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2014年9月

2014年9月30日 (火)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事七本目順刀

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事

 七本目順刀

 右足を立左足を引くと一処に立抜打也又は八相に切跡は前に同じ

*「跡は前に同じ」のところは前回の六本目流刀の納刀法について同じと言うのでしょう。
「刀をすねへ取り逆手に取り直し納る膝をつく」

現代居合では大森流(正座の部)七本目は介錯です。切腹者の首を討つ介錯として位置付けられています。

正座し右足を立て、左足を後方に引くと同時に刀を抜き打ち込む、または八相に切る。
正座し、刀に両手を掛け、腰を上げて爪立ち、右足を前に踏み立て、立ち上がりつつ左足を後方に引きながら刀を抜出右肩に構え、右半身となって踏み込まずに打ち下す、縦切又は八相(ななめ切)とする。

安永五年1776年の林益之丞政誠による英信流目録大森流居合之位「順刀」

是は座している前のものを切る心持なり我其儘右より立すっと引抜かたより筋違に切也是も同じく跡はすねへ置き逆手に納る也

*古伝は順刀を介錯の運剣動作としている様な文言はどこにもありません。口伝口授だったのでしょう。
順刀は介錯と業名が変えられ正式な演武では演じてはならないといわれています、この事も古伝には触れられていません。

介錯について、「介錯口傳」として英信流に伝わっている一説
古代には介錯を好まず其故は介錯を武士の役と心得べからず死人を切るに異らず故に介錯申付けらるゝ時請に秘事有り介錯に於ては無調法に御座候但し放討ちならば望所に御座候と申すべし何分介錯仕れと有らば此上は介錯すべし作法に掛るべからず譬切損じたりとも初めにことわり置たる故夫に非ず秘事なり能覚悟すべし

もう一つ、他流にて紐皮を掛ると云う事「仰向に倒るゝを嫌てひも皮を残すと云う説を設けたる見えたり当流にては前に云う処の傳有故に譬如何様に倒るゝとも失に非ず其上紐皮をのこすの手心何として覚るべきや当流にては若し紐皮かゝりたらば其の儘はね切るべしさっぱりと両断になし少しも疑の心残らざる様にする事是古也

大森流(正座の部)七本目順刀(介錯)
剣理:座したる我れの正面にて約四尺(約20cm)向うにて、左向きに座して切腹する者の首を斬る意也(罪人の斬首に非ざる事に留意すべき事)(切腹者の首の前皮一重斬り残す心地こそ大切也)

*現代居合では、「正面に向きて正座、右足を少しく前へ出しつつ、刀を静に上に抜き、刀尖が鞘と離るゝや右足を後ろへ引き、中腰となり、刀を右手の一手に支え、右肩上にて刀尖を下し、斜の形状とす、右足を再び前方に出し上体をやや前方に屈し刀を肩上より斜方向に真直に打下して、前の首を斬る。」(大江・堀田著剣道手ほどきより)

大江先生も、紐皮を残す介錯については何もおっしゃっていない様です。
昭和13年の河野先生の「無双直伝英信流居合道」にはこの介錯について、5ページ以上に渡って解説されています。そこでは「右手を中心とする手の裡の作用にて、皮一重の辺りにて刀を留むる心持にて行うべし」とされています。
この河野先生の教えが広まったのでしょう。
古伝は紐皮を残す様な斬り方は、人の首で稽古できるわけも無く気にするなと言っている様です。

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2014年9月29日 (月)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事六本目流刀

神傳流秘書を読む

 3.大森流居合之事

 六本目流刀

 左の肩より切て懸るを踏出し抜付左足を踏込抜請に請流し右足を左の方へ踏込み打込む也扨刀をすねへ取り逆手に取り直し納る膝をつく

*この手附を何度も読み直し、イメージを浮かべるのですが「・・踏出し抜付左足を踏込み抜請に請流し」で先ずつまずき、次の「右足を左の方へ踏込み打込む」で戸惑います。

古伝は抜けだらけですが、現代居合の無双直伝英信流や夢想神傳流、剣連の制定居合などに捉われずに稽古したいのですが、隠された部分が口伝・口授の部分に秘密が多いこともあるでしょう。
文章に従ってやってみましょう。

座して居る処、左の方から相手が斬って懸るのを、刀に手を掛け爪立つや左膝を浮かして刀を抜き懸ける、相手打込んで来るや左足を踏み込み抜請けに顔面頭上で相手刀を請け流す、受流されて態勢を崩す相手に左足を向け、右足を左足に踏み揃え相手の首に打ち込む。
刀尖を膝下に取り右手を逆手に持ち替え納刀、納刀と同時に膝を着く。

演武では正面向きであろうと、右向きに座す、右45度に座すなりでしょうが、兎に角左側から相手が打込んで来るのを請け流すのです。
右足の踏み込むタイミングは、一旦右に踏み出し左の足に踏み揃える様に現代居合は指導されますが、此処では座した右足の位置の儘左足を体前に踏み込んで、相手刀を請け、相手刀を左下に流す様に刀を左に振り込む際右足を左足に踏み揃える様に踏み込み同時に左足先も左に流れる相手の体に向け踏み替え打ち下す。

イメージは体を躱しつつ受け流すのでしょう。古流剣術に一般的な円運動に依る筋変えの請け流しです。

安永五年1776年の林益之丞政誠の英信流目録大森流居合之位流刀六本目流刀

是は座し居る処へ左横脇より討かかり来る也其時我は左の足を立少々前へふみ出し横に請流す心持にて其儘右の足をふみ出し筋違いに切り跡はすねへ置き柄を逆手に取直し納むるなり

*この英信流目録は古伝神傳流秘書の流刀の動作でしょう。

大森流(正座の部)六本目流刀(受流)
剣理:正面に対し我れ右45度斜め向きに座し居たる時、対敵正面上位より斬り込み来るを、我れ立ち上がりながら斬り込み来る敵刀を受け流して、我が体を捻りながら、体の流れたる敵首へ(角度によっては肩へ)斬り下ろし勝つ意也。

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2014年9月28日 (日)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事五本目陽進陰退

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 3.大森流居合之事

 五本目陽進陰退

 初め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜き付け跡初本に同じ

*陽進ですから抜き付け不十分で逃げる相手を追い込んで左足を踏み込んで打込む、十分と見て刀を横に開いて納刀する。
ここで何故大森流の血ぶるいでは無いのでしょう。前方に第二の相手を意識しているのでしょうか。
納刀して居ると前方から第二の相手か、斬り倒したはずの相手か、打込んで来るので左足を後方に引き間を外すや抜き打に斬り付ける、此処が陰退でしょう。
即座に上段に振り冠って右足を踏み込んで打込む、血ぶるいし立つ時右足に左足を引き付け、納める時右足を後方に引いて納刀する。

この動作は中山博道系の無想神傳流の大森流「陰陽進退」でしょう。
神傳流秘書の大森流之事五本目「陽進陰退」がどこで「陰陽進退」になったのでしょう。
業のイメージは古伝の「陽進・陰退」でしょう。

この業の替え業でしょうか、前方の敵を斬りたるのち敵再び足に斬り付け来るを応じて防ぎ続いて斬り倒す意(大森流・長谷川流・伯耆流居合術手引白石元一著大森流居合術陰陽進退)と言う業が現代居合に残されていて、無双直伝英信流の八重垣となっています。

第12代林益之丞政誠の安永5年1776年の英信流目録大森流居合之位「陽進刀・陰退刀」

陽進刀 是は正面に座する也右の足一足ふみ出し立なりに抜付左をふみ込み討込む也すぐに右脇へ開き其儘納む也
陰退刀 其儘左の足を跡へ引其時亦抜付打込み血ふるひの時立左の足を右に揃え納る時右を一足引也

この大森流(正座の部)陽進陰退の形はどうやら夢想神傳流が引き継いだようです。
無双直伝英信流正座の部五本目は陽進陰退は八重垣に業名を変えて古伝の仕方を特定してしまった様です。

大森流(正座の部)五本目陽進陰退(八重垣)
剣理:対座せる対敵の首(又は顔面・腕)に斬り付けたるも不十分にして、対敵後退せんとするを、透かさず追い込みて双手上段より斬り倒したるに致命に至らず対敵倒れし処より我が右の脛に薙ぎ来るを我れ立ち上がりながら受け留め(払い留め)、反撃して勝つ意也。

無理やり想定を作ったようなと、思いつつ稽古をしています。
抜き打ち不十分で追い込んで打ち込み、充分斬れたと判断し、血ぶるい納刀している時に、敵が死力を振り絞って足に斬り付ける。
抜き打ち不充分も情けないし、充分打込んで瀕死の相手が死力をふり絞るのも腑に落ちません。
二人目の敵の方がすっきりしますが、大森流は基本的に一体一の攻防の様です。
二人目であればこれも腑に落ちません。

然し、あり得ない事では無いでしょう、抜き付け不十分と思ったら素早く追い込み第2刀の打ち込みをする事。
充分に気配りした何時如何なる事態にも応じられる態勢で気を持った残心、納刀をする。
第二の相手であれ、第一の相手が死力を振り絞ってであれ、どの方角からでも何処に仕掛けて来ても、相手の攻撃を外して応じる稽古業です。
大森流(正座の部)の最も生き生きした素晴らしい業でしょう。

初発刀から機先を制して先、先と仕掛けて陽進まで稽古しました。陰退で後の先の心持を学ぶことになります。

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2014年9月27日 (土)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事四本目當刀

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事

 四本目當刀

 左廻りに後へ振り向き左の足を踏み出し如前

*「左廻りに後ろへ振り向き」ですから、相手は我が後方に座し、我れ害意を察し、左廻りに後ろに振り向き左の足を踏み出し抜付け打込む。

現代居合では大森流(正座の部)の左刀(右)が右脇の相手の害意を察し、機先を制して左廻りに振り向き抜付け打込むのです。この大森流(正座の部)當刀(後)は相手は後ろに我と同方向を向いて座すとしています。
現代居合の左刀(右)が90度左へ振り向くならば、この當刀(後)は180度左廻りに振り向くわけです。

