« 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の2重信公 | トップページ | 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の4長野無楽 »

2014年7月21日 (月)

曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の3田宮平兵衛

曽田本その2を読むの4曽田メモの5無双直伝英信流居合術の伝統の3

第2代 田宮平兵衛尉業正
(武術叢書には重正とあり、伝書に業正とあり)
重信の弟子抜刀の妙を得、後、對馬と改む、其の子長勝箕裘(ききゅう?)の術を継ぎ池田輝政に仕う、後紀州に赴頼宣に仕へ八百石を領す。

*曽田先生の言う武術叢書がどの様なものか解りませんが、大正4年に吉丸一昌などによる国会図書館にある蔵書や山田次郎吉の蔵書を集めた「武術叢書」が有ります。恐らくこれでしょう。武芸者及び流派の伝書を載せています。

千城小伝 田宮平兵衛重正
「田宮平兵衛重正は、関東の人也。林崎重信に従って抜刀の妙を得たり。実に変を盡し神に入る。後對馬と改む其の子對馬守長勝箕裘の術を継、池田三左衛門尉輝政に仕う、後致仕常圓と改む。紀州に赴き大納言頼宜卿に仕へ奉る。采邑八百石を領す。其の掃部長家後平兵衛改む、大猷大君田宮の芸を見んと欲す、頼宜卿に命じて江戸に召さる、登営して其の術を台覧に備え奉る、その名に於いて日域に顕わす。
其の子三之助朝成後常快と号す。其の子次郎右衛門成常箕裘の芸を継ぐ。中納言吉宗卿に仕え奉る。其の末流諸州に在り。
芳名千歳に伝うと云うべし。斉木三左衛門清勝と云うもの有、紀州の人也、幼弱にして田宮長家に従って練習有年、後朝成に従って終に其の宗を得て、延宝年中江都に来たりその芸を以て鳴らす。
北条早雲記曰く、勝吉長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛成政という者是を伝うる、成政長柄刀をさし諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんじゅうの利、其外神妙秘術を伝えしより以後、長柄刀を皆人さし給えり、然に成政が兵法第一の神妙奥義と云は、手に叶いなばいかほども長きを用ゆべし、勝事一寸ましと伝えたり。」

武術流祖録 田宮流 田宮平兵衛重正
「関東の人也、刀術を好み東下野守元治に学び神明無想東流の奥旨を究、後又、林崎重信に就いて抜刀の妙を得、実に変をつくし神に入る、後對馬と改む、其の子對馬守長勝その術を継ぎ常圓と号す。紀伊頼宜卿に仕へ奉り。子孫箕裘の芸を伝う、芳名千歳に揚げ末流諸州に在り。重正より其の術を学ぶ者若干、特に長野無楽斎槿露、三輪源兵衛傑出たり。
長野無楽斎槿露は井伊家に仕え90有余歳にして死す、その門に一宮左太夫照野信、上泉孫次郎義胤其の宗を得る」

撃剣叢談(天保14年1843年 源 徳修)巻4
「田宮流は居合なるを、唯一流ここにまじえたるは微意なきにもあらず、今紀州及び江戸に行るゝ田宮流は、先表に伝うる所は居合の態也、それより太刀となり打合の勝負を専一に修行す、名は居合にして勝負する所は太刀態也、こゝを以て附記してあらましをあぐ。
此流はもと奥州の林崎甚助重信に出づ、其門人田宮對馬守重正、同子對馬守長勝と伝う、此對馬守長勝播州にて参議公に召されて士組を預りたり、後紀州に仕えて食録八百石を受け、其の子平兵衛、其の子三之助相継で居合を以て世に鳴り、上手の誉有て、平兵衛が芸は上覧にも入りしなどいう也。
子孫は今紀州に仕う、平兵衛弟子に斉木三右衛門と云う者江戸に於て流を弘む、最上手也しが、其比江戸の剣術の師数人と仕合して皆仕勝ちたり、是等の勝負せる様皆太刀態也、又古伝は、刀を抜かずして左の手は鯉口を持て、右の手は脇指の柄にかけて敵へ詰寄り、敵の太刀おろす頭を先に、刀の柄にて敵の手首を打ち、其拍子に脇指を抜て勝事を専らとする也、是を行合と云う、諸流の居合勝負と云うもの、大略此態を以て勝を第一とする也、今皆備前に行わるゝ田宮流と大に異なり、委しくしるして異聞を弘るのみ」

*流祖の道統は林崎甚助重信-田宮平兵衛重正(業政)、東北地方では田宮平兵衛照常などと言った伝書が残って居ます。2代目として通っていたのでしょう。

|

« 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の2重信公 | トップページ | 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の4長野無楽 »

曽田本その2を読むの4」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の2重信公 | トップページ | 曽田本その2を読むの4曽田メモの5居合術の伝統の4長野無楽 »