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2015年4月

2015年4月30日 (木)

英信流居合目録秘訣 2.上意之大事3三角

英信流居合目録秘訣

2.上意之大事

 3、三角

 三人並居る所を切る心得也ケ様のときふかぶかと勝んとする故におくれを取る也居合の大事は浅く勝事肝要也三人併居る所を抜打に紋所のあたりを切先はづれにはろをときはびくとするなり其所を仕留る也三人を一人づゝ切らんと思ふ心得なれば必仕損ずる也一度に払ふて其おくれに付込で勝べし

*三角は古伝神傳流秘書の抜刀心持之事三角です。これは「抜て身を添へ右廻りに後へ振り廻りて打込也」という大まかな業手附です。

三角ですから、敵が三人我を囲んで詰め寄る、あるいは我が前方に三人並んで詰め寄る、三人の配置は示されていません。
大江先生はこの業は、置き捨てにして四人に囲まれた業だけを中学生に指導されたのでしょう。それが奥居合居業の四方切です。

細川義昌系統と思われる白石先生の「三角」
「(前右後の三方の敵に対して行う)正面に対し後ろ向きに踞座す。鯉口を構えて腰を揚げ、右足を出すと同時に刀を抜き、右足を引きつけると同時に後方の敵を刺す。(この時左手は鞘口を握りたるまゝ右横腹の所に、右手は左側肘の上より後方の敵を刺す、両腕は交叉する如くし)更に右足先を軸として左足も従って後方に退き乍ら百八十度右方より廻り、前右後方の三人を一時に薙ぎ斬りたる後、(此時正面に向き左手は鐺が背に接する如く左方に十分開く)刀を振り冠り左膝を右足踝の所に引きつけてつき、右足を踏み出すと同時に上段より斬り下ろす。」

これは敵と我との関係が判りずらいのですが、正面に対し前右後に敵が居て、何故か後ろ向きに座すので、我が前左後に敵が座している事になります。
わが後ろの敵(正面に対し正面の敵)を刺突し、我が左側の敵(正面に対し右の敵)と前の敵(正面に対し後ろの敵)の紋所あたりを右廻りに薙ぎ斬り、我が後ろの最初刺突した敵(正面に座す敵)を真っ向から斬り下ろし勝。

上意之大事に従った動作と考えられそうです。この白石三角は敵を薙ぎ切っていますが、心得は紋所のあたりを切っ先はずれに薙ぎ、敵がビクッと臆する処を一人ずつ切るのが失敗しない方法と言っています。
敵の配置によって、如何様にするのが最も良いのか研究するとよい業です。

この業名は「三角」と書かれています。古伝は「ふりかな」など無いので困ります。
一般に「四隅」と書けば、よすみ、「四角」も、よすみ、か、しかくでしょう。
「三角」では、さんかくであって、みすみと読むのでしょうか。

白石居合では「さんかく・しかく」です。
檀崎先生は「三角・四角」でふりがな無し。
檀崎先生のお弟子さん松峯先生は「みすみ・よすみ」
山蔦先生は「みすみ・しすみ」

「角」は、かく・かど・つの・すみなどに読まれます。

業名すら読めずにわからなくなっています。

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2015年4月29日 (水)

英信流居合目録秘訣 2.上意之大事2両詰

英信流居合目録秘訣

2.上意之大事

 2、両詰

 是又仕物抔言付られ又は乱世の時分抔にわ使者抔に行左右より詰かけられたる事間々之れ有也ヶ様の時の心得也尤其外とても入用也左右に詰かけられたる時一人宛切らんとするときはおくれを取るなり故に抜や否左わきの者を切先にて突すぐに右を切るべし其わざ唯手早きに有
亦右脇に者に抜手を留らるべきと思ふ時は右を片手打に切りすぐに左を切るべし

