られる動作は見られません。
 通常の居合の稽古でも打込む態勢は崩さず、居付かず即座に変化できる心掛けが望まれます。

| | コメント (0)

2019年10月17日 (木)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合2本目

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と
曾田本神道無念流立居合12本
2本目

曾田本神道無念流立居合12本
(意義)
敵我正面を切り来るを以て払ひ流し体を左前方に替し敵の右肩より切り下ぐ
(動作)
第1、1本目の第2動に同じ
 一本目第2:次に右手を左肩より振り冠り左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る。
第2、上段より右、左と二歩退き敵の正面を切る。
第3、左足より二歩前進し敵の正面を切る。
第4、両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ。
第5、次に納刀

木村高士先生著長州藩相伝神道無念流立居合2本目
 敵の右肩から八相に切上げ、二歩後正面打、二歩前正面打込、霞切返し、納刀
前敵抜付 前方の敵に抜付けるまでの動作は一本目に同じ
前敵打込 前進して来る敵に右、左足と二歩後退して左から上段に冠り正面を打つ。
更に、後退する敵を追って二足一刀に攻め入り正面に打込む。
霞切返し またしても敵が反撃して来る気配に一歩進めて霞に攻める。敵は我の正面を打って来るので、左足を左斜前に踏み出し、切返しのごとく敵刀を右にすり落し、刀を右から頭上に回転させ、右足を左足の後方に引くと同時に左斜め上段から敵の右肩に強く袈裟に打込む。

参考
堂本明彦編著中山善導・稲村栄一原著中山博道剣道口述集より
立居合初伝2本目
右左右で右片手で前面を左から右に水平に払い切り、左から刀を振り上げ右足を引いて諸手切り下げをなし、又右足を出して諸手切り下げをして、左霞をとって、左足を出して前面を切り払って終る。

 曽田本の神道無念流居合の2本目の意義では「敵我正面を切り来る」から始まっているのですが第1動では一本目の第2に同じだと云います。一本目の第2は、敵の右前肘を下から切り上げたのですが、敵不充分で攻め込んで来るので右足を引いて後退しながら攻め込んで来る敵の正面を切るのです。
 長州藩相伝は少しも違和感がないので、曽田先生の誤写若しくは原本の誤りでしょう。長州藩相伝に従ってここは稽古しないと業が成立しません。
 従って、第1は切上げ、第2は原本通り「上段より右、左と二歩退き敵の正面を切る」、
第3も原本通り「左足より二歩前進し敵の正面を切る」、
第4は「両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し」・・。
でしょう。そこで曾田本の不十分はこの「払流し」の技でしょう。
 長州藩相伝では「霞切返し」という神道無念流の技を要求しています。無双直伝英信流の「受流」では、真向に打込んで来る敵刀を受けるや摺り落すのですが、此処では「受」ではなく「払」の文字が使われています。
 長州藩相伝では「霞切返し」の技を学ばなければなりません。曾田本の「両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵刀を払流し」、ですから、第3で切り下ろした右足前の正面で切先を敵の咽に附け、刀刃を上にし左手を稍々高くして構える。
 敵が真向に打込んで来るので両手を頭上に上げて受払うと同時に左足を左前に踏込み、右足を左足の後方に踏み左半身となって摺り落し、同時に右肩から上段に振り冠って、長州藩相伝の「敵の右肩に強く袈裟に打込む」
 長州藩の霞の構えですが、この場合は「右霞」でしょう。「右霞とは刀柄を握った右手の甲を下に左手の甲を上にして刀刃を左にして、切先を前敵に向ける」この刀刃を上に向けるのでしょう。

参考の中山博道剣道口述集の立居合初伝2本目は、下から切り上げないで右足を踏出し水平に切り払っています、次に右足を引き切り下げ、右足を出して切り下げ、左霞をとって打ち込んで来るのを左足を出して前面を切り払う。
 ここで云う左霞の構えが判りませんが、長州藩相伝に依れば「左霞とは右手の甲を上に、左手の甲を下にして刀刃を右に向ける」とあります。
 曽田先生はこの神道無念流の立居合をどの様に解釈され、稽古されたのか興味が湧いてきます。無双直伝英信流には無い構えであり、真向に打ち込まれた時、此の構えから「左足を出して前面を切り払って終る」神道無念流の手ほどきを受けなければ、無双直伝英信流の「受流」に依って右霞から十文字受けして受け流す、自流の範囲を越えられそうもありません。
 敵の切り込みを刀の刃で請け、受け流すのは初心の頃の稽古としては良いでしょうが、体を躱して同時に切り付ける極意を要求していると理解したいものです。
 

| | コメント (0)

2019年10月16日 (水)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合1 本目

曾田本その2を読み解く
45、長州藩相伝神道無念流立居合12剣の業と
曽田本神道無念流立居合12本
1本目

曾田本神道無念流立居合1本目
(意義)
数歩前方にある敵が▢に刀を抜んとする機に先ち敵の右前肘を下方より切るも▢いて敵前進し来るを以て後退して切り更らに敵の後退するを進んで切るのであって此の時敵の倒れたるものとする。
(動作)
第1、右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此の時左手で鞘を前方に出す気持ちを加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十文字形をなし左足は右足にるれ前方に送り左足先を左踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、次に右手を左肩より振り冠り左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る
第3、更に右足一歩進め真向より正面を切る

長州藩相伝神道無念流立居合1本目
切上げ、右足後正面打、右足前正面打込、納刀
前敵抜付 右足より三歩進めて間に入る。前敵が我に抜刀しようとするので、左足が前に出た時(二歩目)刀の柄に右手をかけ、右足が出ると同時に前方の敵の右肘を下方より逆袈裟に切上げる。右手は切手で拳は相手の肩の高さとする。
前敵打込 なおも、敵は前進して来るので、切上げた右手の刀を左から大きく廻して上段に冠りながら右足を左足の後に引き敵の正面を打つ。(打つとは相手の咽の高さまで斬る。以下、参照のこと)怯んで後退する敵に右足を踏み出して正面に打込む。(打込むとは水月まで斬り下す。以下、参照のこと)

参考
「中山博道剣道口述集」堂本明彦編著 神道無念流立居合初伝1本目
自然体で左手を鯉口にかけ右手を柄につけて、左足右足で刀尖三寸まで抜き、一足大きく出て抜き付け即ち左から右に水平に切り払う(人に依って左斜め下から右斜上に切り上げる細田謙蔵先輩の如き人も居るが、これは正式ではないので注意されたい)。左足を右足につけて左から振り上げ、右足を出し左手を柄につけて諸手真向を切りおろす、刀尖は地上一尺位のところで止める。次に体を左に向け霞の構えとなって左足を出し、できるだけ水平に左から右に切り払う(これに就いても一本目は水平であるが、切り上げる事もあるので注意されたい)。納刀

参考
「中山博道剣道口述集」堂本明彦編著 神道無念流立居合上伝1本目
左足右足と出しながら三歩目に右横に左足を踏出す。勿論右足はその左足の前に踏出すので、この点練習を要する。其の間右手で徐々に抜刀し、最後、右横に体を向けた時に右片手で上から下に切りおろし、一足に踏み出しながら刃を左に返し右片手で切り上げ、左から刀を振り上げて左手を柄につけて諸手で切りおろし、納刀は初伝同様にして終る。是は最初の足取りが難しい事を考えに置いて努むる事。

参考とした初伝、上伝とも曾田本とは業としては異なるので一本目のみで業稽古を省きます、いずれ資料などが集まり稽古されておられる方がおればご指導仰ぎたいと思います。

 曽田本と長州藩相伝とは略同じでしょう、長州藩相伝の「打つはのどの高さまで斬る、打込むは水月まで斬り下す」という違いは、曽田本では「正面を切る」で何処まで振り下すのか指定されない。
 参考の初伝では「諸手真向を切りおろす、刀尖は地上一尺位のところで止める」とありますから、これは無双直伝英信流の現代居合の真向打ち下しと同じでしょう。
 上伝にも見られるのですが、「右片手で上から下へ切りおろし」です、片手真向で無双直伝英信流には無い動作です。「諸手で切りおろし」も「おろす」を解釈すれば「刀尖一尺位のところで止める」が妥当でしょう。解説は文章上では見当たりません。
 無双直伝英信流では一刀目で充分効果を出し、二刀目で止めの両断を目指して稽古するのですが、神道無念流の場合は抜打ちでは斬られても敵は怯まず、攻撃してくるのを下がりながら牽制の正面打ち、敵怯んで体勢を整え下る処に踏み込んで止めの打込み残心、納刀する。
 他流の動作を促す手附だけでは、仮想敵の状況を如何様に描くのか思いめぐらせるところです。
 自流の考え方のみで他流を思い描くことは出来ても、本質に至るには入門するなり、公開の講習会などが有れば参加して学ぶ事が必要でしょう。連盟と称して幾つもの流派を一まとめに審査したり優劣の判定をしたりしている様ですが、自流しか知らない者の審査ではどこまで正しくできることでしょう。其の為審査は連盟の制定した居合のかたちのみを対象にするのでは連盟である意味は無く連盟流になってしまいそうです。
 審査員対象は各地区にも必要なのですから、連盟に所属する各流派のポイントだけでも講習会を開くべきかと思ってしまいます。
 
 
 

 

 

| | コメント (0)

2019年10月15日 (火)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合納刀

曾田本その2を読み解く
45、長州藩相伝神道無念流立居合12剣の業と
曾田本神道無念流立居合12本
納刀

曽田本神道無念流立居合
刀の納め方
1、前の足を後足に引き付けると同時に刀を左肩に擔ぐ如く持ち来り左手は鯉口を持ち鞘を正しくす。
2、左手の拇指と食指とにて「ハバキ」の近くを挟み右手の拇指は縁金の近くを其の他の指は下より鍔及び柄を持つ
3、右足を後方に一歩引くと同時に右手を以て刀身を前下方に引き刀尖を鯉口の処に持ち来る。
4、右足を左足に引付つゝ刀身を鞘に納る。

長州藩相伝神道無念流立居合
納刀
 正眼に構えてから、切先を敵の胸元、喉元、眉間の高さにと徐々に前に大きく円を描く様に出し、残心を示しながら右足を左足に引き揃えて刀身を左肩にとり、左手は鯉口を握り僅かに鞘を引き出す。刀身は肩にとったまま鎺を鯉口を握った左手の人差指に支える。と同時に、左足を右足の後方に引き、右手の柄を前下に伸ばし刀背(みね)を引いて切先を鯉口に入れ、ゆっくりと刀身を鞘に納める。
 左足を右足に引き揃え、直立して右手を柄から放し、左手は親指を鍔にかけて当初の演武の位置に復する。なお 各業とも納刀の動作は同じであるが、逆足(左前足)で終了した場合(2,3,8,9,12本目)は左足を右足の後方に引き納刀する。

参考
堂本明彦先生編著原著は中山善道・稲村英一先生に依る「中山博道剣道口述集」から立居合初伝一本目にある納刀の仕方を稽古して見ます。
「・・最後の本数まで納刀の仕方は同じであるから、それを一括して述べて置く、術が完了した際、左足又は右足(後方にあった場合)を必ず前足につけると共に諸手で刀を自分の前に垂直に刀尖を下にしてから左肩に刀峯を付けてかつぐ様にしてから、右手を逆手に持ち変えて左手を鯉口にして刀を前から納めるのである」・・結び立ちしてから納刀迄の足捌きについて触れられていません。

 納刀なども流派に因ってと云うより道場によってなんか俺のと違うと云う事があるものです。稽古は大方師匠の口伝口授と看取り稽古に依るので師匠の癖も引き継いでしまうものです。
 曽田本神道無念流は出典が定かでは無いのですが、これも長州藩相伝とも似ている様でも足捌きが違う、タイミングも違うのです。有信館(中山博道先生の神道無念流)のとも異なるのです。
 右手を逆手に持ち変えて納刀するのは曾田本と有信館、長州藩相伝は特に触れていませんから順手の儘でしょう。
 
右足前で業を終了した場合の足捌きだけ対比してみます。
曾田本:1、右足前左足後 2、右足を左足に引揃え 3、右足を後方に引く 4、右足を左足に引付る
長州藩:1、右足前左足後 2、右足を左足に引揃え 3、左足を後方に引く 4、左足を右足に引付る
有信館:1、右足前左足後 2、左足を右足に揃え  3、記載なし     4、記載なし

 最後に切り下してからの残心も、上段に振り冠って残心、剣先を下げて左肩にかつぐ様にする、有信館の様に垂直に刀尖を下げてから左肩にかつぐなどあるので、12本一本ずつやりながら学んでみます。

| | コメント (0)

2019年10月14日 (月)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合刀礼帯刀

曾田本その2を読み解く
45、長州藩相伝神道無念流立居合12剣の業と
曾田本神道無念流立居合12本
刀礼帯刀

 曽田本その2の神道無念流立居合 帯刀
第3、右手を以て刀を体の中央前膝の線に刀背を前方にし垂直に立つ
第4、右手を以て下緒を「スゴク」如くして鐺の附近を持ち両手を以て帯刀する(此時左手の拇指を鍔の内側より前方に押し鯉口を切り食指を以て刀の抜けざる様、左外側より後方にひき鍔は概ね体の中央前にある)
第5、起立して右足より三歩後退す(起立せる時右手は自然に垂れる)
終礼の場合及脱刀
第1、右手を以て刀を脱し右腰に持ち来りつゝ蹲踞して敬礼す(開始の場合と同じ)
第2、起立して右足より三歩後退して立礼す。

 長州藩相伝神道無念流立居合 帯刀
帯刀:礼を終え、右腰の刀を右手を使って体の中央前に刃を手前に向けて立てる
 つづいて鞘の下部(鐺の上部)に左手を添え、体の中程に鍔の内側がくるよう両手をもって左腰に帯刀する。
 下緒は鞘と帯との間に上から掛けたらすか、または右腰の帯に結ぶ。
 蹲踞の姿勢から、左手の親指を帯刀の鍔にかけ、右手は自然にたれ、その場に立ち、左足から数歩後退して演武開始の位置に直立する。
 なお、終礼は始礼の逆順に行う。
 演武にあたって発声はしない。

 神道無念流の帯刀は、上座の礼の時の状況で蹲踞し上座の礼を行ったならば、無双直伝英信流の様に刀の礼をする事無く、その姿勢のまま帯刀します。
 曾田本その2は「右手を以て刀を体の中央前膝の線に刀背を前方にし垂直に立つ」、長州藩相伝でも「体の中央前に刃を手前に向けて立てる」ですから、刀の体の中央で位置は蹲踞姿勢の膝の線上ではチョット窮屈です、長州藩相伝では体の中央前ですから右手を伸ばして体の中央前に立てれば懐にゆとりもでき安定もします。
 鞘の下部は鐺の附近を以て帯刀し、帯刀した時の鍔は曽田本その2は体の中央前、長州藩相伝では「体の中程に鍔の内側賀くるよう」ですから納まった姿は同じでしょう。現在の全剣連の帯刀、夢想神傳流、英信流の幾つかの師伝にあるものです。
 大江居合を継承する無双直伝英信流居合兵法正統会では河野先生指導に依り、「柄頭が体の中央」となって小刀を差した場合を配慮しています。
 曾田本その2の帯刀の際「左手の拇指を鍔の右内側より前方に押し鯉口を切り食指を以て刀の抜けざる様、右外側より後方に引き・・」の文言のうち、「鯉口を切り」の理由、更に「食指を以て抜けざる様」の意味はあるのか、その必要性は何か疑問です。
 
 全居連にしろ全剣連にしろ帯刀の前に刀礼が付加されています。この神道無念流の場合は刀礼は手附に無い様です。

 

| | コメント (0)

2019年10月13日 (日)

曾田本その2を読み解く45長州藩相伝神道無念流居合と曾田本神道無念流居合礼式

曾田本その2を読み解く
45、長州藩相伝神道無念流立居合12剣の業と
曾田本神道無念流立居合12本
礼式

 曽田本神道無念流立居合
敬礼
1、開始の場合と帯刀
第1、右手に刀を提げ正面に対し立礼し、堤刀は刀刃を上方にし栗形の下方を持ち(此際指は鍔に掛けざるものとす)体に並行して約45度の位置にする。
第2、右足より三歩前進し、両踵を揃え蹲踞し(此際刀を右腰にし鍔を体の中心前とす左手を地につく如くして敬礼す

木村高士先生の長州藩相伝神道無念流立居合
礼式
立礼 まず刀を右手に持ち提げ(刃部を上に、下緒をたぐって栗形の上部を握る)、上座に向かって立礼する。
始礼 刀を右腰にとり、右足から演武の位置に進み、両足を揃えてその場所に蹲踞する。刀を右腰に持ったまま左手の甲を前にして指先を下座について始礼をする

 曽田本その2に曽田先生の手書きで記載されている神道無念流居合立業12本を前回までに読み解いて稽古をしてみました。
 神道無念流居合を、師匠について稽古をつけていただいたことは無いので、習い覚えた無双直伝英信流を基にして居りました、神道無念流ではその様にはしないものだと仰られる事はあるだろうことは充分承知しています。
 手元には中山善道・稲村栄一先生原著で堂本明彦先生編著の「中山博道剣道口述集」、香山会の「幽芳録」、堂本明彦先生の「中山博道有信館」を参考にしようとしたのですが、居合は「中山博道「中山博道剣道口述集」に立居合初伝伝10本と上伝
20本の手附は或るのですが、曽田本その2にある立居合12本は見当たらず、其の上運剣動作にも「一足大きく出て抜き付け即ち左から右に水辺に切り払う(人に依って左斜下から右斜上に切り上げる細田謙蔵先輩の如き人も居るが、これは正式ではないので注意されたい)」とあってどの流派でも経年による変化を認めないような書き出しがあったりして曽田先生の原本はどうやら東ではなく西にあろうかと思ってしまいました。
 神道無念流の業技法に関するものは無いかとネットで調べると、木村高士先生の長州藩相伝神道無念流居合が見つかりました、早速高額にプレミアがついたものを買い求め読んでみたのですが、神道無念流立居合12本は順番及び手附は同じ様なのですが、意義や動作の記述方法が異なります。礼式ですら部分的には異なるわけで、曽田先生の元となった資料は霞のかなたに隠れてしまいました。
 然し、大筋は変わらないと考え、此処に対比しながら稽古を仕直して見たいと思います。木村高士先生の長州藩相伝神道無念流立居合12本の手附を拝借させていただきたくお許しください。
 太平洋戦争直前の曽田先生が書き写された神道無念流立居合12本の曾田本その2の手附はこの対比によって生き返る事を信じています。無双直伝英信流を学ぶ者として他流の居合を知ることによってより深く自流を考える糸口を見つけられるかも知れないと思う次第です。
 また神道無念流を学ぶ方々の参考になれば、曽田先生の思いも伝わるのではないかと念じています。

 早速曾田本その2と長州藩相伝の比較に入ります。
 礼式の部分で赤字の部分に違いが見られます。
 右手に堤刀の際、栗形の下方を持つのが曽田本、下方を持てば指先は鍔に掛らないでしょう。栗形上部を持つのが長州藩ですがこの場合は指は鍔に届きます。鍔に手を掛ける事は戦闘意識を表すとするならば上座に向かう場合は掛けるべきではないでしょう。但し右手に堤刀ですから意識すべきかはその流の仕きたりに従うでよいのでしょう。
 ちなみに無双直伝英信流の大江居合では「場に入る時は鍔元を左手に持ち拇指にて鍔を抑へ、刃を上にして刀を下げ下座より玉座に向ひ直立体の侭刀を右手に持替へ(此時刃を後方に向け)右側に軽く接し立礼をなす。刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。」となります。正座してからは刀礼、帯刀となります。

 上座に一礼して演武の位置に歩み行くのですが曾田本は右足より三歩前進ですから、演武場への入場は下座から演武位置の三歩手前まで出場して立礼するのでしょう。
 長州藩は下座で入場の立礼をしてから演武位置まで進むのでしょう。
 演武位置で蹲踞し上座に礼をする場合の左手の所作で長州藩は左手の甲を前にして指先を下座(床・地)について、と指定しています。蹲踞した両膝の間で左手を地に着ければ自然に手の甲は前向きになります。

 神道無念流居合の読み解くでは、順序通りに記述していますが、同じ流の手附でも比較しながら進めていきますと、中々面白いものです。まして他流との対比をすると猶さらと思います。

 
 

| | コメント (0)

2019年10月12日 (土)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)12本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
12本目

(意義)
前進中敵先に抜打をなし敵の之れに応ずるを切り返し倒す也。

(動作)
第1、右足より前進二歩目左足にて刀を抜き三歩目に敵の正面を切る。
第2、切り返をなす二本目第4動に同じ。
 参考2本目第4動:両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に右手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ。
第3、納刀

 意義を読んだだけでは敵が真向に打込んで来るので、我は刀を抜き払流して八相に切ると読めるのですが動作はちょっと回りくどい。
 双方歩み寄る時、敵先に、右足出し左手で鯉口を握り、左足出す時右手で柄を握り、刀を抜き上げ上段に振り冠るや左手を柄に添え、右足を踏み込んで我が真向正面に切り下す。我も「右足より前進二歩目左足にて刀を抜き」上段に振り冠って、右足を踏み込んで「敵の正面を切る」第1動

 一刀目は間合い不十分で、敵左足を右足に引き付け上段に振り冠る、我は右足前の侭青眼に直る、敵真向より右足を踏み込んで我が正面に斬り込み来る、我は「両手で刀刃を上にし、刀刃を以て敵の刀を払流す(此の時刀尖は其の位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)や、同時に「右手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ」。第2動

 我上段に振り冠り残心を示し、剣先を下げ青眼に構え、左足を右足に「引き付ると同時に刀を左肩に擔ぐ如く持ち来り、左手は鯉口を持ち鞘を正しくす、左手の拇指と食指とにて「鎺」の近くを挟み右手の拇指は縁頭の近くを其の他の指は下より鍔及び柄を持つ。右足を後方に一歩引くと同時に右手を以て刀身を前下方に引き刀尖を鯉口の処に持ち来る、左足を右足に引付つゝ刀身を鞘に納る」第3動

 神道無念流居合12本を稽古してみました、他流の事で細部まで理解出来ているか、足裁きが逆だなどありそうです。意義に述べられて居ても動作では抜けていたり逆の場合もあったと思います。
 無双直伝英信流では、一刀目の抜き付けで勝負がつき止めの打ち下し、血振り納刀ですが、神道無念流では抜き付けでは浅い、不十分、外された、即死状況ではないのでしょう、そこから体捌き、剣捌きが続きます。
 この曽田本に掲げられた神道無念流居合12本は堂本明彦編著中山善導・稲村栄一原著の「中山博道剣道口述集」にある「立居合」初伝10本、上伝20本とは構成の仕方が違う様です。
 いずれ対比しながら神道無念流の居合を稽古して見たいものです。

 曽田先生はこの居合の手附をどの様に手に入れて曾田本その2に書き付けたのでしょう。土佐で神道無念流を遣う人が居たのでしょうか。

 Netで検索して木村高士著平成2年1990年発行の「長州藩相伝神道無念流」を手に入れました。そこには長州藩相伝神道無念流の道統は、細川家資料より起された「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流」の著者故木村栄寿範士の指導で継承されたとしています。そこには「立居合12剣の業」として曽田先生のものに相当する立居合12本が掲載されています。
 曾田本その2による神道無念流居合12本は運剣を見ながらメモをされたものを、写した様なきらいもありますが、木村高士先生の立居合12剣の業と曾田本とを対比しながらもう一度稽古を仕直して見たいと思います。剣術の運剣動作なので、木村先生の記述を私なりに変えることは憚られますので、立居合12本については、原本の侭記述させていただきます。
  

| | コメント (0)

2019年10月11日 (金)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)11本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
11本目

(意義)
大体10本目と同じなるも、敵退却せず打掛て敵に追ひ詰められ後退しつゝ敵を切り倒す也
但し最初停て居るにあらず前進中敵に出合たるものとす。

(動作)
第1、右足より前進中右足の地につくや僅かに後退して抜刀(一本目第1動に同じ)
 参考1本目第1動:右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を左踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、1本目第2第3動に同じであるが右足より後退しつゝ行くのが異て居る。
 参考1本目第2動:次に右手を左肩より振り冠り左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る。
 参考1本目第3動:更に右足一歩進め真向より正面を切る。
第3、右同
第4、10本目第4動第5動に同じ
 参考10本目第4動:次に上段にて残心を示し
 参考10本目第5動:青眼に直り納刀
第5、右同

 11本目は、「前進中敵に出合いたるもの」の意識で稽古しろと云うのでしょう。この手附は右足の裁き様が独特なのか誤記なのか無双直伝英信流の足捌きでは出来ない、繰返し稽古して納得できるまでやって見る以外にない。
 敵に出合いさりげなく右足を踏出し左手で鯉口を切り、左足を踏み出しつゝ柄を握り刀を抜き出し右足を踏み込んだが敵の攻めが強く右足を僅かに引いて前肘を下から切り上げる。第1動
 敵前肘に抜き付けられるが怯まずに打込もうとするが、我は右手を左肩より振り冠り左手を添え上段に振り冠って敵の正面を右足を一歩引いて正面を切る。第2動
 敵更に詰め寄って来るので上段に振り冠り右足を一歩引くや真向より敵の正面を切る。第3動 
 左足を一歩引いて上段に構え残心。第4動
 正眼に直り、右足を左足に引き付けつゝ刀棟を左肩に付け、左手で鯉口を握りその拇指と食指で刀の鎺元を挟み、右手を逆手に持ち替え左足を退くや柄を前に引いて、切先鯉口に至れば静かに納刀、左足を右足に引き付け終了。第5動

 ◯◯に同じとして手附を省略していますが、その省く意義は何処にあるのでしょう。たいした労力とも思えませんし、正しい伝承をしたいならば動作を書き込んでおくのが良さそうです。細切れの転写による動作ではその必要動作が抜け落ちる可能性もあります。伝承は師匠に依る口伝口授による手取り足取りが出来ないこともあり得るものです。
 
 

| | コメント (0)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)10本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
10本目

(意義)
敵に接し居る時敵刀を抜かんとするに対し動作するも敵退きたるより之れを追進めて切り倒す也

(動作)
第1、右足を踏出すと同時に抜刀敵の右前肘を切る、一本目第1動同じ
 一本目第1動:右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、左足より二歩進み正面を切る。
第3、次に青眼のまゝ突き付けながら二歩進む。
第4、次に上段にて残心を示し、
第5、青眼に直り納刀。

 敵と接している時、敵刀を抜かんとするのに対し、右足より前進し、二歩目に柄を握り、三歩目右足を踏出すや刀を抜き出し、下から敵の右前肘を切り上げ左足を右足に引き付ける。第1
 敵これを右足を引いて外し、左足を後方に引き抜刀せんとするを、我左足を踏み込み上段となるや右足を踏み込んで追い進み敵の正面に打ち下ろす。第2
 敵切られて右足を引いて間を切らんとするを、我青眼に構え敵の喉に切先を突きつけながら左足、右足と二歩前進する第3
 敵左足を引きながらくず落ちるを我、上段に振り冠り残心を示し、第4
 正眼に直り、右足を左足に引きつけ、刀棟を左肩に担ぐ様に持ち来り、左手拇指と食指を以て刀の鎺元を挟み、鞘を直し、右手を逆手に持ち替えるや左足を一歩引いて切先を鯉口に入れるや、右足を左足に引付つつ納刀す。

| | コメント (0)

2019年10月10日 (木)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)9本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
9本目

(意義)
敵の抜かんとする前肘を切るも(一本目に同じ)敵之れを弛し我胴を切り来るに対し体を躱し切り倒す也

(動作)
第1、一本目第一動に同じ
 一本目第1動:右足より前進し二本目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(この時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十文字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、上段のまゝ右足より二歩退き次に鎬を以て敵刀を下方に押へ敵我胴を切り来るを防ぐ如く刀を体の右前下方に持ち来る此の時右足を左足に引き付くる。
第3、次に青眼に直りつゝ少し前進す、此の時左足は右足につく如く送り敵を襲ふ気持なり。
第4、次に切り返しをなす2本目第4動に同じ
 2本目第4動:両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ。
第5、次に納刀

 「敵の抜かんとする」ですから、鯉口に左手がかかる瞬間から切先が鞘離れする瞬前迄を「抜かんとする」動作となるのですが、此処ではその際、我は「敵の右前肘を下より切り上ぐ」のです。従って更に進んで、右手を柄掛りした瞬間から、柄頭にて我を圧し抜き放つ瞬前迄となります。
 敵が左手を鯉口に触れるや、我も右足を踏み込みつゝ鯉口を握り鍔に拇指をあてがい、右手を柄に掛けるや左足を踏み出しつゝ柄頭を敵の右前肘に附けながら刀を抜き出し、間境を超すや右足を踏み込み刀の刃を下に返すや敵の前肘に下より切り上げる。第1動
 我が下より敵の右前肘に抜き付けるを、敵左足を引いて右足を引き付け之を外すや、我上段に振り冠り右足より左足と二歩退く、敵刀を抜き出し右足を踏み込み青眼に構えるところ、上段より刀を下げ鎬を以て敵刀を下方に押さえ、「敵我が胴を切り来るを防ぐ如く刀を体の右前下方に持ち来る」同時に我右足を左足に引き付ける。第2動
 次に、青眼に直りつつ、敵を襲う気を以て右足を稍々踏み込み左足を追い足に右足に送る。第3動
 敵、上段に振り冠り、打ち下ろすを、我青眼の構えから「刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払い流し同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み込み右足を左足の後に引き敵の右肩より(逆)八相に切下ぐ」第4動
 その足の位置で青眼となって残心、左足を右足に引き付けつつ刀の棟を右肩に運び、左手を鯉口に添え拇指と食指で刀の鎺元を挟み、右手を逆手に返し左足を後方に一歩引くと同時に右手を以て刀身を前下方に引き刀尖を鯉口の処に持ち来る、左足を右足に引き付けつゝ刀身を鞘に納める。第5動

 敵の動作が記載されていませんので、状況に合わせ組み立てて見ました。納刀は左足前の状況で、納めましたが、左足を右足に引き付け、右足を引いて刀を左肩に担ぎ、左足を引いて刀尖を鯉口に持ち来り、左足を右足に引き付けつつ納刀の納める。

 

| | コメント (0)

2019年10月 9日 (水)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)8本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
8本目

(意義)
勉めて敵に接して抜打するも敵後退するにより追詰めて切倒すなり。

(動作)
第1、其場にて抜刀右足一歩出し正面を切る
第2、左足より二歩前進して切る
第3、二本目第4動の如く切り返し
 二本目第4動:両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切り下ぐ
第4、納刀
*
 この8本目も抜けが有って解りずらいのですが、対敵は正面から歩み来て我はその場で「勉めて敵に接し」て、抜き打つのか、双方歩み行く時「勉めて敵に接し」間に至るのでしょう。
 稽古では左足前右足爪先を左足土踏まず附近に置き、その場で右足を踏み込み横一線に「抜打」する、あるいは上に抜き上げ上段に振り冠って敵の正面に「抜打」する。
 次に、敵引く処左足を踏み込み上段に振り冠右足を踏み込んで真向に切り下す。
 切下すや敵の反撃を受けて、切り下ろした切先を残し「その位置にて」刀刃を上に向け左拳(左柄手)を切先より稍々高くして下から払い上げる様に受け流し、「左手を中心に」右肩より振り冠つゝ「左足を左前に踏み右足を左足の後に引き」逆八相となって「敵の右肩より八相(逆八相)に切り下げる。
 剣尖を青眼に戻し残心、左足を引いて右足に踏み揃え刀の棟を左肩に添え、左手を鯉口に執り刀の鍔元を拇指と人差し指で挟み、右手を逆手に持ち替えると同時に右足を引いて、刀を斜め右前に引き切先が鯉口に入るや刀を鞘に納めつつ右足を左足に踏み揃えて納刀す。
 ちょっと違うかな、英信流っぽくなったかもしれません。

| | コメント (0)

2019年10月 8日 (火)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)7本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
7本目

(意義)
前方右方の敵に対する動作(六本目に同じ)

(動作)
6本目と替ることなし、左方と右方との異なるのみ。

 右方の敵と左方の敵との違いだと云うのですから、6本目の動作を基に7本目を作成しなければなりません。武術の手附には往々にしてこの様な省略が当たり前の様に書かれるのですが、後世の者はそれを基に文章を作成せざるを得ないのです。古伝の真似を現代でもするべきとも思えません。
 きちんと書いておくぐらいの気ずかいはすべきでしょう。誤って伝えられることも考えておくべきです。
 6本目の左敵を右の敵に替えて曾田本その2の手順で手附を作ります。
(意義)
前方右方の敵に対するも右方の敵、最初我に近寄り過ぎた為めに進出して切ること能わず、従て其場に於て切り、次で敵後に倒るゝを以て其侭進んで残心を示す。
(動作)
第1、一本目第1動に同じ:右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十文字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、左足を軸とし右向となり右正面を切る。
第3、次に左足を右足に揃へ上段となり左足にて切る。
第4、次に中段の侭右足より二歩進み。
第5、上段の残心を示し。
第6、青眼に直り納刀

 第2動では右足前で右敵を切る、第3動で右足に左足を送り左足を踏み込んで右敵を再度切る、第4動では右足左足と二歩進み第5動で左足前の侭上段となり残心、第6動でその足のまま切先を下げ青眼となり、左足を退くと同時に切先を上げて左肩に刀の棟を当て、右足を引いて納刀、右足を左足に踏み揃える。

| | コメント (0)

2019年10月 7日 (月)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)6本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
6本目

(意義)
前方左方の敵に対するも左方の敵、、最初我に近寄り過ぎた為めに進出して切ること能わず、従て其場に於て切り、次で敵後に倒るゝを以て其侭進んで残心を示す。
(動作)
第1、一本目第一動に同じ
 一本目第一動:右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀、(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜にして十字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、右足を軸とし左向きとなり左正面を切る。
第3、次に右足を左足に揃へ上段となり右足にて切る。
第4、次に中段の侭左足より二歩進み
第5、上段の残心を示し
第6、青眼に直り納刀

 文章に抜けが有って意味が通じない、というより表現力の低さなのか、他流に容易に判読されない様にしたのか解りませんが難問です。前方及び左方の敵に対する攻防で、先ず、前方の敵に右足より進み鯉口を握り、左足を踏み出し柄に手を掛け刀を抜き出し右足を踏み込んで前方の敵の右前肘を下から抜き付ける。(第1動)
 左方の敵は我に近寄り過ぎたために、踏み込んで切る事が出来ない、従って我は踏み出した右足に左足を引き付け右足を軸に左向きとなって左足を引いて上段から左敵の正面を切り下ろす。(第2動)
 次に右足を引いて左足に踏み揃え左足を引いて再び左敵の真向に上段より斬り下す。(第3動)

 ◉此の時正面の敵は右前肘を切られているが命に別条がない筈なので、正面の敵に切り下すことも想像したのですが、此処では、正面を再び斬る動作を要求されていない為、左敵に再度真向から斬り下しています。
 次に左向きの侭、切り下ろした中段のまま左足より二歩進み(第4動)、上段に構え残心を示し(第5動)、青眼に直り納刀(第6動)。

 曽田先生の写された神道無念流の6本目には、何故接近し過ぎた相手を斬るのに後ろに退きながら斬る動作が示されていないのでしょう。第2、第3ともに文章不十分です。曽田先生の看取り稽古に依るメモなのか、神道無念流を演じる誰かのメモなのか疑問です。

 

| | コメント (0)

2019年10月 6日 (日)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)5本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
5本目

(意義)
前右左の敵に対する動作なり

(動作)
第1、一本目一動に同じ
  一本目一動:右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方へ振り上げ上体を左斜にして十時形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右足に接する如くする)敵の右前肘を下より切り上ぐ。
第2、左足を軸とし右の敵の正面を切る。
第3、左足を軸とし廻れ左をなして右足を一歩出して左の敵の正面を切る、納刀。

 前右左に敵に囲まれた場合の動作で、此処では敵が抜刀して斬り込んで来る場合とも、帯刀して今にも抜かんとしているとも言って居ません。
 敵に向かって右足から前進し左手で鯉口を切り、左足を出す時右手で柄を握り、左手で鞘を前方に出す気持ちで送り鞘を後方に振り上げ、右足を踏出すと同時に敵の右前肘を下より切り上げ左足を右足踵に継ぎ刀は肩の高さで止める。
 左右の敵も並行して間を取って来るので、先ず右敵に向かって刀を左肩から上段に振り冠り、左足を軸に右に廻って右敵の正面に斬り下す。次に左敵に振り返り、左足を軸に左敵に振り向きつつ右肩から上段に振り冠り、右足を踏み込み左敵の真向正面に斬り下し、納刀。

 この業は、まず前の敵を倒してから右の敵左の敵を順次倒していくわけで、英信流の心得には無いでしょうが、その運剣動作を以て稽古出来そうです。
 左右の敵を倒してから前の敵に斬り付けるにしても、まず前敵を牽制して実施すべきで参考になります。

 

| | コメント (0)

2019年10月 5日 (土)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)4本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
4本目

(意義)
前進中敵後より来り鐺を取られ続いて前方よりも敵切り掛り来るのに対する動作なり

(動作)
第1、右足より前進中左足にて上体を前に懸け右手にて刀柄を下より握り(此の握り方は拇指は上方にその他の指は下方にす)、腰を左方に廻し刀を抜く。
第2、上体を其侭とし左上膊の左側に刀刃を左斜上方にして後方の敵を刺す。
第3、柄に左手を添へ刀刃上方に刀尖を前方に向け踏み出して前方の敵を刺す左足を送る也。
第4、右足を後に引くと同時に刀を右脇に刀身を水平にして後方の敵を刺す。
第5、柄を持ち替え右足を一歩出して正面を切る。
第6、左足を軸とし左に廻り右足より一歩進み後方の敵の正面を切り納刀。

 前進中、敵が後ろより来て鐺を取られたので、鯉口を左手で握り鍔に手を掛けるや、左足を前に踏み出し上体をやや前懸りにしながら右手の拇指を上にその他の指を下にして逆手に柄を握り、腰を左に廻し刀を抜くや、上体は前を向いたまま、左上膊部の外側(左側)に刀刃を左斜め上に向け後方の敵を刺突する。
 続いて右手は其のままに、左手を柄に添え、刀尖を下から前方に向け刀刃を上向け右手は逆手のまま、右足を踏み込み同時に前方の敵を刺突するや左足を右足に引き付ける。
 更に右手は逆手のまま、右足を後方に引くと同時に右脇に刃を右向に水平にし、刀棟を右脇に引き付け後方の敵を再度刺突する。
 右手を順手に持ち替え、上段に振り冠り右足を一歩踏み込んで前面の敵の正面に斬り付ける。
 左足を軸として左廻りに後方に振り返り上段に振り冠って右足を一歩踏み込み後方の敵の正面に斬り下す。
 納刀。

 鐺をつかんだ後ろの敵は左からと右からと二度刺突され、最後は正面から切り下される。前面の敵は一度刺突され、真向から斬られるわけです。
 此の業も居合抜した後は所謂刀を抜いての攻防ですが、居合らしく、刀同士の打ち合いの無い手際のよい斬撃を要求しているのでしょう。
 英信流に無い逆手抜刀による左後方の刺突、逆手に依る前方の刺突、逆手に依る右後方の刺突、稽古して置きたい業の一つです。 

| | コメント (0)

2019年10月 4日 (金)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)3本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
3本目

(意義)前進中後方より敵来を呼ぶにつき二四追詰め切るなり
(動作)前進中左へ振り返り右足を踏出し敵の右肘を抜打に切り 次に左足を踏み込みて切り 右足にて更に切り込む也 続いて二本目第四の如く体を転じ切り返しをなす 次に納刀

二本目第四の動作:両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつつ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切下ぐ。

 前進中敵が後ろから来て呼ぶので左から振り返って右足を踏出し、斬り込んで来る敵の右肘を下から抜き打ちに斬り上げる、左足を踏み込んで真甲から斬り下し、更に右足を踏み込んで真向に切り込む、其の体勢の儘敵が真向から斬り込んで来るのを刀刃を返して上に向け、敵の刀を払い流すと同時に左足を左前に踏み込み右足を左足の後方に引き刀を右肩より冠って逆八相から敵の右肩に斬り下す。
 
神道無念流の居合は「抜打に切り 次に左足を踏み込みて切り 右足にて更に切り込む」と同じ切り込みを繰返します。その理合は其の流によるものでしょう。英信流ならば「敵の右肘を抜き打ちに切り、左足を踏み込んで真向より斬り下し勝つ」で終わってしまう、神道無念流では抜き付けた後に運剣を稽古させて居合と剣術(剣道)を混在させている様です。

抜打ちの際下から切り上げず、敵の右小手に英信流の稲妻の様な抜き付けるもありでしょう。
赤字二四と読めましたが意味不明です、読み違いかも知れません。

| | コメント (0)

2019年10月 3日 (木)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)2本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流居合(立居合12本)
2本目

(意義)
敵我正面を切り来るを以て払ひ流し体を左前方に替し敵の右肩を切り下ぐ。

(動作)
第1、1本目の第2動に同じ(1本目の第2動:次に右手を左肩より振り冠り左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る)
第2、上段より右、左と二歩退き敵の正面を切る。
第3、左足より二歩前進し敵の正面を切る
第4、両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払流し(此の時刀尖は其位置にて左拳を刀尖より稍上ぐ)同時に左手を中心に右肩より冠りつゝ左足を左前に踏み右足を左足の後に引き敵の右肩より八相に切り下ぐ。
第5、納刀。

 この手附は、解りにくい書き方をしています。(意義)だけ読めば「敵が正面より切って来るので、右足を左前に踏み込んで抜き請けに払い流し、逆ハ相に振り被って左足を踏み込み右足を引いて敵の右肩を逆八相に切り下げる」と動作をつければ出来るはずです。敵の動作も書き込みは「敵我正面より切り来る」だけですから、敵が我が正面に上段から切り込んで来るわけです。
 然し、(動作)の第1を読むと1本目の第2動に同じと云うので混乱します。そこで、今ある手附は1本目と2本目だけですからこの2本の業を使って2本目を稽古して見ます。それが神道無念流の立居合2本目と異なっても仕方が無いことでしょう。
A、第1動、第2動は1本目を初動として稽古する。
1、右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀、敵の打ち込まんと上段より斬り下ろさんとする右前肘を下より切り上げる。
2、次に右手を左肩より振り冠左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る。
3、右足を引いて上段に振り冠り左足を引くと同時に敵の正面を切る。
4、左足を踏み込みつつ上段に振り冠って、右足を踏み込み敵の正面を切る。
5、同体の儘両手で刀刃を上にし刀刃を以て敵の刀を払い流し、同時に左手を中心に左肩より逆八相に振り冠つつ、左足を左前に踏み込み右足を左足の後に引き敵の右肩より逆八相に切り下ぐ。
6、納刀は左足を右足に引き付けると同時に刀を左肩に擔ぐ如く持ち来り、左手は鯉口を持ち鞘の刃側を上に向ける。左手の拇指と食指とにて「鎺」の近くを挟み、右手を返して拇指は縁頭の近くをその他の指は下より鍔及び柄を持つ。
 左足を後方に一歩引くと同時に右手を以て刀身を前下に引き刀尖を鯉口の処に持ち来る。右足を左足に引付つゝ刀身を鞘に納める。
B、1本目の第2動の動作で敵の切り込みを外し抜き打つ。
1、右足より前進し、左右と出た時敵が真向に切り込んで来るので、刀を上に抜き上げ右足を一歩引き敵刀に空を切らせ、同時に右手を右肩より振り冠り、左手を柄に添へ敵の正面を切る。
2.上段に冠りつつ右足を引き、左足を引くと同時に敵の正面を切る。
3、左足より上段に振り冠りつつ前進し、右足を踏み込んで敵の正面を切る。
4、同体に儘(切り下ろした切先を下段に遺したまま)両手で刀刃を上に向け正面に向け打ち込んで来る敵刀を払い流し、同時に左手を中心に左肩より逆八相に振り冠りつつ、左足を左前に踏み込み右足を左足の後方に引き敵の右肩より逆八相に切り下ぐ。
5、納刀(同じ)

| | コメント (0)

