2021年1月17日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の55真実之神妙剣実之無刀之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の55真実之神妙剣実之無刀之事

11の55真実之神妙剣実之無刀之事
父の録にあり理りは何ともなし
秀忠公御稽古の時分録にあり。
亦云、真実の神妙剣とは神処(神所)也。亦、実の無刀とは根本之習也。又、真の無刀なり。是は道具也。道具を以て理り、心も有。名を借りて云う。もし又教えとする心持あり。人により、其の心を汲むべし。西江水真実の無刀と云う習を秘して、仮なる心持ち多し。

 神妙剣とは、真実の神妙剣、実の無刀について述べているのでしょう。真実の神妙剣は臍廻り五寸四方とか六寸四方とか体の位置を述べていますが、此処では、己の身体の神の御座所である。と云う分けです。次回の月之抄に「神処之習之事」として、解説されています。
 
 亦、実の無刀と云ってここまでに述べて来ていないにもかかわらず、「無刀」について突然言い出しています。実の無刀と云うのは根本の習いであると云います。刀を全く持たない無刀で敵に対する事を「真の無刀」と云うのでしょう。真の無刀は道具の事であって、刀を帯びていない場合でも、その場にあるものを道具として扱い応じる事の、理を云うのです。その心構えも有のです。その道具を扱う事の名を借りて「無刀」と云う。然し、その扱いには教えとする心持ちもあると云います。その事は人夫々によって、考えを巡らし、無刀
の心をくみ取るべき事である。
 「無刀之心持之事」としてずっと後に、月之抄に述べられていますが、一般に無刀取の言葉で有名になっていますから其の触りだけ「無刀にて無理に取ると云う心にては無し。万事無刀の心持にある心を以て、極意とせり・・」

 次の一節も、新たな用語「西江水」が突然出て来ています。「西江水」とは、是も暫らく後に「西江水之事」として月之抄に出て来ますが、触りだけ「心を納むる所、腰より下に心得べし・・」。
  
 西江水、真実無刀と云う習いを秘して(知らずして・隠して・偽って)、仮なる心持ち多し。この仮を知ったかぶりをしてと読むか、誤って思うと読むか、秘してと読むかは、自ら心に手を宛てゝ思うべきものでしょう。

 この項の宗矩の目録は有るが、その理は何とも無い。二代将軍秀忠公の御稽古の時の記録にはある。頭書にありますが何処かに保存されているのでしょうか。
 この項を読みつつ思う事は、十兵衛三厳の月之抄はさらにこれを噛み砕いた、朏門集や武蔵野、行川の流、兵法目録、当流の兵法などを傍らにして、尚且つ道場に立って一人稽古に励みつつ、項目ごとに思いを馳せたい衝動にかられます。

 

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2021年1月16日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の54身位神妙剣取る心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の54身位神妙剣取る心持之事

11の54身位神妙剣取る心持之事
老父云、目録に理なし
亡父の目録にも理なし
云、神妙剣を身位にて取る心持、上中下三段、向き開き一重の位の心持ち替えるべからず。先祖三代この形の目録とも数多多し。其の人々により色々に目録替り之あり。心得べきものか。

 神妙剣とは中墨、太刀の納まる所、臍の周り五寸四方なり。と前項で解説されています。その神妙剣の基づく身位の取り様は、上中下段、体の向きが正面(正体)、開き(半身)、一重の位(一重身)であっても、神妙剣の位置は変わらないと云うのでしょう。先祖三代(上泉伊勢守・石舟斎・宗矩)この事を指す目録は数多多し。其の人々に依る身位は夫々で色々替る目録がある。理は述べられていないが心得て置くべきものか。

 最後は「か」の疑問符で終わっています。三代の「神妙剣を身位に取る心持」の違いが、読めていませんので個々に読み解く方法がありませんが、「身懸五箇之大事」から神妙剣との関係は想像できそうです。
 神妙剣の心得は他流の場合も、是を抜きにしては無さそうです。
 無双直伝英信流居合の場合も、青眼に構えたり、真向斬り下しの際、柄頭は臍の位置より一拳半の位置にあり、如何なる構え、切り込みでもその座を忘れる事はありません。人の体の中心点ともなる位置であると考えれば納得できる事かも知れません。

 

 

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2021年1月15日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の53神妙剣之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の53神妙剣之事

11の53神妙剣之事
古語云く
心地含諸種 普雨悉皆萌 頓悟花性者 菩提菓自成(心地に諸種を含めば 雨普くして悉く皆萌す 花の性を頓悟すれば 菩提の菓は自ずから成る)

老父云、中墨と云う也。太刀の納まる処なり。臍の周り五寸四方なり。手字手利見、水月、神妙剣此の三つは人間の惣体の積り、兵法の父母たり。此の三つより心持種々に別れる也。大形(方)此の三つ極まるなり。
水月も是れ神よりの儀、思いつく心を月と定め、神妙剣を鏡とす。夫れに写してよりは、勝ち良きもの也。
人に大小あり。水の場を取る時に、其の影を考えべし。其の場を取る処を、打たずと云う事無し。それを見損ずるもの也。不覚取りては後ろへ退く事ならぬもの也。
外しは浅く取る処にあり。場を取る処を、打つと思う心を、予ねて心に持つ事肝要也。取る処を切らざるものは、其のまゝ勝べき也。懸々先々たるべし。味を持つ処神妙剣也。

亡父の録に神妙剣之事付り身位三重位分之待曲条々之事、或は中墨とも云うと書る。

亦云、神妙剣之事付り両一尺之習之事
太刀の神妙剣源也。兵法の本来共云と書る。是は秀忠公御稽古の時分の目録に父書る多し。

亦云、神妙剣之真之位之事、能く分別すべし。
是極意の頂上也。古語云く
喜与嗔同乎 嗔時喜自俱 心随物作寄 人謂我非夫
と書るもあり。

亦云、身位三重之事、是は上中下の身の懸かり、又身の捻り、或は開き、三重あり。又、高上極意神妙剣之太刀の勝口、身位三重なり共書るあり。

 神妙剣之事に就いて少々長いのですが、先ず古語で述べられている語句を読んで見ます。
 心の地には諸々の種を含んでいる、すみずみ迄雨が降ればそれらの種が皆芽を出して来る。それらの花の性を真に悟るならば煩悩を断って不生、不滅の真如の道を悟って得る仏菓は自ずから成る。心には色々の応じる手立てを持っているのであるから、無心となればそれらの手立ては自ずから成る、と云うのでしょう。

 老父柳生但馬守宗矩は神妙剣とは中墨之事だと云う。太刀の納まる処、臍の周り五寸四方である。
 手字手利見(手字手利剣)、水月、神妙剣此の三つは人間の惣体の積りであって、兵法の父母である。此の三つより心持ち色々に別れるものである。大方この三つに極まるのである。十文字勝する際の敵之太刀を持つ手の裏、間積り、中墨は兵法の大切な積りであると云うのです。
 水月も神より与えられたもので、思いつく心を月として、神妙剣を鏡として写しとるならば、勝つ事は容易である。
 人には大小あるので、水月の場を取る時に、相手大小による影は一定ではないので考えて、水月を取ったならば、必ず打込んで来る。それを見損じるものである。間積りで不覚を取れば、後ろへ退いても敵之打込みを外せないものである。敵の打込みを浅く外し、敵の場を取った所に打つと思うもので、此の心持肝要である。場を取っても切って来ない場合は、そのまま打込んで勝つべきである。懸々先々であるべし。味を持つ処神妙剣也。

 亡父の録に神妙剣之事付り身位三重位分けの待曲条々の事、或るは中墨とも云うと書いてある。
 是は石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」の「神妙剣付両一尺位分待曲之事」を指しているのでしょう。
 亦云、での両一尺之習の事は、間積り之事で、一尺の太刀の当たらない間合い、其処での仕掛け。仕懸けても待の敵に対する懸勝事。
 太刀の神妙剣は源である。兵法の本来のものと書いてある。是は秀忠公の御稽古の時分の目録に父宗矩が書いている事が多い。

 亦云、神妙剣之真之位之事、能く分別すべきである。是は極意の頂上である。古語に曰く。
 喜びは嗔(いかり)と同じか 嗔(いかる)時喜び自ずから倶(ともなう) 心は物に随い作り寄す 人謂(いう)我れ夫れに非ずなり
 此の偈は石舟斎の没滋味手段口伝書に書かれています。

 亦云、身位三重之事、これは上中下の身の懸かり、身の捻り、開きの三重のことである。又、高上極意神妙剣之太刀の勝口、身位三重也とも書いてある。
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」に神妙剣の後に「身の位三重付残心之事」と有ります。三重は残心の事と云っています。無双直伝英信流の残心は敵を斬り倒した後に、新たな敵が現れるのに応じる心構えや斬った敵を思い残心を行います。この新陰流の残心は、一度の斬りで後が続かない事を戒めて、打・撥ね・打等の続け打ちを三重と云い残心の事と云う。

 新陰流の伝書は石舟斎によって目録のみで解説は不断の稽古の中で口伝された習いなのでしょう。随って石舟斎によって第三丗として相伝した、兵庫助以外は正しく口伝されていなかったかも知れません。石舟斎の覚書がある様ですが江戸の宗矩や十兵衛には無く正しく伝承されたか否か、この神妙剣にも表れていて月之抄だけでは読み取れません。

 

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2021年1月14日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の52水の無法と云心持之事付り月に兵法無しと云事

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11、習之目録之事
11の52水の無法と云心持之事付り月に兵法無しと云事

11の52水の法無しと云心持之事付り月に兵法無しと云事
父云、水月に兵法無と云う心なり。月の写るが兵法也。月は勝つ也と云うも、写してよりは勝ちの備わりたる心持也。水に入り入らぬぞなどと云う処に構えは無き也。
引歌に
浮き草を払いて見れば底の月 
       寔(ここ、まこと)に有とは誰か知るらん

 父云、水月(間合い、間積り)には兵法は無いと云う心持なのである。月の写る(敵の心が、我が心に写る)の兵法である。敵の心が我が心に写って「月は勝つ也」と云うのも、写す事によって勝ちが我に備わる心持ちである。水に月が入るの入らないなどと云う処に、何の構えも無いのである。
 引歌に 池の表面を覆う萍(うきくさ)を払って見れば、池の底に月が写っている、本当にあったとは誰が知っていよう。この様にして勝とう、負けてはいられないなどと、心に己の思いばかり募らせていたのでは、何も見えて来ないものです。浮草を払うとは無心となればおのずと敵の心が我心に写るものだ、と歌っています。
  

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2021年1月13日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の51真之水月之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の51真之水月之事

11の51真之水月之事
父云、身は水の月と云う、うつりうつす心持なり。敵の神妙剣を、鏡にたとへ、我心を月にたとへて、我形を敵の鏡にうつし、心の月を水月の水にうつしてよりは、勝事こてまゝなる心持也。至極なり。
亡父の録に真之水月之事、付りうつりうつす心持、心の月我形を一処にうつす也。重々心持口伝と書る。
亦云、真之位に付、覚と云う習有り。水月を思はずしても心に独り覚あるもの也。是自ずからなる水月、真の位也。当たる当たらぬ境は素人も知る也。習いを知らずして知る心、心に有るもの、心を水にうつし、形を鏡にうつす也。一陣の曇りあらば、月は出まじきなり。
古語に云う、日に新に、日々新、又日に新にすと云えり。月ぞ鏡に、水ぞと云う心持は、感知深し。説く人有て知る人無し、知る人有て通人無しと古語にあり。
* 
  真之水月之事と云うのですが、これまでの水月は敵との切り合いで刀の当たらぬ間積、間合と教えられたと認識しています。真之水月は目に見える間積では無いような、雰囲気で語られます。

 父云、身は「水の月」水に写った月の様なものだと云う。敵も我も写り写す心持なのである。敵の神妙剣(中墨、太刀の納まる所)を鏡に譬え、戦いの場での心と我身の形を一所に神妙剣に写し、心に写った敵の月(心)を我が、心の鏡に写したならば、勝事は自在になる心持である。至極の業である。

 亡父の録に、「真之水月之事付り写り写す心持、心の月一処に写す也」重々心持は口伝と有る。真の水月とは「心のあり様を写りうつす(移す、写す)心持之事で、心のあり様を一所に写すのである」と云う事なのでしょう。
 亡父石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」の「水月付り位をぬすむ」の偈「心法は無形十方に通貫す水中の月鏡裏の象」によって語っています。心に形無ければあらゆるものを認識でき、水に写る月影の様なものである。

 亦云う、真の位であるが、覚(おぼえる)と云う習いが有る。水月(間積り)を思わなくとも、心に自然に覚えあるものである。是は自ずから人に備わった水月(間積り)、真の位である。敵の太刀が当たる当たらぬの境は、兵法の素人も知っているのである。習わずして知る心、心に有るもの、心を間積りではかり、形を心の鏡に写し取るのである。勝とうとばかり気を入れてしまえば一陣の曇りが月を遮るように何も見えなくなるものである。

 古語に云う。日に新に、日々新に、又日に新にすると云う。月ぞ鏡に、水ぞと云う心持は感知深いものである。説く人有て知る人無し、知る人有て通人無しと古語に有り。

 
 

 

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2021年1月12日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の50水入之事付りうきしづむ心持

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の50水入之事付りうきしずむ心持

11の50水入之事付りうきしづむ心持
父云、水月より能く切られんと思う心にて水に入るなり、浮く也勝べきと思う心には、水に入らざるなり。沈むなり、心持深し。
亡父の録には水入之事付り浮かまんとすれば沈み、沈まんとすれば浮く心持重々口伝也と書。
亦云、水月の水と云により、場を越入所の心持也。例えば水心知らざる人の、水に浮かまんとすれば却って沈み、沈まんと思へば返りて浮くなり。浅き譬えなれども面白き心持也。水月の水に沈むと思うて切らるゝ心持、水入なり。

 父云、水月(間境)で切られる事は無いと思って、間を越すのであれば、水に浮くに違いない、勝に違いないと思う心であるならば、間を越して水(間合い)に入るべきではない。沈む(切られる)であろう。心持深いものである。

 亡父の録には、「水入之事付り、浮ぼうとすれば沈み、沈むまいとすれば浮く心持。重々口伝とするのである、と書かれている。
 この処は亡父石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」の「水入心持大事 口伝」に目録があります。水月を踏み越える大事な心持として、切ってやるぞと意気籠め場、却って切られる。水に身を任せる様に、敵の色に随って無心に斬り込めば勝と云う事でしょう。

 亦云、水月の水と云う譬えで間を越す習いの心持ちを述べているが、場を越して切り込む所の心持は、例えば、水の心を知らない人は水に浮かぼうとすれば却って沈み、沈まないと思へば返って浮く物である。浅い例えではあるが、面白い心持である。間境での切り込み入る心持、切られると思えば切られる心持。随ってここぞと云うに従って無心に切り込む、是を「水入」の習いと云う。のでしょう。
 なかなか味わい深い一節でした。

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2021年1月11日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の152立相之心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の152立相之心持之事

11の152立相之心持之事
父云、立相之心持は近きを本とする也。水月を立て相(あう)の場と知るべし。其のまゝ仕懸くれば勝もの也。急々に仕懸けられては何の手も出ず。取り合わせざる間に入り相(あう)もの也。実也。立て相(あう)は心先せんせん也。
右の二つの習亡父の録に理なし。

 父云う、立相(あい)の心持ちは、敵と近いことが基本である。水月(打つ間合)の場と知るべきものである。其のまゝ仕懸ければ勝ものである。
 敵から急に仕懸けられては何の手も出せない間合いである。敵の打込みに取り合わせることが出来ない間に、入っての立ちあいである。実也。立相(立合い)は我が心が先に有って先々とするものである。
 右の二つの習いは石舟斎の目録には理は無い、
 
 「右の二つの習い」とは前回の月之抄11の151習と云習之事と今回の立相之心持之事の二つであろうと思います。習うと云う事は我が心が師である事、同じ様に、立相(立合)も水月に至る以前に我が心を無心として敵の思いを知り先々と仕掛けるものと云うのでしょう。

 この習いを身に付けるには、不断の稽古で、この勢法の順番と形ばかりに捉われる者には決して習い覚える事は出来ないでしょう。形稽古には状況を判断して応じる心に封をさせてしまう欠陥も持ち合わせているのです。打太刀の打込み角度が変わっただけでお手上げであったり。打太刀が仕太刀の隙をつく打込みを見せると防禦に捉われて、隙の無い動作を心にかける事を見失って居たりしています。

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月之抄を読む11、習之目録之事11の49勢々りと云事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の49勢々りと云事

11の49勢々りと云事
父云、身は表裏の心持也。水より前にて色々に仕掛て、手立てに花を咲かせ、なぶり立て敵に随い、又随わずしても、又油断の処、気の抜くる処多かるべし。水より前にて勝つ心持専也。
亡父の録にはセゝリと云事付けたり、水月を越さざる心持也と書るあり。
亦云、セゝリとは表裏の心持より序を切はくるしなし(苦し無し)と云々。

 原本は、「勢々り」と表題は書かれています。解説の文章では「セゝリ」で片仮名になります。広辞苑ではセゝリは「挵」の文字で、もてあそぶの読みになります。ここでの文字は当て字かも知れません。競る(せせる)とも違うよです。
 表裏は前にもありましたが、新陰流独特の語句の解釈の無いまま表現されても戸惑うばかりです。表裏とは「かくし、たばかる心也、偽りなり。心付かざる先を謀り候事、気前也。表裏は、気前の末なり。偽り却って実となる所専ら也。方便の道。武略。同意也」と云う分けです。

 父云、身は、敵を誘い出す謀り事をもって、水月(間境)の前で、敵に色々仕掛けて、作戦に花を咲かせ、なぶり立て、敵の動きに随い、又は随わない。其の様な表裏の仕掛けにも油断の処や、気の抜けている処も多いかも知れない。随って表裏の心持に依るのは、水月の手前で勝つ心持が好ましい。それをセゝリ(勢々り)と云う心持である、と云います。

 亡父の録にはセゝリと云事付けたり「水月「間境」を越えないで仕掛ける心持」と書いてあるのが有る。
 亦云、セゝリとは表裏の心持より序(はじめ)るのには問題はないと云々。

 

 

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2021年1月10日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の48早味を越す心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の48早味を越す心持之事

11の48早味を越す心持之事
父云、両三寸なり、内外早き処、一寸二寸なり。越し、外し、此の所に心を◯付る也。
亡父の録に、我初一念を早く越す也と書有。

 この項目は、そのまま読んで見ても、意味が読み取れません。何処かにこの項に相当する、目録の口伝の覚書が残されているかもしれません。

「早味」とは、敵の素早い打込みを越して打込む心持ち、とでも解釈しておきます。
父云、目付は両三寸、二星、柄を握った敵の拳の動きを見て、早い動きは一二寸に過ぎない、越すなり外すなりは、此処に心を付けて見るのである。
 亡父の録に、と有りますが新陰流截相口伝書亊、没茲味手段口伝書の目録からは読み取れませんが、早味を越す心持ちは「我、ここぞと思った一念を貫いて打込み越す事」と書いてある、と云うのでしょう。

 この「早味を越す心持之事」は、月之抄の水月の習いを述べて来た一連の項目の中に書かれています。随って、「早味を越す」は水月を素早く越して来る敵、或いは、越そうとする、外そうとする時の心持を読んでいると見てもいいかもしれません。読み解くポイントは「両三寸なり」でしょう。
 三寸は切先三寸、両の拳の事などですが、拳は二星とも云います。此処では拳として読んで見ました。

 

 

 

 

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2021年1月 9日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の47そり懸りと云心持之事

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11、習之目録之事
11の47そり懸りと云心持之事

11の47そり懸りと云心持之事
云、上段の者は、上早きにより、下水を取り入れ、身位三尺を腰より上を反り掛、一拍子に入あうべき仕度也。仮令打つ時も、水の場にては、敵の打つ太刀を外して受けば当たらぬ。外さずして打つ心持にては、外しても敵に当たるもの也。
此の事、いずれの目録にも無し。
水月の事、身位足手の盗の事、取られて勝事と書したも老父の目録に有る。理は無し。
云、水を盗る心持は、身にても、足にても、或いは手にても表裏などにても盗む心を書るなり。盗られて勝と云も、敵の盗取る事を、此方の知らば、則盗られて勝べき也。

 云(主語が老父・父・亡父のいずれでも無い場合は、石舟斎や宗矩による習では無いのでしょう)月之抄の作者柳生十兵衛と思われます。
 上段に構えて打込むものは、打込みが早いものなので、下で水月の間に踏み込み、身位を三尺の間より腰から上を反り身にして掛り、反り身になって敵太刀を外し一拍子に上体を水月に入れ打込む仕度の事である。仮令、打つ時も、水月の場では、敵の打つ太刀を外して受ければ当たらないものである。外さないで打つ心持であれば、外しても敵に当たるものである。
此の事は老父。亡父いずれの目録にも無い。

 水月の事、水月を(間境を)身足手によって盗み取る事。取られても勝つ事と書いてある老父宗矩の目録が有る。理は書かれていない。
 云う、水月を盗る心持は、身体でも、足でも、或いは手でも表裏(隠し、謀る心也、偽りなり、心付かない先をたばかる事)などに依ってでも盗む心を老父の目録には書かれている。水月を盗られて勝と云うのも、敵が水月を踏み越えて来たのを知れば、それは我が取ったとして勝べきものなのである。

 「水月の事」以下の文章は、「反り懸り」については石舟斎にも宗矩にも目録に書かれていないが、宗矩の目録に「水月を取られて勝事」と書いてあるものが有る。それを基に云う、と十兵衛が解説しているのでしょう。
 

 

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2021年1月 8日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の46左足積り運び様之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の46左足積り運び様之事

11の46左足積り運び様の事
父云、詰べきと思う心有らば水月を近く積り取るべし。外さんと思うには、水遠く取たるよし。足の運びは何時も後の足の早く寄せ掛くる事専ら也。◯(引?)当流にはからす左足と云う心なり。
亡父の録には何とも無し。
亦云、左足は、浮き立って軽ろき良し。運びは如何にも静かに小足なるよし。大形一尺ばかり程づゝ、拾い歩く心也。下心はつみて、上、静かなるにしくはなし。

 父云、敵に詰めるべきであると思う心が有れば、水月(間合)を近く取るべきである。敵との間合を外そうと思うには、水月を遠く取るのが良い。足の運びは何時でも前足に後ろの足を早く寄せて掛かるのを当然とするのである。◯当流にはカラス足は左足からと云う心である。

 亡父の録には「左足積り運び様の事」について何も書かれていない。
 石舟斎の「没茲味手段口伝書」の「五観之大事」の「佐曾久積位知事(さそくつもるくらいをしること)とあります。さそくは左足で水月を無拍子で静かに越し右足を踏み込んで打つ。その心持は「新陰流截相口伝書亊」の「水月付位を盗む事」で「心法は形無く十方に通貫す、水中の月鏡裏の象」とあります。

 亦云、左足は浮き立って、軽いのが良い。足の運びは如何にも静かで、歩幅は狭い小足が良い。大方一尺ばかり程づつ、拾い歩心地である。下心は充分にして、上の心は静かであるに越した事は無い。

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2021年1月 7日 (木)

辛丑(かのとうし・しんちゅう)

辛丑(かのとうし・しんちゅう)

 令和3年2021年の干支は辛丑、丑年です。
 令和も早いもので3年目を迎えてしまいました。毎年11月初めか12月初めには干支を読むのカテゴリーで翌年の干支を辿っていたのですが、この辛丑の資料を集めていると何だか気が乗らず、「そのうちそのうち」と思いながら、年を越してしまいました。幾ら丑は馬と違ってのんびりしていて諺に「牛の歩み」とあるように、進み具合の遅い事の譬えにされていますから、そんなものかとも思っています。
 遅ればせながら書き出したのは、このブログでもコメントをいただく事もある無銘様から「今年の干支はどうしたの」と、ありがたい事に寝ていた目を覚ましていただけたわけです。 

 気が乗らなかった事を上げると、令和2年を振り返って見れば、地球上で猛威を奮っている新型コロナに翻弄されただけの一年であったとしか言いようがない。
 安倍のマスクを筆頭に結果としてろくでもない事に右往左往するだけで、何ら根本的な事が見えてこなかった。それは、今の日本がどんどん世界から取り残されていく萌しのような印象を受けたとも言えます。
 生活必需品や食料などは高い率で自給すべき事が忘れられている実態を浮き彫りにし。生活に根差した研究開発が著しく遅れて其れは政治にも、あらゆる分野で見られる。たいして役にも立たない自分の城を守っているのが精一杯の印象を受けてしまいます。
 新型コロナが緊急事態であるならば、それを集中的に短期間で解除できる政府の設立による実戦型知能集団組織を作るまでの意気込みもなく、現場任せのお粗末です。やってると云っても他の分野にまで踏み込まない、踏み込ませない組織では意味は無い。

 それでも、何かめぼしい事があるかと辛丑の過去を振り返って見たのですが、60年ごとの歴史の中の一年ですから前後の流れの中に左右されるのは当然ですが、その年の動きの中から歴史上の大きな動きが見いだせない事にも辛丑の年の特徴でもあり興味がわかず気乗りしない事の一つでもありました。

 令和2年は早々から、公共施設の閉鎖などで居合も古流剣術も刀や木刀を自宅で振う、個人稽古になってしまいました。
 勝ち負けを争うスポーツ剣道と違い、仮想敵相手の稽古は、技の習得には大変役に立つのですが、ともすると自分に都合よく切られてくれる相手の想定に陥ります。言い替えれば武術が「かたち」になってしまい「演舞」は出来ても「武術」に至らないのです。
 令和2年は、早々から無双直伝英信流の古伝神傳流秘書から抜刀心持引歌、田宮流歌の伝、無外流百足伝、柳生石舟斎兵法百首、卜伝百首とたてつづけに兵法の古歌を読み漁って稽古不足を、心の修行に置き替えて来ました。
 今年は昨年末から令和3年7月まで柳生新陰流の「月之抄」を読み込んでいます。歌の心と技法が重なり合い、四苦八苦しながら臨んでいる処です。そして多くの気付きも有ります。

   辛丑を境に、今までの之で良いと思う、自らの諸々を見直し新たに一から始めたいと思います。
 年賀状には「萬法帰一」の偈を書きました。

辛丑が終わらない内に干支を読んで見ます。  Dsc07168-3202012246

1、令和3年は十二支は丑(うし、ちゅう)
 日本では牛の年です。十干は辛(かのと、しん)。干支は辛丑(かのとうし、しんちゅう)です。
 辛の文字は「しん、からい、つらい、かのと、からし」で鋭い刃物を描いた象形文字で、刃物でぴりっと刺す事を示す。転じて刺すような痛い感じの意。「辛労、辛気、辛苦、辛抱、辛烈、辛勤、辛酸、」など。辛は薪の原字とも云われる。(藤堂明保著学研漢和大事典より)。収穫の喜びであると共その労働は辛い事を顕わすとも云います。

 丑の文字は「ちゅう、うし、」十二支の二番目、時刻では今の午前2時、及びその前後2時間、方角では北北東、動物では牛に当てる。丑はつかむの原字。手の先を曲げてつかむ形を描いた象形文字。すぼめ引き締める意を含み紐(しめひも、しめてひねる)などの音符となる。手・守と同系の言葉。(藤堂明保著学研漢和大事典より)。手がひどく曲がった姿を示す、植物が地下でなお屈曲して伸びかねている時期を顕わすともあります。

 この様な文字から判断すると辛丑の年は「痛みを伴うつらい事があちこちに起こり得ると同時に、その中から新たな芽生えの息吹が起る年」である様です。コロナが終息できても、そのまま元に戻れるとは言い難い、コロナが猛威を奮っていても新しい事に挑戦していく心構えと実行を要求されているのだと思えて仕方がありません。

2、丑(牛)の諺
 1、丑申高に巳豊年(丑申の年は不作で巳は豊作)
 2、丑の刻参り(午前二時頃のお参り)
 3、草木も眠る丑三つ時
 4、牛売って馬を買う(優れた方に乗り替える事)
 5、牛に引かれて善光寺詣り(偶然善い方に導かれること)
 6、牛の歩み(進み具合が遅い)
 7、牛も千里馬も千里(遅速は有っても結局は同じ所に到達すること)
 8、牛飲馬食(大食い)
 9、牛耳を執る(成り行きを支配する)
10、牛刀を以って鶏を割く(大袈裟な手段を用いること)
11、鶏口となるも牛後となる勿れ(大きなものに随うより小さなものでも頭になった方が良い)

3、丑を詠んだ俳句
  喰ふて寝て牛にならばや桃の花 蕪村
  春風や牛にひかれて善光寺   一茶

  現代俳句には幾つもある様ですが、古いものはこれのみと致します。

4、丑(牛)を祀ってある神社
 菅原道真を祀ってある神社には牛も祀られています。
 湯島天神(東京)
 北野天満宮(京都)
 大宰府天満宮(福岡)
 防府天満宮(山口)
 道明寺天満宮(大阪)などが有名です。

5、辛丑の有名人のうち還暦を迎えられる方々。
 柳葉敏郎・中井貴一・賀来千香子・田原俊彦・藤あや子・松原のぶえ・渡辺徹・哀川翔・三谷幸喜の方々。

6、辛丑の過去
 1961年昭和36年 第二次池田隼人内閣
  貿易自由化、重工業関係300品目
  所得倍増計画初年度
  第二次防衛計画(ミサイル装備強化)
  第二室戸台風

