2019年8月17日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人林六太夫先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹先生の4

 又或る時八軒町に火災アリ火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛小隅を取って投出し泉水一つ越して向ふの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであらふかと皆の人は驚嘆したといふ。
 又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此處には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であらふ庖丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水中に下してすすぐこと実に妙見る人の目を駭した(おどろかした)、先生は傍の船にて之を見舷側に倚掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず彼の料理する人も己の業を恥ぢてやめたといふ。昔の御料理方は逆も手が利いていたさうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたといふが仲々出来る業ではない。又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷り落ち易いものである、それを箸で挟み水中で数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであらふ。
 又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(や)まなかったといふ一例に次の記録がある。偖又(さてまた)在江戸而諸国の士集合之時奥人某鉛子除之法を知ると称し一時数人鳥銃の口を揃へて対ひし事ありしに我此の法を行而放事不能終とて自負したるを満坐妄言なりと思惟大笑其人怒気甚敷公等予之言不信笑事不安今其術可見とて火縄に移火座中の人々に持たせ一々消而通りしに人眼不遮一時滅火人々初て驚失笑罪謝六太夫深感其術学欲後日其宅訪ふて懇乞需しかと先に笑はれしことを以て許容せざりしかは大に侮いて假令妄言なるも白笑フ事勿益無事也とて此事を證として子孫を戒めたりと云ふ。
 天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの16を得ていられたのである。ー(終)ー

 林六太夫の逸話の意味は何なのかスクラップを写し乍ら何も際立ったものを持たないので、火事場の働きにしても、磁器を箸で挟んで洗われても是と云って、へそ曲がりの私は感動する事もありません。いざという時に力を発揮し、些細な事でも見過ごさず熱心に稽古して磨き上げれば器用さはより秀でる事はあり得るものでしょう。
 偖又(さてまた)で始まる逸話は読みずらい漢文調ですが、要はたとえ妄言であっても軽々しく人を笑いものにするような無益な事をしない様に子孫を戒めたと云うのでしょう。
 

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2019年8月16日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹
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 先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め書は佐々木文山に就いて之を能くする等和術砲術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸16を得ていたといふから大したものである。
 而して先生は宝永3年(1707年)12月22日御料理頭より第扈扈従役に進められ礼節方を兼ねられ正徳3年(1714年)8月病の為め拝辞し同月24日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘御馬廻りとなり山内第8代豊敷公の時享保17年(1733年)7月17日71才で八軒町の邸に病没せられたが其間第4代藩主豊昌公、第5代豊房公、第6代豊隆公と3代の藩主に仕へ貞享3年(1687年)6月君主より故実の御下問あった時詳細記述して之を奉り殊の外の御褒辞と共に白銀若干を賜ふた外元禄20年(1708年)12月12日禄20石を加増され更に同16年(1704年)9月4日故実礼節究極の功労旁々又も50石を加増されて旧禄に合し150石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
 斯くの如く3代の君主に仕へて寵衰へず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたといふことは容易の事ではない之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺はれる。
 先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養ふやうな事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流田宮流等の居合が有ったにも拘わらず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷い(やかましい)ものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一人熱心に練磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。
 当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡先生が嗣がれて後林氏が二人迄嗣がれている、六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其ニ三をご紹介して筆を擱くことにする。
 先生は前述の如く幼にして家を嗣がれたそして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為15歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁ふと言ったを甚だ尤至極と考へ江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習ひ始めた文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖いろはより始めるは小一人なりと呆れたが其年より在府3年間精力を盡し遂に能書となり藩邸中弟子の礼を執る者が多かったといふ。

 中西岩樹先生の林六太夫の解説で、「剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め」と有るのですが、第8代荒井勢哲の二代目は荒井勢理だそうです。この荒井勢理とはどの様な人物なのか、どの様な文献もしくは説話から出されたものなのか、私は知りません。中西岩樹先生が昭和8年1933年土佐史談会発行の冊子に無雙直傳英信流居合に就いてと云う論文を書かれています、其処に「南路志は、守政の養子10代林安太夫の物語りとして、守政の居合剣術は荒井二代の勢哲より直伝なりと記し・・。」とあります。荒井勢哲の後は荒井勢理なのかは見えません。南路志の原書に因って確認して見る方法も有ろうかと思いますが、南路志自体も信頼できるものかは疑わしいものでしょう。土佐のお国自慢の裏附けの一つぐらいで良いのでしょう。

 林六太夫守政は平尾道夫氏の土佐武道史話では享保17年(1732年)7月7日70歳で没したとされています。土佐史談では7月17日なので土佐武道史話が誤植かも知れませんが亡くなった月はともかく日にちはどうでもいいでしょう。

 平尾先生の土佐武道史話では山内5代に仕えたとされています「豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷」ですが中西岩樹先生は「第4代藩主豊昌・第5代豊房・第6代豊隆公三代の藩主に仕へ」とされています。第7代豊常の時には隠居し第8代豊敷の時に亡くなったと解釈するのかも知れません。

 水野流、田宮流居合が土佐ではすでにあった所に林六太夫の居合が広まった様に書かれていますが、之も英信流を引き立てるだけの挿入かも知れません。江戸に参勤交代のお供で出れば江戸の剣術道場は幾つもあったのでしょうから特に藩として取り上げなければ個人の自由だったかもしれません。
  

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2019年8月15日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の2

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政
24の6居合術教士県道錬士中西岩樹の2

 先づ林六太夫守政先生までの直系を掲げてみると次の通りである。池田豊後・助五郎政弘・助五郎政勝・権吉郎政久・市兵衛政友・五左衛門政良・六太夫守政
 即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
 池田豊後は大和の人で一條家に仕ふる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469~1487年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随ひ弊多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。
 政弘は宗閑と號し爾来一條家に仕へている中槿花一朝一條家が久しからずして滅亡し豪族長曾我部氏興るにおよび其子助五郎政勝之に仕へ兵部と称し後従軍して戦死し当時7才であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕へ権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜ふて處士となり南隣大津に居住していたそして長曾我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間死没した後子五左衛門政良が山内氏に召出され御料理方となるに至った此の五左衛門政良こそ仍(乃ち)林氏の初めである。
 而して姓を林氏に改めた政良は萬治3年(1661年)山内二代の藩主忠義公の命により礼節を其宗家伊勢家に学び寛文10年(1671年)4代豊昌公の時宗邑80石を給ふて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝3年(1675年)4月晦日病死したので翌5月晦日六太夫先生が跡を嗣ぎ城南八軒町に居住した。

 文明年間と云えば1469年~1487年ですからたった11年間です。12代足利義尚の時代、応仁の乱の後土佐に入り土佐一條家を成したそうです。その一條家に従って林姓の元の姓である池田豊後が随身して土佐に下った。池田豊後は郷里大和へ帰ってしまい、子の池田助五郎政弘を土佐に残して置いた。そんな中で「槿花一朝」ムクゲの花の様に朝咲いて夕べには萎れる様に「はかない夢を見た様に」土佐一條家は滅亡してしまった。
 林六太夫の父池田五左衛門政良は土佐藩主山内氏に召されて御料理方となって居ます。年代は明らかでありませんが承応元年1652年から明暦3年1657年の間でしょう。萬治3年1660年には2代藩主山内忠義公から80石賜っています。延宝3年1675年に没しています。其の年林六太夫は後を嗣でいます。

 

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2019年8月14日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士
中西岩樹先生の1

 大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無雙直傳英信流の事である。
 私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。
 而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘わらず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸に其絶滅を免れ現代迄伝統して来たことについては
1、伝へられた土地柄が建依別の古称ある尚武の国で人間が総体男性的であり武張っていること。
2、伝へられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整へた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。
3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公又文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜馬現刑務所所在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用ひられたこと、の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったといへば
1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。
2、交通不便なるに加へ当時の事情が鎖国的であったこと。
3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又稀に有っても未だ他国者には一切伝授せぬといふ気風が残っていて機運が熟していなかったこと。等に基因しておるのである。
 私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基を造られた恩人故大子敬(正治)細川善馬(義昌)両先生の事及び少し遡って其絶滅の危機より救はれた恩人故板垣退助伯の事績を衷心より有難く思ひ感謝の念に堪えないのである。
 此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた事があるやうに記憶するので今回は更に其昔に遡り最初に此の居合を土佐に伝えへた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみやうと思ふ。

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中西岩樹先生

 土佐の料理人頭であった林六太夫が藩主の参勤の際江戸に伴われて、当時江戸で道場を開いて居た荒井勢哲に居合を習ったのでしょう。どれくらいの期間江戸の居られたかは分かりません。せいぜい3年程度のことでしょう。併し幼少の頃より武術を嗜んでいれば十分ともいえる期間かも知れません。
 土佐藩内に認められ居合が定着したのは1800年代初めの事で明治維新まで50年か60年の事と推察します。居合術だけならば形を学べば、家で畳一帖も有れば稽古可能です。
 土佐の居合が、江戸時代に日本全国に普及しなかったのは、江戸での道場開設が荒井勢哲以降消えてしまったと想像できます。其の上習いに来ていた門人も下級武士が専らでしょうから、個人の域を超える事は出来なかったでしょう。荒井勢哲以外に藩から出て江戸に道場を開く程の剣客を生み出せなかったこともあるかもしれません。
 明治維新以降の剣術の衰退は当然の事で、板垣伯による土佐に残そうとする推進が寄与した事は大きそうです。それが寄与して土佐の中学校での稽古が始まっています。
 維新後土佐から職を関東関西ひいては全国に移さざるを得なかった土佐の下級武士個人個人の時代背景も土佐の居合が土佐を出て行った背景にある筈です。この中西岩樹先生の論文が何時何によって発表され曽田先生のスクラップになったのか、曽田先生はその事が分る事を残して居ませんからわかりませんが、恐らく昭和5、6年から昭和15、16年のことでしょう。其の頃から大阪の河野百錬先生が八重垣会を仕切られていたと思います。曽田先生は昭和25年には亡くなられていますから、時代を思えば戦前のものと云えそうです。
 お国自慢が居合に寄せられ強いのも、薩長に牛耳られていま一歩政権に満足できなかった土佐にとっての自慢できるものだったのでしょう。

 以下次回
 

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2019年8月13日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の9

 明治になって有名なのは細川義昌氏であらう。鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、入神の技だったそうである。大正12年2月23日75歳で物故したから、其技を實見した人々も少くあるまい。維新の勤王家松島隆成氏も長谷川流の達人であった。畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。即ち燈心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云ふ。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。是は私が直接遺族から承はった話である。松島氏は明治33年59歳で他界した。大江正路も有名だったが、先年長逝し、現今では其の門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。流技は就れも長谷川流とその分派大森流。
 伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後7代長谷川英信に至り、所謂長谷川流起り、8代荒井勢哲、9代林六太夫・10代林安太夫、11代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、12代坪内某、13代島村某、14代松吉某、15代山川某(久蔵か)、16代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て18代が現警視庁師範中山博道氏である。以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むることを得れば、一層その密接なるを確める事ができやう。以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。
 註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。
 註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐伝人伝、後侍中祖書系図牒、手抄を主に、高知県武徳会井上衛氏の報告。及び私の見聞を加へた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて盡く之を示さない。

 この平尾先生の土佐史談は昭和7年1931年のものだろうと思います。細川義昌先生の蝋燭の芯を薙ぎ切った話が松島隆成氏の行為に読み違えそうになる、その文章力には「ちょっと」と云いたいのですが、私も似たようなものです。松島隆成に就いては聞いたことがありません。大江先生は昭和2年1927年76歳で没しています。この雑録の5年前の事でしょう。
 伊東芳夫氏は山形県楯岡の人ですから、林崎神社の辺りの人です。土佐の居合の系統迄よく知ってはいなかったのでしょう。谷村派と下村派が混在してしまっています。荒井勢哲までは江戸での無雙神伝重信流でもいいでしょうが、土佐に入ってからは無雙神伝長谷川流(英信流)でしょう。
 平尾先生は土佐の居合を「長谷川流」と云っていますが、土佐での呼び方は「英信流」の方が強かったかもしれません。現代では「英信流」それも「無双直伝英信流居合兵法」だそうです。「無双直伝」は何処から持ってきたのか、大江先生によると云われている様ですが、さて。
 平尾先生の資料は江戸時代のもので広範な流祖に就いて書かれたものですが、史実とは云えない箇所も個別にはあるので、全面的に信頼は出来そうにありません。寧ろ土佐内部にまだ眠っている資料があると思うのですが、明治維新による無用な反故に過ぎなくなり、更に高知空襲で焼失、戦後の核家族化による家の歴史観念の欠如は高知だとて資料は少なそうです。

 平尾道夫先生の雑録を終ります。
 

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2019年8月12日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の8

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の8

 山川氏の如く、居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。前者は小児科医下村宗真の子で嘉永5年正月12日居合術体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久3年4月15日居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第6節に述べたから、此所には反復しない。
 右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。山内家第15代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実をかたったものに、左の一齣(ひとこま)がある。
 (上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附随した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合といふものが12本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。7日7夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録223輯)

 山川久蔵幸雅は文政3年1820年に藩から居合指南役を命ぜられています。
 下村茂市が召し出されたのは嘉永5年ですから1852年の事です、其の翌年には米国のペリーが浦賀に来航しています。
 谷村亀之丞自雄は天保8年1837年に稽古扶持として3人扶持を賜り、天保15年1844年には芸家として取り立てられ、文久2年1862年には導役となって居ます。江戸時代末期の50年程の期間が土佐での居合の隆盛期だったように思えます。
 
 平尾先生の土佐武道史話によると、容堂公が谷村亀之丞自雄を師として居合に励み弘化元年1844年に根元之巻と目録を受けているとされています。この頃には複数の者に根元之巻と目録が授与されていたのでしょう。第15代谷村亀之丞自雄から根元之巻及び目録を受けた者は、山内容堂、楠目繁次成栄、五藤孫兵衛正亮という事でしょう。
 

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2019年8月11日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7

曽田本その2を富み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及
24の5平尾道夫の7

 林氏の門に出でて、最も其名を謳はれた者に山川久蔵がある。名は幸雅、もと錠八とも称した。山川久右衛門幸艦の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。林氏との関係に就き、「手抄」24巻に左の如き噂を載せてある。
 山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の傳授(皆傳なるべし)致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取りに参り申さず、相わからざる事也。夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。其後久蔵は門弟を取立師家に成れり。長谷川流の傳書は何方より授かりしにや、林氏の傳書と違ひたるよし、或人より承はる。
 これは非常に興味ある問題だが、如何ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚かられる。山川久蔵は文政3年正月9日、藩から居合術指南役を命ぜられ、其心掛厚きを以て切符拾石を加増された。弘化3年2月9日には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年10月8日病死した。同苗古文次の子鋼八幸永が跡を相続したが家督は継いで居ない。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によると、「谷村亀之丞と同時代に山川久蔵(幸雅)が居合師家として活躍していた。是は林彌太夫の門人だったが、いつしか林家をはなれて別に伝書をうけ、門人を教えるようになったので当時の世評にもなったが、その系譜をたどると山川久蔵から松吉某、島村某、坪内某とさかのぼって大黒元右衛門に至るそうである。すなわち大黒元右衛門は伝書を林益之丞にゆずると同時に坪内某にもあたえたわけで、楠目盛徳は山川久蔵のことについて「長谷川流の伝書は何方より授かりしにや。林氏の伝書とは違ひたるよし或人より承る」と、その随筆手抄に書いている。これがいわゆる大森流ではなかったか。
 山川久蔵は、その伝書を下村茂市(定)にゆずり、細川義昌を経て、昭和初期に警視庁の剣道師範として知られる中山博道に及んだそうで、多年土佐にその伝統をつないだこの居合伝は中山博道につたわることによって県外に出たわけである。」

 山川久蔵が手に入れた伝書は第11代大黒元右衛門が第12代林益之丞政誠と、また一方で第12代松吉貞助久盛にも伝授された事があったと云う事で、事実はどうでも納まったのでしょう。
 林益之丞が受けた伝書と、松吉貞助の受けた伝書が違うと云う事で、平尾先生は大森流がどちらかに無かったのではないかと仰っていますが、その根拠が不明です。今手元にあるものは山川久蔵系統のもので、其処には大森六郎左衛門は林六太夫の剣術の先生だった、その先生がもたらした大森流居合だと記されています。
 「此居合と申すは大森六郎左衛門之流也、英信流に格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流之上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言」と云う事でもし平尾先生の想像が正しければ林益之丞に伝授されたものには大森流は無かったかもしれません。
 それよりも、林益之丞系統から出たと云う伝書の存在が判りません。松吉貞助系統の細川義昌先生からの伝書は木村栄寿先生に依って公開されていて、私の曽田本と神傳流秘書等同じ内容のものです。
 土佐の居合が中山博道先生によって土佐を出た以前に第16代五藤孫兵衛正亮先生の門弟森本兎久身によって中山博道は土佐の居合を学んだし、大江正路先生と共著の剣道手ほどきによって堀田捨次郎より土佐から出ています。
 土佐でもこの居合の正しい伝承はよく解らない。判らなくなってしまったほど明治維新は多くの日本の伝統文化を抹殺して来たと云えるのでしょう。

 

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2019年8月10日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の6

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の6

 林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝壽と云ふ者が妙手であった。槍術家の新國彦九郎に一寸計の杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云ふ。御小姓格渋谷彌五平勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和9年5月10日を以て病死した。林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。
 林彌太夫政敬先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。皆大男にて、左平太が技前は業小なれども豪気なる居合也・彦八は業大きく行込み、強く錬熟したり。亀之丞先生も彦八氏と同じく上手也。彦八氏、亀之丞氏とは技前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立たんことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄25)
 亀之丞は谷村久之丞自凞(じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保8年稽古扶持として三人扶持を賜った。同15年には同流の芸家として取立てられ、文久2年にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

 居合抜の妙について、「一寸ばかりの杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して」と有るのですが、現代居合でこんな事が出来る人はいるのでしょうか。一寸と云えば3cmそこそこ、杭とは楊枝のようなものと思えばいいのかも知れません。この様な芸当はともかく、抜き付けるべき部位にピタリと抜き付けるのは至難の業です。現代居合の抜き付けは正坐の部一本目前ですら、敵の右肩から首こめかみと相手の動作によって動く位置を特定していますが、抜き付けの動作では腰を延び切って、抜き付けた右拳の位置は右肩の高さで斬り付けた刀刃水平に走らせています。こんな抜き付けで動く高さの目標に斬り付けられる訳はありません。斬り付ける相手の部位など、据物同然の抜き付けです。形に拘り過ぎて役立たずの稽古法が問題なのかとも思えます。根元之巻では勝つ部位は敵の拳です。
 古流剣術の抜刀を稽古していますが、相方に小手を着けてもらい斬り込んでくる小手に抜き付ける稽古をしています。或は抜刀せんとする小手に下から抜き付けています。抜刀してからの剣術でも小手に斬り込むとか右面左面目標物に見事に斬り込むもので、動く相手の太刀をかわして小手に斬り込むわけで、現代居合の様に抜き付けたフィニッシュの決まった状況を優先してしまいますと目標など無いも同然なのかとも思います。
 この、雑録にある見事な両断は稽古次第で出来る様になれるかもしれません。出来ると思えない人には出来るわけはないでしょう。動かない仮想敵を相手に稽古している様では無理でしょう。ましてかって指導を受けた先生の様に仮想敵は修行の末に現れるなどの嘘つきには絶対に無理なことです。

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2019年8月 9日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐の於けるその普及について24の5平尾道夫の5

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の5

 居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸で無かったから、別に師匠役などの任命はなかった。併し個人として之を門弟に授けた為めに、此以後長谷川流居合は小栗流無外流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。六太夫の子安太夫政詡を経て、六之丞政長、其弟益之丞政誠彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝へて居る。益之丞政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であらう。
 六太夫の二男脩之丞正靖は、甚三郎と改めて小栗流師家足立茂兵衛正藹の後を継いだ。益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政13年正月22日其技を以て特に召し出され、三人扶持御馬廻り末子に列し、屢々藩主豊資公の感賞に與ったが、後ち池田和太夫と改名、天保2年7月18日病死して、後は断絶した。楠目成徳の「手抄」24巻には、「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀の術を伝へ、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書25巻には「文政の頃林八郎次彌太夫の弟と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次八郎次と諸人に称誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云へり」と見えて居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

 この林家のメンバーを現在言われている道統に従って並べてみると以下の様になります。
 9代林六太夫守政ー10代林安太夫政詡ー(11代大黒元右衛門清勝)―12代林益之丞政誠ー(13代依田萬蔵敬勝)―14代林彌太夫政敬ー(15代谷村亀之丞自雄)―(16代五藤孫兵衛正亮)―(17代大江正路子敬)・・。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によれば、第9代林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけて助五郎政彬と縫之丞正靖(脩之丞正靖)であったが幼少の為、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合伝授を授けた。これが第10代林安太夫政詡である。名字から推し測れば、第10代林安太夫の後は、第9代林六太夫の妻の実家大黒家から第11代大黒元右衛門清勝が道統を継いだのでしょう。
 第12代林益之丞政誠は第10代林安太夫の子であったかこの平尾道夫先生の著となる土佐史談と土佐武道史話だけでは読み取れませんが、恐らく12代は10代安太夫の子であったろうと思いたいのは私の勝手です。
 第13代依田萬蔵敬勝は何処にも其の謂れが無いのでわかりませんが、第12代林益之丞政誠の長男が第14代林彌太夫ですから12代の後は弟子の中の優秀な者であって、その後は林家に戻され林彌太夫が14代になったのでしょう。
 それ以後は優秀な弟子が選任されたと思われます。

 第17代大江正路先生は大黒元右衛門の後に分離した下村派の第14代下村茂市定の弟子でしたから、谷村派の第16代五藤孫兵衛正亮の後を継ぐ事が出来たか疑問ですが、五藤正亮亡き後、引き継いだ谷村樵夫自庸も亡くなってしまい、維新後の事なので其の辺の事は幻の中なのでしょう。家は継ぐ事は出来ても芸事を血筋のみで引き継ぐ事は大変難しい事でしょう。それは現代の方がより難しくなっている様にも思えます。 

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2019年8月 8日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史伝雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史伝
雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の4

 長谷川流居合を土佐に傳へたのは上述の如く林六太夫守政である。林氏の祖先は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕へ、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。
 其子兵部政勝戦死した為め、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曾我部氏に仕へ、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
 其子市兵衛政友、承応年中に逝き、政友の子政右衛門政良初めて林氏を称し、山内家に仕へた。
 延宝3年4月晦日政良病死後、同年5月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行80石、格式新御扈従、料理人頭と云ふ父の職禄も其儘承けたものである。豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗ふ手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せしめたと云ふ逸話も残って居る。
 よろず才能に秀でて、本職の庖丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末枝に至るまで諸芸16般を極め、孰れも人師となるに足りたと云ふ。就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其奥を極め、累々典礼に関する書付けを上って、其都度感賞に與り、元禄10年には加増20石、同16年には更に50石を加へられて、都合150石を賜はり、宝永3年には大扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
 正徳2年には老齢によって大御扈従を免ぜられて馬廻になり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保17年7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊敷5代の藩主に歴任し、君寵の衰へなかったのを見ても。如何に其人格の円熟して居たかを察すべきであらう。

 平尾道夫先生による土佐史談34の雑録の内容は、平尾道夫著昭和36年1961年発行「土佐武道史話」に長谷川流居合として整理され記載されています。
 少々気になったのは、土佐武道史話によると「はじめは知行80石で新小姓の格だったのが、後には160石の馬廻に昇進し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役にまで出世した。太平の時節にこの様な昇進を見ることは異数の例で、それだけに彼の才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。彼の名を後世に残す長谷川流居合は、実は六太夫にとって余技にすぎなかったのである。六太夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70歳で亡くなった。・・」扶持高10石の違いと17日の死亡日が7日の違いが気になりました。
 林六太夫にとって余技に過ぎない長谷川流居合を、神傳流秘書をはじめ多くの目録秘訣を林安太夫に伝え残された事には並々ならぬ能力をお持ちだったと驚くばかりです。

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2019年8月 7日 (水)

第21回古伝研究の集い

土佐の居合 古伝神傳流秘書による古伝研究の集い
第21回古伝研究の集い
 無双直伝英信流、夢想神傳流の古伝神傳流秘書を曽田虎彦先生の直筆本から読み解いて江戸時代中期の居合を研究しています。
 今年は、主として大小詰・大小立詰を研究いたします。
 師伝が如何様であろうとも、古伝をご存知の方は少ないものです。ご参加いただいた方が、夫々「我が師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。俺の指導に従えと云う武道にありがちな事とは異なります。
      記
1、期日
・令和元年8月8日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年8月22日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年9月12日(木)
 15:00~17:00 鎌倉体育館
・令和元年9月26日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
2、住所
見田記念体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
Tel0467-24-1415 
鎌倉体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
Tel0467-24-3553
3、アクセス
 JR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
 (駐車場 鎌倉体育館に有り)
4、費用:会場費等の割勘つど 500円
5、参加申込み 直接会場へお越しください
  Email :sekiunn@nifty.com
6、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
  湘南居合道研修会 鎌倉道場
7、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
  令和元年7月24日 松原記す

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曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の3

3、同流に関して土佐に傳へられる文献は、私の知る限りに於て、林安田大夫の話として南路志71巻に収められた次の一節である。
 無雙流の居合は、林崎甚助重信より始まる。林崎は北條五代目に仕へ、此流を以て後太閤秀吉公御学ならせらる、無雙流と云ふ名を始て御附ならせしと也。其後塙團右衛門に傳はり、團右衛門より長谷川内蔵助に傳へ、内蔵助より荒井勢哲に傳へ、夫れより子の勢哲に傳へ、夫れより近年の兵作に傳へ、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の術鍛練の由云々。
 真偽は別として、先づ上述の如くである。その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信7代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神傳英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱ふ」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであらう。神傳重信流に神影流の古流五本の仕形を加へて、大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行はれて居ると云ふ。

 南路志については見た事もありませんし、興味はあっても事実とは違うようですから、興味の有る方にご研究をお任せしておきます。私の興味はあくまでも土佐に持ち込まれた「無雙神傳英信流居合兵法」と称する古伝の研究と復元であって机上の研究は別物です。業技法のヒントを得るための史料には大いに興味はあります。土佐史談のこのスクラップの文面が掲載されたのは昭和7年1931年の事の様です。従って3項の前段の文章は、平尾道夫先生も書かれている様に「真偽は別として」に過ぎません。


 林六太夫守政によって伝えられた土佐の居合の古伝神傳流秘書には、「居合兵法伝来」と題して道統は以下の様です。
林崎神助重信ー田宮平兵衛成正ー長野無楽入道槿露斎ー百々軍兵衛光重ー蟻川正左衛門宗績ー萬野團右衛門信貞(定)-長谷川主税助英信ー荒井兵作(勢哲)信定(清信)-林六太夫守政ー以下に(大黒元右衛門清勝ー松吉ハ左衛門久盛ー山川久蔵幸雅ー下村茂市定ー行宗藤原貞義ー曽田虎彦)とされています。以下にある名は山川久蔵幸雅及び曽田虎彦の追記でしょう。
 目録には無雙神傳英信流居合居合兵法とあり是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也。
 大森流居合之事 此居合と申は大森六郎左衛門之流也英信流と格段意味無相違故に話而守政翁是を入候六郎左衛門は守政先生剣術之師也真陰流也上泉伊勢守信綱之流五本之仕形有と言或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶へ。

 この神傳流秘書の存在は平尾先生はまだ知らなかったか、土佐の所有者によって門外不出だったかもしれません。伝統の末尾は林六太夫で切れていたと思います、従って六太夫の後は今日云われている林安太夫政詡で古伝神傳流秘書の筆者も安太夫であったろうと大森流の謂れを読めば推察できます。

 真陰流は新陰流と違うのか誤認か判りません。恐らく古流五本の仕形であれば新陰流の「三学円の太刀」でしょう。この太刀を林安太夫は見ているのかも知れませんが稽古していないので絶えてしまったと嘆いています。宮本武蔵の二刀流も林六太夫は学んだのであろうことも此の文面から推察され林六太夫の熱心さが伝わってきます。大森流は英信流を元として詰合、大小詰、大小立詰、大剣取、夏原流和などを総合し、当時正座の座り方が城中で奨励され一般に普及していった中で、それを元にした大森六郎左衛門の独創だろうと思います。

  

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2019年8月 6日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の2

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社傳に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐一雲齊を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。後、山城国伏見に於て一雲齊を討って本望を果し、更に将軍足利義輝の上覧仕合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其以前に於て抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神傳重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶさうである。
 上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其後同家に随身して、維新に及んだと云はれ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起し、其子對馬守長勝は、初め池田輝政に、後ち徳川頼宜に仕へて、之を紀州に傳へた。水戸に於ては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽齋槿露は、初め小田原北條家に、後ち彦根井伊家に仕へ、一宮大夫照信は、甲州武田家に仕えへて抜刀一宮流を始めて居る。仙台には幕末に重信17世嫡傳と称する堀津之助共徳、及び大規定之助安廣あり、新庄戸澤家に平賀清兵衛あり、江戸に於ては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)依田市左衛門等が声名を博したと云ふ。其他野州宇都宮にも其流があり、神傳重信流は数派に分たれてかくの如く全国に普及して居る。

 此の項の内容の実証は明らかではなく、いくつかの史料を断片的に繋いだようで平尾先生の文章とは思われません。昭和の時代に手に入れられる程度の史料からの抜き取りではこんなものかも知れず、また土佐の人にはこれでも土佐の居合の優秀な事を思い描かせ、お国自慢に更に気を吐くネタともなったと思います。
 林崎甚助重信に就いては平成3年発行の林崎甚助源重信公資料研究委員会による「林明神と林崎甚助重信」の復刻版を村山市が発行元になって居ますから、それを求められれば、この雑録よりもう少し納得できる内容が得られるかもしれません。いずれにしても、市井の剣術使いの趨勢が正しく残されるなど当時としてはあり得ないでしょう。

 林崎甚助重信の生涯も霞の中から幻が見える程度の者に過ぎず、それもまた良いのでしょう。その居合の何たるかはもっと分からないとしか、云い様はありません。「昔はこうだった」とか「武術ではこうだった」など見て来たような嘘をつくことはできません。

 参考に「林崎明神と林崎甚助重信」に記載されている伝書の流名は以下の通りです。
 津軽藩 林崎新夢想流
 三春藩 林崎流
 新庄藩 林崎新夢想流
 庄内藩 林崎田宮流
 秋田藩 林崎流居合
 秋田・仙台藩 林崎夢想流居合
 二本松藩 林崎神流居合
 以下略す。

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2019年8月 5日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1

曽田本その2を読み解く
24スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の1

 ー特に此一篇を屢々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県稲岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐー
 1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴ひ、かなり古くから行われたやうである。土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈忠左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝へたる人であるが、亦居合の名手として伝へられる。或時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云ふ懇望があった。忠左衛門は之を快諾したが、暫らくして人々にうち向ひ、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云ふのである。人々が呆然として顔見合せているのを見て、忠左衛門は笑ひながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云ふので、試にその小姓を呼んで調べて見ると、果して言の如く見事に切断せられて居たと云ふ。忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其後土佐藩士人の間に伝へられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於て大いに其本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝へられた長谷川流居合そのものである。

 曽田本その2には曽田先生の直筆の居合に就いての蘊蓄が書かれているのですが、更に進んで、資料集めも積極的であったと思われます。この平尾道夫先生の「長谷川流居合と土佐に於ける其普及について」も何処からそれを切り取って張り付けたのか何も書かれていない為にその扱いに苦慮しました。
 平井道夫先生の著書「土佐武道史話」は高知新聞社発行で昭和36年1961年に出されたものは土佐の居合を学ぶ方にも良く読まれているものと思います。その序に代えて「戦争を否定し、暴力を排斥する現代の日本で、おこがましくも武道とはなにごとか、と目をむく人があるかもしれない。だが、武というのは「戈(ほこ)を止める」の二字から形成されたもので、つまり戦争否定の思想をあらわした文字だと教えられたものだ。してみると、戦争や暴力がいやなのは昔の人も現代人とかわりはなかったはずで、武道とはその語意平和道に通ずるものと解釈してもさしつかえはあるまい」と武力を賛美するのでは無く、武をもって和する心を学ぶ一端を示そうとされる気持ちが伝わってきます。
 この雑録のスクラップは土佐史談34に掲載されたもので、曽田先生は土佐史談34の95Pから100Pまでを外されて曽田本その2のメモ帖に張り付けられています。1項目から9項目に別れていますので項目ごとに日を追って掲載させていただきます。今ならスキャンするなりコピーするなりの事が出来るのですが、私の手元には土佐史談34の冊子の95~100ページが生の儘あります。

 この平尾先生の文章から、土佐には小栗流の朝比奈忠左衛門可長によって大栗流剣術に附随した居合が行われていたのでしょう。そこへ林六太夫守政によって江戸から新しい居合が入って来たのでしょう。土佐藩第3代忠豊公の時代に小栗流居合を親しんだ土佐の人に、あえて林六太夫は居合を家業とせずに本職の料理人を務め居合を余技としていたのも、第4代忠豊・5代と豊房・6代豊隆・7代豊常・8代豊敷と五代の藩主に仕えたのもその人柄を思わせます。
 ともすれば俺が、我こそはと人を押し退けてまで自己顕示しようとする人の中で、土佐の居合の「夢うつつの如くの所よりひらりと勝」とか「我が身を先づ土壇となして後自然に勝」などの極意は新陰流の活人剣を思わせるもので、信頼できる風雅な趣にいつの間にか居場所が出来ている人だったのでしょう。

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2019年8月 4日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐固有の武道居合術の復活
24の4竹村静夫の手記
(昭和11年7月24日高知日々新聞にて)

 我が土佐の居合術長谷川流の▢内無双なるは既に中央に於いても定評ある處であるが残念ながら今日迄只僅かに其一部のみ伝へらるゝに過ぎなかった、然るに▢▢剣客竹村静夫氏の熱心研究は其功を奏し従来の断片的の抜型が全部明かとなり固有の体系を復活し茲に我が居合術の完備するに至りたるは実に欣快に堪へざる所である記者は竹村氏に乞ふて其手記を転載するを光栄とするものである。

無雙直傳英信流居合術
1、伝統
 初代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛重正ー3代長野無楽斎槿露ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門尉信定ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井勢哲清信ー9代林六太夫守政―10代林安太夫政詡ー11代大黒元右衛門清勝―12代林益之丞政誠ー13代依田萬蔵敬勝ー14代林彌太夫政敬ー15代谷村亀之丞自雄ー16代五藤孫兵衛正亮ー17代森本兎久身ー18代竹村静夫

2、沿革
 当流の始祖は抜刀中興の祖(奥州の人)林崎甚助重信先生である。第7代長谷川主税助英信先生は始祖以来の達人であって、重信流を無双直傳英信流と改められた。爾来当流を長谷川英信流又は略して長谷川流と呼ぶ様になった。9代林六太夫守政先生は土佐の人で高知城南八軒町に住し居合礼節、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽、鼓等人の師となるに足る技16あり、斯道の逸材である。第11代大黒元右衛門清勝先生より當流は二派に分れている。そして何れ劣らず夫々勝れた手の内がある。藩政時代最後を飾る両派の代表的人物に谷村亀之丞自雄先生、下村茂市定先生がある。これより此の二派を谷村派、下村派と呼ぶ。谷村先生は天保の頃潮江に住して藩の師弟を指導せられた。時の藩主容堂公は「谷村の居合は土佐藩第一なり」と讃えられ一日谷村先生をお召の上、御佩刀を出されて「之を抜け」と仰せられた。先生はお側の者に豆を持たせて、之を抜き打ちになすに寸分を違えなかったと云ふ、下村先生は築畠敷に住し嘉永、安政年間藩公より居合術導役を拝命し藩立致道館に於て子弟を教育せられた。御維新▢欧州文明の流入に伴ひ古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。時に明治26年板垣伯帰省せられて土佐居合の全国無比なること並にこれが復活を説かれてより、谷村派の蘊奥を極めたる五藤正亮先生を、材木町新築道場に迎へて一般に指導を乞ふこととなった、五藤先生はこれより追半筋共立学校に於て主として中学生を教授せられた。当時の愛弟子に森本兎久身(海軍大佐)、坂本政右衛門(陸軍中尉)、田口刺戟(海軍大佐)のかくれた諸先生がある。森本先生は明治30年五藤先生の允許を得て上京有信館の門を叩かれた。師範根岸信五郎先生は森本先生の居合を拝見して「海内無双也」と激賞せられた、明治31年五藤先生没後は同派の谷村樵夫先生が専ら指導の任に当たられた。谷村先生は早抜きの名人である。小藤亀江先生は谷村先生の秘蔵弟子であるが、惜しいかな早世せられた。次いで下村派の行宗貞義先生が一線に立たれた。先生の居合には見事なる剱風があり。明治40年頃土佐第一の称がある門下には廣田廣作、曽田虎彦の両先生がある。一方当時の政治家であって而も下村先生の高弟で其の奥義を極められた方に細川義昌先生があった。細川先生没後は武道家として大江正路先生がある。先生は始め下村派を学び後に谷村派を究められ独特の手の内を案出して、大いに斯道の隆昌に貢献せられた。為に多数の門下生が排出した。就中中西岩樹、穂岐山波雄の両先生は其の白眉である。然るに昭和10年頭初穂岐山先生急逝せられ、中西先生渡満せられてより斯道に一抹の淋しさを覚えるに至った。が幸ひ故穂岐山先生の後は福井春政先生が継いでいる。又これより先曽田虎彦先生帰県せられて往年の下村派の復活を見るに至り。余も坂本将軍の錦衣御帰省を契機として往年の谷村派の復活を志し遂に恩師森本先生より免許皆伝を賜り此處に多年の宿願に到達するを得て土佐居合道のため微力を帰している次第である。

3、型
 當流は他流に見るが如く単なる抜刀術或は剣道に附属した居合鞘の内のみではなく立派に独立した土佐独特の居合道である、即之に附属する大森流を加へ換技共に47本の技の他に、太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰がある。太刀討の位は所謂太刀討で抜刀術を加味した剣道の型である。詰合の位は実に抜刀術の至極とも云ひ▢当流の極意とするところである。又大小詰、大小立詰は抜かずして勝つ即刀、鞘の内にあって敵を制する技で当流の大精神を表徴せられたものである。
 当流の骨幹をなす之等の型は明治31年五藤先生の没後全く廃っていたものである。それを40ヶ年後の今日復活し得たのは、余如きの到底独り研究し得らるべきものではなく、之は森本先生の御示教は申す迄も無く田口刺戟先生の心からなる御指導と御鞭撻の賜に他ならないのであった、又之を如実に発表することを得たのは真に曽田虎彦先生の御協力の賜である。
 型の内容は左の通りである。
 イ)太刀討の位
  出合、付込、請流、請入、月影、水月刀、絶妙剣、独妙剣、心妙剣、他に打込一本の口伝あり
 ロ)詰合の位
 八相、拳取、岩浪、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剣、他に口伝討込一本あり。
 ハ)大小詰
 抱詰、骨防、柄留、小手留、胸捕、左伏、右伏、山影詰
 ニ)大小立詰
 締捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蛉返、乱曲、他に移り口伝一本あり


 土佐の居合の歴史を一気に語りかけて来る様です。総合武術であった土佐の居合が、明治以降居合抜ばかりが稽古されて型は置き忘れられてしまった事を嘆きようやく田口刺戟先生、曽田先生と共に演じられるようになったと喜んでいます。ここには古伝神傳流秘書に在る大剣取が抜けています。田口刺激先生の指導に無かったものか、曽田先生による実兄小藤亀江の指導に抜けているとすれば第16代谷村派後藤正亮の教えが抜けている、要するに谷村派には大剣取は伝わらなかったかも知れないと云えそうです。当然の様に小太刀之位などはその後も聞こえてこないものです。
 然しこれから2年後竹村静夫先生は昭和13年1938年に39才で亡くなられています。日本は戦争に深く突入して行き、土佐の居合の先生方も次々に徴兵で連れ去られ、これ等の型も再び消えて行ったと思われます。現在は土佐の居合が総合武術だった事すら忘れられている時代です。
 有る時、無双直伝英信流居合兵法の十段を印可された方が、宗家より頂いた目録を拝見しました。目録ですから根元之巻は無く、長年に渡って精進した事を讃え目録皆伝となります。目録の内容は正座の部11本の業名、立膝の部の業名10本、奥居合の部21本、番外4本、抜刀法11本、英信流居合形7本でした。是で無双直伝英信流居合兵法の10段允可された事で権威と権力を手にした如くの振る舞いには呆れてしまいました。
 初代関東地区連盟の会長が大江先生から根元之巻を伝授された山本宅治先生によって根元之巻及び目録を伝授されています。目録は英信流居合術名称とされ正座の部11本、立膝の部10本、奥居合之部21本、番外3本、型7本です。
 之が土佐の居合の現状なのです。是では土佐の居合を知っている人など居ないも同然です。指導出来るわけもなく微細な「かたち」に終始して演武会用の武的棒振り踊になるのも当然でしょう。其の上土佐の居合の何たるかもその業名すら忘れ去られているのが現状です。
 連盟の段位取得優先思考が蔓延し、流派の正しい伝承を置き去りにしている指導者のなんと多い事か・・思いつくままに。

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2019年8月 3日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合の為に
24の3万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏
傑物、行宗貞義の一の弟子
(昭和11年11月海南新聞にて)

 土佐の居合術は英信流とて全国的に有名であり京都武徳殿においても特に英信流を日本武術の精華として尊重し中等学校でも武道の科目に編入しておる程だが現代この土佐居合術の代表的人物は何といふても曽田虎彦であらふ。
◇曽田氏の師匠は有名な行宗貞義氏である、行宗氏は西南戦争の時にたいいとして各地に転戦した剛のものだが後ち感ずるところあって断然軍服を脱ぎすて、一時看守長を勤めたこともあり、其の後ち更に零落して第二中学校の門監にまで成り下っていた。
◇当時二中の武術教師は桑山直澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かかった真田翁がその居合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がをる以上、桑山は教師たる資格がない早速罷めろと言って行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江正路氏の如き剣客も行宗の足許へ寄りつけぬと云ふ評判で其の実力は大したものだった。
◇この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったが夫等数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江吉重、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
◇此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我が子の如く教へたといふ一事を以って、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを属してゐたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る、果然その曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられ茲に師の衣鉢を継ひだのである。
◇すなわち世間からみれば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に推しあげられた形となった、そこで今一度行宗氏の実力が振り返へて見直す必要が出来た。何でも明治四十年頃であったが範士の中山博道氏が態々来県して行宗氏の弟子となり又三重県人堀田捨次郎といふ柔道の範士も亦た来県して行宗氏の門に入った敢へて多くを語らずとも此の二つの事実は行宗氏その人の畏敬すべき其の妙技と実力とを極めて雄弁に物語ってをるではなかろふか。
◇本年10月25、日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のために万丈の気を吐ひた、そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった。斯くて長谷川英信流第七代の師範たる曽田虎彦氏は日本の武道界において天下的人物たる折紙を附けけられことを我等は土佐の誇りとして読者と共に欣快の拍手を送る写真は曽田氏。
Photo_20190803113501
行宗貞義先生
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曽田虎彦先生
*
 昭和10年11月海南新聞に記事として掲載されている曽田先生の師行宗貞義先生、曽田虎彦先生に就いての記事ですが、時代背景が伝わって来るようです. 

