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2012年6月17日 (日)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

特に此の一篇を屡々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県楯岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐ

平尾道夫

*この雑録は何処から曽田先生がスクラップされたのか不明です。土佐の居合について面白いものです。数回に分けて書き込みます。昭和11年以前のものであることは間違いないでしょう。
何方か楯岡の伊藤芳夫先生や平尾道夫先生をご存知の方はコメントをいただきたく思います。

1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴い、かなり古くから行われたようである。
土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈中左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝えた人であるが、亦居合の名手として伝えられる。
或る時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云う懇望があった。
忠左衛門は之を快諾したが、暫くして人々にうち向い、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云うのである。
人々が呆然として顔見合わせて居るのを見て、忠左衛門は笑いながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云うので、試しにその小姓を呼んで調べて見ると、果たして言の如く見事に切断せられて居たと云う。
忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其の後土佐藩士人の間に伝えられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於いて大いに基本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝えられた長谷川流居合そのものである。

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。
永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社伝に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐(*あだ)一雲斎を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。
後、山城国伏見に於いて一雲斎を討って本望を果たし、更に将軍足利義輝の上覧試合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。
これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其の以前に於いて抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神伝重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶそうである。

上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其の後同家に随身して、維新に及んだと云われ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起こし、其の子対馬守長勝は、初め池田輝政に、後徳川頼宣に仕えて、之を紀州に伝えた。
水戸に於いては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽斎槿露は、初め小田原北条家に、後彦根井伊家に仕え、一宮左太夫照信は、甲州武田家に仕えて抜刀一ノ宮流を始めて居る。
仙台には幕末に重信十七世嫡伝と称する堀津之助友徳、及び大規定之助安広あり、新庄戸沢家に平賀清兵衛あり、江戸に於いては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)、依田市左衛門等が声名を博したと云う。
其の他野州宇都宮にも其の流があり、神伝重信流は数派に分かたれてかくの如く全国に普及して居る。

*この辺は江戸時代の諸本の受け売りのようですが、まあこんなものでしょう

以下次号

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