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2014年9月21日 (日)

神傳流秘書を読む 1.抜刀心持引歌の17終章

神傳流秘書を読む

1.抜刀心持引歌の17終章

 敵色々と有りて我をだますと由油断する事勿れ例えば鞠を蹴るに同じ我が鞠と人の鞠との色をよく見る事也

敵をたゞ鞠と思いて皆人の
         つめひらきせばいかににがさん

 本来の事より出て事に入り
          あわれ知らばや事の深さは

 吹けば鳴る吹かねば鳴らぬ笛竹の
          声の良しとは何を云うらん

 打解けてねるが中なる心こそ
          誠の我を顕わしにけり

 引きよせて結べば柴の庵にて
          解れば本の野原なりけり

 兎に角に言うべき様はなかりけり
          九重の塔の上のあししろ

 唱ふれば仏も我も無かりけれ
          南無阿彌陀佛の声ばかりして

 極楽ははるかに遠く聞きしかど
          唱えて到る所なりけり

 居合心持引歌終

*抜刀心持引歌の最終章です。
敵は色々の策を講じて我を陥れようとするものです。油断してはなりません。例えば鞠を蹴るにも似て、同じ鞠でも敵の蹴る鞠と我が蹴る鞠の状況をよく見て応じるものです。

敵をたゞの鞠と思って詰め寄ったり開いたりすればどうして逃げおおせられるだろうか。

本来此の様であるはずの事でも、実際に打ち出される事では思った様にはならないものです、それを如何に応ずるかの事の深さでしょう。

竹笛なども吹けば鳴るし吹かなければ音もしない、単なる音と聞くのでは無く、音の良し悪しのように何を知らせるのか見極めるのである。

打ち解けて、寝るほどの中になって、初めて誠の心を知るものです。そのように敵の思いに打ち解けていく事によって敵の心が読めるものです。

柴で組み上げた庵ですら、解けて崩れてしまえば本の野原でしょう。無心になって策を見抜くものです。

兎に角、何と言おうと、九重の塔の上に掛けた足場の様なものです。意味のない虚飾に騙されてはいけません。

仏にすがって南無阿彌陀佛を唱えてみても仏も我も無いもので念仏ばかり聞こえるだけです。

極楽は遥か遠くにあると聞いていますが、無心になって極楽・極楽と唱えて到る処なのでしょう。

居合の心持引歌を終わります。

歌の解釈は、それぞれの修行の至る中でどの様に聞こえてくるのかが違うのではないかと思います。かと云って独り善がりの思いでは、勝を得る事は出来そうにありません。
居合は、拍手を求める見世物でも無く、ルールに従った強さとテクニックによるスポーツでも無く命を懸けた武術です。
心持引歌はそう語っている様に思えてなりません。

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