左刀(右)が左廻りの回転業であれば、當刀(後)も左廻りの回転業です。
右廻りの回転業が右刀(左)ですが、右廻りの當刀(後)はセットされていません。何故でしょう。
右廻りの當刀(後)はやってみれば容易です。
前後左右360度何れに相手が居ようと右廻りも左廻りも応じられる様に稽古するのも良さそうです。
もう一度大森流之事の初発刀から四本目まで古伝神傳流秘書を読み直します。

一本目初発刀(前):右足を踏み出し向へ抜付打込・・・
二本目左刀(右):左の足を踏み出し向へ抜付け打込・・・
三本目右刀(左):右足を踏出し右へ振り向抜付打込・・・
四本目當刀(後):左廻りに後へ振り向き左の足を踏み出し如前・・

木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神伝重信流傳書集及び業手付解説」では、夢想神傳重信流「表身右剣・右身左剣・左身右剣・後身左剣」より取り入れた業であると解説されていますが、その「夢想神傳重信流」なるものが何処に有るのか見当たりません。
奥州地方の林崎流(三春藩)の根元之巻には、表・左・右・後の区分に業名が複数記述されています。
秋田藩の林崎流居合では、向之次第・右身之次第・左身之次第などに複数の業名が書かれています。
そこでは業は敵との位置関係による工夫が見られます。
然し木村先生の様に言い切るだけの資料にはなりません。
ご存知の方はご教授ください。

安永5年1776年の第12代林益之丞政誠による英信流目録の大森流之位當刀

是は後に向て座す也正面へ左より廻り左の足を出し抜付すぐに打込み血ぶるひの時立右の足を左に揃納る時左を一足引納る也

江戸で荒井勢哲清信に英信流を伝授され土佐に持ち帰った林六太夫守政は享保17年1732年に亡くなっています。
子供が幼かったので後を継いだのは安田道元と云う医者の次男坊を養子に貰い家督と居合を伝授した、それが第10代林安太夫正詡です。
此の人が神傳流秘書を書いたかも知れません。
安永5年1776年に林安太夫正詡は急死して、第11代が大黒元右衛門清勝で此の人の伯母が第9代林六太夫守政の奥さんです。
英信流目録を書いたのが先の林益之丞政誠です。後に第12代となっています。
神傳流秘書は1732年以前に書かれていたかそれ以降1776年までの間に書かれていたのか判りません。
然し林六太夫の亡くなった年に書かれた英信流目録ですから、神傳流秘書の抜けは補ってあります。

左刀は左脇の相手に抜き付ける、右刀は右脇の相手に抜き付ける事がこの林益之丞の英信流目録で証明されているようなものです。

大森流(正座の部)四本目當刀(後)
剣理:我れ正面に対して後向きに座し、我が後方に座せる対敵に対する業にして、(対敵も我と同様我が後方に我と同じく後向きに座したる状態にある)
第一本目「前」と同意義也。然して第二本目「右」と同じ態にて実施する。

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2014年9月26日 (金)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事三本目右刀

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事

 三本目右刀

 右足を踏み出し右へ振り向抜付打込血震納る

*座仕方は正座であるかは文章上では見られませんが、無双直伝英信流を業ずる者は大森流は正座と刷り込まれています。
大江先生の正座の部の業が大森流と同じものとしてこれも認識されています。
但し、何故か業名が古伝と変わっています。

古伝神傳流秘書の大森流居合之事「右刀」は無双直伝英信流居合正座の部では三本目「左」となります。右、左が逆になります。
古伝は相手を意識して、我が右側に相手が我と同様に座すのですが、大江先生の正座の部の「左」は道場での正面に対し我は左向きに座すことを意味します。
相手は古伝と同様に我が右側に座している想定です。

前回の左刀は、「左の足を踏み出し向へ抜付け打込み」でした。
今回の右刀は「右足を踏み出し右へ振り向抜付打込」と明らかに回転する業を示しています。
「右刀」が相手が右側であるかどうかは、この「右へ振り向」の文言が示しています。右に振り向いて我が右側に座す相手に抜付け、打ち込むのです。
右足を踏み出してから右に振り向く動作は現代居合では不自然ですが、左膝が軸であれば問題は無いでしょう。
腰を上げ爪先立つや、少し右足を踏み出し抜き付ける時更に踏み出すのも出来るはずです。

次の四本目當刀では「左廻りに後へ振り向き左の足を踏出し如前」ですから、振り向いてから踏み込んで抜き付ける現代居合の「後」の動作です、チョット気になる処です。
土佐の居合を知らなければ何と云う事でも無く通過してしまいそうです。

古伝はこの様に短い文章だけですから、抜けた動作の細部は師匠からの口伝・口授であり看取り稽古で覚えていくのでしょう。余り厳密に形に拘るべきでは無く、考えられる想定は、稽古して置く位の余裕が欲しいものです。

第十二代林益之丞政誠の英信流目録による大森流居合之位三本目「右刀」
是は左脇へ向て座する也右へ廻り右の足をふみ出し抜付して討込血ぶるひの時左の足を右に揃納る時右を一足引納る也

*これはもう、現代居合そのものです。
此の目録は安永五年1776年に書かれたもので、嘉永五年1852年第十五代谷村亀之丞自雄によって書写されたものです。

江戸で無双神傳英信流を習ったのは、林六太夫守政です。年表を付記しておきます。

寛文21662年 林六太夫守政生まれる

享保171732年 第9代林六太夫守政没す 70

明和元年1764年 林安太夫政詡 居合兵法極意秘訣を誌す

安永51776年 第10代林安太夫政詡没す

11代大黒元右衛門清勝

12代林益太夫政誠 英信流目録2巻書く

文政21819年 山川久蔵幸雅 神傳流秘書を写す

嘉永51852年 第15代谷村亀之丞自雄 英信流目録2巻を写す

大森流(正座の部)三本目右刀(左)
剣理:我れ正面に対して左向きに座し、我が右側に座せる対敵に対する業にして(対敵も同様左向きに座したる状態にある)第一本目「前」と同意義也。然して第一本目と同じ態にて実施する。

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2014年9月25日 (木)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事二本目左刀

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事

 二本目左刀

 左の足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震して立時足を揃え左の足へ踏み揃え左足を引て納る 以下血震する事は足を立替え先踏出したる足を引て納る

*この手附では、我はどのように座し、相手は何処に居るのか判断に苦しみます。
「左の足を踏み出し向へ抜付け」をやってみます。正面に向いて座し、左足を踏み込んで正面の敵に抜付ける、是でも間違いはなさそうです。

初発刀は右足を踏み出し正面に抜付ける、二本目の左刀は左足を踏み出し正面に抜きつける。
何の不思議も無いのですが、何故正面の相手に右足だ左足だと踏み込み足を変える必要があるのでしょう。
左刀とは踏み込み足をさして言っているのでしょうか。

そこで、次の三本目右刀を読んでみます。
「右足を踏み出し右へ振り向抜付打込血震納る」

右刀は、右へ振り向いて抜付けています。相手は右脇に座すと読めます。
足の踏み込みではなく相手の座す位置が右脇で、我は右廻りに振り向き右足を踏み込んで抜付ける業です。
左刀・右刀とセットにすれば、左刀は相手が左脇に座すので左廻りに振り向き左足を踏み込んで抜き付けると判断できます。
でも、左刀には「左廻りに振り向き」などと言う文言は無いのです。

次の四本目當刀はどうでしょう。
「左廻りに後へ振り向抜付打込血震納る」

當刀は相手は後ろに居ると読めます。
ところが、當刀は左廻りに振り向いて抜付けています。右廻りでも問題はありません。
左廻りを指定する理由は何でしょう。

現代の無双直伝英信流では、稽古の仕方は以下のようになっています。
一本目は正面向きに座し右足を踏み出し正面の相手に抜付け打込。
二本目は右向きに座し左廻りに振り向き左足を踏み込んで左脇の相手に抜付け打込。
三本目は左向きに座し右廻りに振り向き右足を踏み込んで右脇の相手に抜付け打込。
四本目は後向きに座し左廻りに振り向き左足を踏み込んで後方の相手に抜付け打込。

この神傳流秘書の大森流之事二本目左刀は初発刀と同様に正面向きに座し左足を踏み出して正面の相手に抜付け上段に振り冠って真向に打込み、血ふるいの際、踏み出した左足に右足を引きつけて立ち上がり、左足を引いて納刀する。
左右の足の踏み出しを教え、踏み出した足に後足を引き付けて立ち上がり、踏み出した足を引いて納刀する事を教えている様にも思えます。
三本目の右刀とのセットで左刀は左廻り、右刀は右廻りを習うのも何らおかしくはないのですが、敢えて、「左廻りに振り向き」の文言の無い処に古伝の味わいがある気がします。
「左廻りに振り向き」は四本目當刀にあるので、古伝は稽古はできる様になっています。
當刀の右廻りを稽古して前後左右自由自在に出来て、「出来た!」でしょう。

参考に、第十二代林益之丞政誠による安永五年1776年の英信流目録を第十五代谷村亀之丞自雄が嘉永五年1852年に書写している中に、大森流居合之位に二本目左刀がありますからこれを読んでみます。

左刀:是は右脇へ向て座る也ひだりへ廻り左の足を一足ふみ出抜付すぐに打込亦血ぶるひをして立時右の足を左に揃納る時左を一と足引納る也

神傳流秘書の抜け「左廻りに振り向き」を補っています。
是では、謎が深まるばかりです。先師の教えを無にしてしまいます。神傳流秘書の2本目左刀は左足を踏み出し正面に抜き付けるでいいのでしょう。
360度右廻りも左廻りも、相手次第に稽古をして見ます。
ついでに右足踏み出し、左足踏み出し、どの角度にでも自由自在に抜き付けます。
更についでに、立膝で360度の回転業を稽古して見ます。

英信流(正座の部)二本目左刀(右)
剣理:正面に対して我れ右向きに座し、我が左側に座せる対敵に対する業にして(対敵も同様右向きに座したる状態にある)我が左足を踏み込みて斬り付ける態にして、第一本目「前」と同意義也。

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2014年9月24日 (水)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事一本目初発刀

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事

 一本目初発刀

 右足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震し立時足を前の右足へ踏み揃へ右足を引て納る也

*大森流居合は正座による居合と教えられていますが、どこにも其れらしき事は書かれていません。

嘉永五年1852年に第15代谷村亀之丞自雄によって書写された、安永五年1776年に書かれた第12代林益之丞政誠による英信流目録の大森流居合之位によれば初発刀は次のように書かれています。

