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2012年6月

2012年6月28日 (木)

無双直伝英信流居合術(其の14)2

無双直伝英信流居合術(其14)2

大阪居合八重垣会

剣道錬士 河野 稔

*前日に続く

16、納刀のとき刀先を鯉口につける場合、右手拳をクルット揺らぬ様注意の事、而して最終(其動作の最終)にも殊更に形の上にクギリをつけぬ事。

17、奥居合の納刀の場合、初め刀先を納めたる時、右手拳が鯉口の位置より高き時は一旦右拳をジワット下げて後スット納める事。

18、総ての業を大きくゆっくりと行う事肝要なり(但し鍛錬を重ね間をつめる事)

19、早抜きの納刀は鎺元迄一気に納める事。

20、着眼は動作中は仮想敵になす事。

21、総ての業に於いて直向(*真向)打下しの手元は高すぎて左手首の伸切らぬ様注意をする事。

22、立膝、居業の納刀の際に於て前足の引き付けは十分腰に気力を注ぎ前足に(? 曽田メモ)体重をかける気味合にて退きつける事。

23、抜打、真向、脇元(* ?)の場合は刀を抜き取り頭上に振冠り、上体を起すと同時に爪先に力を入れ踵を十分に後方に退き(膝を後方に退く)て真向打下しの場合上体を前方に乗り出すに備ゆる事。

24、用語、抜きつけ(斬り付け)、打ち下ろし(斬り下し)。血振ふ(*ふは不要?)るい。

25、総て抜きつけの場合は上体は少しも前に俯向けぬ事。

26、抜きつけの時、前に踏出す足と、跪きたる膝頭とは、あまり広く間隔を置かぬ事、即ち前に踏み出したる脚の内方角度は約九十度を越えざるを度とし、後脚の膝頭は上体の直線より幾分後方にあるべき事(前足先と後足膝頭との中間に体の重心を置く)

*この体の重心を後足にと云う教えをされる先生も居られますが古伝は飽く迄両足の中間と云っています。

27、介錯の構えたる刀刃は真上より幾分後方に斜に向く事。

*ここまでが岩田憲一先生の「土佐の英信流旦慕芥考」に記載されたものです

28、正座納刀の場合後方に退く足は十分腰に気力を注ぎて角張らずスーット退く事、而して膝を床に付ける迄は体を上下に少しも揺り動かす事なく極めて静かなるを要す。

29、附込の斬り込みは十分大きく振り冠りて打下す事(但し二度目の斬込みにて仕留むる形なるを以て一回目は幾分浅く二回目は深く斬り込む事。

30、附込みの納刀血振ふりの場合は腰を十分前に込れる事。(*入れる事?)

31、立膝(早抜きも同じ)各業の終った時の体の位置は最初座したる位置とあまり変わらぬ様注意する事。 

以上

* なんとなく、明治の動作を彷彿とさせます。此の注意書きはその後の河野先生の初心者心得三十三則に繋がっていくようです。

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2012年6月27日 (水)

無双直伝英信流居合術(其の14)1

無双直伝英信流居合術(其の14)1

大阪居合術八重垣会 

剣道錬士 河野 稔

左記の大日本武徳会大阪支部に於ける講習会に際し、私の悪癖に対してご注意賜りたるを(恩師最後の講習会たる昭和9年第六回講習迄の各年度の分)私自身の参考として夫に記き留め置きしものに付きご了承を乞う。

*「居合の疑義についての解説」は既に此のブログの2012年6月9日、10日で「故穂岐山先生より数回に亘りて筆者に賜はりし御書簡の写し」として十項目を載せました。之は「無双直伝英信流居合術全」に書き込まれています。
それは河野先生が土佐の穂岐山先生にお伺いをし解答をいただいたものでした。

今日のものは、河野先生が穂岐山先生にご注意をされた事項を生に書き留めておいた事々です。此の項目は私の記憶では河野先生の著書には見られないもののように思います居合初心者心得」と内容を書き換えて発表していると思います。

岩田憲一先生の「土佐の英信流 旦慕芥考」P137に「穂岐山波雄先生より悪癖矯正事項」と題し27項目が掲載されています。このスクラップでは31項目ありますので、岩田先生は28項目から31項目を外されています。

1、納刀の時鯉口に刀尖の納まった時右拳高きに失す、此場合右拳は鯉口の位置より低き事を要す。

2、附込、浪岩(*岩浪のミス)介錯の場合始め刀を抜き出す右拳は鯉口と同じ高さより下がらぬ事、更に此の場合上体が前に屈まぬ様注意する事。

3、立膝の納刀を終りたる時の体勢は正面向の事。

4、颪の柄当ては十分に左腕を延ばす事。

5、浮雲の打下しは左膝の外方になし左脚に並行なる事

6、鱗返し、浪返しは、両足先は殆ど其のままの位置にて抜きかけつつ廻り、刀先を抜きはなちて一文字に斬り付けると同時に左足を後方に退くこと。

7、総て抜き付けの際は鯉口と刀先の縁の切れざる様注意最も肝要なり。

8、横一文字に抜きつけたる位置より刀を双手上段に振冠る場合、右手拳は左肩前にとることなく抜きつけたる右拳の位置より直に頭上にとること即ち先ず左肩前にとり然る後頭上にとるは不可、此場合刀尖は肩高きより左に廻すこと。

9、霞の甲手を返して前進する場合は腰を少しも屈めず十分腹を出す事。

10、総ての右一文字抜きつけ並びに正座血振い(前に足を踏み揃えたる時)の場合上体は少しも前に屈めぬ事。

11、四方切りの場合左右に刀を返して双手上段になるとき刀は十分大きくなし敵刀を受け摺り上げる気持なること。

12、棚下の場合、顔面は正面に向けたるまゝ上体を低く十分に前に深く入込みて抜く事。

13、介錯、附込、岩浪の場合刀を前に抜き出す時は顔は付かず正面に向けること。

*岩浪の場合は右正面を向くのでしょう。

14、両詰は十分に大きく深く刀を前方に突き込む事。

15、虎走の前方に進みての納刀及び惣留の追進む時の納刀は鎺迄一気に入れる事。

以下次号

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2012年6月26日 (火)

長谷川主税助英信の身元考

無双直伝英信流第九代林六太夫守政先生の事は中西岩樹先生のご研究を曽田本スクラップで見てきました。
林六太夫先生の前は第八代荒井勢哲清信、其の前が第七代長谷川主税助英信となります。
此の長谷川主税助英信の身元は良くわかっていないようです。

下村派の第16代曽田虎彦先生の無双直伝英信流居合系譜(本ブログでは曽田本その2 2012年4月29日、岩田憲一先生の「土佐の英信流旦慕芥考」のP124)では曽田先生の添え書きで長谷川主税助英信について「土佐の人と云う。江戸屋敷にて居合術を修業したる由にてこの時より土佐に伝う。」としています。
この「土佐の人・・」の出所は不明です。

曽田本の2012年3月24日(居合兵法極意秘訣その4林崎甚助重信の項P94)によると
・ 1 長谷川主税助は後に蔵助と云う、尾州公え仕え千石領す、第一弓馬の上手也。諸国弓の伝、馬の伝、得たる人多し。

・ 1 荒井兵作は関東の人浪人也。後清哲(勢哲 曽田。

荒井勢哲先生についても判らないと言った方がよさそうです。メモ)と号す

昭和41年8月1日号の全日本居合道新聞に「長谷川主税助英信 身元考」を水鴎流宗家勝瀬光安先生が書かれています。
曽田本スクラップではありませんが、林六太夫守政先生の出自が土佐にあるとすればその先師を訪ねたくなるものです。

以下抜粋します。

長谷川主税助英信が、長谷川英信流居合の流祖である事は衆知の事であるが、その身元に関しての細詳はあまり知られていない。
筆者は最近元駿府勤番の士、布施権十郎正秀の後裔の家に伝わる寶蔵院槍術伝書を調査するうち、居合の長谷川主税助英信に該当するらしい人物を発見した。
布施家の寶蔵院流槍術伝書に「長谷川主税助英信は、太平記の越智越前守の末葉也。
讃劦(*讃岐か)に生まれ、後京大阪等を武者修行同様にして廻国なし、江戸芝において竹川無敵、天上天下唯我独尊と看板を出せる時、無敵と仕合をなして、神明前にて高名を現す。
老年の後実子なく甥官兵衛を養子として家を継がしむ」とあり。
槍術に付いては「先師長谷川主税助英信は元来大嶋流の達人也。成年南部に趣き寶蔵院鳳栄に随身し槍法の妙術を得たり。
後推して法蔵院流長谷川派と曰う。
当流にては宝と法と書替えたる事先師英信深き意味あり。
先師英信は紀州家に仕え後浪人となり江戸に居る。
正保年中(1644年~1648年)竹川無敵と真剣の仕合し之に勝ち名を天下に顕す」と誌し。

出生没年に付いては左の通り記載している。
「長谷川主税助英信は文禄七寅壬寅也(文禄は4年までしかありません)、(慶長3年)(1597年)竹川無敵と仕合は正保3年4月(1646年)と也。大阪御陣(慶長19年1614年冬の陣、慶長20年1616年夏の陣)は14歳の時也。
嶋原の陣は37歳の時(寛永14年1637年)也、享保4年巳12月(1719年)死す。歳百十八歳也」

*少々年が合いませんがそう書かれているそうです。

右の伝書の記事を要約すると、長谷川主税助英信は文禄7年(慶長3年)讃岐国に生まれ、武芸修業の為廻国し大嶋流の槍術を極め、更に奈良の宝蔵院鳳栄に付いて宝蔵院流槍術を修業し悟る処あって宝の字を法に改め法蔵院流長谷川派と称した。紀州家に仕えたが後辞して江戸に出で、正保3年4月竹川無敵と仕合して之に勝ち武名をあげた。老年に及んで甥官兵衛英政を養子として家業をつがせ、享保4年12月百十八歳(?)で没した。

但し年代の違う別の目録細註には、紀州の生れとあるが、これは紀州家に仕えたことと、生国とを混同したらしい。

その槍術伝系は左の通りで甲府を経て駿府に伝った。

元祖、宝蔵院鳳栄‐長谷川主税助英信‐長谷川官兵衛英政‐大河原庄兵衛政久-野田市左衛門成方(甲府勤番)-嶋田八郎左衛門利屋(甲府勤番)‐嶋田元次郎利頼(甲府勤番)‐榊原彦太郎政明‐大橋平左衛門豊成‐吉田新五郎種賢‐吉田三十郎種徳‐吉田芳之助種治ー布施権十郎正秀(駿府勤番)
布施権十郎は駿府勤番二百俵高、文久2年5月(1862年)江戸城に於いて剣術槍術を上覧に供士し反物二反を下賜され、又その父権三郎正忠は文化8年2月(1811年)江戸城に於いて一寸二分の強弓を以て弓術を上覧に供し日本一の称を得ている。

この伝書は槍術の伝書だから居合については何も書いていない。従ってこの長谷川主税助英信が、長谷川英信流の英信と同一人物であるとの立証は出来ないが、生国、時代、名前等から考えると同一人物ではないかと考えられる。

この流の槍術には田宮流長谷川派の居合が併せ伝えられている、布施権三郎正忠の武術書上には、田宮流長谷川派の居合を父市郎次正輝につき、寛政二年(1790年)より17年間修業したと誌されている。

或るはこれが今日の長谷川英信流を当時此の地方に於いては田宮流長谷川派と呼んでいたのかも知れない。これだけ資料から一方的な結論は危険だが、若干の信憑性はあるようにも思われる。

註 河野百錬~本稿は6月上旬、勝瀬範士から私に頂いたものであるが、その直後土佐の英信流宗家福井春政先生に、本稿を送付して、ご意見を承った所~英信流の地元土佐には全然長谷川英信公に関する資料は無いとの事であるが、福井先生はかって英信が尾張藩に仕えたとの事を仄聞した事がある。~との御返書を頂いた。駿府布施家に伝わる此の伝書の、英信が英信流第七代の英信公と同一人物かどうかは、勝瀬範士の言う如く、今後の研究にまたねばならぬが、之は洵に当流を学ぶものにとって貴重な掲載を願ったが之を契機に広く当流同人の御研究を切望する次第である。

*その後いかほどの進展があったのでしょう。

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無双直伝英信流之形に就いて其の13

無双直伝英信流之形に就いて(其十三)

