« 居合英信流の恩人林六太夫守政先生3 | トップページ | 無双直伝英信流之形に就いて其の13 »

2012年6月25日 (月)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生4

居合英信流の恩人 林六太夫先生4

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡(*読みは「せいく」でしょうか?、詡の意味は、ほこる・おこる・ふんわりとかぶるさま・あまねくゆきわたるなど)が嗣がれて後林氏が二人迄顕れている。
六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其二、三をご紹介して筆を擱くことにする。

先生は前述の如く幼にして家を嗣がれた、そして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為十五歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は、先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁うと言ったを甚だ尤至極と考え、江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習い始めた。
文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖もいろはより始めるは子一人なりと呆れたが其年より在府三年間精力を尽くし遂に能書となり藩中弟子の礼を執る者が多かったという。

又或る時八軒町に火災あり、火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず、家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛て小隅を取って投出し泉水一つ越して向うの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであろうかと皆の人は驚嘆したという。

又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此処には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であろう包丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水の中に下して灑ぐ(*そそぐ)こと実に妙、見る人の目を駭(*おどろかす)した。
先生は傍の船にて之を見舷側に寄掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず、彼の料理する人も己れの業を恥じてやめたという。
昔の御料理方は□も手が利いていたそうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたというが仲々出来る業ではない。
又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷
(*すべり)り落ち易いものである。
それを箸で挟みすいちゅうで数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであろう。

又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(*やめ)まなかったという一例に次の記録がある。

偖(*さて)又、在江戸で諸国の士、集会の時、奥人某、鉛子除去の法を知ると称し、一時数人鳥銃の口を揃えて対し事ありしに、我此の法を行いて放事不能終とて自負したるを満座妄言なりと思惟、大笑其人、怒気甚だしく公等余の言を信ぜず笑う事安からず今其術見るべしとて、火縄に火移し座中の人々に持たせ一々消して通りしに、人眼を遮らず一時火減し人々初めて驚き失笑の謝罪す。
六太夫深く感じ其の術学ばんと欲し、後日其の宅を訪うて懇ろに乞うて、しかと先に笑われしことを以て許容せさりしかは大いに悔いて仮令妄言なるも白笑う事勿れ益(
*ますます)事無き也とて此の事を證とし子孫を戒めたりと云う。

天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの資格十六を得ていられたのである。

此の項終ります。

これは出典明らかではありませんが、曽田本その2にスクラップされていたもので、岩田憲一先生も「土佐の英信流旦慕芥考」に写されています。

|

« 居合英信流の恩人林六太夫守政先生3 | トップページ | 無双直伝英信流之形に就いて其の13 »

曽田本スクラップ土佐の居合」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 居合英信流の恩人林六太夫守政先生3 | トップページ | 無双直伝英信流之形に就いて其の13 »