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2014年6月11日 (水)

曽田本その2を読むの3の1系譜の4

曽田本その2を読むの3の1

 4、無双直伝英信流居合術系譜の4

10代.林安太夫政詡

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3(2012年6月19日)

平尾道雄

林六太夫守政は居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸でなかったから、別に師匠役などの任命はなかった。
併し個人として之を門弟に授けた為に、此以後長谷川流居合は小栗流無害流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。

六太夫の子安太夫政詡を経て、六之亟(*丞か)政長、其弟益亟政誠(*益之亟政誠か)、彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝えている。
益之亟政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であろう。
六太夫の二男脩之亟正晴は、甚三郎と改め小栗流師家足達茂兵衛正藹の後を継いだ。
益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政十三年正月廿二日(1830年)其技を以て特に召出され、三人扶持御馬廻末子に列し、屢々(*しばしば)藩主豊資公の感賞に与ったが、後池田和太夫と改名、天保二年七月十八日(1831年)に病死して、後は断絶した。

楠目成徳の「手抄」二十四巻には「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀術を伝え、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書二十五巻には「文政の頃林八郎次(彌太夫の弟歟(か))と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次々々々と諸人と賞誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云えり」と見て居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝寿と云う者が妙手であった。
槍術家の新国彦九郎に一寸計の杭を二本の指に挟ませて置いて之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云う。
御小姓格渋谷彌五兵衛勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和九年五月十日(1772年)を以て病死した。
林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。

林彌太夫(政敬)先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。
皆大男にて、左平太が業前は業小なれども豪気なる居合也。
彦八は業大きく行込み、強く練熟したり。
亀之丞先生も彦八氏と同じくて上手也。彦八氏、亀之丞氏とは業前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立んことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄二十五)

亀之丞は谷村久之丞自熈(*じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保八年(1836年)稽古扶持として三人扶持を賜った。
同十五年(1844年)には同流の芸家として取立てられ、文久二年(1862年)にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

*ここの処も、曽田先生のスクラップから平尾先生の文章を引用させてもらいました。
曽田本の老父物語から始まる林六太夫守政の言葉を林安太夫政詡がしるしたもので、土佐の居合の真髄が見られるものでした。(2013年8月12日曽田本を読む居合兵法極意秘訣)
是は土佐の居合が整理され、まとめ上げられています。神傳流秘書だけでは解らない部分も解説され居合の有り様を示したものでした。

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