2019年10月 2日 (水)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の2神道無念流(立居合12本)1本目

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の2神道無念流(立居合12本)
1本目

(意義)数歩前方にある敵が将に刀を抜かんとする機に先じ敵の右前肘を下方より切るも続いて敵前進し来るを以て後退して切り更らに敵の後退するを進んで切るのであって此の時敵の倒れたるものとす。

(動作)
第1、右足より前進し二歩目左足にて柄を握り三歩目右足を出すと同時に抜刀(此時左手で鞘を前方に出す気持を加へ後方に振り上げ上体を左斜めにして十字形をなし左足は右足につれ前方に送り左足先を右踵に接する如くする)敵の右前肘を下より切りあぐ。
第2、次に右手を左肩より振り冠り左手を添へ右足を一歩引き敵の正面を切る。
第3、更に右足一歩進め真向より正面を切る。
第4、納刀

 前進しつつ下より切り上げ、退きながら真向に切り下し、再び前進して真向に切り下す業です、中山博道先生の有信館でも稽古されていたのかどうか、そこでは立居合の初伝1本目は、堂本明彦編著による原著者は中山善道、稲村栄一による「中山博道剣道口述集」に依れば以下の様です。
 「自然体で左手を鯉口にかけ右手を柄につけて、左足右足で刀尖三寸まで抜き、一足大きく出て抜き付け即ち左から右に水平に切り払う(人に依って左斜下から右斜上に切り上げる細田謙蔵先輩の如き人も居るが、これは正式ではないので注意されたい)。
 左足を右足につけて左から振り上げ、右足を出し左手を柄につけて諸手真向を切りおろす。刀尖は地上一尺位のところで止める。次に体を左に向け霞の構えとなって左足を出し、出来るだけ水平に左から右に切り払う(これに就いても一本目は水平であるが、切り上げる事もあるので注意されたい)。」
 これでは、まず足運びが左右左で左から右へ水平の抜きつけ、踏み出した左足を右足に引き付けつつ左から上段に振り冠って、右足を出して諸手で真向に切り下ろす。更に体を左に向けて逆横霞に構えて左足を踏み込んで左から右に水平に切り払う。となりそうです。これでは曾田本とかけ離れてしまいそうです。
 
 口述集の初伝1本目は、「右左右で右片手で前面を左から右に水平に払い切り、左から刀を振り上げ右足を引いて諸手切り下げをなし、又右足を出して諸手切り下げをして、左霞をとって、左足を出して前面を斬り払って終る」
 此の方が一刀目は水平切りですが、二刀目、三刀目は曾田本に同じ動作になりそうです。四刀目はオマケです。神道無念流の切り上げが見たい、更に口述集の頁を繰ってみます。

 上伝の2本目、「左足を静かに出しながら右手で静かに三分の二位抜刀し、右足を大きく前に出すと共に右片手で左から右に切り上げる(この切り上げは斜切りと称する。後から又出てくるので覚えて置く事)左足を右足に揃え、刀を左から振り上げて、右回りしながら右足左足と送り込んで諸手切り下げをなし、其のままの体位で右霞をとって右足を踏み込み、右斜下から左斜上に切り上げて終る。」
 一刀目に切り上げが出て来たのですが、それ以降は別物です。曽田本の神道無念流の居合は有信館に伝わった居合では無さそうです。

 其の流派の業は、其の流派の中で当たり前とする、約束事例えば構や、動作の方法を知らない者にはその流の手附からだけでは演じられないものです。従ってその流の心持ちなど口伝に依ることなど他流では読み取ることは難しでしょう。従って連盟の制定した形をもって優劣をつけようとするのが現今の考え方と思います。是では500年も伝承されてきた流派の奥義の業と心を失念してしまい居合踊りになってしまいそうです。流派の免許皆伝より連盟の段位を優位に思っておられる居合人の何と多いことでしょう。
 堂本明彦氏の「中山博道有信館」平成5年1993年発行をめくりながら、博道先生の神道無念流を振り返って居る時こんな一文に出合ってしまいました。
 有信館の進級試験の後の懇親会の一席での事「当時の道場の気分はつまりはかくのごとくで、いまどきのように剣道の理念は人間形成であるなどとうたいあげ、それはたしかに結構な事だが、おかげで段位が人よりも上ならば人格もまた人より優れていると、いつのまにか思いこんでしまうようなおかしな風潮はまだはびこっておらず、その意味ではニセモノがいなかった。つけ焼き刃の浅薄な精神訓話を垂れてしたり顔する剣道家が巷に増え始めたのがいつ頃なのか、もっと調べてみないとわからない。」思いつくままに、余談です。

 全居連の刀法三本目切上げの元になった業は神道無念流にあるとされています。
切上げ:「剣理:敵が真向上段に抜き上げて仕懸けんとするを、我れ其の右腋つぼ(腋窩)に下から斬り上げ、直ちに双手上段から敵の左袈裟に斬りおろして勝つ意也」池田聖昂著全日本居合道刀法解説より。全日本居合道連盟全日本居合道刀法昭和31年1956年10月7日制定、昭和52年1979年5月1日配布の「切上げ」と同文。

| | コメント (0)

2019年10月 1日 (火)

曾田本その2を読み解く44神道無念流居合44の1敬礼

曾田本その2を読み解く
44、神道無念流居合
44の1敬礼

敬礼
1、開始の場合と帯刀
第1、右手に刀を堤げ正面に対し立礼し、堤刀は刀刃を上方にし栗形の下方を持ち(此際指は鍔にかけざるものとす)体に並行して約45度の位置にする。
第2、右足より三歩前進し、両踵を揃へ蹲踞し(此際刀を右腰にし鍔を体の中心前とす)左手を地につく如くして敬礼す。
第3、右手を以て刀を体の中央前膝の線に刀背を前方にし垂直に立つ。
第4、左手を以て下緒を「スゴク」如くして鐺の附近を持ち両手を以て帯刀する(この時左手の拇指を鍔の右内側より前方に押し鯉口を切り食指を以て刀の抜けざる様、左外側より後方にひき鍔は概ね体の中央前にある)
第5、起立して右足より三歩後退す(起立せる時右手は自然に垂れる)

2、終止の場合の脱刀
第1、右手を以て刀を脱し大腰に持ち来たって蹲踞して敬礼す(開始の場合と同じ)。
第2、起立して右足より三歩後退して立礼す。

刀の納め方
1、前の足を後足に引き付ると同時に刀を左肩に擔ぐ如く持ち来り左手は鯉口を持ち鞘を正しくす。
2、左手の拇指と食指とにて「はばき」の近くを挟み右手の拇指は縁頭の近くを其の他の指は下より鍔及柄を持つ
3、左足を後方に一歩引くと同時に右手を以て刀身を前下方に引き刀尖を鯉口の処に持ち来る。
4、右足を左足に引付つゝ刀身を鞘に納る。


 神道無念流の居合の手附を何処から手に入れたのでしょう、土佐の居合とどの様に関連付けてこの手附を曽田本その2に書き加えられたのか分かりません。
 単純に貴重な資料を手に入れたので覚書として書き留めて置いたのかも知れません。土佐の居合との違いを研究してより磨きをかけようとされたかもしれません。
  土佐の居合も谷村派だ下村派だとかその違いがよくわからないまま語られ、最近は大江先生以後の宗家筋に異論を持つのか分派が林立し、更に連れ立って何とか連盟などと云う意味不明の集合体を作ったりしています。大江居合に過ぎないくせに、業技法の形程度のことで分派するなど愚かなもので、そこそこ稽古を重ねれば一人一人の考え方や癖は強く出て来るものです。分派に至るのは業技法の考え方よりも宗家だ代表だと云う権威を手に入れた者が、箸の上げ下げ迄俺に従えと云う権力者になった様に錯覚し、共に歩んできた仲間を排除しようとしたり、無理やり自分の形に押し込めようとする事が原因かもしれません。小さな井戸の中で居場所を争って自己満足に浸っているようなものでしょう。
 分り合う事もせず一方的では嫌気もさすでしょう。異論を唱えられると権力者は暴力的になるものです。
 本物を求める意識も知恵もなく、まして年を取って自己主張ばかり強くなると、どうでもいいと投げやりになるかが目立ちます。話し合い理解し合う事を怠る、怠け者の集団の分裂に過ぎない様に思えて仕方が有りません。
 曽田先生は自流の本道を知ってしまったのですから、当然他流の研究も芽生えて来たのかも知れません。

 神道無念流も地域道場によっては、業技法が違う事もあり得るでしょう。神道無念流は夢想神傳流の育ての親中山博道先生の剣術であったと記憶しています。そこで中山博道先生の神道無念流居合に関する書籍から訪ねたのですが、曾田本その2の居合とは聊か抜方が違っています。
 神道無念流は信州飯綱権現で活眼して始祖となった福井平右衛門より始まると聞いています。享保20年1735年の事だそうです。
 敬礼および納刀法は大江居合とは異なりますが、文章を忠実に実行すれば簡単に出来てしまいますので解説は省略します。

 但し、納刀の方法については「前の足を後足に引き付ると同時に刀を左肩に擔ぐ如く持ち来る」は中山博道口述集の立居合初伝では「左足又は右足(後方に在った場合)を必ず前足につけると共に、諸手で刀を自分の前に垂直に刀尖を下にしてから左肩に刀峯を付けてかつぐ様にして、右手を逆手に持ち変えて左手を鯉口にして刀を前から納めるのである」と解説されています。
 「右手の拇指は縁頭の近くをその他の指は下より鍔及び柄を持つ」の文章とは少々違和感があります。が逆手には違いありません。抜けている部分を自分の力量の範囲で補うのも古伝を研究するのに役に立ちますが、やり過ぎは別のものになってしまいます。
 居合に就いては一本ずつ稽古して見たいと思います。

 

| | コメント (0)

2019年9月30日 (月)

曾田本その2を読み解く43直心影流兵法目録次第

曾田本その2を読み解く
43、直心影流兵法目録次第

八相 發 破
一刀両断
右轉左轉
長短一味
龍尾 左右
面影 左右
銕破(てっぱ、くろがねやぶり)進退
松風 左右
早船 左右
曲尺
圓連 刀連 體連

  右口傳

1 陰之搆之事
1 陽之搆之事
1 相搆之事
1 相心之事
1 目付之事
1 仕懸之事
1 手之内之事
1 横一文字之事
1 竪一文字之事
1 留三段之事
1 體當之事
1 太刀當之事
1 切落之事
1 吟味之事
1 相尺之事
  
  右口傳

Img_0709
 功妙剱 口傳
 心妙剱 口傳
 気當  口傳
 権體勇 不行 不帰 不正 口傳
 西江水 口傳
 惣體之〆 口傳
 口上極意之事 口傳
 不立之勝 口傳
 十悪非時 口傳

 カマン カシン トンヨク イカリ ヲソレ アヤフミ ウタガイ アナスリ マンシン
 (我慢 過信 貪欲 怒り 懼れ 危み 疑い 侮り 慢心 ならん曽田メモ)

◎勝と云うは先々先に後能勝は また先々に先後先後と
◎右左後も前も一致して天地万物同根一空
◎書渡し口に伝ふることの葉の常の心に持てばたん連舞(鍛錬)
 右の首 口傳

 以上

右條々極意者有口傳以理為実以実為理也 愈工夫鍛錬二六時中無急慢御勉可為肝要者也 先師杉本(松本)氏目録之旨趣雖為奥義 今足下数年有信仰而二六時中依被勵懇精 不残一塵授之 彌抽丹誠此道有 切磋琢磨工夫可被鍛錬 而猶心妙不測之所免状之時可顕之者也

鹿嶋神傳元祖
杉本備前守藤原正元 (武術叢書には「松本正元」とあり写違ひなりや)
上泉伊勢守藤原秀綱
奥山休賀齊平公▢
小笠原源信斎源長治 (同 玄信齊とあり)
神谷僧心斎平真光
富樫直翁齊源重治
山田一同齊藤原光徳
長沼四郎世然尉藤原▢郷
長沼活然齊藤原▢郷
藤川弥四郎右衛門尉原近義
藤川源郎四郎藤原近徳
藤川弥八郎藤原近▢
藤川弥四郎右衛門藤原 貞
酒井良佑源成大
橘慎吾右衛門橘
天保13壬寅年10月吉日
渋谷小四郎殿 参
Dsc06789


 直心影流兵法目録次第ですが、曽田本その2に何故他流の目録を挿入させたのでしょう。この目録のメモの筆記者は曽田先生ではない様に思われる書体のものです。文字が判らずに▢の部分が幾つも出てしまいました。

 右の條々極意は口伝に有り、利を以て実と為し実を以て理と為す也 いよいよ工夫鍛錬二六時中怠慢無くお勉め肝要なるべきもの也 先師杉本氏(松本氏)目録の旨趣奥義なると雖も 今足下数年信実深く仰ぎてあるとも二六時中懇精に勵まれるに依り一塵残らず之を授く いよいよ丹誠を抽し 此の道切磋琢磨工夫鍛錬あって猶心妙不足の所 免状の時顕わるべきものなり。

 恥ずかしながら読み切れませんが、各條々は口伝に依る極意なので工夫鍛錬怠らず行って実理を得ることが肝要だ。切磋琢磨工夫して鍛錬して居れば心の足らざる所も免状に価するようになる。と言っているのかも知れません。

 直心影流の目録には柳生新陰流と同じような文言が幾つか見られました。一刀両断、右転左転、長短一味などですが他流の事なので深追いは出来ません。
 曽田先生は大正4年発行の早川順三郎による「武術叢書」を片手に手に入れた資料をチェックしている様で、この直心影流兵法目録も見ている様です。
 参考とさせていただいた資料は山田次郎吉先生の昭和12年1937年発行「剣道極意義解」に依ります。曽田本その2の直心影流兵法目録次第は別の資料によるかも知れません。
 

 

 

| | コメント (0)

2019年9月29日 (日)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の5だまし打ち

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑
質問を受けたる事項次の如し
42の5だまし打ち

2、居合は本来の目的よりして剣道の所謂先々の先にあらずして先又は后の先の一刀と信じますが、上意抜打は別とし(之とて上意と呼びてなすと▢る)一切敵を「だまし」打にする事は無之と信じますが、立膝の岩浪に於て左に向き右足にてトンと踏みたる時敵ハッと右に振りたる其の胸(又はのど)をさすと説くは丁度之にては「ダマシ」打の教あり。本業の正しき祥義を是非御教示の程御願申上益。
 解説「正面より我刀柄を取り押えんとするにより、我先に廻り柄を右によじて刀を抜き敵を突くの技にて決して「だまし打」にてあらず、尚突く時足を「とん」と踏むは突く刀勢を添ふるものなるにより(又一説には敵我刀を押えんとする其柄を踏む心持ありと)音をせずして突くもあること心懸くべし」。


 この河野先生の質問には、人を武器によって殺傷する事の根本的な問題提起が為されています。武術の行使をすると云う事は、人のコミュニケーションの最終手段である事と、単なる真剣勝負との区別もつかないようでは[だまし打ち」程度の言葉遊びが出てしまうのでしょう。

 土佐の居合の古伝には神妙剣の教えが語られていました、すでに曽田本その1で紹介済みですが、ここで再び神妙剣を登場してもらいます。
 「神妙剣:深き習いに至りては実は事(業)無し常に住座臥に之有る事にして二六時中忘れて叶わざる事なり、彼れ怒の色見ゆるときは直に是を知って怒を抑えへしむるの叡智(頓智?)あり、唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に致らしめずして勝を得る也。去りながら我臆して誤り(謝り)て居る事と心得る時は大に相違する也、兎角して彼に負けざるの道也。止事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も死なずの道なり。
 亦我が誤りも曲げて勝には非ず、誤るべき筋なれば直に誤る(謝る)も勝也。
 彼が気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也。委しくは書面にあらわし尽くし難し、心覚えの為に其の端を記置く也。」
 古伝の最終章はこの一文に尽きています。剣道や柔道、相撲などの勝負事で、力と速さの身に頼るのは若い時の事、いずれ体力の衰えによって若者にコロコロ負かされて、悔やんでみても意味のない事です。いかに年をとっても負けないのが武術でなければ生涯修錬する意味など無いに等しいものです。
 古流剣術に秘められている奥義は現代居合による「だまし打ち」は無いと信ずる程度の「安易なうそ」では得られる訳は無いでしょう。

 

| | コメント (0)

2019年9月28日 (土)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の4林崎先生

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より
42の4質問を受けたる事項

1、林崎先生

1、A 林崎先生は北条泰時第二子説。B 宗時▢▢説。C 足利末期説の三説有之様にて私は▢見的研究の結果、A、B、両説は単なる伝説の様考へられ、小冊子には、足利末期説をとり、足利13代義輝の頃(永禄、元亀)と致して居りますが当研究▢▢▢ます

◎先生(虎彦を指す)の御説の秀吉御学被成云々より致しましても足利末期説を其とするに足る様考へられます
◎北条五代時頼より秀吉迠340年
◎三代泰時ー秀吉迠360年
◎足利五代義量ー秀吉迠160年
◎足利末期十三代義輝より秀吉迠は37年にて何れよりするも足利末期説確かの様ですが如何でせうか。

1、(大森流始祖は大森六郎左衛門との御説に依り確信を得まして心より感謝致します)
 A 就きましては其時代(九代林六太夫先生)迠は正坐大森流はなく、
 B 長谷川流の立膝は英信の初めたものとすれば英信以前には立膝及び正座は無き訳ですが無双神傳流として林崎より伝来せしものは(現今の業を以て称へば)今の奥居合の居業立業のみであったのですか。
結論
1、奥居合の居業、立業は林崎先生以来伝来今日に至る。
2、立膝は英信に始る。
3、正座は(始祖大森六郎左衛門)にて九代林先生の頃より始まる。と見て差支無いでせうか。

◎然して現今大森流を(九代以来)附属せしめて之を無双直伝英信流と称すとして差支へ無之▢(候)也。

 河野先生の曽田先生への質疑は、疑問に思った事の抜粋の様な書き方なので、その謂れが見えません、突然林崎甚助重信の存命した時代を北条泰時の第二子説から始まっています。
 北条泰時は鎌倉幕府の執権ですから元久2年1205年源実朝時代の執権で元久2年から仁治2年1240年まで勤めています。北条時宗は文永5年1268年から弘安6年1283年の期間の執権となります。
  足利時代は延元3年1338年足利尊氏が将軍となり天正元年1573年足利義昭が織田信長に追放されて足利幕府が消滅する迄続いています。
 秀吉の時代は天正10年1582年織田信長が明智光秀に本能寺で攻められ滅ぼされ、豊臣秀吉として関白となったのは3年後の天正13年1586年です。慶長3年1598年に死没し、5年後の慶長8年1603年には徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いて居ます。
 どの様な、資料から鎌倉時代まで林崎甚助重信の生まれを辿ったのか、昭和の初めには様々な、嘘が飛び交ったのかも知れません。結局何を根拠としたか不明ですが、足利末期の人とされたのでしょう。
 林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年1991年発行では重信の生年については「重信の生年については諸説があり確説は無い。参考に文献に記されたものを書いてみよう。」とされています。
 天文11年1542年 林崎明神霊験記
 天文11年1542年 東邦新聞史談
 天文11年1542年 居合神社記
 天文17年1584年か天文13年1544年 武術太白成伝
 天文2年1533年か享禄4年1531年 増補大改訂武芸流派大事典
 明治20年の林崎明神霊験記の著者林多少氏は、代々の別当家であるので、天文11年生まれは口碑として伝承されていたものであろう。とされ、武術太白伝および武芸流派大事典は生歿に不合理で疑問とされています。
 同書の略年表では天文11年林崎甚助重信生誕、幼名民治丸とされています。
 足利末期説で良いのですが足利義輝ではなく足利義晴の時代となります。恐らく、河野先生は、武術太白伝辺りを資料とされたのでしょう。
 
 就ましては、以降の業項目の整理については大江先生も、河野先生も、現今の無双直伝英信流居合兵法では明確な成り立ちの教授はされていない様です。
 大森流は大森六郎左衛門の居合を第9代林六太夫守政によって附属せしめた事も、大江居合の正座之部として稽古されているばかりでその経緯さえ明確に示されていません。
 立膝之部も同様ですが、この立膝之部が長谷川英信によって創作されたと云う明確な資料は見当たらず、英信がどのように優れた人で本来無雙神傳林崎流と云うべきを無雙神傳英信流と云うと古伝神傳流秘書にも記されている程度のものです。
 現今の無双直伝英信流の流名呼称の名付けの由来も大江先生に依る程度の事で不明瞭です。まして正座之部、立膝之部、奥居合之部の業の関連性やそれぞれの部との武術的違いなどの明確性も不十分です。
 次いでですが、正座の部一本目前と立膝之部一本目横雲の違いを武術的根拠をもって説明できないにも関わらず、正座之部は入門業、立膝之部は中級者向け、奥居合之部は上級者向けなどと云うのはナンセンスでしょう。正座の八重垣の受払、立膝の虎一足、奥居合の脛囲は同じ動作に過ぎません、何處が初中上なのでしょう。無理やりこじつけても意味のないことです。
 古伝は、大森流は陽進陰退で「・・開き納又左を引て抜付打込み・・」、英信流は虎一足で「左足を引き刀を逆に抜て留め・・」、抜刀心持之事では柄留で「虎一足の如く下を留めて打込」でした。業名、手附の微妙な違いに反応できる想定によって稽古の質を高めれば理解出来ていくはずです。
 第9代林六太夫守政が土佐にこの居合を持ち込んだ時に、其の侭並行的に附属せしめたにすぎず、大江先生も改変する際にその関連性や武的向上を求める手立てには手を付けられずに終わったのでしょう。居合抜の名人であってもこの辺の資料の研究がなされていないわけですからその流派の権威者と思しき人の発言に依って決めつけてしまうのは、疑問を説いたことにはならいでしょう。  思いつくままに

 

 

| | コメント (0)

2019年9月27日 (金)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の3大森流流名に就て

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑
質問を受けたる事項次の如し
42の3大森流流名に就て

 其時代、始祖、どーも確信ある材料が無し
イ、林六太夫(9代の)剣の師匠大森六郎左衛門が真陰流の古流五本の形から案出して英信流に附属せしめた・・との説を根拠として(大森流は始祖大森六郎左衛門也)とする一説。

ロ、大森流は之れより以前英信より前にあったもので(然し年代始祖不明)大森六郎左衛門が始祖ではないとの一説。
 同氏の原稿には(福井先生の説を骨子とし)次の様に書いてある也
「当流の正座及び奥の立業は大森流と呼び正流第7代英信の以前より当流の正伝として代々伝来せられたる業にして立膝及び奥の居業は長谷川流と称し英信の創案に成く之れに形を加へ総称して無双直伝英信流と唱ふ」
 尚、太刀打之位、詰合之位、大小詰、大小立詰の四業に付て其の始祖及び年代ご教示を乞ふ。

 イの説が一般的ですが、別の説ロについては、聞いたこともそれらしき資料も知りません。河野先生の質問状には、福井先生の説と有りますので、この福井先生は第19代福井春政先生の事だろうと思います。福井先生は何処からその説を持って来たのかあれば楽しいでしょう。
 恐らくこの質疑は昭和10年以降のもので、第18代穂岐山先生が亡くなられた(昭和10年1935年)後に河野先生と曽田先生との交流が有ってからのものでしょう。現在までそれらしき資料の公開はされた事はありません。土佐の何方かが福井先生の残された資料をお持ちの方がおられれば良いのですが、この時代になっても土佐から門外不出でもないでしょう。
 私の使用する資料は古伝神傳流秘書は曽田先生の直筆写本と木村栄寿先生による細川家伝書に依ります。共に大江先生系統のものでは無く、一般に云う所の下村派系統の伝書です。第16代五藤正亮先生系統の谷村派の伝書が不明でせいぜい免許皆伝相当の根元之巻と目録程度のものばかりです。
 これらについて正しい答えは得られそうにはありませんが、古伝神傳流秘書によるところが良さそうです。南山大学の榎本鐘司先生の「北信濃における無雙直傳流の伝承について」の論文から「無双流和棒縄居合目録」により土佐の居合と業名が一致するものを拾うと以下の様です。
括弧内は土佐の古伝神傳流秘書による
 和:使者取(使者捕)・砂乱(五月雨)・弓返し(弓返し)・附入(附入)・左詰(右請)・抜捨(抜捨)・急天(胸点)・向面(向面)・猿猴(遠行)・鐺返し(鐺返) 
 立合の和:行連(行連)・夢相(夢想)・爪捕(裾取)・志けん(支剣)・車附(車附)・玉簾(玉簾)・打込(打込)・燕返し(燕返)・追捕(追捕)
 小具足:11本省略(11本)
 後立合:11本省略(11本)
 小具足割:11本省略(10本)
 大小詰:7本省略(8本)
 立合(詰):9本省略(大小立詰7本)
 大剣:13本省略(大剣取10本)
 棒目録:棒合(棒合)・腰車(腰車)・小手揚(小手上)・小手落(小手落)・見帰り(見返)
 居合向身:横雲(横雲)・稲妻(稲妻)
 居合右身:浮雲(浮雲)・山颪(山下風)
 居合左身:岩浪(岩浪)・鱗返(鱗返)
 居合後身:波返(波返)・瀧落(瀧落)

 この対比から土佐の居合は北信濃の無双直伝流と同じ流れを辿っていると思われます。それでは東北地方ではどうかと言えばニ三行き当たりそうに思えるのですが殆ど別物の様な業名です。北信濃の居合は土佐の居合で云えば大江流の立膝之部に相当しています。奥居合は「三角・四方切・▢乞・棚の下積」の目録にその雰囲気を感じますが不明です。居合は英信流そのものであって、大森流は土佐独特の居合で第9代林六太夫が大森六郎左衛門の居合を取り入れたとするのが自然かも知れません。

| | コメント (0)

2019年9月26日 (木)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より質問を受けたる事項次の如し
42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

 「英信は其の技古今に冠絶し精妙神技を以て始祖以来の達人として聞へ古伝の業に独創の技を加え茲に流名を無双直伝英信流と改め爾来当流を異称し長谷川英信流又は長谷川流或は英信流と呼ぶに至れり、而して英信は享保頃江戸に於て斯道を研究大成し晩年土佐に▢無して大に之れを広め同地に其の逸材を輩出せしが」以下表右の如く、享保時代として、英信として相違無きや。是は同氏が当流に関する小冊子を発刊するに当り▢ね起したる質疑なり以下何れも同断。

 此処での質疑は無双直伝英信流は長谷川英信が独創したもので、時代は享保の頃でいいのかという質問です。居合の始祖は林崎甚助重信であり流名は、奥州地方では林崎新夢想流、林崎流、林崎田宮流、林崎夢想流、林崎流居合、林崎神流などと云われていた様です。北信濃では無雙直伝流として伝わり、長谷川英信や荒井勢哲などが江戸へ出て道場を起したとされています。その道場へ土佐の林六太夫守政が江戸勤務の際、指導を請け土佐に戻って広めたという説が正しそうです。
 その流名は古伝神傳流秘書に依れば「無雙神傳英信流居合兵法」とされています。
 土佐に持ち込まれた年代は林六太夫の年齢から推し測れば寛文2年1662年林六太夫守政生まれる~享保17年1732年林六太夫守政死す。ですから寛文は1661年~1673年、延宝は1673年~1681年、貞享は1684年~1687年、元禄は1688年~1703年、宝永は1704年~1710年、正徳は1711年~1715年、享保は1716年~1735年でこの享保17年1732年に死亡したわけです。
 林六太夫の時代は寛文・延宝・貞享・元禄・宝永・正徳・享保と7つの年号にそって生きたと云えます。年号と年齢を勘案しますと以下の様です。
 寛文0~11歳
 延宝12~20歳
 貞享21~24歳
 元禄25~40歳
 宝永41~47歳
 正徳48~52歳
 享保53~70歳
 20歳から40歳までに修行することが出来ていれば、土佐に戻って普及に尽力したのが41歳から71歳までとすればその時の最長年号は享保となるでしょう。
 従って土佐における無雙神傳英信流居合兵法は享保の頃土佐に普及されたと云えるでしょう。然し長谷川英信の居合はそれより早い元禄時代とも考えられます。
 城中での座し方が正座と定められてから普及した大森流居合が土佐の居合として今日まで居合の基礎として稽古されている事を考えますと、長谷川英信が林崎甚助の居合の何を改善したのかも知られていない現状では英信流というよりも、大森流の価値の方が高そうです。そうであれば無雙神傳大森流居合兵法の流名もあって然るべきでしょう。
 ちなみに真陰流五本の業からの転用とされていますが、真陰流の業はどういうものであったか不明です、上泉伊勢守の業であれば新陰流の「三学円の太刀」が五本の業から成り立っていますが、どの様に工夫されたのか疑問です。私はこれらの不十分な経歴にメスを入れて掘り下げるよりも一本一本の業や組太刀、棒、和術などを武術として人体の動きを明確に捕え古伝を掘り起こし解り合い語られるべきものと信じています。

| | コメント (0)

2019年9月25日 (水)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の1英信流に於ける礼式

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より
質問を受けたる事項次の如し
42の1英信流に於ける礼式の件

 主礼は神前玉座に対する礼
 坐礼は刀に対する礼なりと信じ居れるが一説に相当の人にて立、坐共に玉座神前の礼にて坐礼は近世に至りて始まったものだと唱ふるあり 如何

*
 この項は、曽田先生に河野先生が手紙で疑問点を問いただしているものの幾つかです。曽田先生の考えが述べられているものも無いものもあります。礼式については何も述べられていません。この質問が何時何に使うためにされたのかも不明です。
 河野先生は昭和8年1933年に「無雙直伝英信流居合術全」を出されています。その後昭和13年1938年に「無雙直傳英信流居合道」を出し、昭和17年1942年に「大日本居合道図譜」で河野居合を確立しています。この質問事項がどの冊子に反映したのか解りませんが、八重垣会を設立したのが昭和6年1931年だそうですから(大日本居合道図譜より八重垣会の思ひ出)このころから疑問を一つずつ説いて行かれたのでしょう。

 曽田先生との接触の初めは判りませんが、「無雙直傳英信流居合術全」を書かれるには基礎知識が必要だったと思われます。師と仰がれた18代穂岐山先生は昭和10年1931年に亡くなっていますから、師匠亡き後の事か以前からの事か、土佐の居合を紐解く一部にはなりそうです。
 河野先生の質問は、神殿、玉座の礼は立ってするのか坐ってしてもいいのか、坐礼は刀にするものと信じているが如何かという事のようです。

 大江先生の「剣道手ほどき」大正7年1918年より神殿の礼:「刀の鍔元左手に持ち拇指にて鍔を抑へ刃を上にし刀身を斜めとす、直立体にて神殿に向て黙礼をする。」

 河野先生の「無雙直傳英信流居合術全」昭和8年1933年の作法:「神殿又はぎょくざに向ひて刀を抜かざる事(でき得れば玉座を左にして行ふ事)。場に入る時は、鍔元を左手に持ちて拇指にて鍔を抑へ、刃を上にして刀を下げ下座より玉座に向ひ直立体の儘刀を右手に持替へ(この時刃を後方に向け)右側に軽く接し立礼をなす。刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。正座したる時は、刀は恰も左腰に差したる状態にあるを以て、右食指を鍔の下拇指を上にかけて刀を腰より抜き取る気持ちにて右前方に抜き取り、膝の前方中央約一尺の處に鐺を右柄を左方に刃を後方に向けて置き双手を八文字につきて礼を行ふ。」
 ここでは神殿玉座の礼と刀の礼とは別にされています。大日本居合道図譜でも同様ですが、赤字の部分は「刃を自分の方に向け」と変えています。
 

| | コメント (0)

2019年9月24日 (火)

曽田本その2を読み解く41霊夢

曽田本その2を読み解く
41霊夢

 昭和13年3月14日午前2時頃虎彦霊夢により故行宗先生曰稽古着にて夢枕に立たれ御生前の如く親しく問答を交わしたり而して余は刀の納め方につき御示教を乞ひたる処詳に御伝授ありたり即ち
 「居合技に於て最も秘蔵にして重きをなすものは抜刀。納刀の妙諦を得るにあり、納刀技は鯉口に刀棟を上より降すことなく、開きたる刀を其の侭左斜めに持ち来り棟にて恰も瓜の皮を剥く如く摺り上げ鯉口の処にて巧みに刃を上に返して鯉口を後ろに繰り右手は体の前方に伸ばし指三本にて支へ右手の伸びたる時は鞘と刀身とは一直線になる様心懸くべしと」
 此時先生は見事なる居合刀を持たれて居たが土居君(余を指す)此の刀で抜いてみたまへと云はれたが、何は兎もあれ先生に一本拝見さして頂き度しと請へば先生早速、然らば伯耆流居合を抜いて見せんと立ち上がられたが此の時はかなくも夢醒めて、そぞろの感に打たれたが所謂神秘夢伝とも云ふべきであろう。

 この曽田虎彦先生の霊夢は岩田憲一先生の「土佐の英信流 旦慕芥考」平成元年1989年に第3篇の名士の記録に曽田先生の他のスクラップ等資料と一緒に掲載されています。
 この霊夢から、土佐の居合の納刀について、「鯉口に刀棟を上より降ろすことなく」と下村派の行宗先生は云われています。そう言えば中西岩樹系統も山本宅治系もくるりと上から刀棟を鯉口に下し納刀しています。という事は大江居合もクルリストンだったのでしょうか、行宗先生と師匠は同じ下村茂市定ですから、行宗納刀を教わっていた筈です。
 河野先生の納刀も行宗納刀の形ですから、穂岐山納刀を大日本居合道図譜のころまでに変えたのでしょうか。クルリストンとやって指を斬ったり、納刀しそこなったりしているのを見ていますから有効な方法とは言えないでしょう。残心で自傷するとか見栄えを優先する方法は如何なものでしょう。大道芸を志す場合はクルリストンは投げ銭が多いかな~。

 実はすでにこのブログでも解説しているのですが、河野先生が第18代穂岐山先生に書簡を送り回答いただいた中にも行宗先生同様の納刀がなされるよう解答されています。
 改めてここに記載しておきます。(曾田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義に尽きての解答22の5納刀2019年7月16日)
「答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際に於いては練習を積むに従い是にては何となく業の堅くしてやわらか味無き感を来し候、此意味に於いて血振いの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候、然れ共是は極く瞬間のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得る如く大きくゆっくりと動作するには無之、只起動の為めつまり動作を速にするために候、然し原則としては拳は返す事無く、血振いの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。」
 

| | コメント (0)

2019年9月23日 (月)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の4

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻40の4
福井春政先生より河野百錬先生に伝授したる伝書の写し
無雙直伝英信流居合兵法叢書より抜粋す

根元之巻 大江先生の根元之巻と略同じにつき省略す。

流名 林崎無想流 
   林崎夢想流 

   重信流

名称 
横雲 深山には嵐吹くらし三吉野の
       花か霞か横雲の空
虎一足 猛き虎の千里の歩み遠からず
       行より早く帰るあし引き
稲妻 諸共に光と知れど稲妻の
                     跡なる雷の響き知られず
浮雲 麓より吹上がられし浮雲は
       四方の高根を立つゝむなり
山颪 高根より吹下す風の強ければ
       麓の木々は雪もたまらず
岩浪 行く舟のかぢ取り直す間も無きは
       岩尾の浪の強くあたれば
鱗返 滝津波瀬上る鯉の鱗は
       水せき上げて落つる事なし        
浪返 明石潟瀬戸越す波の上にこそ
       岩尾も岸もたまるものかわ
瀧落 滝津瀬の崩るゝ事の深ければ
       前に立添ふ岩もなきかな 

詰合 極意奥之事
1、発早 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 1、鱗返 1、位弛 1、燕返 1、柄砕 1、水月 1、霞剣

大小詰 大小立詰
1、抱詰 1、骨防扱 1、柄留 1、小手留 1、胸留 1、右伏 1、左伏 山影詰 1、〆捕 1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返
1、蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火

大剣取
1、無剣 1、水石 1、外石 1、鉄石 1、栄眼 1、栄月 1、山風 1、橇橋 1、雷電 1、水月 

抜刀心持之事
1、向払 1、柄留 1、向詰 1、両詰 1、三角 1、四角 1、棚下 1、人中 1、行違 1、連達 1、行連 1、夜之太刀
1、追懸切 1、五方切 1、放打 1、虎走 抜打(上中下)

英信流
1、横雲 1、虎一足 1、稲妻 1、浮雲 1、山颪 1、岩浪 1、鱗返 1、波返 1、滝落 1、抜打(真向)

大森流(正座)
1、前身(初発刀)1、右身(左刀)1、左身(右刀)1、後身(当刀)1、八重垣(陽進陰退)1、請流(流刀)1、介錯(順刀)1、附込(逆刀)1、月影(勢中刀)1、追風(虎乱刀)1、抜打

以上

第17代範士大江正路 第18第穂岐山波雄 (第19代)福井春政研究協議之上改定する所あり口伝す

奥之部(改訂)
1、霞 1、脛囲 1、戸詰 1、戸脇 1、四方切 1、棚下 1、両詰 1、虎走 1、行連 1、連達 1、總捲 1、總留 1、信夫
1、行違 1、袖摺返 1、門入 1、壁添 1、請流 1、暇乞 1、暇乞 1、暇乞

形(改訂)
1、出合 1、拳取 1、絶妙剣 1、独妙剣 1、鍔留 1、請流 1、真方

以上

外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、總捲 1、霞 1、雷電

上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添 1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内 
1、輪之内 1、十文字

極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中之幕 1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所 1、外之剣 1、釣瓶返 
1、智羅離風車

以上

右之条々神秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道に熱心練磨之結果其蘊奥に達せらるるを認め爰に我英信流併而始祖重信流居合術を全相伝候宜敷将来本流之品位を堕す事無く之が普及を計り漫に他流に媚びず以て伝授の責を全ふせられん事を期せらる可し

天真正
林崎明神
初代 林崎甚助重信
(以下18代穂岐山先生迄連記)

林崎夢想流
林崎神伝重信流
林崎神伝流
林崎無雙神伝重信流
右同一名称也

昭和25年1月3日
無雙直伝英信流
 第19代正統宗家
 居合術範士・柔道教士7段 
 福井春政 花押
大日本武徳会 居合術範士
 河野稔百錬 殿

 大江先生の根元之巻を前回までに解説しましたが、河野先生の昭和30年1955年発行の無雙直伝英信流居合兵法叢書には第19代福井春政先生から授与された根元之巻および業目録が掲載されています、今回の河野先生の根元之巻の業目録と大江先生のものと対比し大江居合を古伝と絡めて
正当化されています。福井春政先生のころまでに多くの不明であった或は大江先生が中学生向きに改変され切り捨てたものが浮き彫りにされて来ています。
 昭和25年1950年の目録印可の公開ですから、その後の河野先生に依る古伝神傳流秘書の公開「無雙直傳英信流居合兵法叢書」と合わせ、無雙直伝英信流の宗家は充分それを錬磨され次代に引き継ぐ責務が有ろうかと思います。
 さりながら、現今最高段位十段を許された方達の目録には、正座の部、立膝の部、奥居合、番外、抜刀法、居合道型の目録のみです。現代居合は居合抜が本来で他は捨てたと言われるのでは、居合本来の武術としての有り様は全く理解される事無く指導される事となり、連盟居合は兎も角として、無雙直伝英信流居合兵法正統正流としては、せめて太刀打之事・詰合・大小詰・大小立詰・大剣取・抜刀心持之事・居合心をつたえる英信流居合目録秘訣や居合兵法の和歌位は充分指導されるべきでしょう。それらを知らないと云う無雙直伝英信流居合兵法の準範士以上の高段者は段位不相応であり指導者としては失格でしょう。 思いつくままに

 

 

| | コメント (0)

2019年9月22日 (日)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の3

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写なり
40の3

天真正
林明神
林崎神助重信
田宮兵兵衛業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
万野團右衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六太夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直傳英信流居合術17代目
大江正路蘆洲
大正10年7月吉日
鈴江吉重 殿

*
 天真正の冠を被った剣術の流派には天真正伝香取神道流が有ります。大江先生は五藤正亮先生の根元之巻を参考にこの免許皆伝を作成されたと思いますが、この流の道統の頭に「天真正・林神明」と書き込んでいます。天真正は香取神道流の頭に書かれているもので林崎神助(甚助)重信が林明神から伝授された神傳であることと、香取神道流の門を叩いたかも知れない事を匂わせます。証明できるものはありません。
 林崎甚助重信の居合は、土佐には伝わったかどうか是も疑問です。長谷川英信や荒井勢哲から江戸での修業が古伝神傳流秘書にある無雙神傳英信流居合兵法の全てでしょう。

 林崎神助重信の神助の文字は弘化2年1843年谷村亀之丞自由から山内豊惇公へ奉授された伝書に記載されています。北条五代記の巻第四に「さて又長柄刀のはじまる仔細は、明神老翁に現じ。長柄の益有を林崎かん介勝吉と云人に伝へ給ふゆへに、かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に、是を伝ふる。・・」とあります。作者は三浦浄心で永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永と戦国末期から江戸時代初めを生きた元後北条氏の遺臣だったそうです。北条五代記は元和年間に三浦浄心の遺構を整理して成立したものと言われています。北条五代記の史実性はともかく、「かんすけ」は「かん介=勘助=神助」で音は同じです。津軽藩に遺された林崎新夢想流の元禄四年1691年から正徳元年1714年の伝書には「林崎甚助重信」とあって現在の伝書と同じです。何処かで「神助」に変じて明治維新以降まで引き摺って来たのでしょう。

| | コメント (0)

2019年9月21日 (土)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の2

曽田本その2を読み解く
40、居合根元之巻
40の2目録

 大森流之部
1、前身 2、右身 3、左身 4、後身
5、八重垣 6、請流 7、介錯 8、附込
9、月影 10、追風 11、真向(抜き打ち

 長谷川流之部
1、横雲 2、虎一足 3、稲妻 4、浮雲
5、山下シ(颪) 6、岩浪 7、鱗返 8、浪返 
9、瀧落 10、真向

 奥居合之部
1、霞 2、脛囲 3、四方切 4、戸詰
5、戸脇 6、棚下 7、両詰 8、虎走
9、行連 10、連達 11、總捲 12、總留
13、信夫 14、行違 15、袖摺返 16、門入
17、壁添 18、請流 19、暇乞 20、暇乞
21、暇乞