 1901年明治34年 第四次伊藤博文内閣
    伊藤博文日露協定交渉開始
  福沢諭吉没

 1841年天保12年 仁孝天皇 徳川家慶将軍
  幕府天保の改革始まる
  幕府奢侈禁止令

 1781年天明4年 光格天皇 徳川家治将軍
  この春疫病流行

 1721年享保6年 中御門天皇 徳川吉宗将軍
  評定所門前に目安箱設置
  信州浅間山噴火

 1661年寛文4年 後西天皇 徳川家綱将軍
  京都大火禁裏炎上

 1601年慶長6年 後陽成天皇 
  家康大阪城より伏見城に移る
  上杉景勝120万石を米沢30万国に移す

 1541年天文10年 後奈良天皇 足利義晴将軍
     北条氏綱と今川氏輝、甲斐に武田信虎を破る

 1481年文明13年 後土御門天皇 足利義久将軍
  一休宗純没

 1421年応永28年 称光天皇 足利義持
  鎌倉円覚寺火災 飢饉疫病流行

 1361年南朝正平16年 後村上天皇 足利義詮将軍

 1301年正安3年 後二条天皇 執権北条師時
  鎌倉大火

 1241年仁治2年 四条天皇 執権北条泰時
  藤原定家没

 1181年養和元年 安徳天皇 
  平重衡、源頼朝追討 
  義仲越前で通盛を破る

 1121年保安2年 鳥羽天皇

 1061年康平4年 後冷泉天皇

 1001年長保3年 一条天皇
  この頃枕草子なる

 941年天慶4年 朱雀天皇
  海賊の横行
 881年元慶5年 陽成天皇

 以下略す

7、2021年令和3年を夢見て
 新型コロナなどは、前からあるインフルエンザより感染率も死亡者数も低い、マスコミや政府が騒ぐばかりだ、その証拠は若者の感染率も重症化も低い。などと、責任の無い誰かがインターネット上で配信したのを真に受けて、現状対策について否定的な事を云っている人もいる。
 Go to travelよしとして、観光地に密集してこの暮れも正月も所によって若者があふれていた。何の事は無い、暮れから正月を過ぎても相変わらず「感染者数過去最高」の印が一向に消えて来ない。死亡者数も増え続けている。
 テレビなどの公共放送が流す事と、インターネット上に流される事にギャップがあって、自分に都合の良い方を人は取るのは当然なので、テレビの報道は無視して都合の良い方に偏っていくのは、自然の理でしょう。特に若者の様にテレビよりネットの方が優先なのはやむなしです。
 しかし実態は悪化を止めてはいない。

 夢に見るのは、何故日本でコロナのワクチンや治療薬が開発されてこないのだろう、日本製を打ってもらいたい。それほど日本の医療は貧困なのだろうかと悪夢を見ています。

 大学は教育の場で研究開発を主としない。医療薬の会社は決められた調合の薬を作って稼ぐだけ。コストのかかる研究開発などやってられない。医療現場は経験値で治療するだけ。いやそんな事は無い現場はあらゆる知識や情報を駆使して日夜頑張っていると叱られ、「お前がコロナに懸ったら門前払いしてやる」と云われそうです。放り出されればミツヒラに接触したクラスターが出てしまう。
 コロナから垣間見えるどこか変な日本。もう一度根本的な処を見直さないと、どんどん世界から後れを取るだろうな。そんな夢を見ています。 

 地球上で生きる人類一人一人は、国境も、権力者の囲い者でも無い。他国からつまはじきされる理由も無い。特定の権力者に依る国と云う囲いの為に、不利益を受けるなど、あっていいわけはない。今いる場所で自分の力量に応じて平等に生きる権利を与えられているはずなのに。

 

 

  
   

 

 

 

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月之抄を読む11、習之目録之事11の45水後之心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の45水後之心持之事

11の45水後之心持之事
云、是は水月の場を取らば、後ろ広く寛ぎの有る様に取べし。取直しなどする時の為也。立相急なる時、又は狭き処などにて此の心持よし。詰まらば寛げよと云も同じ也。心持色々あるべし。
亡父の録に此の儀これ無し。
亦云、詰まらば寛げよと云は、狭き処にては早く場を取り、後寛げよ也。
云、当たるを許さずと云う心持も、立相になり場を早く取り見れば、片手太刀などにては、とづく(とどく)もの也。
当たらばまづちゃくと打ちて退べし、許すまじき也。水へ入らずして勝気持也。必勝能きもの也。

 この書き出しには、主語が抜けています。誰の教えなのか不明ですが、此処までの項目では老父もしくは父で宗矩の教えでした。
 是は水月の場(敵との間を取る)を取るならば、後ろを広く寛げる様に取るべきである。状況によっては場の取り直しもあるかもしれない為である。敵との立合いが急に起ったならば、狭い所ではこの心持が良いのである。敵との間が詰まるならば寛げよと云うのも同じ事である。心持ち色々あると思うものである。

 亡父の録に此の事は特に記載されていない。

 亦云、敵との間が詰まっているならば、寛げよと云う。是は狭い処では、敵より早く場を取り、後で寛げと云うのである、是では聊か可笑しいものです。寛ぐのは我後ろで無ければ狭い処では難しそうです。敵に大した前では無く後を寛ぐことが出来る場取りの方が、「後ろ広く寛ぎのある様に取るべし」に成でしょう。
 場を取って、敵の打込みを許さないと云う、然し立ち合いともなり、急いで我水月の場取りをしても、片手太刀ならば間を越さず共当たるものである。
 当たる場取りであるならば、まず、ちゃく打込んで直に後ろへ退くべきである。敵の打込みを許さない事である。水月の間に踏み込まずに勝気持である。必らず勝てる能きものである。
 
  ここでは、場取りの際後ろが寛げる位置に着く事。それによっても得られる水月に踏み込まずに勝つ教えと云う事でしょう。

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2021年1月 6日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の44水月之かゝへと云心持之事

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11、習之目録之事
11の44水月之かゝへと云心持之事

11の44水月のかゝへと云心持之事
父云、敵より懸る時は水(水月)をかゝへて、待の内より見る心持也。
亡父の録に理なし。
亦云、是は打にても、待にても、懸るにも、前かたにひかえたる心をかゝゆると云う也ともあり。

 父云、敵より水月を越して懸る時は、「敵より水を取たらば、我取りたるにも同前」であるので、その場で、敵の仕懸けを待の内より見る心持である。仕掛けられて、負けてはならじと突き進んだり、怖気て退いたりせずに、敵の動きを見て色に就き色に随うと云う事でしょう。

 亡父の録に理なし。
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」には前項でも紹介したように「水月・付位をぬすむ事 心法は形無く、十方に通貫す、水中の月鏡裏の象」と記載しています。水月に敵に先んじられた時は「位をぬすむ事」と明瞭です。
「心法は形無く」と云って敵の色をよく見て、「十方に通貫す」どの様な動きにも応じる事を語っている、と思います。
 更に、石舟斎の「没茲味手段口伝書」の「水月活人刀之事」で明らかに、敵の動きに随って勝つ「活人刀」のありようを伝えています。然しそれ等は目録の表題のみで解説が口伝と云う事ですから、十兵衛の云う「亡父の録に理なし」は柳生新陰流を相伝出来なかった宗矩の子としては、当然の言葉だったかも知れません。

 亦云、是は打つにしても、待つにしても、懸るにしても、「前かたにひかえたる心」を「かかゆる」と云う。のですが解ったようで判らない文章です。「前かた」とはで「前方・前肩」と迷い、「ひかえたる心」と「心をかゝゆる」とはと、十兵衛の迷いに誘われてしまいます。
 何れにしても、父云、「敵より懸る時は水をかゝへて、待の内より見る心持」が新陰流の極意なのですから懸かり待つ心により敵の色に就き色に随う事が出来なければ、解る筈もないでしょう。

 

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2021年1月 5日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の43水月之活人刀之事

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11、習之目録之事
11の43水月之活人刀之事

11の43水月之活人刀之事
父云、水月は右同じ殺人刀活人剣と云う事あり。他の流には下段の太刀を殺人刀と云う。新陰には下段の太刀を活人剣と云う。当流には構えたる太刀を殺人刀と云う。構えたる太刀を皆々残らず截断して、構の無き処を構えとして活人剣と用るにより、生る処活人剣なり。
亡父の録には水月の活人刀之事也と書せるなり。
亦云、水の場まで寄りては、如何様にせんもかつべきも、打つべきも、我がまゝに成る心持なれば、扨こそ活人剣と活きたる心持なり。至極面白き心持也。
亦云、水の内へ入らずして活人剣の太刀にて、序を切り掛け勝べしとも書せる。

 父云、水月は前項の様に「敵の身の丈我身の丈三尺の習いの如く積る也」とする間積りである。そこに殺人刀と活人剣と云う事がある。
 他流では下段の太刀を殺人刀と云う。
 新陰流では下段の太刀は活人剣と云う。当流には構える太刀は殺人刀と云う。構える太刀を皆残らず切り捨てて、構えの無い構えとして下段の太刀を活人剣として用いる、それにより生きる処から活人剣である。

 亡父の録には水月の活人刀之事也と目録には書いてある。
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」では「水月・付位をぬすむ事」はありますが、「水月活人刀之事」は石舟斎による「没茲味手段口伝書」に有ります。没茲味手段口伝書も目録に有っても内容は口伝とされていますから、石舟斎に直に指導を受けられなかったであろう十兵衛には宗矩の教えが、夫れと成らざるを得ないでしょう。
 下段の構えは新陰流の無形の構え無きものですから、其処で懸かり待つ心持で敵の懸かりを促し、敵の仕懸けに随って勝ちを取る、宗矩の云う習いに替り無いでしょう。

 亦云、水月の場まで寄っては、どの様にしようと、勝も打つも、我が思いのまゝになる心持ちであるから、それでこそ活人剣であり、活きた太刀の心持ちである。至極面白い心持ちである。
 この事項の書きぶりは、聊か誤解を受けそうです。それは「如何様にせんも、勝べきも、我がまゝに成る心持」が先にあるのではなく、敵の「色に就き色に随う」習いによって「我がまゝに成る」、更にただ、無形で待のではなく、敵の仕懸けを促す待でなければならないのでしょう。

 恐らく、次の「水の内へ入らずして、活人剣の太刀にて、序を切り掛け勝べし」が懸待表裏の下心を暗示させているのでしょう。

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2021年1月 4日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の42水月を敵にとられて勝心持之事

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11、習之目録之事
11の42水月を敵にとられて勝心持之事

11の42水月を敵にとられて勝心持之事
父云、是は敵より水を取たらば、我取りたるも同前なり。直に仕掛けるべし。手字手利剣を敵に遣わせて勝と云うも同意也。
亡父の録には理なし。

 父云、是は敵が間を越して来たならば、それは我が間を越したも同じ事である。直に敵の色に就き色に随って仕懸けるべきものである。手字手利剣を敵に遣わせて勝と云う事とも同じ意味になる。
 石舟斎の目録には理は書かれていない。

 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」に、「水月活人刀之事」が記載されています。水月で待にある時、敵が水月を越して懸って来る、其処を敵の働きに随って勝つものである。ここでは活人剣に依る十文字勝が目に浮かびます。
 石舟斎の「没茲味手段口伝書」」にはこの敵の懸りに応じる「水月活人刀之事」が伝えられています。兵庫助は是を昔の習と云って否定していますが、その心は同じとも思えるし、やや違うとも思えます。
 兵庫助は「水月活人刀と云習は昔の教なり、悪し、重々口伝」で否定して、待つのではなく敵に思う処に懸って来いと誘い其れに随って勝つ心を伝えている様です。

 

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2021年1月 3日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の41水月之事付り其影之事・盗位心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の41水月之事付り其影之事・盗位心持之事
古語云く
心似水中月 形如鏡上影(心水中の月に似たり、形は鏡上の影の如し)
老父云、敵の身の丈我身の丈を、三尺の習の如く積る也。是迠は当たらす(ぬ)しるしなり。此の場を身足にて取り込み、知られざる様に水月の内へ取り込むを盗むと云う也。
水の内へなりては懸ん(けん・かからん)と打つべし。然るによりて、内へ入る事をうつりうつす(移り移す・写り写す・移り写す)と云う心持を専らとするなり。是一◯(円)に当たらざる処なり。
亡父の目録別儀なし。
亦云、敵により背高き低きあるべし。其の丈の程を場へ写し取る心持、其の影と云うなり。
亦云、うつりうつすと云うは、水に影をうつしうつす(移し写す)心をうつり(移り・写り)て見る処専ら也。

 水月についての考え方を解説している項目になりますが、ややこし言い回しです。
古語に云うには「心は水に写る月のようなもので、敵の形影を心の鏡に写しとる様なものである」と始めに述べています。ですから此処は敵の様子は我が心に写すのだと前置きしているのでしょう。

 老父云、敵の身の丈、我身の丈を夫々三尺の間積りの如く積もれば、この間の外に居るならば切られる事は無い印しである。此の場に身足で踏み込み知られない様に間境を越すのを位を盗むと云うのである。水月とは敵と我との間と宗矩は教えている事になります。
 間境を越したならば打ち懸るべきものである。然るにより、間を越す事を心に敵の仕懸けを写すや、身足を移すと云う心持を専らとするのである。三尺の間の外ではいずれでも当たらない間である。

 亡父石舟斎の目録には別儀なし、と云います。石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」には「水月付り位をぬすむ事 心法無影 通貫十方 水中月鏡裏像」と記載されています。単なる間合いを述べるばかりでは無く、心のあり様迄も水月を以て語っています。

 亦云、敵によって背丈の高弟が有るので其の丈がどれ程であるかを場に写し取って其の影により間積りをするのだ。と再び敵と我との間合いに戻されます。

 亦云、うつりうつす(写り移す)と云うのは、心に敵の仕掛けんとする影を写し取ったならば、その仕掛けに応じて我心を移す事。と云うのでしょう。
 月之抄は、大体宗矩の教えを基に紐解いていますが、十兵衛自身の思いは直接語られる事は中々見えないのですが、習いの項目の並べようなどでその心を読みとれば、見えて来ます。中には十兵衛の「朏門集」で十兵衛の言葉で語ってもいますが宗矩の解説の域は越していないと思われます。

 水月について兵庫助の「始終不捨書」では幾つか昔の教え悪しと云っています。
 「水月活人刀と云習は昔の教なり悪し口伝」
 「水月に懸り敵に向て勝つ位悪し是も昔の教也今の位有之口伝」
 「(水月の)前にて勝位善悪二つ有口伝」
 「水月三位之大事 草行真 右重々口伝有之」
 「水月前を待にして内に入れば先々の位好し重々口伝」

 

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2021年1月 2日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の40十二因縁

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11、習之目録之事
11の40十二因縁

11の40十二因縁
無明行識名色六入蝕受愛取有生老死自然と云う事。
自は自性、自は本体、然れば本体は処と云う心ぞ。自は天にも付かず、地にも付かず、独とり立たる物なり。自然は法性なり。草木は人も極まらずに出で来るは自然に似たると譬へたる心ぞ。
例えば其の人に逢いたきと思いたるに心為らず、約束もせざるに行き逢う時、自然に逢いたると云うは自然に似たると云う心ぞ。
魏々万住尊、秋水家々月、彼此の出家児、礼亦不可缺(ふかけつ)、三界唯心万法唯識、是に叶う歌
さびしさに宿をたちいでながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ

この十二因縁も読み下しのみとします。自然の法に興味のある方はご研究下さい。

 

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2021年1月 1日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の39天地之種子之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の39天地之種子之事

11の39天地之種子之事
長文なので現代漢字及び読みを原文にあてて読み進めます。
父云、是の習、難しくして、言い訳難し。和尚に尋ね奉るべきよし也。予、この由を御物語に申せば沢庵大和尚の曰く、是は八識の理を知るべしさに書す。

麻 圓成性  欲知過去因
(ま えんじょうしょう かこのいんをしらんとほっせば)

縄 依他性  見其現在果(じょう よたしょう)(そのげんざいのかをみよ)
蛇 偏計性       (じゃ へんげしょう)

因 善悪の種を植る  欲知未来果   
(いん ぜんあくのたねをうえる みらいのかをしらんとほっせば) 

像 雨露也  見其現在因(しん うろなり)(そのげんざいのいんをみよ)
果 菓のなる処     (か このみのなるところ)

物の色を赤と見、白と見。初めの一念、眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触、知るに付て、初めて起る一念なり。未だ分別生ぜざる時也。
暫らく有て分別が生じ、此の白き物は雪か梅かと分別する所、是意之を第六識と云。眼・耳・鼻・舌・身を前に五識と云う。意識を添えて第六識と云う。
さて雪ではない、梅ぞと決定したる所、是第七識と云う。已七識にて決定し終わって、胸に何も無くなる処を、第八識と云う。身は八識真如と云う。本分の白地なり。
已に本分の白地にして、一法一塵も無しと思へば、又時として彼の初一念の起りし白梅が忽然として胸に出る。是第八識に種子が残る故なり。
一切の善悪の業、此の八識に残りて、八識より出て生死流転するぞ。故に人死する時は、前の五識より死するなり。是を麁識(そしき、あらいしき)と云う。
次に六識の意絶す、次に七識より八識の宜しき処に入る。又輪廻に出る時は、八識より七識に出て、七識より六識の意が生じ五識出て五識より◯足して今日の人(我)なり。
七識、八識をば細識と云う。生ずる時は細より麁(そ、あらい)に出て、死する時は麁より細に入る。人死する時は眼・耳・鼻・舌・身より死する物也。是、識分の沙汰と云う。此の次てに(?)御物語面白さに書する也。

 天地之種子とは何かとの問いに、沢庵和尚が語ったのが此の偈なのでしょう。過去を知りたければ現在を見る、未来を知りたければこれも現在を見る事と云っています。
 胸に何も無くなって八識真如に至っても、善悪の種子の業八識に残り生死流転する。と云うのでしょう。
 是を新陰流の兵法と結び付け、「天地之種子」とは何ぞやは、さて・・。この一文をここに記載した十兵衛三厳の意図には興味はありますが、何れその時が来れば自ずと知れるかも知れません。

 

  

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2020年12月31日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の38背き付けと云心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の38背き付けと云心持之事

11の38背き付けと云心持の事
父云、是は三寸より深くもあれ背きもせよ、だいたいの手字身に取り、心に取てつけるべし。所作は違うとも心持専ら也。

父云、「背き付け」は敵の鎺元三寸(敵の拳)より深く打込む、或いはより浅く打込むのは背くのではあるが、大体の手字(十文字勝)身にも心にも付けて打込むべきものである。所作は深く、或いはより浅く打込むので習いの打込みとは違うけれども、心持ちは習いの通りである。

 三寸より深い、或いは浅いを、習いの十文字に背いている、と読んでおきました。「深くもあれ背きもせよ」を「より深くより浅く」と解したのですが、三尺より深くとも、敵の拳を越し中墨を以て体に斬り付けているかもしれません。しかし、三尺より浅くでは、敵の鍔を打つとか拳に当たらない事も考えると、「背きもせよ」は浅く勝当流の掟に背くのだが、十文字勝の心持ちが為されているならば、良かろうと云った感じもするものです。但し手字は十文字に依る勝口ですから勝ものでなければならないでしょう。

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2020年12月30日 (水)

第37回・38回古伝研究会

 第37回・38回古伝研究会
 無雙神傳英信流居合兵法(無双直伝英信流・夢想神傳流の古伝)の研究会を令和2年7月より再開しています。
 令和3年度37回以降は古伝神傳流秘書による坂橋流之棒を、研究課題とします。当流の棒は土佐に持ち込まれ稽古された形跡は見られますが時と共に変化して、古伝の面影を残すのみの様です。現在では正式に学ぶ所も有りや無しの様です。
「古きを尋ねて新しきを知る」ご参加いただいた方々が夫々「逢人皆我師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。
「俺の指導に従え」と云う「習い稽古する」稽古会とは異なります。古伝を読み参加者が自ら「工夫する」研究会です。
         記
1、第37回
  1月14日(木)見田記念体育館
  15:00~17:00
  1月28日(木)見田記念体育館
  15:00~17:00
2、第38回
     2月11日(木)見田記念体育館
   13:00~17:00
     2 月25日(木)見田記念体育館
     15:00~17:00

3、住所
  見田記念体育館
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
  Tel 0467-24-1415
  鎌倉体育館
  駐車場:鎌倉体育館駐車場
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
  鎌倉警察署向い側
4、アクセス:JR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
5、費用:会場費等割勘つど500円
6、参加申込:直接見田記念体育館にお越し下さい。
  *コロナ対策として事前に参加連絡をお願いしております。
  E-mail sekiun@nifty.com
7、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
      湘南居合道研修会 鎌倉道場

8、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
9、注意事項
  コロナ対策として以下の事項に一つも該当しない事
 ①平熱を越える発熱
 ②咳、喉の痛みなど風の症状
 ③倦怠感、息苦しさ
 ④臭覚や味覚の異常
 ⑤体が重く感じる、疲れやすいなどの症状
 ⑥新型コロナウイルス感染症「陽性」とされた者との濃厚接触があった
 ⑦同居家族や身近な知人に感染が疑われる方が居る
 ⑧過去14日以内に、政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされ
  されている国・地域等への渡航又は当該在住者との濃厚接触がある

 ⑨マスク着用、3密を避ける etc   
 
 2020年12月30日 ミツヒラこと松原昭夫 記

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月之抄を読む11、習之目録之事11の37其道を寒く風体付り右之三寸之心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の37其道を寒く(塞ぐの誤字?)風体付り右之三寸之心持之事

11の37其道を塞ぐ風体付り右の三寸の心持之事

父云、是は、太刀の構により早き処あり、晴眼(青眼、正眼)の構は先早きもの也。三寸へ付て早身を塞ぐべし。早き方をよく合う心あれば、弥(いよいよ)早きもの也。太刀にては付け、無刀ならば寄り添うて塞ぐ心持也。
亡父の録に理なし。

 目録の「其道を寒ぐ風体」は文面から「其道を塞ぐ風体」であろうと思います。
「付けたり右の三寸」は月之抄を読むの11の9の「敵味方両三寸之事」で「敵の太刀先三寸を味方の三寸と云。敵の拳三寸前を敵の三寸と云う。仕掛には味方の三寸へ付け、打時は敵の三寸を打べし。当流には深く勝事を嫌うが故なり。浅く勝て」と有り更に「亡父の録に、拍子乗る時は、鎺元三寸を目付て打也。拍子を取る時は、切先三寸、十文字と懸け取なり。」

 父云、是は、太刀の構によって、青眼の構えは早い打込みに成るので、敵の三寸へ打込み、十文字勝で身を塞ぐべきである。早い方が合い易いならば、いよいよ早く打込むものである。太刀では打込み、無刀ならば敵に寄り添うようにして敵の打込みを塞ぐ心持ちである。

 この項目を読んでいますと、この月之抄は柳生十兵衛三厳の自分の為の覚書の雰囲気です。主語が不明瞭な上に新陰流独特の用語は余程の勉強家で無ければ意味不明でお手上げになりそうです。
 新陰流の意図する事、十兵衛が伝えようとする事、それらは修業する者の力量によっては、読み間違える事も半端な事ではない様です。
 不断の稽古でも、月之抄の語る声を思い出しつつ、打つ打たれて打つ心持ちを一つ一つに心を込める事で、より理解が進むのでしょう。熟練した棒振り演舞では幾年経っても新陰流にはなりそうもありません。

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2020年12月29日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の36角を掛る一つのはしかけの事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の36角を掛る一つのはしかけの事

11の36角を掛る一つのはしかけの事
父云、是は上段の構などと、小太刀にて打んとするに能也。
水月にて、座と大体の手字に身を捻り掛け、一尺をかかえて打べし。太刀連の心持よし。身の捻りを以て一つの外し掛け、角(すみ)を掛くる心持也。
亡父の録に此の儀無し。
亦云、此の習は、遠近の心より手字を抱え掛けて打つ心持也。
亡父の録に見えず、是は秀忠公、御稽古時より、打事を御望みに思し召されしにより、此の習となり。老父より此の形の儀也。

 父云、是は、敵が上段の構などで小太刀にて打たんとするのに良い習いである。
 間境にて、敵が打込んで来るのに、手字に、我身を捻り掛けて、肱を稍々屈めて敵の太刀に連れて十文字勝をするのが良い。我身を捻って敵太刀を外して乗って打ち込む、角掛ける(すみかける)心持である。
 亡父の録には此の儀は無い。
 亦云、此の習いは敵との間積りにより十文字打ちのさい太刀を抱えて打つ心持ちである。
 亡父の録に見えない。
 是は、秀忠公、お稽古の時、相手を打つ事を望まれ、遠近の次第でこの様に抱え掛ける様な習いと、宗矩が進めた。

 この項目の字句の幾つかは、事前に解説されていませんので、全体の文章から想像する事に成りそうです。不断の稽古では勢法の稽古中にしばしば出て来る所作とも言えます。既に月之抄の項目にあった言葉も含み拾い出しておきます「角を掛ける、はしかけ、水月、座、手字、一尺を抱え打つ、太刀連、身の捻り、外し掛。」
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」に「角を掛ける」項目は見当たりませんが、「太刀つれの事」は有ります。敵の太刀に連れる、又は太刀の動きに体も連れる事でしょう。「没茲味手段口伝書」には「角にて關(変わる)拍子之事」として伝授されています。

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2020年12月28日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の35十文字之習之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の35十文字之習之事

11の35十文字之習之事
父云、十文字とは種字の改名也。諸作に取なして云う時此の如し。
亡父録には十文字、太刀十文字也。上太刀にも又受くるにも此の心持也と書。
亦云、身に取り所作に取り、心に取る心持有、諸事付て十文字の心持感ずべし。

 父云、十文字とは種字の改名である。所作のありようを特に云う時、この様に云う如しである。
 亡父の録には十文字、太刀十文字である。上太刀に成る時も、相手太刀の切り込みを受ける時にも此の心持であると書かれている。
 亦云、身に取り、所作に取り、心に取る心持である。諸々の事に就いても十文字の心持を感ずるべきものである。

 十文字に勝つ事は新陰流の極意であり基本的な太刀捌きでもあり、此処で云うように「諸事付て十文字の心持感ずべし」でしょう。

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2020年12月27日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の34敵手字種利剣を遣い懸けさせて勝心持之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の34敵手字種利剣を遣い懸けさせて勝心持之事

11の34敵手字種利剣を遣い懸けさせて勝心持之事
父云、これは敵より手字手利剣を遣い懸くる時、矢張り遣わせて、直に掛るべし。我手字手利剣になるべき也。敵に取られまじきとする事悪し。敵に取らせて置けば、我取たるも同前に成るべき也。
亡父の録には理なし。
*
 父云、これは敵に手の内の目付によって十文字に打込む手字手利剣(手字種利剣)を遣い懸って来る時。矢張り遣わせて、直に懸るべきものである。我が手字手利剣を遣うのである。敵に取られまいとするのは良くない。敵に取らせて置けば、色に就き色に随う事と成り、我が取ったのと同じ事となるべきものである。
石舟斎の録には此の事の理は無い。

 先の習いに依る「懸待有之事」で学んだ事の例題となりました。

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2020年12月26日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の33大体の手字種利剣之仕掛之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の33大体の手字種利剣之仕掛之事

11の33大体の手字種利剣之仕掛之事

父云、これは付掛け、仕掛け候とも、敵の衣文、胸の順を外さづして、仕掛るべし。動き働かざる前より、此の心持、衣の内合わせ〆て衣紋成るを大体の手字と云なり。付けの心持は、立相より手字を外さずして、仕掛けるべし。太刀にても身にても同意也。水通しとて油断無く心得べし。
亡父の録には何も無し。

 手字種利剣は手字は種字で十字、十文字の打込、十文字勝の事。手裏剣は種利剣、手裏見で手の内を見る目付。同じ事を項目内でも項目外でも種々に云い廻すので、「なんだっけ」と前を繰り直してしまいます。
 父云、これは仕掛け、仕掛けるには、敵の衣文(衣紋)、胸の順を外さずに仕掛けるのである、敵の動き目的に向かって打込み出さざる前より、此の心持ちで、衣の内合わせた処と衣紋と合わさる辺りに十文字に打ち込み勝のである。付ける心持は、立ち合うよりその手字を外さず仕掛けるのである。それは太刀でも身でも同じ事である。水を流す様に滞り無く油断無く心掛けるものである。
亡父の録には何も無し。確かに石舟斎の新陰流截相口伝書亊には見当たりません。

 この文章は、解りずらい言い回しで何を言いたいのか文字を拾って読むのでは、忽ち滞ってしまいます。ここでは、十文字に打込む際の仕掛ける位置は「手字」だと云うのでしょう。そこは衣の合わせ、衣紋との間、中墨でしょう。敵の切り込む処を種字に種字に切る、そんな読みをして見たのですが、さてどうでしょう。

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2020年12月25日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の32有無之拍子之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の32有無之拍子之事

11の32有無之拍子之事
父云、是はシュリケン(手利剣・手裏剣)に付ての事也、見様也。目付の動かざる処を能く見て、心懸れば手裏剣の動き能く見ゆるもの也。無を心掛るにより、有の能く見ゆるもの也。
亡父の録には理なし。
亦云、有無之拍子は、有も有、無も有と云う心持、真の位なりと云えり。然れば、有も有、無も有と云う位にて知るべし。是をあげて有無之拍子と云へりと書る。
亦云、有無の拍子と云は、有か無かと敵の目付を見て、有でも無でも仕掛ければ、動き一つに見る也と云う心持専ら也ともあり。
*
 有無之拍子の事は、敵の手の内である手裏剣についての事である。どの様に見るかである。敵の目付が着いている所の動かざる処を能く見る様に心懸れば、手裏剣の動き能く見えるものである。
 亡父の録には理は無い。
  石舟斎の新陰流截相口伝書亊には「有無之調子之事」と記載されています。

 亦云、有無之拍子は、敵の手の内を見て、仕懸けようとするのに応じて打つのが「有も有」、敵が無拍子に入って来るのに応じて打つのが「無も有」と云う心持で真の位であると云うものである。然れば「有も有」、「無も有」と云う位であると知るべきものである。此の事から有無の拍子と云うと書かれている。

 亦云、有無の拍子と云うのは、有か無かと敵の目付けを見て、有でも無でも、此方から仕掛ければ敵はそれに応じて、動く、それを見て随う心持ちを専らとするのである。

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊の「有無之調子之事」では拍子が調子となっています。如何なる状況でも応じられる心持ちを持つのが調子で、如何なる拍子で打ち込まれても応じられる拍子を云う様ですが、宗矩の拍子は調子と同意に用いられているやに読めます。

 

