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2014年3月

2014年3月31日 (月)

曽田本2その2を読む12長谷川流奥居合抜方3四方切

曽田本その2を読む

12、3長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

△立業(奥居合には順序なしと伝えられる)

4.四方切
四方切り

*奥居合居業の「四角・四方切」の立業と云う事でしょうか。詳細がないので判断できません。行宗先生の四方切の説明は「四方切り」のみです。

長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)4本目「四角・四方切」
「四方切り」(2014年3月24日)

古伝の神傳流秘書抜刀心持之事「四角」
「抜き左の角を突右の後の角を切右の向を請流し左の向を切又右の向を切る也」

*之も居業として古伝は位置付けられています。立って演じる事も可能ですが、行宗居合の不思議の一つでしょう。

それにしても、行宗先生の居合はこれではどのように稽古したらよいか解りません。口伝口授とは云え困ったものです。

下村派第14代細川義昌先生の系統と思われる白石元一先生の長谷川流奥居合7本目「四角」を稽古しておきます。居業ですが立業でも可能でしょう。2014年2月10日・11日

四角(四隅四人の敵に対して行う)
右前角の敵に斬りつくる如く気勢を見せながら右足を出して刀を抜き終るや、刀刃を胸部に接したる後刀刃を下にして左後方の敵を刺し、返す刀を以て(左方より冠り)右後方の敵を斬り(左膝にてまわる)尚刀を返さんとするや(右方より冠る)右角の敵我に対し斬りかゝるを受け流し、左前角の敵を斬り続いて左方より冠り右前角の敵を斬る。・・」

是は×印の交点に居て四方を斬る技で左足を軸に右足を踏み込む方法で演じられます。
白石先生の四角は左後ろの敵を刃を下にして突いています、その状態で左から振り冠って右後ろを諸手か右片手で切っています。
一人ずつ仕留めて行く運剣です。

古伝英信流居合目録秘訣の上意之大事に四角について「三角にかわる事無し是は前後左右に詰合う之心得也故に後へ迄まわって抜付る也」とあります。
三角は「三人並び居る所を切る心得也ヶ様のときふかぶかと勝たんとする故におくれを取る也居合の大事は浅く勝事肝要也三人並居る所を抜打に紋所のあたりを切先はづれにはろうときはビクとするなり其所を仕留る也三人を一人づつ切らんと思う心得なれば必仕損ずる也一度に払うて其おくれに附込で勝べし」

*古伝は一人ずつ切るような事をしていたらば必ず仕損じるから、一旦胸の辺りを撫で斬りにして敵が臆した処を付け込んで斬れと云っています。(2013年9月16日、17日)
四方切の奥義の心得でしょう。すでに業技法では失念してしまったものと云えます。
一人稽古で充分習っておく事で、四方切の「気」を養うのもいいでしょう。

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2014年3月30日 (日)

曽田本その2を読む12長谷川流奥居合抜方2向詰

曽田本その2を読む

 12、2長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

 △立業(奥居合には順序なしと伝えられる)

 3.向詰
柄頭を腹に取りて突き冠りて切る

*これは大江先生の「両詰」です。
「(抜放け諸手にて真向を突き斬る)座したる処より右足を少し出して、刀を抜き、柄元を臍下に当て、右足を踏出して、前方を諸手にて突き、其姿勢のまま、上段にて前面を真向に斬る」

この「両詰」は奥居合居業の部7番目にあるものです。行宗先生は之を立業の3番目に上げておられます。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事「向詰」
「抜て諸手を懸け向を突打込」

*この古伝の「向詰」は向払・柄留・向詰とあって抜刀心持之事の3番目に位置します。
「従是立事也(是より立つ事也)」としてあるのは8本目「人中」以降ですから、「向詰」は立膝に座した業と云う事になります。
立って演じる事も出来る業ではあるでしょう。立業としてはこの業名は古伝にありません。向詰の意味は正面に詰めている敵との攻防を云います。

下村派第14代下村茂市を師とする兄弟弟子に細川義昌先生が居ます、その系統と思われる白石元一先生の「向詰」は奥居合居業として古伝の通りです。
白石居合の「向詰」
「(前方座せる敵に対して行う)・・右足を踏出して抜刀し、この際刀先が前方に出ざる様、右足を退くと同時に刀尖を先に返し両手にて柄を握りて臍下前で構えたる後更に右足を踏出して突き左膝を右足踝に引きつけつつ刀を正面より振り冠り右足を踏み出すと同時に上段より斬り下す。血振り納刀は「向払」に同じ。

*白石居合は古伝に沿ったもので、疑問は無いのですが行宗先生の居合はどのような伝書によるものなのか、下村茂市からどのように指導されたのか不思議です。

次回はこの奥居合立業に「四方切」が出てきます。これも奥居合居業のものと思っていますので不思議です。
繰り返しますが、立業も居業も工夫次第で、立っても座っても演じられる事には変わりはないでしょう。

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2014年3月29日 (土)

曽田本その2を読む12長谷川流奥居合抜方1行連・連達

曽田本その2を読む

 12、14長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

 △立業(奥居合には順序なしと伝えらる)

 1.行連
右へぬきつけ左を切る

*この奥居合立業の業名は古伝神傳流秘書抜刀心持之事にあるのですが、業の動作が異なります。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事「行連」
「立って歩み行内に抜て左を突き右を切る両詰に同じ事也」

*古伝の行連は左を突き右を切るです。両詰と同じとは奥居合居業にある両詰でこれは二つの業を持っています。
一つは、抜て片手にて左脇を突き直ぐ振向いて右脇を切る
一つは、右脇へ抜打に切つけ左を斬る
合わせて業名を両詰と云います。両詰とは両脇から二人の敵に詰めかけられた時の攻防を意図しているのです。

2、連達 立業両詰
左を突きて右を切る

*業名の後の「立業両詰」は曽田先生の補足です。
行宗先生の業名に曽田先生も疑問を持っていたのでしょう。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事では「連達」の業は大江先生の奥居合立業の「行違」です。
古伝 連達
「歩み行内前を右の拳にて突其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振向て打込也」

大江先生にしても行宗先生にしても業名と技が古伝と一致しません。大江先生は土佐の居合を改変されたと聞かされていますが、行宗先生はどうだったのでしょう。
共に居合の指導者として同時代を生きておられます。どちらも下村派第14代下村茂市の弟子でした。大江先生は途中で谷村派第16代五藤孫兵衛正亮に師事したと云われ第17代と伝えられています。
神傳流秘書がオープンであれば混乱はなかったかもしれません。或は奥居合はどれがどうだか解らなくなっていたかも知れません。
何故なら、細川義昌系統と思われる白石居合の奥居合「行連」は「左右に並んで歩行中の敵に対し、右敵を抜打ち振り返り左の敵を斬る」。その「連達」は「前後に重なりて歩行中の敵に対し、前方の敵を抜打ちに右片手斬りし返す刀で後方の敵を斬る」業となっています。
細川家から出た古伝神傳流秘書を木村栄寿先生が公開されています。
細川義昌先生がそれを理解されていれば、古伝を優先すると思いたいのは私だけでしょうか。
江戸末期は古伝など無視する程無法な時代だったでしょうか。

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2014年3月28日 (金)

曽田本その2を読む11長谷川流奥居合抜方4暇乞・虎走り

曽田本その2を読む

11、4長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

△座業(奥居合には順序なしと伝えられる)

7.暇乞
御使者切り二つ

*「御使者切り二つ」の内容はさっぱり解りません。

*古伝神傳流秘書には「暇乞」の業はありません。「抜打上中下」です。
これも大江先生の改変された奥居合の業名です。それも立業の最後に位置します。
(暇乞3本)格の低き者に対する黙礼、等輩に対する礼の時、目上の者に対する礼の時

*曽田本の英信流居合目録秘訣の極意の大事に「暇乞」の心得があります。
「仕物などを云付られたる時など其者の所へ行て四方山のはなしなどをして其内に切べし隙無之ときは我が刀を取て又近日と立さまに鐺を以て突き倒し其儘引ぬいて突也又は亭主我を送て出るとき其透間を見て鐺を突いてたおして其儘引きぬいて突くべし」2013年9月28日

この暇乞の心得を卑怯な不意打ちと解して、抜打ちによる大江先生の改変による奥居合の「暇乞」三本を演武会では演じるなと云う事があるようです。
テキストに明示されてもおらず通達も見ていません。暇乞いの拡大解釈でしょう。

抜打ちそのものも一方的に抜き打っている演武を見かけます。
三つの先などの解釈や身を土壇にして応じる居合の精神も弁えない事に問題ありでしょう。

また、刀を抜上げる際、刀刃を外向きにせず我が身に向け切先の跳ねが自身を傷つけたり、左手の操作を急ぎ過ぎ切先に突き通したり自傷に問題があるのでしょう。

8.虎走り
虎走り

*古伝神傳流秘書抜刀心持之事では「虎走」は立業の方に含まれます。
「居合膝に座して居立って向へ腰をかゞめつかつかと行抜口が外へ見えぬ様に抜付打込納又右の通り腰をかがめ後へ引抜付打込也」

曽田本の英信流居合目録秘訣の上意之大事に「虎走」の心得があります。
「仕物など云付られたる時は殊に此心得入用也其外とても此心得肝要也敵二間も三間も隔てて座して居る時は直に切る事能わず其上同座し人々並ぶ時は色に見せては仕損る也さわらぬ体に向へつかつかと腰をかがめ歩行く内に抜口の外へ見えぬ様に体の内にて刀を逆さまに抜つくべし虎の一足の事の如しと知るべし大事とする所は歩みにありはこび滞り無く取り合する事能わずの位と知るべし」2013年9月14日

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2014年3月27日 (木)

曽田本その2を読む11長谷川流奥居合抜方3四角・三角

曽田本その2を読む

 11、3長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

 △座業(奥居合には順序なしと伝えらる)

 5.四角・四方切り
四方切り

*行宗先生の四角は之だけです。残念ながら想像すらできません。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事では三角が四角の前に有ります。
四角が古伝の名称で四方切りは大江先生の名付けた業名でしょう。
「抜左の後の角を突き右の後の角を切右の向を請流し左の向を切又右の向を切る也」

下村派第15代細川義昌先生の流れを汲むと思しき白石元一先生の「四角」
「鯉口を構え右前角の敵に斬りつくる如く気勢を見せ乍ら右足を出して刀を抜き終るや左後方の敵を刺し、(「前後詰」と同じ要領にて)返す刀を以て(左方より冠り)右後方の敵を斬り(左膝にてまわる)尚刀を返さんとするや(右方より冠る)、右角の敵我に対して斬りかかるを受け流し、左前の敵を斬り続いて左方より冠り右前角の敵を斬る。」

*古伝と白石三角は同じようです。

6.三角
後向に座し廻りて後を切る
右足を踏出して抜き左鯉口を握りたる儘胸にとり右手刀尖を後ろに刃を上向けて両腕を組む長谷川流8本目(波返し)に同じ様なるも刀を身に添えふり廻り払い後冠り切る也

