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2014年9月 5日 (金)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の1形

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の1形

 荒井清信公言う 夫居合とは手近き勝負柄口六寸の大事あり其の形を事となし前後左右を知り先居合抜申す形は丸の中に三角の形の如し

 1、身を正しくして抜申形肝要也 

                     面薄桜

 1、居合之位 身の掛り 鉢の木
         心水鳥
・右の心は水鳥に気を付工夫有るべし 古歌に
 帆を懸けて急ぐ小舟に乗らずとも
              行く水鳥の心知るべし
 水鳥の水にすめども羽はぬれず
              海の魚とて汐はゆくなし

 ・居合太刀打共  白鷺心(ということあり) 口伝  古歌に
 忍ふれど色に出しけり我が恋は
             ものや思ふと人のとふまで
 数ならで心に身おば任せねど
             身に従ふは心なりけり

 ・居合太刀打共  水月之大事 口伝 古歌に
 水や空空や水とも見へわかず
             通いて住める秋の夜の月
 おしなべて物を思はぬ人にさへ
             心をつくる秋のはつ風
 秋来ぬと目にはさやかに見へねども
             風の音にぞ驚かれぬる

 右の心にて悟べし我は知らね共敵の勝をしらする也其処水月白鷺習いあるべし又工夫すべし

敵にしたがって勝つべき心持  春風を切るといふ 古歌
 風吹は柳の下の糸のかたよりに
             なびくに付て廻る春かな
 強みにて行当たるをば下手と知れ
             まりに柳を上手とぞいう

*土佐の居合の最も古い伝書は、現在の処この神傳流秘書だろうと思われます。
荒井清信公から書き出されています。土佐の居合の宗家第8代荒井勢哲清信のことでしょう。
この信傳流秘書を書いた或は伝えた人は、荒井清信に師事した事を伝えているのでしょう。
土佐の居合の系統は、1代目林崎神助(甚助)重信-2代目田宮平兵衛尉業政-3代目長野無楽入道槿露齋までは奥州と同じでしょう。

4代目以降は、4代目百々軍兵衛尉光重-5代目蟻川正左衛門宗続-6代目萬野團右衛門信定-7代目長谷川主税助英信-8代目荒井勢哲清信-9代目林六太夫守政-10代目林安太夫政詡、とされています。
4代目から8代目までは殆どその出自は不明だろうと思います。

この辺は、戦国時代が家康によって終焉し、主君を持つ武士と、浪人した武士達、もともと農民であったであろう足軽などの下級武士など、正規の武士と農民との境界線にいた人、例えば宮本武蔵の様な主君を持たない武芸者が、江戸初期から中期へかけて横行したのだろうと思われます。
そんな武芸者の一人荒井勢哲清信に、土佐藩の御料理人頭知行八十石の林六太夫が江戸勤番の折りに居合兵法を習ったのだろうと思います。

林崎甚助重信が抜刀の妙を悟り元服して林崎流を名乗ったのが永禄2年1559年頃(林崎明神と林崎甚助重信より)であったとするならば、土佐の林六太夫守政は享保17年1732年に70歳で亡くなっていると云います(平尾道雄著土佐武道史話より)。
生まれは寛文2年1662年でしょう。
すでに始祖から100年以上の歳月が経って居ます。

戦の無い時代の武芸ですから、この頃はすでに芸事としての精神性が非常に高くなっています。
それが、この神傳流秘書の書き出しにも表れている気がします。
林六太夫の養子で10代目林安太夫政詡は安永5年1776年に亡くなっています。
老父物語で始まる、林安太夫政詡の居合兵法極意秘訣が明和元年1764年頃に書かれています。

神傳流秘書を父である六太夫が書いたものならば、六太夫が30代から50代でしょう。
推定すればこの神傳流秘書は元禄3年1690年頃から明和元年1764年までに書かれているのでしょう。
私は、9代目林六太夫守政よりも養子の10代目林安太夫政詡の執筆ではないかと確証もなく思います。
その原本を山川久蔵幸雅が文政2年1819年に書き写したものなのでしょう。

原本の解説は次回にします。

 

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