 型並発声 イーエーイ
1、出合 2、拳取 3、絶妙剣 4、独妙剣
5、鍔留 6、請流 7、真向

右之条々深秘之極是也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道熱心練磨の結果其蘊奥に達せらるゝを認め爰に我英信流居合術令相伝候宜しく将来本流の品位を堕す事なく之が拡張を計り妄りに漫りに他流に媚びず以て伝授の責めを全ふせられん事を期せらるべし

 此処では根元之巻に続き業目録が伝授されています。この業の部および業名で大江先生の大正7年1918年堀田捨次郎共著の「剣道手ほどき」の業名との相違するものは赤字としておきます。この根元之巻は大正10年1921年に発行されたものです。政岡壱實先生へ大江先生は根元之巻及び業目録を伝授された事になっています。
 その伝書との違いは大森流之部:正座之部、前身:向身、真向:抜打、山下シ:颪、真向:真甲、イーエーイ:ヤーエイ・ヤートウなどいくつか見受けられます。
 大江居合はいずれにしても土佐の居合の一部に過ぎず、特に大森流の相手の座す位置を抜きにして我の座す演武場での、前後左右であり、奥居合、居合道型は業名と手附は古伝とは異なります。習うべきであろう太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、大剣取は無く、棒術、和術も抜けています。居合抜だけに特化したものと言えるでしょう。

 

| | コメント (0)

2019年9月20日 (金)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の1

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写也
40の1

抑此居合と申者日本奥州林之従大明神夢相〆奉伝
夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々末代為相応之太刀云々
手近勝一命有無の極此居合恐者栗散邊土堺不審之儀不可有之唯依霊夢処也
此始尋奥州林崎神助重信云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信云曰
汝以此太刀常胸中憶持者勝怨敵云々
則如霊夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也
腰刀三尺三寸三毎(毒 か)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也
敵味方成事是亦前生之業感也生死一体戦場浄土也
如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉
此居合雖積千金不真実人者不可授之
可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾者 其退速云々
此意貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙興兵利心懸者夜自思之
神明仏陀祈者則忽得利方
是依心済身事燦然


大江正路先生から大正10年1921年に鈴江吉重宛に授与した無雙直傳英信流居合術の根元之巻及び業目録となります。
原文は漢文調ですから読み下し文にします。
 
居合術根元之巻
抑も此の居合と申すは日本奥州林之従、大明神の夢想に之を奉伝せしめる、
夫れ兵術は上古中古数多の違い有ると雖も、他流大人小人無力剛力嫌わず兵の用に合う云々、末代相応の太刀と為る云々、
手近く勝は一命の有無の極み、此の居合恐れるは粟散邊土の堺、不審の儀之有るべからず、唯霊夢に依る処也、
此の始めを尋ねれば、奥州林崎神助重信と云う者、兵術を望み有りて之を林の明神に一百有日参籠せしめ其満暁の夢中、老翁重信に伝えて曰く、
汝此の太刀を以て、常に胸中憶持は怨敵に勝を得る云々、
則霊夢の如く、腰刀三尺三寸を以て大利の有得す、九寸五分に勝つ事、柄口六寸の勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也、
腰刀三尺三寸、三毒三部に但脇差九寸五分、九曜五鈷の内証也、
敵味方に成る事、是のところ前生の業感也、生死一体戦場浄土也
此の如く観るは、則現世大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世の成仏成縁の事、豈疑い有らんや、
この居合千金を積むと雖も不真実の人には堅く之を授くべからず、
天罰を恐るべし、唯一人に授く云々

古語に曰く 其の迅く進は 其の退くこと速し云々
此の意を以て、貴賤尊卑、前後の輩と謂わず隔てなく、其の所を達せし者には目録印可等相違なく許す。
又古語に曰く 夫れ百錬の構え、則茅や茨の装鄙の構え在り、と、兵利を心懸けるは、夜自ずから之を思い、神明仏陀に祈る者は則忽ち利方を得る、是に依り心済み身事燦然。

 根元之巻の要点は林の神明の霊夢に依って奥州の人林崎神助(甚助の誤りか)重信が居合の神傳を得た、その極意は柄口六寸に勝つことで、一国一人の真実の人への相伝である、金を積まれても不真実の者には天罰を恐れ堅く授べからず。貴賤尊卑や立場の違いに拘わらず、兵利を心懸け、寝る間も是を思い、神明仏陀に祈る心掛けのある者は忽ち利方を得る、是に依って心は済み、燦然と輝くであろう。

 

 

| | コメント (0)

2019年9月19日 (木)

曽田本その2を読み解く39大詰

曽田本その2を読み解く
39、大詰

1、大詰は大きになじると云ふこと也、相手清眼に構る時上段の太刀拳を楯にして敵の顔へ突かけて懸る時、拳へ打込むを、身形を直ぐに跡へ外して上より二星を勝なり、とたんの拍子をぬいて直くに打つ也、此の拍子ちがへば相打になる也、是を栴檀の打ちと云て嫌ふなり、栴檀と云ふは二葉と訓して互に太刀のならぶこと也、習ひに大調子の小調子の大調子と云ってあり、大調子とは無拍子の事なり、小調子とは太刀に拍子をもたせて打つことなり。敵小調子にきらば大調子に勝ち、大調子にきらば小調子にて勝つべし、皆以て相気を闕くこと也、敵の小調子を大調子を以て勝つことを大詰と云ふ也。

 この大詰も武術叢書にある柳生流新秘抄の九箇の大詰です。相手青眼に構える時、我は上段に構へ太刀拳を楯にして上段から相手の顔に突きかける、相手我が拳に打ち込んで来るのを体を後ろに退き同時に上段に冠って打ち外した相手の二星(拳)に打ち込み勝。
 赤羽根龍夫先生の「江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」の大詰:「双方右手を肩の高さに構えた相上段、相手拳を打って来る、我は体を左斜め後ろに開いて太刀を大きく振りかぶって相手の打ちを抜き、右足を踏み込んで面を打つ。」柳生新秘抄の場合は相手青眼、我上段の教えでした、
相手の打ち込みを抜くや打ち込むとたんの無拍子で打ち込み勝、相手が小調子ならば大調子に勝つ、相手大調子ならば小調子に勝つ。相気を欠くことが大事としています。曽田先生による英信流居合目録秘訣の獅子洞入り、獅子洞出は何処かで戸口などの出入の運剣法とされています。小詰、大詰もどこかの流派の業名若しくは心得の聞き覚えを無雙神伝英信流居合兵法を土佐にもたらした第9代林六太夫守政は纏めて見たのかも知れません。
 古流剣術を知って神殿流秘書を読み解こうと、自流では何処にもその糸口が見いだせなく、柳生新陰流を学んでいますが、この大詰は柳生新陰流の九箇之太刀の小詰がそれらしい業です。
 戦国末期の1600年代から1700年代に武術は既に国内は徳川幕府によって統制されて戦闘は無くなって来ています。反面武術は入り乱れる様にしながら発展したのでしょう。他流の業を取り込んだりしながら武術で生きて行った人たちの努力が垣間見れる処です。

| | コメント (0)

2019年9月18日 (水)

曽田本その2を読み解く38小詰(獅子洞出、獅子洞入ノ事)

曽田本その2を読み解く
38、小詰(獅子洞出、獅子入ノ事)

 1、小詰は尖(するど)になじると云うことなり、相手の右手の膝に太刀を押當るが如くに鋒先をさゝえて構ふるなり、此の形を獅子の洞出と云ひ、洞穴より猛獣のたけって出るに喩ゆ、此太刀さき三寸へつけて弓手の肘を捧げ相手の太刀さきを押ゆる、相手拳を払ふ時、太刀を摺り込んで両腕を押へ詰めて勝つなり、此の有様を獅子の洞入とも云ひ、峰をもって敵の胸板をつらぬくことを小詰と云ふ。

 小詰の出典が書かれていません、これは柳生新陰流の「柳生流新秘抄」の九箇の太刀六本目小詰そのものです。此の出典も早川順三郎の武術叢書に間違いありません。
 曾田先生は、この小詰を英信流居合目録秘訣にある「獅子洞入、獅子洞出」の事だろうとされています。
 獅子洞入、獅子洞出:「是以戸口抔を入る習也、其の外とても心得有るべし、或は取籠者抔戸口の内に刀を振上て居るときは容易に入る事能わず、其時刀を抜て背に負たる如くに右の手にて振り上げ左の手にて脇指を提げうつむきて戸口を入るべし、上より打込めば刀にてふせぎ下をなぐれば脇差にて留る、向ふの足をなぐ可し、獅子洞出是以て洞出入の心得を知らする也。」
Img_0690
 第9代林六太夫が江戸から土佐に持ち帰った無雙神傳英信流居合兵法の教えの中にある獅子洞入、獅子洞出の図と解説ですがこれでは、柳生新陰流の小詰には程遠いものです。
 あえて言えば、柳生新陰流の小詰は天上の低い場所での勝負に向く太刀でもあると「江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」の著者赤羽根龍夫先生はその著書の小詰に書かれていますので、上の低い洞からの出入りの業として第9代は江戸で長谷川英信か荒井勢哲かに指導を受けたのでしょう。
当時柳生新陰流は将軍家及び大名家に師事されていましたから、英信や勢哲の様な市井の浪人若しくは武士と農民の境目の所属不明の剣士には柳生新陰流は遠い存在だったでしょう。
 小詰の柳生新陰流は、赤羽根瀧夫先生の解説により、打太刀は右膝上に刀を斜め上に向けて立てて構え、仕太刀は打太刀の左胸を切先で突く様に刃を上に向け右手を上向けて刀を捧げ持つようにして間に致る、打太刀は仕太刀の刀を刺突せんと捧げ持つ左柄手を小さく打って行く、仕太刀は拳を打たれる寸前に、打太刀の太刀を刃を上にしたまま左斜め下に打ち落す、仕太刀は刃を下にして打太刀の中心に詰め残心。
 

| | コメント (0)

2019年9月17日 (火)

曽田本その2を読み解く37三つの声と云事

曽田本その2を読み解く
37、三つの声と云事

 三つの声と云は、初、中、後の声と云て三つにかけわくる声也、所により声を掛くると云う事専也、声は勢なるによって、火事抔にも掛け、風波にも掛け、声は勢力を見せるものなり、大分の兵法にても、戦より初に懸る声は、いかほどもかさを懸けて声をかけ、又戦ふ間の声は調子をひきひき底より出づる声にてかゝり、勝て後あとに大きに張り懸る声、是三つの声也。
 又一分の兵法にしても、敵をうごかさんため打つと見せてかしらより「エイ」と声をかけ、声の後より太刀を打出す物也。(行宗先生の「敵は真向にて抜かんとかまえるか、声にて、かくれがたく、さま廻て抜き付」とは此の意ならん)。又敵を打ちて後に声を懸来る事、勝を知らする声也、是を前後の声と言ふ。
 太刀と一度に大きに声を懸くる事なし、若し戦の内に懸くるは拍子にのる声、ひきく懸くる也、よくよく吟味有べし。(武術叢書)

 この写しも武術叢書からの引用です。武術叢書が引用したものは宮本武蔵の五輪書「火之巻」に依ります。宮本武蔵が五輪書の冒頭で「諸流の兵法者と行合ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度も其の利をうしなはず。其の程、年十三より二十八、九迄の事也。」とある様に試合に依って身に着けた知恵をまとめたもので、武術の参考はもとより人生の参考ともなる事も多く、海外でも読まれているものです。
 大江先生の組太刀英信流居合之型では、掛け声を掛ける様に指定されています。それは「発声は相互の打合せ、或は受け又は打ち込みたる時、其業毎に「イーエー」と長く引きて声を掛け合ふなり」とされています。是は三つの声でも否定している「太刀と一度に大きに声を懸くる事なし」と違います。「若し戦の内に懸くるは拍子にのる声、ひきく懸くる也」です。
 河野先生の大日本居合道図譜の居合道形の掛声は「発声はイーエーと互に斬込みたる時掛けふ。(イーはヤアにてもよし)(斬込む瞬前にイーとかけ、斬込みたる瞬間にエイとかける)」演武会などや、youtubeを見ていますと大声で勇ましい掛声を出して木刀を振り廻しています。古伝神傳流秘書には掛声の有無は記載されていません。太刀の打込みに合わせた掛声はともすると、力みを呼び「この一刀で真っ二つにせん」と打込み容易に裏を取られるものとなります。戦前の赤紙一枚で徴用された兵士を死地に向かわせ白兵戦に怖気させない為の洗脳とは現代は違って、少しでも武術の奥義をと名人上手を志し日々修錬する人は武蔵の云う「よくよく吟味有べし」に目をやるべきでしょう。

 

| | コメント (0)

2019年9月16日 (月)

曽田本その2を読み解く36電光影裏斬春風

曽田本その2を読み解く
36、電光影裏斬春風

 鎌倉の無学祖元禅師の大唐の乱に捕へられて斬られるの時無学辞世に右の頌を作られたれば太刀を捨て拝んだと也。
 無学の心は太刀をひらりと振り上げたるは、電(いなびかり)の如くよ、電光のピカリとする間、何の心の念もないぞ、打つ太刀も心はなし、我身にも我はなし、斬らるゝ我にも心はなし、斬る人も空、打るゝ我も空なれば、打つ人も人にあらず、打太刀にもあらず、打たるゝ我も我にあらず、唯イナビカリのピカリとする内に、春の空吹く風を斬ったらば、太刀に覚へもあるまい、斯様に心を忘れきりて萬の事をするが上手の位なり(武術叢書)
*
 「貴殿の兵法に当て申し候はば、太刀を打つ手に心を止めず、一切打つ手を忘れて打って人を切れ、人に心を置くな、人も空、我も空、打つ手も打つ太刀も空と心得よ、空に心を取られまいぞ・(上記部分)・舞をまへば手に扇とり足をふむ、其手足をよくせん、扇を能くまはさんと思うて忘れきらねば上手とは不申候、いまだ手足も心が留まらば、わざは面白かるまじき也、悉皆心を捨きらずしてする所作は皆悪く候」と武術叢書の不動智の功に書かれています。
 不動智とは、沢庵和尚の書いた「不動智神妙録」で、武術叢書はその引用となります。武術叢書は大正4年1916年に早川順三郎によってまとめられたもので武道を志す当時の人によく読まれていた様です。
 不動智神妙録は沢庵が柳生但馬守に向かって、剣禅一如を説いていますが、人として生きるにはどうあるべきかを説いています。曽田先生は武術叢書を読まれた事はこれで認識できます。此の心がどのように土佐の居合に反映されて来たのか、そこのところはどうなのでしょう。

 土佐の居合の指導者の多くは、引き継ぐべき弟子が戦死してしまったり、弟子も指導者も戦地に徴用され根元の伝承を受けられずに形ばかりを思い描いていたのかも知れません。
 無事に帰還した時には師匠は既に亡き人か、時代の大きな転換に萎えてしまっていたかもしれません。弟子も同じでしょう。
 大江先生の門下生は中学生です、武術の根元を伝授される事はできなかったろうし、大江先生もその手附から判断すれば、私は疑問を抱いてしまいます。
 話はずれますが、この大江居合について土佐の古伝との乖離や細川居合との違いを知るにつけ、大江先生は下村定からも五藤正亮からも明治維新の大きなうねりのなかで充分な指導を受けられなかったかも知れない、そのため正しく伝承できずに独創して子弟に伝えてしまったと思うのです。大江先生は武術家だったようですから独創した業はそれはそれで大江居合として十分でしょう、
 此の事を私が語る事が気に入らないと言って、大江信奉者やその流れをくむ今では稽古も出来ない様な人が言ってきました。理論よりも感情が先行するのでしょう、どこの馬の骨か判らないミツヒラに言われたくないのでしょう。
 大江居合は土佐の古伝無雙神傳英信流居合兵法のほんの一部の形に過ぎないのですから、譬え年老いて刀が振れなくとも古伝神傳流秘書を熟読し自らその業技法及び心得を研鑽した上で立合ってもらいたいものです。
 その方は、竹刀剣道を「当てっこスポーツ」と云うのも気に入らないと言って憤慨しています。「当てっこスポーツの何が悪い」と云うのならいいのですが竹刀剣道を誹謗しているとでも思ったのでしょう。私は歳を取って若者の力と速さに打ち負ける様な当てっこでは武術では無いと言って居るだけです。
 竹刀スポーツも武術として昇華された方の中には若者にも十分対応できる方がおられるかも知れません。それには当てっこではない剣術の奥義を学ぶ事が必要だろうと思います。「当てっこスポーツ」と言われて気に入らないならば、60代でも70代でも全日本で総合優勝してもらいたいものです。

| | コメント (0)

2019年9月15日 (日)

曽田本その2を読み解く35神道無念流

曽田本その2を読み解く
35神道無念流 福井兵右衛門嘉平

 野州の産にして天明年中の人也、姉川上姜太夫と号し田中権田一圓流刀術を学びて其妙を得後諸州を修業し信州に至り飯綱権現に祈り遂に奥旨を悟り自ら神道無念流と号す。
*
 曽田本その2は曽田先生のメモ若しくはスクラップブックです。神道無念流が突然書かれています。神道無念流についてのこの文章はどうやら武術流祖録から書き写したのだろうと思われます。武術流祖録の写しを何処からか借りて来たのか、大正4年発行の早川順三郎による「武術叢書」から書き写したと思われます、原本は漢文で書かれていますから読み下し文にされたのでしょう。

 天明年中の人ですから1781年~1789年に生まれたか死んだかの人、10代将軍徳川家治か11代家斉の頃でしょう。綿谷雪著「日本武芸小傳」の武芸流祖録では、「下野国都賀郡藤葉村の人、今の壬生町藤井だろう、元禄15年生まれ。天明2年83歳で死す」とあります。
 神道無念流の何が曽田先生にその謂れをメモしたくなる理由だったのか、曽田本その2の後の方に神道無念流居合の手附が7ページにわたって書き込まれていますので、思う所があったかもしれません。

 此のブログにも掲載してありますが(2019年8月3日掲載)昭和11年11月の高知新聞に「土佐の居合術の為に 万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏 傑物、行宗貞義の一の弟子、と長い見出しで曽田先生の履歴を書き込み、此の年10月25日に日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のために万丈の気を吐いた。そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった・・・。」
 この中山博道先生は神道無念流です、新聞のスクラップをすると共に、神道無念流居合についても興味を持たれ資料を捜さられたりしたのでしょう。

| | コメント (0)

2019年9月14日 (土)

曽田本その2を読み解く34居合術(再掲載2019年5月10日)

曽田本その2を読み解く
34、居合術
余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に附随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず

 居合術は剣術今の剣道の一部門なり
 剣術は立合、太刀打、撃剣等とも称し刀剣の使用法にして即ち抜出したる刀を如何に有用に使用すべきかを教へたるものに付抜刀なくして立合あるべからず、其の用法は刀を腰より抜出しての上のことなり。
 居合術は立合の術、剣術にたいする語にして詰合、坐合、抜刀、鞘の内等とも称し此の立合の根元にして刀を抜く法なり、即ち如何なる場所にて如何なる刀を如何に有効に抜くべきかを教へたるものに付刀の鞘の内にある時より太刀打に至りて了る、故に互に抜刀して相対峙せば既に居合の範囲を脱して後は太刀合なり。
 居合は刀の長短、場所の広狭、地勢の高低、姿勢の坐起、敵の仕懸変化等に応じ臨機変通其の色を悟らせず刀尖を鞘口を脱する刹那確実有効の利を収むべきを教う。
 其の最重要なる点は刀尖の鞘口を脱する瞬間の働なり。

 前回のスクラップで日本刀談義の居合で勝負するという満州刀剣会監事永淵清次氏の考えでは、「居合は即ち剣道でありまして両者の間に稽古の形式で使用する道具が異なっている為これを区別する便宜上片方は剣道、片方は居合と言って居る次第であります。剣道は剣道具を用ひ相手に向かって竹刀で撃突を行ひますが、居合は道具を附けず相手も無く自分で攻防の法を研究するものであります。」
 「居合は即ち剣道である」とはじめに言い切って、道具(防具)をつけて相対してやるのが剣道、居合は道具を附けず相手も無いのが居合だそうでした。それは稽古法でのことで武術的には相対する敵を倒す事には変わりませんね。

 「居合とは現在の姿即ち人が坐って居る、立って居る、歩いて居る、寝て居る等を指したもので合とは合はす、応ずる、即ち電光石火臨機応変直にことを処する意味であります」と居と合を分けてそれらしく居合を解説していました。そんなことは刀を抜いて居ても同じ事で何時如何なる変にも即座に応じるのは居合ばかりの事とは言えません。道場での稽古や、勝ち負けの試合程度の事が頭に浮かんで解説しているに過ぎないと思います。

 「試合上より居合と剣道の異なる点を見れば、居合は剣道勝負の始まる前の試合法であり、剣道は居合で勝負のつかない後の試合法との言えます。真剣の場合は居合と今の剣道とも合わせて完全な試合法と言えます」結果は真剣での勝負では同じ事だと云うのでしょう。あえて分けて居合の素晴らしさを述べても意味は無いと云う事でしょう。居合馬鹿には往々にしてあるもので手前味噌に陥るきらいがあるのですが、それは力量以上の段位などを手にして居合であろうと竹刀剣道であろうと武術とは何か、何を修業するのか、その結果は何なのか、生きることに其れがどのような意味を持つのかと思いめぐらさずに棒振りして来ただけに過ぎないのでしょう。

 「要するに人間居るその儘で如何なる場合にも変に応じ勝を一瞬の裡に制するやう千磨必死の意気込みを以て身心技術の修養鍛錬を行ふ道であります」要するに何時如何なる変に応じる身心技術の修養をするのが居合だと言ってます。剣道だってそれは同じ、他の武術も同じ事でしょう。
 現代では居合ばかりの稽古をして、この無雙神傳英信流居合兵法の事を知らなかった為に起こった居合術の議論に過ぎません。人間の最後のコミュニケーションは武術に依り相手を制するという愚かさをそれでもヨシとするならば、居合の言う鞘の内に相手を制することもあり得るでしょう。その最後の手段で手落ちなく制することが出来れば良いのですが、土佐に持ち込まれた無雙神傳英信流居合兵法には、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、大剣取、和術、棒術、小太刀の稽古業が組み込まれています、それらには、斬り込まれた時も「鞘の内」もそれを制する業が組み込まれているのです。居合は総合武術の一稽古単位に過ぎないと思います。同時にそれら総合武術のいずれにも裏を取られない居合の修練は現代居合の真似っこだけでは不可能です。

| | コメント (0)

2019年9月13日 (金)

曽田本その2を読み解く33スクラップ日本刀談義居合で勝負する

曽田本その2を読み解く
33、スクラップ日本刀談義 居合で勝負する
大連日々新聞昭和18年1月22日掲載
満州刀剣会監事 永淵清次

 世或は居合を以て徒に長い刀を一瞬に抜くものと考へるが如きは思はざるも亦甚だしいものであります。居合は即ち剣道でありまして両者の間に稽古の形式で使用する道具が異っている為これを区別する便宜上片方は剣道、片方は居合と言って居る次第であります。
 剣道は剣道具を用ひ相手に向って竹刀で激突を行ひますが、居合は道具を附けず相手も無く自分で攻防の法を研究するものであります、居合とは現在の姿即ち人が坐って居る、立って居る、歩いて居る、寝て居る等を指したもので合とは合はす、応ずる、即ち電光石火臨機応変直に事を処する意味であります。
 要するに人間居るその儘で如何なる場合にも変に応じ勝を一瞬の裡に制するやう千磨必死の意気込み以て心身技術の修養鍛錬を行ふ道であります。又試合より居合と剣道の異なる点を見れば居合は剣道勝負の始まる前の試合法であり、剣道は居合で勝負のつかない後の試合法とも言へます。真剣の場合は居合と今の剣道とを合せて完全な試合法と言えます。で勝負を争ふ際鞘から刀を敵より一寸でも早く抜き得れば一寸の勝を生じます。居合を鞘の内と呼びますのはこの意味であります。又刀が鞘を放れると同時に勝負がついて了ふ事も指して居ります。居合の応用に就ては支那事変で面白い例があります。准尉居合錬士の方の話であります。
 最初の戦闘で白兵戦になって日本刀を抜いて向ふと支那兵は非常に日本刀を恐れて逃げ廻り中々うまく斬る事ができませぬので居合の応用を考へました。次の戦からは刀は鞘に納めて突撃します敵は逃げぬのみか却って攻撃に出て来たので近附きながら抜打に敵の右の腕又は股に切りつけ、怯む所を体当たりで倒して致命傷を負はしたのであります。この方法で六十六人切って而も刃こぼれ一つ出来なかったといふことであります。
 然し刀を抜いて人を斬るのみが居合の全部だと思ふのは非常な誤りでありまして抜かない事が大切であります。人に交わるに愛敬虔温和を第一として何事も先づ人を立てゝ自分を後に苟くも大儀名分の明かなる時のほかは刀の柄に手をかけぬ、抜かざるに敵を制する精神が居合の本旨とされている事は申す迄もありません。
 日本刀は日本人と離るゝ事の出来ないものでありまして日本人にして三尺の秋水を見ますと厳粛な感に打たれると共に非常になつかしい感じが湧いて参ります。決してこれを以て人を害しようと言ふ感じは怒らないのが普通であります。却ってその刀剣から祖先の武勲を偲び又日本歴史を思ひうかべ軈ては(やがては)建国の精神迄会得する事が出来るのであります。居合はその尊厳なる刀の正確有効なる用法を講ずるものでありますから之に依って始めて人と刀の一致を見る事が出来るのであります。人剣一致の妙境に達しまして居合は剣に依り剣は居合に依り益々その徳が現れて参るのであります。
 居合修行に大切なる刀の條仲を簡単に申述べますと身長五尺三四寸の人なれば刃渡り二尺三四寸迄が適当であり重さは軽くなく重くない手頃のものを選びます。刃は最初から研ぎ出した刀を用ひなるべく刃引は避け度いものです。但し年の者初歩の稽古、一斉指導の場合書物に依る独習は手加減を要します。次に柄は居合巻といふ平巻きに作りますが普通の太刀巻きで結構であります。初心の時は鯉口を損ぜぬ様金具を嵌めるのも一つの方法であります。鍔は稍々小さい方が無難です。修行上の詳細なる点は与へられた紙数では之を露す事が出来ないので割愛致します。
 近代戦は新兵器の戦ひであり科学の戦でありまして居合の如きは迂遠千萬のものゝやうに思はれる方もありませうが、平素居合におうて鍛錬した精神体力こそは実に近代戦においても沈着果敢冷静水の如く勇猛烈火の如き活躍をなす根幹なすものであります。勝敗の決は依然として日本刀銃剣を以てする白兵戦が握っている事を考へれば思い半に過ぎるものがありませう。

 このスクラップは満州刀剣会監事の永淵清次という人が大連日々新聞に書いたものを、曽田先生は斬り抜いて曽田本その2に張り付けたのでしょう。
 昭和18年には既にニューギニアのブナで日本軍全滅、連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン上空で戦死、アッツ島全滅、前年の末にはガダルカナル島撤退が始まっています。決してこの様な日本刀による白兵戦などの世界とは思えません。意味不明の日本刀による精神の昂揚を説いて見ても、何の感動も起こらない、寧ろ嫌悪感の方が先に立ちます。近代兵器の前に多くの同胞を失い、守るべき妻や子まで巻き込まれて死んでいった、私にとっては父母の時代です。その一つにこの様な精神論があって他国から見れば無差別殺戮止む無しであったかもしれません。

 相変わらず真剣を以て居合の稽古をするのと模擬刀に依るのとは違うなどとおかしなことを言って居る人も居ます。材質が違えば感じが違うのは当たり前ですが、そんな事に拘っていては木刀や棒や竹刀など意味のないものになってしまい高い日本刀での居合以外に稽古する事もおかしなことになってしまいます。
 そんな人に限って、高段位になっても指から血を流している、初心の頃に形ばかり指導され、嘘の精神論を信じているへぼ居合人です。本物の修行の行きつく先は無刀であり、進んで神妙剣であるものです。

 スクラップはここまでで終わります、次回から再び曽田先生の直筆のメモになります。
 

| | コメント (0)

2019年9月12日 (木)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の8

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の8昭和19年5月18日高知新聞掲
光栄に輝く剣の生涯 ひたむきな精進に心魂注ぐ

 山梨武徳会支部の道場開きのとき大分剣客が方々から甲府に集まった、このとき川崎善三郎氏は門奈正というふ人と立合ふことになった、この門奈正は川崎氏よりも少し先輩で水戸藩の人、弘道館で修行し明治になってから小澤寅吉の東武館に入門し一刀流と田宮流居合の免許皆伝を受けそれから警視庁に入り下江秀太郎について磨をかけた剛の者だ、
 一本一本と取り合うて勝負になると川崎氏は相手の竹刀を敲き落とした、それからまだ対ってくるのを得意の足搦みで続けざまに五度倒した、何しろ相手の門奈は五尺八寸に近い偉丈夫、それに引きかへ我が川崎氏はちっぽけだ、それにコロコロやられたから余程残念さうだったといふ、
 その後数年経過した或日、この門奈と久し振りに立合ふことになった、ところがこのとき渡辺昇男爵が見えていた、渡辺男爵は元肥前大村人で斎藤新太郎門下の神道無念流の達人であった、その渡辺男爵が以前の川崎氏と門奈との試合の模様を知っているものだから、川﨑氏を呼んで「門奈をもう一度あんな目にあはしてみろ」といふ、その一方門奈には「今度は仇を討ってみろ」といってつまり双方をけしかけたわけだ、試合となると川崎氏は門奈が小手を得意だといふことを知っていたので十分に用心をして心中あはよくば例の足搦みを喰はしてやらうと意気込んでいた、すると相手はヂリヂリと退る、川崎氏も隙を窺いながらヂリヂリとつめより、柵のところまで追ひつめた、ここだッと「お面」と板の間を蹴って飛び込むと、見事に「お胴ッ」とやられた、しまったと思ったがもう遅い、次にもやはり其の手で、結局三本ともしてやられた、試合が終わると門奈が「川崎、川崎」と大きな声で呼び「仇をうったぞ」といった、それで川崎氏は「参った、いかにも恐れ入った」といったので一同が大笑ひになった、
 その後父専輔氏が七十七歳で病没したので土佐へ帰り各中等学校の剣道師範および大日本武徳会高知支部の名誉教師として晩年を全うしたが、その八十五年の生涯を顧るに幾度か天覧、台覧の試合にも出場の光栄に浴し、殊にはじめての天覧試合のときに畏くも天皇陛下より竹刀料五百匹、皇后陛下より紅帛一匹を賜はった、最近では昭和4年の天覧試合のとき高野氏と共に審判をして御紋章入りの金賞牌を拝受する栄に浴した、このやうな数々の光栄を蒙ったことは一介の剣士として面目この上もないことであり、同時にそれはどんな場合にも“剣”といふことを念頭から離さず勵んだ賜ものであらう(完)

 以上で川崎善三郎の剣に生きた生涯の記事は終わります。この記事は高知新聞という地方紙に掲載されたものですから、川崎善三郎の関係者は川崎氏、高橋氏。高野氏という様に氏をつけていますが、土佐以外の人で立ち合った人は呼び捨てとする程偏ったお国自慢でほほえましいのですが幼稚な感じは拭えません。
 昭和19年1941年の記事で、切り抜きは78年前のものですから当時の新聞紙やインクの良し悪しは判りませんが印刷が薄れていたり、印字が欠けたり、ぼやけて判読不能の文字が多く、メモ帳の寸法に折られて張り付けられていますから折り目の部分はますます判読不能になってしまいます。幸いなことに、読まれた人も少なそうですのでここまで読み取ることが出来ました。
 川崎善三郎先生の略歴をこの新聞記事から並べてみます。
 安政3年1856年  生まれる
                             父 川崎専輔
文久3年1863年  7歳 剣道稽古始める
「武道家の子は幼少から十分な素地をつくらねばならない」との父親の方針
           切返 5年間 
           型  2年間

 慶応2年1866年  10歳   寺小屋に入る
 明治4年1871年  15歳 道具をつける
   明治10年1877年 21歳 西南戦争 四等巡査になる
   明治16年1883年 27歳 大阪に撃剣試合遠征(大江正路も同行) 
                           高橋赳太郎と立合う
 明治19年1886年 30歳 警視庁入庁 高野と出合う 
               この頃山岡鉄舟の春風館に入門
 明治20年1887年 31歳   芝山での天覧試合野試合参加
 明治22年1888年 32歳 警視庁へ道場破り 川崎・高橋・高野で撃退「三傑三郎」となる 

 明治33年1900年 44歳 山梨県巡査教習所剣道教師となり甲府在住 
   昭和4年1929年  73歳 天覧試合審判で御紋入り金賞牌を受ける  

 昭和00年      父専輔死去(77歳)土佐に帰り中学校剣道師範
            大日本武徳会高知支部名誉教師              

 昭和19年1941年   85歳 没す
 

| | コメント (0)

2019年9月11日 (水)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の7

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の7昭和19年5月17日高知新聞掲
関脇を足搦めで屠る 東京大相撲甲府巡業中の珍話

 日清戦争の最中に広島の仮議事堂で天覧試合をしたことがあった、その後川崎氏は土佐へ帰っていた当時の土佐の剣客には馬淵桃太郎、小松孫四郎、馬詰栄馬などがいた、かくて川崎氏は明治33年の春山梨県巡査教習所の剣道教士を仰付かって甲府に行った、時の山梨県知事は後に高知県知事にもなりまた文部次官になった石原謙三、書記官が例の西久保弘道、それから警察部長が後に北海道長官になった岡田文次の諸氏で何れも剣道は今の三段位の腕前であったので、当の川崎氏は非常に優遇されたものだ、
 その頃東京大相撲の常陸山一行が巡業に来て雨でニ三日休みになった、或日道場へ力士が多勢見物に来た、ところが関脇の稲川が“俺も一本やってみる”といひ出した、何しろ素人と言へ二十七、八貫もある図体でそれに力稼業の男だ、うっかり相手になって痛い目にあふのは厭だからみんな尻込して結局川崎氏に廻ってきた、「さうかよろしい、やらう」と云っている処へ噂を聞いて西久保書記官が常陸山と一緒にやってきた、常陸山は非常に意気込んでいる稲川に「よせ、よせ、相撲取りが撃剣をするといふのは道にないことだ、道にないことはよせ」斯ういって制めたけれども稲川は元気を煽られているのでどうしても承知しない、すると西久保書記官が「面白い、では俺の道具を貸すからやってみろ」といふことになり川崎氏も道具をつけて道場に出た、川崎氏は東京に修行しているとき逸見宗助先生から「筋肉をきたえているものを相手にするときは尋常では駄目だ、脉を打たんといけない」とかねがね教はっていたので面倒になれば腕の内側に一本見舞って痺れあげさせてやる覚悟であった、
 さて立合になると稲川はいくら打たれてもいい、相手の身体に竹刀をあてさへすれば勝だといふのでまるで牛が突きかかるやうに飛び込んで打ちかかってきた、それをニ三回受け流すと川崎氏は例の足搦みで稲川を道場の真中にドスンと倒した、慌てて起き上がるや否やまた足搦みでさすがの稲川兜を脱いだ。
 明治36年の5月には八王子甲府間の鉄道が開通することになった、さて開通式の当日は甲府はじまって以来の賑ひで近郊近在から見物人が集まって町がはちきれさうな人出であった、開通式も滞りなく終ると祝賀の大宴会があり、宴会が済んで町へ出た時はもう夜になっていた町の混雑は絶頂に達している、川崎氏は渡辺千春と連れだって家へ帰らうとしたが途中の交通整理を消防の人々がやっている、腕には刺青をチラチラさせていた、そして今日はお上の手伝いをしているといふので特に意気が高かった、ところが喧嘩好きな千春は人混みを歩くうちにあっちこっちでぶつかっては喧嘩をはじめた、消防が制めるのだが、その制め方が生意気だといふので腹を立て、それから消防の姿を見るとポカンと殴りつける。
 川崎氏は何分人に揉まれながら歩いているのでそんなことはちっとも気がつかずに平気で悠々と歩いて春日町まで来ると千春に別れて家に帰った、そして寝ようかと思っていると門口をドンドン叩くものがある、出て見ると近所のお内儀さんが血相変へて「いま露地の口で消防が集まって、ここだ、ここだ、川崎の家はここだ、と騒いでいる」といふ、また近所の男が駆けつけて来て「五十人ばかりの消防が手に手に鳶口を持って相手は剣術使ひだから油断すな」とのことだといふ、当の川崎は一向に訳がわからないので「何も消防から喧嘩を売られる覚えはない」と平気でいたけれども近所の男は心配して荒井警察部長のところへ注進に行った、川崎氏は話がわからぬうちに殴り込まれるといけないと思って戸をしっかりとしめて様子を窺っているとドヤドヤと押しかけてくる足音がする、「叩きのめせ、殴り殺せ」いきまいており今にも戸を打破って雪崩れこまうとする気配だ、川崎氏はそんな理不尽なことをすれば覚悟があると決心して身構へをしていた、
 そのとき、急を聞いて駆けつけた荒井警察長の話によって事の顛末がのみこめた、それは千春が乱暴したことを川崎氏がけしかけたと誤解したのである、兎に角かうして無事に済んだけれども一時は血の雨が今にも降るかといふ大騒ぎだった。
 

| | コメント (0)

2019年9月10日 (火)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の6

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の6昭和19年5月16日高知新聞掲
三傑三郎は斯くして出来た 夜通し猛稽古をつけた精神力

 明治20年6月、芝山の彌生社で天覧試合があり、そのとき野試合があった、わが川崎氏等三人は三本勝負を天覧に供する光栄に浴し野試合には関係がなかった川崎氏は白軍から助太刀を頼まれたので加はった。
 敵軍を見渡すと奥宮警察署の永井利胤氏が紫の襷をかけて指揮している、この永井氏には川崎氏が最近の方面会で敗けたことが有るので、今度はやってやろうと乱軍の中を縫ふて近寄った、▢て永井氏と向ひ合ふと同氏はパッと打込んで来る、そこを例の足搦みで見事に倒したが何れ入乱れての乱闘だ、倒れたが百年目で大せいの白軍の者にポカポカとやられて永井氏はたうとう気絶してしまった、
 次に明治22年頃警視庁に道場破りがやって来た、それは旧榊原藩の指南役で戊辰に越後に出陣した時の鬼の指物をつけて武勇を轟かし豪剣の名も高かった柴田克己、薙刀の名人の長尾俊久、それから鎖鎌の大家大久保某の三人で揃ひも揃って手強い人物ばかりである、すると上田馬之助先生は川崎氏等に「この相手はお前ら三人で始末しろ」といった、そこで三人はジャンケンをして順序を決めたところが、高野、高橋、川崎といふ順になった、まづ薙刀の長尾が樫の木の薙刀を持って出て来た、この薙刀を腰のあいだにいれてひっかけつりあげて投げつけるのが長尾の得意だといふ、高野氏は薙刀の峰を踏んで落すところを胴をとり、最後に小手を取って見事に破った、次に高橋氏が出て勝ち、最後に川崎氏が飛込んで面をとり、それから足搦みでさんざんやっつけた、次が鎖鎌の大久保だ、ところが鎖鎌といふものは、六尺ばかりの鎖の先に分銅がついていてブンブン振り廻す、こちらの竹刀に搦みつけて引きよせ脇に挟んでいる小太刀で打つといふ厄介な代物である、川崎氏が長尾に勝って下ってくると、高野氏と高橋氏が何か相談していたが高橋氏が「川崎、貴公は鎖鎌をやった経験があったはずだな」といった、それで、川崎氏が「いかにもある」と答へると「それなら大久保は貴公一人でやってくれ、柴田は俺たちが引受ける」といふ、さうなるとわが川崎氏は厭とは言へぬ性分だ「承知した」と引受けてしまった、
 かくていよいよ大久保と立合ふことになった、型の如く互に礼を交はして立ち上がらうとすると、目の前一尺ばかりのところに相手の分銅が来ていた、しめたと思って左足でひょいとその分銅を踏まへて立上った、大久保は肝腎な得物が使へぬので狼狽している、そのところを一撃で鎖鎌を叩き落し、飛び込んで行って大久保のさしている小太刀を奪って胴をついたのでさすがの大久保も完全に参った、
 一方柴田も高野、高橋両氏が見事に勝ち道場破りの大敵を無事に撃退したので、上田先生から一同は大へん褒められた、それでこの当時この三人ー川崎善三郎、高野佐三郎、高橋赳太郎は「三傑三郎」と畏敬されて剣客の中に知れ渡った、
×   ×
 その頃吾妻橋所の道場開きがあり川崎氏等十人が稽古をつけに行ったことがあった、ところがこの十人を叩き潰してやらうといふので各署から選り抜きのものが二十人づつ詰かけ手具脛ひいて待っていた、稽古は晩の六時から始まったがそれからぶっつづけに一息つく暇もなく交る交る出てくる先方は叩き潰すつもりだから新手をひきかへひきかへ無二無三に打ってくるとうとう夜中になると他のものは皆叩き潰されて残ったのはわが川崎氏等三人だけだ、もうそのときはクタクタになって羽目板に身をもたせてやっと竹刀を持っているのだが、相手はそれを無理やりに道場の中ほどへ引張り出して足を払っては転がし、背中などをさんざん殴るのだ、もう駄目だ、と声を上げようと思って横を見ると高野氏も高橋氏もフラフラしながら兎に角闘っている、それを見ると何くそと勇気をしぼり出してまた立ちあがる、
 十二時を過ぎた頃には三人とももう無我夢中で羽目板にへばりついて相手に殴られるままになっている、もう目の先がまっ暗で何も見えないところがそのうちにだんだん白みかけるとその道場の隣に鶏屋があって、そこに飼ってある鶏が鳴きはじめた、すると俄かに三人とも元気が出てさあそれからは片っぱしから出て来る奴を殴り倒し朝の六時まで頑張り通して引上げた、家へ帰るとそのまま寝床へ転がりこんだが、それから二週間といふものは夜も昼もない、ただウツラウツラ眠っていた、ときどき起きて小便に行くだけだが、その小便も二週間位は血の小便であった、これを見ても如何に猛烈な闘ひであったかが察せられるとともに、こんなにも頑張れたのは春風館で修行したおかげであらう。

| | コメント (0)

2019年9月 9日 (月)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の5

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の5昭和19年5月14日高知新聞掲
剣道に年齢はない心眼明かなれば幾歳でも使へる

