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2014年6月

2014年6月30日 (月)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の11行違

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

11.行違
立業 柄頭にて前を突き振り返りて後を切る後を突きて前を切る

*この手附はどう解釈すべきか、行違いに柄頭で前を突き、振り返って後ろを切る、後ろを突き前を切る。ですから後ろを切ってから更に後ろを突いて振り返って前を切る。

「後を突きて」の突くは切るの過ちかも知れません。
この伝書は曽田先生の実兄土居亀江から譲られたもので他に有りませんから確認のし様が無いのです。

政岡先生はこの替え業を地の巻に乗せています。
「換え業として柄当てと同時に、左手を引いて抜刀し、体を半ば開いたまま後をふりかえり、左足を引き(右足もこれを追う)右手をのばして後の敵の胸を突き、引き抜くとふりかぶると同時に前に向きなおりつつ、右足からふみ込んで真甲から切下して終る」

*全剣連の8本目「顔面当て」が相当します。
「前進中、前後二人の敵の殺意を感じ、まず正面の敵の顔面に「柄当て」し、続いて後ろの敵の「水月」を突き刺し、さらに正面の敵を真っ向から切り下して勝つ」

行違の業名ですが古伝では神傳流秘書抜刀心持之事「行違」
「行違に左の脇に添えて払い捨冠って打込む也」

*袖摺返の様に、刀を前に抜いて、左脇に刃を外向けに左腕の上に組み、行き違い様に相手の胴を払って、振り返って上段から打ち下す。大技です。

この目録の業の動作は、古伝神傳流秘書抜刀心持之事では「連達」です。
「歩み行内前を右の拳にて突き其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振り向て打込也」

*これは同方向に前後に敵を受けて歩むうちに隙を見て、前の敵を右拳で突くのです。其の儘振り向いて後ろの敵を斬り前に振り返って前を切る。

英信流居合目録秘訣の上意之大事にはこの業名は無く、外之物の大事の「連達」が相当します。
「是亦歩行く内に向を刀の柄にて突き左廻りに後ろへふり廻る拍子に抜打に後ろを切又初柄にて突たる方を切是は我前後に敵を連達たる時の事也旅行抔のとき盗賊抔跡先つれ達時この心得肝要也」

*我を中に前後に敵と連立って同方向に歩み行く設定でしょう。ここでは柄で前を行く敵を突いています。

大江先生のこの様な業は「行違」で、曽田先生の目録と同じです。
「(進行中正面を柄頭にて打ち、後を斬り又前を斬る)右足の出でたる時(敵顔面を柄頭にて)左手は鞘と鍔を拇指にて押へ、右手は柄を握りたるまゝ前方に伸し、柄当りをなし、其足踏みのまゝ体を左へ廻して、後方に向いつゝ、抜き付け右手にて斬り、直に前方の右へ振り向き上段に斬る。」

*現代居合でも理合は変わっていないと思われますが、後ろの敵は「抜き付け右手にて斬り」ですから片手抜き打ちに斬っています。
河野先生の昭和8年の無双直伝英信流居合術全では「左方より後ろに向き、双手上段に振り冠りて後方の敵に斬り込み・・」と双手上段です。

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2014年6月29日 (日)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の10鐺返

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

10.鐺返
座業 之は行違に相手の左手をとり直に後ろに廻り鐺を取りて押倒す也

*此の鐺返は古伝神傳流秘書抜刀心持之事には相当する業名も手附もありません。
行違いに相手の左手を取って、直に相手の後に廻って鐺を取って上にあげ押し倒して固める。
行違いで座業と云うのはおかしいのですが其の儘に・・。
これは、夏原流の和(やわら)の業の様です。

英信流居合目録秘訣上意之大事「鐺返」と云うのがあります。
「座して居る時後ろより小尻(鐺)を取て押しあぐるときは刀を抜く事ならず此時相手のひざ頭を踏み其のきおいに向うへたおして抜き突くべし」

夏原流和之事捕手和之事「鐺返」
「相手の左脇を行通り我が左の手にて相手の左の手を取る右の手にて小尻を取りうつむけにおしたおし堅める」

この業の返し業は同じ夏原流和之事本手之移「支黙當」に有ります。
「鐺返の業にてかやされ止る処を我が左の足にて相手の陰嚢を蹴る」

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2014年6月28日 (土)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の9棚下

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

9.棚下
座業頭上低き所にて前方を切る(抜く時は大森流八本目順刀の如く)斬込むとき膝を突くなり

*座業だと云って居るのに、「斬り込むとき膝を突く」が理解できません。大森流順刀は現代居合の介錯です。ここは大森流八本目逆刀でしょう。
敵の打込んで来るのを立ち上がりざま、刀を上に抜上げ相手の刀を摺り落とし面に打込む業です。この斬り込む時は体をうつむけて膝を突いて斬る、というのでしょう。

之では、座業とも云いにくいのですが・・。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事「棚下」
大森流逆刀の如く立って上へ抜打込む時躰をうつむき打込是は二階下様の上へ打込ぬ心持也

*古伝は業では無く心得でした。打込むと鴨居や天井に当たるので立って上に抜いて打込む時はうつむいて斬れと云う。

英信流居合目録秘訣上意之大事「棚下」
「二階下天井の下などに於て仕合うには上へ切あて毎度不覚を取物也故に打込む拍子に膝を突いて打込むべしこの習を心得る時は脛をつかずとも上へ当たらざる心持ち有」

*上に斬り当てて不覚を取るから、打ち込む拍子に膝を突いて打込むべし。
と云う事は、立業だが打込む時に膝を突いて身を低くして打込む事で上に斬り当てないで済むと云う心得です。冒頭の棚下の手附と同じです。
次の文章は、膝を突いて打込む心得を身に着ければ膝を着かずとも上へ切り当てない様になる、と云って居ます。
是も座業の雰囲気が感じられません。

大江先生の棚下
「(頭を下げて斬る)座したる処より、頭を前方へ下げ、やや腰を屈め右足を少し出しつゝ、刀を抜き、上体を上に起すと同時に上段となり、右足を踏込みて真直に切り下す」

*ようやく座業らしい雰囲気になったのですが、せっかく体を屈めて刀を抜いていながら、上体を起して打込んだのでは、斬り当てるでしょう。
そこでこの業は棚下から身を屈して這い出乍ら刀を抜き、這い出るや打込むと現代居合は変わってきました。
棚が長くて這い出られなければ、幾度も尺取り虫をやっている事になりそうです。
古伝の心得は失念して居ます。

政岡先生の棚下は棚下での攻防です。
「前にかがみながら両手をかけ腰を浮かせ、右足をだしつつ刀を前に抜く。
左膝を右足近くまで送り、体はうつむいたまま刀をあげて左手を柄にかけ、なるべく体に近く背に負う如く振りかぶる。
両手を前下に差し出しつゝ、体をおこし、両手はそのまま握りしめながら右足を出して、手の内の冴えで切り下して終る。」

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2014年6月27日 (金)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の8壁添

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

8.壁添
(人中の事)立業 四囲狭き場所にて切る業也人中の事抜く時刀を身に添え上へ抜くなり

*この壁添の業名ですが、人中だと云って居ます。古伝神傳流秘書抜刀心持之事「人中」
「足を揃え立て居る身にそえて上へ抜き手をのべて打込む納るも躰の中に納る」

人混みで、敵を切るには、大江先生の居合では「袖摺返」がその様な場に於ける業と教えられています。袖摺返は大江先生が古伝の「行違」の替え業から創作したものだろうと思っています。
壁添の動作は古伝の「人中」其のものです。業名を、壁添にすると四囲狭き所の業に転化してしまいます。

大江先生の「壁添へ」
(進行中立留り両足を踏み揃え上へ抜き直下に斬下し竪立に刀を納む)
中央に出で体を直立とし両足を揃え刀を上に抜き上段となりて趾先を立てゝ真直に刀尖を下として斬り下し、其体のまゝ刀尖を下としたるまゝ血拭い刀を竪立として納む。

*現代居合では、場の想定が加わって、狭い十字路であったり、左右を壁で囲まれていたり、狭い処での運剣動作とさせられています。古伝は場の想定よりも敵の位置取りを優先しています。

河野先生の壁添
意義:我が前面に敵を受け、左又は右に壁ありて抜刀自由ならざる場合、刀を上方に抜き取りて敵を仆すの意なり。
前進しつつ右足を進め右手を柄にかけるや右足に左後足を引付つゝ両手を左胸部に把り、爪立ちながら刀を左上方に抜き取る。刀を抜きとるや剣先の下りたるまゝ刀身を体の左より廻して直に諸手上段に構ゆ。諸手上段より深く剣先を低く斬り下す。剣先を低く下げて血振いす。
両足は爪立ったるまゝ。刀を左上方より運び真後ろの方向に剣先を把り右拳を左胸部の前にとる。右拳を左前より左上方に退きて上より下に納刀し徐々に踵を下げて納刀を終る。

凱風先生の壁添
町角にて敵を待ちて斬る。
前進して町角に立止まり、見えざる敵の現るゝを待ち両足を踏み揃え真上に刀を抜き趾先を立てゝ真下に斬り下し、其のまゝの体勢にて血拭鞘を立てたるまゝ刀を納む。

英信流居合目録秘訣上意之大事「壁添」
壁に限らず惣じて壁に添たる如の不自由の所にて抜くには猶以て腰を開きひねりて躰の内にて抜突くべし切らんとする故毎度壁に切りあてかもいに切りあてゝ仕損ずる也突くに越る事なし就中身の振廻し不自由の所にては突く事肝要