*古伝神傳流秘書抜刀心持之事「三角」
「抜て身を添え右廻りに後へ振廻りて打込む」

下村派第15代細川義昌先生の流れを汲むと思しき白石元一先生の「三角」(前右後ろの三方の敵に対して行う)
「右足を出すと同時に刀を抜き、右足を引きつけると同時に後方の敵を刺す(この時左手は鞘口を握りたるまま右横腹の所に取り、右手は左側肘の上より後方の敵を刺す、両腕は交叉する如くし)更に右足を軸とし左足も従って後方に退き乍ら百八十度右方より廻り、前右後方の三人を一時に薙ぎ斬りたる後(此時正面に向き左手は鐺が背に接する如く左方に十分開く)刀を振り冠り左膝を右足踝の所に引きつけてつき、右足を踏出すと同時に上段より斬り下す。」

*少々解りずらいですが、後向きに座した我の前、右、後に敵が座して居る状況です。
右足を踏み出し前敵を柄頭で牽制して、刀を抜き出すや、後方に振り向き後方の敵を刺突し、前に振り戻りつつ刀刃を外向けにして右足を軸に左膝を浮かせ前方の敵、右側の敵、刺突した後方の敵をも横一線の撫で斬りにして、左足を右足踵に引き付け右側から上段に振り冠って右足を踏み込み後方の敵を真向に斬り下す。

敵の座す位置は、後向きの我に対し前、左、後とも想定しうる運剣法です。
後方の敵の刺突くは前後詰(2014年2月7日)と同じで刀刃を下にして突く。この際踏出した右足を少し退いて、左膝で体を左方に廻し左肘の上で右手を交差させる。

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2014年3月26日 (水)

曽田本その2を読む11長谷川流奥居合抜方2脛囲・戸詰・戸脇

曽田本その2を読む

 11、2長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

△座業(奥居合には順序なしと伝えられる)

2.脛囲
長谷川流2番に同じ

*長谷川流2番とは2014年3月20日の行宗先生の長谷川流居合抜方の「虎一足」です。
虎一足:左足を引き右脛を囲いて切る。

この業名も古伝神傳流秘書の抜刀心持之事では「柄留」です。
柄留:虎の一足の如く下を留て打込む

古伝神傳流秘書の英信流居合之事「虎一足」
「左足を引き刀を逆に抜て留め扨打込み後前に同じ」

白石元一先生の柄留
「刀を抜乍ら起ち、抜き終るや左足を引くと同時に敵の籠手に斬り付け、左足を右足踝の所にひきつけ同時に右方より刀を振り冠り右足を出し正面を斬る。」

*白石居合は古伝を彷彿とさせます。この辺の事を推察しますと、下村派第13代下村茂市先生から道統の伝授を受けたのは細川昌義先生であって行宗先生は習ったという事なのかもしれない。など思ってしまいます。かといって白石居合も古伝に忠実とは言えない業が幾つか存在します。白石元一大森流・長谷川流・伯耆流居合術手引「長谷川流奥居合」2014年2月4日~2014年2月25日参照。

3.戸詰
右へ抜き付け左をきる

*この「戸詰」と次の「戸脇」も古伝神傳流秘書抜刀心持之事では「両詰」の業です。
之も大江先生の改変された業名を使っていると思われます。

古伝はの両詰めは左右から二人の敵に詰め寄られた場合の攻防です。
両詰:抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る
    右脇へ抜打に切りつけ左を斬る

4.戸脇
左をつきて右を切る

*古伝は「両詰」で左右から詰め寄られた時の攻防ですから、戸が有無にかかわらず応じる業でした。
両脇の敵を左を突いて右を斬る技と、右を斬って左も斬る二つの業をまとめています。
両詰は、英信流居合目録秘訣の上意之大事に収録されていてその心得は次の様です。

両詰:是又仕物抔言付られ、又は、乱世の時分などには使者などに行き、左右より詰めかけられたる事まま之ある也。
ヶ様の時の心得也、尤其外とても入用也、左右に詰かけられたる時一人宛て切らんとする時は遅れを取るなり、故に抜や否や左脇の者を切先にて突き、直ぐに右を切るべし、其技ただ手早きに有り。
又右脇の者に抜手を留らるべきと思う時は右を片手打に切りすぐに左を切るべし。

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2014年3月25日 (火)

曽田本その2を読む11長谷川流奥居合抜方1霞

曽田本その2を読む

11、1長谷川流奥居合抜方(行宗先生口伝)

△座業(奥居合には順序なしと伝えられる)

1.霞
抜付けかへしてかむり切る

*「霞」の業名は古伝神傳流秘書には無く、是は大江先生が古伝の「向払」を改名した「霞」でしょう。行宗居合の不思議の一つです。
何故古伝の業名「向払」を使わなかったのでしょう。
行宗先生も大江先生も下村派第14代下村茂市先生を師とされているとされています。
大江先生はその後谷村派第16代五藤孫兵衛正亮についたと言われます。
細川義昌先生系統の下村派と思われる白石元一先生の奥居合は「向払」が使われています。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事(格を放れて早く抜く也 重信流)
向拂:向へ抜付返す刀に手を返しまた払いて打込み勝

*行宗先生の手附も詳細は無く古伝のレベルです。口伝口授で後は看取り稽古であったのでしょう。
抜刀心持之事では(格を放れて早く抜く也)ですから掟や形に捉われず早く抜くものと云っています。
行宗先生の(奥居合には順序なしと伝えられる)の順序は稽古の際の業の順序を云うのでしょう。
奥居合(抜刀心持之事)は神傳流秘書の記載されている順番に従えば以下の順番になります。

①大森流居合之事11本
②英信流居合之事10本
③太刀打之事10本
④棒合5本
⑤太刀合之棒8本
⑥詰合10本
⑦大小詰8本
⑧大小立詰7本
⑨大剣取10本
⑩抜刀心持之事19本
 ・別5本
⑪夏原流和之事
 ・捕手和之事11本
 ・立合11本
 ・小具足11本
 ・後立合11本
 ・小具足割10本
 ・本手之移11本

神傳流秘書に無いもので英信流目録に残されているもので注目すべきは、小太刀之位6本が存在します。
是は安永5年1776年林 政誠に手になるものの様です。

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2014年3月24日 (月)

春を求めて(旅立ち)

今日一人の女剣士が旅立って行きました。

この春大学を卒業して、専攻の学問をもっと深く学びたいと北への旅立ちです。
春は別れと出会いの季節だったと、久しぶりに思い出しました。

「居合は?」
「続けたい、向うに稽古する処を探します。今の私には居合は心のより所です」

居合をこよなく愛する女剣士がここにも居ました。
是から、いろんな出会いがあって、磨き上げられて行くのでしょう。

お別れの演武をお願いして拝見します。
少しも臆する振りもせず、いたずらに気を入れる事もなく、静かに抜く居合にしばし見とれていました。

きっと、新しい所への膨らんでいく夢の数々、毎週通った道場の事々が一振り一振りに思い出されているのかも知れません。

こんな格言を思い出しています「思いの種を蒔き、行動を刈り取る、行動の種を蒔き、習慣を刈り取る、習慣の種を蒔き、人格を刈り取る、人格の種を蒔き、運命を刈り取る」

居合は如何に劇しい業務にある人でも容易に出来るので練習時間はと云えば僅かに五分間の短時間に心身綿の如く疲れ、加之其短時間の運動は身体を最も均斉的に発達せしむるのであります。又白刃を振るときは自ら強烈なる男性的の気力も練れ、其上に相手いらずで、場所は座敷で整備の如きはなんにもいらない実に経済的であります。(大江・堀田共著剣道手ほどきより)

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曽田本その2を読む10長谷川流居合抜方5浪返し・瀧落し・抜打

曽田本その2を読む

 10、5長谷川流居合抜方(自叙 行宗先生派)

 後身

 8.浪返し
後向より右足を軸として正面に廻り左足を引きて抜き付後同断

*我は後ろ向きに立膝に座す。敵は後方に我が背中を見て座っている。敵の力声に応じ刀に両手を掛け腰を上げ爪先立つや右足を軸に中腰となって左廻りに後方に振り向き、左足を後方に退くと同時に横一線に抜き付け、左足膝を右足踵に引き付け上段に振り冠って真向に打ち下して勝、刀を右に披いて納刀。

古伝神傳流秘書英信流居合之事「波返」
鱗返に同じ後へ抜付打込み開き納る後へ廻ると脇へ廻るとばかり相違也

*古伝は鱗返しと同じで後ろへ廻るのと脇へ廻るのとの違いと云っています。

古伝神傳流秘書英信流居合之事「鱗返」
左脇へ廻り抜付打込み開き納る

どの手附も似たようなもので詳細は口伝口授の世界でしょう。正座の部の「右」「後」の立膝版で中腰で廻る現代居合の方法で良いのでしょう。どこへ抜き付けるかは行宗派は拳(二星、柄口6寸)でしょう。
後へ退いた左足の膝の有り様で敵との関係が作られるのでしょう。

9.瀧落し
後向にて敵鐺をとり上ぐる処を右足を踏出して立ち左足を進めて柄を胸にとり(柄に右手をかけ胸にとりて当てるなり)右足を斜め横に開き刀を胸にとり振り返りて敵を突き(同時に刀を抜き 此の処□を早く間髪を入れざる様)其儘冠ると同時に右足を踏み込みて正面を斬り膝をつき納刀足を引く

*後ろ向きに座す所、敵が鐺を取って抜かせじと上に押し上げる処、我は左手で鯉口を取り右足を踏出して立ち上がり、左足を右足の前に進めると同時に柄に右手を懸けて胸に取り敵手を外すや、右足を斜め右横に開き刀を抜き取り胸に取り振り返って後方の敵を突く、振り冠ると同時に右足を踏み込み正面に打ち下し左膝を床に着けて刀を開き納刀。

この敵が鐺を取って上に押し上げる際、「右足を踏出して立ち」は大江先生は「徐ろに立ちて左足を後へ」で異なります。「右足を斜め横に開き」は右斜めか左斜めかは指定されていません敵との関係で判断するのでしょう。詳細は不明です。

古伝神傳流秘書英信流居合之事「瀧落」
刀の鞘と共に左の足を一拍子に出して抜て後を突きすぐに右の足を踏込み打込み開き納る此事は後よりこじりをおっ取りたる処也故に抜時こじりを以て當心持有り

10.(抜打)(真向)(止めともいう)
大森流に同じ

*行宗先生派の大森流居合抜方抜打(又は止めとも云う)2014年3月15日
正面向き両膝にて中腰にて抜き冠りて膝を進めながら切り付け(切り下す時膝頭を肩幅に開けば自ら進むものなり)刀を開きて納刀

古伝神傳流秘書大森流之事「抜打」
坐して居る所を向より切て懸るを其の儘踏ん伸んで請流し打込み開いて納る尤も請流に非ず此処筆に及ばず

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2014年3月23日 (日)

曽田本その2を読む10長谷川流居合抜方4岩波・鱗返し

曽田本その2を読む

 10、4長谷川流居合抜方(自叙 行宗先生派)