 あっちこっちの道場へ行っても手に立つものがいないので聊か天狗になった我が川崎氏に高橋氏を誘ひ二人で春風館(山岡鉄舟先生の道場)に乗込み玄関番の書生に名を名乗って試合を申し込んだ、すると書生は奥へ引込んだがそのまゝでなかなか出て来ない、玄関で二時間あまりもまたされた挙句やっと道場に通された、そしてまたその道場でも待たされた、
 二人はまだかまだかとぢりぢりして待つことまた二時間、すっかり痺れをきらした頃内弟子の佐野といふ男が物も言はずに現れた、二人は妙な奴ぢやと思ったが我慢していよいよ立合をするのだからと二人が道具をつけようとすると佐野が口を開いて「いや、それにはおよびません」といふ、そして木剣二振り道場の真中に組んだまま末席に坐った、
 さてはきっと型を見せてくれるのだろうと高橋氏と話しあひながらまたニ三十分経つと奥の方から足音が聞えて来た、二人は固唾をのんでいると鉄舟先生が四五人の高弟をつれて出て来た、純白の刺子の稽古衣に小倉の縦縞千筋の袴を穿いて真黒い頬髭を靡かせ這入ってきた、二人は思はず感に打たれて今迄張切っていた肩肱をすぼませてハッと頭を下げた鉄舟先生は黙って正面にピタリと着座する、そこで佐野が「先生がお立合いひ下さる」と言った、二人が頭を下げると、それに押かぶせて「ついては当道場の掟として試合とあれば素面、素小手で木剣で立合ふことになっているから左様御承知ありたい」といふ、それまでいい加減鉄舟先生の感に打たれている二人はそれを聞くと縮み上がって返事が出来ず、顔を見合せていた、すると佐野が一段と声を張り上げて「言葉を改めろッ」といふ、二人は何のことだかわからないのでどう改めるのだと訊くと、「御指南願ふといへ」といふのだ、それで二人は「御指南願ひたい」といふと佐野がそれを高弟に通じる、高弟はまたそれを鉄舟先生に申し上げる、すると鉄舟先生は黙ってうなづいたまますうつと奥へ這入って行った、
 それから道具をつけて、高弟衆に稽古を願ふと、二人はいやはやもう散々に叩き据えられてヘトヘトになり頭を巻いて春風館を出た、すっかり天狗の鼻を折られてしまったわけである、その後佐野の紹介で二人は春風館に入門することになり、高野氏も改めて入門した、一応春風館は評判の稽古の厳しいところだが、特に入門した三日は胆だめしだといって、立ちも這ひも出来なくなるほど荒稽古させられる、それが済むと普通になるのだが、普通と言っても他所の道場の二倍も三倍も荒い稽古であった、この稽古がどれだけ為になったものか、すなはち後に「三傑三郎」と称して畏敬される三剣豪の素地をこの時つくったのである、
 さて入門すると鉄舟先生はこの三人を特に目をかけて指導した、また勝海舟先生など見えられた時は隣室で話しを聴くことも許された、鉄舟先生の稽古といふのは三尺三寸の竹刀を持ち非常に柔らかな稽古振りであったが、いくらこちらが打ったところで、ピリッとも態度が崩れないので一向に打ったやうな気がしない、得意は突きで「一本行けッ」と一喝すると、二、三寸竹刀が離れているのにゴクリと突かれたやうな気がしたといふ、鉄舟先生はそんな豪傑であったが人を呼ぶのに決して呼び捨てにはせず、年少の川崎氏等に対しても必ず「川崎君」といふ風に呼んだ、
 そして鉄舟先生は川崎氏等の門下生に対し「剣道には年齢がない、心眼さへ明かなれば幾歳になっても使へる」といふことと「逆足は踏むな」それから「欲を捨てろ」とよくいはれたものだ、それは剣の上だけでなく事実鉄舟せんせいは欲をすてられた方であった、思ふに我が川崎範士が恬淡で清貧にあまんじ85年の大生涯を全うしたのは蓋し鉄舟先生の薫陶によるところ大であろう。

 「剣道には年齢がない、心眼さへ明かなれば幾歳になっても使える」
 大抵の人は40過ぎぐらいから若い者には勝てないと云って益々、段位と所属年数、役職の上下に拘って使えない剣道を続けている様です。歳を取れば使えないものならば稽古しても意味は無さそうです、何か間違った稽古をして来たのでしょう。幾つになっても役立つものが武術なのでしょう。
 足腰を痛めている五、六十代の人が大勢います、練習法も間違っているのでしょう。早い強いばかりに拘って見てもどんどん筋力は衰え関節は摩耗して行きます、一ケ所に負荷のかからない運剣を身に着け、鍛えるべきものも変えて行かなければならない筈です。それが鉄舟先生の」「非常に柔らかな稽古振り」に現れていたのでしょう。「心眼さへ明か」とはどの様にすべきなのでしょう。一言で言い表すことが出来る人も居るでしょうが、心眼が明らかでも体が思うようにならなければそれは明らかとは言えそうもない。幾つなっても使える心眼は課題です。

 「逆足は踏むな」は歩み足の動作が身に付けば其れによって可能かもしれません。右足前だけの運剣動作や、剣先と逆の足捌きで居付いてしまったのでは是もそこまでなのでしょう、それとも更に奥が籠められているかもしれません、課題でしょう。

 「欲を捨てろ」は、素直な気持ちでより良いものを学ぶ気持ちがなければ捨てられない、勝気ばかりの人は何も身に付く事は無いし、身も心も不十分なのに無い物ねだりしても結果は得られそうにもありません。初心者や素人相手に多少習って出来る業を仕掛けて悦に入っている人も結果は其処までの様です。是も課題です。
 

| | コメント (0)

2019年9月 8日 (日)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の4

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の4昭和19年5月13日高知新聞掲
高野氏との初顔合わせ剣客雲集す明治20年の東京

 明治19年春青運の志を抱いて上京した青年の川崎善三郎氏は未だ東京の水に慣れないでウロウロしている頃の或る日料亭へひっぱりあげられたことがある。二階に上ると廊下のつきあたりに大きな姿見があった、それまでそんな大きな鏡を見たことのない川崎氏だったので向ふから自分によく似た奴が来ると思って吃驚したといふ、そんな挿話を撒いているうちにだんだん東京に慣れて来た。
 明治20年の警視庁管下は六方面に別れていて第一は品川、高輪麻布など第二は久松町、京橋日本橋などといふ風に一方面に四つか五つの署が属していた、そして毎月各方面で方面会といふ剣道の試合を催した、従って月に六回は方面会がありこの会には各署から優秀なものを選手として出し部長なども必ず出席して見物した、既記のとほり三島総監の奨励によって諸国から剣客が集まって来ていたので警視庁にはなかなか使手が多かった、わけても難物と名をとったのが伊藤良彌、野津元三郎、小石川署の斎藤竹次郎、下谷署の門宗正そのほかは元佐倉藩の兼松直庸、これは鏡新明智流で桃井の四天王の一人だった、そのうちに大会があってその時川崎氏が顔を合わせたのが両国署の高野佐三郎氏(三傑三郎中の唯一の現存者)であった。
 高野氏は秩父大宮の松平下総守陣屋の指南版番で小野派一刀流の高野苗正といふ人の孫である、その前に上京したとき猿屋町署の堀口といふ剣道四段、柔道四段で警視庁切っての力持と組打をして捻ぢつけ洟汁を垂さしたといふ剛の者なので、これこの手でひっくり返されていたかは油断がならぬわいと思った、ところが先方も先方で両国署長の宮内警視はわざわざ高野氏を呼び「高輪の川崎は足癖が悪いから気をつけろ」と注意した、わが川﨑氏は足掴みが得てで大概の敵手ほらである、結局の勝負は引分けとなったがやはり川崎氏は足掴みでやったことはやった、それ以来川崎氏はこの好敵手の高野氏とも親交を結び高橋氏と三人で稽古もしまた大いに遊びもしたものだ。
 当時川崎氏は一等巡査の資格で月俸十円弁当代一日六銭にして一円八十銭服代月割一円六十銭、別手当三円その他半年に短靴料二円、一ヶ年に長靴料五円であった、其頃下宿代が大体六畳二円といふのが相場でそれには三食とランチ、火鉢が含まれていた、天保銭一つで風呂に入って蕎麦が二杯喰へた、高輪から神田まで俥をとばして五、六銭、牛肉屋の“いろは”では五十銭で二人で存分に飲み食ひ出来た、そんな時代だから本俸ともに十四円内外の月収があれば豪勢な暮らしが出来たものだそのうちに川崎氏も高野氏も高橋氏もどこの方面へ行っても滅多に敗けない、あっちこっちの道場へ行っても手に立つものがいないので聊か天狗になった、それである日高橋氏に「どうだ、春風館へ行ってみようではないか」というと高橋氏は立ちどころに賛成した。春風館は山岡鉄舟の道場だ、高野氏は十七歳のとき金鎖神社の神前試合の恨みから春風館に入門して修行したことがあるので誘はなかった。

 

| | コメント (0)

2019年9月 7日 (土)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の3

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の3昭和19年5月12日高知新聞掲
両剣士を結ぶ申試合 負け嫌ひで而も人善しの反面

 明治16年のこと、この時分は撃剣試合の興行といふことが流行して高知でも堀詰座でやったりしたが、その後十人ばかりの剣士が大阪に遠征したことがある、大将は馬詰栄馬といふ両刀使ひの達人で元の致道館の師範、副将が馬淵桃太郎ーこれは桃井の高弟で箕浦猪之吉が妙国寺で切腹したとき望まれて介錯した使ひ手だーその他は深瀬幸太郎、志和幹作、郷千代次、前野新作、大江正路および当の川崎氏などで一行は大阪につくと土佐堀の土佐人経営の岡村旅館に泊まった、試合の場所は高島座で大入満員であった、勝負がつくと羽織や帽子を舞台に投げつけるそれを行司が披露すると剣士がそれを持って投げた客のところへ挨拶に行く、もちろん木戸銭をとったのでまるで芸人か相撲のやうな待遇を受けた。
 高島座の試合がすむと今度は長堀の警察署へ招かれて試合することになった、川崎氏はこのとき当時長堀署の剣道師範をしていた故高橋赳太郎範士と立合ふことになった、川崎氏は長堀署で立合ふ以前に相手の試合振を見ていたので此奴は手強いぞと思った、そこで試合の時ちょっと竹刀を合わすと直ぐ組打を挑んだ、組打となると「参った」といふまでやるのである、坂本龍馬が日根野塾にいるとき同門の岡林譲蔵とやって組みふせられて「労れた 労れた」といって「参った」と言はなかったといふ有名な話がある。
 それで川崎氏と相手の高橋氏は竹刀を捨てて組打をはじめたが30分ばかり上になりしたになりやっているともうどちらもヘトヘトになった、それで馬詰が「もうよからう」といったが秋山は「死ぬるまでやらせ」といふ、二人はそこでまた半時間ばかりやったが遂に両方とも息をつけないやうになて倒れてしまった、これが将来両剣豪を結ぶ縁となり川崎氏は高橋氏に勧められて一年ばかり神戸の監獄の師範をしたことがある、さうしているうちに東京では警視庁の三島総監が大いに武道を奨励しているので諸国から剣客が雲の如く集まっているといふ噂を聞いた。
 川崎氏は元修立社の社長であった水野寅次郎が当時三等警視で勧め小石川の署長をしており、その方からも勧められていよいよ上京を決心し明治19年の春に国を出た、かくて高輪署の剣道世話係、奉職し雨宮潤三郎の下に勤めることになった、一方相手の高野氏は一足お先に上京して警視庁本部剣道世話係になっていた、その頃同本部には上田馬之介、樋口政之、逸見宗助、下江秀太郎、得能関四郎などというせんせいなどが大取締役で師範をしていた。
 上京した川崎氏は実弟の伊賀彦氏当時慶応義塾に通学していたのでその下宿に同居した、実弟の伊賀彦氏慶応義塾に学ぶやうになったのは次の理由による、父専輔氏が伊賀彦氏に「時勢は変わった、兄は剣で身を立てたが、お前は学問をやれ」と言ったので明治16年に高知一中を卒業すると直ぐに上京したのである、これは余談だが明治16年度高知一中卒業生といふのは伊賀彦氏一人だ、それといふのはその時に自由党の職員がみんな罷めさせられたので同級生が悉くストライキをしたのに伊賀彦氏一人加はらなかったからである、
 さてその下宿屋は田町六丁目の大通に沿った田井といふ家で故上村大将夫人の実家で屋号は井ノ口屋といった、そこには川崎氏の親友の高田逸馬といふ高知県警部が三年前から上京して警官講習所に通っていて止宿していた、東京の水にすっかり慣れていた伊賀彦氏も高田氏も初めて出て来てウロウロしている川崎氏にいろいろ知恵をつけたがある日のこと三人で雑談していると伊賀氏が「兄さん、あんたはちと金を持って来たか」と訊ねるので、国を出るとき持って来た三十円に手をつけていなかった川崎氏は「少々持っちょる」と答へた、すると高田氏が「その金はどういふ風にして持っているのか」と訊くので「大切に懐中しちょる」と答へると「そりゃいかん、東京は生馬の目を抜くとこじゃ、大金を提げ廻っては危険ぢや、是非とも畳の下へでも匿して置くがよい」と忠告してくれた、それでその夜川崎氏はその三十円を紙にくるんで畳の下へ入れて置いた、翌日チョット外出して帰って見ると、二人は居ない、どこへ行ったのかと思って下宿のお内儀に尋ねると「何だか知らぬが、貴方のお部屋でゴソゴソしていて、やがて二人とも大笑ひに笑ひながら雀躍りして出て行かれましたよ」かといふ、さてはと思った川崎氏は急いで部屋へ行って畳を捲ってみたら三十円は影も形もなくなっていた、なるほど東京は生馬の目を抜くところぢやと感心したといふ、二人はその夜へべれけになって帰ってきた。
 

| | コメント (0)

2019年9月 6日 (金)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の2

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の2昭和19年5月11日高知新聞掲
最初の五年は切返し 次の二年は型ーこれを基本に稽古

 川崎善三郎翁は7歳のときから正式に稽古を始めたが、はじめの五ヶ年は切返しばかり、次の二ヶ年は型ばかりやった大体稽古はこの二つが肝要であり、これはちょうど軌道をつけるやうなものでこの軌道がしっかり出来ておらんと本当の修行が出来ないからである、そんなわけで道具をつけて叩き合う稽古は15歳になってからであった、その頃の稽古は足腰が立たなくなるまでやり、へたばりこんでしまっても呼吸が調ふとすぐまたかかっていくといった具合であった。
 寺子屋に通ひはじめたのは十歳の頃で師匠は同じ新町の近森といふ人、ここで手習をはじめ、小学、大学、論語、孟子などの素読から謡曲まで習った、自宅の道場の稽古は朝五時から七時まで父はそれをすまして十時から午後の三時ころまで致道館に行った、寒稽古は午前二時から始めたものだそれから当時新町に住んでいた足軽の結城金次郎の親父が講の金を受取って比島から帰って来る道で、比島の金次といふ悪黨に殺されたことがあり、金次は捕へられて処刑されたそのとき金次郎は十二三であったが七十あまりの祖母とともに仇討の形式をとった、こんなときには剣道の師匠は門下生を連れて刑場に行く、つまり見物させるのだ、川崎氏も父に連れられて握り飯とウルメを持って見物に行ったものである。
 西南戦争頃の土佐はなかなか物騒であった、板垣とか後藤とかいふ大頭連は野に下るし、片岡健吉は帰って来て立志社を興すし政府の方でも目をつけている、それに古勤王黨の連中が大久保や岩倉の組織した政府に反感を持っているので、今にも動乱がはじまりそうであった、川崎氏の父なども長岡郡の池知退蔵、野市の北の新宮の森輿太郎、野市の大石円(もと彌太郎)などと気脈を通じており、同志の森脇直樹が当時三等警部であったから、その手を通じて同志の壮士を巡査にして各地に配り軍用金なども密かに集めていた、新町の田中亨、池上平などはそれで一等巡査になり、川崎氏も四等巡査になって赤岡の屯所の御庄といふ人のもとに勤めた、元来はニ十歳にならぬと資格がないのだが十七、八の壮士もどしどし採用したもので当の川崎氏などもその組で月給が四円で滞在日当ニ十銭の割であった。
 西南戦争がすむと鹿児島から壮士がニ、三百人来て警部や巡査になった、この時に森脇等はことごとく免職されたのだ、その薩摩の連中は戦争をして来た連中ばかりでなかなか気が荒く高知の壮士連と事毎に衝突した、高知にはその頃たくさんの社があった、北▢に逍遥社、上街に開成社、北新町に共行社、江ノ口に有信社、潮江に▢陽社、中浦戸町に修立社、久万に精到社、水通に南嶽社、大川筋に南洋社といった具合で荘士連は腕まくりして太いステッキをつき紙緒の皮草履を穿いて闊歩し、政論を闘はして慷慨悲憤をし薩摩人の巡査とよく衝突した、各社とも壮士の若いのは十二、三歳のものもあり、それが結構一人前に暴れたものである。
 川崎氏は共行社に属していたが、この共行社には一号、二号、三号、四号といふ風に階級があり川崎氏は年少ではあったが二号であり随分と悪戯をしたものだ、それから共行社は山稽古、浜稽古といふこともしたし時には安芸まで十里を日帰りすることもやったが、列を作って歩いてうちに音頭とりが「マガリナシ、マガラズ二、マッスグユケ」と号令をかけると田辺島あたりの曲っている道でも真直ぐに歩く、田の中をどしどし歩くのである、川があってもその号令のときはザブザブと横切らなければならなかった。
 

| | コメント (0)

2019年9月 5日 (木)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の1

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の1昭和19年5月10日高知新聞掲
剣に全心魂を打混む 七歳にして既に道場に出る

 天下の剣豪範士川崎善三郎翁は昭和19年5月2日午前9時50分高知市帯屋町95の自邸で85歳の生涯を終った、幼少7歳にして父君川崎専輔翁に手ほどきを受けてからその終焉まで斯道に研鑽すること実に前後70有余年、稀に見る長年月の練達者であった、父専輔翁は愛児善三郎を育成するについても「武道家の子は幼少から十分な素地をつくらねばならない」とあって、7歳ですでに道場に連れ出して竹刀を持たせたほどであって、その稽古振りも決して並一通りではなかった、それだけにその進歩の物凄さは驚くばかりであった、しかも氏は尚これ以上で足れりとせず当時高知の一流剣士数氏について猛烈な指導を受けたので技倆はいよいよ上達、遂に海南土佐にそのひとありと謳はれるに至った。
 当時高知県出身で警視庁警視を奉職していた山本正幹、水野虎次郎の両氏は、この少年既に一家の風格を備へた川崎氏の非凡な腕前を認め、招いて警視庁に入らせた、時に明治19年である、氏は直ちに高知警察署に奉職し剣道助教を拝命したが、教授の傍ら上田馬之介逸見宗助、下江秀太郎等当時の錚々たる剣豪について血を吐くやうな稽古を積むこと実に十星霜におよんだ、げに氏の▢▢は死物狂ひだった。生命を賭しての精進だった、余りの猛稽古に下宿へ帰っても二階へ上がれず、仕方なく梯子段を這ひ上がった、飯を食うにも茶碗も持ち上げられなかった、もともと天才的な技量を持った上にかうした猛練習である、たちまち東都武道界に断然頭角を現し、そのヒタと構へた無外流必殺の剣尖は真に天下無敵まことにめざましいものであった、折しも東京には小野派一刀流の達人高野佐三郎氏(埼玉)あり、無外流浅田一伝流の達人高橋赳太郎氏(兵庫)あり、ともに斯界に麒麟児の名を馳せていたがこれもわが川崎善三郎氏を加えて「三傑三郎」と称して畏敬した、いふまでもなく三氏とも郎の字がつくからだ、その三羽烏のうち高橋赳太郎範士は既に物故し今はわが川崎範士逝き残るはただ高野範士のみとなり一抹の寂寥を感ぜしめる、▢々われらはいま翁の面影をしのび「武道土佐」はもちろん我が国武道界に遺した翁の大きな足跡をたどってみよう・・
 剣道範士川崎善三郎翁の祖先は長曾我部の家家臣で川崎黒右衛門といった祖父の代になってはじめて山内家に仕へてお城下の新町俗に井出淵に住んでいた、父はもと久助といったが殿様筋の名前に差障りがあるのでおもてむきは専輔と改めていた、新町には其の頃軽格の者ばかり住んでいてその若い連中は南瓜組といふ黨を組んで盛んに暴れまはったが、その乱暴の中でも川田金平の黒ミツチャはとりわけ有名であったといふ、
 当時中新町二丁目には番太小屋があったが南瓜組の者が夜遊びに行って帰りに「番太、何刻か」と聞くと、番太はうるさいものだからいつでも「昨夜の此の頃じゃ」と返事をすると、それが面憎いといふので白ミツチャと黒ミツチャが発頭人になって番太が眠っている隙に大勢で番太小屋を取り囲み外から戸をしっかりと閉め窓から辛子で燻し立▢▢、番太が目を覚ましてコンコンとむせ返りながら出ようとすると三、四人で番太小屋を担ぎあげて川へ投げ込むぞと脅かし御頭番太を恐れいらしたといふ、
 それからまた後に武市半平太先生の勤王黨に入り大阪で井上佐一郎を暗殺したり久松喜代馬が女房を貰ふたところが、それが生意気ぢゃといふので南瓜組の者が土瓶に濃い▢を一ぱい詰めて持って行き、婚礼の席で撒き散らした、この乱暴は公の沙汰になって横目が探索に来て調べあげると、発頭人はやはり川崎久助と川田金平だとわかて二人はオヅコメ(押込め)で謹慎のことになった、わが川崎善三郎氏はかうした負けぬ気の父の長男として万延元年4月20日に生まれた、この父は井出淵の自宅で道場を開く一方、藩校致道館の剣道取立役を命ぜられて出勤した、
 その頃の門人の主なものは例の久松喜代馬、天誅組の吉村寅太郎、後に堺で切腹した箕浦猪之吉、武市先生の片腕で獄死した島村▢吉などであった、その当時土佐藩は勤王と佐幕が争って参政の吉田東洋が殺されたり、武市先生が切腹したりするやうな騒ぎであったが、父は専ら武道にいそしんで政治むきのことはかんけいしなかった、善三郎はこの父に連れられ弁当を提げて武道館へ毎日通ったのである(写真は晩年の川崎善三郎)

Img_0679
*
 昭和19年の高知新聞に掲載された川崎善三郎とその周辺について5月10日から16日の1週間の掲載を切り抜いて曽田本その2に張り付けてあります。
川崎善三郎先生は5月2日に85歳で亡くなったもので、その逝去を惜しんで記述されたものです。75年前太平洋戦争真っただ中の事でインクも薄れて画数の多い漢字は文字が不明瞭でその上文字の大きさも今時の新聞の半分位ですから虫眼鏡が無いと読み進められません。随所に▢で読めませんとしてあります。特に解説すべきものでも無いので転記のみとしておきます。

| | コメント (0)

2019年9月 4日 (水)

曽田本その2を読み解く31スクラップ橿原神宮で古武道大会31の2

曽田本その2を読み解く
31スクラップ橿原神宮奉納武道各流大会
見よ、武道日本の誇り 
輝く五十八流派の奥義演武

 奈良県、日本古武道振興会共催本社後援の紀元ニ千六百年奉祝橿原神宮奉納全国古武道各流型大会は27日午前9時から橿原神宮苑建国会館で挙行、開会式に先だち日本古武道振興会会長小山松吉氏、同理事長松本学氏および宮村奈良県知事ら一同打揃って神宮神殿に参進、玉串を奉奠、参拝ののち宮村奈良県知事、松本理事長の開会挨拶あり、ついで、古武士の面影をしのばせる七十八歳の佐藤政五郎、羽口彦三両翁をはじめ十歳の杉野茂男、十一歳の勝瀬光安君や十八歳の乙女可皃睦子嬢ら百三十名が武道日本が古くから誇る各々五十八流派が開始された。
 劈頭まづ古来武道を奉納する際に四方の悪魔を蹴散らしたといはれる日置流弓術鳴弦、四方詰を東京府の浦上栄氏が静中動の秘儀を遺憾なく発揮し、ついで福島県の菅野武雄氏が牛渡八郎右衛門の武田流陣貝術、わづか十歳の杉野茂男君がわが国武道中興の祖飯篠長威斎の編み出した香取神刀流の居合術、手更(?)剣術、太刀術、棒術、長刀術の形をしめし、さらに無雙直傳英信流(曽田虎彦 メモ)諸賞流以下十流派の演技が行はれ午前の部を終り午後一時より現代講道館柔道の元祖ともいはれる磯又右衛門の天神真楊流七十六歳で矍鑠たる八木寅太郎翁ほか三名によって天地も裂けよの気合で行はれ、次いで往時の機銃を想はせる連続速射土居彦太郎氏の日置流石堂竹林派の弓術堂前形、また現代に珍しいチョン髷姿もいかめしい嘉納軍次、古賀栄作両氏の独特の掛声と八相の構を武蔵の二天一流剣術の型、笹森順造、小館俊雄両氏の物凄い切落し妙技を見せた小野派一刀流剣術の型、九尺の大太刀軽々と昔の弁慶の勇武を偲ばしめる直元流大長刀術の型、真の気合と精神の漲る古井亀太郎、福田彦平両翁の勇壮な伯耆流居合術、その他いづれの型もみな不惜身命の境地を偲ばしめ、観る者をいたく感動せしめた。
 演武の途中小山会長は「古武道の意義と必要」の題下に現代行はれつゝある武道の競技化を避けて真に気合のこもったわが国独特の皮を斬らして肉を斬り、肉を斬らして骨を斬るといった真に正しい古武道の精神を強調した約四十分にわたる講演があって再び柳生流居合術、大東流合気柔術はじめとして二十五流派の型は武道精神を遺憾なく発揮し祖先の勇武を昭和の今に観るの感を抱かせ盛会裡に五時過ぎ散会した。

 この新聞切り抜きは昭和15年5月28日(火曜日)に発行されたもので新聞社は不明です。高知新聞であればもう少し土佐の居合を書き込むと思われますが無雙直傳英信流7文字に終わっています。
 この記事を読みながら、5年後の昭和20年には、多くの国民が戦争で命を失い、国土は焦土と化して肉親を失い、無条件降伏に陥った得体のしれない扇動に引きずられていった時代を思い起こします。
 同じあやまちを繰返さない強い意志を持ち、同じ地球に生きるものとの愛に満ちてつながっていきたいと心から思います。
 土佐の居合を指導するものは神妙剣を学び伝えていくもので、安逸な居場所に胡坐をかいているものでは無いでしょう。「気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に至らしめずして勝を得る也、さりながら我臆して誤り(謝り)ている事とは心得る時は大に相違する也、兎角して彼に負けざるの道也、止む事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も死なずの道也、亦我が誤りをも曲げて勝には非ず、誤る(謝る)べき筋なれば直ぐに誤る(謝る)も勝也、彼の気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也」

| | コメント (0)

2019年9月 3日 (火)

曽田本その2を読み解く31スクラップ橿原神宮で古武道大会31の1

曽田本その2を読み解く
31スクラップ橿原神宮で古武道大会
31の1本県より二氏が出場

 日本古武道振興会では今回紀元ニ千六百年を奉祝し併せて万邦無比なる古武道を通じて日本精神の昂揚に資するため奈良県と共同主催により来る27日橿原神宮外苑建国会館において橿原神宮奉納全国古武道各流型大会を挙行することゝなり同会より依頼状を発したる所本県よりは無双直伝英信流居合兵法の奥秘伝たる太刀討之位、詰之位を奉納のため代表として錬士曽田虎彦、同田岡傳両氏が出演することゝなり土佐居合道のため気を吐く事となった、時局柄空前の壮挙とてその盛会は今から大に期待されている。

 このスクラップは曽田先生の覚書を綴った直筆和綴じ本の中に切り抜きが張り付けられているものです。次回に当日の奉納大会の模様が記事となって、張り付けられています。
 其処には珍しく切り抜きの年月日が残って居ます。昭和15年5月28日(火曜日)に発行された新聞記事となります。翌昭和16年12月8日真珠湾攻撃、日本は米英に宣戦布告しています。

| | コメント (0)

2019年9月 2日 (月)

曽田本その2を読み解く30スクラップ剣道の元祖が出した皆伝は土佐にあった

曽田本その2を読み解く
30、スクラップ剣道の元祖が出した皆伝は土佐に在った
土佐は日本一の尚武の国
衣斐家の系図で判明

 今回の支那事変によって勇猛果敢な皇軍の行動は世界列国の魂をあくまで挫いたのであるが、この果敢な精神は大和民族が祖先伝来から培はれた武士道的精神の発露である、しかしてこの武士道精神は剣道的精神と同一であり吾国の剣道こそは世界何れの国も模倣する事の出来ないものである、現に全国各地では、“俺の国が真の尚武の国であり武道発祥の地である”、と宣伝し殊に薩摩は二尺一寸の大太刀で一撃の早術といはれている“自見流”の本場として自慢しているが、今回高知市江ノ口退役陸軍砲兵大佐衣斐直夫氏の筐底から衣斐家に伝はる系図を発見し(衣斐大佐岳父故衣斐水根翁が秘蔵していたもの)、その結果現在に伝はる剣道は岐阜の山奥に生れ土佐へ来て実を結び元祖丹石入道の免許皆伝は土佐にあったことが判明し同時に土佐が天下一の尚武の国であることが立證され郷土史家驚喜せしめたと共に全国の史談会並に図書館へも通知し従来の誤謬を訂正する事となった。
 衣斐家にあった系図によると衣斐家の元祖衣斐丹石入道は織田信長に仕へた戦国武士であったが六十余歳に達した時(▢)、岐阜の牛洞(現在の揖斐郡清水村附近で大垣市から四、五里北方の山中)に隠遁し只管剣法の工夫に精進し遂に其の蘊奥を極めるに至った、当時天下一の剣豪として知られ高弟に神▢伊豆、疋田文五郎、柳生但馬守、塚原卜伝の四天王を持つ上泉伊勢守が京都にのぼる途中丹石入道のことを聞き疋田文五郎をして立合しめたところ一撃のもとに敗けたので今度は自ら立合ったがこれもおよばず遂に弟子の礼を執ると申し入れた、しかし丹石は既に隠遁し手洞の自見寺にあって仏に仕へる身であったのでこれを断った、当時丹石の高弟に野中兼山先生の曽祖野中伯山と東郷大将の先祖東郷長門守(當郷と書いてある)があった、東郷は修行二ヶ年で帰国し野中のみ専念修行したので技は悉く進み遂に丹石から免許皆伝を受け且つ丹石の愛娘周容夫人を貰ひ受けた。
 それから三年経過をなし一旦帰国した東郷が再度師を訪ふたところ丹石はすでに遷化したあとであったので免許を受くる事が出来ず丹石のいた自見寺に因んで、自見流(鹿児島では自源流と書く)ととなへ鹿児島で師範をなし門弟を殖し現在日本に誇り得る自見流となったものである。
 これを子孫に伝へ野中兼山先生もこの流を汲み山内入国と共に土佐へ来ても丹石の流儀である二尺一寸の法を守り断の一字で押し通したが晩年無実の罪を得て幽閉せらるゝやこの皆伝一切を海中に投じ滅絶せしめたと兼山先生の一人娘“おえん”さんが泣く泣く書いてあるのも実に哀れである。
 即ちこれによって見る時は山内入国と共に免許皆伝の野中兼山一家や丹石の血流である衣斐家が悉く来国してとさの偏土に剣法の華を咲かせていたことも明かな處である、なほ丹石の流れをうけて剣聖と呼ばれた人々並に流儀は大体左の如きものである。
 ▲人物 師岡一羽齊 △塚原卜伝 
 ▲鐘巻自斎 △伊藤一刀斎 △神古典膳 △小野二郎右衛門 △上泉伊勢守 △神後伊豆 △疋田文五郎 △柳生但馬守 △柳生十兵衛 △瀬戸口備後守 △宮本武蔵 △吉岡兼法
 ▲流派 天神龍、一羽流、神道一心流、有馬流、夫道流、神陰流、疋田流、卜伝流、柳生流、中條流、東軍流、長谷川流、小野派一刀流、自源、無明流、念流、抜刀一伝流等
 右につき中島図書館長は語る
 尚武の国として知られているのは薩摩と土佐であらう、薩摩は昔から自見流が盛んであるが薩摩の人々は自見流の元祖は瀬戸口備後守で備後が岐阜の山中で天狗にならったものと考へている、又どの書物にもそう書いてある、この一寸疑問を生じたので鹿児島の図書館へ照会したところが根源は知らぬとの回答であった、しかし衣斐家の系譜によりハッキリなった訳で早速同図書館へ通知してやる心算である。

 このブログの投稿は2012年7月だったと思います。早速衣斐家のゆかりの方からコメントをいただき、このスクラップは高知新聞の記事であったようです。資料としての信頼性がどの程度であったかは此の文面からは受け取れませんが、そう云う事もあり得るでいいのでしょう。詮索したり薩摩の自源流の伝承をいじって見ても意味ある事でも無さそうです。
 尚この記事の人物や各流派が丹石入道とどのようにかかわったかどの様な資料から選択されたのか分かりませんので、これもそういう見方がかも知れないで良いのでしょう。詮索して見た所で剣術使いの事は出自はもとより判らないと云った方が正しので、伝承された物語からその流の思いを感じられれば、いいかなと思っています。
 土佐の薩摩及び長州へのやっかみは、明治維新からこの頃までも尾を引いている様で昭和の日本人の子供じみた気分が彷彿として愉快です。
 尚「武士道精神は剣道的精神と同一」と云う事が呑み込めません。ご教示いただければ幸いです。多くの日本人は言葉の意味も解らずに誰か権威者の発言や新聞などの記事、近年はテレビなどのマスコミが伝える「言葉」をそのまま受け取って分かった顔をする癖がついている様です。


  
 

| | コメント (0)

2019年9月 1日 (日)

曽田本その2を読み解く29スクラップ肉弾三勇士の祖

曽田本その2を読み解く
29、スクラップ肉弾三勇士の祖は遠く秀吉征韓役に
明軍の火薬庫を爆破した
島津軍の自爆三勇士

 過ぐる上海事変に肉弾三勇士を産み、今次変に際しても数限りなき肉弾勇士を産んだが大和民族の忠勇義烈な精神を遺憾なく発揮した恐らく肉弾勇士の元祖である341年の前自爆勇士の史実がこのほど明かにされた。東京淀橋区西大久保2201陸軍少将原田二郎氏が昨夏文禄、慶長年間豊臣秀吉の征韓の城砦研究に赴き明軍の残した文化を調査中「泗川島津軍の三軍が我が軍(明軍)火薬庫を爆破し我が軍は敗退した」といふ項があって慶長3年10月朝鮮攻略に出動していた日本軍を殲滅しやうと明軍は20万の大軍をもって各地に逆襲、参謀島津義弘は騎兵五千を率ひて泗川新塞城に拠りこの大軍を防いだがこの時義弘の臣瀬戸口彌七郎重治、佐々木次郎右衛門光明、市来清十郎宗綱の三人が明兵の衣類甲冑を着用して敵中にまぎれ込み敵情偵察を行ひ最後に火薬の貯蔵庫にしのび込み火を点じて爆破壮烈なる自爆を遂げた史実を明軍が記録したものでこれにより島津軍は大勝を得たのである。
 この史実は島津家の「旧記雑録」(国土史)に記録され筮底深く秘められ島津家の信心する稲荷大明神の赤狐白狐が敵中に忍び込み火薬を爆破したといふ伝説として伝へられているもので、帰朝した原田少将が島津家について調べて見るとこの肉弾三勇士の瀬戸口家は血統が絶えへて現在11代目の戸主が世田谷区赤堤町2の460陸軍少将瀬戸口彌太郎氏と解り佐々木家は鹿児島県始良郡加次木丹土佐々木勲氏に伝って居り、市木(来)家だけは絶へてしまったことが解ったので近く両氏の系図によって三勇士の史実について調査することゝなった。

 この文章は第一次上海事変昭和7年1932年の事で、鉄条網を突破するために破壊工作をする志望者を募り三十数名が志願しその内3名が選ばれおこなわれたもので、当時の新聞でも取り上げられたようです。鉄条網は破壊されて三名は爆破に巻き込まれて死亡、実際は自爆であったのか事故であったのか疑問のある処だったようですが、大和民族の美談として三名は二階級特進し軍部の宣伝に使われた様です。
 その爆弾三勇士の祖が秀吉の朝鮮出兵時の話として、明軍の火薬庫を破壊した島津軍の話が明軍の古記録に在ったというわけで、武勇を誇示しながら戦争へ戦争へと駈足で進んで行ったのでしょう。
 曽田先生がこのスクラップを曽田本その2に張り付けたわけはなんだったのでしょう。緻密な作戦を立てて行うべき破壊行為を、自爆行為で達成させるような事では、近代戦としては先が見えていたでしょう。
 

| | コメント (0)

2019年8月31日 (土)

曽田本その2を読み解く28スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜しむ28の下

曽田本その2を読み解く
28、スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜しむ
岡林九敏
28の下 
・    
4、抑も土佐英信流居合術は奥州山形の人、林崎甚助重信より出で第7代の長谷川主税助英信といふ人が秀絶せる人で斯道の普及発達を図ったので今まで重信流と言っていたのをまた長谷川流とも英信流ともいふのである。第9代が林六太夫守政といひ高知藩士で城南八軒町に住んでいた。土佐に居合を広めたのはこの人である。それより第15代谷村亀之丞自雄から第16代五藤孫兵衛正亮となり第17代大江正路、第18代穂岐山波雄となっている。
一つは15代五藤正亮から16代森本兎久身氏に伝はりその遺鉢を継いだのが竹村静夫氏で氏は第17代となる訳である。
伝統次の如し
1代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛業正―3代長野無楽入道槿露斎ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門信貞ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井兵作信定ー9代林六太夫守政ー10代大黒元右衛門清勝―11代林益之丞政誠ー12代依田萬蔵敬勝ー13代林彌太夫政敬ー14代谷村亀之丞自雄ー15代五藤孫兵衛正亮ー16代森本兎久身ー17代竹村静夫

5、土佐英信流居合術は前申す如く内容は至って豊富で多岐多様に亘っていたことは古き伝書を見れば一目瞭然である。しかし、維新後斯道も中絶していたところ、明治26年板垣伯帰県の時、土佐居合術の廃絶を惜まれ伯の御周旋の結果幸ひに復活を見、五藤先生が城東中学校居合術教師に聘せられ子弟に教授せらるゝことゝなったのであるが、一般子弟に教ふるところは、大森流、長谷川流、同奥居合(座業、立業)、太刀討の位に止まっていた。それで土佐の居合といへば以上に止まっていた。それで土佐の居合といへば以上に止まってをると思っている人が沢山あるけれどもこれは思はざるの甚しきもので五藤先生の高弟の方々はその上に詰合の位11本、大小詰8本、大小立詰8本、大剣取10本などを習っている。皆二人相対して行ふ技である、彌村氏(竹村氏)は苦心惨憺それ等の高弟を訪ねてその秘奥を極めなほ前年は山川久蔵幸雅といふ居合の達人が百数十年以前に著はせる「神傳流秘書」と称する英信流居合の根本原理から各方法まで詳細説明せる写本を手に入れ欣喜措く能はず研鑽精討を積まれ土佐居合の全貌を体得している、居合術については実際についても理論についてもかゝる達人は日本広といへども恐らく少なかったと思ふ、氏は居合術には特別力を入れ銀行勤務の余暇を以て或は県内に或は県外に実演以て其の発達普及を図り、本年に入っては決然銀行を辞し母校の部道教師となり、本格的に斯道の発展、国民精神の涵養を図らんと期していたのにこの千里の馬が雄々しく門を出で、直に躓(つまづ)いたといふ事はまことに痛惜哀悼に堪えへない次第である。然れども氏が時々印刷して同志に配ったパンフレットは氏の研究の結晶であり生命である。どうか斯道に志ある方々は氏の研究を基礎として練磨を積まれ土佐居合の真髄を後昆に残されんことを(終)


 岡林九敏氏は城東中学校教師の16代五藤孫兵衛先生の後を継いだ谷村樵夫先生の門弟だった様で、竹村静夫氏とは交誼が有ったと云っています。
 此処に書かれている系譜は、曽田先生の記述したものと、一般に云われている16代五藤正亮ー17代大江正路とは違う系譜があると云って初代林崎甚助重信から17代竹村静夫までを述べています。その際9代と10代の間に林安太夫政詡が外されて数字が合っていますがこの系譜はここでしか見た事のないものです。いずれにしても土佐の居合の系譜も大凡位の信頼性しかないのは一般武士の武術系譜としてはその程度のものでしょう。行宗貞義ー曽田虎彦ー竹村静夫の系譜も、五藤正亮ー大江正路ー竹村静夫の系譜も曽田本その2には記述されています。竹村静夫氏の居合は土佐の居合の本流を求めて訪ね歩いたのでしょう。曽田先生との交流も太刀打之位の演武も残されていますので、神傳流秘書のやり取りはこの辺りの人脈から生み出されたかもしれません。
 竹村先生の早逝や太平洋戦争、曽田先生の戦後の混乱と死亡、河野先生の思いを、居合抜きの「かたち」しか受継げなかった昭和、平成の修行者、大江居合以外は無双直伝英信流にあらずといいつつ他流の体術や棒術を平気で取り入れる英信流各派の代表達。これらの事が脳裏を駆け巡っています。
 竹村先生が印刷して配られたパンフレットに依って動き出した方もあったかもしれません、生意気なと無視された人も居るでしょう。ミツヒラブログですら、是を基に古伝を研究され動作を線画であらわした研究成果を示される方も、研究成果を演じたビデオも作成されておられる方々もおられます。
 中には自分たちのやっている事を否定されたと怒り狂っている心得違いの怠け者も居るようです。しかし、私は明治維新で中断し失われた土佐の居合は誰でも学ぶ者は知る権利はある、それによって現代居合はそれとして日本文化の正しい伝承は学ぶ機会を失ってはならないと信じています。
 

| | コメント (0)

2019年8月30日 (金)

曽田本その2を読み解く28スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜む28の上

曽田本その2を読み解く
28、スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜む
岡林九敏
28の上

1、剣道並に居合術の達人竹村静夫氏が昨年末(昭和12年1937年)母校城東中学校からの懇望により多大の希望を抱いて多年勤続の四国銀行を去って母校に入り、爾来同校武道部のため献身的努力を続け、校の内外の信頼を得、その将来は非常に期待されていたところ去る2月8日(昭和13年2月8日)なほ春秋に富む不惑の齢を以て、忽焉長逝したことはまことに哀悼に堪へざる次第である。氏の剣道については述ぶるにその人ありと思ふから私は僭越をも顧みず氏の努力功績を偲びたい。

2、氏の居合術に対する熱心努力はまた格別であった。土佐居合術については、研鑽に研鑽を積んで、その蘊奥を極め、しかしてこれを天下に普及さしたいといふのが氏の大なる願望であった。それで知ると知らざるとを問はず、何人でも土佐英信流居合術について修行した人があれば県内では申すまでもなく他県までも所謂千里を遠しとせず訪問して居合に関する談話を聴聞した、氏が訪問を受けられた方々には田口海軍大佐、森本少将、坂本中将等があり皆英信流居合術第16代五藤孫兵衛正亮先生の教導を受けた達人である。私は五藤先生が城東中学校居合術教師を辞職せられその後を継いだ谷村樵夫先生について青年時代に聊か手解を受けていた関係上氏の訪問を請け自来御交誼を願っていた。かゝる関係で氏の居合については少しく知ってをる所があり筆を執った訳である。

3、土佐の英信流居合術は藩政時代土佐藩士の修めたもので藩校の課目の中、居合術があり、土佐の武士道は居合術に負ふ所大なりといふべきである。真剣を以て行ふ、こゝに居合の特徴がある。正座気を丹田に収めて心を静かにし抜き抜き放つに当っては電光石火間髪を容れず、静中動有り、動中静あり。修行の極致は此處にありといふも過言ではない。山内容堂公が居合に堪能であったことは誰人も知っているところで、板垣伯や片岡健吉、渋谷寛の諸氏は居合術に達してをられた。板垣伯の親戚である谷村亀之丞自雄といふ方は居合術の達人で、居合をもって藩の子弟を教養し、殊に容堂公の信任を得、亀之丞の居合は天下一であるといふ公の称賛を博しておる。亀之丞は英信流居合術の第15代である。土佐居合術の特徴は独立したものであって剣道の附属物でもなければ柔道のそれでも無い。その技は多岐に分れ内容は深遠である。渋谷寛氏が往年城東中学校長となった時、武道を剣道、居合、柔道も三科に分ち、生徒はその中何れを修むるも自由となっていた。ある先生が居合は剣を抜いて切つけるまでの業で、それ以上は剣道であるといったのは土佐居合の特徴内容を知らぬ虚言である。

