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2014年8月13日 (水)

曽田本その2を読むの4曽田メモの7河野文通の5重信出自

曽田本その2を読むの4曽田メモの7河野文通の5重信出自

林崎先生は(A)北条泰時第二子説。(B)宗時□(期?)間説。(C)足利末期説の三説之有る様に、私は□□(□見?)的研究の結果、A・B両説は単なる伝説の様に考えられ、小冊子には足利末期説をとり、足利13代義輝の頃(永禄・元亀)と致して居ますが当研究□□存ます。

・先生(虎彦を指す)の御説の秀吉御学被成云々より致しましても足利末期説を真とするに足る様考えられます。

・北条5代時頼より秀吉迄は此の間340年

・3代泰時~秀吉迄360年

・足利5代義量~秀吉迄160年

・足利末期13代義輝より秀吉迄は37年にて何れよりするも足利末期説確かの様ですが如何でしょうか。

*ここは林崎甚助重信公の生まれた頃を河野先生の研究結果が曽田先生の研究とあっているのか曽田先生に尋ねられたものです。
曽田先生の回答は不明です。
小冊子とは昭和8年の河野先生発行の「無双直伝英信流居合術全」の伝統の所に記載する予定だったものです。
結果は、林崎甚助重信公の履歴は外されています。

其の後の昭和13年発行の無双直伝英信流居合道に依れば第3節の「居合の沿革」に「群雄諸国に割拠せし、足利時代の末期(永禄・元亀・天正)の頃奥州の住人、林崎甚助重信が、山形県楯岡在の林崎明神に参籠し、明神の加護に依りて抜刀術の精妙を極め(千城小伝、武芸小伝に依る)称して林崎甚助流又は夢想流ととなえ、我が中興抜刀の祖となす。以来代々・・」とされています。
また、上記の北条泰時の第2子説などの事も俗説として追記されて居ます。

北条泰時は鎌倉幕府の執権で元久2年1205年~仁治3年1242年まで務めています。秀吉の天下取りは本能寺の変が天正10年1582年から始まります。

林崎甚助重信公資料研究委員会の林崎明神と林崎甚助重信によれば、

天文11年1542年 浅野数馬と菅野の間に幼名民治丸 生誕
天文16年1547年 浅野数馬、坂上主膳に暗殺さる
天文18年1548年 民治丸、東根刑部太夫について武術修行
天文23年1554年 民治丸林崎明神に祈願
弘治2年 1556年 民治丸林崎明神に百日参籠し抜刀の神伝をさずかる
永禄2年 1559年 民治丸元服、林崎甚助重信と改め林崎流を称し仇討の旅に出る
永禄4年 1561年 京で仇討、帰郷し「信国」奉納

*林崎流は大よそこのような事とされている様です。今から450年程前に始祖林崎甚助重信公によって始まった居合ということでしょう。
全居連の地区審査に於ける昇段審査学科試験問題では居合の中興の祖は林崎甚助重信、
時代は永禄年間(約四百数十年前)、神社名は林崎居合神社、所在地は山形県村山市楯岡
が出題されています。

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