 左身

 6.岩波
右向より左足を右後ろの方に引きて正面に向くや刀を抜きて左拳を腰にとり右足踏出してやや切先上りに敵の胸乳の上を突き引き倒して冠り正面を切る也

*故行宗貞義先生記録写による長谷川流岩波に「敵真向にて左の方より我が柄を取らんと両手を出す時我柄を左足の方へ「よげて」敵の胸乳の上へ切先上がりに突込」とあります。2013年3月9日

右向きに座して、左脇に座す敵との攻防です。敵正面から我が柄を取りに来る。
腰を上げ両足爪先立って、右足爪先を軸に左に廻りつつ左足を後方に退きつつ、刀を抜き出し正面に向き直り、切先を左手拇指と食指で挟み持ち、左膝を床に付、「左拳を腰にとり」は切先を返すや左拳を右腰に着けでしょう、右足を踏出して切先上がりに胸乳の上を突く。引き倒して上段に振り冠り引き倒した敵に斬り下す。
この手附では動作は付けられそうもないので、現代居合の動作で補足してしまいました。
「我柄を左足の方へ「よげて」敵の胸乳・・」の動作は「左に廻る処で対応させましたがいかがでしょう。

下村派第14代細川義昌伝系と思える広島の白石元一先生の長谷川流居合術「岩浪」が似ています。
「正面に対し右向きに座す。鯉口構えたる後腰を浮かし、左足を後方に退きて刀を抜き終るや左向(正面)となり、右足は立膝のまゝ左足に退き添え刀背を右足外に接し、左手を刀背略物打の所に添えたる後右足を踏出して突き、次に刀と共に右足を後方に退きたる後切尖を右方に返して構える・・」2014年1月28日

檀崎先生の夢想神伝流の岩浪とも似ています。

7.鱗返し
右向きより正面へ中身の構えにて抜付け冠り切る也

*左身ですから正面右向きに立膝に座し、左脇に敵が坐す。右向きより中腰に立ち上がり正面に廻るや左足を退いて抜き付け、振り冠って斬り下す。
中腰の儘打ち下すも有かも知れませんが、ここは左膝を右足に引き付けて床に着き、右足を踏み込んで斬り下すが現代居合です。
「中身」と云って「中腰」と云っていません。同じ意味かどうか・・。

ここも故行宗貞義先生記録写の「鱗返し」
「敵は真向にて抜かんとかまえるかけ声にてかくれがたくさま廻って抜付(意味不明と曽田先生の添え書きあり)」とあります。2014年3月9日

是には曽田先生の解釈が付箋に書かれて張り付けられています。
「鱗返し、敵は真向にて抜斬り懸らんとする力声にて逃ぐる□なきを以てすぐさま廻て抜き付くるならん」

「中身」は低い体構えによる抜き付けでしょう。後方へ退いた左膝は床面すれすれでしょう。
敵が立ち上がって抜き打って来る場合は現代居合の方法でしょう。
何れも行宗居合は(二星を勝つ故拳なり)でしょう。

参考に、白石居合の鱗返しは、「左方に向き乍ら左足を退きて中腰となり、横一文字に敵の胴部を斬り・・」

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2014年3月22日 (土)

曽田本その2を読む10長谷川流居合抜方3颪

曽田本その2を読む

10、3長谷川流居合抜方(自叙 行宗先生派)

右身

5.颪(山下 山下風)
左向きより正面に柄頭を以って当て(柄頭にて水月右拳にて人中に当てる)体を左に捻りて敵の胸へ抜付け引き倒して正面の敵を切る也

*古伝神傳流秘書英信流居合之事の業名は「山下風」です。これも大江先生の業名を使っている様です。
浮雲同様に左向きに座し、右脇に同様に座す敵の害意を察して(曽田先生の自叙による手附けでは敵が我が柄を取りに来たのか、敵自らの刀を抜かんとしたのかわかりません)
敵の方に向き柄頭を以って敵の水月を突き、右拳で人中に当て、体を左に捻って敵の胸部に抜き付け、左手を刀峯に添えて右下に引き倒し、上段に振り冠って斬り下す。

行宗先生の「颪」では敵抜かけ来る処にて我が右足にて敵の柄を踏み落す心にて胸抜付です。曽田先生の颪と行宗先生の颪も微妙に異なります。
細かい所は解りません。現代居合を少し足して繋いでみました。

大江先生の颪(又山おろしとも云う)
「左向き腰を浮かめて右斜に向き、柄止め、直に左へ足を摺り込み、其踵へ臀部を乗せ右斜め向体となり、斜刀にて筋変えに打ち其形状にて左手は刀峯を押へ、左足を左横に変え、刀を右へと両手を伸ばして引き、敵体を引き倒すと同時に右足を右斜へ寄せ、直に其刀を右肩上の処にかざし左足を後部に引き右足を出し、正面に向き上段となりて斬るなり。
血拭い刀を納む。(敵の眼を柄にて打つ進んで胸を斬り更に頭上を斬る)」

古伝神傳流秘書の英信流之事「山下風」
「右へ振り向き右の足と右の手を柄と一所にて打倒し抜付後同前但足は右足也浮雲と足は相違也」

*古伝は右足で敵の柄手を押さえるのでしょう、右手で柄を取り同時に敵を打倒して抜き付けています。
特に打ち付ける部位は指定していません。これは行宗派の方法と云うより夢想神伝流の様です。
大江先生は「柄止め」と云って敵の柄を持つ手を我が柄にて打つのでしょう。本当の処は解りません。
或は現代居合の颪の様に敵の眉間又は人中を打ち敵の攻撃を止めるのでしょう。

故行宗貞義先生記録写によると「敵抜かけ来る処にて我右足にて敵の柄を踏み落す心にて胸抜付」とあります。これと曽田先生の自叙の行宗先生派の颪の動作はアンマッチです。

この業は、敵の抜かんとする柄を留めて抜き付けるのか、敵が我が柄を取りに来るのでは想定が異なります。
古伝はおおらかです、どちらも出来て当たり前でしょう。

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2014年3月21日 (金)

曽田本その2を読む10長谷川流居合抜方2浮雲

曽田本その2を読む

 10、2長谷川流居合抜方(自叙 行宗先生派)

 右身

 4.浮雲
左向きに座し左足を少し引き立ち同時に柄を左手に下横に取り更に正面に向き直ると同時に柄をとりて左足を右足に搦みて抜き付(体を左にひねりて抜く)中腰となる此の時左手を刀峯に添え(正面に向き直る)敵を引き倒して左腰外に正面の敵を切る也

*浮雲は右身ですから左向きに座し敵は右側に同じように座して居る。
故行宗貞義先生記録写の長谷川流の項で「浮雲 右脇より我柄を取来る時」と想定しています。
左向きに双方座して居る時、右側の敵が我が柄を取りに来るのを察し、左足を少し退いて立ち上がり同時に柄を左下横に取り(この場合は「柄を左手に下横に取り」は左手で柄を取って左下横に敵手を避けてもおかしくは無いでしょう。普通は左手で鞘を握り鍔を拇指にて押さえて左下横に敵手を外すはずです。)。
更に正面に向き直ると同時に、左手を鞘に持ち替え右手で柄を取り、左足を右足に搦め(からめ)体を左に捻って中腰に抜き付ける。
体を正面に向き直り抜き付けた刀の峯に左手を添え敵を右下に引き倒し、刀を上段に取り正面に向き左腰外に打ち下し斬る。
抜けが多くて口伝口授行、宗先生の動作を看取り稽古しないと詳細は不明です。

大江先生は(敵三人並び一人の敵を置き先の敵を斬る時)と大江先生・堀田先生共著の中で括弧つきで云っておられます。
長谷川流居合は一対一が原則の攻防でしょう。浮雲だけ異質な場を想定する理由が無さそうです。
ついでに大森流も一対一でしょう。陰陽進退での新たな敵が斬り込んで来る想定もどうでしょう。
一対一であっても常に新たな敵を意識する事を学ばせようとするのでしょうか。

*長谷川流居合之事では曽田先生は何故か大江先生・堀田先生共著の手附が抜けています。
大江先生の長谷川流居合(抜方と順序)浮雲
「左向き静に立ち、中腰となりて左足を後へ少し引き、刀を左手にて左横に開き、右手を頭上に乗せて力を入れる、其開きたる状態より左足を右足前方へ一文字となし刀は柄を右手に握り、胸に当て右の下へ抜きつゝ体を右へ廻し、刀尖の三寸残りし時刀を一文字の儘体は中腰となり右横より左へひねり正面に向け抜付け、折り返して打ち、左手の内にて刀峯を押へ伸ばし右手は弓張とし、右左を右斜へ引き、其膝をつき、敵を引き倒し、直に刀を肩上にてかざし、上段にて正面に直り左斜を斬る、此時膝頭外にて両手を止む、血拭い刀を納む。(敵三人並び一人の敵を置き先の敵を斬る時)」

何処となく曽田先生の浮雲の文章と似た雰囲気が有るような無いような。
大江先生の浮雲は、敵が我が柄を取りに来るので、左手で刀を左横に開いて、右手を頭の上に乗せ力を入れる(ここの右手の動作が何故か解りません)。
「左足を右足前方に一文字となし」ですから左足を右足前に正面に向けて出し、右手で柄を握って胸に当て、右下に刀を抜きつゝ体を右に廻し、切先三寸まで抜出し、刀を一文字の様に水平になして中腰となって体を右より左へ捻り正面の敵に抜き付ける。
「折り返して打ち」は、抜き付けた刀を抜取って二度打ちするのでしょう。同じ軌跡を取って二度打ちするのか方法は不明ですが、次の刀の峯に左手を添え右斜めへ敵を引き倒すのであれば、抜き取った一度目の刀を敵の右肩に打ち下すのでしょう。再び上段に振り冠り左膝外に打込む。
一人目の敵を横一文字に斬り倒し、折り返した刀で二人目の敵を斬るのでしょうか。
これも、大江先生の演武次第の様です。

古伝神傳流秘書英信流居合之事浮雲
「右へ振り向き足を踏みもぢ彳腰をひねり抜付左の手を添え敵を突倒す心にて右の足上拍子に刀をすねへ引切先を後へはね扨上へ冠り膝の外へ打込み後同前又刀を引て切先を後へはねずして取って打込事も有

*抜けだらけですが古伝はすっきりしています。敵は一人とも何とも云っていません。

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2014年3月20日 (木)

曽田本その2を読む10長谷川流居合抜方1横雲・虎一足・稲妻

曽田本その2を読む

 10,1長谷川流居合抜方(自叙 行宗先生派)

 向身

 1。横雲
正面に座し抜き付け冠りて切る血拭(振り)は刀を横に開きて納刀踏み出したる足を引きて蹲踞の姿勢となるべし但し浮きたる膝は其の儘也。

*古伝神傳流秘書英信流居合之事横雲
「右足を向へ踏出し抜付打込み開き足を引て先に座したる通りにして納める」

この古伝では、はっきりと右足を踏出して正面に抜付ける様にしています。行宗先生の場合は右足を踏出すとも左足を引いて抜き付けるとも言っていません。
次の虎一足や稲妻は明確に左足を引いて抜き付けています。

