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2014年12月 1日 (月)

師伝違い

 朝方降っていた雨も、西へ走るのぞみの窓外では、雲がどんどん東に走り去っていきます。
下りたった駅ではすっかり止んで11月末とも思えない温もりが心地良くほほを撫でます。

 一年ぶりに交流稽古会にやって来ました。
 去年お会いしたお顔がにこやかな笑みを浮かべて出迎えてくださいます。先に来られて始めてお会いする方とも、何故か親しみを感じてずっと前から存じ上げて居たような懐かしさを感じます。
 それは、幾度もコメントやメールで取り交わした事で得られるものでは無く、きっと同じ思いを以てこの流に志す者の底に流れる感性に依るのかも知れません。

 同じ流を学んでいても、道場によっては所属する連盟も、師匠も異なりますと業技法にズレが生じて来ます。
 此のズレは、大きいか小さいかであって、終局は一人一人のことでもあるのでしょう。
ですから、稽古に明け暮れ、その根源を求める者に付いてくる物なのでしょう。
 習い・稽古・工夫のスパイラルのうちに作り出されるもので、時として自己流に陥り、理を外す事も、癖となってしまうなど有りうるものです。
 それは自分や、いつもの道場仲間とでは素通りしてしまい、気が付かずにいます。それを交流稽古の中から見つけ出せるかもしれません。

 交流稽古はそんな師伝の違う人達と、流の業を順番通り演じ其の術理を述べて見取り稽古をするのです。

 武道に於いては、道場主以外の他の者の指導を受ける事はおろか、教えたこと以外は強く排除する事も在って、同一流でありながら交流の乏しいのが普通だったのでしょう。
 免許皆伝ともなると、回国修行と云ってすぐれた流派に指南を求めたり、求めさせたりして常に最高の術理を求めさせたことも有った様です。
 然しへぼは、流の奥義が他流に漏れて不利と成るとも、また弟子の道草に依る成果の遅れの原因とも云われ囲い込みにあったものです。

 ダメな師匠でも囲い込みをしていれば、日本人の特性である居場所を求めて個性を埋没させ安心する習性によって、弟子の流出を防げて生計を立てて居られたのだろう、などとの事も勘ぐりたくなるものです。
この時代、どの様に囲って見ても隠せる方法は無く、隠せば先師の教えは消え去るのみでしょう。

 この交流稽古の目的は、他のものを見取り、良いものを取り入れるとか、否定する事ではありません。
 飽くまで己の学んだことの肯定とより高いものに気が付く事に寄与するものです。
ですから師の教えをとことん追求した者だけに許されることかも知れません。
 其の上で己の誤りに気づき、直せればこれ以上の稽古は無いかも知れません。

 そして、道に入ったばかりの者には、己の師が真摯に語り掛けて来た自流の掟を改めて目の当たりに出来るものです。

 他人の演武は見ただけでは理解出来ても動作につながらないかもしれません。解説をしていただいてもなお至れないものです。
 それは、それを理解し己のものにするだけの力量の度合いに寄るのでしょう。交流稽古の度毎に、至らない処が丸見えになって又剣を取って道場に立ち尽くしています。

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稽古の日々」カテゴリの記事

コメント

ミツヒラさま
力をいただきました。
ありがとうございます。
追悼演武会、論文発表会を全力でやり切ります。
ann☆

投稿: ann | 2014年12月 4日 (木) 07時22分

ミツヒラさま
ありがとうございます。
論語のなかでも、好きな言葉なのに、余裕がないあまり忘れてしまっていました。
居合ができれば、どこにいても、幸せです。
お稽古の時間が、なによりも、楽しいです。
負けず嫌いで、泣くときもありますが、幸福です。
居合との縁を、大事にしていきます☆
ann

annさま
コメントありがとうございます。
こんな詩が有りました。
「本気
本気ですれば大抵のことが出来る
本気ですれば何でもおもしろい
本気でしていると誰かが助けてくれる」
本気ってすごい事ですね。
        ミツヒラ

投稿: ann | 2014年12月 3日 (水) 19時58分

ミツヒラさま
夏以降から、ほぼ休みなく仕事が続いたことが原因のようで、インフルエンザにかかってしまいましたが、そのお陰で、一足早いクリスマス休暇をいただいています。
熱に浮かされて、私は、わたしの未来図を垣間見ました。
師は、初代館長の居合いを継承されています。
私は、その居合いを教えていただいています。
ですが、高段者の先輩方に教えていただくとき、それぞれに、細かい箇所ですが、師の居合いと違っていたりします。
解釈の違いでもありますし、先輩方もまた、先輩方に指導を受けてきたことだと思います。
けれど、いつか、師が居られなくなったとき、私の居合いは、圧倒的、多数決のうえで、矯正されていくように感じ、また、長いものに巻かれることを嫌う性分は、師の居合いを変えることを良しとはせず、結果、道場では、異端児扱いされ、離反せざる得なくなるのではないかという未来図でした。
そのことを、師に話したところ、居合観は、人それぞれだから、確かに、館長が変われば、道場の居合いも変わっていくだろう。それも、仕方ないことだと。
ただ、私には、初代館長の居合いを受け継いでもらいたいと。
私は、自分の感覚を信じています。
これだと思うことに対しては、徹して、信じ、進みます。
ただ、初代館長の居合いを守ることと、道場の存続を守ることが、一致することがないということを、悲しく思いました。
その気持ちを、そのまま、師に伝えました。
また、伝統を、正しく、継承していく難しさも知りました。
十年後、わたしを取り巻く環境が、どうなっているか、想像すらできませんが、師との対話は、忘れずにいると思います。
考えなくてはいけないのは、自分が、どうしたいのか、また、どうなりたいのか。
いずれ、一人立ちするとき、私は、私であり続けたいと、心細さを感じながらも、いまは、漠然と、そう思っています。
師は、周りの先生方に、進んで、私を紹介され、目をかけて貰えるようにされているような。
出稽古にも、出して下さり。
それは、未来への布石のように思えて。
私が迷わないための道標のような気がしています。
長文になり、申し訳ありませんでした。
ann

annさま
コメントありがとうございます
10年後の私ですか。
論語に「之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」という教えが在ります。
知っているというのは好むのに及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。というのでしょう。
先師の業技法に熱中し稽古が楽しくて仕方がない、楽しいから困難など苦労に感じない、心配事や先の事など忘れてしまう。
そんな事を言っている様です。
師伝違いの稽古も此の事かも知れませんね。
            ミツヒラ

投稿: ann | 2014年12月 2日 (火) 22時36分

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