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2019年8月 2日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合術に就而24の2谷村秀喜

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合術に就而
24の2日本刀荘谷村秀樹

 無雙直傳長谷川英信流の本場たる土佐国に於ては、現在土佐出身の自分等は当流を内訳して(中西流)と(穂岐山流)の二派としております。同じ土佐の英信流であって前記二派の異なる点を一言にして曰ひ現さしむれば、穂岐山流は形としては美練され観る目誠に華やかなる形其ものである。
 然るに中西流は率直で然も機敏であり、真剣味充実し理論徹底し自ら鬼気迫る実戦其ものの技である。
 一例を挙るに穂岐山流では抜刀から刀が鞘に治まる迄総而の形が裕長にして動静が大きく華やかなるを特徴とす。中西流に於而は総而の形が敏捷にして動静は穂岐山流に比してやゝ小さく生気漲りて敵を斃すを目的とし、然も理論的に研究され、利剣其ものである。中西流の抜刀は刀身が今正に鞘を払はんとして切先三寸鞘に残りたる時切先に気力を充実さして体をヒネリて刀身を撥出して敵を弾力斬にするのである。弾力斬とは例へば一本の竹の根本と先を両手にて握り、之を円形に引枉て(ひきまげて)一方を放ちたる際の弾力気分を言ふ。即ち此気分る以而敵を斬り付けるのである。形が技であり技が形である居合術の総而の動静が理論徹底して居なければならぬ。
 一例するに大森流の五本目八重垣の形に於而抜付に敵の首或は胴を斬りて次に面を割る、而て血振りをなし刀が鞘に治まりかけて残心を入らんとする時、倒れたる敵は半ば起きあがりて自己の右足を払ひに来れるにより、更に刀を抜付けて敵刀を撥き返し、直に間髪を入れず敵の面を割る。此の処までは両派共大同小異であるが、此処に於而理論の異る点である。此場合穂岐山流では其場に於而左脚を屈すると同時に敵の面を割る。中西流に於而は其場より更に左足を一歩踏出すと同時に右脚を屈して面を割る、此の左足一歩踏出す点が中西流として理論の徹底したる点である、何故なれば自己の最前方に出たる右足を敵が払はんとする時には自己と敵との間隔は敵の刀身と延びたる敵の腕との長さの間隔があることは何人と雖も言を俟たざる(またざる)ところである。然らば敵と自己との間隔は少くとも五尺位の間隔はあるのが当然である。故に前述穂岐山流の如く其場に於而左脚を屈して斬付けたる処で、剣先は敵に届き憎い理論となる。故に中西流では右足を一歩踏出して斬付けるのである。斯くすれば完然に自己の剣先は敵に達し、目的を果たし得べきである。斯くの如く中西流は無雙直伝長谷川英信流表形四十二本、番外三本共此の理論が徹底致して居ります。
 尚一言して置きたいのは当流には表形の他に裏形が更に四十二本ある事をご参考迄に申添て置きます。
 =居合刀種々あり=市電細工谷停留所前 日本刀荘

 穂岐山流と中西流と云っていますが、その居合の演武を見る機会はすでになく、穂岐山流はゆったりと大きく華やかだけれど理論が今一と云う。中西流は形が敏捷でやゝ小さいが理論的だと述べています。刀屋さんの両者の見立てですが、中西流の軍配を思わせます。
 穂岐山流は大きくゆったり美麗と中西流の率直で機敏が見た目の違いで、理論の違いは想定の違いと言えるのでしょう。八重垣の動作の違いで其の事は明らかです。然し現代居合の形だけが全ての人には中西流は理解できないかもしれません。
 中西流も相手はこうあるだろうと言う思い込みが強すぎれば土佐の居合の真似をしただけの異なるものになってしまうのです。
 表の形四十二本には裏の形が更に四十二本あるそうですが、全く知りません。太刀打之事10本、詰合10本、大小詰8本、大小立詰7本、大剣取11本はあっても裏の形として現代居合で42本の話題や手附に就ての話は聞いたことはありません。其の他に古伝坂橋流棒13本、夏原流和54本、更に小太刀之位6本を加えれば119本になります。裏とは表の業の返し業のイメージがありますがどの様なものだったのでしょう。この辺の処も古伝を知らないだろう谷村秀樹氏の聞きかじりが膨らんだのでしょう。
 土佐の居合の古伝の凄い所は、根元之巻に記されている柄口六寸に勝つ極意にあってそれに至る初歩の稽古業が目録に在る業名に過ぎないのです。
 其の心持ちは「ガッサリと明けて敵は只一打ちと打込まする様に振る舞う事、構は如何にも有れ我と互に打ち下ろす頭にて只我は一図に敵の柄に打込む。先ず我が身を土壇と為して後自然に勝、その勝所は敵の拳なり」すでに失伝した奥義と言えます。
 曽田先生のスクラップはその出典が記載されていないものがほとんどです、これも何を切り抜いたのか解りません。然し居合の心を伝えてきます。

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2019年8月 1日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐居合に就いて24の1竹村静夫

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐居合に就いて
昭和11年2月10日日本武道にて
長谷川流第18代
居合術教士 竹村静夫

 土佐居合を語る者は藩政時代に於る谷村派並に下村派の両派を究め、而て徳川幕府中期迄辿り、一国一人の相伝也しと云ふ当流の根元を究むるに非ざれば未だ其の器に非ず。
 いやしくも土佐居合を説く者は、只々先師の教へを遵奉するに止まらず、克く両派の教へを含味して其の理論と実技とが相一致する、即其の呼吸、気位並気合、間合、刀法等総てが今日の剣法に合致し得るものでなければならない。
 斯道に志す人々は決して机上の空論に依って当流の手の内を兎角云々することなく、当流各本の教へに付き夫々吟味して先師の教への那邊にあるかを悟り、真の教へは単なる架空的なものではなく実際と理論と合致したるものであることを究めなくてはならない。

 斯道に志す人々が「居合は人を切るものではない、腹の教へである」と説かれるのを拝聴するが誠に然りである、然し乍ら夫れを説かれる迄には深甚の研究と努力を積むにあらざれば未だ其の資格は認められない。其の腹即斯道の極意に到達する迄にはよりよく錬磨して、真に心剱一致の妙諦を悟られたいものである。

 国家に於ける必勝の軍隊練成の主眼が那邊に存するか、邦家が36年の危局に際し穀然として外患を圧倒するのは何故か、形の上に於て国家と個人の差こそあれ斯道究極の目的は「居合とは人に切られず人切らず只つゝしみて平に勝て」であって、刀鞘の内にあって敵を制する迄に至らなければならない、これが為めには常住坐臥不断の精進によって、全国無比なる当流の奥旨を悟るべきである。

 尚当流は他流に見るが如く単なる抜刀術にあらずして、独立した土佐独特の居合道である。即47本の居合の他に太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰の秘伝の存することを忘れてはならない。
 余は土佐居合道の復活に志すこと多年、今や邦家非常の秋に際し各方面の御示教とご協力のもとに当流の隆昌を期し度いと念ふ。(終)


 このスクラップは日本武道に掲載されている竹村静夫の執筆で、曽田先生はそれをスクラップとして張り付けて置いたのででしょう。土佐の居合は単なる抜刀術ではない、それには師の教えに留まらず、谷村派も下村派も理解し、尚江戸中期の土佐の居合の古伝をも理論と実際を合致させて究めなければ当流を究めたなどと云えないよ、と云っています。

 残念ながら、谷村派、下村派の居合は現今ではこれが夫れと認識できるものにはならず不思議なものとしか言いようは無い、竹村静夫先生の時代には明確に区別できたのだろうかと思うばかりです。
 私の手元資料では曽田先生に依って写された江戸中期の古伝神傳流秘書で何処から出たものでその出典が不明なのですが、木村栄寿本と軸がぶれませんから然るべき家から出たものとしています。
 夢想神傳流の木村栄寿先生による林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流が江戸中期の居合の心持ちを伝えてくれるものになります。細川義昌先生の家から出た資料で恐らく曽田先生の古伝資料と異なる資料集だろうと思われます。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書は曽田本の写しですから新たなものは得られません。
 政岡壱實先生の無雙直傳英信流居合兵法地之巻は大江居合を残しながら神傳流秘書を参考にされています、その無双直伝英信流居合兵法之形は仕打の動作をそれぞれに分け写真入りで解説したもので参考にされている人も多いようです。然しその動作は竹刀剣道の動作が随所に見られ、独自の解釈が気になります。原本の儘知恵を絞って研究すれば良いのですが分解写真と権威者の解説がつくとそれに頼ってしまうようでは古伝に至るのは難しいでしょう。
 
 このブログの読者の方々にも実際に古伝を研究し稽古をされる方もおられます。竹村静夫先生の叱責から80年以上経ってようやく「古伝を研究している」と仰り其の研究成果を文章や絵や動画などにされて、私にまでお送りいただきお目にかかれるようになりました。
 反面、古伝研究によって現代居合や形を否定されたと言って、邪魔者扱いされる不勉強な方もおられ、この竹村静夫先生の論文は厳しい叱責でしょう。

 居合は、「人を切るものではない、腹の教へである」と云うが言葉で理解しても、「より深い研究と努力を積む」のを怠ったのでは土佐の居合がわかったなどとは言わせない、そんな資格は無いといいます。
 仮想敵相手ならまだしも、教えたがりの兄弟子の手取り足取りの真似事居合が何処でも横行しています。習った事と違うと「あれはおかしい、武術ではあんな事はしない」など知ったかぶりもあっちこっちで聞きます。其の内「居合は腹で斬る」などと云って、どうやるのかお手本をお願いすれば腰の抜けた腕力ばかり、より深い研究と努力は自ら課すもので、其の手助けに道場があるべきものです。初心の内はともかく多くの道場がやっている稽古風景は、軍隊の調練みたいな掛け声に合わせた合同稽古で真似っこ養成所みたいなものです。それで30年40年の在籍だそうでご苦労な事です。

 何故この業はこうするのか、こうしてはいけない理由は何か、気の利いたものは疑問は一杯ですが、道場長に聴いても「そう習った」としか答えられない。
 居合の和歌など研究課題にすらならない唯の棒振りではお粗末です。正座の前一本だけで2時間を掛けて研究し合う姿勢など何処にも無いから棒振り体操に終始し、結果は武術ではなく、段位取得や演武競技による武的試験問題の稽古に過ぎない物になってしまっています。其の上高価な日本刀を持ちだし「本身は模擬刀と違う」などと分かった様な嘘を言っています。

 竹村静夫先生の土佐の居合の賛美は裏を返せば何も出来ていないじゃないかという嘆きでもあるのでしょう。

竹村静夫先生

Img_0676
 曽田メモ:此の抜付は勢余りてか上体が前に懸り過ぎて感心出来ざるものとす。抜き付の時眼の付け処注意刀尖を見るにあらず敵から眼付を離すべからず。

 竹村静夫略歴
明治35年1902年 生まれる
大正 3年1914年 城東中学入学12才
           剣道居合に熱中
昭和11年1936年 第二次世界大戦
           陸軍戸山学校天覧武道場で曽田虎彦
                               と太刀打之位演武打太刀
昭和13年1938年 没す39才

系統 下村派第14代下村茂市定―行宗貞義―曽田虎彦―竹村静夫

 

 

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2019年7月31日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の4終礼

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の4終礼

 納刀後互に右足より出で、約四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し右手にて腰の刀を抜き前に置き板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換へ右手は右膝の上に乗せ其儘右足より立ち左足を右足に揃へ互に三歩退き直立となり黙礼を行ひ、更に対向の儘三歩づゝ退り神殿に向ひ礼を行ひ左右に別る。

 大江先生の終礼とは聊か異なる部分もある様です。:「刀を納めたれば互に右足より出で、四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し、右手にて腰の刀を抜き前に置き、板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換え、左腰部に当て右手は右膝の上に乗せ、其まゝ右足より立ち左足を右足に揃へ、互に三歩退り直立となり神殿に向ひ礼を行ひ對向し三歩づゝ退り黙礼を行ひて左右に別る。」
 河野先生右手に持った刀を立てて左手に持ち換えただけで「左腰部に当て」が抜けています。大江先生は神殿の礼の後に互いの黙礼をする様にされていますが、河野先生は互いの黙礼を先に行い、神殿への礼は後にされています。

 河野先生の大日本居合道図譜での終礼:「終礼はすべて最初の作法に準じて、之より互に五尺の距離に進みて端坐、刀礼をなし静かに立上りて小足三歩退りて互に黙礼をなし次に神殿に向ひ最敬礼を行ひ末座に退り御互の礼をなして終る。
 どの様な関係から終礼迄いじってしまったのか疑問ですが、コロコロ変える意味があるのか疑問です。河野先生は大江先生の直弟子では無く18代穂岐山先生に師事されたのですが、穂岐山先生亡き後は19代福井春政先生に師事されたのでしょう。
 福井先生の古伝太刀打之位の終礼:「留之剱、終らばそのまゝ一旦後方に退き血振ひして刀を鞘に納め更に前進し正坐にて刀の終礼を行ひ再度後退して対立のまゝ相互に黙礼をなし、次で神前の敬礼を行ふ」に従ったのかも知れません。形を演武会の出し物、あるいは奉納演武とするならばその流派の仕来たりに従って行えばいいだけのことですからそれでいいのでしょう。

 形の修行が進んでも、この手附の範囲で何時迄も稽古して見ても得られるものは少ないものです。例えば一本目出合の双方抜き合わせ受け留める場合の有り方、仕の上段からの切り下ろしを受け太刀とする教え、それだけで充分とすれば、刀は折れているか刃はボロボロです。どの様に受けるか研究すべきものでしょうし、常に打が導くために受け太刀となる、或は切られ役である必要は稽古が進めば其処に留まるべきものでは無いでしょう。仕が不十分な運剣や間の取り方であれば反対に斬り付けるか、いなしてしまうべきものでしょう。大江先生の形は中学生向きに形成されたものであり、非常に初歩的な、間と間合いの認識を覚える程度のレベルであって、剣術と云えるほどの形とは思えませんが始まりはそこからでしょう。

 

 

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2019年7月30日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書7真方

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
7、真方

 打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩十分に踏み込みて打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は其儘の体勢にありて仕太刀の斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退き其刀を受け留める。互に青眼となり打太刀は、一歩出で仕太刀は一歩退く、青眼の儘残心を示し互に五歩退き元の位置に戻り血振りし刀を納む。

 河野先生の真方と大江先生の真方は、打太刀の動作が異なります。:「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼のまゝ左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩充分踏み込みて、打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は右足より五歩出で仕太刀を斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退り、其刀を請留める、互に青眼となり打太刀は一歩出で仕太刀は一歩退り、青眼のまゝ残心を示し互に五歩引き元の位置に戻り血拭い刀を納む。

 河野先生は、前回の請流で「仕太刀は左足より斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み退きて青眼になり次に移る」の文章から真方の打太刀を「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり」とされています。その原因は受け流しの初動に河野先生は打太刀が「刀を差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足右足を踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す」と云う事で鍔留で互に五歩退き血振り刀を納めた事を忘れているのです。ですから受け流しの際の双方の間合いは一足一刀の間から五歩離れているのです。当然受け流しの間に至るには五歩の双方の前進が必要です。そして受流しから元の位置に戻るにも五歩の後退が必要なのです。
 大江先生は受け流しの終了の際青眼に双方構えて刀を合わせ五歩退き、河野先生は打太刀をその場に立たせて置いたと云う事になります。

 河野先生の真方は八相に構えて立ったままの打太刀に仕太刀は上段に構えて歩み寄り一方的に打の真向に打込み、打は左足を退き右足を追足に仕の打込みを受けるのです。
 大江先生は双方歩み寄り打は仕を打たんと斬り込む瞬間、仕の斬り込みが早く左足右足と追足に下がり受け留めるわけです。どの様に受け留めるのかは、大江先生の一本目出合の「打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける」のですが、左斜めにの意味が文章からは読み取れず、習慣的に見る形は、柄を左に切先を右上に向けた左傾斜の受け太刀です。

 河野先生の大日本居合道図譜ではこの真方の業名は「討込」と変えられ:「打太刀八相仕太刀中段より互に前進す。間に接するや、打太刀は仕太刀に斬込まんとするを、仕太刀は機先を制して右足を踏込み上段より打太刀の真向に敵刀諸共其の真向より斬下して勝つ。打太刀は左足を一歩退き第一本目の要領にて受ける。次に打太刀は左足より追足にて二歩退き中段となり刀を合はせ、打は三歩出て仕は三歩退りて元の位置に戻り、互に五歩後退して血振り納刀す。」

 此処では双方互に前進するのですが、打は八相、仕は中段に変えてしまっています。大江先生の心持ちを組み込み「打太刀は仕太刀に斬込まんとするを」が、追加されています。
 「一本目の要領にて受ける」形は「打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る」とされ。がっちり刃で受け止める様にされています。大江先生の「刀を左斜にして受ける」の心持および武的配慮が見られません

 古伝神傳流秘書の太刀打之事11本目打込:「相懸又は打太刀待処へ遣方より請て打込み勝也」
 古伝の打込は、文章不十分で動作が出て来ません。打は相がかりでもその場に待ってもいい、“遣方より請て打込み勝”ですから間境でだが打込んで来るので、仕は請けて打込んで勝、を打の打込みを請けてしまってから打ち込むのか、請けると同時に打ち込むのか、ここは業呼称が打込ですから、打の真向打ち込みに仕も真向打ちで合わせ打込む「合し打ち」を研究したいと頃です。打は仕に打ち込まれて請け止めて完了では稽古不要です。

 曽田先生の附口伝太刀打之位打込一本:「双方真向に物打にて刀を合はし青眼に直り退く」

 曽田先生の業附口伝は打込で双方真向に斬り付けます。新陰流の「合し打ち」を思わせるもので、打太刀が仕太刀の真向に斬り下ろすのを仕太刀は同様に打太刀の真向に斬り下ろし勝。土佐の居合に組み込まれた柳生新陰流の影が垣間見れる処でしょう。

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2019年7月29日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書6請流

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
6、請流

 刀を腰に差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足、右足を(と)踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す、仕太刀は左足を右足の側面に出し刀を右頭上に上げ受け流し、左足を踏み替え右足を左足に向け打太刀の首を斬る、仕太刀は左足を左り斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み、退きて青眼になり次に移る。

 この請流しは古伝神傳秘書の太刀打之事には同じものはありません。大江先生の独創でしょう。河野先生のスクラップと大江先生の剣道手ほどきとの違いは赤字の部分位です。「左足を踏み変へ右足を左足に揃へて体を左へ向け打太刀の首を斬る」

 大江先生の奥居合立業の受け流しがこの組太刀の請流の元になって居るはずです。:奥居合立業の部受け流し:「(進行中左足を右足の前に踏出し身を変して請流す)左足を出すとき、其左足を右斜に踏み出し、中腰となり、刀の柄元を左膝頭の下として、刀を抜き直に其手を頭上に上げ、刀を斜とし、体を左斜め前より後へ捻る心持にて受け流し、左足を踏みしめ、右足を左足に揃へ、右拳を右肩上に頭上へ廻し下し、上体を稍や前に屈めると同時に真直に左斜を斬る、・・」
 大江先生の奥居合立業の受け流しの動作が英信流居合形には見られません。この奥居合の受け流しで、「刀の柄元を左膝頭の下として」の動作は何を意味するのか分かりません、理屈をつけて見ても意味があるものでは無さそうです。組太刀にない「体を左斜め前より後へ捻る心持ちにて受け流し」の部分は組太刀では簡単に「・・・刀を右頭上に上げ受け流し」です。大袈裟に反り身になって身を捻じる動作の有効性は感じられません。仮想的相手の演武はともすると派手な動きを作り出すのですが、受け流しは敵の打ち下す刀と請け太刀の角度や拍子が大切で、力任せにガチンと受けたのでは軽く受け流すことはできません。
 大きく反って体を捻じって受け流すならば「右拳を右肩上に頭上へ廻し下す」意識は不要でしょう。次いでですが、大江先生の組太刀は打太刀は斬り込んで外されたり、刺突の時「体を前に流す」動作を要求しています。仕太刀の斬り込みを容易にする打太刀の配慮かも知れませんが、居合の稽古では、斬り込んでも体を前に流す事は許されません、稽古の動作と異なる動作は無駄であり組太刀の緊迫感を著しく欠き品位を落とすばかりです。
 大日本居合道図譜の受流でも「・・仕の真向に斬り下すを、仕太刀は右足を左足の右後方に踏み込みつゝ上体を左に披き乍ら(上体を剣先と共に左に廻し乍ら後ろに反らせ敵刀を摺り落す)打太刀の刀を受流す。・・」と文章上はなって居ますが写真は体を開きながら摺り落す様で、悪く言えば刀の鍔元で受けるのではなく物打近くで請ける「逃げ流し」に近い動作でしょう。

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2019年7月28日 (日)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書5鍔留

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
5、鍔留

 互に青眼のまゝ小さく五歩を左足より退き、打太刀は中段となり仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出合ひ乍ら双方上段となり、間合に至りて相打ちとなりて刀を合はす、仕太刀、打太刀、鍔元を押し合ひ双方右足を後へ退き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直ちに上段より右足を踏み込み仕太刀の肩口より切り下す、仕太刀は左足を十分退き体を後方に引きて刀をかわし上段となり、空を打たせ上段より頭を斬る、打太刀は二歩出で、仕太刀は二歩退き、青眼となり互に小さく五歩退き血振り刀を納む。(打太刀は仕太刀を打つ時は中腰となり上体を前に流す)

大江先生の剣道手ほどきの鍔留の手附の内容に対し、河野先生の鍔留は抜けが見られます。:「互に青眼のまゝ小さく、五歩を左足より引き、打太刀は中段となり、仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出で、打太刀は右足を左足に引き上段に冠り真直に打下し、仕太刀は右足を左足へ引き上段となり、右足を出して打下して互に刀合す仕打鍔元を押合ひ双方右足を後へ引き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直に上段より右足を踏み込み仕太刀の左向脛を切る、仕太刀は左足を充分引き上段となり空を打たせ上段より頭を斬る、打は二歩出で、仕は二歩退り青眼となり互に小さく五歩退り、血振ひ刀を納む(打太刀は仕太刀の左膝を打つときは、中腰となり上体を前に流す)

 河野先生の一刀目は、どの様に打ち込んで相打ちなのか判りません。大江先生は双方上段から真直に打ち下す真向打ち合いですから、ここで合し打ちの勝負がつくわけですが、双方刃を返して請け太刀になるか、高い位置で鍔留となって鍔競り合いの押し合いとなるのでしょう。或は打が真向に打込んで来るのを仕は同様に真直に打たずに請け太刀となって摺り込み鍔止めとなる。
 車に別れた場合の打込む部位は、仕の左肩、左腰、左膝、左脛でしょう。大江先生は左向脛を指定しています。河野先生は肩口です、左肩口です。従って大江先生は敢えて上体を前に倒さなくともよいのに「上体を前に流す」と添え書きしています。河野先生の場合は肩口ですから外されれば刀が流れやや前がかりになります。子供向けの稽古形ですから打の体を屈めて仕の打込みを容易にさせている様です。

 この業は古伝神傳流秘書の太刀打之事五本目月影が相当します。:「打太刀冠り待つ所へ遣方右の脇に切先を下げて構へ行て打太刀八相に打つを切先を上て真甲へ上て突付て留め互に押相て別れ両方共車に取り相手打つをはづす上へ冠り打込み勝」
 古伝は打が八相に左面に斬り込んで来るのを右下段の構えから切先を上げ相手の喉を突く様にして摺り上げて鍔競り合いに持ち込んでいます。意味不明な真向打ち合いより稽古としては良い動作でしょう。

 曽田先生の業附口伝は古伝に忠実ですが参考の為に月影:「是も同じく抜て居る也相掛りにても敵待かけても苦からず敵八相にかたきて待ちかくる也敵八相に打処を出合て互に押合又互に開き敵打込む処を我左足を引き立ち直りて打込み勝也」
 此の業付口伝のは「月影仕下打八」と添え書きが施されていますから仕は下段、打は八相の構えとなります。

 第19代福井春政先生の月影:「仕下段、打八相 八相に構へて互に前進、間合を取り(この場合稍々間合を近くとる)、打太刀八相より仕太刀の頭上に打込み来るを仕太刀之に応じて同じく打合はせ拳が行き合ふ瞬間鍔元にて押合ひ更に双方右足を大きく退きて稍々左半身に体を開き剣尖を低くして脇構へとなり続いて打太刀は右足を一歩踏込み上段より仕太刀の左股に斬り込むを仕太刀充分に左足を退きて空を打たせ、立直りて右足を一歩踏出し上段より打太刀の頭上に打下す。・・」
 せっかく仕は下段、打はハ相に構えていても双方八相に構えて前進し上段に構え直して頭上に打込んでいます。是は竹刀剣道の統一された運剣ですが批判の有る所です、竹刀剣道では形は重要視している様に言っていますが疑問です。ついでに脇構からの打込みも一旦上段に振り冠ってから打ち込むのですがこれも疑問です。武的演舞ならばそれも良しでしょう。
 

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2019年7月27日 (土)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書4独妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
4、独妙剣

 打太刀は其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩退りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で右足を踏出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と、追足にて一歩づゝ退き刀を青眼とす。打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺込みて突きを施し上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜に変じ上段に取り、右足を踏み替へて打太刀の首を斬る、互に青眼となりて打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退き互に構ゆ。

 河野居合はこの頃、独りよがりでこれだけ読んでもどうしたらよいか分かりません。三本目の如くとは「仕太刀は右足を踏み出し打太刀の左面を斬る、打太刀は左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす。仕太刀は左足を出し打太刀の右面を斬る打太刀は右足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。仕太刀は右足を出して打太刀の左面を再び斬る打太刀は左足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。」この三度の打ち合わせを、実技で教える場合はともかく文章で省かれては困ります。
 次に「双方右足前で刀を打ち合わせて居ますから、後足の左足から一歩下がり右足を追足し、一足一刀の間に取って切先を合わせ互に青眼となる」。
 「打太刀は右足を一歩踏み込み上体を倒し刀刃を左に向け仕太刀の刀を摺り込んで仕太刀の水月を突く」。「仕太刀は左足を左斜め前に変じ上段となり、右足を左足と踏み変えて打太刀の首を斬る」河野先生の突きは上体を倒して体が伸びた突きですが、刺突の部位の指定がありません。打は低い態勢ですが仕は青眼の直立です、部位は水月にしましたが咽から水月あたり、刃は下向きなのか左右なのかの指定もありません。仕の刀を摺り込むとだけです。仕打共に青眼ですから双方相手の喉に切先をつけた中正眼とします。打は仕の刀の狙いを外す様に摺り込むとすれば刃を左に向けて刀の反りを使って摺り込む様に突くのでしょう。


 河野先生の独妙剣の手附は大江先生の剣道手ほどき其の儘の文章ですから、大江先生の居合の不備はおおらかさと捉えて自得する事になります。
 大江先生の剣道手ほどきに依る英信流居合の型四本目独妙剣:「打太刀は、其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩下りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で、右足を踏み出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ、左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と追い足にて一歩づゝ退き、刀を青眼とす、打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺り込みて突きを施し、上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜へ変じ上段に取り、右足を踏み変えて打太刀の首を斬る、互に青眼となり、打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退り、互に構へるなり。」

 曽田先生の業附口伝によるこの業はありません、当然の事ですが古伝神傳流秘書太刀打之事にも此の独妙剣に相当する業はありません。曽田先生は「之は請流のことを記セリ」と解説していますが、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事請流の雰囲気とイメージが合いません。太刀打之事請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込を打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留め相手又打たんと冠るを直に其侭面へ突込み相手八相に払ふをしたがって上へ取り右足にて真甲へ勝」

 河野先生の大日本居合道図譜の独妙剣:「打太刀、仕太刀相八相より前進し間に至るや、絶妙剣と同理合ひにて、二度斬結び三度目に仕太刀は打太刀の退く所を其の左面に斬込む、打太刀は二刀目と同様之を受け、互に左足を退きて十分なる同等の気位にて中段となる。打太刀は機を見て右足左足と追足にて、剣を左に傾け摺り込みて仕太刀の胸部を刺突す。仕太刀は左足を左に踏出し(右足の左斜前)体を右に披きつゝ手元を上げて敵刀を捲き返す。(敵剣を己が右斜め下に裏鎬にて摺り落す)仕太刀は、打太刀の刀を右斜め下に摺落しながら右足を左足の方向に退きつゝ上段となるや右足を踏込みて打太刀の首より肩にかけて斬下す。・・」
 大正7年1918年から昭和17年1942年まで四半世紀掛けてこの独妙剣が成立しました。相変わらず打ち合う部位が判らず真向を打ち合って見たり、打が刺突の際上体を過度に倒して延び切って見たり、仕は摺り込んで来る打の刀を摺り落す業を研究せずに左に避けているばかりの獨妙剣を指導して居たり、打の突きは刃を下にして水月を突くなどと云っためちゃくちゃが横行しています。
 まず指定された事を其の儘動作に転換してその意義を悟ってより優れた動作を研究したり、変化に応ずる工夫を心がけるべきものでしょう。組太刀を奉納演武や演武会の出し物として演舞する事に稽古時間を費やすなど無駄な上に情けないことです。

 

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2019年7月26日 (金)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の3業書3絶妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流形
23の3業書
3、絶妙剣

 打太刀は其まゝにて左足を出して体を斜向きに八相となり、仕太刀は青眼より左足を出して八相となる、仕太刀は八相のまま右より五歩交互に進み出で、同体にて右足を踏み出して右面を斬る、打太刀は八相より左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす、仕太刀は左足を出し打太刀は右足を退きて前の如く、打合はせ、打太刀は左足を退きて上段構となりて斬撃の意を示す、是と同時に仕太刀は右足を出して体を右半身とし中腰となりて左甲手を斬る、静かに青眼となりつゝ打太刀は三歩出で仕太刀は三歩退る。以下次号(絶妙剣はここまで、以下とは次の4、独妙剣ミツヒラ)

 大江先生の絶妙剣は河野先生の絶妙剣と同じです。

 この、絶妙剣は古伝神傳流秘書太刀打之事の四本目請入の業と思われます(請込共云う 曽田メモ):「前の如く打合相手八相に打つを前の如く留め又相手より真甲を打を体を右へ開きひぢを切先にて留勝」
「前の如く打合」とは、古伝太刀打之事3本目請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込むを打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留相手又打たんと冠るを・・」

 河野先生は仕太刀が進んで打太刀の右面に打ち込み打太刀は左足を引いて之を受け、古伝は仕太刀が右面に打ち込んで来るのを左足を退いて八相に請けています。
 次は河野先生は、仕太刀が左足を踏み込んで打太刀の左面に打ち込み、打は右足を引いて仕の打ち込みを受けています。古伝は右足を引いて裏から仕太刀の右面に打ち込み仕太刀は之を左足を踏み込んで受けています。
 次は河野先生は、打太刀が左足を引いて上段に構える処右足を踏み込んで体を半身にし中腰となって打の上段となった左甲手に斬り付けます。古伝は左足を引いて上段に構える処仕太刀は右足を右斜め前に踏み込んで体を右半身として打の肘に斬り付けます。

 曽田先生に依る業附口伝の太刀打之位4本目請込(請入):「是も同じく相懸りにても敵待かけてもにかからず請流の如く八相にかたぎスカスカト行て真向へ打込也敵十文字に請て請流しの如く裏より八相に打其処を我も左の足を出し請流の如く止むる也敵其時カムリて表より討たんとする所を其侭左の肘へ太刀をすける也」

 曽田先生の業附口伝少々抜けがあるのですが、第19代福井春政先生の業付口伝を修正されたような請込(請入):「相ひ八相より相掛りにてスカスカと進み仕太刀表より打太刀の面を撃つ、打太刀は之れを表十文字に請く。仕太刀更に左足を一歩進め八相より裏に打込むを打太刀右足を退き裏にて請け更に左足を退きて上段に振り冠るところを仕太刀素早く右足を大きく一歩斜め右前に踏込み体を右に開き打太刀の左上膊部を下より掬ひ切りに打つなり。静かに刀を合せ正位に復し互に五歩退きて血振ひ納刀をなす」
 この19代福井先生の請込は、仕太刀が一本目真向、二本目八相から右面に打込んでいます、古伝や曽田先生の業附口伝は一刀目は仕太刀の右面打ち込み、二刀目は打太刀が下がりながら仕太刀の右面に打込んでいます。福井先生はこの業を大江先生の絶妙剣として指導したのでしょう。打太刀が上段に振り冠るところを、右足を右斜め前に大きく踏込んで体を右に開いて打の左上膊部に掬い切りしています。

 河野先生の大日本居合道図譜による絶妙剣は大江先生の居合道形で、第19代福井先生の請込とは似ているのですが異なります。:「打太刀仕太刀共互に足を踏みかへて左足を前に出し八相に構ゆ。打太刀仕太刀互に左足より前進し間に至るや打太刀は上段となりて右足を踏込みて仕の左面を斬込むを機先を制して仕太刀上段となるや右足を踏込みて打の左面に斬下し互に相打となり物打の刃部にて刀を合はす。
 打太刀は仕太刀の気に圧せられて右足を退かんとするを、仕太刀は之に乗じて、左足を踏込みて敵の右面に斬込むをを、打太刀は右足を退き上段より仕の太刀を受ける(斬込む様な様な要領で)。
 打太刀は左足を退きて仕の真向を斬下さんとして上段となるを、仕太刀はすかさず右足を右前方(打の左斜め側面)に踏込み左足を大きく其の後方に進めて踏みかゆるや、上段より打太刀の左腕上膊部に下より掬ひ上げる様に斬込みて勝つ。・・」

 河野先生の大日本居合道図譜の動作は一刀目の切りつけが福井先生と異なります。福井先生は真向打ちで打は之を十文字受けしています。福井先生は古伝の太刀打之位の改変、河野先生は大江先生の居合道形(英信流形)の改変とでも言ったらいいでしょう。
 どこぞの地区の大江先生の居合道形絶妙剣の一本目を双方真向打ちしています。一刀流の切落や新陰流の合し打ちの真似の様ですが、ここは右面に打ち込み受ける、あるいは福井先生の真向打ちを十文字受けすべきでしょう。真向打ちに応じて合し打ちが決まればこの業は其処で終了です。

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2019年7月25日 (木)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書2拳取

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
2、拳取

 一本目と同じく虎走りに出で、膝にて抜き合わせ仕太刀は左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に引き下げる、打太刀は其のまま上体を稍や前に出し仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て刀尖を胸につけ残心を示す仕太刀は一歩退き打太刀は一歩出でて青眼か前となる(仕太刀は五歩青眼にて退く、打太刀は其まゝにて位置を占む)

 大江先生の剣道手ほどきによる拳取:「一本目と同じく、虎走りにて出で、膝にて抜き合せ、仕太刀は、左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に下げる、打太刀は其まゝにて上体を稍や前に出し、仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て、刀尖を胸に着け、残心を示す、仕太刀は一歩退り、打太刀は一歩出でて、青眼構となる、(仕太刀は五歩青眼にて退り打太刀は其まゝにて位置を占む)

 河野先生の文章と大江先生の文章はそっくり同じです。此の業も古伝神傳流秘書太刀打打之事二本目附入の業になります。大江先生の一本目出合、二本目拳取共に古伝を引用しています。
 古伝の附入:「前の通り抜合せ相手後へ引かむとするを附入左の手にて拳を取る右の足なれども拳を取る時は左の足也」
 古伝と大江先生、河野先生との違いは、古伝は「抜合せ相手後へ引かむとするを附入り左の手にて拳を取る」と相手が抜き付けを留められた圧せられたので一旦下がって建て直す隙に附け込む武術の根幹を大江先生は置き去りにして、仕太刀に一方的に攻め込ませている処でしょう。

 穂岐山先生の直弟子野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考による拳取:「仕・左足を踏みだすと同時に両足の前後も同時踏み換え、而して左手にて敵の右手首を取り稍手前に引く・・打・仕太刀より手首を取られ胸に刀を擬せらる・・」であって、仕の一方的な攻撃です、打が退くそぶりもありません。

 河野先生の大日本居合道図譜の拳取:「・・打太刀は圧せられて後に退かんとするを仕太刀はすかさず左足を打太刀の右足の斜め右前に踏込み右足を大きく後ろに、体を右に披くや打太刀の右手首を左手にて上より逆に握り(中指は手首関節部に、拇指は拳中に)左下方に引きて敵の体勢を右に崩し右手の自由を奪ひ右手の刀を刃を外に向けて腰部に把り剣先を打太刀の胸部につくる。・・」
 大江居合の修正をされて、打が退かんとするのに附けこんでいます。打の右手の制し方はここまで複雑にする意味はないので、右手首を握って、右下に相手を崩せば充分足ります。武術はいたずらに複雑な業を用いる必要は無く最小限の方法で制してしまう事を学ぶべきです。

 河野先生の修正を助けた資料は、曽田先生に依る業附口伝附込と思われます。:「・・敵のひかんとする処を我左の足を一足付込左の手にて敵の右の手首を取る此の時は左下に引きて敵の体勢を崩す心持にてなすべし・・」
 この業附口伝は昭和の10年頃には曽田先生から教えを受けた土佐の方々によって稽古されていた様で、第19代福井春政先生も引用されています。
 嶋専吉先生の無雙直傳英信流居合術形乾の太刀打之位二本目附込:「・・打太刀の退かんとするところを仕太刀跳込むが如く左足を相手の右側に深く一歩踏込み右足をその後方に踏み添へて体を開き、相手の右手首を左手にて逆に捉へ之れを己が左下方に引きて打太刀の水月に擬し之れを刺突の姿勢となる・・」
 付け足されたのが赤字の部分です。福井春政先生は柔術の先生だったとか聞きますがそれが余分な業を持ち込んでしまう原因となるのでしょう。河野先生は福井先生に指導を受けたかもしれません。

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2019年7月24日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書1出合

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術
英信流居合形
23の3業書
1、出合

 打太刀は柄に手を掛る。仕太刀も打太刀の如く柄に手を掛けて双方体を前方に少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出で、右足を出したる時膝の處にて打太刀は請け仕太刀は抜打にてを合はす、仕太刀は直ちに右足にて一歩摺り込み上段より真面に打込む、打太刀は左足より右足と追い足にて退き刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心を示す。是より互に後に五歩づゝ下り、元の位置に復し血振り刀を納む。

 大江先生の剣道手ほどきによる出合:「打太刀は柄に手を掛ける、仕太刀は打太刀の如く、柄に手を掛け、双方体を前方少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出て、右足を出したるとき、膝の處にて打は請、仕は抜打にてを合す、仕太刀は直ちに右足左足と一歩摺り込みて上段より真面に打ち込む、打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退り、打太刀は二歩出て、中段の構となり、残心を示す、之れより互に後へ五歩づゝ下り元の位置に帰り血拭ひ刀を納む。

 河野先生の出合も大江先生の出合も概略変わらないのですが、気になる箇所は赤字の傍線部分でしょう。一つは、虎走りに間を詰める動作です。虎でもネコでも走る動作は水の流れる様な動きです。何処の道場でも前傾がきつく足をばたつかせ品など何処にも見いだせません。大江先生の独創によるのですが、歩兵を死地に追い立てる訓練を想い描いてしまい大江組太刀は何処かおかしいものと思われます。
 次に虎走りに間を詰め同時に斬り込むようですが、仕は抜打に打の膝に斬り込み。打は抜き請けに受けると読めます。
 河野先生はこの時双方刃を合わすのですが、大江先生は刀を合わすと大まかです。
 次の仕の打込で河野先生は抜打した右足前でしょう、その右足を一歩摺り込んで真面に打ち込んでいます。大江先生は右足左足と一歩摺り込んで真面に打ち込む。勝負あって「仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心」であれば、河野先生の仕の打ち込む際の「右足にて一歩摺り込み」はおかしい、大江先生の「右足左足と一歩摺り込み」も、足裁きとしては前進しずらい。

 河野先生の大日本居合道図譜の出合では:「互に間合ひに接するや、打太刀は仕太刀の脛に斬込むを仕太刀機先を制して同様に斬付け、膝の所にて刃を合わす。
註-右足を踏込むや腰を十分左に捻りて斬込む。打太刀は仕太刀に圧せられて後に退かんとするを、仕太刀すかさず之に乗じて、踏込みて其真向より敵刀諸共斬下して勝つ。
註‐打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る。註-仕太刀は左足を継足して諸手上段となるや右足を一歩摺り込みて打太刀の真向に斬り下す。・・・」と訂正されています。

 足捌きは、稽古の結果でしょう継足捌と決めたのでしょう。
 然しここでは、打が仕に圧せられて、仕の真向打込みを右足を左足に引付て上段になろうとする処、仕の打込みが早く左足を引いて刃を左に物打下に左手を添え刃を上向けて前額頭上に受けずに、刃を右に柄を左にして無理やり受けたのでしょう。何も考えずに師匠に言われたまま、英信流の人も、神伝流の人も真面目にやっています。
 仕に圧せられ、請け止められた刀を摺り上げられるにしろ、打ち返さんと上段に冠らんとするにしろ切先は左にある方が容易です。是も居合道形を演武会の見世物ならばそんな処でやっていればいいでしょう。打太刀は仕太刀に圧せられて下って勝口を得ようとするならば如何様に太刀を捌くか工夫する良い稽古業です。

 古伝神傳流秘書の太刀打ちの事一本目出合では:「相懸りにかゝり相手より下へ抜付るを抜合せ 留て打込相手請る右足なり」と是だけです。後は自分で考えろと云うのでしょう。
 
 古伝の出合の江戸末期の手附を曽田先生は業附口伝として実兄土居亀江の口述と田口先生(不明)から五藤正亮先生、谷村樵夫先生の教えを書かれています。
 古伝と略同じと云えますが、随所に古伝の心持ちと異なる心持ちが有るので、私は第九代林六太夫守政先生の手附とは思えません。江戸末期までに変わって来たか、曽田先生の独創もありそうです。
業付口伝太刀打之位(古伝は太刀打之事であり組太刀は仕組だったようです)一本目出合:「是は互に刀を鞘に納めて相懸りにてスカスカト行、場合にて右の足を出しさかさまに抜き合せ敵引く処を付込みて左足にてかむり右足にて討也、此の時敵一歩退き頭上にて十文字に請け止むる也、互に中段となり我二歩退き敵二歩進み更めて五歩ずつ退く也納刀」
 古伝の「相懸りにかゝり相手下より抜付けるを抜き合わせ 留めて」の心持が何処かへ行ってしまい、双方抜き合わせの相打ちになってしまっています。

 昭和17年1942年戦時中にもかかわらず、嶋専吉という人が土佐を訪れ第19代福井春政先生に太刀打之位を稽古をつけてもらった「無雙直傳英信流居合術形乾」という小冊子を残されています。
その出合:「帯刀のまゝ柄を把りつゝ相掛りにてスカスカと前進(「互に三歩前進」とせるもあり)間合にて右の足を踏出すと共に互に相手の右脚に斬付くる心にて剣尖を下方に抜き合はす。続いて打太刀退くところを仕太刀附け込み左足を右足に進めて振り冠り更に右足を一歩踏込みて上段より打太刀の面を打つ、このとき打太刀は一歩体を退き(右足を軽く退き更に左足を退き)仕太刀の刀を頭上にて剣尖を右方に十文字に請け止むるなり。次で互に中段となり静かに刀を合はせつゝ打太刀小幅に二歩前進、仕太刀二歩後退して中央の位置に就き更めて各五歩(退歩歩幅狭きため五歩となる)退き血振日の上、刀を鞘に納む。」
 足捌きも明瞭になりました。打の受け太刀は「剣尖を右方」とされています。河野流は第19代福井春政先生譲りかも知れません。 

 

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2019年7月23日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の2発声

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形
23の2発声

 発声は相互の打合せ、或は受け又は打込みたる時、其業毎にイー、エー、と声を掛け合ふなり

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合之型2、発声:「発声は相互の打合せ、或は受け又は打ちたるとき、其業毎にイーエーと長く引きて声を掛け合ふなり。」
 河野先生の「・・と声を掛け合うなり」は大江先生の場合「・・と長く引きて声を掛け合ふなり」とされるのですが抜けています。このスクラップは大江先生述とされていますが堀田捨次郎先生の記述で大江先生の監修だろうと推察します。このスクラップは曽田先生が大阪八重垣会河野稔先生から譲り受けたのか何かで手に入れたもので、その後昭和8年1933年には無雙直伝英信流居合術全に記載されています。昭和13年1938年の無雙直伝英信流居合道も同様に「・・と長く引きて・・」が抜けています。

 大日本居合道図譜昭和17年1942年では「発声はイーエイと互に斬込みたる時掛け合ふ。(イーはヤアにてもよし)(斬込む瞬前にイーとかけ、斬込みたる瞬間にエイとかける)」
 大江先生の独創による英信流居合の型ですから大江先生の「イーエー」であるべきですが、どうしたわけか河野先生は「イーエイ」に変えてしまっています。この頃河野先生は大阪八重垣会幹事でした、大江先生の独創になるものをいじってしまい教本として発行する事の良し悪しは当時のどなたも異論を発して居ない様です。大江先生は昭和2年1927年には他界されていますし、穂岐山先生も昭和10年1935年には亡くなられています。19代福井春政先生は大江先生の居合道之型より古伝の太刀打之位11本を指導されていた形跡もあります。

 古伝神傳流秘書による太刀打之事には発声についての指定はありません。寧ろ居合の有り様からは無言の方が好ましそうです。大江先生が小栗流か他所で聞き覚えた発声を参考に考え出された発声でしょう。此の発声は打太刀も仕太刀も発声するのでしょうか何処にも書かれていません。適当に仕が「イー」とやり打が「エー」とやる。打の「エー」は間が抜けるから「エイ」とする。
 或いは仕が「イーエー」とやる。土佐の居合の組太刀の太刀打之事も太刀打之位も、詰合もさして高度の術を要さない初心者向けのものですから、木刀同士を打ち合うばかりです。
 居合の裏若しくは無刀に至るものとしては、大小詰・大小立詰・大剣取・小太刀之位が剣術としては高度です。それらは矢鱈掛け声に拘るものではありません。大江先生の居合道形を真剣で演武会で演舞しているもののほとんどが腰の引けた情けない打ち合いですし、木刀では是また矢鱈バシバシ力んで打ち合っています。何処か変です。 

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2019年7月22日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の1作法

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術(其十一)
英信流居合形
大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔
23の1大江正治先生述
作法

 居合の時の同要領にて、神殿に向ひ立礼をなし、後互に十尺位ひの所に対向し(此時刀は左手に)拇指にて鍔を支へ其の握りを腰部に着け四十五度位ひの傾斜に刀を下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、更に約五尺程の距離に進みて向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち替へ前に五寸程離して置き互に両手を板の間に着け礼を行ふ。
 次に一応両手を膝の上に置き、右手にて刀を持ち腰に差し、再び両手を膝の上に置き、更に左手にて鞘を握り拇指を鍔に添へ右手を膝の上に置きたるまゝ右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す。直立したる姿勢にて後に退く事左足より互に五歩とす。
 止まる時は、右足を前に左足を稍や五寸程退きて踏む、此の構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。

 大江正治述と有りますが大江正路の誤植でしょう。
 このスクラップの出処は大阪八重垣会の会誌か何かでしょうが不明です。縦13文字で組まれています。それを切り取って曽田本その2に張り付けられたものです。
 内容は、この作法に見られる記述は河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の冊子の26~30ページンのものとそっくり同じです。
 河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では「第五節居合形之部 第1、無雙直傳英信流居合之形 當流第十七代宗家範士大江正路先生述」から始まり、「其1、作法」略同じ文章です。部分的には例えば「・・右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す・・」が「・・右足を前に踏み込み其の足を左足に退き揃へて直立す・・」と変えています。

 大日本居合道図譜では河野流が頭を持ち上げてしまい独創に依る幾つかの問題を残しています。
 表題で大江正路先生の独創された組太刀7本を「第七章 無雙直伝英信流居合道形太刀打の位)」としてしまい、古伝神傳流秘書に云う11本の組太刀である「太刀打之事」及び曽田先生による五藤正亮先生・谷村樵夫先生の業附口伝の古伝「太刀打之位」と 混同させてしまいました。

 組太刀の構えについては、高野佐三郎先生の「剣道」を踏襲されてしまい、当時の帝国剣道形をそれとしています。礼法については以下の通りです。:「相互の礼-道場の末座にて約五尺を隔てゝ対座す。(註 正座の姿勢と同様に端坐して刀は右脇に刃を内に向け鍔を膝の線に置く)次に礼をなす。
 神傳に礼-居合と同要領にて刀を左手に提げて立ち、静かに道場の中央に進み互に十尺を隔てゝ神前に向ひ右手に刀を取替えて神坐に最敬礼を行ふ。
 坐礼-立礼の所にて向ひ合ひて黙礼し静かに進み約五尺を隔てゝ体座す。刀を前に置き居合の要領にて坐礼をなす。
 帯刀-帯刀す。次に左手の拇指を鍔にかけて鞘を握り右足を踏み込みて立ち上がり其足を左足に退きつけて直立し、互に左足より五歩後進して対向す。之より業に移る。」
 河野先生は時節柄大日本帝国剣道形の構えの形に合わせざるを得なかったのは止むおえなかったかも知れませんが、大江先生および河野先生に依って、第9代林六太夫守政が土佐に持ち込んだ無雙神傳英信流居合兵法の多くが失伝する事になったのは否定できないでしょう。

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合の型 1、作法:「刀は左手に鞘を持ち、親指にて鍔を支へ、其握りを腰部に着け、四十五度の傾斜に下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、互に十尺程の距離を取り対向し、一礼を行ひ、更に五尺程の距離に進み、神殿に向ひ黙礼をなす、更に向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち変へ、前に五寸程離して置き、互に両手を板の間に着けて礼を行ふ、一応両手を膝上に置き、右手に刀を持ち、腰に差し、再び両手を膝上に置き、更に左手にて鞘を握り、拇指を鍔に添へ、右手を膝上に置きたるまゝ、右足を前に出し、その足を左足に引き揃へて、直立す、直立したる姿勢にて後へ退くこと左足より互に五歩とす、止まる時は右足を前に左足は稍や五寸程引き踏む、此構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。」

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2019年7月21日 (日)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の10業と業との間

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の10業と業との間につきて

 答、総ての業の間には必ず一動毎に少しの間を置き決して一連に行ふものに之無く候、此一連に行ふは最も不可にして少しの間と云ふものは時間的のものにては無く「一動の終りにぐっと確かなる力の締りを」必要と致し候、而して次の動作は新たなる力と気合を以て行ふものに候。
 此の少しの間と云ふは、初心の内は十分落付きて業と業との間に区切りを作り、熟練するに連れて此の間をつめて然して此の業と業との間に力の締りある如く行ふを可と致し候。

 穂岐山先生の仰る「業」は現代居合の「技」かも知れません。是も河野先生の質問の状況が無いので判断に迷います。業とは例えば正座の部ならば一本目前と二本目右の様に異なる想定による業を差します。
 業は一本目前の場合、抜き付けの技、と振り冠りの技、打ち下しの技と云う様な使われ方をしています。
 業と技は広辞苑ではどちらも「すること、しわざ、おこない、つとめてしてする事、職としてすること、しごと」「しかた、方法、技術、芸」「こと、有様、次第」「わざわい、たたり、」「武道、相撲等で、相手に仕掛ける一定の型の動作」で区別が不明瞭です。
 藤堂明保先生の学研漢和辞典では、業は「ぎざぎざとつかえて、苦労する仕事、生活のため苦労してする仕事、すらりとはいかない仕事」。技は「技巧、演技、わざ=手足を使ってほどこす細かい細工またその腕前、たくみ=わざがじょうずである、器用な」などです。

 此処での業とは、一本目と二本目では無く一本目の動作の技法についての質問に穂岐山先生は答えられたものだろうと考えます。現代での統一的な言い方での「技」とします。
 そうであれば、抜き付けの瞬間でも、柄への手懸かり、抜き付ける瞬前、抜き付けの終り。などで「一動毎に少しの間を置き」と云う考えはいかがなものかと首を捻ってしまいます。此処にも対敵意識の乏しい形優先の指導が行われたのだろうと思ってしまいます。

 この答えに対し河野先生は無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年では居合修養の心得で「居合修養の心構へとしては、丹田に気を籠めるに従がい、極めて静かなるところより刀を抜き出し、其の切先の抜き放れ際の一瞬に、敵を両断するの気を最も必要とし、抜刀より納刀迄毫も気の弛み無く、業を大きく、納刀及び納刀後は十分の残心あるべきを要とす。而して錬磨の功を積み業の間を詰める様に努め、総て形に捉わるゝ事なく、一進一退敵によって転化し、只適正なる手の裡により刃筋正しく、充実せる真剣の気力を以て、真に敵を両断するの心持肝要なり。」