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2020年12月24日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の31十字手裏見之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の31十字手裏見之事

11の31十字手裏見之事
◯(縦5本横5本の井桁)字也(しゅじなり)
古語云く
心随万境轉 轉處実能迷 随流認得性 無㐂亦無憂
(心万境に随って転ず 転ずる処実に能く迷なり 流れに随って性を認得すれば 喜び無く亦憂も無し)
老父云、右の動を細かに仕分けたる心持是なり。三つを勝所、二つは手利剣の見ゆる処を勝也。二つは無き処也二つ。二つは、合う処、付る所有也。越て余したる処は、無なり。種利剣は手の内を見ると云心持なり。種字は敵の太刀打処を十字(しゅじ)になるを云う也。文字を心得るべし。有無の習と云も右の心也。
亡父の目録右に替らず。
亦云、種字と云習の心持、九字の大事とて、真言の秘法にあり。此の九字に一つ入て十字(しゅじ)也。横五つ、縦五つ、十也。とうは十の字十也。さるにより、十字也。十文字にさえ合えば、当たらぬ也。
手裏見(しゅりけん)は手の内也。裏の字に心持あり。理に云、衣の内に里を包むと云心持あり。里は中墨、高上神妙剣なり。心を衣に包みて置となり。心の居処を里と云なり。胸の通りを外すまじきと也。大体の種字の仕掛けと云も、是を以て知るべし。衣文なりを我身に詰(指)仕掛る心持也。有も有、無も有と云心持の事付り、無は有、有は無と云心持ちの事。
又云、是は種利剣を見る心持也。目付動て、打たんとすれば、後はへなりて遅し。さる故に、有は無に成るまでの間を打べし。無は有にても有と心得るべし。目付の心持感味多し。
亡父の録には理なし。
亦云、無は有、有は無と云う心持は目付見へざる処は申すに及ばず。見ゆる処も動かざる処を指して無と云なり。見えざる時は仕掛て見ゆる所を勝。見へてある時は動かざる先を勝と云心持也。何れもかすかなる味多し。

 しゅじなり。
 古語曰く「心万境に随い転ず、転ずる処実に能く迷なり、流れに随って性を認得すれば、喜び無く亦憂いなし。」
 古語の意味は、心は様々な状況に随って転ずる、転ずるままに執着せずに心が自由となり、流れに随って状況に応じられれば、喜びも憂いも無く平常心であろう。
 月之抄では二節目の「転処実能幽」が伝法祖師22祖の摩拏羅(まぬら)尊者の偈なのですが、「幽」の文字が「迷」になっています。状況に応じるのに「迷(まよう)」どうすべきかも迷ってしまうのでは、新陰流にならなくなってしまいそうです。ここは、十兵衛の月之抄を書写した者が誤写したのかも知れません。此処までの月之抄の文面や文字の癖が、江戸時代の誰か特定の能筆に依るものなのか気にはなっています。

 老父云、右の動き(前項の懸待有之事なのか?)を細かに仕分けた心持である。三つを勝所の、二つは手利剣の見ゆる処を勝のである。二つは無き処である。二つは合う処で付る処が有る。
 越して余した所は無い。種利剣は、手の内を見ると云う心持ちである。種字は、敵が太刀を打って来る処を十字に上太刀になって勝のを云うのである。十文字の文字を心得る事。有無の習と云うのも右の心である。
「三つを勝所」の三つが原文では「二つは手利剣(手の内)の見ゆる処を勝」、「二つは無き処」、「二つは合う処」と、原文は「二川」と書いて「二つ」と読むことになります。「二つ」が三つあったのでは「三つを勝所」が「六つを勝所」になってしまいます。恐らく「一つ」「一川」の誤記でしょう。

 一つ目は敵之手の内の動きを見る。二つ目は無き処とは「越して余した所は無い」、我身へ当たらない処でしょうが解説が見られません。、三つ目の「合う処」とは種字で十文字勝でしょう。

 亡父の目録では右に替らない。
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」にはこの「しゅ(縦五本横五本の井桁文字、十、手)字手裡見」として記載されています。なお兵庫助の「始終不捨書」では「種利修理剣の習昔の教悪し。今はシュリケンノシュジと云う習之在。重々口伝。」と有ります。石舟斎の教えを強調して手利剣は敵の手の内をしっかり見て十文字勝をするとしています。

 亦云、種字と云習の心持、九字の大事と云って、真言の秘法に九字護身法と云って「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字を唱え印を切り除災戦勝を祈る呪文が有る。この九字に一字入れて十字である。横五つ、縦五つで十である。トウはジュウの字で十である。そこで十字である。敵の打込みに我打込み十文字に合えば、敵の太刀は当たらないのである。
真言密教の九字に一字加えて十字(種字)、十文字勝の謂れを語っています。


 手裏見は手の内である。裏の字には心持の理が有る。衣の裡に里を包むと云う心持で、里は中墨、高上、神妙剣である。心を衣に包んで置くのである。心の居所を里と云うのである。胸通り外してはならないのであって、大体の種字の仕掛と云うも、是を以て知るべきである。衣文なりを我身に詰仕掛ける心持ちである。有も有、無も有と云心持之事、付けたり無は有、有は無と云心持之事。
 十文字勝は敵の手の内から打ち込む色に就け色に随って、衣文なりの胸通り中墨に打込む心持ちを述べています。

 又云、是は種利剣を見る心持である。敵の目付動いて打たんとすれば、後になってしまい遅いのである。そこで、有は無に成るまでの間を打つべきである。無は有、有も有と心得るべきものである。目付之心持感味多し。

 亡父の録には理なし。
 
 亦云、無は有、有は無と云う心持は、目付の見えざる処は申すに及ばず、見える処も動かそうとする処を指して無と云うのである。見えない時は仕掛けて見て、見える其の処を勝。見えている時は、動かそうとする先を勝と云う心持ちである。何れもかすかな味多し。


 

 

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2020年12月23日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の30懸待有之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の30懸待有之事

11の30懸待有之事
老父云、此の三つを専らとす。身足は懸、太刀の手は待、敵目付の動を有と云。此の有を我手に待たする事肝要也。懸々に非ず、待々に非ず。懸は心持にあり。待は心懸にあり。此の心持を専らとして表裏も是より出る也。三尺より前にての分別也。三尺迠至りては懸々と勝べき也。此の習を専らとする事、当流の第一也。

懸かりは其の序破急有り。懸らざる前は序也、掛る内は破也。敵の合せ打相(打合)時は急なり。此仕懸心に思うべし、打つに打たれ打たれて勝と思う心、残心の心を専らとして、是にて太刀表裏仕懸に右の習を能々取り出す心持ち肝要也。敵の動き一つを知らんためなり。是兵法を知らざる者大略之儀は知るゝもの也。大方の此也。是に漏れたる事無の者也。当流の心の無き者は、此の分にて究め、是を極意と相定めるなり。

亡父の録には懸待有之事付り一尺の子細之事極意口伝と書せる。
亦云、有と云に、動きの内に心を定まって、切らんと思う時の動きは、一きわ
替り常の動きに非ず。是を有と心得るべし、細かなる味也。

父云、右の心持を知りたるもの、動きを三つに分け、其の上をする習、種字種利剣也知らざる者には要らざる也。
亦云、不断身足は懸、手は不断待也、有は種利剣也。有を我が手にまたする也、切掛けを急とも云、仕掛の心持は、何れも懸と云て苦しからず。無理に仕懸る習、口伝と書も有。
*
 老父云、此の三つ(懸・待・有)を新陰流は基本の考え方とする。身足は「懸」、太刀の手は「待」、敵の目付の動きを「有」と云。此の「有」を我が太刀持つ手に、「待たす」事が肝要なのである。
 懸、懸に非ず。待、待に非ず。懸は心持に有り。待は心懸(心掛け)に有り。この心持を専らとして「表裏」も是より出るのである。太刀間三尺より前での分別である。三尺に至っては懸々と勝べきものである。此の習いを専らとする事、当流の第一である。
「表裏」とは月之抄の後半に出て来ますがここではさわりだけ「父云、表裏は隠し、謀る心也。偽りなり。・・方便の道、武略」


 懸かりには、その動きに「序・破・急」が有る。懸らざる前は「序」である。掛かる(懸る)内は「破」である。敵に合わせ打ち合う時は「急」である。此の仕懸心について思う事は、「打つに打たれ、打たれて勝と思う心、残心の心を専らとする」。是によって太刀の表裏の仕懸けに、右の習い(懸・待・有)を能々取り出す心持肝要である。

 敵の動きが何であるか、その一つを知ろうとするためのものである。此の事は兵法を知らない者でも、大略の事は知っているものである。大方の事はこの様なものである。是に漏れている事は無いのである。当流の心の無い者は、この分に究めてしまい、是を極意と相定めるのである。

 亡父の録には懸待有之事付り一尺に仔細之事、極意口伝と書いてある。
 亦云、有と云うことで、動きの内に心が定まって、切ろうと思う時の動きは、一きわ替り、常の動きではない。是を有と心得るべきものである、と云う、細かなる味である。
 石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」には「懸待有之事」と明記されています。その元となるものは上泉伊勢守より相伝した「新陰流影目録」を指しているかもしれませんが「付り」の一尺に仔細之事が見られません。陰目録の燕飛の一節を原文のまま引用させていただきます。(柳生厳長著正傳新陰流より)
「懸待表裏者不守一隅 随敵轉変施一重手段 恰如見風使帆 見兎放鷹 以懸為懸以待為待者常事也 懸非懸待非待 懸者意在待 待者意懸」

 父云、懸待有之事の心持を知りたる者、動きを三つに分けているが、その上をする者は種字種利剣である。懸待有之事を知らざる者には要らないものである。
   亦云、不断身足は懸、手は不断待である。有は種利剣である。有を我が手に待たすのである。切掛を懸とも云う、仕懸の心持は何れも懸と云って苦しくない。無理に仕懸る習いの心持ちは口伝と書もあり。
 種利手裏剣の習いは次回に「十字手裏見之事」で解説されています。

 今回も含め、新陰流の極意とする処の用語が解説されています。文字によって解りやすくするよりも、袋竹刀を以ての実技から自得すべき事柄が懸待有之事と認識し、常の稽古に臨めばすらすらと解けるかもしれません。
 竹刀剣道や他の武術を稽古して来た者が、新陰流も形だから、初心の内に「かたち」を順番通り覚えてから、とやかく言ったりやったりすべきと嘯いています。
 「かたち」通りにやる前に初心者には兵庫助の始終不捨書の十問十答之事「初心には初より巧者の如く能く直す事悪し。先ず成り次第に十禁十好之習を癖にさせ手足を動かし、心のかたまる所を見付け直すべし。」と。
 幼少から新陰流を学ぶ子には、つべこべ言わず、袋竹刀を以てどんどん懸らせるべきものでしょう。その中で懸待有を自ずと認識できるようにして行けば、棒振り遊戯がいつの間にか剣術に成る筈です。但し忘れてはならない事は、「今何をしようとするのか」の目的は初めに明示すべきでしょう。其の為の「成り次第」は指導者が常に心掛け見られているとしても怠るべきでは無いと思います。

 



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2020年12月22日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の29分目之目付之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の29分目之目付之事

11の29分目之目付之事
父云、両の拳の間、柄也。車の太刀自然片手にて打出す其の時、身外さるゝ故に是を用いる也。
亡父の録には何ともなし。
家光公御工夫之御心持には、左右共に出したる方の拳を心掛くれば、身
外さずして早く見え良き心持あり、との御諚諚(おおせ)也。
亦云、太刀先後へ行き、構に分け打と云心持有。是は太刀の有る方へ仕掛見れば、目付より敵の身近き処ありべし、夫れを片手にて打て引取心持也。仕懸の心深く打つ処浅し。

 父云、分目之目付は両の拳の間、柄である。車の太刀の時、自然に片手にて打出すその時、敵の太刀先が、我が身から離れている構え(上段・下段・八相・車の構)に対して此の分目之目付を用いるのである。
 亡父石舟斎の録には何とも云っていない。
 新陰流截相口伝書事に「身を離る目付分目搦の事」と記載されています。分目之目付は両拳の間、柄頭、搦之目付は両の肘の外となります。
 家光公の御工夫による心持は、左右共(左右の拳)に出したる方の拳に目付を心掛けるならば、身を外さなくとも早く見えやすい心持ちである。との御諚である。
 亦云、太刀先後へ行き、身を離れる構えに、分け打ちと云う心持(片手打ち?)が有る。是は太刀の有る方に(太刀を持つ拳へ)仕掛けるならば、目付よりも敵の身近い処に太刀先が有って、それを片手で打って退くのが良く、仕懸けの心持は深く打たず浅く打つ事である。

 「亡父の録には何ともなし」宗矩は柳生新陰流の相伝印可はされていなくとも、目録は受けていたか、当然のことでしょうが口伝口授はあり得るでしょう。但し、目録の内容は石舟斎は記載しないので「何ともなし」となっても仕方のない事です。極意の事を秘す事の意味がどれだけ重要であったか当時の状況から推し測って見ても実感できません。然し、徳川政権後急速に国内の戦争は無くなり、兵法の活躍する場面も薄れて行とすれば、目録ばかりでは、当流の真髄は伝承しずらいものです。石舟斎の「新陰流截相口伝書事」ですら三代目の兵庫助の「始終不捨書」によって崩されています。
 月之抄によって柳生新陰流の真髄に触れたとしても、尾張柳生と江戸柳生では形呼称は同じでもズレが出ていた筈です、現代はさらに・・とも思えるものです。
 


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2020年12月21日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の28搦之目付之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の28搦之目付之事

11の28搦之目付之事
父云、上段の太刀によし、両の肘なり。其の動き打たんとすれば良き処へ行く也。肘より早く動くにより専らとする也。
亡父の録には搦目付之事、付けたり身を離上段の者に良しと書る。
亦云、両の肘を一つに搦めて見る心持なり。折るゝ処を屈み掛けて打懸けしと書す。

 父云、搦の目付は上段の太刀に良い、目付は敵の両の肘である。其の動きは我を打とうとすれば、打つ処を狙って動くのである。肘が先に動くので搦之目付を専らとするのである。
 亡父の録には、搦目付之事とあり、付けたりとして、切先が我が方に向かずに、身を離した上段の者に遣いよいと書いてある。
 亦云、敵の両の肘を一つに搦めて見る心持である。肘の折れる処を、屈み懸けに打懸けろと書かれている。

 是迄の習いよりも、具体的な兵法の心得の様に思えます。敵の肘の動きで打たんとする様子を見て、「折るゝ処を屈み掛けて打懸けし」と具体的です。
 老父の録は何か記述されていませんが、この搦之目付については石舟斎の「新陰流截相口伝書事」では「身離目付分目搦之事」と有ります。ここで云う「身離」とは切先が我が方に向かず離れている構、上段・八相・車の構えの事でしょう。「搦」は敵の肘ですから、先の習いの「嶺谷」と同じ所への目付とも言えそうです。敢えて「搦(からめる)」の文字を使っている事から別に其の位置を特定すれば、十兵衛の朏門集(今村嘉雄著 史料柳生新陰流より)では「ひじのからみのそと、嶺谷の裏也」としています。

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2020年12月20日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の27風水の音を聞事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の27風水の音を聞事

11の27風水の音を聞事
父云、此の習は、三尺より前にては、如何にも心を沈め(鎮め)、風の音も聞く、水の流れ迄も絶々聞く程の心を付けよと云う心持なり。只習を粗略に思う故に、勝亊成り難きもの也。然るより習を能くさせて、忘れまじき為に、兵法の習の法度にも用る也。
亡父の録には何もなし。
亦云、如何にも上を静かに下心如何にも速し、古語に云、細雨湿衣看不見閑花落地聞無声(細雨衣を湿(うるおし)看るに見えず、閑花地に落ちて聞くに声無し)。此の句の心にて醍醐のじゃくじょうたに(寂静谷)にてそそき発句に「藤花の音を聞く程の山かな」
至極静か成る心持なり、風水の音を聞と云習に、此の語を沢庵大和尚の取り合わせ給うなり。

 父云、この「風水の音を聞」習は、前回の事項「太刀間三尺」に踏み込む前では、如何にも(何としても)心を鎮め、風の音も聞く、水の流れ迄も絶々に聞く程の心を付けよと云う心持ちになると云う事である。そうであっても、習いを粗略に思うのでは、勝つ事は成り難いものである。そうであるので、習いを能く身に付け忘れない様にして、兵法の習いの法度にするのである。
 亡父の録には何もない。
 亦云う、如何にも表面上は静かに、下心如何にも速し。古語に云、「霧雨がいつのまにか衣をしっとりさせるのだが、その様子は見ていても定かに見えない。しとやかに咲く花が地に落ちてもその音も聞こえない」。この句の心を醍醐の静かで寂しげな谷間で、たちまち発句した「藤花の音を聞く程の山かな」。至極静かなな心持ちである。風水の音を聞くと云う習いに、この語(風水の音を聞く)を沢庵大和尚が名付け給うたのである。
 
 三尺の間に入る前に心を鎮めて敵の為さんとする仕掛けを聞く心を習いとする、と云うのでしょう。但し表面は静かでも、敵の仕懸ける心を見抜いて下心は速やかにせよと云っています。
 亡父石舟斎の録には何も無い、と云っていますが「新陰流截相口伝書事」には「風水音を知る事」として明らかに記入されています。当然その心は口伝されている筈です。敢えて言えば目録に表題は有るが解説が附されていないと云うのかも知れません。
 風水の音を聞くには、ただ静かに聞き耳を立てていても聞こえる訳などない。既に月之抄で習った目付二星・嶺谷・遠山。三見の太刀先、二見るの敵の懸待表裏によって、色に就き色に随う下心を養う事を疎かにしてはならないでしょう。

 此方から誘い、仕掛けて敵を動かしそこを勝、先々の先は尾張柳生の兵庫助の教えともなっています。「始終不捨書」にある「風水の音を知る習」に石舟斎や宗矩の教えに一歩加えています。

 「風水の音を聞く」と云う、習いの語句が沢庵によるものかは、知らない。この月之抄の文面から感じ取ったばかりです。それほど、沢庵と宗矩や十兵衛との関係は深かったとも思えるのです。
 

 

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2020年12月19日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の26太刀間三尺之積之事

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11、習之目録之事
11の26太刀間三尺之積之事

11の26太刀間三尺之積之事
父云、我足先より、敵の足先迠の間三尺迠寄る事を専とする。三尺の太刀にては、届くものなり。三尺の内の太刀にては当たらぬもの也。夫れ迠寄らざる間にて、手立て習を以てすべし。三尺へ寄りては、無理にも打也。此の心持を習とする也。
亡父の目録には何ともなし。
亦云、場の三尺は右のごとし。身の掛り三尺と云心持あり。三尺に三尺合せて六尺の積り心持ち也と書す。
亦云、太刀に三尺鑓に一尺と云心持あり。是は太刀は大形(大方)三尺より外は伸びず。鑓は大形(大方)一尺より外は伸びざる心持也。
*
  父云、我足先より敵の足先までの間、三尺まで寄る事を専らとする。三尺の太刀では届くものである。三尺より短い太刀ならば当たらないものである。その双方の足先三尺まで寄らない間にどの様な手立てで打つのか習いを整えて置く事。三尺の間に寄ったならば無理であっても打込むのである。この心持を習いとするのである。

 亡父の目録には何とも無し。石舟斎の目録には何にも書かれていない。と云うのですが新陰流截相口伝書事には「太刀間三尺之事」と書き込まれています。その解説は口伝とする事から文字にはなっていません。無刀なれば敵相三尺までは当たらない間と伝えられています。

 亦云、無刀の場の三尺は右に書いた。身の掛り三尺と云う心持ちであるが、吾と敵、三尺に三尺を合わせれば六尺になる。其の間積りの心持と書かれている。

 亦云、太刀にて三尺、鑓にて一尺と云心持がある、是は太刀は大方三尺より遠くへは伸びる事は無い。この場合は昔の石舟斎の「身懸五箇之大事」の姿勢での事ですから、尾張柳生の兵庫助の「直立ったる身」では、三尺以上太刀は伸びて来るので不可だとされています。鑓は一尺以上は伸びる事は無い心持ちであると鑓は太刀より伸びるので要注意と云うのです。
 江戸時代には太刀の長さは2尺3寸5分を定寸としたはずですから、間積りはこんな所でいいかな、という処でしょう。

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2020年12月18日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の25残心之事

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11、習之目録之事
11の25残心之事

11の25残心之事
父云、文字あらば也。三重も五重も心を残すべし。勝ちたりとも、打ち外したりとも、取りたりとも、退くにも、掛かるにも、身にても、少しも目付に油断なく心を残し置く事第一也。
亡父の目録には理なし。
亦云、残心の事、二つの目近く急ぐまじき事と書せるあり。
亦云、色を捨て、二つに付くと云心持も、後太刀を思ふ心なり。諸事に付け面白き心持也。

 父云、文字が有るから述べるが、三重も五重も心を残すものである。それは勝った時でも、打ち損じた時でも、無刀取りで敵の太刀を取った時でも、退くにも掛かるにも、少しも目付に油断無く「心を残し置く」事が第一である。
 亡父の目録には此の理は無い。
 亦云、残心の事、二つの目近いのだから急ぐ必要も無い、と書かれている。
 亦云、打ち勝とうと気ばかり先んじないで、二つに付くと云う心持ちも、後(あと)太刀を思う心である。諸事に付け面白き心持ちである。

 残心之事とは心を残す事と云うのですが、そのまま受け取れば、打ち込めても、外されても心を残せ、諸事に心を残すのだと云うのです。所作の後の目付に少しの油断無く心を残して置く、これから掛かる時にも心を残して置く。それはそれなりに、敵の反撃や己のしくじりの取り返しは意とすべきものです。
心を残すのは、後(あと)太刀を思へとも語られています。ここが残心のポイントの様です。
 
 それにつけても、「二つ目近く急ぐまじき事」と次の「色を捨て二つに付くと云心持」は上滑りに読んだだけでは意味が読み取れません。参考になる口伝の覚書は捜せば有るかとも思います。
 しかしこの文章表現から十兵衛の思いを汲み取るのには、乗っけから「文字あらば也」に悩まされ何を意味しているのか解らない。口授や観取りによって心に感じるべきもので、文字で表現すべきものでは無い、と云っている気もさせられます。
 また一つは既に読んで来た「二目遣之事」で敵の目の付け所、今一つは「二見之事」敵の懸待の二つ、其処から色に就き色に随い応じていく事が残心と読んで見ました。

 石舟斎の新陰流截相口伝書事には「残心之事」の目録は「身位三重付り残心之事」を記述していますし、没茲味手段口伝書でも「三重五重之事」で再度、残心の心持ちを記述しています。その心は、「一刀の切り込みに終わらず、敵の色に随って三重にも五重にも続けて打つ心」それを残心と云う。
 月之抄で云う「亡父の録には理なし」と有りますが、この様に記述されています。石舟斎は目録にはその意味する所は記さない事を良しとしています。口伝、口授、により手取り足取り教えた事を目録に其の表題を書き置くばかりです。それを十兵衛は「理なし」としたのかも知れません。父宗矩はこの目録に自論を加えているようです。

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2020年12月17日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の24小太刀二寸五分之外之事

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11、習之目録之事
11の24小太刀二寸五分之外之事

11の24小太刀二寸五分之外之事
老父云、小太刀の鍔二寸五分(約7.6cm)あれば鍔こそ外れ、我が握りたる拳も二寸五分なり。夫れを我が顔の楯になし、我が小太刀の先を敵の顔へ差し付け、直なる身にて仕懸ければ、当たらぬものなり。夫れにより其の積り専一とす。
亡父の録に、小太刀二寸五分之迦(はずし)の事と書るあり。
亦云、拳を握りて見れば二寸五分、立つ(縦)もよこ(横)もあり。是を我が目通りに差し当て、右の肩に隠し付けて、太刀の反りより目付を見て、身を直に待ち懸れば、敵の打った刀脇へ外れ我身に当たらざる也。拳一つにて身の楯となれば鍔を用うべしと書る。
*
 老父云、小太刀の鍔二寸五分あれば、敵の打つ太刀は鍔を外れ、我が柄を握りたる拳も二寸五分である。鍔を我が顔の楯にして、我が太刀の先を敵の顔へ差し付け、直ぐなる(歪の無い)身を以て仕懸けるならば、敵の太刀当たらぬものである。それにより其の心積り第一とするのである。
 此処での「直なる身」は尾張柳生の兵庫助の「直立ったる身」とは違い、低く身構えた姿を云うのでしょう。石舟斎の「身懸五箇之大事」によると思われます。

 亡父の録に、小太刀二寸五分の迦(外し)の事と書いてある。

 亦云、拳を握って見れば二寸五分で縦横もある。是を我が目通りに差し当て、鍔が刀で隠れて見えない様に、右肩へ隠し付けて、太刀の反りより目付を見て、身を直に待ち懸れば、敵の打った刀は脇へ外れ、我身に当たらないのである。拳一つの事で我が身の楯となるのであれば、鍔は用いるべきものであると書いてある。
 
 防禦の形を重要視した構えであるので、石舟斎の新陰流截相口伝書事の冒頭の「身懸五箇之大事」の姿勢を思い出します。「身を一重に成すべき事・敵のこぶし吾が肩にくらぶべき事・身を沈にして吾が拳を楯にしてさげざる事・身をかかりさきの膝に身をもたせ跡のえびらをひらく事・左のひじをかがめざる事」でした。
 兵庫助の始終不捨書では「身之懸五箇を昔の教の如く前にて作は悪し。身堅まりつまる故也。今は前を豊にして敵に逢て勝口の時、五箇の心持好し」としています。


 

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2020年12月16日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の23小太刀一尺五寸之外之事

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11、習之目録之事
11の23小太刀一尺五寸之外之事

11の23小太刀一尺五寸之外之事
老父云、当流の小太刀は三尺の刀を半分にして、一尺五寸の小太刀也。此の小太刀、三尺の刀と同じ様に成る所を云う。我身左右の肩先一尺五寸の端と定める也。切に随いて其の身を外せば、小太刀敵の首へ当たるものなり。三尺の太刀も同じ事なり。九尺柄の鑓も三尺の刀と等しくなる心持なり。此の心持を以て兵法を遣い候へば、小太刀にても勝つと云う心持を専らとするなり。
亡父の目録に小太刀一尺五寸かくし事、付けたり替り身の事と書せる。
又云、替り身とは左を出して右を替り、右を出して左へ替る心持なり。太刀にて外しと云は、其太刀程の外しの心持なり、手にて外すも其手程の外しの心持なり。
又云、表裏を懸け見るに、敵の志し色に付き身に付くかと見分け、弾みと拍子さへ合えば一尺五寸も之無しと書くもあり。
亦云、身近く詰合をば、一尺五寸之外しは、取り廻し、避け外し成らぬもの也、然るにより一尺五寸小太刀なり。是を以て三尺の太刀同前に遣うと云うは、我が左右の肩の間一尺五寸有る也。是を外し懸け打つにより一尺五寸の小太刀と身の伸び一尺五寸と合わせて三尺に成るが故なり。身の開一尺五寸あればなり。太刀にて外す時も、其の心は同じ。然れども太刀にては其の太刀程の外しの積り、手にては其の手程の外しなり。

 老父云、当流の小太刀は三尺の刀の半分で、一尺五寸の小太刀である。この小太刀を以て三尺の刀と同じ様に成る事を云うのである。我身の左右の両肩先一尺五寸の長さと定めるのである。敵が切って来るのに随ってその身を外せば、小太刀は敵の首に当たるものである。随って三尺の太刀とも同じ事である。九尺柄の鑓も三尺の刀と同じ様に身を外せば成る心持である。
 心持を以て兵法を遣うのであれば、小太刀にても勝つと云う心持を専らとする事になる。
 亡父の目録には小太刀一尺五寸の隠し事、付けたり替り身の事と書してある。
 又云、替り身と云うのは、左入り身を右入り身に替り、右を出して左入り身に替る心持である。太刀にて外しと云うは、其の太刀程の外しであり、手に依る外しも其の手程の外しの心持ちである。
 又云、表裏を仕掛けて見るに、敵の思いは色に付き身に付くかと見分けて、打込む弾みと拍子さへ合うならば、一尺五寸の小太刀も無くとも敵太刀を当たらない様に外せば良いと書くのも有る。
 亦云、敵と身近く詰め合う時は、一尺五寸の外しは、取り廻し、避け外しは出来ないものである。然るに依って一尺五寸の小太刀で、是を以て三尺の太刀と同じ様に遣うと云うのは、我が肩の間一尺五寸有る。是を外して懸け打つ事で一尺五寸の小太刀と我が身の伸び一尺五寸、合わせて三尺となるのである。それ故、身の開き一尺五寸あればよいのである。太刀にて外す時も、其の心持ちは同じである。然れども、太刀では太刀の長さの外し、手では手の長さの外しである。

 石舟斎の新陰流截相口伝書「小太刀一尺五寸迦(はずし)の事」と有ります。老父云う処が口伝とされるのでしょう。

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2020年12月15日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の22太刀連の事

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11、習之目録之事
11の22太刀連の事

11の22太刀連の事

父云、敵強く打込むものによし。敵の打つに連れて我が太刀も連れ懸けて打つを云う。越拍子に打と心得るべし。
亦云、三尺外にて打つべし。同じ如くに開けて同じ如くに打ちつくる時、越拍子に成る心持也。
大打ちするものには、何れも此の心持よし共書く。

 父云、敵が強く打込むものに良い。敵の打つに連れて我が太刀も、敵の打込みに連れ懸けて打つを云う。越す拍子に打つと心得るものである。
 亦云、間積り三尺の外にて打つのである。同じ様に間を取って同じ様に打ち突く時、越す拍子になるものである。
 大きく打って来る者には、何れもこの太刀連れによる越拍子の心持ちが良い、とも書かれている。

 新陰流截相口伝書事「太刀づれの事」では敵の太刀に連れ随う事、更に打込む太刀に身も随う事と解説されています。(柳生延春著 柳生新陰流道眼)

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2020年12月14日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の21先段之打之事