以下次号

 この竹村静夫氏の英信流居合第17代については、曽田本その2の「無雙直伝英信流居合術系譜」曽田虎彦記に依れば以下の系譜となります。
11代大黒元右衛門清勝ー12代松吉貞助久盛ー13代山川久蔵幸雅ー
14代下村茂市ー15代行宗貞義ー16代曽田虎彦ー17代竹村静夫

しかし、この筆者岡林九敏氏の系譜に依れば以下次号の様になります。

 

 

| | コメント (0)

2019年8月29日 (木)

曽田本その2を読み解く27スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値27の下

曽田本その2を読み解く
27、スクラップ居合術の実戦敵的価値と教育的価値
居合術教士 西川倍水
27の下

 以上のやうなものであるがさて我が国民は古来剣に対してどんな考へを持って居ったかといふに、刀剣を愛重するの念は極めて深く一種の信仰とさへ称すべきものがあったのである、即ち畏くも皇室におかせられては神代以来三種の神器の一つとして天叢霊剣を伝へ給ひ、武士、百姓、町人の家に至るまで伝家の宝刀を蓄へ、霊的神秘的な威徳あるものとしてこれを尊崇した。従ってこれを神体として祭れる神社も甚だ多い。鎌倉将軍惟康親王が刀工である一文字助真に「剣とは如何なるものか」と問はれた時に助真答へて曰く「百錬の功は精神茲に鍾る、ゆえにその器霊威にして能く神明を動かす之を佩びて海に泛(うかぶ、ただよう)へば鯨鯢(げいげい)も伏し、これを帯びて夜行けば魑魅逃る」と答へている。剣に対するわが国民の態度の一端はこれにても窺ひ知ることが出来る。
 斯様な我が国民性であるからこの剣技によって全国民を訓練するといふことは現今非常時において極めて必要な事であると思ふ。
 昔は武門武士なる階級があって国防に任じたのであるが今日は全国民を挙げて国防をやらなければならない時代となった、今日の戦争は決して陸海軍のみの戦争ではない、実に国民全体の戦争である、国民全体が戦争するためには国家総動員の完璧を期せねばならぬ国家総動員の完璧を期するためには先づ国民個々の動員準備を完全にせねばならぬ、然らば国民個々の準備とは何か、常にその精神と身体とを鍛錬して健全なる国民にして置くことである、精鋭たる国軍は健全なる国民によって組織せられ国民各個人の健全は国民全体の健全である、国民全体の健全は国軍の精鋭となるのである。
 一人一人個人の身心鍛錬の必要たる所以は実に茲に存するのである、この健全なる精神と身体とを兼備した国民を養成するには、わが国幾千年来の伝統を有する剣技の修行に如く者はない。
 大和魂なるわが日本精神は建国の歴史と共にわが皇国の天地に磅礴(ほうはく)する霊気が自然に国民の頭に宿り血管に流れ込み骨肉に浸み込んで育成したもので本来先天的のものである、その先天的の精神が更に武徳として鍛錬せられ中世からは武士道と銘打って益々研礴せられ浄化せられたのである、しかして剣技はわが国武士道の真髄でありまたわが国民性の世界に誇る所の日本魂の根元である。
 故にわが剣技は中正公明なる天地の大道である即ち時と所とを問はず老若男女あらゆる階級あらゆる職業の人々が各自に体得し修行して直に人生行路の指針たり原動力たる生きたる修行法であるといへる(筆者は土佐中学校教諭)

以上

 この文章も出典及びその時期は不明ですが土佐の資料に残されているかもしれません。今時この様な事を云ってみても何を言ってい居るのか気狂い扱いされそうです。
 世界の列強を相手に戦争へ突入していった身の程知らずが、意味をなさない精神論で追い込んで行ったに過ぎないものと思います。それでも快適な地位にある人の発言はしかとするものでしょう。戦争に至らない努力を疎かにして武力行使を国民皆兵で示そうとしたのでは、米国の無差別爆撃を受けても仕方がなかったと云えるかもしれません。
 異なる意見が有っても、つまはじきにされ家族にも害が及ぶと為れば身を犠牲にせざるを得なかったかも知れません。
 私の父も居合の恩師も「戦争を回避する手立てはありませんでしたか、個々の人は決して望まないものに従ったのは何故ですか」の問いに眼を伏せながら、「脳裏に妻や子を思い描いた」と云っていました。
 令和の元号の読み方を誤れば、「和する事を令する」とも読めてしまいます。百年近い頃の文章ですが、大和魂とか霊剣とか個々の人の心の中に潜むもので無理やり押し付けるものでは無いし、武術がまして居合が教育的に特段に優れている理由は、いかに美辞麗句を連ねて見ても見いだせないものです。
 土佐の居合の根元は「敵は只一打ちと打込まする様に振る舞い、一途に敵の柄に打込む也」であって「彼の怒りの色を知って怒りを抑えしむることであって戦に至らざらしめずして勝事、止むことを得ざる時は彼を殺さぬうちは我も死なずの道、彼が気を先に知って直ぐに応ずるの道「神妙剣」といいます。武術はコミュニケーションの最終手段であって、先に手を出したり、相手を威嚇する道具ではない。
 大和魂を如何にと問われれば、如何なる宗教も懐に温かく納め、また必要に応じて思いを巡らせる豊かな心かも知れません。それだけに、権威を嵩に権力を振るう者には、居場所が無くなることを恐れて、自分の思いとは違っても従ってしまう民族性が根強く残って居るのでしょう。

 武士道を掲げて、大和魂を強調していますが、大和心とは、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな」の心なのだと思います。それが猪突猛進の軍人精神になったのは昭和危機以後と歴史家奈良本辰也は見ています。
 また歴史家北島正元は「武士道の理論的な確立には山鹿素行の影響が尤も大きいとされる。素行によれば、武士たるの職分は農工商三民の上に立って、これを強化することにあるとし、そのため気質を正して寛大なる気風を養い、君恩の重きを思って是非を論ぜず忠に励み、仁義によって行動するなど、文武兼備の徳政を積まなければならないとした。明治以降もその気風は残り、スポーツ・労働などにおいてもしばしば「武士道」が強調され、また第二次世界大戦下には臣道実践論を生みだし、軍人だけでなく、全国民に滅私奉公の心構えが要求された。」
 教科書で出来事の年号ばかり記憶させられて来た日本史では読み解く事は大へん難しいものです、歴史には為政者の権力を維持ずる為の施策の裏にあった庶民の思いも綴られなければその国の歴史とは言えないでしょう。
 土佐の居合も同様です・・・ 思いつくままに

| | コメント (0)

2019年8月28日 (水)

曽田本その2を読み解く27スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値27の上

曽田本その2を読み解く
27、スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値
居合術教士 西川倍水
27の上

 現今最も広く普及されている武道は何といっても剣道、柔道、弓道である、これ等代表的わが国武道と居合術を比較する時はその修行者の数においても雲泥の差がある、しかしこれが戦場における実用価値は遥かにこれ等を凌駕していることは今次事変に参加し実戦の体験者の異口同音とはなる所である。
 即ち居合術は日頃精神を打ち込んで自己の魂としている日本刀(軍隊に在りては軍刀)そのものを以て敵を前後左右に仮想してその場の敵に対し、攻撃する敵に対し退却する敵に対し平坦地は勿論屋内、塹壕内、掩蓋内等狭地に在りてもなほ且つ抜く手も見せず行ふを特徴とする技あるから、その精神においても確に優越して居るといふことは事実である。
 その斬撃の方法においても最も切れ味のよいといはれる引き切りである。即ち刀の中央部を先づ切らすとするものに切り込み刀尖四五寸の所において最大限の威力を発揮する如く手の内を活動させるのである。
 吾人が刀の斬れ味を知るために行ふ試し切りは皆この引き切りでやるのを見ても、切るためには必ず居合流でなければならぬことが判る。
 今次事変において何十人斬等といふやうな赫々たる武道を現はして居る者もあるが、皆居合流の切り方である私も江南戦線に於て実際に之を体得したのであるが抜きつけた場合の刀の高低、刃の方向右臂の力の入れ方左臂の捻り、切り込んだ場合の姿勢、態度等、古人の教への尊いことは今更ながら感服して居る次第である、以上の如くであるから、軍隊においても剣道を演練すると共に、居合術に依って自己の軍刀の斬れ味を知り我が腕前を試し、手の内の作用を会得し、常に自信力をつけて置くといふ事は、腰に刀を佩ぶ帯刀本分者の特に必要なことである。
 将来科学が如何に進歩しても、機械が如何に発達しても、最後の決戦は矢張り活きた人間戦即ち肉弾戦でなければならぬことは今次支那事変が雄弁に物語って居る所である。
 扨て居合術を教育的に考へて見たなれば次の如き価値がある。
 第一に身体的陶冶価値がある。居合を行ふ間において諸器官が鍛錬せられる、即ち身体各部を均斉に発達せしめ四肢の動作を機敏にして全身の健康が増進する。
 第二には知的陶冶価値があることである。形式的には感覚を鋭敏にし直観を正確ならしめ、観念を豊富にし注意を錬磨し記憶、想像、思考、判断等を鍛錬する、また内容的には幾多の知識を習得する。
 第三には道徳的陶冶価値のあることである、即ち忍耐、持久、快活、勇気、規律、節制、勤勉、剛毅、服従等の諸徳が涵養せられる。
 第四には技術的、芸術的陶冶価値のあることである、即ち感情を純化して精緻ならしめ美意識を養ひ創作性等を盛んにし幾多の技能を養ふことが出来る(写真は武装せる西川氏)

Img_0678i

以下次号

 実戦的価値については他の武道もそれなりに称えることが有ろうかと思いますが、真剣をもって稽古する事で得られる斬るという感覚は養われるであろうと思います。但し実戦で役に立つには仮想敵をどの様に認識して運剣するかが大切なのでしょう。
 赤字の部分は、現代居合ではすっぽ抜けて、むしろ斬る部位に浅く当てて押し込んでいく様な指導をして居たりしています。
 業の動作の順番を追っているばかりだったり、形ばかり追うのであれば、独りよがりや、意味の乏しい形に捉われてしまい何十年やっても武術として進歩する事は無さそうです。ゆっくり大きくやっていれば老人体操としては身体的には有効でしょう。
 第二、第三、第四については居合が特出している事とは言えない、何事でも芸事を極める限りは望めるものでしょう。
 

| | コメント (0)

2019年8月27日 (火)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の5

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知江ノ口小学校 上田蔵刑
26の5

 更に身体上から考へましても偉大なる精神作用が瞬間に行はれるだけあって身体の各機能を鍛錬するため動作軽敏となり四肢、内臓共に強壮なるは明らかで他の運動競技に比較して確に強健なる身体を作るものだと確信するものであります。特に老若男女を問はず四季相通じてしかも寒暑の時期を好機とする点など鍛錬的体育法として最も価値あるものと思います。要するに剣道の目的は剣を通して心身を鍛錬し武士道的人格を養ふのであります。
 以上申し上げました様な剣道の修行は明かに国民教育に重大なる役割を持っているのであります。国民教育の中心は日本精神を養成するが主眼で日本精神の中核は武士道であり武士道は武士の精華であるのであります故に国民教育道場たる小学校に武道を課する必要があるのであります。
 今日わが帝国が世界の日本としてその品位実力を示す所以のものは即ち今日にして成りたるものでなく吾等の先祖が辛苦を嘗めて鍛へたる武道の精神が今日におよんで発現したものと見るべきであると考へます、もし然らば私達は更に将来の帝国を背負ってたつだけの第二の国民を剣道を通じて作ってやり指導してやることが吾々の義務であると思ふ。
 小学校武道が正科として具体化される様にしていると考へます、小学校において学んだ事柄は大人になっても決して忘れない、特に身心の最も発達する児童期に感受性の強いしかも白紙の児童にかかる指導精神を以て対するとき自ら日本人らしく剣を手にして思古するとき忠君愛国の至誠が湧然として湧き起り身心共に将来役立ち伸びる基礎を作ってやる事が小学校に於ける剣道教育の使命であると思ふのであります。
 今や事変は長期戦となり国家は総力を挙げて東亜永遠の平和の基礎確立のため一途邁進をつヾけています、吾等は銃後の完璧を期する覚悟を以て剣道教育に奮闘努力せなければならぬのであります。
 以上私の浅き経験内容から、貧しき愚見の一端を申し述べ、本県における小学校剣道の振興の上に資するところあれば幸甚の至りであります。

以上

 剣道が他の運動競技に比して最も優れている鍛錬的体育法だと云っていますが、他の運動競技の何を理解されていたのか、全く示されていません。要するに剣道を修業する事によって日本精神、所謂武士道精神を養成するのに相応しいと云うのでしょう。武士道精神の中核は人のために我が身を顧みない、君の為、君主のために死ねという事なのでしょう。
 その精神は身心の発達が出来ていない小学校児童に植え付けてしまえば忠君愛国の至誠が湧然と湧き起るものになる、と云っています。小学校教育に剣道を正科として取り入れ号令一過死地に突っ込んでいく捨て駒を養成しようと云う事に乗るべきであるとまくしたてているのでしょう。
 剣道でなくともその様な洗脳教育は出来るでしょう。昭和の初期の剣道は既に勝ち負け優先の早い強いばかりの剣道です。古流剣術の持つ運剣動作の中に組み込まれている精神は抜けてしまっています、指導者の一方的な押付による、パワハラが横行していたでしょう。古の譬え歌を引用しても、剣の心にはなれないものです。寧ろ団体競技の勝ち負けの方が、目的意識の強い遥かに有効な点取り虫を一括して養成できそうです。
 ある無双直伝英信流の一派の指導者が「名人上手、達人はいらない」と嘯いていました。その程度の指導者の元で何を学ぶのでしょう。現代居合の稽古風景にも、師匠が模範演武を行い、柏手を打って門弟がその業を演じています。号令一過如何にも統制の取れた稽古風景に見えるのですがそこには無駄な時間ばかりが流れて少しも達人への道は見えてこないものです。
 意味不明な熟語を羅列して、教養の乏しいものは圧倒されて、何か変だと思いながら従って死んでいったのでしょう。憲法を改正して集団自衛権をそして専守防衛を、米国におんぶにだっこの安全保障も事有れば米国の子供たちに死んでもらうわけにはいかないでしょう。日本精神と踏ん張って再び多くの一般国民を死に追いやるのでしょうか。小学生も10年もすれば立派な洗脳教育を受けた人柱になって死んでくれます。それでいいのでしょうか、このスクラップを読みながら怒りがこみあげて来るのは私だけでしょうか。
 人類皆この地球で生きている人々です、一人も不幸にしないための、世界中の子供たちを対象とした人類愛に満ちて尚且つこの我らの地球を末永く大切にして行く教育指導を望むばかりです。 この項を終ります。

| | コメント (0)

2019年8月26日 (月)

第21・22回土佐の居合 古伝神傳流秘書による古伝研究の集い

土佐の居合 古伝神傳流秘書による古伝研究の集い

第21回・22回古伝研究の集い
無双直伝英信流、夢想神傳流の古伝神傳流秘書を曽田虎彦先生の直筆本から読み解いて江戸時代中期の居合を研究しています。
今年は主として大小詰・大小立詰を研究して居ります。
師伝が如何様であろうとも、古伝をご存知の方は少ないものです。
たとえご存知であっても古伝神傳流秘書に書かれている通りに演じる方は少なく、他流を持ち込んで結果だけで良しとしたり、経年の中で曲げられたりしているものです。
ご参加いただいた方が、夫々「我が師」であることをご理解戴き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。
武術はともすると「俺の考えに従へ」という傾向があります、ここでは出来る理由も出来ない理由も研究の対象となります。
 記
1、期日
◎21回
・令和元年9月12日(木)
 15:00~17:00 鎌倉体育館
・令和元年9月26日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
◎22回
・令和元年10月10日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年10月24日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
2、住所
見田記念体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
TEL0467-24-1415
鎌倉体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
TEL0467-24-3553
3、アクセス
 JR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
(駐車場 鎌倉体育館に有り)
 4、費用:会場費等割勘つど 500円
5、参加申込み 直接会場へお越しください
 Email:sekiun@nifty.com(何かあれば)
6、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
 湘南居合道研修会 鎌倉道場
7、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
 令和元年8月25日 松原記す

 

| | コメント (0)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の4

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田蔵刑
26の4

 次に剣道の理想について申し上げたいと思ひます。人間が死に直面するとき程偉大な力を現し死より免れんとするものはありますまい。生死の分れるとき何人も全霊を傾注せざる者はないと思います。しかし生に執着を持ち死を逃れるときはやがてその結果は死を招くことゝなります生死を超越するところに生もなく死もなく自由無碍となるのであります一切の雑念を去って所謂醇午三昧の境地に入る即ち無念夢想の時に我知らず知らずの中に敵の隙に入り勝を得るにいたるのであります。敵を斃そう斬らうとするはこれを客気といひ敵に心を奪われ斬ることに心を奪はれ我が身に心を奪はるので剣道ではこれを止心といって最も悪い病とされているのであります。
 宇宙間の神羅万象これ、個々の差別の上にこそ相対するがその本体の上には萬法一如で渾然全一である。われを中心として彼を見るがゆえに愛憎好悪のこころが動いて寂然不動たることを得ないのであるが、われといふ考へを棄てゝしまへば主観の心は客観の象を共に相忘れて自他一如となって一点の曇りなき明鏡の物の来るに随ってその影をうつし去るに従って消ゆるが如く動くことが出来る。
 この心境を
 うつるとも月も思はず
      うつすとも水も思はず去沢の池
 といふ歌がありますが此の気持になるとき自然に敵に勝つのであります、何事によらずこの所まで達しますとそこには偉大なる精神力が発揮されます。
 彼の神上典膳が姜鬼を瓶諸共に一刀両断致しました話や屋島の合戦に那須与一宗高が扇の的を射落したなども皆この心境における精神力の現れでありませう。
 血なまぐさき戦場を馳駆し君のため身を捨て家を忘れたゞひたむきに突き進む勇壮果敢なる将兵の貴い忠勇行為もまたかかる境地において発揮されるものであります。私はここに剣道の価値の最大なる物を認めこれを剣道の理想と考へています。現在の剣道においてはかかる理想を求めて自己を反省しながら歩みつゞけ、全一無二の境地に入らんと努力精進の中に己といふ人格の統一が出来、そこに確乎不抜の精神と、腹のきまる人間が作られるばかりでなく気品とか沈着とか、礼儀とか、快活とかの社会人として諸徳が具はると思ふのであります。

 以下次号

 剣道の勝を得られるのは、「無念夢想の時に我知らず知らずの中に敵の隙に入り勝を得る」という教えの受け売りから、「血なまぐさき戦場馳駆し君のため身を捨て家を忘れたゞひたむきに突き進む勇壮果敢なる将兵」を求めるに当たり、それには剣道が最も相応しいものと決めつけています。但し小学生から教育するのが相応しい理由は見当たりません。
 「君のため身を捨てる」は君を生かすためには、一般人は身も家も捨てろと云うのですが、身も家も守るために身を土壇となす土佐の居合「無雙神傳英信流居合兵法」にはなりません。君とは、身も家もの象徴が君所謂天皇というのであればそれなりでしょうが、国家の存続のみに固執してしまえば、国民の平安な暮らしはどうでもよく、安易な専制君主であったり民族主義に洗脳教育が横行する原因ともなり安いものです。其の上特定の人間の利権のおもちゃにされてしまうものです。
 現代における剣道を学ぶ最も重要な心は、それがコミュニケーションの最終手段であり、己の信じた道を貫き通す為に、止むおえざる状況で発せられるべきものであって勝たなければ総てが無になるものなのです。そこで重要なのは「己の信じた道」なのですがこれが、権威によって思いもよらない権力を振るわれ、その手先によって歪曲されて更にねじ曲がってしまうのが問題なのでしょう。人類愛などをかざせば非国民であり反逆者の汚名迄着せられてしまう。何故、何の為に戦うのかの根本を置き去りに戦い勝つだけが表に出て多くの不幸を生み出してきたはずです。

| | コメント (0)

2019年8月25日 (日)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の3

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田蔵刑
26の3

 一般武道の振興につれて、学校武道が叫ばれ遂に44年中等学校の正科となり今年春小学校正科とするの議案も万場可決されたのは国家の将来から考えまして誠に慶賀に堪えません。これは時局の波に乗ったとは言えども武の本義に目覚めわが国民性に即し日本人的血潮が蘇ったためである。我々の血潮にひそむ大和魂が剣を振りしめることによって外に現はれるのだといふことに気付いたためであらう。先程申し上げた様に文を尊び武を卑しむことは国家起隆の敵であります。世界の亡国の歴史を見ても文尊武卑は附きものであります。今回の事変は往年の軍縮華府会議の結果わが国の不利な軍備と国民の尚武気風の喪失によりやれダンスだレヴューだのと流行を追ふ傾向を来し大なるものに附く支那精神が排日侮日となって現れたものであるとも言われています。しかし皇軍の士気は支那の予想を裏切って益々振ひ国民精神は断然光輝を放ったのであります。
 要するに日本精神と武士道とは楯の両面の如く武士道と剣道とは車の両輪の如くで相寄って助長発達したものであります。

以下次回

* 
 小学校の生徒に剣道を正科として指導すべき事が少しも伝って来ないのは何故でしょう。「武の本義に目覚めたわが国民性に即し日本人的血潮が蘇ったため」と云います。日本国民はそんな民族なのでしょうか。それは剣道の効能が少しも語られていないからかもしれません。剣道を本当に理解して述べていない為かもしれません。
 もう一つ決めつけている「文を尊び武を卑しむことは国家起隆の敵」とか「世界の亡国の歴史を見ても文尊武卑は附きもの」といいます。その根拠が述べられていません。
「日本精神と武士道」と叫んでいるのですが、日本精神とは武士道とは何れも漢字を並べた熟語が居座るばかりで、私の心に響いてきません。何故でしょう。単なる政界や軍部の手先の様なマスコミの扇動にのって踊っている様に思えるのは何故でしょう。私が平和ボケしているのでしょうか。
 こうやってどんどん洗脳され意味も解らず、否定的な事を云えば非国民とされ居場所が無くなるのを恐れて戦争への深入りをして行った戦前の様子がうかがえて此の人の戦後はどうしていたのか気になります。
 

| | コメント (0)

2019年8月24日 (土)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の2

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田歳刑
26の2

 明治天皇の御製に
 弓矢もて神のをさしめ我が国に
        うまれしをのこ心ゆるふれ
と仰せられてある様に我国は武を以て起ち武を以て成れる国であります顧みますれば我国は神代以来細矛千足国と称えへられていた程で天皇御みずから軍隊を率い給う御制度であった時代、如何にわが国の武威が盛んであったかヾうかがわれます。即ち神武天皇御東征より日本武尊の東方経略から神功皇后の三韓征伐等の事跡がそれであります。
 その後仏教、儒教の渡来によりまして形式的には武道を堕落せしめたがその本質的には非常な発展をしました。即ち奈良時代がそれであります。更に大化の新政時代におきましては大陸文明の輸入に汲々としてその結果その運用をあやまったためかこれまでの国民皆兵の制度に破綻を生じ兵農の二つに分れて遂に武士と云う階級が生れたのであります。
 続いて平安時代におきましては唐制を採用しわが文化の上に躍進せるも全く一面この文を尊び武を卑しむの風を生じ、質実剛健の気風に朝野共に失せて余弊は政令行はれず遂に地方大いに乱れました。此時に当りて討伐に功を奏した源平が盛大を致し遂に平氏亡びてより王権御喪失となり兵馬の大権を鎌倉幕府に御委任なさらなければならぬ様になりました、爾来7百年の長い間権門幾多立変るといへども政権は殆ど武家の棟梁の掌握する所となたのであります。従ってこの封建時代においては忠義といふのは家臣の主君に対する最高至大の道徳となったのでこの道徳を実践する方便として武道を修業して精神の技を錬ったのであります。
 ゆえに戦乱相つぐ足利末期から徳川初代においては最も剣道の隆盛を来し斯道の名人が現れましたかかる間にわが国民の中に武士が融け入ったのであります。 
 しかるに明治維新となり武士階級は無くなり四民平等、帯刀の必要もなくなり明治3年に廃刀令が布かれ軍人警察官以外庶民の帯刀を禁ぜられてよりそこで剣道は全く往時の遺物となり僅かにその影を止めていましたところ10年西南の役に警視庁の抜刀体がその功を奏してより漸次その価値を現し日清日露の両戦後を経ていよいよこれが真価を認められ明治28年には大日本武徳会本部が創設され地方に支部を設けて一般武道の振興をはかられたのであります。

 以下次号
*
 此処までのところは、かって我が国の天皇自らが軍隊を率いたが、武士階級が生まれ王権喪失して武士階級に政権を委ねて来た。明治維新となって四民平等になって廃刀令が布かれ、剣道は不要となった、然し西南戦争、日清日露の戦争で剣道の有効性が見直されたということでしょう。
 此処で明治維新以後の年表を作っておきます。
 1868年明治元年  戊辰戦争年 江戸城を皇居とする
   1869年明治2年  版籍奉還 上士以下の禄を廃止 
 1870年明治3年  兵制を海軍は英式 陸軍を仏式と定める 
 1871年明治4年  寺社領没収 戸籍法制定
 1872年明治5年  学制公布 福沢諭吉学問のすヽめ
 1873年明治6年  徴兵令を定める
 1874年明治7年  北海道に屯田兵制度
 1875年明治8年  学齢を6歳から14歳と定める
 1876年明治9年  廃刀令 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱
 1877年明治10年 西南戦争
   1882年明治15年 軍人勅諭発布
   1889年明治22年 大日本帝国憲法公布
 1894年明治27年 日清戦争
 1895年明治28年 大日本武徳会設立
 1904年明治37年 日露戦争 
   1905年明治38年 旅順のロシア軍降伏


 

| | コメント (0)

2019年8月23日 (金)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の1

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校上田蔵刑
26の1時局

 時局は我国教育内容の一大革新を促進せんとしています、しかして小学校に剣道を課することもその中において相当だいなる改新の道であります。時代の要求は茲に真日本人を作ることであらねばならぬ。真日本人とは世界の中で生きる日本人である。如何なる困苦に遭遇するとも、天壌と共に窮りなき皇運を翼賛し奉るところの真日本人的精神を持ち更に不倒の身体を持つ日本人なのである。
 剣道は斯る心身を鍛錬するうえに最も価値ありとする思潮が起り今や時局の波に並行して長足の発展を遂げ、遂に小学校における剣道教育が具現せんとしているのであります。聞く所によれば文部省においてはこの4月より準正科として武道の中、まづ剣道を課し五年以上の男子に木剣による基本剣道を戸外において実施するといふ。素手に中央は勿論遠く、台湾、北海道においても、正科同前に実施せる都市は枚挙に暇ない。若しこの4月より実施の公布を見ないにしてもたゞそれは時期の問題であって余り遠くはない、この機運に向かったのは、一に全国的に小学校が自発的に実施したる結果である。
 しかるにわが土佐の現状をながめたとき、余りにも不振であるのに驚き遺憾に堪えぬ者であります。一般剣道は勿論であるが、小学校剣道の不振は将に全国第一でないかと思ふ。

 何がそうさせたか、その原因を探ねると指を屈する程あるが、それについてはここに適確に申し述べることを避けたい。たゞ土佐人には適しないから不振になったのだといふことは絶対にない、土佐人の尚武的の気象は全国に響いている。維新の大業の底を流れる力は我等の先輩がやったのではないか。吾々の精神には土佐人の血が流れているはずだ。要はその人を得ないからである。指導者が少い上に一般の理解がないといふのはではないが、まだその域に達していないといふことゝ、為政者の奨励に乏しいため三拍子揃って不振を極めたものであると考へるは全然誤れる見方ではないと思ふ。
 しかるに時代の流は、こばむことは出来ない。本県においても今正に澎湃として湧き起って来たのである。
 私はこの機会に本県小学校剣道が発達普及せねば、もう駄目だと思ふ。先ず目醒めよ、小学校においてその実際に従事するものよ。
 以下小学校剣道教育の使命を述べるに先立ち武道と国力の消長、剣道とニッポン精神等について順次申し述べたいと思います。

 小学校に剣道を正科にしようという事ですが、現代でも平成になって剣道などの武道を教育に取り入れて行く動きが行われています。日本の伝統文化の継承を表にしていますが、何が本来の目的なのかよくわかりません。
 武道でなくとも身心を鍛えるとか、集団意識を持つとか幾らでも方法はあるものです。武道の傾向は縦社会を作り上位者によるパワハラを助長する悪習が蔓延しています。日本の官僚もその中にあるもので上意下達ばかりがはびこっても戦前に戻ってしまいます。
 この土佐での小学校への剣道教育導入の仕組みが遅れた事への嘆きを江ノ口校長は述べています。何故取り入れなければならないのかは時局であるとの二文字です。もう少し読み進んでみましょう。

| | コメント (0)

2019年8月22日 (木)

曽田本その2を読み解く25谷村亀之丞自雄から小藤亀江への免許皆伝その2

曽田本その2を読み解く
25、谷村亀之丞自由から小藤亀江への免許皆伝
その2無雙直傳英信流居合目録

大森流居合之事 11本)赤字は古伝神傳流秘書による

無雙直伝英信流居合目録
1、向身
 横雲(横雲
 虎一足(虎一足
 稲妻(稲妻
2、右身
 浮雲(浮雲
 山下し(山下風
3、左身
 岩浪(岩浪
 鱗返(鱗返
4、後身
 浪返(波返
 瀧落(瀧落
   (抜打

四方切 向・右・左後

太刀打之位
1出合(出合) 1附込(附入) 1請流(請流) 1請込(請入) 1月影(月影) 1絶妙剱(水月刀
1水月刀(独妙剱) 1独妙剱(絶妙剱) 1心明剱(心妙剱

詰合之位
1八相(發早) 1拳取(拳取) 1岩浪(岩浪) 1八重垣(八重垣) 1鱗形(鱗形) 1位弛(位弛
1燕返(燕返) 1眼関落(柄砕) 1水月刀(水月) 1霞剱1(霞剱

大小詰
1抱詰(抱詰) 1骨防(骨防扱) 1柄留(柄留) 1小手留(小手留) 1胸捕(胸留) 1右伏(右伏
1左伏(左伏) 1山影詰(山影詰

大小立詰
1〆捕(袖摺返) 1袖摺返(骨防返) 1鍔打返(鍔打返) 1骨防返(〆捕) 1蜻蜒返(蜻蛉返
1乱曲(乱曲)1(電光石火

大剣取 10本
抜刀心持之事 居業7本 立業17本
坂橋流之棒 13本
夏原流和之事 6種目65本

英信流居合目録秘訣
 (外之物ノ大事 6種
上意之大事 15種
極意ノ大事 10種
居合心持肝要之大事 9種

外之物之大事
1行連 1連達 1遂懸切 1惣捲 1雷電 1霞

上意之大事
 1虎走 1両詰 1三角 1四角 1門入 1戸詰 1戸脇 
1壁添 1棚下 1鐺返 1行違 1手之内 1輪之内
1十文字 

極意之大事
1暇乞 1獅子洞入 1地獄捜 1野中幕 1逢意時雨
1火村風 1鉄石 1遠方近所 1外之剱 1釣瓶返
1智羅離風車

居合心持肝要之大事
1捕手和合居合心持の大事
1立合心之大事
1太刀目附事
1野中之幕之大事
1夜之太刀之大事
1閨之大事
1潜り之大事 戸脇之大事
1獅子之洞出之事
1獅子之洞入之事

右九ヶ條は深く之を秘す極意也真実の人に非ずは努々相伝べき者に有ざるべきなり
無雙直伝英信流居合に就き多年御熱心に太刀次悉く相伝せしむ 向後お嗜み専要に候 若し御所望の仁、之有るに於ては兼ねて其の人の四討文を取り御指南尤許免の状よっで件の如し

明治34年(1901年)6月15日 
谷村樵夫自庸
小藤亀江殿

 小藤亀江の伝授された免許皆伝目録は大方神傳流秘書の業が含まれていると云いたい処ですが、大森流居合之事、坂橋流之棒、夏原流和之事、大剣取がすっぽり抜けています。英信流居合の奥に就いては業手附の形を取らず英信流目録秘訣の業解説を以て伝授した事とされています。従って奥居合を稽古出来ていたかは疑問です。下村派の伝書は神傳流秘書のまま引き継がれたと思いますので、奥居合は抜刀心持之事に従って稽古された可能性はあります。いずれにしても江戸末期から明治では居合抜ばかりが優先的に稽古されて付随する種目が疎かになったと思われます。それでは大江先生は下村派の下村茂市の門下であったろうから神傳流秘書の奥居合は知っていたはず、と思いたいのですがまず指導されなかった、書き付けられた手附は無かったと思えます。明治維新が15歳、武士としての常職を失ったのは明治5年20歳です。下村茂市は明治10年には没しています。谷村派の奥居合はこの小藤亀江の目録からも系統だった業手附は無く心得が先行していると思えます。

 
  
  

| | コメント (0)

曽田本その2を読み解く25谷村亀之丞自庸から小藤亀江への免許皆伝その1

曽田本のの2を読み解く
25、谷村亀之丞自庸(谷村樵夫自庸)から小藤亀江への免許皆伝
その1根元之巻

曽田本その1より 原本は「昭和20年7月4日午前2時高知市爆撃の際家財道具一切と共に焼失ス」
居合根元之巻(読み下し文としておきます)
 抑此居合と申すは日本奥州林の大明神の夢想により之を伝え奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違い有と雖も、他流大人小人無力剛力嫌わずに兵の用に合う云々。
 末代相応の太刀に為ると云う、手近の勝負一命の有無此の居合に極まる、恐らくは栗地辺土の堺に於て不審の義之有るべからず。唯霊夢に依る處也、此の始めを訪ぬ奥州林崎神助重信と云う者に因り兵術之有るを望み、林の明神に一百有日参篭せしむ、其の満暁夢中に老翁重信に伝えて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たるは怨敵に勝を得る云々。
 則ち霊夢に有る如く腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝つ事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意一国一人の相伝也。
 腰刀三尺三寸三毒則ち三部に但し脇指九寸五分九曜五古之内訟也、敵味方に成る事是前生の業感也、生死一体戦場浄土也、是の如く則ち現世を観るは、大聖摩利支尊天の加護を蒙る。末世に成仏成るは縁の事豈疑い有らんや。
 此の居合千金を摘むと雖も、不真実の人には堅く之を授くべからず、天罰を恐るべし唯一人に之を伝え授く云々。
 古語に曰く
 その疾く進むは、其の速く退く云々、この意貴賤尊卑を以て謂れずして前後の輩を隔て無く、其の所作に達する者に目録允可相違なく許す。
 又古語に曰く
 夫れ百錬の構え在り則ち茅茨荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜自ずと之を思い、神明仏陀を祈り忽ち利方を得、是に依って心済み身事燦然

天真正
林神明
林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
萬野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六太夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林彌太夫政敬
谷村亀之丞自雄
楠目繁次成栄
谷村樵夫自庸
小藤亀江(明治34年6月15日授与)
曽田虎彦(明治38年6月吉日 従実兄亀江伝来)

以下 無雙直傳英信流居合目録 次号

 根元之巻は内容はこんな程度のものですが、林明神に依る霊夢に依って伝授された居合で、その極意は柄口六寸に勝つこと。真実の人にのみ伝授を許すものであることを述べています。
この伝書は谷村派の宗家筋ではない傍系と思われますが、根元之巻を授与されているのでその流派の宗家と見なされるかもしれません。第11代大黒元右衛門清勝より複数に伝授された形跡があり、道統があやふやになってしまったと云えるでしょう。第15代谷村亀之丞自由の時にも第16代五藤孫兵衛正亮と楠目繁次成栄に伝授されていますので更に輪をかいたことになります。併し明治時代にこれ等の道統は絶え或は入り組み大江正路先生が新たに統一した事に成る様に見えるのですが、大江先生は八名程に根元之巻及び目録伝授があります。
 従って土佐の居合の正統正流は「我こそは」が多数発生しています。併しその居合は大江居合に過ぎず所作の末節の違い程度のもので、古伝に戻る事も、より優れたものに進化する事も無く今あると思います。
 大江居合の業呼称をもって、その動作の順番通の形に学んでいるにすぎません。夫々何々連盟とか何々派と称していますがそれだけの意味があるのか疑問です。人それぞれの武術哲学も体つきも違うのですからそれはそれで些細な想定による運剣動作に過ぎません。指導者の真似事で終始している現状は如何なものか疑問です。
 次回はこの小藤亀江の伝書による目録によって大江居合との対比、古伝神傳流秘書との対比を観て行きたいと思います。この項は曽田本その2による曽田先生のメモから発したものとなります。 

| | コメント (0)

2019年8月21日 (水)

曽田本その2を読み解く25山川久蔵先生の伝へられたる神傳流秘書の中より抜粋

曽田本その2を読み解く
25、山川久蔵先生の伝へられたる神傳流秘書の中より抜粋

◎大森流
 1、初発刀
 2、左刀
 3、右刀
 4、當刀
 5、陽進陰退
 6、流刀
 7、順刀
 8、逆刀
 9、勢中刀
10、虎乱刀
11、抜打
◎長谷川流
奥居合(格を放れて早く抜く)
坐業(括弧内は参考)
 1、向払(霞)
 2、柄留(脛囲)
 3、向詰(腹に取り向を突く)
 4、両詰(イ、戸脇、ロ、戸詰)
 5、三角
 6、四角(四方切)
 7、棚下
 8、虎走
 9、抜打(暇乞)上、中、下
記、山川久蔵先生の伝へられたる伝書は何處より授かりし者なるや、林益之丞政誠先生の門を出たるに如何なる所存に変れるにや一向伝書に不▢林氏の伝書とは違いたる由噂あり
立業
 1、人中(ひとなか)
 2、行連(イ、連達、ロ、行連)▢業
 3、連達(イ、行違、ロ、▢▢行違)
 4、行違(袖摺返)
 5、夜之太刀(暗打)
 6、追懸切(イ、立業の両詰、ロ、▢▢追懸)
 7、五方切(惣捲)
 8、放打(惣留)
 9、門入
10、袖摺返?奥の列に抜打 弛抜(はずしぬき)

 古伝神傳流秘書と大江居合を業名で対比して見たのか、何を目的に羅列したのか疑問ですが、曽田本その2のスクラップの途中に曽田先生直筆のこの部分が綴られています。
 山川久蔵幸雅の伝書と林益之丞政誠との伝書の内容が違うと云っています。
 第11代大黒元右衛門清勝は根元之巻及び目録を松吉貞助久盛と林益之丞政誠の二人に伝授されています。
 松吉貞助から山川久蔵は伝授され次に下村茂市に伝授、その次は細川義昌であろうと思います。細川義昌と同門の行宗貞義と大江正路は伝書を受けていないかもしれません。
 一方の林益之丞から依田万蔵敬勝ー林彌太夫政敬ー谷村亀之丞自雄から五藤孫兵衛正亮ー森本兎久身ーと楠目繁次成英ー谷村亀之丞自庸ー土居亀江のようです。
 細川家から出た伝書は木村栄寿本が示す様に神傳流秘書そのものです。併し谷村亀之丞自庸から土居亀江が受けた伝書はその目録は神傳流秘書簡略版となってフル装備とは言えません。
 五藤正亮先生、大江正路先生の受けた伝書でも発見できればこの辺の違いがもう少し明らかになると思いますが150年の時の流れと高知大空襲による焼失によるものは・・さて、証明できる資料は無さそうです。いずれにしても現在の無双直伝英信流は林六太夫守政が土佐に持ち込んできた神傳流秘書とは業名および奥居合の業名と業の混乱は、経年による変化とは言い難いものです。

 参考に、もう一度林益之丞系統の谷村亀之丞自庸ー土居亀江への免許皆伝を読み直してみます。

| | コメント (0)

2019年8月20日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流居合術24の8河野稔の2

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流居合術
24の8大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔の2

16、納刀のとき刀先を鯉口につける場合、右手拳をクルット揺らぬ様注意の事、而して最終(其動作の最終)にも殊更に形の上にクギリをつけぬ事。
17、奥居合の納刀の場合、初め刀先を納めたる時、右手拳が鯉口の位置より高き時は一旦右拳をジワット下げて後スット納める事。
18、総ての業を大きくゆっくりと行ふ事肝要なり(但し鍛錬を重ね間をつめる事)。
19、早抜きの納刀は鎺元迄一気に納める事。
20、着眼は動作中は仮想敵に成す事。
21、総ての業に於て真向打下しの手元は高過ぎて左手首の伸切らぬ様注意をする事。
22、立膝、居業の納刀の際に於て前足の引き付けは十分腰に気力を注ぎ前足に体重をかける気味合にて退きつける事。
23、抜打、真向、暇乞の場合は刀を抜き取り頭上に振冠り、上体を起すと同時に爪先に力を入れ踵を十分に後方に退き(膝を後方に退く)て真向打下しの場合上体を前方に乗り出すに備ゆる事。
24、用語、抜きつけ(斬り付け)打ち下ろし(斬り下し)。血振るひ。
25、総て抜きつけの場合は上体は少しも前に俯向けぬ事。
26、抜きつけの時前に踏み出す足と、跪きたる膝頭とは、あまり広く間隔を置かぬ事、即ち前に踏み出したる脚の内方角度は約90度を越えざるを度とし、後脚の膝頭は上体の直線より幾分後方にあるべき事(前足先と後足膝頭との中間に体の重心を置く)。
27、介錯の構へたる刀刃は真上より幾分後方に斜に向く事。
28、正座納刀の場合後方に退く足は十分腰に気力を注ぎて角張るらずスーット退く事而して膝を床に付ける迄は体を上下に少しも揺り動かす事なく極めて静かなるを要す。
29、附込の斬り込みは十分大きく振り冠りて打下す事(但し二度目の斬込みにて仕留むる形なるを以て一回目は幾分浅く二回目は深く斬り込む事。)
30、附込の納刀血振りの場合は腰を十分前に入れる事。
31、立膝(早抜きも同じ)各業の終った時の体の位置は最初座したる位置とあまり変らぬ様注意する事。
 
  以上


 八重垣会の講習会で穂岐山先生に河野先生が注意されたことを書き留めたものとされていますが、自分だけでなく参加者の動作によるものなのでしょう。
 河野先生に依る昭和13年1938年発行の無雙直傳英信流居合道の第八節「居合初心者心得」の内容と略合致します。という事は、河野先生はここに書かれている様に稽古しなさいと云ってるわけですが、さて現行の動作とどの様に関連付けできるのか個々に当たって見たいと思いますが、曽田本その2を全巻読み解いた上での宿題にしておきましょう。
 

| | コメント (0)

2019年8月19日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流居合術24の8河野稔の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流居合術
24の8大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔の1