大阪居合術八重垣会

剣道錬士 河野稔

当流には左に掲ぐる形七種(六十六本)を伝承され居るも其詳細説明は後日の機会に之を述べん。

*河野先生も詳細説明されないまま終った形もいくつも掲げられています。多分解説できるだけの資料は河野先生の手に入っていたでしょう。しかし演じて指導できるだけの先生が居られたかは疑問です。此の頃形とか位とか呼び名は区々だったようです。帝国剣道形に影響されているのでしょう。

1)太刀打の位

1、出合、2、拳取(附込)2、請流 4、絶妙剣(請込) 5、鍔留(月影) 6、水月刀
7、絶妙剣(当身を行う) 8、独妙剣 9、心明剣 10、打込

2)詰合の位

1、八相(口伝に発早とあり) 2、拳取 3、岩波 4、八重垣 5、鱗形 6、位弛 
7、燕返 8、眼関落 9、水月刀 10、霞剣 11、打込(留の打也)

3)大小詰

1、抱詰 2、骨防 3、柄留 4、小手留 5、胸捕 6、右伏 7、左伏 8、山形詰

4)大小立詰

1、タ捕(〆捕 曽田メモ) 2、袖摺返 3、鍔打返 4、骨防返 5、蜻蜓返 6、乱曲

5)外の物の大事(奥居合の事)

1、行違 2、連達 3、惣(遂 曽田メモ)懸切 4、惣捲 5、雷電 6、霞

6)上意の大事

1、虎走 2、両詰 3、三角 4、四角 5、門入 6、戸詰 7、戸脇 8、壁添 
9、棚下 10、鐺返 11、行違 12、牛の内(手の内 曽田メモ)13、輪の内 
14、十文字

7)極意の大事

1、暇乞 2、獅子洞入 3、地獄捜 4、野中の幕 5、逢意時雨 6、火村風 
7、鉄石 8、遠方近所 9、外の剣 10、釣瓶返し 11、智羅離風車 以上

*曽田スクラップに昨日までのものと違ったスクラップが貼り付けられていました。しょっぱなにあった無双直伝英信流居合術の続きの一節です。昭和8年の河野先生の「無双直伝英信流居合術全」ではこれらの形についての記述はありませんでした。昭和13年の「無双直伝英信流居合道」で「4)大小立詰」までの動作を記述されています。河野先生の記述にも出典が明らかではないのですが曽田先生との交流があったようですから参考にされたかも知れません。曽田本の谷村樵夫自庸先生相伝免許皆伝目録の中の無双直伝英信流居合目録の一部と一致します。この目録は明治34年に曽田先生の実兄小藤亀江に授与されたもので昭和20年7月4日の高知爆撃によって焼失しています。

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2012年6月25日 (月)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生4

居合英信流の恩人 林六太夫先生4

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡(*読みは「せいく」でしょうか?、詡の意味は、ほこる・おこる・ふんわりとかぶるさま・あまねくゆきわたるなど)が嗣がれて後林氏が二人迄顕れている。
六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其二、三をご紹介して筆を擱くことにする。

先生は前述の如く幼にして家を嗣がれた、そして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為十五歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は、先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁うと言ったを甚だ尤至極と考え、江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習い始めた。
文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖もいろはより始めるは子一人なりと呆れたが其年より在府三年間精力を尽くし遂に能書となり藩中弟子の礼を執る者が多かったという。

又或る時八軒町に火災あり、火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず、家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛て小隅を取って投出し泉水一つ越して向うの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであろうかと皆の人は驚嘆したという。

又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此処には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であろう包丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水の中に下して灑ぐ(*そそぐ)こと実に妙、見る人の目を駭(*おどろかす)した。
先生は傍の船にて之を見舷側に寄掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず、彼の料理する人も己れの業を恥じてやめたという。
昔の御料理方は□も手が利いていたそうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたというが仲々出来る業ではない。
又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷
(*すべり)り落ち易いものである。
それを箸で挟みすいちゅうで数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであろう。

又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(*やめ)まなかったという一例に次の記録がある。

偖(*さて)又、在江戸で諸国の士、集会の時、奥人某、鉛子除去の法を知ると称し、一時数人鳥銃の口を揃えて対し事ありしに、我此の法を行いて放事不能終とて自負したるを満座妄言なりと思惟、大笑其人、怒気甚だしく公等余の言を信ぜず笑う事安からず今其術見るべしとて、火縄に火移し座中の人々に持たせ一々消して通りしに、人眼を遮らず一時火減し人々初めて驚き失笑の謝罪す。
六太夫深く感じ其の術学ばんと欲し、後日其の宅を訪うて懇ろに乞うて、しかと先に笑われしことを以て許容せさりしかは大いに悔いて仮令妄言なるも白笑う事勿れ益(
*ますます)事無き也とて此の事を證とし子孫を戒めたりと云う。

天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの資格十六を得ていられたのである。

此の項終ります。

これは出典明らかではありませんが、曽田本その2にスクラップされていたもので、岩田憲一先生も「土佐の英信流旦慕芥考」に写されています。

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2012年6月24日 (日)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生3

居合英信流の恩人林六太夫守政先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

此の五左衛門政良こそ仍(*かさねて・なお)林氏の初めである。
而して姓を林氏に改めた政良は万治3年
(1660年)山内二代の藩主忠義公の命に依り礼節を其宗家伊勢家に学び寛文十年(1670年)四代豊昌公の時宋邑八十石を給うて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝三年四月晦日(1675年)病死したので翌五月六太夫先生が跡をつぎ城南八軒町に居住した。(以下次号)

先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し、剣道居合は荒井二代目の勢埋直伝にて意を極め、書は佐々木文山に就て之を能くする等和術庖術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸十六を得ていたというから大したものである。

而して先生は宝永三年十二月二十二日(1706年)御料理頭より大扈従役に進められ礼節方を兼ねられ、正徳三年八月(1713年)病の為め拝辞し、同月二十四日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘、御馬廻りとなり山内第八代豊敷公の時享保十七年七月十七日(1732年)七〇歳で八軒町の邸に病没せられた、が其間第四代藩主豊昌公、第五代豊房公、第六代豊隆公と三代の藩主に仕え貞享三年六月(1686年)君主より故実の御下問あった。
詳細記述して之を奉り殊の外御褒辞と共に白銀若干を賜うた外、元禄二十年十二月十二日
(*元禄は17年2月までのはずです12年の間違いでしょうか。雑録では元禄10年です)禄二十万石を加増され、更に同十六年九月四日(1703年)故実礼節究極の功労旁々又も五十石を加増されて旧禄に合し百五十石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
斯くの如く三代の君主に仕えて寵衰えず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたということは容易の事ではない、之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺われるのである。

先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養うような事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流、田宮流等の居合が有ったにも拘らず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷いものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一入熱心に錬磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。

以下次号

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2012年6月23日 (土)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生2

居合英信流の恩人 林六太夫先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基をつくられた恩人故大江子敬(正治)(*ここでは大江正治という名が使われています、無双直伝英信流居合術全で河野先生が使われたと同じです)、細川善馬(義昌)両先生の事及び少し辿って其の絶滅の危機より救われた恩人板垣退助伯の事跡を衷心より有難く思い感謝の念に堪えないのである。

此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた
(*英信流居合と板垣伯 中西岩樹 2012年6月7日、8日に此のブログで書き込み済み)事が有るように記憶するので今回は更に其の昔に辿り最初に此の居合を土佐に伝えた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみようと思う。

先ず林六太夫守政先生の直系を掲げてみると次の通りである。
(*この林六太夫守政先生の事については「雑録 長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて」で平尾道雄氏のレポートを2012年6月15日~6月21日に記載して有ります。ダブル所も在るものです。何れのものも何時何処に記事としてレポートされ曽田先生がそれをスクラップとしたかが不明なものです)
池田豊後、助五郎政弘、助五郎政勝、権吉郎政久、市兵衛政友、五左衛門政良、六太夫守政
即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
池田豊後は大和の人で一條家に仕うる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469年~1486年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随い幣多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。

政弘は宗閑と号し爾来一條家に仕えている中、槿花一朝一條家が久からずして滅亡し、豪族長曽我部氏興るに及び其子助五郎政勝之に仕え兵部と称し後従軍して戦死し当時七歳であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕え権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜うて処士となり南隣大津に居住していた。

そして長曽我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間(1652から1654年)死没した後、子五左衛門が山内氏に召出され御料理方となるに至った。

以下次号

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2012年6月22日 (金)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生1

居合英信流の恩人 林六太夫守政先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

* これも出典は不明です。岩田憲一先生の平成元年7月発行の「土佐の英信流 旦慕芥考」P131に同様の題で掲載されています。岩田先生の「序」は以下の通りです。

この項のものは、総て土佐下村派第十六代曽田虎彦先生の遺書のなかに記されていたものであります。即ち、土佐英信流第十七代大江正路先生並びに下村派第十五代行宗貞義先生を師として修練された方々が発表されたものや、その他の名士が指針として書き残されたものであります。昭和初期から終戦までのもので、なかには戦中の香りや国を憶う心の披瀝もある点をご了承ください。

曽田本その2の手製和綴じの中に、曽田先生は丁寧に切り抜かれたスクラップを綴りの大きさに合わせ切りとって収められています。岩田先生もそのコピーをご覧になられ感動を覚えた事と思います。

手書きの書写、自筆文章、スクラップが厚紙の表紙に「大森流長谷川流居合術」故行宗貞義先生、門人旧姓土居事、無双直伝英信流下村派第十六代筆山曽田虎彦記」とされ表紙の裏には書簡を入れるポケットを作り書簡が入っています。行宗先生のお写真もその中に保管されています。裏表紙には35mmの小さな写真が4枚、恐らく曽田先生でしょう浮雲・詰合之位の出会・太刀打之位の出合・請込と思われる形が張られています。すでにセピア色に褪せて居ます。

曽田先生のご長男が戦後これは自分で持っていても意味がないので居合する職場の同僚に譲り、その方が多分岩田先生にコピーを送られたのでしょう。何時如何なる状況かは、岩田先生はお亡くなりになり、コピーされた方はご存命ながら記憶が薄れ定かではないとお聞きしています。

大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無双直伝英信流の事である。
私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。

而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘らず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸いに其の絶滅を免れ現代迄伝統して来たことに就いては

1、伝えられた土地柄が建衣別の古称にある尚武の国で人間が総体男性てきであり武張っていること。

2、伝えられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整えた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。

*ここの部分も、河野先生の「居合は剣道の一分派」の発言に対する曽田先生の「分派にあらず」の一端を解説しているものと思われます。

3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公亦文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜場現刑務所々在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用いられたこと

の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったかといえば、


1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。

2、交通不便なるに加え当時の事情が鎖国的であったこと。

3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又希に有っても未だ他国者には一切伝授せぬという気風が残っていて機運が熟していなかったこと。

等に基因しておるのである。

以下次回に続きます。

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2012年6月21日 (木)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて5

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて5

‐特に此一篇を屡々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県楯岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐ-

平尾道雄

*この項の最終です。曽田先生のスクラップは原本は何か、スクラップした時期はなどの記載がありません。これも其の一つです。平尾道雄氏についての事もわかりません。山形楯岡町の伊藤芳夫氏についても、平尾氏との交流についても判りません。
岩田憲一先生にもこのコピーはある方から渡っていたはずですが先生は「土佐の英信流 旦慕芥考」に取り上げられていません。史実として捉えるには不十分でしょうが伝系の様子は伺えます。

9.明治になって有名なのは細川義昌氏であろう、鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、人神の技だったそうである。
大正十二年二月二十三日((1923年)七十五歳で物故したから、其技を実見した人々も少くあるまい。
維新の勤皇家松島隆氏も長谷川流の達人であった。
畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。
即ち灯心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云う。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。
是は私が直接遺族の方から承はった話しである。
松島氏は明治三十三年(1900年)五十九歳で他界した。

大江正路氏も有名だったが、先年長逝し(昭和2年1927年先年長逝し、と言っているので此の文章は昭和2年から昭和10年頃のものでしょうか)、現今ではその門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。
流技は就れも長谷川流とその分派大森流。

伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後七代長谷川流英信に至り、所謂長谷川流起こり、八代荒井勢哲、九代林六太夫、十代林安太夫、十一代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、十二代坪内某、十三代島村某、十四代松吉某、十五代山川某(久蔵か)、十六代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て十八代が現警視庁師範中山博道氏とある。

以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むる事を得れば一層その密接なるを確める事が出来よう。
以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。

註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。

註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐偉人伝、御侍中先祖書系図牒、手抄を主に、高知武徳会井上衛氏の報告、及び私の見聞を加えた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて尽く之を示さない。