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11、習之目録之事
11の21先段之打之事付り二葉之心持

11の21先段之打之事付り二葉之心持
父云、先段の打は、二葉と云う心持ち也。打込み並ぶ(うちゆみならぶ?)事悪しきにより、太刀先を外して、二星を我が太刀にて打つ心なり。太刀先並ばざる事を先段(栴檀)と云。鑓も同じ事也。
亦云、先段とは一打ち打ちて、後ろへくつろぐる(寛ぐる)心、身へ当たらぬ心となり。二葉は本は一つ、一つは二星なり。身の掛かりを、敵の太刀と分かって打つなり。片手太刀専らよし。
亦云、頭書きの録に先段の打之事、付けたり身位心持と書あり。
亦云、手と身と分るゝを二葉と知れ。先段(栴檀)は、二星と知るべし。然るにより、先段(栴檀)の心持二葉と云ともあり。

 父云、先段の打は、「栴檀は二葉より芳し」の二葉と云う心持ちである。打込み敵と太刀が並ぶ事は悪しきにより、敵の太刀先を外して敵の二星(拳)を太刀にて打つ心である。敵と我の太刀先が並ばない事を先段(栴檀)と云。鑓も同じ事である。
 亦云、先段と云うのは一打ち打ちて、後ろへ退く心、身へ当たらない心持ちである。二葉は本は一つであり、一つは二星(拳)である。身の掛りを敵の太刀と分かって打つのである。片手太刀が専ら良い。
 亦云、頭書きの録に、先段の打の事。付けたり身位の心持であると書かれている。
 亦云、手と身と分るゝを二葉と知れ、先段(栴檀)は二星(拳)と知るものである。そうであるから先段(栴檀)の心持は二葉と云うとも云う。

 この項目は謎々みたいだが、何となく理解出来るか、言葉に捉われると意味不明になってしまいます。「敵の打ち込んで来る切先を外して敵の拳を打つ」勢法の中に幾つかそれらしきものが有ると思います。敵と我の太刀が打込みの際に並んだのでは双方相打ちとなりそうです。

 

 

 



 

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2020年12月13日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の20別れてうつると云心持之事

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11、習之目録之事
11の20別れて写ると云う心持之事

11の20別れて写ると云う心持之事

父云、遠近の心なり。所作、太刀、身、彼らに別るべし。心は目付に写すべし。
亦云、外し飛び違いなどする時、用いるべし也。下心軽ろく早く写すべし。上はゆるゆるぬるやかなり。仕掛け心持也。

 父云、遠近の心である。所作、太刀、身、それらに別れるのである。心は目付に写すのである。
   亦云、遠近之事で、外し飛び違いなどをする時に、「別れて写る」心持を用いるのである。下心は軽やかに早く目付に写し。上は緩々温やかにして、仕掛ける心持である。

 「別れてうつる」の「うつる」の意味をどの様に捉えるかで、頭をひねってしまいます。「心は目付にうつすべし」から「写す」の文字を置きましたが「移す」でも用は足りそうです。
 前項の「遠近之事」を受けた習いですから、此処は敵との間合いを角懸けて外し遠くを近くに変えるに当たっての「心持」の事になります。所作・太刀・身を残して下心を速やかに写し、敵にはゆっくりと見える様に仕掛ける心持と云うのでしょう。それは左足を隅懸ける動作に依って生み出すものなのでしょう。

  

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2020年12月12日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の19遠近之事

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11、習之目録之事
11の19遠近之事

11の19遠近之事

父云、敵懸に掛り細かにテウテウ(チョウチョウ)と打掛かるものに、角(すみ)を懸け一足跳び退きたるよし、跳び退きて近くなり懸るより遠近と云。
亡父の録には遠近の位拍子付けたり大拍子の小拍子小拍子昌歌の事と書せる。
亦云、遠近之位を知る大事、付けたり拍子合う時は遠く拍子合て近しとも書く。
亦云、楽に位詰を働かぬ時、又急に仕懸け来るものに遠近の文字分別也と書く。
亦云、位を余し近く成る心持、遠近と知るべしとも書かる。
亦云、所作を遠く遠きは心近し。半分の身遠くして半分の身近し。左足角(すみ)を掛けて飛びのく也。是、遠近に用を取り左足積りなり。詰まりたる処の心持なりとも書せる也。

 父云、敵が懸かりに掛かり、細かに丁々と打ち掛かる者に、角を懸け(脇へ)一足跳び退くのが良い。跳び退くと敵と近くなるので遠近と云う。
  亡父の録には遠近の位の拍子付けたり、大拍子小拍子昌歌と書してある。
  亦云、遠近の位を知るのは大事である。付けたり拍子合う時は遠く、拍子合いて近しとも書く。
  亦云、楽に位詰めが出来ない時、又、急に仕懸けて来るものには遠近の文字を分別するのだと書く。
  亦云、位を余して近くなる心持は、遠近と知るべきとも書いてある。
  亦云、所作は遠く、遠い時は心は近く持つ事。半分の身遠くして、半分の身は近く、左足を角掛けて跳び退くのである。是は、遠きに近く、近くに遠きなる用をなす左足積りである。詰まりたる心持ちとも書かれているのである。

 石舟斎の「新陰流截相口伝書事」では遠近之事で目録に記載されています。三学などの二の斬りで角(隅)懸ける裁きを習うはずですが意味が解らないのか、打太刀なのに隙だらけでついつい否打したくなって「いたずらっ子」呼ばわりされています。
 兵庫助の始終不捨書では「遠近之位昔の教悪し。今の習いに重々口伝有之」と有ります。
 教えを忠実に守ろうとすればその意味を充分理解して、場に会うように懸らなければ、敵の攻めを角懸けて外す事ばかりに苦慮して打たれてしまいそうです、近くを近く遠きを遠く応じる事も一考と云うのでしょう。

 

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2020年12月11日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の18昌歌之事

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11、習之目録之事
11の18昌歌之事

11の18昌歌之事

老父云、敵の動き細かにして、小拍子なるもの口の内にて合わせて打つをば大拍子に打つを云也。
亦云、至極の上に仕掛ける心持とは、仕懸けの時、謡にても舞にても小唄にても、心を歌いて仕懸ければ、則、着を去りて心乗るもの也ともあり。
亦云、昌歌は息也。息合いを心得べし。敵小拍子にして、拍子取られざる時、ヤッと声を掛ける心持にして、息を籠むれば、浮き立って軽し。声を掛くるによりて、拍子合い、乗るもの也。我心に乗ったる拍子にて打つ心也。鼓打ちのもみ出を打つ拍子と同じ事なり。
亦云、細かにして拍子取られざるものに、先の拍子を心に乗せて、拍子に構わず打つべし。亦云、拍子取られざる時口の内にて合う、口拍子の内に一つぬかいて打込む心持なりともあり。

 敵の動きは細かく切先を動かす小拍子であるものには、口の中でその拍子を合わせて大拍子に打つのを云う。
 亦云う、隙も無い小拍子に仕掛ける心持は、心の内に謡でも・小唄でも・口ずさめば、思いが吹っ切れて心が乗ってここぞと打てるものだ。
 亦云う、昌歌(しょうが、唱歌は楽器の旋律に合わせ歌を歌う事、声雅)は息、息が合う事を心がけるものである。敵が小拍子で、拍子を捉えられない時に「ヤッ」と声を掛ける心持で、息を籠めれば(意気を吐き出す、注ぎ込む)ようにすれば、身も心も浮き立って軽くなる。声を掛ける事で拍子も合い、乗るものである。我心に乗った拍子に打つ心である。鼓をうつ時の「もみ出し(いよ~ポンと打つ?)」を打つと同じ事である。
 亦云う、敵の拍子が細かくて拍子が捉え難い場合は、先の拍子を心に乗せて、拍子に構わずに打つのである。亦云う、拍子が取れない時は口の中で拍子を合わせ口拍子の内、例えば一つ抜いてトン・トン・◇・トンの◇で打ち込む心持で打ち込むのである。

 切り込む時は、息を吐き出す事は、真剣刀法では一般的で、息を吸って打込むことは好ましくないと云われますが、確たる理由は見いだせません。
 居合では演武の時二呼吸半で息を吐き出す際に抜き付け切り込みをしていますから当たり前の事としています。然し明らかに吸い込んだ時より「浮き立って軽し」です。訓練次第でしょうが、息を吸うとき打込むと、見事に切れてもそこに居着きやすい気もします。敵と遭遇して二呼吸半や中には三呼吸半とか、一呼吸半でも切られています。

 兵庫助の始終不捨書では「・・一超直入の心持」であれば無拍子に打つ事を意味しています。月之抄のこの項目を熟読しても一超直入の無拍子と同じ心持ちと思えます。マニュアル通りなどで生きる人は其処まででしょう。

 

 

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2020年12月10日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の17大拍子小拍子小拍子大拍子之事

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11、習之目録之事
11の17大拍子小拍子小拍子大拍子

11の17大拍子小拍子小拍子大拍子
父云、敵捧身を離れ、上段などの様なるものには、小拍子にて打べし、細かなる事にてはなし。目付の動きに随て速き事を小拍子と云う。敵こまかに切掛け、拍子の取られざる所なり、是を大拍子に勝つなり。声をかけ大きく切るを大拍子と云う。
亦云、敵の働き大きならば小拍子、小拍子ならば大拍子の仕掛けよし。心持勘有りとも書せる有。
亡父の録に敵待にしていかにも沈々して拍子を受けざる事有らば、太刀を振りかけ切る𠮷し。手、浅く太刀中程を切る敵の心を知べしと書せる。
亦云、小拍子は早くこまかなる心を云。大拍子は仕懸けの心大きにして軽き心なり。

 父云、敵が捧身を離れ、上段などの様であるならば小拍子に打つ。小拍子は細かに打つ事ではない。目付の動きに随って早い事を小拍子と云う。
 敵細かに切りかけ、拍子の取られない様なときは、是を大拍子に打ち込み勝のである。声を掛けて大きく切るのを、大拍子と云う。
 亦云、敵の働きが大きいのであれば小拍子、素早い小拍子であれば大拍子の仕掛けが良い。その心持ちは勘にあるとも書かれている。
 亡父の録には、敵は待にして如何にも沈静して我が拍子を受けない事であるならば、太刀を振りかけ切るのが良い。手は浅く、太刀の中程を切る。敵の心を知るべきであると書かれている。
 亦云、小拍子は早くて細かい心持ちを云う。大拍子は仕掛け大きく軽い心持ちである。

  石舟斎の新陰流截相口伝書事の目録には「三拍子之事」として越拍子之事・付拍子之事・当拍子之事。ここで云う大拍子小拍子小拍子大拍子は、口伝書事の遠近之事に大調子小調子、小調子大調子と調子としてあります。拍子と調子は同じ事としている様ですが、拍子と調子は本来異なるものでしょう。

 兵庫之助は始終不捨書で「小拍子を大拍子に懸け勝は昔の事、縦は門を敲くが如し其位悪し今は一超直入の心持」と云い「無拍子」に打込むとしています。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

拍子

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2020年12月 9日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の16無曲之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の16無曲之事

11の16無曲之事
父云、是は曲にあらず、無の内に曲は自ずとあるものなり。有るは無きなり、無き内に曲ある心也。至極の心持也。
亡父目録に此の儀知らず。
亦云、無曲と云う事儒道仏教に此の沙汰は、事の終りなる処は無曲なる譬えは、昨日の事は今日は無曲なり、今日の日すでに暮れぬれば、日中の事は無曲と也。事の出ざる初め無き処をも無曲と云う。事の終りうる(たる?)処も無曲也。今日の上に夜べと云うがごとし。
ある事至たる後は、無曲なり。我と敵と例えて言わじ、我は無也敵は曲なり、無き処に勝負ある心持ち也。

 この項は、大曲(待曲)について述べられていた「位分きの曲之事・位を盗と云事・位を返すと云事・紅曲之事」に引き続く柳生宗矩の教えなのでしょう。
 「是は曲(わざ)に非ず」と云い「無の内に曲は自ずとあるもの」で、勝たんとしてああだこうだと思いめぐらし、居着くのではない。「我は無、敵は曲なり」と無心の内に勝つ心持ちである。との至極の教えなのでしょう。

 伝書を読みこなし自分なりにその思いを頭に治め得たとしても、日頃の鍛練が無ければ、無は無で無の内は空っぽに過ぎません。同様に鍛錬とは初心の頃に受けた棒振りの順番を追うばかりの稽古では、相手からの打ち込まれる条件が多少でも違えば忽ち形は崩されてしまいます。まして日頃から同じ組手での稽古ではどうにもならない悪習ばかりが残ってしまう。「無曲」は調べの無い音ばかり。

 

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2020年12月 8日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の15紅曲之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の15紅曲之事

11の15紅曲之事
父云、二星の動を色と云、曲に色の付く心持也。能々心を付け、動きに我が心染みて紅の血潮に染めよと也。
心持面白し分五郎流には、紅葉の目付、観念と秘する心持同じ意也。亦云、分五郎流の紅葉観念と云は、我が心を敵に付れば近く寄せぬもの也。よそよそしく〇(吾?)は向ふの山の紅葉などを見ん心にて仕掛れば、近く寄るも、敵心を付けたるを打て後へ退く也。然るに依り、片手太刀せんだんの打ちを用いるといへり。

 父云、二星(拳)の動きを色と云う。曲(わざ)に色の付く心持である。能々敵の拳の動きから、敵がどのように打込まんとするのか心を付け、その動きに我が心が染まる程に、紅の血潮に染めよ、と云うのが「紅曲」である。
 心持が面白い、疋田文五郎の流の「紅葉の目付」、観念して秘する心持と同じ意である。亦、分五郎流の紅葉観念と云うのは、我が観念(覚悟)を敵に付ければ敵は近くに寄る事は出来ないものである。
 よそ他所しく、向うの山の紅葉などを見る様な心持で仕掛ければ、敵は近くへ寄って、ここぞとばかりに打ち込んで、仕掛けて後へ退く。そこを片手太刀で栴檀の打ちを用いると云うのである。

 この項の文章は、解りやすそうです。上泉伊勢守信綱の弟子で疋田文五郎の紅葉の観念を例にあげて紅曲を述べています。ここは敵の仕掛けんとする心を我が心に写し取って、さあ来いとやったのでは敵は近寄る事はして来ない。向こうの山の紅葉を愛でている様な心持ちで、隙を見せて仕掛ければ、敵はここぞと打ち込んで来るものである。それを外して片手太刀による身と手と別れる栴檀の打ち(先段の打ち)を用いると云うのである。

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2020年12月 7日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の14位を返すと云事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の14位を返すと云事

11の14位を返すと云事
父云、是は敵の仕懸けの心出るをこちへ取る也。取らるれば、出る心止むなり。所作の初め也。心を取る心持を我が仕掛けにすべき為なり。

 「位を返す」と云う事は、敵の待つ心から仕懸けようとする気を察するや、即座に其の気を捉えて我が仕掛けにせよ。と云うのでしょう。先を仕掛ければ敵は、懸かる心を止めてしまう。そこを此方が打ち込み敵に外された処で懸かり待つ。この様な解釈では納得できないのですが、今はここまで。
 むしろ、敵の仕懸けに随って勝つ、「色に就き色に随う」とか「大曲(待曲)」の教えにすっぽりはまった所ですから「敵、取らるれば、出る心止むる也」は解っても、「色に就き色に随う」にならなくなりそうです。
 この「位を返す」と云う考えは、柳生宗矩によって詰められてきたものなのか、石舟斎の新陰流截相口伝書事にもそれらしきは見当たりませんが目録の口伝にはあるかもしれません。

「位を返す」そんなイメージを思い描きましたが、普段の稽古の勢法にも幾つもあるはずです。

 勢法を形と捉えて、順番通り棒振り演舞していたのでは、演武会の出し物にはなっても、何時まで経っても新陰流になるなどありえないはずです。棒振りの「かたち」は指導された通りであっても、打太刀も仕太刀も心積り一つで、忽ち所作が変わってくるかもしれません。稽古をすると共に、月之抄を読み進んでみます。更にそれらしき答えに出合えるかもしれません。

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2020年12月 6日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の13位を盗と云事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の13位を盗と云事

父云う、是は敵仕掛の心をあましたる心持也。待の内にて盗む也。

 この項は、仕掛けようとして、我が打込んで来るのを待なる敵の心を読み盗る心持ち。或は我が懸かり待時、敵が打ち込まんとする心を読み盗る事。
 是迄の習い「大曲の事」では「敵の好く所を其のまゝ出し、敵に打たせて勝」「我が方より敵の心付けを、宛てがいて仕懸用可」「待を見せかけて有を用可」。
「位分き之曲之事」から「位を持(待)あい、強くあう時、一拍子くつろげて、位を分って敵の気に乗らせて勝」。
 大曲(待曲)とは、そうするのかと理解出来ても、どの様に敵は我が「待」に乗せられて打込んで来るのか、我が思うように打って来ない事もあり得るものです。描いたシナリオに随うとは言い切れない。むしろ我が方が未熟であれば敵に、わが仕掛けは盗み取られている筈です。
 戻って書き出しの「是は敵仕掛の心を余したる心持」とは、敵の仕懸けて来る時、その隙が我身の為すべき事、それを盗めと云うのかも知れません。
 常の稽古では、「間境で敵に左拳をふっと見せて」とか「車に構えて左肩を晒せ」とか打込ませる仕草は容易ですが、決して容易に勝つ術は決まらないものです。 

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2020年12月 5日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の12位分き之曲之事

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11、習之目録之事
11の12位分き之曲之事

父云、是は大曲を楽に知り、相手位を持つ(待つ)あひ強く相時、一拍子寛げて位を分って敵の気に乗らせて勝心持也。折節ハタと物音などしたりし時の心あるべし。
 亡父の録には理りなし。

 大曲とは、待曲、待つ業、ですから、「仕掛け待つ心を楽に知り 、相手が待つ位を強くして、立ち合う時」には、「我は一拍子外して、敵と待つ位を入れ変わらせて、敵が気に乗って打ち込んで来る処を勝つ心持ちである」。こんな解釈をして見たのですが、懸り待つ敵に対して我が待曲となる「位分けの業」。「一拍子寛げて」は「折節ハタと物音などしたりし時」のふっと気が移る感覚などの事。
 亡父石舟斎の録は新陰流截相口伝書事、没滋味手段口伝書には、この事項の目録は見られない、随って宗矩の待曲(大曲)を楽に知る方法の一つなのでしょう。

 新陰流には他流に比較して多くの石舟斎などの伝書類が残されています。石舟斎の伝書は目録だけで口伝に依る伝承を重んじたと思います。
 修行者は口伝をメモして置いたり、目録の解説に自論を述べて子弟に引き継いだのでしょう。それらも現存していると思われますが、尤も石舟斎に近い修行者は宗矩であり兵庫助でしょう。其れに宗矩の息子十兵衛でしょう。この三者の伝書を基に紐解く事は大変厄介です。後世の何方かの解説書を以て良しとするのも一つの方法です。

 然し、乏しい修行半ばで、人の受け売りでお茶を濁して得々とする安易さは持ち合わせていません。十兵衛に直接稽古を付けてもらっている気で対していますと、この月之抄の一項目すら理解出来ず、項目ごとに時には二日も三日も「あーでもない.こ~でもない」と思いあぐねながらボードを叩いています。
 公開日迄間の有る項目は、公開日までに答えを出せればいいのですが。しかし「今ある自分以外に自分は居ない」間違って笑われても仕方のない事です。 ミツヒラ 思いつくままに

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2020年12月 4日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の11大曲之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の11大曲之事

老父云、右の二目遣を能々見て、敵の好く処あるべし。則、好く所を其のまゝ出し、敵に打たせて勝を曲と云なり。
亡父の録に、待曲之事、付けたり。活人剣の分別之あるべきなり。目付る処、一段と大事也。我太刀は、元の処へ帰る也と書す。
亦云、構は活人剣、敵打ち出し候様に仕懸け、夫れを則ち持ち(待ち)懸て打つべし。持つ(待つ)処待なり、打つはもとの処へ帰るべし。
二目遣見へざる事もあれとも、我が方より敵の心付けを宛がいて仕懸用いるべし。
亦云、待を見せかけて、有を用いるべし。我が方よりの仕懸け、待也。待を仕掛よと也。
父云、動かざる以前をうくるに因って、待曲なりと書せる。
*
 石舟斎の新陰流截相口伝書事では「待曲之事」と有ります。月之抄では「大曲之事」何故表題を変えたのか、音のみ合わせたのか解りません。
 活人剣の分別と云うのですから、「敵の好く処を其のまゝ出し、敵に打たせて勝」事。「敵打ち出し候様に仕懸け、夫れを則ち待ち懸けて打つ」事。曲は「わざ」ですから「待わざ」と云う事になる筈です。
 「打つはもとの処へ帰るべし」は、敵の好むところを其の打つように出して、其処へ打たせる様に懸り待つ。敵が其処へ打って来れば仕掛けようとしていた様に打つのだ、とも思えます。
 「待を見せかけて、有るを用いるべし」と是又謎々の様です。待と見せかけて懸り待つ、その懸る曲を用いると解せば良さそうです。「待を仕掛けよ」の心持ちが解る処でしょう。

 使われている言葉が元々新陰流の独特な用語ですから、目録の用語は口伝に依ったのでしょう。それでも「月之抄」は其の用語に息吹を吹き込み語ってくれます。読む者の理解力と修行の甘さが立ちふさがりますが、読み進む内に理解できるようになるのでしょう。
 

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2020年12月 3日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の10二目遣之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の10二目遣之事

11の10二目遣之事
 父云、敵の太刀、色なきと云え共、深々仕掛ける時は、敵の目付かずと云事無し。目の付く処へ来るものなり。太刀に付くか、我が拳を見るか、夫れに心を付けず、うっかりとして居るものあり。其の様子を見、夫れに随い勝べき也。
 亡父の録に二目遣い付けたり太刀こいの(乞いの、請いの)事、表裏を掛け、敵の顔を見る也。敵の目付、心を見る也と書す。
 亦云、我が一つの仕掛け、取掛けにて、敵の心を見よや。二目遣う心は、我も一処をしとめざる心持肝要也。
 亦云、大曲を仕掛け見る心持也とも書す。

 宗矩云う、敵の太刀に色が無いと云えども、深々と仕掛ける時は敵の目が付かないと云う事は無い。敵の目が着く所へ切り込んで来るものである。太刀に付くのか我が拳を見るのかである。敵はそれに気づかずうっかりとしている者が有る。その様子を見て敵の仕掛けに随って勝つべきものである。
 石舟斎の録に、二目遣いの付けたりは、敵の太刀の切り込みを乞う事。それに表裏を仕掛けて、敵の顔を見る、敵の心を見るのであると書かれている。
 我が」一つの仕掛け、取り掛けによって、敵がどのように懸って来るか、その心を見よ。二目遣う心は、我も一っ処を仕留める無い心持が肝要である。
 「太曲を仕掛け見る心持也」と云うのは次回が「大曲之事」ですが、その心は「敵に打たせて勝を曲と云」。「動かざる以前をうくるによって待曲なり」と有ります。

 石舟斎の「新陰流截相口伝書事」の「二目遣之事」と有り、我は、表裏の仕掛けで打たんとする処に目をつけ、敵が応じようとする機を捉えて別の所を打つ二目遣。
 宗矩の「兵法家伝書」では「二目遣に事:待なる敵に様々表裏を仕掛けて、敵の働を見るに、見る様にして見ず、見ぬようにして見て、間々に油断無く一緒に目を置かず、目をうつしてちゃくちゃくと見る也。」トンボがモズに襲われないようにモズを盗み見る例を、兵法家伝書に書き込んでありますから、そんなものかと思ってしまいます。
 石舟斎は目付は、敵の太刀先・拳・身也と明言しています。さらに敵の懸待二つを見る心の目であるべき事です。

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2020年12月 2日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の9敵味方両三寸之事

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11、習之目録之事
11の9敵味方両三寸之事

11の9敵味方両三寸之事
老父云、敵の太刀先三寸を味方の三寸と云。敵の拳三寸前(へ)を敵の三寸と云。仕掛には、味方の三寸へ付け、打つ時は敵の三寸を打つべし。
当流には深く勝つ事を嫌うが故なり。浅く勝ちて、このめ(目?)を良くせん為也。
亡父の録に拍子乗る時は鎺元三寸を目付て打つ也。拍子を取る時は切先三寸十文字と懸取るなり。夫れを味方と云と書す。
亦云、敵の三寸味方の三寸を、我が太刀先三寸にて打つ時も、付ける時も、深く懸らず、付くもせよ、切るもせよとも書す。

 柳生宗矩は、敵の構えている切先三寸を、自分の三寸と云い、敵の拳三寸前(鎺元三寸)を敵の三寸と云う。仕掛けるには敵の切先三寸に付け、打つ時は敵の拳前三寸を打つのである。と三寸の事を解説しています。
 当流は深く勝事を嫌い浅く勝つ、「このめをよくせんためなり」と云う事ですが「このめ」は目付かと思いますが、よく解りません。

 石舟斎は、切り込む時は、敵の鎺元三寸(拳前三寸)に目付て打つと云います。打つ拍子を取る時は敵の切先に付けて十文字に仕掛けて打つ。それを味方の三寸と云うのでしょう。何処に眼をつけるかを明らかにせず、味方の三寸、敵の三寸と云う隠語で語っています。
 いずれにしても、敵に付く時も、切る時も、深く懸らずと云うのです。

 前回の「色に就き色に随う」では兵庫助の「始終不捨書」ではこの三寸の教えで、待なる敵の仕懸けを引き出すことを嫌い、、十文十答の事で「付の事。昔の教の如く、三寸の付悪し。心も身も堅る故也」と云って「今は十里外と云ふ習これ在り」離れたところから相手の仕掛けを観て勝つとしています。

 

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2020年12月 1日 (火)

月之抄をよむ11、習之目録之事11の8就色随色事(色に就き色に随う事)

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の8就色随色事(色に就き色に随う事)

11の8就色随色事 付けたり能染むと云心持あり
父云、待にして打出す働きを見て構て居る者に、此の心持専也。先に三寸へ切掛け色々に仕掛け切り懸けを色と云う。
三寸にて敵の色就かざる者には、拳の辺りへ深く色を仕掛けて見べし。色に就かずと云う事なし、就けば其の色に随って勝つ也。
右へ勝てば左へ仕掛け、左へ仕掛け右を勝。下を仕掛けて上を勝。上を仕懸けて下を勝。色々の働きを仕掛けて其れに随って勝つを云う。表裏の元也。
亡父云、敵の太刀待にしてあるに拍子を分別して、やッと声を掛けて、其の色を見て色に随って勝つ也と書も有。
父云、表裏に付けて、切り出すを能く受けて引き出し、夫れに随わずして勝っべし。構は三拾余りならでは五躰にならざるもの也。我手だて表裏を働かす心持専ら也。
亦云、就色(色に就く)とは表裏仕掛け。切り掛け、働き掛けなり。是に敵の心写る処を以て色に就くと云なり。色に就け、色に就き、色に就くるなどと云心持あり。色に就くると云は、我が色に敵を就くる也、色に就けば、就け也。
声を掛けても一巡りクルリと巡りても同じ事の心持也。色に就きは、はや就きたるなり。色に随うと云は。敵色々就き、切り出す色に随うべき也。随わずして勝と云は、敵を我が色に就けて、敵切り出す色を能くうけて、其の色に随って勝処は随わざる心なり。
然る間、色に就き色に随う事付けたり、能く染むと云心持ありと目録に書すなり。染むは色と云により、染むと也。能く心を色に染めよとなり。心持に面白き感あり。
亦云、色に付き色に随う習いは敵切掛けるは、則、活人剣にて勝つ。動かざる者をば味方の三寸へ切懸けて随うべし。仕掛けにても動かざるは、其のまゝ勝心持なりとも書す。
亦云、色に付き色に随う事、太刀の構え三拾余り、何れも序の心持也。序を截懸けて随うべし。小太刀一尺五寸の外し、三拾余りの構に付けて夫々に外す心持もありと書る有。
*
 この「色に就き色に随う」の月之抄は文語調なので現代ではとっつき難い感もありますが、内容は非常に判りやすいものです。

 柳生宗矩の兵法家伝書では、この「色に就き色の随ふ」の解説は「右の心は、待なる敵に、こちらから様々に色をしかけて見れば、又敵の色があらはるゝ也。その色にしたがひて、勝つ也。」と単純明快な是だけです。「それに反応した敵の色に随い受けて、随わずに勝」のでしょう。

 尾張柳生の兵庫助利厳は「昔の教えの如く三寸の付悪し、心も身も堅る故也。今は十里外と云ふ習之在り」三寸とは「拳の事」、敵の三寸は我が三寸でもある。待なる相手の拳へ切掛けて、相手の色を見るのでは「心も身も堅る」、今は離れたところから相手を観て判断するのだと云うのでしょう。石舟斎の「ヤッ」と声を掛けて其の反応を見て、色に随って勝つのもその一つでしょう。

 

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2020年11月30日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の7三拍子之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の7三拍子之事

老父云、勝つ処の拍子は、越す拍子・合せる拍子・付る拍子、此の三つなり。勝つ処、此の三つならでは之無く、この三つ外ずるれば相太刀也。
亦云、合う拍子・付る拍子・越す拍子とも書せる亡父の目録あり。
老父云、付ける拍子の事、乗る心持あり、当たる拍子の事、付けたり合う心持ちあり、と書くもあり。
亦云、三拍子の三つは我が身へ当たらざる処にて越拍子の心持よし。当たる当たらぬと云境にて、付る拍子也。心を付る也。逢う拍子は付る拍子、付けて遣うべし。打合するをも、逢う拍子と云なりもあり。

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊では身懸五箇之大事、三箇之大事に続いてこの「三拍子之事」があげられています。
 三拍子の事 「1、越拍子の事。1、付ける拍子の事。1、当たる拍子の事。」

 老父柳生宗矩は、勝処の拍子は「1、越す拍子。1、合せる拍子。1、付る拍子」の三つです。
 何故新陰流截相口伝書の「三拍子の事」と同じ事をあげていないのか、疑問ですが恐らく石舟斎の「当たる拍子の事」が宗矩の「合わせる拍子」「合う拍子」なのでしょう。

