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2011年11月12日 (土)

極意の秘歌(9首目後より)

新庄藩の林崎新夢想流「秘歌之大事」九首目

「後よ利たま春尓手こ曾奈可利介連 声能抜尓とや是をい婦らん」

「後よりだますに手こそなかりけれ 声の抜きとや是を云うらん」

* 此の歌も解るようで解らない歌です。

後から、だまし討ちに切ってくるのに向う手は無い 声に反応して抜きつけると云うのが是だ」と解したらどうなのでしょう。まさか我の方からだまし討ちの際は声を掛ける訳ではないでしょう。

下村派の古伝に同様の歌があります。

「後より切を忘るゝ事なかれ 声の抜とは是を謂なり」

「後より 伐(うつ・きる)をはつるゝ事はなし 声の響きを是と云ふ也」

* 解釈は、間違いではなさそうです。

無双直伝英信流には真後ろの敵の害意を察して抜き打つ業が大江宗家以降でしょうか消えてしまいました。過去には幾つも見られたはずです。此の歌の教えは敵の害意を察する覚えの一つでしょう。

声は対面していても、電話でも感情が伝わります。パソコンメールでも手紙でも人の感情は伝わるものですが声のような直接響きによるものとは違います。眼も感情を伝えてきます。

遠慮なく、云わなくともの事を思いつくままに言ったり書いたりしていますので、もうずたずたに切られているかもしれません。鈍いので痛さも感じないのでは化け物です。

それにしても、だまし打ち、不意打ちのたぐいで後から斬りつけるに当たり、声を掛けてきたのでしょうか。武士としての倫理があったのでしょうか。常には無い足音、殺気による鼓動、敵も勇気を奮っての気合なども其のたぐいでしょう。動きの発する波動でもあるのでしょう。

殺気を感じ無ければならない様な事はビジネス社会にも往々にしてあるものです。ボーっとしている月給泥棒には無関係な事です。

一刀流の始祖伊藤一刀斎の夢想剣の霊験もこの極意の歌の極めでしょう。

一刀斎は武人として絶世の天稟に恵まれた上に、多年に亘り渾身の勇を揮い生死を賭けて勝負の剣技に精進しひたすらに辛苦艱難を甞めて工夫鍛錬をこらし、遂に名実とも天下一の英名をかち得たが彼は少しも驕らず、なおも進で斯道の秘奥を限りなく追求し、心を千々に砕いた。

しかし彼は未だ妙奥に徹したという神諦の確信を握ることが出来ず、思案の余り神明に祈願を思い立ち、相模国鶴岡八幡宮に七日七夜の参籠をなした。日夜一心不乱に祈願をこめ、遂に満願の夜が軈(やがて)過ぎようとしても、更に霊験が与えられないので空しく神前を立去ろうとする刹那に背後にもののけの怪しい陰が襲うのを感じ、何の思案もなく無言のまま抜打ちに払い捨て、その影二つになったのを覚えると、多年自家執着の妄想忽ち雲散霧消して、心魂闊達明朗清浄の蘊奥に入るのを覚えた。

後日一刀斎はその門弟子に物語って、この無心でよく応じ流露自在でよく勝利を得、払い捨ててまた趾のない空曠安泰の境涯に達し得て、初めて夢想剣の極意を大悟し得たものであると教えた。(笹森順造先生の一刀流極意より)

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