この目録秘訣は、書かれている内容や其の位置取りから明和元年1764年に第10代の林安太夫政詡の手になるものと思っています。
此の様な伝書が維新後大江先生や研究熱心な河野先生の手元に早々とあれば現代居合の不思議なこじつけたような動作も見られなかったかもしれません。

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2014年6月26日 (木)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の7戸脇

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

7.戸脇
(両詰)坐業にて左を突き右を切る

*この戸脇も前回の戸詰も古伝神傳流秘書抜刀心持之事では「両詰」として一つの業に対し二つの動作を組み込んでありました。
それは「両詰」の業名に見られるように、左右から敵に詰め寄られる場の想定であって、
「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る
右脇へ抜打に切り付け左を斬る」
と云うものでした。

この業について英信流居合目録秘訣の上意之大事には「戸詰」と「戸脇」の心得があります。

戸詰:障子或は戸を明けかけ内へ入れと云て入る所を戸にて立詰んとするときは是を察して扇を敷居のみぞに入れ其扇のはしを膝にて敷然して内へ入るときはたて詰らるゝ事なし

戸脇:戸の手前に立って居てあれえ通れと云て入る所を切らんと心懸るならばつかつかと戸口を入躰に歩み行て柄にて胸を押しつけて然して引抜てつくべし亦火急にて既に切かけられたる時は或は柄を以てはらいのけ早わざをきかすべし亦戸の内に人ありと思わば戸口を直に入る事なく内に人の有る方に向て筋違て入るべし

このように「戸詰」「戸脇」は戸障子の有る場での心得を教えています。
大江先生は改変によって心得の業名を古伝の両詰の二つの動作に振り分けたのでしょうか。

然し、大江先生の改変なのか、江戸末期にすでに改変されていて、大江先生はそれを元に中学生達に指導されたのか解りません。
大江先生が改変されていればその理由が何らかの形で残されていたかも知れません。
江戸末期にすでに改変されていれば、其の儘伝えて行けば良いだけです。
此の処この曽田本その2の無双直伝英信流目録を読んでいますと、そんな説を唱えたくなってきます。

大江先生の戸脇
(左を突き右を切る)右足を右斜へ踏み出し、刀を抜き、左横を顧みながら突き、足踏みは其の儘にて上体を右横に振り向け、上段にて切り下す。

*この大江先生の手附の括弧内の文言は曽田先生の戸脇と「座業にて」の文言が無いだけで同じです。

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2014年6月25日 (水)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の6戸詰

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

6.戸詰(両詰)
座業にて右へ抜き付け左を切る

*この戸詰は括弧内の「(両詰)」が古伝神傳流秘書による抜刀心持之事の業です。
戸詰と云う業名は大江先生が土佐の居合を改変されるに当たり、両詰を戸詰と戸脇に分けて改変されたと思っています。
然し、この曽田本その2を読む限り、疑問を抱いてしまいます。
それは大江先生が土佐の居合を改変されたと云う経緯が明確では無く、明治以降にふっと自然に時の中学生達に伝えられているからです。
伝えられた中学生達もその後何ら不信を抱かず今日に伝わっているのです。
大江先生以前に改変は行われたかも知れません。それも何処にも其の証が無いのです。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事の両詰
抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る
右脇へ抜打に切り付け左を切る

英信流居合目録秘訣上意之大事「戸詰」
障子或は戸を明けかけ内へ入れと云う入る所を戸にて立詰んとするときは是を察して扇を敷居のみぞに入れ其扇にはしをひざにて敷然して内へ入るときはたて詰らるゝ事なし

*この戸詰は場に於ける心得でしょう。業手附とは一味違います。
現代居合の戸詰は、戸詰の呼称に拘っています。

「我が直前の左右に戸(襖などの建具)あり、其の向う側に坐する敵の機先を制し、敷居の向うへ一歩踏み込むや右の敵を抜き打ちにし、直ちに左敵に斬り下して勝の意なり」河野先生大日本居合道図譜より。

単なる左右に敵を受けての運剣に場の想定が付加され、敷居をまたいで戸襖の向うに居る敵に抜き付ける業になって居ます。
敷居を跨ぎ襖を除けての運剣は大変難しそうです。襖の開き具合が3尺、6尺・・・。

3尺では刀を前に抜きつつ戸襖の向うに踏込み、即座に体を右に向け右敵に片手袈裟に斬り付けるや、左方に振り向き諸手上段から打ち下すのです。
6尺開口とは踏み込み方が違うはずです。
中には、只敷居のみがあるだけの想定もあります。

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2014年6月24日 (火)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事5門入

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

5.門入
立業にて右足にて前を突き振り返りて後を切る尚前にも切るべし

*古伝神傳流秘書抜刀心持之事には「門入」の業名は存在しません。
大江先生が土佐の居合を改変するに当たって独創された業ではないかと思います。

或は江戸末期に古伝がいじられている事も予測されます。
何故ならこの目録が谷村派15代からの相伝であるからです。

この曽田本その2の無双直伝英信流居合目録は曽田先生の実兄土居亀江が谷村樵夫から伝授された目録で、その系統は谷村派第15代谷村亀之丞自雄に連なる、16代五藤孫兵衛正亮と並ぶ楠目繁次成栄から伝わったものです。

参考に、土佐の居合は「根元之巻」を持つ者から「根元之巻」を伝授されれば当代を名乗れるような風習がある様ですが、根元之巻は飽くまでも其の流の掟をことごとく伝授された者に与えられたもので、其の流の道統としての宗家については当代宗家より「無双直伝英信流紹統允可」が授与されるべきものです。

たとえば第20代宗家河野百錬宗家は第19代福井春政宗家より昭和25年1月に「居合術根元之巻」、及び「紹統允可」を授与されています。
「・・・・流祖並歴代宗家の神霊に諮りて茲に無双直伝英信流居合術兵法正統第20代宗家を紹統允可する者也」・・・

門入に戻ります。
英信流居合目録秘訣上意之大事「門入」
戸口を出入するの心得也戸口の内に刀をふり上て待つを計知ときは刀の下緒のはしを左の手に取刀を背てうつむきとどこおり無く走り込むべし我が胴中に切かくるや否や脇指を以抜き付けに足をなぐ可し

*古伝は心得を述べています。太刀を背中に背負って上から斬り付けられても太刀で防ぎ、戸口を走り抜けろと云います。
胴に切り込んで来る場合は、脇差を以て抜き付けに足を薙ぐのだと云うのです。

大江先生の門入
(進行中片手にて前を突き後を斬り前を斬る)右足を出したる時、刀を抜き、左足を出して、刀柄の握りを、腰に当て刀峯を胸に当て、右足を出して、右手を上に返し、刀刃を左外方に向け、敵の胸部を突き、其の足踏みのまま体を左へ振り向け、後へ向き、上段にて斬り、直に右へ廻り前面に向き上段にて斬る。

*大江先生の門入が古伝の名残だとすれば、右足を踏み込んで前の敵の胸部を刀刃を左に向けて、右手の甲を下にして突いています。
その足踏みのまま後ろに振り向き、後ろの敵を上段に斬り、その足踏みの儘振り返って前の敵を上段より切下す。

前後に敵を受けた状況で門入と云う業名に相当する場の状況による運剣操作は特にありません。
現在の突き手の有り方は、甲を上にして、刃を右向きに腕の下に柄を入れた突きをしています。
大江先生は甲を下に掌を上にして、刃を左向きにして突くのです。

足踏みは、右足を踏み替える動作もないのですが、敵との間合いによっては大江先生の足踏みも充分稽古して置くものでしょう。

現代居合は「門入」と云う業名に反応して敷居、鴨居などを意識した特定の運剣を要求されますが、大江先生の時代では、是は歩行中前後に敵を受けた場合の攻防としてあったものでしょう。
戸詰・戸脇などと同様に特殊な場のみを意識すべきものではなさそうです。

其の流派のテキストによって評価される場合は、その流派の形を充分演じられる事が評価を得る事になるもので、決してそれで敵との攻防が常に勝利に終わるなどと云う事はありえないでしょう。

基準は何時でも変わってもおかしい事では無いので、ある業の動作は場の想定、敵の想定によっていくらでも変化し、己の力量によって其の時の最も有効な運剣も即座に決まる筈です。
業技法の良し悪しで勝ちが決まるものでもないはずです。まして特定の「かたち」では喧嘩慣れした者に「いちころ」でしょう。
師匠の教えは有る特定の場面の一つかも知れません。古伝は大らかです。
勝つための工夫は己の中にあるものです。
居合は「何時如何なる事にも応じられる」処に修行の価値があるのでしょう。

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2014年6月23日 (月)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事3四角

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

4.四角
立業座業にて左後を突き右後ろを切り請ながら左斜前を切り右斜前を切る。

*立業、座業共通の業と云う事でしょう。
この四方は、×の交点に我は居て、右斜め前に刀を抜いて左斜め後の敵を刺突し、其の体勢で左斜め前・右斜め前・右斜め後と乳通りの右回転で廻り、右から振り冠って右斜め後ろの敵を斬り、再び右より振り冠って、左廻りに廻りながら右斜め前の敵を受け流し、左斜め前の敵を斬り、左より受け流す様に振り冠って右廻りに右斜め前の敵を斬る。