 左記は大日本武徳会大阪支部に於ける講習会に際し、私の悪癖に対してご注意賜りたるを(恩師最後の講習会たる昭和9年8月第6回講習会迄の各年度の分)私自信の参考として夫れに書き留め置きしものに付ご了承を乞ふ。
1、納刀の時鯉口に刀尖の納まった時右拳高きに失す、此場合右拳は鯉口の位置より低き事を要す。(? 曽田メモ
2、附込、岩浪、介錯の場合始め刀を抜き出す右手拳は鯉口と同じ高さより下らぬ事、更に此の場合上体が前に屈まぬ様注意する事。
3、立膝の納刀を終りたる時の体勢は正面向之事。
4、颪の柄當は十分に左腕を延ばす事。
5、浮雲の打下しは左膝の外方になし左脚に並行なる事。
6、鱗返、浪返は、両足先は殆ど其のままの位置にて抜きかけつつ廻り、刀先を抜はなちて一文字に斬り付けると同時に左足を後方に退くこと。
7、総て抜き付けの際は鯉口と刀先の縁の切れざる様注意最も肝要なり。
8、横一文字に抜きつけたる位置より刀を雙手上段に振冠る場合、右手拳は左肩前にとる事なく抜きつけたる右拳の位置より直に頭上にとること即ち先づ左肩前にとり然る後頭上にとるは不可、此場合刀尖は肩高きより左に廻すこと。
9、霞の甲手を返して前進する場合は腰を少しも屈めず十分腹を出す事。
10、総ての右一文字抜きつけ並に正座血振い(前に足を踏み揃へたる時)の場合上体は少しも前に屈めぬ事。
11、四方切りの場合左右に刀を返して雙手上段になるときの刀は十分大きくなし敵刀を受け摺り上る気持なる事。
12、棚下の場合、顔面は正面に向けたるまゝ上体を低く十分に前に深く入込みて抜く事。
13、介錯、附込、岩浪の場合刀を前に抜き出す時は顔は俯かず正面に向けること。
14、両詰は十分に大きく深く刀を前方に突き込む事。
15、虎走の前方に進みての納刀及び惣留の追進む時の納刀は鎺まで一気に入れる事 

 以下次号

*
 河野先生、謙虚ですね自分の居合之悪癖と仰いますが、自分の現状は中々わからないので師匠か何方かに注意をしてもらわないと直らないものです。其の上段位が上がって誰も何も言ってくれなくなれば、自分の体が欲する動作に勝手に戻ってしまうものです。ですから私は写真や動画による悪癖は如何なる名人上手にも見られるもので、それから動作を見る事の多い現代の修行者は指導者の悪癖を学んでしまうと考えます。この様なたった一行足らずの文章から本物を学ぶ姿勢も大切と思います。そして何故そうするのか自分でとことん考え師と仰ぐ方がおれば聞いてみるべきです。
 答えられずに、「そう習った」とか「決まり事」などと云うのでは困ったものです。此処の項目は無雙直伝英信流居合兵法正統会では現在でも注意項目ですね。
 河野先生が第18代穂岐山先生に師事されたのは昭和2年1927年です、この項の留め書きは昭和9年1934年迄の間の6回との事です。大日本居合道図譜の「日本最初居合術の会団 八重垣会の思ひ出」によりますと、昭和2年8月に初めて第18代穂岐山先生を大阪武徳会支部に招待して教えを仰ぐとされています。
 八重垣会は昭和6年1931年、会団創立の機運が高まって「居合術八重垣会」と決まったそうです。その後「大日本居合道八重垣会」と改名しています。
 穂岐山先生は昭和10年1935年2月1日に逝去されていますからその前年までの「留め書き」となります。

 赤字及び下線はミツヒラの疑問と思える箇所ですが、無双直伝英信流の各派、夢想神傳流とも。動作を対比してあるべき状況を研究して見たい処です。此処では疑問の指摘のみとしておきます。

 

| | コメント (0)

2019年8月18日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流之形に就いて24の7河野稔

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流之形に就いて(其13)
24の7大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔

 當流には左に掲ぐる形7種(66本)を承伝され居るも其詳細説明は後日の機会に是を述べん
1、太刀打ノ位
 1、出合 2、拳取(附込)3、請流 4、絶妙剣(請込) 5、鍔留(月影)
 6、水月刀 7、絶妙剣(當身ヲ行フ)8、独妙剣 9、心明剣 10、打込

2、詰合ノ位
 1、八相(口伝に發早トアリ) 2、拳取 3、岩浪 4、八重垣 5、鱗形
 6、位弛 7、燕返 8、眼関落 9、水月刀 10、霞剣 11、打込(留ノ打也)

3、大小詰
 1、抱詰 2、骨亡 3、柄留 4、小手留 5、胸捕 
 6、右伏 7、左伏 8、山影詰

4、大小立詰
 1、〆捕 2、袖摺返 3、鍔打返 4、骨防返 5、蜻蜒返 6、乱曲

5、外ノ物ノ大事(奥居合ノ事)
 1、行連 2、連達 3、遂懸切 4、惣捲 5、雷電 6、霞

6、上意ノ大事(奥居合ノ事)
 1、虎走 2、両詰 3、三角 4、四角 5、門入 6、戸詰 7、戸脇 
 (8、壁添 抜け)9、棚下 10、鐺返 11、行違 12、手ノ内
 13、輪ノ内 14、十文字

7、極意ノ大事
 1、暇乞 2、獅子洞入 3、地獄捜 4、野中ノ幕 5、逢意時雨
 6、火村風 7、鉄石 8、遠方近所 9、外之剱 10、釣瓶返シ
 11、智羅離風車  以上


 無雙直傳英信流之形に就てと題して、ここでは形の区分と業名の羅列です。「後日の機会に是を述べん」と云っていますから後日に解説があるのでしょう。
 ここに掲載された業名形7種(66本)ですが、河野先生はこの時(曽田先生と交流して資料をもらった戦前の事と思います)まだ古伝神傳流秘書の存在を知らなかったかも知れません。
 この業名の目録の出典はどうやら曽田本その1にある「谷村樵夫自庸先生相伝 免許皆伝目録 従実兄小藤亀江(後に復帰して土居姓)傳来」のもので「明治34年(1901年)6月15日 谷村樵夫自庸 小藤亀江殿」という目録があります。そこには「居合根元之巻」に続き「無雙直傳英信流居合目録」が附随しています。
 目録の書き出しには現在の立膝の部に相当する業名が書かれ、その後に太刀打之位から始まり極意ノ大事が掲載され、その後に「居合心持肝要之大事」9項目書き込まれ、奥書となって居ます。
 残念ながら、この小藤亀江に谷村樵夫自庸からの根元之巻及び目録は「本目録は昭和20年7月4日偽善2時高知市爆撃の際家財一切と共に焼失す」と前書きされています。

 此の目録を授与した谷村亀樵夫自庸は、谷村派の第15代谷村亀之丞自由ー楠目繁次成栄ー谷村樵夫自庸ー小藤亀江の系統になります。
 現在無雙直傳英信流居合の系譜として知られるのは、第15代谷村亀之丞自由ー第16代五藤孫兵衛正亮ー(第17代大江正路子敬)が正統正流であるならば傍系と云う事になるでしょう。

 いずれにしても、江戸期の谷村派の伝書はこの根元之巻と目録に依るのでしょう。此処には大剣取も坂橋流之棒も夏原流和もありません。大森流も無いと云う事になります。
 谷村派には林六太夫が江戸から土佐に持ち込んだ無雙神傳英信流居合兵法はどの時期かに省略された残りの業だけが伝わって来たと云えるかもしれません。それでは下村派は如何にと云う事になるのですが山川久蔵幸雅が書き写した神傳流秘書が引き継がれた細川義昌先生の家に残るのだろうと思います。但し業技法の経年変化は細川先生から香川の植田平太郎先生から広島に伝わった梅本三男先生の業手附に現れています。

              

| | コメント (0)

2019年8月17日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人林六太夫先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹先生の4

 又或る時八軒町に火災アリ火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛小隅を取って投出し泉水一つ越して向ふの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであらふかと皆の人は驚嘆したといふ。
 又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此處には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であらふ庖丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水中に下してすすぐこと実に妙見る人の目を駭した(おどろかした)、先生は傍の船にて之を見舷側に倚掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず彼の料理する人も己の業を恥ぢてやめたといふ。昔の御料理方は逆も手が利いていたさうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたといふが仲々出来る業ではない。又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷り落ち易いものである、それを箸で挟み水中で数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであらふ。
 又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(や)まなかったといふ一例に次の記録がある。偖又(さてまた)在江戸而諸国の士集合之時奥人某鉛子除之法を知ると称し一時数人鳥銃の口を揃へて対ひし事ありしに我此の法を行而放事不能終とて自負したるを満坐妄言なりと思惟大笑其人怒気甚敷公等予之言不信笑事不安今其術可見とて火縄に移火座中の人々に持たせ一々消而通りしに人眼不遮一時滅火人々初て驚失笑罪謝六太夫深感其術学欲後日其宅訪ふて懇乞需しかと先に笑はれしことを以て許容せざりしかは大に侮いて假令妄言なるも白笑フ事勿益無事也とて此事を證として子孫を戒めたりと云ふ。
 天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの16を得ていられたのである。ー(終)ー

 林六太夫の逸話の意味は何なのかスクラップを写し乍ら何も際立ったものを持たないので、火事場の働きにしても、磁器を箸で挟んで洗われても是と云って、へそ曲がりの私は感動する事もありません。いざという時に力を発揮し、些細な事でも見過ごさず熱心に稽古して磨き上げれば器用さはより秀でる事はあり得るものでしょう。
 偖又(さてまた)で始まる逸話は読みずらい漢文調ですが、要はたとえ妄言であっても軽々しく人を笑いものにするような無益な事をしない様に子孫を戒めたと云うのでしょう。
 

| | コメント (0)

2019年8月16日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹
・ 
 先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め書は佐々木文山に就いて之を能くする等和術砲術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸16を得ていたといふから大したものである。
 而して先生は宝永3年(1707年)12月22日御料理頭より第扈扈従役に進められ礼節方を兼ねられ正徳3年(1714年)8月病の為め拝辞し同月24日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘御馬廻りとなり山内第8代豊敷公の時享保17年(1733年)7月17日71才で八軒町の邸に病没せられたが其間第4代藩主豊昌公、第5代豊房公、第6代豊隆公と3代の藩主に仕へ貞享3年(1687年)6月君主より故実の御下問あった時詳細記述して之を奉り殊の外の御褒辞と共に白銀若干を賜ふた外元禄20年(1708年)12月12日禄20石を加増され更に同16年(1704年)9月4日故実礼節究極の功労旁々又も50石を加増されて旧禄に合し150石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
 斯くの如く3代の君主に仕へて寵衰へず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたといふことは容易の事ではない之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺はれる。
 先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養ふやうな事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流田宮流等の居合が有ったにも拘わらず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷い(やかましい)ものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一人熱心に練磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。
 当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡先生が嗣がれて後林氏が二人迄嗣がれている、六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其ニ三をご紹介して筆を擱くことにする。
 先生は前述の如く幼にして家を嗣がれたそして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為15歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁ふと言ったを甚だ尤至極と考へ江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習ひ始めた文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖いろはより始めるは小一人なりと呆れたが其年より在府3年間精力を盡し遂に能書となり藩邸中弟子の礼を執る者が多かったといふ。

 中西岩樹先生の林六太夫の解説で、「剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め」と有るのですが、第8代荒井勢哲の二代目は荒井勢理だそうです。この荒井勢理とはどの様な人物なのか、どの様な文献もしくは説話から出されたものなのか、私は知りません。中西岩樹先生が昭和8年1933年土佐史談会発行の冊子に無雙直傳英信流居合に就いてと云う論文を書かれています、其処に「南路志は、守政の養子10代林安太夫の物語りとして、守政の居合剣術は荒井二代の勢哲より直伝なりと記し・・。」とあります。荒井勢哲の後は荒井勢理なのかは見えません。南路志の原書に因って確認して見る方法も有ろうかと思いますが、南路志自体も信頼できるものかは疑わしいものでしょう。土佐のお国自慢の裏附けの一つぐらいで良いのでしょう。

 林六太夫守政は平尾道夫氏の土佐武道史話では享保17年(1732年)7月7日70歳で没したとされています。土佐史談では7月17日なので土佐武道史話が誤植かも知れませんが亡くなった月はともかく日にちはどうでもいいでしょう。

 平尾先生の土佐武道史話では山内5代に仕えたとされています「豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷」ですが中西岩樹先生は「第4代藩主豊昌・第5代豊房・第6代豊隆公三代の藩主に仕へ」とされています。第7代豊常の時には隠居し第8代豊敷の時に亡くなったと解釈するのかも知れません。

 水野流、田宮流居合が土佐ではすでにあった所に林六太夫の居合が広まった様に書かれていますが、之も英信流を引き立てるだけの挿入かも知れません。江戸に参勤交代のお供で出れば江戸の剣術道場は幾つもあったのでしょうから特に藩として取り上げなければ個人の自由だったかもしれません。
  

| | コメント (0)

2019年8月15日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の2

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政
24の6居合術教士県道錬士中西岩樹の2

 先づ林六太夫守政先生までの直系を掲げてみると次の通りである。池田豊後・助五郎政弘・助五郎政勝・権吉郎政久・市兵衛政友・五左衛門政良・六太夫守政
 即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
 池田豊後は大和の人で一條家に仕ふる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469~1487年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随ひ弊多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。
 政弘は宗閑と號し爾来一條家に仕へている中槿花一朝一條家が久しからずして滅亡し豪族長曾我部氏興るにおよび其子助五郎政勝之に仕へ兵部と称し後従軍して戦死し当時7才であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕へ権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜ふて處士となり南隣大津に居住していたそして長曾我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間死没した後子五左衛門政良が山内氏に召出され御料理方となるに至った此の五左衛門政良こそ仍(乃ち)林氏の初めである。
 而して姓を林氏に改めた政良は萬治3年(1661年)山内二代の藩主忠義公の命により礼節を其宗家伊勢家に学び寛文10年(1671年)4代豊昌公の時宗邑80石を給ふて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝3年(1675年)4月晦日病死したので翌5月晦日六太夫先生が跡を嗣ぎ城南八軒町に居住した。

 文明年間と云えば1469年~1487年ですからたった11年間です。12代足利義尚の時代、応仁の乱の後土佐に入り土佐一條家を成したそうです。その一條家に従って林姓の元の姓である池田豊後が随身して土佐に下った。池田豊後は郷里大和へ帰ってしまい、子の池田助五郎政弘を土佐に残して置いた。そんな中で「槿花一朝」ムクゲの花の様に朝咲いて夕べには萎れる様に「はかない夢を見た様に」土佐一條家は滅亡してしまった。
 林六太夫の父池田五左衛門政良は土佐藩主山内氏に召されて御料理方となって居ます。年代は明らかでありませんが承応元年1652年から明暦3年1657年の間でしょう。萬治3年1660年には2代藩主山内忠義公から80石賜っています。延宝3年1675年に没しています。其の年林六太夫は後を嗣でいます。

 

| | コメント (0)

2019年8月14日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士
中西岩樹先生の1

 大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無雙直傳英信流の事である。
 私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。
 而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘わらず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸に其絶滅を免れ現代迄伝統して来たことについては
1、伝へられた土地柄が建依別の古称ある尚武の国で人間が総体男性的であり武張っていること。
2、伝へられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整へた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。
3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公又文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜馬現刑務所所在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用ひられたこと、の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったといへば
1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。
2、交通不便なるに加へ当時の事情が鎖国的であったこと。
3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又稀に有っても未だ他国者には一切伝授せぬといふ気風が残っていて機運が熟していなかったこと。等に基因しておるのである。
 私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基を造られた恩人故大子敬(正治)細川善馬(義昌)両先生の事及び少し遡って其絶滅の危機より救はれた恩人故板垣退助伯の事績を衷心より有難く思ひ感謝の念に堪えないのである。
 此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた事があるやうに記憶するので今回は更に其昔に遡り最初に此の居合を土佐に伝えへた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみやうと思ふ。

Img_0689
中西岩樹先生

 土佐の料理人頭であった林六太夫が藩主の参勤の際江戸に伴われて、当時江戸で道場を開いて居た荒井勢哲に居合を習ったのでしょう。どれくらいの期間江戸の居られたかは分かりません。せいぜい3年程度のことでしょう。併し幼少の頃より武術を嗜んでいれば十分ともいえる期間かも知れません。
 土佐藩内に認められ居合が定着したのは1800年代初めの事で明治維新まで50年か60年の事と推察します。居合術だけならば形を学べば、家で畳一帖も有れば稽古可能です。
 土佐の居合が、江戸時代に日本全国に普及しなかったのは、江戸での道場開設が荒井勢哲以降消えてしまったと想像できます。其の上習いに来ていた門人も下級武士が専らでしょうから、個人の域を超える事は出来なかったでしょう。荒井勢哲以外に藩から出て江戸に道場を開く程の剣客を生み出せなかったこともあるかもしれません。
 明治維新以降の剣術の衰退は当然の事で、板垣伯による土佐に残そうとする推進が寄与した事は大きそうです。それが寄与して土佐の中学校での稽古が始まっています。
 維新後土佐から職を関東関西ひいては全国に移さざるを得なかった土佐の下級武士個人個人の時代背景も土佐の居合が土佐を出て行った背景にある筈です。この中西岩樹先生の論文が何時何によって発表され曽田先生のスクラップになったのか、曽田先生はその事が分る事を残して居ませんからわかりませんが、恐らく昭和5、6年から昭和15、16年のことでしょう。其の頃から大阪の河野百錬先生が八重垣会を仕切られていたと思います。曽田先生は昭和25年には亡くなられていますから、時代を思えば戦前のものと云えそうです。
 お国自慢が居合に寄せられ強いのも、薩長に牛耳られていま一歩政権に満足できなかった土佐にとっての自慢できるものだったのでしょう。

 以下次回
 

| | コメント (0)

2019年8月13日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の9

 明治になって有名なのは細川義昌氏であらう。鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、入神の技だったそうである。大正12年2月23日75歳で物故したから、其技を實見した人々も少くあるまい。維新の勤王家松島隆成氏も長谷川流の達人であった。畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。即ち燈心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云ふ。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。是は私が直接遺族から承はった話である。松島氏は明治33年59歳で他界した。大江正路も有名だったが、先年長逝し、現今では其の門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。流技は就れも長谷川流とその分派大森流。
 伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後7代長谷川英信に至り、所謂長谷川流起り、8代荒井勢哲、9代林六太夫・10代林安太夫、11代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、12代坪内某、13代島村某、14代松吉某、15代山川某(久蔵か)、16代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て18代が現警視庁師範中山博道氏である。以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むることを得れば、一層その密接なるを確める事ができやう。以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。
 註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。
 註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐伝人伝、後侍中祖書系図牒、手抄を主に、高知県武徳会井上衛氏の報告。及び私の見聞を加へた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて盡く之を示さない。

 この平尾先生の土佐史談は昭和7年1931年のものだろうと思います。細川義昌先生の蝋燭の芯を薙ぎ切った話が松島隆成氏の行為に読み違えそうになる、その文章力には「ちょっと」と云いたいのですが、私も似たようなものです。松島隆成に就いては聞いたことがありません。大江先生は昭和2年1927年76歳で没しています。この雑録の5年前の事でしょう。
 伊東芳夫氏は山形県楯岡の人ですから、林崎神社の辺りの人です。土佐の居合の系統迄よく知ってはいなかったのでしょう。谷村派と下村派が混在してしまっています。荒井勢哲までは江戸での無雙神伝重信流でもいいでしょうが、土佐に入ってからは無雙神伝長谷川流(英信流)でしょう。
 平尾先生は土佐の居合を「長谷川流」と云っていますが、土佐での呼び方は「英信流」の方が強かったかもしれません。現代では「英信流」それも「無双直伝英信流居合兵法」だそうです。「無双直伝」は何処から持ってきたのか、大江先生によると云われている様ですが、さて。
 平尾先生の資料は江戸時代のもので広範な流祖に就いて書かれたものですが、史実とは云えない箇所も個別にはあるので、全面的に信頼は出来そうにありません。寧ろ土佐内部にまだ眠っている資料があると思うのですが、明治維新による無用な反故に過ぎなくなり、更に高知空襲で焼失、戦後の核家族化による家の歴史観念の欠如は高知だとて資料は少なそうです。

 平尾道夫先生の雑録を終ります。
 

| | コメント (0)

2019年8月12日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の8

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の8

 山川氏の如く、居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。前者は小児科医下村宗真の子で嘉永5年正月12日居合術体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久3年4月15日居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第6節に述べたから、此所には反復しない。
 右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。山内家第15代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実をかたったものに、左の一齣(ひとこま)がある。
 (上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附随した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合といふものが12本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。7日7夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録223輯)

 山川久蔵幸雅は文政3年1820年に藩から居合指南役を命ぜられています。
 下村茂市が召し出されたのは嘉永5年ですから1852年の事です、其の翌年には米国のペリーが浦賀に来航しています。
 谷村亀之丞自雄は天保8年1837年に稽古扶持として3人扶持を賜り、天保15年1844年には芸家として取り立てられ、文久2年1862年には導役となって居ます。江戸時代末期の50年程の期間が土佐での居合の隆盛期だったように思えます。
 
 平尾先生の土佐武道史話によると、容堂公が谷村亀之丞自雄を師として居合に励み弘化元年1844年に根元之巻と目録を受けているとされています。この頃には複数の者に根元之巻と目録が授与されていたのでしょう。第15代谷村亀之丞自雄から根元之巻及び目録を受けた者は、山内容堂、楠目繁次成栄、五藤孫兵衛正亮という事でしょう。
 

| | コメント (0)

2019年8月11日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7

曽田本その2を富み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及
24の5平尾道夫の7

 林氏の門に出でて、最も其名を謳はれた者に山川久蔵がある。名は幸雅、もと錠八とも称した。山川久右衛門幸艦の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。林氏との関係に就き、「手抄」24巻に左の如き噂を載せてある。
 山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の傳授(皆傳なるべし)致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取りに参り申さず、相わからざる事也。夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。其後久蔵は門弟を取立師家に成れり。長谷川流の傳書は何方より授かりしにや、林氏の傳書と違ひたるよし、或人より承はる。
 これは非常に興味ある問題だが、如何ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚かられる。山川久蔵は文政3年正月9日、藩から居合術指南役を命ぜられ、其心掛厚きを以て切符拾石を加増された。弘化3年2月9日には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年10月8日病死した。同苗古文次の子鋼八幸永が跡を相続したが家督は継いで居ない。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によると、「谷村亀之丞と同時代に山川久蔵(幸雅)が居合師家として活躍していた。是は林彌太夫の門人だったが、いつしか林家をはなれて別に伝書をうけ、門人を教えるようになったので当時の世評にもなったが、その系譜をたどると山川久蔵から松吉某、島村某、坪内某とさかのぼって大黒元右衛門に至るそうである。すなわち大黒元右衛門は伝書を林益之丞にゆずると同時に坪内某にもあたえたわけで、楠目盛徳は山川久蔵のことについて「長谷川流の伝書は何方より授かりしにや。林氏の伝書とは違ひたるよし或人より承る」と、その随筆手抄に書いている。これがいわゆる大森流ではなかったか。
 山川久蔵は、その伝書を下村茂市(定)にゆずり、細川義昌を経て、昭和初期に警視庁の剣道師範として知られる中山博道に及んだそうで、多年土佐にその伝統をつないだこの居合伝は中山博道につたわることによって県外に出たわけである。」

 山川久蔵が手に入れた伝書は第11代大黒元右衛門が第12代林益之丞政誠と、また一方で第12代松吉貞助久盛にも伝授された事があったと云う事で、事実はどうでも納まったのでしょう。
 林益之丞が受けた伝書と、松吉貞助の受けた伝書が違うと云う事で、平尾先生は大森流がどちらかに無かったのではないかと仰っていますが、その根拠が不明です。今手元にあるものは山川久蔵系統のもので、其処には大森六郎左衛門は林六太夫の剣術の先生だった、その先生がもたらした大森流居合だと記されています。
 「此居合と申すは大森六郎左衛門之流也、英信流に格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流之上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言」と云う事でもし平尾先生の想像が正しければ林益之丞に伝授されたものには大森流は無かったかもしれません。
 それよりも、林益之丞系統から出たと云う伝書の存在が判りません。松吉貞助系統の細川義昌先生からの伝書は木村栄寿先生に依って公開されていて、私の曽田本と神傳流秘書等同じ内容のものです。
 土佐の居合が中山博道先生によって土佐を出た以前に第16代五藤孫兵衛正亮先生の門弟森本兎久身によって中山博道は土佐の居合を学んだし、大江正路先生と共著の剣道手ほどきによって堀田捨次郎より土佐から出ています。
 土佐でもこの居合の正しい伝承はよく解らない。判らなくなってしまったほど明治維新は多くの日本の伝統文化を抹殺して来たと云えるのでしょう。

 

| | コメント (0)

2019年8月10日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の6

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の6

 林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝壽と云ふ者が妙手であった。槍術家の新國彦九郎に一寸計の杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云ふ。御小姓格渋谷彌五平勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和9年5月10日を以て病死した。林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。
 林彌太夫政敬先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。皆大男にて、左平太が技前は業小なれども豪気なる居合也・彦八は業大きく行込み、強く錬熟したり。亀之丞先生も彦八氏と同じく上手也。彦八氏、亀之丞氏とは技前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立たんことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄25)
 亀之丞は谷村久之丞自凞(じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保8年稽古扶持として三人扶持を賜った。同15年には同流の芸家として取立てられ、文久2年にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

 居合抜の妙について、「一寸ばかりの杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して」と有るのですが、現代居合でこんな事が出来る人はいるのでしょうか。一寸と云えば3cmそこそこ、杭とは楊枝のようなものと思えばいいのかも知れません。この様な芸当はともかく、抜き付けるべき部位にピタリと抜き付けるのは至難の業です。現代居合の抜き付けは正坐の部一本目前ですら、敵の右肩から首こめかみと相手の動作によって動く位置を特定していますが、抜き付けの動作では腰を延び切って、抜き付けた右拳の位置は右肩の高さで斬り付けた刀刃水平に走らせています。こんな抜き付けで動く高さの目標に斬り付けられる訳はありません。斬り付ける相手の部位など、据物同然の抜き付けです。形に拘り過ぎて役立たずの稽古法が問題なのかとも思えます。根元之巻では勝つ部位は敵の拳です。
 古流剣術の抜刀を稽古していますが、相方に小手を着けてもらい斬り込んでくる小手に抜き付ける稽古をしています。或は抜刀せんとする小手に下から抜き付けています。抜刀してからの剣術でも小手に斬り込むとか右面左面目標物に見事に斬り込むもので、動く相手の太刀をかわして小手に斬り込むわけで、現代居合の様に抜き付けたフィニッシュの決まった状況を優先してしまいますと目標など無いも同然なのかとも思います。
 この、雑録にある見事な両断は稽古次第で出来る様になれるかもしれません。出来ると思えない人には出来るわけはないでしょう。動かない仮想敵を相手に稽古している様では無理でしょう。ましてかって指導を受けた先生の様に仮想敵は修行の末に現れるなどの嘘つきには絶対に無理なことです。

| | コメント (0)

2019年8月 9日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐の於けるその普及について24の5平尾道夫の5

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の5

 居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸で無かったから、別に師匠役などの任命はなかった。併し個人として之を門弟に授けた為めに、此以後長谷川流居合は小栗流無外流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。六太夫の子安太夫政詡を経て、六之丞政長、其弟益之丞政誠彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝へて居る。益之丞政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であらう。
 六太夫の二男脩之丞正靖は、甚三郎と改めて小栗流師家足立茂兵衛正藹の後を継いだ。益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政13年正月22日其技を以て特に召し出され、三人扶持御馬廻り末子に列し、屢々藩主豊資公の感賞に與ったが、後ち池田和太夫と改名、天保2年7月18日病死して、後は断絶した。楠目成徳の「手抄」24巻には、「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀の術を伝へ、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書25巻には「文政の頃林八郎次彌太夫の弟と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次八郎次と諸人に称誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云へり」と見えて居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

 この林家のメンバーを現在言われている道統に従って並べてみると以下の様になります。
 9代林六太夫守政ー10代林安太夫政詡ー(11代大黒元右衛門清勝)―12代林益之丞政誠ー(13代依田萬蔵敬勝)―14代林彌太夫政敬ー(15代谷村亀之丞自雄)―(16代五藤孫兵衛正亮)―(17代大江正路子敬)・・。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によれば、第9代林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけて助五郎政彬と縫之丞正靖(脩之丞正靖)であったが幼少の為、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合伝授を授けた。これが第10代林安太夫政詡である。名字から推し測れば、第10代林安太夫の後は、第9代林六太夫の妻の実家大黒家から第11代大黒元右衛門清勝が道統を継いだのでしょう。
 第12代林益之丞政誠は第10代林安太夫の子であったかこの平尾道夫先生の著となる土佐史談と土佐武道史話だけでは読み取れませんが、恐らく12代は10代安太夫の子であったろうと思いたいのは私の勝手です。
 第13代依田萬蔵敬勝は何処にも其の謂れが無いのでわかりませんが、第12代林益之丞政誠の長男が第14代林彌太夫ですから12代の後は弟子の中の優秀な者であって、その後は林家に戻され林彌太夫が14代になったのでしょう。
 それ以後は優秀な弟子が選任されたと思われます。

 第17代大江正路先生は大黒元右衛門の後に分離した下村派の第14代下村茂市定の弟子でしたから、谷村派の第16代五藤孫兵衛正亮の後を継ぐ事が出来たか疑問ですが、五藤正亮亡き後、引き継いだ谷村樵夫自庸も亡くなってしまい、維新後の事なので其の辺の事は幻の中なのでしょう。家は継ぐ事は出来ても芸事を血筋のみで引き継ぐ事は大変難しい事でしょう。それは現代の方がより難しくなっている様にも思えます。 

| | コメント (0)

2019年8月 8日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史伝雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史伝
雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の4

 長谷川流居合を土佐に傳へたのは上述の如く林六太夫守政である。林氏の祖先は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕へ、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。
 其子兵部政勝戦死した為め、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曾我部氏に仕へ、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
 其子市兵衛政友、承応年中に逝き、政友の子政右衛門政良初めて林氏を称し、山内家に仕へた。
 延宝3年4月晦日政良病死後、同年5月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行80石、格式新御扈従、料理人頭と云ふ父の職禄も其儘承けたものである。豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗ふ手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せしめたと云ふ逸話も残って居る。
 よろず才能に秀でて、本職の庖丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末枝に至るまで諸芸16般を極め、孰れも人師となるに足りたと云ふ。就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其奥を極め、累々典礼に関する書付けを上って、其都度感賞に與り、元禄10年には加増20石、同16年には更に50石を加へられて、都合150石を賜はり、宝永3年には大扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
 正徳2年には老齢によって大御扈従を免ぜられて馬廻になり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保17年7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊敷5代の藩主に歴任し、君寵の衰へなかったのを見ても。如何に其人格の円熟して居たかを察すべきであらう。

 平尾道夫先生による土佐史談34の雑録の内容は、平尾道夫著昭和36年1961年発行「土佐武道史話」に長谷川流居合として整理され記載されています。
 少々気になったのは、土佐武道史話によると「はじめは知行80石で新小姓の格だったのが、後には160石の馬廻に昇進し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役にまで出世した。太平の時節にこの様な昇進を見ることは異数の例で、それだけに彼の才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。彼の名を後世に残す長谷川流居合は、実は六太夫にとって余技にすぎなかったのである。六太夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70歳で亡くなった。・・」扶持高10石の違いと17日の死亡日が7日の違いが気になりました。
 林六太夫にとって余技に過ぎない長谷川流居合を、神傳流秘書をはじめ多くの目録秘訣を林安太夫に伝え残された事には並々ならぬ能力をお持ちだったと驚くばかりです。

| | コメント (0)

2019年8月 7日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の3

3、同流に関して土佐に傳へられる文献は、私の知る限りに於て、林安田大夫の話として南路志71巻に収められた次の一節である。
 無雙流の居合は、林崎甚助重信より始まる。林崎は北條五代目に仕へ、此流を以て後太閤秀吉公御学ならせらる、無雙流と云ふ名を始て御附ならせしと也。其後塙團右衛門に傳はり、團右衛門より長谷川内蔵助に傳へ、内蔵助より荒井勢哲に傳へ、夫れより子の勢哲に傳へ、夫れより近年の兵作に傳へ、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の術鍛練の由云々。
 真偽は別として、先づ上述の如くである。その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信7代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神傳英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱ふ」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであらう。神傳重信流に神影流の古流五本の仕形を加へて、大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行はれて居ると云ふ。

 南路志については見た事もありませんし、興味はあっても事実とは違うようですから、興味の有る方にご研究をお任せしておきます。私の興味はあくまでも土佐に持ち込まれた「無雙神傳英信流居合兵法」と称する古伝の研究と復元であって机上の研究は別物です。業技法のヒントを得るための史料には大いに興味はあります。土佐史談のこのスクラップの文面が掲載されたのは昭和7年1931年の事の様です。従って3項の前段の文章は、平尾道夫先生も書かれている様に「真偽は別として」に過ぎません。


 林六太夫守政によって伝えられた土佐の居合の古伝神傳流秘書には、「居合兵法伝来」と題して道統は以下の様です。
林崎神助重信ー田宮平兵衛成正ー長野無楽入道槿露斎ー百々軍兵衛光重ー蟻川正左衛門宗績ー萬野團右衛門信貞(定)-長谷川主税助英信ー荒井兵作(勢哲)信定(清信)-林六太夫守政ー以下に(大黒元右衛門清勝ー松吉ハ左衛門久盛ー山川久蔵幸雅ー下村茂市定ー行宗藤原貞義ー曽田虎彦)とされています。以下にある名は山川久蔵幸雅及び曽田虎彦の追記でしょう。
 目録には無雙神傳英信流居合居合兵法とあり是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也。
 大森流居合之事 此居合と申は大森六郎左衛門之流也英信流と格段意味無相違故に話而守政翁是を入候六郎左衛門は守政先生剣術之師也真陰流也上泉伊勢守信綱之流五本之仕形有と言或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶へ。

 この神傳流秘書の存在は平尾先生はまだ知らなかったか、土佐の所有者によって門外不出だったかもしれません。伝統の末尾は林六太夫で切れていたと思います、従って六太夫の後は今日云われている林安太夫政詡で古伝神傳流秘書の筆者も安太夫であったろうと大森流の謂れを読めば推察できます。

 真陰流は新陰流と違うのか誤認か判りません。恐らく古流五本の仕形であれば新陰流の「三学円の太刀」でしょう。この太刀を林安太夫は見ているのかも知れませんが稽古していないので絶えてしまったと嘆いています。宮本武蔵の二刀流も林六太夫は学んだのであろうことも此の文面から推察され林六太夫の熱心さが伝わってきます。大森流は英信流を元として詰合、大小詰、大小立詰、大剣取、夏原流和などを総合し、当時正座の座り方が城中で奨励され一般に普及していった中で、それを元にした大森六郎左衛門の独創だろうと思います。

  

| | コメント (0)

2019年8月 6日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の2

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社傳に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐一雲齊を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。後、山城国伏見に於て一雲齊を討って本望を果し、更に将軍足利義輝の上覧仕合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其以前に於て抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神傳重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶさうである。
 上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其後同家に随身して、維新に及んだと云はれ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起し、其子對馬守長勝は、初め池田輝政に、後ち徳川頼宜に仕へて、之を紀州に傳へた。水戸に於ては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽齋槿露は、初め小田原北條家に、後ち彦根井伊家に仕へ、一宮大夫照信は、甲州武田家に仕えへて抜刀一宮流を始めて居る。仙台には幕末に重信17世嫡傳と称する堀津之助共徳、及び大規定之助安廣あり、新庄戸澤家に平賀清兵衛あり、江戸に於ては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)依田市左衛門等が声名を博したと云ふ。其他野州宇都宮にも其流があり、神傳重信流は数派に分たれてかくの如く全国に普及して居る。

 此の項の内容の実証は明らかではなく、いくつかの史料を断片的に繋いだようで平尾先生の文章とは思われません。昭和の時代に手に入れられる程度の史料からの抜き取りではこんなものかも知れず、また土佐の人にはこれでも土佐の居合の優秀な事を思い描かせ、お国自慢に更に気を吐くネタともなったと思います。
 林崎甚助重信に就いては平成3年発行の林崎甚助源重信公資料研究委員会による「林明神と林崎甚助重信」の復刻版を村山市が発行元になって居ますから、それを求められれば、この雑録よりもう少し納得できる内容が得られるかもしれません。いずれにしても、市井の剣術使いの趨勢が正しく残されるなど当時としてはあり得ないでしょう。

 林崎甚助重信の生涯も霞の中から幻が見える程度の者に過ぎず、それもまた良いのでしょう。その居合の何たるかはもっと分からないとしか、云い様はありません。「昔はこうだった」とか「武術ではこうだった」など見て来たような嘘をつくことはできません。

 参考に「林崎明神と林崎甚助重信」に記載されている伝書の流名は以下の通りです。
 津軽藩 林崎新夢想流
 三春藩 林崎流
 新庄藩 林崎新夢想流
 庄内藩 林崎田宮流
 秋田藩 林崎流居合
 秋田・仙台藩 林崎夢想流居合
 二本松藩 林崎神流居合
 以下略す。

| | コメント (0)

2019年8月 5日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1

曽田本その2を読み解く
24スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の1

 ー特に此一篇を屢々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県稲岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐー
 1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴ひ、かなり古くから行われたやうである。土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈忠左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝へたる人であるが、亦居合の名手として伝へられる。或時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云ふ懇望があった。忠左衛門は之を快諾したが、暫らくして人々にうち向ひ、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云ふのである。人々が呆然として顔見合せているのを見て、忠左衛門は笑ひながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云ふので、試にその小姓を呼んで調べて見ると、果して言の如く見事に切断せられて居たと云ふ。忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其後土佐藩士人の間に伝へられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於て大いに其本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝へられた長谷川流居合そのものである。

 曽田本その2には曽田先生の直筆の居合に就いての蘊蓄が書かれているのですが、更に進んで、資料集めも積極的であったと思われます。この平尾道夫先生の「長谷川流居合と土佐に於ける其普及について」も何処からそれを切り取って張り付けたのか何も書かれていない為にその扱いに苦慮しました。
 平井道夫先生の著書「土佐武道史話」は高知新聞社発行で昭和36年1961年に出されたものは土佐の居合を学ぶ方にも良く読まれているものと思います。その序に代えて「戦争を否定し、暴力を排斥する現代の日本で、おこがましくも武道とはなにごとか、と目をむく人があるかもしれない。だが、武というのは「戈(ほこ)を止める」の二字から形成されたもので、つまり戦争否定の思想をあらわした文字だと教えられたものだ。してみると、戦争や暴力がいやなのは昔の人も現代人とかわりはなかったはずで、武道とはその語意平和道に通ずるものと解釈してもさしつかえはあるまい」と武力を賛美するのでは無く、武をもって和する心を学ぶ一端を示そうとされる気持ちが伝わってきます。
 この雑録のスクラップは土佐史談34に掲載されたもので、曽田先生は土佐史談34の95Pから100Pまでを外されて曽田本その2のメモ帖に張り付けられています。1項目から9項目に別れていますので項目ごとに日を追って掲載させていただきます。今ならスキャンするなりコピーするなりの事が出来るのですが、私の手元には土佐史談34の冊子の95~100ページが生の儘あります。

 この平尾先生の文章から、土佐には小栗流の朝比奈忠左衛門可長によって大栗流剣術に附随した居合が行われていたのでしょう。そこへ林六太夫守政によって江戸から新しい居合が入って来たのでしょう。土佐藩第3代忠豊公の時代に小栗流居合を親しんだ土佐の人に、あえて林六太夫は居合を家業とせずに本職の料理人を務め居合を余技としていたのも、第4代忠豊・5代と豊房・6代豊隆・7代豊常・8代豊敷と五代の藩主に仕えたのもその人柄を思わせます。
 ともすれば俺が、我こそはと人を押し退けてまで自己顕示しようとする人の中で、土佐の居合の「夢うつつの如くの所よりひらりと勝」とか「我が身を先づ土壇となして後自然に勝」などの極意は新陰流の活人剣を思わせるもので、信頼できる風雅な趣にいつの間にか居場所が出来ている人だったのでしょう。

| | コメント (0)

2019年8月 4日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐固有の武道居合術の復活
24の4竹村静夫の手記
(昭和11年7月24日高知日々新聞にて)

 我が土佐の居合術長谷川流の▢内無双なるは既に中央に於いても定評ある處であるが残念ながら今日迄只僅かに其一部のみ伝へらるゝに過ぎなかった、然るに▢▢剣客竹村静夫氏の熱心研究は其功を奏し従来の断片的の抜型が全部明かとなり固有の体系を復活し茲に我が居合術の完備するに至りたるは実に欣快に堪へざる所である記者は竹村氏に乞ふて其手記を転載するを光栄とするものである。

無雙直傳英信流居合術
1、伝統
 初代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛重正ー3代長野無楽斎槿露ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門尉信定ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井勢哲清信ー9代林六太夫守政―10代林安太夫政詡ー11代大黒元右衛門清勝―12代林益之丞政誠ー13代依田萬蔵敬勝ー14代林彌太夫政敬ー15代谷村亀之丞自雄ー16代五藤孫兵衛正亮ー17代森本兎久身ー18代竹村静夫

2、沿革
 当流の始祖は抜刀中興の祖(奥州の人)林崎甚助重信先生である。第7代長谷川主税助英信先生は始祖以来の達人であって、重信流を無双直傳英信流と改められた。爾来当流を長谷川英信流又は略して長谷川流と呼ぶ様になった。9代林六太夫守政先生は土佐の人で高知城南八軒町に住し居合礼節、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽、鼓等人の師となるに足る技16あり、斯道の逸材である。第11代大黒元右衛門清勝先生より當流は二派に分れている。そして何れ劣らず夫々勝れた手の内がある。藩政時代最後を飾る両派の代表的人物に谷村亀之丞自雄先生、下村茂市定先生がある。これより此の二派を谷村派、下村派と呼ぶ。谷村先生は天保の頃潮江に住して藩の師弟を指導せられた。時の藩主容堂公は「谷村の居合は土佐藩第一なり」と讃えられ一日谷村先生をお召の上、御佩刀を出されて「之を抜け」と仰せられた。先生はお側の者に豆を持たせて、之を抜き打ちになすに寸分を違えなかったと云ふ、下村先生は築畠敷に住し嘉永、安政年間藩公より居合術導役を拝命し藩立致道館に於て子弟を教育せられた。御維新▢欧州文明の流入に伴ひ古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。時に明治26年板垣伯帰省せられて土佐居合の全国無比なること並にこれが復活を説かれてより、谷村派の蘊奥を極めたる五藤正亮先生を、材木町新築道場に迎へて一般に指導を乞ふこととなった、五藤先生はこれより追半筋共立学校に於て主として中学生を教授せられた。当時の愛弟子に森本兎久身(海軍大佐)、坂本政右衛門(陸軍中尉)、田口刺戟(海軍大佐)のかくれた諸先生がある。森本先生は明治30年五藤先生の允許を得て上京有信館の門を叩かれた。師範根岸信五郎先生は森本先生の居合を拝見して「海内無双也」と激賞せられた、明治31年五藤先生没後は同派の谷村樵夫先生が専ら指導の任に当たられた。谷村先生は早抜きの名人である。小藤亀江先生は谷村先生の秘蔵弟子であるが、惜しいかな早世せられた。次いで下村派の行宗貞義先生が一線に立たれた。先生の居合には見事なる剱風があり。明治40年頃土佐第一の称がある門下には廣田廣作、曽田虎彦の両先生がある。一方当時の政治家であって而も下村先生の高弟で其の奥義を極められた方に細川義昌先生があった。細川先生没後は武道家として大江正路先生がある。先生は始め下村派を学び後に谷村派を究められ独特の手の内を案出して、大いに斯道の隆昌に貢献せられた。為に多数の門下生が排出した。就中中西岩樹、穂岐山波雄の両先生は其の白眉である。然るに昭和10年頭初穂岐山先生急逝せられ、中西先生渡満せられてより斯道に一抹の淋しさを覚えるに至った。が幸ひ故穂岐山先生の後は福井春政先生が継いでいる。又これより先曽田虎彦先生帰県せられて往年の下村派の復活を見るに至り。余も坂本将軍の錦衣御帰省を契機として往年の谷村派の復活を志し遂に恩師森本先生より免許皆伝を賜り此處に多年の宿願に到達するを得て土佐居合道のため微力を帰している次第である。