平常の如く坐し居る也右の足を一足ふみ出抜付討込亦左の足を出し右の足に揃え血ぶるひをして納むる也血ぶるひの時立也右を引納る也

ここにある、「平常の如く坐し」がこの業の座仕方でしょう。
正座の座仕方が平常の如くと言えるかどうかですが、江戸時代の武家の作法に小笠原流が取り入れられ立膝や胡坐を正座に改められたような説があるようです。
元禄時代頃の様ですが作法の歴史に詳しい方にお譲りしておきます。

初発刀は正座に座し、相対する相手の害意を察しその機先を制して右足を踏み出すや正面の相手に横一線に抜き付け、上段に振り冠って真向に打ち込み、さて、血ぶるいし立つ時、踏み出した右足へ左足を引き付け、踏み揃え、右足を後方に引いて納刀する

「抜付け」と「打込み」とはどのようにするのでしょう、「血ぶるい」についても方法が書かれていません。

口伝口授によるものだったのでしょう。古いものでは万延三年1860年下村派の下村定が書き細川義郷が写した「童蒙初心之心持」に詳しく書かれていますが、神傳流秘書の時代から100年経って居ます。ここの方法は現代の無双直伝英信流の抜付け、打込みと同様と思われます。
抜刀心持引歌で云う処の形で多少半開半向の三角の曲尺による抜き付けであり、真向打ち込でしょう。
血ぶるいも現代の方法と変わらず、右手を肩上に取って刀を圓を画く様に右下に振り下すものです。
納刀も右手を前に出さず横に取らず上から落とさず中和を良しとするとあります。

血ぶるいの時、立ち上がって右足に左足を引き付け踏み揃えるのは、現代の夢想神伝流では左足の右足への引き付ける動作にズレがあるようです。足の踏み替えですからタイミングをどうすべきかは残心の考え方によりそうです。

大森流居合(正座の部)初発刀(前)
剣理:正面に対座せる対敵の害意を察知するや、機先を制して其の(対敵の)抜刀せんとする腕より顔面(首とも胸とも想定可)にかけて、我が右足を踏み込みて斬り付け、返す刀を双手上段に冠りて真向に打下し(斬り下ろし)勝ちを制する意也。

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2014年9月23日 (火)

神傳流秘書を読む 3.大森流居合之事の1序

神傳流秘書を読む

3.大森流居合之事の1序

 此の居合と申すは大森六郎左衛門の流也英信流と格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候六郎左衛門は守政先生剣術之師也真陰流也上泉伊勢守信綱之古流五本之仕形有と言或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶
(記 此の五本の仕形の絶えたるは残念也守政先生の伝是見当たらず)

*大森流と云うのは大森六郎左衛門の流儀である、英信流と格段の違いが無いので相談してこの居合に(英信流に或は無双神傳英信流)入れたと言っています。

林六太夫守政が誰と話したのでしょう、長谷川英信、荒井勢哲でしょうか、不明です。

この大森流居合と言うのは、大森六郎左衛門と言って(第九代)林六太夫守政先生の剣術の師匠が伝えたもので、大森六郎左衛門は「真陰流」である。
上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形(勢法、組太刀)が有ると言う。
或は宮本武蔵の卍石甲二刀の極意も林六太夫守政先生は授けられていたが、守政先生で絶えてしまった。

(曽田先生 記 この上泉伊勢守信綱の五本の仕形絶えてしまったのは残念な事で林六太夫守政先生の伝書は見当たらない)

ここで、大森六郎左衛門ですが、その出自も武道家としての経歴も不明です。
大森六郎左衛門は「真陰流」であったと言っています。
文字に誤りがなければ「真陰流」は武術流祖録によれば、天野傳七郎忠久によるもので、
「水戸家の人なり、真野文左衛門と云う者に愛洲陰流の刀術の妙旨を得、また兵学軍礼に達し,流名を改て真陰流と号し、其の門多し。」

愛洲陰流は、同じく武術流祖録によれば、愛洲移香によるもので「何れの人なるかを知らず、九州鵜戸岩谷に参籠して霊夢を蒙り兵法を自得す、潜に愛洲陰流と号し、その子七郎其の伝を継ぐ、小伝に上泉其伝を得たりと云う」

上泉伊勢守信綱は愛洲陰流を得て後、神陰流と改めています。「上州の人也、長野信濃守に仕え箕輪城に在り、武功最も盛んなり。甲陽軍鑑、愛洲陰流の刀槍を学び、精妙を得、工夫を加え、この飾を潤し神陰流と号すとあり。
伝記に曰く松本備前守政元に従い鹿島神陰流の奥旨を学び後改めて新陰流と云う、永禄六年長野家信玄に滅ぼされ、信玄上泉麾下招く、辞して仕えず、以て諸州に遊び其の門若干。其の宗を得る者多し、神後伊豆守、疋田文五郎、柳生但馬守、丸女蔵人太夫、那珂弥左衛門、塚原卜伝、奥山孫次郎等なり。」

大森六郎左衛門の剣術がいずれの門にあったかは不明ですが、真陰流は新陰流とも取れそうです。林安太夫の居合兵法極意秘訣を読んでいますと、新陰流の影がちらつくことがあります。
上泉伊勢守の古流五本の仕形はどの様なものであったか判りませんが、柳生新陰流からは大森流居合の参考となる仕形は拾い出せません。
ここは、新陰流の勢法五本を言うのだろうと思います。三学円の太刀・九固の太刀・天狗抄・燕飛・奥の太刀であったかも知れません。或は上泉伊勢守の古伝三学円の太刀の「一刀両断・斬釘截鉄・半開半向・右旋左旋・長短一味」の五本かも知れません。

次の武蔵守は宮本武蔵の二天一流でしょう。二刀流を学んだ可能性もあるでしょう。卍石甲については不勉強で解りません。

大森流居合は大森六郎左衛門の独創であったかもしれません。
しかし奥州地方に残る林崎新夢想流の居合の形を見ていますと、戦場での立膝の座仕方を江戸期の正座に置き換えたものの様で時代に即し改良形とも取れます。

むしろ英信流の方が立膝の座仕方をしており古流のままの仕形かもしれません。

大森流居合を一本ずつ味わいながら稽古して見ます。

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2014年9月22日 (月)

神傳流秘書を読む 2.居合兵法伝来

神傳流秘書を読む

2.居合兵法伝来

 林崎神助重信-田宮平兵衛業正-長野無楽入道槿露斎-

 百々軍兵衛光重-蟻川正左衛門宗続-萬野團右衛門信定-

 長谷川主税之助英信-荒井兵作信定(勢哲清信)-

林六太夫守政-大黒元右衛門清勝-松吉八左衛門久盛-

 山川久蔵幸雅-(下村茂市定)-(行宗藤原貞義)-

 次に曽田虎彦

 目録には無双神伝英信流居合兵法とあり 是は本重信流と言うべき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也

*居合兵法が伝来する道統が書かれています。
始祖は林崎神助重信と書かれています。林崎甚助重信の間違いなのか敢えて神助にしたのか分かりません。
以後の土佐に於ける根元之巻は林崎神助重信を筆頭に上げています。戦後の根元之巻は林崎甚助重信になっていますが、変えた理由もなく不思議なものです。

9番目の林六太夫守政の後は林安太夫政詡のはずですが、ここでは抜けています。おそらくこの居合兵法伝来は林安太夫政詡の執筆に成ると思われます。
従って林六太夫までしか元の伝来は書かれていなかったと思われます。
大黒元右衛門勝清以降は、神傳流秘書の書写をした山川久蔵幸雅が追記したか、曽田先生が追記したのでしょう。括弧内は明らかに曽田先生に依るでしょう。

目録には「無双神伝英信流居合兵法」とあるが、是は本来重信流と言うべき筈のものであるが、長谷川英信は林崎神助重信以降の達人なので、英信流とも称する。とされています。
奥羽地方に残された根元之巻では林崎流、林崎夢想流、林崎新夢想流の流名が一般的です。
重信という名を流名に使っていません。それに根元之巻にあるように、林崎明神の霊夢によって居合の妙を得たということですから、「無双神伝・・」の冠は少々おかしいでしょう。
「夢想神伝英信流」であるはずです。
百々軍兵衛光重、蟻川正左衛門宗続、萬野團右衛門信定については、情報がありませんが、長谷川主税助英信、荒井勢哲清信は北信濃の松代藩にその足跡がみられるレポートが南山大学の榎本鐘司先生から上げられています。それによると「無双直伝流」として伝承された様にあります。
江戸詰めの林六太夫が荒井勢哲に無双直伝流を習った可能性は時代の重なりからありうるかも知れません。
無双直伝流の「居合根元之序」は土佐のものに近いものです。ただし霊夢を受けたのは土佐における林崎神助重信ではなく林崎甚助重信です。
神助と甚助については単なる間違いか、意図的なものなのかわかりません。
この件は興味のある方がさらに突っ込んで研究されることをお願いしたいと思います。

土佐の林六太夫以後の居合はこの神傳流秘書にあるもので藩主山内家に守られてきたものでしょう。
現在の無双直伝英信流は、林六大夫によって土佐に持ち込まれ、醸成され林崎甚助重信の林崎流でも無く、長谷川英信の英信流として発展を遂げたものなのでしょう。
そして、その後も進化しつつ第17代大江正路先生の居合と、第20代河野百錬先生の居合とは少しずつずれて来ている様に思います。
それは、足捌き、体捌きに在る様に思うのです。

古伝は飽くまで武術として闘争の術です。
大江先生は其の事を残し乍ら居合文化の伝承に力を入れられたのでしょう。
河野先生は居合文化の伝承に加え現代風の竹刀剣道との互換性を取り入れられた様に思います。

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2014年9月21日 (日)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の17終章

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1.抜刀心持引歌の17終章

 敵色々と有りて我をだますと由油断する事勿れ例えば鞠を蹴るに同じ我が鞠と人の鞠との色をよく見る事也

敵をたゞ鞠と思いて皆人の
         つめひらきせばいかににがさん

 本来の事より出て事に入り
          あわれ知らばや事の深さは

 吹けば鳴る吹かねば鳴らぬ笛竹の
          声の良しとは何を云うらん

 打解けてねるが中なる心こそ
          誠の我を顕わしにけり

 引きよせて結べば柴の庵にて
          解れば本の野原なりけり

 兎に角に言うべき様はなかりけり
          九重の塔の上のあししろ

 唱ふれば仏も我も無かりけれ
          南無阿彌陀佛の声ばかりして

 極楽ははるかに遠く聞きしかど
          唱えて到る所なりけり

 居合心持引歌終

*抜刀心持引歌の最終章です。
敵は色々の策を講じて我を陥れようとするものです。油断してはなりません。例えば鞠を蹴るにも似て、同じ鞠でも敵の蹴る鞠と我が蹴る鞠の状況をよく見て応じるものです。