或は、左斜め後ろの敵を刺突し、右斜め後ろに右廻りに振り返って片手袈裟に右後ろの敵を斬り、右より振り冠って左廻りに右前の敵を受け流し、諸手にて左斜め前の敵を斬り、上段に振り冠って右斜め前の敵を斬る。

三角と同じならば前者でしょう。後者は21代の替え業に敵を十文字に受けた状況で収録されています。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事四角
抜左の後の角を突き右の後の角を切右の向を請流し左の向を切又右の向を切る也

英信流居合目録秘訣上意之大事四角
三角にかわる事無し是は前後左右に詰合う之心得也故に後ろへ迄まわって抜付る也

*これは心得と云って居ますので、三角で学んだように、深々と一人づつ切ろうとしないで抜き打ちに紋所の辺りを切先外れに払い、敵がビクとしている間に仕留める心得です。
「後ろへ迄まわって抜き付ける也」ですからここの場合は十文字の交点に我は居るので、先ず左の敵を刺突し、其の儘切先外れに前の敵に斬り付け其の儘右敵、後敵にまで廻って抜き付けて、敵がビクとして怯んでいるうちに、右から振り冠って後敵を諸手上段に斬り。再び右から振り冠って、右敵を受け流し前敵を斬り。右敵を切る。

特に斬り方の指定がありませんから、先ず前敵を抜き打ちに横一線に抜き打ちに斬り、其の儘右敵、後敵に斬り付け敵怯む処を後ろ敵を真向に斬り。右敵を受け流しておいて左敵を真向に斬り、右敵を真向に切る。も有でしょう。

演武で正面で終わりたければ、左敵を刺突し、後敵を片手袈裟に斬り右敵を真向に斬り、前敵を真向に斬る。ですが仕損じて前敵に斬られる可能性が高そうです。

後敵を先ず刺突し左から振り冠って左敵を受け流し、右敵を諸手上段から斬り下し、振り返って左敵に打ち下し、前敵を真向に切る。
にたようなもので仕損じる可能性は高そうです。

セオリー通り稽古を積んで、変化に応じる工夫を学ぶものでしょう。

大江先生の四方切
右足を出し、刀を右斜に抜き、刀峯を胸の処に当て、刀を平として斜に左後を突き右側面の横に右足を踏み替え、上段にて切り、右足を左斜横に踏み変えて、(受け返して打つ)上段となりて切り、右足を正面に踏み変えて、上段より切る。

*敵の位置が変形で後方の敵は左斜め後ろのみです。右後ろに敵は居ません。
このポイントは左後の敵を刺突するや即座に右前の敵を切り下し、右から受け流す様に振り冠って前敵の攻撃を押えておいて左斜め前の敵を斬り下し返す刀で正面の敵を切る。その素早い体の変化でしょう。

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2014年6月22日 (日)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事3三角

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

3.三角
立業にて長谷川流八本目「浪返」に似て抜きて刀を身に添え右廻りに正面へ払い打後真向へ打込む也

*この三角は居業では無く立業になって居ます。
この谷村樵夫から土居亀江に渡った無双直伝英信流目録にしか見られないものです。
ついでにこの目録では、前回の両詰、今回の三角、次回の四角なども立業としています。

古伝神傳流秘書による抜刀心持之事「三角」
「抜て身を添え右廻りに後へ振り廻りて打込也」

*座業の扱いです。敵の配置は不明確ですが、三角から三人の敵に詰め寄られた場合の攻防でしょう。
正面に一人、後ろに左右一人ずつの三人、或は前左右と後いずれも対応可能です。
現代居合では大江先生が置き去りにしてしまいましたので業に組み入れられていません。

英信流居合目録秘訣による上意之大事「三角」
「三人並び居る所を切る心得也ヶ様のときふかぶかと勝んとする故におくれを取る也、居合の大事は浅く勝事肝要也三人並居る所を抜き打に紋所のあたりを切先はずれにはろうときびくとするなり其所を仕留る也三人を一人づつ切らんと思う心得なれば必仕損ずる也一度に払うて其おくれに附込て勝べし

夢想神伝流にはこの業が奥居合居業の5本目に有ります。檀崎先生の三角
「三人の敵に対し、先ず前、右、左と敵に負傷させながら、左、右、前と斬り下して勝の意である。
正面に向って立膝に座し、刀に両手をかけて抜付けに前敵に斬付けながら右に廻り、右側敵を斬り、直ちに返し刀となってきた道を返るようにして更に三人に負傷させ、左より請け流しに冠って左側敵を斬下し、次に後右側敵を斬下し、更に左正面敵を斬下して血振り納刀する。」

*古伝の運剣か否かは解りませんが、正面に抜付け、其の儘右敵に振り廻る、刀を返して再び右敵、正面、左敵と水平に左廻りに薙ぎ払い、左から振り冠って左敵を真向に切る。

同じ夢想神伝流の山蔦先生の三角は大江先生の戸詰です。我が前の左右に戸(又は襖)がありその陰に敵が潜んでいる想定です。我を含んでの三角(みすみ)です。右敵に抜き付け、直ちに右側から請け流しに振り冠って右膝をつき左膝を立て足を踏み替え左敵を斬る。
之は古伝とは聊かイメージが違います。

下村派の細川義昌先生系統と思われる白石元一先生の三角
「(前右後の三方の敵に対して行う)右足を踏み込んで刀を抜き右足を引き付けて右手を左肘の上から交叉させて後方の敵を刺す、更に右足先を軸に左足も従って後方に退き乍ら180度右方に廻り、前右後方の三人を一時に薙ぎ斬りし、正面に振り返り真向に斬り下す。」

*三角のそれぞれでした。冒頭の曽田先生の手附の立膝の「浪返に似て」はどうもイメージし難いのですが・・・・。

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2014年6月21日 (土)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事2両詰

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

2.両詰(向詰)
立業柄を臍にとり前を突き切る。座業にもあり。

*両詰は古伝の向詰と云うのです。之は大江先生の命名した業名でしょう。立業だが座業にもあり。と云います。
刀を抜出し臍前に構え、前の敵を刺突し上段に振り冠って真向に切る。

古伝神伝流秘書抜刀心持之事では向詰であって、しかも座業の3番目に位置します。
「抜て諸手を懸け向を突打込也」

その他に之に類する業が見当たりません。立業を主とするものも見当たりません。
向詰と云う業名の由来は、正面に対座する敵と相対する業だと云うのであって、両詰は左右に敵を受けた場合の業と云う事なのです。

大江先生はこの向詰である相対した敵との攻防を、両詰めと云う左右に敵を受けた場合の攻防への名称と変えてしまいました。その理由は不明です。

大江先生の奥居合居業の7番目は両詰
(抜放け諸手にて真向を突き斬る)坐したる処より右足を少し出して、刀を抜き、柄元を臍下に当て、右足を踏み出して、前方を諸手にて突き、其の姿勢のまゝ、上段にて前面を真向に斬る。

河野先生が古伝を知りえたのが、曽田先生から譲られた神傳流秘書類の写し書きでしょう。
昭和23年6月にこれらの写しを送られている様です。
そして曽田先生の他界された(昭和25年)4年後、昭和29年に曽田本を無双直伝英信流居合兵法叢書として発行されています。
昭和17年の大日本居合道図譜では古伝を知らなかったためか、或は知って居ても大江先生に権威を払いこの「両詰」の解説は以下の様です。

奥居合之部奥居合居業7本目両詰
意義:我が両側に障碍ありて、刀を普通の如く自由に抜き難き場合にして、刀を前に抜き取り前敵を刺突して勝の意也。

*場の想定が左右に障碍ある場合になってしまい、相対する敵との攻防はともかく、狭い場所の意識を強く印象つけられています。
ですからそのような場所での抜刀、刺突、横血振り、納刀とも我が躰の内を意識した動作となります。

右手を刀にかけるや刀を前に抜き取りて青眼に構ゆ。右足を踏込み(左膝も進め)て刺突し、刀を引き抜く心持にて上体を進めて諸手上段に冠り敵の真向に斬り下す。血振い納刀する事同じ。

*此の業のポイントは22代のテキストに場の想定を強く意識して述べられています。
刀の抜き懸けは我が左半身の裡にて実施する。
血振いは通常の如くで可とするも、少し狭めるのも可なり。
納刀時には本業の剣理より鑑みて鞘を前方(体正中線と平行に)に立て、納刀も我が上体前面正中線と平行に近く立てて納刀するを可とする。

大江先生も河野先生も刺突の部位については特に述べられていませんでしたが22代は特定されています。

「青眼に構えたる時、丹田に気を充実し気迫溢るゝ心地を持ち、柄頭は我が臍の前一拳位の処にあり、左右柄手掌中を内に絞る心地にて柄を握り、剣先は我が喉元の高さ(対敵の喉元の高さ)に保つ事肝要である。
刺突する時、我が顎を引き締め、目線は前の敵を直視し、刺突する剣先は対敵の上胸部より喉元に達する如くなすべし。」

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2014年6月20日 (金)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事1虎走

