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2014年7月25日 (金)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の7谷村・五藤

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の7

第15代 谷村亀之丞自雄
高知城下潮江の人馬廻り格山内容堂公に措かせられ御前に召され御佩刀を以て居合を抜きし事度々あり入神の技人を驚かす

第16代 五藤孫兵衛正亮
高知城下入新町の人馬廻り格亀之丞に□て居合を学び其の蘊奥を極む。
明治26年板垣伯爵帰県せられし際、伯は武道の嗜み深く其の精髄を会得されて居らるゝこととて同士の者当時なき材木町にあった武学館に招待し一場の講話を□□せしに伯は英信流又松島流棒術の功績を賛美し其の廃絶を惜しまれ誰か其の術を継承し居合術の如き抜く人もなき時とて漸く正亮の居合の修養深きを知り伯より子弟指導のことを話し素封家竹村家に謀りて道場を建設せしめ此処にて居合を教ふることゝなり其の後時の第一中学校長渋谷實氏の居合術が身心鍛錬に特効あるを認め正亮を聘(へい)して生徒指導の任に当たらしめたり。
明治31年没す年64歳

五藤氏歿後谷村樵夫後を継ぎ生徒を指導し居たるも明治38年没す享年61歳
此の門弟に土居亀江(旧姓小藤)抜群の技ありたり曽田虎彦実兄なり。

*補追の土居亀江先生は曽田先生の実兄ですが、この時期、兄は谷村派、弟は下村派です。何の拘りも無かったようですし、業にも違いが無い様です。
谷村派が正対した横一線の抜き付け、下村派が半身の横一線の抜き付けである、とシカとして仰る大家もおられますが、そんな事が証明できる資料は見当たりません。

*板垣退助は天保8年1837年生まれ大正8年1919年に没して居ます。武田信玄の家来板垣信方を祖先として、山内家が土佐へ行く時に召し抱えられ馬廻各300石。
維新前後に就いては、ご存知の通りです。
中山博道に土佐の居合を習えるように細川義昌に紹介するなど、御留め流などと言って頑ななトサッポの中で一味も二味も違う志士でした。
へっぴり腰の政治家とも違い、軍歴もすぐれた軍人でもあり、優れた政治家、自由民権運動の主導者でもあり「板垣死すとも自由は死せず」とうたわれています。

*ここでは、五藤孫兵衛に就いてよりも板垣伯に視点が寄った様です。
おかげで無双直伝英信流もその一派である夢想神傳流も今日或るのでしょう。

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