 そして、大日本居合道図譜昭和17年1942年では「初心の間は十分に落付きて業を大きく伸び伸びとユックリ行ひ、業と業との間に区切りを作りてなし決して素早く一連に行はぬ事。総ての業は其の一動毎に十分なる気魄を必要とす。即ち「一動の終毎にグット確かなる気力の締り」ある事を最も肝要とし而して次の動作は更に新たなる力と気合を以て行ふ事。然して錬磨の功を積み錬熟するに連れ内に凛々たる気魄を養なひ業の間をつめるよう心懸くる事。」と括られています。

 講習会などでも、語られる処ですが、演武会などで拝見する熟練者を自負される方達は皆さん、業をゆっくり大きく一動毎に間を取っています、何時まで経っても初心者の心を持ち続けるのは好ましいにしても、初心の頃に習い覚えた対敵を思い描かない形ばかりの動作を抜けられないのも何か誤った考えに引きずられている様です。

 河野先生の著書『居合道真諦」の大日本居合道無雙直伝英信流嘆異録八項目に生気の無い居合の事:「・・居合の成り立ちが敵に対する刀法である限り、敵の心魂に貫通する(その刀に触るるすべての者に)無限の迫力のある事が第一条件で、しかもその業に丸味があり、侵すべからざる気の位ひを備へた生き活きと躍動するもので無ければ真の居合とは申しがたい。・・」

 ついでに宮本武蔵の五輪書から「上手のする事は緩々と見へて、間のぬけざる所なり。諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざる物也。此たとへをもって、道の理をしるべし。殊に兵法の道において、はやきといふ事悪しし。・・」
 一人演武の居合は勿論のことですが、太刀打や詰合など組太刀では、相方を特定して動作の順番を覚えてしまうと矢鱈早くちょんちょんと演じるのを見ます。ビデオ撮りしてスローで見てみますとそのポイントとなる動作が省略されてしまい形を約束事として早く強いばかりで形に込められた術が消えてしまっています。何百回稽古しても武術の稽古としては意味のないものです。如何に速く強く演じたとしても間が抜けてしまえばこれも何をしている事やら。

 河野先生の質問に穂岐山先生が答えられた十項目を終ります。次回もスクラップで英信流居合形になります。

 

 

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2019年7月20日 (土)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の9颪の柄當につきて

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の9颪の柄当につきて

 答、颪の場合の柄当は、敵が吾が柄を取らんとするを其前かゞみとなりたる敵の顔面中心(人中)を柄頭にて突くものに候。

  河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の立膝の部颪は:「正面より左向に立膝に座し、例に依り左手を鯉口に掛け、鯉口を握りたるまゝ拇指を鍔にかけ右手を柄に掛け、右足を踏み込みつゝ柄頭にて敵の顔面を一撃し、・・・」で顔面の有効な部位を指定していません。

  大江居合の剣道手ほどきの颪:「左向き腰を浮めて右斜に向き、柄止め、直に左へ足を摺り込み、其踵へ臀部を乗せ右斜向体となり、斜刀にて筋変へに打ち・・(敵の眼を欛にて打つ進んで胸を斬り更に頭上を斬る)」

 古伝神傳流秘書英信流居合之事では山下風:「右へ振り向き右の足と右の手を柄と一所にて打倒し抜付後同前但し足は右足也浮雲と足は相違也」
 これは顔面など打たずに右足を踏み込むや、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち倒し、抜き付けるものです。
 大江居合は、「柄止め」だそうです。処が「敵の眼を欛にて打つ」です。
 穂岐山先生は大江先生に中学時代に習いその後も稽古されていた筈です。どこで颪の柄当てが敵の眼から人中に変わったのか不思議なものです。河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では:「・・右側の敵が、吾が刀の柄を取らんとすると、吾れ柄を左に逃がして敵手を外づし、直ちに柄頭を以て敵の顔面人中に当て・・」に変わっています。

 夢想神傳流の祖とされる中山博道先生の居合では:「意義-右側面に座せる敵が抜刀せんとするを取り敢えず刀柄を以て其の手背を強打しヒルム所を抜刀して斬りつけ、其の殪るゝを再び正面より胴部に向ひ斬り下ろす業である。動作-正面に対し左向に箕座す。左膝を軸として約九十度右に向くと同時に刀に「反り」を打たせつゝ左手を以って刀を少しく前上方に出し、右足を約一歩前方に踏み着くると同時に鍔を以って敵の手を打つ・・」 古伝の雰囲気は夢想神傳流に引き継がれた様です。但し古伝の「右の足と右の手を柄と一所にて打倒し」は満足に引き継がれていない様です、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち、同時に右足を踏み込んで相手の右膝を踏み付けるのが古伝の教えです。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の山下風:「正面より左向き居合膝に座し、例により左手を鯉口に執り腰を伸しつつ右膝を立て、体を右へ廻し正面へ向くなり右足を引付けると同時に柄を右胸上部へ引上げ、右手を柄に逆手に掛け右足踏出すと共に、鍔にて対手の左横顔を打ち、直右足を引き寄せる。・・」此れも古伝とは雰囲気は似ていますが右足の運びが違う様です。相手の横顔を鍔打ちする独特の習いです。

 颪の古伝山下風の本来の動作は江戸末期には失伝してしまったのでしょう。わずかに残るのは、敵が我が刀の柄を取りに来るのを外して敵を制する、又は敵が抜かんとする右手を柄にて打ち据え敵を制する、のでいずれでもありでしょう。むしろ、「後同前」の引き倒す動作が理に叶っているか先師の教えで充分か疑問です。古伝の手附も意味不明な書き込みです。

 

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2019年7月19日 (金)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の8八重垣

曽田本その2を読み解く
22スクラップ居合の疑義につきての解説
22の8八重垣の動作につきて

 答、右足にて水平に抜きつけ「左足を前に踏み出し膝を床に落ち付く」、(此場合の動作は一動にて行ひ、此動作中に刀を諸手上段に振り冠る)、故にすでに打ち下す時は右膝は床につき居りて納め刀は全体勢(前体勢の誤植?)のまゝにてなし、次に左足を右足の後に大きく踏み開き、(此時左足の動作始まると同時に右膝は床より浮かす)半身となりて脛囲に移る様致し候。

 河野先生の質問が不明ですから、八重垣の何を聞きたかったのでしょう。穂岐山先生の答えを反映しているのは昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道にあるかもしれません。
 無雙直傳英信流居合道は業の動作を順番に解説し次に注意すべき事が組み込まれ、最後にその業の「意義」として何のためにその業技法の動作を行うのかが掲載されています。この八重垣の意義は:「吾が正面に対座せる敵の首(又は顔、腕)に斬り付けたるも不十分にして、敵後退したるを更に一歩追ひ込みて斬り倒したるに致命に至らずして、其の倒れたる處より吾が右の脛に薙ぎ来るを、吾れ受留めて勝つの意なり。」という状況があって動作が展開する事でより理解が深まるものです。然し一方では状況は幾つもありうるのに固定観念にとらわれてしまい変化に応じられなくなる危険性も多く、武的踊りに陥りやすくなります。

 この意義をはじめに居合の教本に書き込まれたのは、中山博道先生の居合をあらわした太田龍峰先生の居合読本昭和9年1934年によります。その陰陽進退の意義:「互に対座せる時急に初発刀の如く切りつけたるも、敵逃れしを以て直に追ひかけ之を斬り倒し、刀を納めんとせし時、再び他の敵より斬り付けられたるを以って直に之れに応じて敵の腰を斬る業である。」

 細川義昌系統の梅本三男先生の陰陽進退は意義として想定を掲げて居ませんが、想定に対して動作がついて来る組立てになって居ます。
陰陽進退:「(前方を斬り 又 薙付け来る者を斬る)「正面に向ひ正座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け、ぬきつつ膝を伸し、右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上り左足を右足の前へ踏越しつつ、刀を引冠りて正面へ斬込み、刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)刀を納めつつ右足を跪き納め終りたる所へ(別人が向脛薙付け来る)急に立上り左足を一歩退くと同時に、刀を前へ引抜き切先の放れ際に左腰を左へ捻り、体は正面より左向きとなり(視線は右の対手に注ぐ)刃部を上に向け差表の鎬にて張受けに受け止め、体を正面に戻しつつ、左膝を右足横へ跪きながら、刀尖を左後へ突込み、右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る」

 大江先生の場合も同様なのですが想定も動作も不十分なので、疑問が湧いても当然です。「剣道手ほどき」大正7年1918年今から101年前に発行された居合の手ほどきです、その八重垣:「正面に向ひ正座す、右足を出し左膝を浮めて中腰となりて首に抜付け、左足を前出して両膝を浮かめて中腰の儘大間に上段に取り前方真直に頭上を斬り下し、この時右膝をつき左膝を立て、同体にて長谷川流の血拭ひをなし刀を納む、この時敵未だ死せずして足部を斬り付け来るにより血拭ひの姿勢より右足を重心に乗せて立ち、直に左足を後方へ開き体を左斜め構ひとし刀を膝の前へ抜きて平とし、膝を囲みて敵刀を受け更に身体を正面に向け上段となり、座しながら頭上を充分斬る、血拭ひは右足を後部へ引き刀を納む。」。
 「首に抜付け・・頭上を斬り下し」は、抜き付け不十分で相手が下がらんとするのを追い込んでと言う説明不足でしょう。状況の想定不十分に動作が優先しているのです。

 古伝神傳流秘書の大森流之事「陽進陰退」:「初め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜付跡初本に同じ」是は動作のみで、想定は無く動作の運用条件だけの簡略さで後は、師匠に習えか、自分で考えろと云うものです。

 河野先生より一月ほど早く山内豊健、谷田左一共著による図解居合祥説昭和13年1938年3月が発行されその八重垣には業動作より先に、目的が書かれています。:「正面に対座している敵の首に急に抜き付け、逃げる所を一歩追い掛けて其の頭上を斬る。此の時敵は死なないで、吾左足に斬付け来る敵に、先づ之を受け流し、更に上段から敵の頭上を両断するのである。」

 稽古をするには、意義や目的或は理合が先に示され其の想定を思い描き、動作を着けて行くのは有効でしょう。然し大方は其の想定のみに拘ってしまい、古伝のような大雑把なポイントのみでは想定が描けずどうすべきか頓挫してしまいます。然し闘争の武術として考えればどのような敵の攻撃なのかその場でしかわからないものです。示された動作を元にしてあるだけの想定を思い描きこの業が自然に応じて当を得ている処まで修錬すべきものでしょう。

 たとえば、最初の抜き付けは、十分手ごたえがある、斬り付けが浅い、間が足りない、相手が外した、相手が柄で受けた、刀で受けた、など幾らでも思いつくでしょう。

 

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2019年7月18日 (木)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の7立膝の血振ひ

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の7立膝の血振ひにつきて

 答え、右脇の血振は、真向に打下したる線に並行より少しく剣先が外方に向く位とし、水平線より少し剣尖を下ぐる方宜敷候。

 河野先生の昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道に於ける「右に刀を開きて行ふ血振ひ」:「鍔は膝の高さにて膝の右、拳は脚と五寸位ひの間隔、刀は正面直線の並行線より剣先部にて約三寸位ひ右外方に開くを度とし、刀は水平より心持ち剣先を下ぐる事。此の血振ひは、剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引き裂く気分にて行ひ、刀を右に披く時、剣先を打下したる位置より左に戻す事無く、柄よりも剣先が右に披く程の心持にてなす事。」

 河野先生の昭和17年1942年の大日本居合道図譜の刀を右に披きて血振ひ:「鍔は膝の高さに、右膝より八、九寸程右に披く刀刃正面直線に並行し刃を右に向け剣先を下げる。剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引裂く気分にて行ひ、剣先は起動の時左に戻さぬ事。

 河野先生の右に披く血振りは、右膝より五寸位の間隔であったものを何故か、大日本居合道図譜では八、九寸程に間隔が広がりました。剣先は心持ち下げるのですが、右外方に正中線に並行より三寸も開いて居ましたが、大日本居合道図譜では正中線に並行になって居ます。その分右膝から五寸が八、九寸と広がってしまいます。
 剣先が右外方に向いたのでは、幾ら敵を倒した後とは言え正中線を外し過ぎで間が抜けた状態です。
 22代の教本では、右横に披きてなす血振を「横血振い」とされています。:「横血振いした右拳は我が体中央線(臍の線)に対し右約45度位前にありて、且つ、我が正中線より右へ約40cm位外(我が体の一身幅位)にあるを良しとする。」と云う事ですと右膝の右約20cm(約七寸)位でしょう。更に「鍔は膝の線上膝の高さ、切先は我が体正中線と平行かやや僅か右に披いた処、切先は稍々下向き」ここの所は21代福井聖山先生の教本と同じでしょう。
 右脇の血振りは、現代居合では「横血振り」と言う様です。是は教本上では22代によって初めて書き込まれたのかも知れません。

 河野先生の居合道真諦昭和37年1962年の「居合道の基本」に抜き付けのポイントが述べられています。右に披く血振とも共通と思うのでチェックしておきます。:「抜付けたる刀身の位置は、右拳から正面に引きたる直線上に剣先部がある事を初心者指導上の原則とす。されど錬熟の暁は、剣先を以て敵に附入る心気の為め、幾分剣先が内方になるは可なり。此の場合い剣先が外方になると迫力不十分なり・」

 木村栄寿先生の林崎抜刀術兵法夢想神重傳重信流傳書集及び業手付解説抜刀術童蒙初心之心持「血揮開き収(ちぶるいひらきおさむ)は敵に逢いての用たる事にてはなし業の締りを付たる事ゆへ一己一己の事成共異ならさる様にすへし・・開は胸を照し腹を入腰を張拳も一時に尖く開く時は拍子揃て引合よし・・抜付打込開共夫々切先のきける様に心懸へし」
 立膝の血振は、「開く」とか「横に開く」で「よこちぶり」と言われたかどうか判りません。この童蒙初心之心持は「庚申五月下村定 同年六月為童蒙写 島村義郷」と奥書がありますから万延元年1860年五月の下村茂市定が同年6月に島村義郷に送ったもので島村義郷とは細川義昌の幼名になります。此の時義郷11歳になります。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部陰陽進退の所に少し解説されています「・・抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上がり左足を右足の前へ踏越しつつ刀を引き冠りて正面へ斬込み 刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)・・」陰陽進退の血振いはこの場面では立膝の部と同じ刀を右へ開く血振いをしています。

 他流の右へ開く血振りについて、田宮流の妻木正麟先生の教えは、詳解田宮流居合 平成3年1991年:「・・決して切先は正中線をはずれてはいけない、再度、敵に討ちかかられても、正中線をとっていることにより、隙のない残心から一転して反撃に転ずることができる。また、左手を腰に当てるのは左腰に力をいれることによって、切先に気迫を込められる。」

 夢想神伝流の右に開く血振りの解説は、中山博道先生の居合「居合読本」から:「敵を斬ったならば、残心に注意して、直ちに左手を離し右手を体の右側前方に伸ばし左手を腰に当て右手首を外に伏せ、刃を右に向けて刀を稍水平にする」
 何とも不十分で写真が添付されているのでそれで判断せよと云うのでしょうか。写真は角度やモデル本人の癖が表面に出てしまい参考としては十分とは言えません。
 山蔦重吉先生の夢想神伝流居合道では:「手振りの時、刃はやや斜め右下に向き、刀先は正面にまっすぐ向き。水走り程度に前下りになる」この方がまだましです。

 全剣連居合の「右に開いての血振り」:「右拳の位置は右斜め前方にあって、その高さは左手と水平にする。刃先は右に向け、切先は僅かに下げ、右こぶしよりやや内側で止める。」
 委員の方々の検討での結論の形でしょう、決まったと思える形です。この開く血振りで血が100%飛ぶわけでもないでしょう、切った後の残心であり、新たな敵か切った相手が死力を振り絞る事もある筈です、居付かない残心は如何にでしょう、残心と納刀の準備動作と捉える方が正しそうです。

 土佐の居合は、明治の頃には大きく力強い運剣を良しとされたのでしょう。穂岐山先生譲りのこの右に開いての血振りのフィニッシュ形の間抜けは気になります。河野先生の思いは、大江先生から伝承されてきた土佐の居合は居合道真諦や無雙直傳英信流居合道叢書に語られている様です。

 「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、其の習熟するに於ては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の圓成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす。」と河野先生は無雙直傳英信流居合道の居合修養の心得で述べられています。その前半のみに拘わる現代居合ならば、古伝を今一度見直さなければ流派の一貫する精神など解かる筈は無かろうと云う事に気が付かれたのだろうと思います。

 
 

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2019年7月17日 (水)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の6抜付の足

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の6抜付に於ける前方に踏出す足に就いて

 答、前に踏出したる時の足の内方角度(膝の内側)は、九十度よりは少しく小さく上体を前に倒すにあらずして、下腹に力を入れて前に押し出す気味にて、少しく前に掛る方宜敷候、後方の脚は上体の延線よりずっと後方に開き、上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当と考へられ候、尚又此場合体を前がゝるは不可にして、只下腹を前に押出して上体は垂直呑まゝ少しく前懸りとなるを可と致し候。

 正座の部一本目前の抜き付けの際の、前に「踏み出した(右足の)膝の内側の角度は九十度より少し小さく」と云うのですから、九十度の位置になる様に踏出しても、「下腹に力を入れて前に押し出す気味にて」する事で膝頭が前に出た方が良いと云います。従って左足は真直ぐに立てた上体の延線(正中線、重心の位置)より「ずっと後方に開き」ですから左足膝の内側の角度は九十度より鈍角になる様にして、「上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当」と考えるのだそうです。前足先及び後足膝頭は踏み出した位置から変わっていないので、前足の膝を突き出すとすれば重心位置もその分ズレるはずです。
 「体を前がゝるは不可」は当然とすると、腑に落ちない答えになる様です。「押し出す気味」は心持ち、あるいは平行移動させる、のですが右足の膝の内角を九十度より小さくせよ、左足の膝の内角は九十度より広くと云っています。
 恐らく、重心の位置を右足爪先と左足膝頭の中心に置くよりもグット前を責める意識が強く出るはずですからヒシャゲタ脚のカッコウになる人が多かったと思います。

山田次郎吉先生の身心修養続剣道集義形状記
居合かゝりの足形

Img_0670

1、居合かゝりに足立ては、右を立て左を引きながら抜き払ふを習とす。
1、此の左の膝の所に足を踏めば則ち立ち構への立足一間の幅となる。
1、足幅は広からず又狭からず、一間三足の格たるべし、其の格は一間を三足に歩する程度の所に左の膝を著くるを謂ふ。足を立て替えて右を引くときも是れに同じ。唯足の左右を差ふのみ。
1、立てたる足は右へも左へも偏るべからず、又かゝるべからず。控ゆべからず。指先も亦左を斜に踏むべからず。


 形状記の歩幅は足三足分を一間としています。即ち左足一足、右足一足、左足先と右足踵に一足分開けることで三足一間とされています。立って構えた時の足となります。

 形状記は窪田清音の著述によるもので、清音(すがね)は徳川幕府の旗本、兵学者、武術家で講武所の頭取、兵学師範でもあった。居合、剣術は田宮流とされています。
 この図は居合の抜き付けの足で、右膝は出ない引かない「足首と平」と云っています。

 河野先生の大日本居合道図譜から居合道基本抜き付け「上体は下腹をだし、腰骨に(丹田に)十分なる気力を注ぎて真直に、而て踏出したる右足の膝の内法角度は九十度を超えざる事。後足の膝と上体とは大体一直線をなす事。」とされています。
 穂岐山先生とは一見異なる脚だろうと思われます。但し「抜き付けは腹を後ろに退かずすべて前進する心持を失わぬ事肝要なり」の心持ちは守られています。土佐人の幕府を倒して明治維新に寄与した気が過度に影響しているのかとも思える処です。
 

 

 

 

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2019年7月16日 (火)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の5納刀

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の5正座納め刀の場合

 答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際に於ては練習を積むに従ひ是にてはやわらか味無き感を来し候、此意味に於て血振ひの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候、然れ共是は極く瞬間的のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得るが如く大きくゆっくりと動作するには無之、只起動の為めつまり動作を速にするために候、然し原則としては拳は返す事無く、血振ひの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。

 何ともわかりにくい答えなのですが、それより河野先生の疑問点が見えないので答えの意味が読めないと云った方がいいかも知れません。土佐の居合の納刀は大きく3つある様です。

・一つは、夢想神伝流の檀崎友影先生の居合道教本昭和54年1979年初伝大森流初発刀の納刀:「左手にて鯉口を中指半に五指を上向けて、刃物を横外に握り、中央より僅か左して鞘を左脇にとる。次に右手鍔元附近の刀を拇指と食指の凹部に当て、刀先を鯉口に至るまで右手を右前方に延ばすと同時に左引手をきかせて、一文字になるように納刀三分の一より刃を上にしながら右膝を床板に付け静かに残心を示して納刀する。」

・二番目は落とし込み、切先を上に立て差裏が左肩に接する程に刃を上向きとして刀の棟を鯉口に当て、右斜め前に右手を退いて同時に鞘手も後方に引き、切先を上から鞘口に落とし込むような納刀。

・三番目は、河野流の方法で大日本居合道図譜の居合道の基本より納刀:「左手を鯉口に掛け(中指の中程に鞘口がある様深く握り込み食指にて小さな穴を作る、この時鞘をあまり抜き出さぬ事。左手小指の基部が軽く袴に接触する程にす)剣先を大きく左横に円を描く様に運び(起動の時剣先を右に戻したり又右拳を大きく右にかへさざる事、物打は左肩下5寸位の処に運ぶ)、鍔元四寸位の処の刀棟を鞘口(左拇指と食指の基部の間に刀刃はやや左に傾けて)にあて右手(柄)を低くして刃を真上にして、右四十五度の方向へ素早く引き(この時左手(鞘手)も十分後に引く心持肝要にして同時に鞘手を直に返し鐺の動きはあまり目立たぬ事を良しとす)、刀先三寸を瞬時に納め(長寸の刀は納刀の時腰の十分なる捻りを必要とするも定寸の身に合ひたる刀の場合はさしたる要なく只だ此の場合ひ腰を上下に揺り動かさぬ様注意する事)ながら同方向より静かに納めつゝ(敵、仕掛けなば何時にても応ずるの心所謂残心なり)徐々に腰を下げ右膝を床に付ける。」

・四番目は22代の納刀法で、河野流ですが「剣先を下げたるまま左方に廻しつゝ、(左手(鯉口手)の拇指目掛けて)刀の刃を前に45度位に傾けて鍔元五~六寸位のところの棟を鯉口に運び・・」


 居合は古いものとして太刀を佩いた場合の納刀法を引きずる事は打ち刀としては意味無いものと思われるし、矢鱈早く、其の上自傷する様な納刀法もいただけるものでは無いでしょう。古伝の研究としてはどれも出来て当たり前ですが、これ見よがしな大道芸のようなものは品位が劣ります。安全で充分なる残心を心がけるべきものでしょう。

 河野先生の居合道真諦、無雙直伝英信流嘆異録より納刀の事:「納刀を早く見事にやろうとして不自然に無理をして納刀する人を見受けるが、之は居合之邪道とも云ふべきである。
 納刀は既に目的を達した後の動作で、見事に早く行ふ必要は無いので、極めて自然に行へばそれで十分である。納刀で最も大切な事は、形ちで無く残心のところで、納刀中と雖も何時でも其の儘直ちに抜打ち(不意に起こる敵に応ずる心)し得る体勢(柄前の手の裡)と心構へが最も肝要な所である。
 納刀の時、柄を上から押へて鐺よりも柄を低く下げたり、柄手を柄から遊離させたりする人があるが之は居合の真意を解せぬ甚敷いもので最も不可な仕方である。
 角帯をして帯刀した刀の角度で納刀するのが正道で、角帯をして柄を鐺よりも下げる事は事実上不可能な事は明白である。」

 そう云いつつも、切先を上げて肩下五寸に物打を運べば、柄手は自然にやや下ってしまいます。他流の先生方も似たようなものです。血振りの右拳の高さが左手の高さで、其処から切先を上げない様に刀を鯉口に運ぶ22代の納刀で完成したと云えます。
 戦前はもとより戦後間もない映像の有る先生方の中には、血振りから「クルリストン」と落とし込む映像が見られます。江戸時代末期には意味のない、見せ場を好んだのでしょうし、簡単な方法を敢えていじって得々としている芸人がもてはやされたかもしれませんし、現代にもその様な事は大いにあり得るものです。武術は最も簡単な術で結果を出すもので、ややこしいものは一見凄そうですが無駄な事です。

 

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2019年7月15日 (月)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の4腕と刀の角度

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の4腕と刀の角度は九十度にて可なるや

 答、第二項に説明の通り、約三十度位広角となすを可と致し候、之又然らざる時は引切の気味となり、且充分刀尖に気勢籠らざるものに御座候。

 第二項の抜粋
 「右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可と致し候、拳を其の線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位ひ鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候・・」

 抜き付けの際、大きく引き切り左右の肩の線上まで引き切ると切先を正面に向ければ腕と刀は九十度になります。それでは引き切ることになって面白くないと云うのです。
 そこで、左右の肩を結ぶ線上から右拳を六七寸前方へ出した位置で止めろと云うのです。丁度踏み出した右足の膝の線上となる筈です。其の位置で切先が正面に向いて居れば、百二十度位の広角になると云うのです。

 河野先生の大日本居合道図譜の正座の部前の抜き付け:「斬り付ける時は剣先にて敵を逃さじと追い込む気勢を以って小指、無名指をぐっと強く握り締め、拇指の基部にて押し、拳を折らずに十分握り鎺元が右膝の線上にある程に剣先を出す。」
 22代の解説は、「即ち、斬り付けたる時、剣先は己が進行方向の中央線と平行にあり、右拳は正中線に対し右45度位の位置にある様に実施する」とされています。
 河野先生のこの質問は二項を充分理解出来なかった為でしょう。それは戦前戦後の土佐の居合の抜き付けの多くが左右の肩の線上近くまで大きく引き切る人がいたことに由来すると思われます。

 居合しか知らない現代居合人は、抜き付け、打ち下し共に業の途中にあるもので其処に居付かないと云う考えに乏しいものです。それを良しとする指導者も多く、力任せに矢鱈早い抜き付けをさせたり、両肩が盛り上がる程の打込みをさせたりしています。そうかと思うと力ないヘロヘロ抜付けなのにそこに居付いてしかとしています。どちらも対敵意識の乏しいもので武的演舞の域を越えられません。

 

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2019年7月14日 (日)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の3刀尖は拳の高さ

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の3刀尖は拳の高さと同じ水平線上にあるや

 貴説の通りなるも幾分下るも宜しく候、是は刀は水平なるを原則とするも、前方より見たる時刀の裏を見せず表を見するやう致し候、(刀の下方を見するより上方の面を見するを可とす。)

 河野先生の昭和17年1942年発行の大日本居合道図譜初心者心得33則の第三抜き付けでは「・抜き付けたる刀の高さは。肩をおとしたる状態に於て両肩を連ぐ水平線より上らぬ事。(心持ち低く抜刀する事)。
・刀は水平を原則とするも剣先部が上るよりも幾分下る心持なる事。」と言われ、穂岐山先生に手紙で確認された通りの方法となります。

 22代の解説では、「斬り付けたる時、両肩に力を入れる事なく自然体に両肩を落とし、右拳及び右腕、剣先は右肩の高さより上に上がらぬ事が大切である。斬り付けたる刀刃は水平にして右真横に向かひ、剣先やや下がるは可なるも余り下げてはならない。

 「切先の高さは拳の水平線上か」との質問に、穂岐山先生は原則はそうだが稍々切先下がりが好ましいと仰います。その理由は「前から見た時刀の裏を見せず表を見する様にする」と云う事ですが、理由にはなって居るのかどうか疑問です。
 切先は勿論、刀刃も稍々下向き、と言われる処がありますが、さて何れもどのような効用が期待できるでしょう。小細工をせずに水平に運剣する事のみを目指し稽古する、狙った所に抜き付けられる様に稽古する。居合は仮想敵相手の一人演武ですからともすると相手の無い運剣が横行しがちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年7月13日 (土)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の2抜付けの右拳の位置

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の2抜付けの場合の右拳の位置に就いて

 第18代穂岐山波雄先生の解答
 「右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可と致し候、拳を其線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位ひ鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候、此時の気持は抜きつけに限らず真向其他の切り付けと同一に御座候、剣道に於て面に打込みたる時手を握り締めると共に前に出す気持ちと同様に御座候。」

画像は、曽田本その2曽田先生の手書きによる抜き付けの絵。

Photo

「右拳の位置は左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可」ですが、右は不可、左は可と言う絵なのでしょう。
 やや右半身のため是では右拳は左右の肩を結ぶ線上になってしまいます。左右の肩を結ぶ線上は正対し右拳は六七前方とは云えそうにありません。

この写真は大江先生の剣道手ほどきに載っている抜き付けの正面からのものです。

Img_0669

 「抜き付けたる時は胸部を充分左右に開帳し丹田に力を入れる」と有りますが、左右の肩の延長線上に右拳がある様に見えてしまいます。「腕と刀との角度は九十度よりも三十度よりも鈍角」と穂岐山先生は述べておられますが、どう見ても九十度でしょう。
 穂岐山先生は曽田本その2にある曽田先生の左側の絵を指摘されているのでしょう。

 「少し刀を前に出す心持ち」は河野先生の大日本居合道図譜の抜き付け(斬付け):「抜付けたる時は剣先にて敵を逃がさじと追込む気勢にてグット小指無銘指を握り締め、拇指の基部にて押し、拳を折らずに十分に握り、鎺元が右膝の線上にある程に剣先を前に出す。」と云う事で河野先生は、大江先生、穂岐山先生の教えとは違います。22代の教本では「上体を正面に正対し、右拳は正中線に対し右45度位の位置にある様に実施する」と河野先生の抜き付けに補足されています。

 「此時の気持ちは抜きつけに限らず真向其他の切り付けと同一・・剣道に於て面に打込みたる時手を握り締めると共に前に出す気持ちと同様」と有りますが、ここは大日本居合道図譜では雰囲気が異なる様です。穂岐山先生の書簡による真向打ち込みの雰囲気は面に打ち込み更に押し込む様な言い回しです。河野先生の打下し(斬り下し):「(敵の水月の辺りまで斬下す。)1、左右の肘は胖か(ゆたか)に伸すも、極度に延び切りては自由なり難し工夫すべし。
 2、頭上にて円形を切る心持にて敵の頭部より胸部を斬り下す時刀の速度最も速烈、刀の留まる辺りは柔らかなる事」
 3、右拳の上部は膝の高さ、鍔は膝の線迄出し剣先部は低く床上八寸位迄斬下す。」

 穂岐山先生の抜き付け、打ち込みの雰囲気は竹刀剣道の打込みが丸出しの様です。河野先生はこの部分は穂岐山居合を取り込まなかったと云えるでしょう。22代の教本では「斬り下す時、身体固着したままで実施せず前進する心地にて斬り下ろす気持ちが大事である。正座の部前の場合、体諸共前進しながら(対敵との間合いにより)斬り下ろすも可なり。」とされています。(対敵との間合いにより)と但し書きが施されています。前進する心持ちと、間合いにより前進するのとは違います。

 

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2019年7月12日 (金)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の1抜付の右拳

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の1正座抜付けの場合の右拳の高さに就いて

 故穂岐山先生より数回に亘りて筆者に賜はりし御書簡の写し
 右拳の高さは、左右肩の高さに同じ。

 居合の疑義について河野先生は、疑問点が浮かぶと第18代穂岐山波雄先生に手紙を出され、その後回答をいただいていたのでしょう。
 昭和13年1938年発行の無雙直傳英信流居合道には第7節に居合の質疑解説として記載されています。
 前書「本稿は、昭和3年、故穂岐山先生より、筆者が書面を以てしたる質問に対し、賜りたる御書簡にして当流の居合を学ばんとする者のため、又得難き文献と信じ原文の儘茲に掲ぐ。」

 昭和3年1928年河野先生の質問に対する穂岐山先生からの回答と云う事で、昭和2年1927年に大江先生76才は亡くなられていますから穂岐山先生は第18代を引き継がれて間もない頃でしょう。河野先生は昭和2年1927年29才で穂岐山先生に師事されています。

 穂岐山先生の回答を原文のまま記載します。
「正坐抜付けの場合右拳の高さに就きて右拳の高さは、左右の肩の高さと同様に候。」

 河野先生の大日本居合道図譜では正座の部第一本目前「剣先も、拳も、脆(せい、もろい、肱の誤植か)も肩の高さより上らぬ事。」

 曽田先生のスクラップの出典は恐らく、河野先生の無雙直傳英信流居合術全昭和8年1933年発行と内容は同じですが、活字印刷物のスクラップで無雙直傳英信流居合術全とは印刷形態が異なります。八重垣会などで配布されたものかも知れません。 

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2019年7月11日 (木)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の2板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
居合術教師・剣道錬士中西岩樹
21の2板垣伯

 即ち明治26年板垣伯の御尽力に依って高知市新堀竹村與右衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当たられたのである。
 それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寬といふ人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝことゝなった。
 明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の没後大江正路先生が之に代ることゝなったのである。斯くして高知県に於ては五藤谷村大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。
 又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兎久身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就て修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。
 爾来中央に在っては中山先生高知県に在っては大江先生の非常なる御努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。
 実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめたが、更に不言點々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合発祥の地たらしめられた。私は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰ひ度いのである。

 中西岩樹先生も土佐の人です、手前味噌は当時の人達の県人意識は現在をはるかに超えています、従ってその動静は詳しく把握されているとは思います。
 維新後の政界は、薩長によって牛耳られ土佐は置き去りにされてしまった様な印象もあります。板垣伯は自由民権運動を起し、薩長の政治を政党政治に切り替えようと、推し進めて行かれた様です。明治26年土佐に戻った際に、居合との関わりの逸話なのでしょう。
 誰かが音頭を取らなければ確かに土佐の居合は消えてしまっていたかもしれません。江戸で無雙神傳英信流居合兵法の道場を開いて居た荒井勢哲亡き後は消えて行ってしまった様です。
 奥羽地方に林崎甚助重信の系統の古流が江戸時代にも残って居た様ですが、英信流や大森流とはかけ離れていた様です。北信濃にも無雙直傳流として、長谷川英信や荒井勢哲の足跡が残っている様ですが、江戸末期までに土佐と同様に変形してしまって双方を対比しても目録から同じ呼称を見出しぶつけるのが精一杯です。個人的には無双直伝英信流が全国的に普遍ですから北信濃へ出かけて業合せしてみた方もおられるかもしれません。広島に残された無雙直傳英信流抜刀兵法に依って細川居合と大江居合を研究して見たようにこの土佐の居合の何たるかが垣間見れた様に展開できれば棒振り居合から抜け出れるかもしれません。
 このスクラップの出典は何であったのか何時頃のものか記述がありませんから不明です。恐らく太平洋戦争以前のものでしょう。
 この項を投稿するに当たり参考に、板垣伯に就いて「板垣退助自由民権の夢と敗北」昭和63年1988年の榛葉栄治氏がいたずらに板垣伯を持ち上げる事も無く史実に照らしていて面白く読ませてもらいました。

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2019年7月10日 (水)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の1板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
筆者 居合術教士剣道錬士中西岩樹
21の1板垣伯

 近来時局の影響する所が一般的の趣味にしても剣舞詩吟謡曲の如きものが非常に隆興を来たしたやうに思はれるが、殊に武道の方では居合が急激に倍々旺盛となって来たやうに考へられる誠に喜ばしき現象である。
 今から20年前を回顧してみると当時京都の武徳会本部大会に居合を以て出演する者は実に寂寥々たるものであった。而して諸流亦其の抜方斬方に皆各々の特徴が有って、決して今日見るが如き整ふたものではなかった。只独同流にして発祥の地を一にする東京の中山先生の御門下生と高知県よりの出演者が長谷川英信流又は業に依る部分的名称大森流或は長谷川流と称して抜いていた居合が其の抜刀斬突納刀の鮮かな技に於て断然頭角を抜いて居たやうに覚えて居る。
 夫れが今日に於ては毎年の大会出演者実に二百名に垂んとする盛況を呈し、而も高知県を発祥の地とする居合が其の約七割を占め居合界に君臨するの躍進を遂げたといふ事は誠に欣快に堪えない處である。
 之れは居合の所作其のものに負ふ處も決して少くはないであらふが、又は先輩諸先生の並々ならぬ苦心の賜物と謂はなければならぬ。由来高知県より出でた居合は始祖林崎甚助重信先生より第七代目長谷川主税之助英信先生に至って一大進歩を遂げ長谷川流と呼ばれ或は英信流と唱へられ又は長谷川英信流と称せられたもので第十代目高知県藩士林六太夫守政先生之を高知県に伝へて以来連綿と今日に及んだものである。(第十代では無く現在は第九代林六太夫守政とされています ミツヒラ)
 現今流名は右記の外大森流無想直傳英信流夢想神傳流等と言はれているも元来同流に外ならぬ。
 扨此の居合が一時衰微の極にあった剣道の如く否より以上更に深刻に最早既に其の伝統の断絶せんとした場合此の危機を救ふて呉れたのみならず、今日の出世発展の直接原因を造って呉れた恩人が茲にあったとしたならば、我々は大に其の人を徳とし絶大なる感謝の念を捧げて然るべきではあるまいか。
 然らば其の恩人とは誰ぞや?、即ち高知県の大先輩故板垣退助伯である。
 明治二十五、六年頃と言へば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振る居合の如きが文明改化を追ふに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤正亮谷村樵夫細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修行せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
 その内に段々居合を知る人も物故し、是等の先生と雖何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を伝へる者が無くなるであらふと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。

― 次回へ続く ―

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2019年7月 9日 (火)

曽田本その2を読み解く20スクラップ居合之流派及始祖

曽田本その2を読み解く
21、居合之流派及始祖

英信流  長谷川主税助英信
大森流  林崎甚助重信(大森六郎左衛門 曽田メモ)
田宮流  田宮平兵衛業正
一宮流  一宮左太夫照信
一傳流  丸目主水正
関口流  関口八郎右衛門氏心
上泉流  上泉権右衛門秀信
柔新心流 久瀬猪左衛門定勝
水野流  水野新五左衛門重治
新田宮流 和田平助正勝
真影山流 影山善賀清重
化顕流  那須五左衛門家次
制剛流  梶原源左衛門直景
 其他 力信流、柳剛流、新陰流、鞍馬流、等剣道の一派に依り生まれたる諸流あり。

 この居合之流派及始祖のスクラップも何処から斬り抜いたのか、誰がいつ書いたものなのか判りません、無雙直傳英信流居合術の最終13暇乞に続けて書き込まれていますから、河野百錬先生のものかも知れませんし、河野百錬先生がどこかから持ってきたのかも知れません。
 この頃、河野先生の著述にある居合関係の事は、何処かで読んだものや、受け売り、自分で思い込んだものなどが羅列されて、知識欲旺盛な頃だったと思われます。
 曽田先生の書かれたものでは無いのは大森流のところでダメ出ししていますからそれとわかります。
 流派や始祖を知ってもその居合の根元が不明となって、それらを知りたくとも目録が出て来る事すら無さそうです。ましてその流の業と心を伝える真の伝承者が現存する流派は幾つあるのでしょう。
 曽田本の様な伝書の写しでも残っていればいいのですが難しいでしょう。土佐の居合ですら「古伝には興味がない」と云った怠け者が、踊りまがいの形を演じる時代です。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書ですら見た事も読んだことも、ましてその業技法の解説や指導すら受けた事が無い人がほとんどです。何年か前のことですが、夢想神傳流の木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流伝書集及び業手付解説」昭和57年1982年発行、昭和63年1988年再版が世に出ている事を知っていても「あれは夢想神傳流の史料だと思って読みもしなかった」と言う無双直伝英信流の方がおられました。木村先生の意図か、夢想神傳流を戦後に起された居合では無く遠い昔からある様に思わせぶりの題名だったり、目次にも工夫があったりして単なる興味本位の方にはその様に受け取られてしまったのでしょう。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書は昭和30年1955年に発行され、更に昭和38年1963年に再版されていますが非売品であった事と、大江居合全盛期で手に入れられた方も高齢でこれを研究する意欲が乏しかったのでしょう。今では原本は何冊残っている事でしょう。限られた図書館でしかお目にかかれない、忘れられた貴重な資料です。原文の儘ですが読めば意味が通じ大江居合を齧った方ならば動作も演じる事も可能です。
 古伝は日本の武道文化そのものです、それを今に伝える事はその業技法の奥にある心だろうと思います。時期が来たから昇段した、金を払って手に入れた段位などに何の意味があるのでしょう。
 連盟などの昇段審査で昇段した方が「自流の免許皆伝より価値がある」と云う幻に惹かれて、多くの人が連盟段位を求め自流の段位や免許皆伝を蔑ろにしています。
 連盟の審査では自流の業技法も心持ちも知らない他流の人がどのように審査できるのでしょう。其の為に連盟の制定した居合を中心に稽古を重ね、統一した業技法を演じて審査を受けています。当然連盟では制定した居合の業技法の数々を講習会を何回も開き更に詳細に統一してしまいます。

 流派の始祖が書き残された伝書を容易に読むことが出来ればどんなに素晴らしい事かと思うばかりです。

 宮本武蔵の五輪書や兵法35箇条、柳生宗矩の兵法家伝書も剣術志願の人以外にも、海外でも親しく読まれ人生の参考にも供されて読み継がれている事を見ても、武術は只の棒振り人殺しの手段では無いことを語っています。
 現存する伝書も多くは目録程度のもので、其の流の業名が書きならべられているものばかりで今では何の役にも立たない唯の古文書です。それすらボロボロの反故として捨てされる悲しい時代です。
 先日ある無双直伝英信流の九段の方が「真剣で居合をやってきたが、この日本刀は高額を払って手に入れた、私が存命中はいいのだが、我が子達はそんなものは、遺品として残さないでほしい」と言われたと云う。
 日本刀は江戸時代初期のものや現代もの、家伝や自ら購入したものなどあるのですが、商品価値は商売人に任せるとして、この世に生を受けて限られた人生を思えば、是等を一時預かりしていると思うばかりです。
 そういえば断捨離と称して持っていたもので使わなくなったものをゴミとして捨て去るのではなく、欲しいと云う人に譲る仕組みは昔からあるのです、大事に使って「おふる」の流通に出すべきでしょうね。
 
 
 

 

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2019年7月 8日 (月)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部13暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部13暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につき頭が座に着かんとする所迄下げて、間も無く刀を抜き取りて動作する事前に同じ。
以上

 大江先生の暇乞については前回の處で20番と21番が入れ替わっている事を述べておきました。
 河野先生の暇乞
 11、暇乞 「両手を前につきてわずかに頭を下げ礼をなす。」
 12、暇乞 「両手を前につき頭をやゝ深く下げて刀を抜き取り」
 13、暇乞 「両手を前につき頭が座に着かんとする所迄下げて、間も無く刀を抜き取り」

 大江先生の暇乞
 19番暇乞 「両手を膝上に置き黙礼し」
 20番暇乞 「両手を板の間に付け、頭を板の間近く下して礼をなし」
 21番暇乞 「両手を膝上に置き黙礼よりやゝ低く頭を下げ」

 大江先生の暇乞は20番21番の入れ替わりを訂正したとしても、19番と21番は両手は膝上で20番が両手を板の間に付けています。河野先生も穂岐山先生直伝とは言っても土佐と大阪です、穂岐山先生の講習はどの程度の回数か判りませんが、このスクラップを残す程度の教えは受けられたのでしょう。
 無雙直傳英信流居合道で居合修養の心得として「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、其の習熟するに於ては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の圓成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす。」と精神論を述べるに当たり先師の教えの形を改変するべきではないと云いつつ大江居合を改変されています。
 とは云いつつも、大江居合は堀田捨次郎先生の書いた剣道手ほどきに、大江居合の業技法が正しく反映されていたかは疑問です。業名については大江居合の各呼称であるかも知れません。
 河野先生は昭和30年1955年に無双直伝英信流居合兵法叢書を発行されています。是は曽田先生から曽田本を送られ、曽田先生が亡くなられて5年後の事です。
 古伝神傳流秘書を読まれそれを世に出されるに当たり、それまでの穂岐山居合や大江居合の誤り(古伝との違いと云った方が無難かな)に気づかれた事でしょう。然し第20代を允可された身として、大江居合は間違いだから直せとは声を大にしては言えなかったでしょう。
 
 無双直伝英信流居合兵法叢書の発行は土佐の古伝を現代居合を学ぶ者に問うたことになるわけで、間違いやその奥深さにいつかは古伝を学んで正すべきものは正すべきと考えられたろうと思います。
 余計な事を云ったり、したりして居場所が無くなるのを恐れている様では、昔はとか武術はなどの事は口にすべきものでは無いでしょう。当たらず触らずの人生など送っていても面白くも無いものです。

 曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術を終ります。
 

 

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2019年7月 7日 (日)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の15居合術業書奥居合立業之部12暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部12暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につき頭をやゝ深く下げて刀を抜き取りて、動作する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより20番暇乞:「(頭を下げ礼をする)両手を板の間近く下して礼をなし、両手を鞘と柄に同一に掛け直ちに上に抜き上段となり、前面を斬る。」

 20番暇乞は「両手を板の間近く下して礼をなし」ですから頭の下げ過ぎの様です。大江先生の監修に過ぎず、堀田捨次郎先生が書き下ろしたとしてもおかしい。21番暇乞:「(中に頭を下、右同様に斬る)両手を膝上に置き黙礼より稍や低く頭を下げ礼をなし、右手を柄に掛け刀を斜に抜き上段にて斬る。(止め)(立合終り)」

 剣道手ほどきは20番と21番の手附が入れ替わった様です。この暇乞いは古伝にはありませんし、細川先生の教えも抜打一本だけに過ぎません。礼の仕方が黙礼、両手を膝上に置いて頭を黙礼より稍や低く下げる中の礼、両手を板の間近くまで下ろしての礼、頭の下げ様で人の位をわけて居た時代の教えかも知れませんが、明治30年以降の中学生に指導する居合の業として適切であったかどうか疑問です。
 この暇乞いの抜打は、頭の高さばかり手附に書かれていますが、腰を屈めて礼をする瞬間に前面の敵が抜き打って来るのを、体を起しながら抜刀し敵刀を受け流し(摺り落とし)抜き打つすさまじい業の有り様を思わせるものです。

 河野先生も、大日本居合道図譜では、「上体を起こしながら直に抜刀し諸手上段より打下す」とされています。

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2019年7月 6日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部11暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部11暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につきてわづかに頭を下げ礼をなす間も無くうつむきたるまゝ両爪先を立て刀を抜き取り、左肩側に刀を突込む如く双手上段に振冠り真向に切り込み(膝を乗り出し)刀を開きて血振り刀を納めつゝ両踵の上に臀部を下し納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきでは奥居合の19番目に当たります。:「(黙礼)正座し両手を膝上に置き黙礼し、右手柄に掛かるや刀を斜に抜き付け上段にて斬る。」

 第18代穂岐山先生直伝と言う野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考より19番暇乞其の1:「正座し、両手を膝の上に置き対手に黙礼、右手は柄左手は鞘の鍔際を握るや刀を前に抜き、直ちに上段にかぶり真向を斬る。同様にて血拭い納刀す。

 細川義昌系統の梅本三男先生による居合兵法無雙神伝抜刀術英信流奥居合之部20抜打:「(対座して居る者を斬る」正面に向ひ対座し、刀を鞘なり前腹へ抱へ込む様に横たへ両手を前につかへ頭を下げ礼をして俯きたるまま、両手引込め鯉口と柄へ執り急に腰を伸しつつ刀を右前へ引抜き刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み、刀を開き納めつつ両足の踵上へ臀部を下すと共に納め終り、爪先立てたる足先きを伸し正座して終る。」
 この抜打には、その1、その2、その3の違いは述べられていません。
 細川先生の教えに依る抜打ちは大森流にも英信流にもあるのですが、奥居合のみ「刀を鞘なり前腹へ抱へ込む様に横たへ両手を前につかへ頭を下げ礼をして俯きたるまま」という如何にも暇乞風の礼が示されています。
 次の刀の抜き方で、「刀を右前へ引抜き刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み」は大森流の抜打も英信流の抜打も同じです。

