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2011年11月27日 (日)

極意の秘歌(24首目至らぬに)

新庄藩の林崎新夢想流 秘歌之大事 二十四首目

「至らぬ仁ゆるしこのみを春る人ハ 為あひの恥遠我と加く也」

「至らぬにゆるしこのみをする人は 居合の恥を我とかく也」

田宮神剣は居合歌の秘伝

「至らぬゆるしこのみをするひとは その道ごとに恥をかくべし」

下村派の伝書には此の歌は見当たりません。

新庄藩の寛政12年1800年の伝書

「い堂らぬ尓免許このみを春る人ハ 居合の恥を我とかくらん」

* 至らぬに免許好みをする人は 居合の恥を我とかくらん」

同じく明治44年1911年の伝書

「初心尓てゆるしこのみを春る人は 居合の者知を我と可く也」

* 初心にてゆるし好みをする人は 居合の恥を我とかくなり」

新庄藩の林崎新夢想流 元禄14年1701年の此の歌はこんな時代にもあった事を匂わせています。元禄14年は松の廊下で浅野匠守が吉良上野之介に斬り付けて切腹させられた時代です。

まだ免許の力も無いのに、免許を欲しがる者がいたのでしょう、居合の恥は至らぬ自分に返ってくるぞと云う戒めの歌でしょう。

根元之巻を受ける者にも、此の歌は奥義の歌としてついて来たはずです。きっと金に任せて手に入れんとしたのでしょう。あるいは高禄の子弟などで役職に着くにあたって箔を望んだのでしょう。それでも師も弟子も職業柄意味はあったのでしょう。

現代では金で買うほどのものでもないのに、段位を望む者が大勢います。道場主は高段位の者を抱え、段位取得を勧めて道場としての面目を立てたいようです。

弟子は、実力以上の段位を得てそれが人として上位であるかの如く振舞っていたりします。

此の歌は、免許を欲しがる弟子を戒める歌ではなく、至らぬものに許しを与え恥をかかせてしまう師匠になる者への訓戒でしょう。

現代の段位も、段位相当以上の実力が有るとして受信させるべきで、昇段後に「段位に見合う実力たれ」と云うのは間違いでしょう。

師と仰がれる人は持てるものをすべて弟子に隔てなく授け励ます者です。

そして「待て」が言えなくては唯の技能者です。

「そんな事をしたら道場は空っぽになる」・・・所詮、現代では道場を開いても金になりうるかは疑問です。それだけに純真な澄んだ心を持ちたいものです。

人に教えられ人を教え、自らの生きる糧とできれば素晴らしい事です。

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