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2014年7月20日 (日)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の2重信公

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の2

林崎甚助重信について書かれている資料を上げてみます。

本朝武芸小伝(千城小伝) 享保6年1721年 日夏繁高
「林崎甚助重信は奥州の人也林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る。此の人中興抜刀之始祖也 北条5代記曰く、長柄のはじまる仔細は、明神老翁に現じ、長つかの益あるを林崎勘助勝吉という人に伝え給う、(愚に曰く勘助は謄写のあやまりならん歟(か)、5代記には勝吉と有、明神老翁に現じて伝え給うというは、鹿島の神をいへるか、伝書には奥州楯岡の近辺に林崎明神と云神社あり、甚助此神を祈りて妙旨を悟るとあり」

武術太白成伝(原本不明) 山田次郎吉日本剣道史より 
「生国は奥州でなく、相模の産である。
文禄4年5月10日48歳より慶長3年9月15日に至る7年間武州一ノ宮今大宮の社地に居住し、陰陽開合の理に基いて工夫を凝らし、生善正勝という辞を押立て、純白伝と号して飄然諸州を歴遊の途に上ったとある。
時に54歳の秋紅葉正に色つく時であった。
星霜移って元和2年2月28日武州川越の甥高松甚兵衛の許を訪れ明年7月まで滞在して20日再び鳥藤を鳴らして奥羽の旅程に立越えたのは73歳。残躯を天に任せて復帰っては来なかったのである。故に一宮流奥幸四郎施主となって、享保元年7月20日川越の蓮馨寺に墓碑を建立し、良仙院一誉昌道弱心大信士の法号を鐫(せん・ほる)し、一部生国相州鎌倉の天照山光明寺の過去帳に其の名を留めて、永く菩提を弔う料としたということである。」

武術流祖録 天保14年1843年 羽島輝清・池田豊直・青山敬直・同轍
「抜刀中興祖 林崎甚助重信 奥州の人也 林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る。此の人中興抜刀の始祖、其の技術神妙也、門に田宮平兵衛重正其の宗を得。」

その他にも武術流祖についての資料は有る様ですが、どれも信頼できるとは言えそうにありません。
東北地方に幾つかの伝書が残され、林崎神社の資料館に残されています。
何れも始祖より何代か下った根元之巻であって始祖自ら発行したものは見当たりません。
土佐にどの様にして伝わって行ったのかさえ分からないのです。

居合の中興の祖は林崎甚助重信公のようであり、そして山形県村山市林崎85に日本一社林崎居合神社があって、現代居合人が訪れています。

林崎神社は「現代居合道の興隆発展につれて、全国から参詣・奉納演武をする居合道剣士が年を追うごとに増加しているが、居合神社・林崎神社などと言うのは俗称であり、正しい神社名は明治7年2月25日に熊野神社に居合神社を合祀して明治10年政府公認以来、「熊野居合両神社」である。と平成3年発行の「林崎明神と林崎甚助重信」に記載されています。

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