3、型
 當流は他流に見るが如く単なる抜刀術或は剣道に附属した居合鞘の内のみではなく立派に独立した土佐独特の居合道である、即之に附属する大森流を加へ換技共に47本の技の他に、太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰がある。太刀討の位は所謂太刀討で抜刀術を加味した剣道の型である。詰合の位は実に抜刀術の至極とも云ひ▢当流の極意とするところである。又大小詰、大小立詰は抜かずして勝つ即刀、鞘の内にあって敵を制する技で当流の大精神を表徴せられたものである。
 当流の骨幹をなす之等の型は明治31年五藤先生の没後全く廃っていたものである。それを40ヶ年後の今日復活し得たのは、余如きの到底独り研究し得らるべきものではなく、之は森本先生の御示教は申す迄も無く田口刺戟先生の心からなる御指導と御鞭撻の賜に他ならないのであった、又之を如実に発表することを得たのは真に曽田虎彦先生の御協力の賜である。
 型の内容は左の通りである。
 イ)太刀討の位
  出合、付込、請流、請入、月影、水月刀、絶妙剣、独妙剣、心妙剣、他に打込一本の口伝あり
 ロ)詰合の位
 八相、拳取、岩浪、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剣、他に口伝討込一本あり。
 ハ)大小詰
 抱詰、骨防、柄留、小手留、胸捕、左伏、右伏、山影詰
 ニ)大小立詰
 締捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蛉返、乱曲、他に移り口伝一本あり


 土佐の居合の歴史を一気に語りかけて来る様です。総合武術であった土佐の居合が、明治以降居合抜ばかりが稽古されて型は置き忘れられてしまった事を嘆きようやく田口刺戟先生、曽田先生と共に演じられるようになったと喜んでいます。ここには古伝神傳流秘書に在る大剣取が抜けています。田口刺激先生の指導に無かったものか、曽田先生による実兄小藤亀江の指導に抜けているとすれば第16代谷村派後藤正亮の教えが抜けている、要するに谷村派には大剣取は伝わらなかったかも知れないと云えそうです。当然の様に小太刀之位などはその後も聞こえてこないものです。
 然しこれから2年後竹村静夫先生は昭和13年1938年に39才で亡くなられています。日本は戦争に深く突入して行き、土佐の居合の先生方も次々に徴兵で連れ去られ、これ等の型も再び消えて行ったと思われます。現在は土佐の居合が総合武術だった事すら忘れられている時代です。
 有る時、無双直伝英信流居合兵法の十段を印可された方が、宗家より頂いた目録を拝見しました。目録ですから根元之巻は無く、長年に渡って精進した事を讃え目録皆伝となります。目録の内容は正座の部11本の業名、立膝の部の業名10本、奥居合の部21本、番外4本、抜刀法11本、英信流居合形7本でした。是で無双直伝英信流居合兵法の10段允可された事で権威と権力を手にした如くの振る舞いには呆れてしまいました。
 初代関東地区連盟の会長が大江先生から根元之巻を伝授された山本宅治先生によって根元之巻及び目録を伝授されています。目録は英信流居合術名称とされ正座の部11本、立膝の部10本、奥居合之部21本、番外3本、型7本です。
 之が土佐の居合の現状なのです。是では土佐の居合を知っている人など居ないも同然です。指導出来るわけもなく微細な「かたち」に終始して演武会用の武的棒振り踊になるのも当然でしょう。其の上土佐の居合の何たるかもその業名すら忘れ去られているのが現状です。
 連盟の段位取得優先思考が蔓延し、流派の正しい伝承を置き去りにしている指導者のなんと多い事か・・思いつくままに。

| | コメント (0)

2019年8月 3日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合の為に
24の3万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏
傑物、行宗貞義の一の弟子
(昭和11年11月海南新聞にて)

 土佐の居合術は英信流とて全国的に有名であり京都武徳殿においても特に英信流を日本武術の精華として尊重し中等学校でも武道の科目に編入しておる程だが現代この土佐居合術の代表的人物は何といふても曽田虎彦であらふ。
◇曽田氏の師匠は有名な行宗貞義氏である、行宗氏は西南戦争の時にたいいとして各地に転戦した剛のものだが後ち感ずるところあって断然軍服を脱ぎすて、一時看守長を勤めたこともあり、其の後ち更に零落して第二中学校の門監にまで成り下っていた。
◇当時二中の武術教師は桑山直澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かかった真田翁がその居合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がをる以上、桑山は教師たる資格がない早速罷めろと言って行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江正路氏の如き剣客も行宗の足許へ寄りつけぬと云ふ評判で其の実力は大したものだった。
◇この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったが夫等数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江吉重、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
◇此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我が子の如く教へたといふ一事を以って、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを属してゐたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る、果然その曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられ茲に師の衣鉢を継ひだのである。
◇すなわち世間からみれば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に推しあげられた形となった、そこで今一度行宗氏の実力が振り返へて見直す必要が出来た。何でも明治四十年頃であったが範士の中山博道氏が態々来県して行宗氏の弟子となり又三重県人堀田捨次郎といふ柔道の範士も亦た来県して行宗氏の門に入った敢へて多くを語らずとも此の二つの事実は行宗氏その人の畏敬すべき其の妙技と実力とを極めて雄弁に物語ってをるではなかろふか。
◇本年10月25、日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のために万丈の気を吐ひた、そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった。斯くて長谷川英信流第七代の師範たる曽田虎彦氏は日本の武道界において天下的人物たる折紙を附けけられことを我等は土佐の誇りとして読者と共に欣快の拍手を送る写真は曽田氏。
Photo_20190803113501
行宗貞義先生
Img_0687
曽田虎彦先生
*
 昭和10年11月海南新聞に記事として掲載されている曽田先生の師行宗貞義先生、曽田虎彦先生に就いての記事ですが、時代背景が伝わって来るようです. 

| | コメント (0)

2019年8月 2日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合術に就而24の2谷村秀喜

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合術に就而
24の2日本刀荘谷村秀樹

 無雙直傳長谷川英信流の本場たる土佐国に於ては、現在土佐出身の自分等は当流を内訳して(中西流)と(穂岐山流)の二派としております。同じ土佐の英信流であって前記二派の異なる点を一言にして曰ひ現さしむれば、穂岐山流は形としては美練され観る目誠に華やかなる形其ものである。
 然るに中西流は率直で然も機敏であり、真剣味充実し理論徹底し自ら鬼気迫る実戦其ものの技である。
 一例を挙るに穂岐山流では抜刀から刀が鞘に治まる迄総而の形が裕長にして動静が大きく華やかなるを特徴とす。中西流に於而は総而の形が敏捷にして動静は穂岐山流に比してやゝ小さく生気漲りて敵を斃すを目的とし、然も理論的に研究され、利剣其ものである。中西流の抜刀は刀身が今正に鞘を払はんとして切先三寸鞘に残りたる時切先に気力を充実さして体をヒネリて刀身を撥出して敵を弾力斬にするのである。弾力斬とは例へば一本の竹の根本と先を両手にて握り、之を円形に引枉て(ひきまげて)一方を放ちたる際の弾力気分を言ふ。即ち此気分る以而敵を斬り付けるのである。形が技であり技が形である居合術の総而の動静が理論徹底して居なければならぬ。
 一例するに大森流の五本目八重垣の形に於而抜付に敵の首或は胴を斬りて次に面を割る、而て血振りをなし刀が鞘に治まりかけて残心を入らんとする時、倒れたる敵は半ば起きあがりて自己の右足を払ひに来れるにより、更に刀を抜付けて敵刀を撥き返し、直に間髪を入れず敵の面を割る。此の処までは両派共大同小異であるが、此処に於而理論の異る点である。此場合穂岐山流では其場に於而左脚を屈すると同時に敵の面を割る。中西流に於而は其場より更に左足を一歩踏出すと同時に右脚を屈して面を割る、此の左足一歩踏出す点が中西流として理論の徹底したる点である、何故なれば自己の最前方に出たる右足を敵が払はんとする時には自己と敵との間隔は敵の刀身と延びたる敵の腕との長さの間隔があることは何人と雖も言を俟たざる(またざる)ところである。然らば敵と自己との間隔は少くとも五尺位の間隔はあるのが当然である。故に前述穂岐山流の如く其場に於而左脚を屈して斬付けたる処で、剣先は敵に届き憎い理論となる。故に中西流では右足を一歩踏出して斬付けるのである。斯くすれば完然に自己の剣先は敵に達し、目的を果たし得べきである。斯くの如く中西流は無雙直伝長谷川英信流表形四十二本、番外三本共此の理論が徹底致して居ります。
 尚一言して置きたいのは当流には表形の他に裏形が更に四十二本ある事をご参考迄に申添て置きます。
 =居合刀種々あり=市電細工谷停留所前 日本刀荘

 穂岐山流と中西流と云っていますが、その居合の演武を見る機会はすでになく、穂岐山流はゆったりと大きく華やかだけれど理論が今一と云う。中西流は形が敏捷でやゝ小さいが理論的だと述べています。刀屋さんの両者の見立てですが、中西流の軍配を思わせます。
 穂岐山流は大きくゆったり美麗と中西流の率直で機敏が見た目の違いで、理論の違いは想定の違いと言えるのでしょう。八重垣の動作の違いで其の事は明らかです。然し現代居合の形だけが全ての人には中西流は理解できないかもしれません。
 中西流も相手はこうあるだろうと言う思い込みが強すぎれば土佐の居合の真似をしただけの異なるものになってしまうのです。
 表の形四十二本には裏の形が更に四十二本あるそうですが、全く知りません。太刀打之事10本、詰合10本、大小詰8本、大小立詰7本、大剣取11本はあっても裏の形として現代居合で42本の話題や手附に就ての話は聞いたことはありません。其の他に古伝坂橋流棒13本、夏原流和54本、更に小太刀之位6本を加えれば119本になります。裏とは表の業の返し業のイメージがありますがどの様なものだったのでしょう。この辺の処も古伝を知らないだろう谷村秀樹氏の聞きかじりが膨らんだのでしょう。
 土佐の居合の古伝の凄い所は、根元之巻に記されている柄口六寸に勝つ極意にあってそれに至る初歩の稽古業が目録に在る業名に過ぎないのです。
 其の心持ちは「ガッサリと明けて敵は只一打ちと打込まする様に振る舞う事、構は如何にも有れ我と互に打ち下ろす頭にて只我は一図に敵の柄に打込む。先ず我が身を土壇と為して後自然に勝、その勝所は敵の拳なり」すでに失伝した奥義と言えます。
 曽田先生のスクラップはその出典が記載されていないものがほとんどです、これも何を切り抜いたのか解りません。然し居合の心を伝えてきます。

| | コメント (0)

2019年8月 1日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐居合に就いて24の1竹村静夫

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐居合に就いて
昭和11年2月10日日本武道にて
長谷川流第18代
居合術教士 竹村静夫

 土佐居合を語る者は藩政時代に於る谷村派並に下村派の両派を究め、而て徳川幕府中期迄辿り、一国一人の相伝也しと云ふ当流の根元を究むるに非ざれば未だ其の器に非ず。
 いやしくも土佐居合を説く者は、只々先師の教へを遵奉するに止まらず、克く両派の教へを含味して其の理論と実技とが相一致する、即其の呼吸、気位並気合、間合、刀法等総てが今日の剣法に合致し得るものでなければならない。
 斯道に志す人々は決して机上の空論に依って当流の手の内を兎角云々することなく、当流各本の教へに付き夫々吟味して先師の教への那邊にあるかを悟り、真の教へは単なる架空的なものではなく実際と理論と合致したるものであることを究めなくてはならない。

 斯道に志す人々が「居合は人を切るものではない、腹の教へである」と説かれるのを拝聴するが誠に然りである、然し乍ら夫れを説かれる迄には深甚の研究と努力を積むにあらざれば未だ其の資格は認められない。其の腹即斯道の極意に到達する迄にはよりよく錬磨して、真に心剱一致の妙諦を悟られたいものである。

 国家に於ける必勝の軍隊練成の主眼が那邊に存するか、邦家が36年の危局に際し穀然として外患を圧倒するのは何故か、形の上に於て国家と個人の差こそあれ斯道究極の目的は「居合とは人に切られず人切らず只つゝしみて平に勝て」であって、刀鞘の内にあって敵を制する迄に至らなければならない、これが為めには常住坐臥不断の精進によって、全国無比なる当流の奥旨を悟るべきである。

 尚当流は他流に見るが如く単なる抜刀術にあらずして、独立した土佐独特の居合道である。即47本の居合の他に太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰の秘伝の存することを忘れてはならない。
 余は土佐居合道の復活に志すこと多年、今や邦家非常の秋に際し各方面の御示教とご協力のもとに当流の隆昌を期し度いと念ふ。(終)


 このスクラップは日本武道に掲載されている竹村静夫の執筆で、曽田先生はそれをスクラップとして張り付けて置いたのででしょう。土佐の居合は単なる抜刀術ではない、それには師の教えに留まらず、谷村派も下村派も理解し、尚江戸中期の土佐の居合の古伝をも理論と実際を合致させて究めなければ当流を究めたなどと云えないよ、と云っています。

 残念ながら、谷村派、下村派の居合は現今ではこれが夫れと認識できるものにはならず不思議なものとしか言いようは無い、竹村静夫先生の時代には明確に区別できたのだろうかと思うばかりです。
 私の手元資料では曽田先生に依って写された江戸中期の古伝神傳流秘書で何処から出たものでその出典が不明なのですが、木村栄寿本と軸がぶれませんから然るべき家から出たものとしています。
 夢想神傳流の木村栄寿先生による林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流が江戸中期の居合の心持ちを伝えてくれるものになります。細川義昌先生の家から出た資料で恐らく曽田先生の古伝資料と異なる資料集だろうと思われます。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書は曽田本の写しですから新たなものは得られません。
 政岡壱實先生の無雙直傳英信流居合兵法地之巻は大江居合を残しながら神傳流秘書を参考にされています、その無双直伝英信流居合兵法之形は仕打の動作をそれぞれに分け写真入りで解説したもので参考にされている人も多いようです。然しその動作は竹刀剣道の動作が随所に見られ、独自の解釈が気になります。原本の儘知恵を絞って研究すれば良いのですが分解写真と権威者の解説がつくとそれに頼ってしまうようでは古伝に至るのは難しいでしょう。
 
 このブログの読者の方々にも実際に古伝を研究し稽古をされる方もおられます。竹村静夫先生の叱責から80年以上経ってようやく「古伝を研究している」と仰り其の研究成果を文章や絵や動画などにされて、私にまでお送りいただきお目にかかれるようになりました。
 反面、古伝研究によって現代居合や形を否定されたと言って、邪魔者扱いされる不勉強な方もおられ、この竹村静夫先生の論文は厳しい叱責でしょう。

 居合は、「人を切るものではない、腹の教へである」と云うが言葉で理解しても、「より深い研究と努力を積む」のを怠ったのでは土佐の居合がわかったなどとは言わせない、そんな資格は無いといいます。
 仮想敵相手ならまだしも、教えたがりの兄弟子の手取り足取りの真似事居合が何処でも横行しています。習った事と違うと「あれはおかしい、武術ではあんな事はしない」など知ったかぶりもあっちこっちで聞きます。其の内「居合は腹で斬る」などと云って、どうやるのかお手本をお願いすれば腰の抜けた腕力ばかり、より深い研究と努力は自ら課すもので、其の手助けに道場があるべきものです。初心の内はともかく多くの道場がやっている稽古風景は、軍隊の調練みたいな掛け声に合わせた合同稽古で真似っこ養成所みたいなものです。それで30年40年の在籍だそうでご苦労な事です。

 何故この業はこうするのか、こうしてはいけない理由は何か、気の利いたものは疑問は一杯ですが、道場長に聴いても「そう習った」としか答えられない。
 居合の和歌など研究課題にすらならない唯の棒振りではお粗末です。正座の前一本だけで2時間を掛けて研究し合う姿勢など何処にも無いから棒振り体操に終始し、結果は武術ではなく、段位取得や演武競技による武的試験問題の稽古に過ぎない物になってしまっています。其の上高価な日本刀を持ちだし「本身は模擬刀と違う」などと分かった様な嘘を言っています。

 竹村静夫先生の土佐の居合の賛美は裏を返せば何も出来ていないじゃないかという嘆きでもあるのでしょう。

竹村静夫先生

Img_0676
 曽田メモ:此の抜付は勢余りてか上体が前に懸り過ぎて感心出来ざるものとす。抜き付の時眼の付け処注意刀尖を見るにあらず敵から眼付を離すべからず。

 竹村静夫略歴
明治35年1902年 生まれる
大正 3年1914年 城東中学入学12才
           剣道居合に熱中
昭和11年1936年 第二次世界大戦
           陸軍戸山学校天覧武道場で曽田虎彦
                               と太刀打之位演武打太刀
昭和13年1938年 没す39才

系統 下村派第14代下村茂市定―行宗貞義―曽田虎彦―竹村静夫

 

 

| | コメント (0)

2019年7月31日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の4終礼

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の4終礼

 納刀後互に右足より出で、約四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し右手にて腰の刀を抜き前に置き板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換へ右手は右膝の上に乗せ其儘右足より立ち左足を右足に揃へ互に三歩退き直立となり黙礼を行ひ、更に対向の儘三歩づゝ退り神殿に向ひ礼を行ひ左右に別る。

 大江先生の終礼とは聊か異なる部分もある様です。:「刀を納めたれば互に右足より出で、四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し、右手にて腰の刀を抜き前に置き、板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換え、左腰部に当て右手は右膝の上に乗せ、其まゝ右足より立ち左足を右足に揃へ、互に三歩退り直立となり神殿に向ひ礼を行ひ對向し三歩づゝ退り黙礼を行ひて左右に別る。」
 河野先生右手に持った刀を立てて左手に持ち換えただけで「左腰部に当て」が抜けています。大江先生は神殿の礼の後に互いの黙礼をする様にされていますが、河野先生は互いの黙礼を先に行い、神殿への礼は後にされています。

 河野先生の大日本居合道図譜での終礼:「終礼はすべて最初の作法に準じて、之より互に五尺の距離に進みて端坐、刀礼をなし静かに立上りて小足三歩退りて互に黙礼をなし次に神殿に向ひ最敬礼を行ひ末座に退り御互の礼をなして終る。
 どの様な関係から終礼迄いじってしまったのか疑問ですが、コロコロ変える意味があるのか疑問です。河野先生は大江先生の直弟子では無く18代穂岐山先生に師事されたのですが、穂岐山先生亡き後は19代福井春政先生に師事されたのでしょう。
 福井先生の古伝太刀打之位の終礼:「留之剱、終らばそのまゝ一旦後方に退き血振ひして刀を鞘に納め更に前進し正坐にて刀の終礼を行ひ再度後退して対立のまゝ相互に黙礼をなし、次で神前の敬礼を行ふ」に従ったのかも知れません。形を演武会の出し物、あるいは奉納演武とするならばその流派の仕来たりに従って行えばいいだけのことですからそれでいいのでしょう。

 形の修行が進んでも、この手附の範囲で何時迄も稽古して見ても得られるものは少ないものです。例えば一本目出合の双方抜き合わせ受け留める場合の有り方、仕の上段からの切り下ろしを受け太刀とする教え、それだけで充分とすれば、刀は折れているか刃はボロボロです。どの様に受けるか研究すべきものでしょうし、常に打が導くために受け太刀となる、或は切られ役である必要は稽古が進めば其処に留まるべきものでは無いでしょう。仕が不十分な運剣や間の取り方であれば反対に斬り付けるか、いなしてしまうべきものでしょう。大江先生の形は中学生向きに形成されたものであり、非常に初歩的な、間と間合いの認識を覚える程度のレベルであって、剣術と云えるほどの形とは思えませんが始まりはそこからでしょう。

 

 

| | コメント (0)

2019年7月30日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書7真方

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
7、真方

 打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩十分に踏み込みて打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は其儘の体勢にありて仕太刀の斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退き其刀を受け留める。互に青眼となり打太刀は、一歩出で仕太刀は一歩退く、青眼の儘残心を示し互に五歩退き元の位置に戻り血振りし刀を納む。

 河野先生の真方と大江先生の真方は、打太刀の動作が異なります。:「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼のまゝ左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩充分踏み込みて、打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は右足より五歩出で仕太刀を斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退り、其刀を請留める、互に青眼となり打太刀は一歩出で仕太刀は一歩退り、青眼のまゝ残心を示し互に五歩引き元の位置に戻り血拭い刀を納む。

 河野先生は、前回の請流で「仕太刀は左足より斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み退きて青眼になり次に移る」の文章から真方の打太刀を「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり」とされています。その原因は受け流しの初動に河野先生は打太刀が「刀を差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足右足を踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す」と云う事で鍔留で互に五歩退き血振り刀を納めた事を忘れているのです。ですから受け流しの際の双方の間合いは一足一刀の間から五歩離れているのです。当然受け流しの間に至るには五歩の双方の前進が必要です。そして受流しから元の位置に戻るにも五歩の後退が必要なのです。
 大江先生は受け流しの終了の際青眼に双方構えて刀を合わせ五歩退き、河野先生は打太刀をその場に立たせて置いたと云う事になります。

 河野先生の真方は八相に構えて立ったままの打太刀に仕太刀は上段に構えて歩み寄り一方的に打の真向に打込み、打は左足を退き右足を追足に仕の打込みを受けるのです。
 大江先生は双方歩み寄り打は仕を打たんと斬り込む瞬間、仕の斬り込みが早く左足右足と追足に下がり受け留めるわけです。どの様に受け留めるのかは、大江先生の一本目出合の「打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける」のですが、左斜めにの意味が文章からは読み取れず、習慣的に見る形は、柄を左に切先を右上に向けた左傾斜の受け太刀です。

 河野先生の大日本居合道図譜ではこの真方の業名は「討込」と変えられ:「打太刀八相仕太刀中段より互に前進す。間に接するや、打太刀は仕太刀に斬込まんとするを、仕太刀は機先を制して右足を踏込み上段より打太刀の真向に敵刀諸共其の真向より斬下して勝つ。打太刀は左足を一歩退き第一本目の要領にて受ける。次に打太刀は左足より追足にて二歩退き中段となり刀を合はせ、打は三歩出て仕は三歩退りて元の位置に戻り、互に五歩後退して血振り納刀す。」

 此処では双方互に前進するのですが、打は八相、仕は中段に変えてしまっています。大江先生の心持ちを組み込み「打太刀は仕太刀に斬込まんとするを」が、追加されています。
 「一本目の要領にて受ける」形は「打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る」とされ。がっちり刃で受け止める様にされています。大江先生の「刀を左斜にして受ける」の心持および武的配慮が見られません

 古伝神傳流秘書の太刀打之事11本目打込:「相懸又は打太刀待処へ遣方より請て打込み勝也」
 古伝の打込は、文章不十分で動作が出て来ません。打は相がかりでもその場に待ってもいい、“遣方より請て打込み勝”ですから間境でだが打込んで来るので、仕は請けて打込んで勝、を打の打込みを請けてしまってから打ち込むのか、請けると同時に打ち込むのか、ここは業呼称が打込ですから、打の真向打ち込みに仕も真向打ちで合わせ打込む「合し打ち」を研究したいと頃です。打は仕に打ち込まれて請け止めて完了では稽古不要です。

 曽田先生の附口伝太刀打之位打込一本:「双方真向に物打にて刀を合はし青眼に直り退く」

 曽田先生の業附口伝は打込で双方真向に斬り付けます。新陰流の「合し打ち」を思わせるもので、打太刀が仕太刀の真向に斬り下ろすのを仕太刀は同様に打太刀の真向に斬り下ろし勝。土佐の居合に組み込まれた柳生新陰流の影が垣間見れる処でしょう。

| | コメント (0)

2019年7月29日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書6請流

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
6、請流

 刀を腰に差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足、右足を(と)踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す、仕太刀は左足を右足の側面に出し刀を右頭上に上げ受け流し、左足を踏み替え右足を左足に向け打太刀の首を斬る、仕太刀は左足を左り斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み、退きて青眼になり次に移る。

 この請流しは古伝神傳秘書の太刀打之事には同じものはありません。大江先生の独創でしょう。河野先生のスクラップと大江先生の剣道手ほどきとの違いは赤字の部分位です。「左足を踏み変へ右足を左足に揃へて体を左へ向け打太刀の首を斬る」

 大江先生の奥居合立業の受け流しがこの組太刀の請流の元になって居るはずです。:奥居合立業の部受け流し:「(進行中左足を右足の前に踏出し身を変して請流す)左足を出すとき、其左足を右斜に踏み出し、中腰となり、刀の柄元を左膝頭の下として、刀を抜き直に其手を頭上に上げ、刀を斜とし、体を左斜め前より後へ捻る心持にて受け流し、左足を踏みしめ、右足を左足に揃へ、右拳を右肩上に頭上へ廻し下し、上体を稍や前に屈めると同時に真直に左斜を斬る、・・」
 大江先生の奥居合立業の受け流しの動作が英信流居合形には見られません。この奥居合の受け流しで、「刀の柄元を左膝頭の下として」の動作は何を意味するのか分かりません、理屈をつけて見ても意味があるものでは無さそうです。組太刀にない「体を左斜め前より後へ捻る心持ちにて受け流し」の部分は組太刀では簡単に「・・・刀を右頭上に上げ受け流し」です。大袈裟に反り身になって身を捻じる動作の有効性は感じられません。仮想的相手の演武はともすると派手な動きを作り出すのですが、受け流しは敵の打ち下す刀と請け太刀の角度や拍子が大切で、力任せにガチンと受けたのでは軽く受け流すことはできません。
 大きく反って体を捻じって受け流すならば「右拳を右肩上に頭上へ廻し下す」意識は不要でしょう。次いでですが、大江先生の組太刀は打太刀は斬り込んで外されたり、刺突の時「体を前に流す」動作を要求しています。仕太刀の斬り込みを容易にする打太刀の配慮かも知れませんが、居合の稽古では、斬り込んでも体を前に流す事は許されません、稽古の動作と異なる動作は無駄であり組太刀の緊迫感を著しく欠き品位を落とすばかりです。
 大日本居合道図譜の受流でも「・・仕の真向に斬り下すを、仕太刀は右足を左足の右後方に踏み込みつゝ上体を左に披き乍ら(上体を剣先と共に左に廻し乍ら後ろに反らせ敵刀を摺り落す)打太刀の刀を受流す。・・」と文章上はなって居ますが写真は体を開きながら摺り落す様で、悪く言えば刀の鍔元で受けるのではなく物打近くで請ける「逃げ流し」に近い動作でしょう。

| | コメント (0)

2019年7月28日 (日)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書5鍔留

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
5、鍔留

 互に青眼のまゝ小さく五歩を左足より退き、打太刀は中段となり仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出合ひ乍ら双方上段となり、間合に至りて相打ちとなりて刀を合はす、仕太刀、打太刀、鍔元を押し合ひ双方右足を後へ退き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直ちに上段より右足を踏み込み仕太刀の肩口より切り下す、仕太刀は左足を十分退き体を後方に引きて刀をかわし上段となり、空を打たせ上段より頭を斬る、打太刀は二歩出で、仕太刀は二歩退き、青眼となり互に小さく五歩退き血振り刀を納む。(打太刀は仕太刀を打つ時は中腰となり上体を前に流す)

大江先生の剣道手ほどきの鍔留の手附の内容に対し、河野先生の鍔留は抜けが見られます。:「互に青眼のまゝ小さく、五歩を左足より引き、打太刀は中段となり、仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出で、打太刀は右足を左足に引き上段に冠り真直に打下し、仕太刀は右足を左足へ引き上段となり、右足を出して打下して互に刀合す仕打鍔元を押合ひ双方右足を後へ引き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直に上段より右足を踏み込み仕太刀の左向脛を切る、仕太刀は左足を充分引き上段となり空を打たせ上段より頭を斬る、打は二歩出で、仕は二歩退り青眼となり互に小さく五歩退り、血振ひ刀を納む(打太刀は仕太刀の左膝を打つときは、中腰となり上体を前に流す)

 河野先生の一刀目は、どの様に打ち込んで相打ちなのか判りません。大江先生は双方上段から真直に打ち下す真向打ち合いですから、ここで合し打ちの勝負がつくわけですが、双方刃を返して請け太刀になるか、高い位置で鍔留となって鍔競り合いの押し合いとなるのでしょう。或は打が真向に打込んで来るのを仕は同様に真直に打たずに請け太刀となって摺り込み鍔止めとなる。
 車に別れた場合の打込む部位は、仕の左肩、左腰、左膝、左脛でしょう。大江先生は左向脛を指定しています。河野先生は肩口です、左肩口です。従って大江先生は敢えて上体を前に倒さなくともよいのに「上体を前に流す」と添え書きしています。河野先生の場合は肩口ですから外されれば刀が流れやや前がかりになります。子供向けの稽古形ですから打の体を屈めて仕の打込みを容易にさせている様です。

 この業は古伝神傳流秘書の太刀打之事五本目月影が相当します。:「打太刀冠り待つ所へ遣方右の脇に切先を下げて構へ行て打太刀八相に打つを切先を上て真甲へ上て突付て留め互に押相て別れ両方共車に取り相手打つをはづす上へ冠り打込み勝」
 古伝は打が八相に左面に斬り込んで来るのを右下段の構えから切先を上げ相手の喉を突く様にして摺り上げて鍔競り合いに持ち込んでいます。意味不明な真向打ち合いより稽古としては良い動作でしょう。

 曽田先生の業附口伝は古伝に忠実ですが参考の為に月影:「是も同じく抜て居る也相掛りにても敵待かけても苦からず敵八相にかたきて待ちかくる也敵八相に打処を出合て互に押合又互に開き敵打込む処を我左足を引き立ち直りて打込み勝也」
 此の業付口伝のは「月影仕下打八」と添え書きが施されていますから仕は下段、打は八相の構えとなります。

 第19代福井春政先生の月影:「仕下段、打八相 八相に構へて互に前進、間合を取り(この場合稍々間合を近くとる)、打太刀八相より仕太刀の頭上に打込み来るを仕太刀之に応じて同じく打合はせ拳が行き合ふ瞬間鍔元にて押合ひ更に双方右足を大きく退きて稍々左半身に体を開き剣尖を低くして脇構へとなり続いて打太刀は右足を一歩踏込み上段より仕太刀の左股に斬り込むを仕太刀充分に左足を退きて空を打たせ、立直りて右足を一歩踏出し上段より打太刀の頭上に打下す。・・」
 せっかく仕は下段、打はハ相に構えていても双方八相に構えて前進し上段に構え直して頭上に打込んでいます。是は竹刀剣道の統一された運剣ですが批判の有る所です、竹刀剣道では形は重要視している様に言っていますが疑問です。ついでに脇構からの打込みも一旦上段に振り冠ってから打ち込むのですがこれも疑問です。武的演舞ならばそれも良しでしょう。
 

| | コメント (0)

2019年7月27日 (土)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書4独妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
4、独妙剣

 打太刀は其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩退りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で右足を踏出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と、追足にて一歩づゝ退き刀を青眼とす。打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺込みて突きを施し上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜に変じ上段に取り、右足を踏み替へて打太刀の首を斬る、互に青眼となりて打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退き互に構ゆ。

 河野居合はこの頃、独りよがりでこれだけ読んでもどうしたらよいか分かりません。三本目の如くとは「仕太刀は右足を踏み出し打太刀の左面を斬る、打太刀は左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす。仕太刀は左足を出し打太刀の右面を斬る打太刀は右足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。仕太刀は右足を出して打太刀の左面を再び斬る打太刀は左足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。」この三度の打ち合わせを、実技で教える場合はともかく文章で省かれては困ります。
 次に「双方右足前で刀を打ち合わせて居ますから、後足の左足から一歩下がり右足を追足し、一足一刀の間に取って切先を合わせ互に青眼となる」。
 「打太刀は右足を一歩踏み込み上体を倒し刀刃を左に向け仕太刀の刀を摺り込んで仕太刀の水月を突く」。「仕太刀は左足を左斜め前に変じ上段となり、右足を左足と踏み変えて打太刀の首を斬る」河野先生の突きは上体を倒して体が伸びた突きですが、刺突の部位の指定がありません。打は低い態勢ですが仕は青眼の直立です、部位は水月にしましたが咽から水月あたり、刃は下向きなのか左右なのかの指定もありません。仕の刀を摺り込むとだけです。仕打共に青眼ですから双方相手の喉に切先をつけた中正眼とします。打は仕の刀の狙いを外す様に摺り込むとすれば刃を左に向けて刀の反りを使って摺り込む様に突くのでしょう。


 河野先生の独妙剣の手附は大江先生の剣道手ほどき其の儘の文章ですから、大江先生の居合の不備はおおらかさと捉えて自得する事になります。
 大江先生の剣道手ほどきに依る英信流居合の型四本目独妙剣:「打太刀は、其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩下りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で、右足を踏み出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ、左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と追い足にて一歩づゝ退き、刀を青眼とす、打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺り込みて突きを施し、上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜へ変じ上段に取り、右足を踏み変えて打太刀の首を斬る、互に青眼となり、打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退り、互に構へるなり。」

 曽田先生の業附口伝によるこの業はありません、当然の事ですが古伝神傳流秘書太刀打之事にも此の独妙剣に相当する業はありません。曽田先生は「之は請流のことを記セリ」と解説していますが、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事請流の雰囲気とイメージが合いません。太刀打之事請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込を打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留め相手又打たんと冠るを直に其侭面へ突込み相手八相に払ふをしたがって上へ取り右足にて真甲へ勝」

 河野先生の大日本居合道図譜の独妙剣:「打太刀、仕太刀相八相より前進し間に至るや、絶妙剣と同理合ひにて、二度斬結び三度目に仕太刀は打太刀の退く所を其の左面に斬込む、打太刀は二刀目と同様之を受け、互に左足を退きて十分なる同等の気位にて中段となる。打太刀は機を見て右足左足と追足にて、剣を左に傾け摺り込みて仕太刀の胸部を刺突す。仕太刀は左足を左に踏出し(右足の左斜前)体を右に披きつゝ手元を上げて敵刀を捲き返す。(敵剣を己が右斜め下に裏鎬にて摺り落す)仕太刀は、打太刀の刀を右斜め下に摺落しながら右足を左足の方向に退きつゝ上段となるや右足を踏込みて打太刀の首より肩にかけて斬下す。・・」
 大正7年1918年から昭和17年1942年まで四半世紀掛けてこの独妙剣が成立しました。相変わらず打ち合う部位が判らず真向を打ち合って見たり、打が刺突の際上体を過度に倒して延び切って見たり、仕は摺り込んで来る打の刀を摺り落す業を研究せずに左に避けているばかりの獨妙剣を指導して居たり、打の突きは刃を下にして水月を突くなどと云っためちゃくちゃが横行しています。
 まず指定された事を其の儘動作に転換してその意義を悟ってより優れた動作を研究したり、変化に応ずる工夫を心がけるべきものでしょう。組太刀を奉納演武や演武会の出し物として演舞する事に稽古時間を費やすなど無駄な上に情けないことです。

 

| | コメント (0)

2019年7月26日 (金)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の3業書3絶妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流形
23の3業書
3、絶妙剣

 打太刀は其まゝにて左足を出して体を斜向きに八相となり、仕太刀は青眼より左足を出して八相となる、仕太刀は八相のまま右より五歩交互に進み出で、同体にて右足を踏み出して右面を斬る、打太刀は八相より左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす、仕太刀は左足を出し打太刀は右足を退きて前の如く、打合はせ、打太刀は左足を退きて上段構となりて斬撃の意を示す、是と同時に仕太刀は右足を出して体を右半身とし中腰となりて左甲手を斬る、静かに青眼となりつゝ打太刀は三歩出で仕太刀は三歩退る。以下次号(絶妙剣はここまで、以下とは次の4、独妙剣ミツヒラ)

 大江先生の絶妙剣は河野先生の絶妙剣と同じです。

 この、絶妙剣は古伝神傳流秘書太刀打之事の四本目請入の業と思われます(請込共云う 曽田メモ):「前の如く打合相手八相に打つを前の如く留め又相手より真甲を打を体を右へ開きひぢを切先にて留勝」
「前の如く打合」とは、古伝太刀打之事3本目請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込むを打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留相手又打たんと冠るを・・」

 河野先生は仕太刀が進んで打太刀の右面に打ち込み打太刀は左足を引いて之を受け、古伝は仕太刀が右面に打ち込んで来るのを左足を退いて八相に請けています。
 次は河野先生は、仕太刀が左足を踏み込んで打太刀の左面に打ち込み、打は右足を引いて仕の打ち込みを受けています。古伝は右足を引いて裏から仕太刀の右面に打ち込み仕太刀は之を左足を踏み込んで受けています。
 次は河野先生は、打太刀が左足を引いて上段に構える処右足を踏み込んで体を半身にし中腰となって打の上段となった左甲手に斬り付けます。古伝は左足を引いて上段に構える処仕太刀は右足を右斜め前に踏み込んで体を右半身として打の肘に斬り付けます。

 曽田先生に依る業附口伝の太刀打之位4本目請込(請入):「是も同じく相懸りにても敵待かけてもにかからず請流の如く八相にかたぎスカスカト行て真向へ打込也敵十文字に請て請流しの如く裏より八相に打其処を我も左の足を出し請流の如く止むる也敵其時カムリて表より討たんとする所を其侭左の肘へ太刀をすける也」

 曽田先生の業附口伝少々抜けがあるのですが、第19代福井春政先生の業付口伝を修正されたような請込(請入):「相ひ八相より相掛りにてスカスカと進み仕太刀表より打太刀の面を撃つ、打太刀は之れを表十文字に請く。仕太刀更に左足を一歩進め八相より裏に打込むを打太刀右足を退き裏にて請け更に左足を退きて上段に振り冠るところを仕太刀素早く右足を大きく一歩斜め右前に踏込み体を右に開き打太刀の左上膊部を下より掬ひ切りに打つなり。静かに刀を合せ正位に復し互に五歩退きて血振ひ納刀をなす」
 この19代福井先生の請込は、仕太刀が一本目真向、二本目八相から右面に打込んでいます、古伝や曽田先生の業附口伝は一刀目は仕太刀の右面打ち込み、二刀目は打太刀が下がりながら仕太刀の右面に打込んでいます。福井先生はこの業を大江先生の絶妙剣として指導したのでしょう。打太刀が上段に振り冠るところを、右足を右斜め前に大きく踏込んで体を右に開いて打の左上膊部に掬い切りしています。

 河野先生の大日本居合道図譜による絶妙剣は大江先生の居合道形で、第19代福井先生の請込とは似ているのですが異なります。:「打太刀仕太刀共互に足を踏みかへて左足を前に出し八相に構ゆ。打太刀仕太刀互に左足より前進し間に至るや打太刀は上段となりて右足を踏込みて仕の左面を斬込むを機先を制して仕太刀上段となるや右足を踏込みて打の左面に斬下し互に相打となり物打の刃部にて刀を合はす。
 打太刀は仕太刀の気に圧せられて右足を退かんとするを、仕太刀は之に乗じて、左足を踏込みて敵の右面に斬込むをを、打太刀は右足を退き上段より仕の太刀を受ける(斬込む様な様な要領で)。
 打太刀は左足を退きて仕の真向を斬下さんとして上段となるを、仕太刀はすかさず右足を右前方(打の左斜め側面)に踏込み左足を大きく其の後方に進めて踏みかゆるや、上段より打太刀の左腕上膊部に下より掬ひ上げる様に斬込みて勝つ。・・」

 河野先生の大日本居合道図譜の動作は一刀目の切りつけが福井先生と異なります。福井先生は真向打ちで打は之を十文字受けしています。福井先生は古伝の太刀打之位の改変、河野先生は大江先生の居合道形(英信流形)の改変とでも言ったらいいでしょう。
 どこぞの地区の大江先生の居合道形絶妙剣の一本目を双方真向打ちしています。一刀流の切落や新陰流の合し打ちの真似の様ですが、ここは右面に打ち込み受ける、あるいは福井先生の真向打ちを十文字受けすべきでしょう。真向打ちに応じて合し打ちが決まればこの業は其処で終了です。

| | コメント (0)

2019年7月25日 (木)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書2拳取

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
2、拳取

 一本目と同じく虎走りに出で、膝にて抜き合わせ仕太刀は左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に引き下げる、打太刀は其のまま上体を稍や前に出し仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て刀尖を胸につけ残心を示す仕太刀は一歩退き打太刀は一歩出でて青眼か前となる(仕太刀は五歩青眼にて退く、打太刀は其まゝにて位置を占む)

 大江先生の剣道手ほどきによる拳取:「一本目と同じく、虎走りにて出で、膝にて抜き合せ、仕太刀は、左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に下げる、打太刀は其まゝにて上体を稍や前に出し、仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て、刀尖を胸に着け、残心を示す、仕太刀は一歩退り、打太刀は一歩出でて、青眼構となる、(仕太刀は五歩青眼にて退り打太刀は其まゝにて位置を占む)

 河野先生の文章と大江先生の文章はそっくり同じです。此の業も古伝神傳流秘書太刀打打之事二本目附入の業になります。大江先生の一本目出合、二本目拳取共に古伝を引用しています。
 古伝の附入:「前の通り抜合せ相手後へ引かむとするを附入左の手にて拳を取る右の足なれども拳を取る時は左の足也」
 古伝と大江先生、河野先生との違いは、古伝は「抜合せ相手後へ引かむとするを附入り左の手にて拳を取る」と相手が抜き付けを留められた圧せられたので一旦下がって建て直す隙に附け込む武術の根幹を大江先生は置き去りにして、仕太刀に一方的に攻め込ませている処でしょう。

 穂岐山先生の直弟子野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考による拳取:「仕・左足を踏みだすと同時に両足の前後も同時踏み換え、而して左手にて敵の右手首を取り稍手前に引く・・打・仕太刀より手首を取られ胸に刀を擬せらる・・」であって、仕の一方的な攻撃です、打が退くそぶりもありません。