 古伝神傳流秘書の抜刀心持之事では「抜打上中下」と有るばかりで暇乞の表記はありません。曽田先生のメモ書きが「(暇乞三本)格の低き者に対する黙礼の時、等輩に対する礼の時、目上の者に対する礼の時」と何かある様な書き込みが付されています。
 基本的には大森流居合事にある抜打が元であると解されます:「坐して居る所を向より切て懸るを其のまゝ踏ん伸んで請流し打込み開いて納る尤も請流に非ず此所筆に及ばず」であり、英信流居合之事抜打は:「大森流の抜打に同じ事也」と括られています。

 抜打の抜刀で、刀を前に抜いて左後へ突込み諸手上段」の記述は古伝の相手に斬り込まれ請け流しに相手刀を摺り落して上段に冠る、身を土壇となす教えが失伝しているのでしょう。
 暇乞の業名から、暇乞いの際、不意に相手を突き倒し斬り付ける教えが英信流居合目録秘訣極意ノ大事に示されています:「暇乞 仕物抔を云付けられたる時抔其者の所へ行て四方山の咄抔をして其内に切べし隙これ無ときは我が刀を取て復近日と立さまに鐺を以て突き倒し其侭引ぬいて突也、又は亭主我を送て出るとき其隙間を見て鐺にて突たおして其侭引ぬいて突くべし」
 この暇乞の際の教えを、暇乞だから卑怯な不意打と安易に解釈してしまい、現代居合での奥居合の暇乞は正式な演武会などでは演じてはならないと云う、お触れがあるやに聴き及びます。
 現代版暇乞いは、古伝の抜打です、相手が挨拶の際切って掛るので相手刀を摺り落して諸手上段から斬り下す、最も居合らしい凄い業なのです。先ず古伝の大森流居合之事抜打を手附通りに十分稽古した上でその心持ちを理解した上で指示すべきだったものでしょう。最近の正座の部の抜打ちも、立膝の部の真向も、対敵より抜打ちに真向に打込まれるのを受けるや摺り落して打込む抜き打ちの極意が見られず、抜いて振り冠って打ち下す踊りの様です。

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2019年7月 5日 (金)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部10受流

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
2の5居合術業書
奥居合立業の部10受流

 正面に向ひて進みつゝ、静かに鯉口を切り正面より打ち来る敵刀を受流すために、直ちに柄に右手を掛け同時に左足を右方(正面に向ひ90右に)に踏込て刀を頭上より左肩先に抜き取りて敵刀を我が刀の表にて受流し、更に右足を左足の後方に開き刀を頭上に振り冠りて右足を左足に踏み揃へ両足を左方に(其位置にて)揃へ、(両爪先が左斜に向く)同時に双手上段にて真向に割付け刀を開き血振り納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより受流:「(進行中左足を右足の前に踏出し身を変して請流す)左足を出すとき、其左足を右斜に踏み出し、中腰となり、刀の柄元を左膝頭の下として、刀を抜き直に其の手を頭上に上げ、刀を斜とし、体を左斜前より後へ捻る心持にて受け流し、左足を踏みしめ、右足を左足に揃へ、右拳を右肩上に頭上へ廻し下し、上体を稍や前に屈めると同時に真直に左斜を斬る、揃へたる足踏みより左足を後へ引き、血拭ひ刀を納む。

 細川義昌系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神傳抜刀術には奥居合に受流の業はありません。大江先生は大森流の流刀を奥居合立業に改変したか、古伝神傳流秘書抜刀心持にある弛抜を受流に改変したのでしょう。
 古伝神傳流秘書抜刀心持之事弛抜:「前の如く歩み行敵より先に打を体を少し開き弛して抜打に切也」

 河野先生の奥居合立業之部受流は、進行中敵が切って来るので、左足を右足前方右に踏み込み体を左入身になって刀を抜き表鎬で受け流しています。特に身を捻ると云うより刀の切先を下げて摺り落す様に思えてしまいます。
 大江先生は、請ける・体を捻る・流す・反るの順番が読み取れます。河野先生、右足を右に踏み上段に振り冠りつつ受け流した敵に左足を向け、右足を左足に引き付け双手上段から真向に斬り下す。

 此処で河野先生の納刀では大森流の流刀、正座之部の請流の血振り納刀をするようには書かれていません。足捌きも無く「刀を開き血振り納刀する」で終わっています。その後の無雙直傳英信流居合道では受け流しの動作に変化は見られませんが「左足を後に退き血振い納刀す」とされ「注意-正座の受流と大体同要領を以て行ふなり」としています。

 奥居合として請け流しを稽古するならば、古伝神傳流秘書抜刀心持之事弛抜(ゆるみぬき、はずしぬき 読みは不明)を稽古する方が楽しいものです。それも設対者を設けて、打ち込んでもらい、相手の打込みをぎりぎりまで待って躱して打込む、刀で請けて流す様な事はしないことでしょう。
 相手も抜刀心持にある抜打を演じてもらうのです。抜打:「歩み行中に抜打に切敵を先に打心也」
 この抜打は細川先生系統梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術抜打:「(出合頭に斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り右手を柄へ掛けるなり、右足踏込み、出合頭に(正面へ)抜打に斬付け、左足を右前足に踏揃へると同時に刀を納め終る」この手附からは、右足を踏み込んでいますから片手抜打が妥当でしょう。諸手真向打ならば左足を踏み込みつつ刀を上に抜き上げ諸手上段となるや右足を踏み込み真向に斬り付ける。

 請ける仕太刀は、片手抜打ちならば左足を右足右前に踏みつつ刀を抜き出し、敵が片手打ちに抜き付けて来るのを、踏み出した左足を後方に退くや刀を上に左肩を覆う様に抜き上げ、諸手になるや右足を右前に踏み込み 体を右に躱しつつ斬り下す。斬り込む部位は本来打太刀の拳でしょう。

 奥居合を稽古するのに、居業を立業に変えるだけの稽古ならば、初期の段階で稽古させておくべきものです。

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2019年7月 4日 (木)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部9壁添

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部9壁添

 正面に向ひて立ち、両足を真直に爪先を立て左腕を脇に着けて動かさずして右手を柄に掛け、刀を上方に抜取り双手上段に取りて打ち下す、(此場合柄は下腹に接近し、刀尖は両足先に近き所迄切付く、)血振は打下したる状態にて右に刀を開きてなし、次に右拳を前より静かに納め終る、(左側に壁がありて普通の如く刀の抜けざる場合なり)

 大江先生の剣道手ほどきより壁添へ:「(進行中立留り両足を踏み揃へ上に抜き直下に斬下し竪立に刀を納む)中央に出で體を直立とし両足を揃へ刀を上に抜き上段となりて趾先を立てゝ真直に刀尖を下として斬り下し、其體のまゝ刀尖を下としたるまゝ血拭ひ刀を竪立として納む。」

 此の動作は、古伝神傳流秘書抜刀心持之事人中に相当します。:「足を揃へ立って居る身にそへて上へ抜き手をのべて打込む納るも躰の中にて納る」

 大江先生は何故奥居合では業名を変え動作まで変えてしまったのか解りません。
 古伝の抜刀心持之事では、場の状況による業名では無く敵との対応に依る業名が優先しています。しかし棚下と夜之太刀が場の状況下での動作になって居ます。古伝の人中は「ひとなか」では「立って居る身に添へて上に抜き・・躰の中にて納む」とは人の大勢いる所では、周りの人を傷つけない様に体の中で抜けと云うのです。
 大江先生は古伝の行違を袖摺返に変えてしまい人中での人を押し退けて前面の敵を斬る業を独創してしまったので、「ひとなか」での抜刀法では無く「壁添へ」壁に挟まれた狭い場所での抜刀法に想定を変えてしまった様です。
 河野先生は更に「左側に壁がありて普通の如く刀が抜けざる場合」とされています。それでは、右側はどうなってるんでしょう。説明不足です。
 取り敢えず壁があって抜くのが上にしか出来ないとします。その抜き上げる際、「左腕を脇に着けて動かさずして右手を柄に掛け、抜取り」左手で鯉口も切らずに抜刀するそうです。
 次の上段からの斬り下しは、「河野先生の場合疑問点が二つ、一つは「爪先を立てゝ・・刀を上方に抜き取り上段に取り」と不安定な足裁きをさせて置いて「刀尖は両足先に近き所迄切付く」のですが、踵を下したまま抜き取り、上段から打ち下す際、踵を上げて斬撃力を増すべきでしょう。河野手附ではふらついた手打ちにしかなりません。習い始めの頃は「自分はまだ居合に向く体作りが出来ていない、修行が足りないからだろう」と素直に自分の不甲斐なさを嘆いたものです。更に敵を真っ向から斬り下すのを何故爪先まで斬り下すのでしょう。その必要は、不必要な爪先立ちを先にしてしまったので意識的に大きく振り下すことで良しとしたのでしょうか。
 
 細川義昌先生系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神傳抜刀術では「人中」:「(群集中にて前の者を斬る)正面に向ひ、直立の儘(刀は落差に)鯉口を切り右手を柄に掛けるなり、刀を上へ引抜き(左より背部へ廻し)素早く諸手となり、前者へ斬込み(両足の間へ斬下す)其儘刀を開き、柄を上へ引上げ(刀尖を真下に釣下げる様にして)納め終る(体は直立の儘動かさぬ事)」
 斬り下しは「両足の間へ斬下す」ですから河野先生と同じでしょう。切先下がりであれば体の内側で血振りが容易そうです。
 納刀の説明で「刀尖を真下に釣下げる様にして」とは我が体前は空いているのに、不自然な要求ですが四角な筒の中での運剣の稽古と考えれば良いかも知れません。
 古伝の大らかさはドンドン失われて尾ひれがついてゆくものなのでしょう。

 英信流居合目録秘訣の上意之大事壁添:「壁に限らず総じて壁に添たる如の不自由の所にて抜くには猶以て腰を開きひねりて躰の内にて抜突くべし、切らんとする故毎度壁に切あてかもいに切あてゝ仕損ずる也、突くに越る事なし、就中身の振廻し不自由の所にては突事肝要」と有ります。
 不自由な所では突くべきなのでしょう。是は古伝神傳流秘書抜刀心持之事向詰にあります。向こうとは正面の敵に応ずるもので:「抜て諸手を懸け向を突打込也」
 これは大江先生の両詰で稽古した業になります。両詰:「(抜放け諸手にて真向を突き斬る)座したる處より右足を少し出して、刀を抜き、柄元を臍下に当て、右足を踏出して、前方を諸手にて突き、其姿勢のまゝ、上段にて前面を真向に斬る。」
 
 河野先生は「両詰」に拘って無雙直傳英信流居合道の奥居合居業の部両詰では:「意義-吾が両側に障害ありて、刀を普通の如く抜き得ざる場合にして、前の敵を刺突して勝つの意なり。」
 同じく壁添では「意義-吾が前面に敵を受け、左に壁ありて普通の如く抜刀し得ざる場合左上方に刀を抜きとりて斬り仆すの意なり。(右に壁ある場合も同意)」と補足されています。
 大日本居合道図譜では、:「意義-我が前面に敵を受け、左又は右に壁ありて抜刀自由ならざる場合ひ、刀を上方に抜き取りて敵を仆すの意なり」と進化してきています。
 人中なり、壁添で前方が開いているならば前に抜き出し刺突する古伝の向詰が有効です、前に抜き出しつつ刃を下に向け下から切り上げる抜刀をしっかり稽古する事で、敵の仕掛けてくる場合に応じられる勢中刀(月影)、稲妻などを身幅の中で抜刀する事も良いでしょう。

 古伝の人中が群集の中での抜刀法であったものを、壁の様な障害物が左側にある場合の抜刀法に変えてしまいおかしなものになった様です。動作は同じ事ですから「おおらか」に想定を巡らせてこの業の何故を思って見るのもいいのでしょう。然し古伝を伝承しているとか、昔はこうだったなどの嘘はつかずに、現代居合ではとか、明治時代に失伝寸前の土佐の居合の教えでは位の謙虚さが欲しいものです。或ははっきりと大江正路先生の居合ではと云うべきでしょう。この奥居合には居合の業と云うよりも人中では周囲の関係のない人を傷つけるな、と言っていると思うべきでしょう。


 

 

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2019年7月 3日 (水)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部8門入

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部8門入

 正面に進みつつ、例に依りて鯉口をきり右手を柄に掛け右足を出し前に抜き左足を踏み出して右拳を後方に引き(刀身は水平にして刀尖は鯉口の近くに)右足を踏出し、同時に右拳を前方に突込み左足を中心として左に廻りつゝ諸手上段に冠りて右足を大きく後方に踏込みて切り下し、更に左廻り(左足を中心として)には正面に右足を踏込みて切り下し、納刀する事前に同じ(頭上に鴨居又は門等ありて、刀尖が閊へる場合に行ふ業)次下次号。

 下線の右足の踏み込みについて、曽田先生のメモ「足踏みは右足を出して突きたる儘左廻りに後方を斬り又右廻りに前方を斬る足踏みは変へざるなり」

 大江先生の剣道手ほどきより門入:「(進行中片手にて前を突き後を斬り前を斬る)右足を出したる時、刀を抜き、左足を出して、刀柄を握り、腰に当て刀峯を胸に当て、右足を出して、右手を上に返し、刀刃を左外方に向け、敵の胸部を突き、其足踏みのまゝ体を左へ振り向け、後へ向き、上段にて斬り、直に右へ廻り前面に向き上段にて斬る。

 曽田先生も大江先生も足踏みを変えずに前後を斬って居ますが、この業で得るべき心得は何も示されていません。門の想定を考えた時、斬り込む際上が閊える場合の斬り込みは棚下の様にすべきでしょう。棚下でも現代居合の様に棚下から抜け出して斬る様なおかしな想定では無く、棚下で斬る想定で稽古すべきものでしょう。足踏みを変えずに後ろを切り前を斬る。是では門から抜け出ていません。
 河野先生の足踏みでは、後の敵を斬る時は門の中心から抜け出ていますが、振りかえって前の敵を斬る時は門の中心に体軸はあるので斬り込みは後ろと同前とは言えません。

 河野先生の大日本居合道図譜の門入りの意義:「我門の出入りに際し、門の内外に多数の敵を受けたる時(前後に多敵を受けたる場合と同意)我れ門の真中に進み内外の敵を仆すの意なり」ですから、是は古伝の棚下での運剣を学ばなければ不覚を取りそうです。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事棚下:「大森流逆刀の如く立って上へ抜打込む時体をうつむき打込是は二階下様の上へ打込ぬ心持也」この教えは現代は棚下から抜け出る教えに変わってしまったので、上が閊える場所での運剣は稽古業には無くなってしまいました。

 門入は古伝神傳流秘書抜刀心持之事には業名および業書として存在しません。居合兵法極意秘訣の當流申伝之事に:「門戸出入之事夜中うたがわしき處にては先ず我が足より先へ出すべし、刀鞘共にぬきかけて我が首之上にかぶりて出入すべし三方のワザワイ止るなり、其上は時々自分自分のはたらき有るべし。」と有ります。
 又、英信流目録秘訣の上意之大事に門入の解説があります。:「戸口を出入するの心得也戸口の内に刀をふり上て待つを計り知るときは刀の下緒のはしを左の手に取刀を背負いてうつむきとどこおり無く走り込むべし、我が胴中に切かくるや否や脇指を以て抜つけに足をなぐべし。」

 これらの教えをミックスして門入と云う業を大江先生は独創したかも知れません。細川先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神傳抜刀術にはそれらしき業は見当たりません。
 下村派第14代下村茂市から細川先生に業手附として伝わるものが無かったのでしょう。大江先生の独創された業であったと云うより、谷村派第18代穂岐山波雄先生の教えに門入の動作があったのでしょう。大江先生の教えと云えます。
 それにしても「門入」と云うのならば河野先生の(頭上に鴨居又は門等ありて、刀尖が閊へる場合に行ふ業)の動作が河野先生にも大江先生にも文章でその動作が見えないのは何故なのでしょう。既に棚下で刀が天井に当たるのを避けた運剣を稽古して来ています。
 河野先生の右足を踏出す足捌きは、状況次第で出しても出さなくても良いのでしょうが、大江先生の独創された業ならば更に独創するなと言えるでしょう。
 河野先生は、右足の踏み出しは大日本居合道図譜でもスクラップ同様に踏み込んでいます。刺突の刀刃の向きですが大江先生は「右手を上に返し、刀刃を左外方に向け、敵の胸部を突く」ですが、河野先生は、無雙直傳英信流居合道でも大日本居合道図譜でも「刃を外にして」ですから、右手を上に返さず、刃を右側外向きにされています。
 同様の突き業は立膝の部瀧落にあるのですが、大江先生の瀧落の突きは「胸に当てたる刀を右手を伸ばし刀は刃を右横に平として突き」あります。門入りは「刃を左外方に向け」しかも「右手を上に返し」です。手を上に返すと簡単にはたき落されてしまいますし、衝撃によって握りが外れる可能性は高いものです。手を下に向け、柄を右手上腕部下に納めるべきでしょう。

 

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2019年7月 2日 (火)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部7袖摺返

曽田本その2を読み解く
20スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部7袖摺返

 正面に進みつゝ例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛け右足を踏出すと同時に刀を抜き出し、右足を左足にひきつけつゝ両腕を前に組み、右足を進めて両腕を左右に大きく広げ、左足を出したる時双手上段に振冠り更に右足を踏み込みて打下す。敵と我との間に他人があり其れを押し除けて敵を斬るの意。

 大江先生の剣道手ほどきより袖摺返:「(進行中抜放ち、刀を左の身に添へ群集を押開き進みつゝ斬る)右足の出でたる時、刀を静に抜き、直ちに右手は上へ左手は下へ胸の處にて組見合せ、足は左右と交叉的に数歩出しつゝ、両手肘に力を入れて、多数の人を押し分ける如くして、左右に開き、直に上段に取りて、中腰にて右足の出でたるとき、前面を斬る、(両手を開く特は、両手を伸ばす、肘の處を開くこと)

 この大江先生の袖摺返は古伝神傳流秘書の行違の変形です。替え業と云った方が良いかも知れません。業名の袖摺返は大小立詰の一本目にある袖摺返から盗んだものでしょう。

 大江居合の袖摺返の方法で群集をかき分けて、かき分けた人に疵を負はせずに敵と向い合えるか疑問です、然も抜刀しての動作ですから居合とは言えそうにもありませんが、現代居合ですから現代の手附の儘に演じるばかりです。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事行違:「行違に左の脇に添へて拂ひ捨冠って打込なり。」
 この行違は、しっかり稽古して置きたい業の一つでしょう。特にすれ違う寸前に抜刀して刃を左外向きに左腕外に添えて、すれ違いざまに引き切る様に摺り切ってすり抜け、即座に左回りに振り返って振り冠り後ろから打ち込む。

 古伝神傳流秘書大小立詰袖摺返:「我が立て居る處へ相手右脇より来り我が刀の柄と鐺を取り抜かせじとする時其儘踏みしさり柄を相手の左の足のかゞみに懸け中に入り又我右より来り組付をひじを張り体を下り中に入る。」

 行き違うのですから敵は我が正面より歩み来って我が左脇を摺れ違って行こうとする、我は刀を抜き放ち刃を外に向け左脇に添えて行き違い様に敵に斬り付けてすれ違うや、刀を右肩から上段に振り冠りながら左廻りに斬り付けた敵に振り向きざま真向より斬り下す、と言う大技です。

 細川義昌先生伝の梅本三男先生居合兵法無雙神伝抜刀術の行違:「(摺違ひに左側の者を斬る)正面へ歩み往きつつ(右側を通り)鯉口を切り、左足踏み出しながら右手を柄に掛け、右足を踏出すなり刀を向ふへ引抜き、左足踏出しつつ(刃部を外へ向け)左腕外へ突込み、更に右足踏出すと共に摺違ひに刀を向ふへ摺抜き(対手の左側を軽く斬り)直ぐ左斜に振返へりつつ、諸手上段に振冠り右足踏込んで斬込み刀を開き納め終る。」

 細川先生は大江先生の兄弟子に当たります。大江先生は業の内容について十分学んだかどうか疑われるものです。良く解釈すれば、古伝の業は、不意打ちのきらいがありますから、中学生向きには古伝を改変して、群衆を押し退けて前面の敵を斬る業にした、とも取れそうですが、さて如何なものでしょう。
 上意打ちであれば、いかなる理由があろうとも、役目は果たさなければなりません。又相手との思想の違いから最後の手段として戦わざるを得ない状況下での闘争であれば、相手も使い手である事もありそうです。そこまで業の意義をとやかくする前に、その状況下での行違う場合の業技法の修得はすべきものでしょう。
 ポイントは、行き違う何処で抜刀するのか、どの様に相手の何処を拂い捨てるのか。仮想敵も描けない者には古伝を学ぶ事も出来そうにありません。

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2019年7月 1日 (月)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部6行違

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部6行違

 正面に向ひて進みつゝ、右足を踏み込みて鞘諸共抜出し、柄頭を以て敵の顔面を一撃し、其のまゝ刀を上に抜取りつゝ体を左方より後に向き(足は其儘)双手上段に振り冠て後方の敵に切り込み、更に右廻り正面になりつゝ真向に割り付けて刀を納め終る事前に同じ(詳細は口伝の事)

 大江先生の剣道手ほどきより行違:「(進行中正面を柄頭にて打ち、後を斬り又前を斬る)右足の出でたる時、(敵顔面を柄頭にて)左手は鞘と鍔を拇指にて押へ、右手は柄を握りたるまゝ前方に伸し、柄当りをなし、其足踏みのまゝ体を左へ廻して、後方に向ひつゝ、抜き付右手にて斬り、直に前方の右へ振り向き上段に斬る。」

 どちらの文章も不十分な表現ですが、両方読んでみると動作が見えて来る様です。河野先生の「詳細は口伝の事」は何でしょう。
 河野先生の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年の行違:「意義-吾れ前進し、敵両名前後して進み来る時、敵の両者の間に至りてすれ違ひざまに前面の敵の顔面人中を柄頭にて当て、後に振向きて先頭の敵を仆し、更に旧に向き直りて前面の敵を仆して勝つの意なり。 
 注意-武士の歩行は帯刀の関係上、現今と同様左側通行なりしを以て、其の心持にて行ふ事。
 動作-正面に向ひて直立し、前に進みつゝ左手を鯉口に拇指を鍔に掛け、右手を柄にかけるや、右足を踏み込み鞘諸共も左腕を十分延ばして抜き出し柄頭を以て敵の顔面を一撃し、其のまゝ刀を上に抜きとりつゝ体を左より廻りて後に向き(足は其位置にて)て双手上段となり後方の敵に斬り下し、更に右より廻りて正面になりつゝ双手上段に振冠りて真向より斬り下し、血振ひ納刀す。」

 河野先生の言われる「詳細は口伝の事」が、さて含まれているのでしょうか。大江先生は「・・後方に向ひつゝ、抜き付右手にて斬り」ですから、右片手抜打ちして後方の敵を倒し、「前方の右へ振り向き上段に斬る」前方の右へ振り向きの意味が疑問ですが、現代風にやれば右廻りして、上段ですから諸手になって斬り下すのでしょう。

 古伝神傳流秘書抜刀心持では、この行違は「連達」となって居ます。「歩み行内前を右の拳にて突其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振向て打込也」
 連達ですから、前後に敵を受けて同一方向へ歩み行く際の攻防でしょう。我から仕掛けてまず、柄頭では無く拳で前の敵の後頭部を打ち、即座に左回りに振り向きざま後方の敵を斬る、其の侭振り向いて前の敵を斬って居ます。
 大江居合はここでも、敵は我が前方より二人して近づいてくるので行き違う際の攻防です。そこで河野居合の武士の左側通行が約束されているからそのつもりで演武しろと云うのです。現代居合はどう見ても行き違う動作は無く、連れ達の動作ばかりです。想定をいじったら動作もいじらなければおかしいでしょう。
 敵が前方より来るならば、一人目をやり過ごしてその二人の間に右足を斜め前に踏み入れ柄当てしてから後ろに廻る・・。之が口伝。でも動作は連れ達のまま右への踏み込みはしない。

 古伝の行違は:「行違に左の脇に添へて拂ひ捨冠って打込也」。
 此の場合は、敵は前方より我が左側を行き違いに行こうとしている攻防としてとらえていますが、指定されていないので右側を通る場合にも応用できなければならないでしょう。
 大江先生はこの業名を、拝借してしまったのでしょう。現代居合では次の業「袖摺返」が近いものになります。古伝はおおらかですが当を得た動作であるべきでしょう。

 細川居合では梅本先生の行違は:「(摺違ひに左側の者を斬る)・・」ですから古伝と同じです。
 連達は:「(前後の者を斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り右手を柄に掛けるなり抜打に(前の者へ)斬付け直ぐ(左廻りに)後へ振返へりつつ諸手上段に振冠り右足踏み込んで(後の者へ)斬込み刀を開き納め終る。」
 前の敵を抜き打ちに斬って振り向いています。下村派14代の教えは何処かおかしかった、敵の位置情報が連れ達の場合としては不明確、是では前後に詰めかけられた場合とも取れます。古伝の心は失われていたのでしょう。

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2019年6月30日 (日)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部5信夫

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部5信夫

 正面に向ひて進みつゝ、例に依りて鯉口を切り体を沈め向ふを透し見て左に一歩披き刀を抜き正面を見つゝ体を右に十分及ばして刀を右前に突き出し、及びたる体を引き越し空を切らせ、直ちに刀を右より双手上段に振り冠り右足を踏込みて切り下し納め終る事前に同じ。(詳細は口伝の事)

 大江先生の剣道手ほどきより信夫:「(暗打ち)左足より右足と左斜方向に廻りつゝ、静に刀を抜き、右足の出でたるとき、右足を右斜へ踏み、両足を斜に開き、体を稍や右横へ屈め中腰となり、其刀尖を板の間に着け左足を左斜に踏み込みて上段より真直に斬る、其まゝの中腰の体勢にて、血拭ひ刀を納む。」

 大江先生と河野先生では足捌きが異なります。
 河野先生は前進中正面をすかし見ながら(透かし見るのですから、敵の位置は把握できていそうです)左に一歩左足を踏み込み刀を抜く、体は正面向きですが左足は左斜め前に踏み込まれています。足は正面左斜め向きです、体を右に倒しながら刀尖を右前に突き出し(この時現代居合は剣尖で地を打つのですがここでは突き出すだけです、意味のある動作でしょうか、敢えて言えば誘いです)、敵が斬り込んで来るのを体を起して外し、直ちに右から双手上段に振り冠って、右足を敵の方へ向けて踏み込み斬り下し納める。 敵を想定して打込むのですが、敵も我を認識しているのでしょうか、状況が判らない攻防です、詳細は口伝などと云う業手附ではお粗末です。

 大江先生は暗打ちとは闇討ちでしょうか、左斜めに左足右足を踏み込んで正面歩行線より左へ「廻りつゝ」刀を抜き、右足を右斜めへ踏込んで左右の爪先を外に開き、体をやや右横に屈め中腰となって、刀尖を板の間に着け(どのあたりに着けるのか、多分右足爪先の右前方に身を屈めて刀尖を着けるのでしょう)、左足を左斜め(前)に踏み込み敵の打込みを外し、同時に上段から(刀尖を床板に着けた位置に)真っ直ぐに斬る。

 河野信夫も大江信夫も抜けだらけなのか、表現力が乏しいのか、私の理解力が現代居合にとらわれ過ぎて惑わされているのか、誤字があるのか「ぼーっと稽古してんじゃねえよ」って叱られそうです。

 河野先生を指導された18代穂岐山先生の指導による野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考より信夫:「惣留同様暗夜に敵を誘い打つ。静かに前進しつゝ敵の近づきたるを感得し、抜き足にて右足を左足の左前に踏み、次に左足をその前に踏まんとする時柄に手をかけ徐ろに刀を抜き、更に右足を左足の前に踏出すに及び体を右横にそらせ切先を以て右前の路上を軽く叩きて敵を牽制し、敵の其方向に打ち込み来るを待ちて上段となり左足より突進右足を出して斬り下す。其まゝの体勢にて血拭い納刀す。」

 「敵の其方向に打ち込み来るを待ちて上段となり左足より突進右足を出して斬り下す」の文言が気がかりですが前者の文章より理解できます。

 細川義昌先生の系統の梅本三男先生による居合兵法無雙神伝抜刀術の夜太刀:「(暗夜に斬込み来る者を斬る)「正面へ歩み往き止まりて、左足を左へ大きく披き体を右へ倒し低く沈め、正面より来掛かる者を透し見つつ刀を引抜き向ふへ突出し、刀尖で地面を叩きその音に斬込み来るを急に右足諸共体を引起こしつつ諸手上段に冠り(空を斬って居る者へ)右足踏込んで斬込み、刀を開き納め終る。」

 梅本先生の文章は状況を明確に感じさせるもので、真暗闇なので敵も我を認識しても不覚を取るので、地面を叩いて誘い、切って懸るを体を外して打込むのでしょう。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事夜ノ太刀:「歩み行抜て体を下り刀を右脇へ出し地をパタと打って打込む闇夜の仕合也」

 古伝は抜けだらけですが、要点はきちんと押さえています。状況が目に浮かぶのは現代居合の信夫のお陰でしょう。

 河野先生も昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道の信夫:「意義-暗夜、前方に幽かに敵を認め、吾れ左側に体をかわし、敵の進み来る真正面の地面に我が剣先を着けて敵を引き寄せ、敵其の所に切り込み来るを上段より切り付けて勝つの意なり。動作略す」

 闇夜でも目が慣れて来ればかなり見えるものです。ましてかすかにでも敵を認識出来れば誘いも出来るでしょう。同様に敵も我を認識できると思って当然です。真っ暗闇だから、音を立てて敵を誘って切るとの教えもある様ですがそれだけに捉われたのでは、ここで示された敵の切り込みを外して斬る業はできないでしょう。この業は居合と云うより剣術の心得と云えます。

 英信流居合目録秘訣極意ノ大事に夜之太刀があります。:「夜中の仕合わ我わ白き物を着べしてきの太刀筋能見ゆるなり場合も能知るゝものなり。放れ口もなり安し、白き肌着などを着たらば上着の肩を脱ぐべし、かまえは夜中には下段宜し敵の足を薙ぐ心得肝要なり、或は不意に下段になして敵に倒れたると見せて足を薙ぐ心得も有るべし」

 居合兵法極意巻秘訣にも月夜之事:「月夜には我は陰の方に居て敵を月に向はすべし、我はかくれて敵をあらわす徳有り」
 同じく闇夜之事:「やみ夜は我が身をしずめて敵の形を能見透かすべし、兵器の色をはかるべし、若難所有らば我が前に当て戦うべし、敵の裾をなぐる心持ちよし」

 是等をよく読んでみますと、細川先生の夜太刀はその心持ちを含んでいる様です。
 河野先生の大日本居合道図譜の信夫の意義:「夜太刀とも称し暗夜前方幽かに敵を認め我左方に体を転じて、進み来る敵の正面を避けて、右方(敵の正面)に剣先を地につけ音をさせて其所に敵を引附け、之に斬り込み来るを我右斜めに進みて上段より斬下して勝つの意」
 第22代はさらに「・・暗夜の中互に其の存在を求めて忍び会う中、我密かに敵に先んじて敵の存在を認め、・・」と変わっています。先んじて敵を認識する事は出来るでしょうが、少しでも我が動けば敵も即座に認識すると思えます。この信夫、古伝の夜の太刀の真意は何処にあるのか、悩みます。形は演じられても術が決まるかがポイントでしょう。古流剣術は形は出来ている様に見えても術が決まらず奥の深さに己の不甲斐なさに泣かされるものです。

 

 

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2019年6月29日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部4惣留

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部4惣留

 正面に進みつゝ、例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛けると同時に右足を踏み出して腰を十分左に「ひねり」て右斜前に抜きつけ、左足を右足先迄引き寄せ乍ら刀を納め、右足を踏出しては又右斜前に抜きつけ三度足を繰り返し腰を正面に「ひねり」て血振ひして納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより奥居合立業能力部能力12、惣留め:「(進行中三四遍斬っては納む)右足を出して、刀を右斜へ抜き付け、左足を出して抜き付けたる刀を納む、以上の如く四五回進みつゝ行ひ、最後の時は其まゝにて刀を納む。

 河野先生も大江先生も同様の想定で動作を付けられていると思います。
 河野先生は右足を踏出し「右斜前に抜き付け、左足を右足先迄引き寄せ乍ら刀を納め」ます。
 大江先生も右足を出して「右斜へ抜き付け、左足を出して抜き付けたる刀を納む」です。
 どこが違うかです、大江先生は右足を踏み込んで右斜め前に抜き付け、左足を右足の前に出して刀を納めると読めてしまいます。河野先生は抜き付けた右足先迄左足を引き寄せ乍ら刀を納めます。「左足を出して」「左足を右足先迄引き寄せ」の読み解くのですが、文章表現は微妙です。

 河野先生の無雙直傳英信流居合道の惣留:「意義-吾れ狭まき板橋又は堤、或は階段等の、両側にかわせぬ様な場所を通行の時、前面より敵仕掛け来るを、其の胸部に斬り付け、一人宛を仆して勝つの意なり。動作-正面に向ひて直立し、前方に歩み行きつゝ、鯉口をきり、右手を柄にかけるや右足を前に踏み込み、腰を十分左に「ひねり」て半身となりて抜打に右斜に斬り付け、左足を右足先迄引き寄せ乍ら刀を納め、右足を踏み込みて前述同様に斬り付ける事三度にして、斬り付けたる所より腰を正面に捻ると同時に血振いし納刀す。」

 昭和8年のスクラップと同じで「左足を右足先迄引き寄せ」です。狭い板橋ですから、右足と左足を揃えるのは基本としても難しい場合が有りそうです、左足は右足前まで踏み込むべきかもしれません。

 18代穂岐山先生の指導を受けられた野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考による惣留:「暗夜細道にて敵に遭いたる心地にて右足を出し、中腰のまゝ体を左へ捻り刀は前に抜き打ち、左足を千鳥に前に出して(交叉)体は低く刀を納む、以上の動作を三、四回繰り返し、最後に体を正面に直し血拭い納刀。」
大江先生の教えに添っている様で、左足は「千鳥に出して(交叉)」と云って千鳥足の裁きで状況を示しています。

 面白いのは細川先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術英信流奥居合之部放打:「(右側へ来掛る者を一々斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り左足踏出したる時、右手を柄に掛け右足踏出し右前へ抜付け左足を右前足に踏揃へる、同時に刀を納め、又右足踏出して抜付け左足を右前足に踏揃へるなり刀を納め、する事、数度繰返し(三回位して)刀を納め直立の姿勢となり終る。」

 梅本先生は河野先生同様に右足に左足を踏み揃えて納刀しています。細川先生と大江先生は下村茂市に師事した同門ですが、惣留の足裁きが違います。状況に応じて対処せよと云った塩梅でしょうか。

 古伝神傳流秘書の抜刀心持之事放打:「行内片手打に切納ては又切数きわまりなし」

 古伝はおおらかです、状況に応じて如何様にも工夫せよと云っています。
 参考に、居合兵法極意巻秘訣の絶道之事:「絶道の仕合は左右後の三方には道無前には敵多あるを云、左様の地にては少しものがれんと思ふべからず死を本とすべし、伝に云う両脇川池深田などの類にて後は山なる時は不去不退にて利を計るべし両脇の内に山ありて後池などある時は先の上へ登りて利を計るべし。」
 惣留の参考の端になり得たか否かです。

 惣留の連続して右斜めへの抜打ち後の足捌きは場によるとして、現代居合では一回ごとに納刀時に正面に向き直って納刀していますが、明治の方々は最後の抜打ち後の納刀のみ正面に向き直っています。河野先生の昭和17年1942年の大日本居合道図譜でも「「斬付の最後に半身より正面に体を向き直るや血振をなして納刀す・」とあって其の都度体を正面に向ける事は要求していません。次の敵が待ち構えて切って来るのですから、納刀するのも不自然ですが、納刀中次の敵が攻め来るを察知したのであれば半身の侭応じるべきでしょう。手打ちになりやすいので斬撃力を増すためには正対する事も不可とは言えません。

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2019年6月28日 (金)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部3惣捲り

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部3惣捲り

 正面に進みつゝ例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛け右足の出ると同時に刀を引き抜きて、右足を左足に引き付けつゝ双手上段にとり右足を踏込みて敵の左面に切り付けると同時に左足を右足に引き付け更に右足を踏込み刀を返して肩に斬りつけ尚(切り付けたる時左足を右足に引付ける事以下同じ)右足を踏み込て胴に切込み、右足を更に出して腰を低めて腰を左より一文字に払ひ、直に上段に大きく振冠りて正面を割付け刀を開きて納める事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきによる惣捲り:「(進行中面、肩、胴、腰を斬る)右足を少し出して、刀を抜き、其足を左足に引き寄せ、右手を頭上へ廻し、右肩上に取り、左手を掛け稍や中腰にて(右足より左足と追足にて)敵の左面を斬り、直に左肩上に刀を取り、追足にて敵の右肩を斬り、再び右肩上段となりて、敵の左胴を斬り、再び左肩上段となり右足を踏み開き敵の右腰を目懸け刀を大きく廻し体を中腰となして敵の右腰を斬り、中腰のまゝにて上段より正面を斬る、(左面斬り込みより終りの真面に斬ることは一連として早きを良しとす)。」

 大江先生と河野先生の動作比較をすれば、右足を踏出して斬り左足を右足に引き付ける追い足捌きは同じでしょう。河野先生は、竹刀剣道の統一理論に依り一旦上段に振り冠ってから右肩上から左面、又上段に振り冠ってから左肩上から右肩と云う様な運剣動作をしています。
 大江先生は、右肩上から左面、左肩上から右肩、右肩上から左胴と云う古流の運剣をしています。
 大正7年の剣道手ほどきから15年程時代が進むと、八相の構えから直接斬り込む運剣は消されて、一旦上段に振り冠ってから八相に構え直して八相に斬る可笑しな運剣が蔓延した様です。

 河野先生の動作で、説明されていなかった「右手を柄に掛け右足の出ると同時に刀を引き抜きて、右足を左足に引き付けつゝ双手上段にとり右足を踏込みて敵の左面に切り付ける」は、昭和13年1938年の「無雙直伝英信流居合道」では「右手を柄にかけるや右足の出ると同時に刀を水平に前に抜き、(刃を上にして刀先八寸位い迄)右足を左足に引き付けつゝ、刀を斜に高く頭部より左肩を囲む様にして抜き払ひ乍ら敵刀を摺り落すや、(敵刀を外すも同意也)双手上段になり、右足を踏み込み敵の左面に斬り付ける」とされています。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事には「惣捲り」という業名の手附は無く五方切があります、:歩み行内抜て左の肩へ取り切又左より切又右より切又左より切段々切下げ其侭上へ冠り打込也」

 細川先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術奥居合之部五方斬:「(前方に立って居る者を斬る)鯉口を切り左足踏出し、右手を柄に掛け右足踏出す同時に刀を引抜き刀尖を左後へ突込み、頭上より右肩へ執り対手の左大袈裟に斬込み、其刀を右上より振返へし頭上より左肩に執り対手の右袈裟に斬込み、又、其刀を左上より振返へして右腕外へ執り、腰を低めて対手の左腰より横一文字に斬込み、甲手を返へして左腕外へ執り、更に腰を下げ対手の向脛を横に払ひ腰を伸ばしつつ諸手上段に振冠り(真向幹(乾竹の誤植)竹割に)斬下し刀を開き納め終る。」

 夫々古伝の業手附を個性豊かに演じている様です。

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2019年6月27日 (木)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部2連達

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部2連達

 正面に向ひて前方に歩み行きつつ例に依りて静かに鯉口をきり右手を柄に掛けると同時に右足を右斜前に踏出し左後に振り向き右斜に刀を抜き取りて左肩先に刀を水平に刀の鍔元迄突込みて左後の敵を斃し、更に右斜前に振り向きつゝ双手上段に冠りて切下し納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきによる連達:「(進行中左を突き右を斬る)右横へ右足を踏み、体を右に避け、刀を斜に抜き、左横を顧み乍ながら刀を水平として左を突き、右へ体を変じて上段にて斬る。

 大江先生の連達と河野先生の連達とは敵の立位置が違います。河野先生は敵は右前と左後、大江先生は右脇と左脇です。連れ立って歩む我と敵とはどの様に連れ達のでしょう。
 左右の敵と横一線で並んで同一方向に歩み行のでは、我が抜刀するために歩を留めたのでは、左右の敵は右前、左前になる。状況を察した敵が我と同じ様に立ち止まるのであれば左右に並ぶ。大江先生の手附になります。河野先生の場合は左の敵が先に抜刀しようと足を止めて遅れなければ成立しない。此の業を演じる際、仮想敵をどの様にしたらいいのでしょう。
 一本前の行連ならば左右に敵を伴って歩み行き一歩盗んでやり過ごせばいいのですが、河野先生の場合は左の敵が左前にならない為には河野先生は大日本居合道図譜では意義に:「敵が我を中間にして雁行の場合左敵一歩後れたる場合、左敵を刺突して右敵の振向く所に斬下して勝つの意也」されています。
 この意義は河野先生の無雙直傳英信流居合道の奥居合之部立業之部では:「・・吾れ右斜に一歩かわしたるを(敵をやりすごす)左方の敵、事前にそれとさとりて一歩後れたるを、其の機先を制し之を刺突して仆し、更に右方の敵の振向く所を斬り付けて、勝つの意なり。吾を中にして三人雁行の時も又同意なり。」

 22代は更にこの連達について、意義は河野先生と同様ですが、「右足を右斜前に踏出し・・」の所に「刀刃を上にして抜くが、この時、刀を出来得る限り床面と平行に抜き懸け、柄頭を以って(気力を籠めて、対敵の腰車の高さに目掛けて当て込む気を以って)右敵に殺気を感じせしめ、立ち止まりて振り向き返る様に気力を籠めて行う捌き必要なり」と無雙直伝英信流居合道解説に示されています。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事では、連達は:「歩み行内前を右之拳にて突其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振向て打込也」と有りますから、之は現代居合では行違に大江先生が改変してしまいました。
 この大江先生の連達は古伝神傳流秘書では行連に括られています:「立って歩み行内に抜て左を突き右を切る両詰に同事也」となります。座業の両詰です。:「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る(番外-右脇へ抜打に切り附け左を斬る)」
 古伝は素っ気ないほどにおおらかです。後は自分で考えろと云うのでしょう、それとも師匠の口伝、口授、看取稽古、に依るのでしょうか。業手附はその人の哲学が加えられて狭い路に踏み込んで行き、武的演舞の世界に躍り出るものです。
 習い・稽古・工夫によって守破離と云うのですが、昇段審査や演武競技会では、試験問題は正しく清書すべきなのでしょう、其処に留まるのもいいかもしれません。

 この両詰は英信流居合目録秘訣上意之大事で詳細な説明があります。:「是又仕物抔言付けられ又は乱世の時分抔には使者抔に行左右より詰かけられたる事間々之有也、ケ様の時の心得也、尤其外とても入用也、左右に詰かけられたる時一人宛切らんとするときはおくれを取るなり故に抜や否左わきの者を切先にて突すぐに右を切るべし、其のわざ唯手早きに有り。亦右脇の者に抜手を留らるべきと思ふ時は右を片手打に切りすぐに左をきるべし」。現代居合の行連の業は古伝の連達の番外業でした。

 

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2019年6月26日 (水)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部1行連

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部1行連

 正面に向ひ前方に歩み行きつゝ、例に依りて静かに鯉口を切り右手を柄に掛け同時に右斜前の敵を抜打に切り付け、直ちに左斜前に向き乍ら双手上段に引冠り右足を踏込みて左斜前の敵に切り込みて、刀を右に開きて同時に左手を腰に取り夫より鯉口を握りて納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきの行連:「(進行中右に斬付け又左を斬る)直立体にて正面を向き、右足より数歩出で、道場の中央となりたる處にて、左足を左横に踏み、上体を稍や左横に寄せ右足を右横に踏み出す時、中腰にて抜き付け、上段にて右を斬る、其足踏みのまゝ、左横に体を返して、上段にて中腰にて斬り、同体にて血拭ひ刀を納む、(血拭ひ刀納めは以下之と同じ)」

 河野先生の行連には、大江先生の想定の「左足を左横に踏み、上体を稍や左横に寄せ」の動作が見られません。此の動作は稍々前進を押さえて敵との間を調整する動作がありません。想定についてですが河野先生も大江先生も敵と我はどのような状況にあるのかが述べられていません。
 「左足を左横に踏み」によって何が起こるのでしょう。現代居合では「左右の敵と同一方向に進行中」の攻防とされています。そうであれば、左足を左横に踏む事は一歩踏んでも左横ですから、敵を一歩分やり過ごす事になります。敵は一歩斜め右前と左前になって大江先生の右横、左横に敵は居ません。

 河野先生は其処で「右斜前の敵を抜打に切り付け、直ちに左斜前に向き乍ら双手上段に引冠り右足を踏込みて左斜前の敵に切り込み」となっておかしくはない。大江先生の「右を斬る・・左横に体を返して上段にて中腰にて斬り」は」「右斜前・左斜前」となるべきでしょう。
 大江先生の「上段にて右を斬る」と有るのですが、右敵へは「中腰にて抜付け、上段にて右を斬る」中腰の表現をどう演ずるか疑問なのと、抜き付けは斜め前ですから片手の斜め抜打が自然で、抜いてから上段に振り冠って右敵を斬るのはお粗末です。

 河野先生は、この行連に疑問を持ったのか、大江居合を参考にされたのか昭和13年1938年の「無雙直傳英信流居合道」の行連では:「意義-吾れ不法に連行される如き場合、吾れを中に左右に敵あり前進歩行中、敵の機先を制し一歩やりすごし乍ら右の敵を抜打に仆し、更に左の敵の振向かんとする所を斬り付けて勝つの意なり。正面に向ひて直立し、前方に進みつゝ、静かに鯉口をきり、左足を少し左に開き、敵をやりすごし、右手を柄にかけるや、右足を右斜前に踏み込むと同時に抜打ちに(刃を上にし)右の敵に、右片手にて斬り付け・・」と直されています。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事の両詰の変化業で「右脇へ抜打に切り付け左を斬る」の座業を立業にしたようなものです。大江先生の独創でしょうと云われますが、この業は細川義昌先生系統の梅本三男先生の「居合兵法無雙神傳抜刀術」の英信流奥居合之部11、行連に同様の業がます。行連:「(左右の者を斬る)正面に向ひ、歩み往きつつ鯉口を切り右手を柄に掛け、右へ振向くなり抜打ちに(右の者へ)斬付け、直左へ振返へりつつ諸手上段に振冠り右足踏込んで(左の者へ)斬込み刀を開き納め終る。」

 梅本先生の手附には奥居合之部12、連達という業があります。
 連達:「(前後の者を斬る)正面へ歩み往きつつ鯉口を切り右手を柄に掛けるなり抜打に(前の者へ)斬付け、直ぐ(左廻りに)後へ振返へりつつ諸手上段に振冠り右足踏込んで(後の者へ)斬込み刀を開き納め終る。」  
 梅本先生の奥居合之部には、前後に座して居る者を斬る「4、前後詰」と左右に座して居る者を斬る「5、両詰」があります。大江居合は古伝とアンマッチな業名や古伝に無い動作が幾つか見られるのですが、特に奥居合に集中しています。大江先生は下村派14代下村茂市定に師事して居ましたからその業を習ったか、兄弟子が演じるのを見ていた可能性は大きいでしょう。細川居合も下村茂市の教えに依るとは思いますが絶対という証明はできません。
 大江先生は奥居合ではかなり業手附及び業名を復元するのに苦戦されたかもしれません。明治という時代が為せる事でしたが、その後の剣術や体術、弓術の統一思考によって、古流が消えてしまった事を考えると、一概に武士が武術では飯が食えず失職して古伝が消えただけでは無く、十分な指導を受けられずに激動の時代を迎えてしまい、あえて消し去った一部の指導者の思想に負うところが大きそうな気がします。

