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2014年3月 6日 (木)

曽田本その2を読む3故行宗貞義先生

曽田本その2を読む

 3、故 行宗貞義先生

前名 寿之助 彦太郎

    左源太 精次郎

    進之助 可納

藤原貞義と云う

嘉永3年(1850年)戌年7月2日
 ○高知県土佐郡江の口村に生る

 ◎墓所 高知市奏泉寺東□

万延元年(1860年)十月十四日に向髪角入の願い聞き届は被り
則祝儀相整たり(歳 十一歳)
当時文武館に在りて森下氏の門に入て剣術を学び
亦下村茂市氏の門に入て居合術を学びたり。

大正参年(1914年)拾月四日没せらる 享年六十五才

◎行宗先生門弟中に(明治40年頃入門)
 

 中山博道先生、堀田捨次郎先生見ゆ

*下村派第15代行宗貞義先生の略歴です。
曽田先生による昭和11年11月の海南新聞のスクラップより行宗先生を見てみます。

見出しは「土佐居合術の為に万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏傑物行宗貞義の一の弟子」

内容は昭和11年10月25日に日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があって土佐居合術の代表者として竹村静夫と太刀打之位を演じた事を喝采しているものです。
そこに行宗先生の事が述べられています。
「曽田氏の師匠は有名な行宗貞義氏である、行宗氏は西南戦争の時に大尉として各地に転戦した剛の者だが後感ずるところあって断然軍服を脱ぎ捨て、一時看守長を勤めたこともあり、其の後更に零落して第二中学校の門監にまで成り下がっていた。
当時二中の武術教士は桑山真澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かった真田翁がその居合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がおる以上、桑山は教士たる資格がないさっそく罷めろと言って、行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江政治氏(大江正路まさじの誤字でしょう)の如き剣客も行宗の足許にも寄りつかぬと云う評判で其の実力は大したものだった。
この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったが夫等数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江吉重、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我子の如く教えたという事をもって、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを属していたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る。
果然曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられ茲に師の衣鉢を継いだのである。
すなわち世間から見れば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に押し上げられた形となった。
そこで今一度行宗氏の実力を振り返って見直す必要が出来た、何でも明治四十年頃であったが範士の中山博道氏がわざわざ来県して行宗氏の弟子となり又三重県人堀田捨次郎という柔道の範士もまた来県して行宗氏の門に入った。」

次回は行宗先生の時代の年表を作ってみます。

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