*伊藤氏の報告は土佐の系譜を示したもので、奥州山形の事は少しも触れていません。どのような方だったのでしょうね。雑録でいいのでしょう。

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2012年6月20日 (水)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて4

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について4

平尾道夫

7.林氏の門に出でて、最も其名を謳われた者に山川久蔵がある。名は幸雄、もと錠八とも称した。
山川久右衛門幸鑑の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。
林氏との関係に就き、「手抄」二十四巻に左の如き噂を載せてある。

山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の伝授皆伝なるべし致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取に参り申さず、相分らざる事也。
夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。

其後久蔵は門弟を取立師家に成り。長谷川流の伝書は何方より授かりしにや、林氏の伝書とは違いたるよし、或人より承わる。

これは非常に興味ある問題だが、遺憾ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚られる。
山川久蔵は文政三年正月九日
(1820年)藩から居合術指南役を命ぜられ、其の心掛け厚きを以て、切符拾石を加増された。弘化三年二月九日(1845年)には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年十月八日(1848年)病死した。同苗小文次の子鋼八幸水が跡を相続したが、家芸は継いで居ない。

8.山川氏の如く居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。
前者は小児科医下村宗真の子で嘉永五年正月十二日
(1852年)、居合術身体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久三年四月十五日(1863年)居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第六節にのべたから、此所には反復しない。

右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。
山内家第十五代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。
板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実を語ったものに、左の一齣(ひとこま)がある。

(上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附属した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合というものが十二本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。七日七夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録二百二十三輯(しゅう))

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2012年6月19日 (火)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3

平尾道雄

5.居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸でなかったから、別に師匠役などの任命はなかった。
併し個人として之を門弟に授けた為に、此以後長谷川流居合は小栗流無害流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。
六太夫の子安太夫政詡を経て、六之亟(*丞か)政長、其弟益亟政誠(
*益之亟政誠か)、彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝えている。
益之亟政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であろう。
六太夫の二男脩之亟正晴は、甚三郎と改め小栗流師家足達茂兵衛正藹の後を継いだ。
益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政十三年正月廿二日
(1830年)其技を以て特に召出され、三人扶持御馬廻末子に列し、屢々(*しばしば)藩主豊資公の感賞に与ったが、後池田和太夫と改名、天保二年七月十八日(1831年)に病死して、後は断絶した。

楠目成徳の「手抄」二十四巻には「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀術を伝え、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書二十五巻には「文政の頃林八郎次(彌太夫の弟歟())と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次々々々と諸人と賞誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云えり」と見て居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

6.林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝寿と云う者が妙手であった。
槍術家の新国彦九郎に一寸計の杭を二本の指に挟ませて置いて之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云う。
御小姓格渋谷彌五兵衛勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和九年五月十日
(1772年)を以て病死した。
林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。

林彌太夫(政敬)先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。
皆大男にて、左平太が業前は業小なれども豪気なる居合也。
彦八は業大きく行込み、強く練熟したり。
亀之丞先生も彦八氏と同じくて上手也。彦八氏、亀之丞氏とは業前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立んことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄二十五)

亀之丞は谷村久之丞自熈(*じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保八年(1836年)稽古扶持として三人扶持を賜った。
同十五年
(1844年)には同流の芸家として取立てられ、文久二年(1862年)にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

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2012年6月18日 (月)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

平尾道雄

3.同流に関して土佐に伝えられる文献は、私の知る限りに於て、林安太夫の話しとして南路志七十一巻に収められた次の一節である。

無双流の居合は、林崎甚助重信より始まる。
林崎は北條五代目に仕え、此流を以て後太閤秀吉御学被る成り、無双流と云う名を始めて御附け被せ成しと也。
其後塙團右衛門に伝わり、團右衛門より長谷川内蔵助に伝え、内蔵助より荒井勢哲に伝え、夫より子の勢哲に伝え、夫より近年の平作に伝え、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。(
*下線部分、平作は大男で無邪気に医者などの切る羽織を着る・・意味不明です
権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。
右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の創術鍛錬の由云々。

真偽は別として、先ず上述の如くである。
その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信七代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神伝英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱う」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであろう。
神伝重信流に神影流の古流五本の仕形を加えて大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行われて居ると云う。

4.長谷川流居合を土佐に伝えたのは上述の如く林六太夫守政である。
林氏の先祖は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕え、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。其子兵部政勝戦死した為、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曽我部氏に仕え、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
其子市兵衛政良初めて林氏を称し、山内家に仕えた。
延宝三年四月晦日
(1675年)政良病死後、同年五月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行八十石、格式新御扈従、御料人頭と云う父の職禄も其儘承けたものである。

豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗う手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せじめたと云う逸話も残って居る。
よろず才能に秀でて、本職の包丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲樂皷の末技に至るまで諸芸十六般を極め、孰れも人師となるに足りたと云う。
就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其の奥を極め、縷々典礼に関する書付を上って、其都度感賞に与り、元禄十年
(1697年)には加増二十石、同十六年(1703年)には更に五十石を加えられて、都合百五十石を賜り、宝永三年には大御御扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
正徳二年
(1706年)には老齢によって大御御扈従を免ぜられて馬廻りになり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保十七年七月十七日(1732年)、七十歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷五代の藩主に歴仕し、君寵の衰えなかったのを見ても、如何に其人格の円熟していたかを察すべきであろう。

* この逸話は何処かで読んだ事のあるものです。

次回に続きます

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2012年6月17日 (日)

ウスバアゲハ

子供の頃から「ウスバシロチョウ」として記憶していたものですが、いつの間にか「ウスバアゲハ」が本名で「ウスバシロチョウ」は別名になってしまいました。

昨日からの雨が降り続き未明には屋根を打つ雨音が強くなっていました。起き出すころには、峠を越えたようで、梢に溜まった雨粒が突然一斉に落下してきて驚かされます。

久しぶりに白樺高原を散策する事にしました。雨に洗われた高原は緑一杯に輝いています。佐久から一気に駆け上ります。

「あの辺りに蕨があるはず」「あっあそこ」駆け抜けてしまい、後の車が接近していて停める訳にも行きません。「ぶーぶー」言われながら蕨らしき道端に停車させます。

車から下りると、凄い金属音が響いています。一瞬車のエンジンに異常発生かとヒヤットします。どうやら蛙かセミの声のようです。

長靴に履き替えて完全武装の山菜採りに早や代わりする我妻君。

草原をゆるやかに飛ぶ白い蝶を目で追う私。

北海道から本州、四国の山地に局所的に発生するようで、いつでも何処でも見られる蝶でもないそうです。私の其の目撃や採集の記憶は局所的でした。

遠い昔、奥秩父の山麓で、四国遍路の途中に立ち寄った徳島の剣山で、其の他幾つか。

久しぶりに彼女達に出会いました。懐かしい山々の思い出がフッと蘇ってきます。初めてネットにおさめた時のトキメキを思い出します。

透き通る羽に黒い筋がくっきりと浮かび黒く毛深い体をしています。ゆっくり飛翔し花に止まって吸蜜します。そんな時は指で摘む事もできてしまいます。一旦ネットでかすってしまうと急転して逃げる素早さも懐かしい。

開いてしまった蕨を数本それでも嬉しそうに握っている妻も、蝶を追う私を笑っています。

長門牧場によってソフトクリームを舐めながら、牧場の柵に寄ると白馬が2頭近づいてきて挨拶してきます。クローバーをむしり取って差出と鼻息荒くも上手に受け取ってくれます。

登山靴に履き替えて、スキー場を登ります。ここには蕨が伸び始めていますクルリと蕨手を握って美味しそうです。

ぜんまいのような、そうともいえないのが綿毛に包まれて巻いています。先着の山菜おばさん達の所へのこのこ登って行き「これぜんまいでしょうか」「違うよ、お腹壊すよ」と脅されます。

おばさん達はせっかく採った蕗だの、ウドだのどっさりくれます。そのかわりお話し相手をしばらく付き合っていました。帰りしなに妻が遠くから深々と頭を下げますと皆さん一斉に手を振って居ます。

小さなスズランが群落になって小さな花を咲かせています。

久しぶりにゆっくり高原を楽しみました。

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雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

特に此の一篇を屡々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県楯岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐ

平尾道夫

*この雑録は何処から曽田先生がスクラップされたのか不明です。土佐の居合について面白いものです。数回に分けて書き込みます。昭和11年以前のものであることは間違いないでしょう。
何方か楯岡の伊藤芳夫先生や平尾道夫先生をご存知の方はコメントをいただきたく思います。

1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴い、かなり古くから行われたようである。
土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈中左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝えた人であるが、亦居合の名手として伝えられる。
或る時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云う懇望があった。
忠左衛門は之を快諾したが、暫くして人々にうち向い、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云うのである。
人々が呆然として顔見合わせて居るのを見て、忠左衛門は笑いながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云うので、試しにその小姓を呼んで調べて見ると、果たして言の如く見事に切断せられて居たと云う。
忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其の後土佐藩士人の間に伝えられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於いて大いに基本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝えられた長谷川流居合そのものである。

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。
永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社伝に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐(*あだ)一雲斎を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。
後、山城国伏見に於いて一雲斎を討って本望を果たし、更に将軍足利義輝の上覧試合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。
これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其の以前に於いて抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神伝重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶそうである。

上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其の後同家に随身して、維新に及んだと云われ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起こし、其の子対馬守長勝は、初め池田輝政に、後徳川頼宣に仕えて、之を紀州に伝えた。
水戸に於いては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽斎槿露は、初め小田原北条家に、後彦根井伊家に仕え、一宮左太夫照信は、甲州武田家に仕えて抜刀一ノ宮流を始めて居る。
仙台には幕末に重信十七世嫡伝と称する堀津之助友徳、及び大規定之助安広あり、新庄戸沢家に平賀清兵衛あり、江戸に於いては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)、依田市左衛門等が声名を博したと云う。
其の他野州宇都宮にも其の流があり、神伝重信流は数派に分かたれてかくの如く全国に普及して居る。

*この辺は江戸時代の諸本の受け売りのようですが、まあこんなものでしょう

以下次号

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2012年6月16日 (土)

土佐固有の武道居合術の復活2

土佐固有の武道

居合術の復活  竹村静夫の手記

昭和11年7月24日高知日々新聞にて  曽田メモ

森本先生は明治三十年五藤先生の允許を得て上京有信館の門を叩かれた。師範根岸信五郎先生は森本先生の居合を拝見して「海内無双也」と激賞せられた。
明治三十一年五藤先生没後は、同派の谷村樵夫先生が専ら指導の任に当たられた。谷村先生は早抜きの名人である。小藤亀江先生は谷村先生の秘蔵弟子であるが、惜哉早世せられた。次いで下村派の行宗貞義先生が第一線に立たれた。先生の居合には見事なる剣風があり。
明治四十年頃土佐第一の称がある門下は広田広作、曽田虎彦の両先生がある。

一方当時の政治家であって下村派の高弟でその奥義を極められた方に細川義昌先生がある。先生は明治より大正にかけての達人であった。
細川先生没後は武道家として大江正路先生がある。先生は始め下村派を学び後に谷村派を究められ独特の手の内を案出して、大いに斯道の隆昌に貢献せられた。為に多数の門下生が排出した。就中中西岩樹、穂岐山波雄の両先生はその白眉である。

然るに昭和十年頭初穂岐山先生急逝せられ、中西先生渡満せられてより斯道に一抹の淋しさを覚えるに至った。が幸い故穂岐山先生の後は福井春政先生が継いでいる。又これより先曽田虎彦先生帰県せられて往年の下村派の復活を見るに至り、余も坂本将軍の錦衣御帰省を契機として往年の谷村派の復活を志し遂に恩師森本先生より免許皆伝を賜り此処に多年の宿願に到達するを得て土佐居合道のため微力を尽くしている次第である。

3.型

当流は他流に見るが如く単なる抜刀術或は剣道に附属した居合鞘の内のみではなく立派に独立した土佐独特の居合道である。
則之に附属する大森流を加え換技共に四十七本の技の他に、太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰がある。

*このところも河野先生のいう「居合は剣道の一分派」に対し曽田先生の「分派にあらず」と云われた理由を言い表わす部分でしょう。

太刀討ちの位は所謂太刀討で抜刀術を加味した剣道の型である。
詰合の位は実に抜刀術の至極とも云い□(
*得)べき当流の極意とするところである。
又大小詰、大小立詰は抜かずして勝つ即刀、鞘の内にあって敵を制する技で当流の大精神を表徴せられたものである。