 敵の打ち込んで来るのを外して打つのを「越拍子」、「後れ拍子」。
「付ける拍子」は、敵の打込みに付けて勝つ、和卜勝ちなどでしょう。和卜で敵太刀を外すや乗る心持ちが大切と云う。
「当たる拍子」は、敵の打込みに打ち合い、上太刀に為る合し打ちなどでしょう。

 稽古をするに当たり、三学であろうと九箇であろうと、この動作は何を目的にして学ぶのかが解らず、いたずらに形を追い求めても武的演舞にしかならない。そんな時、月之抄を紐解いて見ると、「なるほど」と気が付くこともあるものです。

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2020年11月29日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の6三箇之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の6三箇之事

11の6三箇之事
老父云、敵の太刀先、向き様、三見と見て、其の三見に仕掛三箇也と云々。
亦云、右の三つに仕掛けられて、突き懸け、相構にて打事を三箇と云。鑓同前。上段、中段、何れも同じ事也、と云われし事も有り。
亦云、太刀の構の事、これと青眼也、是に越す事なし。他流に是を用るも有れども遣い様の心持に相違あるもの也。
鑓長太刀同じ事なるもの也。構、上段、中段、下段鑓先も三つなり。此の外はならざる也。此の三つの掛かり相構えよし。惣別、太刀・長太刀いずれにても構を用る時は相構よし。相鑓の時は上段には中段、下段には上段、中段には下段。此の心持を用るべし。
亦云、三箇三つの仕掛け、敵の太刀先向こうにあらば、付けよ、後ろにあらば二拍子也。出る処也。拍子を待(持?)ちて動くならば其の動きの拍子を受けかけ、上げ下げ二つに乗りて勝つ心持ちを思うべし。
三見と見るにより三箇の仕掛けある也。
亡父の録に、三箇付たり、マルバシの事。其の道具を寒風体と書せる有り。亦云、敵の太刀先我が方へ向かわば付け打つべき事。敵の構え太刀働きあらば拍子に乗りて打つべき事。敵の構え、身を放して太刀先後へならば、一拍子に勝つべき也、とも書す。
*
 宗矩は云う、敵の太刀先、向きよう、を三見(敵の太刀先前に在るか、後ろに在るか、動くか、三つを見分ける心持)とみて、その三見に仕掛けが三箇あると云々。この三見のいずれかで仕掛けられ、突き懸けられるのを、相構えで打つ事を三箇と云う。鑓も同じで上段・中段何れも同じ事である、と宗矩が言っていたこともある。
 三箇之事は、太刀の構の事で敵の構に対し三つの相構、それに青眼でこれ以上は無い。他流も三箇の仕掛けがあるが新陰流とは心持ちが異なるのである。
 鑓長太刀も同じで構えは上段・中段・下段、鑓先も同じでこの外には無い。この三つの掛かりには相構えがよい。大体、鑓、長太刀には相構えがよい。相鑓の時は上段には中段・下段には上段・中段には下段で仕掛ける心持とするのである。
 亦、三箇三つの仕掛けでは、敵の太刀先前にあれば突け、後ろに在れば二拍子で応じる。敵が出る処を(打つ、突く)。敵が我が仕掛けの拍子を待って動くならば其の動きの拍子を受け懸けにして上、下二つに乗って勝つ心持ちを思うものである。三見の心で見て三箇の仕掛けあるものである。

 石舟斎の録には三見三箇の付けたりは「マルバシ(転 まろばし)?」の事。その「道具を寒風体?」と書してあるものが有る(?)。亦、敵の太刀先我が方へ向いているならば付け打つべきである。敵の構えて居る太刀に動きがあるならばその拍子に乗って打つものである。敵の構えが太刀から身を放し太刀先後ならば、一拍子に勝つべきである。とも書かれている。

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊の三箇之大事は1、拍子あるかまへの事。1、拍子なきかまへの事。1、身を離れるかまへの事。をあげています。何れも相構となる事が前提で良さそうです。
 拍子ある構の事は「敵の太刀先前に在る構」で敵の太刀先に我が太刀先を付けて打つ。
 拍子無き構の事は「敵の構えている太刀先に動きがある構」で構えの調子が一定しないで上下などに動く場合は、相手の動きの調子を見極め乗って打つ。
 身を離れる構の事は「太刀先後の構、(上段、八相、車の構え)」敵の打込みに合わせ一拍子に打ち込む。

 
 

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2020年11月28日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の5二見之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の5二見之事

11の5二見之事
老父云、敵の懸待二つを見る事を云也。亦云、惣別仕懸けざる以前の心持専ら也。立相う時先ず三見とニ見と心得るべし。
亦云、頭書の目録に敵の構を二つに見る事付たり、太刀先前にあるか後にあるかと、見分けるべしと書すもあり。

 二見之事については、石舟斎の伝書にはこの表題では何処かにあるかもしれませんが、記述は見当たりません。宗矩は二見の事とは、敵が懸ろうとしているか、我が懸るを待とうとしているかを見る事だと云います。惣別、仕懸ける以前の心持ちである。
 立相(合う)う時には先ず、三見で相手の太刀先が前に有るか、後ろに有るか、動いているかの三つを見分け、二見でその太刀が懸って来るのか、我が仕懸けを待つのか、を心得るのだと云います。

 亦云、の処の「頭書きの目録」についても、どの伝書なのか解りませんが、二見之事の付けたりは「太刀先前に在るか、後ろに在るかを見分けるべし」と云って先に有った三見之事の「切先動いているか」の事項が抜けています。
 いずれにしても、太刀先を見る事の意義は、三見之事で、「太刀先前に在るか、後ろに在るか、動いているか」の三見を見分けて種々の仕掛けが隠されている事を考える事だと云うのです。

 石舟斎の三見之大事は新陰流截相口伝書亊では「太刀先、敵の拳、敵の顔、右条々口伝有之」で太刀先ばかりを云っていません。宗矩の指導に依る十兵衛の月之抄には、宗矩と石舟斎との間にある伝書の奥にある口伝の受け取り方の違いか、宗矩の口授が真髄なのか、兵法論議と同時に面白い処です。十兵衛も恐らくそれを思い、月之抄に「父云」と「老父云」が併記されている気もします。


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2020年11月27日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の4三見之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の4三見之事

11の4三見之事
老父云、太刀先三つ見様あり。構を見る也。敵の太刀先前にあるか、後にあるか、動か、三つを見分る心持也。三つを見分て種々の仕掛もあるにより、是を専らとするなり。三つを、見るにより三見なり。
亡父の目録には、太刀先、拳、身也と書せるあり。
亦云、敵の志を見るよりも、三つを考えべし。動、懸、待と心得、動は座らぬ心を思うべし。

 老父柳生但馬守宗矩は太刀先の見様は三つ、構を見て、敵の太刀先前に在るのか、後ろにあるのか、動いているか、この三つを見分ける。此の三つから敵は色々仕掛けて来る。三つを見るので三見というのである。
 石舟斎の三見を学ぶと宗矩の三見は同じ心持ちを述べている筈でしょうが何処か物足りない気がしてしまいます。

 亡父石舟斎は、三見之事を敵の構える太刀先・拳・体であると書いているのもある。是は石舟斎が柳生兵庫助に慶長9年1604年に相伝した「新陰流截相口伝書亊 三見之大事」に依ります。「三見之大事1、太刀先の事。2、敵の拳の事。3、敵の顔事」。月之抄では「顔が身」に変わっています。
  亦、敵の心がどのように仕懸けようとしているかを推し測るよりも、三見によって敵が動いているか、懸ろうとしているか、我が仕懸けるのを待っているかを見分けるべきである。その上で動は居着かない心を思うべきである、と述べています。

 

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2020年11月26日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の3思無邪之身之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の3思無邪之身之事

11の3思無邪之身之事
歌に、「世の中の道を習はゞ直(すぐ)に行け入江小嶋に船寄せずとも」
老父云、邪(よこしま)なからんことを思へ。身を直ぐに歪まざるを用う。足の踏み様、八文字、一文字此の二つなり。敵の方へ身なり直にせし為なり。
鑓・長太刀・諸道具ともに此心同じ事也。身の位思わずして道具に関われば身を忘るゝもの也。身をさへ知れば何れも諸道具を用に立てるもの也。
身の程を知りて道具を持てば其まゝ懸りても当たらぬものなり。
亦云、思無邪は五箇の身の真の位也と云々。身の直く(すく)道の心持にて、物を持てば其まゝ懸りても当たらぬなり。道具我が身の楯となる心持なり。
構へをせんと思わば、何時も上・中・下共に相構を用いる、是活人剣の心持也。
亦云、思無邪直なる心なり。諸事万端共に斯くの如しと書も有。
*
  思無邪の読みですが、漢文調で行けば「邪(よこしま)無きを思う」、そのまま読めば「しむじゃ」意味は正しくない事を、習いを無視するなという事になるでしょう。ここでは、「身を直に歪まざるを用う」ですから、身を歪めずに「五箇之身位之事」を正しく行う事となるでしょう。
 歌は、世の中の道とグット構えています、何事も学ぼうと思うならば、躊躇せずに習うべきだ。と云うのです。何かを学ぼうとして、その門を敲くのは非常に勇気とでも云うのでしょう、思い切る気持ちが要るものです。
 身の位、身の程、は身構えとか捌き、とでも云うのでしょう。具体的に「身を直に歪まず。足の踏み様は八文字、一文字。敵の方へ直に向く」事と云っています。
 鑓・長太刀・諸道具を扱うのも同じ心持と云います。然し道具を持つと身を忘れてしまうものです。身体操作を知れば道具は役に立つものです。然し、身のありようを知っただけでは、打ち込んでも当たらないものだと否定され、道具は我身の楯に過ぎないとまで言っています。
 構をするならば、敵と相構など活人剣の心持も習うもので、思無邪の直な気待ちで取り組まなければ物にならない。と云うのです。
 兵法の思無邪の心持は其の儘、諸事の習い事にも、諸道具の扱いにも、我身にも心にも必要だと云うのでしょう。

 身の懸かりですが石舟斎の場合は「1、身を一重に為すべき事。2、敵の拳我が肩に比ぶる事。3、身を沈にして我が拳を下げざる事。4、身を懸り先の膝に身を持たせ後のえびらをひしぐ事。5、我が左の肘を屈めざる事。」となります。
 さらに、此処では「足の踏み様は八文字、一文字此の二つなり」と我が身を敵の方に向ける事を特定しています。
 柳生十兵衛三厳は思無邪の事を「朏聞集」で解説していますが、「五箇之身位」については無理に固まってしまわない様に身を寛ぐ様にする事と云っています。
 尾張柳生の柳生兵庫助利厳はこの「五箇之身位」を否定して「始終不捨書十問十答之事」では「身之懸五箇を昔の教の如く前に作るは悪し。身堅まり詰まる故今は前を豊にして敵に逢て勝口の時五箇の心持好」としています。身之懸五箇を全面的に否定しているのではなく、前に懸る身位を、「十好習之事」で「1、直立たる身の位。高き構に弥々高く。2展びあがりて仕懸位。3、前へ及び懸るより反るべき事。4、足は浮きたる心持。」などと石舟斎の戦国時代の甲冑を着た剣法
から素肌での剣法への時代の変化を取り入れて来ています。
 

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2020年11月25日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の2五箇之身位之事

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11、習之目録之事
11の2五箇之身位之事

11の2五箇之身位之事
老父云、身を一重に為すべき事。敵の拳へ我が肩を比ぶる事。我がこぶしを楯にすべき事。左のひじを伸ばすべき事。前(さき)の膝に身を持たせ後の足を伸ばす事。是は其座より後へ引のく者を追掛けて打時よし。
亡父の録、第一身を一重になすべき事。第二敵の拳我肩に比ぶる事。第三身を沈に〆(して)我拳を下げざる事。第四身をかゝり先の膝に身を持たせ後のえびらをひしぐ事。第五我左の肘を屈めざる事云々。亦云構は何時も相構の事と書すも有。

 この月之抄の五箇之身位之事は、慶長8年1603年柳生石舟斎宗厳が孫の柳生兵介長厳(後の柳生兵庫助利厳)へ新陰流截相口伝書亊を伝授した冒頭に記されているものです。原文のまゝ記載します(柳生厳長著 正傳新陰流より)。
新陰流截相口傳書亊
身懸五箇之大事
第一身を一重に可成亊
第二敵乃古婦之吾肩尓くら婦遍き事
第三身を沈尓して吾拳を楯尓してさけ佐る事
第四身をかゝ利佐記の膝尓身も多世後乃ゑ比らを比ら具事
第五左乃比ちをかゝめ佐る事
右随分心懸稽古あるへし重々口傳有之也

 柳生兵介長厳は元和6年1620年に尾張權大納言義利(義直)に相伝の際「始終不捨書」を進上しています。兵介長厳は石舟斎の身懸五箇之大事に示された身懸は戦国時代の甲冑を着けた介者剣法に依るもので、甲冑を着ない平和な時代の剣術として「直立たる身の位」を提唱して否定しています。
 十兵衛三厳の月之抄は寛永19年1642年ですから、柳生新陰流も尾張柳生では月之抄の標準とする身懸は「身堅まり詰まる」と否定されています。
 

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2020年11月24日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付之事 二星・嶺谷・遠山11の1の3遠山之目付之事

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11、習之目録之事
11の1目付之事 二星・嶺谷・遠山
11の1の3遠山之目付之事

11の1の3遠山之目付之事
老父云、我が両の肩先也。打合おし相などに成る時、此習を用る、敵の太刀先我が右の肩先え来る時は敵の右へ外すべし。左へ来る時は直に上よりおし落(押し落とし)とし勝なり。我太刀先何時も嶺の目付(右の腕のかがみの目付)、敵の胸に付けて打込むべし。
亦云、くみもの(組物)打合の時、敵味方太刀先の遣い様に身の開き肝要也と云々。
亦云、頭書きの録に遠山付けたり組み物に成る時の心持ともあり。
又云、我方よりは、敵の両の肩の間、胸へ太刀先をなすべしとも有。亦云、とりで、いあい(捕手・居合)何時も身際にしては、此心持専ら也。是より身際の心持、色に出る也。
亡父の録には遠山の事、切り組の時、双の肩とばかり書るあり。

 遠山之目付とは我が両の肩といいます。又云では「我方よりは、敵の両の肩の間、胸へ太刀先をなすべし」とも云っています。打ち合い、押し合する際の、接近戦での目付の様に思えてしまいますが、二星、嶺谷、遠山の目付は、兵法家伝書では「待にとりしめたる敵には、此三ヶ条の目付はづすべからず。但し、此の目付は懸待共に用いる也。・・うちこむ時は嶺の目付、切合せ、組物との時は遠山の目付を心によくかくべし。二星は不断はなれざる目付也」と語られています。

 宮本武蔵は兵法三十五箇条目付之事では「目を付けると云所、昔は色々在ることなれども、今伝える処の目付は、大体顔に付ける也。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を動かさず、敵合近く共、いか程も遠く見る目也。其目にて見れば、敵の業は申すに及ばず、左右両脇迄も見ゆる也。観見二つの見様、観の目強く、見の目よわく見るべし。若し又敵に知らすると云う目在り。意は目に付、心は物に付かざる也。能々吟味有るべし。」

 

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2020年11月23日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山11の1の2嶺谷之目付之事

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11、習之目録之事
11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山

11の1の2嶺谷之目付之事

11の1の2嶺谷之目付之事
老父云、右之うでのかゝみを嶺と云、左を谷と云。此のへちゞめに心を付、我太刀先を其方へむくれは、地太刀にならぬ心持也。二星より嶺谷まての間のうこきを根本の目付と定るなり。
亡父の目録には嶺(身のかゝり右のひじ)、谷(身のかゝり足踏み左のひじ)、此の如く書せるもあり。又云嶺谷付り相太刀にならざる事とばかり書す目録あり。
老父の目録に嶺谷おなしく、片手太刀何も、地太刀にならざる目付也と書もあり。

 嶺谷之目付之事
 老父云、右の腕のかがみを嶺と云、左を谷と云う。この「のびちゞみ」に心を付けて、我が太刀先を其の方へ向ければ、地太刀になる事は無い心持ちである。
 二星より嶺谷までの間(拳から肘のかゞみの間)の動きを、根本の目付と定めるのである。
 亡父の目録には嶺は身の掛り右の肘、谷は身の掛り足踏み共に左、の肘。此の如く書してあるものもある。又、云う、嶺谷付けたり相太刀にならざる事とばかり書す目録がある。
 亡父の目録に嶺谷の目付で前項の二星の目付と同じ様に、片手太刀の何れも、地太刀に成らざる目付であると書くもあり

 両拳から両肘の間の変化に目を付けて、その動きを根本の目付と父宗矩は定めている。我が太刀の切先を相手の肘に付ければ、相手の片手太刀に応ずるにも、「地太刀」にもならない。地太刀の意味は切先が地面に向いた状況をさすと思われますが、用語の説明は見当たりません。
 十兵衛の拙聞集の「嶺谷の目付の事」に依れば「両の肘のかゞみを嶺谷と申し候。上段に構へ居るものに用いる習いにて候。屈みたる時は、伸びぬ内、伸びたる時は屈まぬ内に打てと申す事にて候。上段の者は二星(拳)見へぬにより嶺谷を用申し候。委細は奥有。」

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2020年11月22日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山11の1の1二星之目付之事

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11、習之目録之事
11の1目付之三之事 二星・嶺谷・遠山
11の1の1二星之目付之事

11の1の1二星之目付之事
老父の云く、敵のこぶし両のうて也。此はたらきをえる事肝要也。
亡父の目録には二星、不断の目付、左右のこぶしと書せるなり。
私云、二星付り、色と云心持あり。是は二星はあて処なり。二星のうこきを色と也。二星をみんと思ふ心より色々心付く心第一なり。重々の心持、至極まて是を用るなり。
亦云、二つのほしと云心持も、二つを一つに見る心持、二つはひとつ也。亦云、目付八寸の心持と云事あり。是と太刀のつか八寸のうこきを心懸れば、二星色も其内にあると云心を以てなり。
此二星の習第一也。是より種々の心持有により、初而心を知と云々。
老父かしら書きの目録に二星付たり不断用ると書もあり。亦云、二星敵もろてにて持時よしと書せる目録もあり。

 二星の目付之事
 老父の云うには、二星の目付は敵の拳、両の腕である。この働きを二星の動きから何を仕掛けて来るか得ることが肝要だ。
 亡父の目録には、二星は不断(目を逸らしてはならない)の目付であり、敵の左右の拳であると書かれている。
 十兵衛私は云う、二星に付け足す物は色と云う心持ちがある。二星はあて(当・充)処である。二星の動きを敵の仕掛けんとする「色」とするのである。二星を見ると思う心から敵の仕掛けの色々に心付く事が第一である。重ね重ねこの心持ち、至極に至っても是を用いるのである。 
 又、二星と云う左右の拳(また、両の腕)を見る心持も、左右の拳を一つとして見る心持であり、両拳は一つである。亦云う、八寸の心持ちと云う事があるが、左右の拳と太刀の柄の動きが如何様に仕掛け来るかを、心がけているならば、二星の色も其の柄八寸の内にあると云う心積りである。
 此の二星の習い第一である。是より種々の心持ち有るによって、初めの心掛けとして知る事と云々。
 老父の頭書きの目録に、二星の目付には不断用いる事と書かれているのもある。亦云う、二星の目付は敵が諸手で太刀の柄を持つ時に良いものであると書してある目録もあり。

 二星の目付は敵の左右の拳、両の腕、太刀の柄の動きに心懸ける事で、この処の動く様子で敵の「色」を知るのだと云います。此の目付は不断の目付と云う、不断は普段とも取れますが太刀を以て相対した敵との戦いに於ける、敵の仕懸ける「色」を認知する重要な目付と云うのでしょう。目付には嶺谷、遠山の目付などある訳で、其処だけを凝視しろ、と云う分けでは無いでしょう。
 二星はあて処とは、目当て、目標、意向、心づもり(広辞苑)から、敵の仕掛けんとする意図を推し測る処と解せば良さそうです。


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2020年11月21日 (土)

月之抄を読む10、廿七ヶ条之截相之事

月之抄を読む
10、廿七ヶ条之截相之事

廿七ヶ条之截相之事
序 上段三つ中段三つ下段三つ
 右此の上段三つの仕様は斬釘截鉄、大詰、無二剣、これ三つ也。中段三つの仕様は右旋、左傳(転)、臥切これ三つ也。下段三つの遣い様は、小詰、半開半向、獅子忿迅(ししふんじん、獅子奮迅)、懸これ三つ也と亡父の目録に書せる也。
破 上段三つ、中段三つ、下段三つ

 此の上段三つは、刀棒に三つこれ在り、中段三つは切合に三つ之在り、下段三つは折甲に三つ之在と亡父目録にあり。
急 上段三つ、中段三つ、下段三つ
 此の上段三つは陰の拵を云、中段三つは陽之拵を云、下段三つは、うごく拵えを云也。仕様は何も一拍子也と亡父の目録に有り。
又云、序、上段三、中段三、下段三。 破、上段三、中段三、下段三。急、、上中下共」に何も一拍子と書る目録もあり。
亦云、序、上段三、中段三、下段三。破、刀棒三、切合三、折甲三。急、上中下何も一拍子と書せる目録あり。亦急付たり上何も一拍子と書くもあり。
老父云、右の太刀を以て廿七の截相を稽古すれば大形これにて相済なり。何も太刀をつかふなり。この外に、向上、極意、神妙剣
 古語に云。策ごとを帷幄中に運らして、勝ちを千里の外に決す(はかりごとをいあくのうちにめぐらして、かちをせんりのそとにけっす)。是新陰流の極意これにて極る也。
 添截乱截の構をするものには、無二剣にて勝、それを活人剣にて勝。向上にて活人剣を勝、極意にて向上を勝。神妙剣にて極意を勝。これに極る也。うえなき事をいわんために神妙剣を名つくるなり。

 是より兵法の心持、皆一つに成。一心のきわまり也。けなげは申におよばず。一心のこころのはたらき受用をするに一心なり。
 心の理りを分け、其理を知事兵法の根本也。然によって心持の習を専らとす。習のいろいろ左のごとし。

 廿七箇条截相之事は新陰流の勢法の稽古業を続け遣いとして稽古する事を示唆する教えでしょう。ともすると一つずつの形に拘り打太刀の仕掛けに特定の勢法で勝を得れば、其処で一勝負あったとして互に退いて、新たな想定場面で截合い形を稽古するのが一般です。この続け遣いの組み合わせは当初はどうであったか定かではありませんが、江戸期に幾つも組み合わされている様で、特定されてはいない様です。

 この廿七箇条截相は柳生石舟斎宗厳による新陰流兵法目録事に依れば以下の様です。(柳生厳長著 正伝新陰流より)
 序 上段三 中段三 下段三
 破 折甲二 刀棒三 打相四
 急 上段三 中段三 下段三
 右急はかまへに付而一拍子也
 右条々面太刀一通也 重々口伝可有之者也
 上泉武蔵守 藤原秀綱
 柳生但馬守 平宗厳花押導印
 柳生兵介 平長厳
 慶長8年1604年癸卯三月日

 石舟斎より柳生兵介長厳に授与された目録の末尾に27箇条の表題のみ書き込まれ、詳細は口伝とされています。石舟斎74歳で、死の2年前の目録です。この翌年柳生十兵衛が生まれています。十兵衛の月之抄は寛永19年1642年のものです。
 
 

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2020年11月20日 (金)

月之抄を読む8、極意之太刀 数六つ 9、活人剣

月之抄を読む
8、極意之太刀 数六つ
9、活人剣


8、極意之太刀 数六つ
添截乱截 無二剣
此の構二つ也。敵添截をつかふ時、仕掛を無一剣にて勝なり。

9、活人剣
これより構なくして仕掛をせん(先)にして、敵のはたらきに随。拍子あひこの心より出るなり。何も序、きり相を稽古して敵のやうすをみる事是よりはじまる也。
私云、右の六つの太刀の外に八箇必勝口伝あり。砕重々之在と書入たる亡父の目録あり。

 8、極意の太刀 数六つ
 添截乱截・無二剣。此の構え二つである。敵添截を遣う時、仕掛を無一剣(無二剣)にて勝つのである。
 この文章から「極意之太刀」があって数は六つあると云うのですが、添截乱截と無二剣の二つしか書かれていません。この二本の太刀の構えは二つと云うのでしょう。敵が添截を遣う時には、仕掛を無二剣で応じて勝つのだと月之抄を読んだだけでは意味不明です。その上「添截乱截」と一つの太刀でしょうが、添截だけの役を云うだけで乱截の事には何も触れていません。

 9、活人剣
 是より、構は無くして仕掛を先にして、敵の働きに随い拍子合い、この心より活人剣となるのである。何れも序(はじめに)、截り相を稽古して敵の様子を見る事、是より始まるのである。
 私(十兵衛)云う、右の六つの太刀の外に八箇必勝口伝がある。砕き(くだき)重ね重ね之在と書き入れた亡父の目録が別にある。

 この極意之太刀と活人剣を一つのくくりとしても、添截乱截・無二剣・活人剣の三つしか見当たりません。活人剣は独立した太刀かと思う様な書き込みですが、極意の太刀の一つでしょう。
 あと三つは月之抄の次回に投稿する、「10、廿七ヶ条の截相之事」も極意の太刀であるとすればその中に「・・この外に、向上、極意、神妙剣」と太刀名が見えます。さすればこの「極意の太刀 数六つ」「添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣」となって数六つになります。
 尾張柳生を学ぶ者は、この六つの太刀数のある勢法は「奥義の太刀」の太刀名「添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣」である事に気が付くはずです。
 ハ箇必勝は天狗抄を指しているのでしょう。天狗抄は「花車・明身・善待・手引・乱剣・二刀・二刀打物・二人懸り」の八箇となります。八箇必勝の必勝の意味が読み取れません。九箇の一本目が「必勝」ですがここに示すものでは無いでしょう。
 
  柳生厳長による正傳新陰流の柳生石舟斎自筆相伝書1、新陰流兵法目録事ー太刀の目録 一巻」とあるのに依れば、三学・九箇に続いて以下の様です。
  天狗抄 太刀数八つ
  添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣・ハ箇必勝。
  二拾七箇条截相
 ・・奥書・・
 この太刀目録は慶長8年1603年に宗厳より兵介長厳(如雲斉兵庫助利厳)に相伝した太刀目録です。この意味不明の書き方は石州斉宗厳によって、題名や太刀名を秘して書き載せない判例を示したとしています。
 月之抄では天狗抄は太刀数八つで花車・明身・谷待(善待)・手引・乱剣・ふたつ具足打もの(二刀・二刀打物)・二人相手にして勝心持(二人懸り)で表記され、極意之太刀は尾張柳生の奥之太刀として数六つで添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣となります。
 石舟斎宗厳の新陰流兵法目録事ー太刀の目録 一巻には燕飛や天狗抄、更に七太刀も記載はないのです。
 天狗抄には花車以下八つの太刀名を持つのに記載無く、奥義の太刀は、月之抄では極意之太刀と改名され 添截乱截以下数六つの太刀名が複雑な記載の仕方によっています。月之抄の複雑な記入の仕方は、宗矩は柳生新陰流のただの印可をうけているばかりで、正伝していない為の配慮に依るのかも知れませんが、そんな都合より意味不明な書き方に悩まされて、素晴らしい月之抄に先を思いやられます。

 この辺の月之抄の勢法の太刀名表記の仕方や、石舟斎宗厳の勢法の題名や太刀名を書き載せない心積りなどは、そちらに興味のある実技門外漢の武術史屋さんにお任せしておきます。
 柳生新陰流の多くの伝書が容易にみられる現在を思う時、江戸時代初期の兵法で生活していた時代は兎も角、現代では何ら隠す意味が見いだせないし、その意図する事を解きほぐす必要はありません。伝書によって新陰流の事理一致の真髄に迫れればよいだけです。然しいずれにしても柳生新陰流の伝書を総なめしながら、同時に人一倍の稽古をする気がありませんと傍にも近寄れないでしょう。

 
 

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2020年11月19日 (木)

月之抄を読む7、天狗抄 太刀数八つ

月之抄を読む
7、天狗抄 太刀数八つ

天狗抄 太刀数八つ
花車 明身 谷待 手引 乱剣 序破急
老父の云く此太刀は構を習として、これより切掛、序のうちにて表裏をもととして用る太刀これ也。
是より敵の転変に随う心持あり。ふたつ具足打もの、二人あいてにして勝心持を此内にて秘事とするなり。
皆太刀なり。此の余にきられぬ構を専としてつかふ太刀二つあり。
私云古流には天狗の名を目録に書せるありまゝ多し。
老父はかくのことし。

 天狗抄は太刀数八つ 花車(かしゃ)、明身(あけみ)、谷待(たにまちと書かれていますが、芳徳寺伝には谷の右脇に善の文字が書き加えられ善待(ぜんたい)では無いかと暗に示されています。)、手引(てびき)、乱剣(らんけん)、序(じょ、雅楽などで、曲の最初の部分、ものごとの始め、いとぐち)、破(は、雅楽で、曲の中間の部分、やぶる)、急(きゅう、雅楽などで、最後の拍子の速い部分、いそぐ)。
 太刀名は花車、明身、谷(善)待、手引、乱剣の五つしか示されていません。序破急の文字の意図するところを各太刀に宛がえば五×三で十五になってしまいます。然しこの表示からは序・破・急の心持ちとして太刀数八つと思えてしまいます。