敵をたゞの鞠と思って詰め寄ったり開いたりすればどうして逃げおおせられるだろうか。

本来此の様であるはずの事でも、実際に打ち出される事では思った様にはならないものです、それを如何に応ずるかの事の深さでしょう。

竹笛なども吹けば鳴るし吹かなければ音もしない、単なる音と聞くのでは無く、音の良し悪しのように何を知らせるのか見極めるのである。

打ち解けて、寝るほどの中になって、初めて誠の心を知るものです。そのように敵の思いに打ち解けていく事によって敵の心が読めるものです。

柴で組み上げた庵ですら、解けて崩れてしまえば本の野原でしょう。無心になって策を見抜くものです。

兎に角、何と言おうと、九重の塔の上に掛けた足場の様なものです。意味のない虚飾に騙されてはいけません。

仏にすがって南無阿彌陀佛を唱えてみても仏も我も無いもので念仏ばかり聞こえるだけです。

極楽は遥か遠くにあると聞いていますが、無心になって極楽・極楽と唱えて到る処なのでしょう。

居合の心持引歌を終わります。

歌の解釈は、それぞれの修行の至る中でどの様に聞こえてくるのかが違うのではないかと思います。かと云って独り善がりの思いでは、勝を得る事は出来そうにありません。
居合は、拍手を求める見世物でも無く、ルールに従った強さとテクニックによるスポーツでも無く命を懸けた武術です。
心持引歌はそう語っている様に思えてなりません。

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2014年9月20日 (土)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の16瀧落

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1.抜刀心持引歌の16瀧落

 瀧落

 瀧津瀬の崩るゝ事の深ければ
            前に立添う者もなき哉

*流れ落ちる瀧の勢いに岩も削り取られ、落ちる瀧を阻む者も無い様だ。

瀧落は、座している処、後ろから鐺を取られたので、敵の手を振り捥いで、刀を抜くや振り向いて敵の胸部に刺突し真向に切り下ろす、という大技です。

敵に後ろから鐺を取られ静かに立ち上がる処は、緩い渓谷の流れで、そこから瀧の落ち口を一気に落ちるように敵の手を振り捥ぎ、刀を抜き出し後ろに反転し刺突する処は瀧の落下の如く怒涛の様に突き込んで行く・・留目は滝壺。

英信流(立膝の部)九本目瀧落
剣理:我れ後ろ向きに立膝にて座し居たる時、我が後方の敵が、我が刀の鐺を上より握りたるを、我れ立ち上がりながら、敵の握りたる拳より我が鐺を捥ぎ取りて、振り返りざま敵の胸部を刺突し倒るゝ処を真向より斬り下ろして勝つ意也。

*英信流の業歌は以上です。
歌の持つ響きや、情景を浮かべながら、英信流を抜くのも良いでしょうが、どうもぴったしこないのは、歌心を感じる感性の無さなのか、はたまた勝手な空間刀法に毒されているのか、歌と業を絡めた解説をされた先生はなさそうです。

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2014年9月19日 (金)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の15浪返

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1.抜刀心持引歌の15浪返

 浪返

 あかし潟瀬戸越波の上にこそ
           岩尾も岸もたまるものかは

*明石の海峡に打ち寄せる波に岩尾も岸もたまったものではない。という歌でしょう。
浪返は、後ろに座す敵の害意を察し、振り向きざま抜き打ちに斬り真向に切下ろすという業です。
歌のイメージを被せれば、怒涛の様に打ち寄せるが如く、後ろに振り向き、左足を後ろに引いて横一文字に抜きつけ即座に上段に振り冠って真向に打ち下ろし勝つ、敵には何もさせない様な鋭く威圧する気を持った振り向きの動作が必要でしょう。

敵にすれば押し寄せる波のように迫ってくる我に、一瞬戸惑う瞬間です。
我は左足を引いて抜きつけます。敵には引く波の中から切っ先が不意に顔面に伸びて来る様に思えるでしょう。

英信流(立膝の部)八本目浪返
剣理:我れ後方に向き座したるに、我が後方にて我れと同じく後ろ向きに座し居たる敵の機先を制して、正面に振り向きざま、其の敵の首に斬り付け勝つ意にして、正座の「後」の業と同意也。

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2014年9月18日 (木)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の14鱗返

4神傳流秘書を読む

.抜刀心持引歌の14鱗返

 鱗返

 瀧津浪瀬上る鯉の鱗は
         水せき上て落る事なし

 (虎彦 谷村先生の本には「波返」「鱗返」とあり従て此の歌は前後ならんかと自雄□との特に註あり)

*英信流居合之事七本目鱗返は、左脇の敵が我に仕掛けんとする機先を制して、中腰に立ち上がり右に振り向き、左足を後ろに引くや横一文字に抜き付け、真向に切り下す業です。
瀧を遡上し鱗を光らせる鯉は、瀧の落ち口まで上がって水を関上げても落ちることはない。と言うのでしょう。
第15代谷村亀之上自雄の本では英信流の七本目が浪返で八本目が鱗返なのでこの歌も前後が入れ替わっているのではないか、と注意書きがある、と曽田先生はメモをされています。

この伝書は山川久蔵幸雅によって書き写されたものですから誤写もあるかもしれませんが、この神伝流秘書以外に古いものはないのでこのままでいいのでしょう。
曽田先生の言われる谷村亀之丞自雄のものの実態が何だか判りません。
元は江戸中期に第9代林六太夫か、その子第10代林安太夫が書いたであろう無双神傳英信流の神傳流秘書の写本です。

歌と業がマッチしているような気がしませんが、鱗返の業名から読まれた歌で、鱗の文字があればよい、程度でしょう。

英信流(立膝の部)七本目鱗返
剣理:我が左側に座す敵の、機先を制して其の首に斬り付けて勝つ意にして、正座の「右」の業と同意義也。

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2014年9月17日 (水)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の13岩浪

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の13岩浪

 岩浪

 行舟のかじ取り直す間もなきは
          岩尾の浪の強く当たれば

*岩浪の業名が先に有ったのでしょう。お題頂戴による歌でしょうから、岩に当たる荒浪の状況と、業の岩浪の動作をイメージして見ます。
岩礁に打ち寄せる浪が強くて、舵を取り直す間もなく乗り上げてしまったと言うのでしょう。

岩浪の場合、対敵の害意が動作に現れないうちに先んじて攻撃して居る様な教えをしている処も有る様です。
刀を抜く処を敵に見せない様に抜出し、敵に向くや否や刺突する。
或は、敵が柄を取りに来るので刀を抜出し、柄を取らせない様にして敵に振り向いて刺突する。

英信流(立膝の部)六本目岩浪
剣理:正面に対し右向きに立膝にて座したる我が左側に、我れと同じ方向に向いて立膝にて座し居たる敵が、矢庭に我が柄を制せんと(押さえんと)するを、その機先を制して、我れ左に向きて其の胸部を刺突して勝つ意也。
(無双直伝英信流居合道解説 22代池田宗家)

右に向かって座す処へ、左側から敵がおそいかかるを察し、刀に両手をかけて腰をあげて後に抜き、左に向きなおり水落目がけて突き上げ、直ちに引きぬいてふりあげ真甲から切り下す動作
(正岡先生 無双直伝英信流居合兵法地之巻)

同一方向に列している左側の彼に対し知られざるよう刀を抜き突如その方に向き直り胸又は腹を突き更に引廻して上段より切下ろして仕止む
(京都山内派無双直伝英信流居合術)

*この業を土佐に伝えた林六太夫守政の岩浪は以下のようです。

左へ振り向き左の足を引き刀を抜左手切先へ添え右の膝の外より突膝の内に引き後山下風の業に同じ
(神伝流秘書英信流居合之事岩浪)

*古伝は、まず腰を上げ左脇に坐す敵に振り向き、左足を後方に引くや刀を抜き、柄頭を以て敵を牽制し、敵が怯む間に切っ先を敵に返すや刺突する、のでしょう。
柄頭を敵に制せられるのであれば、右に抜き出すなど変化は自在です。
いつの頃からか、左脇の敵に振り向かずに刀を前に抜いた人がいたのでしょう。それから限定的付帯条件を付けてしまったようです。

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2014年9月16日 (火)

神伝流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の12山下風

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1.抜刀心持引歌の12山下風

 山下風

 高根より吹下す風の強ければ
         麓の木々は雪もたまらず

*英信流(立膝の部)五本目は山下風、山下風は(やまおろし)と読むのでしょう。現在の無双直伝英信流では業名は颪(おろし)の文字を付けています。広辞苑では「山颪」の文字をもって(やまおろし)としています。たぶん「山下風」では無く「山颪」の文字を山・下・風と縦書きにすると下と風が離れすぎて書かれていて写し違えているのだろうと思います。
大江先生は「颪」を当てていますが(又山おろしとも云ふ)と有ります。
下村派の曽田先生は「颪(山下)」山下風と添え書きしています。

山颪は山の上の方から吹き降ろされる風で、其の風が強く、麓の木々には雪も降り積もらない、と詠んでいます。
英信流(立膝の部)の颪にこの歌をイメージすると、敵が我が刀を取らんと手を出すのを外し、しまったとする敵の顔面を打ち据える、この場面に当てるか、敵の手をするりと外して、ドンと顔面を打ち据え、逃がさじと胸に抜き付ける場面にイメージするか、颪は相手次第です。

英信流(立膝の部)五本目颪
剣理:正面に対し、我れ左に向き立て膝にて座し居たるに、我れと同じ方向を向きて我の右側に立膝にて座し居たる敵が、腰を上げ一歩前に出て振り返りざま、我が柄を取らんとし来るを、我れ腰を上げると共に左方に逃がし、敵手を外し直ちに柄頭を以って敵の顔面人中(眉間)に打ち当て、敵退かんとする処を其の胸部に斬り込み右に引き倒して(押し倒して)、上段より敵胴を両断して勝つ意也。

