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2014年7月

2014年7月31日 (木)

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの4小詰

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの4

小詰(獅子洞出・獅子洞入の事)
小詰は尖(するど)になじると云うことなり、相手の右手の膝に太刀を押し当るが如くに鋒先をさゝえて構うるなり。
この形を獅子の洞出と云い洞穴より猛獣のたけって出るに喩ゆ、此太刀さき三寸へつけてより(弓)手の肘を捧げ相手の太刀さきを押さえる、相手拳を払う時太刀を摺り込んで両腕を押へ詰めて勝なり。
この有様を獅子洞入りと云い鋒をもって敵の胸板をつらぬくことを小詰と云う。

*これは特に出典が書かれていません、これも武術叢書からの引用でしょう。
江戸期の古文書ですから大凡意味は通じるでしょうが、読み込んでみます。
「小詰は鋭く切先で相手を攻めると云う事である。相手は右膝に太刀の柄を押しあてる様にして切先を立てて構えるのである。
この形の構えを獅子の洞出と言って、洞穴より猛獣が猛り狂って飛び出して来るのに応じるのに譬えるものである。この太刀先3寸に我が太刀先3寸を付けて寄り、右手の肘を捧げる様にして相手の太刀先を押える。
相手は我が拳を獅子洞出の構えから左拳を払って来る時、我は太刀を摺り込んで受け外し相手の両腕を押さえ詰めて勝なり。
この有様を獅子洞入りと云い切先を以て敵の胸板を貫く事を小詰と云う。」

武術叢書の中に柳生新秘抄が含まれています。
「本書は柳生宗在(宗冬の子)の門弟佐野嘉内勝舊の手になれる新陰流の形の目録の註釈書なり。全く禅理を離れたる武功上の談理にしてこの種のものとしては最も古きものなり。正徳6年1716年の著なり」とあります。
柳生新陰流の「兵法家伝書」が寛永9年1632年に柳生但馬守宗矩によって書かれています。柳生新陰流の勢法(形)の手附の様ですからこの頃にしては最も古いものというのでしょう。
この小詰は上泉伊勢守が当時の主だった流派である念流・新当流・陰流などから極意を九個にまとめたものとして九箇之太刀の中に見られます。

この小詰を曽田先生は何故メモされたのでしょう。柳生新陰流の勢法を知っていたとは思えませんので、「獅子洞入り・獅子洞出」の文言が英信流居合目録秘訣と同じ事に気が付きメモしておいたのでしょう。

この「小詰」の勢法を稽古して見ます。尾張柳生の赤羽根先生の「江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」をお借りします。
打太刀、右膝を折り腰を低くして太刀を右膝の上に斜めに立てて構える。
仕太刀、下段に構えた太刀を、右拳を左目の高さに上げ刃を上に向けながら進み、間に入って打太刀の左胸を突く勢いを示して、腰を低く構える。
打太刀、仕太刀の拳を小さく打っていく。
仕太刀、拳に当たる寸前、膝を得まし腰を落として、打太刀の太刀を右峰で斜め下に打ち落す。太刀を中段に戻しながら中墨を突いて残心。

稽古の後に曽田メモを読み直しますと「小詰」が読み解けます。
なお曽田本の居合兵法極意巻秘訣に神心入相事というのがあって其の中に「虎乱剣」があります。
「虎乱剣事山野幽谷を通るとき虎狼抔或は手負獅子抔我を目懸てかゝりきたる時場を見合せ前一方明て三方ふさがりたる穴の如くの所に寄って膝を組刀を抜き切先を向うにし右脇へ引付て構べし猛獣飛でかかれば己と貫かるゝ也、柄を腹へ当てゝ真向うに構ることなかれ猛獣のいきおいにまけて腹へ強く当たり不覚とる成る也」

この虎乱剣の構えを小詰の右膝上に刀を立てて構えるのに似ていると反応されたかとも思います。

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2014年7月30日 (水)

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの3三つの声

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの3

三つの声と云う事
三つの声と云うは初・中・後の声と云うて三つにかけわくる声也。
所により声を掛くると云う事専也、声は勢なるによって火事などにも掛け風波にも掛け声は勢力を見せるものなり。
大分の兵法にても、戦より初に掛る声はいかほどもかさを懸けて声をかけ、又戦う間の声は調子をひきく底より出づる声にてかゝり、勝て後あとに大きに強く懸る声是三つの声也。
又一分の兵法にても敵をうごかさんため打つとみせてかしらより「エイ」と声をかけ声の後より太刀を打出す物也(前の声 曽田メモ)。(行宗先生の「敵の真向にて抜かんとかまえる力声にて、かくれがたくさま廻て抜き付」とは此の意ならん 曽田メモ)
又敵を打ちて後に声を懸る事勝を知らする声也(後の声 曽田メモ)。是を前後の声と云う。
太刀と一度に大きに声を懸くる事なし。
若し、戦の内に懸くるは拍子にのる声、ひきく懸くる也。
よくよく吟味有るべし。(武術叢書)

*これは武術叢書の五輪書火之巻からの引用です。

誘いの掛け声、打った後の掛け声は勝を知らせる声と云っています。
「太刀と一度に大きに声を懸くる事なし」と云っています。
掛け声の掛け方にも工夫が無ければならないのです。
居合の抜き付けも、掛け声無しの抜き付けを良しとします。誘いの掛け声に就いては聞いたこともありません。
行宗先生の「敵の真向に抜かんとかまえる力声にて、かくれがたく、さま廻りて抜き付」は敵が真向より抜打ちに斬って懸ろうとする掛け声に、逃げ出す猶予もなく身を土壇と為して抜き請けに打込む、この敵の力声を指すのでしょう。
全居連の刀法の掛け声「エイ」は敵の頭上に刃が当たる瞬前に掛けるものでこれは微妙です。

武蔵の五輪書には三つの○○と云う事が他にもあります。
・三つのうけの事 
・三つの先と云う事 
・三つの声と云う事

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2014年7月29日 (火)

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの2斬春風

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの2電光影裏斬春風

電光影裏斬春風
鎌倉の無学祖元禅師の大康の乱に捕へられて斬らるゝ時、無学辞世に右の頌を作られたれば太刀を捨て拝したと也。無学の心は太刀をひらりと振り上げたるは電(いなびかり)の如くに電光のピカリとする間、何の心も何の念もないぞ、打つ太刀にも心はなし、我身にも我はなし、斬らるゝ我にも心はなし、斬る人も空、打たるゝ我も空なれば、打つ人も人にあらず、打太刀にもあらず、打たるゝ我も我にあらず、唯いなびかりのピカリとする内に、春の空吹く風を斬ったらば、太刀に覚えもあるまい、斯様に心を忘れきりて萬(*よろず)の事をするが上手の位なり。(武術叢書)

*無学祖元(むがくそげん)(1226~1286)               
鎌倉時代,宋から渡来した臨済宗の僧。無学派の祖。南宋,明州の人。道号は無学,諱(いみな)は祖元,諡号(しごう)は仏光禅師・円満常照国師。
執権北条時宗の招きにより弘安2年1279年来日,建長寺に住した。のち円覚寺開山。時宗をはじめ鎌倉武士の帰依厚く,弘安の役前後の政策に影響を与えた。

この無学祖元の電光影裏斬春風の句は次のとおりです。

乾坤無地卓狐節 乾坤狐節を卓するの地無く

喜得人空法亦空 喜得す人空法亦空

珍重大元三尺剣 珍重す大元三尺の剣

電光影裏斬春風 電光影裏春風を斬る

*ここの処は武術叢書の中の不動智(不動智神妙録又は剣術法語)に書かれているもので沢庵和尚が柳生但馬宗矩に送ったものと云われています。

「舞を舞えば手に扇とり足をふむ、其手足をよくせん、扇を能くまはさんと思うて忘れきらねば上手とは申されず候、いまだ手足に心が留まらば、わざは面白かるまじき也、悉皆心を捨きらずしてする所作は皆悪く候」

*不動智を読みながら曽田先生もふとメモされたのでしょう。

この句をもじって、日蓮上人の伝説にもあったような気がします。

山岡鉄舟も句を作っています。

学剣労心数十年 剣を学んで心を労し数十年

臨機応変守愈堅 臨機応変守愈堅し

一朝塁壁皆摧破 一朝の塁壁皆摧破

露影湛如還覚全 露影湛の如く覚全として還る

論心総是惑心中 論心総て是心中の惑い

凝帯輪贏還失工 輪贏還失工を帯して凝る

要識剣家精妙処 剣家の精妙の処識を要す

電光影裏斬春風 電光影裏春風を斬る

剣道数十年、絶対不敗の境地まではきた、そしていま、最後の難関を砕き去ったぞ、一点に集まる露のように満ち足りたこの平静、あれこれ考えるー迷っているからだ、勝負にこだわれば腕がすくむだけ、なに?剣の秘訣が知りたいのか、春風を一気に断ち切る、これだよ

山岡鉄舟「剣禅話」より

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2014年7月28日 (月)

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの1神道無念流

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの1神道無念流

武道叢書
神道無念流
野州の産にして天明年中の人也始上善大夫と号し田中権内に一円流刀術を学びて其の妙を得後諸州を修行し信州に至り飯綱権現に祈り遂に奥旨を悟り自ら神道無念流と号す。

*武道叢書とは恐らく武術叢書の写し違いでしょう。曽田先生はそこから抜粋されたのでしょう。

新選武術流祖録の刀術の内から神道無念流
「福井兵右衛門嘉平
野州の産而天明中の人也、始川上善大夫と号す、田中権内に一円流刀術を学び其妙を得る、後諸州に修行し信州に至り、飯綱権現に祈り遂に奥旨を悟、自ら神道無念流と号し特に戸崎熊太郎輝芳絶妙を得て東部に於いて大鳴す、其門若干、岡田十松傑出たり」