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録3上意之大事

1.虎走(抜口の鞘口の外に見えざる様大事也)
座業にて小走に進みて抜付けて切り納刀退きつゝ抜付け切る

*此の伝書は「実兄土居亀江が恩師谷村樵夫先生より伝授せられたるものを写したるもの也」
とこの無双直伝英信流居合目録の冒頭に有りました。
ですから、曽田先生の実兄の土居亀江の残した伝書なのでしょう。
谷村樵夫自庸と云って谷村派第15代谷村亀之丞自雄の系統で16代五藤孫兵衛正亮の兄弟弟子楠目繁次成栄の弟子に当たります。
大江先生は、五藤先生の後をついで第17代と云う事になります。
曽田先生の実兄土居亀江は谷村派なのです。
従ってこの目録の業は谷村派の系統で大江先生の業名としばし混線します。

古伝神伝流秘書の抜刀心持之事虎走
居合膝に座して居立って向へ腰をかがめつかつかと行抜口の外へ見へぬ様に抜付打込納又右の通り腰をかがめ後へ引抜付打込也

古伝の上意之大事は英信流居合目録秘訣に依る虎走
仕物抔云付られたる時は殊に此の心得入用也其外とても此心得肝要也敵二間も三間も隔てゝ座し居る時は直に切事不能其上同座し人々居並ぶ時は色に見せては仕損る也さわらぬ躰に向うえつかつかと腰をかがめ歩行内に抜口の外へ見えぬ様に躰の内にて刀を逆さまに抜きつくべし虎の一足の事の如しと知るべし大事とする所は歩みにありはこび滞り無く取合する事不能の位と知るべし

*上司から成敗を命じられた時にこの心得は入用なものである。其の外の事でも此の心得は大切である。2間も3間も離れた処に、座して居る相手を討つには切る事は出来ない。其の上同座する人々が居並ぶ時には、討つ事を色に出しては仕損じるものである。何ともないように向うへつかつかと腰を屈め歩み行き、抜口が見えない様に躰の内で刀を逆さまに抜付けるべきである。虎一足の如くと知るべきである。大事な処は歩み方である。足運びは滞り無く取合って来られることは出来ない様にする事である。
こんな心得です。
それを業として稽古するのが「虎走」です。心得の如くスカスカ歩み寄って抜き付け、真向に打ち下す、納刀して戻る処、気が付いた者が追って来るので後退し、抜き付け、打ち下す。

大江先生は土佐の居合の改変に当たりこの虎走りの業を奥居合居業の8番目に置いています。
(中腰となり、走り抜斬又後ざりして抜斬る)
座したる処より柄に手を掛け、稍腰を屈め、小走りにて数歩進み出で、右足の踏み出したる時抜き付け、同体にて座して斬る(血拭い刀を納むるや)刀を納めて二、三寸残りし時屈めたる姿勢にて、数歩退り左足を退きたる時中腰にて抜付け上段となり座して斬る。

*古伝の心得は感じられません。

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2014年6月19日 (木)

曽田本その2を読むの3の2目録の2外之物之大事6霞

曽田本その2を読む3

2、無双直伝直伝英信流居合目録の6

外之物之大事

6.霞(向払)座業にて一本目の如く横一文字に抜き付け同時に返し更に切る。

*この霞は、古伝神傳流秘書抜刀心持之事「向払」の業に相当します。
向へ抜付返す刀に手を返し又払いて打込み勝

霞については前回(2014年6月17日)の処で、雷電・霞八相として心得が英信流居合目録秘訣に有ります。
この「霞」の業名も大江先生が改変された、向払を霞とした業名でしょう。

大江先生の霞
正面に座して抜き付け、手を上に返して左側面水平に刀を打ち返す、直に上段となりて前面を斬る、血ぬぐいはよく、刀は早く納める事。其刀身を鞘へ六分程早く入れ、残りは静に体の直ると共に納むるものとす、以下之れと同じ。

*大江先生の業も正面に抜付け、打ち返して、真向に切って居ます。「血ぬぐいはよく」とはそのまま読んでしまえば、「血拭いはしないで良い」、其の儘納刀しなさい、刀刃素早く六分程鞘に入れて後は静に体勢を整えながら納める、以下の業は之に準じる。と云う様に思えます。奥居合居業は「血ぬぐいはよく」ならば奥居合立業も「血ぬぐいはよく」かと思えば、さっそく立業の一本目行連には「・・・上段にて中腰にて斬り、同体にて血拭い刀を納む(血拭い刀納めは以下之と同じ)」と書かれています。
恐らく誰も無双直伝英信流居合に関して「血ぬぐいはよく」とはしていない処を見ますと此処は「血拭いはやく(血拭い速く)」の誤植でしょう。

古伝も大江先生も、抜き付け及び返す刀で何処を切るのか指定して居ません。其の時最も有効な部位に即座に斬り付けるのは当然の事です。

次回は無双直伝英信流居合目録「上意之大事」です。

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2014年6月18日 (水)

曽田本その2を読むの3の2目録の2外之物之大事5雷電

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の5

 外之物之大事

5.雷電
立業にて之は大剣取の内にあり此の太刀打は和之傳に有り(切先を地につけ敵をおびき出して切る(暗打))

*雷電は立業であって、この業は大剣取の中にある、と云います。太刀を打ち合うのは和之位に有る。と云うのです。
和之傳とは夏原流和之事かも知れません。それらしき業を見つけられません。

切先を地に打ち付けておびき出して切るのだろうとメモ書きされていますが棒線で消しています。曽田先生も迷っているのでしょう。

古伝神傳流秘書の大剣取「雷電」
相手高山我左の脇へ切先を上構え行時打込む処を留勝又相手車にかまえる時に我切先を下げて行也

*古伝の雷電は敵は上段に構え我は左の脇へ切先を上に構え行く時、相手打込んで来るのを留めて勝也。
又相手車に構える時に我が切先を下げて行くのである。

この大剣取の「雷電」は政岡先生の「地之巻」に有りますから覗いてみます。
「上段に対しては右足を引いて体を開き物打の峯に左手をかけ右拳を右腰に当て剣尖を高く構える。車に対しては左足を踏み出して刀を水平に構える意ならん。尚「打込処を留勝」となっているが6本目の如く右足をふみ込んで額前で受け止め直ちに左足をふみ込みつゝ右にすり落し左足からふみ込んで水月をつくべきである」

6本目「栄目」を参考に「相手高山我切先を左へさし胸へ横にかまえ行相手打込を切先に手を添え請け入る」
打ち込まれたので額前で十文字に左手を物打辺りに添えて刃で請け、右にすり落すのです。
大剣取に同じような業がある事が気がかりです。

*「我は左の脇へ切先を上げて構え行く」の処が気になります。柳生新陰流に九箇の太刀にある5本目「捷径(しょうけい)」に似た業があります。「左手で柄を持ち、右手で太刀中を親指と食指の間で挟み・・」ですと、「左の脇へ切先を上げ・・」が出来るのですが、何々でなければならない、などの事は現代のマニュアル人間の事ですから古伝は大らかに。

英信流目録秘訣の外之物の大事の雷電・霞八相
「雷電霞の二ヶ条当流極秘中の秘にして大事この外に無し請流に心明らかにして敵の働きを見と云教有れども当流には雷電の時の心又霞ごしに見るが如くの心の所に大事の勝ある事を教る也
夢うつゝの如くの所よりひらりと勝事有其勝事無疵に勝と思うべからず我身を先ず土壇となして後自然に勝有其勝所の敵は拳也委しき事は印可に有
八相は四方八方竪横自由自在の事也故に常に事形の修練熟せざれば時に臨て其習い出る事無し
本文には教を広く云又曰八相に打下ろす所にて大事の勝有則二星也
1、大小詰之極意は蹴込につゞまる夫れとは敵の眼を我手を以払う敵おくるゝ所にて勝
手うごかし難きときは我頭を敵の顔に突付べし又は足にて敵の陰嚢を蹴る也
1、詰合は二星につゞまる敵之拳也二星一文字と云う時は敵のこぶしを抜払う事也総じて拳を勝事極意也」

*この雷電・霞八相は極意を述べた心得です。この辺りは新陰流の雰囲気が漂ってきます。

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2014年6月17日 (火)

曽田本その2を読むの3の2目録の2外之物之大事4惣捲

曽田本その2をよむの3

 2、無双直伝英信流居合目録の2

 外之物之大事

4.総捲(五方切)
立業にて横面、肩、胴、腰、真向を切る(切り返し)

*総捲と云う業名は古伝の五方切に大江先生が改変に当たり改名された業名と思うのですが、曽田先生の下村派でも使用している様に思います。
ここは谷村派の15代谷村亀之丞自雄―楠目繁次成栄―谷村樵夫自庸―土居亀江(小藤)曽田先生の実兄に伝わったものでその目録の写しなのです。

この総捲の手附では稽古は出来そうもありません。
古伝神傳流秘書の抜刀心持之事五方切
歩み行内抜て右の肩へ取り切又左より切又右より切又左より切段々切下げ其儘上へ冠り打込也

英信流居合目録秘訣の外之物の大事では惣捲形十です。
竪横無尽に打振て敵をまくり切る也故に形十と有也常に稽古の格には抜打に切り夫より首肩腰脛と段々切り下げ又冠り打込也

*古伝は大らかです、現代居合にこの大らかさで形を演じたらどうなってしまうでしょう。

ここは大江先生の総捲から古伝を忍んでみます。
総捲り(進行中面、肩、胴、腰を斬る)
右足を出して、刀を抜き、其足を左足に引き寄せ、右手を頭上へ廻し、右肩上に取り、左手を掛け稍や中腰にて(右足より左足と追足にて)敵の左面を斬り、直に左肩上に刀を取り、追足にて敵の右肩を斬り、再び右肩上に上段となりて、敵の左胴を斬り、再び左肩上段となり右足を踏み開き敵の右腰を目懸け刀を大きく廻し体を中腰となして敵の右腰を斬り、中腰のまゝにて上段より正面を斬る、(左面斬り込みより終りの真面に斬ることは一連として早きを良しとす)