 正徳6年1717年の柳生新秘抄に依れば花車・明身・善待・手引・乱剣・二具足・打物・二人懸の八つで五箇の太刀とされています。

 老父の云く、此の太刀は構えを習い事として、その構より切り掛かり、初めはゆっくりと表裏(隠し、謀る心。振り。武略)をもととして用いる太刀がこの天狗抄である。
 表裏を仕掛け、是より敵の転変に随う心持ちを以て習うものである。天狗抄の太刀数八つには、二つ具足(二刀に依り二本)による打ちもの、そして、二人を相手にして勝つ心持ちを習うのである。天狗抄の内の秘事としてこの三本は秘事とするのである。
(是が二具足、打物、二人懸なのでしょう。)
 皆太刀に依るものである。此の余に(他に)斬られない構えを専らとした太刀が二つある。
(太刀二つが別にある様な雰囲気ですが、さて、月之抄に書き込まれているのか、その謂れが何なのか疑問です。)
 私云う(柳生十兵衛三厳は云う)古流には天狗の名を目録に書せるあり。まゝ多し、老父は斯くの如し。

 「天狗とは当流先哲の説によれば、天狗は山気にして、時あり形をなすものとされ、本来無形なれども、敵によりて形をなすもの。もとよりこの道は無形の位にして、敵に応じて形をなすを本原とする」(天狗抄について「月之抄と尾張柳生」は長岡房成の「新陰流兵法口伝書外伝」を引用して言う。赤羽根龍夫著柳生厳周伝の研究(二)より)

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2020年11月18日 (水)

月之抄を読む6、九箇

月之抄を読む
6、九箇

九箇
必勝 逆風 十太刀 和卜 捷径 小詰 大詰 八重垣 村雲
右之九つは構をして居る者にまた構をしてせん(先)を仕掛打そんして(打ち損じて)二の目を勝稽古残心の習也。これ老父のおしえ(教え)なり。
*
 九箇(くか)
 必勝(ひっしょう)、逆風(ぎゃくふう)、十太刀(とうたち)、捷径(しょうけい)、小詰(こづめ)、
大詰(おおづめ)、八重垣(やえがき)、村雲(むらくも)

 右の九本の勢法は構えている相手に、此方も構え先を仕掛け打ち損じる、其処を相手が打込んで来るのを二の目に勝つ稽古で残心の心持ちである。懸り待つ教えで老父(柳生宗矩)の教えである。

 前出の三学は「待ち」で相手が打って来るのに応じたのですが、九箇は「懸かり待つ」もので我の懸り打つのを、相手は外し、ここぞと打って来る処を「二の目」(二の太刀)で打つ「誘い」と「迎え」によるものです。
 業手附については、赤羽根龍夫先生の「柳生厳周伝の研究(1)(2)」、もしくは「柳生の芸能江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」をご参照下さい。読まれた後にDVDを拝見するとより見えて来ます。
 九箇の一本づつの呼称は、どこぞで聞き及んだ熟語なので、、その意味が込められているかもしれませんがそこまで辿るものが見当たりません。業名の由来や、稽古形などに捉われていては居着くばかりですから、語意と勢法のほんの一部の心持ちを並べてみます。
 必勝 :必ず勝つ事。左手を鍔側に持つ、左太刀による。
 逆風 :向かい風。左車
 十太刀:(十文字の太刀)。切上げ・くねり打ち
 和卜 :うかがい和す。剣先を挙げないで打ち落し
 捷径 :近道。刀棒
 小詰 :小さく詰める。獅子洞入り
 大詰 :大きく詰める。抜面
 八重垣:幾重にも巡らされた垣根。横雷刀・当たり拍子
 村雲 :幾重にも群がって動く雲。抜面・くねり打ち

 形の呼称と運剣については柳生新秘抄に、なるほどと言う解説が為されています。短めなのを一つ今村嘉雄著史料より「柳生新陰流新秘抄」を読んで見ます。
 「逆風:逆風はさかしまに吹く風と云うことなり。相手清眼にかまへ居るものに仕懸けて、袈裟がけに前後へ足を踏みかへて、左の方へ太刀を車にまわして打払ひ、返す太刀に腕を搦んで斬るなり。払ふ太刀、振もどす太刀は、さながら弓手右手へ入違うて、風の吹くがごとし。此のありさまを逆風と云うべき、幾度も敵の打つに随って、弓手の足を右手へ踏み、右手を弓手へなし、敵と反して勝つなり。」

 燕飛(猿飛・遠飛)、三学、九箇、を月之抄と合わせ稽古して見ますと、今まで何を稽古としてきたのか、かすかに見えてくるかもしれません。いたずらに些細な意味不明な事に拘って、本筋を見失う様では何時まで経っても先師の残した教えを習い稽古したとは言えそうにないでしょう。
 燕飛、三学、九箇を「形」では無く「勢法」として稽古するにあたり、これ等は「かたち」を稽古するのではなく「勢法」に依る「術」を学ぶことを、抜きにした棒振りを何年やっても何も出来て来ないものでしょう。
 

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2020年11月17日 (火)

月之抄を読む5、三学

月之抄を読む
5、三学

三学
 一刀両段、斬釘截鉄、半開半向、右旋左傳(右旋左転)、長短一味
 右之太刀のくだき三つづつ有之
 老父云、此五つは構をしてたもつを専とする也。待之心持也。
 亦云、めつけは二星、身の受用は五箇、三学、思無邪の心持専なり。

 三学(さんがく)、月之抄では「三学」ですが、尾張では柳生連也厳包校正によって「三学円太刀」と言われている様です。時の移ろいと指導者の思いが、三学を揺り動かした様で、古伝・江戸遣い・尾張遣いと、五本の呼称は同じですがそれぞれです。
 ①上泉伊勢守がもたらした三学は、甲冑を付けた状態での膝を大きくエマす「沈なる身」によるもの。
 ②江戸遣いは膝を軽くエマす。
 ③尾張遣いは自然に立つ「直立たる身」。

 五本夫々の呼称は同じで、一刀両段(いっとうりょうだん)・斬釘截鉄(ざんていせってつ)・半開半向(はんかいはんこう)・右旋左傳(右旋左転うせんさてん、古伝は左傳ですが転の誤字かどうかは不明です)・長短一味(ちょうたんいちみ)となります。

 この、五本の形(勢法)に夫々「くだき(砕き)」、いわゆる変化技が三っづつあるとされています。変化技は秘伝とされている様で、現代になっても常の稽古には伝えられていない。現代でも秘すべき意味があるかは疑問です。単なる師匠からの受け売りであったり、意味のない懐古趣味で無ければ良いと思いますが、へぼ剣士に伝えてあらぬ方に行ったのでは古伝が泣く事もあるかもしれません。
 勢法を形として「かたち」ばかりを師匠に真似て演ずるだけの者には「砕き」など不要でしょう。本物を求める者には、常の稽古からでも自ずと三つと云わず思いつく程の「砕き」は出て来るものです。そうでなければ特定の決まった棒振り「形」に終わってしまうでしょう。
 習い稽古して、その特定の「かたちの真髄」に至ったとしても、「砕き」が無ければ、変化に対応できないものです。「砕き」三つは稽古業としての三学の「戒」であって「定慧」に至れない、極意として秘されるならば自ら求める以外に無さそうです。

 老父とは柳生但馬守宗矩を指しているもので、宗矩は三学の五つの勢法は、使太刀は構えをして保つ(待つ)を専らとする。打太刀の懸りに応じて懸る心持である。新陰流の「就色随色事」、「懸待有之事」を学ぶ事だと云います。
 
 亦云う、目付は二星「二星之目付之事」で老父(宗矩)は、敵の拳両の腕。亡父(石舟斎)は左右の拳。

 身の受け様は五箇は「五箇之身位之事」で
 老父は「①身を一重に為すべき事。②敵の拳へ、我が肩と比ぶる事。③我が拳を楯にすべき事。④左の肘を延ばすべき事。⑤前の膝に身を持たせ、後の脚をのばす事。」の五つを挙げています。
 亡父は「第一身を一重になすべき事。第二敵の拳我が肩に比ぶる事。第三身を沈にして我拳を下げざる事。第四身を屈め、先の膝に身をもたせ、後ろのえびらをひしぐ事。第五我が左の肘を屈めざる事。」
 この教えは、戦国時代の甲冑を付けての兵法とされています、戦国末期では甲冑も動きやすく軽いものに変化してきており、徳川時代には平服による兵法へと変化して来ています、当然の事時の流れに即さない兵法はすたれていくものです。。
 現代ではそれらの事も無く、これ等の古流剣術を自ら学ぶ意味を、考えた上で納得して学ぶべきものでしょう。
 与えられた条件の範囲でしか行動できず、マニュアルが無ければ何も操作できないのでは、持てる能力がさび付いてしまいます。尾張柳生の「直立たる身」に依り、剣先も伸び、360度自由自在に変換出来る身体操作を手に入れたわけですから、其処から更に工夫の世界が容易になったとも云えるでしょう。

 「三学」についての呼称の謂れを思えというのだろうと思います。
 赤羽根龍夫先生の「柳生の芸能」より、「三学とは禅に戒定慧(かいじょうえ)の三学という事有り、修行を積みて鍛錬するは「戒」、その術身に練熟して事に臨み、場に応じて惑わず、事術に心の任せざるは「定」、物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なきを「慧」というなり。近代、何となく取り失いて、三学の大道を知らず事術の修行を励ますのみにして、「定慧」の場を踏まず生涯を終る者多し。術を尽くして術を放れざれば、何時の日にか用に立つべき処には至らぬものなり。」
 やはり、厳しいことを述べておられます。武道を志す者に多い悪習は、何時までも習いに執着している事でしょう。指導する者が先ず考えるべき事だろうと思いますし、習うものも、決められたことのみを修業し鍛錬するだけでは、「戒」ばかりで「三学」には程遠いと知るものです。
 令和のこの時代、武術を学ぶ心は「物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なき」事理一致の自分を磨き上げる事であろうと思います。

 思無邪の心持ちは、「敵の方へ身なり直にせん為也」「思無邪は五箇之身の真の位也と云々」。敵に対しての我が身体を直ぐにする(あるべき姿)を云うのでしょう。月之抄本文の中で委しく学び解説して行きたいと思います。 

 どの流でも、大方稽古形の一本目に其の流の根本的な考えが秘められています。柳生新陰流も前出の遠飛(猿飛・燕飛)と三学には新陰流のエキスが大部分含まれていると思います。

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2020年11月16日 (月)

月之抄を読む4、遠飛 面太刀ナリ

月之抄を読む
4、遠飛 面太刀ナリ

 遠飛 面太刀ナリ
 遠飛 猿廻 月影 山陰 浦波 浮舟 切甲 刀棒 

 月之抄に掲げられている形名は、恐らく上泉伊勢守から伝わるものかも知れないし、そうでないかも知れない。
 どの流であっても時代の要請や時の指導者によって変化してしまう事はあり得るものです。
 私が稽古で習っている形(勢法)は柳生厳周に依ると聞かされています。それと月之抄とは異なります。
 月之抄に依る形の名称が「遠飛」ですが厳周伝は「燕飛」と書いて「えんぴ」と読んでいます。疋田伝や柳生神秘抄は「猿飛」です。どれが正しくどれが間違いと云う程の事でもない。
 月之抄の遠飛は8本の名称が記載されていますが、他は6本で月之抄にある「7本目切甲」と「8本目刀棒」の名称が見られません。是は柳生厳長著「正傳新陰流」の柳生石舟斎自筆相伝書の新陰流兵法目録事によれば、「江戸柳生宗矩は、燕飛六箇の太刀の次へ、1、折甲、1、十方(実は刀棒)の二太刀を附け加えている」とされています。
 それとは別に他の伝承された形にも「浦波」と「浮舟」が前後入れ替わったりしています。
 柳生流神秘抄では、8本によって組み立てられています。

新陰流の極意の続け遣いの勢法ですから呼称の入れ替わりなど有っても基本的に同じと考えればいいのでしょう。どれもこれも手附けさえあればやってみれば良いと思います。
 現代剣道の影響か、道場内で決められた「かたち」でしか稽古出来ない、或いはしてはならないという料簡では古流剣術からは何も得られないでしょう。まして新陰流の形は勢法と教えられています。

 赤羽根達夫先生の「柳生の芸能」では「世俗、武芸の形をみな形といいきたれども、形といえば木や竹にて形を作り、雲形、山形、鳥の形ち、獣の形ち、そのほか種々の形ち等の類の如くに聞こえるなり。されども左様に身形を死物に作ることにはあらず、中国の「武備誌」にては、これを「勢」と称したり。さればこの形も勢々変化して勝ちを取る法を習う基本の姿をいうなり。・・初学、形の名の義を尋ねんと欲せば、「勢」という字にかえて見るべし。・・故に形の見えたるを悪しとし、何とも察し測られぬを処を好しとす。もと「兵」は「常形なく常勢なし」(孫子)といえり。・・されども、それにては一定したる指針なし。指針なくしては修行困難なるにより、仮に種々の形ちを挙げて勝ちを制する道を顕わし示したるなり・故にこれにて身体を習わし、これにて「因敵転化(敵に従って変化する)」の道を心悟せしむ。故に手本の勢なれば手本の形と思うべし。よってまた、これにて勝てということにてはなきなり。それ故に形を死物に作り飾ること悪しく、また情のあらわれたるも悪く、また一つの形にて勝たんと泥むも悪しと知るべし。」
と語られています。この心を失ってしまい「かたち」のみを、押し付ける、古流剣術の似非指導者のなんと多い事でしょう。結果はその形にも至れないものです。中には「手本の形も出来ないのに先へは進ませられない」と仰る指導者も居たりします。剣術の「身体を習わし、敵に従って変化す」の事を指導出来ない自らを恥じるべきでしょう。 

 月之抄:名称遠飛:遠飛・猿廻・月影・山陰・浦波・浮舟・切甲・刀棒

 厳周伝:名称燕飛:燕飛・猿廻・山陰・月影・浦波・浮舟 
    (柳生厳周伝の研究(二)赤羽根龍夫著)

 疋田伝:名称猿飛:猿飛・猿廻・山陰・月影・浮舟・浦波 
    (新陰流(疋田伝)の研究 赤羽根龍夫著)

  柳生流新秘抄:名称猿飛:猿飛・猿廻・月陰・山陰・浦波・浮舟・折甲・刀棒
    (史料柳生新陰流今村嘉雄著 正徳6年1717年)

月之抄は柳生十兵衛三厳であり、柳生新秘抄は柳生宗矩の子柳生宗冬の子宗在の門弟、佐野嘉内勝旧が正徳6年1716年に著したものですから、当然の事として折甲、刀棒がある事になります。
 尾張柳生の厳周伝や上泉伊勢守の門弟疋田豊五郎の疋田伝には折甲、刀棒は存在しません。

 

 

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2020年11月15日 (日)

月之抄を読む3、兵法之落索2

月之抄を読む
3、兵法之落索2

 勤(つとめ)亦勤むべし。奥義を疎かにして、仕合を好む者は、其の身恥辱を受くるのみに非ずゃ。某甲(むこう、それがし、なにがし)道を漫(みだりに)すれば咎を兵法に帰す。一流の師誠に憎むべき者也。豈啻(ただ)兵法一道ならんや。六芸に於て亦稽古無く寧(むしろ、いずくんぞ)奥義に至るおや。
 此の流第一仕相為すべからず。余流を廃すべからず。他流を立て道を嗜み、相尋ぬべき所をもつは、此の道に於ける修行也。世に上の輩、必ず極意の一二を知る者儘多し。
 人、生きて之を知る者に非ず、学びて浅くより深きに至り、一文は無文の師也。温故知新(おんこちしん、ふるきをたずねてあたらしきをしる)則此の道に於て、日新の功有るも、他流に必勝すべからず。
 今日の我に勝は、昨日の我上手奇妙の者、鍛錬工夫の上に在る。
 古人の師伝、其の人一世の意地、覚悟、分別の存する所の仁を見て、執心懇望に於ては相伝すべし。努々(ゆめゆめ)面太刀以下、稽古を極めず、他流を嘲弄し、仕合を好みて高瞞(高慢)の人は、家法相伝すべからず。連日其の人を験み、其の人英傑に非ざれば、截相の極意口伝許可すべからず。
 強弩(きょうど)、矛戟(ぼうげき)翼を為さず(石弓も矛や戟も役にたたず)。死に及び遯(たく、のがれる)は此の術也。極るべし云々。
 歳天文二十三年甲寅三月日 柳生但馬守宗厳書之

 兵法之落索は天文23年1544年3月に、柳生石舟斎宗厳が家訓として書き残した一文と知れます。随ってこの兵法落索は柳生新陰流の家訓と言えるものです。
 仕合を好む者は、その身を辱め某の新陰流をも貶めるものとなる。第一は仕合の法度。他流を廃せずに、立てその奥義を身に付ける事。と言っています。
 現在聞く所に依れば、どこぞの道場では、同流の他道場に出稽古すらご法度とか、他流などとんでもないという風潮が流れていてその様な師匠の門弟に成った事は哀れなものです。理由は「形が乱れる」だそうです。
 一文は無文の師、温故知新、今日の我は昨日の我の上に在る。家法を相伝するには其の人の意地、覚悟、分別の有り様、更に執心懇望する人には相伝すべきである、とも家訓に述べています。
 他流を嘲弄し、仕合を好み、高慢であったり、英傑で無ければ截相の極意口伝許可してはならない。と厳しい家訓です。

 この兵法落索は天文23年1544年ですが芳徳寺所蔵の月之抄は寛永19年1642年のものになります。ほぼ一世紀前のものという事になります。
 なお、柳生但馬守宗厳による一流の紀綱・柳生家憲は天正17年1589年(柳生厳長著 正伝新陰流より)。さらにもう一つ、柳生宗厳が上泉伊勢守より印可を受けたのは永禄8年1565年となります。
 
 

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2020年11月14日 (土)

月之抄をよむ3、兵法之落索1

月之抄をよむ
3、兵法之落索1


 漢文調で書かれていますので、読み下し文として掲載します。
 夫れ兵法は竺(天竺)、支(支那)、日(日本)三国に亘り之有り。
 竺土に於いては、七仏師、文殊、上将、智恵剣を提持し、無明の賊を截断す、一切の衆生其の刃に嬰(ふれ)ざるなし。兵法の濫觴(らんしょう、さかずきをうかべる、意味は物事の始まり)と謂うべき。摩利支尊天は専ら秘術を以て為す者也。
 支那に於いては黄帝阪泉涼(涿 たく)鹿に戦い(史記による伝説上の黄帝の阪泉の戦い涿鹿(たくろく)の戦い)
以て還り元明に至り、断絶せずは兵法也。
 日本に於ては、伊弉諾尊より、今日に至り、一日として兵法無くべからず。古流、中流、新当流有り。亦復陰流有り。
 其の余は勝計すべからず(それ以外は数え上げるものでは無い)。
 茲に上泉武蔵守秀綱有り。関東に於て諸流の奥源を究め、陰流に於て奇妙を抽(ちゅうす、ぬきんず)。新陰流と号す。
 時に上洛有り、是に於て宗厳若年より、兵法に執心し諸流の極意を尋ね捜すと雖も、未だ勝利を達する能わず。故に秀綱に対し種々執心懇望せしめ、毛頭も極意を相残されず、誓詞印可返し賜い、截相口伝を極む、之に加え宗厳数年当流、他流稽古鍛錬を以て工夫の上、新しく肝心の一、二を分別し、或は十人にして六、七人、或は十度にして六、七度、無刀による必勝の工夫を得る。之を仰ぎて弥(いよいよ)高く、之を鑚(き)ればいよいよ堅し。
 世に玄妙と云うは其斯れ之斯を謂うか、惟多くは唯我独聊(唯我一人を頼みとする)
寓意存するのみ。然れど造次顚沛(ぞうじ・てんぱい 意味はわずかな時間)切磋琢磨すれば則必ず自得有る矣。

  落索とは、酒食などの食べ残しもの、またそれを飲食する事。行事などの慰労の宴、という意味として使われます。兵法の落索とはさて・・。此処では新陰流の由来と柳生宗厳が極意を手に入れ無刀を得た由来をのべています。

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2020年11月13日 (金)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の4

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の4


 当時、宗厳公思いを兵術に凝らして曰く、刀剣を持ちて敵を制するは格外の玄術に非ず(決まり事以外の幻の術、魔術ではない)。豈赤手(意味は素手)にして人を殺す手段に有らざらんや。
 是に於いて、工夫日に積り、煅煉(たんれん・鍛錬)年を累(かさね)、別に新たな意(かんがえ)をい出す。忽ち白戦(無刀、蘇軾の詩「白戦い寸鉄を持つを許さず」から)の術を得る。◯然(今村本 鍛然、たんぜん、意味は?)として彼剣を揮い我を撃つ、翻然(ほんぜん 意味はひるがえって)として飛び去り、右転左転、歩々風起る、前に在り忽焉(こつえん、意味はたちまち)として後ろに在り。手に寸刃を持たずして却って逼人(ひょうじん 意味はせまるひと)を抑える。身に寸縄を施さず却って殺敵を縛す、赤手にして長蛇を捕え、控勤(こうきん 意味は手抜き)を施さず、生馬に騎し、他の刀剣を掠奪し、却って侘(他)眼を晴らし刳(えぐる)が如し、一時敗者を捉えれば、寔(まことに)人意之表を出す。
 超然の才、絶倫の識に非ずんば、豈能くこの如くならんや。この時にも。魔外命を乞、賁育(ふんいく?、孟子のこと)手を拱き、下◯虎を搏(うつ)、項羽人を叱り、亦下風に立つ者也。
 天下に兵を学ばん者の之を捨て何を求めんや。吁(ああ)盛ん哉。睠(かえりみる)に、夫れ師の道を伝るに其の人を識らずして妄りに伝えば、則却って其の害を受けん。后◯(すい?)射を逢衆に伝う、飛衛射を紀昌に伝は是也。
 若し剣術を以て人に伝うるは則庚公(こうこう)の斯くの如き者を撰ばん。之を伝えれば可成らん乎。其の人に非ずしてその道を伝える如く、蓋し(けだし)聞く、師の資を相承し、恰も一器の水を一器に瀉(そそぐ)に似たり、一燈を分かちて百千燈と成すが如し。
 始めより、殊に異なること無し。然りと雖も、工夫浅深、鍛錬厚薄有るに依って其の術も亦工拙軽重有。業は勤めるに精、嬉しいに荒、行きて思い成り、随いに毀(やぶる)。精を研ぎ、思いを罩(こめ)、而して後其の至微に至るべき也。精微要妙なるは、言を以て宣ぶべからず。只熟するにのみ在る乎。賢士太夫武を以て世に名を成すは、学ばざるべからず。光陰荏苒(こういんじんぜん、意味は 為す事も無く月日を過ごすこと)、時を惜しむべき也。老いて悔い、何及哉(なんぞ及ぶべけんや)、勉旃(べんせん 意味はこれをつとめよ)。

 現在では、そのままでは文字も読めず、読めても意味が伝わらないような、熟語が書き連ねてあるのですが、此処はできるだけ原文のままの読み下しで終わらせておきます。尚、読み下しに当たり、芳徳寺所蔵の「月之抄」原文を読んでおりますが、今村嘉雄著史料柳生新陰流下巻を参考にさせてもいただいています。
 新陰流の上泉伊勢守を讃え、柳生石舟斎宗厳をも讃えている序文となります。
 この序文の筆者が書かれていないのですが、この文章の最終章の末尾の「勉旃」は臨済宗のもので其処から、同時代の沢庵和尚を頭に描きました。柳生宗矩との関わりから当然として間違いは無さそうです。この辺は、何方か興味のある方はご研究下さい。

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2020年11月12日 (木)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の3

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の3

 粤(ここに)、上泉武蔵守秀綱公という者有り。東関の豪英也。遍(あまねく)天下の剣客の門を扣(叩く)いて、其の閫奥(こんおう、敷居の奥)に至る。最も陰之流に於いて堂に升(のぼる、昇る)り、室に入る。
 世、之を新陰流と謂(いう)。弱を以て強を制し、強を以て弱に勝つ、長を以て短に入り、短を以て長に入る、吹毛横に按(おさえ)、金翅を海に劈(きる、つんざく)、莫耶(莫邪)を竪に扣(叩く)。怒雷天を破る。天下其の鋒に当たる者無し。
 柳生氏但馬守平宗厳公という者、和州の英産也(大和柳生の庄生まれの英才)。齠齔(読みちょうしん、おさなくして)自ずから志を剣術に遊び、諸流を泝(さかのぼる)や淵源なり。
 新陰の最も秀でたるを知る。而して秀綱公に従いて遊ぶは幾温涼(幾年か)。造次(ぞうじ、意味は咄嗟)も兵に於いてし、顛沛(てんぱい、意味は咄嗟)も兵に於いてす。
 是を以て其の妙を得、其の頤(おとがい、意味はあご)を探るも、師を迥(はかり)見るは遠しかな。其の兵の用に到は、七縦八横、千変万化、半合半開、双発双収、風の帆を使い見るが如し、兎に鷹を放つを見るに似たり。一刀を揮えば(ふるえば)三千の剣客容を改め色を失う。
 長鎩を振るえば則八万の豼貅(ひきゅう、意味は伝説上の怪獣、兵)の心を動かし目駭(おどろく)。虎山に靠(もたれる)如く、竜雲を拏(とらえる)。実に兵道の冠冕(かんめん、意味は一番優れているもの)となる。天下の剣客靡全(ひょうぜん、意味はなびく)として其の門に入らざるは無しや。 

 上泉秀綱の剣を柳生石舟斎は学び、天下の剣客其の門弟に成らざるは無し。と褒めたたえています。この時代、徳川将軍家に取り立てられ、諸侯もそれに追随するほどの兵法家であったのでしょう。それにしても語句で飾り立てています。
 

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2020年11月11日 (水)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の2

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の2

 君見ずや、漢高三尺の剣を提げ(ひっさげ)天下を平ぐ、炎運四百年洪基(こうき、大きな事業)を開きしを、亦快からず哉。
 凡よそ賢士大夫、志を武名に染むるは、是も学ばざれば、孰(いずれか)学ぶべき。日之を学ぶと雖も、一朝一夕にして其妙を得るに非ず。
日に問い月に学び、旬鍛季錬(十日鍛え一年錬る)、朝に三千打ち、暮れに八百打つ、自然この心に応じてこの手を得るに非ずんば、豈能く其の妙を尽くさん乎。
 其の妙を得れば、郢工泥を斲(えいこうどろをけずる)、輪扁輪を斲(けずる)異曲同行与(いきょくどうこうと)。
 寔(まことに)夫れ剣術之士、神勢妙術を得れば敵に臨んで戦いを決するに、猶予有る無し。足軽く善く走る、一たびは左、一たびは右、一たびは向き(正面)、一たびは背く。倐而(しゅくとして)往き、忽而(こつとして、すばやく)来る。或は其の表を撃ち、或は其の裏を撃つ。若(もしくは)地より出で、若は天より下るがごとし。其の疾(とき)こと風の如く、其の暴(にわか)なること雷のごとし。人の識する所に非ず、無窮の変を行。凛々(りんりん)威風として人逼り(せまり)て寒し。
 白刃始めて合うや、正按、傍堤、横斬、竪截、一刀両断、赤肉、白骨、電光の影中春風を斬るものや。嗟(ああ)至れる哉。

 漢高は剣を以て天下を納め四百年続いた大事業を為したのも剣に依る。剣を学ばずして何を学ぶべきなのか、と投げかけています。然し一朝一夕では其の妙は得られない、得ればどのように異なる事であろうと「異曲同行」だと、漢文の語句を並べ立てています。

 

 

 

 

 

 

 

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2020年11月10日 (火)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の1

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の1

*漢文調で書かれていますので、原文を掲載せずに読み下し文と致します。

夫れ兵術は身を保ち、敵を亡ぼし、家を斉(ととのえ)、軍を治し、國を制し、天下を平らかにする之道也。
庶人之を得れば則ち身を保ち、勇士之を得れば則敵を亡ぼす。
大夫之を得れば其の家を斉(ととの)う。戦将之を得れば則軍を治す。諸侯之を得れば則国を制す。天子之を得れば天下を平かにす。
戦を以て戦を止むる之意也。是故鋭士(?)勇将、
威に於いて天下に立たんと欲する者は、兵術に由らざる無し。
而して兵術之要、
於て必ず克つより大なるは莫し。
彼此相対、鋒を交え刃を接せんと欲するの端皈に臨んで
彼以て来るべし、我以て往くべし。彼人也。我人也。
蜂台猶毒有、
況や人に於いておや。而しても又兵両(ふたつ)ながら勝たず、両(ふたつ)ながら負けず。
強弱分かるゝ所
生死罹る(かかる)所、危之至り也。慎まざるべけん乎。此の時において勝を白刃の前に決せんと欲すれば則自ずから剣闘之妙術を得る者に非ずんば、豈能く必勝の利を得ん乎。
仮令(たとえ)人膂力人に迥ぎ(りょりきひとにすぎ)、山を抜、鼎を扛(かなえをあげ)陸地に船を盪(あらう、動かす)如し。
亦剣術を得ざれば、必ず敵棲せられし所為り。
仮令人于将莫耶・大阿・竜泉の如く天下の妙剣を持つ有と雖も、亦剣術を得ざれば、必ず敵擒(とりこ)の所となる者也。
昔罫か荊軻秦王に誅せられたるは是也。

故に史記云う、荊軻惜しむらくは刺剣之術を講ぜざる。
大史公も亦剣術を貴ぶ此の如くなり。楚の項羽剣を学び成らずして曰く剣は一人の敵、学び足らず、我万人の敵を学ぶ。
此の言是に似て非なる者や。一人の敵を学ぶ能わずして、
豈能く万人の敵を学ばんや。
一人万人、多寡異なると雖も、敵を亡ぼす道に至りては一つ也。

項王身を死國に亡び、笑いを天下に取るは亦、宣哉(むべなるかな)

「夫れ兵術は、敵を亡ぼし、家を斉、軍を治し、天下を平らかにする之道」これは「大学」にある「脩身斉家治国平天下」によるものと思われます。
 兵術すなわち剣術は「一人の敵を学ぶ能わずして、豈能く万人の敵を学ばんや」と云い、「敵を亡ぼす道に至りては一つ也」と一人に対する兵法は万人に対する事にもなるのだと史記の荊軻の例をあげています。

 

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2020年11月 9日 (月)