*これが原文の読み下しです。
中山博道先生はこの神道無念流を根岸信五郎に入門しています。
この曽田本のメモ書きは、博道先生と神道無念流が気になったのでしょう。

新選武術流祖録は著者及び発行年月無しと云うものですが、天保14年(1843年)版行とされています。

武術叢書は、国書刊行会編になるもので、大正4年に刊行されたものです。
武術叢書の目次を紹介しておきます。
・本朝武芸小伝
・日本中興武術系譜略
・新選武術流祖録
・撃剣叢談
・不動智
・大阿記
・兵法三五箇条
・五輪の書
・圓明流剣法書
・剣法夕霧先生相伝
・一刀斎先生剣法書
・柳生流新秘抄
・天狗藝術論
・本識三問答附運籌流剣術要領
・剣術不識編
・剣説
・剣徴
・常静子剣談
・剣攷(けんこう)
・剣法略記附副言
・剣法撃刺論

*高野佐三郎の剣道は大正4年の発行です。
山田次郎吉の剣道集義が大正12年、日本剣道史が大正14年発行。
下川 潮の剣道の発達が大正14年発行です。
この武術叢書は大正4年ですから10年程早いものでしょう。
資料の多くは山田次郎吉収蔵から得ている様です。

資料集めを始めた曽田先生の時代は、武術関係の書物が幕開けとなって、旺盛な知識欲に駆られて読み漁った事でしょう。

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2014年7月27日 (日)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の9行宗貞義

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の9

恩師 行宗藤原貞義先生
明治10年西南戦争時代陸軍歩兵大尉の官職にありたるも後定見の衝突より退官一時看守長など奉職し居たり。
其後零落し明治34年頃第2中学校門衛となりたり。
居合術は尤も達人にして下村茂市先生の高弟なり。
五藤正亮、谷村樵夫等没後の大日本武徳会総裁の宮(伏見の宮貞愛親王)殿下の御前にて居合を仕り(明治40年頃ならん)天下一流の達人なりと御褒辞を賜りしと云う。
後京都武徳会本部の居合術教師たり(明治の末期より大正の初期の頃)故に門弟には京大生、三高生多数ありたり。

◎余虎彦恩師行宗先生に師事する事久し、即ち幼少14歳にして入門(第2中学校入学)爾来在学5ヵ年親しくご指導を賜り今日に至れるものなり。

◎昭和11年5月武徳会総裁宮殿下 以下消去により不明

*この曽田本その2の冒頭は「故行宗貞義先生}から始まりました。
前名 寿之助、彦太郎、左源太、精次郎、進之助、可納
藤原貞義と云う
嘉永3年1850年戌年7月2日
高知県土佐郡江ノ口村に生まる。
墓所 高知市奏泉寺東□
万延元年1860年10月14日に向う髪角入の願い聞き届け被り則祝儀相整たり。(歳11)
当時文武館に在りて森下氏の門に入て剣術を学び、亦、下村茂市氏の門に入て居合術を学びたり。
大正3年1914年10月4日没せらる 享年65歳
◎行宗先生門弟中に(明治40年頃入門) 中山博道先生、堀田捨次郎先生見ゆ。

*行宗先生は大正3年1914年に亡くなっています。曽田先生は明治23年1890年生まれですから此の時24歳です。
行宗先生との出会いは高知中学校に入学し(明治36年1903年)5年間居合を習っています。
行宗先生の紹介でしょうか中学卒業の時(明治41年1908年)に高知武徳殿助教師となっています。
行宗先生が明治末期から京都武徳会本部の居合術教師と云う事ですから曽田先生の居合は中学時代に行宗先生から教えられた5年間が最も熱の入った時期だったのでしょう。

行宗先生の居合は曽田本その2で紹介してありますが、これが下村派と云う内容は見当たりませんでした。
明治と云う時代がなせる事なのか、もともと下村派と谷村派に分かれている理由など組織における位取り以外に無かったのかも知れません。

人間関係の歪で分裂してもやることは一緒、しかし代が進むに従って、分裂の正統性を後進に伝えるにはしかとしたものが必要と思えるようになります。
それが、意味の無い所作の違いを生み出したりするのです。
或は元に戻って行くのだろうと思います。

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2014年7月26日 (土)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の8大江正路

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の8

第17代 大江正路子敬(蘆州と号す)
旧姓濱田と云う、高知江ノ口の人、剣を馬詰栄馬に居合は五藤正亮に就いて学び大日本武徳会剣道教士。居合術範士にして元第二中学校剣道教師として奉職し一方居合術も担当せり。
後第一中学剣道教師武徳会高知支部剣道教師たり。谷村樵夫歿後は居合術おもに担任せり。
昭和2年没せらる。

*大江正路は「おおえまさじ」と読みます。一般におおえまさみちと聞き覚えている様です。
大江先生の娘さん「メリー・キヨシ・キヨオカ」(明治明治29年1896年から平成8年1996年百歳で没す)が語るのを手記して息子の「ロイ・キヨオカ」が出版した「カナダに渡った侍の娘(Mother Talk by Kiyooka)」によりますと、「おおえまさじ」とルビされています。

大江先生は嘉永5年1852年生れ。
明治維新1868年戊辰戦争出陣
明治3年1870年藩立文武館剣道専業拝命
明治33年1900年高知2中剣道教授
明治42年1909年高知1中赴任
大正2年1918年大江・堀田共著「剣道手ほどき付録」
大正13年1923年居合道範士
昭和2年1927年没

現代居合を古伝から改変して、無双直伝英信流居合術の新生を計った先師として大江先生の居合以外は流派の居合に非ずという処もある位です。
先師の教えを聊かも変えてはならないと云う割には、大江先生の居合が直に伝わって来ないのも何か不思議な気がします。

業の理合は変わらずとも、時代の環境変化は大きく、体格・生活習慣・心に影響します。
如何に理合が継承されていても動作に変化があって当たり前でしょう。
相当の段位の方が、師匠筋に対し業に於ける動作が毎年の様に変わって習う者は困惑している、と言って師家の逆鱗に触れた様です。
動作の違いなど当たり前の事で一つ覚えの所作通り敵が攻撃してくれる訳など有る筈もなく、初心者ならばともかく、道理を弁えない呆れた話だろうと思います。

日々進化すると共に、元を振り返って「何故違うのか」を理解しなければならないのでしょう。
稽古とはそういうものだろうと思っています。

更に現代科学が先師の血と汗で築いた人の動作を、より有効な運剣動作として示唆してくれるのかもしれません。
武術である居合文化の継承を何に求めるのか、形に拘って伝統文化の継承と称して剣舞に終るのか、今を生きる者の知恵として武術の真諦を追い求めるのか、はたまた居合体操としてか、何かがじわじわと変化して居る様な気がしています。

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2014年7月25日 (金)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の7谷村・五藤

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の7

第15代 谷村亀之丞自雄
高知城下潮江の人馬廻り格山内容堂公に措かせられ御前に召され御佩刀を以て居合を抜きし事度々あり入神の技人を驚かす

第16代 五藤孫兵衛正亮
高知城下入新町の人馬廻り格亀之丞に□て居合を学び其の蘊奥を極む。
明治26年板垣伯爵帰県せられし際、伯は武道の嗜み深く其の精髄を会得されて居らるゝこととて同士の者当時なき材木町にあった武学館に招待し一場の講話を□□せしに伯は英信流又松島流棒術の功績を賛美し其の廃絶を惜しまれ誰か其の術を継承し居合術の如き抜く人もなき時とて漸く正亮の居合の修養深きを知り伯より子弟指導のことを話し素封家竹村家に謀りて道場を建設せしめ此処にて居合を教ふることゝなり其の後時の第一中学校長渋谷實氏の居合術が身心鍛錬に特効あるを認め正亮を聘(へい)して生徒指導の任に当たらしめたり。
明治31年没す年64歳

五藤氏歿後谷村樵夫後を継ぎ生徒を指導し居たるも明治38年没す享年61歳
此の門弟に土居亀江(旧姓小藤)抜群の技ありたり曽田虎彦実兄なり。

*補追の土居亀江先生は曽田先生の実兄ですが、この時期、兄は谷村派、弟は下村派です。何の拘りも無かったようですし、業にも違いが無い様です。
谷村派が正対した横一線の抜き付け、下村派が半身の横一線の抜き付けである、とシカとして仰る大家もおられますが、そんな事が証明できる資料は見当たりません。

*板垣退助は天保8年1837年生まれ大正8年1919年に没して居ます。武田信玄の家来板垣信方を祖先として、山内家が土佐へ行く時に召し抱えられ馬廻各300石。
維新前後に就いては、ご存知の通りです。
中山博道に土佐の居合を習えるように細川義昌に紹介するなど、御留め流などと言って頑ななトサッポの中で一味も二味も違う志士でした。
へっぴり腰の政治家とも違い、軍歴もすぐれた軍人でもあり、優れた政治家、自由民権運動の主導者でもあり「板垣死すとも自由は死せず」とうたわれています。

*ここでは、五藤孫兵衛に就いてよりも板垣伯に視点が寄った様です。
おかげで無双直伝英信流もその一派である夢想神傳流も今日或るのでしょう。

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2014年7月24日 (木)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の6林六太夫

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の6

第8代 荒井勢哲清信

*荒井兵作は関東の人浪人也後勢哲と号す

第9代 林六太夫守政
高知城下南軒町に住す馬廻り格也父を政良と云う寛文3年生生
礼節、居合、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽□等人の師たるに足る技16ありしと云う
享保17年7月17日歿行年70歳

*寛文3年1663年生まれ、享保17年1732年歿と生歿年齢が出て来ました。

「居合兵法極意秘訣」(英信流居合口授秘訣)を読んでみますと、明和元年1764年に「老父物語を書き付け置」と書き始まる伝書があります。
書いた人は第9代林六太夫守政の子で第10代林安太夫政詡です。

林六太夫守政の死後32年後に書かれたもので、守正の口伝を記憶を頼りに政詡が書いたわけです。

林六太夫守政に就いては「曽田本スクラップ土佐の居合」で中西岩樹先生の論文があります。
平尾道雄先生(土佐武道史話)の雑録もあり、面白い逸話もあって、すでに公開してありますが改めて後日紹介します。いずれも曽田先生のスクラップからのものです。