「浮きたる膝は其の儘」については、納刀時の立膝の右足の捌きでしょう。

この古伝の英信流居合は「是は重信翁より段々相伝の居合然者を最初にするべき筈なれ共先大森流は初心の者覚易き故に是を先にすると言えり」と英信流居合の冒頭にあります。
長谷川英信の業と云うより元は林崎甚助重信翁の業と云います。

2.虎一足
左足を引き右脛を囲いて切る

*古伝神傳流秘書英信流居合之事「虎一足」
「左足を引き刀を逆に抜て留め扨打込み後前に同じ」

この業の「刀を逆に抜て留め」の処はどのような業だったのでしょう。敵の抜かんとする柄口六寸へ、逆刀で抜付けたのでしょう。現代居合では右足に薙ぎ付け来るを、払い留める様に稽古しています。
下村派の細川義昌先生系統と思しき、白石元一居合でもここは「前方の敵我が足に斬り付け来るに、刀の鎬にて応じて防ぎ」とあって江戸時代末期は脛囲いになっていたのでしょう。

3.稲妻
左足を引き中身に抜き付け冠りて切る

*行宗先生は「中身」という言葉で抜き付けています。「中腰」の事だろうと思います。
身を低くして抜き付けろと云うのでしょう。

古伝神傳流秘書英信流居合之事の「稲妻」
「左足を引き敵の切て懸る拳を払うて打込み後同前」

*古伝は敵の拳を払うとだけです。敵の攻撃を想定して演じますと良い稽古になります。
「切って懸る拳を切り払う」がポイントです。

敵は座したまま中腰に刀を上に抜き上げ真向に斬り懸って来る。
敵は抜打ちの様に・・。
敵が立ち上がって・・
敵が向うから歩み来たり・・
敵が斜め前から歩み来たり・・
                      etc・・・

英信流が立膝で一対一で詰合っているのが前提であれば、敵が歩み来るは想定外でしょう。

之も下村派細川義昌系と思われる白石元一居合では「前方より斬り懸る敵を刀を抜きつつ起ち上がるや左足を退きて横一文字に敵の胴に斬り付け・・」とあります。
白石居合での横雲との違いは左足を稲妻は退いています、横雲は右足を踏出しています。行宗「横雲」は足捌きが見えませんでした。

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2014年3月19日 (水)

曽田本その2を読む9大森流居合抜方4追風・抜き打ち

曽田本その2を読む

9、4大森流居合抜方(大江先生、堀田先生共著)

10.追風
直立体にて正面に向い、上体をやや前に屈し刀の柄を右手に持ち敵を追い懸ける心持にて、随意前方に走り出て右足の出たる時刀を首に抜付け、直に左足を摺り込み出して上段に冠り右足を摺り込み左足は追足にて、前面を頭上直立体にて斬り刀尖を敵の頭上にて止め血振左足を引中腰の儘納刀。

*大江先生の業を堀田先生が指導も受けていたはずです。堀田先生の見た大江先生の業が解説されていると思います。
此の追風も横一線の抜き付けを追い込んだ敵の首に抜付けていますが、二刀目は敵の真向に打込むにあたり「刀尖を敵の頭上にて止め」とあります。頭上で止めてしまっては可笑しいでしょう。

前回の月影も二刀目は敵の頭上より胸部で止めています。これは、まあ良しとしても頭上で止めては意味なしでしょう。せめて顎のあたりまで切り下ろすのでなければ変です。

この業名は古伝では「虎乱刀」で虎走りで追掛る方法を教えています。大江先生は風に背を押される「追風」と改名されています。

前回の「月影」今回の「追風」共に風流な業名に何を思って変えられたのでしょう。さしたる意味合いはないと言い切れないので振り回されます。
元の業名の「勢中刀」「虎乱刀」を業の心持とすべきでしょう。

11.抜き打ち
正面に座す、対座にて前の敵を斬る心組にて其正座の儘刀を前より頭上に抜上段に冠り体を少し前に出し前面の頭上を斬る。血振(横に開く)は中腰の同体にて納刀。

*どのような場面での抜打ちなのか不十分です。これでは一方的な不意打ちです。業の動作のみの解説でも想定を明らかにして置きませんとあらぬ方に行ってしまいそうです。

古伝はその点見事です。
神傳流秘書大森流之事抜打
座し居る所を向より切て懸るを其の儘踏ん伸んで請流し打込み開いて納る尤も請流に非ず此所筆に及ばず。

*正面の敵が真向に打込んで来るのを、腰を上げて抜請けに請け流し敵刀を摺り落とすや上段に振り冠って両膝を開いて真向に打込む、刀を横に開いて納刀。
この場合は、敵は打込んで外されたのですから目の前にいます。飛び込んで抜打ちするなどはありえないでしょう。

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2014年3月18日 (火)

曽田本その2を読む9大森流居合抜方3附込・月影

曽田本その2を読む

 9、3大森流居合抜方(大江先生、堀田先生共著)

 8.附込(俗に追切と云う)
正面に正座し右足を少し踏出しつゝ刀を抜き、刀尖の鞘を離るゝ時頭上に冠り右足を左足に引き揃え直立体となり右足より左足と追足にて前方へ一度は軽く二度目は深く追い足にて頭上を斬る。
此の体勢より右足を後方へ引き中腰となり、更に上段構を取り敵の生死を確かめつゝ残心を示す(抜付けより之迄は早きをよしとす)。
此の残心を示したる体勢より自然前方へ刀を下し青眼構となる、此時右膝をつき左膝を立て全体を落す。
更に同体にて右手を逆手に刀柄を握り左手は左膝の上に刀峯を乗せ血拭をなし刀を逆手の儘同体にて納む。

*大江先生の業名は「附込」ですが古伝のこの業は「逆刀」です。下村派行宗先生は「順刀或は逆刀又は追斬」です。
大江先生は(俗に追切と云う)ですがその呼称は見られませんから、当時俗に云う人もいたのでしょう。
「一度目は軽く」の表現はどうでしょう。「一度目は浅く」或は「一度目は不十分」の様に印象づけられています。
この表現は堀田先生の印象だったのでしょう。
大江先生の附込の血拭いは逆手に持った刀を「左手は左膝の上に刀の峯を乗せ血拭をなし」だけですから血拭い以外に余り意識した様にも思えません。

古伝神傳流秘書の大森流居合之事「逆刀」
向より切て懸るを先々に廻り抜打に切右足を進んで亦打込み足踏揃え又右足を後へ引き冠逆手に取返し前を突逆手に納る也

*二刀目は右足に左足を踏み揃える程に低くズンと斬り下しています。
逆手に取った刀で倒した敵の留目を刺してもいます。

9.月影(左斜に向右真向に抜附ける)
前左斜に向正座、同体の儘右足を出し中腰にて刀を高く抜き付け右敵の甲手を斬る。
同体にて左足を出しつゝ上段に冠り右足を出しやや直立体にて敵の頭上を真向に斬り、刀尖を胸部に止む、血振納刀(右足を引き直立の儘)

*この月影の業名も大江先生の改称です。元は勢中刀で業に似合った良い業名です。
大江先生は右足を左斜め前の方向に向いたまま右足を出すのでしょうか、是は腑に落ちません。中腰の右半身で正面から打込んで来る敵の上段の甲手に高く抜付けるのでしょう。

下村派行宗先生は、「左向より正面へ中腰にて掬い上げに敵の二の腕に抜付け・・」でした。
大江先生は追い込んで敵に斬り下す際、頭上より真向に敵の胸まで切っています。
現代の大江先生の系統の処は概ね膝迄斬り下しています。

古伝は「・・右の向より切て懸るを踏出し立って抜付け打込・・」

古伝には「又抜付けに払捨て打込む事も有」とありますがこの動作は失念している様です。

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2014年3月17日 (月)

曽田本その2を読む9大森流居合抜方2八重垣・請け流し・介錯

曽田本その2を読む

 9、2大森流居合抜方(大江先生 堀田先生共著)

 5.八重垣
正面に正座す、右足を出し左膝を浮めて中腰にて首に(?)抜付け、左足を前方に踏み出し両膝を浮めて中腰の儘大間に上段に取り、前方真直に頭上を斬り下し此の時右膝をつき左膝を立て、同体にて長谷川流の血拭をなし、刀を納む。
此の時敵未だ死せずして足部に切り付け来るにより右足を重心に立ち、直に左足を後へ引き体を左斜横構とし刀を右膝の前へ抜きて囲て敵刀を受け、更に体を正面に向け上段となり座しながら頭上を充分斬る。

*この八重垣の大江先生の手附では、「左膝を浮めて中腰にて首に抜付け」と左膝を浮める抜付けをしています。この方法は正座の部「前」にも書かれていればと思うのですが、八重垣にのみ書かれています。山内派の抜付けに見られる方法でしょう。
「右足を重心に立ち」の処は原本は「右足を重心に乗せて立ち」です。「右足に重心を乗せて立ち」でしょう。

6.請け流し(足踏みは三角形とす)
右向となりて正座し、敵が頭上へ切り込み来るを右斜め横に左足を踏出し中腰となりて刀尖を少し残し、左膝に右黒星(?)を附け抜、右足を体の後ろに出すと同時に残りが刀尖を離れて右手を頭上に上げ刀を顔面にて斜とし刀尖を下げて請け流し、右足を右横へ摺り踏みて左足に揃え、左斜向に上体を変えやや前に屈し刀の(は)右手にて左斜の方向に敵の首を斬り下し、下す時左手をかける。
血拭は同体より左足を後方へ引き、右足はやや前方に屈し膝頭を前に出す、其膝上に刀峯を乗せ、右手は逆手に柄を握り、其儘静に納刀。此の時暫時体を下し、左足の膝をつけるなり。

*曽田先生の文章は原文を幾分か変えられていますが略同じとみていいでしょう。
「足踏みは三角形とす」は踏み出した左足を軸にして右足が三角形の二辺を移動する事を意味するのでしょう。

「右向きとなりて正座し」は、頭に(右斜向にてもよし)とが抜けています。
「左膝に右黒星を付け抜」は曽田先生も「?」で、意味不明とされている様です。
「刀の右手にて」は曽田先生の誤字か誤植で「刀は右手にて左斜の方向に敵の首を斬り下し、下す時左手を掛ける」となります。右片手斬りが大江先生の斬り付けです。
右手を逆手に持ち替え逆手納刀する。

行宗先生の請流は「右向にて敵正面より打込み来るを左足を踏み出し左肩先に請け流し右足を右斜に踏み出し体を変わして右足を揃え右肩より切り下す、左足を引き逆手納刀」

7.介錯
正面に正座し、右足を少しく前へ出しつゝ刀を静に上に抜き、刀尖が鞘と離るゝや否や右足を後へ充分引き中腰となり刀を右手の一手に支え右肩上にて刀尖を下し斜の形状とす、右足を再び前方に踏み出し上体をやや前に屈し、刀を肩上より斜方向に真直に打下し前の首を斬る。納刀同前。