月之抄を読むの1、月之抄序文

月之抄を読む
1、月之抄序文


 原文読み下し文として現代漢字、助詞、一部読み、意味を付しておきます。
 月之抄 序文
寛永三年(1626
年)拾月日、去る事ありて若の御所を退りて、私ならず山に分け入りぬれば、自ら世を逃れるゝと人は云うめれと、物憂き山の住まい柴の庵の風のみ荒れて、掛井ならではつゆ音のう(訪のう)者なし。
 此の世の外は他所ならじと侘びても、至れるつれずれ先祖の後を尋ね兵法の道を学ぶと云えども、習いの心持安からず。
 殊更ここは自得一味をあけて(上げて?)、名をつけて習いとせし。かたはら(傍ら、片腹?)多かりければ、根本の習いをも主々(主・主)が得たる方に聞き請けて、門弟たりと云へ共、二人の覚えはニ理となりて、理(ことわり)定まらず。
 さるにより秀綱(上泉伊勢守秀綱)公より、宗厳(柳生石舟斎宗厳)公、今宗矩(柳生但馬守宗矩)公の目録取り集め、流れを得る。
 其の人に問えば彼は知り、彼は知らず。彼知りたる、すなわち、是に寄せし。彼知らざれば、又、知りたる方にて是を尋ねて書きし。
 聞き尽くし、見尽くし、大形(大方)習いの心持ちならん事を寄せて書附けば、詞には云い述べやせん。身に得る事、易からず。
 折節関東へ一年下りしに夏の稽古始まりける。寛永拾四年(1637年)五月初日より秋終に至りて是を学ぶ。
 老父相伝一々書留て、此れを寄する也。此の記に寄せしめたる数々の習い、重々の心持ちを三つに分けて、三つをまた一つに寄せしめ、己の得路とせり。
 然れども、向こうまた斯くの如く、我に等しくあらん。敵には勝ち負け如何とも心得難し。さるによって、思う其の至極を一巻に述べる。老父に奉拝は父の曰く、これ等残らず焼捨てたらんに若くはあらじとや。
 尤も至々極々せりと思う心は、心の濁りなりと、得々してはあれとも、其の濁り無き心を自由に用い得る事堅いかな。
 于時沢庵大和尚へ歎き奉り、一則の公案御示しを受け、一心得道たらずと雖も、忝くも(かたじけなくも)御筆を加えられ、父が以心伝心の秘術、事理一体、本分の滋味、悉く尽きたり。この程の予が胸の雲晴れにけり。
 尋ね行く道の主やよるの杖
         つくこそいらね月の出れば
 因って此の書を月之抄と名付けん也。此処に至りて見れば老父の云われし一言、今許尊(こそ)感心浅からずや。此の如く云うは、我自由自在を得身に似たりには非ず。月としらば、闇にぞ月は思うべし 一首
 月よゝしよゝしと人の告げくれど
         まだ出でやらぬ山影の庵
 寛永拾九寛永拾九壬午(1642年)二月吉辰壬午二月吉辰筆を染む

 この序文には大変面白い内容が秘められています。柳生十兵衛が徳川家光の御所を辞して山籠もりしたのは何故なのか。穿ると色々の確執が見えてくるかもしれませんが、それは小説家にお任せします。

 十兵衛は、兵法の道の真実を求めるけれど人によって解釈がまちまちで理が通らない、仕方がないので新陰流の祖上泉秀綱、祖父柳生宗厳、父柳生宗矩の目録を集めて考え方の流れを調べてみた。しかし意味を知る者もあれば、知らない者も居る。知る事を聞き尽くし、見尽くしてみた、と云っています。一流の教えは一本筋が通っていると思いますが、さにあらずと云う事でしょう。

 寛永14年1637年に江戸に下る事があったので、実際稽古もして、分類もして自分の得たものとした。それにも関わらず、宗矩は自分の考えと同じではないと云って、「残らず焼捨てろ」と怒っていたのです。十兵衛は柳生新陰流の至極を得たと信じている。その父との確執を歎き沢庵和尚に伝えた処、和尚より公案をうけ、添え書きをしてもらったのです。

 父宗矩より以心伝心で得られた秘術、事理一体の心持ちが伝わり胸の雲が晴れたのです。
 尋ね行く道で杖を頼りにと思うが、月が出れば杖に頼る事も無い。
 よってこの書を「月之抄」と名付けた。此処に至れば老父宗矩の一言は今でこそ感心するばかりである。

 我はだからと言って自由自在を手に入れたと云う事ではない。月と云うのは暗闇の時にこそ月を思うものだ、と言って一首。

 月はいいよいいよと人は云うけれど、月はまだ出て来ない、山影の庵、まだまだ至極には至れないと歌っています。

 
 

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2020年11月 8日 (日)

月之抄を読むの前書

月之抄を読むの前書

 剣術の伝書は、柳生但馬守宗矩の兵法家伝書と宮本武蔵の五輪書が一般的で、特に剣術を志していない人にも多く読まれていると思います。
 剣術の極意とする心得を主とするものでありながら、剣を持たない多くの読者を持つと云う事は、業技法に留まらない心の持ち様の事が、人が生きて行上で参考とされて来たからと思います。同様に柳生但馬守宗矩と親交の深かった品川東海寺の沢庵和尚の不動智神妙録なども普遍的読者を持つもので、これ等は我が国の武術思想の根幹をなす教えが解りやすく述べられ、その後の武術各流派の教えの根幹をなしている事も見受けられます。

 ミツヒラは無双直伝英信流の修行者であると同時に柳生新陰流も稽古をして居ます。無双直伝英信流の古伝無雙神傳英信流居合兵法の古伝神傳流秘書には随所に柳生新陰流の影がちらつきその影響力は江戸期の幾つかの剣術流派にも多くの影響を及ぼしたと思われます。
 伝書は、秘されて他流の者が目に見る事は叶わなくとも、価値ある武術思想は、口伝えなどによって広く伝播していくのは当然の事でしょう。
 
 この一年ほど、無双直伝英信流の秘歌を皮切りに、無外流の百足伝、柳生新陰流の石舟斎兵法百首、塚原卜伝の卜伝百首と読み続けてその歌をブログに投稿して来ました。
 戦国時代から江戸時代中期前半のこれ等の歌の原書の写し書きも、今ではさしたる困難も無く望む者誰でもが見ることが出来、自ら読み下す能力さえあれば、歌い手の側に少しは近づく事も可能です。幸い書道を少々齧っていますので、古文書解読も何とか進められ、自分なりに糸口が見えていたものでした。
 
 そんな中で、品川東海寺所蔵の柳生新陰流兵法覚書を数年前に手にしておきながら、無雙神傳英信流居合兵法の古伝神傳流秘書に没頭して手に入れた当初ざっと読んだだけで大切に保管してありました。この度その解読を進めて行きますと、柳生新陰流の独特の武術用語に秘められた極意の心持ちが伝わってきます。読み解くに当たり尤も参考にさせていただいたのが柳生十兵衛三厳に依る月之抄でした。この品川東海寺所蔵柳生新陰流兵法覚書は江戸の柳生宗矩の原本を東海寺の沢庵和尚に見てもらった際、東海寺で写し書きされた様で奥書から推測されました。古文書の為虫食いや欠落も有った様で、内容は、尻切れであったり飛んでいたりしていますがほぼ、当時の様子を偲ばせます。
 その解説をブログで公開したい旨、お話しさせていただいたのですが、ブログのような不特定多数に配信する事を嫌われ不許可となってしまいました。東海寺本をもとに月之抄を読み込む事で柳生新陰流を深く知ろうとしたのですが、それは無しとして御蔵入りと致しました。
 現代的なNetによる研究発表が誰でも可能であり、誰でもより深い研究を読むことができ、素晴らしい論文も見られます。辿り着ければ幾らでも手に入れられる情報を嫌い、格式の有る対面指導、発行された書物以外は良しとしない考えには異論はありますが、400年も前の伝書の写しが眠ってしまうのは残念ですが、Netに嫌悪を抱かれるのも、人さまざまでやむおえない事でしょう。

 月之抄は柳生十兵衛が祖父柳生石舟斎の教え、父柳生宗矩の教え、その他を参考にまとめ上げたもので、柳生宗矩の教えに依るだけでしたら価値は半減するかもしれませんが、恐らく柳生新陰流の用語や極意の心持ちを精しく伝える伝書は、この「月之抄」であろうと思われます。

 今回はこの「月之抄」を原文を片手に読み解いて行こうと思います。項目で240は有る様ですから一日一項目としても8カ月以上かかるものと思います。
 内容は、言葉で理解出来ても、いざ剣を取って実行できる心に至れるかは、修行によるとしか言いようは有りません。柳生新陰流の形をすべて演じられても、其処に秘められた極意の心持ちは、形を「かたち」としてしか考えず稽古も順番を追って手足を動かすことを良しとする人には難しそうです。
 稽古をする中にこの柳生新陰流の教えを取り込めたなら、たとえそれが教えられたものと乖離しても、古伝により近づける糸口になるやもしれないと思いつつ、学んで見ようと思う次第です。

  原文は、漢字仮名混じり文で、漢字は行草、仮名は変体仮名の草書となります、その上独特の文字の癖が難解ですので、現代では原文の月之抄を見ても読めない、読めたとしても語句の意味が分からないのが当たり前です。随って、一般的には弟子は師匠の口伝ばかりが頼りですが師匠の一人合点では古流剣術は捻じ曲がるばかりです。幸い、私の新陰流の師匠は事理一致の師匠である事は幸せな事です。
 現代漢字及び現代仮名使いで読み下し文をのせ、同時に現代風読みを以て解説としますが、解りにくい処は資料を添えておきます。飽くまでも柳生新陰流の修行の根幹に触れる事を目的としますので、其の辺は読まれた方のご判断にお任せしておきます。

 参考とした伝書は、十兵衛三厳の月之抄原文。石舟斎の新陰流截相口傳書亊、没滋味手段口傳書原文。宗矩の兵法家伝書。兵庫助利厳の始終不捨書原文。

  

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2020年11月 7日 (土)

道歌6塚原卜伝百首4参考資料

道歌
6、塚原卜伝百首
4参考資料

 卜伝百首の参考資料
1、卜伝百首 藤原祐持写 弘前市立図書館
2、卜伝百首 田代源正容 綿谷雪解説
3、図説・古武道史 綿谷雪著
4、日本武道全集 日本剣術史第2巻 編者代表今村嘉雄
5、茨城の武芸剣の巻 茨城県剣友会編
6、武士マニュアル 氏家幹人著
7、上泉信綱伝新陰流軍学訓閲集 赤羽根龍夫・大介 解説校訂
8、不動智神妙録 沢庵
9、武術叢書 早川順三郎編
10、甲陽軍鑑第40下 磯貝正義・服部治則 校注
11、北條五代記 関東史料研究会発行
12、葉隠 山本常朝
13、武道初心集 大道寺友山
14、肥前武道物語 黒木俊弘
15、五輪書 宮本武蔵 
15、兵法家伝書 柳生但馬守宗矩
16、平家物語
17、太平記 神田本
18、孫子
19、図巻 雑兵物語 浅野長武監修・樋口秀雄校注
20、雑兵物語 金田弘
21、日本の弓術 オイゲン・ヘリケル
22、日本刀辞典 得能一男
23、刀剣全書 清水橘村編
24、塚原卜伝 大日本雄弁会講談者編著
25、塚原卜伝 中山義秀著
26、天真正伝香取神道流平法 大竹利典
27、天真正伝香取神刀流 椎木宗道 

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2020年11月 6日 (金)

道歌6塚原卜伝百首3伴信友後書

道歌
6、塚原卜伝百首
3伴信友後書

文政4年(1822年)巳年3月17日於官局写之
私云歌在九十七首 脱三首與(?) 他日加一校了
伴 信友
 
 常陸国鹿島宮の人北条時▢云、鹿島神宮に伝来の剣法あり、もとは上古流といひ、中頃一変して中古流といひ、更に変じて新当流といへり(いと古くは鹿島の太刀とのみ言ひ習へり、新当といへるは上古、中古二流に、新意を加へたる故なりとも、塚原卜伝神託の内、新当の義あるをもて名付たりともいひ伝ふ)当流起源伝國摩真人(天児屋根命十代孫、國摩大鹿嶋命之後世)常願表霊験之妙理作之法、伝後世、於高天原(私云、常陸の地名也)築神壇拝祷数年、蒙神聖之教、悟得神妙剣一術、是日本兵法之元祖、立規法之本源也と云々、この剣法、今宮人の座主吉川氏、大祝部松岡氏等の二家に存す、此剣法の達人古よりあまたありしが中に、鹿島塚原村の産に塚原土佐守高幹、後に卜伝といへるは中興の上手にて、世に武名を震へり(塚原幹安が子なり、元亀2年(1571年)11月卒、葬干須賀村梅光寺)、千日の間神宮に参拝して神感を蒙り、、一つ太刀の妙術を発揮せり、又其頃香取飯篠村の産飯篠山城守家直入道長威入道(長享2年(1488年)4月15日卒)と云るは、香取の新宮に千日祈請して夢中に神伝を得て、鎗長刀の術の精妙を悟れり、かくて卜伝は一つ太刀の秘術を長威に授け、長威は鎗長刀の妙業を卜伝に伝へたり(卜伝延徳元年1489年生まれと云う卜伝誕生の前年長威は没しています。ミツヒラ記)、さて卜伝諸国を修業して京へ上り、義輝、義昭両将軍に一つ太刀を伝へ、伊勢に遊びて北畠具教、甲斐に至りて武田晴信等に遇て秘術を説き示し、武田家の諸士あまた信服す、中にも山本勘助晴幸其術をよく得たり、其後郷里に帰りて門人ますます進む、中にも傑出の輩は鹿島の大祝松岡兵庫助則方、江戸﨑の浪士師岡一羽、真壁城主真壁安芸守入道々無、同所の郷士斎藤判官入道伝鬼等也(伝鬼後に一流をなして天流と称す)兵庫助則方は東照宮に一つ太刀の妙術を伝へ奉りけるが、御感ありて御染筆を賜へり(卜伝の子、小才治と云へるは豊臣秀吉公また加藤清正に剣法を伝へたり)又長威の門人の中にては松本備前守政信(鹿嶋氏の被官四天王の一人也)ことに秀たり、これは十文字の鎌鎗をも発明して、毎度戦場のほまれあり、有馬流の祖大和守幹信(鹿嶋氏の家人なり)新陰流の祖上泉伊賀守秀綱は政信の門人也、鹿島瑞験記に意文中、座主吉川直常、下総國神代村なる年来の弟子に剣法の奥義を伝授せる時、その内一人俄に狂乱しけるが、夢に汝触穢の障あるによりて此たびは相伝なりがたきよし神託ありし趣を記せり、
 同年10月29日書加え  信友
松本貞徳恩記に細川幽斎主の事をいへる条に、兵法は卜伝に一つ太刀まで御きはめ有し、此卜伝は何事にても人の芸能のいたりがほをするを見ては、いまだ手をつかで申といひきと追う仰られき(幽斎主の話なり)武具要説にも卜伝の事見へたり、
 信友再記


 塚原卜伝については江戸時代になってから「本朝武芸小伝」、「武芸流祖録」、「撃剣叢談」などにその由来を述べられていますが、どれも似たようなもので卜伝の影がおぼろに見える程度のものと思います。
 信友の後書にしても同様で、これを解説して見ても卜伝にたどり着く前に史実とのギャップを覚え、読んだだけで終わりとします。

 

 

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2020年11月 5日 (木)

道歌6塚原卜伝百首2田代源正容写序

道歌
6、塚原卜伝百首
2田代源正容写序

卜伝百首 天文永禄頃の人也(天文1532~1555年 永禄1588~1570年) 

 山城や船岡山のあたり此者のかたはらに、沢の庵となん云て墨には名のみそめて、心は露も清からぬあだ法師有けり。上衣を紫とかへ、今しも心あるさまにはもてきぬれども、猶よの貪りや深かりけん。
 本より住はつべき舎るあらぬ栖を追出せられて、是やこの逢坂の関を越えて東路の果て陸奥へおしやられ二度故郷は見るべくもあらざりしに、いかなる事にかわりきぬ。又なん九重の空に帰越(きえつ)る事になりて、其のかへるさに武蔵野や川越近き処に相知れる人有て年たけく又逢へるも思はねば、立ち寄りて一夜のやどりをもせよと聞へければ、色香をも知らず、知らるゝ中なるに黙止も如何かと思いいざない行しに、我が左遷の事ども語り語らいて後、主一つの巻物を取出してなん。
 過し世に塚原氏の入道卜伝とて、其心猛く其名高く其態百千万人に越、やんごとなき首(百の誤字か)の言葉なり。
 しか有れども是にしも序の文なく、見る度に遺恨なれ。
 願わくば一筆を染めよかし、良ければ知らばこそ、記さめ。
 知らざるに記さんはよしなしと、否いしかど赦さざりしかば遁れがたく、披き見るに武士の二つの道より始めて鋒剣の数品をかく、終には迷いの世をも離れぬべく尊き事を記せしにより、みるみる須臾まとめて思うに、人かわり、言かわり、所替り、能替れども、雨霰氷の異なるにしていづれか本の水ならぬはなし。
 此の言の葉、此の道によらん人、見よ、聞け、孰(いずれ)か愚かならん。
 仰(あたかも)鑚(きる)も及ばざるのみ。茲に教る事の高き比べれば、山猶ひくき。是に顕れるをの深きに比ぶれば、海猶あさし。
 又是を知る事の敵に比すれば石猶柔かし、弓挽(ひき)矢を放ち、鞭を揚げ、馬を勇め、鎧を着、鋒を携、名を揚、家を興す、人として是を見、是を聞、是を知り、是を覚えざらんは拙事にあらずや。
 百代をも経、千年をも過せ。此の道により此の記を得んは、目闇き亀の浮木にあへるに等しからんかも。

 磯際に書きあつめたる藻塩草
       根ざし無ければよしなかりけり

 これは卜伝百首の序で、沢庵和尚が陸奥へ左遷される際、立ち寄った坂東の川越辺りの知人から頼まれて書いた序文と云います。卜伝を知らないので序文は書けないと言って断ったが、強く頼まれ、其の卜伝百首に目を通し、此の道にあるならば見よ、聞け、人としても是を見、聞き、知り、是を覚えない様では劣ることになろう、とほめちぎっています。

 卜伝百首の成立は定かではありませんが、第三回廻国修行の後国へ戻って没したのが元亀2年1571年になります。最終のまとめは此の年としてみればいいでしょう。
 沢庵は天正元年1573年但馬で生を受け、57歳の時寛永7年1630年徳川幕府と対立し仏法の自立性・自主性を主張した罪(紫衣事件)によって今の山形県上山に流された。寛永9年1632年大赦により許され寛永11年1634年に徳川家光に会っています。
 この序文の内容が正しければ、序文は1630年に坂東を通過する際に書かれたものと云えるでしょう。卜伝の死から59年の歳月が過ぎています。

 この序文は、綿谷雪著卜伝百首 天保10年1839年田代源正容の写本の序文で写本のオフセット版から原文を読み下し文にしています。

 次回は伴信友による後書きを綿谷雪著卜伝百首より読み下し文を書き込んでおきます。

 

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2020年11月 4日 (水)

道歌6塚原卜伝百首1祐持写の序

道歌
6、塚原卜伝百首
1祐持写の序


1、苦は楽の種楽は苦の種と知るべし
1、主人と親とは無理なるものと思へ下人をば足らぬものと知るべし
1、掟に恐(おじ)よ火に恐(おじ)よ分別なきものにおじよ恩を忘るゝ事なかれ
1、欲と色と酒とは敵としるべし
1、朝寝すべからず咄(はなし)の長座すべからず
1、小なる事を分別せよ大なる事は驚くべからず
1、九分に足らず十分はこぼるゝと知べし
1、分別は堪忍に有と知るべし

 慶応二丙とら年 卜伝百首 八月 祐持写之
 奥書は 卜伝百首 祐持写之 藤原祐持所持

 冒頭に掲げられている「敬」八項目は元禄11年1698年水戸黄門光圀によって書かれたもので「敬 水戸黄門光圀卿九ヶ條禁書」から引用されたと思われます。

 九項目の内、三項目目にあった事項が抜けています・
「1、子ほどに親を思へ子なきものは身に比べおき手本とすべし」

 卜伝百首の参考文献は弘前図書館所蔵のもので弘前新町の岩見氏が所蔵していたものだろうと推測しますが、書写した藤原祐持についてはどのような人であったか解りません。 
 藤原祐持が何時卜伝百首を書き写したのかは、慶応二年丙寅年8月ですから明治維新の一年前1867年という事になります。藤原祐持が書き写した原本はどのようなものであったか記述がありませんから不明です。
 
 別本としたのは元亀2年1571年冬加藤相模守藤原信俊が写之とした卜伝百首を参考にしています。今村嘉雄編者代表「日本武道全集第二巻」より。元亀2年1571年は卜伝が第三回廻国修行から戻り此の年亡くなっています。
 
 今一つの別伝は綿谷雪先生がオフセット版にして出された 「天保10年1839年 己亥仲春 写之田代源正容」によるものです。いずれにしても原本とは言えませんが卜伝の思いを伝えていることには変わりはないだろうと思います。

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2020年11月 3日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の95学びぬる心に態(わざ)の迷いてや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の95学びぬる心に態(わざ)の迷いてや

学びぬる心に態(わざ)の迷いてや
      態(わざ)に心の又迷うらん

 此処まで学んで来た態(わざ)に更に迷っている、その迷う態(わざ)に心がまた迷うとは。

 態をわざと読ませています。わざの漢字は業・技・伎・和座・和座・和座・倆・態・芸・蓺
 「態」の意味は、すがた、かたち、ありさま、ようす、姿態、形態、状態。
 「業・技」の意味は、すること、しわざ、おこない。つとめとしてすること、しごと、職業。しかた、方法、技術、芸。こと、有様、次第。武道・相撲等で相手に仕掛ける一定の型の動作。(広辞苑より)
 卜伝が敢えて「態(わざ)」と書いた意図が読める様な気がします。「わざ」と読むと「業」をイメージすると、一定の「かたち」に収めたものが浮かんでしまうのは、多くの武術書が「業」の文字によって「形」を述べているからなのでしょう。広辞苑の解説も「一定の型」とされています。
 そうであれば「態」は固定したものでは無く、状況次第で「わざがうごく」事を思いえがきます。そしてそれは心も「無」であって無ではない事を意味する様です。

 此処までほぼ一年をかけて、多くの兵法歌を読んできました。卜伝百首はこの歌を最後の歌にしています。別伝では96首、或いは97首ともある様ですが、どれも原本ではないので文言に多少の違いが有っても似たようなものでしょう。歌の順番の狂いもさして気にならず略どれも同じような順序になっています。
 卜伝百首は卜伝の詠んだ歌か否かの議論もある様ですが、卜伝の逸話や史実でとやかく云うのはすべき事では無く、卜伝の兵法に有る筈です。しかしその兵法は歌から垣間見ることすらできません。

 卜伝百首を読み終えて、ふと思った事は、日本の武術は平安時代あたりから営々と受け継がれ、時代の要請によって進化しつつ、その役割を全うして来たことでした。特に室町中期からの卜伝の考え方が卜伝百首に収められ、その極みは新陰流として上泉伊勢守信綱に移り、柳生新陰流に転移し、一刀流や無雙神傳英信流居合道や無外流、田宮流に影響していることを強く感じています。

 奥伝百首の序文と後書きを原文のまま、次回以降に投稿して卜伝百首を終ります。

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2020年11月 2日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の94もののふは生死二つを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の94もののふは生死二つを

もののふは生死二つを打ち捨てて
       進む心にしく事はなし

 武士は生きるも死ぬもそのどちらも打ち捨てて事に向かって進む心に、及ぶ事はない。

 武士道は死ぬ事とか、死んだ気になってとか、死を連発して如何にもと見せている姿勢に、生への執着も潔い死も打ち捨てろ、無になる心に及ぶ事は無いと歌っています。

 この歌に至るまでに「心」について卜伝は七首を以てこんな風にうたっていました。
・88 武士の如何に心の猛くとも
          知らぬ事には不覚あるべし
・89 もののふの心に懸けて知るべきは
          勝った勝たれぬの敵の色あい
・90 もののふの心の内に死の一つ
          忘れざりせば不覚あらじな
・91 もののふの学ぶ教えはおしなべて
          その究みには死の一つなり
・92 もののふの迷う処は何ならむ
          生きぬ生きぬの一つなりけり
・93 もののふの心の鏡曇らずは
          立逢う敵を写し知るべし
・94 もののふは生死二つを打ち捨てて
          進む心にしく事はなし  
 
 此の心持ちの歌を続け読みして、最後に至るのは生死を思わず「無心」になる事で、武士が事に臨む際の心に至ったのでしょう。強く逞しく誰にも負けなかった若き日の卜伝が自らの兵法修行で辿り着いた心なのかも知れません。
 そんな事を思いつつ卜伝百首を読み進んで来て、山本常朝の葉隠れにしても、大道寺友山の武道初心集にしても、新渡戸稲造の武士道にしても、卜伝が辿り着いた「もののふの生死二つを打ち捨てて進む心にしく事は無し」の兵法の悟りの途中にある様な気がしてなりません。

 「お前ね~それは単に戦いに臨んでの心を、卜伝は歌っているんだ、常朝の葉隠れは違うよ、もっと次元の高いことを言っているんだ。解らんかね。」

 扨、どこが違うと云うのでしょう。
 生を得て生きている限りは生き抜く心掛けが無ければ、と卜伝は言っているのであって。
 いつでも死ねるいつでも死んでもいいなどと云う心掛けとは明らかに違います。

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2020年11月 1日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の93もののふの心の鏡

道歌
6、塚原卜伝百首
6の93もののふの心の鏡曇らずば

もののふの心の鏡曇らずば
      立逢う敵を写し知るべし

 武士の心の鏡が雲っていないならば、立合う敵が如何にしようとするのか、相手の心を写し知る事が出来ると知れるであろう。

 この歌の上の句の「心の鏡」ついて、卜伝は弟子達にどのように解説し伝えていたのでしょう。戦国時代末期から江戸時代に成立した剣術各流派も同様の教えが見られます。
 何かを写すとか知るとかの表現に「心の鏡」に写すとか言われます。広辞苑では「心の鏡」を清浄な心を鏡にたとえていう語。と云っていますが、この「清浄な心」が卜伝の云う「心の鏡」なのでしょうか。
 「清浄な心」とは何だと云っても「清らかで汚れのない心」と返って来たのでは「敵を写し知る」など出来そうもない。

 意味不明な事にこだわっていても、卜伝の思いが聞こえて来ないのです。下の句の相手の「心」すなわち、我に対して何をしようとするのかが判れば、それに応じる手段も出て来る筈です。
 新陰流で云えば新陰流截相口伝書亊の「色付色随事」、敵のはたらきを見てそれにのって勝事。
 無外流ならば無外流真伝剣法訣の十剣秘訣「神明剣」の教えによる「端末人未だ見えず、天地神明物に応ずる運照を知るを能わず、変動常に無く敵に因り転化す、事の先を為さず動きてすなわち随う」
 無雙神傳英信流居合兵法ならば「居合心持肝要之大事 居合心立合之大事」に「先ず我身を敵の土壇ときわめ何心なく出べし、敵打出す所にてチラリと気移りて勝事なり、稽古にも思い案じたくむ事を嫌う能々此の念を去り修行する事肝要中の肝要也」

 その敵の思いを知るには、「心の鏡曇らず」でなければならない、敵の考える事を無視して、勝つ事ばかり思い描いて、敵の隙に打ち込んだところ、敵は我が「色に付き色に随う事」を知って我が隙をついて来る。
 一刀流の「水月之事」、無外流の「水月感応」などの教えは、この「心の鏡」を水に写る月にたとえて教えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 
  

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2020年10月31日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の92もののふの迷う処は何

道歌
6、塚原卜伝百首
6の92もののふの迷う処は何

もののふの迷う処は何ならむ
       生きぬ生きぬの一つなりけり

 武士が迷う処は何かと云えば、生きよう生きようとするそれだけである。

 山本常朝の葉隠では「武道の大意は何と御心得候や、と問い懸けたる時、言下に答ふる人稀なり。かねがね胸に落着きなき故なり。さては、武道不心掛の事知られたり。油断千万の事也。武士道といふは、死ぬ事と見附けたり・・」と冒頭から語られています。

 常朝といえば、鍋島藩の侍で鍋島光茂に仕え、追腹禁止令の先駆けを寛文元年1661年に光茂が出している。追腹した者の子を取りたてるべき状況が既に無く、平和な時代には、かえって弊害の方が大きくなりだした。其の後寛文3年1664年には幕府によって全国的に殉死禁止令が公布されている。
 山本常朝は追腹を許されず隠居し田代陣基と出合い葉隠が残された。鍋島藩は柳生但馬守との関わりも強く小城の鍋島元茂は兵法家伝書を相伝している。その相伝の元茂の代理で山本常朝の叔父村上伝右衛門が柳生宗矩から受け取っている。(黒木俊弘著肥前武道物語より)

 常朝の武士道は二つに一つを選ぶなら迷わず死を選ぶのが武士道と決めつけ、今の侍は心が坐って居ないという。潔く死ねるのは祖先の名誉を汚す事無く子孫に花を持たせてあげられる時、現実性があるかもしれません。然し追腹禁止とは、追腹した家臣の子弟を取り立てる事がむしろ弊害と解って来た武士社会の変化によるもので、追腹したとて何も残せない時代と成って来たことを表しています。
 出来の悪い子弟に役目を引き継がせるよりも、出来の良い若者を新たに採用した方が良いに決まっているでしょう。
 卜伝の嘆きも時代に乗り切れない彼の潔く死を選ぶ安易なものでは無く、「生きる」生きている間に夢を追って望みを遂げようとする、武士が公家の下に置かれていた時代から、本格的な武士社会の到来した事を表している様な気がします。