第10代 林安太夫政詡
六太夫の養子なり。

第11代 大黒元右衛門清勝
高知市帯屋町の人
大森流は此の人の拵えしものと云う人あるも誤りならん
実は大森六左衛門に始まりたり、林守政の剣道師なり

此の清勝より二派に別れたり故に代記を省略して諸先生の略歴に止む。

*大森流を11代がこしらえたと云う話が有った様です。
神傳流秘書の大森流之事
「此の居合と申すは大森六郎左衛門之流也英信と格段意味無相違故に話而守政翁是を入候六郎左衛門は守政先生の剣術の師也真陰流也上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言う或るは武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶」

大森流は、守正先生の剣術の師大森六郎左衛門の流儀であるが、英信の業と意味合いが同じだから、守政先生が話して(誰に話したのか解りませんが、当時の居合の幹部などでしょう)土佐の居合に組み入れた。
六郎左衛門は守政の剣術の師で真陰流である。
上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形が有ると云うのは、大森流の居合にその古流が組み込まれていると云うのでしょうか。真陰流の説明に過ぎないのか解りません。
武蔵の「卍石甲二刀至極の伝来」もあったのでしょう、それも守政先生で絶えている。と云って居ますが「或は・・」の意味は守政先生は剣術は真陰流や武蔵の二刀流をやったと云う意味合いでしょうか、大森流への組み込みか、どちらにも抜刀術は有って稽古もされていたはずです。

武術流祖録に依れば「真陰流」は、天野傳七郎忠久による。水戸家の人也、真野文左衛門と云う者に愛洲陰流の刀術の妙旨を得、又兵学軍礼に達し法名を改て真陰流と号す、其の門多し。

この真陰流の始まりは時代が良くわかりませんが恐らく1700年中期でしょう。

真陰流が新陰流であれば、是も武術流祖録に依れは、上泉伊勢守秀綱で愛洲陰流に刀槍術を学び精妙を得て「神陰流」と号し後「新陰流」と改めています。

この頃の傳系は面白いのですが、どれもどこまで事実かは疑問です。
何時か真陰流は新陰流なのか、と土佐の居合の関連を読み解いてみたく思っています。

*第11代大黒元右衛門清勝より土佐の居合は二派に別れ、谷村派と下村派に別れたそうです。
したがって12代、13代、14代を省略すると云って次回は15代になります。二派に別れた理由、業の内容土佐における地位の有り様、よくわかりません。
現代の大家の言われる事も疑問を持っています。
たとえば下村派は「半身の抜き付け」などは全然確証がとれません。
稽古向けの形だけで判断するのではなく、敵との間が遠ければ半身にならざるを得ないし、程よいならば正対し、間が近ければ再び半身になり、抜き付けも様々に知らなければ役に立たないものです。
津軽に残った林崎新夢想流の抜き付けが何か暗示している様です。

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2014年7月23日 (水)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の5英信

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の5

第四代 百々軍兵衛尉光重

*百々軍兵衛については何処にも其の人となりを示す文献がありません。
東北地方の伝書では、林崎甚助重信-田宮平兵衛照常―長野無楽斎槿露-一宮左大夫照信-谷小左衛門秀正-・・と伝承されている様です。中には重信公-長野無楽斎―沼澤甚左衛門-・・といった系譜も見られました。

*百々軍兵衛は相知らずとぞ一説に金五中納言に仕人と申すよし(居合兵法極意秘訣より)

土佐の居合は、林崎甚助重信-田宮平兵衛尉業正-長野無楽入道槿露齋―百々軍兵衛尉光重-・・と曽田先生は纏められています。
根元之巻には、林崎神助重信と書かれて現在まで引き継がれています。
土佐の居合の傳系は不透明です。

第五代 蟻川正左衛門宗続

*秀吉公に仕し人也(居合兵法極意秘訣より)

第六代 萬野團右衛門信定

*是同秀吉公に仕(居合兵法極意秘訣より)

五代・六代共に他に資料は有りません。

第七代 長谷川主税助英信
土佐の人、江戸に出て信定(代六代萬野團右衛門信定)に就いて居合術の研鑽をなす。英信流の一派を起す、故に又長谷川流とも云う。

*長谷川主税助は後に内蔵助と言う尾州公に仕千石領す第一弓馬の上手也諸国弓の伝馬の伝得たる人多し(居合兵法極意秘訣より)

*長谷川主税助英信の出自は不明の様です。
曽田先生は土佐の人と断定的に書かれていますが、証明できません。
「英信流の一派を起す」としていますが、大森流、英信流、重信流、板橋流、夏原流が土佐の居合ですが此の事でしょうか。
重信流の東北地方の林崎流などとの突合せが出来るといいのですが・・・。

長谷川英信は江戸時代の系譜にも載っていないのです。土佐に於いて御留め流としたための事かも知れませんが土佐内部資料すら出て来ません。
如何に術理が優れていても、身分の低いものは表には残らなかった時代です。

*曽田本から長谷川主税助英信の名の有る個所を捜してみます。

居合兵法伝来:目録には無双神伝英信流兵法とあり是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也(神傳流秘書より)

大森流居合之事:此居合と申すは大森六郎左衛門の流也英信と格段意味相違無き故話して守政翁是を入れ候六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流也上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶(神傳流秘書より)

英信流居合之事:是は重信翁より段々相伝の居合然者を最初にするべき筈なれ共先大森流は初心の者覚易き故に是を先にすると言えり(神傳流秘書より)

*昭和41年8月1日号の全日本居合道新聞に「長谷川主税助英信 身元考」を水鴎流宗家勝瀬光安先生が書かれています。

以下抜粋します。

長谷川主税助英信が、長谷川英信流居合の流祖である事は衆知の事であるが、その身元に関しての細詳はあまり知られていない。
筆者は最近元駿府勤番の士、布施権十郎正秀の後裔の家に伝わる寶蔵院槍術伝書を調査するうち、居合の長谷川主税助英信に該当するらしい人物を発見した。
布施家の寶蔵院流槍術伝書に「長谷川主税助英信は、太平記の越智越前守の末葉也。
讃劦(*讃岐か)に生まれ、後京大阪等を武者修行同様にして廻国なし、江戸芝において竹川無敵、天上天下唯我独尊と看板を出せる時、無敵と仕合をなして、神明前にて高名を現す。
老年の後実子なく甥官兵衛を養子として家を継がしむ」とあり。
槍術に付いては「先師長谷川主税助英信は元来大嶋流の達人也。成年南部に趣き寶蔵院鳳栄に随身し槍法の妙術を得たり。
後推して法蔵院流長谷川派と曰う。
当流にては宝と法と書替えたる事先師英信深き意味あり。
先師英信は紀州家に仕え後浪人となり江戸に居る。
正保年中(1644年~1648年)竹川無敵と真剣の仕合し之に勝ち名を天下に顕す」と誌し。

出生没年に付いては左の通り記載している。
「長谷川主税助英信は文禄七寅壬寅也(文禄は4年までしかありません)、(慶長3年)(1597年)竹川無敵と仕合は正保3年4月(1646年)と也。大阪御陣(慶長19年1614年冬の陣、慶長20年1616年夏の陣)は14歳の時也。
嶋原の陣は37歳の時(寛永14年1637年)也、享保4年巳12月(1719年)死す。歳百十八歳也」

*少々年が合いませんがそう書かれているそうです。

右の伝書の記事を要約すると、長谷川主税助英信は文禄7年(慶長3年)讃岐国に生まれ、武芸修業の為廻国し大嶋流の槍術を極め、更に奈良の宝蔵院鳳栄に付いて宝蔵院流槍術を修業し悟る処あって宝の字を法に改め法蔵院流長谷川派と称した。紀州家に仕えたが後辞して江戸に出で、正保3年4月竹川無敵と仕合して之に勝ち武名をあげた。老年に及んで甥官兵衛英政を養子として家業をつがせ、享保4年12月百十八歳(?)で没した。

但し年代の違う別の目録細註には、紀州の生れとあるが、これは紀州家に仕えたことと、生国とを混同したらしい。

その槍術伝系は左の通りで甲府を経て駿府に伝った。

元祖、宝蔵院鳳栄‐長谷川主税助英信‐長谷川官兵衛英政‐大河原庄兵衛政久-野田市左衛門成方(甲府勤番)-嶋田八郎左衛門利屋(甲府勤番)‐嶋田元次郎利頼(甲府勤番)‐榊原彦太郎政明‐大橋平左衛門豊成‐吉田新五郎種賢‐吉田三十郎種徳‐吉田芳之助種治ー布施権十郎正秀(駿府勤番)
布施権十郎は駿府勤番二百俵高、文久2年5月(1862年)江戸城に於いて剣術槍術を上覧に供士し反物二反を下賜され、又その父権三郎正忠は文化8年2月(1811年)江戸城に於いて一寸二分の強弓を以て弓術を上覧に供し日本一の称を得ている。

この伝書は槍術の伝書だから居合については何も書いていない。従ってこの長谷川主税助英信が、長谷川英信流の英信と同一人物であるとの立証は出来ないが、生国、時代、名前等から考えると同一人物ではないかと考えられる。

この流の槍術には田宮流長谷川派の居合が併せ伝えられている、布施権三郎正忠の武術書上には、田宮流長谷川派の居合を父市郎次正輝につき、寛政二年(1790年)より17年間修業したと誌されている。

或るはこれが今日の長谷川英信流を当時此の地方に於いては田宮流長谷川派と呼んでいたのかも知れない。これだけ資料から一方的な結論は危険だが、若干の信憑性はあるようにも思われる。

註 河野百錬~本稿は6月上旬、勝瀬範士から私に頂いたものであるが、その直後土佐の英信流宗家福井春政先生に、本稿を送付して、ご意見を承った所~英信流の地元土佐には全然長谷川英信公に関する資料は無いとの事であるが、福井先生はかって英信が尾張藩に仕えたとの事を仄聞した事がある。~との御返書を頂いた。駿府布施家に伝わる此の伝書の、英信が英信流第七代の英信公と同一人物かどうかは、勝瀬範士の言う如く、今後の研究にまたねばならぬが、之は洵に当流を学ぶものにとって貴重な掲載を願ったが之を契機に広く当流同人の御研究を切望する次第である。

*その後いかほどの進展があったのでしょう。

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2014年7月22日 (火)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の4長野無楽