当流の骨幹をなす之等のかたは明治三十一年五藤先生の没後全く廃っていたものである。それを四十ヶ年後の今日復活しえたのは、余如きの到底独り研究し得らるべきものではなく、之は森本先生の御示教は申す迄も無く田口刺戟先生の心からなる御指導と御鞭撻の賜に他ならないのであった、又之を如実に発表することを得たのは真に曽田虎彦先生の御協力の賜である。

型の内容は左の通りである。

(イ)太刀討の位
 出合、付込、請流、請入、月影、水月刀、絶妙剣、独妙剣、心妙剣他に打込一本の口伝あり。

(ロ)詰合の位
 八相、拳取、岩浪、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剣他に口伝打込一本あり。

(ハ)大小詰
 抱詰、骨防、柄留、小手留、胸捕、右伏、左伏、山影詰。

(二)大小立詰
 締捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蛉返、乱曲
他に移り口伝一本あり
 

*この居合術の復活の新聞記事は土佐の居合の時代を感じます。

何故と云うことでは、下村派十六代は曽田虎彦先生です。
曽田虎彦先生による伝系は竹村静夫先生は曽田先生の次に下村派第十七代に書かれています。

竹村静夫先生の伝統の最後は谷村派森本兔久身先生から允許されて谷村派十八代を名乗ったと云うところです。竹村先生は谷村派十七代大江先生の後任に拘りを持っていたのでしょうね。
曽田先生の認める下村派第十七代を合わせて名乗る分けにはいかないのでしょう。
谷村派第十八代は一般には穂岐山波雄先生です。この手記にも十七代大江先生の後は穂岐山先生と認めています。

谷村派十六代五藤先生は大江先生にも允許され、森本先生にも允許する、又曽田先生の実兄小藤亀江先生にも允許されているはずです。
一国一人の掟を破ってでも伝統を継承させたかったのかも知れません。

どうもすっきりしませんが当時の土佐の混乱なのかこんなものなのかと思うばかりです。
それはその後の土佐の伝系にも土佐を発して全国に広がっていった無双直伝英信流の将来にも影響していくのでしょう。

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2012年6月15日 (金)

土佐固有の武道居合術の復活1

土佐固有の武道

居合術の復活  竹村静夫氏の手記

昭和11年7月24日 高知日々新聞にて 曽田メモ

*昭和11年7月24日の高知日々新聞に竹村静夫先生の手記が掲載されそれを曽田先生がスクラップしたものと思われます。
これも岩田憲一先生「土佐の英信流 旦慕芥考」に掲載されていますP121.

我が土佐の居合術長谷川流の海内無双なるは既に中央に於ても定評のある処であるが残念ながら今日迄只僅かに其一部のみ伝えらるゝに過ぎなかった、然るに頃日剣客竹村静夫氏の熱心研究は其功を奏し従来の断片的の抜型が全部明らかとなり固有の体系を復活し茲に我が居合術の完備するに至りたるは誠に欣快に堪えざる所である記者は竹村氏に乞うて其手記を転載するを光栄とするものである。

無双直伝英信流居合術

1、伝統
初代林崎甚助重信-二代田宮平兵衛重正-三代長野無楽斎槿露‐四代百々軍兵衛光重-五代蟻川正左衛門宗続-五(*六誤植)代萬野團右衛門尉信定-七代長谷川主税助英信-八代荒井勢哲清信-九代林六太夫守政-十代林安太夫政詡‐十一代大黒元右衛門清勝-十二代林益之丞政誠-十三代依田萬蔵敬勝-十四代林彌太夫政敬‐十五代谷村亀之丞自雄-十六代五藤孫兵衛正亮-17代森本兔久身-十八代竹村静夫

2、沿革
当流の始祖は抜刀中興の祖(奥州の人)林崎甚助重信先生である。
第七代長谷川主税英信先生は始祖以来の達人であって、重信流を無双直伝英信流と改められた。
爾来当流を長谷川英信流又は略して長谷川流と呼ぶ様になった。
九代林六太夫守政先生は土佐の人で高知城南八軒町に住し居合、礼節、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽、鼓等人の師となるに足る技十六あり。斯道の逸材である。
第十一代大黒元右衛門清勝先生より当流は二派に分かれている。
そして何れ劣らず夫々勝れた手の内がある。
藩政時代最後を飾る両派の代表的人物に谷村亀之丞自雄先生、下村茂市定先生がある。
これより此の二派を谷村派、下村派と呼ぶ。
谷村先生は天保の頃潮江に住して藩の子弟を指導せられた。時の藩主容堂公は「谷村の居合は土佐第一なり」と讃えられた。
一日谷村先生をお召の上、御佩刀を出されて「之を抜け」と仰せられた。
先生はお側の者に豆を持たせて、之を抜き打ちになすに寸分を違えなかったと云う。

下村先生は築屋敷に住し嘉永、安政年間藩公より居合指導役を拝命し藩立致道館(*到道館 岩田先生)に於て子弟を教養せられた。
御維新後欧州文明の流入に伴い古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。
時に明治二十六年板垣伯爵帰省せられて土佐居合の全国無比なること並にこれが復活を説かれてより、谷村派の蘊奥を極めたる五藤正亮先生を材木町新築道場に迎えて一般に指導を乞うこととなった、五藤先生はこれより追手筋共立学校に於て主として中学生を教授せられた。
当時の愛弟子に森本兔久身(海軍大佐)坂本政右衛門(陸軍中将)田口刺戟(海軍大佐)のかくれた諸先生がある。

以下次号とします。

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2012年6月14日 (木)

土佐の居合術に就而

土佐の居合術に就而

日本刀荘  谷村秀喜

=居合刀種々あり=市電細工谷停留所前 日本刀荘

*この項も岩田憲一先生の土佐の英信流 旦慕芥考P130に掲載されています。是は出典が不明ですから岩田先生も曽田スクラップをそのままお使いになられたのだろうと思います。

無双直伝長谷川英信流の本場たる土佐国に於ては、現在土佐出身の自分等は当流を内訳して(中西流)と(穂岐山流)の二派としております。
同じ土佐の英信流であって前記二派の異る点を一言にして曰い現さしむれば、穂岐山流は形としては美練され観る目誠に華やかなる形其者である。
然るに中西流は即直で然も機敏であり、真剣味充実し理論徹底し自ら鬼気迫る実戦其者の技である。
一例を挙るに穂岐山流では抜刀からかたなが鞘に治まる迄総ての形が裕長(
*悠長)にして動静が大きく華やかなるを特徴とす。
中西流に於いては総ての形が敏捷にして動静は穂岐山流に比してやゝ小さく生気漲(*みなぎり)りて敵を斃すを目的とし、然も理論的に研究され、利剣其者である。

中西流の抜刀は刀身が今正に鞘を払わんとして切先三寸鞘に残りたる時切先に気力を充実さして体をヒネリて刀身を撥出して敵を弾力斬にするのである。
弾力斬とは例えば一本の竹の根本と先を両手にて握り、之を円形に引枉(*まげ)て一方を放ちたる際の弾力気分を言う。
即ち此の気分るを以て敵を斬り付けるのである。
形が技であり技が形である居合術の総ての動静が理論徹底して居なければならぬ。

一例するに大森流の五本目八重垣の形において抜付けに敵の首或は胴を斬りて次に面を割る。
而て血振りをなし刀が鞘に治まりかけて残心を入らんとする時、倒れたる敵は半ば起きあがりて自己の右足を払いに来たれるにより、更に刀を抜付けて敵刀を撥き返し、直に間髪を入れず敵の面を割る。
此の処迄は両派共大同少異であるが、此処において理論の異なる点である。
此の場合穂岐山流では其場に於いて左足を屈すると同時に敵の面を割る。
中西流に於いては其場より更に左足を一歩踏出すと同時に右足を屈して面を割る。

此の左足一歩踏出す点が中西流として理論の徹底したる点である、何故なれば自己の最前方に出たる右足を敵が払わんとする時には自己と敵との間隔は敵の刀身と延びたる敵の腕との長さの間隔があることは何人と雖も言を俟たざる(*またざる)ところである。
然らば敵と自己との間隔は少なくとも五尺位の間隔はあるのが当然である。
故に前述穂岐山流の如く其場において左脚を屈して斬付けたる処で、剣先は敵に届き憎い理論となる。
故に中西流では右足を一歩踏出して斬付けるのである。
斯くすれば完然(*完全)に自己の剣先は敵に達し、目的を果し得べきである。

斯くの如く中西流は無双直伝長谷川英信流表四十二本、番外三本共此の理論が徹底致して居ります。尚一言して置きたいのは当流には表形の他に裏形が更に四十二本ある事をご参考迄に申し添えて置きます。

* この文章では穂岐山先生の居合は華美だが理論に乏しいと言われるのでしょうか。

それにしても中西流の理論の伝承は何処に行ってしまったのでしょう。
更に無双直伝長谷川英信流は表四十二本、番外三本に裏四十二本があると仰います。
裏四十二本とは聞きなれないものです。どなたか継承されておられるのでしょうか。

表四十二本は現在の無双直伝英信流の業で言えば、正座の部11本、立膝の部10本、奥居合居業8本、奥居合立業13本の事でしょう。

何時の時代でも名人、達人、上手は生まれてくるものです、しかしいくら素晴らしくともそれは瞬時に消えて観る人の目に焼きついていても時により消え去るものです。

自らの理論と実践の業は何らかの形で残されるべきものでしょう。たとえ拙くとも文章を以ってしてほしいものです。写真や動画は悪癖ばかりが強調されて本道が見えなくなります。

ちなみに現在の八重垣は、敵刀を払うや左膝を右足踵に深く密着する様に床に着くと共に・・双手上段に冠り右足を一歩踏み込んで真向に斬り付けています。

河野先生の無双直伝英信流居合術全(昭和8年)では「右脛を刀にて囲い、左膝を跪くや刀を左側より双手上段に振冠り真向に割付け・・」ですから穂岐山流そのものでした。河野先生もその後中西流を取り上げて伝承されたと思われます。

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2012年6月13日 (水)

土佐居合に就いて

土佐居合に就いて

昭和11年2月1日本武道(*新聞?)にて 曽田メモ

長谷川流第十八代
居合術教士     竹村静夫

*竹村静夫
明治32年(1899年)生まれ
大正3年(1914年)城東中学入学
居合を大江正路先生について学ぶ、中学卒業後四国銀行勤務
下村派の曽田虎彦にも教えを請う
昭和2年(1927年)第十八代を名乗る。森本兔久身の許可を得てと何かで読みました。曽田本その2では曽田先生は下村派十六代ですから竹村先生は下村派十七代です。

これは無双直伝英信流第十七代大江宗家の後を十八代穂岐山宗家に対して自分は穂岐山先生を凌ぐとの意図によることのようですがさていかがでしょう。いつの時代でもどこにでもあることです。根元之巻の複数授与の結果でしょう。

下村派十六代曽田先生はこの頃土佐を離れていたようです
昭和11年(1936年)10月25日曽田先生と明治神宮奉納武道で「土佐英信流太刀打之位」を打つ
昭和13年2月(1938年)39歳で死亡。

土佐居合を語る者は藩政時代に於る谷村派並に下村派の両派を究め、而て徳川幕府中期迄逆り「一国一人の相伝也しと云う当流の根元を究むるに非ざれば未だ其の器に非ず」いやしくも土佐居合を説く者は、只先師の教えを遵奉するに止まらず、克く両派の教えを含味して其の理論と実技とが一致する、即其の呼吸、気位並気合、間合い、刀法等総てが今日の剣法に合致し得るものでなければならない。
斯道を志す人々は決して机上の空論に依って当流の手の内を兎角云々することなく、当流各本の教えに付き夫々吟味して先師の教えの那辺にあるかを悟り、真の教えは単なる架空的なものではなく実際と理論と合致したものであることを究めなくてはならない。
斯道に志す人々が「居合いは人を切るものではない、腹の教えである」と説かれるのを拝聴するが誠に然りである。
然し乍ら夫を説かれる迄には深甚の研究と努力を積むにあらざれば未だ其の資格は認められない。
其の腹即斯道の極意に到達する迄にはよりよく錬磨して、真に心剣一致の妙諦を悟られたいものである。
国家に於ける必勝の軍隊練成の主眼が那辺に存するか、邦家が三十六年の危局に際し殻然として外患を圧倒するのは何故か、形の上に於て国家と個人の差こそあれ斯道究極の目的は「居合とは人に切られず人切らず只つゝしみて平に勝て」であって、刀鞘の内にあって敵を制する迄に至らなければならない、これが為めには常住坐臥不断の精進によって、全国無比なる当流の奥旨を悟るべきである。