*「右足を後へ充分引き」ですが現代は少し狭めでしょう。
「中腰となり・・」低い立ち姿を連想します。
「上体をやや前に屈し」も低い斬り下しをしている様です。
片手斬りか首を斬り落とすのかもわかりません。
納刀は逆手納刀。

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2014年3月16日 (日)

曾田本その2を読む9大森流居合抜方1前・右・左・後

曽田本その2を読む

9、1大森流居合抜方(大江先生 堀田先生共著) 名称古伝と違うなり

記 総じて座業にて抜付けは二星を勝つ故に首に非ず拳なり 虎彦

*前回までの大森流居合抜方は下村派の行宗貞義先生の業名と手附でした。
それと対比するように今度は大江正路先生、堀田捨次郎先生共著「剣道手解き(大正7年発行)」による大森流居合の抜き方です。
「名称古伝と違うなり」の挿入は曽田先生のものです。行宗居合も古伝と違うのですが違い方がひどいと云うのでしょう。

次の「記」については、大江先生の居合が首への抜付けが主だが大森流居合は二星、拳、柄口6寸への抜付けが土佐の居合の極意だと文句を付けているのです。

1、前 
我体を正面に向け正座す、右足を出しつつ刀を抜付前敵首を切り(?)更に上段にとり前面の頭上を真直に切り血振い納刀

*早速の(?)で曽田先生は「首じゃないだろう」と疑問符です。
行宗先生の「前身」:正面に坐し抜き付け冠りて切る也血振いを為し右足を引き納刀膝をつく

何処に抜付けるとは言っていません。土佐の居合の常識と云いたいのでしょうか。抜き付ける部位を特定してしまうのも聊か疑問ですから、どちらも似た様なものです。

古伝神傳流秘書大森流居合之事「初発刀」
右足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震立時足を前に右足へ踏み揃へ右足を引て納る也

2、右( 左身)
我が体を右向に正座す左足を出しつゝ左へ廻り敵首を切り(?)更に上段にとり真直に前面敵の頭を切る

*右の文字を消して左身と訂正を曽田先生が入れています。相変わらず首に(?)。

行宗先生の左身(左刀)
右向きより正面に抜き付け冠りて切る也

古伝神傳流秘書大森流居合之事「左刀」
左の足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震する事は足を立替え先踏出したる足を引て納る也

*古伝の文言では正面に向いて座し、左回転せずに左足を踏み出して抜付け打込んでいる様に読めます。
ここで云う古伝の左身とは左側に敵が座す場の想定です、従ってここは正面右向きに座し左に廻って正面に抜き付けるで正解でしょう。
大江先生も行宗先生も右向きに坐して左廻りに正面に向き直って左足を踏み込んで抜付け打込んでいます。

3、左
左(右身と曽田先生訂正)へ向きて正座し右へ廻り右足を出して首(?)に抜付け上段にとりて直に頭上に斬り下す。

*古伝は我に対する敵の位置を業名にしています。大江先生は道場の正面に対する我の座す向きを業名にした訳で演武用の業名の様に思えます。
どの様な場面でも我の右側の敵に対する対敵意識を優先にする事を教育上避けたか、演舞する際の道場での座仕方を優先したかの違いでしょう。

4、後
後へ向き正座す、刀を静に抜きつゝ両脚先にて左へ廻り(? 右膝頭を軸とし左爪先きを床につけ左へ廻る 曽田先生括弧書き)正面へ左足を出し首に(?)抜付け同体にて上段より前体頭上を斬る。

*この曽田先生の括弧書きは面白いですね、大江先生の技法にケチを付けている様です。
「右膝で回転するんだ、両足爪先じゃない」と云っています。其の上ここでも「首」じゃないと云っています。

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2014年3月15日 (土)

曽田本その2を読む8大森流居合抜方自叙行宗先生派5追懸・抜打。血振り

曽田本その2を読む

8、5大森流居合抜方(自叙)(行宗先生派)

10.追懸(追風 大江派)(乱刀 山川久蔵先生の伝書には虎乱刀とある)
走りながら抜付け左足を踏み込み冠り右足を踏み込み切る血振い立ちたるまま納刀

*追懸と云う業名は古伝神傳流秘書の大森流居合之事には無い業名です。乱刀もありません。
其の抜刀心持之事には「追懸切」があるのですがこれは長谷川流で元は重信流と言われます。

追懸切:抜て向へ突付走り行其儘打込也

追掛ける所は似ていますが、刀を抜放って前方の敵に向って刀を突きつけ走り込んで間に至れば上段から打込んでしまうのでしょう。

英信流居合目録では外之物之大事に遂懸切という業があります。
遂懸切:刀を抜我が左の眼に付け走り行て打込但敵の右の方に付くは悪しゝ急にふり廻り又抜払うが故なり左の方に付て追かくる心得宜し

古伝神傳流秘書大森流之事虎乱刀
是は立事也幾足も走り行く内に右足にて打込み血震し納る也但し膝を付けず。

大江先生は之を正座の部「追風」として改変されたのでしょう。
追掛けて行き抜付け真向に打込む、立ったまま血振いし納刀する、古伝も行宗先生も追掛けて行き抜打ちに切って血振い納刀です。
下村派行宗先生のこの業は古伝の虎乱刀の方法でしょう。

11.抜打(又は「止め」とも云う)
正面向き両膝にて中腰にて抜き冠りて膝を進めながら切り付け(切り下す時膝頭を肩幅に開けば自ら進むものなり)刀を開きて納刀

*この抜打の理合は文章では一方的な攻撃です。
正面の敵に両膝を立て中腰となり抜き上げて振り冠り、逃げんとする敵に両膝を開く様にして前進し切り下ろす、でしょう。敵の害意を察しなど匂ってきません。

古伝神傳流秘書大森流居合之事抜打
座して居る所を向より切て懸るを其の儘踏ん伸んで請流し打込み開いて納る尤も請流に非ず此所筆に及ばず

この古伝の抜打は素晴らしい業技法を伝えてくれています。
大森流居合を締めくくるものとして、ここには居合の到達すべき姿を語っている様に思います。

居合は一人演武です。どのように場を想定するかは個々の演武者の中に有るのでしょう。
技法だけを伝授するのではなく、その心持まで伝授する事で演武のドラマも大きく様変わりするはずです。そして武術を学ぶ人としての有り様も変わるはずです。

血振仕方
切り込みたる後左手を腰にとると同時に右手肘を四十五度に開きながら曲げ手首を巻き込む心持にて拳を右耳上に止め横下共四十五度位に刀を振り下ぐる也(拳を耳にとりて立ち振りたる時足を揃う)

*河野先生は此の大森流血振りについて無双直伝英信流嘆異録の血振いの事で次のように嘆いています。

「血振いの時剣先が手元より上がって居る人を見受けるが之も誤りである。正座の血振いは、斬り下ろしてから血振いの刀を振下す迄すべて切先下りに刀身を保持するのが正しい」

何故それが正しいのかは説明もないのでわかりません。血振いであれば切先が上がれば手元に血が垂れてくると云った先生もいましたが、刀で切った瞬間には血が出て刀に附着しないとも言われます。

如何なる理由があろうとも、人の命を奪った後に歌舞伎役者や大道芸人の様な大見栄を切る事は如何なものでしょう。

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2014年3月14日 (金)

曽田本その2を読む8大森流居合抜方自叙行宗先生派4順刀・勢中刀

曽田本を読む

 8、4大森流居合抜方(自叙)(行宗先生派)

 8.順刀、逆刀(附込又は追切り 大江派、追加逆刀、追斬)
正面に座し右足を踏み出して抜き(7本目と同じ)右足を引き揃えて冠り右足より継足に初めは浅く次は深く切り下し右足を引き冠りて残心を示し徐々に刀を下し逆手に血拭い納刀

*古伝神傳流秘書大森流居合之事「逆刀」
向より切て懸るを先々に廻り抜付に切右足を進んで亦打込み足踏揃え又右足を後へ引冠逆手に取返し前を突逆手に納る也

「前を突く」動作はどこかに残っているでしょう。
河野先生の附込「・・之は元来血拭いの形なるが、敵の発動に対し直ちに刺突するの意を以てなすべし」大日本居合道図譜
檀崎先生の逆刀「・・止めを刺す心持ちにて気合を込めて上方に引き上げる。又突き刺して引き抜くもよし」

*行宗先生の業名はどこから来たものかわかりません。古伝神傳流秘書では大森流之事「逆刀」がこの行宗先生の順刀に相当すると思われます。「順刀」は大江先生の「介錯です。
行宗先生は介錯は介錯でした。
下村派第14代下村茂市先生から業名の付いた根元之巻もしくはそれに相当する伝書を伝授されたのかふと疑問に思います。明治維新を挟んだ時代ですから解明はできそうにありません。
大江先生の「附込」は現代に使われていますが「追切り」は大正7年の大江・堀田共著の剣道手解きの付録に「八番附込(俗に追切)」とありますから俗にあった業名でしょう。業技法が主で正式な業名は知らなかった先生が多かったかも知れません。おおらかでいいですね。
業名より想定における運剣技法でしょう。

9.勢中刀(月影 大江派)
左向きより正面へ中腰にて掬い上げに敵の二の腕に抜付け(敵の冠りたる甲手とも云う(上膊部)肘のことならん?)左足より送り足にて切り血振い中腰の儘納刀

*大江先生は月影と改名されたのですが行宗先生は古伝の業名です。
行宗先生のこの業は、左向きに座しています。夢想神伝流の勢中刀の座仕方でしょう。

「掬い上げ」に抜付けています。
「掬い上げ」に抜付ける方法はどの様であったのでしょう。
右側から上段に振り冠った敵が切り懸って来る、刀を抜きつつ右に90度廻り敵が間を越すや否や振り下ろさんとするを、右足を踏み込み(足の踏み込みは指定されていません)体を低く左膝は僅かに床から離し抜上げる様に抜き放って敵の打込まんとする二の腕に斬り付けるのでしょう。
(敵の冠りたる甲手とも云う)の文言では、立ち上がって斬り付ける様にすべきで掬い切りでは無い様に思います。
斬りつけは切り払わず即座に刀の下に潜り込む様に振り冠って後退する敵を斬り下すのでしょう。

白石元一先生の勢中刀は左足を後方に引いて抜付けていました。

古伝神傳流秘書大森流居合之事「勢中刀」
右の向より切て懸るを踏出し立って抜付打込血震し納る此事は膝を付けず又抜付に払捨て打込む事も有

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2014年3月13日 (木)

曽田本その2を読む8大森流居合抜方j自叙行宗先生派3請流・介錯

曽田本その2を読む

8、3大森流居合抜方(自叙 行宗先生派)

6、請流(流刀、受刀)
右向にて敵正面より打込み来るを左足を踏出し左肩先に請け流し右足を右斜めに踏み出し体を変はして右足を揃え(左足に)右肩より切り下す左足を引き逆手納刀

