« 極意の秘歌(残歌9首目水月をとる) | トップページ | 桜をもとめて »

2011年12月 9日 (金)

極意の秘歌(残歌10首目一つより百)

無外流百足伝より

「一つより百まで数へ学びては もとの初心となりにけるかな」

 百足伝は自鏡流祖多賀自鏡軒盛政が門人を指導するごとに人体の差別を見て、指南した口受である。人に大小長短幼老貧富の差別ある故指導者はこの点に心を配り、その人に応じて指導すべきで決して画一的に指導すべきではない。指導者の心得うべき事である。

百足とは「ムカデ」のことである。百足は歩くのに此の数多い足をからませる事なく、緩急自在に運んでいる。これ無意識なるが故である。居合を行うに当っても之と同様刀に気をとられ、手や足に気をとられては充分な動作は出来難い。無意識の状態に入ってこそ真の居合が出来るので、この境地へ迄行くのが修業である。

また百足は小なりと雖も猛毒を有している。この毒あるが故に他の動物が近づけないのである。これは武道の鋭である。鋭が進めば威となる。武道修業の考うべき所である。(無外流大十三代中川士竜宗家の語)

*無外流の百足伝は四十首の歌からなっています。百足は40足ある所からとも云われているようです。此の歌はその百足伝の四十首目の歌となります。

学ぶと云う事は、奥へ奥へと行くばかりではなく、もう之までかと思う矢先に初めの一歩が不十分と知れたりして、又初めからやり直す事が度々です。

この百足伝の第一首目の歌

「稽古には清水の末の細々と 絶えず流るゝ心こそよき」

* 良い歌です、長い修業によって培われた師匠の心からなる声でしょう。

入門当時これらの歌を聞かされても、「そうか」と思うばかりで実感はありません。慣れてくると面白さも増して、次々と新しい業を覚え一気に幾つもの業を吸収して「清水の末の細々と」など、聞いた事もない気分です。

やがて壁にぶつかり、振り返ってみれば、置いてきた幾つかに気付きます。元に戻ってやり直しです。3年で行った道が今度は一年で辿れます。

次の何年目かに再び壁に突き当たります、自由自在に動けるばかりで、残心している空しさです。今度は簡単に抜けられないでしょう。一年経ち2年経ち、石の上にも何年とか。

百まで数えるまでも無く、行ったり来たりしながら、少しずつ前に進むのでしょう。

真っ黒に塗りつぶして、出来ていると思っている人を見ていると、戻るのはあなたの心ですよとささやく声が聞こえるでしょう。聞こえても聞こえない振りをするほど俗気は持ち合わせていません。

「極意の秘歌」は居合に限らず、あらゆる分野に共通する先人の残した心です。噛み締めてみれば、至らぬ気付きがのしかかってきます。

ある先輩が、「稽古熱心だな~、大会でよい成績が取れるだろう」空しい応援歌です。そんなものは不要です。

ある女剣士が「切れる居合を教えて」・・・「切らない居合の方がいい」

冷えた道場の床に座って、流儀の一本目・・・・・。

極意の秘歌は、まだまだ幾つもあります。この辺で一旦終わりにして次回は、明治の書道家中林梧竹先生の「梧竹堂書話」を読んでみます。

居合でも何とも品の無い演武をこれ見よがしに見せ付けられるとうんざりします。

書も同様に技法は抜群でしょが見ているのがいやになるような作品も沢山あります。自分の書いたものですら見たくないなど幾らもあるものです。

遠い昔に小さな展覧会に出品した中に惚れ惚れとする気品に満ちたものがあったりしますとほっとします。上手、下手ならきっと今の方が上手いのでしょう。あの遠い日に書いた素直な書には心が素直にじみ出ているのです。

娘が小学生の頃のお習字の一枚を飾っています。「目は心の窓」伸び伸びと育った感受性豊かな子の一枚です。きっと此の子は「目は心の窓」を感じていたのでしょう。

足りないのは技法ではなくにじみ出る風品と云うものなのでしょう。いつの間にか上手く見せようとか、賞を取ろうとか、褒められようとか、誰々に負けまいなど、余計な事が一杯詰め込まれてむちゃくちゃになって、自分が何処にもいなくなる事です。

まかり間違っても、師匠のコピーではならないのは、書でも居合でも同じ事です。

|

« 極意の秘歌(残歌9首目水月をとる) | トップページ | 桜をもとめて »

秘歌之大事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 極意の秘歌(残歌9首目水月をとる) | トップページ | 桜をもとめて »