尚当流は他流に見るが如く単なる抜刀術にあらずして、独立した土佐独特の居合道である。
即47本の居合の他に太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰の秘伝の存することを忘れてはならない。
*この下線の部分が曽田先生の云う土佐の居合は「剣道の一分派にあらず」の意味であろうと思います)
余は土佐居合道の復活に志すこと多年、今や邦家非常の秋に際し各方面の御示教と御協力のもとに当流の隆昌を期し度いと念う。

*この一文には竹村静夫先生の抜き付けの写真が添付されています。
是は岩田憲一先生の土佐の英信流 旦慕芥考 P130に「土佐の居合について 昭和11年2月1日日本武道新聞掲載 竹村静夫」として掲載されています。これも曽田スクラップに依ったのか否かはもう確認する手立てはありませんが、一連のものから曽田メモからと断定します。

写真の抜き付けには、曽田先生のコメントが朱書きで添えられています

此の抜付けは勢余りてか上体が前に懸り過ぎて感心出来ざるものとす、抜付の時眼の付け処注意、刀尖を見るにあらず、敵から眼付を離すべからず 曽田メモ

師匠は何時にても厳しいものです。曽田メモにコメントされブログで日の目を見て竹村先生も頭を掻いておられるでしょうか。

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2012年6月12日 (火)

無双直伝英信流居合術(其の11)英信流居合形2

無双直伝英信流居合術(其11)

英信流居合形 大江正治先生述(*正治は正路の誤りでしょうが此の治のまま無双直伝英信流居合術全に引き継がれています)

4、独妙剣

打太刀は其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩退りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で右足を踏み出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と、追足にて一歩づゝ退き刀を青眼とす。
打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺込みて突きを施し上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜に変じ上段に取り、右足を踏み替えて打太刀の首を斬る、互に青眼となりて打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退き互に構ゆ。

5、鍔留

互に青眼のまゝ小さく五歩を左足より退き、打太刀は中段となり仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出合い乍ら双方上段となり、間合に至りて相打ちとなりて刀を合わす、仕太刀、打太刀、鍔元を押し合い双方右足を後へ退き左半身となり、刀は脇構えとして刀尖を低くす、打太刀は直ちに上段より右足を踏み込み仕太刀の肩口より切り下す、仕太刀は左足を十分退き体を後方に引きて刀をかわし上段となり、空を打たせ上段より頭を斬る、打太刀は二歩出で、仕太刀は二歩退き、青眼となり互に小さく五歩退き血振り刀を納む。(打太刀は仕太刀を打つ時は中腰となり上体を前に流す)

6、請流

を腰に差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足右足を踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す仕太刀は左足を右足の側面に出し刀を右頭上に上げ受け流し、左足を踏み替え右足を左足に揃えて体を左に向け打太刀の首を斬る、仕太刀は左足より左斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み退きて青眼になり次に移る。

7、真方

打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩十分に踏み込みて打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は其儘の体勢にありて仕太刀の斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退き其刀を受け留める。
互に青眼となり打太刀は、一歩出で仕太刀は一歩退く、青眼の儘残心を示し互に五歩退き元の位置に戻り血振りし刀を納む。

終礼

納刀後互に右足より出で、約四尺の距離を取りて左足を右足に揃え直立し、同体にて正座し右手にて腰の刀を抜き前に置き板の間に両手をつきて礼を行い、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換え右手は右膝の上に乗せ其儘右足より立ち左足を右足に揃え互に三歩退き直立となり黙礼を行い、更に対向の儘三歩づゝ退り神殿に向い礼を行い左右に別る。

(以下次号)

* 以下次号は(其13)に飛んでいますのでありません。間に別のスクラップが入りますので、この無双直伝英信流居合術の関係は八重垣会の会報か何かから切り抜いたのでしょう。

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2012年6月11日 (月)

無双直伝英信流居合術(其の11)英信流居合形1

無双直伝英信流居合術(其十一)
大阪居合術八重垣界、剣道錬士 河野 稔

英信流居合形 大江正治先生述
(*正路のはずですが何故か正治となっています、之はその後の無双直伝英信流居合術全に於いても「大江正治」ですから河野先生の勘違いでしょうか)

1.作法

居合の時の同要領にて、神殿に向い立礼をなし、後互に十尺位の処に対向し(此時刀は左手に)拇指にて鍔を支え其の握りを腰部に着け45度位ひの傾斜に刀を提げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、更に約五尺程の距離に進みて向い合い静かに正座す。

刀を右手に持ち替え前に五寸程離して置き互に両手を板の間に着けて礼を行う。

次に一応両手を膝の上に置き、右手にて刀を持ち腰に差し、再び両手を膝の上に置き、更に左手にて鞘を握り拇指を鍔に添え右手を膝の上に置きたるまゝ右足を前に出し其足を左足に退き揃えて直立す。

直立したる姿勢にて後に退く事左足より五歩とす。

止まる時は、右足を前に左足をやゝ五寸程退きて踏む、此の構にて互に進み出でて第一本目を行う。

2.発声

発声は相互の打合せ、或は受け又は打込みたる時、其業毎にイー、エー、と声を掛け合うなり。

3.業書
大江先生の独創なり、古伝の業にあらず 曽田メモ

1、 出合

打太刀は柄に手を掛る。仕太刀も打太刀の如く柄に手を掛けて双方体を前方に少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出で、右足を出したる時膝の処にて刃を合わす、仕太刀は直ちに右足にて一歩摺り込み上段より真面に打込む、打太刀は左足より右足と追足にて退き刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出中段の構となり残心を示す。是より互に後に五歩づゝ下がり、元の位置に復し血振り刀を納む。

2、 拳取

一本目と同じく虎走りに出で、膝にて抜き合せ仕太刀は左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頚を逆に持ち下に引き下げる、打太刀は其のまま上体をやや前に出し仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に当て刀尖を胸につけ残心を示す、仕太刀は一歩退き打太刀は一歩出でて青眼構となる(仕太刀は五歩青眼にて退く、打太刀は其まゝにて位置を占む) 

3、絶妙剣

打太刀は其まゝにて左足を出して体を斜向きに八相となり、仕太刀は青眼より左足を出して八相となる、仕太刀は八相のまま右より五歩交互に進み出で、同体にて右足を踏み出して右面を斬る、打太刀は八相より左足を退きて仕太刀の太刀と合わす、仕太刀は左足を出し打太刀は右足を退きて前の如く、打合わせ、打太刀は左足を退きて上段構となりて斬撃の意を示す、是と同時に仕太刀は右足を出して体を右半身とし中腰となりて左甲手を斬る、静かに青眼となりつゝ打太刀は三歩出で仕太刀は三歩退る。

以下次号

* このスクラップに以下次号とありますのでそれに従っておきます。この英信流居合形は七本で構成され古伝の太刀打之位十一本とは幾つか異なるので、曽田先生は大江先生の独創とメモされたのでしょう。

古伝を残すのか、土佐の居合を消滅させないで残していくのか何故大江先生はこのようにされたか今では知る由も無いと思われます。

前にも不思議な事として書いた記憶がありますが、下村派を自認される流派にこの大江先生の英信流居合形(無双直伝英信流居合道形)を演じる方が見られます。その伝系を知りたい思いに駆られています。曽田先生の仰るように大江先生の独創で古伝ではないから太刀打之位を何故伝えなかったのか疑問です。

この英信流居合形を近年「太刀打之位」と称していますが時の流れは曽田先生の思いを消し去っていきます。

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2012年6月10日 (日)

居合の疑義についての解説2

居合の疑義についての解説2

故穂岐山先生より数回に亘りて筆者に賜りし御書簡の写

6.抜付に於ける前方に踏出す足に就て

答、前に踏み出したる時の足の内六角度(膝の内側)(*六は方の誤植)は、九十度よりは少しく小さく上体を前に倒すにあらずして、下腹に力を入れて前に押出す気味にて、少しく前に掛る方宜しく候。後方の脚は上体の延線よりずっと後方に開き、上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位いを適当と考えられ候。尚又此場合体を前がゝるは不可にして、只下腹を前に押出して上体は垂直のまゝ少しく前懸りとなるを可と致し候。

* 此の足と重心の位置はいかがでしょう。
よく踏み出した足に重心が掛らないようにするため、足を上下させてそれとしている方もあるようです。
後ろ足に重心を残せば容易なことですが、前に攻め入る心持があれば重心は前足先と後膝頭の中間にあるでしょう。
「腹を押出して上体を垂直に少し前懸かり」は腹で抜く心持が解かるまで無理な事です。

7.立膝の血振いにつきて

答、右脇の血振は、真向に打下したる線に並行より少しく剣尖が外方に向く位とし、水平線より少し剣尖を下ぐる方宜しく候。

8.八重垣の動作につきて

答、右足にて水平に抜きつけ「左足を前に踏み出し膝を床に落ち付く」(此場合の動作は一動にて行い、此動作中に刀を諸手上段に振冠る)、故に、すでに打ち下す時は右膝は床につき居りて納め刀は全体勢のまゝにてなし、次に左足を右足の後に大きく踏み開き(此時左足の動作始まると同時に右膝は床よりうかす)半身となりて脛囲に移る様致し候。

* 全態勢のまゝにて・・?
   

9.颪の柄当てにつきて

答、颪の場合の柄当ては、敵が柄を取らんとするを敵の顔面中心(人中)を柄頭にて突くものに候。

10.業と業との間につきて

答、総ての業の間には必ず一動毎に少しの間を置き決して一連に行うものには之無く候。此一連に行うは最も不可にして少しの間と云うものは時間的のものにては無く、「一動の終りにぐっと確かなる力の締りを」必要と致し候、而して次の動作は新たなる力と気合を以て行うものに候。
此の少しの間と云うは、初心の内は十分落付きて業と業との間に区切りを作り、熟練するに連れて此の間をつめて然して此の業との間に力の締りある如く行うを可と致し候。

*この穂岐山先生との問答は無双直伝英信流居合術全及びその後無双直伝英信流居合道には欠かせないものになっています。

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2012年6月 9日 (土)

居合の疑義につきての解説1

居合の疑義につきての解説

穂岐山先生より数回に亘りて筆者に賜はりし御書簡の写

*河野先生が第十八代穂岐山宗家から受けた書簡による居合の疑義についてが語られています。河野先生は解らない事があれば、聞き確認されておられたのでしょう。曽田先生にも良く聞いておられたようですし、現代居合はその努力の結晶でしょう。

此の質問と答えについても河野先生の昭和8年の発行になる無双直伝英信流居合術全に同様の題によって書き込まれています。

1、正座抜付けの場合の右拳の高さに就いて。

右拳の高さは、左右肩の高さに同じ。

2、抜付けの場合の右拳の位置について。

右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約6、7寸位い前方に出づるを可と致し候。拳を其線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位い鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候。此時の気持は抜きつけに限らず真向其他の切り付けと同一に御座候。剣道に於て面に打込みたる時手を握り締めると共に前に出す気持と同様に御座候。

3、刀尖は拳の高さと同じ水平線上にあるや。

貴説の通りなるも幾分下がるも宜しく候、是は刀は水平なるを原則とするも、前方より見たる時刀の裏を見せず表を見するよう致し候、(刀の下方を見するより上方の面を見するを可とす)

4、腕と刀の角度は九十度にて可なるや。

答、第二項に説明の通り、約三十度位広角度となすを可と致し候、是又然らざる時は引切りの気味となり、且充分刀尖に気勢籠らざるものに御座候。

 此の腕と刀のありようは、やや開き気味で尚且つ切先が少々内に入るような状況に思えます。しかし第二項の「刀を前に出す心持肝要」を加味しますと腕は正中線に四十五度位開き、刀は正中線に平行で、刀尖は正面を向きます。右拳の高さは左右の肩の高さ、刀は床に平行で切先やや下がりを想像します。
曽田先生の教えと是は一致していますので下村派の伝系も谷村派の伝系も此の横一線の抜き付けのフィニッシュは同じ形に納まるを善しとしたと思います。

5.正座納め刀の場合

答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際においては練習を積むに従い是にては何となく業の堅くしてやわらか味無き感を来し候、此意味に於て血振いの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候。
然れ共是は極く瞬間的のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得るが如く大きくゆっくりと動作するには之無く、只起動の為つまり動作を速にするために候。
然し原則としては拳は返す事無く、血振いの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。

以下次号とします。

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2012年6月 8日 (金)

英信流居合と板垣伯2

英信流居合と板垣伯 

居合術教士・剣道錬士 中西岩樹

明治25、6年頃と言えば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後数十年を経過している事ではあり、真剣を打振う居合の如きが文明改化を追うに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤生亮、谷村樵夫、細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修業せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。

