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2010年1月

2010年1月29日 (金)

足の踏み方(能)

道場の床にテーピングをして、謡を歌いながらお能を稽古されているお年を召したご婦人とご一緒に一人稽古をしたことがあります。

謡の声が聞こえるだけで足音一つしない、床を滑るような見事な摺り足を見せていただきました。

居合膝で、腰の振れも無く、上体も上下動無く、左右の揺れもありません。

正に武蔵の「爪先を少し受けて」の歩みでしょう。お能では「足を運ぶ」なのでしょう。

終了時間間際に「恐れ入りますが摺り足のご教授賜りたい」と申しますと、はじめ怪訝な顔をされていましたが、すぐに意図する事が分かったのでしょう。

「立ち姿は、同じですね、では」と、見本を見せていただきました。はじめは片足に重心を移し、膝下が振り出されます。重心を振り出した足に移して残った足を振り出します。

爪先を蹴って前進するのではありません。

「今度は、股関節を使って運んでください」「貴方出来てますよ」と褒められました。その後お会いする機会も無く月日が過ぎています。

600年の伝統を持つお能の所作に、日本人の動作の元が残されているはずです。

先日、居合で七段になったばかりの人が、足先を床に押し付けるような摺り足を、私にすべきだと言って付きまといます。「何故そうするのか」の問いに。

「剣道でそのように指導された」との事、ちなみに剣道は遠い昔に初段を取っているようです。「飛び込み面を打つのは、爪先で蹴って飛び込むのが有効」ですって。

「古流の組太刀をいろいろやってきたが爪先に力を入れて摺り足をする」と強調します。

「お能の摺り足を研究中ですからご指導に従えません」とお断りしました。足裏をひらひら見せながら踵から着地し爪先で蹴って前進する歩行は醜くいただけませんし、親指を床に押し付けて摺り足もいただけません。

爪先と踵を浮かし、股関節を使って足心を滑らせるように進め、膝の屈伸を働かせて附け込んでいく足使いを目指しています。

一足一刀の間から瞬時に切り込む足使いは能とか太極拳などにあるようです。

2009年7月の文に追加して更新しました。

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近代詩文書(読める書)

毎日書道展では「近代詩文書」といわれる書の分野があります。現代の詩や文を、それにふさわしい漢字や仮名の書体によって書かれた書を指します。

日展と読売書道展では調和体と呼んでいる書作品の分野です。

呼び名は変わっていても、現代の詩や文を、現代の文字で、書そのものと同時に読むことでも感動を味わう事が出来るものといったらよいのでしょうか。

文章のある部分にえらく感動を覚え、書作家はそれを書作品にしたい衝動にかき立てられそれにふさわしい書体で書く事が出来れば、素晴らしいことでしょう。

詩人や小説家、或いは自分自身などによる「感動的な言葉」ですから、それだけで十分感動を得られるものでしょう。それを書にして作家の意図を書家の書法を持ってトレースするわけです。

自分の言葉ならば、意図したものを自分の書法で文字にすることで、より高い、文言だけでは気がつかなかった感動を引き出す事もありうるでしょう。

他人の文言を書き表す事は難しいですね。何処にでも共通の活字で淡々とかかれた方が作家の意図は伝わりやすいはずです。

書家が書くことによって、文字が軽薄でありすぎたり重過ぎたりすれば、作家の意図とかけ離れてしまいます。よほどの書法の能力と、文言に対する洞察力がいるかもしれません。

展示会に出品される多くの書は、文字を書くことに専念して、詩文との調和にまで気心が回っていないのが現実です。ですから作家の詩や文章に調和させる事は、漢字と仮名の調和より遥かに難しいでしょう。

誰も読んでくれない漢詩、漢文。変体仮名が邪魔して読めない和歌や俳句の仮名書を、読めて喜ばれる書となるように目指さざるをえません。

古典のままでいい、と云う書家もいるでしょうが、古典の臨書まがいの書でいいのでしょうか。

やはり自分の言葉でない文の書には限界があるのかも知れません。ならば「前衛」「大字書」などなのでしょうか。

近年よく言われる、鉛筆を握り締めて書いた少女文字、丸文字などは字形の上では漢字仮名の調和はとてもよく出来ています。

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調和体(読める書)

つい100年ぐらい前まで、少し素養があれば、片仮名、平仮名はもとより、楷書、行書、草書で連綿の漢文交じりのお手紙を読める人がそこそこ居たのではないかと思います。

よほどの教養がないと読めっこないと思うのは、われわれ戦後の連中でしょう。其の証拠に草書で書かれた封書の宛名書きでも間違いなく配達されていた、と言ったら「連中はプロフェッショナルだ」と云う人もいました。

それにしても、当用漢字の楷書か楷書に近い行書と片仮名、平仮名だけで教育されてはどうしようもありません。

草書や変体仮名は古代史を飾る文字になってしまいます。千年も書き、読みしてきたものをここ60年足らずで捨てていくのは情けない事です。

書道会では、漢字は漢字の専門家、仮名は仮名の専門家といった意識があって双方の伝統の中で武道で嫌う居ついている間に、一般の教養の価値基準が、どんどん位置かわりしてしまい、置いて行かれてしまったわけです。其の上書道家は、お習字の先生であって字を書くことに全力を傾けてしまって自分の文章も、詩も生み出せない者がほとんどですから主体性に欠けてしまいます。

読める作品を発表していこうとする動きが芽生えて久しいのですが、どうも今一で書道への憧憬は読めなくても古典に注目されてしまいます。

日本を代表する書道展では毎日書道展は昭和29年に「近代詩文書」部門を設けています。昭和30年には日展が「調和体」部門を設置しています。大分遅れて平成7年に読売書道展が「調和体」部門を設置しました。これが漢字仮名交じりで読める書の分野です。

読める書、漢字仮名交じりの書、新書芸、近代詩文書、調和体などと呼び名もまちまちで今もって何がなにやらわかりません。

漢字や仮名を専門に習ってきたのでしたら其の風で現代に通じ読めて感動できるものならばいいのでは思うのですが。

平成8年に書の雑誌「墨」で調和体大研究を特集しています。村上三島先生のご存命中に読売書道展の調和体部門の内規に「漢字は楷書と行書しか用いてはいけない。連綿は二字以内でなくてはいけない。散らし書きはいけない。文字の大小を極端につけてはいけない。文字と文字の間を大きく離してはいけない。短い詩文が望ましい。・・・・

なぜか現代竹刀剣道が、組太刀の形や居合の形を連盟が制定してしまい流派の伝統が失念していく事が被ってきます。

朗々たる詩には、大きな書き出しや、散らしや、限りなき連綿もありかもしれません。

流派の掟が違っては、昇段試験や演武の判定が難しいという統一の理論は、武道や芸術に求める事は何なんでしょう。

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