*この業名は古伝神傳流秘書の大森流居合之事では「流刀」です。「請流」の業名は大江先生が改変した業名でしょう。行宗先生の下村派の業名はどうも腑に落ちないのですがなぜでしょう。括弧の中の流刀、受刀は曽田先生の認識された業名です。

正面を左側にして右向きに座す所、敵正面から打込んで来るので、左足を踏み出し刀を抜出し、頭上から左肩を覆う様に敵刀を受け左肩先に受け流す。中腰になり右足を右斜めに踏み出し体を、受流された敵の方に変わり右足を左足に踏み揃え、右肩より敵に斬り下し、左足を引いて逆手納刀する。
逆手納刀については口伝口授でしょう。

古伝神傳流秘書大森流之事「流刀」
「左の肩より切て懸るを踏出し抜付け(此の処工夫すべき処なり)左足を踏込抜請に請流し右足を左の方へ踏込み打込む也扨刀をすねへ取り逆手に取り直し納る膝をつく」

*どちらを向いて座すのかありませんが、敵は左肩に斬り込んで来るのを、左足を踏み出し抜請けに請け流し、右足を請け流された敵の方に踏込み左足に揃え打込む、さて左足を引いて刀を右脛に取り、逆手に取り直して刀を納める。

現代居合の動作を借りなければ業を演じられそうもありません。

7、介錯(順刀)
正面に坐し右足を踏み出し抜き離れざる内に右足を左足に引き付け刀を右肩にとり(右肩より)右足を踏み出して斜に切る逆手納刀

曽田先生の付箋があって、(7本目、8本目の名称に就いて、山川久蔵先生の伝書には7本目順刀8本目を逆刀とある参考のため記す)

*この介錯の業名も大江先生の改変された業名でしょう。曽田先生もそれとなく古伝の名称と違うとささやいています。

古伝神傳流秘書大森流之事「順刀」(介錯刀のこと)
「右足を立左足を引と一処に立抜打也又は八相に切跡は前に同じ」

「順刀」の意味がよくわからないのですが、「順に打込む」などの表現をする流もあるのでそれから見ると、右肩上から斜めに切るのが順かも知れません。所謂八相の構えから袈裟に斬るでしょう。

*順刀が介錯のことと云うのですが、それらしき事は書かれていません

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2014年3月12日 (水)

曽田本その2を読む8大森流居合抜方自叙行宗先生派2進退

曽田本その2を読む 

8、2大森流居合抜方(自叙 行宗先生派)

5、進退(八重垣 大江派、陰陽進退-陽進陰退のことなり)
正面に抜き付けたる時左膝を浮べ左足を踏み込むと同時に冠りて切り、刀を横に開き納刀暫時左足を引き付くる也此の時敵又切り込み来るを左足を引き右脛を囲い冠りて切る也(脛囲の時抜き放ちても苦からず)同断

*八重垣と云う業名は明治以降に大江先生が改変された際に命名されたものでしょう。
曽田先生が書写した古伝神傳流秘書の大森流之事では「陽進陰退」です。木村栄寿先生のものは「陰陽進退」です。

陰陽進退
「初右足を踏出し抜付左を踏込み打込み開き又左を引て抜付跡ははじめに同じ」

陽進陰退
「初め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜付け跡初本に同じ」

ほぼ同じものでしょう。

*行宗先生の「進退」は古伝と同じと思われますが( 脛囲の時抜き放ちても苦からず)とあって現代居合の夢想神伝流の仕方が組み込まれています。

正面に座す敵に右足を踏込んで抜付けた、敵不十分で後退する処、左膝を浮かべ踏み込むと同時に振り冠って左足を踏込み斬り下す。
十分と見て刀を横に開き納刀する。暫時左足を右足に引き付け来る時、敵又右足に斬り込み来るを左足を後ろに引いて刀を抜き放ち右脛を囲い敵刀を受け払い、上段に振り冠って斬り下す。(この脛囲いの時、抜打ちに切るのも有)、血振り納刀同断。

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2014年3月11日 (火)

曽田本その2を読む8大森流居合抜方自叙行宗先生派1前身・左身・右身・後身

曽田本その2を読む

 8、1大森流居合抜方(自叙 行宗先生派)

1,前身(初刀又は初発刀) 
正面に座し抜付け冠りて切る也血振いを為し右足(踏み出したる足のこと)を引き納刀膝をつく

*自叙とは、曽田先生が下村派の行宗貞義先生の居合に中学時代に師事され、その方法を書き込んだものでしょう。
古伝神傳流秘書では大森流居合之事「初発刀」です。「前身」とか「初刀」という業の呼称は初耳ですがいかがでしょう。「前身」とは正面に向いて敵に対して居る事を表している、「向身」と同意でしょう。
根元之巻では向身・左身・右身・後身という言い方で英信流目録を書いているものもあります。
たとえば向身では横雲・虎一足・稲妻、右身では浮雲・山下し、左身では岩浪・鱗返、後身では浪返・瀧落です。我に対する敵の位置関係からの使い方です。

東北地方に伝わった林崎甚助重信の居合の伝書では、例えば秋田藩の「林崎流居合」天明8年1788年の伝書に向身之次第で7本の業を持っています、右身之次第で7本左身之次第で7本、立合之次第で10本と云う様にあります。
敵との対峙次第による業の方法を述べていたようです。
それで行くと「前身」を業名とするのは少々おかしいのですが時の移ろいによるものでしょう。

古伝神傳流秘書大森流居合之事「初発刀」
「右足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震し立時足を前に右足へ踏み揃え右足を引て納る也

*古伝と同じ理合でしょう。

2、左身(左刀) 
右向きより正面に抜付け冠りて切る也同断

*正面に対し右向きに座し、我が左側に居る敵に対し左廻りに振り向き、左足を踏み出し抜付け振り冠って打下し血振納刀する。

是は行宗居合は左廻りの回転業です。
古伝神傳流秘書大森流之事左刀
「左の足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震して立時足を前に左の足へ踏み揃え左足を引て納る以下血震する事は足を立替え先踏出したる足を引て納る也」

*この古伝の「左刀」は敵の位置関係も我の座す方向もありません。初発刀が右足を正面に踏み出して抜付けています。
この業は左足を正面に踏み出して抜付けていると読んでもおかしくはありません。
初発刀は右足を踏み込む、左刀は左足を踏み出すいかがでしょう。
現代居合では行宗流に左廻りに廻って左足を踏み出して抜付ける、何処かで変わったか伝書の内容を隠した習性に依るのか面白いところです。
たまには正面に向って左足を踏み出して横一線の抜付けをやってみるのもいいのではないでしょうか。この古伝「左刀」への拘りは次の「右身」を読んでみると何となく「そうか」と思われます。

3、右身(右刀)
左向より正面に抜付け冠り切る也同断

*行宗先生の右身(右刀)は、左身と敵の位置が入れ替わったもので左向きに座し右脇に座す正面の敵に右廻りで右足を踏み出し抜付けるのです、振り冠り打ち下して血振り納刀。

古伝神傳流秘書大森流之事右刀
「右足を踏み出し右へ振り向抜付打込血震納る」

*この古伝は、「右足を踏み出し右へ振り向」所に回転技を示唆しています。前回の「左刀」には無かった文言は「・・振り向」です。
左向きに座り右側に座す敵に右廻りで振り向く右足を踏み出して抜付け、上段に振り冠って打ち下し血振り納刀です。
「右足を踏み出し・・」が振り向くより先に書かれているのが気になりますが、とりあえずパス。

4、後身(當刀 後刀)
後向きより正面に抜付け冠りて切る也

*これは後ろ向きに座し、左廻りに廻って正面に抜付けるでも、右廻りで正面に抜付けるでも、廻る方向を指定されていませんので、どちらでもできます。現代居合は左廻り専門です。

古伝神傳流秘書大森流之事「當刀」
左廻りに後へ振り向き左の足を踏み出し前の如し

*古伝は左廻りに後へ廻れと言っています。この業は後向きです、右向きで左に廻る技と動作ではさして違いはないので、現代の「左刀・大江先生の右」と同様に出来るようになるはずです。

この初発刀・左刀・右刀・當刀は現代居合の仕方で定着していますが古伝を読んでいると疑問が湧いてきます。

なぜ「振り向く」と書かれていない「左刀」を振り向かせるのでしょう。
初発刀は右足を踏み出し、左刀は左足を踏み出す。右刀は右廻り、當刀は左廻り、よくできています。
ある範士十段の先生が「お前余計な研究をして業を台無しにしている」と云って呉れます。
形だけの居合など・・・天邪鬼な・・。

正面の敵に左足を踏み出し抜付ける理合は・・・。新陰流(真陰流)から大森六郎左衛門が創作した居合ならば足の踏み違いや、踏み替えもあったかもしれません。

以下次回とします。

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2014年3月10日 (月)

曽田本その2を読む7故行宗貞義先生記録写

曽田本その2を読む 

7.故行宗貞義先生記録写

◎註 三つの声と云う事(武芸叢書)
敵より初めにかくる声はいかほどもかさを懸けて声をかけ又戦う間の声は調子をひきひき底より出ずる声にてかゝり勝て後あとに大きにつよくかくる声是三つの声也。

*武芸叢書とは早川純三郎の武芸叢書(大正4年発行)だろうと思います。
三つの声という事。
敵が仕掛けて来る時の声は嵩にかかった声で威嚇して来る、戦っている時の声は調子に合わせて腹の底より出すような声、勝を制した声は強く掛ける声。というのでしょう。

武芸叢書には宮本武蔵の五輪書も収録されています。五輪書火之巻「三つの声と云う事」ここより取られたものでしょう。

「敵を動かさんがため、打つと見せてかしらよりえいと声をかけ、声のあとより太刀を打ち出す物也、・・」

「不意に発声なくして撃つを古来「聾撃(つんぼうち)」とて武士は之を忌めり」高野佐三郎剣道より。

河野先生の無双直伝英信流居合道の「懸け声」
「当流に於いては之をなさず、すべて無声を以て行う。即ち此の無声たるや、有声を以て行う以上に至難とする所なり。されば先ず初心の間は、一動毎に其の閉じたる口中に於いて声を発し、其の気分の発声によりて業を活かし、剣に威力を加うるに努め、而して鍛錬の功を積みて、真の無声の境地を悟べきなり。

1、抜打

・右半身にて剣先は己が正中線上にあるような抜付けについて「この形を以て三角の曲尺とするは大いに不可なり」

・やや右半身で切先は我が正中線と平行になる抜付けについて「この形を以て三角の曲尺とするは独可也」

*一般に下村派は半身の抜付け、谷村派はがま口に斬る抜付けの様に言われますが曽田先生による行宗先生の記録でがま口に斬るのを良しとしています。

凡そ居合術は曲尺を以て身体の所置手足離合等を論ずるものなれば其宜しきに違戻すべ・

かならず又常に行う時も行わざる時も恒に身心を正しうすべし
居合術を学ぶ者は注意すべき点にして掲くれば左の如し
1、人と対談する時
1、多衆人の中に通路する時
1、暗夜通路の時
1、路の曲りを通行する時