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2019年6月25日 (火)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業之部8虎走

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部8虎走

 正面に向ひ立膝に座し、左手にて鯉口を握りたるまゝ右手を柄にかけ、体を低くして立ち上り前方に小走にて走り行き、腰を延して右足を踏み込みて抜き払ひ左膝を跪きて双手上段となりて割付けて血振ひして納刀し、直ちに右足を左足に引き付け右手は柄に掛けたるまゝ更に低く立上りて、小走に走り戻りて左足を退きて抜き払ひ左膝を跪きて双手上段に割りつけ、血振ひして納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより虎走り:「(中腰となり、走り抜斬又後ざりして抜斬る)座したる處より柄に手を掛け、稍や腰を屈め、小走りにて数歩進み出で、右足の踏み出したる時抜き付け、同体にて座して斬る(血拭ひ刀を納むるや)刀を納めて二三寸残りし時屈めたる姿勢にて、数歩退り左足を退きたる時中腰にて抜付け上段となり座して斬る。(座抜き終り)」

 大江先生と河野先生は同じと思われます。
 古伝神傳流秘書抜刀心持虎走:「居合膝に座して居立って向へ腰をかゞめつかつかと行き抜口の外へ見へぬ様に抜付打込納 又右の通り腰をかゞめ後へ引抜付打込也」

 古伝の虎走と業名および動作は略同じでしょう。古伝の虎走は、座して居ますが立って斬る事からでしょう、立業に属します。虎走の要点は、小走りに敵に追いすがるのではなく「つかつか」と敵に悟られない様に、周囲の同坐する者に気付かれない様に自然体で歩み行き「抜口の外へ見へぬ様に抜付」るポイントが失伝しています。
 英信流居合目録秘訣上意之大事に虎走のポイントが述べられています:「仕物抔云付られたる時は殊に此心得入用也其外とても此心得肝要也、敵二間も三間も隔てゝ座して居る時は直に切事不能其上同座し人々居並ぶ時は、色に見せては仕損る也、さわらぬ躰に向ふゑつかつかと腰をかゞめ歩行内に抜口の外へ見ゑぬ様に躰の内にて刀を逆さまに抜つくべし、虎の一足の事の如しと知るべし、大事とする所は歩みにあり、はこび滞り無く取合する事不能の位と知るべし。」

 河野先生がこの古伝の教えを目にしたのは無雙直傳英信流居合術全発行以降の事でしょう。大日本居合道図譜の虎走では:「中腰にて体を低くし小足にて進む。恰も虎の獲物に向ひて進む心持ちにて足心を以て歩く心得の事」
 と述べられていますが、意義では「敵前方に逃げ去らんとするを、小走にて追い進み」と何処かおかしい。現代居合では状況も解らずただ追い懸ける様に、走り行くとか、ドタドタ足踏みさせたりしていまし。
 古伝の奥居合は動作よりもやらねばならない心得を教えている場合がある様です。逃げる敵に追い懸けっこなのか、敵にも周囲にも気付かせないで打ち取る極意なのか見直すべきものでしょう。
 もう一つの重要なポイントは、「抜口の外へ見へぬ様に抜付」です。更に「躰の内にて刀を逆さまに抜つくべし」の抜刀です。所謂下からの切り上げでしょう。

 細川義昌先生の教えを伝承する梅本三男先生の居合兵法無雙神傳抜刀術より虎走:「(次の間に居る者を斬り、退る処へ追掛け来る者を斬る)正面位へ向ひ居合膝に座し、左手を鯉口に右手を柄に執り抱へ込む様にして立上り、上体を俯け前方に小走に馳せ往き腰を伸すなり右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付け、左膝を右足横ヘ跪きつつ諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み、刀を開き納めたるまま立上り、又刀を抱へ込む様に前へ俯き小走に退リ腰伸すと同時に左足を一歩退き、追掛け来る者へ(右側面へ)大きく抜付け、又左膝を右足横へ跪きつつ諸手上段に引冠り右足踏込んで斬込み、刀を開き納め終る。」
 
 細川虎走も大江虎走と同様の様です。大江先生虎走は下村茂市より習ったのか、弟弟子行宗貞義から習ったのか解りませんが虎走は現代風に統一されています。古伝は間合いの遠い敵を倒す、それも周囲に気付かれずに、「刀を逆さまに抜つく」上意討ちなのです。

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2019年6月24日 (月)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業之部7両詰

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部7両詰

 正面に向ひて立て膝に座し、例に依りて柄に手を掛け同時に腰を延し刀を前方に引抜き直ちに右足を前に踏み込みて刀を突込み、其突込たる刀を引き抜く気持にて拳を体に引きつける気味合にて直ちに双手のまゝ上段に冠りて真向を割りつけ、血振り納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきによる両詰:(抜放け諸手にて真向を突き斬る)座したる處より右足を少し出して、刀を抜き、柄元を臍下に当、右足を踏み出して、前方を諸手にて突き、其姿勢のまゝ、上段にて前面を真向に斬る。

 細部はともかくとして、河野先生の両詰と大江先生の両詰は同じと云えそうです。但し、刀を抜き出す際、大江先生は腰を上げ右足を少し出して居ます。更に抜き出した刀の切先を前に向け、柄頭を臍下にあてて、右足を踏出し刺突します。上段になる際河野先生は、刺突した柄手を体に引き付けてから上段となるのです。
 大江先生の手附で「抜放け」「柄元」の意味は「抜放し」、「柄頭」だろうと思いますがさてどうでしょう。

 この業名は「両詰」ですがどの様な状況における居合なのか動作ばかりなのでつい、業名の両詰から、左右を敵に詰め寄られる、あるいは左右が戸障子や壁で狭い場所なので抜付けずに刺突すると想像してしまいます。
 
 大江先生の兄弟子細川義昌先生系統の梅本三男先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術」では両詰の業名の手附は「左右に座して居る者を斬る」業で:正面に向ひ居合膝に座し、れいにより鯉口を切り右手を柄に掛けるなり、腰を伸ばし(右へ掛かると見せて)右足を少し右へ踏み出し其方向へ刀を引抜き、咄嗟に左へ振向き(右片手にて)左側の者の胸部を突き、直ぐ右へ振返りつつ、諸手上段に引冠り右側の者へ斬込み刀を開き納め終る」
 であって、この業は古伝の業名で古伝の動作そのものです。大江先生の「両詰」は古伝の「向詰」なのです。何処でどのような理由があって業名をいじったか不明ですが間違ったまま、現代居合とし無双直伝英信流」の夫々は両脇が狭い場所での攻防として演じています。

 梅本先生の「向詰」:(対座して居る者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り、右手を柄に掛け、両膝を立つなり右足を少し右前へ踏出し、其方向へ刀を引抜き、右足を引戻すと共に、刀尖を向ふへ、柄頭を腹部へ引付け諸手となり(刀を水平に構へ)体を少し前へ進め、対手の胸部を突き、更に左足を進ませつつ諸手上段に引冠り右足を踏込んで斬込み、刀を開き納め終る」

 向こうは、正面を意味するもので、正面の敵です。
 古伝神傳流秘書抜刀心持之事両詰:「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る」

 細川居合と同じ、業名と動作です。それでは大江、河野居合の両詰と同じ動作では古伝神傳流秘書では向詰:「抜て諸手を懸け向を突打込也」

 細川居合が古伝を伝承しています。大江先生に依って業名や動作が変えられる事は明治維新と云う混乱の為せる技と思いますが、理由も無く変えられ、本当のことを知っても其の儘と云う事はおかしい事です。心ある人は事実を知ってしまえば本物を求めるのは当たり前でしょう。

 奥居合の向詰は正面の敵を刺突する業で、大森流の一本目前や英信流の一本目横雲が英信流独特の横一線の抜付けを無双直伝英信流の極意業としていながら奥居合では同様の場及び対敵との想定に刺突を付け加えたのでしょう。

 現代居合では「両詰」は敵に左右から詰寄られるのではなく、両脇が壁などの障壁のある狭い場所での抜刀及び刺突を教え、横一線の抜き付けでは壁などに打ち当て不覚を取るので突きに限るとします、尚且つ血振、納刀も体から大きく出さないと云って業名に拘っています。

 

 

 

 

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2019年6月23日 (日)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業之部6棚下

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術奥書
奥居合居業之部6棚下

 正面に向ひ立膝に座し、例に依りて柄に手を掛けると同時に体を前に「うつむけ、」体を低くして右膝を立て左足を右足踵に引付けると同時に刀を左肩より頭上に引抜くと共に双手を掛け右足を進めて前に低く切り込み、(打下したる時は上体は真直に)刀を開き納刀する事前に同じ。

 河野先生の棚下は、場の想定が棚下と有るので、柄に手を掛け「体を前にうつむけ体を低くして」這い進と同時に、前屈みのまま「刀を左肩より頭上に引き抜く」双手を柄に掛け右足を進めて「低く切り込み」低く切り込んでも(打下したる時は上体を真直に)するのであって、「うつむけ」た体のまま切り込むのです。上体を真直ぐに立ててから切りこむとは読めません。棚下から這い出て斬り込むならば「上体を真直に」は解りますが此の文章ではそうは読めません。

 大江先生の剣道手ほどきから棚下:「(頭を下げて斬る)座したる處より、頭を前方へ下げ、稍や腰を屈め右足を少し出しつゝ、刀を抜き、上体を上に起すと同時に上段となり、右足を踏み込みて真直に切り下す。」

 河野居合いや穂岐山居合と体を起すタイミングが違います。大江先生の棚下ではせっかく体を屈めて刀を抜き出したのに、上体を起こし上段になったのでは、切り込んだ時刀が棚に当たってしまいます。

 穂岐山先生に指導を受けた野村條吉先生の「無雙直伝英信流居合道の参考」による棚下:「棚下に座したる心地にて立膝、腰を屈め体を低く、右足を出しながら刀を前に抜き、左足を之に追随せしめ、上段にかぶり右足を一歩踏み出して正面を斬り血拭納刀」

 野村先生は前屈みのまま上段にかぶり其の腰を屈めた姿勢で斬り込んでいる様です。河野先生と同じと理解します。

 大江先生の兄弟子細川先生の教えに依る梅本三男先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術」より棚下:「(上の閊へる所にて前の者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け体を前へ俯け腰を少し浮かせ、左足を後へ退き伸し其膝頭をつかへ、刀を背負ふ様に左後頭上へ引抜き、諸手を掛け前者へ斬込み、其のまま刀を右へ開き納めつつ体を退き起こし右脛を引付けるなり、左踵上へ臀部を下し納め終る。」

 細川居合を正しく伝承しているとすれば、大江先生の棚下はおかしい棚下で上体を起こして上段から斬り下すのでは、体を屈める必要などないでしょう。現代居合では棚下から這い出るや体を起して斬り込んでいます。棚下の様な刀が閊える場所での攻防であって、低い場所での刀の抜き方の稽古では意味がないでしょう。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事棚下:「大森流逆刀の如く立て上へ抜打込む時体をうつむき打込む是は二階下様の上へ打込ぬ心持也」

 「大森流逆刀の如く」の意味が大森流之事逆刀から読み取れません。逆刀:「向より切て懸るを先々に廻り抜打に切右足を進んで亦打込み足踏揃へ又右足を後へ引冠逆手にて返し前を突逆手に納る也」
 古伝は抜けだらけですから文章と口伝による口授、見取稽古が必要なのです、ここは「立て上へ抜、打ち込む時うつむき打ち込む」を立って上へ抜き上げた方法を、居合膝に座して腰を上げ乍ら上へ抜き上げ引き冠り、打ち込む時にうつむきになるのだと云うのでしょう。打込む時は切先が上に閊えない様にウツムキになって打ち込むと解するものです。

 河野先生の昭和13年1938年「無雙直傳英信流居合道」より棚下:正面に向ひ立膝に座し、鯉口をきり、右手を柄にかけるや、上体を前に「うつむけ」(着眼は前方にす)体は低くして右膝を立て、左足を右足踵に引き付け乍ら刀を前に抜き、左肩より頭上に引抜くと共に、双手上段となり、右足を前に踏み込むと同時に(此時上体は真直にす)敵の真向に斬り下し、血振い納刀す。意義-吾れ頭の閊へる低い場所に居る場合、其の所を這ひ出でて正面の敵を斬るの意なり。」

 河野先生の最初の文章は「前に低く切り込み(打ち下したる時は上体を真直に)」でした。改めて「右足を前に踏み込むと同時に(此時上体は真直にす)敵の真向に斬り下し」と微妙に変わっています。最初の文章もこの様な意図だったかもしれませんが止めは、意義の「その場所を 這ひ出でて・・」で明確に棚下を出る動作にされています。そうでなければこの「上体は真直に」が成り立たないと思われたのでしょう。

 古伝の教えは「二階下様の上へ打ち込む心持ち」は「打込む時体をうつむき打込む」のでした。

 古伝は英信流居合目録秘訣上意之大事棚下:二階天上のしたなどに於て仕合ふには上へ切りあてゝ毎度不覚を取る物也、故に打込む拍子に脛を突いて打込むべし、此の習いを心得るときは脛をつかずとも上へにあてざる心持ち有り」

 心得としても稽古するにしても古伝には伝わるものがありますが、大江居合も河野居合もこれでは意味のない稽古になってしまいます。寧ろ棚下にいるのであるならば、這い出て切るのは河野先生の嫌う不意打ちになってしまいます。棚下で抜刀してそこで斬るならば抜くや切先を返して刺突する、現代居合の両詰めを体を低くして稽古すべきでしょう。

 

 

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2019年6月22日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直伝英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業之部5四方切り

曽田本その2を読み解く
20、無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部5四方切り

 正面に向ひ立膝に座し、例に依りて柄に右手を掛けると同時に右足を右斜前に踏み込みて刀を抜き取り、顔及胸を左後ろに向けて刀尖を左肩下より鍔元迄突込みて直ちに諸手上段となりて右斜前の敵に斬りつけ、左膝頭にて大きく廻りて左斜前に右足を踏込みて双手上段(此時刀尖は右より廻して冠る)にて割りつけ、更に正面に向き直りて右足を踏込むと同時に双手上段より(此時刀尖は左より廻して冠る)振り冠りて割付けて血振ひして納刀する事前に同じ。

 四方切りと云うのですが、敵は左後・右前・左前・正面という変則です。この敵の配置はどのような謂れから組み立てられたのか疑問です。
 先ず大江先生はどの様に指導されたか、剣道手ほどきから奥居合の3番目四方切から稽古して見ます。:「右足を右斜へ出し、刀を右斜に抜き、刀峯を胸の處に当て、刀を平として斜に左後を突き右側面の横に右足を踏み変へ、上段にて切り、右足を左斜横に踏み変へて(受け返して打つ)上段になりて切り、右足を正面に踏み変へて、上段より切る。

 大江先生の四方切の敵も河野先生と同じです。明治以降の奥居合四方切りはこの変則四方で右後ろには敵は居ないのです。大江居合は意味不明な文言が突然出て来て悩まされます。左後を突いた後の動作で「・・・右側面の横に右足を踏み変え」とは何処でしょう。次の「(受け返して打つ)」の意味もよくわかりません、右の敵を斬って左斜め前の敵に振り向くには刀で右肩を覆う様に振り向き振り冠ると教えられていますから、その動作をさすのかなあ、と憶測します。

 大江先生は奥居合四方切は3番目に置かれています。戸詰、戸脇は四方切の後に在ります。河野先生は何故四方切りを5番目とされたのでしょう。寧ろ18代穂岐山先生は何故大江居合の順番を入れ替えたのか、何処にもその説明はありません。
 憶測すれば、戸詰、戸脇は敵は二人で四方切りは配置はどうでも4人であって、戸詰、戸脇の技法の習熟があればより四方切が容易だと考えたのでしょう。誰が考えたのか、河野居合は穂岐山居合ですが業の順番は河野先生の独断かも知れません。憶測です。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事では、四方切りの業名は無く、三角及び四角の業が相当します。
 三角:「抜て身を添へ右廻りに後へ振り廻りて打込む」
 四角:「抜左の後の角を突右の後の角を切右の向を請流し左の向を切又右の向を切る也」

 三角は三人の敵に囲まれ、四角は四人の敵に囲まれている想定でしょう。英信流居合目録秘訣の上意之大事に詳しい解説が為されています。
 三角:「三人並居る所を切る心得也、ケ様のときふかぶかと勝んとする故におくれを取る也、居合の大事は浅く勝事肝要也、三人並居る所の抜打に紋所のあたりを切先はづれにはろをときはびくとするなり、其所を仕留る也、三人を一人づつ切らんと思ふ心得なれば必仕損ずる也、一度に払ふて其おくれに付込で勝べし」
  四角:「三角にかわる事無し、是は前後左右に詰合ふ之心得也故に後ろへ迄廻って抜付る也。」
 三角は三人前に並んでいる時は、左の敵に浅く抜き付け、其の侭切先を二人目、三人目と振り払って敵がびくっとした処を順に、左・右・正面と斬り付けろと云います。
 四角は前後左右に敵に囲まれた時も同じと云うわけです。左を刺突し、其の侭前・右・後と切先外れに紋所の辺りを払い、後・前・右と上段になって斬り下す。現代居合が失念した技法を展開しています。現代居合とは言え細川義昌先生の系統梅本三男先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術」の英信流奥居合之部には、三角、四角の業名で古伝の技法を伝えています。
 大江先生の居合は下村派14代下村茂市の奥居合迄手ほどきを受けなかった、同様に谷村派16代五藤孫兵衛正亮からも指導されなかった為の独創奥居合と考えて良さそうです。
 河野先生も曽田先生から曽田本を送られ曽田先生の死後「無雙直傳英信流居合兵法叢書」を発行されています。57才の時ですが既に第20代宗家の紹統印可を受けておられ自ら、大江居合の幾つかを否定する事は不可能であったでしょう。
 その自叙に「英信流を学ぶ者は、自然享保以来伝承された土佐を中心とする地の文献だけしか蒐集する事が出来なかったが、洩れたる土佐の文献は元より日本全国の斯道の文献を追加且つ私の足らざる所を補足して呉れる様な熱意ある研究家を待つ次第である。」と述べられています。
 ミツヒラブログの筆者も、曽田本の原本をお預かりした以上、その復元と現代居合との関係を確認し、後世に伝承し得るものを研究せざる得ません。

 細川居合の三角、四角を梅本三男先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術」より紹介しておきます。
 三角:「(前右後の三人を斬る)正面より(左廻りに)後向き、居合膝に座し例により鯉口を切り右手を柄に掛け、前に掛かると見せて右足を摺り出し、腰を伸ばし刀を引き抜くなり、右足を左足に引き寄せるなり刃部を外へ向け左腕外へ深く突込み、立上りつつ右へくるりと廻りながら前、右、後の三人を軽く斬り正面へ向く、同時に左膝を跪きつつ諸手上段に引冠り右足踏込んで斬り込み刀を開き納め終る。」

 四角:「四隅に居る者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け腰を伸し右脛を立てつつ(右前へ掛かると見せ)、刀を其方向へ引抜き、咄嗟に左膝頭で(左廻りに)後斜へ廻り向き、左後隅の者を(右片手にて)突き直ぐ右へくるりと廻りつつ、諸手上段に引冠り右後隅の者へ斬込み直ぐ左へ廻りつつ刀を頭上へ振冠り(右前隅の者より斬込み来る太刀を受け流しながら)左前隅の者へ斬込み、直ぐ再び右へ振向きつつ諸手上段に引冠り右前隅の者へ斬込み、刀を開き納め終る。」

 

 

 

 

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2019年6月21日 (金)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居合業之部4戸脇

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部4戸脇

 正面に向ひて立膝にて座し例に依りて柄に手を掛け同時に右足を右斜前に踏込て右斜に刀を抜き取りて顔及胸を左後に向けて拳を返して刀尖を左肩下より鍔元迄水平に突込みて左後方の敵を斃し、直ちに右斜に振向き直りつゝ双手上段となりて切り下し、刀を納め終る事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより奥居合5番戸脇:「(左を突き右を切る)右足を右斜へ踏み出し、刀を抜き、左横を顧みながら突き、足踏みは其まゝにて上体を右横に振り向け、上段にて切り下す。」

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事両詰:「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る。」(右脇へ抜打に切り付け左を斬る)

 河野先生の「無雙直傳英信流居合道」昭和13年1938年奥居合之部居業之部戸脇:「正面に向ひ立膝に座し、柄に手をかけるや、右足を右斜前に踏み込みて右斜に刀を抜き(刃は上に)取り、左後に振向き拳を返えして(刃を外、棟を胸)刀先を左肩下に、腕に近接して鍔元迄水平に突込み、左後方の敵を仆し、直ちに右斜に振向きつゝ双手上段となりて打下し、血振い納刀す。注意 刀を右斜前に抜き取る時は、柄頭を以て右方の敵を牽制するの意を以てなす。
 意義-吾が直前の左右に戸あり、敷居の向ふ側右と吾が左後方に敵を受け、左後の敵を刺殺し更に右方の敵を斬りて勝の意なり。
* 
 河野先生の「大日本居合道図譜」奥居合之部奥居合居業4本目戸脇:「意義-前述と同様の場合右向ふと左後に敵あり。左後敵を刺突し右敵に斬下して勝つの意なり。右足を右斜前に一歩踏込むや柄頭にて右敵を抜打つ気勢にて牽制しつゝ刀を右に抜き左に注目して抜き放つ。(此時刃を返して外に向ける)、刀を抜き取るや直ちに其の体勢にて後敵を刺突す。次に直に諸手上段となりつゝ右に向き同体勢にて右敵の真向に斬下し上段となりつゝ右に向き同体勢にて右敵の真向に斬下し血振納刀す。
註1、右肘はあまり上げず、柄頭が前膊部の外に触れる位ひ、刀は水平、上膊部の中程の高さ腕に近接して突く。
註2、突く時に左肘を落して後ろに引く心得の事。

 穂岐山先生の指導による野村條吉凱風先生の「無雙直傳英信流居合道の参考」より戸脇:「左後の敵に対し、右足を右前へ踏み出し、其方向に刀を抜き左後の敵を顧みながら突き同体にて上段となり右斜前の敵を斬り血拭納刀」

 細川義昌系統の梅本三男先生による「居合兵法無雙神伝抜刀術」英信流奥居合之部前後詰:(前後に座して居る者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り、右手を柄に掛けるなり腰を伸しつつ右足を前へ踏出し(前へ掛かると見せ)、刀を其方向へ引抜き、咄嗟に(左廻りに)後へ向くなり後者の胸部へ(右片手にて)突込み、直ぐ(右廻りに)正面へ廻りつつ諸手上段に引冠り前者へ斬込み、刀を開き納め終る。」

 細川先生は大江先生の兄弟子、穂岐山先生は大江先生の後を第18代として引き継ぎ、その指導を野村條吉先生と河野先生が受けています。古伝は「両詰」で敵二人に詰め寄られる想定の上で基本業は敵は我の左脇右脇を手附けにしています。
 大江先生は両詰の業名を「戸詰」と「戸脇」に分けてしまい、古伝を知らなかった河野先生は、昭和13年の「無雙直傳英信流居合道」では如何にも場の想定が優先する様に「吾が直前の左右の戸あり」と意義に書き込んでしまいました。昭和17年の「大日本居合道図譜」では、戸の有無は不問となって居ます。現代居合ではこの戸の有無を業に組み込んだ運剣動作を要求されます。
 想定を特定の条件に追い込む事と、古伝の様に敵は左右と云う大らかな手附から、力量が上がれば如何様にも変化に応じられる教えとどちらも、学ぶ者が選択すれば行きつく處は同じでしょう。
 しかし、昇段審査や演武競技などによって、一定の条件に依る演武を要求され、それに拘った者は其処から抜け出られない者が多いでしょう。
 この両詰を自由自在に角度を変えて稽古する事はさして難しくはありません。河野先生の心得を頼りに稽古して見る事も楽しいものです。稽古は楽しくやるものでしかめっ面して肩肘張っても無駄なばかりです。

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2019年6月20日 (木)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業之部3戸詰

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合居業之部3戸詰

 正面に向ひて立膝に座し、例の通り柄に手を掛けると同時に右足を右斜前に踏込みて右片手にて切りつけ、直ちに左膝頭を中心として左斜前に向き右足を踏み双手上段にて切り付け、刀を血振ひして納むる事前に同じ。

 この業及び業名は、古伝神傳流秘書では抜刀心持之事の4本目両詰の替え業になります。
 両詰:「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る。右脇へ抜打に切り付け左を切る。」

 古伝英信流目録秘訣の上意之大事両詰:是又仕物などを言付られ又は乱世の時分などにわ使者などに行左右より詰かけられたる事間々これ有也、ケ様の時の心得也、尤其外とても入用也、左右に詰かけられたる時一人宛切らんとするときは、おくれを取るなり故に抜や否や左脇の者を切先にて突、すぐに右を切るべし、其のわざ唯手早きに有。
 亦、右脇の者に抜手を留らるべきと思ふ時は右を片手打に切りすぐに左を切るべし。

 江戸時代末期にこの両詰がどのように稽古されていたかは不明ですが、土佐の居合「無雙神傳英信流居合兵法」は、両脇を敵に詰め寄られる状況を想定した業であったのです。戸詰などと云う意味不明の業名では無かった、それを大江先生によって戸詰と戸脇に分けられてしまい、戸詰めは右片手打ち、左は諸手上段から斬る業とし、戸脇は左後ろを刺突し、右前の敵を双手上段から斬り込む、二つの業に変えられて中学生に指導したのでしょう。その後の宗家筋の先生に依って、戸詰は左右に戸襖があり我は敷居の外側から室内に切り込む業と、場の想定が表立ってしまいました。戸脇などは右戸襖の後に居る敵と左戸襖の前、我の斜め後ろに敵が居る可笑しな想定をしかとして稽古しているのです。
 それも稽古としてはよく考えたと云えるでしょう。然し、対敵意識を優先すれば違った角度からの攻防が見えてくるはずです。我を取り巻いて360度に敵が居る想定に応じる稽古をしたいものです。

 大江先生の奥居合4本目戸詰:(右を斬り左を斬る)抜き付け、右の敵を右手にて切ると同時に右足を右斜に出す、其の右足を左斜横に踏み変へて上段にて左斜を真直に斬る。

 我が右の敵と言われれば我が右脇を想定しますが、動作は「右の敵を右手にて切ると同時に右足を右斜に出す」のですからこの右とは「右斜前」なのでしよう。真右を斬るのに右足を右斜に出すでしょうか。片手抜打ちの斬撃力を増す為稍々右斜めに右足を踏み込むのはあり得ます。
 真左の敵は双手上段からの切り下ろしならば、右足は真左に踏み込むでしょう。大江居合には戸詰の業名ですが戸を意識した動作が感じられませんが、それが右足を斜め右に踏み込み右敵を斬る、左敵も戸を越して左を斬る、これでは業名に拘ってしまい過ぎで標準仕様とは云えません。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生による「居合兵法無雙神伝抜刀術」の英信流奥居合之部5本目両詰:「(左右に座して居る者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛けるなり、腰を伸し(右へ掛かると見せて)右足を少し右へ踏出し、其方向へ刀を引抜き、咄嗟に左へ振向き(右片手にて)左側の者の胸部を突き、直ぐ右へ振返へりつつ諸手上段に引冠り右側の者へ切込み刀を開き納め終る。」

 細川先生は下村茂市の弟子で大江先生の兄弟子に当たります。大江先生の独創は主として奥居合に集中しています。明治維新の際大江先生は16才でした。20歳の時には士分を解かれ失業、其の上26歳の時には下村茂市は他界されています。どう見ても明治維新の混乱期で居合の稽古を十分できたとは思えず、明治30年に五藤孫兵衛の後を引き継ぐに当たって、すでに45才でした。奥居合の改変は仕方なかったかもしれません。土佐の居合の伝承者として技技法において妥当だったかは疑問ですが、当時外に人材が得られたかは更に疑問です。従って、土佐の居合がさ迷ったままであったのもやむおえなかったでしょう。見直す時期に来ていると思いますが、高齢の指導者に其の機はあり得ないでしょう。側近の方にしても、習い覚えたものを変える気力体力は難しそうです。現代居合として大江居合を完成させた河野居合を学ぶ道と、古伝に戻り日本文化の継承の道と二つの道を同時進行して行く事が当面の課題でしょう。古伝によって現代居合を否定する必要はなくそれは其れ、竹刀スポーツを剣道と呼び、古流剣術は古武術で良いのでしょう。共に日本文化なのです。

 

 

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2019年6月19日 (水)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業ノ部2脛囲

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合居業ノ部2脛囲

 正面に向ひ立膝に座し、例に依りて柄に手を掛け同時に立ち上り左足を一歩後に退くと同時に刀を抜き払ひ、「虎一足」の如く刀棟にて敵が脛を切りつけ来るを受留め、左足を膝まづくと同時に雙手上段に振り冠り真向に切り込みて血振ひして納刀する事前に同じ

 立膝にて座して居る者の脛に切り込んで来るでしょうか。そこからこの業の疑問が湧いてきます。双方が同時に抜刀しつつ立ち上がり、敵が我が右脛に抜き付けて来る、あるいは敵が立って打ち込んで来ようとするに応じ立ち上がりつつ刀を抜き、敵が低く脛に切り込んで来る、其処を虎一足の要領で、刀の「棟」で受け止める。
 このスクラップの虎一足は刀の差表で請け止めていました。河野先生の虎一足:「・・抜かけ立上り左足を一歩後に引きつゝ右斜前に殆ど刀を抜き、左腰を左方にひねると同時に刀を抜き放ち刀の差表にて受け留め向脛に切りつけ来るを右足を圍ひ・・」

 差表か棟かですが、河野先生の昭和13年1938年の「無雙直傳英信流居合道」の虎一足は「・・差表の棟にて敵刀を受け留め(向ふ脛に切りつけ来るを。正座、八重垣の脛圍ひと同要領)・・」でバラバラな差表と棟を合体させてきました。

 その八重垣では「左足を後方に退くや刀を抜き払ひて右脛を刀にて圍ひ(此時刀刃は左少し前とし左手は腰にとる)」と、是も文章不十分で意味不明でしょう。注意事項で「脛圍ひは、腰を十分左にヒネルと同時に剣先を抜き放ち、腹を出し腰のヒネリに依り刀勢を強める事、飽くまでも敵刀を強く払ひて効を奏せざらしむるの意なり」とのことです。刀の部位については述べられていません。

 大江先生の「剣道手ほどき」脛囲:「(長谷川流2番目と同じ)膝と刀を竪立斜として、刃を上に平に向けて、膝を圍ひ(体は中腰半身とす)体を正面に向けて、上段より斬り下す。」文章からは意味不明で読み取れません。恐らく、刀を抜き出すに当たり、中腰半身となり刃を上に向け水平に抜出し膝を立て刀を斜めに立てて脛を囲うのでしょう。

 長谷川流2番目は虎一足でした。大江居合の虎一足:「正面に座す、静かに立ちながら左足を引きて刀を抜付くと同時に膝を圍ふ、此圍は体を左向き中腰となり、横構にて受止める事、此体形にて刀を上段に冠り正面に向き座しながら斬り下すなり。・・」

 河野先生の昭和13年1938年発行の「無雙直傳英信流居合道」奥居合之部居業之部では脛囲:「正面に向ひ立膝に座し、柄に右手をかけるや立上りながら左足を一歩後に退くと同時に、腰をひねりて抜き払ひ、左足を膝まづき乍ら双手上段に振冠り、真向より打下して納め終る事、虎一足と同様なり。
 意義-吾が正面に対座する敵が、吾が右脚に薙ぎ付け来るを受留め、(払ふ気持、既述脛圍(虎一足の間違いか)に同じ)敵の退かんとするに乗じ上段より斬り付けて勝つの意義なり。」

 河野先生の昭和17年1942年の大日本居合道図譜の脛圍:「立膝の部虎一足と同意につき省略す。」
 虎一足:「意義-正面に対座する敵が右足の方向より斬付け来るを之に応じ其の退かんとするに乗じて上段より斬下して勝つの意なり。中腰になり乍ら抜きかけ右足を一歩後方に退き腰を捻るや抜付けて刀棟を以て敵刀を反撃す。左膝をつきつつ右手を頭上に把り剣先を下げたるまま運びて、諸手上段となりつつ左膝を進め右足を踏み込みて敵の真向に斬り下し血振ひ納刀・・」
 
 ここでは、また差表の棟が、棟に代っています。現在は差表の鎬になって居るようです。
 参考に第18代穂岐山先生の直弟子で大江先生の居合も見ておられた野村條吉凱風先生の無双直伝英信流居合道の参考に於ける虎一足:「・・静かに立ちながら後へ引き腰を左に捻り刀を右脛の前に抜き鎬にて・・(此時の体勢は左向中腰にて横構え腰を捻りて極める、刀は抜きはなちて敵刃を叩くにあらざるなり)」と有ります。表鎬でびしっと受け止めるのでしょう。奥居合の脛圍も同様です。

 次の疑問は、相手は無疵です。何故我は「左足を膝まづくと同時に双手上段に振り冠り真向に斬り込む」のでしょう。河野先生の大日本居合道図譜に至っても、・・退かんとするに乗じて、左膝をつきつつ上段となり、右足を踏み込んで敵の真向に斬り下して居ます。野村先生は「上段にかぶり左膝を地につけながら斬り下す」とされています。扨これをどの様に理解し演じられるでしょうか。何の疑問も抱かずにこの止めの斬り下しを演じられるでしょうか。
 私は、請け止められて、退かんとする態勢のまだ低い敵に乗じて、左膝を進め乍ら上段に振り冠り、右足を踏出して真向に斬り込みつつ左膝を床に付ける、折り伏す古流剣術の運剣動作を思い浮かべます。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事柄留は「虎之一足の如く下を留て打込」だけです。虎一足は「左足を引き敵の切て懸るを払ふて打込み後同前」です。
 先達の教えは如何様にも仮想敵に応じる工夫をせよと、形ばかりに拘る事を戒められている様に思えてなりません。

 

 

 

 

 

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2019年6月18日 (火)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英神龍居合術20の6居合術業書奥居合居業之部1霞

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の6居合術業書
奥居合居業之部1霞

 正面に向ひ立膝に座し、気分充つれば左手にて鯉口を握り拇指にて鯉口を切り、右手を柄にかけ刀をぬきかけ腰を延び切ると同時に右足を踏出して抜き払い、「払ひたる手の止まらぬ間に」総体を進ませ乍ら甲手を返して左を払ひ、(最初敵の右首に抜きつけ刀寸の足らざる故に更に体を進ませて左首に切り返すの意)左膝を進ませると同時に双手上段に振り冠りて切り込み、刀を右に開きて血振ひ同時に左手を腰に取りて後鯉口を握り、刀を納めつゝ右足を引きよせ左踵の上に臀部を下して納め終りて立上り、直立の姿勢となりて次の業に移る。

 河野居合の特徴の一つは「・・気充つれば・・」、居合は武的踊りでしょうか。何時如何なる変に応じる修行中なのに、気など充つるまでに我が首は飛んでます。
 正座ノ部八重垣と此の霞ですが抜き付け不充分で霞では「最初敵の右首に抜きつけ刀寸の足らざる故に・・」と云っています。充分気が充ちているのに、間と間合いが読み切れていない、敵は死人でも人形でもないのですから刀寸が足りないのは敵が我より優れていて間を読み切られて、斬り込まれる寸前に外されたならいざ知らず、間の読み違いではないでしょうね。やはり正座之部「前」、立膝ノ部「横雲」是一本で居合は充分かも知れません。流派の極意は最初に習う一本目にありかも知れません。

 「払いたる手の止まらぬ間に」横一線に抜き付けたが敵に外され、其の手が止まらないうちに斬り返せと云うのです。たいていの人は横一線の抜き付けを横雲の様に決めてから手を返し体を進め切り返しています。ここでは「外された」と知るや「払いたる手の止まらぬ間に総体を進ませ乍ら甲手を返し」切り返すのです。
 22代は「間合い遠く不十分にして、対敵、後退せんとするに乗じて直ちに斬り返し」として「間合い足りたると思いたるに間合い足らざりしが故に」の気と云います。「止まらざる刀の運び」は池田聖昂先生著「無雙時遺伝英信流居合道解説第二巻」に詳しいのでご参照ください。

 大江先生の剣道手ほどきより奥居合霞(俗に撫斬と云ふ):正面に座して抜き付け、手を上に返して、左側面水平に刀を打ち返す、直に上段となりて前面を斬る。血拭ひはよく、刀は早く納める事。其刀身を鞘へ六分程早く入れ、残りは静に直ると共に納むるものとす、以下納めは之れと同じ。この文章では棒読みしてしまい、抜き付け・外され・止める・手を返す・打ち返すとやってしまいそうです。

  大江先生の兄弟子細川義昌系の梅本三男先生に依る「居合兵法無雙神伝英信流抜刀術」英信流奥居合之部向払:「(正面に座して居る者を斬る)正面に向ひ居合膝に座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け刀を抜きつつ両膝を立て、腰伸びきるなり右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬため、右足より迅速に体を進めつつ、抜付けた刀が止らぬ中に直ぐ振返し、返す刀で(対手の左側面へ)斬付け左膝を進めつつ諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み刀を開き納め終る。」
 
 河野先生の霞と同じような手附と思われます。但し河野先生は後の「大日本居合道図譜」によって斬り返しの部位を「返したる右手の止まらぬうちに上体を敵に付け入る心持にて少し屈め体を進め乍ら敵の脛に斬返す」とされ当初の「左首」を「脛」に変えてしまっています。上体を屈めて付け入れば低くなってしまうものです。当初の様に「総体を進ませ乍ら甲手を返し左を払ひ」であるべきでしょう。安易に動作を変えてしまい流された様に思います。寧ろ奥居合ですから抜き付けも返す部位も最も有効な部位であるべきで、形に固執してしまった江戸末期から現代の武術の欠陥でしょう。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事向払:「向へ抜付返す刀に手を返し又払ひて打込み勝」

 古伝は抜けだらけですが、大森流・英信流・棒術・詰合・大小詰・大小立詰・大剣取と進めて稽古して来た者にはこの手附で充分理解できます。抜刀心持は其れだけの内容を秘めているのでしょう。

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2019年6月17日 (月)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20ノ5居合術業書立膝ノ部10真向

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部10真向

 正面に向ひて正座し、鯉口を切りつゝ右手を柄に掛け、膝頭と両足の爪先とにて膝を伸ばすや右斜前に刀を抜き、刀尖を左肩先へ突込む気持にて刀を双手上段に振り冠りて真向に切込み、刀を右に開きて納め終る。

 この動作は、河野先生の正座ノ部11本目抜打と同じです。大江先生の剣道手ほどきによる抜打は「正面に座す、対座にて前の敵を斬る心組みにて其正座の儘刀を前より頭上に抜き、上段に冠り、身体を前に少しく出し、前面の頭上を斬る。血拭ひは中腰の同体にて刀を納む」であって刀の抜き方と冠り方が違います。
 大江先生の次の18代穂岐山居合がこの時期の河野居合の原点ですから何故大江居合が薄れてしまったのでしょう。河野先生の居合経験が浅く力量不足と言えるかもしれませんが剣道歴は20年以上ですから(14才からこの時期35才ですから21年剣道歴)充分看取る事は出来たと思います。穂岐山居合が大江居合とは異なったのか気になります。
 穂岐山先生の直弟子の野村條吉先生の「夢想直伝英信流居合道の参考」昭和40年1966年では抜打:「敵と対座斬り込み来る敵刃をすり上ぐる心地にて頭上に抜き両膝を着き足先を立てたるまま両膝にて踏切り低く前へ飛びつゝ敵の頭上を斬る・・」と有ります。大江抜打の抜刀心が伝わってきますが反面立膝ノ部真向では「・・腰を浮かし両趾先を立てつゝ刀を前に抜き上段となり同体にて前の敵を斬る。此の時両膝を少しく左右に開く。・・」ですから、刀を抜いてから如何に上段に取るかが不明ですが抜いて振り冠るだけなら河野真向になってしまいます。「すり上ぐる心地」が伝わってきません。

 大江先生の剣道手ほどきに依る真向:「正面に向って座し、腰を伸ばし趾先を立て、刀を上に抜き上段となり、同体にて切る此時両膝を左右に少しく開く。・・。」

 古伝神傳流秘書英信流居合之事抜打:「大森流の抜打に同じ事也」:大森流居合之事抜打「座して居る所を向より切て懸るを其のまゝ踏ん伸んで請流し打込み開いて納る最も請流に非ず 此所筆に及ばず」

 古伝は、対坐する敵が切って来るのを請流して打込のであって単なる機先を制して敵の斬り込む以前に抜き打つものでは無かったのです。一方的に斬り込むのと勘違いするものではありません。
 「この請流に非ず 此所筆に及ばず」については曽田本その1で紹介した「英信流居合目録秘訣外之物ノ大事雷電霞八相」に解説されていると思います。
そのポイントは「夢うつゝの如くの所よりひらりと勝事有其勝事無疵に勝と思ふべからず我身を先ず土壇となして後自然に勝有其の勝所は敵の拳也」敵の拳に勝つ事は無双直伝英信流では失伝してしまったようですが「身を土壇となして」は居合心、いや武術の心得の根本でしょう。

 河野先生は昭和8年の真向は昭和13年の「無雙直傳英信流居合道」でも機先を制するに拘ったままで先を取るばかりでした。大日本居合道図譜昭和17年1942年の真向では:要領は正坐抜打と同じ。之を省略す。:「正面に対座する敵の害意を認むるや直ちに其の真向より抜打にして勝の意なり。 腰を上げ乍ら刀刃を少し外向け右斜前にスット物打辺り迄抜き出す。右拳を上に上げつつ抜きとり剣先は下げ左肩を囲ふ様に把り(敵斬込むとも之を受流す心)にて上段になり真向に斬り下す」

 大森流居合之事抜打が出来て来ました、この業を英信流の真向に引き上げるには、敵が抜打ちに斬り込んで来るのを「身を土壇となして腰を伸し趾先を立て、刀を上に抜き(左肩を覆う様にして敵刀を摺り落し)上段となり、同体にて切る」大江先生の真向に昇華するものでしょう。恐らく筆には書き足りない部分があって当たり前ですが、やらねばならない事を怠れば、武術は形のみ出来ても術が決まらないものです。

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2019年6月16日 (日)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部9滝落

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部9瀧落

 正面より後向きに立膝に座し、左手にて鯉口を握りたるまゝ立上ると同時に左足を左斜後に退て鐺を引き付け顔は左に振向きて、(後の敵が刀の鐺を取るを鞘を、こねて、其手を振ほどく)左足を右足の前に踏出すと同時に柄を胸の附近に取り鐺を振りはなすや右足を前に踏み出し、刀を抜くと同時に左に振返り刀先の棟を胸部に當て後に振向くや右手を延して突込み、直に右足を踏み越しつゝ刀を双手上段に振り冠り左膝をつくと同時に斬下し刀を開き納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきによる長谷川流居合 後身の部 瀧落:後を向き、徐に立ちて左足を後へ、一歩引き鞘を握りたる左手を其儘膝下真直に下げ、鐺を上げ後方を顧み、右手を膝上に置き同体にて左足を出し、右手を柄に掛け胸に当て右足を前に進むと同時に抜き、刀峯を胸部に当て、同体の儘左へ転旋して、體を後向け左足を前となし、其体の儘胸に当てたる刀を右手を伸ばし刀は刃を右横に平として突き左足を前となし、其体の儘胸に当てたる刀を右手を伸ばし刀は刃を右横平として突き左足を出しつゝ上段に取り、左膝を着き座しつゝ頭上を斬る、血拭ひ刀を納む。

 古伝神傳流秘書英信流居合之事瀧落:「刀の鞘と共に左の足を一拍子に出して抜て後を突きすぐに右の足を踏込み打込開納める此の事は後よりこじりをおっ取りたる心也故に抜時こじりを以て当てる心持有り。」

 此の業のポイントは、敵に鐺を握られて、刀を抜かせないようにされるのを、振りもぐ技の良し悪しに極まります。或は鐺を掴ませない心得を身に着ける事でしょう。

 鐺を取られた場合の対処法は古伝大小立詰の一本目袖摺返、五本目蜻蛉返、六本目乱曲に応じる手附が述べられています。中山博道先生は「日本剣道と西洋剣技」昭和12年1937年で:「後方より武器を掴まれた場合、これを外づすには、左、右と順次に対手の逆を行か、同時にこれを払ひ外すかの二種あるが、この外すといふことは非常に困難な業で、沢山ある抜刀術各流にも、その例はまことに少ない」と難しいよと云っています。

 大江先生、河野先生共に敵に後ろより鐺を掴まれ之を振り捥いで刺突しています。

 穂岐山先生の直弟子野村條吉先生は:「・・後より鐺を取りに来る敵に対し、徐ろに立ちて左足を一歩後へ引き、鞘を握りたる左手を下げて、鐺を急に上げて之を避け・・」

 中山博道先生は太田龍峰先生の居合読本昭和9年1934年による瀧落から:「意義-敵が我が鐺を握ろうとするにを、之を避けて立ち上ったが、尚ほ追い迫るを以て再び之を避け、遂に抜刀して振り向きつゝ敵を突き刺し、尚ほ追撃する業である。」

 河野先生の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年による瀧落:「吾が後に坐す敵が、吾が鐺を握りたるを其の拳をもぎとりて敵の胸元を刺突し、倒るゝ所を更に真向より斬り付けて勝つの意なり。」

 古伝は:「此の事は後よりこじりをおっ取たる心也」と鐺を掴まれた場合の想定になって居ます。大小立詰に鐺を取られた場合の教えが三本ある様に、あり得る攻防であったのでしょう。

 

 

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2019年6月15日 (土)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部8浪返

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部8浪返

 正面より後向きに立膝に座し、例に依りて鯉口を切り右手をかけて立上り左廻りに正面に向きて作すること鱗返に同じ。

 鱗返の後半を付け加えて浪返の手附を完成させておきます。
 「正面より後向きに立膝に座し、例に依りて鯉口を切り右手をかけて立上り正面に向き。同時に左足を後に引き腰を延しきりて抜払ひ右一文字に切りつけ、左膝を跪き、双手上段に振冠り真向を割りつけ刀を開き終わる。

 河野先生の浪返は前の業鱗返しと回転角度が90度から180度になっただけで何ら稽古を繰返す意味など無いものになってしまいました。なぜでしょう。左脇に座す敵と、後に座す敵とは全く状況が違う事が示されていないのです。
 そこまで気が回らないならば、左廻りを右廻りにすれば足捌き体裁きを含め稽古ぐらいにはなりそうです。18代穂岐山先生の教示をメモされて書かれたものですから、穂岐山先生は大江先生からどの様に教えられたのでしょう。気になります。

 大江先生の剣道手ほどきより長谷川流居合 後身の部 
 浪返:後へ向き左より正面へ両足先にて廻り、中腰となる、左足を引き、水平に抜付け上段に取り、座しながら前面を斬るなり。仕拭ひ刀納は前と同じ。

 ついでに前の鱗返を復習
   :右に向き、左より廻りて正面に向ひ、中腰にて左足を引きて抜付け、此抜付けは水平とする事、上段に取り、座しながら斬り落とすなり。血拭い刀納めは前と同じ。中腰は両膝を浮めて抜付けるなり。(敵の甲手を斬る)

 回転角度は違います90度から180度、鱗返しは「左より廻りて正面に向ひ」ですが浪返は「左より正面へ両足先にて廻り」と浪返では足先で廻れと云っています。此の事は浪返しの方が中腰でも高く執れと云っている様です。
 鱗返も浪返も左足を引いて抜き付けろと云うのは、敵との間合いを外して敵が切損じて我が斬り間に入った瞬間に抜き付ける事でその効果は発揮されそうです。
 鱗返の場合の敵は、吾が左に正面右向きに座すならば、敵も正面右向きで我の左に座して居る。そうであれば敵は右廻りに抜き付けて来ます。我は左廻りに抜き付けます。敵が我が方に向いて座して居れば敵は回転せずに抜き付けてきます。
 浪返では吾は正面後向き、その後ろに敵は普通は吾が背中を見て座して居るはずでしょう。その優劣は自ずから見えるはずです。にもかかわらず我は中腰に足先で左廻りに向き直って抜き付ける、其の際左足を退くのでしょう。この二つの業は是非設対者を得て稽古したい業です。