 河野先生の大日本居合道図譜の拳取:「・・打太刀は圧せられて後に退かんとするを仕太刀はすかさず左足を打太刀の右足の斜め右前に踏込み右足を大きく後ろに、体を右に披くや打太刀の右手首を左手にて上より逆に握り(中指は手首関節部に、拇指は拳中に)左下方に引きて敵の体勢を右に崩し右手の自由を奪ひ右手の刀を刃を外に向けて腰部に把り剣先を打太刀の胸部につくる。・・」
 大江居合の修正をされて、打が退かんとするのに附けこんでいます。打の右手の制し方はここまで複雑にする意味はないので、右手首を握って、右下に相手を崩せば充分足ります。武術はいたずらに複雑な業を用いる必要は無く最小限の方法で制してしまう事を学ぶべきです。

 河野先生の修正を助けた資料は、曽田先生に依る業附口伝附込と思われます。:「・・敵のひかんとする処を我左の足を一足付込左の手にて敵の右の手首を取る此の時は左下に引きて敵の体勢を崩す心持にてなすべし・・」
 この業附口伝は昭和の10年頃には曽田先生から教えを受けた土佐の方々によって稽古されていた様で、第19代福井春政先生も引用されています。
 嶋専吉先生の無雙直傳英信流居合術形乾の太刀打之位二本目附込:「・・打太刀の退かんとするところを仕太刀跳込むが如く左足を相手の右側に深く一歩踏込み右足をその後方に踏み添へて体を開き、相手の右手首を左手にて逆に捉へ之れを己が左下方に引きて打太刀の水月に擬し之れを刺突の姿勢となる・・」
 付け足されたのが赤字の部分です。福井春政先生は柔術の先生だったとか聞きますがそれが余分な業を持ち込んでしまう原因となるのでしょう。河野先生は福井先生に指導を受けたかもしれません。

| | コメント (0)

2019年7月24日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書1出合

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術
英信流居合形
23の3業書
1、出合

 打太刀は柄に手を掛る。仕太刀も打太刀の如く柄に手を掛けて双方体を前方に少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出で、右足を出したる時膝の處にて打太刀は請け仕太刀は抜打にてを合はす、仕太刀は直ちに右足にて一歩摺り込み上段より真面に打込む、打太刀は左足より右足と追い足にて退き刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心を示す。是より互に後に五歩づゝ下り、元の位置に復し血振り刀を納む。

 大江先生の剣道手ほどきによる出合:「打太刀は柄に手を掛ける、仕太刀は打太刀の如く、柄に手を掛け、双方体を前方少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出て、右足を出したるとき、膝の處にて打は請、仕は抜打にてを合す、仕太刀は直ちに右足左足と一歩摺り込みて上段より真面に打ち込む、打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退り、打太刀は二歩出て、中段の構となり、残心を示す、之れより互に後へ五歩づゝ下り元の位置に帰り血拭ひ刀を納む。

 河野先生の出合も大江先生の出合も概略変わらないのですが、気になる箇所は赤字の傍線部分でしょう。一つは、虎走りに間を詰める動作です。虎でもネコでも走る動作は水の流れる様な動きです。何処の道場でも前傾がきつく足をばたつかせ品など何処にも見いだせません。大江先生の独創によるのですが、歩兵を死地に追い立てる訓練を想い描いてしまい大江組太刀は何処かおかしいものと思われます。
 次に虎走りに間を詰め同時に斬り込むようですが、仕は抜打に打の膝に斬り込み。打は抜き請けに受けると読めます。
 河野先生はこの時双方刃を合わすのですが、大江先生は刀を合わすと大まかです。
 次の仕の打込で河野先生は抜打した右足前でしょう、その右足を一歩摺り込んで真面に打ち込んでいます。大江先生は右足左足と一歩摺り込んで真面に打ち込む。勝負あって「仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心」であれば、河野先生の仕の打ち込む際の「右足にて一歩摺り込み」はおかしい、大江先生の「右足左足と一歩摺り込み」も、足裁きとしては前進しずらい。

 河野先生の大日本居合道図譜の出合では:「互に間合ひに接するや、打太刀は仕太刀の脛に斬込むを仕太刀機先を制して同様に斬付け、膝の所にて刃を合わす。
註-右足を踏込むや腰を十分左に捻りて斬込む。打太刀は仕太刀に圧せられて後に退かんとするを、仕太刀すかさず之に乗じて、踏込みて其真向より敵刀諸共斬下して勝つ。
註‐打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る。註-仕太刀は左足を継足して諸手上段となるや右足を一歩摺り込みて打太刀の真向に斬り下す。・・・」と訂正されています。

 足捌きは、稽古の結果でしょう継足捌と決めたのでしょう。
 然しここでは、打が仕に圧せられて、仕の真向打込みを右足を左足に引付て上段になろうとする処、仕の打込みが早く左足を引いて刃を左に物打下に左手を添え刃を上向けて前額頭上に受けずに、刃を右に柄を左にして無理やり受けたのでしょう。何も考えずに師匠に言われたまま、英信流の人も、神伝流の人も真面目にやっています。
 仕に圧せられ、請け止められた刀を摺り上げられるにしろ、打ち返さんと上段に冠らんとするにしろ切先は左にある方が容易です。是も居合道形を演武会の見世物ならばそんな処でやっていればいいでしょう。打太刀は仕太刀に圧せられて下って勝口を得ようとするならば如何様に太刀を捌くか工夫する良い稽古業です。

 古伝神傳流秘書の太刀打ちの事一本目出合では:「相懸りにかゝり相手より下へ抜付るを抜合せ 留て打込相手請る右足なり」と是だけです。後は自分で考えろと云うのでしょう。
 
 古伝の出合の江戸末期の手附を曽田先生は業附口伝として実兄土居亀江の口述と田口先生(不明)から五藤正亮先生、谷村樵夫先生の教えを書かれています。
 古伝と略同じと云えますが、随所に古伝の心持ちと異なる心持ちが有るので、私は第九代林六太夫守政先生の手附とは思えません。江戸末期までに変わって来たか、曽田先生の独創もありそうです。
業付口伝太刀打之位(古伝は太刀打之事であり組太刀は仕組だったようです)一本目出合:「是は互に刀を鞘に納めて相懸りにてスカスカト行、場合にて右の足を出しさかさまに抜き合せ敵引く処を付込みて左足にてかむり右足にて討也、此の時敵一歩退き頭上にて十文字に請け止むる也、互に中段となり我二歩退き敵二歩進み更めて五歩ずつ退く也納刀」
 古伝の「相懸りにかゝり相手下より抜付けるを抜き合わせ 留めて」の心持が何処かへ行ってしまい、双方抜き合わせの相打ちになってしまっています。

 昭和17年1942年戦時中にもかかわらず、嶋専吉という人が土佐を訪れ第19代福井春政先生に太刀打之位を稽古をつけてもらった「無雙直傳英信流居合術形乾」という小冊子を残されています。
その出合:「帯刀のまゝ柄を把りつゝ相掛りにてスカスカと前進(「互に三歩前進」とせるもあり)間合にて右の足を踏出すと共に互に相手の右脚に斬付くる心にて剣尖を下方に抜き合はす。続いて打太刀退くところを仕太刀附け込み左足を右足に進めて振り冠り更に右足を一歩踏込みて上段より打太刀の面を打つ、このとき打太刀は一歩体を退き(右足を軽く退き更に左足を退き)仕太刀の刀を頭上にて剣尖を右方に十文字に請け止むるなり。次で互に中段となり静かに刀を合はせつゝ打太刀小幅に二歩前進、仕太刀二歩後退して中央の位置に就き更めて各五歩(退歩歩幅狭きため五歩となる)退き血振日の上、刀を鞘に納む。」
 足捌きも明瞭になりました。打の受け太刀は「剣尖を右方」とされています。河野流は第19代福井春政先生譲りかも知れません。 

 

| | コメント (0)

2019年7月23日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の2発声

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形
23の2発声

 発声は相互の打合せ、或は受け又は打込みたる時、其業毎にイー、エー、と声を掛け合ふなり

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合之型2、発声:「発声は相互の打合せ、或は受け又は打ちたるとき、其業毎にイーエーと長く引きて声を掛け合ふなり。」
 河野先生の「・・と声を掛け合うなり」は大江先生の場合「・・と長く引きて声を掛け合ふなり」とされるのですが抜けています。このスクラップは大江先生述とされていますが堀田捨次郎先生の記述で大江先生の監修だろうと推察します。このスクラップは曽田先生が大阪八重垣会河野稔先生から譲り受けたのか何かで手に入れたもので、その後昭和8年1933年には無雙直伝英信流居合術全に記載されています。昭和13年1938年の無雙直伝英信流居合道も同様に「・・と長く引きて・・」が抜けています。

 大日本居合道図譜昭和17年1942年では「発声はイーエイと互に斬込みたる時掛け合ふ。(イーはヤアにてもよし)(斬込む瞬前にイーとかけ、斬込みたる瞬間にエイとかける)」
 大江先生の独創による英信流居合の型ですから大江先生の「イーエー」であるべきですが、どうしたわけか河野先生は「イーエイ」に変えてしまっています。この頃河野先生は大阪八重垣会幹事でした、大江先生の独創になるものをいじってしまい教本として発行する事の良し悪しは当時のどなたも異論を発して居ない様です。大江先生は昭和2年1927年には他界されていますし、穂岐山先生も昭和10年1935年には亡くなられています。19代福井春政先生は大江先生の居合道之型より古伝の太刀打之位11本を指導されていた形跡もあります。

 古伝神傳流秘書による太刀打之事には発声についての指定はありません。寧ろ居合の有り様からは無言の方が好ましそうです。大江先生が小栗流か他所で聞き覚えた発声を参考に考え出された発声でしょう。此の発声は打太刀も仕太刀も発声するのでしょうか何処にも書かれていません。適当に仕が「イー」とやり打が「エー」とやる。打の「エー」は間が抜けるから「エイ」とする。
 或いは仕が「イーエー」とやる。土佐の居合の組太刀の太刀打之事も太刀打之位も、詰合もさして高度の術を要さない初心者向けのものですから、木刀同士を打ち合うばかりです。
 居合の裏若しくは無刀に至るものとしては、大小詰・大小立詰・大剣取・小太刀之位が剣術としては高度です。それらは矢鱈掛け声に拘るものではありません。大江先生の居合道形を真剣で演武会で演舞しているもののほとんどが腰の引けた情けない打ち合いですし、木刀では是また矢鱈バシバシ力んで打ち合っています。何処か変です。 

| | コメント (0)

2019年7月22日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の1作法

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術(其十一)
英信流居合形
大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔
23の1大江正治先生述
作法

 居合の時の同要領にて、神殿に向ひ立礼をなし、後互に十尺位ひの所に対向し(此時刀は左手に)拇指にて鍔を支へ其の握りを腰部に着け四十五度位ひの傾斜に刀を下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、更に約五尺程の距離に進みて向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち替へ前に五寸程離して置き互に両手を板の間に着け礼を行ふ。
 次に一応両手を膝の上に置き、右手にて刀を持ち腰に差し、再び両手を膝の上に置き、更に左手にて鞘を握り拇指を鍔に添へ右手を膝の上に置きたるまゝ右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す。直立したる姿勢にて後に退く事左足より互に五歩とす。
 止まる時は、右足を前に左足を稍や五寸程退きて踏む、此の構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。

 大江正治述と有りますが大江正路の誤植でしょう。
 このスクラップの出処は大阪八重垣会の会誌か何かでしょうが不明です。縦13文字で組まれています。それを切り取って曽田本その2に張り付けられたものです。
 内容は、この作法に見られる記述は河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の冊子の26~30ページンのものとそっくり同じです。
 河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では「第五節居合形之部 第1、無雙直傳英信流居合之形 當流第十七代宗家範士大江正路先生述」から始まり、「其1、作法」略同じ文章です。部分的には例えば「・・右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す・・」が「・・右足を前に踏み込み其の足を左足に退き揃へて直立す・・」と変えています。

 大日本居合道図譜では河野流が頭を持ち上げてしまい独創に依る幾つかの問題を残しています。
 表題で大江正路先生の独創された組太刀7本を「第七章 無雙直伝英信流居合道形太刀打の位)」としてしまい、古伝神傳流秘書に云う11本の組太刀である「太刀打之事」及び曽田先生による五藤正亮先生・谷村樵夫先生の業附口伝の古伝「太刀打之位」と 混同させてしまいました。

 組太刀の構えについては、高野佐三郎先生の「剣道」を踏襲されてしまい、当時の帝国剣道形をそれとしています。礼法については以下の通りです。:「相互の礼-道場の末座にて約五尺を隔てゝ対座す。(註 正座の姿勢と同様に端坐して刀は右脇に刃を内に向け鍔を膝の線に置く)次に礼をなす。
 神傳に礼-居合と同要領にて刀を左手に提げて立ち、静かに道場の中央に進み互に十尺を隔てゝ神前に向ひ右手に刀を取替えて神坐に最敬礼を行ふ。
 坐礼-立礼の所にて向ひ合ひて黙礼し静かに進み約五尺を隔てゝ体座す。刀を前に置き居合の要領にて坐礼をなす。
 帯刀-帯刀す。次に左手の拇指を鍔にかけて鞘を握り右足を踏み込みて立ち上がり其足を左足に退きつけて直立し、互に左足より五歩後進して対向す。之より業に移る。」
 河野先生は時節柄大日本帝国剣道形の構えの形に合わせざるを得なかったのは止むおえなかったかも知れませんが、大江先生および河野先生に依って、第9代林六太夫守政が土佐に持ち込んだ無雙神傳英信流居合兵法の多くが失伝する事になったのは否定できないでしょう。

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合の型 1、作法:「刀は左手に鞘を持ち、親指にて鍔を支へ、其握りを腰部に着け、四十五度の傾斜に下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、互に十尺程の距離を取り対向し、一礼を行ひ、更に五尺程の距離に進み、神殿に向ひ黙礼をなす、更に向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち変へ、前に五寸程離して置き、互に両手を板の間に着けて礼を行ふ、一応両手を膝上に置き、右手に刀を持ち、腰に差し、再び両手を膝上に置き、更に左手にて鞘を握り、拇指を鍔に添へ、右手を膝上に置きたるまゝ、右足を前に出し、その足を左足に引き揃へて、直立す、直立したる姿勢にて後へ退くこと左足より互に五歩とす、止まる時は右足を前に左足は稍や五寸程引き踏む、此構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。」

| | コメント (0)

2019年7月21日 (日)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の10業と業との間

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の10業と業との間につきて

 答、総ての業の間には必ず一動毎に少しの間を置き決して一連に行ふものに之無く候、此一連に行ふは最も不可にして少しの間と云ふものは時間的のものにては無く「一動の終りにぐっと確かなる力の締りを」必要と致し候、而して次の動作は新たなる力と気合を以て行ふものに候。
 此の少しの間と云ふは、初心の内は十分落付きて業と業との間に区切りを作り、熟練するに連れて此の間をつめて然して此の業と業との間に力の締りある如く行ふを可と致し候。

 穂岐山先生の仰る「業」は現代居合の「技」かも知れません。是も河野先生の質問の状況が無いので判断に迷います。業とは例えば正座の部ならば一本目前と二本目右の様に異なる想定による業を差します。
 業は一本目前の場合、抜き付けの技、と振り冠りの技、打ち下しの技と云う様な使われ方をしています。
 業と技は広辞苑ではどちらも「すること、しわざ、おこない、つとめてしてする事、職としてすること、しごと」「しかた、方法、技術、芸」「こと、有様、次第」「わざわい、たたり、」「武道、相撲等で、相手に仕掛ける一定の型の動作」で区別が不明瞭です。
 藤堂明保先生の学研漢和辞典では、業は「ぎざぎざとつかえて、苦労する仕事、生活のため苦労してする仕事、すらりとはいかない仕事」。技は「技巧、演技、わざ=手足を使ってほどこす細かい細工またその腕前、たくみ=わざがじょうずである、器用な」などです。

 此処での業とは、一本目と二本目では無く一本目の動作の技法についての質問に穂岐山先生は答えられたものだろうと考えます。現代での統一的な言い方での「技」とします。
 そうであれば、抜き付けの瞬間でも、柄への手懸かり、抜き付ける瞬前、抜き付けの終り。などで「一動毎に少しの間を置き」と云う考えはいかがなものかと首を捻ってしまいます。此処にも対敵意識の乏しい形優先の指導が行われたのだろうと思ってしまいます。

 この答えに対し河野先生は無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年では居合修養の心得で「居合修養の心構へとしては、丹田に気を籠めるに従がい、極めて静かなるところより刀を抜き出し、其の切先の抜き放れ際の一瞬に、敵を両断するの気を最も必要とし、抜刀より納刀迄毫も気の弛み無く、業を大きく、納刀及び納刀後は十分の残心あるべきを要とす。而して錬磨の功を積み業の間を詰める様に努め、総て形に捉わるゝ事なく、一進一退敵によって転化し、只適正なる手の裡により刃筋正しく、充実せる真剣の気力を以て、真に敵を両断するの心持肝要なり。」

 そして、大日本居合道図譜昭和17年1942年では「初心の間は十分に落付きて業を大きく伸び伸びとユックリ行ひ、業と業との間に区切りを作りてなし決して素早く一連に行はぬ事。総ての業は其の一動毎に十分なる気魄を必要とす。即ち「一動の終毎にグット確かなる気力の締り」ある事を最も肝要とし而して次の動作は更に新たなる力と気合を以て行ふ事。然して錬磨の功を積み錬熟するに連れ内に凛々たる気魄を養なひ業の間をつめるよう心懸くる事。」と括られています。

 講習会などでも、語られる処ですが、演武会などで拝見する熟練者を自負される方達は皆さん、業をゆっくり大きく一動毎に間を取っています、何時まで経っても初心者の心を持ち続けるのは好ましいにしても、初心の頃に習い覚えた対敵を思い描かない形ばかりの動作を抜けられないのも何か誤った考えに引きずられている様です。

 河野先生の著書『居合道真諦」の大日本居合道無雙直伝英信流嘆異録八項目に生気の無い居合の事:「・・居合の成り立ちが敵に対する刀法である限り、敵の心魂に貫通する(その刀に触るるすべての者に)無限の迫力のある事が第一条件で、しかもその業に丸味があり、侵すべからざる気の位ひを備へた生き活きと躍動するもので無ければ真の居合とは申しがたい。・・」

 ついでに宮本武蔵の五輪書から「上手のする事は緩々と見へて、間のぬけざる所なり。諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざる物也。此たとへをもって、道の理をしるべし。殊に兵法の道において、はやきといふ事悪しし。・・」
 一人演武の居合は勿論のことですが、太刀打や詰合など組太刀では、相方を特定して動作の順番を覚えてしまうと矢鱈早くちょんちょんと演じるのを見ます。ビデオ撮りしてスローで見てみますとそのポイントとなる動作が省略されてしまい形を約束事として早く強いばかりで形に込められた術が消えてしまっています。何百回稽古しても武術の稽古としては意味のないものです。如何に速く強く演じたとしても間が抜けてしまえばこれも何をしている事やら。

 河野先生の質問に穂岐山先生が答えられた十項目を終ります。次回もスクラップで英信流居合形になります。

 

 

| | コメント (0)

2019年7月20日 (土)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の9颪の柄當につきて

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の9颪の柄当につきて

 答、颪の場合の柄当は、敵が吾が柄を取らんとするを其前かゞみとなりたる敵の顔面中心(人中)を柄頭にて突くものに候。

  河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の立膝の部颪は:「正面より左向に立膝に座し、例に依り左手を鯉口に掛け、鯉口を握りたるまゝ拇指を鍔にかけ右手を柄に掛け、右足を踏み込みつゝ柄頭にて敵の顔面を一撃し、・・・」で顔面の有効な部位を指定していません。

  大江居合の剣道手ほどきの颪:「左向き腰を浮めて右斜に向き、柄止め、直に左へ足を摺り込み、其踵へ臀部を乗せ右斜向体となり、斜刀にて筋変へに打ち・・(敵の眼を欛にて打つ進んで胸を斬り更に頭上を斬る)」

 古伝神傳流秘書英信流居合之事では山下風:「右へ振り向き右の足と右の手を柄と一所にて打倒し抜付後同前但し足は右足也浮雲と足は相違也」
 これは顔面など打たずに右足を踏み込むや、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち倒し、抜き付けるものです。
 大江居合は、「柄止め」だそうです。処が「敵の眼を欛にて打つ」です。
 穂岐山先生は大江先生に中学時代に習いその後も稽古されていた筈です。どこで颪の柄当てが敵の眼から人中に変わったのか不思議なものです。河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では:「・・右側の敵が、吾が刀の柄を取らんとすると、吾れ柄を左に逃がして敵手を外づし、直ちに柄頭を以て敵の顔面人中に当て・・」に変わっています。

 夢想神傳流の祖とされる中山博道先生の居合では:「意義-右側面に座せる敵が抜刀せんとするを取り敢えず刀柄を以て其の手背を強打しヒルム所を抜刀して斬りつけ、其の殪るゝを再び正面より胴部に向ひ斬り下ろす業である。動作-正面に対し左向に箕座す。左膝を軸として約九十度右に向くと同時に刀に「反り」を打たせつゝ左手を以って刀を少しく前上方に出し、右足を約一歩前方に踏み着くると同時に鍔を以って敵の手を打つ・・」 古伝の雰囲気は夢想神傳流に引き継がれた様です。但し古伝の「右の足と右の手を柄と一所にて打倒し」は満足に引き継がれていない様です、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち、同時に右足を踏み込んで相手の右膝を踏み付けるのが古伝の教えです。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の山下風:「正面より左向き居合膝に座し、例により左手を鯉口に執り腰を伸しつつ右膝を立て、体を右へ廻し正面へ向くなり右足を引付けると同時に柄を右胸上部へ引上げ、右手を柄に逆手に掛け右足踏出すと共に、鍔にて対手の左横顔を打ち、直右足を引き寄せる。・・」此れも古伝とは雰囲気は似ていますが右足の運びが違う様です。相手の横顔を鍔打ちする独特の習いです。

 颪の古伝山下風の本来の動作は江戸末期には失伝してしまったのでしょう。わずかに残るのは、敵が我が刀の柄を取りに来るのを外して敵を制する、又は敵が抜かんとする右手を柄にて打ち据え敵を制する、のでいずれでもありでしょう。むしろ、「後同前」の引き倒す動作が理に叶っているか先師の教えで充分か疑問です。古伝の手附も意味不明な書き込みです。

 

| | コメント (0)

2019年7月19日 (金)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の8八重垣

曽田本その2を読み解く
22スクラップ居合の疑義につきての解説
22の8八重垣の動作につきて

 答、右足にて水平に抜きつけ「左足を前に踏み出し膝を床に落ち付く」、(此場合の動作は一動にて行ひ、此動作中に刀を諸手上段に振り冠る)、故にすでに打ち下す時は右膝は床につき居りて納め刀は全体勢(前体勢の誤植?)のまゝにてなし、次に左足を右足の後に大きく踏み開き、(此時左足の動作始まると同時に右膝は床より浮かす)半身となりて脛囲に移る様致し候。

 河野先生の質問が不明ですから、八重垣の何を聞きたかったのでしょう。穂岐山先生の答えを反映しているのは昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道にあるかもしれません。
 無雙直傳英信流居合道は業の動作を順番に解説し次に注意すべき事が組み込まれ、最後にその業の「意義」として何のためにその業技法の動作を行うのかが掲載されています。この八重垣の意義は:「吾が正面に対座せる敵の首(又は顔、腕)に斬り付けたるも不十分にして、敵後退したるを更に一歩追ひ込みて斬り倒したるに致命に至らずして、其の倒れたる處より吾が右の脛に薙ぎ来るを、吾れ受留めて勝つの意なり。」という状況があって動作が展開する事でより理解が深まるものです。然し一方では状況は幾つもありうるのに固定観念にとらわれてしまい変化に応じられなくなる危険性も多く、武的踊りに陥りやすくなります。

 この意義をはじめに居合の教本に書き込まれたのは、中山博道先生の居合をあらわした太田龍峰先生の居合読本昭和9年1934年によります。その陰陽進退の意義:「互に対座せる時急に初発刀の如く切りつけたるも、敵逃れしを以て直に追ひかけ之を斬り倒し、刀を納めんとせし時、再び他の敵より斬り付けられたるを以って直に之れに応じて敵の腰を斬る業である。」

 細川義昌系統の梅本三男先生の陰陽進退は意義として想定を掲げて居ませんが、想定に対して動作がついて来る組立てになって居ます。
陰陽進退:「(前方を斬り 又 薙付け来る者を斬る)「正面に向ひ正座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け、ぬきつつ膝を伸し、右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上り左足を右足の前へ踏越しつつ、刀を引冠りて正面へ斬込み、刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)刀を納めつつ右足を跪き納め終りたる所へ(別人が向脛薙付け来る)急に立上り左足を一歩退くと同時に、刀を前へ引抜き切先の放れ際に左腰を左へ捻り、体は正面より左向きとなり(視線は右の対手に注ぐ)刃部を上に向け差表の鎬にて張受けに受け止め、体を正面に戻しつつ、左膝を右足横へ跪きながら、刀尖を左後へ突込み、右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る」

 大江先生の場合も同様なのですが想定も動作も不十分なので、疑問が湧いても当然です。「剣道手ほどき」大正7年1918年今から101年前に発行された居合の手ほどきです、その八重垣:「正面に向ひ正座す、右足を出し左膝を浮めて中腰となりて首に抜付け、左足を前出して両膝を浮かめて中腰の儘大間に上段に取り前方真直に頭上を斬り下し、この時右膝をつき左膝を立て、同体にて長谷川流の血拭ひをなし刀を納む、この時敵未だ死せずして足部を斬り付け来るにより血拭ひの姿勢より右足を重心に乗せて立ち、直に左足を後方へ開き体を左斜め構ひとし刀を膝の前へ抜きて平とし、膝を囲みて敵刀を受け更に身体を正面に向け上段となり、座しながら頭上を充分斬る、血拭ひは右足を後部へ引き刀を納む。」。
 「首に抜付け・・頭上を斬り下し」は、抜き付け不十分で相手が下がらんとするのを追い込んでと言う説明不足でしょう。状況の想定不十分に動作が優先しているのです。

 古伝神傳流秘書の大森流之事「陽進陰退」:「初め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜付跡初本に同じ」是は動作のみで、想定は無く動作の運用条件だけの簡略さで後は、師匠に習えか、自分で考えろと云うものです。

 河野先生より一月ほど早く山内豊健、谷田左一共著による図解居合祥説昭和13年1938年3月が発行されその八重垣には業動作より先に、目的が書かれています。:「正面に対座している敵の首に急に抜き付け、逃げる所を一歩追い掛けて其の頭上を斬る。此の時敵は死なないで、吾左足に斬付け来る敵に、先づ之を受け流し、更に上段から敵の頭上を両断するのである。」

 稽古をするには、意義や目的或は理合が先に示され其の想定を思い描き、動作を着けて行くのは有効でしょう。然し大方は其の想定のみに拘ってしまい、古伝のような大雑把なポイントのみでは想定が描けずどうすべきか頓挫してしまいます。然し闘争の武術として考えればどのような敵の攻撃なのかその場でしかわからないものです。示された動作を元にしてあるだけの想定を思い描きこの業が自然に応じて当を得ている処まで修錬すべきものでしょう。

 たとえば、最初の抜き付けは、十分手ごたえがある、斬り付けが浅い、間が足りない、相手が外した、相手が柄で受けた、刀で受けた、など幾らでも思いつくでしょう。

 

| | コメント (0)

2019年7月18日 (木)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の7立膝の血振ひ

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の7立膝の血振ひにつきて

 答え、右脇の血振は、真向に打下したる線に並行より少しく剣先が外方に向く位とし、水平線より少し剣尖を下ぐる方宜敷候。

 河野先生の昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道に於ける「右に刀を開きて行ふ血振ひ」:「鍔は膝の高さにて膝の右、拳は脚と五寸位ひの間隔、刀は正面直線の並行線より剣先部にて約三寸位ひ右外方に開くを度とし、刀は水平より心持ち剣先を下ぐる事。此の血振ひは、剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引き裂く気分にて行ひ、刀を右に披く時、剣先を打下したる位置より左に戻す事無く、柄よりも剣先が右に披く程の心持にてなす事。」

 河野先生の昭和17年1942年の大日本居合道図譜の刀を右に披きて血振ひ:「鍔は膝の高さに、右膝より八、九寸程右に披く刀刃正面直線に並行し刃を右に向け剣先を下げる。剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引裂く気分にて行ひ、剣先は起動の時左に戻さぬ事。

 河野先生の右に披く血振りは、右膝より五寸位の間隔であったものを何故か、大日本居合道図譜では八、九寸程に間隔が広がりました。剣先は心持ち下げるのですが、右外方に正中線に並行より三寸も開いて居ましたが、大日本居合道図譜では正中線に並行になって居ます。その分右膝から五寸が八、九寸と広がってしまいます。
 剣先が右外方に向いたのでは、幾ら敵を倒した後とは言え正中線を外し過ぎで間が抜けた状態です。
 22代の教本では、右横に披きてなす血振を「横血振い」とされています。:「横血振いした右拳は我が体中央線(臍の線)に対し右約45度位前にありて、且つ、我が正中線より右へ約40cm位外(我が体の一身幅位)にあるを良しとする。」と云う事ですと右膝の右約20cm(約七寸)位でしょう。更に「鍔は膝の線上膝の高さ、切先は我が体正中線と平行かやや僅か右に披いた処、切先は稍々下向き」ここの所は21代福井聖山先生の教本と同じでしょう。
 右脇の血振りは、現代居合では「横血振り」と言う様です。是は教本上では22代によって初めて書き込まれたのかも知れません。

 河野先生の居合道真諦昭和37年1962年の「居合道の基本」に抜き付けのポイントが述べられています。右に披く血振とも共通と思うのでチェックしておきます。:「抜付けたる刀身の位置は、右拳から正面に引きたる直線上に剣先部がある事を初心者指導上の原則とす。されど錬熟の暁は、剣先を以て敵に附入る心気の為め、幾分剣先が内方になるは可なり。此の場合い剣先が外方になると迫力不十分なり・」

 木村栄寿先生の林崎抜刀術兵法夢想神重傳重信流傳書集及び業手付解説抜刀術童蒙初心之心持「血揮開き収(ちぶるいひらきおさむ)は敵に逢いての用たる事にてはなし業の締りを付たる事ゆへ一己一己の事成共異ならさる様にすへし・・開は胸を照し腹を入腰を張拳も一時に尖く開く時は拍子揃て引合よし・・抜付打込開共夫々切先のきける様に心懸へし」
 立膝の血振は、「開く」とか「横に開く」で「よこちぶり」と言われたかどうか判りません。この童蒙初心之心持は「庚申五月下村定 同年六月為童蒙写 島村義郷」と奥書がありますから万延元年1860年五月の下村茂市定が同年6月に島村義郷に送ったもので島村義郷とは細川義昌の幼名になります。此の時義郷11歳になります。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部陰陽進退の所に少し解説されています「・・抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上がり左足を右足の前へ踏越しつつ刀を引き冠りて正面へ斬込み 刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)・・」陰陽進退の血振いはこの場面では立膝の部と同じ刀を右へ開く血振いをしています。

 他流の右へ開く血振りについて、田宮流の妻木正麟先生の教えは、詳解田宮流居合 平成3年1991年:「・・決して切先は正中線をはずれてはいけない、再度、敵に討ちかかられても、正中線をとっていることにより、隙のない残心から一転して反撃に転ずることができる。また、左手を腰に当てるのは左腰に力をいれることによって、切先に気迫を込められる。」

 夢想神伝流の右に開く血振りの解説は、中山博道先生の居合「居合読本」から:「敵を斬ったならば、残心に注意して、直ちに左手を離し右手を体の右側前方に伸ばし左手を腰に当て右手首を外に伏せ、刃を右に向けて刀を稍水平にする」
 何とも不十分で写真が添付されているのでそれで判断せよと云うのでしょうか。写真は角度やモデル本人の癖が表面に出てしまい参考としては十分とは言えません。
 山蔦重吉先生の夢想神伝流居合道では:「手振りの時、刃はやや斜め右下に向き、刀先は正面にまっすぐ向き。水走り程度に前下りになる」この方がまだましです。

 全剣連居合の「右に開いての血振り」:「右拳の位置は右斜め前方にあって、その高さは左手と水平にする。刃先は右に向け、切先は僅かに下げ、右こぶしよりやや内側で止める。」
 委員の方々の検討での結論の形でしょう、決まったと思える形です。この開く血振りで血が100%飛ぶわけでもないでしょう、切った後の残心であり、新たな敵か切った相手が死力を振り絞る事もある筈です、居付かない残心は如何にでしょう、残心と納刀の準備動作と捉える方が正しそうです。

 土佐の居合は、明治の頃には大きく力強い運剣を良しとされたのでしょう。穂岐山先生譲りのこの右に開いての血振りのフィニッシュ形の間抜けは気になります。河野先生の思いは、大江先生から伝承されてきた土佐の居合は居合道真諦や無雙直傳英信流居合道叢書に語られている様です。

 「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、其の習熟するに於ては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の圓成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす。」と河野先生は無雙直傳英信流居合道の居合修養の心得で述べられています。その前半のみに拘わる現代居合ならば、古伝を今一度見直さなければ流派の一貫する精神など解かる筈は無かろうと云う事に気が付かれたのだろうと思います。

 
 

| | コメント (0)

2019年7月17日 (水)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の6抜付の足

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の6抜付に於ける前方に踏出す足に就いて

 答、前に踏出したる時の足の内方角度(膝の内側)は、九十度よりは少しく小さく上体を前に倒すにあらずして、下腹に力を入れて前に押し出す気味にて、少しく前に掛る方宜敷候、後方の脚は上体の延線よりずっと後方に開き、上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当と考へられ候、尚又此場合体を前がゝるは不可にして、只下腹を前に押出して上体は垂直呑まゝ少しく前懸りとなるを可と致し候。

 正座の部一本目前の抜き付けの際の、前に「踏み出した(右足の)膝の内側の角度は九十度より少し小さく」と云うのですから、九十度の位置になる様に踏出しても、「下腹に力を入れて前に押し出す気味にて」する事で膝頭が前に出た方が良いと云います。従って左足は真直ぐに立てた上体の延線(正中線、重心の位置)より「ずっと後方に開き」ですから左足膝の内側の角度は九十度より鈍角になる様にして、「上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当」と考えるのだそうです。前足先及び後足膝頭は踏み出した位置から変わっていないので、前足の膝を突き出すとすれば重心位置もその分ズレるはずです。
 「体を前がゝるは不可」は当然とすると、腑に落ちない答えになる様です。「押し出す気味」は心持ち、あるいは平行移動させる、のですが右足の膝の内角を九十度より小さくせよ、左足の膝の内角は九十度より広くと云っています。
 恐らく、重心の位置を右足爪先と左足膝頭の中心に置くよりもグット前を責める意識が強く出るはずですからヒシャゲタ脚のカッコウになる人が多かったと思います。

山田次郎吉先生の身心修養続剣道集義形状記
居合かゝりの足形

Img_0670

1、居合かゝりに足立ては、右を立て左を引きながら抜き払ふを習とす。
1、此の左の膝の所に足を踏めば則ち立ち構への立足一間の幅となる。
1、足幅は広からず又狭からず、一間三足の格たるべし、其の格は一間を三足に歩する程度の所に左の膝を著くるを謂ふ。足を立て替えて右を引くときも是れに同じ。唯足の左右を差ふのみ。
1、立てたる足は右へも左へも偏るべからず、又かゝるべからず。控ゆべからず。指先も亦左を斜に踏むべからず。


 形状記の歩幅は足三足分を一間としています。即ち左足一足、右足一足、左足先と右足踵に一足分開けることで三足一間とされています。立って構えた時の足となります。

 形状記は窪田清音の著述によるもので、清音(すがね)は徳川幕府の旗本、兵学者、武術家で講武所の頭取、兵学師範でもあった。居合、剣術は田宮流とされています。
 この図は居合の抜き付けの足で、右膝は出ない引かない「足首と平」と云っています。

 河野先生の大日本居合道図譜から居合道基本抜き付け「上体は下腹をだし、腰骨に(丹田に)十分なる気力を注ぎて真直に、而て踏出したる右足の膝の内法角度は九十度を超えざる事。後足の膝と上体とは大体一直線をなす事。」とされています。
 穂岐山先生とは一見異なる脚だろうと思われます。但し「抜き付けは腹を後ろに退かずすべて前進する心持を失わぬ事肝要なり」の心持ちは守られています。土佐人の幕府を倒して明治維新に寄与した気が過度に影響しているのかとも思える処です。
 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年7月16日 (火)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の5納刀

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の5正座納め刀の場合

 答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際に於ては練習を積むに従ひ是にてはやわらか味無き感を来し候、此意味に於て血振ひの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候、然れ共是は極く瞬間的のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得るが如く大きくゆっくりと動作するには無之、只起動の為めつまり動作を速にするために候、然し原則としては拳は返す事無く、血振ひの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。

 何ともわかりにくい答えなのですが、それより河野先生の疑問点が見えないので答えの意味が読めないと云った方がいいかも知れません。土佐の居合の納刀は大きく3つある様です。

・一つは、夢想神伝流の檀崎友影先生の居合道教本昭和54年1979年初伝大森流初発刀の納刀:「左手にて鯉口を中指半に五指を上向けて、刃物を横外に握り、中央より僅か左して鞘を左脇にとる。次に右手鍔元附近の刀を拇指と食指の凹部に当て、刀先を鯉口に至るまで右手を右前方に延ばすと同時に左引手をきかせて、一文字になるように納刀三分の一より刃を上にしながら右膝を床板に付け静かに残心を示して納刀する。」

・二番目は落とし込み、切先を上に立て差裏が左肩に接する程に刃を上向きとして刀の棟を鯉口に当て、右斜め前に右手を退いて同時に鞘手も後方に引き、切先を上から鞘口に落とし込むような納刀。

・三番目は、河野流の方法で大日本居合道図譜の居合道の基本より納刀:「左手を鯉口に掛け(中指の中程に鞘口がある様深く握り込み食指にて小さな穴を作る、この時鞘をあまり抜き出さぬ事。左手小指の基部が軽く袴に接触する程にす)剣先を大きく左横に円を描く様に運び(起動の時剣先を右に戻したり又右拳を大きく右にかへさざる事、物打は左肩下5寸位の処に運ぶ)、鍔元四寸位の処の刀棟を鞘口(左拇指と食指の基部の間に刀刃はやや左に傾けて)にあて右手(柄)を低くして刃を真上にして、右四十五度の方向へ素早く引き(この時左手(鞘手)も十分後に引く心持肝要にして同時に鞘手を直に返し鐺の動きはあまり目立たぬ事を良しとす)、刀先三寸を瞬時に納め(長寸の刀は納刀の時腰の十分なる捻りを必要とするも定寸の身に合ひたる刀の場合はさしたる要なく只だ此の場合ひ腰を上下に揺り動かさぬ様注意する事)ながら同方向より静かに納めつゝ(敵、仕掛けなば何時にても応ずるの心所謂残心なり)徐々に腰を下げ右膝を床に付ける。」

・四番目は22代の納刀法で、河野流ですが「剣先を下げたるまま左方に廻しつゝ、(左手(鯉口手)の拇指目掛けて)刀の刃を前に45度位に傾けて鍔元五~六寸位のところの棟を鯉口に運び・・」


 居合は古いものとして太刀を佩いた場合の納刀法を引きずる事は打ち刀としては意味無いものと思われるし、矢鱈早く、其の上自傷する様な納刀法もいただけるものでは無いでしょう。古伝の研究としてはどれも出来て当たり前ですが、これ見よがしな大道芸のようなものは品位が劣ります。安全で充分なる残心を心がけるべきものでしょう。

 河野先生の居合道真諦、無雙直伝英信流嘆異録より納刀の事:「納刀を早く見事にやろうとして不自然に無理をして納刀する人を見受けるが、之は居合之邪道とも云ふべきである。
 納刀は既に目的を達した後の動作で、見事に早く行ふ必要は無いので、極めて自然に行へばそれで十分である。納刀で最も大切な事は、形ちで無く残心のところで、納刀中と雖も何時でも其の儘直ちに抜打ち(不意に起こる敵に応ずる心)し得る体勢(柄前の手の裡)と心構へが最も肝要な所である。
 納刀の時、柄を上から押へて鐺よりも柄を低く下げたり、柄手を柄から遊離させたりする人があるが之は居合の真意を解せぬ甚敷いもので最も不可な仕方である。
 角帯をして帯刀した刀の角度で納刀するのが正道で、角帯をして柄を鐺よりも下げる事は事実上不可能な事は明白である。」

 そう云いつつも、切先を上げて肩下五寸に物打を運べば、柄手は自然にやや下ってしまいます。他流の先生方も似たようなものです。血振りの右拳の高さが左手の高さで、其処から切先を上げない様に刀を鯉口に運ぶ22代の納刀で完成したと云えます。
 戦前はもとより戦後間もない映像の有る先生方の中には、血振りから「クルリストン」と落とし込む映像が見られます。江戸時代末期には意味のない、見せ場を好んだのでしょうし、簡単な方法を敢えていじって得々としている芸人がもてはやされたかもしれませんし、現代にもその様な事は大いにあり得るものです。武術は最も簡単な術で結果を出すもので、ややこしいものは一見凄そうですが無駄な事です。

 

| | コメント (0)

2019年7月15日 (月)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の4腕と刀の角度

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の4腕と刀の角度は九十度にて可なるや

 答、第二項に説明の通り、約三十度位広角となすを可と致し候、之又然らざる時は引切の気味となり、且充分刀尖に気勢籠らざるものに御座候。

 第二項の抜粋
 「右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可と致し候、拳を其の線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位ひ鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候・・」

 抜き付けの際、大きく引き切り左右の肩の線上まで引き切ると切先を正面に向ければ腕と刀は九十度になります。それでは引き切ることになって面白くないと云うのです。
 そこで、左右の肩を結ぶ線上から右拳を六七寸前方へ出した位置で止めろと云うのです。丁度踏み出した右足の膝の線上となる筈です。其の位置で切先が正面に向いて居れば、百二十度位の広角になると云うのです。

 河野先生の大日本居合道図譜の正座の部前の抜き付け:「斬り付ける時は剣先にて敵を逃さじと追い込む気勢を以って小指、無名指をぐっと強く握り締め、拇指の基部にて押し、拳を折らずに十分握り鎺元が右膝の線上にある程に剣先を出す。」
 22代の解説は、「即ち、斬り付けたる時、剣先は己が進行方向の中央線と平行にあり、右拳は正中線に対し右45度位の位置にある様に実施する」とされています。
 河野先生のこの質問は二項を充分理解出来なかった為でしょう。それは戦前戦後の土佐の居合の抜き付けの多くが左右の肩の線上近くまで大きく引き切る人がいたことに由来すると思われます。

 居合しか知らない現代居合人は、抜き付け、打ち下し共に業の途中にあるもので其処に居付かないと云う考えに乏しいものです。それを良しとする指導者も多く、力任せに矢鱈早い抜き付けをさせたり、両肩が盛り上がる程の打込みをさせたりしています。そうかと思うと力ないヘロヘロ抜付けなのにそこに居付いてしかとしています。どちらも対敵意識の乏しいもので武的演舞の域を越えられません。

 

| | コメント (0)

«曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の3刀尖は拳の高さ