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2014年9月15日 (月)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の11浮雲

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1.抜刀心持引歌の11浮雲

 浮雲

 麓より吹上られし浮雲の
         四方の高根を立ちつゝむなり

*三河方面を訪れた時、この歌の様な景色によく出合いました。谷間から湧き出る様に雲が山頂を目指して吹き上げられて行きます。山頂付近は浮雲が集まって頂きが見えなくなってしまいます。

この歌と英信流(立膝の部)四本目浮雲をイメージするのですが、立膝から右側の敵が我が柄を取ろうとする手を避けて、ふわ~と立上り、敵が「しまった」と退がろうとするのに合わせて、足を踏みもじて抜き付けて行く。
其の時、勢いよく動作を付ければ敵は慌てて間を離れてしまいそうです。
ふわ~と仕留めるのが心理的にはよさそうです。などとごつごつ演じている人を見て思っています。
無理やり歌に合わせて見ても意味の無い事かも知れません。
お題頂戴して歌を詠んだと言うことも有りえます。
俳句の師匠から、情景に感動して詠むと「それがどうした」とつれない評価です。

英信流(立膝の部)四本目浮雲
剣理:正面に対して立膝にて左に向き、横列に並びて座し居たる右側二人目の敵が、立ち上りて一歩前に出でて我が方に振り向き、我が刀の柄を取りに来たらんとするを、我れ立ち上がりて左斜後方に左足を退き、其の敵の手を外して後、敵、後方へ退かんとするに乗じて其の胸部に斬り付け、右に引き倒し(引き廻し)上段より其の胴を両断して勝つ意也。

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2014年9月14日 (日)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の10稲妻

1神傳流秘書を読む

 1.抜刀心持引歌の10稲妻

 稲妻

 諸共に光と知れと稲妻の
         跡なる雷の響き知られず

*雷はピカッと光った後にゴロゴロと響き渡るので、音の聞こえてくる時間を推し測って近くに落ちたとか遠くに落ちたとか判断し、避難するタイミングを子供の頃から自然に覚えたものです。
随分古い話ですが、木曽駒ケ岳の山頂付近で、雷に見舞われました、それこそ光より音の方が速いと思った事がありました。
恐ろしい、怖いと言うよりもう覚悟してしまったのを思い出します。

この歌は稲妻の様子を歌ったもので、稲光の後に音がすると歌っています。
英信流の三本目稲妻にこじつけると、敵が上段から打込んで来るのを立ち上がり様刀を抜いて小手に抜打ちに切り付ける、ここが稲光の閃光の様に鋭く素早い処でしょう、即座に振り冠って真向に打ち下す処は後から追ってくる雷鳴でしょう。
敵は雷鳴を聞く猶予も無く両断されているのです。
この業を演ずる時あの恐ろしい山の雷を思い出している事も有ります。

英信流(立膝の部)三本目稲妻
剣理:正面に立て膝にて対座せる敵が立ち上がりざま、上段より我に斬り付けんとする其の甲手(両内甲手又は左内小手)に我れ斬り付け、直ちに真向に斬り下して勝つ意也。

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2014年9月13日 (土)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の9虎一足

神傳流秘書を読む

 1.抜刀心持引歌9虎一足

 虎一足

 猛き虎の千里の歩み遠からず
          行くより早く帰る足引き

*虎は千里往って千里還る

虎は1日に千里の遠くへ行ってまた戻ってくる。勢い盛んなことのたとえ。

寅年の干支の処でこんな諺があったのを思い出します。
虎は大きいものは胴長250cm、体重280kg位で縄張りは10~20平方km、一日に徘徊する距離10~20kmだそうです。

この歌は、立膝に座し前面の敵の抜き付けを、左足を引いて刀を切先を下にして抜き打ちに受け払い真向に斬り下す、すさまじい業です。その抜き付ける際の左足は後方に引く其の足捌きの素早い動作を歌に詠み込んだものでしょう。

英信流居合(立膝の部)二本目虎一足
剣理:正面に対座せる対敵が、我が右足に薙ぎ付け来る(斬り付け来る)を、敵刀を払う気持ちにて受け留め、対敵退かんとするに乗じて、斬り下して勝つ意也。

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2014年9月12日 (金)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の8横雲

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の8横雲

 横雲

 深山には嵐吹くらし三吉野の
          花か霞か横雲の空

*ここからの抜刀心持引歌は、神傳流秘書の英信流之事の業名についた歌が並びます。
英信流之事は「是は重信翁より段々相伝の居合を最初にすべき筈なれ共先大森流は初心の者覚え易き故に是を先にすると言えり」と序文が有ります。
英信流は始祖林崎甚助重信から段々に受け継いで来た重信流だと言います。
大森流は林六太夫が大森六郎左衛門から習って取り入れたと言います。ですから第八代までは大森流はこの居合には含まれていないという事になります。
この英信流の和歌は、いつ頃誰が選歌したのか、神傳流秘書の書かれた以前からあったかは不明です。
奥州地方に残る歌にはこれに類する歌は見られません。

土佐に於いて業名とその動作から創作したものでしょう。
しかし業名だけに拘って業の技法上のポイントをついている心得とは思えないものも有る様な気もします。

一首目の横雲の歌には三吉野という地名が有りますが他の歌には地名らしいものは有りませんから、業に合わせて雰囲気を詠まれたものでしょう。三吉野の花は桜です。

遠い三吉野の奥山には春の嵐が吹いているのだろう、さくら吹雪が横雲になって霞の空を吹きつけている

横雲の横一線の抜き付けを当てたのでしょう。
やたら気張って、力いっぱい振り回したり、恐ろしい般若の形相で演じる人などはこのような業歌を口ずさんで、業をイメージして見るのもいいかも知れません。

英信流居合(立膝の部)の一本目横雲
剣理:我が正面に対座する敵(立膝にて)が、我に対して害意あるを察知せる為、我敵に先んじて対敵の首(上腕・胸・顔面)に横一文字に斬り付け、直ちに双手上段に冠りて真向に斬り下して勝つ意にして正座一本目[前]と同意義也。

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2014年9月11日 (木)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の7行違の太刀

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1.抜刀心持引歌の7行違の太刀

 行違の太刀抜事古人大事と言えり 工夫有るべし 歌に

 夏日向冬日の影と歩むべし
           独り行にはさわる人なし

 行違う敵の足に目を付けよ
           手は自ら留るもの也

組合の時太刀抜様が敵組付とはや我身に付て抜事と知れ 歌に

身に付けて抜習有人はただ
           組付かぬ間に切とこそ聞け

 居合とは刀一つに定まらず
           敵の仕懸を留る様有り

 敵太刀打がたき我に切て懸るにはやく抜合せんとすれば必ず負事有能く工夫有るべし 歌に

 居合おば知ったふりしてつかるゝな
           居合の道を深く問うべし

 身の曲尺の位を深く習うべし
           留めねど留る事ぞふしぎや

*行違う時の抜刀については古人は大事な事があるよ、工夫するべきものですと言って歌心を示されています。

夏の太陽は真上から照らし影は短い、夏は陽に向って歩き、冬は影は長く伸びます影を踏む様に歩くのが良い、一人で歩く時には、障りないものである。意味の解らない様な解った様な歌です。
影を意識しながら動きをうかがえと云うのでしょう。

行き違う時敵の足の動きに目をやると相手の次の動きが判るものです。手も留まります。其の機に我が手は自然と合わせるように応じる事、と読んでみましたがどうでしょう。

近頃は、乗り物に乗る事が多く影をとんと意識しないこの頃です。歌の心がスッと飲み込めなくてこんな程度です。

*組合とは、組打ちでしょう、組み合う時の太刀の抜き様は、敵は我が身に組付くや抜刀する心と知るべきである、歌に

自分の身に引き付けておいて太刀を抜く癖のある者との組合は、組まずに切る事である。

居合と云うのは、刀を抜いて切る事ばかりでは無く、敵の仕掛け様とする其の起こりを察して押さえてしまう方法もあるものだ。

*敵の太刀を打ち難い様な時、敵が我に切って懸るのを、負けじと速く抜き合せようとすれば必ず負けるものである。良く工夫すべきものである。歌に

居合を知っている積りで「つかるゝな」が読みこなせません。突かれる、付かれる、疲れる、漬かる、浸かる、どれも該当しそうでそうでもないようです。
居合を知ったふりしてそれに拘り過ぎるな、居合の道を深く問うは深く修練せよでしょう。形ばかりの居合では歌さえも読みこなせないのは何なのでしょう。

先日ある先生の仰る事に、道場で合同体操の様にせっせと手拍子に合わせ抜くばかりで居合の真諦など掴める訳もない、相手の有り様もわからず、座学も出来ない、そんな者を作り出してどうなる。と嘆かれていました。

己の対敵との間合いや攻防の間を知らずに抜き付けても意味は無いでしょう。まして動く敵の柄口六寸の極意などは、仮想敵も描けない空間刀法の稽古では、独りよがりの剣舞でしょう。
下の句の「留めねど留る事ぞふしぎや」は身の曲尺が認識出来ていれば行くも止まるも自由自在だと言うのでしょう。

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2014年9月10日 (水)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の6義公御歌

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1.抜刀心持引歌の6義公御歌

 居合も太刀打も敵と我と立合うといなや是道なくては勝事なし然共上を打たんとして下を打つ様成る事にてなしまっすぐ□行間移行是道有り此処詞にのべ難し数月数年の事修練の巧にて合点行べし能くよく日夜修行有べき事也  義公御歌 古歌に

 きおいくる敵にさりなく出あうな
           あいしらいしてしおをぬかせよ

居合と申は第一に太刀抜かぬ以前に勝事大事也 歌に

 抜ば切れ抜ずば切るな此刀
           たゞ切る事に大事こそあれ

 あまたにて勝れざりしと聞しかど
           心明釼の太刀を楽しめ

*居合も太刀打も敵と我とが立合うや否や「是道このみち」でなければ勝つことはないであろう。
「是道」と読んだのですが、曽田先生も原本を判読出来ず「是道」としています。
木村栄寿先生は「危道」と此処を読まれています。恐らく細川家本は危道と読めたのでしょう。
危・詭・奇ですと孫子の兵法に有る奇抜な、或は欺くとかいつわる方法、相手の裏をかく仕業と、とることが出来そうです。