*これも前回の虎走の心得の様に上意打ちを云いつけられた時など、決して仕損じてはならない様な時の心得であり、又、乱世の時に使者に赴き、左右より詰め掛けられる事は間々あるものでその様な時の心得である。
尤も其の外の場合でもこの心得は入用である。
左右より詰め懸けられた時、一人づつ切ろうとすれば遅れを取る、そこで刀を抜くや否や左脇の者を切先で突き、直ぐに右脇の者を切るのである。
其の技は唯手早い事が大切である。
また、右脇の者に抜手を制せられそうに思う時は、右脇の敵を片手抜打ちに切り、直ぐに左脇の者を切るのである。

この心得の業は「両詰」古伝神傳流秘書の抜刀心持之事にあるものです。
「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る
右脇へ抜打に切り付け左を斬る」

大江先生の現代居合では改変されてしまい「両詰」は、「抜放け諸手にて真向を突き斬る」という業になっています。是は古伝神傳流秘書では抜刀心持之事「向詰」です。
どうして、両詰と向詰が入れ替わらなければならないのかは其の経緯が大江先生はなにも残されて居ませんので不明です。寧ろ大江先生は神傳流秘書の存在を知らず、教えられた通りであっただけかもしれません。

古伝は「詰」とは敵に「詰め寄られる、詰め懸けられる」などで「両」は両脇、「向」は前、「左」は左脇、「右」は右脇、「後」は後ろの様に敵の配置を意図して居ます。

大江先生のものは、「両」は両側に障碍物がある場の想定に変えられています。
この心得の大江先生の現代居合では奥居合居業の「戸詰」・「戸脇」が相当するのでしょう。
大江先生も「戸詰」は、右を斬り左を斬る。「戸脇」は左を突き右を切る。とされていたのですが業名に「戸」の文字をいれたため、本来の業技法に戸障子があって即座に斬り込めない場の想定を限定してしまい、業が特定してしまったと思われます。

河野先生の昭和8年の無双直伝英信流居合術全では、「戸詰」は右斜め前の敵を右片手で切り付け、直ちに左斜め前の敵を斬る。で「戸」の表現は有りません。同様に「戸脇」も左後方の敵を刺突し、右斜め前の敵を切って居ます。是も「戸」による場の想定は見られません。

然し昭和13年発行の「無双直伝英信流居合道」では「吾が直前の左右に戸あり、其の戸の向う側の左右に座する敵・・」と云うのが「戸詰」。
「吾が直前の左右に戸あり、敷居の向う側右と吾が左後方に敵・・」と云うのが「戸脇」となってしまいました。

河野先生が先代に問うて書かれたものと思いますが、特定の場の想定に依り古伝の持つ、大らかなものは失われてしまいました。
マニュアル人間にはぴったりのものとなったとは思います。
形を統一してしまえば、大勢での合同稽古では、同じ様に居合体操をする事が出来て、戦争へ向かっていく時代にマッチしたのでしょう。

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2015年4月28日 (火)

英信流居合目録秘訣 2.上意之大事1虎走

英信流居合目録秘訣

2.上位之大事

1、虎走

仕物抔云付られたる時は殊に此心得入用也其外とても此心得肝要也
敵二間も三間も隔てゝ座して居る時は直に切事不能其上同座し人々居並ぶ時は色に見せては仕損る也さわらぬ躰に向ふえつかつかと腰をかがめ歩行内に抜口の外へ見えぬ様に躰の内にて刀を逆さまに抜きつくべし虎の一足の事の如しと知るべし大事とする所は歩みにありはこび滞り無く取合する事不能の位と知るべし

*虎走は、上司より討ち果たすよう言付けられた時の心得であり其の外の事でもこの心得は肝要である。
敵が二間も三間(5m40cm)も隔てて座している時には直ぐに刀を抜いて切る事は出来ない。
其の上、同座している人々が居並んでいては、相手を切る素振りを見せて邪魔されて仕損じる事もある。
なんでもない様にして、相手の方へつかつかと腰をかがめ歩いて行くうちに、刀の抜き出す様子が見えないように体の内で、刀を切っ先を下にして刃を相手の方に向けて抜き付け、虎一足の様に抜き付けるのである。
大事なのは、歩み行く足運びにある、相手に近づくにはするすると滞りなく、居並ぶ者にも、邪魔する様な雰囲気も見せない態度とするものである。