*大江先生の総捲りもすでに失念した動作かも知れません。
この業は捲り切りでしょう。一人の敵を斬りきざむ又は次々に来る敵を斬るとも取れます。
設対者を置いて斬り込む稽古では相手は木刀で受け乍ら後退してもやむおえません。
然し空間刀法では、ここはしっかり斬り込み切り返すのでしょう。
刀の構えが「右肩上に取り」「左肩上に取り」とあり次に「右肩上に上段となり」「左肩上段となり」とあります。是は八相、逆八相、或は八相から上段、逆八相から上段なのでしょう。
現代居合の方法では理解不明です、この辺りに土佐の居合の姿があったかもしれません。

河野先生の昭和17年大日本居合道図譜による総捲
敵前面より斬込み来るを、我れ抜刀しつゝ一歩退き敵刀を摺落しつゝ上段となり、敵の退く所を追撃して勝の意にして又多数の敵を追撃する刀法なり。

前進し乍ら右足の出たる時刀を水平に抜きかけ、敵刀を受流し乍ら右足を左足に退き付け上段となり敵の退くに乗じてすかさず右足を踏込み敵の左面に斬り付ける。
次に左面に斬込みたる刀の途より上段に冠りながら右足を踏込むや(左足も連れて)敵の右肩より袈裟に斬り込む。
次に同要領にて上段となり右足を踏込みて(左足も連れて)敵の左胴に斜に斬込む。
次に同要領にて上段より刀先を左方に廻し刃を前に水平に構えるや右足を深く踏込み(左足は其位置に)乍ら体を沈めて腰部に斬り込む。
上段となるや直に右足より踏込む心持にて敵の真向に斬下す。

*大江先生の「右肩上に取り」或は「左肩上に上段」の処は、総て上段に構えてから左面・右袈裟・左胴・腰車に移行します。
時代背景から、学校教育による竹刀剣道の運剣操作が取り入れられています。

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2014年6月16日 (月)

曽田本その2を読むの3の2目録の3外之物之大事3遂懸切

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の3外之物之大事

3.遂懸切 
立業にて(大森流10番と同じ)之は刀を抜き霞みて追懸け右足にて突きを見せ冠りて切る。

*大森流10番と同じと括弧書があります。大森流10番は虎乱刀です。
現代居合では大江先生の改変された業名では正座の部「追風」です。

古伝神傳流秘書の大森流之事10番虎乱刀
「是は立事也幾足も走り行く内に右足にて打込み血震し納むる也但し膝を付けず」

この古伝の虎乱刀の方法は刀を鞘に納めたまま敵を追い進むのか、抜いて進むか解りません。打込みですから、走り行きて諸手で真向打ち下すのでしょう。或は右足を踏み込んで片手袈裟かも知れません。
いずれにしても一刀で切り込んで血振り納刀です。

神傳流秘書は文政2年1819年に山川幸雅が書写したものです。
より古い安永5年1776年に林 政成が書いた「英信流目録」を安永5年1852年に谷村亀之丞自雄が書き写しています。
この目録は歯抜けで土佐の居合が居合心持引歌・棒・小太刀之位・大森流しか残って居ないので残念です。
曽田先生が昭和23年6月?に大阪河野稔へ伝授したり。と添え書きがあります。
河野先生の無双直伝英信流居合兵法叢書昭和29年発行の第3編P99以下に大森流居合之位として記載されています。

其の大森流居合之位の虎乱刀
「是は立てスカスカと幾足も行て右の足にて一文字に抜き付(払うてもよし)かむる時左の足一足ふみ込右の足にて打込む血ぶるいの時左をみぎの足に揃納る時右の足を引納其時すねはつかぬ也

谷村樵夫自庸から土居亀江が伝授された「遂懸切」と大森流10番虎乱刀は追い掛ける事は似ていますが別ものでしょう。
この虎乱刀は現代の追風が其の儘です。
何時の時代にも「あーだこーだ」口角泡を飛ばし論じ合ったかもしれません。

「遂懸切」の有り様は英信流目録秘訣の外之物の大事に残されています。
「刀を抜我が左の眼に付け走り行て打込但敵の右の方に付くは悪しゝ急にふり廻りぬきはろうが故也左の方に付て追かくる心得宜し」

*遂懸切は、刀を抜いて霞の構えにして切先を我が左目の方に向け、追い掛け、間境に入れば、右足を踏み込んで突きを入れ敵退き外す処を、我は、右足に左足を引き付け上段に振り冠って諸手上段から右足を踏込み真向に打ち下す。

面白いのは、敵の右の方から攻めてはいけないと云う処でしょう。設対者を置いてやってみるのも一興です。

以下次号とします。

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2014年6月15日 (日)

曽田本その2をよむの3の2目録の2外之物之大事2連達

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の2外之物之大事

2.連達 立業にて左を突きて右を切る

*この連達は大江先生の土佐の居合を改変された業名を使っています。業の方法も現代の連達でしょう。
年代的には谷村樵夫自庸は大江正路先生とダブります。
この時代土佐の居合も失念寸前であったでしょうから谷村樵夫自庸は傍系ですから大江先生の改変を取り入れたかもしれません。

古伝英信流居合目録秘訣の外之物之大事の連達
「先跡 是亦歩行く内に向を刀の柄に而突き左廻りに後ろへふり廻る拍子に抜打に後ろを切又初柄にて突たる方を切是は我前後に敵を連達たる時の事也旅行抔のとき盗賊抔跡先つれ達時此心行肝要也」

是は大江先生の現代居合の行違でしょう。
曽田先生の連達は古伝では行連の替業です。

この辺は面白いのでゆっくり行きます。以下次号へ。

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2014年6月14日 (土)

曽田本その2を読むの3の2目録2外之物之大事1行連

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の2外之物之大事

1.行連 立業にて右へ抜き付け左足を踏み替え左を切る

*この手附の行連は足捌きが現代の行連と違うようです。現代は右足を右に踏み込んで、右敵を抜き打ちに片手袈裟に斬って、左足を軸に右足を左に踏み込んで左の敵を斬ります。
是は、右足を踏み込んで右敵に抜き付け(片手袈裟か横一文字か解りません)、左に振り返り、左足を左敵に向け(踏み替え)左敵を斬る。
左右の敵でも左前、右前でも大した違いでは無いでしょう。抜き打ちの「抜き付け」の刀法は場の状況次第でしょう。

古伝英信流目録秘訣の外之物の大事による「行連」
「(右を片手打に左を諸手にて切る事も有是は皆気のりにてする心持也)歩み行く中ちに刀を抜我が左の方を突其儘冠て右の方を切是は敵を左右につれたち行く時の事也或我を左右より取こめんとする時抔の事也」

古伝英信流目録秘訣は江戸時代後期の1800年頃のものでしょう。
この曽田先生の無双直伝英信流居合目録は曽田先生の実兄土居亀江が谷村樵夫自庸より伝授されたもので明治後半のものですから100年以上の時代差があるでしょう。
通常目録は業名のみですからこれでも良い方でしょう。

2.連達 立業にて左を突きて右を切る

*この連達は大江先生の土佐の居合を改変された業名を使っています。業の方法も現代の連達でしょう。
年代的には谷村樵夫自庸は大江正路先生とダブります。
この時代土佐の居合も失念寸前であったでしょうから谷村樵夫自庸は傍系ですから大江先生の改変を取り入れたかもしれません。

古伝英信流居合目録秘訣の外之物之大事の連達
「先跡 是亦歩行く内に向を刀の柄に而突き左廻りに後ろへふり廻る拍子に抜打に後ろを切又初柄にて突たる方を切是は我前後に敵を連達たる時の事也旅行抔のとき盗賊抔跡先つれ達時此心行肝要也」

是は大江先生の現代居合の行違でしょう。
曽田先生の連達は古伝では行連の替業です。

この辺は面白いのでゆっくり行きます。以下次号へ。

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2014年6月13日 (金)

曽田本その2を読むの3の2目録の1業名

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の1業名

此の伝書は実兄土居亀江が恩師谷村樵夫先生より伝授せられたるものを写したるもの也。

(昭和20年7月4日午前2時高知市空襲家財諸共焼失したり)

◎本伝書二巻は別に蔵す。本書と共に得難きものなれば大切に保存し後世に伝うべきものとす。 虎彦記 筆山

*後世に伝えるべきものと仰いますがその存在は不明です。この曽田本が唯一のものだろうと思います。この目録には大森流は含まれておりません。
曽田先生の実兄土井亀江は無双直伝英信流居合術系譜によりますと以下の様になります。

