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2012年6月22日 (金)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生1

居合英信流の恩人 林六太夫守政先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

* これも出典は不明です。岩田憲一先生の平成元年7月発行の「土佐の英信流 旦慕芥考」P131に同様の題で掲載されています。岩田先生の「序」は以下の通りです。

この項のものは、総て土佐下村派第十六代曽田虎彦先生の遺書のなかに記されていたものであります。即ち、土佐英信流第十七代大江正路先生並びに下村派第十五代行宗貞義先生を師として修練された方々が発表されたものや、その他の名士が指針として書き残されたものであります。昭和初期から終戦までのもので、なかには戦中の香りや国を憶う心の披瀝もある点をご了承ください。

曽田本その2の手製和綴じの中に、曽田先生は丁寧に切り抜かれたスクラップを綴りの大きさに合わせ切りとって収められています。岩田先生もそのコピーをご覧になられ感動を覚えた事と思います。

手書きの書写、自筆文章、スクラップが厚紙の表紙に「大森流長谷川流居合術」故行宗貞義先生、門人旧姓土居事、無双直伝英信流下村派第十六代筆山曽田虎彦記」とされ表紙の裏には書簡を入れるポケットを作り書簡が入っています。行宗先生のお写真もその中に保管されています。裏表紙には35mmの小さな写真が4枚、恐らく曽田先生でしょう浮雲・詰合之位の出会・太刀打之位の出合・請込と思われる形が張られています。すでにセピア色に褪せて居ます。

曽田先生のご長男が戦後これは自分で持っていても意味がないので居合する職場の同僚に譲り、その方が多分岩田先生にコピーを送られたのでしょう。何時如何なる状況かは、岩田先生はお亡くなりになり、コピーされた方はご存命ながら記憶が薄れ定かではないとお聞きしています。

大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無双直伝英信流の事である。
私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。

而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘らず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸いに其の絶滅を免れ現代迄伝統して来たことに就いては

1、伝えられた土地柄が建衣別の古称にある尚武の国で人間が総体男性てきであり武張っていること。

2、伝えられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整えた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。

*ここの部分も、河野先生の「居合は剣道の一分派」の発言に対する曽田先生の「分派にあらず」の一端を解説しているものと思われます。

3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公亦文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜場現刑務所々在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用いられたこと

の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったかといえば、


1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。

2、交通不便なるに加え当時の事情が鎖国的であったこと。

3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又希に有っても未だ他国者には一切伝授せぬという気風が残っていて機運が熟していなかったこと。

等に基因しておるのである。

以下次回に続きます。

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