 古伝神傳流秘書英神信流居合之事波返:鱗返に同じ後へ抜付打込み開き納る 後へ廻ると脇へ廻ると計相違也
  鱗返:左脇へ廻り抜附け打込み開き納る(曽田先生 想定の手附)

 古伝では左足を引いて抜付ける事が要求されていません。英信流(大江居合の立膝の部)の左足を退く業は2本目虎一足、3本目稲妻、6本目岩浪では「左足を引き」と明記されています。1本目横雲は「右足を向へ踏出し抜付」ですから夢想神傳流の横雲は古伝の教えではなく中山博道先生のお弟子さん方による独創でしょう。それでも引き足で抜き付ける稽古業としては素晴らしいものです。

 河野先生の「無雙直傳英信流居合道」昭和13年1938年の鱗返し:「正面より右向に座し、刀を抜きかけつつ右足先を軸として中腰にて廻り(正座右の要領に同じ)正面に向くと同時に左足を後に退くや、腰を延ばしきりて刀を抜き払ひ・・・。首に抜き付けています。
 浪返:正面より後向きに立膝に座し、刀を抜き懸けつつ、右足先を軸として中腰にて左に廻り、正面に向くと同時に左足を後に退くや、腰を延ばしきりて刀を抜き払ひ・・・。首に抜き付けています。鱗返と浪返は回転角度の違いばかりの稽古なのでしょうか、古伝の抜けだらけの手附を元に現代居合を考え直したい業です。

   

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2019年6月14日 (金)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部7鱗返

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部7鱗返

 正面より右向に立膝に座し例に依り鯉口を切り右手を柄にかけ立ち上がりつゝ左へ(くるり)と廻り正面に向き、同時に左足を後に引き腰を延ばしきりて抜払ひ右一文字に切りつけ、左膝を跪き、双手上段に振冠り真向を割りつけ刀を開き納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきより、長谷川流居合左身の部7鱗返:「右に向き、左より廻りて正面に向ひ、中腰にて左足を引きて抜付け、此抜付けは水平とする事、上段に取り、座しながら斬り落とすなり。血拭ひ刀納めは前と同じ。中腰は両膝を浮めて抜き付けるなり。(敵の甲手を斬る)」

 河野先生の業手附は「立ち上がりつゝ左へ(くるり)と廻り正面向き」、大江先生は「左より廻りて正面に向ひ」で同じ事を書いていますが(くるり)が矢鱈早い回転を要求している様に感じてしまいます。敵の状況に応じた回転であるべきでしょう。
 大江先生の抜き付けは敵の甲手と奥書に明記されています、しかも「中腰にて左足を引きて抜き付け」ですから河野先生の「左足を後に引き腰を延ばしきりて抜払ひ」とはイメージが違います。「中腰は両膝を浮めて抜き付ける」と大江先生は又言っています。敵の状況を如何にとらえるかによって抜き付けの高さは異なる筈です、又抜き付ける部位により変わります。大江先生も演武居合ですが河野先生は想定を特定しているのでしょう。左足を後に引き腰を延ばして抜付けの位置調整はともすると小手先の動きに依ってしまいそうです。

 河野先生の昭和13年1938年の「無雙直傳英信流居合道」の鱗返の意義:「吾が左側に座す敵の機先を制してその首に斬り付けて勝つの意にして、正座の右の業と同意義なり。」で腰を延ばしきりてはそのままです。
 昭和17年1942年の大日本居合道図譜の鱗返:「意義-左側に座す敵の機先を制して之に勝つ事正座右の業に同じ。 右向きに座し、中腰に立上りつゝ抜きかけて左に廻る。左足を大きく一歩後方に退くや横一文字に斬付ける。次に左膝を下しつゝ諸手上段となり敵の真向に打下し血振、納刀す。」

 穂岐山先生口伝口授の動作は消えてしまいました。これでは古伝と同じでおおらかですから想定次第によって抜き付けの高さは変わり足腰の高さもそれにつれて決まるものになったわけです。然し演武形はここの想定によってまちまちになってしまいます。

 第22代池田先生は、「我が左側に座す敵の、機先を制して其の首に斬り付けて勝つ意にして、正座の「右」の業と同意義也。」と戻されています。

 古伝神傳流秘書英信流居居合之事鱗返:「(秘書には岩波と同じ事を記しあり、口伝口授の時写し違へたるならん 曽田メモ)左脇へ廻り抜付打込み開き納る(曽田先生に依る手附と思われる ミツヒラ)」

 木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書集及び業手付解説」の神傳流業手付英信流抜刀之事鱗返:「右に向き居って左廻りに向へ抜付左の足を引冠り打込み開き納る也」
 この様に書かれていますが、木村先生の處で書き込まれた文章の様に思います。何故ならば、文体の意図するものが古伝と雰囲気が違い過ぎる。さらに「右に向き居って左廻りに」は岩浪では「左へふり向左の足を引き刀を抜き」であって、座す位置の指定など古伝はしない。「左の足を引き」についても、次の浪返しでは「後へ抜付打込み」であって左足を引くか否かは指定して居ません。この鱗返の手附は曽田先生の書かれたものの方が古伝を伝えてきます。

 此の業を考える時、大江先生の様に中腰に立ちつつ左廻りに敵に向き、抜刀する際左足を退く事も状況次第でしょう。正座と同様であり敵の首に抜き付けるならば、立膝で腰を上げた状況での左廻りを手に入れなければ不都合です。其の上で敵の攻撃が早ければ左足を退き小手を斬るべきでしょう。

 

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2019年6月13日 (木)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部6岩浪

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書
立膝ノ部6岩浪

 正面より右向に立膝に座し例に依り右手を柄にかけると同時に低腰に立上がり、直に左足を少し後に引き刀を抜き左手を刀尖に當て右足を軸として左に廻り、左膝をつくと同時に右足を少し踏み込み左手の四指を刀の棟に當て敵の胸に突通し、左膝頭にて右に廻りつゝ敵を横に押倒し、(顔は正面)左手の四指を刀の腰に添へ右手を突出し、右足を踏み出しながら刀を後にはね返し双手を突出し、左膝を右足の後に送り体を更に正面に向け雙手上段より真向に切込み刀を開き納め終る。右の場合敵の胸に刀を突込む時は、右手を後方に十分引き延ばす事。

 大江先生の剣道手ほどきの長谷川流居合左身の部6岩浪:右に向き、左足を後へ引き、刀を体前に抜き直に左手にて刀尖を押へ、右膝頭の處へ着け、左足を右足に寄せ、体を正面に直し、左手と右手とを水平とし、其右足を其儘一度踏み全体を上に伸し、直に体を落し、左膝をつき右手を差伸ばし、左手は刀尖を押へたる儘、伸ばして刀を斜形として敵の胸を突き、右足を右へ充分引き変へ体を右向きとし、両手にて刀を横に引き、敵を引き倒し、其姿勢にて刀を振り右肩上にかざし、上段に取ると、同時に左足を後へ引き、右足を前にて踏み替へ正面に向ひて上段より斬る。(左の敵の胸を突く)

 大江先生の岩浪は「左の敵の胸を突く」と明瞭ですが、河野先生は想定が充分見えません、動作から判断するのです。刀を抜いて左廻りに敵に向かう際大江先生は「刀を体前に抜き直に左手にて刀尖を押へ、右膝頭の處へ着け、左足を右足に寄せ、体を正面に直し」ています。河野先生は
「刀を抜き左手を刀尖に當て左足を軸として左に廻り、左膝をつくと同時に右足を少し踏み込み左手の四指を刀の棟に當て敵の胸を突通す」ですから、ここで動きが止まってしまい、何処を向くんだ、敵は何処だ、どうしたらよいか判らなくなります。つづいて敵を刺突するのですがその動作が全く欠如しています。
 
 河野先生が第18代穂岐山先生に師事したのは昭和2年1927年8月、この業書は昭和7年1932年以前に穂岐山先生から指導されたものの覚書を纏められたと推察できます。当時河野先生が高知に出向くにしても、穂岐山先生が大阪に出向くにしても月一回は無理だったでしょう。その間大阪の先輩から指導されたとしても曖昧なものだったと思われます。
 
 このスクラップは昭和8年1933年5月に「無雙直傳英信流居合術全」として小冊子の活字本になって居ます。その複製版を「本書の複製に際して」と題して昭和44年1969年5月故岩田憲一先生が書かれています。:「この書は末尾にも記してあるように第18代宗家穂岐山波雄先生が大阪八重垣会を指導されていた時第20代宗家河野百錬先生に記録させたものでその製本された時18代宗家が山本宅治先生を訪問し本書を提示されたもので丁度居合わせた中西岩樹先生と三人で致道館に行き正座業一本目より読み上げつゝ演武して先ずは大江正路先生(第17代)教示のものして足りるものと三名の意見が一致したものだそうであります。(山本宅治先生)
 河野百錬先生も非常に若い折りでもあり穂岐山先生教示のまま記されたものと考えられ、それを穂岐山先生が監修されているので現在第17代大江正路先生の技法を追及したり亦正流の技法の根本に触れんとすれば簡明に記録された本書が一番適当なものと考え同好の各位に領布する次第です。・・」

 岩田先生の賛辞ですが、河野先生は明治31年1898年2月19日生まれ、昭和8年1933年には35歳になられていますので年齢としては若いとは言えません、剣道は明治45年1912年14才から始められていますから21年の経験者です。昭和9年1934年には大日本武徳会錬士となって居ます。
 居合は正式に手ほどきを受けたのは昭和2年からで、それも時々顔を出された穂岐山先生の居合でしょう。5年程の経験でしょうから正座の部はともかく立膝の部は、穂岐山先生の教示をメモされた内容はお粗末です。それでもメモすら取れない最近の初心者から見れば雲泥の研究心です。
 無雙直傳英信流居合術全の内容にご自分でも不満だったのでしょう、その後昭和13年1938年無雙直伝英信流居合道を発行されて不足部分を補完され、それまでに集められた居合に関する多くの教えを示されています。更に昭和17年1942年44才の時大日本居合道図譜を発行され無双直伝英信流正統会のバイブル的存在でしょう。

 古伝神傳流秘書英信流居合之事岩浪:「左へ振り向き左の足を引刀を抜左の手切先へ添へ右の膝の外より突膝の内に引後山下風の業に同じ」

 古伝は簡明です。グダグダ言わずストレートです。現代居合を身に着けた者にはこの文章だけで今の岩浪との違いを感じられるでしょう。最も極端なのは敵の害意を察して即座に敵の方に振り向く事です。

 河野先生の大日本居合道図譜より岩浪:「意義-我が左側の敵が我が柄を制せんとするを、其機先を制して胸部を刺突して勝つの意なり。 右向きに座し、左足を退きつゝ刀を剣先部迄抜く。左手の食指に剣先部の落つるや、拇指にて挟む様にして、右手を下げつゝ右足を軸として左に向く(正面になる)
 註1、右足の後方に左足を運ぶ。 
 註2、左手の運びが大きくならぬ様に最短距離を運ぶ事。
 構ゆる 
 註1、右膝は十分に屈める。 
 註2、右手は伸ばし。
 註3、剣先部を食指と拇指の基部挟さみ、剣先は膝より出さぬ事。
 刺突す 構えたる所から右膝を少し伸ばして体の反動をつけ、左膝を下に着けると同時に剣先を少し上げて敵の胸部を刺突す。以下颪の要領に同じ。」
 

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2019年6月12日 (水)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部5颪

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部5颪

 正面より左向に立膝に座し例に依り左手を鯉口に掛け、鯉口を握りたるまゝ拇指を鍔にかけ右手を柄に掛け、右足を踏み込みつゝ柄かしらにて敵の顔面を一撃し、左足を引き付けつゝ右手にて刀を抜きつゝ腰を充分左にひねりて抜き放ち敵の胸元へ切り付け(体は左に向き右膝は浮かし左膝は下に付く)顔は正面に向け左足を少し後に引き左手の四指を刀の腰に当て、敵を横に引倒すや右足を正面より右(90度)に踏み開き肩の高さに右拳を伸ばし(顔は正面に向く)刀を後にはねかえし、右足にて廻り正面に向き乍ら双手上段に冠り真向に斬込みて納め終ること同前。

 河野先生の手附では、敵の仕掛けが何も語られていないので敵の座す位置も解りません。自分勝手に刀に手を掛け、「右足を前に踏みつゝ柄頭にて敵の顔面を一撃する」敵は正面に立膝に座して居るのでしょうか。
 敵の胸元へ切り付ける際「(体は左を向き右膝は浮かし左膝は下に付く)」正面の敵に抜き付けるのに、体を左に向け抜き付けています。「(顔は正面を向く)」のですから抜き付けられた敵は我が右にいなければ変です。
 引き倒しも、右足を「正面より右(90度)」に踏み開くのです。この業書では疑問が湧いてきて稽古が出来ません。場の正面左向きに座した我に対しこの文章からは、敵は場の正面右向き、我に向い合って座して居る様に読めます。昭和8年1933年に発行された河野先生の「無雙直傳英信流居合術全」の立膝ノ部颪も、同じ文章です。我が正面の敵の胸に抜き付け、体は正面左、顔は正面に向け、敵を正面90度に引き倒すのです。この抜付けでは正面に引き倒すのが精一杯でしょう。敵はどこに座し、何かをしようとし掛けて来る、それに応じた居合が始まるのですが其処がすっぽり抜けています。

 河野先生の昭和13年1938年の「無雙直傳英信流居合道」の颪の業書では意義が付されています。:「浮雲と同様に横列に座し居る場合、右側の敵が、吾が刀の柄を取らんとすると、吾れ柄を左に逃がして敵手を外づし、直ちに柄頭を以て敵の顔面人中に當て、敵の退かんとする所を其の胸元に斬り込み、右に引き倒して上段より胴を両断するの意なり。」
 これで、敵の位置関係が明瞭になるわけです。業の形を追うばかりでは敵との攻防である事が薄れてしまうのです。

 大江先生の剣道手ほどきから颪を稽古して見ます。颪は長谷川流居合と表記され「右身の部」と区分けがあります。横雲、虎一足、稲妻は「向身の部」ですから我は場の正面に向き敵と相対して居ます。「右身の部」ですから我は場の正面を右にして左向きに座し、敵も同じ左向きで我の右に座して居ます。
 颪:(又山おろしとも云ふ)左向き腰を浮めて右斜に向き、柄止め、直に左へ足を摺り込み、其踵へ臀部を乗せ右斜向体となり、斜刀にて筋変へに打ち其形状にて左手は刀峯を押へ、左足を左横に変へ、刀を右へと両手を伸ばして引き、敵体を引き倒すと同時に右足を右斜へ寄せ、直に其刀を右肩上の處にかざし左足を後部に引き右足を出し、正面に向き上段となりて斬るなり。血拭ひ刀納む。(敵の眼を柄にて打つ進んで胸を斬り更に頭上を斬る)

 大江居合の業手附も、仮想敵の状況が不明瞭で解りにくいのですが、双方の座す位置が判れば手附に従って動作が判ります。ここでは敵が抜かんとして柄に手を掛けたのを「右斜に向き、柄止め」しています。然し後書きの括弧内は(敵の眼を柄にて打つ・・)です。大江居合も文章力が不足なのかこれでは混乱します。「柄止め」とは敵が抜こうとする柄手を打ち据える事、又は敵の動作に先んじて敵顔面を打ち据えてしまう事位におおらかに考えておきましょう。
 抜き打った後の「敵体を引き倒す」ですから「敵を横に引き倒す」と同じでいいのでしょう。大日本居合道図譜の浮雲の引倒し別法として「剣先を下げ刃を右斜後方に向け引き倒す(註 下村派は之による。ただ参考の為めに記す)と有ります。

Img_0643-002
写真は大江先生の浮雲の引き倒し。兵庫蘆洲会土佐塾 故西本千春先生より送られたものです。
数少ない大江先生の演武写真の一つです。
縦に「浮雲の引き斃し 大江先生のこの体動を学べ」
横に「第17代範士大江正路先生」と有ります。
西本先生とは第一回違師伝交流稽古会の時に神戸でお会いして其の演武も拝見させていただきました。その後三回まではお目にかかっていたのですが体調を崩されお目に掛かれないままお亡くなりになりました。

 細川義昌系の梅本三男先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術」の山下風:(右側に座して居る者を斬る)正面より左向き、居合膝に座し、例により左手を鯉口に執り、腰を伸しつつ右膝を立て体を右へ廻し正面へ向くなり。
 右足を引付けると同時に柄を右胸上部へ引上げ、右手を柄に逆手に掛け右足を踏出すと共に鍔にて対手の左横顔を打ち直に右足を引き寄せる、同時に鯉口を腹部へ引付け刀を右真横へ引抜き(切先放れ際に)左膝を左へ捻り正面より左向きとなり対手の胸元へ(切先上りに手元下りに)斜めに抜き付け、更に体を右へ捻り戻しつつ刀の腰に左手の四指添へ、刀尖を下へ柄頭を後上へ引上げ体を右へ廻しつつ対手の体を押倒すなり(正面より右向きとなり)。左足を跪き刀尖を(上より)後へ振返し右足踏出すと共に双手を向ふへ突出し横一文字に構へ(視線は左正面の対手に注ぐ)左膝を右足へ引き寄せつつ諸手上段に振冠り、右足を正面へ踏出し(胴体へ)斬込み、刀を開き納め終る。

 是迄の手附と違って、敵の左横顔に鍔で打つのです。


 古伝神傳流秘書英信流居合之事山下風:右へ振り向き右の足と右の手を柄と一所にて打倒し抜付後同前但足は右足也浮雲と足は相違也

 たったこれだけです。これでは幾つもの自分流があっても当然です。始めは師匠から手ほどきを受けその教えに従い真似の稽古を繰返す事、其の上で、仮想敵の仕掛けに如何に応じるかを工夫する、そして気を知って応じ和す心を武術とする。
 柳生新陰流の柳生石舟斎宗厳が尾張大納言義利のち義直に柳生新陰流第四世を印可した際に進上したと云う「始終不捨書」の三摩之位にある円相上に等分に打たれた三点を「三摩」といい「習い・稽古・工夫」それがその流の武術を学び修行する事でしょう。多くは、習い・稽古で終わってしまうものです。まして「守破離」など程遠いものです。

 

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2019年6月11日 (火)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部4浮雲

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部4浮雲

 正面より左向に立膝に座し左手を鯉口に取りて立上り、左手にて柄を左に逃し(右方の敵が吾が柄を取らんとするを此時左足は左に開く)右向になりつゝ柄を鞘共胸迄上げ、(右手をかけ)同時に左足を右足先前に接する様進ませ少し腰をおとし鞘を突込み足をもぢらして、(左足の甲を下に向くやうに)刀を抜きつゝ其抜放れ際の處にて腰を左に十分ひねり、左足の裏を上に向けたまゝ尚腰を下げ敵の胸元に抜付け、後ち体を右に廻し刀の腰棟に左手の四指を当て右足を後に退き此時右膝をつく敵の体を横に押倒す、次に柄を引き上げ刀の物打の棟へ左手の全指をあてたるまゝ引構へ、夫より刀を左手にて後にはね返し雙手にて柄をとり、更に雙手上段に振冠りて左膝の外へ切り込みて後納め終る事同じ。

 大江先生の剣道手ほどき長谷川流居合(抜方と順序)右身の部「浮雲」:左向き静に立ち、中腰となりて左足を後へ少し引き、刀を左手にて左横に開き、右手を頭上に乗せて力を入れる、其開きたる状態より左足を右足前方へ一文字となし刀は柄を右手に握り、胸に当て右の下へ抜きつゝ体を右へ廻し、刀尖の三寸残りし時、刀を一文字の儘体は中腰となり右横より左へひねり正面に向け抜付け、折り返して打ち、左手の内にて刀峯を押へ伸ばし右手は弓張とし、右左を右斜へ引き、其膝をつき、敵を引き倒し、直に刀を肩上にてかざし、上段にて正面に直り左斜を斬る、この時膝頭外にて両手を止む、血拭ひ刀を納む。(敵三人並び一人の敵を置き先の敵を斬る時)

古伝神傳流秘書英信流居合之事浮雲:右へ振り向き足を踏みもぢ彳(ちゃく)腰をひねる抜付左の手を添へて敵を突倒す心にて右の足上拍子に刀をすねへ引切先を後へはね扨上へ冠り膝の外へ打込み後同前又刀を引て切先を後へはねずして取りて打込事も有。

 河野先生の浮雲には、大江先生の(敵三人並び一人の敵を置き先の敵を斬る時)の条件がありません。(右方の敵が吾が柄を取らんとするを・・)外して抜付け引き倒すのです。
 引き倒しは「敵の体を横に押倒す」ですが大江先生は「正面に向け抜付け、折り返して打ち」と二度斬りしてから敵を「右斜へ・・引き倒し」で様子が違います。古伝の場合は「敵を突倒す心にて右の足上拍子に刀をすねへ引」と右足の方へ引き倒す、」大江先生の右斜へ引き倒すと同じです。
*
 河野先生の昭和13年1938年の無雙直伝英信流居合道の浮雲では、「横列に並びて座し居る場合、右側の(二人目の位の處より)敵が吾が刀の柄を取らんとするを・・」と大江先生の添え書きを何となく取り込んでいます。稽古会などでは我の右側二人目の敵が柄を取りに来る想定で実演されますが、別に我が右脇の者が柄を取りに来てもおかしくはない手附です。次の業颪と被ってしまうのを避けたような意味不明の敵の配置です。昭和17年19472年の大日本居合道図譜では「横に座す右側の二人目の敵が我が刀の柄を取らんとするを、外して・・」と想定をされています。二人目でも隣でも良さそうな手附ですから、古伝を知って居れば大江居合を訂正できたでしょう。

 大江先生の先輩細川義昌先生の系統の居合兵法無雙神伝抜刀術梅本三男先生の浮雲:(右側に座して居る者を斬る)の添え書きで敵は右隣です。大江居合は何を原本としたのか疑問です。大森流も英信流も敵は一人が原則でしょう。

 河野先生は昭和30年1955年発行の無双直伝英信流居合兵法叢書で、これらの土佐の居合の誤った伝承を正す意図もあって発行されたと思います。一つ習い覚えると、新たに習い直すことに臆病な事では修行しているなどと云うわけにはいきません。稽古の度に新たな発見があるものです。
  

 

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2019年6月10日 (月)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部3稲妻

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
立膝ノ部3.稲妻

 正面に立膝に座し、例に依りて抜きつゝ立上り左足を引きて高く抜き払ひ、(上段の甲手に斬込む)左膝を跪くと同時に双手上段に振冠りて斬込み、刀を右に開き血振し納め終る。

 河野先生の大阪八重垣会の教本として、第18代穂岐山波雄先生の教述を書き留めてまとめられたもので、昭和8年1933年に「無雙直傳英信流居合術全」として発行された手附の元となったスクラップです。従って手附の内容は指導された穂岐山先生の動作がほとんどと思われます。
 その後昭和13年1938年発行の無雙直傳英信流居合道によって手附の記述方法が河野先生の考えで変わっています。しかしその内容は殆ど同じと見ていいでしょう。
 この、スクラップの書き出し「正面に立膝に座し、例に依りて抜きつゝ・・」ですが例に依りは「気充つれば、左手を鯉口に取りて拇指にて鯉口を切り、右手を柄に掛けるや、腰を少し浮かし刀を抜きつゝ・・」となります。

 ここで、大江居合の「剣道手ほどき」大正7年1918年を居合術独習法を抜粋して見ます。「(我が体を正面に向け座す)・(前方7尺の處を凝視し)丹田に気充つるとき静に左手にて刀の鞘鯉口を握り右手は第二関節を折り拇指の股を柄の鍔元に入れ。五指を静かに握り肘を落とし右肩を稍斜前に出す。左手にて鞘を少しく後へ引き、右手を斜前に出し静に抜く。此時両足の趾先を立て上体を自然とあげ・・」

 河野スクラップと大江居合の独習法を読めばすぐ気が付く事ですが、ここには少しも対敵意識のない、道場若しくは演武場での形を整えるための心持ちばかりがうたわれています。
 形は出来ても是では柄に手を掛けるそぶりをしただけで我が首は飛んでいます。初心者の独習をいつまでやっても居合になりません。「正面に立膝に座す」という場取りでは無く、「互に向き合い立膝に座す」人と向き合い、相手の表情や語気、動作を察知する意識から改めなければ「何時如何なる変に応じる」など夢物語に過ぎません。当然でしょうが「丹田に気充つる」まで相手は待ってなどいてくれるわけもないでしょう。
 初心者の独習心得を40年、50年とやって来られた先生ばかりでは、人生における「思いもよらぬ事態」などに応じられる訳も無いでしょう、限られた居合同好の士との触れ合いでの狭い縦社会による序列を頼りの自己満足ではお粗末です。
 何の為に修行しているのかも、理解できない様では困ったものです。居合の動作ばかり出来ても、この時代に刀で人殺しをするなどあってはならない事です。それにもかかわらず毎日稽古する「何を目指すのか」自問自答する事も大切でしょう。

大江先生の剣道手ほどきによる長谷川流居合稲妻:「正面に座し、右足を少しく立てながら左足を後へ引き、両膝を浮めて稍左斜へ斬付け、姿勢の儘上段に取り其体より両膝を板の間に着けて切り落すなり、血拭ひ刀を納むるは1と同じ。抜付けは刀尖を高くするを宜とす。(敵の甲手及び頭上を斬る)

古伝神傳流秘書英信流居合之事稲妻:「左足を引き敵の切て懸る(拳 曽田メモ)を払ふて打込み後同前」 この手附は、状況を何も指定して居ません。どの様に運剣するかは、「敵の切て懸る」想定次第で幾通りもあるでしょう。此の業一つで多くの「変に応ずる」事が可能でしょう。古伝はおおらかです。

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2019年6月 9日 (日)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合業書立膝ノ部2虎一足

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合業書立膝ノ部
2.虎一足

 正面に向ひ立膝に座し、例に依り抜きかけ立上り左足を一歩後に引きつゝ右斜前に殆ど刀を抜、左腰を左方にひねると同時に刀を抜きはなち刀の差表にて受け留め向脛に切りつけ来るを右足を圍ひ左膝を跪くと同時に双手上段に振り冠り真向に割付け、右に開き納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきより長谷川流居合(抜方と順序)向身の部2本目虎一足:「正面に座す、静かに立ちながら左足を引きて刀を抜付くと同時に膝を囲ふ、此囲は体を左向き中腰となり、横構にて受止める事、此体形にて刀を上段に冠り正面に向き座しながら斬り下すなり。血拭ひ刀を納めは一番と同じ(膝を受け頭上を斬る)」

 大江先生と河野先生の違いは、敵の脛への斬り込みを囲ってからの状況です。
 河野先生は「左膝を跪くと同時に双手上段に振り冠り真向に割り付ける」。河野先生はその後の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年ではその意義を「吾が正面に対座する敵が、吾が右足に薙ぎ付け来るを受け留め(敵刀を払ふ気持)敵の退かんとするを上段より斬りつけて勝つの意なり。」としています。

 双方向かい合って居合膝に座し、敵が吾が立膝の右足に薙ぎ付けるのです。この意義と大江先生の「静かに立ちながら左足を引きて刀を抜付くと同時に膝を囲ふ」我の動作は、実際に設対者を置いて抜き付けられての応じ方を稽古すべきで「静かに」をどの様に動作に反映させるか厳しい処です。
 大江先生は「横構にて受留め、此の体形にて刀を上段に冠り正面に向き座しながら斬り下す」。大江先生は敵は既に抜刀して膝に斬り付けて来るのか、座して膝に斬り付けて来るのか不明ですが、「我は静かに立ちながら・・・受止める」、そして「此体形にて」ですから右半身の体形で立ったまま上段に振り冠っています。敵は無疵ですからもたもたして居れば、突いて来るなり、反撃の態勢を退きながら作ろうとするでしょう。敵は立って切り込んで来る想定を思い浮かべます。

 中山博道先生は大田龍峰先生の居合読本昭和9年1934年ではその意義「敵が前方から我が右臂(みぎひじ 膝の誤植?)を斬って来るのを抜刀して之を受け、敵の退くに乗じ正面に向ひ斬る業である」とされています。是も立って来るのか、座したまま斬り付けて来るのか不明です。「・・敵の斬りつける刀を払ひ受け、刀を頭上に振り被りつゝ左足を右足に引きつけ、右足を僅かに前方に踏みつけ正面を・・」と立ったまま斬り込んでいます。
 山蔦先生は、写真付きですから敵も我も座して向かい合い、「敵が自分の右足に切り込んでくるのを・・急速に抜刀し、右脛を囲うように敵刀を鎬で受け止める」、山蔦先生の立膝は右足膝は稍々浮かせた程度ですから、座したままでは抜き打つ対象にはなりにくいものです。右膝上で床からせいぜい20cm有るかどうかでしょう。我が右足に斬り付けるとすれば、敵が抜刀せんと刀に手を掛けるや我も刀に手を掛け、立ち上りつつ刀を抜き出す所を敵は、立てた右足膝辺りに抜き付けて来るのでしょう。受け止めるや左膝を右踵に折敷き刀を振りかむり、右足を一歩直角に踏み出し、斬り下ろす。相手はどうやら座したままのようです。
 
 想定も充分理解しないまま形動作を習うために、疑問に思っても、約束事の形だからと、其の儘やり過ごしてしまうのですが、それぞれの先生方の手附を読みながら空想では無く設対者に応じてこの形を稽古すべきでしょう。演武会の踊りや、昇段審査は決められたことをしていればいいだけです。

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2019年6月 8日 (土)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書立膝ノ部1横雲

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書立膝ノ部
1.横雲

 正面に立膝に座し、気充れば左手を鯉口に取りて拇指鯉口を切り、右手を柄に掛けるや腰を少し浮かし刀を抜きつゝ右足を踏み出して右一文字に抜き払ひ雙手上段に振り冠りて真向に割付け直ちに刀を右に開きて血振し、同時に左手を左腰に取り鯉口を握りて納めつゝ右足を左足に引付け、爪立てたる左足の踵の上に臀部をおろすと同時に納め終りて立上り次の業に移る。

 大江先生の「剣道手ほどき」では長谷川流居合(抜き方と順序)向身の部1.横雲の業名となります。
 横雲:正面に座して刀を右へ静かに抜きつゝ、三寸残りし時右足を出し、刀尖を抜付け、其姿勢にて上段にて真向に前方を斬る。血拭ひ刀を納む(敵の首を斬る)

 余談ですが、中山博道先生の居合を太田龍峰先生が昭和9年1934年に「居合読本」として発行されています。その長谷川英信流居合横雲では:正面に向ひ箕坐す、右足を僅か前方に踏み出し大森流の初発刀と同様に抜刀して直ちに頭上に振りかぶり、敵を斬り下ろし、直ちに陰陽進退の最初の血振りをなし、刀を納めつゝ右足を左足に引き付けて蹲踞し、後、徐かに立ち上がる。

 ここでの抜き付けは、大森流の初発刀と同じ様に抜き付けで右足を踏み込んでいます。但し踏み込みは「右足踵が左膝頭附近に来る如く 踏み著くると同時に刀を抜く」ですが、写真は右足膝頭より一足長は踏み込まれています。
 何処で何時変わったのか夢想神傳流の事ですから研究して居ませんが、第9代林六太夫守政がもたらした土佐の居合「夢想神傳英神信流居合兵法」である事は間違いないものなので、現代の夢想神傳流ではこの横雲の抜き付けで「夢想神伝流居合道」山蔦重吉先生著述昭和47年1972年のものでは横雲:「初伝では一歩踏み出すのに反し、左足を後ろに引くと同時に抜付ける。」と有ります。
 変化業が如何様であろうともいいのでしょうが「長谷川英信流」とするならば、変えてしまった理由を明記しておくべきと思います。現代居合だから古伝は関係ないと云うのは如何なものでしょう。ならば立膝の座し方を、正座に直す程の気魄が欲しいものです。それは無双直伝英信流でも然りでしょう。
 大村唯次先生の幽芳禄平成元年1989年では横雲:「大森流初発刀に同じである。正面に向い箕坐す。右足を僅かに前方に踏み出し大森流の初発刀と同様に抜刀して・・」であって左足を引いて抜き付けろとは有りません。
 大森流の初発刀の抜付けは「・・右足踵が左膝附近にくるまで踏みつけると同時に刀を抜き踏み込まんとする時は、刀は半ば抜きつゝ一歩直角に抜きつく・・」と解説されていて納得です。「居合読本」の初発刀の抜き付けの右足捌きは説明不足です。

 古伝神傳流秘書英信流居合之事横雲:「右足を向へ踏出し抜付打込み開き足を引て先に坐したる通りにして納る」
 英信流の前書きに「是は重信翁より段々相伝の居合然者を最初にすべき筈なれ共先大森流は初心の者覚易き故に是を先にすると言へり」と有ります。

 立膝の業は大方、抜き付けは左足を引いて抜き付けますので、一本目の横雲のみ右足を踏出す事に疑問を持つのも当然でしょう。居合は前に踏み出すも後に引くも、間合い次第で自由自在であるべきものです。
 演武会や昇段審査向けの稽古に終始する方は、所属したところで決められた事だけやって居ればいいだけです。審査は解るが演武会では自由だろうと思いがちですが、これは人前で自流の業を披露するわけですから決められた事だけを演ずるべきで変化業や自分勝手な動きはすべきではないでしょう。

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2019年6月 7日 (金)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部11抜打

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部11、抜打

正面に向ひて正座し、左手を鯉口取り拇指にて鯉口を切り、右手を柄にかけつゝ両膝と其爪先にて膝を伸ばし、右斜前に刀を引き抜き左肩側に刀先を突込む様に雙手上段に振冠りて切り込み、刀を右開くと同時に左手は左腰に取り後鯉口を握り刀を納めつゝ臀部を踵の上におろして納め終る。

 大江先生の「剣道手ほどき」大森流居合11番抜き打ち:正面に座す、対座にて前の敵を斬る心組にて其正座の儘刀を前より頭上に抜き、上段に冠り、身体を前に少しく出し、前面の頭上を斬る。血拭ひは中腰の同体にて刀を納む。

 河野先生も大江先生も対座する敵の害意を認め、「直ちに其真向より抜打ちにして勝の意」がこの抜打の意義なのでしょう。「害意」です。古伝神傳流秘書大森流居合之事の抜打:座して居る所を向より切て懸るを其の儘踏ん伸んで請流し打込み開いて納る 尤も請流に非ず此所筆に及ばず。
 古伝は敵が既に刀を抜いて真向に斬りかかって来る緊急事態の業でしょう。従って刀を抜き乍ら伸び上がる様に踏ん張って相手の打ち込む刀を左肩を覆う様に抜き上げた刀で請けるや摺り落して上段に振り冠って、受け流された相手の真向に打込むのです。「害意を認め」の解釈は対敵の運剣を意識しない様な抜打ちは、一方的な切り込みにすぎません。動作や形は同じでも全く違う業なのです。

 河野先生の大日本居合道図譜でも「正面に対座する敵の害意を認むるや直ちに其の真向より抜打ちにして勝つの意なり」の意味不明な意義を以て抜き打っています。但し其の動作は「腰を上げ乍ら刀刃を少し外向け右斜前にスット物打辺り迄抜き出す。右拳を上に上げつゝ抜きとり剣先は下げて左肩側より体を囲ふ様に把り(敵斬込むとも之を受流す心)で上段になる・・」ですが、古伝の様に「向より切て懸る」では無く心持ちに過ぎません。河野先生の抜き上げた写真は請け流す一瞬を示す様な写真ですが、「形」に過ぎません。

 細川先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙伝抜刀術抜打:対座して居る者を斬る・・。これでは、我の一方的な切り込みになってしまいます。全居連の刀法の二本目に無外流の連を元にした前後切があります。この意義は「敵我が真向に斬込み来るを受流すや顔面に双手上段から斬付け、直ちに後敵の真向に斬下し、更に前敵の真向に斬下して勝つ」のであって、まず敵に斬り込まれているのです。同じ事が抜打ちにもある事を意識した運剣が望まれているのです。飛び上がったり、どんと音を立てたり、意味の無い事を「いかにも」と演ずるのではありません。

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2019年6月 6日 (木)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部10追風

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部10、追風

 正面に向ひて立ち居合腰となり、左手は鯉口にとり拇指にて鯉口を切り、柄に右手をかけ小足にて追進みて、右足を踏み込みて抜払ふや左足を踏み込みつゝ雙手上段に振り冠り、右足踏み込みて切り込み左手を鯉口にとり刀は右外に廻して振りかつぎ血振して納刀する事月影に同じ。

 居合腰とは何でしょう、そんな腰つきが特定されていたのでしょうか。飽くまでも自然体であるべきものです。居合膝などと特定した云い方もある様ですが、剣術の構えは宮本武蔵の兵法35箇条「身のかゝりの事:身のなり、顔はうつむかず、余りあおのかず、肩はさゝず、ひづまず、胸を出さずして、腹を出し、腰をかゞめず、ひざをかためず、身を真向にして、はたばり広く見する物也。常住兵法の身、兵法常の身と云事、能々吟味在るべし。」
 大江先生の剣道手ほどきから「追風」:直立体にて正面に向ひ、上体を稍前に屈し、刀の柄を右手に持ち、敵を追ひ懸ける心持にて髄意前方に走り出で、右足の出でたる時、刀を首に抜付け、直に左足を摺り込み出して上段に冠り、右足を摺り込み左足は追い足にて前面を頭上直立体にて斬り、刀尖を敵の頭上にて止める、血拭ひは右足を引き中腰のまゝ刀を納む。

 河野先生の「居合腰」は、「腰を下げ、前に体を屈める気見合いにて」と無雙直傳英信流居合道では言っています。その後の大日本居合道図譜では「直立の姿勢より少し体を沈め乍ら追い掛ける」と変わっています。大江先生の「上体を稍前に屈し」は無くなっています。第22代の教本では「やや腰を沈め上体やや前傾し」となりです。膝を屈め全屈して追い懸けるなど徒競走しているわけでは無いでしょう。敵にも周囲にも気付かれない体勢が相応しい筈です。
 *
 大江先生の兄弟子細川義昌系の梅本三男先生による居合兵法無雙神傳抜刀術「虎乱刀」:正面へ向ひ、立歩みつつ右足を踏出しながら鯉口を切り、左足踏出しつつ右手を柄に掛け、更に右足踏込んで(対手の左側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬため、直ぐ左足を踏込みつつ諸手上段に引冠り、更に又右足踏込んで斬込み血振ひして(立身のまま)刀を納め終る。

 古伝神傳流秘書大森流居合之事「虎乱刀」:是は立事也幾足も走り行く内に右足にて打込み血震し納るなり。
 古伝は「虎乱刀」で追い懸けて打込むのであって、抜打なのか抜刀して追い懸けるのか指定されていません。しかも一刀のもとに切り捨てています。

 第15代谷村亀之丞自雄による英信流目録大森流之位「虎乱刀」:是は立てスカスカト幾足も行て右の足にて一文字に抜付(払ふてもよし)かむる時左の足一足ふみ込右の足にて打込む血ぶるひの時左を右の足に揃納る時右の足を引納其時すねをつかぬ也。


 追懸切の心得は古伝英信流居合目録秘訣外之物ノ大事「追懸切」:刀を抜我が左の目に付け走り行て打込但敵の右の方に付くは悪しし急にふり廻り又ぬきはろをが故也左の方に付て追かくる心得宜し。
 もう一つ上意之大事に「虎走」:仕物抔云付られたる時は殊に此心得入用也其外とても此心得肝要也、敵二間も三間も隔てゝ坐して居る時は直に切事不能其上同坐し人々居並ぶ時は色々見せては仕損る也、さわらぬ躰に向ふへつかつかと腰をかゞめ歩行内に抜口の外へ見えぬ様に体の内にて刀を逆さまに抜きつくべし虎の一足の事の如しと知るべし、大事とする所は歩みにありはこび滞り無く取合する事不能の位と知るべし。

 さて、追風はどのような時に行われる業でしょう。あれやこれや想定して見ると同じ業の動作が描けてきます。


 

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2019年6月 5日 (水)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部9月影

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部9月影

 正面より左向き約15度位ひに正座し、例に依り抜きかけつゝ右足を正面に踏み込みて高く抜きつけ、(上段の甲手に)左足を前に継足すると同時に雙手上段に振冠り、右足を踏み込みて高く敵の面に斬り込む、其儘左手は鯉口にとり刀は右外に廻つゝ振りかつぎて血振をなし、右足を一歩後に引きたちたるまゝ納め終る。

大江先生の剣道手ほどきによる月影:(左斜に向き右真向に抜き付ける)前左斜に向き正座し、同体の儘右足を出し中腰にて刀を高く抜き付け、右敵の甲手を斬る同体にて左足を出しつゝ上段に冠り、右足を出して稍直立体にて敵の頭上を真向に斬り刀尖を胸部にて止む。血拭ひは右足を引き一番と同じ要領にて、刀を納む。但し直立の儘。

 河野先生との違いは、正座した時の正面に対する向きの違いでしょう、大江先生「前左斜に向き正座」とやや大雑把です。河野先生は「正面より左向き約15度位ひに正座」と向きに拘っています。次いでですが、河野先生は大日本居合道図譜では「約45度位」に訂正されています。22代の解説書では「左45度位斜め向きにて」
 次に、大江先生は「右敵の甲手を斬る同体にて左足を出しつゝ上段に冠り、右足を出して・・」と歩み足で上段に振り冠真向に斬り込む。河野先生は「・・左足を前に継足すると同時に雙手上段に振冠り、右足を出して・・」と継足捌きです。細かい事をと云っても現代居合は形重視ですからそうなります。

 河野先生の無雙直傳英信流居合道の月影ではもっと細かく、しかもスクラップ(無雙直傳英信流居合術全)の手附を直しています:正面より斜左向き(約15度位ひ)に端坐し、刀を抜きかけつゝ右足を正面に踏み込みて体を左に開きて敵の上段にて斬り込まんとする其の左内甲手に高く抜き付け、左足を前に踏み込み乍ら雙手上段に振冠り、右足を踏み込むと同時に敵の真向より斬り下し、左手を鯉口にとり同要領にて血振いをなし、右足を退きて立ちたるまゝ(腰を下げ)納め終る。

 古伝神傳流秘書大森流居合之事「勢中刀」:右の向より切て懸るを踏出し立って抜付打込血震し納る此事は膝を付けず又抜付に払捨て打込事も有」

 古伝は我が座して居る、右向こうから斬ってかあるのです。正面は90度右になります。右に廻り立ち上がり右足を踏み込んで、打ち込まんとする敵の小手に横一線に抜き付ける、と現代居合の月影を習い覚えた者はやってしまいます。敵は立って来るならば、下から小手に斬り上げるのも容易です。その場合右足を稍々右に踏み込み敵の小手に切り上げるや体を替って敵の右側面から打ち込むのも出来るものです。
 現代居合の15度だ45度は初歩の場合には敵に対し易い角度に過ぎません。敵は我が応じにくい位置から斬り込んで来るものです。・・とやっていると飛んで来る古参が居るので面白いものです。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部勢中刀:「(右側より斬込み来たる者を斬る)正面より左向きに正座し左手を鯉口に右手を柄に掛け(対手が上段より斬込まんとする刹那)膝を浮かべ、右へ廻りつつ立ち上がり、左足を一歩後へ退くと同時に(斜上へ高く対手の右甲手へ)抜付け、直ぐ左足を右前足に踏揃へる、同時に右諸手自上段に引冠り右足を踏込んで斬込み、血振ひ後左足を右足前足へ踏揃へ、更に右足を一歩後へ退き立身のまま刀を納め終り、右足を左前足に踏揃へるなり柄を向ふへ向け直立の姿勢となり終る。」

 細川居合では勢中刀の業名称でした。座し方も左向きに座して居ます。抜き付けは右足を踏み込まず、左足を一歩退いて間を切って抜き付けています。相手次第で附け込むには左足を右足に踏み揃える足踏みで相手との間を調整して右足を踏み込むわけです。大江先生は細川先生と同門ですからこの勢中刀を習っていた筈です。
 古伝は「右の向より切て懸るを踏出し立って抜付」ですから、細川先生の「左足を一歩退くと同時に抜付け」は古伝と異なります。

 大江先生は古伝の業名「勢中刀」を「月影」と改めてしまいました。何故か業名変更には中学校の校長の指図があったのではないかと、この頃、ふと思われて仕方がありません。習い覚えた業名と業を簡単に捨ててしまえるほど大江先生は飛んでる様には思えません。この流に拘わらない者には平気で出来る事でしょう。其の上この「月影」の業名は古伝太刀打之事5本目「月影」の業名です。太刀打之事を反故にする心は当流の修行者の心とは思えません。然し大江先生の居合道型にはこの月影と同じような業を「鍔留」の業名として残されています。明治維新による過去の日本を打ち壊す気風が為せる事かとも思える事です。
 古伝はおおらかです、状況次第です。敵が斬り込まんとする上段の小手あるいは肘に右足を踏み込んで立って抜き付けろと云っています。場合によっては拂い捨てても良いのです。即座に振り冠って打ち込む。敵が打ち込まんと振り冠る刹那でも、上段から打ち込む瞬間でも相手次第です。
 その際抜打ちに斬られた敵が引き下がるならば左足、右足と歩み足でも、追い足でも附け入って行くのも、敵が退かなければ踏み変えるだけでも、真向でも袈裟がけでも稽古は幾通りも考えられます。

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2019年6月 4日 (火)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部8附込

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部8、附込

 正面に向って正座し、例に依りて抜き掛けつゝ右足を右前斜に踏み出し、立上り様刀を右前斜に引抜き(抜き払はぬ事、踏出したる右足を引き左足に踏み揃へ)正面より切込み来るを後に引きはづすと同時に、大きく雙手上段に左より振冠り右足を踏み出して高く切り込み、左足を前に継足すると同時に又雙手上段に冠り、右足を踏み込みて腰を下げ、低く切り下し、左足を前に踏み揃へ右足を後に一歩引きつゝ上段に冠り、右足を跪きて刀を前に静かに下し、(残心の意)右手を逆手に取り替へて血拭し、左手を鯉口に取り刀を振返して納め終る(此場合右手を逆に取り替へたる時、左手は鍔元を下より受けるが如くし、右手拳を右に返し刀刃を前に向け、左手腹にて棟をすらす)。

 「抜かけつゝ右足を右前斜に踏み出し」の意味がわかりません。敵は「正面より切込み来る」ならば筋を替える積りの足踏みかと思いましたら「踏出したる右足を引き左足に踏み揃へ」るそうです。それでは筋は変わりませんから、右足は正面に踏み出すので良い筈です。
 もう一つ腑に落ちない動作は「立上り様刀を右前斜に引抜き(抜き払はぬ事・・)」正面より敵が斬り込んで来るので立ち上がり様に右足を引いて「後に引きはづす」のですから、刀は上に抜き上げなければ、右前斜に引抜いたならば小手か柄に切り込まれてしまいます。
 右足を右前斜に踏み出し、刀を右前斜に引出し、敵を牽制しつつ引付るならば何とか納得します。小細工の意味を述べるべきでしょう。

 大江居合「剣道手ほどき大森流居合附込」を読んでみます。この附込は古伝神傳流秘書は「逆刀」です。大江先生は附込(俗に追切)と云っていますが、俗です。
 「正面に向いて正座す、右足を少しく前に踏み出しつゝ、刀を抜き、刀尖の鞘に離るゝ時頭上に冠り、右足を左足に引き揃へ、直立体となり、右足より左足と追足にて前方へ一度は軽く頭上を切り、二度目は頭上を同一の体勢にて追足にて斬る、此体勢より右足を後部へ引き、中腰となりて更に上段構を取り、敵の生死を確めつゝ残心を示す(抜付けより之れ迄は早きを良しとす)此残心を示したる体勢より自然前方へ刀を下して青眼構へとなる、此時は右足の膝を板の間につけ、左足の膝を立て全体を落す、更に同体にて右手を逆手となし、刀柄を握り、左手は左膝の上に刀峯を乗せ血拭ひをなし刀を逆手の儘同体にて納む。」