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の4

第3代長野(無楽入道)槿露齋
「無楽入道と称す業正の弟子近江井伊家に仕へ二百石を領す九十余歳迄長寿」

*これは千城小伝から取ってきたものだろうと思います。

千城小伝
「長野無楽斎槿露は刀術を田宮重正に学び精妙を得たり後に井伊侍従に仕え九十有余にて死す」

*千城小伝は日夏繁高の著述

武芸流祖録
「長野無楽斎槿露は井伊家に仕う九十有余歳にして死す其門に一宮太夫照信、上泉孫次郎義胤其宗を得る。
抜刀一宮流 武田家の土屋惣蔵麾下にして武功最も多し長野無楽斎に従い今に至りて其の妙を得一宮流と称す、末流多し。」

山田次郎吉先生の日本剣道史の抜刀術に無楽流(長野槿露)
「長野無楽斎槿露に起る抜刀術で、武芸小伝には長野を田宮門としてあるが、今傳系に由ると、林崎甚助の門である。
槿露は上州箕輪の城主長野信濃守の一族で、武田に討亡されたる後、出羽に漂い来って林崎に居合術を学び、更に工夫を加えて一家を為した。
これを無楽流といって、羽州殊に会津に昌んに行われた。
槿露は常に牛に乗って女子に口縄を執らせて歩行き。上下の差別なく交り。寒来れども炉せず、一生不犯であったということだ。最上の人沼澤長政に其伝を授け、之よりして世々羽州に流儀が残った。
上泉伊勢守の孫義胤も無楽に就いて学んだと云う。
此の人90余歳まで居たというから、元和以後まで存命であったろう。」

*東北地方の伝書にある傳系をチェックして見ます。
「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年発行林崎甚助重信公資料研究会に依ります。

1、林崎新夢想流 津軽藩 (元禄4年1691年~正徳元年1714年)
林崎甚助重信―田宮平兵衛照常―長野無楽斎槿露―一宮左太夫照信―谷小左衛門秀正

2、林崎流 三春藩 元禄7年1694年
林崎甚助―田宮平兵衛重正―無楽斎槿露―

3、林崎新夢想流 新庄藩 元禄14年1701年
林崎甚助重信―田宮平兵衛照常―長野無楽斎槿露―一宮左太輔照信―谷小左衛門秀正

4、林流居合 秋田藩 天明8年1788年
林崎甚助重信―長野無楽槿露―市宮左大夫忠重―

5、林崎神流 二本松藩 文化10年1813年
林崎甚助重信―永野無楽入屋槿露―沼澤甚左衛門長政―

6、林崎流 秋田藩角館 弘化3年1846年
林崎甚助重信―永野無楽斎正次―沼澤甚左衛門長政―

7、林崎夢想流 秋田・仙台藩 安政2年1855年
林崎甚助重信―永野無楽斎―沼澤甚左衛門―

*始祖から2代目についても東北地方では田宮平兵衛-長野無楽斎と田宮平兵衛抜きの永野無楽斎が2代目と別れています。
この辺の事や土佐への伝承系譜など面白い題材です。
土佐に在って門外不出の伝書が見つかれば良いのですが、地元の有志に委ねるほかに有りません。

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2014年7月21日 (月)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の3田宮平兵衛

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の3

第2代 田宮平兵衛尉業正
(武術叢書には重正とあり、伝書に業正とあり)
重信の弟子抜刀の妙を得、後、對馬と改む、其の子長勝箕裘(ききゅう?)の術を継ぎ池田輝政に仕う、後紀州に赴頼宣に仕へ八百石を領す。

*曽田先生の言う武術叢書がどの様なものか解りませんが、大正4年に吉丸一昌などによる国会図書館にある蔵書や山田次郎吉の蔵書を集めた「武術叢書」が有ります。恐らくこれでしょう。武芸者及び流派の伝書を載せています。

千城小伝 田宮平兵衛重正
「田宮平兵衛重正は、関東の人也。林崎重信に従って抜刀の妙を得たり。実に変を盡し神に入る。後對馬と改む其の子對馬守長勝箕裘の術を継、池田三左衛門尉輝政に仕う、後致仕常圓と改む。紀州に赴き大納言頼宜卿に仕へ奉る。采邑八百石を領す。其の掃部長家後平兵衛改む、大猷大君田宮の芸を見んと欲す、頼宜卿に命じて江戸に召さる、登営して其の術を台覧に備え奉る、その名に於いて日域に顕わす。
其の子三之助朝成後常快と号す。其の子次郎右衛門成常箕裘の芸を継ぐ。中納言吉宗卿に仕え奉る。其の末流諸州に在り。
芳名千歳に伝うと云うべし。斉木三左衛門清勝と云うもの有、紀州の人也、幼弱にして田宮長家に従って練習有年、後朝成に従って終に其の宗を得て、延宝年中江都に来たりその芸を以て鳴らす。
北条早雲記曰く、勝吉長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛成政という者是を伝うる、成政長柄刀をさし諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんじゅうの利、其外神妙秘術を伝えしより以後、長柄刀を皆人さし給えり、然に成政が兵法第一の神妙奥義と云は、手に叶いなばいかほども長きを用ゆべし、勝事一寸ましと伝えたり。」

武術流祖録 田宮流 田宮平兵衛重正
「関東の人也、刀術を好み東下野守元治に学び神明無想東流の奥旨を究、後又、林崎重信に就いて抜刀の妙を得、実に変をつくし神に入る、後對馬と改む、其の子對馬守長勝その術を継ぎ常圓と号す。紀伊頼宜卿に仕へ奉り。子孫箕裘の芸を伝う、芳名千歳に揚げ末流諸州に在り。重正より其の術を学ぶ者若干、特に長野無楽斎槿露、三輪源兵衛傑出たり。
長野無楽斎槿露は井伊家に仕え90有余歳にして死す、その門に一宮左太夫照野信、上泉孫次郎義胤其の宗を得る」

撃剣叢談(天保14年1843年 源 徳修)巻4
「田宮流は居合なるを、唯一流ここにまじえたるは微意なきにもあらず、今紀州及び江戸に行るゝ田宮流は、先表に伝うる所は居合の態也、それより太刀となり打合の勝負を専一に修行す、名は居合にして勝負する所は太刀態也、こゝを以て附記してあらましをあぐ。
此流はもと奥州の林崎甚助重信に出づ、其門人田宮對馬守重正、同子對馬守長勝と伝う、此對馬守長勝播州にて参議公に召されて士組を預りたり、後紀州に仕えて食録八百石を受け、其の子平兵衛、其の子三之助相継で居合を以て世に鳴り、上手の誉有て、平兵衛が芸は上覧にも入りしなどいう也。
子孫は今紀州に仕う、平兵衛弟子に斉木三右衛門と云う者江戸に於て流を弘む、最上手也しが、其比江戸の剣術の師数人と仕合して皆仕勝ちたり、是等の勝負せる様皆太刀態也、又古伝は、刀を抜かずして左の手は鯉口を持て、右の手は脇指の柄にかけて敵へ詰寄り、敵の太刀おろす頭を先に、刀の柄にて敵の手首を打ち、其拍子に脇指を抜て勝事を専らとする也、是を行合と云う、諸流の居合勝負と云うもの、大略此態を以て勝を第一とする也、今皆備前に行わるゝ田宮流と大に異なり、委しくしるして異聞を弘るのみ」

*流祖の道統は林崎甚助重信-田宮平兵衛重正(業政)、東北地方では田宮平兵衛照常などと言った伝書が残って居ます。2代目として通っていたのでしょう。

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2014年7月20日 (日)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の2重信公

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の2

林崎甚助重信について書かれている資料を上げてみます。

本朝武芸小伝(千城小伝) 享保6年1721年 日夏繁高
「林崎甚助重信は奥州の人也林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る。此の人中興抜刀之始祖也 北条5代記曰く、長柄のはじまる仔細は、明神老翁に現じ、長つかの益あるを林崎勘助勝吉という人に伝え給う、(愚に曰く勘助は謄写のあやまりならん歟(か)、5代記には勝吉と有、明神老翁に現じて伝え給うというは、鹿島の神をいへるか、伝書には奥州楯岡の近辺に林崎明神と云神社あり、甚助此神を祈りて妙旨を悟るとあり」

武術太白成伝(原本不明) 山田次郎吉日本剣道史より 
「生国は奥州でなく、相模の産である。
文禄4年5月10日48歳より慶長3年9月15日に至る7年間武州一ノ宮今大宮の社地に居住し、陰陽開合の理に基いて工夫を凝らし、生善正勝という辞を押立て、純白伝と号して飄然諸州を歴遊の途に上ったとある。
時に54歳の秋紅葉正に色つく時であった。
星霜移って元和2年2月28日武州川越の甥高松甚兵衛の許を訪れ明年7月まで滞在して20日再び鳥藤を鳴らして奥羽の旅程に立越えたのは73歳。残躯を天に任せて復帰っては来なかったのである。故に一宮流奥幸四郎施主となって、享保元年7月20日川越の蓮馨寺に墓碑を建立し、良仙院一誉昌道弱心大信士の法号を鐫(せん・ほる)し、一部生国相州鎌倉の天照山光明寺の過去帳に其の名を留めて、永く菩提を弔う料としたということである。」

武術流祖録 天保14年1843年 羽島輝清・池田豊直・青山敬直・同轍
「抜刀中興祖 林崎甚助重信 奥州の人也 林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る。此の人中興抜刀の始祖、其の技術神妙也、門に田宮平兵衛重正其の宗を得。」

その他にも武術流祖についての資料は有る様ですが、どれも信頼できるとは言えそうにありません。
東北地方に幾つかの伝書が残され、林崎神社の資料館に残されています。
何れも始祖より何代か下った根元之巻であって始祖自ら発行したものは見当たりません。
土佐にどの様にして伝わって行ったのかさえ分からないのです。

居合の中興の祖は林崎甚助重信公のようであり、そして山形県村山市林崎85に日本一社林崎居合神社があって、現代居合人が訪れています。

林崎神社は「現代居合道の興隆発展につれて、全国から参詣・奉納演武をする居合道剣士が年を追うごとに増加しているが、居合神社・林崎神社などと言うのは俗称であり、正しい神社名は明治7年2月25日に熊野神社に居合神社を合祀して明治10年政府公認以来、「熊野居合両神社」である。と平成3年発行の「林崎明神と林崎甚助重信」に記載されています。

