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2012年6月20日 (水)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて4

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について4

平尾道夫

7.林氏の門に出でて、最も其名を謳われた者に山川久蔵がある。名は幸雄、もと錠八とも称した。
山川久右衛門幸鑑の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。
林氏との関係に就き、「手抄」二十四巻に左の如き噂を載せてある。

山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の伝授皆伝なるべし致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取に参り申さず、相分らざる事也。
夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。

其後久蔵は門弟を取立師家に成り。長谷川流の伝書は何方より授かりしにや、林氏の伝書とは違いたるよし、或人より承わる。

これは非常に興味ある問題だが、遺憾ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚られる。
山川久蔵は文政三年正月九日
(1820年)藩から居合術指南役を命ぜられ、其の心掛け厚きを以て、切符拾石を加増された。弘化三年二月九日(1845年)には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年十月八日(1848年)病死した。同苗小文次の子鋼八幸水が跡を相続したが、家芸は継いで居ない。

8.山川氏の如く居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。
前者は小児科医下村宗真の子で嘉永五年正月十二日
(1852年)、居合術身体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久三年四月十五日(1863年)居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第六節にのべたから、此所には反復しない。

右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。
山内家第十五代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。
板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実を語ったものに、左の一齣(ひとこま)がある。

(上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附属した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合というものが十二本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。七日七夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録二百二十三輯(しゅう))

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