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2012年6月23日 (土)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生2

居合英信流の恩人 林六太夫先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基をつくられた恩人故大江子敬(正治)(*ここでは大江正治という名が使われています、無双直伝英信流居合術全で河野先生が使われたと同じです)、細川善馬(義昌)両先生の事及び少し辿って其の絶滅の危機より救われた恩人板垣退助伯の事跡を衷心より有難く思い感謝の念に堪えないのである。

此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた
(*英信流居合と板垣伯 中西岩樹 2012年6月7日、8日に此のブログで書き込み済み)事が有るように記憶するので今回は更に其の昔に辿り最初に此の居合を土佐に伝えた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみようと思う。

先ず林六太夫守政先生の直系を掲げてみると次の通りである。
(*この林六太夫守政先生の事については「雑録 長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて」で平尾道雄氏のレポートを2012年6月15日~6月21日に記載して有ります。ダブル所も在るものです。何れのものも何時何処に記事としてレポートされ曽田先生がそれをスクラップとしたかが不明なものです)
池田豊後、助五郎政弘、助五郎政勝、権吉郎政久、市兵衛政友、五左衛門政良、六太夫守政
即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
池田豊後は大和の人で一條家に仕うる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469年~1486年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随い幣多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。

政弘は宗閑と号し爾来一條家に仕えている中、槿花一朝一條家が久からずして滅亡し、豪族長曽我部氏興るに及び其子助五郎政勝之に仕え兵部と称し後従軍して戦死し当時七歳であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕え権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜うて処士となり南隣大津に居住していた。

そして長曽我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間(1652から1654年)死没した後、子五左衛門が山内氏に召出され御料理方となるに至った。

以下次号

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