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2014年7月19日 (土)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の1始祖

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の1
(夢想神傳(抜刀)流(術)。神傳流。重信流。林崎流等と云う)

第1代(流祖) 林崎甚助重信(伝書には神助とあり)
正親町天皇の永禄年間の人(約380年前(昭和11年))

羽前の国北村山郡に生まる幼より剣術を好み郷里の林崎明神に祈願を込め百日の満願の折居合術を授り其の技神に入ると云う。

重信が林崎明神への奉納額に
「千早振る神のいさおし我うけて萬代までも伝え残さむ」

永禄4年辛酉(四月)願主當処 浅野改 林崎重信謹百拝
(昭和13年迄 378年前)不明なるも4月ならんか 曽田メモ)

*流祖林崎甚助重信についてですが、土佐の居合の根元之巻では甚助が神助となっています。誤記なのか神として崇めたのか解りません。

重信公の奉納額によれば永禄4年辛酉の年は西暦1561年上杉謙信と武田信玄が川中島で戦った頃です。
この奉納額は140年後の元禄14年1701年8月水戸藩夢想流四世 長谷川卓助によって、重信公のぎ御詠として奉納されたものです。

林崎甚助重信公資料研究委員会による「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年発行の居合関係年表によると重信公の様子がうかがえます。
伝承されたものを資料とし、研究委員の考察とされています。

天文7年1538年  父浅野数馬重治 楯岡因幡守満英に士官す。
天文9年1540年  父浅野数馬、母菅野と結婚す。
天文11年1542年 林崎甚助重信生誕 幼名民治丸(伝当社霊験気)
天文16年1547年 父浅野数馬、坂上主膳(一雲斎)に殺さる(武祖伝)
天文18年1549年 民治丸8歳の時東根刑部太夫について武術修行(社伝)
浩治2年1556年  民治丸、林崎明神に百日参籠し、抜刀の神伝を授かる(伝書)
永禄2年1559年  民治丸抜刀の妙を悟り、元服して、林崎流と称し村名を姓とし林崎甚助重信と改め仇討の旅に出る(当社霊験記、居合神社記)
永禄4年1561年  重信、京で仇を討ち帰郷、林崎明神に「信国」の太刀を奉納(当社霊験記)
永禄5年1562年  母菅野死す。重信剣の旅に出る(口碑、居合神社記)
永禄8年1565年  重信鹿島に行き天真正神道流の修行に励む(林崎重信伝)
文禄4年1595年  重信一宮(大宮)の社地に住す(武術太白成伝)
元和2年1616年  重信廻国修行より武州川越の門人高松勘兵衛の許を訪れる(武芸太白成伝)
元和3年1617年  重信高松勘兵衛の許より、奥州へ旅立ち再び不帰(武芸太白伝)

年表が正しければ重信公75歳以降は不明と云う事です。

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2014年7月18日 (金)

曽田本その2を読むの4曽田メモの4居合と剣道

曽田本その2を読むの4曽田メモの4居合術と剣道の関係

剣道、柔道は今や中等学校の正科となり且つ武徳会に於ても之が奨励をなすを以て大にその普及発達をなし各隆盛に向いつゝあるは実に喜ぶべきことで而して我居合術は剣道の一派にして実に剣道とは密接の実像あり。
居合術は剣理用法整然たるものがある、所謂普通剣道の基として深味があるから徳川幕府時代には盛に之を修習し一層胆力の養成に資する所がある。

然るに当今立派なる武道家、殊に剣道家に在て単に竹刀の業のみを以て能事畢れりとなし真剣用法は勿論日本刀の名称すら知らざる者多々あるは実に痛嘆の堪えざる所である。
茲に於て之を慨し居合術の効果を力説し之が普及にかむること必然たるを疑わず。

居合術と剣道とは共に其の目的を一にし且つ其の用法は多岐に渡り臨機変化之要諦を尽くしたるものにて剣道とは□歯□□の如し(ここには4字熟語で二番目に歯の付くものを入れてみてください)。
然るに世人ややもすれば居合術を単に保守的武術視し敢て重きを置かざるものあるも是は誤れるの甚しきものにて居合術の真義を解せざるものというべし。

*この論文は、何を言いたいのかよくわかりません。「居合は剣道の一派にして実に剣道と密接に実像あり」と云って、「居合は剣道の一分派」と云った河野先生の無双直伝英信流居合術全の書き出しに「分派にあらず剣道の一部門だ」と文句を付けておき乍ら(2014年7月15日居合術)、今度は「一派」と云って居ます。
居合は剣術の一部門であって刀を抜いて立合う以前に鞘の内に勝負を決するものでしょう。また日本刀を以て仮想敵に対して応ずる空間刀法で、相手を要し打突による竹刀剣術とはその稽古には違いがあっても剣術の目的とする所には違いは無いと思っています。精神論などはどのような事でも其の積りになれば得られるはずで居合ばかりを良しとするものではないでしょう。
居合が真剣による空間刀法と云えばある藁切屋さんは実際に物を斬らねば意味なし、と仰います。
形、当てっこ、空間切、据物切、次は動態切ですか。

相手を切って勝負を決する事は許される訳はないのは当然です。当てっこも竹刀剣術にルールを決めスポーツ化した為に真剣の日本刀の操作法が失念し打突のみに終始してしまうと云われます。

曽田先生はその辺の事から、竹刀剣術では白兵戦の際用をなさないのだから真剣刀法の居合をもっと評価しろといっているのでしょう。
竹刀剣術の合同稽古で号令による一糸乱れぬ打込みを見ていますと、従順な兵士の養成には良い方法だったと思えてきます。
精神論ばかりで殺されてしまった同朋の多くを思うと胸が痛みます。
この論文は昭和10年代のものと思います。日中戦争、太平洋戦争へとひた走る時期だったと思います。
居合は、個人教育による部分が多く、個性豊かな剣士を生み出せるようですが号令に従って運剣操作する業は乏しいものです。
河野先生は昭和14年に合同稽古向けに大日本抜刀流(現在の抜刀法)8本を創作されています。

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2014年7月17日 (木)

曽田本その2を読むの4曽田メモの3居合とは

曽田本その2を読むの4曽田メモの3居合とは

◎居合の伝書開巻第一に
「居合とは人に斬られず人斬らず只請け止めて平にせよ(?)」とあるも正義人格平和を第一義諦としたことが分明する。
日本刀が真に日本刀として武士道を発揮するも凶器として武士道を汚すも此の根本の相違からである。
居合の特徴は実に我が武士道の表徴とも謂うべき日本刀を以て錬磨するところにあって、日本刀は単に之を見るだけでも精神の修養となる、まして之を帯して或は座し又立て進退撃刺の状をなすに於いておや。
居合は運動の方面より見るも全身の筋肉を働かし、厳寒の時と雖も15分乃至20分の練習を行う時は、流汗淋漓の有様で近時人情浮善に流れ質実剛健の風を払い利を見て義を顧みず、或は軽佻詭激の言、皇道の基礎をからしめんとする時、日本刀を揮て心身の鍛錬をすることは確に時勢に鑑み一種の清涼剤たらざるを得ないのである。」

「抜かば斬れ抜かずば斬るな此の刀 只斬ることに大事こそあれ」

*居合の伝書の開巻の最初に「居合とは人に斬られず人斬らず只請け止めて平にせよ」とある。と云うのですが開巻第一にこの居合兵法の和歌がある伝書が見当たりません。
田宮平兵衛業政之歌として曽田本に有る和歌は「居合とはへちまのかわのだんぶくろすっかりとしてみはどっちやら」が第一首です。
人斬らずの歌は3番目です。3番目も1番目も大して違わないでしょう。
「居合とは人に斬られず人斬らず只請け止めて平らかに勝」でした。居合の奥義は神妙剣の教えに有りました。
「居合と申すは第一に太刀抜かぬ以前に勝こと大事也」
「彼怒りの色見ゆるときは直に是を知って怒を抑えしむる頓智あり唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也是戦に至らしめずして勝を得る也・・彼の気を先に知てすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也」

居合は真剣を以て錬磨する処に精神修養の意義があると云って居ます。
近年真剣を持たず模擬刀で稽古する人が増えています。
真剣同様の拵えですが、真剣の気には程遠いものです。
中には模擬刀すら自前のものを持たず道場のものを借りたままと云う人も居ます。
ひどいのは、そのまま退会して音沙汰無しとは・・・・。

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2014年7月16日 (水)

曽田本その2を読むの4曽田メモの2居合の意義

曽田本その2を読むの4曽田メモの2居合術の意義並修行の目的

*前回同様曽田先生は目についた事は、熱心にメモされたり新聞、雑誌の類は切抜きをされています。
残念ながら、その出典が書かれていません、新聞記事などは日時等もありません。ご自分の修行の糧とされたのでしょう。

「剣を学ぶは道を学ぶであって凶器を弄ぶでない」とは古哲の言である。
居合術は真剣を以て行う正真正銘の剣道であるからその目的とする所は実にここにある。
然らば吾人は居合に因て如何なる道を学ぶか、心身の鍛錬をするのである。
人として忠孝、礼儀、廉恥、質実、剛健の諸徳を養成するのである。
身心の鍛錬は之を調身、調心、調息の三つに分類する事が出来る。

◎調身とは姿勢を調えることである。
居合には始終礼儀、座る、立つ、抜き付、打ち下、皆夫々の作法姿勢があり而して全身の元気を気海丹田に収ることになって居る、之が調身である。健康上より云うも錬膽上より云うも気海丹田に力を入ることの肝要なることは敢えて喋々するまでもなく禅学等皆然り。

◎調息とは呼吸を調えることである。
呼吸すは風、喘、息、気の四種あり。
息が調相余り乱相であるけれども正気は武道の重んずる処である。

◎調心とは精神を調えることである。
大敵を見て懼れず小敵を見て侮らず無念夢想万物一如の域に達するのを窮極するので此処に達するには慎独克己から始まるのである、古来より我が日本武士道に於ては正義を貴ぶ。

