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2012年6月18日 (月)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

平尾道雄

3.同流に関して土佐に伝えられる文献は、私の知る限りに於て、林安太夫の話しとして南路志七十一巻に収められた次の一節である。

無双流の居合は、林崎甚助重信より始まる。
林崎は北條五代目に仕え、此流を以て後太閤秀吉御学被る成り、無双流と云う名を始めて御附け被せ成しと也。
其後塙團右衛門に伝わり、團右衛門より長谷川内蔵助に伝え、内蔵助より荒井勢哲に伝え、夫より子の勢哲に伝え、夫より近年の平作に伝え、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。(
*下線部分、平作は大男で無邪気に医者などの切る羽織を着る・・意味不明です
権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。
右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の創術鍛錬の由云々。

真偽は別として、先ず上述の如くである。
その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信七代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神伝英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱う」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであろう。
神伝重信流に神影流の古流五本の仕形を加えて大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行われて居ると云う。

4.長谷川流居合を土佐に伝えたのは上述の如く林六太夫守政である。
林氏の先祖は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕え、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。其子兵部政勝戦死した為、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曽我部氏に仕え、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
其子市兵衛政良初めて林氏を称し、山内家に仕えた。
延宝三年四月晦日
(1675年)政良病死後、同年五月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行八十石、格式新御扈従、御料人頭と云う父の職禄も其儘承けたものである。

豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗う手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せじめたと云う逸話も残って居る。
よろず才能に秀でて、本職の包丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲樂皷の末技に至るまで諸芸十六般を極め、孰れも人師となるに足りたと云う。
就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其の奥を極め、縷々典礼に関する書付を上って、其都度感賞に与り、元禄十年
(1697年)には加増二十石、同十六年(1703年)には更に五十石を加えられて、都合百五十石を賜り、宝永三年には大御御扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
正徳二年
(1706年)には老齢によって大御御扈従を免ぜられて馬廻りになり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保十七年七月十七日(1732年)、七十歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷五代の藩主に歴仕し、君寵の衰えなかったのを見ても、如何に其人格の円熟していたかを察すべきであろう。

* この逸話は何処かで読んだ事のあるものです。

次回に続きます

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