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2011年7月

2011年7月13日 (水)

女剣士2

前に、書道でも武道でも本当に好きならば、人間関係でスピンアウトするのは変だと書きました。

素晴らしい剣捌きでその技の切れは見るものを魅了します。

その技への探求心は、なまじの先輩剣士ではたじたじです。理屈よりも身体で覚えるタイプの先輩は腹を立てて遠のいてしまいます。

そして、自分の世界に篭っていつの間にか一人ぼっちの自分になっています。

道を求めると言う事は、そういうものかもしれません。

中途半端に稽古してこなかったために蒔いた種が芽を吹き出し、覆いかぶさって来ているのでしょう。

稽古を遠ざかってみても、先輩をこき下ろしても、じれてみても解決しないでしょう。

更に烈しく厳しい稽古に打ち込むしか無いでしょう。それは孤独です。

「武道」を志すと思った自分は錯覚で、「上手いですね、凄いですね」と、おだてられる事が嬉しかった甘えん坊な「女の子」に過ぎなかったのでしょうか。

この時代、流派の掟を継承しその真諦に触れることは「かっこいいやってみたい」の願望では難しそうです。

家族の愛に見守られながら、生涯を習い・稽古・工夫の終わり無き道を歩む、求道の女性の剣士は夢でしょうか。

「入無窮之門宥遊無極之野」無窮の門に入りて以って無極の野に遊ぶ(荘子外篇)

2,009年11月9日に書き込んだものです、残念ながらこの女剣士は退会してしまいました。

点取り虫の居合に片寄った為に自滅したと思います。

何処かで再び剣を握って現れる事を願っています。

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2011年7月 9日 (土)

一字書「古」

書道教室の宿題に一字書で「古」の字を出しておきました。

半切を4分の1に切った良く滲む紙を清書用に持って帰ってもらいます。

今回の「古」の文字の元になる作品は、松井如流先生の昭和58年パピルス展の作品で古隷風な行書。

古びた事毎をくよくよ思い煩うのではなく、いにしえに遊ぶような、それでいて決して浮ついたものでない雰囲気を感じさせる作品です。

それを元に一人一人をイメージをしながら、雰囲気を変えて手本を示して置きます。

字を書く事の楽しさををもっと膨らませるように、同じ松井如流先生の昭和43年毎日書道展の金文による「古」を、図録によって見てもらいます。

書を越えた造形の妙であり古代を彷彿とさせるものです。

中国の古典を習うのは日常的でしょうが、日本の一字書や仮名書は中国の書を凌ぐものも沢山あります。

しかし、見方を誤れば、技巧のみが目に付くいやなものも多いので困ります。

他所の社中の先生の書だからといって習っておかないのは損している様なものです。

それをその場で臨書して、似て非なるものしか出来ないこと、文字の由来など少々薀蓄を述べて観て貰います。

今日其の宿題が出来てきました。

皆の前で、出来上がってきた夫々の4枚ずつの作品を鑑賞します。

皆なが感心するもの、自分が良いと自負するもの、私が少々からい事を付け加えて選ぶもの。

それが自分の思いと一致すると、うれしさがこみ上げてくるのです。

初めた頃は、おずおずと出していましたが、今では堂々と見せてくれます。

上手い下手や技術的に高い低いよりも、50歳ならば生きてきた人生そのもの、それを其の儘に書にぶつけられればいいのでしょう。それ以上でも以下でもないはずです。

そして仲間の作品にも一喜一憂しています。

お習字を習って、毛筆でせめて結婚式の記帳ぐらいは、と思ってこられた方の目が創作の楽しさにきらきら輝いています。

昨年の暮れに、今まで筆を持ったこともないと仰る御婦人が来られ、「筆が思うように動かない、書けない、書き順が判らない、バランスが取れない、・・ないないずくし」と言っている間に、みんなを「あっ」と言わせる「古」を書いてきました。

私が松煙墨でその場で臨書した如流先生の金文の「古」によほど感化されたと見えて、自由に駆け巡っています。

彼女の前で書いたものは、活字に近い符号を越えない楷書の「古」でした。

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