其の内に段々居合を知る人も物故し、之等の先生と雖も何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を伝える者が無くなるであろうと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労をとられたのが板垣伯である。

即ち明治二十六年板垣伯のご尽力に依って高知市新堀竹村與衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当られたのである。
夫れが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長
して居合を好む渋谷寛という人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝ事となった。

明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同三十六年谷村先生の没後大江先生が之に代ることゝなったのである。しばらくして高知県に於いて五藤・谷村・大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。

又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兔久身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就て修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で仲山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。

爾来中央に在っては中山先生、高知県に在っては大江先生の非常なる御努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救うて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。

実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめられたが、更に不言黙々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰いたいのである。

*この「英信流居合と板垣伯」は曽田本スクラップがある方から岩田憲一先生に送られ「土佐の英信流 旦慕芥考」のP128に掲載されています。

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2012年6月 7日 (木)

英信流居合と板垣伯1

英信流居合と板垣伯

居合術教士・剣道錬士 中西岩樹

*曽田先生のスクラップは切り抜かれた順なのかそれとも意図する事があるのか河野先生の無双直伝英信流居合術の間に此の板垣伯のスクラップが挿入されています。これも出典不明です。何処かで引用されているかも知れませんが、曽田先生の手ずから切り抜き貼り付けられた、手作りのスクラップと云うことでご了解ください。

尚、岩田憲一先生の「土佐の英信流 旦慕芥考」P128にこの「英信流居合と板垣伯」は記載されています。曽田メモを曽田先生のご長男から「私は居合をやらないので君が持っていてくれ」と渡された方が、岩田先生と縁あってそのコピーを送られたそうです。其のいきさつは岩田先生もお亡くなりになり、渡された方もご高齢で記憶が薄れられておられるようです。ですからそれ以上は分かりません。

近来時局の影響する所が一般的の趣味にしても剣舞詩吟謡曲の如きものが非常に隆興を来したように思われるが、殊に武道の方では居合が急激に倍々旺盛となってきたように考えられる誠に喜ばしき現象である。

今から20年を回顧してみると当時京都の武徳会本部大会に居合を以て出演する者は実に寂寥々たるものであった。
而して諸流又其の抜方斬方の皆各々の特徴が有って、決して今日見るが如き整うたものではなかった。


只独同流にして発祥の地を一にする東京の中山先生の御門下生と高知県よりの出演者が長谷川英信流又は業に依る部分的名称大森流或は長谷川流と称して抜いていた居合が其の抜刀斬突納刀の鮮かな技に於て断然頭角を抽いて居たように覚えて居る。

夫れが今日に於ては毎年の大会出演者実に二百名に垂んとする盛況を呈し、而も高知県を発祥の地とする居合が其の約七割を占め居合界に君臨するの躍進を遂げたという事は誠に欣快に堪えない処である。之は居合の所作其のものに負う処も決して少なくはないであろうが、又一は先輩諸先生の並々ならぬ苦心の賜物と謂はなければならぬ。

由来高知県より出でた居合は始祖林崎甚助重信先生より第七代目長谷川主税之助英信先生に至って一大進歩を遂げ長谷川流と呼ばれ或は英信流と唱えられ又は長谷川英信流と称せられたもので第十代目高知藩士林六太夫守政先生之を高知県に伝えて以来連綿と今日に及んだものである。現今流名は右記の外、大森流、無想直伝英信流、夢想神傳流等と言われているも元来同流に外成らぬ。

さて此の居合が一時衰微の極にあった剣道の如く否より以上更に深刻に最早既に其の伝統の断絶せんとした場合此の危機を救うて呉れたのみならず、今日の出世発展の直接原因を造って呉れた恩人が茲にあったとしたならば、我々は大いに其の人を徳とし絶大なる感謝の念を捧げて然るべきではあるまいか。
然らば其の恩人とは誰ぞや?、即ち高知県の大先輩故板垣退助伯である。

以下次号

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2012年6月 6日 (水)

無双直伝英信流居合術奥居合立業之部

無双直伝英信流居合術奥居合立業之部

* 河野百錬先生の八重垣会の業手付けと思われ、その後無双直伝英信流居合術全として小冊子とされ昭和8年発行されています。その奥居合立業之部。

1. 行連  正面に向い前方に歩み行きつゝ、例に依りて静かに鯉口を切り右手を柄に掛け同時に右斜前の敵を抜き打に切り付け、直ちに左斜前に向き乍ら双手上段に引冠り右足を踏込みて左斜前の敵に切り込みて、刀を右に開きて同時に左手を腰に取り夫より鯉口を握りて納め終る。

2.連達  正面に向いて前方に歩み行きつゝ例に依りて静かに鯉口をきり右足を右斜前に踏出し左後に振り向き右斜に刀を抜き取りて左肩先に刀を水平に刀の鍔元迄突込みて左後の敵を斃し、更に右斜前に振向きつゝ双手上段に冠りて切下し納刀する事前に同じ。

3.惣捲り 正面に進みつゝ例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛け右足の出ると同時に刀を引き抜きて、右足を左足に引きつけつゝ双手上段にとり右足を踏込みて敵の左面に切り付けると同時に左足を右足に引き付け更に右足を踏込み刀を返して肩に斬りつけ尚(切り付けたる時左足を右足に引付ける事以下同じ)右足を踏込て胴に切込み、右足を更に出して腰を低めて腰を左より一文字に払い、直に上段に大きく振冠りて正面を割付け刀を開きて納める事前に同じ。

4.惣留  正面に進みつゝ、例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛けると同時に右足を踏出して腰を十分左に「ひねり」て右斜前に抜きつけ、左足を右足先迄引き寄せ乍」ら刀を納め、右足を踏出しては又右斜前い抜きつけ三度足を繰り返し腰を正面に「ひねり」て血振いし納刀する事前に同じ。

5.信夫  正面に向いて進みつゝ、例に依りて鯉口を切り体を沈め向うを透し見て左に一歩披き刀を抜き正面を見つゝ体を右に十分及ばして刀を右前に突き出し、及びたる体を引き越し空を切らせ、直ちに刀を右より双手上段に振り冠り右足を踏み込みて切り下し納め終る事前に同じ。(詳細は口伝の事)

6.行違  正面に向いて進みつゝ、右足を踏み込みて鞘諸共抜出し、柄頭を以て敵の顔面を一撃し、其のまゝ刀を上に抜取りつゝ体を左方より後に向き(足は其儘)双手上段に振り冠りて後方の敵に切り込み、更に右廻り正面になりつゝ真向に割り付けて刀を納め終る事前に同じ。(詳細は口伝の事)

7.袖摺返 正面に進みつゝ例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛け右足を踏出すと同時に刀を抜き出し、右足を左足に引きつけつゝ両腕を前に組み、右足を進めて両腕を左右に大きく広げ、左足を出したる時双手上段に振冠り更に右足を踏み込みて打下す。(敵と我との間に他人があり其れを押し除けて敵を切るの意)

8.門入  正面に進みつゝ、例に依りて鯉口をきり右手を柄に掛け右足を出し前に抜き左足を踏出して右拳を後方に引き(刀身は水平にして刀尖は鯉口の近くに)右足を踏出し、同時に右拳を前方に突込み左足を中心として左に廻りつゝ諸手上段に冠りて右足を大きく後方に踏込みて切り下し、更に左廻り(左足を中心として)には正面に右足を踏込みて切り下し、納刀する事前に同じ(頭上に鴨居又は門等ありて、刀尖が閊える場合に行う業)以下次号。
(足踏みは右足を出して突きたる儘左廻りに後方を斬り又右廻りに前方を斬るや足踏みは替えざる事 曽田メモ)

*門入は古伝では心得があるばかりでこのような業にはなっていません。曽田先生が「違う」と云う理由は何でしょう。大江先生の古伝を改変された門入は突きを入れた足踏みのまま後を切り前を切ります。しかしこれでは門に横木があったりしますと後を切るのは体を低くしなければ無理でしょう。河野先生の方法が自然です。

9.壁添  正面に向いて立ち、両足を真直に爪先を立て左腕を脇につけて動かさずして右手を柄に掛け、刀を上方に抜取り双手上段に取りて打下す、(此場合柄は下腹に接近し、刀尖は両足に近き所迄切付く、)血振は打下したる状態にて右に刀を開きてなし、次に右拳を前より前額上部に取りて上より下に静かに納め終る、(左側に壁がありて普通の如く刀の抜けざる場合なり)

10.受流  正面に向いて進みつゝ、静かに鯉口を切り正面より打ち来る敵刀を受流すために、直ちに柄に右手を掛け同時に左足を右方(正面に向い九十度右に)に踏込て刀を頭上より左肩先に抜き取りて敵刀を我が刀の表にて受流し、更に右足を左足の後方に開き刀を頭上に振り冠りて右足を左足に踏み揃え両足を左方に(其位置にて)揃え、(両爪先が左斜に向く)同時に双手上段いて真向に割付け刀を開き血振り納刀する事前に同じ。

11.暇乞  正面に向いて正座し、両手を前につきてわづかに頭を下げ礼をなす間も無くうつむきたるまゝ両爪先を立て刀を抜き取り、左肩側に刀を突込む如く双手上段に振冠り真向に切り込み(膝を乗り出し)刀を開きて血振り刀を納めつゝ両踵の上に臀部を下し納め終る。

12.暇乞  正面に向いて正座し、両手を前につき頭をやゝ深く下げて刀を抜き取りて、動作する事前に同じ。

13.暇乞  正面に向いて正座し、両手を前につき頭が座に着かんとする所迄下げて、間も無く刀を抜き取りて動作する事前に同じ。

以上

居合之流派及始祖

英信流   長谷川主税助英信
大森流   林崎甚助重信(?大森六郎冴左衛門 曽田メモ)

(*河野先生は何処から此の始祖を聞いてきたのでしょう、今にしては面白いのですが昭和の始め大阪暮らしの先生には伝系を伝える人も書物も無かったのでしょう)
田宮流   田宮平兵衛業正
一宮流   一宮左太夫照信
一傳流   丸目主水正
伯耆流   片山伯耆守久守
無楽流   長野無楽斎槿露斎
関口流   関口八郎右衛門氏心
上泉流   上泉権右衛門秀信
柔新心流  久瀬猪左衛門定勝
水野流   水野新五左衛門重治
不傳流   伊藤不傳
新田宮流  和田平助正勝
真影山流  景山善賀清重
化顕流   那須五左衛門家次
制剛流   梶原源左衛門直景
其他 力信流、柳剛流、神陰流、鞍馬流、等剣道の一派に依り生まれたる諸流あり。

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2012年6月 5日 (火)

無双直伝英信流居合術奥居合居業之部

無双直伝英信流居合術奥居合居業之部

*無双直伝英信流居合術全、河野百錬著以前に書かれた大阪八重垣会に於ける業手付と思われます。恐らく昭和6、7年の頃河野先生が第十八代穂岐山先生に習ったままを書き付けられたものでしょう。現在と想定が幾分異なるようなところもあります。

1.霞  正面に向い立膝に座し、気充つれば左手にて鯉口を握り拇指にて鯉口を切り、右手を柄にかけ刀をぬきかけ腰を延び切ると同時に右足を踏出して抜き払い、「払いたる手の止まらぬ間に」総体を進ませ乍ら甲手を返して左を払い、(最初敵の右首に抜きつけ刀寸の足らざる故に更に体を進ませて左首に切り返すの意)左膝を進ませると同時に双手上段に振り冠りて切り込み、刀を右に開きて血振い同時に左手を腰に取りて後鯉口を握り、刀を納めつゝ右足を引きよせ左踵の上に臀部を下して納め終りて立上り、直立の姿勢となりて次の業に移る。

2.脛囲い  正面に向い立膝に座し、例に依りて柄に手を掛け同時に立上り左足を一歩後に退くと同時に刀を抜き払い、「虎一足」の如く刀棟にて敵が脛を切りつけ来るを受留め、左足を膝まづくと同時に双手上段に振り冠り真向に切り込みて血振いして納刀する事前に同じ。

3.戸詰  正面に向いて立膝に座し、例の通り柄に手を掛けると同時に右足を右斜前に踏込みて右片手にて切りつけ、直ちに左膝頭を中心として左斜前に向き右足を踏み双手上段にて切り付け、刀を血振いして納むる事前に同じ。

4.戸脇  正面に向いて立膝にて座し例に依りて柄に手を掛け同時に右足を右斜前に踏込て右斜に刀を抜き取りて顔及胸を左後に向けて拳を返して刀尖を左肩下より鍔元迄水平に突込みて左後方の敵を斃し、直ちに右斜に振向き直りつゝ双手上段となりて切り下し、刀を納め終る事前に同じ。