虎走は古傳神伝流秘書の抜刀心持之事の虎走
「居合膝に坐して居立って向へ腰をかがめつかつかと行抜口の外へ見へぬ様に抜付打込納又右の通り腰をかがめ後へ引抜付打込也」

現代居合では、この心得はどこかに置き忘れてきたようです。
この虎走は大江先生の奥居合居業の虎走の事を指しています。
「座したる処より柄に手を掛け、稍腰を屈め、小走りに数歩進み出で、右足の踏み出したる時抜き付け、同体にて座して斬る・・・。」

これでは大事な心得は何処にも見られません。

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2015年4月27日 (月)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事8詰合は二星

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 8、詰合は二星

詰合は二星につゞまる敵の拳也二星一文字と云時は敵のこぶしを抜払ふ事也惣じて拳を勝事極意也

*詰合は、古伝神傳流秘書の詰合の事かも知れません。
「是は重信流也、是より奥之事極意たるに依りて格日に稽古する也」と詰合には添え書きが有ります。

詰合は古伝では10本で構成され、互に居合膝に坐し、相手が左足を退くや下へ抜付けて来るのを、我も左足を退いて英信流の虎一足の様に刀を逆さに抜いて(切先を下にして)抜き、受け留め、上段に振り冠って真向に打ち下ろすのが詰合の一本目発早です。
同じ様に座して左足を退いて抜き合せるのは、二本目拳取・三本目岩浪・四本目八重垣・五本目鱗形と五本も続きます。

この詰合は、業では無く、敵と詰合って座した時の心得とも取れます。
敵との間合いは、膝詰めで2尺以内、体軸で6尺位です。
更に膝詰めを2尺取りませんと、この間合いでは正座に依る、見事な横一線の抜き付けは成り立ちません。立膝での退き足が有効です。相手が正座か、立膝か、座した儘か、腰を上げたか、足を踏み出したか、足を退くのかによって間合いは異なります。

余談ですが、正座から左足を退き抜き付ける稽古をされた事は有りますか。

二星とは此処では拳の事でしょう。

新陰流では二星はもう一つ敵の目を見る事として「目付二星之事」の教えもあります。
ついでに、柳生兵庫助利厳による「始終不捨書」には「六寸之事」として吾が太刀先三寸と敵の拳三寸と合わせれば六寸、という浅く拳に勝、柄口六寸の教えもあります。

敵の拳を一文字に抜き払うもの、拳に勝のがこの流の極意と云う事です。
稽古では、横一文字では互に相打ちになり兼ねないし、譬え木刀でも拳は当たれば砕かれてしまいます。
そこで下に抜いて十文字請けしているのですが、稽古を積み、双方とも横一文字の抜き付けで、仕太刀が勝つ事を学ぶべきものなのでしょう。

或る無双直伝英信流の先生は、「詰合などを稽古するなどとんでもない、大江先生の教えに無いものは當流の業では無い、演武会などで行うのを見たら即刻破門する」と仰っているそうです。
その反面、何処かの体術を取り込んで居たりして、矛盾して居ます。
根元之巻に書かれた土佐の居合の何割かの業名は、大江先生が「お前には、此処に書いてあるものだけを伝授した」と云うに過ぎず、他の種々の業は元より、裏技も返し業も何も教えて居ない証拠に過ぎないのでしょう。
或は教えたがものにならないから此処までと云っているのでしょう。
悪く云えば、それ以上の事は知らないから伝授して居ないと云う事でしょう。

明治の頃、居合などやるものも無く、消え去ろうとする流の業を後世に残そうとして、大江先生は、中学校の若者たちに指導する上でやむなく古伝を置き去りにしてきたかも知れないのです。
中学生ともなれば、竹刀剣道も統一理論から習わなければならず、それとも大きく乖離しない組太刀は居合道形七本に絞らざるを得なかったと思いたいのですが・・。
そうでなければ大江先生の改変は意味の無いものかも知れません。