11代大黒元右衛門清勝―12代林益之丞政誠―13代依田萬藏敬勝―14代林弥太夫政敬―15代谷村亀之丞自雄―楠目繁次成栄―谷村樵夫自庸―土居亀江

―16代五藤孫兵衛正亮―17代大江正路子敬

宗家筋とは異なる様ですが、谷村派の系統となります。

1.向身 横雲・虎一足・稲妻

1.右身 浮雲・山下し

1.左身 岩浪・鱗返

1.後身 浪返・瀧落

四方切 向・右・左・後

太刀打之位(9本) 出合・附込・請流・請込・月影・絶妙剣・水月刀・独妙剣・心明剣

*太刀打之位は古伝神傳流秘書の太刀打之事と順番や文字が異なります。
出合・附入・請流・請入・月影・水月刀・独妙剣・絶妙剣・心妙剣・打込

詰合之位(10本) 八相・拳取・岩浪・八重垣・鱗形・位弛・燕返・眼関落・水月刀・霞剣

*この詰合之位では眼関落の業名は古伝神傳流秘書の詰合では柄砕です。

大小詰(8本) 抱詰・骨防・柄留・小手留・胸捕・右伏・左伏・山影詰 

*この業は古伝と同じ順序です。

大小立詰(6本) 〆捕・袖摺返・鍔打返・骨防返・蜻蜓返・乱曲

*この大小立詰は古伝と順序が異なります。
袖摺返・骨防返・鍔打返・〆捕・蜻蛉返・乱曲・電光石火

以下次号とします。

 

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2014年6月12日 (木)

曽田本その2を読むの3の1系譜の5

曽田本その2を読むの3

 1、無双直伝英信流居合術系譜の5

11.大黒元右衛門清勝

12.松吉貞助蔵雅(下村派)

13.山川久蔵幸雅(下村派)

14.下村茂市定

15.行宗貞義

  .曽田虎彦

  .竹村静夫

*この系譜については、曽田先生の独断もあるかも知れませんが、公に明らかにされたのは曽田先生が始めかも知れません。

この系譜は岩田先生の土佐の英信流旦慕芥考平成元年発行に「無双直伝英信流居合術系譜 曽田虎彦記」となって記載されています。
曽田先生の整理された時代が、戦前の昭和初期までの系譜でした。
大江先生の根元之巻発行から多くのこの流を修めた方による分派が発生しその系譜は複雑です。
今後系譜の研究は過去もさることながら現在の状況を調べて正しい系譜を認知できなければ、いくらでも道統を名乗る事になりつつあるようです。

そんなことよりも、この土佐の居合の業技法が正しく伝承されるのでなければそれは幻です。

系譜を終ります。

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2014年6月11日 (水)

曽田本その2を読むの3の1系譜の4

曽田本その2を読むの3の1

 4、無双直伝英信流居合術系譜の4

10代.林安太夫政詡

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3(2012年6月19日)

平尾道雄

林六太夫守政は居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸でなかったから、別に師匠役などの任命はなかった。
併し個人として之を門弟に授けた為に、此以後長谷川流居合は小栗流無害流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。

六太夫の子安太夫政詡を経て、六之亟(*丞か)政長、其弟益亟政誠(*益之亟政誠か)、彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝えている。
益之亟政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であろう。
六太夫の二男脩之亟正晴は、甚三郎と改め小栗流師家足達茂兵衛正藹の後を継いだ。
益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政十三年正月廿二日(1830年)其技を以て特に召出され、三人扶持御馬廻末子に列し、屢々(*しばしば)藩主豊資公の感賞に与ったが、後池田和太夫と改名、天保二年七月十八日(1831年)に病死して、後は断絶した。

楠目成徳の「手抄」二十四巻には「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀術を伝え、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書二十五巻には「文政の頃林八郎次(彌太夫の弟歟(か))と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次々々々と諸人と賞誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云えり」と見て居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝寿と云う者が妙手であった。
槍術家の新国彦九郎に一寸計の杭を二本の指に挟ませて置いて之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云う。
御小姓格渋谷彌五兵衛勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和九年五月十日(1772年)を以て病死した。
林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。

林彌太夫(政敬)先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。
皆大男にて、左平太が業前は業小なれども豪気なる居合也。
彦八は業大きく行込み、強く練熟したり。
亀之丞先生も彦八氏と同じくて上手也。彦八氏、亀之丞氏とは業前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立んことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄二十五)

亀之丞は谷村久之丞自熈(*じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保八年(1836年)稽古扶持として三人扶持を賜った。
同十五年(1844年)には同流の芸家として取立てられ、文久二年(1862年)にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

*ここの処も、曽田先生のスクラップから平尾先生の文章を引用させてもらいました。
曽田本の老父物語から始まる林六太夫守政の言葉を林安太夫政詡がしるしたもので、土佐の居合の真髄が見られるものでした。(2013年8月12日曽田本を読む居合兵法極意秘訣)
是は土佐の居合が整理され、まとめ上げられています。神傳流秘書だけでは解らない部分も解説され居合の有り様を示したものでした。

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2014年6月10日 (火)

曽田本その2を読むの3の1系譜の3

曽田本その2を読むの3

 1、無双直伝英信流居合術系譜の3

8代.荒井勢哲清信

*長谷川英信の後の荒井勢哲清信についても解りません、

9代.林六太夫守政
(以下土佐人なり 曽田メモ)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて(2012年6月18日)

平尾道雄

同流に関して土佐に伝えられる文献は、私の知る限りに於て、林安太夫の話しとして南路志七十一巻に収められた次の一節である。

無双流の居合は、林崎甚助重信より始まる。
林崎は北條五代目に仕え、此流を以て後太閤秀吉御学被る成り、無双流と云う名を始めて御附け被せ成しと也。
其後塙團右衛門に伝わり、團右衛門より長谷川内蔵助に伝え、内蔵助より荒井勢哲に伝え、夫より子の勢哲に伝え、夫より近年の平作に伝え、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。(*下線部分、平作は大男で無邪気に医者などの切る羽織を着る・・意味不明です)
権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。
右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の創術鍛錬の由云々。

真偽は別として、先ず上述の如くである。
その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信七代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神伝英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱う」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであろう。
神伝重信流に神影流の古流五本の仕形を加えて大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行われて居ると云う。

長谷川流居合を土佐に伝えたのは上述の如く林六太夫守政である。
林氏の先祖は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕え、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。其子兵部政勝戦死した為、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曽我部氏に仕え、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
其子市兵衛政良初めて林氏を称し、山内家に仕えた。
延宝三年四月晦日(1675年)政良病死後、同年五月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行八十石、格式新御扈従、御料人頭と云う父の職禄も其儘承けたものである。

豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗う手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せじめたと云う逸話も残って居る。
よろず才能に秀でて、本職の包丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲樂皷の末技に至るまで諸芸十六般を極め、孰れも人師となるに足りたと云う。
就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其の奥を極め、縷々典礼に関する書付を上って、其都度感賞に与り、元禄十年(1697年)には加増二十石、同十六年(1703年)には更に五十石を加えられて、都合百五十石を賜り、宝永三年には大御御扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
正徳二年(1706年)には老齢によって大御御扈従を免ぜられて馬廻りになり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保十七年七月十七日(1732年)、七十歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷五代の藩主に歴仕し、君寵の衰えなかったのを見ても、如何に其人格の円熟していたかを察すべきであろう。

*この文章は土佐の武道史を書かれた平尾道雄氏のものです。第9代については「南路志七十一巻」に納めれれているそうですから、その逸話から人となりは感じられそうです。まだまだ第9代については有りますが、「曽田本スクラップ土佐の居合」のカテゴリーに書き込んであります。

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2014年6月 9日 (月)

曽田本その2を読むの3の1系譜の2

曽田本その2を読むの3

 1、無双直伝英信流居合術系譜の2

 7代.長谷川主税助英信

昭和41年8月1日号の全日本居合道新聞に「長谷川主税助英信 身元考」を水鴎流宗家勝瀬光安先生が書かれています。
以下抜粋します。

長谷川主税助英信が、長谷川英信流居合の流祖である事は衆知の事であるが、その身元に関しての細詳はあまり知られていない。
筆者は最近元駿府勤番の士、布施権十郎正秀の後裔の家に伝わる寶蔵院槍術伝書を調査するうち、居合の長谷川主税助英信に該当するらしい人物を発見した。
布施家の寶蔵院流槍術伝書に「長谷川主税助英信は、太平記の越智越前守の末葉也。
讃劦(*讃岐か)に生まれ、後京大阪等を武者修行同様にして廻国なし、江戸芝において竹川無敵、天上天下唯我独尊と看板を出せる時、無敵と仕合をなして、神明前にて高名を現す。
老年の後実子なく甥官兵衛を養子として家を継がしむ」とあり。
槍術に付いては「先師長谷川主税助英信は元来大嶋流の達人也。成年南部に趣き寶蔵院鳳栄に随身し槍法の妙術を得たり。
後推して法蔵院流長谷川派と曰う。
当流にては宝と法と書替えたる事先師英信深き意味あり。
先師英信は紀州家に仕え後浪人となり江戸に居る。
正保年中(1644年~1648年)竹川無敵と真剣の仕合し之に勝ち名を天下に顕す」と誌し。

出生没年に付いては左の通り記載している。
「長谷川主税助英信は文禄七寅壬寅也(文禄は4年までしかありません)、(慶長3年)(1597年)竹川無敵と仕合は正保3年4月(1646年)と也。大阪御陣(慶長19年1614年冬の陣、慶長20年1616年夏の陣)は14歳の時也。
嶋原の陣は37歳の時(寛永14年1637年)也、享保4年巳12月(1719年)死す。歳百十八歳也」