 敵は斬り込んだが外されて、後方へ退かんとするのに「附込」の意味なのでしょう、だから「追切」なのでしょう。河野居合が第18代穂岐山波雄先生の指導による業手附であれば、大江居合に添った動作とも言えない様です。自分流を出すのは否定しませんが、宗家を名乗る者がポイントを外したのでは困ったものです。

 河野先生の昭和13年の無雙直傳英信流居合道から「附込」:「正面に向ひて端坐し、刀を抜きかけつゝ右足を前に約半歩踏み出すと同時に刀の刃を上にして右斜前に半ば抜き、立ち上るや右足を左足に踏み揃へつゝ刀を斜に高く頭部より左肩を囲む様に抜き払ひて(直立)敵の刀を外し(此場合敵との間合近き時は此の状態にて敵刀を摺り落すの意)雙手上段に振り冠り、右足を大きく踏み込みて(左足も継ぎ足にて進み右足に接近す)中腰にて高く斬り下し(第一刀不十分にて直ちに第二刀を下す関係上、深く斬り下げず)更に雙手上段に冠り乍ら右足を大きく踏み込みて(第一刀と同様、左足を継ぎ足)腰を下げて深く斬り下し、右足を大きく一歩退きつゝ上段になりて残心を示し、・・」

 河野先生、右足の踏み出しと、刀の抜き出し、右足を左足に踏み揃え、左肩を囲む様に抜き払う技法を身に着けられたようです。敵の切り込みを外して、一刀目の打込み不十分だから高く斬り下すと云っています。是も腑に落ちません。外されて下がる相手に附け込んで斬り付けています。退くよりも追い込む方が有利です。寧ろ一刀目は間合いは十分だが相手の切り込みを外すや打ち込むが中腰なので充分斬り籠めるはずです。敢えて浅く斬り込み、二刀目で深く止めの打込みをする、と考えるべきでしょう。

 細川先生の系統で梅本先生の「居合兵法無雙神伝抜刀術逆刀」:「・・右足を右前へ踏み出し、其方向へ刀を引抜き 立上りつつ左足より一歩後へ退き(対手が斬込み来る剣先を退き外し)更に右足踏込んで斬込み(対手倒れる)左足を右前足に踏揃へつつ諸手上段に引冠り 更に又右足を少し踏込み上体を前掛りに(対手の胴体へ)斬込み・・・」

 古伝神傳流秘書大森流之事逆刀:「向より切て懸るを先々に廻り抜打に切右足を進んで亦打込み足踏揃へ又右足を後へ引冠逆手に取返し前を突逆手に納る也。」

 古伝の手附では抜けだらけです。現代居合を頭に描きながら古伝を想像するのもまた、この業の真髄に触れられるものです。

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2019年6月 3日 (月)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部7介錯

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部7、介錯

 正面に向ひて正座し、例に依りて抜きかけつゝ右足を前に踏出し、立上ると同時に刀を抜きはなちたる儘右足を引き(此動作は相手の気を乱さざる様極めて静かに行ふ事)刀を頭上左上より右肩にとり、(是迄左手は腰に、刀尖は左肩下約八寸位の後方にあり)機を見て右足を踏み込み、(左手を添へて)同時に刀刃を稍左にむけ切り込む。(首を切り落す形)其儘左足を一歩後に退き物打の所を膝頭の上にあて、左手を左斜前に十分突出して構へ、右手を逆手に取り替へ刀を振返して納めつゝ、左足を跪きて納め終る。


古伝神傳流秘書大森流居合之事7、順刀
 右足を立左足を引と一處に立抜打也又は八相に切跡は前に同じ

谷村派第15代谷村亀之状自雄英信流目録大森流之位7、順刀
 是は坐する前のものを切る心持なり我其儘右より立すっと引抜かたより筋違に切也是も同じく跡はすねへ置き逆手にとり納るなり

参考 介錯口伝
1、古代には介錯をこのまず其故は介錯を武士の役と心得べからず死人を切るに異らず故に介錯申付らるゝ時に請に秘事有り介錯に於ては無調法に御座候但し放討ならば望所に御座候と申すべし何分介錯仕れと有らば此の上は介錯すべし作法は掛るべからず譬切損じたるも初めにことわり置たる故失に非ず秘事也能覚悟すべし
1、他流にて紐皮を掛ると云事
 仰向に倒るゝを嫌てひも皮を残すと云説を設けたる見えたり当流にては前に立所の伝有故に譬如何様に倒るゝとも失に非ず其の上紐皮をのこす手心何として覚らるべきにや当流にては若し紐皮かゝりたらば其の侭はね切るべしさっぱりと両断になし少しも疑の心残らざる様にする事是古伝也

 細川義昌先生系統の梅本三男先生による居合兵法無雙神傳抜刀術大森流之部7、順刀(介錯する事)
 正面へ向ひ切腹する者の左側へT字形に三尺位離れて正座し(知人之善人の介錯を頼まれたる場合は、慣れぬ事故若し斬損じがありましても御免を蒙るとの挨拶するを礼とす)
 機を見て鯉口を切り右手を柄に掛け、右足を少し右前へ踏出し其方向へ刀を静かに引抜き(抜払はぬ事)、立上りつつ右足を退き左足に踏揃へ体を引起し、直立の姿勢となりつつ刀尖を左後へ突込む様に右手を上げて頭上を越させ、血振ひする直前の様に(右肩後へ釣下げて待つ)切腹者が(介錯頼むと)両手を前につかえると同時に右足踏出しつつ(悪人の首を切る場合は右足を前へどんと音のする様に踏出し、其音に斬られる者の心気を一転させ(怨霊を去る口伝)刃部を左斜下へ向け体を前掛に(右片手にて)大きく斬込み(首を落とす)斬込むと同時に左手で柄頭を握り諸手となる、左足を一歩後へ退き、左拳を左斜上へ突出し(刃部を向ふへ向け)刀尖を右膝頭上へ引付け(懐紙を出して血糊を拭ひは略す)右手を逆手に執りかへ、刀を振り返して納めつつ左膝を跪くと同時に納め終る(血拭ひせぬ事)


  大江居合では大森流7本目は介錯の業名です。土佐に伝えられた大森六郎左衛門の大森流7本目は順刀です。此の業を古伝及び第15代谷村亀之丞の業手附で演じた場合、大江居合の介錯を知らなければ素晴らしい抜打ちの業です。全剣連居合の三本目「受け流し:左横にすわっていた敵が、突然、立って切り下ろして来るのを「鎬」で受け流し、更に袈裟に切り下ろして勝つ」に十分対応できそうです。更に立業では12本目「抜打:相対して直立している前方の敵が、突然、切りかかってくるのを、刀を抜き上げながら退いて敵の刀に空を切らせ、さらに真っ向から切り下ろして勝つ」。

 大江先生は業名「順刀」を何故「介錯」としたのでしょう。明治維新後切腹も介錯も、不要なものです。敢えて中学生に介錯としてそれを教える理由は何でしょう。あれだけ古伝をいじってしまったにしては腑に落ちません。どうせなら「切腹」の仕方を教えた方がましでしょう。

 現代居合順刀を見直しても良さそうですが、誰も手を付けずにいます。先師の教えをいじっている癖にこの業は「介錯」だそうです。私は真影流による大森流居合に介錯の業があるとは思えません。「順刀」の動作をユックリ丁寧に行えば介錯に使えるとして、番外の稽古業が表業になってしまった様に思えます。それも細川先生、大江先生の師匠下村派第14代下村茂市定先生が指導されたものと思えます。
 下村茂市が土佐藩の居合術指南となったのは嘉永5年1852年没したのは明治10年です。一方谷村亀之丞が英信流目録を書き改めたのは嘉永5年1852年でした。同時代に下村茂市は順刀を「介錯」として指導し、谷村亀之丞は古伝を守って「順刀」だったかもしれません。

 細川、大江両先生の下村茂市居合は残り、五藤孫兵衛先生による谷村派の居合は、明治26年から31年までの5年間中学生ばかりに指導されていた様で、没後は谷村樵夫先生が明治36年迄指導され、その後は大江先生でした。ですから谷村派の居合は中学生への指導だけでは消えてしまったのかも知れません。五藤先生の門下で名が残っているのは、中山博道に大森流、英信流を指導した森本兎久身以外に見当たりません。
 下村派、谷村派の顕著な違いなど私は無かったと思います。伝書を二人に授与した第11代大黒元右衛門清勝が居て、それを引き継いだ下村茂市と谷村亀之丞自雄が、江戸末期から明治維新に存在した事が事実に過ぎない気がしています。 

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2019年6月 2日 (日)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部6受流

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部6、受流

 正面より約15度位右向に正座し、例により柄に手を掛け腰を浮かして左足を右前に(正面より90度右)踏み込み刀を抜きつゝ差表にて冠り左に流すや、右足を右斜後に踏み込み(此時体は稍左に向く気味にて右足の爪先は左の方向に向く様)乍ら左に振りかえり刀を頭上に振冠り、直ぐに右足を左足に踏み揃へると同時に、真向に大きく切込み(此時左手は振りかつぎし所より切込む迄の途中にて諸手になる事)夫より左足を一歩後に引き、物打のあたりを右膝頭の上に取り、左手は左前斜に十分に突き出して構へ、右手を逆手に取り替え刀を振り返して納めつゝ左足を跪くと同時に納め終る。

大江先生の剣道手ほどきの「請け流し」を稽古してみましょう。
 (足踏は三角形とす)
   (右斜向にてもよし)右向となりて正座し敵が頭上に切り込み来るのであるから右斜め横に左足を踏み出し中腰となりて刀尖を少し残して左膝に黒星を付け抜き、右足を体の後に出すと同時に残りが刀尖を離れて右手を頭上に上げ、刀を顔面にて斜として刀尖を下げて請け流し、右足を右横へ摺り込みて左足に揃へ、左斜向に上体を変へ稍や前に屈し、刀は右手にて左斜の方向に敵の首を斬り下し、下す時左手を掛ける。血拭ひは、斬り下したる体勢の足踏みより左足を後方へ引き、右足は稍前方に屈し膝頭を前に出す、其膝上に刀峯を乗せ右手は逆手に刀柄を握り構へ、其儘静に刀を納む、刀を納むるとき刀を鞘に納めつゝ体を漸次下へ下し、刀の全く鞘に納まるや之と同時に左足の膝を板の間に着けるなり。

 大江居合と河野居合の違いは、大江先生は右斜め向きでもいいが右向きに正座する。河野先生は正面より15度位右向きに正座する。敵は正面から斬り込んで来るのでしょう、双方正面90度に左足を踏み出す初動は一緒です。
 次の抜刀し受け流す時、大江先生は右足を体の後方に出すと同時に受け流す。河野先生は受け流してから右足を右斜め後に踏み込む。後は同じ様なものです。

 此の右足の操作は、河野先生の昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道では「右足を左足の一歩後方に進め乍ら刀を振り冠り、其の指し表にて敵刀を受流す」に代っています。第18代穂岐山先生の指導の儘にメモを取ってチェックまでしてもらって発行したのに之は変です。 
 中腰の儘受け流してから右足を右斜後に踏込み、左に振り返る、河野居合は消えてしまいました。
 この受け流しは中山博道居合に残っています。昭和9年1934年太田龍峰先生による「居合読本 大森流居合6流刀 正面に対して右向に正座す、頭を左に向け左足を約一歩前にふみ著くる間に右手を以て柄を上方より握り抜刀し頭上を目がけて斬り来る敵の刀を左肩の後方に向け流す心持にて動作す・・次に立ち上がりつつ」ですから、河野居合でしょう。
 陰陽進退(八重垣)の敵二人と一人の違い、斬り込まれて受け払ってから打ち込むのも、斬り込まれるのを機先を制して抜き打つのも、この流刀(受流)にも変化業はあったのでしょう。

 古伝神傳流秘書の大森流居合之事流刀「左の肩より切て懸るを踏出し抜付左足を踏込抜請に請流し右足を左の方へ踏込み打込む也扨刀をすねへ取り逆手に取り直し納る膝をつく」この手附では座して受け流す様に読み取れます。敵は我の下準備など待ってはくれないでしょう、座したまま受け流す術を稽古すべきで、決して「がっちりうけてから流す」のではないでしょう。熟達すれば大江先生の様に立ちつつ受け流し同時に体を受流した敵に向いていなければならない、敵の拍子を読み切る稽古を要求されます。

 細川先生の流刀は梅本居合で稽古して見ます「正面より右向に正座し、左手を鯉口に執り、右手を柄に掛けるなり、急に左足を前方に踏出し、体は低く刀を左頭上へ引抜き(左側より斬込み来るを)受流しながら、右足を前へ踏越す、同時に、体をくるりと左後へ振向き(刀は頭上にて受流したるまま左後より右肩後へ、血振ひする直前の様に振下げ、空を斬って居る者の後ろ首へ)刃部を左斜下へ向け、右足を左前足に踏み揃へる、同時に上体を前掛りに(右片手にて)大きく斬込み同時に左手で柄頭を握り諸手となる・・」


 谷村派第15代谷村亀之丞自雄先生の大森流居合之位流刀「是は座したる所へ左横より敵討かかり来る也、其時我は左の足を立て前へふみ出し横に請流す心持にて其儘右の足をふみ出し筋違に切り跡はすねへ置き柄を逆手に取直し納むるなり」
 江戸末期では谷村派も下村派も流刀は同じであったとこの手附から読み取れます。大江居合も河野居合も安易に形を追った様で「請け流し」ています。この業はやはり低い姿勢で請け流し、筋を替って流れた敵を斬る技でしょう。「受流」ではなく「流刀」で無ければ意味は無さそうです。
 此の業の疑問点は、敵は受け流されて体を崩すと安易に教えられますが、無直双直伝英信流の斬り込みは上体をしっかり立てて斬り込んでいます。其の上たとえ受流されても、右足をしっかり踏みしめたたらを踏むような崩れは指導された覚えはない。

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2019年6月 1日 (土)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部5八重垣

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部
5、八重垣

 正面に向ひて正座し、例に依りて抜きつゝ右足を前に踏み出し、抜き払ふと同時に立上り、左足を右足の一歩前に踏み出し乍ら雙手上段に振り冠り、右膝を跪くと同時に打ち下し、刀を右に開きて(血振)納め終り、(鍔元より二、三寸位の所迄)其儘立上り、左足を右足より一歩後に引くや抜き払ひ、右脛を刀にて囲ひ、(脛になぎ来るを受る)(此時左手は腰に取る)左膝を跪くや刀を左側より雙手上段に振冠り、真向に割付け、血振し刀を納め終る事同前。


古伝神傳流秘書の大森流居合之事5本目陽進陰退
 「始め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜付跡初本に同じ」


第15代谷村亀之丞自雄の英信流目録より大森流居合之位嘉永5年1852年
 「陽進刀 是は正面に座す也、右の足一足ふみ出し立なりに抜付け左をふみ込み撃込む也、直に右脇へ開き其の儘納む也
  陰退刀 其儘左の足を跡へ引、其時亦抜付打込み血ふるひの時立左の足を右に揃へ納る時右を一足引也」


細川義昌先生の系統梅本三男先生の居合兵法無雙神殿抜刀術5、陰陽進退(前方を斬り 又 薙付け来る者を斬る)
 「正面に向ひ正座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け、抜きつつ膝を伸し右足踏込んで(対手の右側へ)抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上り左足を右足の前へ踏越しつつ刀を引冠りて正面へ斬込み刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)刀を納めつつ右膝を跪き納め終りたる所へ(別人が向脛薙付け来る)急に立上り左足を一歩退くと同時に刀を前へ引抜き切先の放れ際に左腰を左へ捻り、体は正面より左向きとなり(視線は右の対手に注ぐ)刃部を上に向け差表の鎬にて張受けに受け止め、体を正面に戻しつつ左膝を右横へ跪きながら、刀尖を左後へ突込み右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る。(刀を開くとは血振ひする事、英信流の血振ひ同様 斬込んだままの刀の刃部を右斜下へ向け右拳を右前下へ突出し傘の雫を振落す様に切先を振って血糊を振落す事)


大江先生の剣道手ほどきによる大森流居合5番八重垣
 「正面に向ひ正座す、右足を出し左膝を浮かめて中腰となりて首に抜付け、左足を前方へ踏み出して両膝浮かめて中腰の儘大間に上段に取り前方真直に頭上を斬り下し、此時右膝をつき左膝を立て同体にて長谷川流の血拭ひを為し刀を納む、此時敵未だ死せずして足部を切り付け来るにより血拭ひの姿勢より右足を重心に乗せて立ち、直に左足を後へ開き体を左斜構ひとし刀を膝の前へ抜きて平とし、膝を囲みて敵刀を受け更に身体を正面に向け上段となり、座しながら頭上を充分斬る、血拭は右足を後部へ引き刀を納む。


 大江先生の大森流の業名の改変は古伝を知れば知る程、伝統を蔑ろにするその意味が理解できなくなります。中学生向きに判りやすくしたとは思えません。
 下村派第14代下村茂市の弟子であったことは事実でも、十分な指導は受けられなかったために本物が判らなかったか、中学校長の現代風に替えようと云う指示によって古伝の意義も知らずに改変したか、古伝の業を知らないがために抹殺する暴挙であったか、もう知るすべはありません。大森流を正座之部、初発刀を前、左刀・右刀・當刀を右・左・後など何を根拠としたのでしょう。
 そして此の陰陽進退を八重垣とはひどすぎます。現代居合は大江居合であって第9代林六太夫によって土佐にもたらされた、伝統を明治維新のもとに切り捨てたとしか思えません。ですから大江居合は明治時代に改変された現代居合、古伝は古伝と割り切って稽古したいものです。

 此の業の意義はどうやら。一本目初発刀の如く横一線に抜き付けたが、敵は上体を後方に反らして躱されてしまう。敵は躱すや後方に退かんとするのを我は追い込んで上段から打ち込む。充分に斬り込み横血振りして納刀する所、正面から他の敵が斬り込んで来る、即座に抜刀して敵刀を下がり乍ら受け止め上段に振り冠って打ち込む、あるいは下がり乍ら抜打ちに敵の胴を切り払って上段に振り冠って打ち込む。
 または、倒した敵が死力をふり絞って薙ぎ付けて来るのを受け止めて、再び上段から打ち込む。という敵が一人か二人、の想定なのでしょう。大江先生も細川先生も下村派14代下村茂市の指導で大森流は身につけられていたかもしれません、にもかかわらず、細川陰陽進退は二人目の敵、大江八重垣は倒した敵が死力をふり絞ってくる。
 それでは、谷村派の第15代谷村陽進刀隠退刀はどうかと云えば、倒した相手とも、他の敵とも云っていません「・・開き其儘納む也。其儘左の足を跡へ引き其時亦抜付打込み・・」です。
 此の業の想定は、実戦的には倒してもう充分と思う所を死力では、様になりません。疑問ですが、大森流居合を初発刀・左刀・右刀・當刀と4本稽古して来たククリとして考えれば、まあいいかでしょう。もう一つ想定の最初の抜打ちで相手の戦意を殺ぐ事も出来ず、もっとひどいのは抜き付けを躱され追い込んで打ち込むなど、敵は我が抜き付けを躱すのが精一杯で後方に退いて間を外し我に追い込まれる状況は大変難しいものです。奥居合の向払なら、我は躱されて切り返します。大森流の稽古では躱されるなどお粗末ですが、初心者だから良しでしょうか。
 この業は、武的演舞では英信流の見せる良い踊りです。然しその一連の流れは河野先生が習った想定ではお粗末すぎです。設対者をお願いしてあらゆる状況にどの様にこの業を展開できるか研究して見れば大森流の真髄に触れられることになりそうです。

 

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2019年5月31日 (金)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部4後

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部4後

 正面より真後向に正座し、右膝を中心として左廻りにて正面に向きて、動作する事右の場合と同様。

 4番目は敵を背後にして我は後ろ向きに座して居るわけです、左廻りに後ろに振り向いて斬るのですが、すでに正座之部2本目右で左廻りを稽古しています。
 2本目右は90度の左廻り、4本目後ろは180度の左廻りです。此の動作ならば右廻りがあってもおかしくないのですが、稽古は右廻りだけです。
 第15代谷村亀之丞自雄に依る英信流目録に依って古伝神傳流秘書の大森流居合之事二本目の動作を変えてしまったにもかかわらず同じような動作を繰り返させる意味は何処にあるのでしょう。
 古伝神傳流秘書大森流居合之事の二本目は左刀「左の足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震して立時足を前に左の足へ踏み揃へ左足を引きて納る以下血震する事は足を立替え先踏出したる足を引て納る也」でした。一本目が前に座す敵に対し、右足を踏出して抜付け打込んでいるので、2本目は同じ正面に座す敵に左足を踏み込み抜き付け打込むのです、それで左刀と名付けた。15代谷村先生は二本目は左刀なんだから対敵は我の左脇に座さなければおかしい、として業を変えてしまったのでしょう。古伝の意図する処は、抜き付けは右足を踏出しても左足を踏み出しても出来る様にする体裁きを稽古させようとしたのでしょう。
 それでは、谷村先生の大森流2本目が左廻りに90度回転、4本目が同じ左廻りに180度回転は回転角度が大きくなっても同じ様に出来る様に稽古しなさい、と云うのでしょうか。ついでに一本追加して右廻りの180度も有ったらよかったのにと思ってしまいます。それは自分で研究しなさいと云う事なのか、右廻りは後ろの敵には不利だからやるなと云うのでしょうか。それとも右廻りは簡単だから左廻りを稽古しなさいと云うのでしょうか。
 古伝神傳流秘書の後の敵への業名は「當刀」です。読み方すらよくわかりません、あたりとう、とうとう。「左廻りに後へ振り向き左の足を踏み出し如前」、古伝は同じ動作を要求して居ません、2本目と4本目は異なる足捌き体裁きなのです。谷村居合では2本目と4本目は回転角度は違っても同じ動作に過ぎません。何も考えずに無双直伝英信流の業は古来からのもので云われた通りやっていればいい人はそれでいいでしょう。本物を求める人はとことんやってあらゆる状況を考え稽古すべきでしょう。

 この業の意義は、河野先生の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年では、「吾が後方に吾と同方向に向ひて坐せる敵に対して行ふ業にして、其1前と同意義なり」とされています。今度は敵は我が背中を見て座して居るわけで、最も不利な状況です、我を切ろうと思えば即座に切られてしまうのです。後ろの敵を如何にすれば倒せるでしょう。形ばかり何万回と稽古しても此の業で我が背中を見ている敵を倒す事はできません。
 敵も我と同様後向きで座って居て呉れたらどれだけ楽に倒せるでしょう。今までやった谷村居合(大江居合)の右、左の様に河野先生の意義では我と同様の方向を向いて右か左脇に座して居る相手ならば、お互いに向き合う時間があったのです。
 當刀は後では無く、初発刀(前)と同様の抜き付けの心構えが必要でしょう。流派の極意業は最初に習う業に在りとも云われます。初発刀で修錬した腕を「當刀」で確かめることになりそうです。
 
 

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2019年5月30日 (木)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部3左

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の2居合術業書 
正座之部3左

 正面より左に正座し、例によって抜き掛けつゝ爪先を立て、左膝頭を中心として動作に移り、右に廻り正面に向ひて刀を右足を踏み込むと同時に抜き放ち、更に雙手上段に真向に割付け血振り刀を納むる事同前(此場合の動作は右の場合と反対の動作なり)

 此処で大江先生の居合を「剣道手ほどき」大正7年1918年と対比してみます。このスクラップは第18代穂岐山先生の指導に従って河野先生がメモしたものとされています。剣道手ほどきは、大江先生と堀田捨次郎先生共著と云う事ですが、大江先生は監修されたかどうか疑問です、現代の大江流無双直伝英信流の最も古い手附になります。
 参考に一本目前、右、左の三本を読んでみます。
1番前
 我が体を正面に向け正座す、右足を出しつつ刀を抜付け前の敵首を切り更に上段になり同体にて前面の頭部を真直に切り、血拭ひ刀を納む。

2番右
 我体を右に向け正座す左足を出しつつ右敵首を切る心組みにて抜付け、同体にて上段となりて前面真直ぐに敵の頭を斬る。此左足を出したる時は右足の膝にて左へ廻る意を以て右足に体の重心を乗せ、左足を軽く出す事に注意すべし、血拭ひは一番と同じ要領にて行ひ、左足を後部へ引き刀を納むる事。

3番
 左に向きて正座し、左足膝にて右へ廻り右足を出して首に抜付け上段に取り、直に頭上に斬り下す、血拭ひは右足を後方に引き刀を納む。

 筆者は堀田捨次郎先生ですから、土佐の居合の伝書は見た事も無いのではないかと思われます。大江先生の業を見ながらメモを取って纏められたと思います。手附の表現の仕方がスクラップと違う様な気がします。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神傳抜刀術昭和49年1974年の大森流之部3、右刀を読んでみます。
3、右刀(右側に座して居る者を斬る)
 正面より左向きに正座し、例により鯉口を切り、右手を柄に掛け刀を抜きながら右脛を立てつつ左膝頭で右へ廻り正面へ向くなり右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付け、左膝を前へ進ませつつ刀を左後へ突込み右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る。


 「剣道手ほどき」に見られる様に大江先生は、古伝神傳流秘書による或は下村茂市の教えも無視して業名称も想定もいじってしまったのでしょう。古伝神傳流秘書の大森流居合之事3本目は「右刀」です。梅本先生の手附と同じ業名となります。大江先生は左右入れ替わって「正座之部 左」です。
 古伝神傳流秘書大森流之事右刀「右足を踏み出し右へ振り向抜付打込血震納る」

 谷村派第15代谷村亀之丞自雄による英信流目録大森流之位右刀「是は左脇へ向いて坐する也、右へ廻り右の足をふみ出し抜付すぐに討込血ふるひの時左の足を右に揃納る時右を一足引納る也」
 
 この谷村亀之丞自雄による手附が、大江先生の頭の中にあるのかも知れません、それは右刀と題しながら「左脇へ向いて坐する」という一節から、敵は我が右脇に居るが、演武では正面左に向いて坐りなさい、そうすれば右脇に敵が居る事になる、というわけです。谷村亀之丞自雄の英信流目録は嘉永5年1852年に書かれています。明治維新まであと16年、江戸末期には土佐の居合も対敵意識が薄れ稽古業として武的演舞になりつつあったのかと、ふと思ってしまいます。
 

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2019年5月29日 (水)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座の部2右

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部2右

 正面より右向に正座し、例に依りて抜き付けつゝ爪先を立て、右膝頭を中心として(左足先と)左に廻り正面に向き、左足を踏み出し同時に刀を抜き放ち、右横一文字に切り付け、更に雙手上段にて割付け血振(此時右足を左に踏揃へ左足を後に引きて)刀を納むる事同前。

 一本目は、「正面に正座し」でしたが2本目は、正面より右向きに正座し、十分気の充ちたる時、左手を鯉口に取り左指にて鯉口を切り、右手の全指を延ばしたる儘柄に掛けて握り、膝を左にひねりて刀を」抜きつつ・・ここが例によりとなる部分です。
 この、スクラップの特色は、対敵意識が欠如している事です。一本目前は、前を向いているので前に敵が居るのかなと思うのですが、2本目は「正面より右に正座し、・・十分気充ちたる時・・」です。此の場合の正面とは、一本目の正面、我の正面に敵が居るので、敵に対し我は右向きに正座すると云う事でしょう。敵は我の左脇に座して居る事になります。その場合敵は我の方に向いているのか、我と同様右向きなのか業書きにはありません。

 古伝神傳流秘書の大森流之事2本目は左刀です。敵は正面に座し、我は一本目と違って:「左の足を踏み出し向うへ抜付け打込み扨血震して立時足を前に左の足へ踏み揃へ左足を引て納る」正面の敵を一本目初発刀は右足を踏出し抜き付ける。
 2本目は正面の敵に左足を踏み出して抜付けるのです。この古伝の足捌きの違いは何を意味するのか不明です。抜き付けには左右何れの足でも踏み込めるように稽古せよとでも云うのでしょうか。文章に「左脇の敵に」とか「左廻りに」とかあれば大江居合と同じなのですがこの文章では、正面を向いたままとしか読めません。
 第15代谷村亀之丞自雄による英信流目録では、第12代林益之丞政誠の英信流目録(安永5年1776年)を嘉永5年1852年に書き改めたと奥書があって、「大森流居合之位 左刀:是は左脇へ向いて坐するなりヒタリへ廻り左の足を一足ふみ出抜付直に打込亦血ぶるいをして立時右の足を左の足に揃へ納る時左を一足引納也」と、古伝を書き改めたとされています。

 神傳流秘書では左刀は左足踏み込みの抜き付け、英信流目録では対敵は我が左脇に座すと修正したことになります。曽田スクラップに依る大江居合は、我の正面の右向きに座すことで、左右の業名を入れ替えてしまったわけです。大江居合は、対敵の我に対する位置関係では無く、演武上の位置関係を主体として変えてしまったと云えるでしょう。大江先生系統の無双直伝英信流は現在でもこの様な座し方をしているわけです。

 大江先生は下村派第14代下村茂市定の門弟であったわけで、細川義昌先生の後輩に当たります。
 細川先生の系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部2本目は左刀(左側に座して居る者を斬る)対敵を想定した業名で古伝に従っています。
 「正面より右向に座し例に依り鯉口を切り右手を柄に掛け刀を抜きながら腰を伸しつつ脛を立て右膝頭で左へ廻り正面へ向くなり、左足踏込むと同時に(対手の右側面へ)抜付け右膝を前へ進ませながら刀尖を左後へ突込み諸手上段に引冠り更に左足を踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る」
 「例に依り」の書き出しに、何故か同統の名残を感じます。

 此の業の場合、敵も我と同様我が左脇で右向きならば条件は同じですが、敵は我が左脇で我が方を向いて座して居るならばそれを制するのは厄介です。
 河野先生の無雙直傳英信流居合道では「吾が左側に吾と同方向に向ひて座せる敵に対し行ふ業にして、其の1正面同意義なり」と想定を特定してしまっています。取り敢えず、左廻りに抜き付ける事を稽古せよと云うのでしょう。
 河野先生の大日本居合道図譜では「正面に向き直るや(左側の敵の方向の意)左足を踏出し抜刀せんとす。註、刀身45度の所ー刀を(右拳を)之より左に運ばぬ事。」と云う一文が加わっています。この事に対する明解な解説は現在もされないまま21代、22代、23代と其の儘引き継がれ、幻となって居る気がします。
 座した場合の柄頭は我が正中線上にあるのが、河野居合です。従って右向きに座して、左回りに正面に向いても柄頭は我が正中線上、当然敵の正中線上にあるべきでしょう。
 従って刀身45度の所でも我が正中線上に柄頭はあるべきです。刀を抜き出し乍らですから当然右拳は左へ移動させながら抜き出す事になります。此処までに切先3寸抜いていれば残りの45度は右拳の移動をせずとも我が正中線上に柄頭は保持され、当然敵の正中線上を柄頭が制している事になります。 
 対敵意識の乏しい大江居合では、右向きから正面向きに左回りに廻る、其の途中である正面45度に柄頭があればそこから柄頭を固定してしまい、我が体のみ捻じられて正面向きになってしまいます。当然柄頭は座を外したものとなり、既に体は左に捻じられていますから不十分な手抜となってしまいます。
 河野居合の右の解説は正しいのですが、その説明がなされていません。「そう習った」としか答えられない十段の多い事。

 

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2019年5月28日 (火)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部1前

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部1、前

 正面に正座し、十分気の充ちたる時、左手を鯉口に取り左指にて鯉口を切り、右の全指を延ばしたる儘柄に掛けて握り、膝を少し中央に寄せる様にし、腰を左にひねりて刀を抜きつゝ両足先を爪立て、膝を伸び切るや右足を前に踏出すと同時に刀を抜き払ひ、(胸の通り横一文字に)更に雙手上段に振り冠りて真向に割付け、左手を柄より離し左の腰(鯉口の少し下帯の處)に軽くあて、刀先を右に円を描く如く頭上に取りて血振すると同時に立上り、左足を右足の位置に踏み揃ふ(此時膝は伸び切らざる事)夫より右足を一歩大きく後方に引きて、刀を納めつゝ右膝を跪くと同時に納め終りて後、立上りて前足に右足を踏み揃へ、直立の姿勢となりて更に左足より一歩退りて座し次の業に移る。

 この業書は、のっけから動作ばかりを順を追って書き込まれています。何のためにその動作をするのか動作から推測する事になります。居合は対敵相手の武術です、「十分気の充ちたる時・・」は何を意味するのでしょう。第18代穂岐山波雄先生が稽古用に考えられた事としてもおかしい。これでは、一方的に相手に抜き付ける事になってしまいます。現代居合でも何の疑問も無く、気の充ちた時とか二呼吸半から作動するなどでは、何時如何なる変にも応じられる訳はないでしょう。今日入門したばかりの新人相手の事としてももう少し考えるべきでしょう。
 人と対して、自分の思いを伝えるには、十分な心構えであるべきものです、武術はコミュニケーションの最後の手段と思います。方便としての「二呼吸半」とか「十分なる気充れば」にまどわされず、「何時如何なる変に応じる」心と体を持ちたいものです。

 このスクラップと同じ文言で昭和8年1933年に「無雙直傳英信流居合術全」は発行されました。第17代大江先生の「剣道手ほどき」の抜き方及び納め方の解説では「丹田に気力充つるとき静かに左手にて刀の鞘鯉口を握り右手は第二関節を折り拇指の股を柄の鍔元に入れ。五指を静かに握り肘を落し右肩を稍斜め前に出す。左手にて鞘を少しく後へ引き、右手を斜前に出し刀を静かに抜く。此時両足の趾先を立て上体を自然とあげ右足を少し前に出しつつ刀尖三寸の鞘に残し、右足を充分前に踏み出し同時に残りし尖先三寸は抜き・・」大江先生の教えは「丹田に気充つるとき・・」です。

 河野先生の昭和13年1938年発行の「無雙直傳英信流居合道」には、更に克明な抜付けの動作が書き加えられます。そして業の意義として「吾が前面に対座せる敵の害意を認むるや機先を制し直ちに其の首に(又は顔面或は抜刀せんとする腕、以下同じ)斬り付け、倒るゝ所を更に上段より斬り込みて勝つの意なり」。敵の害意を認めるや抜き付けるのだそうです。それでは相手の動作に先を取らなければなりません。のんびり二呼吸や二呼吸半などやってられません。丹田に気充ちるのも待って居られません。

 河野先生の昭和18年1943年発行の「大日本居合道図譜」の正座の部一本目前「意義ー正面に対座する敵の害意を察知するや機先を制して其の抜刀せんとする腕より顔面にかけ斬付けんとする。抜き懸けー敵を確かに見定むる心持にて抜きかける。・・初心の間は剣先三寸位迄極めて徐々に抜き出すも幾千の錬磨を重ねて次第にその速度を早やめ、抜きかけの鍔元より剣先に至るに従ひ抜刀の速度を次第に早くするものとす。抜刀の速度と気をこめる心得に古来序・破・急の教へあり。」ここまで来るのに大正7年1918年から昭和18年1943年ですから25年もかかっています。居合の修行を心の修行とするのは良しとしても、それを強調し過ぎるとバランスを失います。

 初心の頃に身に着けた動作は簡単に抜けないものです。相手をよく見て相手の動きに応じて序破急をもって抜き付ける事に依り先を取る事を学ばなければ、ただ形を演じているばかりになってしまいます。
 このところ、稽古法に工夫の必要の有る所で、目的に向っての習い・稽古・工夫の無いものは只の形ばかりでしょう。

 古伝神傳流秘書では大江先生の正座之部は大森流居合之事と言われます。其の前書きは:「此居合と申は大森六郎左衛門之流なり、英信と格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術之師也、真陰流也、上泉伊勢守信綱之古流五本の仕形有と言、或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶。(記 此の五本の仕形の絶へたるは残念也守政先生の伝書見當らず 曽田メモ)」

 曽田本その1の古伝神傳流秘書の居合兵法伝来には、「目録には無雙神傳英信流居合兵法とあり、是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏後の達人なる故之も称して英信流と揚げられたる由也」と有ります。第9代林六太夫守政が江戸から持ち帰った無雙神傳英信流居合兵法には大森流は目録には無い、林六太夫が話したのは、たぶんこの居合の師江戸での第8代荒井勢哲(兵作信定)に話したのだろうと思います。

 大森流居合之事初発刀:「右足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震し立時足を前の右足へ踏み揃へ右足を引て納る也」

 大江先生の言う正座之部前は大森流居合之事略して大森流初発刀でした。古伝の業手附も何のためにこの業動作を行うかの意義とか理合が示されていません。恐らく習う時に口頭で解説されたのでしょう。初発刀の業名称は大森流の初めに発する刀法だと云うのでしょう。正座に座すとは手附に書かれていません。是も口頭で説明されたのでしょう。現代居合の立膝之部や奥居合居業之部は全て右膝を立て左足を寝かせた居合膝です。
 江戸時代に入って江戸城での座し方が正座に統一されて武士にも町人にも普及して来た時代です、その時代に添ったものとして稽古されて来たのでしょう、その名残が大森流は正坐に座すわけです。
 刀法としては「右足を踏出し向へ抜付け打込み」だけしか書かれていません。「向へ」は前、前面に相対する敵を示しています。抜付は刀を鞘から抜き出すや横一線による斬り付けでしょう。何処へ抜き付けるかは書かれていません。林崎甚助重信の居合の極意業は根元之巻から推察すれば相手の拳へ抜き付けるのですが、初心のうちは肩とか首、こめかみと指導されたかもしれません。そして上段に振り冠って真向に打込む。
 真陰流の抜刀ならば、鞘を倒さず腰に差した状況から、刃を上にしたまま一気に切先を抜き出し、その瞬間目標に切先を向かわせて行きます、目標は敵の柄手でしょう。打込はとどめでしょうから、上段から真向に打ち下すのですが、左面又は右面もあり得ます。
 古伝神傳流秘書の業手附はやるべき事だけしか書かれていませんが、ポイントは外して居ませんから動作を追えば意義が見えてきます。そして武術ですから一つの形から幾つもの動作を思い描くことができます。

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2019年5月27日 (月)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の3居合之諸作法

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の3居合之諸作法

1、神殿又は(玉)座上座に向ひて刀を抜かざる事出来得れば玉座を左にして行ふ事

 どこぞの10段は鶴岡八幡の奉納居合で舞殿で神殿を右側にして演武をしていました。この流の教えでは無く昔からの作法として通っているものです。老子の偃武第31「夫れ佳兵は不詳の器なり、物つねに之をにくむ、故に有道者はおらざるなり、君子居りては則ち左を貴ぶ、兵を用ちうるときは則ち右を貴ぶ・・」辺りから来ているのかも知れません。
 大江先生の「剣道手ほどき」大正7年1918年発行でも「神殿又は玉座に向て刀を抜いてはならぬ。刀を抜くときは神殿玉座に向って右の方に体を向く即ち体の左鞘の處を向けて正座す」と明記されています。

2、場に入る時は、鍔元を左手に持ちて拇指にて鍔を抑へ刃を上にして刀を下げ、下座より玉座に向ひ直立体の儘刀を右手に持替へ此時刃を後方に向け右側に軽く接し立礼をなす。

 此の礼法では玉座に向かっての刀の扱いの様ですが、河野先生の大日本居合道図譜では、「刀を右手に持ち替え、刃を下に向け小指が栗形に触る部を握り食指は伸して刀の棟に添へ、刀は45度に保っー上座に対し奉り最敬礼を行ふ」としています。

 全剣連居合の場合も神座への礼は、「右手で「栗形」の下部を下げ緒とともに握って刃が下、「柄頭」が後ろになるように刀を右手に持ちかえる。左手は鞘からはなし手自然に下ろし、右手は「鐺」が前下がりになるように刀を体側にそって自然に提げる。上体を前に約30度傾けてうやうやしく礼を行う」
 全居連も同様ですが、「頭を45度位に下げる」とされています。 

3、刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。

 大江先生の「剣道手ほどき」では「適当の位置に至りて座す」は「直立体の儘道場の中央に出で神殿を左に見て体を右に向け体を前に屈め右手を股に入れ袴を左右に払ひ左手の刀を股に載せて正座す」と克明です。

4、正座したる時は、刀は恰も左腰に差したる状態にあるを以て、右食指を鍔の下拇指を上にかけて刀を腰より抜き取る気持にて右前方に抜き取り、膝の前方中央約一尺位の處に鐺を右柄を左に刃を後方に向けて置き、双手を八文字につきて礼を行ふ。すべて正座の巾は自己の肩巾と同様なる事、足は拇指を重ね両踵の間に臀部を下す。

 大江先生は、「膝の前方中央約一尺位の處に・・」は「体前に出したる刀は左へ返し膝頭より五寸も離し・・」です。五寸では窮屈すぎますから約一尺が程よい位置でしょう。但し体格に応じて其の位置を決めませんと150cmの背丈の人も180cmの背丈の人も同じであるのはおかしい。
 第22代池田先生は「抜き取りたる刀の鐺を、右膝より右45度位斜め前方に、右上肢を一杯伸ばしたる処に置き、刀を左に両膝前一尺余り前に倒して置く」と遠慮がちに直されています。

5、次に右食指を鍔にかけて鍔口を握り、刀を起し膝の前方中央に鞘を軽く突き鞘の下方約三分の一の處に左手を添へて鐺に至りて刀を持ち上げ、刃を上方にして腰に差す。刀を腰に差したる場合は、すべて鍔は両膝の中央線上にあてる注意すべき事。

 大江先生は「鞘の下方約三分の一の處に左手を添へ」のところは「体前に刀を竪て左手先にて鞘の中央より下へ下し鐺を指に掛けて・・」としています。大日本居合道図譜では「・・左手を鞘の下方より運びて鐺を軽く握りて持ち上げ乍ら腰部に運ぶ」とあいまいな動作に変えています。
 次に河野先生「刀を腰に差したる場合は、すべて鍔は両膝の中央線上にあてる」ですが、大日本居合道図譜では「柄頭がほゞ体の中央にある様に帯刀す」と変わっています。

6、終りたる時の作法は大体右に逆行す。
7、座したる時の体勢は、胸をハラズ総て自然体なるを要とし、腰に十分気力を注ぐ事。腰を折らず下腹を前に出す。
8、着眼は目の高さに於ける前方にして、遠山を望む気持ちたるべし。

 着眼については「眼の高さに於ける前方」とされますが、大日本居合道図譜では「正座の着眼は一定の箇所に固着する事無く所謂る八方正面の気を以て、眼の高さに於ける前方に遠山を望む心なる事」と変わって居ません。大江先生の剣道手ほどきでは「眼の視線は正座前方七尺の處を凝視」遠山の目付けを古来から武術では言いますが、大江先生は「凝視しろ」と云います。稍下方に目線があるほうが遠山の目付けになれるものですが、眼の高さで凝視したり、前方七尺の處を凝視では疑問です。
 
 

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2019年5月26日 (日)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の2傳統

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の2傳統

 流祖 出羽国林崎大明神
 初代 林崎甚助重信
 二代 田宮平兵衛業正
 三代 長野無楽入道槿露斎
 四代 百々軍兵衛光重
 五代 蟻川正左衛門宗績
 六代 万野團右衛門尉信定
 七代 長谷川主税助英信
 八代 荒井勢哲清信
 九代 林六太夫守政
 十代 林安太夫政詡
十一代 大黒元衛門清勝
十二代 林益之丞政誠
十三代 依田万蔵敬勝
十四代 林彌太夫政敬
十五代 谷村亀之丞自雄
十六代 五藤正亮
十七代 大江正路
十八代 穂岐山波雄

長谷川英信以前は大森流と云ひ居りしが、此人大いに研究して英信流を興し土佐の国に傳ゆ。

曽田先生コメント、十一代より二派に岐れたれば何れも英信流の系統に属し居るも大江正路先生になり独創を加へ正流に崩れを生じたり。

 曽田先生は伝書を書き写された方ですから、大江先生の居合に満足できるわけはありません。
無双直伝英信流は第11代大黒元衛門清勝によって根元之巻が依田万蔵以外に流れています。此処から二派あるのに、河野先生は一方通行でしょう、と言っているわけです。
 大江先生に就いては「正流に崩れを生じたり」其の通りでしょうが、泣いても喚いても崩れて居ることも知らない中学生に指導し其の中学生が長じて土佐の居合を広めた事は事実です。指導された人は大江先生の独創と知ってか知らずかありがたがる人が多いわけで、崩れていない所など今時見る事も出来ません。門外不出で他人が見る事が許されない伝書の有り様に問題があったのですが、武術が実戦に於て役立った時代は流派の掟は、むやみに伝書を人に見せない、それで当然です。現代は居合で戦うなどありえない事です。武術文化を正しく伝承するために本物を公開し学ぶ事が急がれる時代になって居るわけでしょう。
 居合ばかりでは無く日本史もそうでしょう。明治維新後それまでの武士の歴史が捻子曲げられた歴史もありそうです。明治以降の歴史も正しくは伝わらないまま現在に在る様で、お隣の国の我が国批判も同じレベルの事でしょう。

分派
 第11代大黒元衛門清勝ー12松吉貞助久盛ー13山川久蔵幸雅ー14下村茂市ー15なし(指導を受けた者細川義昌・行宗貞義・大江正路)

*
 「長谷川英信以前は大森流と云ひ居りしが、此人大いに研究して英信流を興し土佐の国に伝ゆ」と有ります。昭和8年1933年発行の河野先生著による「無雙直傳英信流居合術全」も全く同じ文言で、書かれています。土佐の居合は元大森流と云われていたと堂々と書いたわけで其の謂れは知っていたのでしょうか。
「無雙直傳英信流居合術全」の発行についてその内容の良し悪しは、此の複製本を配布した岩田憲一先生の前書きが付されています。
「第18代穂岐山波雄先生が大阪八重垣会を指導されていた時、現20代宗家河野百錬先生に記録させたものでその製本された時18代宗家が山本宅治先生を訪問し本書を提示されたので丁度居合はせた中西岩樹先生と三人で致道館に行き正座業一本目より読み上げつつ演武して先ずは大江正路先生(第17代)教示のものして足りるものと三名の意見が一致したものだそうであります(山本宅治先生)。
 河野百錬先生も非常に若い折りでもあり穂岐山先生教示のまま記されたものと考えられこれを穂岐山先生が監修されているので現在第17代大江正路先生の技法を追及したり亦正流の技法の根本に触れんとすれば簡明に記録された本書が一番適当なものと考え同好の各位に領布する次第です。書中所々に記入等印されているのは山本宅治先生の記入でありこれもご参考になれば幸甚に存じます。昭和44年4月25日複製(岩田憲一記)昭和44年5月7日受け。」
 この冊子は関東の川久保瀧次先生(山内派の宇野又二先生直門坂上亀雄先生、及び河野百錬先生から学び昭和41年発行無雙直傳英信流居合道の手引著者)が昭和44年5月7日に受け取ったものというものです。
 従って、河野先生の冊子の元は18代穂岐山先生の当流の認識によるものと云えるでしょう。18代宗家ですら土佐の居合の歴史を知らなかったとしか言いようはありません。

 河野先生は昭和13年1938年に「無雙直傳英信流居合道」を発行されて居ます。居合術全発行の5年後に当たります。この頃から曽田先生との交流もあった様で、居合術全の誤りを正されて土佐の居合を認識された様です。
「長谷川主税英信は、其の技古今に冠絶し、精妙神技を以て始祖以来の達人として聞え、古傳の業に独創の技を加へ、茲に流名を無雙直傳英信流と改め・・而して英信は享保の頃、江戸に於て斯道を研究大成し、晩年土佐に帰国して大いに之を弘め・・当流に述ぶる所の正座の業は大森流と呼び、当流9代林六太夫守政の剣道の師大森六郎左衛門が真陰流古流五本の仕形より案出したるものにて、之を無雙直傳英信流に附属せしめたもの也と伝へられる。・・」継ぎはぎだらけの土佐の居合の歴史をたどり、居合の沿革を無理やり仕立てた感は否めない。証拠もないものは不明或は確証はない、または何々に記述されている、自分はこう考える、などの文言を使うべきだったでしょう。河野先生の書物はバイブル的存在感がありましたから、一般には信じられ安易に使われてしまったのは権威に頼り過ぎの武道愛好者の欠点です。その割には、河野先生の「無雙直傳英信流居合兵法叢書」曽田本の写しを蔑ろにされた昭和の居合人は何処か抜けていると思えて仕方がありません。