古歌一首

剣とる道は数多に岐るれど
         敵の心を我が物とせよ

*居合と云うのは身体の姿形、敵との位置関係、有効な体の捌きを論ずるものなので、身体のありようや手足の離合を正しく習うものである。

必ず常に、行う行わないに関わらず常に心身を正しくしておくこと。
心身を正しくとは、歪みのない一方に偏らない、自然体の心身を指すのでしょう。

居合術を学ぶ者の注意点は格別に注意をして行けと言います。注意の仕方は「心身を正しく」でしょう。
1、人と対談する時、1、大勢の人の中を通行する時、1、暗夜の通路を通る時、1、路の曲がり角を通る時

古歌一首

剣術の方法や流派はいくらでも有ろう事なれど、敵が我に何をしようとするのか敵の心を我がものとする事が肝要である。

*敵の心を我がものとする、その方法は「身心を正しうする」ことなのでしょう。この土佐の居合にある「神妙剣」の教えなのでしょう。2013年11月20日、21日、22日、12月1日

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2014年3月 9日 (日)

曽田本その2を読む6故行宗貞義先生記録写

曽田本その2を読む

6.故行宗貞義先生記録写

△ 長谷川流

1、横雲 敵の拳へ抜付(二星へ勝故に拳なり)

1、虎一足 敵先に抜付

1、稲妻 敵打込拳へ抜付

1、浮雲 右脇より我柄を取り来る時

1、颪 敵抜かけ来る処にて我右足にて敵の柄を踏み落す心にて胸抜付

1、岩波 敵真向にて左の方より我柄を取らんと両手を出す時我柄を左足の方へよげて敵の胸乳の上へ切先上りに突込む

1、鱗返し 敵は真向にて抜かんとかまえる力声にてかくれがたくさま廻って抜付
(敵の真向にて抜き斬り懸らんとする力声にて逃ぐる遑(いとま)なきを以てすぐさま廻りて抜き付くならん)

*力声とは、一方的に斬り付ける際に、掛け声を懸けるのが武士の定めだったとも言われます、不意の斬り付けは聾撃(つんぼうち)としては卑怯な振る舞いとも言われます。

1、波返し 右同断

1、瀧落し 敵我鐺を取り上へ押し上げる処を前へ立抜く拍子に鐺にて当て突く

1、抜打

*行宗先生の記録を写したものという事です。
下村派には古伝神傳流秘書があったはずです。行宗先生は師の下村茂市より相伝していなかったのでしょうか。
それとも曽田先生には見せなかったのでしょうか。

それはともかく、是では業に入る前に思い出す程度のきっかけの覚書程度のものですから、口伝口授による以外に業を知る手立ては乏しいものです。
大江先生は合同稽古をされていたと聞きますが、行宗先生は一対一の稽古と聞きます。

行宗先生がやって見せ、曽田先生がそれを真似る、そんな稽古法だったのでしょう。
現代居合を知らなければどうしてよいかわからないものです。

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2014年3月 8日 (土)

曽田本その2を読む5故行宗貞義先生記録写

曽田本その2を読む

 5、故行宗貞義先生記録写

△ 大森流

1.前後左右  一本目より四本目
 1本目初発刀、 2本目左刀、 3本目右刀、 4本目當刀

1.進退  -5本目陽進陰退

1.請流  -6本目流刀

1.介錯  -7本目順刀

1.順刀  -8本目逆刀

1.勢中刀 -9本目勢中刀

1.追懸  -10本目虎乱刀

1.抜打  -11本目抜打

口傳

大森流は只業のみにて格別の書無し、業の起こりも口伝にて何の業附の書無しと云う。

*ここは曽田先生による下村派行宗先生の大森流についての業名と順番、その次に山川久蔵による古伝神傳流秘書による業名の順番を対比したものです。
請流、介錯などの業名は大江先生の改変された業名の様です。

大森流については口伝だけで業の理合(意義)動作などの書きつけたものは行宗先生は無いと云う事なのでしょう。

同じ下村派と言われる島村善馬(細川義昌)先生については伝書がいくつも出て来ていますので行宗貞義先生と細川義昌先生との伝系について疑問を感じます。双方とも下村派第十四代下村茂市に師事したとされています。
同じように大江正路先生から出たという根元之巻以外の伝書が公になりません。大江先生は下村茂市先生からも五藤正亮先生からもそれらの伝書を譲られていなかったかも知れません。

そんな詮索はともかく、武術は巻物や地位があっても怠れば無いと同じです。
土佐の居合は「根元之巻」のみによって伝承された様で、伝えるべき業技法や心得などの事は、師匠の口伝口授だけだったのでしょう。
其の為に自己流のあっち向いたりこっち向いたり厄介です。

曽田先生や木村栄寿先生、政岡先生が語る古伝の世界はおおらかで親しみのある人を感じさせるものです。
定規で計った形だけのものでは無かったと思うのです。

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2014年3月 7日 (金)

曽田本その2を読む4土佐居合の年表

曽田本その2を読む

4.年表
明治以降の土佐の居合の先生方の略年表を作成して見ました。

嘉永21849年  細川義昌生まれる
嘉永31850年  行宗貞義生まれる
嘉永51852年  大江正路生まれる
            下村茂市土佐藩居合術指南となる
嘉永6年1853年  ペリー浦賀へ来航
安政31856年  細川義昌7歳下村茂市に入門7才
万延元年1860年 行宗貞義向髪角入11
            川崎善三郎生まれる
元治元年1864年 細川義昌元服15
明治維新1868年 細川義昌19歳
            行宗貞義18歳
            大江正路戊辰戦争出陣16
明治21869年  版籍奉還
明治31870年  大江正路藩立文武館剣道専業拝命18
            細川義昌島村姓から細川姓となる21
明治51872年  中山博道生まれる
            山内容堂没す
明治61873年  徴兵令
明治91876年  廃刀令
明治101877年 第14代下村派宗家下村茂市没す
                       
西南戦争行宗貞義大尉転戦27
            植田平太郎生まれる
明治171884年 細川義昌キリスト教徒となる35
            福井春政生まれる
明治191886年 山本宅治生まれる
明治231890年 曽田虎彦生まれる
            西川倍水生まれる
明治241891年 穂岐山波雄生まれる
明治251892年 大田次吉生まれる
明治261893年 板垣伯により材木町に道場
            16代五藤孫兵衛師範となる
            山本晴介生まれる
明治271894年 日清戦争
明治281895年 大日本武徳会結成
明治291896年 政岡壹實生まれる
明治301897年 第16代谷村派宗家五藤孫兵衛没す
明治311898年 河野百錬生まれる
明治331900年 大江正路高知二中剣道教授48
明治361903年 曽田虎彦高知二中入学12歳(?)行宗に師事す
             山内豊健生まれる
明治371904年 日露戦争
明治381905年 穂岐山波雄・森繁樹高知二中で大江に師事す(?)
明治401907年 檀崎友影生まれる
明治411908年 曽田虎彦高知武徳殿助教師18歳(?)
            政岡壹實高知一中入学森繁樹と同宿舎居合を習う
明治421909年 大江正路高知一中赴任(高知二中廃校?)
            政岡壹實大江正路に師事す
大正11912年  大日本剣道形制定 
大正31914年  行宗貞義没す64
            竹村静夫城東中学入学剣道居合に熱中12
大正151915年 福井聖山生まれる
大正61917年  中山博道細川義昌に起請文を入れる
            山本晴介大江正路に入門24
大正71918年  大江・堀田共著「剣道手ほどき」
大正81919年  植田平太郎細川義昌に師事す
大正111922年 細川義昌香川県旅行植田平太郎へ皆伝許可
大正121923年 関東大震災
            細川義昌没す74
大正131923年 大江正路居合道範士73
昭和21927年  大江正路没す76
            河野百錬穂岐山波雄に師事す29
昭和5年1930年  竹嶋寿雄生まれる
昭和61931年  大阪八重垣会発足
昭和81933年  中山博道夢想神伝流抜刀術を称す
昭和101935年 穂岐山波雄没す
            福井春政第19代宗家となる
昭和131938年 竹村静夫没す39
            檀崎友影中山博道に師事す
昭和161941年 大東亜戦争
昭和171942年 河野百錬著「大日本居合道図譜」
昭和191944年 川崎善三郎没す84
昭和201945年 高知市米軍により空襲
            終戦
昭和211946年 山内豊健没す43
昭和231948年 曽田先生、河野百錬に谷村亀之丞の英信流目録を伝授
昭和251950年 曽田虎彦没す60
            河野百錬第20代宗家となる52
昭和281953年 竹嶋寿雄 福井春政に師事23
昭和331958年 中山博道没す86
昭和34年1959年 西川倍水没す
昭和461971年 第19代福井春政没す88
            竹嶋寿雄傍系第20代宗家継承41
            (福井春政より田岡傳に遺言とか)
昭和491974年 第20代河野百錬没す77
            竹嶋寿雄第21代宗家継承とか44
            (山本宅治、森繁樹、田岡傳、野村条吉等推薦とか)
昭和511976年 竹嶋寿雄 全国居合道連盟発足 竹嶋寿雄加盟46
昭和531978年 山本晴介没す85
昭和591984年 大田次吉没す92
平成7年1995年 竹嶋寿雄 土佐直伝英信流名乗る65
平成91957年 竹嶋寿雄 全国居合道連盟会長
平成122000年 福井聖山没す85
平成152003年 檀崎友影没す96
平成192007年 竹嶋寿雄没す 77

林崎流居合年表

天文111542年 林崎甚助重信生誕 幼名民治丸(霊験記)
天文161547年 父浅野数馬、坂上主膳に暗殺さる(武祖伝)
永禄2年1559年 民治丸改め林崎甚助重信 林崎流と称す(霊験記)
永禄4年1561年 林崎甚助重信京で仇討
文禄4年1595年 林崎甚助重信一の宮に住(武術太白成伝)
慶長41599年 林崎甚助重信一の宮を去り不明(武術太白成伝)
慶長5年1600年 関ヶ原の戦い
慶長8年1603年 徳川家康江戸幕府
寛文21662年 林六太夫守政生まれる
享保171732年 第9代林六太夫守政没す 70
明和元年1764年 林安太夫政詡 居合兵法極意秘訣を誌す
安永51776年 第10代林安太夫政詡没
        
11代大黒元右衛門清勝
        
12代林益太夫政誠 英信流目録2巻書く
文政21819年 山川久蔵幸雅 神傳流秘書を写す
嘉永51852年 第15代谷村亀之丞自雄 英信流目録2巻を写す

 

 

 

 

 

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2014年3月 6日 (木)

曽田本その2を読む3故行宗貞義先生

曽田本その2を読む

 3、故 行宗貞義先生

前名 寿之助 彦太郎

    左源太 精次郎

    進之助 可納

藤原貞義と云う

嘉永3年(1850年)戌年7月2日
 ○高知県土佐郡江の口村に生る

 ◎墓所 高知市奏泉寺東□

万延元年(1860年)十月十四日に向髪角入の願い聞き届は被り
則祝儀相整たり(歳 十一歳)
当時文武館に在りて森下氏の門に入て剣術を学び
亦下村茂市氏の門に入て居合術を学びたり。