5.四方切り  正面に向い立膝に座し、例に依りて柄に右手を掛けると同時に右足を右斜前に踏み込みて刀を抜き取り、顔及胸を左後ろに向けて刀尖を左肩下より鍔元迄突込みて直ちに諸手上段となりて右斜前の敵に斬りつけ、左膝頭にて大きく廻りて左斜前に右足を踏込みて双手上段(此時刀尖は右より廻して冠る)にて割つけ更に正面に向き直りて右足を踏込むと同時に双手上段より(此時刀尖は左より廻して冠る)振り冠りて割付て血振いして納刀する事前に同じ。

6.棚下  正面に向い立膝に座し、例に依りて柄に手を掛けると同時に体を前に「うつむけ」体を低くして右膝を立て左足を右脚踵に引付けると同時に刀を左肩より頭上に引抜くと共に双手を掛け右足を進めて前に低く切り込み、(打下したる時は上体は真直に)刀を開き納刀する事前に同じ。  

7.両詰  正面に向いて立膝に座し、例に依りて柄に手を掛け同時に腰を延ばし刀を前方に引抜き直ちに右足を前に踏み込みて刀を突込み、其突込たる刀を引き抜く気持にて拳を体に引きつける気味合にて直ちに双手のまゝ上段に冠りて真向を割りつけ、血振り納刀する事前に同じ。

8.虎走  正面に向いて立膝に座し、左手にて鯉口を握りたるまゝ右手を柄にかけ、体を低くして立上り前方に小走にて走り行き、腰を延して右足を踏み(*込み)て抜き払い左膝を跪きて双手上段となりて割付て血振いして納刀し、直ちに右足を左足に引き付け右手は柄に掛けたるまゝ更に低く立上りて、小走りに走り戻りて左足を退きて抜き払い左膝を跪きて双手上段に割りつけ、血振いして納刀する事前に同じ。

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2012年6月 4日 (月)

アカボシゴマダラ春型

6月の日差しがモミジの葉に柔らかく、小庭を吹き抜ける風にアジサイが揺れています。風に吹かれながら白い蝶が庭を行きつ戻りつしています。柔らかな羽を煽られながら飛び交います。

アカボシゴマダラの春型です。もう季節は夏に向ってひた走りに走っている時期に春型と云うのもおかしな話ですが、アカボシゴマダラは5月半ばから6月半ばまでは春型と夏型が混在するのが珍しくありません。
春型は白い部分が広く大型のモンシロチョウやスジグロシロチョウと思う時もあってゆったりと風に乗るような飛翔にアカボシゴマダラと気付かせてくれます。

固体数が減ったように思うのですが、さすが発祥の地と言われるだけに顕在です。

昨年11月に植えておいたタマネギが丸々と太ってようやく収穫です。今年は寒さが厳しかったのですがその後の暖かさに良く育ち平年並みの収穫期となりました。タマネギを抜きながらひらひらと舞うアカボシゴマダラをつい眼が追ってしまうのです。そう気になる女(ひと)を眼が知らぬ間に追ってしまうあれと一緒です。

家の裏がスポーツ広場になっています。
ボールが民家に飛び込まないようにネットが張られています。
タマネギを駐車場の軒下にぶら下げて置けば何時までも常備野菜の筆頭でいます。無農薬ですから芽が出て来ますが、毎年12月頃までは食べ続けられるのです。
其処まで畑からネットの脇を通りながら両手に幾つものタマネギをぶら下げてトレーニングのつもりで何度も往復するのです。
アカボシゴマダラが飛んでいるのを横目で見ながらタマネギと歩いていました。急に強い風が吹いてアカボシゴマダラがネットに磔になってしまいました。不思議な風でしばらくアカボシゴマダラを磔にしています。
タマネギを放り出して手で掴んでしまいました。もう羽も千切れていて長い春も終りそうです。

明日は「武蔵と柳生新陰流」(2012年5月発行赤羽根龍夫・大介先生)を送っていただいた剣友にお礼に採りたての赤いタマネギと白いのをお届けします。

オニオンスライス、大好物だそうです。

「習いを尽くす目的は練習を重ねて手足の所作が自由になって、心の影響を受けないことであると言っています。そのためには心も自由にならなければならない。そうすれば、自分の心もどこにあるかも分からなくなるので、天の魔物も我が心の隙を見つけることは出来なくなる。修業がここまで至れば極意を得たことになると言います」武蔵と柳生新陰流より

「習いを忘れ心を捨てきって、一向に我も知らずしてかなう所が道の至極なり、習いより入りて習いなきにいたるものなり」(兵法家伝書)

「朝鍛夕錬して、みがきおおせて後、独り自由を得、自ずから奇特を得、通力不思議有る所、これ兵として法をおこなう息」(五輪書火之巻)
「道理を得ては道理を離れ、兵法の道に、おのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあいてはひょうしを知り、おのずから打ち、おのずからあたる、これみな空の道なり」(五輪書地之巻)

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無双直伝英信流居合術業書立膝之部

長谷川流の事

立膝之部

1.横雲  正面に立膝に座し、気充つれば左手を鯉口に取りて拇指踏(*にて)鯉口を切り、右手を柄に掛けるや腰を少し浮し刀を抜きつゝ右足を踏み出して右一文字に抜払い双手上段に振り冠りて真向に割付け直ちに刀を右に開きて血振し、同時に左手を左腰に取り鯉口を握りて納めつゝ右足を左足に引付け、爪立てたる左足の踵に上に臀部をおろすと同時に納め終りて立上り次の業に移る。

2、虎一足  正面に向い立膝に座し、例に依り抜きかけ立上り左足を一歩後に引きつゝ右斜前に殆ど刀を抜き、左腰を左方にひねると同時に刀を抜きはなち刀の差表にて受け留め向脛に切りつけ来るを右足を圍い左膝を跪くと同時に双手上段に振冠り真向に割付け、右へ開き納め終る。

3.稲妻  正面に立膝に座し、例に依りて抜きつゝ立上り左足を引きて高く払い、(上段の甲手に斬込む)左膝を跪くと同時に双手上段に振冠りて斬込み、刀を右に開き血振し納め終る。

4.浮雲  正面より左向に立膝に座し左手を鯉口に取りて立上り、左手にて柄を左に逃し、(右方の敵が吾が柄を取らんとするを此左足は左に開く)右向になりつゝ柄を鞘共胸迄上げ、(右手をかけ)同時に左足を右足先前に接する様進ませ少し腰をおとし鞘を突込み足をもじらして、(左足の甲を下に向くように)刀を抜きつゝ其抜きは放れ際の処にて腰を左に十分にひねり、左足の裏を上に向けたまゝ尚腰を下げ敵の胸元に抜付け、後ち体を右に廻し刀の腰棟に左手の四指を当て右足を後に退き此時右膝をつく敵の体を横に押倒す、次に柄を引き上げ刀の物打の棟へ左手の全指をあてたるまゝ引構へ、夫より刀を左手にて後にはね返し双手にて柄をとり、更に双手上段に振冠りて左膝の外へ切り込みて後納め終る事同じ。

5.颪  正面より左向に立膝に座し例に依り左手を鯉口に掛け、鯉口を握りたるまゝ拇指を鍔に掛け、右足を踏み込みつゝ柄頭にて敵の顔面を一撃し、左足を引き付けつゝ右手にて刀を抜きつゝ腰を十分左にひねりて抜き放ち敵の胸元へ切り付け(体は左に向き右膝は浮かし左膝は下に付く)顔は正面に向け左足を少し後に引き左手の四指を刀の腰に当て、敵を横に引き倒すや右足を正面より右(九十度)に踏み開き肩の高さに右拳を伸ばし(顔は正面に向く)刀を後にはねかえし、右足にて廻り正面に向き乍ら双手上段に冠り真向に斬込みて納め終ること同前。

6.岩浪  正面より右向に立膝に座し例に依り右手を柄にかけると同時に低腰に立上り、直に左足を少し後に引き刀を抜き左手を刀尖に当て右足を軸として左に廻り、左膝をつくと同時に右足を少し踏み込み左手の四指を刀の棟に当て敵の胸に突通し、左膝頭にて右に廻りつゝ敵を横に押倒し、(顔は正面)左手の四指を刀の腰に添え右手を突出し、右足を踏み出しながら刀を後ぬはね返し双手を突出し、左膝を右足の後に送り体を更に正面に向け双手上段より真向に切込み刀を開き納め終る。右の場合敵の胸に刀を突込む時は、右手を後方に十分引き延ばす事。

7.鱗返  正面より右向に立膝に座し例に依り鯉口切り右手を柄にかけ立上りつゝ左へ(くるり)と廻り正面に向き、同時に左足を後に引き腰を延しきりて抜払い右一文字に切りつけ、左膝を跪き、双手上段に振冠り真向を割りつけ刀を開き納め終る。

8.浪返  正面より後向きに立膝に座し、例に依りて鯉口を切り右手をかけて立上り左廻りに正面に向きて作すること鱗返しに同じ。

9.瀧落  正面より後向きに立膝に座し、左手にて鯉口を握りたるまゝ立ち上ると同時に左足を左斜後に退きて(間違なり 右足を少し踏出す也 曽田メモ)鐺を引き付け顔は左に振向きて、(後の敵が刀の鐺を取るを鞘を、こねて、其手を振ほどく)左足を右足の前に踏み出すと同時に柄を胸の付近に取り鐺を振りはなすや右足を前に踏み出し、(間違いなり、右足を右斜に出すなり 曽田メモ)刀を抜くと同時に左に振返り刀先の棟を胸部に当て(抜きたるとき肘は両肩の線にて約直角に曲げ刀身を平に胸にそえて(刃が上に向くなり)振り返りば満(*?)柄も通れと片手突きする。此の時上体は前にかかり右足は左斜後に爪先立にて踏むなり 曽田メモ)後に振向くや右手を延して突込み、直に右足を踏み越しつゝ刀を双手上段に振り冠り左膝をつくと同時に斬下し刀を開き納め終る。

*この瀧落については、曽田メモが頻発しました。右足を少し出して立ち上がり鐺を引き付け左に振り向いて左足を右足の前に踏み出すと同時に柄を胸の付近に取り鐺を振りはなすや右足を右斜めに出し刀を抜くと同時に左に振り返り肘は両肩の線にて約直角に曲げ刀身を平に胸にそえて(刃が上に向くなり)・・・・河野先生は胸に刀の棟を当てる。

10、真向  正面に向いて正座し、鯉口を切りつゝ右手を柄に掛け、膝頭と両足爪先とにて膝を伸すや右斜前に刀を抜き、刀尖を左肩先へ突込む気持ちにて刀を双手上段に振り冠りて真向に切込み、刀を右に開きて納め終る。 

*立膝之部も全文無双直伝英信流居合術全そのままです。瀧落の所での曽田メモについては古伝を壇崎先生の夢想神伝流で見ればそれとも異なる運剣でしょう。「トンと踏付けると同時に刀を右上方に引き手を利かせて抜きながら、引き手を利かせて上から落すように敵の胸部に突刺し・・・・居合道‐その理合と真髄」

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2012年6月 3日 (日)

無双直伝英信流居合術業書正座之部

大森流居合の事 曽田メモ(*曽田先生は河野先生の英信流居合術のスクラップにある正座の部とされる大江宗家の名称に対し之は古伝では従来より大森流であると大江先生の業名改変についても疑問視されているように感じられます。
以下は河野先生が大阪居合術八重垣会で配られたであろう無双直伝英信流の業手付けです。昭和8年発行の無双直伝英信流居合術全の元になった書き物だろうと推測しています)

居合術業書

正座之部

1. 前  正面に正座し、十分気の充ちたる時、左手を鯉口に取り左指にて鯉口を切り、右手の全指を延したる儘柄に掛けて握り、膝を少し中央に寄せる様にし、腰を左にひねりて刀を抜きつヽ両足先を爪立て、膝を延び切るや右足を前に踏出すと同時に刀を抜き払い、(胸の通り横一文字に)更に双手上段に振り冠りて真向に割付け、左手を柄より離し左の腰(鯉口の少し下帯の処)に軽くあて、刀先を右に円を描く如く頭上に取りて血振いすると同時に立上り、左足を右足の位置に踏み揃う(此時膝は伸び切らざる事)夫より右足を一歩大きく後方に引きて、刀を納めつゝ右膝を跪くと同時に納め終りて後、立上りて前足に右足を踏み揃え、直立の姿勢となりて更に左足より一歩退りて座し次の業に移る。