*曽田先生はこの身心の鍛錬の調身、調心、調息の教えを座禅から引用され、そして居合の修行に当て嵌められたのでしょう。

居合を修行される方は座禅を好まれる方も多くおられる様です。この辺の所は座禅を試みられて実感していただくとか、書籍では佐藤道次先生の「武道の真髄」をお読みいただくのも宜しいかと思います。
2カ月ほど前に、座禅をしてきました。
30分してしばし休息し再び30分の座禅でした。
居合に因っていつの間にか鍛えられていたようで、姿勢を調え坐する事のみは然したる事も無いのですが、無念無想などとんでもない、妄想も思考の世界にも入れず、睡魔さえも襲って来ずに、ただ丹田に気を集めるばかりに終始して終了です。

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2014年7月15日 (火)

曽田本その2を読むの4曽田メモの1居合術

曽田本その2を読むの4曽田メモの1居合術

此処からの「曽田本その2」は曽田先生の論文とも取れるメモ書きです。

居合術
余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に付随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず。

この文章は、昭和8年に河野百錬先生(当時居合を始めて6年目居合術錬士の頃)無双直伝英信流居合術全を発表されたおり、冒頭に掲げた序文に反発されて書き起こされたものです。

*先ず、河野先生の「居合術」論を読んでみましょう。
居合は剣道の一分派なり、古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後敵を制するに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し然る後刀を下すものなり。
居合は攻撃精神の充実せる而も極めて静かなる気分を養い、更に技術的には真剣の用法を教うるものなり。
居合は静を以て本則とす、心は本来静かなるものなり、始め事無き時は寂然不動天地万物一体にして、事あるや其迅き事電撃も只ならず、是至静一貫と云う、孫子曰く、静かなる事林の如く迅き事風の如しと、故居合の術は心静に体胖(ゆたか)にして、天理自然に従い業を行うを以って正理となすものなり。
居合は勝負の理に拘りて勝負を離れ、己に克ちて己を正し業に依りて心気を治むるの心法なり。
故に形を正し武夫の武き心を心とし毫も怠慢する事なく誠を以て学習する時は神明に至らん事必然なり。

心気力一定一刀瞬息石火無妙術也
居合術之要諦於先看破敵気色
(大江正路先生の句)

*曽田先生はこの河野先生の「居合は剣道の一分派なり」に激しく反応して居ます。斬り抜に「分派にアラズ」と激して居ます。

次に曽田先生の論を読んでみましょう。
居合術は剣術今の剣道の一部門なり
剣術は立合、太刀打、撃剣等とも称し刀剣の使用法にして即ち抜出したる刀を如何に有用に使用すべきかを教えたるものに付抜刀なくして立合あるべからず。
其の用法は刀を腰より抜出しての上のことなり。
居合術は立合の術、剣術に対する語にして、詰合、坐合、抜刀、鞘の内等とも称し此の立合の根元にして刀を抜く法なり。
即ち如何なる場所にて如何なる刀を如何に有効に抜くべきかを教えたるものに付、刀の鞘の内にある時より太刀打に至りて了る故に互に抜刀して相対せば既に居合の範囲を脱して後は太刀合なり。
居合は刀の長短、場所、広狭、地勢の高低、姿勢の坐起、敵の仕懸変化等に応じ臨機変化其の他を悟らせず刀尖鞘口を脱する刹那確実有効の利を収むべきを救う。
其の最重要なる点は刀尖の鞘口を脱する瞬間の働きなり。」

*居合は「剣道の一分派」と居合は「剣道の一部門」との違いは文字の上では、分派とは流儀の違いによる枝分かれした流派に相当すると考えられます。
部門とは剣道を区分けした場合の一部分である。と、普通に読めるでしょう。
どちらも剣道だと云って居るに過ぎないでしょう。
鞘の内による勝負と、抜刀後の勝負との違いについての思いは、河野先生も曽田先生も同じ事です。

河野先生はその後「居合道真諦」に於いて、居合道の意義として書かれています。
「居合とは剣道の抜刀後の立合いに対するいわゆる居合(即ち抜刀前の心構えと、抜刀の瞬間に敵を制する刀)の意にして、元来敵の不意の襲撃に際し直ちに良くこれに応じ、先または後の先の鞘放れの一刀を以て、電光石火の勝ちを制する必要より、武士の間に創案されたる独自の剣法にして、座居の時、または歩行する時、その他あらゆる時とところにおける正しき刀法と身体の運用を錬磨し、己が心を治むる道である。」

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2014年7月14日 (月)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の11智羅離風車

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

11.智羅離風車

*これも解説は有りません。

古伝英信流居合目録秘訣極意之大事「智羅離風車」
「手拭にても煙竹入にても向の面に投付けてびくとする所を切るべし又刀を抜きて其手に扇抔を持添て打込躰にて其扇を投げ付けびくとする所を打込勝なり」

*この業名はどこから持って来たのでしょう。智羅離も風車も心得に有った名称なのかどうか。
仕合で師匠が立合う時に弟子に「智羅離風車!」とかけ声を上げて、気後れしがちな弟子がハッと我に返って扇を投げつけて・・。

是も、手元に有る物を相手に投げつけビクとする所を勝、そのような教えです。
抜いた刀に添えて扇を持ち添え打込むと見せて扇を投げつけるなど、少し稽古して置かないと簡単には出来そうもない業です。

極意之大事の心得の稽古は、一人稽古に限る様です。

*今回で曽田先生の実兄土居亀江が谷村樵夫自庸より伝授された谷村派第15代谷村亀之丞自雄から連なる無双直伝英信流居合目録を終ります。

第15代谷村亀之丞自雄-楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸―土居亀江

第15代谷村亀之丞自雄-第16代五藤孫兵衛正亮-第17代大江正路子敬

この系譜で見られるように、江戸末期から明治にかけて、15代谷村亀之丞から伝わった目録が示す様に、土居亀江の目録は既に無双直伝英信流居合目録でした。
業名と其の手付けは、大江先生のものと、古伝の混在でした。
従って大江先生が無双直伝英信流と云う流名を立てられたのでは無く江戸末期にはそう称していたのかも知れません。
業も同様に大江先生の頃には現在の業名と運剣技法が古伝から変化していたのかも知れません。
大江先生はそれを更に、中学生向けに「いじった」と思われます。
この土居亀江の伝書は昭和20年7月4日午前2時の米軍の高知空襲によって焼失したとありましたのでもう見る事は出来ません。

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2014年7月13日 (日)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の10釣瓶返し

曽田本その2をよむの3

2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

10.鉤瓶返

*これも解説は有りません。

古伝英信流居合目録秘訣極意之大事「鉤瓶返」
曽田本の「鉤瓶返」は「釣瓶返」の誤字でしょう。
「座上にては刀をば抜いて置くこと当然也然時に向うより切かくるときぬき合する間なければ鞘と柄とを取って鞘共に請て其儘引きぬいて片手打に切るべし」

*通常座して会談する様な時は、刀を腰から外し、相手により右なり左なりに置いているものです。
そんな時、正面より切って懸られ、抜き合す間が無ければ、其の儘抜かずに取って鞘共に受けてそのまま引き抜いて片手打ちに斬る。
左に置いた時、右に置いた時、左・右の片手抜き打ちを稽古して置くものでしょう。

土佐の居合には見られない業ですが、この釣瓶返は業としても工夫出来るものです。
水鴎流の九曜に立浪・立浪裏の二本が刀を帯さずに座して応じる業です。

立浪:左に刀を置き左手で鞘を取り、柄頭で敵の打込む機先を制し、右手を柄にかけるや打込まんとする敵の上段の腕を斜めに斬り上げます。

立浪裏:右に刀を置き右手で鞘を取り、柄頭で敵の打込む機先を制し、怯む処を左手で柄を取り引き抜くや刃を上にして敵の水月を突く。左手で納刀します。

*この業名も釣瓶返であって釣瓶落では無い処が面白い処です。
今では見られなくなりましたが、井戸に水桶を落すと真直ぐに素早く落ちて行く様を連続的に矢を射る、鉄砲を打つ、スポーツなどでは得点を上げるなどの様に使われます。
此処は落ちて行く桶を素早く引き上げる様を見立てて、打込まれて咄嗟に鞘ごと制して抜き打つことを、釣瓶返の表現にしたのでしょう。

古伝による土佐の居合の業名には業技法のポイントを顕わす良い業名が使われています。
大江先生の頃に業名の改変があって聊か疑問です。

たとえば現在の正座の部の二本目「右」は「左刀」でした。
現在は己が正面に向って右向きに座して居て、左側に敵が座して居ます。是は敵を意識する前に道場の正面に対する座する位置を指定して居る様です。
古伝は「左刀」で、己がどこを向いて座っていようが、己の左側に座す敵に応じる事を示唆して居ます。
是を同じ事と解するか否かは、動作には常に敵を意識する居合であるか否かによるのだろうと思うのです。

奥居合では、現代居合が場の想定を限定してしまい、人との対応を狭いものにしてしまっています。
たとえば、向詰を両詰に変えて、狭い場所での運剣動作にしています。
古伝の向詰は「抜きて諸手を懸け向を突打込也」ですから正面の敵の打込まんとする処、柄頭で敵の機先を制し怯む処を刀を抜き放ち、諸手突きして上段から真向に斬り下すのです。

古伝の両詰めは、戸詰と戸脇に分けられ、場の状況も戸襖まで持ち出されて特定されています。
古伝の両詰は戸襖も敷居も無く左右の敵に詰め寄られた時に応じる運剣動作なのです。
其の左右の敵も360度如何様の位置に座そうとも応じる事が出来ていなければ咄嗟の用を為しません。

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2014年7月12日 (土)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の9外之剣

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

9.外之剣

*これも解説は有りません。
古伝英信流居合目録秘訣極意之大事「外之釼」
「自宅他家共に其座に有る物に心を付べし箱の類にても又はけさしの類盤の類にても之有る
時は我が量に叶うべきを計其近所に座して透間を見て是を打つけべし亦常とても此心得有るべし其座に有るものゝ近所にざすべし亦我が居間に是に有と常に心を用い置時は至って利を得る也
仕合抔望まれたる時向原の詞聞きたる上は油断すべからず立合迄もなしすぐに何にても取って打倒すべし又しなえ抔くみてあらば立合う迄もなし居ながら取かえして打ころすべし」