然れども、上を打つように見せて下を打つ様な事では無い。真直ぐに「行間移行」は間に入るや筋を替るのかもしれません。
木村先生の読み方を借りれば「行間移行の危道有り」、此の処詞に述べ難し。
数か月、数年の修練によって合点出来るものである。よくよく日夜修行する事である。

義公御歌 古歌に 

義公とは誰の事か解りません。水戸光圀、黄門様かも知れません。

気負い込んでかさに掛って来るような敵に、さりげなく相手にするのでは無く、あしらいながらここぞという時に抜かせてそこを打て、というのでしょう。

居合と云うものは第一に太刀を抜かずに勝事が大事である 歌に

抜かざるを得なければ、抜いて無心に切る事、抜かなくて良いならば切るな、然し切る事にのみ大事がある。

次の歌に、多くの者からあれには勝つことが出来ないと聞こえている、然し心明釼の太刀があるではないか、それを楽しむ事である。
心明釼は神妙剣でしょう。
神妙剣は林安太夫政詡による居合兵法極意巻秘訣 印可部の最後にある教えで「我が身をうまうまと振るもうて奥義の柄口六寸をもって構えは如何にも有れ、敵と我と互に打ち下すかしらにて只我は一途に敵の柄に打込む也」の技法であり、「彼が気を先に知りてすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也」とあるように、気を見て兎角して相手に負けずに治める事なのです。

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2014年9月 9日 (火)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の5沈成躰

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1.抜刀心持引歌の5沈成躰

 敵太刀打がたき切て掛るに沉成躰に勝有事の位にて教えし工夫有るべし古語に 寸の虫かがむも身をのびんが為 歌に

 長からむさゝげの花は短くて
          短き栗の花の長さよ

 (沉成躰→沈成体なり 敵に対し我が体を沈め低くする事也、気を落ち着ける事也 曽田メモ)

 右の心にて工夫有べし みな陰合〆陽に出る位あるべし 古人も心は之内に有りとの給う也
ものとしたる(物賭したる 曽田メモ)事に勝負の位知る事なし 深く工夫有るべしこの沈成躰心よりよく敵の心見ゆるもの也
兵法に曰く 端末未だ見ざる人能く知る事莫れと有り 歌に

 悟り得て心の花の開けなば
          たづねん先に色ぞ染むべし

 霜うづむ葎(むぐら)の下のきりぎりす
          有るかなきかの声ぞ聞ゆる

*敵の打込む太刀に応じ難い時に沈成躰によって勝つ事が出来る位がある、工夫すべきである。古い教えに寸の虫でも身を屈めるのも身を伸びようとする為であるとある。
是は、菜根譚の前集116にある「以屈為伸」を言っているのだろうと思います。
「巧を拙に蔵し、晦をもってしてしかも明にして、清を濁に遇し、屈を以て伸となす。真に世を渉るの一壺にして、身を蔵するの三屈なり」身を沈めるのは我が身を安全に保つ蔵し方とでも言うのでしょう。

歌に
 ささげの実は長いどじょういんげんの様であるが花は短く、コロッとした栗の実の花は長いことよ
この歌は尺取り虫の身を屈める姿と合わせて見れば、長は短の元、短は長の元とでも読めばよいのでしょう。
曽田先生の沈成躰に対する解釈は、敵に対し嵩に掛っていくのではなく、身を沈め、気を落ち着ける事だと仰っています。

その様な心で以って工夫するべきものである。相手が大きく出れば小さく、小さく出れば大きく、或は小さく小さくして大きく返していくなど陰合〆陽に相対して応じる位を知ることである。出たとこ勝負の様な賭け事では勝負の位を知ることは出来ない。この沈成躰の様に心を沈めて見れば相手の心も読み取ることは出来るものである。
兵法に相手の心の端を感じる事がまだわからない人には相手を知ることはない、とある。

歌に

 悟りを得て心が開けて無心と成れば、尋ねるまでも無く相手の動かんとする機を感じられるものだ。

 霜に埋もれた葎の下のコオロギのか細い声も聞こえてくるように、心を澄ませばわかるものだ。

沈成躰は身の掛を低くする事のみでは無く、心を静め無心にする事の教えでしょう。

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2014年9月 8日 (月)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の4抜かずして勝

神殿流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の4抜かずして勝

 居合抜覚へるとはやく抜かせず故に詰合の位能く執行有べし只太刀を抜くとばかり思うべからず抜かずして勝の利あり是業の位にて教ゆべし
人の我をとらえて抜かさじとする時必ず抜まじ我をとらゆる人を此方より取たおすべし或は先にとられぬ位あるべし
敵の仕懸によりすぐにとどまり勝事も有り或は其の気をさけて勝事も有皆敵の仕懸に依るなり 工夫有べし  歌に 

 止ると思はば其所に止れよ
          行と思はばとくとくと行け

 あだにのみ人をつらしと何か思う
          心よ我を憂きものと知れ

 右の心にて工夫あるべし然れども剛力或は色々と理屈を云う人有らば皆我が敵と知れ然れども夫々に心を取られ迷う事勿れ 歌に

 無用なる手詰の論をすべからず
           無理な人には勝て利はなし

*居合抜を覚えると素早く抜くことばかりを、良しと思いこんでいる人が多いものです。早く抜かさずに詰合の位をよく稽古してその心持を覚えさせなさい。
この詰合は詰合の位よりむしろ大小詰・大小立詰をさしている様です。
居合とは唯太刀を抜き付ける事だとばかり思うのではなく、刀を抜かずに勝つ事の利を、業を稽古する中で教える様にするべきである。
相手が我を捕えて抜かさない様にする時、必ず抜かない様に心掛ける事。
我を捕える相手を此方から捕えて倒すのが良い。或は相手が捕りに来るのを捕られない様にする位もあるものだ。
敵の仕懸けてくる事に、乗せられずにとどまり勝つことも有る。
或は相手の誘いの気を避けて勝事も有る。それらは皆敵の仕懸けに依る物である。
工夫すべきである。 歌に

止まると思うならばそこに止まって、行かんと思うならば速やかに行け。
相手の仕掛に左右されるのは我が心に相手に乗せられる隙があるのだ。

その様な心にならない様に工夫するものではあるが、力ずくでいろいろ理屈を云う相手であれば、皆我が敵と思い知って、それぞれに心を取られて迷う事の無い様にするのである。

歌に

必要もないのに、激しく攻め立てて論ずべきでは無い、理に疎い人には譬え勝っても利するものは無いものだ。

 

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2014年9月 7日 (日)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の3まりに柳

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の3まりに柳

 ・敵にしたがって勝つべき心持  春風を切るといふ 古歌
 風吹は柳の下の糸のかたよりに
             なびくに付て廻る春かな
 強みにて行当たるをば下手と知れ
             まりに柳を上手とぞいう

 ・敵と出合う時かならず討勝と思うべからず況や恐るゝことなし間に毫末も加うべからず雷電石火の如くちらりと我が心に移時無二無三に打込事居合の極意也
然れども只打込むでなし是に柄口六寸の習なり此習を以て敵の場へふん込み討也
偏に大海を渡るに陸(かけ)にて行けば命を失う故に舟に乗りて行也居合柄口六寸の大事偏に彼の舟の心持としるべし然れども舟にてかならず渡海すと思うべからず 歌に
 乗り得ても心ゆるすな海士小舟
              波間の風の吹かぬ日ぞなき

 ・右浪間の風能く合点しては舟ものらず 古歌に
 有となしと堺を渡る海士小舟
              釘も楔も抜け果てにけり
此の心にてよく工夫有べし

*居合や太刀打は、敵の心の動きに従って勝を得る心持ちであるものだ。春風を切るということである。

電光影裏斬春風
鎌倉の無学祖元禅師の大康の乱に捕へられて斬らるゝ時、無学辞世に右の頌を作られたれば太刀を捨て拝したと也。無学の心は太刀をひらりと振り上げたるは電(いなびかり)の如くに電光のピカリとする間、何の心も何の念もないぞ、打つ太刀にも心はなし、我身にも我はなし、斬らるゝ我にも心はなし、斬る人も空、打たるゝ我も空なれば、打つ人も人にあらず、打太刀にもあらず、打たるゝ我も我にあらず、唯いなびかりのピカリとする内に、春の空吹く風を斬ったらば、太刀に覚えもあるまい、斯様に心を忘れきりて萬(*よろず)の事をするが上手の位なり。(武術叢書)

この無学祖元の電光影裏斬春風の句は次のとおりです。
乾坤無地卓狐節 乾坤狐節を卓するの地無く
喜得人空法亦空 喜得す人空法亦空
珍重大元三尺剣 珍重す大元三尺の剣
電光影裏斬春風 電光影裏春風を斬る

古歌では
柳にふく春風に、柳の細い枝が風下に吹き寄せられるように柔軟であること。
柳にまりが当たっても何気なく受け流して知らず気にある様な無心な様。

敵と出合っても、必ず勝つなどと思うべきでは無い。況や恐ろしいなどと思うことなく、少しの隙も作らず雷や火打石の飛ぶ火の様に、ちらりと我が心に写る物があれば無二無三に打込むのが居合の極意である。
然し只打ち込めばいいという事では無く、是に柄口六寸の習いを以て敵の場へ踏込み討つのである。
ひとえに大海を渡るに、陸から行けば命を失うので、舟に乗って行くのである。
居合の柄口六寸の大事は、ひとえに彼の舟の心持ちを知らねばならない。そうではあるが、舟で必ず海を渡れると思うものでは無い。
歌に せっかく舟に乗ったとしても心を許してはならない、海士の乗る舟は、波間の風に翻弄されない日などは無い。

この様に、浪間をふく風に合点して、舟に乗らずに行く 古歌に
生死の境を渡る海士小舟は、浪間の風に吹かれて釘も、楔も抜け落ちる事も在る。

此のような心で工夫するものである。

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2014年9月 6日 (土)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の2鉢の木

神殿流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の2鉢の木

荒井清信公の言うには、居合とは、近間の敵との勝負をするもので、柄口六寸の敵拳への抜き打ちに大事がある。
その形は丸の中に正三角形を書いたようなもので、前後左右の状況を知って抜くことである。
いたずらに気色を露わにせず、顔は怒気を含まず、恐れて青ざめず、薄桜であるものだ。