*少々年が合いませんがそう書かれているそうです。

右の伝書の記事を要約すると、長谷川主税助英信は文禄7年(慶長3年)讃岐国に生まれ、武芸修業の為廻国し大嶋流の槍術を極め、更に奈良の宝蔵院鳳栄に付いて宝蔵院流槍術を修業し悟る処あって宝の字を法に改め法蔵院流長谷川派と称した。紀州家に仕えたが後辞して江戸に出で、正保3年4月竹川無敵と仕合して之に勝ち武名をあげた。老年に及んで甥官兵衛英政を養子として家業をつがせ、享保4年12月百十八歳(?)で没した。

但し年代の違う別の目録細註には、紀州の生れとあるが、これは紀州家に仕えたことと、生国とを混同したらしい。

その槍術伝系は左の通りで甲府を経て駿府に伝った。

元祖、宝蔵院鳳栄‐長谷川主税助英信‐長谷川官兵衛英政‐大河原庄兵衛政久-野田市左衛門成方(甲府勤番)-嶋田八郎左衛門利屋(甲府勤番)‐嶋田元次郎利頼(甲府勤番)‐榊原彦太郎政明‐大橋平左衛門豊成‐吉田新五郎種賢‐吉田三十郎種徳‐吉田芳之助種治ー布施権十郎正秀(駿府勤番)
布施権十郎は駿府勤番二百俵高、文久2年5月(1862年)江戸城に於いて剣術槍術を上覧に供士し反物二反を下賜され、又その父権三郎正忠は文化8年2月(1811年)江戸城に於いて一寸二分の強弓を以て弓術を上覧に供し日本一の称を得ている。

この伝書は槍術の伝書だから居合については何も書いていない。従ってこの長谷川主税助英信が、長谷川英信流の英信と同一人物であるとの立証は出来ないが、生国、時代、名前等から考えると同一人物ではないかと考えられる。

この流の槍術には田宮流長谷川派の居合が併せ伝えられている、布施権三郎正忠の武術書上には、田宮流長谷川派の居合を父市郎次正輝につき、寛政二年(1790年)より17年間修業したと誌されている。

或るはこれが今日の長谷川英信流を当時此の地方に於いては田宮流長谷川派と呼んでいたのかも知れない。これだけ資料から一方的な結論は危険だが、若干の信憑性はあるようにも思われる。

註 河野百錬~本稿は6月上旬、勝瀬範士から私に頂いたものであるが、その直後土佐の英信流宗家福井春政先生に、本稿を送付して、ご意見を承った所~英信流の地元土佐には全然長谷川英信公に関する資料は無いとの事であるが、福井先生はかって英信が尾張藩に仕えたとの事を仄聞した事がある。~との御返書を頂いた。駿府布施家に伝わる此の伝書の、英信が英信流第七代の英信公と同一人物かどうかは、勝瀬範士の言う如く、今後の研究にまたねばならぬが、之は洵に当流を学ぶものにとって貴重な掲載を願ったが之を契機に広く当流同人の御研究を切望する次第である。

*その後いかほどの進展があったのでしょう。
この長谷川主税助英信の身元考は2012年6月26日カテゴリー「曽田本スクラップ土佐の居合」より「長谷川主税助英信の身元考」を転記いたしました。

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2014年6月 8日 (日)

曽田本その2をよむの3の1系譜の1

曽田本その2を読むの3

 1、無双直伝英信流居合術系譜の1

1代.林崎神助重信
*一般的には林崎甚助重信でしょう。土佐の居合の根元の巻では林崎神助重信でした。曽田先生もそのままここでは神助です。大正十年に大江先生が鈴江吉重先生に発行された根元の巻も「神助」の儘とされています。
大正14年の大江先生から山内豊健先生へも「神助」です(原本写し)。大江先生は古伝のまま記載されたのでしょう

東北地方に残された根元の巻は、林崎甚助重信です。(林崎神明と林崎甚助重信より)
土佐に於いては、どの代でか書き違えたものがそのままだったと思われます。その甚助が神助となる謂れは不明です。

その後の根元の巻は河野先生が福井先生から昭和25年授与されたものは「甚助」(無双直伝英信流居合兵法叢書より)、その後大田先生が昭和38年に山本宅治先生から授与されたものは「神助」です(原本写し)。

2代.田宮平兵衛業正
*田宮流居合は妻木先生による歴史では、田宮流は今からおよそ4百年前に林崎甚助重信(流名は神夢想林崎流)の直門である田宮平兵衛業正(書物によっては成正、成政、茂正、重正などもある)によって興され、様々な経緯を経て今日につたえられた。業正は関東に生まれたと云われる。東下野守元治にまず夢想流を学び、のちに林崎甚助から神夢想林崎流を修め、自ら工夫を重ねた。そして奥義を窮めたと云われるが、人物像については詳しくない。
とあります。

東北地方に残る根元の巻では、元禄年間の津軽藩の林崎新夢想流は田宮平兵衛照常、新庄藩の林崎新夢想流も田宮平兵衛照常の様に照常の名が残されています。中には田宮平兵衛照常はなく三代目のはずの長野無楽斎槿露が二代目になっていたりします。
実態は不明でしょう。

3代.長野無楽斎槿露
*千城小伝に田宮重正に刀術を学び精妙を得、後井伊侍従に仕え、九十有余歳で死すとあります。
山田次郎吉の日本剣道史に依れば、武芸小伝(千城小伝)では田宮の門としてあるが今傳系によると林崎甚助の門である。上州箕輪の城主長野信濃守の一族で、武田に討亡されたる後、出羽に漂い来って林崎に居合術を学び、さらに工夫を加えて一家を為した。これを無楽流といって羽州殊に会津に盛んに行われた。常に牛に乗って女子に口縄をとらせて歩み行き。上下の差別なく交わり。寒来れども炉せず。一生不犯であったという。最上の人沼澤長政にその伝を授け。これより世々羽州に流儀が残った。上泉伊勢守の孫義胤も無楽に就いて学んだと云う。師系録によれば上泉伊勢守の孫義胤は柳生兵庫の推挙で尾州藩に仕えたと云う。

4代.百々軍兵衛尉光重
*四代目あたりから、目にするものがないと云う事は、東北地方の林崎流とは別の流れが土佐に伝わって行ったのだろうと推察します。

5代.蟻川正左衛門宗続

6代.萬野団右衛門信定

7代.長谷川主税助英信
(土佐の人と云う江戸屋敷にて居合術を修行したる由にて此の時より土佐に伝わる 曽田メモ)

曽田先生のメモに依れば、土佐に伝わった居合は長谷川英信からという事です。百々軍兵衛、有川正左衛門、萬野団右衛問はどこの人なのでしょう。

以下次回へ

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2014年6月 7日 (土)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰7移り

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

7.移り(口伝 山川先生の伝書「石火」あり)
敵後より組付きたるを我体を落して敵を前に投ぐる也

◎後より組付体を下り前へ投る(五藤先生手記)

*敵が後から組付いて来るのを、体を落して前に投げ飛ばす。
子供の頃、ケンカしてよく後ろから、両手で組付かれ、両腕を極められた時、相手は背中に押付けて来るので前屈みになって体を落すと相手が頭越しに飛んでしまいました。あれでしょう。

古伝神傳流秘書大小立詰七本目「電光石火」
「如前後より来り組付くを体を下り相手の右の手を取り前に倒す」

*古伝は、組付かれて体を下げ乍ら敵の右手を取って前に投げています。一本背負いの様な動作です。

以上で大小立詰は終わります。
神傳流秘書にはもう一つ「大剣取」十本があるのですがこの「曽田本その2」にはありません。
江戸末期には既に失念していたのか、明治には伝承される事もなかったのか解りません。
古伝神傳流秘書にはこれらが記載されています。
神傳流秘書は土佐の居合のすべてを網羅していたのでしょう。

曽田本その2の2を終ります。

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2014年6月 6日 (金)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰6乱曲

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

6.乱曲(左右あり)
我と敵とは前後に立ちて行く也敵後より右手にて鐺をくるくる廻す也我此の時すぐに後に向きて左右いずれの手なるやを見定め右手なる時は我左足にて敵右足を掬い中に入る也若し左手なる時は我は右足にて敵の左足を掬い中に入る也

◎後ろより鐺を取りくるくる廻し引其時左右を見合せ中に入る(五藤先生手記)

*敵が後から来て我が鐺を取ってくるくる廻して抜かさない様にする、直に振り向いて鐺を敵は左右何方の手で取っているか見定め、右手ならば我は左廻りに廻って左足で敵の右足を掬い中に入り倒す。
若し左手ならば、右廻りに廻って右足で敵の左足を掬い中に入って倒す。

古伝神傳流秘書大小立詰六本目「乱曲」
如前後より来り鐺を取り頻りにねじ廻し抜かせじとする時後へ見返り左の手か右の手にて取たるかを見定め相手左の手ならば我も左にて鯉口を押え相手右ならば我も右にて取る後へ引付けんとするを幸しさり中に入り倒す。

*この業は、古伝より曽田先生の手附が解りやすいようです。
古伝は敵の鐺を取った左右の手による応じ方がよくわかりません。特に右手で取られた時の様子が不明瞭です。
我が右手で鯉口を取るのでしょうか、柄でしょうか、その後の動作も記述不十分です。

この乱曲の後を振り向き左右何れの手で鐺を取られたかを見定める動作が、現代居合の立膝の部「瀧落」に残って居ます。
この場合は左右見極めるだけで何ら動作が変わらないのが面白い処です。

古伝神傳流秘書英信流居合之事「瀧落」
「刀の鞘と共に左の足を一拍子に出して抜て後を突きすぐに右の足を踏み込み打込み開き納る此事は後よりこじりをおっ取りたる処也故にこじりを以て當心持有り」