大正参年(1914年)拾月四日没せらる 享年六十五才

◎行宗先生門弟中に(明治40年頃入門)
 

 中山博道先生、堀田捨次郎先生見ゆ

*下村派第15代行宗貞義先生の略歴です。
曽田先生による昭和11年11月の海南新聞のスクラップより行宗先生を見てみます。

見出しは「土佐居合術の為に万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏傑物行宗貞義の一の弟子」

内容は昭和11年10月25日に日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があって土佐居合術の代表者として竹村静夫と太刀打之位を演じた事を喝采しているものです。
そこに行宗先生の事が述べられています。
「曽田氏の師匠は有名な行宗貞義氏である、行宗氏は西南戦争の時に大尉として各地に転戦した剛の者だが後感ずるところあって断然軍服を脱ぎ捨て、一時看守長を勤めたこともあり、其の後更に零落して第二中学校の門監にまで成り下がっていた。
当時二中の武術教士は桑山真澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かった真田翁がその居合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がおる以上、桑山は教士たる資格がないさっそく罷めろと言って、行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江政治氏(大江正路まさじの誤字でしょう)の如き剣客も行宗の足許にも寄りつかぬと云う評判で其の実力は大したものだった。
この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったが夫等数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江吉重、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我子の如く教えたという事をもって、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを属していたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る。
果然曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられ茲に師の衣鉢を継いだのである。
すなわち世間から見れば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に押し上げられた形となった。
そこで今一度行宗氏の実力を振り返って見直す必要が出来た、何でも明治四十年頃であったが範士の中山博道氏がわざわざ来県して行宗氏の弟子となり又三重県人堀田捨次郎という柔道の範士もまた来県して行宗氏の門に入った。」

次回は行宗先生の時代の年表を作ってみます。

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2014年3月 5日 (水)

曽田本その2を読む2故行宗先生記録写

曽田本その2を読む

 2、故行宗貞義先生記録写

夫れ居合術は独技独行なるが故に其之を演ずるに当たってはまず己が胸中に敵を作り敵の己に加えんとする機に先んじて以って勝を制することを学ぶべし

Δ 誓約

第一 師の指導すに従順なるべし

第二 礼儀を重んじ長序の別を正し諸事軽薄の行為なきを要す

第三 猥りに他人の技芸を批評すべからず常に己が技芸の不足を反省すべし

*曽田本その2の書き出しは、曽田先生の師故行宗貞義先生の言われた事を記録したものと言います。

居合と云うものは、一人で技を演じ、一人で行うものである故に、是を演ずるに当たってはまず己の胸中に仮想敵を作って敵が己に加えようとする害意を察しその機に先んじてその動作を制して勝を制することを学ぶべきである。

*胸中に敵を作るのであって、修行が充ればおのずから仮想敵が現れるなどと思うのはおかしなことです。そんなことが起これば妄想の病に侵されているかも知れません医者に診てもらう必要があるでしょう。

敵の動作を想定してそれに応ずる様に稽古をするもので、攻防のドラマを組み立てる様にしなければただの棒振り運動にすぎません。
そのためには、形の稽古をするとか、格闘技を研究するとか人の動きを押しはかる知識や経験値を豊富に学ばなければならないでしょう。

*次の誓約の文言は行宗先生が曽田先生に伝えたものか、何処かにあったものをここに書いたのかわかりません。
同じような文言が、どこぞの道場の壁に貼られていましたが、剣道の雑誌から抜粋したと言っていました。
恐らくこの曽田本その2にあった誓約を誰かが雑誌に転載したのでしょう。
出典が明らかではないのは困りますが、曽田本は戦後の昭和23年に河野先生に曽田先生自ら送られています。
岩田先生には太田先生の御弟子さんの中田先生から写しが送られていますのでその辺から雑誌に出たのかも知れません。

行宗先生の様な下村派の十五代宗家の言葉ならば「師の指導すに従順なるべし」も幾分か理解できますが、戦前の軍人勅諭を思わせるもので時代を感じます。
宗家でもない道場主が「俺の作った道場だから」と生半可な事で之を掲げたのでは重すぎます。
行宗先生の下村派には、業についての手附はなく、口伝口授が全てでした。
従って、正しく流派の業を習得するには「師の指導に従順なるべし」以外に方法は無いものです。
しかし、その後の流派の技の趨勢を追っていますと、師の教えそのままに従っていたとは思えないのです。
習い覚えたものを正しく伝承するには、正しく伝える技術も、文章力も必要ですし、出来るだけ癖のない動画なども有効でしょう。
文武両道も文明の利器の扱いもままならないのは口伝口授と云って嘯いています。

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2014年3月 4日 (火)

曽田本其の2を読む1表紙

曽田本其の2を読む

 1.表紙

大森流長谷川流居合術解

故 行宗貞義先生 門人 旧姓 土井

無双直伝英信流
下村派第十六代 筆山 曽田虎彦 記

*表紙は「大森流長谷川流居合術解」とあります。いずれ土佐の居合の手引を出版する意図があったのでしょう。

このブログでも紹介した事のある、曽田先生のお弟子さんであった山本俊夫先生のメモ「無双直伝長谷川英信流居合術極秘」の中に昭和18年1943年11月4日に藤並神社奉納居合の際での話で、曽田先生が「土佐居合兵法叢書」を近いうちに出版される由、話をされ昭和19年初めならんとあります。戦火厳しい折、出版は難しかったろうと思います。
昭和20年7月には高知市は米軍によって火の海だったようです。
戦後はそれどころではなかったでしょう。
余談ですが山本先生の祖先は甲斐の軍師山本勘助との事。

曽田先生が書写されたような神傳流秘書について一部分或は全部を公に出版されたものを上げておきます。

河野百錬著「無双直伝英信流居合兵法叢書」昭和30年1955年

政岡壹實著「無双直伝英信流居合兵法地之巻」昭和49年1974年

木村栄寿著「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書集及び業手付解説」昭和57年1982年

曽田虎彦先生については土佐の居合の下村派の名人として知られていますが詳しい事は知られていない様です。

曽田虎彦先生は明治23年1890年1月9日生まれ、昭和25年1950年1月9日享年60歳没と、このブログをお読みになった曽田先生のお孫様からご連絡を頂きました。

曽田先生の家系図

土井楠吉正尚-長男 久寿次郎
         -三男 亀江
         -四男 虎彦

三男 亀江先生は土井家から小藤家へ養子に出て後再び土井姓を名乗られています。
四男 虎彦先生は土井家から曽田家へ養子に出て曽田姓を名乗られた様です。

三男土井亀江先生は谷村派の谷村樵夫自康に師事し、同じく谷村派の第十六代宗家五藤孫兵衛正亮にもついていますから、谷村派の居合です。同門は第十七代大江正路先生、森本兎久身先生。
曽田虎彦先生は下村派第十五代行宗貞義先生について下村派第十六代を自負されています。
行宗先生の師は下村派第十四代下村茂市先生で同門は細川義昌先生です。
曽田先生は高知二中の時に一年から五年まで行宗先生について居合を学び、二中を卒業して高知武徳殿の助教師に抜擢されたようです。

曽田虎彦先生の直門の方は竹村静夫・楠瀬庸方・山本俊夫先生方が居られたようです。
この明治から昭和にかけては、下村派・谷村派の混線もあったようですし、師弟関係も複雑です。
河野百錬先生も曽田先生との交流もあったようで伝書を写させてもらったり業技法の教えも受けられたようです。それが「無双直伝英信流居合兵法叢書」に反映していると思われます。

私の手元にある、曽田メモ(曽田本・曽田本2)原本は、曽田虎彦先生のご長男の土居龍彦様から「自分は居合はやらないので君が持っていてくれ」と手渡された当時ご長男と職場の同僚であった中田敏之先生の手を経て、その同門の方から原本を元に此の素読を託されました。
中田先生は山本宅治先生の流れを汲む「土佐英信流」の著者太田次吉先生の御門下の方です。
「土佐英信流」は組太刀のテキストで昭和55年発行で中田敏之先生が打太刀、仕太刀は山口克夫先生です。
縁と云うのは不思議なもので、この曽田本の写しは、中田先生から蘆洲会の岩田憲一先生に渡り、岩田先生の平成元年発行の「土佐の英信流 旦慕芥考」に名士の記録として掲載されています。岩田先生が居合を始められたころには曽田先生はお亡くなりになっています。

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2014年3月 3日 (月)

曽田本その2を読むの序

曽田本2を読むの序

昨年12月31日を以て曽田本を読むを終っています。
土佐に伝わった無双直伝英信流や夢想神傳流のルーツは、この曽田本にありました。
この曽田本と同様の内容は昭和57年発行の木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書及び業手付解説」として下村派の細川義昌先生のご遺族による公開として世に出されました。

無双直伝英信流や夢想神殿流の居合は、古伝神傳流秘書に記載されていた内容がその原点であったのです。
下村派系統から公になったため谷村派系統と自負される方々は「ほかして」おられたようです。

この曽田本2は土佐の居合の下村派の曽田虎彦先生が前回の様な古伝の書写と違って明治以降に新たに復活し引き継がれて来た土佐の居合「大森流長谷川流居合術解」として書き綴られた自筆メモを読み解くものです。

曽田先生の直筆のメモを原文のまま読んだものは2012年4月10日から2012年6月30日の2ヵ月に渡って紹介させていただきました。
今回はその原文を読んで曽田本を読むと同様に現代文で解説して行こうと思います。
曽田本2は多くは戦前に曽田先生がメモされたものの綴りです。
そのままでも十分読んで意味も理解可能でしょうが新たな発見もあろうかと思います。

曽田本及び曽田本2は河野百錬先生や岩田憲一先生にもコピーが渡っていたようで、参考にされたり、挿入文とされたりしています。

この曽田本2も曽田本と一緒に剣友から原本をお預かりしたものです。
曽田先生の息子さんからある居合の先生に「私は居合をやらないから君が持っていてほしい」と渡されたもので、ペン書きによる自筆のもので、おそらくご自分で装丁されたのであろう和綴じによる小冊子です。

表紙は「大森流長谷川流居合術解」とあり、「故行宗貞義先生門人旧姓土井事無双直伝英信流下村派第十六代筆山曽田虎彦記」とあります。
曽田先生はこの曽田本及び曽田本2を出版されたかったのでしょう、弟子の山本俊夫先生に語られています。
戦争によってその思いは消えてしまった様です。

その思いは、戦後になって河野先生に送られた書写(昭和23年の頃のことで曽田先生は昭和25年に亡くなられています)が参考にされ「無双直伝英信流居合兵法叢書」になったようです。

政岡壱實先生の昭和49年発行「無双直伝英信流居合兵法地之巻」には、古伝神殿流秘書の業手附から現代居合を解説しています。巻末の古伝の組太刀は失念していたものを復元され、大いに参考になります。

曽田先生の息子さんの手を経て、伝わった曽田本・曽田本2は岩田先生の「土佐の居合旦慕芥考第3編名士の記録」として幾つかの内容が活字になっています。

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