居合の位、身の有り様は、鉢の木の口伝
「佐野に住む貧しい老武士佐野源左衛門常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めて来る。
常世は粟飯を出し、大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。
常世は僧を相手に、今でこそ落ちぶれたとはいえ一旦事あらば痩せ馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る。
その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付ける、あの僧は実は前執権北条時頼だったことを知る」
お能の出し物ですが、「おもてなしの心を」以て敵を迎えろと云うのです。

心は、水鳥の心をもって気を付けて工夫することで、帆を掛けて船足早く行くのではなく水鳥の様に静かに進むのである。
そして水鳥が水に住んでいても濡れない様に、海の魚が塩に浸されない様に己を失わず自然に応じる心である。

居合や太刀合では、白鷺の心も大切で口伝がある、古歌に、心の中に秘めていても、我が思いは人には知られてしまう。
心に身を任せていても、どちらかと云えば身に心が従ってしまう。白鷺の様に無心に水辺に立つことが白鷺の心である。

居合や太刀打では、水に写る月の様な心も大事である。
湖水に有るのか、空に在るのか、区別のつき難い澄んだ秋の月の様に、また、物を思うとも思えない様な人でさえ、秋の風にふと感じる様に、秋が来たとは眼には定かではないが風の音に秋を感じる様に、心の動きを見分ける心を持つことだ。

この様な心を悟る事、我は知らなくとも、敵がその心を知っていれば、敵に勝をもたらす事になる。
工夫すべし。

居合と云うのは相手に近く対して、何事も無い様に普段の顔つきで、居住まいを正し、もてなしの心を持って接するのである。
相手の心の動きを察知して、それに極意の柄口六寸を以て応ずるものである、と云うのでしょう。

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2014年9月 5日 (金)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の1形

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の1形

 荒井清信公言う 夫居合とは手近き勝負柄口六寸の大事あり其の形を事となし前後左右を知り先居合抜申す形は丸の中に三角の形の如し

 1、身を正しくして抜申形肝要也 

                     面薄桜

 1、居合之位 身の掛り 鉢の木
         心水鳥
・右の心は水鳥に気を付工夫有るべし 古歌に
 帆を懸けて急ぐ小舟に乗らずとも
              行く水鳥の心知るべし
 水鳥の水にすめども羽はぬれず
              海の魚とて汐はゆくなし

 ・居合太刀打共  白鷺心(ということあり) 口伝  古歌に
 忍ふれど色に出しけり我が恋は
             ものや思ふと人のとふまで
 数ならで心に身おば任せねど
             身に従ふは心なりけり

 ・居合太刀打共  水月之大事 口伝 古歌に
 水や空空や水とも見へわかず
             通いて住める秋の夜の月
 おしなべて物を思はぬ人にさへ
             心をつくる秋のはつ風
 秋来ぬと目にはさやかに見へねども
             風の音にぞ驚かれぬる

 右の心にて悟べし我は知らね共敵の勝をしらする也其処水月白鷺習いあるべし又工夫すべし

敵にしたがって勝つべき心持  春風を切るといふ 古歌
 風吹は柳の下の糸のかたよりに
             なびくに付て廻る春かな
 強みにて行当たるをば下手と知れ
             まりに柳を上手とぞいう

*土佐の居合の最も古い伝書は、現在の処この神傳流秘書だろうと思われます。
荒井清信公から書き出されています。土佐の居合の宗家第8代荒井勢哲清信のことでしょう。
この信傳流秘書を書いた或は伝えた人は、荒井清信に師事した事を伝えているのでしょう。
土佐の居合の系統は、1代目林崎神助(甚助)重信-2代目田宮平兵衛尉業政-3代目長野無楽入道槿露齋までは奥州と同じでしょう。

4代目以降は、4代目百々軍兵衛尉光重-5代目蟻川正左衛門宗続-6代目萬野團右衛門信定-7代目長谷川主税助英信-8代目荒井勢哲清信-9代目林六太夫守政-10代目林安太夫政詡、とされています。
4代目から8代目までは殆どその出自は不明だろうと思います。

この辺は、戦国時代が家康によって終焉し、主君を持つ武士と、浪人した武士達、もともと農民であったであろう足軽などの下級武士など、正規の武士と農民との境界線にいた人、例えば宮本武蔵の様な主君を持たない武芸者が、江戸初期から中期へかけて横行したのだろうと思われます。
そんな武芸者の一人荒井勢哲清信に、土佐藩の御料理人頭知行八十石の林六太夫が江戸勤番の折りに居合兵法を習ったのだろうと思います。

林崎甚助重信が抜刀の妙を悟り元服して林崎流を名乗ったのが永禄2年1559年頃(林崎明神と林崎甚助重信より)であったとするならば、土佐の林六太夫守政は享保17年1732年に70歳で亡くなっていると云います(平尾道雄著土佐武道史話より)。
生まれは寛文2年1662年でしょう。
すでに始祖から100年以上の歳月が経って居ます。

戦の無い時代の武芸ですから、この頃はすでに芸事としての精神性が非常に高くなっています。
それが、この神傳流秘書の書き出しにも表れている気がします。
林六太夫の養子で10代目林安太夫政詡は安永5年1776年に亡くなっています。
老父物語で始まる、林安太夫政詡の居合兵法極意秘訣が明和元年1764年頃に書かれています。

神傳流秘書を父である六太夫が書いたものならば、六太夫が30代から50代でしょう。
推定すればこの神傳流秘書は元禄3年1690年頃から明和元年1764年までに書かれているのでしょう。
私は、9代目林六太夫守政よりも養子の10代目林安太夫政詡の執筆ではないかと確証もなく思います。
その原本を山川久蔵幸雅が文政2年1819年に書き写したものなのでしょう。

原本の解説は次回にします。

 

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2014年9月 4日 (木)

神傳流秘書を読む 目次

神傳流秘書を読む 目次

1.抜刀心持引歌
2.居合兵法伝来
3.大森流居合之事
4.英信流居合之事
5.太刀打之事
6.棒合
7.太刀合之棒
8.詰合
9.大小詰
10.大小立詰
11.大剣取
12.抜刀心持之事
13.夏原流和之事 
13-1.捕手和之事
13-2.立合
13-3.小具足
13-4.後立合
13-5.小具足割
13-6.本手之移
14.小太刀之位

*この様な順序で進めていきます。
14.小太刀之位は神傳流秘書には無いものですが、ここに附け加えておきます。小太刀之位は谷村亀之丞自雄先生の直筆による英信流目録(2巻)に収蔵されているもので欠落部分があって居合は大森流だけしかなく、長谷川流は欠落、棒太刀合之棒、居合心持引歌などが残されています。その中の小太刀之位です。
この伝書は安永5年1776年に第12代林益之丞政誠によって書かれたもので嘉永5年1852年に谷村亀之丞自雄が書写されたものになります。
この目録は昭和23年6月頃に大阪の河野稔氏へ伝授した、と曽田先生の添え書きが有ります。

この神傳流秘書の業が土佐の居合の全てだろうと思われます。

河野先生は曽田先生の集められた伝書を読み無双直伝英信流居合兵法叢書を出されていますがその自序に次の様に書かれています。

「享保の頃より土佐の国を中心に伝承された無双直伝英信流居合に、30余年の間精進して来た私は、斯道の文献を蒐集しようとして土佐の同士曽田虎彦氏(昭和25年1月9日逝去)の深甚の厚意に依って、苦心の結果漸く其の殆ど全部の土佐居合兵法の文献を集録する事が出来た様に思う。
現代の世相に於いては之を無用の閑事と考えらるゝ向きもあるかも知れぬが、然し斯道に志す人達に取ては必ずしも無用の長物では無いと信ずる。」

この無双直伝英信流居合兵法叢書は昭和29年1954年の発行です。
河野先生は明治31年1898年生まれですから此の年56歳です。まだまだ古伝に向き合うに十分な御歳でした。
第20代宗家と云う立場上古伝に没頭する事は出来なかったでしょう、その後21年77歳という短い御生涯でした。

其の後、古伝神傳流秘書を研究されそれを基に無双直伝英信流を解きほぐされたのは、政岡先生でしょう。
先生の昭和49年発行の無双直伝英信流居合兵法地之巻には随所に神傳流秘書の業手附がちりばめられています。

北海道の坂田敏雄先生の著書昭和48年発行無双直伝英信流居合道入門にも要所に神傳流秘書の文言が見られます。

河野先生は自序の終りに、「英信流を学ぶ筆者は、自然享保以来伝承された土佐を中心とする地の文献だけしか蒐集する事が出来なかったが、洩れたる土佐の文献は元より日本全国の斯道の文献を追加且つ私の足らざる所を補足して呉れる様な熱意のある研究家を待つ次第である。」とくゝられています。

余談ですが、ある10段ともあろう方が、「そんなことをしているから形が乱れてしまう、居合は現宗家を基にそれだけに精進するものだ」と私を批判されます。
河野先生の思いは、引き継がれていないのでしょうか、それとも不心得者が許される時代になってしまったのでしょうか。

更に余談ですが、近年、南山大学の榎本鐘司教授による「北信濃における無双直伝流の伝承について」の研究が進んで、土佐と北信濃(松代藩)、奥州との繋がりが細い線で切れ々に見えてくる様に感じています。

林崎甚助重信公の居合を、流派を超えて語り合える日は、いつか訪れると信じています。

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2014年9月 3日 (水)

神傳流秘書を読む 表紙

神傳流秘書を読む 表紙

神傳流秘書は細川家秘蔵のものは、木村栄寿先生の著書によると和綴じ本となっている様です。
曽田先生の書き写された原本は、誰が所持して居たものか何も書かれていませんので解りません。

表紙は、ご自分で作られたのか厚紙に和紙を張り、ペン書きで以下の様に書かれています。

下村派
   第十六代宗家 曽田虎彦 印
                    筆山

 夢想神傳英信流抜刀術

 無双直伝英信流居合術

 英信流居合秘書

 土佐居合兵法叢書

 此の書は他に見る事を得ざる
山川幸雅先生の口伝秘書を写し得たり

(以下 汚損に依り不明)

