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2013年11月11日 (月)

研修館道場訓

夢想神伝流の檀崎友影先生は昭和32年に研修館を建てられています。
その道場に掲げられている道場訓を揚げて置きます。

武道修行を志す者の心すべきは師弟の道を尊び長幼の序を弁え礼節の尊厳を守るに有り
霊器日本刀を尊崇し至誠以て師の教に従い流祖の本流を体し正しい此の道に精進修得するを大事とす
森羅万障に感謝の念を持し謙譲の美徳を養い斯道を通じて健全なる心身の錬磨人格の向上につとめ完成の人と成るを期す             館長

壇崎友影先生は本名壇崎質郎、明治40年1907年生まれ平成15年2003年96歳の長寿をもって死去されています。

宮城県名取郡(名取市)出身伊勢ヶ浜部屋の大相撲力士で四股名は桂川質郎
昭和2年1927年20歳初土俵
昭和9年1934年入幕
昭和17年1942年35才引退
前頭筆頭まで昇り詰めています。
身長170cm、体重88kgですから現代日本人ならば普通の体でしょう。
昭和19年1944年37歳徴兵

居合暦
昭和13年1938年中山博道先生の有信館に入門
居合道範士九段・杖道範士七段・剣道教士七段

*「師の教えに従順あるべし」(2013年10月7日)のある道場の壁紙に見られた「誓約」
と同じでしょうか。

ある道場の壁にこんな誓約が張られています。

誓約  
第1 師の教えに従順あるべし。
第2 儀礼を重んじ長序の別を正し、諸事に軽浮の行為なきを要す。
第3 猥りに他人の技芸を批判するべからず。常に己が技芸の不足を反省すべし。

檀崎先生の道場訓は、何を目的としての心得と志ざしなのか、そして期する事が明確で道場訓として見事でしょう。
大衆化カルチャー化したお稽古事のような、自分に都合のよいことだけを以って、都合のよい生徒を求めるような事とは違うものをひしひしと感じるのです。


「然し、師と仰げる人に出会えることはとても難しい事です。寧ろ出合えぬまま悶々とした日々を送り道を離れなければならない事も多いかと思います。

本物の師匠はこの様な道場訓など掲げる必要は無いし、いたずらに兄弟子を崇める事を要求する事でも無いでしょう。誓約など上から目線では、直に襤褸が丸見えになります。

武術は人と人の共感を導き出し和する為の素晴らしいコミュニケーションを学ぶ事の出来るものです。
闘争の技術ばかりで明け暮れたり、心無しの上下関係を求める様な道具に使うようでは武術を学ぶ心得としてはお粗末としか言い様は有りません。

今日の僅かな時間に、師の心に触れ、弟子の思いに眼を覚まされ、良い一日が過ごせた喜びを味わいたいものです。(2017年7月26日追記)

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道場訓」カテゴリの記事

コメント

先週とうとう制定居合の委員長の首が飛んだようです。全剣連のホームページでは委員長(範士)名が(こっそり)変更されてました(山口県→栃木県)。嘆願書(剣日8月号)によると、(実質上)更迭された委員長(山口県)は贈賄による八段不正審査の揉み消し工作を録音されるというドジを踏んだとのこと。この範士は制定八段と崇められ、何ともマヌケな結末です。また前委員長への揉み消し助勢に加え、次年度対策として「本人に先立ち、奥さんへの贈賄斡旋」を提案した範士(熊本県)は、案の定、熊本県大会の運営&来賓から名前が消えてました。こんな輩を歴史ある熊本武道館で「丸目蔵人、宮本武蔵の木札」と同列に扱うことは、熊本県民には耐え難い屈辱でしょう。何とも信じ難いことに、昨年の¥250万ネコババ範士(長崎純心大学の元教授)、揉み消し助勢の範士(熊本マリスト学園の元教師)、二人とも青少年育成の「教育者」、文武両道「剣士の鑑」だったことです。長崎県そして熊本県には、両名の教え子が多数居るでしょう。彼等の師匠(両範士)が崇拝信仰したのは「隣人愛・十字架・神の子イエスキリスト」でなく、「紙に印刷した福沢諭吉」だったってこと。居合道部員の最終目標である八段そして制定委員(範士)の実情は守銭奴、不正な金の亡者だったということです。両名の度重なる不正を知った教え子そしてカトリック信者の方々はどんな気持ちでしょうか?また名門校の歴史に泥を塗って、この両名は平気なのでしょうか?この両名は例え「建前」であろうとも、青少年の前では「清廉潔白の手本」を示すべき立場のはず。本ブログでは、剣士の心得を述べたり学んだりするところですが.....もう怒りを通り越し、呆れるばかりです。

兵法流浪さま
コメントありがとうございます。
トカゲの尻尾切を幾つやっても根本的な解決がなされなければ又同じ事がおこるばかりと思っています。
この研修館道場訓にしても、檀崎先生の頃はまだ戦後間もない古い因習に塗り固められた道場訓に過ぎなかろうと思っています。
本物の師に巡り合えればこんな道場訓など少しも要りません。
本物の師を求めるのは大変に難しい事で、師を見限る事も出来ないのも人情です。
偉そうにしている先生方を見て、批判しながら同じ道に引きずられていく本物でない資格は無用なものです。
本物は資格など不必要ですが、基準がないと選択の仕様がないのも事実です。
相変わらず、家柄・学歴・勤め先・役職などで人の格を推し測る古老が出しゃばっている武道業界は古の基準が残り過ぎです。段位しか人を認められないと思っているのが実情でしょう。
且て素晴らしい演武を見せていた高段位の人も稽古不足でみじめな居合を演じても、「さすが趣のある演武だ」などと嘘をつく自分も居たりして哀れです。
        ミツヒラ

投稿: 兵法流浪 | 2017年7月26日 (水) 00時23分

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