*外之釼も心得です。自宅でも他人の家でも、座して居る所の付近に有る物に心を付けておく事、箱の類でも「又はけさし」は意味不明です、「又はけさし」としか読めません河野先生の無双直伝英信流居合兵法叢書に依れば「文鎮」と書かれていますが、さて。
それらが有れば用に叶うものであればその近所に座し隙を見て相手に打ち付けるべし。
この心得は常に持って、そのある物の近所に座すべし。
また我が居間に是等の物がある様に心掛ければ至って利するものである。
仕合を望まれた時相手の詞を聞いた上は油断しては為らない。立合うまでもなく、直に何でも手に取って打倒すべし。
又竹刀などを組置きしているならば立合うまでもなく其の儘居ながらに竹刀を取って打ち殺せ。

*これが武術の本領でしょう。
スポーツの様なルールだらけの竹刀剣道や、訳も分からない精神論ばかりでは、生死を掛けたものにはなりにくいものだろうと思います。

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2014年7月11日 (金)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の8遠方近所

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

8.遠方近所

*これも解説は有りません。

古伝英信流目録秘訣極意之大事「遠方近所」
「我に敵する者と見るときは其の者の側に寄りて居る事肝要也或は庭前の花にことよせ或は掛物を見る躰抔して側に近よりて居べし刀に手をかけば其儘手を取って引倒すべし間を隔てゝ居る故に不覚を取るなり

或るは意趣有って仕掛られ丸腰にて出合て不覚を取たる者も間々之有る也是等も此習を得たればたとい丸腰なり共不覚をば取まじ
其故はいや貴殿の短慮なり能く合点せよ抔と云て側に詰寄て居る時は刀をぬけば引倒す故丸腰とても不覚は取まじきなり

亦大事の仕物九寸五分の合口抔を指し近く居て思わぬ処で取って引寄せさしころす時はたしかに仕留る也
是は皆獅々王かんよう也」

*これは、面白いし、そんなものかも知れません。敵意を持つ相手には常に側に寄りついて間を開けないのは敵の動きを封じる良い手です。
此処ではそれとなくそばに寄っている様に装うのでしょう。
終りの方にある、この心得を以て仕留める事が出来るのには「獅々王」の心が肝要だと云って居ます。

極意之大事の「獅子洞入」(2014年7月5日)のところで「是は事に非ず我が心に大丈夫を備うる事也」とありました。
恭しい様子で心は師子王の如くせよと云って居ました。
何かを為そうとするときは、悠然として常の心を以て応じられればいいのですが、かさに懸ったり、卑屈になったり、それが慌てさせたり怯えとなって稽古の力の半分も出なかったりするものです。

業名の「遠方近所」とは何ともいえないポイントを着いた表現です。

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2014年7月10日 (木)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の7鉄石

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

7.鉄石

*ここも何の解説もありません。

古伝英信流居合目録秘訣極意之大事「鉄石」
「旅抔にて気遣しき所を通るには石を袂に入れて行くべし尤も是に限らず用心を為して行先は必石を袂に入行くべし時に取って是を打作る也座上にても鉄石の心得有あの者を切らんと思う時は其者の膝本のたたみ抔をはたと敲くときは夫に気をうつす也其所を切れば安き者也」

旅などの時にどうもいやな予感がすると云うような所を通るには、石を袂に入れて行くべきである。
尤も旅に限らず、用心をして行かなければと思う行き先には必ず石を袂に入れて行くべし、時に取って、是を打ち付けるものである。
会談などの座上でも鉄石の心得を持つもので、あの者を切らんと思う時はその者の膝本の畳などを「ハタ」と叩き相手がそれに気を移す所を切れば容易に斬れるものである。

*この極意之大事に至っては、正に孫子の「兵は奇道也」です。
目的を達するには、細心の注意と誰も思っても見ない、状況を作り出し目的を果たすものでしょう。
綺麗ごとにばかりに、夢を見ている武道修行者には違和感のある部分かも知れません。
然し多かれ少なかれ、日常のビジネス活動にも要求される心得でしょう。

刀を持って戦う事は勿論、生か死を見つめる事の乏しいこの時代、武士道を美化して見るのも仕方のない事かも知れません。

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2014年7月 9日 (水)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の6火村風

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

6.火村風

*これも解説無しです。
読みは、「かそんかぜ」、と曽田先生は英信流居合目録秘訣極意之大事「火村風」にルビがあります。
この目録と目録秘訣では「火村風」の位置取りが違います。前回の「逢意時雨」の中で「火村の風に異なる事無し・・」の書き出しがありました。その様に前後が入れ替わっているのです。

古伝英信流居合目録秘訣「火村風」
「仕物抔に行たる時其者と物語抔をして都而(却而ならずや 虎彦註)色にあらわさず扨煙草盆を持出したらば其火入を取って打付けて然しておくれたる所を勝べし

亦捕者抔に行に灰を紙につつみ其灰の中に石を入れおんぶくの様にして持相手の面に打つくるとパッと開いて眼くらむ也其の所を捕る也開かず共石を入れて打付る故転どうする也

或は此事を聞くさし捕手の役に行く密談に事よせ捕る仕組也一人密談しいたるに脇より紙に灰を包み打つけるに紙しかと包て有りたる故都而(却而にあらずや 虎彦註)不開おんぶくの如くなるものにて面を打たる故いよに相人気ばりて取急たると是伝をしらざる故用に立たず」

前回の「逢意時雨」同様に相手の油断に不意打ちを食らわせ臆するところを捕り押さえる心得です。
これも場面が目に見える様です。「火村風」の業名も不思議な名です。

「都而」は「却而」いずれも現代に使われていないのですが、「・・としてすべて色にあらわさず」の様に使ったのでしょう。学識のある方のご指導をいただければ幸いです。
世間話などして少しも仕物に来たことを色に出さず、煙草盆を出してもてなす風を装い、突然其の火を相手に投げつけ臆するところを捕えるのです。

亦,捕り者に行く時は、灰を紙につつんでその中に石を入れて、「おんぶく」は土佐の方言の一つかも知れません。紙に包んだ米を正月に備える風習もある様です。
相手の顔にぶつけて包みが解けて目潰しとなって目がくらんでいる処を捕る。
譬え紙が開かなくとも石が入っているので当たれば衝撃を受けて動転する。

この方法を聞いて捕り者に行き、密談があると気を引いて捕る仕組み、密談して居て灰を入れた紙を相手に打ち付けたが紙をしっかり包んでいたので開いてくれず、相手は却って気張ってしまう、慌ててしまってこの伝を知らずに用が立たない事も有。
此処は其の儘読んでも、意味不明なので勝手に思いつくまま解釈して見ました。

この辺は目録の中でも、面白い処です。
役目を果たすと云う事への執念を教えると理解すべき処でしょう。

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2014年7月 8日 (火)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の5逢意時雨

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

5.逢意時雨

*これも解説は有りません。

古伝英信流居合目録秘訣極意之大事「逢意時雨」
「火村の風に異る事無し是は茶抔を所望して其茶椀を取ってすぐに打付べし又自宅へ敵来たらば我れ茶を汲で持出て其茶を取らんとする手を取て引倒して勝也」

曽田先生のメモ「捕手の右転の心同断」

是は、夏原流和之事の捕手和之事「右転」のことでしょう。
「前の如く歩み行て相手手を上る処を両の手にて指を取りわけ左の方へ引廻し又たおし砂乱のごとくうつむけに引廻して竪める」

*逢意時雨とはロマンチックな業名です、場の雰囲気をドラマを見ている様に幾つか目の前に浮かべて見ます。
武士道に有りえぬ行為と見るのは武士道を知らない為でしょう。大義を果たすにはそれなりなのです。
武道は本来騙し合いが基本です。
そんな事を思いつついますと「逢意時雨」の意味が解りだしてきました。

お茶を所望して茶碗ごと相手にぶつけ怯んだところを抜き打つ。
自宅では茶を出してもてなす振りをして相手が茶碗に手を伸ばす処を、古伝英信流目録秘訣の心得を以て相手の茶碗に手を伸ばす右手を、我が両手で拇指を右手で、残り四指を左手で取り左に身を開きつつ引き廻し俯けに倒し堅める。
曽田先生は夏原流和之事捕手和之事「同断」と、読み解いています。

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2014年7月 7日 (月)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の4野中之幕

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録4極意之大事

4.野中之幕

*これも解説は有りません。
古伝英信流居合目録秘訣の極意之大事「野中之幕」

実は、此処にも「野中之幕」は見当たらず、少し先をめくりますと「野中之幕」と云う項目が出てきます。曽田本その2の目録が途中で終わっているのか比較するものが無いので解りません。

野中之幕
「取籠者抔の有之時杖の先き或は竹の先に又横手をくくり付け其横手を羽織の袖に通し其竹の本を左の手に持て向へさし出し右の手に刀を持ち生捕なれば木刀の類を持ち我身は羽織の陰に隠し羽織をば相手の方へつき付べし向より切ると云へども我身にはとどく事なし其所を持たる刀にて相手の足を薙ぐべし亦矢玉を防ぐに至て宜し」

*案山子を作って相手の居る方に突き出せと云います。まるでマンガです。
きおい立った相手には有効かもしれません。
身の回りにあるものを使って、工夫する、それも命がけの行為での事です。
現代人が忘れかけている事を思い出させてくれている様です。

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2014年7月 6日 (日)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の3地獄捜

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録の4極意之大事

 3.地獄捜

*これも目録の業名のみで解説は有りません。
英信流居合目録秘訣の極意之大事「地獄捜」から
「闇りに(くらがりに?)取籠り者抔有るときの心得也夫而巳成らず総じて闇にて人をさがすの術也
刀と身と鞘と半分抜掛て鐺を以一面にませ捜すべし鐺に物のさわるを證に抜て突くべし
亦鞘口三寸ばかり切先を残し居ながら静かに四方へ廻してさぐるべし九尺四方何事も知れ申す」

暗闇に取り籠る者を捜すには、刀身を半分抜き掛けにして、鐺で辺り一面を探って鐺に当たるを証に刀を抜いて突くべし。
また、鞘口に切先三寸ばかり残して、静かに四方へ廻し探れば九尺四方に何があるか分るものだ。