2. 右  正面より右向に正座し、例に依りて抜き掛けつゝ爪先を立て、右膝頭を中心として(左足先と)左に廻り正面に向き、左足を踏み出し同時に刀を抜き放ち、右横一文字に切りつけ、更に双手上段にて割付け血振(此時右足を左に踏揃え左足を後に引きて)刀を納むる事同前。

3. 左  正面より左に正座し、例に依って抜き掛けつゝ爪先を立て、左膝頭を中心として動作に移り、右に廻り正面に向いて刀を右足踏み込むと同時に抜き放ち、更に双手上段に真向に割付け血振り刀を納むる事同前(此場合足の動作は右の場合と反対の動作なり。)

4. 後  正面より真後向に正座し、右膝を中心として左廻りにて正面に向きて、動作する事右の場合と同様。

5. 八重垣  正面に向いて正座し、例に依りて抜きつゝ右足を前に踏み出し、抜き払うと同時に立上り、左足を右足の一歩前に踏み出し乍ら双手上段に振り冠り、右膝を跪くと同時に打ち下し、刀を右に開きて(血振)納め終り、(鍔元より二、三寸位の所迄)其儘立上り、左足を右足より一歩後に引くや抜き払い、右脛を刀にて囲い、(脛になぎ来るを受る)(此時左手は腰に取る)左膝を跪くや刀を左側より双手上段に振冠り、真向に割付け、血振し刀を納め終る事同前。

(*「此の時左手は腰に取る」古流の趣が残っているようです。真向割り付けの右足の踏出しをするのか否か・・・)

6. 受流  正面より約十五度位右向に正座し、例により柄に手を掛け腰を浮かして左足を右前に(正面より九十度右)踏み込み刀を抜きつゝ差表にて冠り左に受け流すや、差表にて冠受り左に流すや (差表にて冠り左に受流すや 曽田メモ)右足を右斜後向を踏み込み、(此時体はやや左に向く気味にて右足の爪先は左の方向に向く様)乍左に振かえり刀を頭上に振冠り、直に右足を左足に踏み揃えると同時に、真向に大きく切込み(此時左手は振りかつぎし所より切込む迄の途中にて諸手になる事)夫より左足を一歩後に引き、物打のあたりを右膝頭の上に取り、左手は左前斜に十分に突き出して構え、右手を逆手に取り替え刀を振り返して納めつゝ左足を跪くと同時に納め終る。

(*切り込む際の左手は「切り込む迄の途中にて諸手になる事」) 

7. 介錯  正面に向いて正座し、例に依りて抜きかけつゝ右足を前に踏出し、立上がると同時に刀を抜きはなちたる儘右足を引き(此動作は相手の気を乱さざる様極めて静かに行う事刀を頭上左上より右肩にとり、(是迄左手は腰に、刀尖は左肩下約八寸位の後方にあり)様見て(*機を見て 無双直伝英信流居合術全)右足を踏み込み、(左手を添えて)同時に刀刃をやや左に向け切り込む。(首を切り落す形)其儘左足を一歩後に退き物打の所を膝頭の上にあて、左手を左斜前に十分突出して構え、右手を逆手に取り替え刀を振返して納めつゝ左足を跪きて納め終わる。

8.附込  正面に向って正座し、例に依りて抜きかけつゝ右足を右前斜に踏み出し、立上り様刀を右前斜に引抜き(払はぬ事踏出したる右足を引き左足に踏み揃え)正面より切込み来るを後に引きはづすと同時に、大きく双手上段に左より振冠り右足を踏み出して高く切り込み、左足を前に継足すると同時に又双手上段に冠り、右足を踏み込みて腰を下げ、低く切り下し、左足を前に踏み揃え右足を後に一歩引きつゝ上段に冠り、右足を跪きて刀を前に静かに下し、(残の心の意)(残心 曽田メモ)右手を逆手に取り替えて血拭し、左手を鯉口に取り刀を振返して納め終る。(此場合右手を逆に取り替えたる時、左手は鍔元を下より受けるが如くし、右手拳を右に返し刀刃を前に向け、左手腹にて棟をすらす。

9.月影  正面より左向き約十五度位いに正座し、例により抜きかけ」つゝ右足を正面に踏み込みて高く抜きつけ、(上段の甲手に)左足を前に継ぎ足すると同時に双手上段に振冠り、右足を踏み込みて高く敵の面に斬り込む、其儘左手は鯉口にとり刀は右外に廻しつゝ振りかつぎて血振いをなし、右足を一歩後に引きたちたるまゝ納め終る。

(*受流・月影など正面以外に向く角度は約15度位右、左 是も古伝の面影が残っています。上段甲手に高く抜きつけ高く敵の面に斬り込む イメージが現在のものと違います)

10.追風   正面に向いて立ち居合腰となり、左手は鯉口を切り、柄に右手をかけ小足にて追進みて、右足を踏み込みて抜払うや左足を踏み込みつゝ双手上段に振り冠り、右足踏み込みて切り込み、左手を鯉口にとり刀は右外に廻して振りかつぎ血振して納刀する事月影に同じ。

11.抜打  正面に向いて正座し、左手を鯉口に取り拇指にて鯉口を切り、右手を柄にかけつゝ両膝と其爪先にて膝を伸ばし、右前斜に刀を引き抜き左肩側に刀先を突込む様に双手上段に振冠りて切り込み、刀を右(*に)開くと同時に左手は左腰に取り後鯉口を握り刀を納めつゝ臀部を踵の上におろして納め終る。 

*「右斜前に刀を引き抜き左肩側に刀先を突込む様に双手上段・・」ここも多少気になります。
以上正座之部は無双直伝英信流居合術全に同じです。

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2012年6月 2日 (土)

無双直伝英信流居合術居合種目

*ここでは無双直伝英信流の種目のみが掲げられています。河野先生の顔写真つきです。

居合術種目

1.正座之部
1、 前
2、 右
3、 左
4、 後
5、 八重垣
6、 受流
7、 介錯
8、 附込
9、 月影
10、追風
11、抜打

2.立膝之部
1、 横雲
2、 虎一足
3、 稲妻
4、 浮雲
5、 颪
6、 岩浪
7、 鱗返
8、 浪返
9、 瀧落
10、真向

3.奥居合之部

居業
1、 霞
2、 脛囲
3、 戸詰
4、 戸脇
5、 四方切
6、 棚下
7、 両詰
8、 虎走

立業
1、 行連
2、 連達
3、 惣捲
4、 惣留
5、 信夫
6、 行違
7、 袖摺返
8、 門入
9、 壁添
10、 受流
11、暇乞
13、暇乞
12、暇乞

43早抜之部

1、 横雲
2、 虎一足
3、 稲妻
4、 浮雲
5、 颪
6、 鱗返
7、 岩浪
8、 浪返
9、 瀧落
10、受流

* この早抜之部はその後、居合術の正式種目から外されています。此の頃昭和8年以前は、稽古業の如く指導されていたのかもしれません。

昭和13年の無双直伝英信流居合道において次のように書かれています。
昭和10年8月記
「早抜き並に番外は居合の正道にあらず。(邪道の謂に非ず)只精妙円満なる技術の極致を示現せるものなる故、是を以て居合の本旨となすに非ざるを自覚し、業の練習のため余暇を以て正座立膝奥居合と併せて錬磨するならば斯道向上に資する所あるべし、従って早抜きを正式人中かに於て演ずるは心すべき事ならんと思考す」

そして、早抜きについては注意書きが施されています

「註=前掲の双手早抜き及び此の外、片手早抜き又たは番外等の名称に依り、種々の抜き方あるも、総て当流の古伝に非ず、大江正路先生の創案に成るもの也、片手早抜き及び番外、替業等は其の解説を省略す」

大江宗家は幾つも業を改変し創案されていますのでどうもこの理屈では納得し難いものの様にも思えます。次の英信流形之部なども改変創案したものなのです。

運剣の練習用に創案し学者に提供した」と言ったほうが明解かも知れません。その後の奥居合番外の業は同様の創案だったと思われますが正式に取り上げられております。あまり拘るのもおかしなものですが、双手早抜きを演武会や奉納居合に演じたものを拝見した事がありますが聊か場違いの感は免れそうにありません。

その後昭和37年の無双直伝英信流嘆異録の「早や抜きの事」

立膝の部の業を連続して行う早や抜きと、左手を柄にかけずに右手だけで之を行う片手早抜きと称する刀技があるが、之は刀の操作を馴らすために当流十七代大江範士が創案された刀技であるが、之はその目的が唯単に刀の操作にだけあるもので従って真の居合とは全然別個のものである。
然るに此の事を弁えぬ者が其の技法の華を追い大会とか正式の場所で、平然と之を演ずるものを見受けるが、正に居合の正道を踏み違えたもので嘆かわしい限りである。
早抜きの刀法は平素一人密かにその目的のもとに行う事は可なるべきも、正式の場合の居合としては絶対に行わぬ様、同志の心得て置くべき事柄である。
此の事は恩師の教えにより既に26年前の著書にも述べて置いたが重ねて茲に記す」

無双直伝英信流の幾つかの流れの中にもこれら早抜きを正式業として上げておられるような所も在るようにお見受けします。それも師伝によるものでしょう。

5.英信流形之部

1、 出合
2、 拳取
3、 絶妙剣
4、 独妙剣
5、 鍔留
6、 請流
7、 真方

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2012年6月 1日 (金)

無双直伝英信流居合術2 居合之諸作法

居合之諸作法

1、神殿又は(玉)座上座に向いて刀を抜かざる事出来得れば玉座を左にして行う事。

2、場に入る時は、鍔元を左手に持ちて拇指にて鍔を抑え刃を上にして刀を下げ、下座より玉座に向い直立体の儘刀を右手に持替え此時刃を後方に向け右側に軽く接し立礼をなす。

3、刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。

4、正座したる時は、刀は恰も左腰に差したる状態にあるを以て、右食指を鍔の下拇指を上にかけて刀を腰より抜き取る気持ちにて右前方に抜取る気持ちにて右前方に抜き取り、膝の前方中央約一尺位の処に鐺を右柄を左右に(*柄を左方に の誤植でしょう無双直伝英信流居合術全ではなおっています)刃を後方に向けて置き、双手を八文字につきて礼を行う。すべて正座の膝の幅は自己の肩幅と同様なる事、足は拇指を重ね両踵の間に臀部を下す。

5、次に右食指を鍔にかけて鍔口を握り、刀を起し膝の前方中央に鞘を軽く突き鞘の下方三分の一の処に左手を添えて下方に撫でる気持にて鐺に至りて刀を持ち上げ、刃を上方にして腰に差す。刀を腰に差したる場合は、すべて鍔は両膝の中央の線上にあてる注意すべき事。(*中央の線上にある注意・・無双直伝英信流居合術全

*この鍔の位置は、現在の無双直伝居合道の正統会では柄頭の位置に変えられています。「変化の過程」で指摘していますが、河野先生は昭和13年の「無双直伝英信流居合道」でも鍔は体の中心でした。ですから穂岐山宗家からの正流の教えは鍔が体の中心だったのでしょう。

昭和17年の「大日本居合道図譜」では「柄頭がほゞ体の中央にある様に帯刀す。之は両刀を帯したる時の大刀の位置なるが‐小刀は鍔が体の中央-居合の練習は概ね一刀を帯し且つ又古来大刀を帯せざる家内の小刀のみの場合も想定さるべきを以て、大体に於て柄頭又は鍔の内側が体の中央にある程度にて可とす」と解説されています。ここでは既に土佐の居合の作法から聊かずれています。

先だって土佐の居合の幾つかの異なる師伝の合同稽古をさせていただいた折、正統会のみ柄頭が体の中心でした。

二十二代宗家のテキストでは「正座せる時、己が刀の柄頭は己が臍の線上(体中央)に在るを良しとする。

6、終りたる時の作法は大体右を逆行す。

7、座したる時の体勢は、胸をはらず総で(*て)自然体なるを要とし、腰に十分の気力を注ぐ事。腰を折らず下腹を前に出す。(* 下線部分小カッコに 無双直伝英信流居合術全ではなっています)

8、着眼は目の高さに於ける前方にして、遠山を望む気持たるべし。(以下次号)

*(以下次号)となっています、この出典は八重垣会の機関紙か何かのスクラップかもしれません。武道の伝書を書かれたり、書写される、或いはスクラップをされる場合は必ず出典を明らかにし後世に残されん事を望みます。たとえそれがご自分の覚書であろうとも曽田メモの如く意図せずとも世に出る事もあろうかと思う次第です)

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