*これで見ますと曽田先生はこの伝書の表紙に土佐の居合の流名を如何にすべきか迷っておられるように感じます。

表紙をめくりますと以下の様に書かれています。

土佐居合兵法秘書写
            山川幸雅先生

 谷村亀之丞先生

                               抜刀心持引歌
              居合
              居合組
              棒合
              棒太刀合

*ここでは土佐居合兵法秘書写と名付けています。是は山川幸雅の写しだと記しています。

次の「谷村亀之丞先生」は、別に写したものがあって、第15代谷村亀之丞先生のものと云う事です。
「英信流目録2巻」で、書かれている内容が、抜刀心持引歌・居合・居合組・棒合・棒太刀合に就いてと云うことでしょう。
居合組とは今でいう「組太刀」「居合形」で土佐では「仕組」と云って居た様です。
棒合は棒と棒、次は棒と太刀との形でしょう。

次のページが、今回の神傳流秘書をあらわす題のページです。

山川幸雅先生相伝
神傳流秘書写

 文政二年己夘之歳十一月吉祥日 山川幸雅述

 本書は他に見えざる秘書にて、原本は戦災にて焼失せるか大事々々

*山川幸雅相伝の神傳流秘書の写しである、と明記して居ます。
と、いう事はこの神傳流秘書は山川幸雅先生が書き写したもので、筆者は山川先生より古い方であり、其の方の書いたものを或は写し書きしたものを、又書きしたという事です。

其の書き写した時が文政二年1819年己夘(己卯・きぼう・つちのとう)の歳十一月吉祥の日に山川幸雅が述べるとしています・

原本は誰の所持品であったか、昭和二十年七月高知市へB29が飛来し、火の海となって燃えてしまっただろうと書き付けています。
幸い細川家に残って、木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法無想神傳重信流」として昭和57年1982年に発行されています。

昭和20年1945年7月3日午後4時23分マリアナ諸島から、姫路高松徳島、そして高知への爆撃のため501機のB-29爆撃機が出撃した。
翌日未明、120機のB-29が高知市上空に飛来。
死者401人、罹災家屋約12000戸。
その前にも後にも高知は空襲を受けています。
多くの貴重な資料が失われた事がうかがえます。

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2014年9月 2日 (火)

神傳流秘書を読む はじめに

神傳流秘書を読む はじめに

現代居合の無双直伝英信流は、明治維新以降、多くの武道流派と同じように消えて行く運命にあったかも知れません。
その辺の所は、曽田先生がスクラップとして保存されていた居合術教士、剣道錬士中西岩樹先生の英信流居合と板垣伯に詳しく語られています。
「明治25、6年と言えば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。
殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振う居合の如きが文明改化を追うに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤正亮、谷村樵夫、細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修行せんとする者無く、又之等の先生も単なる余技として死蔵せるに止まり或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
其の内に段々居合を知る人も物故し、之等の先生と雖も何時までも在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武伎もついには世に之を伝える者が無くなるであろうと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。

明治26年板垣伯のご尽力に依って高知市新堀竹村与左衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当たられたのである。
それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寛という人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚中学校にも招聘せらるゝことゝなった。

明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の没後大江先生が之に代ることゝなったのである。

斯くして高知県に於いては五藤、谷村、大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある」

土佐に於いて山内家の料理人として仕えた第9代林六太夫(~享保17年1732年歿)が、江戸勤番の頃に第8代荒井勢哲に師事して土佐にもたらした無双直伝傳流のち無双神傳英信流は明治維新によって第16代の五藤正亮先生の頃には絶えようとしていたのです。

第17代大江先生は中学生に習いやすい様に業を整理し業名も新たに付け直したりしていると言われています。明治36年1903年と言えば当時の大江先生は50歳の頃でしょう。カナダに渡った娘さんをもうけた頃です。
現在の無双直伝英信流の業名と手附はこの頃整理されたのでしょう。

土佐から門外不出の此の居合も東京の中山博道先生に伝わり、大阪の河野百錬先生によって八重垣会2千名余りの会員によって全国に広まったのでしょう。
そして太平洋戦争で無条件降伏した日本から再び消え去ろうとする運命にされされたのです。
其の時、第19代福井春政先生より、第20代宗家が大阪の河野先生に託され道統が土佐の門外へ出たのです。

河野先生は、無双直伝英信流を習い始めた頃(昭和2年1927年29歳)土佐の居合の掟を守った居合をされておられたようですが、その後(昭和17年1942年44歳頃)の大日本居合道図譜を読む限り掟の動作を竹刀剣道風にアレンジされていったように思えてなりません。

この神傳流秘書は、第9代林六太夫守政が江戸で身に着けた長谷川英信-荒井勢哲の無双直伝流に大森六郎左衛門の大森流を加え伝承したものを、林六太夫守政の養子で第10代林安太夫政詡が明和元年1764年頃に整理し書き残したものが原本でしょう。
原本はすでに現存せず、文政2年1819年に土佐の山川久蔵幸雅(下村派第13代)によって書写されたものが今では原本でしょう。
曽田本と云うのはこの山川久蔵幸雅によって書写された神傳流秘書でそれを曽田先生が昭和10年以降に書き写されたものです。

江戸時代中期に林六太夫守政によって土佐にもたらされた居合、現代の無双直伝英信流居合及び夢想神傳流の唯一のルーツを示すものだろうと思っています。
現代居合の業技法の末節の取沙汰を議論するのも良いのですが、古伝に戻って見直す事も必要でしょう。

稽古とは、昔の物事を考える事、古書を読んで昔の物事を参考にして理義を明らかにすること、でもあったのです。
温故知新とは、古い物事を究めて、新しい知識や見解を得る事です。

今では、稽古とは、師匠に手取り足取り学んだ事を繰り返し練習する事位に思っておられる方が殆どでしょう。

古伝には、詳細なマニュアルや動画は有りません。
古伝は、明瞭ですが大らかです、柔軟な思考でお読みいただきミツヒラ論を否定していただければ、最高の喜びです。

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2014年9月 1日 (月)

神傳流秘書を読む序の2

神傳流秘書を読む序の2

新陰流の流祖上泉伊勢守信綱は介者剣術を革新して新陰流を編み出し、柳生石舟斎に「兵法は時代によって、恒に新たなるべし。然らざれば、戦場戦士の当用に役立たず。また忠孝節義の道を践み行うことはできない」と遺訓を述べています。

形ばかりに拘って身に付かずにいた先輩達が前出の宗家訓に強く思いを馳せてしまったのでしょう。

そんな事を思いながら、平成23年2011年に第17代宗家大江正路先生の居合をどの様に変えて現在あるのかを辿って居ました。
そんな、私のブログを読まれた方の中から「曽田虎彦先生の直筆メモを解読しないか」との話が出ました。
平成23年の暮れも押し詰まった12月18日曽田本をお預かりいたしました。

曽田本は、曽田先生の息子さんが東京に居られ、ある方と会社が一緒という事も有り「私は居合をやらないからあなたが持っていてほしい」と譲り受けられたものです。
巡り巡って私の手元に託されました。原本は貴重な宝ですからコピーをいただき読み始めました。

細いペンで書かれた曽田先生の直筆は、私の様に戦後の国語教育によって読めなくなってしまった行草連綿が随所に有り、癖のある崩しなどもあって、紙の経年変化と相まって、難物でした。
江戸時代の文章ですから読めれば意味は通じて来ます。

幸い、翌年早々には、入院する予定がありましたので、文字辞典と曽田本を携えて手術後のベッドの上で、ひたすら読み耽り退院の日には大方読み終わって居ました。
そこで、平成24年2012年2月13日から4月9日までに曽田本の読み下しをブログに掲載しました。
其の後、平成24年2012年10月30日から平成25年2013年12月31日までかかって曽田本その1の解説付きをブログに掲載しました。
曽田本その2はこの平成26年8月30日に解説付きで大方掲載しました。

曽田本に書かれている古伝は、曽田先生が原本を書写していずれ出版の意図もおありだったようですが、太平洋戦争によってままならず、写された原本も高知空襲によって焼失してしまっています。
曽田先生も昭和25年1950年に60歳でお亡くなりになっていてご自分では出版できなかったのは残念だったでしょう。
しかし、曽田先生の書写された土佐の居合の古伝は、次の先生方によって世に出ています。

河野百錬先生の「無双直伝英信流居合兵法叢書」昭和29年発行
坂田敏雄先生の「無双直伝英信流居合道入門」昭和48年発行
政岡壹實先生の「無双直伝英信流居合兵法地之巻」昭和49年発行
木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流伝書集及び業手付解説」昭和57年発行
岩田憲一先生の「土佐の英信流旦慕芥考」平成元年発行

こんな処でしょうか。すべて絶版ですから殆ど手にする事は現在では困難です。
河野先生は昭和23年頃曽田先生から曽田本の写しを送られその大部分を出版されています。

政岡先生も曽田先生のものかとは思われますが、地之巻の中に部分的に古伝はとか秘伝書と云う言い回しで挿入されています。

木村先生は下村派の細川義昌家からの借用本によるものでこれが出所がはっきりしたものです。
対比しても、文字の判読の違い程度で曽田本と殆ど変りません。

岩田先生は、曽田本のコピーを関東のある方から送られています。旦慕芥考に曽田本その2の一部が記載されています。

坂田先生はおそらく河野先生の著書に依ったのだろうと推察します。

曽田本の原本とその解説付きでミツヒラブログを読まれた方は、無双直伝英信流の大江正路先生以前の古伝を目にする事が出来たと思っています。
一部の限られた方しか見る事の出来なかった古伝を誰でもが読み、稽古する事が可能になった筈です。
近年は、漢字も限られた文字しか教育されず、武術用語は失念しており、マニュアルと動画では武術の動作は身につかず、先輩諸氏の手取り足取りの指導がなければ動作もままならない時代になってしまいました。その先輩も現代居合ばかりです。古流をこなせる体捌きすら知らない方が殆どでしょう。

それでも、ブログと云う新時代の伝達方法に古伝を載せますと、理解できる方も多くあると気が付きました。
ブログを見る事の出来るのは新人類ばかりで、時代に取り残された諸先輩は相変わらず古伝の蚊帳の外でしょう。
それも時代でしょう。

再び土佐の居合の原点であった「神傳流秘書」に限り読み直してみます。
「曽田本を読む」の重複ともなりますが、少しは知識も増えた様で、前のものに拘らず新たに読み込み、書き込んで行こうと思います。

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