 土佐の居合の正式呼称は「無雙神傳英信流居合兵法」であって、「本来「無雙神傳重信流」と言うべき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之を称して英信流とあげられたる由也」とされています。ミツヒラによる古伝研究会は、古伝神傳流秘書による「無雙神傳英信流居合兵法」の研究会です。
 長谷川英信の「古伝の業に独創の技を加え」は何をどの様にしたのか全く不明です。
 当時の武士の作法が正座を主とするようになってきていますから、大森流の取り込みは当を得ています。立膝の所作は戦国時代以前からの踏襲に過ぎません。英信が土佐の人であったなど全く出自は不明です。当時の一般人は殆ど出自が判らなくて当然の事でしょう。

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2019年5月25日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の1河野稔

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の1大阪居合術八重垣會剣道錬士河野稔

 居合は剣道の一分派なり。古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後、敵を制するに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し、然る後刀を下すものなり。
 居合は攻撃精神の充実せる而も秘めて静かなる気分を養ひ、更に技術的には真剣の用法を以て本則とす。心は本来静かなるものなり。始め事無き時は寂然不動天地万物一体にして、事あるや其迅き事電撃も只ならず。是至静極まるが故なり。静中動あり、動中静ありと云ひ、更に心の体を以て是を動静一貫と云ふ。
 孫子曰く、静かなる事林の如く、迅き事風の如しと。故に居合の術は心静に体胖(ゆたか)にして天理自然に従ひ業を行ふを以て正理となすものなり。
 居合は勝負の理に拘りて勝負を離れ、己に克ちて己を正し業に依りて心気を治むるの心法なり。故に形を正し武夫の武き心を心とし、毫も怠慢する事なく誠を以て学習する時は神明に至らん事必然なり。
 大江正路先生の句
心気力一定一刀瞬息石火無妙術也 (心気力一つに定め一刀瞬息石火無妙の術也)
居合術之要諦於先看破敵気色   (居合術の要諦は先ず敵の気色意向を看破し)
意向即座瞬間振自刀粉砕敵    (即座瞬間にして自刀を振るい敵を粉砕す)


 このスクラップは曽田本その2に出典は何か、定かにされていません。曽田先生がどこかから見つけ出したものを切り抜いて、メモ帳に張り付けたものです。

 無雙直傳英信流居合術の表題で筆者は大阪居合術八重垣会剣道錬士河野稔と有ります。第20代河野百錬先生の記述になるもので、昭和8年1933年発行された「無雙直傳英信流居合術全」の発行以前に八重垣会で稽古の際、会員に配布されたもののスクラップだろうと推測します。第18代穂岐山波雄先生から口伝口授で河野先生が習った業をまとめた参考資料でしょう。
 今回の處は業手附の書き出しの部分です。「無雙直傳英信流居合術全」の書き出しと同じ様ですが幾分言い回しなどに違いがあります。 河野先生は明治31年1898年の生まれですからこの時35才となりす。武ばった様な漢文調の言い回しで意味不明と云った方が良い文章です。居合の有効性を箇条書きした表題にすぎず、解説してもらわなければその言いたいことは伝わりそうもありません。判った振りをしたい人は勝ってです。

 書き出しの「居合は剣道の一分派なり」について曽田先生は「分派にあらず」と否定しています。既にこの曽田本その2で読み解いています。(2019年5月9日曽田本その2を読み解く15居合術)
 「余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に附随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず」と居合は分派では無く独立した武術なんだと解釈されています。

*
 この、スクラップと昭和8年に発行された「無雙直傳英信流居合術全」との書き出しの違いをチェックしておきます。あわせて昭和13年発行の「無雙直傳英信流居合道」及び昭和18年発行の「大日本居合道図譜」、更に昭和37年発行の「居合道真諦」ともチェックしておきます。
1、居合は剣道の一分派なり
◉スクラップ「居合は剣道の一分派なり。古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後敵をせいするのに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し、然る後刀を下すものなり。」

◉居合術全「居合は剣道の一分派なり、古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後敵を制するに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し然る後刀を下すものなり。

◉無雙直伝英信流居合道「居合は、我が日本精神の象徴たる、肇国の大精神を宿す霊器日本刀の威徳をに依りて、心を修むる道にして、剣道の立合ひに対する所謂る居合の意なり。而して古来より居合の勝負は鞘の中にありと称せられし如く、抜刀の前既に心意気を以て敵を圧し閃光一瞬にして、勝つの術にして、元来敵の不意なる襲撃に際し、能く直ちに之に応じ、先又は後の先の鞘放れの一刀を以て電光石火の勝を制せんがため、剣道の一分派として武士の間に創案されたる刀法にして、坐居の時、又は歩行する時、其他あらゆる時と場所に於ける、正しき刀法と身体の運用を修得し、精神を錬磨する大道なり。」

◉居合道図譜「居合とは剣道の立合ひに対する所謂る居合の居にして、元来敵の不意の襲撃に際し直ちに之に応じ、先又は後の先の鞘放れの一刀を以て電光石火の勝を制する必要より、剣道の一分派として武士の間に創案されたる刀法にして、坐位の時又は歩行する時其他あらゆる場所に於ける正しき刀法と身体の運用を錬磨し己が心を治むる道である。」

◉居合道真諦「居合とは剣道の抜刀後の立合いに対するいわゆる居合(即ち抜刀前の心構へと、抜刀の瞬間に敵を制する刀法)の意にして、元来敵の不意の襲撃に際し直ちに良くこれに応じ、先または後の先の鞘放れの一刀を以て、電光石火の勝を制する必要より、武士の間に創案されたる独自の剣法にして、坐位の時、または歩行する時、その他あらゆる時ところにおける正しき刀法と身体の運用を錬磨し、己が心を治さむる道である。」

2、精神論
◉スクラップ「居合は攻撃精神の充実せる而も極めて静かなる気分を養ひ、更に技術的には真剣の用法を教ふるものなり。居合は静を以て本則とす。心は本来静かなるものなり、始め事無き時は寂然不動天地万物一体にして、事あるや其迅き事電撃も只ならず、是至静極まるが故なり。静中動あり、動中静ありと云ひ、更に心の体を以て是を動静一貫と云ふ。孫子曰く、「静かなること林の如く迅き事風の如し」と。故に居合の術は心静に体胖にして、天理自然に従ひ業を行ふを以て正理となすものなり。居合は勝負の理に拘りて勝負を離れ、己に克ちて己を正し業に依りて心気を治るの心法なり。故に形を正し武夫の武き心を心とし、豪も怠慢する事なく誠を以て学習する時は神明に至らん事必然なり。

◉居合術全 同文

◉無雙直傳英信流居合道「居合の至極は、常に鞘の中に勝を含み、刀を抜かずして天地万物と和する所にあり、所謂る武徳修養の一転に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養い、義勇奉公の、誠の心を鍛錬する、処世の大道に外ならざるものなり。而て形より心に入り、業に依りて心を養ふとの教への如く、我が日本刀に依り、正しき刀法と身体の運用を極はめ、以て心剱一如の妙所を悟り、枝の末節に拘るゝ事無く、常に武道を一貫する精神を本とし、終生不退の錬磨により、人格の錬成に努め、夫々与へられたる自己の天職に尽くすは、之即ち武徳を発揮する所以にして、実に斯道の目的とし又た武道の精髄とする所なり。

◉居合道図譜「居合は元攻防の術を得る事に始まったが、今日之が(修養)の目的は定められたる武技を通じて、剛健なる身体を鍛錬し、己が精神の錬磨をなすにあり。(極限)すれば其の根元とする所は所謂る武徳修養の一点に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養ひ(一死奉公の誠の心を鍛錬し)以て個々の明徳を明らかにする(処世)の要道に外ならぬものである。

◉居合道真諦「居合は元と攻防の術を得ることに始まったが、今日これが(修行)の目的は、定められたところの武技を通じて、剛健なる身体を鍛錬し、己が精神の錬磨をなすにあり。(換言)すればその根本とするところはいわゆる武徳修養の一点に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養い(誠心を錬り)、以って個々の明徳を明らかにする(所世)の要道に外ならぬものである」( )は居合道図譜とやや異なる部分。


 いつの時代の河野先生の文章でも居合に就いて、回りくどい言い回しと精神論を混ぜ込んで意味不明にしている事は変わらない様です。最後の居合道真諦では「居合は剣道の一分派」という意味不明な文言が消えています。
 要約すれば、「居合とは坐位の時或は歩行中その他に於いても敵の不意の襲撃に対し直ちに之に応じ、鞘放れの一刀を以て勝を制する武術である。其の為には正しい刀及び身体の運用法を身につけ、何時如何なる状況にも応じられる心と、体を磨かざるを得ないものである。」と云いたかったのではないでしょうか。精神論を前面に押し出せば意味不明になってしまいます。業形ばかりでは不意の襲撃に応じられるわけはないでしょう。


 古伝の求める居合は総合武術の一環の中に組み込まれているもので、居合の根元は柄口六寸にあるものです。居合だけ取り出して見て、その優位性を述べて見ても、返し業は幾らでもあるもので、究極の處は無刀の世界に至り、神妙剣に行きつく事を示唆しています。
神妙剣は既に曽田本その1の巻末に解説していますが、改めて掲載します。

◉神妙剣「深き習いに至りては実は事(業 曽田メモ)で無し常住座臥に有の事にして二六時中忘れて叶わざる亊なり。彼れ怒りの色見ゆるときは直に是を知って怒りを抑へしむるの叡智(頓智)あり唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦にいたらしめずして勝を得る也。去りながら我臆して誤りて居る事と心得る時は大いに相違する也、兎角して彼に負けさるの道也、止む事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も不死の道也、亦我が誤りをも曲げて勝には非ず、誤るべき筋なれば直に誤るも勝也。彼が気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也、委しくは書面にあらわし尽くし難し、心覚えの為に其の端を記し置く也。」

 270年前の文章の方が判りやすく、「そうであったか」と頷けるものです。河野先生のものは一段も二段も高い所から見下ろして、こうあるべき論を述べたもので戦前の軍国主義の担い手である事を感じてしまいます。
 神妙剣は人が人と共に生きていく為のコミュニケーションを語っています。武術の有るべき道を示していると思うのです。縦社会の論理で押しとうせば居合を学ぶ意味も価値もないものでしょう。

 

 

 

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2019年5月24日 (金)

第20回古伝研究の集い

土佐の居合 古伝神傳流秘書による古伝研究の集い
第20回古伝研究の集い
 無双直伝英信流、夢想神傳流の古伝神傳流秘書を曽田虎彦先生の直筆本から読み解いて江戸時代中期の居合を研究しています。
 今年は、主として大小詰・大小立詰を研究いたします。
 師伝が如何様であろうとも、古伝をご存知の方は少ないものです。ご参加いただいた方が、夫々「我が師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。俺の指導に従えと云う武道にありがちな事とは異なります。

      記
1、期日
・令和元年6月13日(木)
 15:00~17:00 鎌倉体育館
・令和元年6月27日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年7月11日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年7月25日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
2、住所
見田記念体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
Tel0467-24-1415 
鎌倉体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
Tel0467-24-3553
3、アクセス
 JR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
 (駐車場 鎌倉体育館に有り)
4、費用:会場費等の割勘つど 500円
5、参加申込み 直接会場へお越しください
  Email :sekiunn@nifty.com
6、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
  湘南居合道研修会 鎌倉道場
7、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
  令和元年5月24日 松原記す

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曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の12行宗藤原貞義先生

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の12恩師 行宗藤原貞義先生

 明治10年西南戦争時代陸軍歩兵大尉の官職にありたるも後定見の衝突より退官一時看守長なれど奉職し居たり、其後零落し明治34年頃第二中学校門衛となりたり居合術は尤も達人にして下村茂市先生の高弟なり。
 五藤正亮、谷村樵夫等没後時の大日本武徳会総裁の宮伏見宮貞愛親王殿下の御前にて居合を仕り(明治40年頃ならんか)天下一流の達人なりと御褒▢を賜りしと云う。

 後東都武徳会本部の居合術教師たり(明治の末期より大正の初期の頃)故に門弟には東大生、三高学生多数ありたり。惜しむべし大正三年十月没せらる。当大正二年には細川義昌先生、昭和二年には大江正路先生相次で没せられたり。

 余虎彦恩師行宗先生に師事する事久し、即ち幼少14才にして入門(第二中学校入学)爾来在学五ヶ年親しく御指導を賜り今日に至るも・・。

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 吉宗貞義先生の年表
 嘉永3年1850年  生まれる
 万延元年1860年  向髪角入11才
 明治維新1868年  18才
 明治2年1869年  藩籍奉還19才
 明治9年1876年  廃刀令26才
 明治10年1877年 西南戦争大尉転戦27才
            師下村茂市没す 
 明治23年1890年 曽田虎彦生まれる 
 明治36年1903年 曽田虎彦高知二中入学13才
            吉宗貞義53才
 明治41年1908年 曽田虎彦高知武徳殿助教授18才
 大正3年1914年  没す64才
            曽田虎彦24才
 昭和25年1950年 曽田虎彦没す60才    

            

 

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2019年5月23日 (木)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の11大江正路子敬(蘆洲と號す)

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の11大江正路子敬(蘆洲と號す)

 大江正路子敬(蘆洲)の読みですが、おおえまさじしけい(ろしゅう)と読みます。いつの間にか「おおえまさみち」と読まれています。私が「おおえまさじ」と云いますと、直にダメ出しをされるのです。
 ロイ・キヨオカ著増谷松樹訳の「カナダに渡った侍の娘 ある日系一世の回想」草思社発行を読まれた方は気が付くでしょうが、之は大江正路先生の娘さんの回想録で其処に「大江正路(おおえまさじ)」と読ませています。
 正しい呼び名はともかく、大江正路先生のカナダに渡った娘さんの回想録から、大江先生の人柄や生活が垣間見られ感慨深いものです。著者のロイ・キヨオカは大江先生の孫にあたる人となります。
 大江先生の居合が古伝の伝承を踏みにじった様に私の古伝研究は語っていますが、消え去ろうとしたものを繋いできた思いは簡単に真似できるものでは無く、まさに現代居合の中興の祖と云えるでしょう。
 明治維新によって職を失った武士の生活は決して楽では無かったと察しられます。したがって正しく伝承する事すら困難であったと思えるのです。
 この本が、明治の人となりをしみじみと味わわせてくれます。
 お陰様で土佐の居合を学ぶことが出来た上に、古伝を紐解くきっ掛けもそれによって得られたと思っています。ただし現代居合や竹刀剣道だけでは決して古伝の心持ちを味わう事は出来そうにありません。
 横道かも知れませんが、私の近くの農家のおばあさんは93才です。毎日畑へ出て耕したり、雑草を刈ったり、種まきや、イモ類の植え付けをしています。其の動作は何処にも力が入っていない静かな動きで、遠い昔の武術を忍ばせます。大江先生の時代はすでに古伝の心を失伝してしまった時代でしょう。西洋風の真似事やその指導法を取り込んで多くの人が、歳と共に使い物にならない体になって居ます。
 若者の速さや強さに負けるのでは武術とは言えそうにありません。

 旧姓濱田と云ふ高知江ノ口の人剣を馬詰栄間に居合は五藤正亮に就て学び大日本武徳会剣道教士、居合術範士にして元第二中学校剣道教師として奉職し一方居合術も担当せり。後第一中学剣道教師、武徳会高知支部剣道教士たり、谷村樵夫没後は居合術をも担当せり。昭和2年没せらる。

 大江先生の年表
 嘉永5年1852年  生まれる
 明治維新1868年  戊辰戦争出陣16才
 明治3年1870年  藩立文武館剣道専業拝命18才
 明治5年1872年  常職を解かれる20才
 明治9年1886年  廃刀令24才
 明治10年1877年 西南戦争
            第14代下村派下村茂市没す
 明治15年1882年 高知県武術会剣道教授30才
 明治17年1884年 剣術教授辞退
            長崎高島三井炭鉱取締役監督32才
 明治24年1891年 長崎高島三井炭鉱辞退39才
 明治25年1892年 高知共立学校撃剣教士40才
 明治26年1893年 高知共立学校辞退41才
 明治27年1894年 日清戦争
            東京芝区有待館撃剣教授42才
 明治28年1895年 大日本武徳会結成
            有待館辞退
            高知県武術会長推挙
            高知県師範学校撃剣教授委嘱43才
 明治29年1896年 同上辞退44才
 明治30年1897年 高知県尋常中学校撃剣教授45才
            同上病気辞退
            石川県警剣術教師
            石川県立第二中学校剣術教士
 明治31年1898年 五藤正亮没す64才
   明治32年1899年 大日本武徳会石川地方委員47才
   明治33年1900年 石川県を去る48才
                                  高知二中剣道教授
   明治35年1902年 武徳会高知支部剣道教授50才
 明治38年1905年 穂岐山波雄・森茂樹高知二中で大江に師事
            谷村樵夫没す
 明治41年1908年 政岡壱實高知一中入学
 明治42年1909年 高知一中赴任57才
            政岡壱實、堀田捨次郎大江に師事

 明治45年1912年 高知県第一中学校助教諭心得60才
 大正6年1917年  山本晴介大江に師事
 大正7年1918年  大江・堀田共著「剣道手ほどき」66才
 大正13年1924年 居合道範士73才
 昭和2年1927年  大江正路没す76才

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2019年5月22日 (水)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の10第16代五藤孫兵衛正亮

曽田本その2を読み解く
19、無雙直伝英信流居合術の傳統
19の10第16代五藤孫兵衛正亮

 高知城下入新町の人馬廻り格、亀之丞に就て居合を学び其の蘊奥を極む。明治26年板垣伯帰懸せられし際、伯は武道の嗜み深く其の精髄を会得されて居らるゝこととて、同志の者当時材木町にあった武学館に招待し一場の講話を希望▢せしに、伯は英信流居合術又松嶋流棒術の功績を賛美し、其の廃絶を惜しまれ誰か其の術を継承し、居合術の如き抜く人もなき時とて漸く正亮の居合修養深きを知り、伯より子弟指導のことを話し素封家竹村家に謀りて道場を建設せしめ此の處にて居合を教ふることとなり、其の後時の第一中学校長渋谷寬氏の居合術が身心鍛錬に特効あるを認め正亮を聘して生徒指導の任に当たらしめたり。
 明治31年没す年64歳
記 五藤氏没後谷村樵夫後を継ぎ生徒を指導し居たるも明治38年没す、享年61歳
  此の門弟に土居亀江(旧姓小藤)抜群の技ありたり、土居虎彦(現曽田姓)-実兄
* 
 此の曽田先生の文章のもとになるのは、中西岩樹先生による「英信流居合と板垣伯」であろう。曽田先生のスクラップの中にあるものなのですが、その出典の有りようは不明です。
 「・・・明治25、6年頃と言へば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振ふ居合の如きが分明改化を追ふに急なる国民に顧られれさうな筈は無く、五藤正亮 谷村樵夫 細川義昌等の達人が傳統を受継いで現存して居り乍ら、殆んど之を執心修行せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
 其の内に段々居合を知る人も物故し、之等の先生と雖何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を傳へる者が無くなるであらふと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。
 即ち明治26年板垣伯のご尽力に依って高知市新堀竹村與右衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当られたのである。
 それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寬といふ人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝこととなった。
 明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の歿後大江正路先生が之に代ることゝなったのである。斯くして高知県に於ては五藤、谷村、大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。
 又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兎身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就いて修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。
 爾来中央に在っては中山先生高知県に在っては大江先生の非常なるご努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。
 実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめたが、更に不言黙々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合発祥の地たらしめられた。私は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰ひ度いのである。」

 この文章を読みながら、第19代福井春政先生から、大阪の八重垣会を運営された河野百錬先生に第20代が招統印可され、後に岐阜の福井聖山先生に第21代が招統允可された際、土佐人の幾人かが画策して土佐へ戻さんとして、新たに土佐英信流なるものを創設したりして纏まっていたものを分離させたりした事が思い浮かびました。その後も個人的な感情から分離独立する者もあって、相互の融和も無く、板垣伯の思いも知らないことになってしまったことを残念に思います。
 失われようとするものを残さんとした大江先生の居合も、それぞれがあらぬ方に向かいつつあるようです。古伝が示された今、もう一度古伝復元を計り本物を見つめ直す時期でもあるでしょう。

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2019年5月21日 (火)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の9第15代谷村亀之丞自雄

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の9第15代谷村亀之丞自雄

 高知城下潮江の人馬廻り格山内容堂公に就せられ御前に召され御佩刀を以て居合を抜きし事度々あり入神の技人を驚かす。

 谷村亀之丞自雄は谷村久之丞の次男、第14代林弥太夫の弟子で居合の名手として天保15年1844年に家芸として一家を立てている。土佐藩主14代山内豊惇公及び15代容堂公の居合の師でもあった。文久元年1862年10月3日病死、居合は五藤孫兵衛正亮が引き継ぐ。(土佐武道史話より)
 山内容堂公は15代谷村亀之丞自雄を師として弘化元年1844年に居合根元之巻と目録を受けている。このブログでも容堂公の先代山内豊惇公へ送られた根元之巻及び免許皆伝目録について解説しています。
 曽田本免許皆伝目録その27山内豊惇公皆伝2015年12月6日から。
 この豊惇公への根元之巻は河野百錬先生の無雙直伝英信流居合兵法叢書に曽田先生より送られたものと記述されています。根元之巻で気になる処は「奥州林崎神助重信」と始祖を「神助」としてあり「甚助」ではありません。
 また、目録は居合は現代居合で云う立膝の部、奥居合は四方切と外之物之大事、上意之大事、極意之大事に依りますもので、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事になります。組太刀は太刀打之位、詰合之位、大小詰、大小立詰。
 太刀打之位と詰合之位という云い方が古伝神傳流秘書では、太刀打之事或は詰合ですから第15代の当時は・・之位と云う言い回しが出来ていたのか、河野先生によって書き加えられたのか解りません。
 坂橋流之棒及び夏原流和は目録には無く、すでに失伝していたか他流を習っていたので除外したか判りません。
 居合心持肝要之大事に「捕手和居合心持之事」と一行あるばかりです。しかしこれを見る限り15代までは古伝神傳流秘書の手附に従って稽古され目録が伝授されていたと考えられ、次の代16代五藤孫兵衛正亮に引き継がれたものと思われます。現代居合の業名称及び組太刀は第17代大江正路先生に伝わらなかったか、大江先生自ら改変されたと判断できます。

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2019年5月20日 (月)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の8第11代大黒元右衛門清勝

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の8第11代大黒元衛門清勝

 高知市帯屋町の人
 大森流は此の人の拵しものと云う人あるも誤りならん、実は大森六郎左衛門に始まりたる林守政の剣道師なり。
 此の清勝より二派に分れたり、故に代記を省略して諸先生の略歴に止む。

 第11代大黒元右衛門勝清から12代、13代、14代は二派に分れたので曽田先生に省略されてしまいました。
 大黒元右衛門清勝は伯母が第9代林六太夫守政の妻になっていたので縁戚と云う事になる。馬廻り、知行二百五十石の家柄であった。(土佐武道史話より)
 大黒元右衛門清勝の後は曽田先生の無雙直伝英信流居合術系譜では、下村派と谷村派に分派したとされています。

 下村派
 11大黒元右衛門清勝ー12松吉(好)貞助久盛ー13山川久蔵幸雅ー14下村茂市ー15(行宗貞義、細川義昌、片岡健吉)
   
 谷村派
  11大黒元右衛門清勝ー12林益之丞政誠ー13依田萬蔵敬勝ー14林弥太夫政敬ー15谷村亀之状自雄

 林六太夫守政の養子林安太夫政と林益之丞は居合上手であったらしい、林弥太夫は林益之丞の子。
 依田萬蔵敬勝は林益之丞の門下で抜群の誉があり、留守居組で三人扶持切符八石の小身であった。
  大黒元衛門によって松吉(好)貞助も伝書を受けている様で、林弥太夫の門人だった山川久蔵は師家を離れ別に伝書を受けて門人を取っていた。遡ると、山川久蔵ー松吉(好)貞助ー島村右馬丞ー坪内清助長順ー大黒元右衛門だそうです(土佐武道史話より)。
 土佐武道史話では大黒元右衛門から伝書が林益之丞と坪内長順にも与えられたとしています。
 谷村派、下村派の謂れは谷村亀之丞、と下村茂市の姓を取ったものと思われます。この二人の活躍した時期は明治維新を挟む1868年前後、大黒元右衛門が11代を受け継いだのが林安太夫の死後(安永5年1776年)です。既に92年の歳月が過ぎ、師家は5代に渡ります。従って双方の交流が無かったとすれば多くの違いがあっても良さそうですが、顕著なものは見当たりません。
 谷村派の抜き付けは正対し、下村派は半身とかどうでも良さそうな違いを得々と述べている人を見ますがさてどうでしょう。状況次第でどちらでも出来て当たり前でしょう。仮想敵相手の居合は、師匠の思い込みと癖が顕著に出るものです。形に拘り過ぎればただの武的踊りになります。拘らなければ理合不明の一人よがりに陥るものです。

 

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2019年5月19日 (日)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の7第10代林安大夫政詡

曽田本その2を読み解く
19、無雙直伝英信流居合術の傳統
19の7第10代林安大夫政詡

六大夫の養子なり。

曾田メモはこれだけです。
 前回の林六大夫のところで、平尾道雄先生の土佐武道史話(昭和36年1961年発行)より引用させていただきましたが、最後の所を再録させていただきます。
 「・・妻は大黒茂左衛門(勝盛)の娘で、助五郎政彬、縫之丞正晴の二男をもうけたが、二人とも幼年だったから、安田道元という医師の次男をもらって家督と居合伝を授けた。これが安大夫正詡である。安永5年(1776年)8月10日、安大夫が病死するとその家督は助五郎の長男六之丞政長が相続した。
 林六大夫守政ー安大夫政詡-六之丞政長ー益之丞政誠ー弥大夫政敬ー政之丞政護ー亀吉茂平
 林氏の系譜は右の通りだが、このうち六大夫の養子安大夫と益之丞とは特に居合上手として有名で、門人たちも多かった。」

 土佐の居合が定着したであろう頃の年表を作って見ましたが、歯抜けで想像の域を出る事はありません。
 寛文02年1662年 林六大夫生まれる
 享保17年1732年 林六太夫没70歳
 明和元年 1764年 林安大夫 居合兵法極意秘訣を誌す
 安永05年1776年 林安大夫没年齢不詳
 文政02年1819年 山川久蔵 神傳流秘書を写す

 山川久蔵が書き写した神傳流秘書は、恐らく林安大夫が50歳(正徳2年1712年)から70歳(享保17年1732年)ごろに記述しただろうと思います。
 林安太夫の「老父物語を書き付け置く、久しき事故失念之事多し、あらまし此の如く覚え候まま記し申す也」で始まる居合兵法極意秘訣は安太夫の死ぬ12年前には書き上げられていた様です。六太夫の死後32年経っています。聞き覚えの記憶であそこまで克明に書けるとは思えませんから、六大夫のメモ書きや、安太夫が指導された時のメモ書きなどをまとめたのでしょう。 

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2019年5月18日 (土)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の6第6代林六大夫守政

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の6第6代林六大夫守政
高松城下南軒町に住す馬廻り格なり父を政良と云う寛文3年生、礼節、居合、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽▢等人の師たるに足る技十六ありしと云う、享保17年7月17日歿行年70才。

第9代林六大夫守政については平尾道雄先生の土佐武道史話の長谷川流居合に詳しいので新たな事が分らない限り林六大夫守政の項目をお借りします。
 林六大夫の先祖は池田豊後といって中村一条家の家来であった。その子孫は一条家没落後長曾我部家に仕え、その後長曾我部浪人として大津に住み、林とあらためて山内家に仕えたもので、六大夫のときは御料理人頭という役目であった。
 四代の太守豊昌のお供で江戸参勤の途すがら、淀船でさる西国大名とであったことがある。船中にむかえて御馳走がはじまったが、料理をつとめる六大夫が、まな箸で皿鉢をはさみ、船べりから川の水をすくって洗う手ぎわがとてもあざやかで、船中の主客が感動したという逸話が残っているほどで、このコック長ぶりの見事さがなにかほかにも通ずるところがあったらしい。
 本職の包丁はいうまでもなく弓、馬、剣、槍などの武芸もみんな印可を受けていたし、謡曲や鼓までその技をきわめ、其の中でも有職故実は伊勢兵庫に学び、書道は佐々木文山に習って当時抜群のほまれがあった。
 はじめは知行八十石で新小姓の格だったのが、後には百六十石の馬廻に昇格し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役まで出世した。太平の時節にこのような昇進を見ることは異数の例で、それだけにかれの才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。
 かれの名を後世にのこす長谷川流居合は、実は六大夫にとって余技にすぎなかったのである。
六大夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70才で亡くなった。妙に7に縁があるというので世間のうわさになったそうだが、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊數の五代に仕えて、その信頼がすこしも衰えなかったのを見ても彼の円熟した人がらがわかるし、長谷川流系譜のうちでも其の位置は重視されている。
 前記のごとく江戸浪人荒井勢哲からその皆伝をうけたが、居合を表芸とはしなかったにで師匠格などには任命されなかった。
 妻は大黒茂左衛門(勝盛)の娘で、助五郎政彬、縫之丞正晴の二男をもうけたが、二人とも幼年だったから、安田道玄という医師の次男をもらって家督と居合伝を授けた、これが安大夫正詡である。(平尾道雄著 昭和36年発行土佐武道史話より)

*
 平尾道夫先生の土佐武道史話は昭和36年発行ですから、曽田本その2の林安大夫守政の略歴はそれ以前に伝わっていたものから曽田先生は引用されたのでしょう。
 第9代林六大夫守政は逆算して寛文2年1662年生まれ、享保17年1732年に没しています。
 曽田本その1の居合兵法極意秘訣(英信流居合口受(授)秘訣)は養子の第10代林安大夫正詡になるもので明和元年1764年のものでした。養父の物語を忘れないうちに書き付けたとしています。それで養父六大夫亡き後32年も経って居ます。
 それでは、土佐の居合の原本と云える曽田本その1の無雙神傳英信流居合兵を書きあらわした古伝神傳流秘書は何時頃書かれたものなのでしょう。料理番頭となって江戸勤番の際に荒井勢哲に師事したとして根元之巻を授与されるとすれば、土佐への往ったり来たりが無くとも10年、あれば20年はかかるでしょう。20歳から始めていれば40歳でしょう。他の江戸での習いごとを考慮すれば50歳ころ1711年1正徳元年頃でしょう。残りの人生は20年、書き終わったのは60歳として1720年頃享保5、6年でしょうか。
 荒井勢哲の指導法は判りませんが、当時の口伝口授による教え、あるいは業の順番だけ教えて後は自得する指導法でしたら林安太夫の武的能力及びポイントを捕えた文章表現力には圧倒されます。メモの見本の様に思えます。
 指導を受けるたびに克明に覚を書き留めていったのでしょう。現代では居合しか稽古せずに40年も経ってようやく真似っこの目録允可ではお粗末です。神傳流秘書の業数は174本になるものです。

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2019年5月17日 (金)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の5第7代・第8代

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統
19の5

第7代長谷川主税助英信
土佐の人江戸に出て信定に▢(就)て居合術の研鑽をなす英信流の一流を起す故に又長谷川流とも云う。

第8代荒井勢哲清信

 長谷川主税助英信について平尾道夫先生の土佐武道史話では「長谷川主税助を土佐の人だと説く人もあるが、そんな確証もないし、また主税助の生涯についても世間には知られていない。当流第5代の百々軍兵衛と同名の人は土佐にいたが、この人の実名は直実といって伝書の軍兵衛光重と同一人だと軽々に決める事はできない」
 お国自慢は何処にでも居て当たり前でしょうが、土佐では明治維新を成し遂げた誇り高きお国なんでしょう。確証が無くとも云い切って来る処が土佐っぽらしい。
 
 北信濃の無雙直傳流の研究をされている南山大学の榎本鐘司先生の「北信濃における無雙直傳流の伝承について―江戸時代村落の武術と『境界性』-」を、原文のままお借りして第7代長谷川英信と第8代荒井勢哲を、考えて見たいと思います。
「無双直伝英信流の祖として有名な長谷川英信の経歴については不明な点が多いが、滝沢家文書では「越中の人」としている。この英信流は土佐に伝承し、これによって現在も居合道の主流として盛んに行われているが、この系統では長谷川英信の次に荒井勢哲清信、そして土佐藩士の林六大夫に継承されたとしている。ここでいう荒井勢哲清信が、滝沢家の系統の小菅哲斎正継であることはまちがいない。『大矢氏物語書留』(滝沢家文書)には小菅精哲斎正継を「荒井兵作」の改名であるとしており、また『朝陽館漫筆』に「荒井清鐵」について次のようにある。「荒井精鐵、又曰、熊谷兵作と云者、やわらを鍛錬して教へける少分なる者のうへ、不仕合有て所を立ち退、江戸へ出、師家を立、渡世とする間に、彌功積て、今は荒井清鐵など名乗り、やわらを脇へなして居合剣術など指南して奇妙不思議を得たりなどと言はやさる。最早80歳計成べければ、奇妙を化るも尤なり。」この記述は、松代藩の神道流師範であった落合保考の宝永年間(1704年~1711年)の著述にもとずいており、兵作(荒井兵作、荒井清鉄、荒井勢哲清信、小菅精哲斎正継)はこの頃に80歳ほどであったと記されるのであるから、元和・寛永(1615~1644)の頃の生まれとなる。すると長谷川英信もこれと同時期、あるいはこれ以前の人とみなければならない。兵作は「越後国高田の牢人」(大矢氏物語書留)とされるが、『朝陽館漫筆』には「少分鳴る者のうへ、不仕合有て所を立退、江戸へ出、師家を立」とある。その後、武州を遍歴して江戸で名をあげ、最後には信州倉科村に住した。もともと「やわら」を得意としたが、常陸国田宮彌兵衛正信という人物から林崎居合の相伝をうけ、江戸では居合剣術を家業としていたとされる。土佐の英信流居合の系統では長谷川英信が協調されるが、滝沢家や松代側の史料では長谷川英信は和(やわら)の相伝者であり、新しい林崎流系統の居合は小菅(荒井)正継によって加えられたことになる。」以上が榎本先生の論文になります。

 長谷川英信も荒井勢哲も榎本先生の論文から「秘密性・非公開を原則とした武士を基盤とする近世流派武術とは次元を異にした、農民の生活様式としての伝承的な武術の存在」によって育まれた武術家であったと推察します。
 この辺の研究はとても面白そうですが、いずれ又の機会に譲るか、どなたか興味のある方にお任せします。無双直伝英信流の道統の出自は長野無楽斎以降は、歴史の記述に書き込む事を望まれない身分の人達によって整えられてきたものと考えられます。
 土佐への伝承は、江戸に於て荒井勢哲から料理番であった林六太夫が学び伝えた武術として認識できそうです。

 

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2019年5月16日 (木)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の4第4代から6代

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の4第4代から6代

第4代百々軍兵衛尉光重

第5代蟻川正左衛門宗績

第6代萬野団右衛門信定


第4代から第6代については、その出自も足跡も判りません。第9代林六大夫守政が土佐にもたらした時に、そのように話されたのかと思うのみです。
第7代長谷川主税英信、第8代荒井勢哲清信が江戸若しくは北信濃における林崎甚助重信の伝承者であればその方面の武士と農民の間を生きた市井の武術者であったのでしょう。

南山大学の榎本鐘司せんせいによる「北信濃における無雙直傳流の伝承について」という論文に幾つか面白い事が書かれています。土佐に居合をもたらしたのは第9代林六大夫守政である事は現代居合の無雙直傳英信流を学ぶ人はご存知の通りと思います。では林六大夫は何処で誰から居合を学んだのでしょう。
榎本先生の論文に第8代荒井勢哲及び第7代長谷川英信について記述があります。其の辺は次回に廻すとして、第4代、第5代、第6代に至る流れを榎本先生の資料から垣間見て見ます。

無雙直伝流の伝統(滝沢家文書より)抜粋
天真正-7飯篠山城守直傳(家直)-8日名智哲斎清正-9日名太郎作清成-10井上勘蔵信光-11伴長門守高實-12番助九郎實行-13成田-14須田勘達入道朝久-15分邊三左衛門尉国房-16百々軍兵衛尉光重-万野團右衛門尉信貞-大加原意信斎幸次-19長谷川蔵之助英信-20小菅清哲斎正継(荒井勢哲)

北信濃の無雙直傳流は天真正ですから天真正鹿取神当流飯篠家直の系統を継ぐものと云えそうです。林崎甚助重信の伝書には「天真正」の三文字が例えば「天真正林明神林崎甚助重信-田宮平兵衛照常・・」のように書かれています。林崎甚助重信は林明神により居合を開眼した始祖であると同時に鹿取神当流を学んでもいた證共なります。
北信濃の伝系には林崎甚助重信の名は見当たりませんが百々軍兵衛尉光重辺りから林崎甚助重信の居合を伝承した様に林六太夫に伝わり土佐に持ち込まれたのかも知れません。土佐の居合の系統にある第5代蟻川正左衛門宗績の名が北信濃の伝統には見られませんが、江戸時代の武士と農民の間にある武術の伝統ではこんなものと云えるかもしれません。

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2019年5月15日 (水)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の3第3代目長野無楽入道槿露斎

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の3第3代目長野無楽入道槿露斎

第3代
◯長野無楽入道槿露斎
無楽入道と称す業正の弟子
近江井伊家に仕え禄二百石を領す90余歳まで長寿

本朝武芸小伝巻六
◯長野無楽斎槿露
長野無楽斎槿露は刀術を田宮重正に学びて精妙を得、後井伊侍従に仕え、九十有余にて死す。
◯一宮左大夫照信
一宮左大夫照信は、妄執武田家土屋惣蔵麾下士にて武功居多也、天正八庚辰年九月武田勝頼上州膳城を攻める時、一宮脇又市と相共し城戸に入り槍を合わせ武勇を震う、且つ刀術を長野無楽斎に学び其の妙を得る、今に至り一宮流を称し末流諸州に在り。又上泉孫次郎義胤という者あり、一宮と共に無楽斎に従い神妙を得る。

山田次郎吉先生の日本剣道史による無楽流(長野槿露)
長野無楽斎槿露に起こる抜刀術で、武芸小伝には長野を田宮一門としてあるが、今伝系に由ると、林崎甚助の門である。槿露は上州箕輪の城主長野信濃守の一族で、武田に討亡されたる後、出羽に漂ひ来たって林崎に居合術を学び、更に工夫を加へて一家を為した。これを無楽流といって、羽州殊に会津に昌んに行はれた。槿露は常に牛に乗って女子に口縄を執らせて歩行き。上下の差別なく交り、寒来れども爐せず、一生不犯であったといふことだ。最上の人沼澤長政に其傳を授け、之よりして世々羽州に流儀が残った。上泉伊勢守の孫義胤も無楽に就て学んだといふ。此の人90歳までいたといふから、元和以後まで存命であったらう。

長野無楽斎の門に上泉孫次郎義胤といふ者があることは、武芸小伝に記している。長野は上州の信濃守業政の一族で、孫次郎は上泉伊勢守の族縁の者である。武芸名家伝に由れば、無楽斎が流を伝へて上泉権右衛門英信と云者、尾州の柳生兵庫が許へ来って居合を以て勝負を望んだところ互角の成蹟であったので、兵庫大に賞賛して尾張公へ吹挙して仕官さした。これが無楽流上泉派と称して流行した。其の門に若林四郎兵衛あり四郎兵衛後又別れて二派となり続々相継で尾州に其箕裘をとどめたのである。

 

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2019年5月14日 (火)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の伝統19の2第2代田宮平兵衛尉業正

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統
19の2第2代田宮平兵衛尉業正

第2代田宮平兵衛尉業正(武術叢書には重正とあり)
重信の弟子抜刀の妙を得後對馬と改む其の子長勝箕裘の術を継き池田輝政に仕ふ後紀州に赴頼宜に仕へ八百石を領す。

武術叢書とは早川純三郎によって大正4年1915年に発行された武術叢書の事でしょう。其の中の「本朝武芸小伝巻六」の田宮平兵衛重正についての文章の引用でしょう。本朝武芸小伝は日夏繁高によるものでその序文を書いた葛慮林信如が序文に干城小伝序と題しています。本来は本朝武芸小伝でしょう。正徳4年1714年第7代徳川家綱の時代、徳川吉宗の一代前になります。

武術叢書から田宮平兵衛重正について読んでみます。漢文で書かれていますから読み下し文としておきます。
 「関東の人也、刀術を好み東下野守元治に学び神明無想東流奥旨を究む、後又、林崎重信に就いて抜刀の妙を得る、実に変をを盡し神に入る、後對馬と改む。其の子對馬守長勝其の術を継ぎ常圓と號す、紀伊頼宜卿に仕え奉り、子孫箕裘の芸を伝え、芳名千歳に揚ぐ。末流諸州にあり、重正より其の術を学ぶもの若干、特に長野無楽斎槿露、三輪源兵衛傑出たり。」

山田次郎吉の剣道集義による千城小伝では、上記文章に続きがあります。全文掲載させていただきます。
 「田宮平兵衛重正は関東の人也、林崎重信に従って抜刀の妙を得る、実に変を盡し神に入る。後對馬と改む。其の子對馬守長勝箕裘の術を継ぐ。池田三左衛門尉輝政に仕う、後仕え至りて常圓と改む、紀州に赴き大納言頼信卿に奉仕す、采邑八百石を領す。其の子掃部長家後平兵衛と改む。大猷大君田宮の芸を見んと欲し、頼宜卿に命じて江戸に召さる、登営して其の術を台覧に備え奉る、その名を日域に顕わす。其の子三之助朝成後常快と號す。其の子次郎右衛門也常箕裘の芸を継ぐ、中納言吉宗卿に奉仕す。其の末流諸州に在りて千歳に芳名を伝うと云うべきか。
 斎木三左衛門清勝という者あり、紀州人也、幼弱より田宮長家に従って練習年有りて後朝成に従い終に其の宗を得る、延宝年中江都に来たり其芸を以って鳴る。
 北条早雲記曰、勝吉長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛成政といふ者是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんぢゅうの利、其の外神妙秘術を伝へしより以後、長柄刀を皆人さし給へり、然に成政が兵法第一の神妙奥義と云うは、手に叶ひなばいかほども長きを用ゆべし、勝事一寸ましと得たり。


 林崎甚助重信の居合は第二代は田宮平兵衛業正(重正、成政)として土佐には伝えられたのでしょう。
東北地方ではどうであったか、江戸時代の伝書から眺めてみます。
 林崎甚助重信公資料研究委員会による林崎明神と林崎甚助重信に依ります。
津軽藩 林崎新夢想流 林崎甚助重信ー田宮平兵衛照常ー長野無楽斎槿露
三春藩 林崎流    林崎甚助重信ー田宮平兵衛重正ー長野無邑斎槿露
新庄藩 林崎新夢想流 林崎甚助重信ー田宮平兵衛尉照常ー長野無楽斎槿露
秋田藩 林崎流居合  林崎甚助重信ー長野無楽斎槿露ー市宮左大夫忠重

 

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2019年5月13日 (月)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の伝統19の1流祖

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統19の1
△第一代(流祖)
 ◎林崎甚助重信
正親町天皇の永禄年間の人(約380年前(昭和11年1936年))(約460年前平成31年2019年)
 羽前国北村山郡に生る幼より剣術を好み郷里林崎明神に祈願を込め百日の満願の▢居合術を授り其の技神に入ると云う。
 重信が林崎明神への奉納額に「千早振る神のいさをし我うけて万代までも伝へ残さむ 永禄四辛酉四月願邑當処浅野改林崎重信謹百拝」

林崎甚助重信に就いての江戸時代の日夏繁高による本朝武芸小伝巻六
 林崎甚助重信は奥州人也、祈林崎明神に祈り刀術の精妙を悟、此の人中興抜刀の始祖也
 北条五代記曰、長柄刀のはじまる子細は、明神老翁に現じ長づかの益あるを林崎勘助勝吉といふ人に伝え給ふ、愚に曰、勘助は謄写のあやまりならんか、五代記には勝吉と有り、伝書に重信と有、明神老翁現じて伝へ給ふといふは、鹿島の神をいへるか、伝書には奥州楯岡の近辺に林崎明神と云神社あり、甚助此神を祈て妙旨を悟るとあり。


志賀義言仲敬の日本中興武術系譜略の重信
 林崎甚助、奥州人、重信于奥州楯岡林崎明神、刀術の精妙を悟と云う、此の人中興抜刀の始祖也


武術流祖録
 抜刀中興祖 林崎甚助重信
 奥州の人也、林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る、此の人中興抜刀の始祖、其の技術神妙也、門に田宮平兵衛重正其の宗を得る。


武術太白伝
 林崎甚助名は氏賢相模の産である。文禄4年(1595年)5月10日48歳(54歳)より慶長3年(1598年)9月15日に至る7年間武州一宮の社地に居住し、陰陽開合の理に基いて工夫を凝し、生善正勝という辞を押立て純白伝と号して飄然諸州を歴遊の途に上った。時に54歳(57歳)の秋紅葉正に色つく時であった。
 星霜移って元和2年(1616年)2月28日、武州川越の甥高松勘兵衛の許を訪つれ、明年7月まで滞在して、20日再び鳥藤を鳴らして奥州の旅程に立越えたのは73歳(76歳)残躯を天に任せて復た帰って来なかったのである。故に一宮流奥幸四郎施主となって享保元年7月20日川越の孤峯山蓮馨寺に墓碑を建立し、良仙院一誉昌道寂心大信士の法号を鎬し、一部生国相州鎌倉の天照山光明寺の過去帳にその名を留めて、永く菩提を弔う料とした。
(武術太白伝は見当たらず、山田次郎吉の日本剣道史より抜粋、後の林崎甚助源重信公資料研究委員会による林崎明神と林崎甚助重信参照すミツヒラ)


北條五代記巻第四
 見しは昔。関東北條氏直時代まで。長柄刀とて人毎に。刀の柄をながくこしらへ。うでぬきをうて。つかにて人をきるべく體たらくをなせり。・・人聞て其むかしの長柄刀。當世さす人あらば。目はなのさきにさしつかへ見ぐるしくも。おかしくも。あらめとわらひ給ふ所に。昔関東にてわかき輩。みな長柄刀をさしたりし。・・さて又長柄刀のはじまる子細は。明神老翁に現じ。長柄の益有を林崎かん介勝吉と云人に伝へ給ふゆへに。かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に。是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し。柄に八寸の徳。みこしにさんぢうの利。其外神妙秘術を伝へしより以後。長柄刀を皆人さし給へり。然に成政兵法第一の神秘奥義といつは。手に叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。勝事一寸にして伝たり。其上文選に。末大なればかならず折。尾大なればうごかしがたしと云々。若又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をば。をそれよと云をきし。光武のいさめを。用ゆべしと云りむかしの武士も。長きに益有るにや。太刀をはき給へり。長刀(なぎなた)は古今用ひ来れり。扨太刀長刀を略して。一腰につゝめ。常にさしたるに徳有べしそれ関東の長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは。大益なるべし。



 いずれにしても、林崎甚助重信については、その生まれなど確証が取れそうもありません。実在の人物とされていますが其の足跡は不明と云った方が良さそうです。
 林崎神社の霊験記などによれば
天文11年1542年 林崎甚助重信 幼名民治丸生誕(霊験記)
弘治2年1556年  浅野民治丸、林崎明神に百日参籠し、抜刀の神伝を授かる(伝書)
永禄2年1559年  元服して、神夢想林崎流と称し村名を姓とし、林崎甚助重信と改め仇討の旅に出る(霊験記等)
永禄4年1561年  京で仇を打ち帰郷、林崎明神に「信国」の刀を奉納


 


 


 


  

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