心得と云うより、業の一つでしょう。このように切先3寸を残して抜き出した時は下緒の端をつかんで鞘が切先から滑り落ちない様に工夫するのも忘れてはならない事です。

もうずっと以前の事です。漫画家の先生が居合を教えて下さった中にこの方法を聞かせてくれていました。
河野先生が昭和29年に曽田本を書き写して「無双直伝英信流居合兵法叢書」を発行して居ます。
きっと漫画家の先生は之を読まれていたのだろうと思いだしています。
当時は抜いて斬るばかりしか興味が無く、聞き流してしまったのですが真面目に武術を研究されておられた先生です。
そう・・立ち居振る舞いを正していただいたのもこの先生でした。
当時居合道教士、柔道五段でした。漫画はダルマくん・少年探偵団・チャンスくんなどその執筆は昭和21年から相当な数に上ります。

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2014年7月 5日 (土)

曽田本その2を読むの3の2目録の4極意之大事の2獅子洞入

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録4極意之大事

2.獅子洞入

*これも解説は有りません。
英信流居合目録秘訣極意之大事「獅子洞入」
「是は事に非ず我が心に大丈夫を備うる事也此の習何よりも肝要なり此備無き時はせきて色に出る故暇乞の類の術をもなすことならず常によくこの心に備えるべし。」

この獅子洞入は事では無い、我が心に「大丈夫」を備えている事である。大丈夫の心を持たない者はどうしようと急き込んで色に出てしまう。それ故暇乞いなどの仕物では達成できない、何時もこの大丈夫の心を備えているものである。と云うわけですが「大丈夫」の心が解りません。

古くは周の時代には男子は一丈(180cm)以上の背丈の有る事。転じて現代では「とりわけ壮健である、危なげない、しっかりしている」などに用いられていると思います。
この獅子洞入は獅子の住む洞窟に入るが如く敵と対する心持を指しているのでしょう。
現在使われている様な大丈夫とは違う様に思えます。

そして儒教思想に基づき孔子の「君子同様に仁・義・礼の三つを併せ持った人間こそが真の大丈夫である」を意図していると思います。

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2014年7月 4日 (金)

曽田本その2をよむの3の2目録の4極意之大事の1暇乞

曽田本その2を読むの3

 2、無双直伝英信流居合目録4極意之大事

1.暇乞 御使者斬り二つあり

*手附も解説もありません。
この極意之大事では暇乞・獅子王釼・地獄捜・野中幕・逢意時雨・火村風・鉄石・遠方近所・外之剣・釣瓶返・智羅離風車の11項目になります。
目録ですから名称のみでもいいのでしょうが困ります。

古伝英信流居合目録秘訣を持ち出してチェックしておきます。
暇乞・獅子王釼・地獄捜・火村風・逢意時雨・外之釼・釣瓶返・鉄石・遠方近所・智羅離風車の10項目です。ここに無いのは野中幕ですが、居合心立合之大事と云う処に野中之幕がありますので古伝から解説できます。

おさらいですが、この曽田本その2にある無双直伝英信流目録は、谷村派第15代谷村亀之丞自雄-楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸―土居亀江。土居亀江から曽田虎彦に目録が渡って来たもので、土居亀江は曽田先生の実兄に当たります。

尚、第15代谷村亀之丞自雄は谷村派を第16代五藤孫兵衛正亮-第17代大江正路子敬と正統をつないでいます。

昭和25年に河野先生が第19代福井春政宗家より伝授された根元之巻と目録は一致します。

下村派については、第14代下村茂市から行宗貞義・片岡健吉・細川義昌と継承されている様に曽田先生は無双直伝英信流居合系譜で記され、下村派第15代は行宗貞義、第16代は曽田虎彦と自らを上げています。曽田先生の授与された根元之巻及び行宗先生以下の下村派の系譜は実態が見えません。根元之巻と宗家継承との違いが不透明です。

目録の極意之大事「暇乞」
「仕物抔を云付られたる時抔其者の所へ行て四方山の咄抔をして其内に切るべし隙これ無きときは我が刀を取りて又近日と立さまに鐺を以て突き倒し其儘引きぬいて突也又は亭主我を送て出るとき其透間を見て鐺を突いてたおして其儘引ぬいて突くべし」

*これが極意の大事の暇乞です。
最近奥居合の暇乞1,2,3はこの極意の心得によると勘違いしたのか拡大解釈したのか正式の演武では闇打ちに相当するので演武してはならないと言う説を聞き及びました。
居合は敵の害意を察して機先を制するものでしょう、しかし上意打などは、むしろ我が方が先に攻撃を仕掛けて居るものでしょう。
往時の武士道とはそう云うものです。

現代の奥居合居業暇乞1,2,3は大江先生が改変して作られたものです。古伝の暇乞の心得と混同したりするものでは無いでしょう。
あれは、お暇の挨拶をしようとする処を、敵に打込まれるのを、身を土壇と為して、刀を抜上げて敵刀を摺り落とし打込む業で、居合の本領を発揮した素晴らしい業技法と認識して居ます。
闇打ちとして斬るのか、後の先を取るのか想定違いです。

古伝神傳流秘書には暇乞いの業があったのか無かったのか曽田先生は書き込んでありますが、木村栄寿先生は無しを取って居ます。
「抜打上中下(暇乞三本)格の低き者に対する黙礼の時、等輩に対する礼の時。目上の者に対する時の礼の時。」
それぞれ坐礼の時の頭の下げ様を、封建制の中で相手の身分に依って格差をつけているものです。
是は心情的には闇打ちでしょう。

冒頭の暇乞で「御使者斬り二つあり」は不明です。

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2014年7月 3日 (木)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の14十文字

曽田本その2をよむの3

 2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

14.十文字
座業 □□を引きて頭上にて十文字に請け冠り切るこの□□業もありと云う不明

*この十文字も曽田先生は手附を書いて塗りつぶしています。あいにく読めない部分があって意味不明です。

古伝英信流居合目録秘訣上意之大事「十文字」
「敵と打合すれば輪と成り十の形となる互に打合せたる所は是十の形ち也其十の形に成たる所にて手を取れば勝也手之内輪之内十文字は別の事ならず皆一つに唱る事なり外の事にはあらず拳を取れと言事の教也」

*敵と打ち合って刀が合ったならば即座に摺り込むなり、摺り落すなり、受流すなりして敵の拳を取れと言う教えでしょう。
仕組みの形を学ぶ中で稽古するのがこの教えを理解しやすいだろうと思います。

居合の形でも一方的に勝つばかりの空間刀法に酔っていないで、抜き付けたが受け止められる想定も研究しておきたいものです。
「違う!何しているか!」と飛んで来るマニュアル居合の教え魔が眼を剥きだして来るでしょう。

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2014年7月 2日 (水)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の13輪之内

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

13.輪之内
立業?左を突き右に廻りながら前方の足元を払い冠り切る

*実は此の輪之内の手附を曽田先生は書き写して置きながら塗りつぶす様に消しています。何とか読めるので読んでみたのですが疑問だらけの手附です。

英信流居合目録秘訣上意之大事「輪之内」
「敵と打ち合わするに輪にならずと云事なし上にて打合せ亦下にて合えばすぐに輪と成る竪横皆同じ其輪をはずれて勝べし」

曽田先生の実兄土居亀江の受けた目録と古伝の目録とは随分違う様です。
土居先生の敵は左・右の様です。左の敵を刺突して右廻りに右敵に振り向くや右敵の足元を払い打ちして、右から振り冠って真向を切る。

古伝神傳流秘書抜刀心持之事ではこの業に相当するものが見当たりません。

古伝英信流居合目録秘訣は、心得でしょう。
敵と打ち合いをすれば必ず輪になる、上・下・竪・横皆輪になる、その輪を外して敵がオヤとする処を勝。

「打ち合いすれば必ず輪になる」いい表現です。直線運動しか知らない剣士には何だか理解できない表現です。
同時に合刀すれば十文字であり輪之内ともなるでしょう。
その輪を外すとは、受け太刀にならずに外すと打つが一緒になる運剣なども其の一つでしょう。
太刀打之位などでは、一本目・二本目と打ち合い、十文字となり輪の内となる、3本目に相手の打ち込む機を外して勝つ勝ち口を教えています。

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2014年7月 1日 (火)

曽田本その2を読むの3の2目録の3上意之大事の12手之内

曽田本その2を読むの3

2、無双直伝英信流居合目録の3上意之大事

12.手之内
立業 切り捨てにて前進む(総留ならん)

*この手之内の手附は、曽田先生は書き写して置きながら塗りつぶしています。ようやく読んでみたのですが、塗りつぶす理由は解りませんが、英信流居合目録秘訣とは大分異なる内容です。曽田先生も何か疑問を持たれたのかも知れません。

(総留ならん)とコメントしたのは曽田先生です。
その前に英信流居合目録秘訣の上意之大事「手之内」を読んでみます。
「敵と刀を打ち合わするに合刀せずと云う事なし其合刀したる所にて敵の拳を押えて突くべし」

敵が打込んで来るので太刀にて打ち合わせる、或は打込んだ時敵が太刀で受ける事を「合刀」と云ったのでしょう、読みは「合わせ刀・刀を合す」。その打ち合う時に刀が合う処から敵の拳を押えて突くべし。と心得を述べられています。

業は仕組(組太刀)の太刀打之位の独妙剣や詰合之位の鱗型にも見られます。摺り込んだり、摺り落したりですが現代居合では見られないものでしょう。
全居連では刀法の5本目切先返しなどはそれに近いでしょう。

それにしても、この土居亀江が伝授された目録の「手之内」の手附は抜けだらけです。「切り捨てて前に進む」のですからそれらしき古伝を神傳流秘書の抜刀心持之事から探して見ます。
業名では「ククリ捨」と云うのがあるのですが内容が書かれていないので不明です。
「放打」が大江先生の「惣留」に相当します。
「放打:行内片手打に切納ては又切数きわまりなし」
この「放打」かも知れません。

「手之内」の業名と手附がアンマッチの感が否めません。
手之内・輪之内・十文字が並んで目録に乗せられています、これらは「別の事ならず」とありますから順を追って勉強しながら稽古して見ましょう。

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