 現代でも、武士道精神などと云って、葉隠れにあこがれ意味不明な懐古趣味の「おっさんたち」がいるようですが、武士道精神も時代と共に動かなくてはならないのでしょう。封建的な上から下を見る社会に於て、上が望む事に下が合わせる事で、生き死にの基準を求めた社会が常朝の立場であり思想でしょう。
 卜伝は、小さいながらも城主でもあった様ですから、それと、兵法者として生き残る事は思想の根底に無ければ成り立たないと思うのです。臍を曲げて「生きぬ生きぬ」は「死ぬ死ぬ」だと読むのも一つでしょう。その時の「死ぬ」は何でしょう。

 コロナウイルスの緊急事態宣言によってステイホームを要求され、自宅勤務による多くの変化が明らかに見えて来ました。
 企業の存在は場所では無く、そこへ行かなくとも企業活動に関われること。残業や早出の評価より業務達成度の方が大切な事。学校に行かなくとも勉強が出来る事。通勤通学の電車の混雑やエネルギー消費の無駄が無くなる事。高い事務所費用もその周辺の住宅街の集中などの緩和も。さがせばいくらでもでてくるでしょう。
 反面同僚とのかかわりが薄れ、所属意識が低下する。人間関係が企業人関係から新たに作られるなどなど。
 生産工場ではロボット化・機械化・AI化の促進によって出勤日数や時間の短縮なども夢ではない。
 それは、今までの常識である、ある特定の場所に参加する人が集まって事を為すのではない時代を要求されたことに外ならない。
   ミツヒラ 思いつくままに(2020年5月21日書之) 
 

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2020年10月30日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の91もののふの学ぶ教え

道歌
6、塚原卜伝百首
6の91もののふの学ぶ教え

もののふの学ぶ教えはおしなべて
       その究(極)みには死の一つなり

 武士が学ぶべき教えは総て一様に極まる所は死の一つである

 武士が学ぶ教えの究極は「死」、死ぬ事を教えるのだと云うわけです。
 礼儀作法から、刀の扱い方、歩き方、構や業技法など「かたち」を習い、其の業技法の運用は形ばかりで、決まってない。その上後の先だ、先後の先だとか、教える方も解ってない敵の害意を察してとか。仮想敵相手に一人稽古して見たり。棒振りの当てっこで勝ったの負けたので一喜一憂して。そうかと思えば、抜こうとしたら柄がしらを抑えられたり、柄を取ったのに投げ飛ばされたり。随分色々学んだり稽古を重ねて来たものです。
 現代では、主君の為に親の為に命を投げ出しても、「命を懸けるのは解ったけれど死んでしまってはね~。」と云われるばかりです。

 武術はコミュニケーションの最終手段、正しいと信じた事を貫き通すには死ぬつもりが無ければならない。

 武術の業技法から一気に「死」にはつながらない。業技法を見事に演じられるには、状況を把握し即座に手足がそれに応じる回路を作り上げ、尚且つもっとも良い状況を作り出すために其処に誘い込んで、シナリオを演じる。
 然しより優れたシナリオを作り上げたものには打ち負かされてしまう。「かたち」を追い掛ける「マニュアル」が無いと何もできない人間には、コミュニケーションの最終手段にも、まして信じた事を貫き通すなど出来っこない。

 「死」の意味が、心臓が止まり脳死にいたる、生物の死をイメージしたのでは無く、もっと抽象的な死を思い描いてしまいます。
 全世界に脅威を振りまいているコロナウイルスに対応し、吾々一人一人がその立場立場で全知全能を駆使して戦っている。そんな時に「コロナウイルスを避けられなければ人類皆死だよ、お前さんどうする」と云われ「死ぬだけ」などと云って居られない。
 死は望まずとも、いずれ誰にでも来るものです。其の死と「もののふの学ぶ教えはおしなべてその究みには死の一つなり」の「死」は同じではないのでしょう。遠い昔の教えでは無く、今を生きる者にも心を揺さぶられるものとして歌を読みたいものです。

 卜伝の正しい経歴も、其の武術の内容も、ましてその心も伝わっているとは云い難いのですが、武術の究極は「死」と云い切っています。

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2020年10月29日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の90もののふの心の内

道歌
6、塚原卜伝百首
6の90もののふの心の内

もののふの心の内に死の一つ
      忘れざりせば不覚あらじな

 武士の心に常に忘れてはならない事は死である、それを忘れたのでは武士と云うわけにはいかない。

 此処での「死ぬこと」及び「不覚をとること」の根本的思想を卜伝はどのように捉えていたのでしょう。死ぬことは、如何なる人でも避ける事の出来ない運命である事は周知のことです。其の死を受け入れる事は誰でも容易なことでは無いでしょう。それを軍や真剣勝負によって「今」だと認識する事をその状況で忘れるなと云う。
 それほど死を思えと云う本当の所は何なのでしょう。
 名を惜しみ名誉の死でありたい等の死ではなく、如何に生きたかを思えと云う事で無ければ意味はない。その生きざまも、自分の幸せであったことが、身近な人々の幸せも得られたと思える満足の死である事を望みたいものです。
 
 武士とは何なのだ、武士とは国の為、主君の為、先祖の名誉を担い、今ある家族や子孫の幸せを願い、それを阻害する敵と戦い潔く死ねる者が武士なのか。
 卜伝のように国を出て三度も廻国修行し、尚且つ戦争と聞けば助っ人を買って出、兵法者の仕合とあれば真剣で立合うなどが武士らしい死と云えるのでしょうか。卜伝の武士とはこうあるべきという思想が見えて来ないのは、常に死の状況に出合っていたあの時代とは、私の今が根本的に違うのでしょうか。

 大道寺友山の「武道初心集」では死について「武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取始るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。・・今日有て明日を知ぬ身命とさへ覚悟仕り候におゐては主君へもけふを奉公の致しおさめ親へつかふるも今日を限りと思ふが故主君の御前へ罷出て御用を承るも親々の顔を見上るも是をかぎりと罷成事もやと存るごとくの心あひなるを以主親へも信実の思ひいれと不罷成しては不叶候。さるに依て忠孝のふたつの道にも相叶ふとは申にて候。・・死を常に心にあつる時は人に物をいふも人の物云う返答を致すも武士の身にては一言の甲乙を大事と心得るを以て訳もなき口論などを不仕・・」天保5年1835年版 大道寺友山は寛永16年1639年生~享保15年1730年没

 山本常朝の語らいを田代陣基が書いたと云う葉隠には「武士道というふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし、胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにするは及ばぬことなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きな方に理が附くべし。若し図にはづれて生きたらば腰抜けなり。この境危きなり。図にはづれて死にたらば犬死気違なり、恥にはならず。これが武道には丈夫なり。毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道の自由を得、一生落度なく、家職を仕果たすべきなり」宝永7年1710年に陣基は常朝に初面会しています。

 

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2020年10月28日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の89もののふの心に懸けて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の89もののふの心に懸けて

もののふの心に懸けて知るべきは
        勝つ勝たれぬの敵の色合い

 武士の心に懸けてでも知るべき事は、この相手には勝つことが出来るだろうか、勝つことは難しいだろうか、どの様にして相手に勝つことが出来るだろうかと瞬時に把握する心の目を持ち、敵の色合いを知る事である。

 卜伝の歌の意味は、どの様にして相手に勝てるかと云う以前の、相手のすがた形、立ち居振る舞い、発する言葉からでも感じられること。この人には勝てる、勝てないの判断にとどまっているかもしれない。
 どの様な相手であっても、必ず勝つための秘策についてまで言及していないとも読めるのですが、それでは最初から勝ち負けを決めてしまう事で兵法などと云うものでは無いでしょう。

 相手の経歴や、容姿、武器から手に負えないと決めてしまえば相手も楽で良い。我はたゞ死ぬばかりで、是迄の修行は何だったろうと思うばかりです。
 どの様にして勝つかは、相手の得意とする事に引き込まれずに、我が勝口に相手を引き込み勝以外に無い。新陰流ならば活人剣であり、懸待表裏であり、色付色随事であろうかと思います。それには心の目を養い、棒心に本心が操られない心の修行が必要でしょう。
 兵法の歌で随分勉強して来ました、さて古流剣術にしても古流居合にしても稽古は、其の流の幾つもある「形」をただ、順番通り手足を動かし「かたちを決める」ばかりの武的演舞の繰り返しではそれまでです。

 

 

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2020年10月27日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の88もののふは古き軍の物語

道歌
6、塚原卜伝百首
6の88もののふは古き軍の物語

もののふは古き軍の物語
     常に聞くなば便りあるべし
別伝
もののふの如何に心の猛くとも
     知らぬ事には不覚あるべし

 武士は古い軍の物語を、何時も読んだり聞いていたりしていると、軍の便りが聞こえて来るものだ。

別伝
 武士はどんなに心が強く勇ましくとも、知らない事には不覚をとるであろう。

 卜伝の時代に手に入った「古い軍の物語」には何があったでしょう。日本はもとより中国のものなども読めたと思います。卜伝以前の戦記物を上げてみます。
 将門記・純友追討記・陸奥話記・今昔物語・保元物語・平治物語・平家物語・承久記・
 太平記・曽我物語・義経記・明徳記・応承記・永享記・応仁記 etc

 中国のものでは。
 孫子・呉子・六韜・三略・史記・論語・孟子・老子・荘子・大学 etc

 日本の古い易から見た軍法書では、訓閲集(きんえつしゅう)なども卜伝の時代に新陰流の上泉伊勢守から伝わっています。

 別伝は歌に詠まれた通りの事で、強く勇ましいばかりでは、喧嘩には勝ててもそれ以上にはなり得ない、かと言って知識だけでは喧嘩にもならない。卜伝は勉強しようと進めています。棒振りの経験値や、形稽古による習いごとだけでは、より困難な事には役に立たない、と云うのでしょう。現代では剣による兵法に依って戦に寄与する事はあり得ない時代です。ともすれば勝ち負けを争うスポーツや健康維持のための老人体操に若いにも関わらず終始してしまいます。

 

 

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2020年10月26日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の87もののふの知らでなかなか

道歌
6、塚原卜伝百首
6の87もののふの知らでなかなか

もののふの知らでなかなか拙きは
       弓馬鑓とかねて知るべし

 武士が十分知らずに上手く出来ないものは、弓・馬・鑓とであると知るべきである。

 特にここで武士の多くは、弓・馬・鑓の扱いが上手でないと云います。太刀・刀の剣術・薙刀・大太刀・棒などにまで触れていないのはなぜなのでしょう。卜伝に入門して廻国修行に従って歩いた数は、卜伝百首を書写した加藤相模守藤原信俊の奥書では「百余人の属徒を具し、鷹を据えさせ、馬を牽かせ」と大変な集団が移動して歩いたり、助っ人になったりしたようです。この一文の出処は解りません。
 
 甲陽軍鑑品第四十下によれば「つか原ぼくでんは、左様にきとくはなけれ共、兵法修行仕るに、大鷹三もとすへさせ、乗替えの馬三疋引せ、上下八十人許召つれありき、兵法修行いたし、諸侍大小共に貴むやうに仕りなす。ぼくでんなんど、是は兵法の名人にて御座候。」

 信俊の卜伝兵法百首の奥書は天明6年1786年ですが、甲陽軍鑑は最古のものは明暦2年1656年になりますから、この辺にあったかもしれません。人数などの数字は一致していません。

 卜伝は弟子を連れて廻国修行していた兵法者であったようで、その弟子に「弓・馬・鑓」は充分稽古しなさいと諭していたのかも知れません。戦国時代には、騎馬による戦闘も歩兵による鑓の集団にとってかわられ、弓は卜伝の54歳のころ天文11年1542年に鉄砲が種子島に伝えられ戦闘方法がどんどん進化している時代だったでしょう。鑓はともかく馬・弓は戦法の変化と鉄砲の参入による変化を弟子たちは感じ取っていたかもしれません。

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2020年10月25日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の86もののふは鞠琴鼓枇杷笛に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の86もののふの鞠琴鼓枇杷笛に

もののふの鞠琴鼓枇杷笛に
      心盡すは愚かなるべし

 武士が鞠琴鼓枇杷笛などの芸事に現を抜かすのは馬鹿げていることである。

 室町時代の上級武士の遊び事や芸事は、室町時代以前から引き継がれたものと、この時期に成立したものも多そうです。茶の湯・生け花・水墨画・平安時代からの能楽・連歌など現代の基礎がこの頃作られたとされています。
 卜伝が否定する鞠・琴・鼓・枇杷・笛などは卜伝の時代以前からの遊び事、習い事の様です。明日の命もままならない様な時代に心から楽しめる遊び事には、人は引き付けられていくでしょう。それが円満なコミュニケーションツールだったかもしれません。卜伝は酒も飲み過ぎないように程々は良い事とも云っています。
 
 遊び事に心を盡さずに、何に夢中になれと云うのでしょう。卜伝の兵法に打込めと云うのでしょうか。恐らく卜伝を師事して従って来た門人達の身分はどの様であったでしょう、武士でも家督を継ぐことが出来ない次男三男、なかには平民や農民、下克上で主を失った浪人達、それらは卜伝から遊びをするなと云われなくとも叶わぬ人達だったかもしれません。この歌が卜伝の上級武士や官僚を揶揄する歌であれば、犬の遠吠えの様なものです。

 
 
 

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2020年10月24日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の85もののふは軍の事を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の85もののふは軍の事を

もののふは軍の事を常々に
      思はざりせば不覚あるべし

 武士は軍の事を常々思う事も無いようでは不覚を取るであろう。

 この歌で卜伝は何を言い残そうとしたのでしょう。
 卜伝は真剣勝負十九度、軍の場に踏むこと三十七度、其の外に見聞きした軍を幾つも経験しているでしょう。事実は全くわからないものですが、卜伝と云う兵法者が室町時代中期から末期に存在したか、何人かが合わさって卜伝かも知れません。卜伝百首も卜伝の歌かどうかも読む時疑問を感じる事もしばしばです。

 過去の軍の一つ一つの事が常に頭の中を駆け巡る。勝利に酔いしれるばかりでなく、殺さずとも良かった仕合、殺すべきであった仕合、勝ち軍、負け戦。
 卜伝が大将として大軍を率いて戦った話は特に残されていないので、門人等を連れて、その戦に限り助っ人として参加したのかも知れません。
 この歌での軍(いくさ)は廻国修行での一対一の真剣勝負、山越えなどの盗賊との争いなどでもそれでしょう。生き残り勝ち残る事を常に思う。
 武器の手入れ、引き連れた門弟の状況などにも気を掛けなければならない。修行中で無くとも戦国中期から末期は至る所で小競り合いは有ったでしょうから、武士である以上は、武術は怠り無く体は何時如何なる状況でも応じられる心掛けが歌われたとしても、頷く事かも知れません。

 卜伝百首は、其のまま武術修行の参考となる歌と、その歌を表題として何を自ら模索していくのか考えさせられるところでしょう。この歌などはその良い例でしょう。

 此処までの兵法百首中85首を歌いながら、卜伝の歌には「孫子の兵法」や、平安時代の大江維時の「訓閲集」の教えの形跡が読み取れない気がしています。実戦経験から悟り得た兵法の歌なのかもしれませんが、何か物足りないのは、令和の時代きな臭い匂いはしても、平和な時代だからでしょうか。
 この歌の「軍の事」とは、軍の何を常々思い出して、次の軍の参考としようとすればいいのでしょう。卜伝の門人の中から武芸者は生まれていたとしても、一国一城を預かる武将は生まれたのでしょうか。卜伝に指導を受けた人に将軍足利義輝、伊勢の国司北畠具教、細川幽斎などが名を連ねるそうですが、護身術としての剣術を学んだのは兎も角、さていかがなものでしょう。

 
 卜伝にしても生涯に三度もの長期武者修行の旅に出て、助っ人参戦も37度と云われます。
 鹿島氏の出城塚原城の主と成る事を約束されながら、二度の廻国修行出て戻った時は44歳、此の時妻帯したとされますが十年ほどで妻を亡くし、67歳にして第三回の廻国修行に出ているのです。
 卜伝の逸話は少年時代に読んだ講談社の少年講談全集塚原卜伝に集められ講談として読んでいます、其の数々の武勇伝は楽しいものでした。それらの講釈師の話や歴史的事実を繋いで小説とした中山義秀著塚原卜伝も面白い読み物です。
 

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2020年10月23日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の84もののふの其の暁を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の84もののふの其の暁を

もののふの其の暁を知らぬこそ
       鼠取る道知らぬ猫なれ

 武士なのに夜明けが来たのも知らず気に寝ている様では、ネズミをとる事を知らない猫のようなもので役に立たないものだ。

 「暁」とは、夜は、よい・よなか・あかつきの三つに分けられ、古くは暗いうち夜が明けようとする時。よあけ、あけがた。ある事柄が実現したその時。(広辞苑)

 鼠をとる事を知らない猫なんて、昔からいたのですね。生まれて間のない子猫を貰って来たことがありました。
 或日鼠をくわえてテーブルの上に置いて、自慢そうに家内の顔を見上げたそうです。鼠嫌いの家内は、びっくりして「捨ててらっしゃい」と大声で叱ったそうです。何を叱られたかもわからず、子猫は慌てて鼠をくわえて飛び出て行ったとか。それ以来鼠を持ち込んでこなかったそうです。
 最近は野良猫は見ても鼠は見た事がない、猫の糞にコガネムシやバッタの類の甲殻部分が混じっていて野良猫も食べ物には苦労している様です。

 卜伝は武士は夜明けとともに起き出して、兵法の稽古をしなさいとでも云って居るのでしょう。ただ早起きするばかりでは意味はない。

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2020年10月22日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の83もののふの夜の眠り

道歌
6、塚原卜伝百首
6の83もののふの夜の眠り

もののふの夜の眠りを覚ましつつ
       四方の騒ぎを聞くぞゆゝしき

 武士は夜寝ている間も眠りを覚ましながら、四方の騒がしい状況を聞くのはあっぱれな事である。

 「眠りをさましつゝ」と「聞くぞゆゝしき」の語句が気になるのですが、深い眠りに落ちていても、この時代は現在の静寂とは違って全く静かで、物音ひとつ聞こえない状況とも云えるでしょう。そんな時周囲の物音に目を覚ましつつ、その騒ぎの状況を読み取る程の心掛けを「ゆゝしき(あっぱれ)」と思うと歌っていると思えるのです。
 もう一方では、「武士は周囲の騒ぎで眠りを覚ましつつ聞き耳を立てるなどとは「ゆゝしき(うとましい)」とも云えるかもしれません。小さなことを一々気にするなと云った程度のことですが、この解釈で戦国時代の一流の武士とは言えないでしょう。
 どんな小さな変化も見逃さない心掛けを持ちながら、即座に状況を判断してそこに居付かない修行を求めていると思います。

 

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2020年10月21日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の82もののふの雪にやけたる

道歌
6、塚原卜伝百首
6の82もののふの雪にやけたる

もののふの雪にやけたる手足おば
       酒温めて洗うとぞよし

 武士が雪焼けに手足がなってしまった時は、酒を温めて洗うのがよい。

 日焼け雪焼けは紫外線による火傷と同じと云われます。まずしっかり冷やし、ワセリンなどを塗って保湿し、ビタミンCや亜鉛のたっぷり含まれているものを食べる。こんな風にして来たような気がします。
 現代では日焼け止めのクリームや日焼けした時の塗り薬も有るのでそれで対処し、ひどい時は医者に行く。皮膚もほてって痛い水膨れなども出来たり、おさまって来れば日焼けで真っ黒、秋になってシミ、ソバカスが気になります。

 卜伝百首は雪目にやられた治療法は特に無いのですが、当時はサングラスなど無いので、雪野原での行進は、兜のひさしを目深にかぶるとか、手ぬぐいで光の侵入を少なくするとか眼を保護しておかないと、雪目もあったかもしれません。上杉謙信の出陣は雪の消える頃に関東に出て来り、雪の降る前に引き上げたりしていた様に、何かで読んだと記憶しています。
 遮光器具などアイヌのようなものを手作りしていたかもしれませんが、資料不足で解りません。

 雪焼けに「酒温めて洗うとぞよし」と云うのは医学的根拠から見ても充分効果のある治療法です。酒と云えばアルコールばかり思い描きますが、日本酒にはアミノ酸が数種類含まれています。
 雪焼けも日焼け同様まず「冷やせ」ですが、「酒温めて」は寒い中で冷たい水では飛び上がってしまいそうです。人膚程度に温めて塗れば良いのです。
 アミノ酸はコラーゲン等の膚を構成するたんぱく質の原料です。その上肌の角質層に含まれる天然保湿因子の主成分セリンはアミノ酸の一種です。
 

 

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2020年10月20日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の81もののふの狩り漁(すなどり)を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の81もののふの狩り漁(すなどり)を

もののふの狩り漁(すなどり)を好まずは
         如何なることも身をかくさまし

別歌
もののふの狩り漁猟(すなどり)を好まずば
        いかなる事に身をさらさまし

 武士が狩猟や漁猟を好まないのであれば、どのような事にも身を隠すことになるだろう。

 別歌も同様の解釈で、「武士が狩猟や漁猟を好まないのであれば、いかなる事に身をさらす事になるのだろう」。武士は軍の場での戦いをする人であるが、平和な時には鳥や獣の狩りをしたり、魚や貝を取ることをして体を鍛へ、農民や商人達と接する事で人望も得られるものでしょう。それを嫌ってしまったのでは、どの様な人物かも理解されず、身を尽くしてくれる領民も現れない。この歌は「そんな事でどうする」と諭されている様に思えます。

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2020年10月19日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の80もののふの常に踏む足

道歌
6、塚原卜伝百首
6の80もののふの常に踏む足

もののふの常に踏む足心して
       事に臨みてみだらぬぞよき

 武士の何時でも踏み足のリズムを整えて置き、事に臨んでもリズムが乱れないのがよい。

 踏み足が乱れない様に、と云うのです。酔っぱらって千鳥足になったり、疲れてよろよろしたりしない。
 常に何が有っても同じ足踏みの調子を整えて置く、足踏みは心の乱れに現れる、でしょうね。体調による乱れよりも、勝負に臨んでの心の持ち様によって、不安な時、慢心の時。平常心を失ったのでは、普段の稽古もどこかへ行ってしまいそうです。

 武蔵は兵法35箇条で「足づかい、時々により大小遅速は有れ共、常にあゆむごとし。足に嫌ふ事、飛足、うき足。ふみゆする足、ぬく足、おくれ先立つ足、是皆嫌ふ足也。足場いか成る難所なりとも、構ひなき様に慥かにふむべし。」と云って、「常に歩む如し」を良しとしています。

 柳生宗矩は兵法家伝書で「歩みは早きもあしく、遅きもあしゝ。常の如くするすると何となき歩みよし。」 

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2020年10月18日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の79もののふの夜の道

道歌
6、塚原卜伝百首
6の79もののふの夜の道

もののふの夜の道には燈(ともしび)を
       中に持たせて端を行くべし

 武士が夜道を行く時は、燈火を道の真ん中の方に向けて持たせて、我は道の端を行くのが良い。

 道の右側を行く時は燈火は我が左方、左を行く時は右方に有る様にして、明かりの後に我は居ないようにする、それによって灯りを目当てに切って懸る敵は空を斬る事になるとでも云うのでしょう。
 この歌で気になるのは「燈を中に持たせて」の文言の「もたせて」の解釈の仕方ですが、従者に持たせるのか、自分が持って行くのか迷います。従者に道の中を燈火を前にして行けば、敵は従者を斬ってしまいそうです。此処は自分で燈火は持つべきです。

 何時如何なる場合でも危険を避けられる状況は先師の教えはもとより、自分でもよく考えて、工夫すること、決められた「かたち」ばかり守っている優等生では生き残れないと知るべき処です。

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2020年10月17日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の78もののふの道行く連れ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の78もののふの道行く連れ

もののふの道行く連れの有る時は
        何時も人をば右に見て行け

 武士が道を行く時に連れがあるならば、何時でも連れの人を右側に見ながら行きなさい。
 
 前々回の歌は「もののふの道行く時に逢う人の右は通らぬものと知るべし」でした。右側は不意打ちに逢い易いと云うような解釈でしょう。
 今回の歌は、同行する人はいつも我右側に見ながら行くべき、と教えています。右に見ながらですから右後ろ、右真横は 見えませんから、やや右前が良さそうです。
 相手が我に殺意があると感じた場合は特にこの心得は有効でしょう。相手が鍔に手を掛ける、柄を握る、丸見えです。相手には害意が有って身分が我より下の場合は、お先にとへり下って一歩下って連れ立つとかの場合は、露払いをしてもらうのでしょうね。我が相手より身分が低い場合は一歩下って連れ立つ、是は我に有利そうです。
 卜伝百首は卜伝の経験値から一方的に決めつけられる印象があるのは、卜伝崇拝に染まった人はそれだけに居付いてしまいますが、何故そうするのかを自分で考え、状況次第や相手次第による展開を即座に描けるものでなければ、「もののふ」などと云えそうにありません。現代風に形にはまったマニュアルがあれば楽な面はあるでしょうが、それではただの剣舞です。武術は「習い・稽古・工夫」のスパイラルで自由な発想からあらゆる状況に応じられる心と体を鍛えなければ稽古の意味は、古伝に依る健康体操に過ぎません。自分流を開きそれが次の時代のマニュアルになるものでしょう。形に拘って役立たない、変化し過ぎ奇をてらった大道芸ではすたれてゆく。そんな事を考えてしまいます。

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2020年10月16日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の77もののふの道行く時に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の77もののふの道行く時に

もののふの道行く時に曲り角
      避けて通るぞ心ありけり

 武士は道を行く時に、曲り角に出合った時は、通過する際に注意深く避けて通る事を心がけるものである。

 歌の文句通り「曲り角避けて通る」と云う分けにはいかないでしょう。注意深く通過するなり、曲るなりするのは現代の自動車の運転の注意と思えばいいのでしょう。
 道交法の定めや、交差点での信号の指示に自然にしたがっています。約束事が摺り込まれていますから市街地ではかなり安全です。郊外で信号のない道路では、見通しが良い所は楽ですが、建物や木々に遮蔽されていたりすると、安全運転は欠かせません。卜伝の時代には信号機も約束事も無かったでしょうから、見通しのよくない曲り角は無造作に通過するのは危険と考えるのが当然でしょう。
 

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2020年10月15日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の76もののふの道行く時

道歌
6、塚原卜伝百首
6の76もののふの道行く時

もののふの道行く時に逢う人の
      右は通らぬものと知るべし

 武士は道を進む時、向こうから(前から)来る人と出合うならば、其の人の右側は通らない事と知っておくべきである。

 狭い道路で、進行方向の右側を通行すると、我が刀の鞘と、前から来た人の鞘とがすれ違いざまに触れる事があるでしょう。どっちが悪いのか知りませんが「無礼者!」ってわけで喧嘩になる話が、ほんとか嘘かチャンバラ小説には出て来ます。卜伝の歌の場合は前から来る人の左側を我は通れと云うわけで、当然相手も我の左側をすれ違って行きます。
 刀は左腰に指し柄頭が我が正中線上、又は鍔が正中線上ならば刀の鐺は柄頭とほぼ水平ならば左体側より一尺程外にあります。

 この歌は、前方から来る人の右側を通るなと云うのですから、我も前から来た人も進行方向の左側を通行するなというのです。この場合は鐺が触れ合う事は無いのですから右側通行の、鞘当ての心配はないでしょう。

 卜伝の歌の教えは概ね「何故」の解説がありませんので「何故だろう、どうしていけないのだろうか」は自分で考える事になります。
 太刀も刀も左腰に位置するので、無双直伝英信流居合兵法の場合は、右手を柄に掛け右足を踏み込んで左から右への抜き付け、或いは左上から右下への抜き付け、左下から右上への抜き付けが標準的な抜付けです。
 これは正面からハチ合わせの抜き方ですが、我が右側を通行する相手ならば右足の踏み込みを相手に向けて踏み込むや抜き付けるのには、我も相手も道路の左側通行は居合抜に適していると思われます。
 我右側を通過しようとする相手には抜き付けしやすいという事で「道行く時に逢う人の右は通らぬものと知るべし」と云うのは妥当です。当然ですが後から敵が来た場合も、敵は我が左側ならば抜き付けし難いのですが、右側を通り過ぎようとするならば、右廻りに振り向きざま抜打ちするのはやり易いものです。抜刀法の「後敵抜打」で稽古されています。同様に左側から来る敵には左廻りは「後敵逆刀」が有ります。稽古ではどちらも真後に居る敵の想定ですから、形だけやっている人はその優位性が判断できないかもしれません。
 前から来る敵に対しては、我が左側を通過しようとするならば、右足を相手に向けて左方へ踏込めば良いだけなのです。右側を通過しようとするならばより容易です。
 道が狭く相手とのすれ違いの間隔が近ければ、敵が左側を通過しようとするならば間境で抜刀し左脇に刀を添えて行き違いざまに払い捨てる無雙神傳英信流居合兵法の抜刀心持之事「行違」が可能です。
 
 子供のころから剣豪塚原卜伝の小説などで卜伝崇拝の先生方も多いでしょうから、卜伝に一票ですが、私は右であろうと左であろうと相手に殺意があるならば、此方に其れを察する力が無ければ切られてしまうと思います。此処は状況次第で、道路の左側を通っていたならば立ち止まってやり過ごすとか、更に左に避けて通るなり、道路が広いならば右側に数歩前から変わるなりする事で、何とでも出来るものです。
 習慣的に武士は道路の右側通行する事は、抜打ちを避ける手立てとして行われたと思いますが、交通法規があったわけでは無いので状況次第が妥当でしょう。

 

 

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2020年10月14日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の75もののふの被ける笠の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の75もののふのかづける笠の

もののふのかづける笠の布の緒を
        仮につくるも習いなりけり

 武士が頭に被る笠の布製の緒を、かりそめにも作ることが出来るのも武士の習いである。

 一流の武士ならば傘の緒ぐらいは、自分で付け替えることなども出来て当たり前というのでしょう。この歌も門人を育てようとする卜伝の思いから出て来る歌かも知れません。一流の武士は付き人に任せればいい様な事でも、まず自分から進んで出来る位の知識と行動力が無ければ良い付き人も得られないかもしれません。

 

 

 

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