古伝は、もともと左右の手については何も記載されていませんでした。むしろ、敵を鐺で打ち当てておいて、振り返って突けと云っています。

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2014年6月 5日 (木)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰5蜻蜓返

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

5.蜻蜒返
打は仕の後より仕の手首を後に引き鐺を前に押す直ちに右足を以って掬い中に入る也
(中に入るとは上から逆に横抱きにすることならん 曽田メモ)

◎後ろより右の手首をおさへ跡へ引左手鐺をおさへ前へおす時中へ入る

(鐺を後に引き右手首を前に押したる時は此の反対となる也)

*この業は文章だけで演じようとすると厄介です。
打が後から来て、仕の右手首を掴んで後ろに引き、更に左手で鐺を掴んで前へ押し込んで抜かさない様にするので、それに応じて仕は右足を打の右足に懸け投げ倒す。

古伝神傳流秘書大小立詰「蜻蛉返」
「相手後より来り我が右の手を取り刀の鐺を取り背中に押付られたる時其儘後へしさり中に入り倒す。

*古伝は、解りやすいように感じます。
打が後より来て仕の右手を取る、左手で鐺を取り仕の背中に押付けて来るのを機に、仕は右足を後へ踏込み打に密着して打の右足に掛け投げ倒す。
打が仕の右手を後ろに引き、鐺を背中に押付けるのですから、体は右廻りしやすくなるでしょう。
如何なる場合でも鍔に手を掛ける事は基本でしょうから、此処でも敵の害意を察して左手鍔、右手は柄に掛けその上で敵の攻撃に会うとしたいと思います。

蜻蛉は「とんぼ・せいれい」
蜻蜓は「せいてい・とんぼ」
蜻蛤は「せいこう・?」蛤は(はまぐり)でしょう。

「とんぼ」は色々の呼び名や文字が当てられています。我が国は「秋津島(あきつ)」
雄略天皇が吉野の阿岐豆野で狩りをなされた時、アブが腕を刺したのをトンボが来てそのアブをくわえて行ったという故事から、トンボを「勝虫」ともいう。

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2014年6月 4日 (水)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰4骨防返

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立立詰

4.骨防返
互に対立する也打は仕の柄を両手にて捕りに来るなり、我は右手にて敵の両手を越して柄頭をとって両手にて上にもぎとる也

◎敵両手にて柄を取る時引廻しもぐ(五藤先生手記)

*互に向き合う時、打は仕の柄を踏み込んで両手で取るり押し付けてくる、仕は打の柄を握る両手の上を越して柄頭を両手で握り上にもぎ取る。

五藤先生は同様に柄を取られた場合、仕は」柄頭を持って引き廻してもぎ取る。

古伝神傳流秘書大小立詰「骨防返」
「相懸りに懸りて相手我が刀の柄を留めたる時我右の手にて柄頭を取り振りもぐ也」

古伝はこの業は大小立詰の二本目に位置します。三本目が前回の鍔打返です。順番は好きにしていいとは言えよく考えられた順序です。

相懸りに歩み寄って、打が仕の柄を押さえて抜かさない様に両手で制する、仕は左手は鍔の儘右手を柄頭に取り振りもぐ。振りもぎ方は、曽田先生の様に上に振り上げてもぐ、五藤先生の様に振り廻す、或は強引に腰を使って振り廻って・・この辺は口伝があったかもしれません。柄を握られて振りもぐ様に上に上げても更に踏み込んで来られると振りもげません。密着させて投げ飛ばすのも有かな・・。

骨防返の読みは、ほねもぎかえし?。政岡先生は「骨捥返」で防は捥の誤写かとも仰っています。
動作では「振りもぐ」で「もぐ=捥」
本当の処は解りません。

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2014年6月 3日 (火)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰3鍔打返

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

3.鍔打返
互に対立する也打は仕の抜かんとする右手首をとる也仕は右手を離すと同時に左手に持ゆる鍔にて打の手首を打つ也

◎抜かんとする時其の手首を押へる左手にて敵の手首を打(五藤先生手記)

*五藤先生の手記と曽田先生の手附は応じ方が異なります。

仕が刀を抜こうと左手鍔、右手柄に懸けるや、正面に居る打が踏み込んで仕の右手首を右手で押さえ抜かさない様にするので、仕は右手を柄から離し、柄を自由にして、左手で持った鍔で打の右手首を打つ。

五藤先生は、仕が刀を抜こうとして、左手を鍔に、右手で柄に懸けるや、打が踏み込んで来て、仕の右手を打の右手で捕えて抜かさない様にする、仕は左手を鍔から離して打の右手を左手で打つ。

古伝神伝流秘書の大小立詰の「鍔打返」
「相懸りに懸り我が刀を抜かんとする其の手を留られたる時柄を放し手を打ちもぐ也」

*古伝は抜けだらけで大らかです。これでは曽田先生の方法も、五藤先生の方法も有でしょう。
我が抜かんとする右手を相手は右手で取って制する、我は柄から右手を離し、相手の右手を左手で取った鍔で打ち据える。

相手右手を離し下らんとする処を、抜き打ちする。
さて、横一線か、切上げか。
後退せんとする相手に附け入って、右手を柄に添えて顔面打ちして、抜き打ちの袈裟に斬る。
相手が左手で我れを制しに踏込んだならば・・・。

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2014年6月 2日 (月)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰2袖摺返

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

2.袖摺返(左右あり)
打は横より組み付仕肘を張りて一当すると同時にすぐに打の刀を足にすけて後に投る

◎場合より組付肘を張り一当して中に入り刀を足にすけ跡へ投げる左右共同前(五藤先生手記)

古伝神傳流秘書大小立詰「袖摺返」是は古伝では一本目にあります。
「我が立て居る処へ相手右脇より来り我が刀の柄と鐺を取り抜かせじする時其儘踏みしさり柄を相手の左の足のかがみに懸け中に入り又我右より来り組付をひじを張り体を下り中に入る」

*古伝は二つの動作を示しています。
一つは、相手が右脇より来て我が刀の柄を右手で、鐺を左手で取り、鐺を上げて背中に押しあてる様にして抜かせない様にする、我は其の儘後へ踏みしさり柄を相手の足のかがみに懸け中に入って後ろに投げる。
今一つは、右側から来て組み付かれるので、肘を張って相手に右肘で一当てして体を沈ませて刀を相手の足に懸けて後ろに投げ飛ばす。
曽田先生が伝授されたのは二つ目の方法の様です。ここで曽田本その2の「打の刀を足にすけて後に投げる」は打は小太刀ですが、打の腰刀を打の足にすける(掛ける)のは疑問です。打では無く仕の書き間違いだろうと思います。

この業名は大江先生が奥居合立業を再編成される際、古伝神傳流秘書抜刀心持之事「行違い」の替え業を正規業として為す為に採用したものです。

古伝「行違」
「行違に左の脇に添えて払い捨て冠って打込む」
右足を踏出して刀を抜出し、右足を左足に引き戻し、左手に右手を組み刀刃を外掛けにし左足を踏み込んで左側を擦違う相手の右胴を引き切る。右足を踏出して左に振り向き上段に振り冠って行き違いに引き切った相手に斬り下す。

この替え業が、群衆をかき分けて前方の敵を斬る、大江先生独創の「袖摺返」です。
大江先生は、古伝を抹消してしまう意図がうかがえるものです。

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2014年6月 1日 (日)

曽田本その2を読むの2の5英信流大小立詰1〆捕

曽田本その2を読むの2

5、英信流大小立詰

 1.〆捕
互に対立する也打は両手に仕の柄を握るを仕は左手を以って打の左手首握る也更に此の時すぐに仕は右手にて打の両腕を締め込み我体を台にして之を極める也

◎敵柄を両手にて取る左手にて敵の左の手首を押へ右手にて敵の両肘所を押へ体を込み〆る(五藤先生手記)

*大小立詰ですから仕は太刀、打は小太刀を帯し、双方立っての攻防です。
この〆捕は、五藤先生と合わせて見ると方法が理解しやすそうです。
打と向かい合って、打が両手で仕の柄を取って抜かさない様にするので、仕は左手で打の左手首を押さえ、右手を柄を握った打の両手肘の辺りに上から懸けて押さえこんで締め上げる。

古伝神傳流秘書の大小立詰の「〆捕」は四本目に位置します。この順番の違いは解説が無いので理解できません。
大小詰の処にあった様に、「是は業にあらざる故に前後もなく変化極りなし始終詰合組居合膝に座す気のり如何様ともすべし先おおむねこの順とする」に依るのかも知れません。

古伝「〆捕」
相懸りに両方より懸る時相手両手にて我刀の柄を留我左のてにて相手の脇つぼへ入れて両手を〆引上如何様にも投るなり。

古伝は、柄を取られたので、左手で相手の脇つぼに突きを入れて怯むところを右手で相手の両手を〆上げ引きあげる様にして投げ飛ばす、のです。この場合は我が右手を相手の柄を持つ両手の上から懸けるか、下から懸けるかですが、締め上げるに注目して下からでしょう。

大小立詰の〆捕ですが古伝を披露されている政岡先生の「無双直伝英信流居合兵法地之巻」では一本目に〆捕が来ます。曽田先生と原本が違うかもしれません。
木村栄寿先生の場合は曽田本と同じ四本目です。

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