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2011年12月 2日 (金)

極意の秘歌(残歌2首・3種目師に問いて)

田宮流歌伝口訣

「師に問いていかで大事を悟るべき こゝろを尽しねんごろに問へ」

萬の芸術師に問はないで其の奥義を悟ること能はぬ。故に兎角師の胸中を子んごろに問い尽くし見る時は一流の奥秘理会すべき也。

「天芸を願わばこゝろ一筋に 師教の道をふかく信ぜよ」

天下に並びなき達人に至りたく願うならば兎角師の教導をふかく信じて修業不懈(おこたらず)時一度は至るであろう。師教に疑いを生じ我意を交る時は精一至誠の所に至らず、成就する事能はぬぞ。(田宮流妻木正麟先生の詳解田宮流居合より2首)

* 師との信頼関係についての教えはどの分野にも共通の事です。よほどの師でない限り弟子の選り好みは出来ないのが普通です。師を選ぶのは弟子の選り好みより遥かに容易なことです。

しかし一般には良い師であるかよりも、場所、曜日、時間が優先で、居合の流派さえ認識の無いまま入門されます。

師が立派でも弟子がダメ、弟子は潜在能力が旺盛でも師がダメ。弟子が師を越えようとする兆しが見えた時、師はいかにすべきか思いのない師との出会いは不幸でしょう。

凡そ流派を開いた人は実力は群を抜いているはずですが流派を守っただけの人には勝れた痕跡が見られないのが多といわれます。そんなこんなで師と弟子との出会いは偶然の結果かもしれません。

弟子にも師の社会的地位を利用するだけのように見受けられる似非弟子なども居たりして複雑です。

師で在りたいと思う者は、常に進歩する心がけが必要と思うのです。80歳にあとわずかという方も入門されてきます。運動能力は覚束なくとも、人として頑張ってこられた方がほとんどです。他所からやむ終えずこちらに入門される方もおられます。そんな方にはその後に立派な師が付いています。教わるつもりで教えられる度量も欲しいものです。

弟子も、教わると云う事は、指示されて手足を心無く、1・2・3と動かすのが教わると云うことではないでしょう。

尾張柳生の始終不捨書の「習い・稽古・工夫」を以って、習った事を稽古の上「これでよいか」と尋ね、答えを得るものです。満足な答えを得られなければ、次の稽古日に再び「これでよいか」と問うものです。冒頭の歌心を思い描くべきです。

師はどんな弟子でも、去っていった弟子でも忘れられないものです。

弟子を育てるのは師、師を育てるのは弟子のはずです。

会う人皆わが師

下村派伝書より、師の思いの伝わらない不詳の弟子の事を歌っている歌。

いや、師の事も歌っています。

「大事をは皆請とると思ふとも みかゝさるには得道は無」

時期が来たので昇段し上がれば「大事を皆請取った」と本人は思いあがっています。

「最初から何も請けとっていない」と思われる人も見られるような気がします。

業技法をすべてマスターしても、それは「大事を請けとった」とは云わないと思うのです。極意の歌にあるような奥義の心を受け取る事と信じています。

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