曽田先生の書き写された土佐の居合の古伝を誰でも読める時代です。
原文のまま読む事によってより其の心を感じる事も出来るのです。
現代居合を稽古する上でも決して無駄な事ではありません。
大らかな心で向き合うのも必要でしょう。

「大江先生の根元之巻に無いからやるな」では、後世のこの道を目指す若者たちに笑われるでしょう。

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2015年4月26日 (日)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事7大小詰之極意

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 7、大小詰之極意

 大小詰の極意は霞蹴込につゞまる夫れとは敵の眼を我手を以払ふ敵をくるゝ所にて勝手うごかし難きときは我頭を敵の顔に突付べし又は足にて敵の陰嚢を蹴る也

*大小詰の極意は、霞ませて蹴り込む事に集約される。それは、敵の眼を我が手で払い、敵が臆する処を勝。
手を動かし難い時は我が頭で敵の顔面に頭突きを入れる事で、又、足で敵の陰嚢を蹴ってくらくら霞ませるものである。

大小詰は古伝神傳流秘書の大小詰を指しているのでしょう。(2014年11月17日~11月25日大小詰)

大小詰の手附では敵の眼を払う様な方法は書かれていませんが、最も有効な方法はこの極意業だと云うのです。大小詰の幾つか。

柄留:抱詰の通り両の手にて柄を取り下へ押付られたる時向のわきの辺りへ拳にて當扨右の足にて相手の手を踏み柄をもぐ常の稽古には右の足を押膝にてこぜもぐ

小手留:我刀を抜かむとする其の手を留られたる時柄を放し手を打もぐ也

胸留:詰合たる時相手我胸を取り突倒さんとする時我右の手にて其手を取り右の足を後へ引柄頭にて相手の脇へ當る又引く時は随って抜突く也

左伏:是は左の手を取る也事右伏に同左右の違計也尤も抜かんとする手を留められたる時は柄を放し身を開きて脇つぼへ當り又留られたる手を此方より取り引倒す事も有也

山影詰:是は後より相手組を刀を抜き懸其時手を切ると一拍子に我も共に後へ倒るゝなり

これらの業の中に極意の霞を取り込む事なのでしょう。

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2015年4月25日 (土)

英信流居合目録秘訣。外之物の大事5雷電6霞八相

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 5、雷電

 6、霞八相

 雷電霞の二ヶ条當流極秘中の秘にして大事此外に無
請流に心明らかにして敵の働きを見と云教有れ共當流には雷電の時の心亦霞ごしに見るが如くの心の所に大事の勝ある事を教る也

 夢うつゝの如くの所よりひらりと勝事有其勝事無疵に勝と思うべからず我身を先づ土壇となして後自然に勝有
其勝所は敵の拳也委しき事は印可に有

 八相は四方八方竪横自由自在の事也故に常に事形の修練熟せされば時に臨て其習い出る事無し

本文には教を広く云亦曰八相に打下ろす所にて大事の勝有則二星也

*雷電、霞八相を合せて説明して居ます。
雷電、霞の二ヶ条は當流の極秘中の極秘で大事である。これ以外に大事は無い。
請け流しに心明らかにして敵の働きを見ると云う教えが有るが、當流では雷電の時の心、亦、霞ごしに見る様にする心の時に大事な勝ちがある事を教えるものである。

ここの処の意味する事が解りません。雷電、霞八相についての事前の知識が与えられていませんから此処ではどうしようもない処です。
恐らく、第9代林六太夫が大森六郎左衛門から習った真陰流の中にその秘密があるかも知れません。
2015年3月17日~3月20日にアップした居合兵法極意秘訣の老父物語の中に「雷電」の業のありようがあります。新陰流の勢法に見られる技法でしょう。

夢うつゝの様などうしたのか解らない時でも、ひらりと勝事がある。其の勝事は無疵で勝つと思うものでは無い、先ず、我が身を土壇となして後自然に勝ものである。
其の勝所は、敵の拳である。委しい事は印可にある。
印可とは、居合根元之巻を指しているはずです。
「則霊夢の如く大利を得る有、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事柄口六寸に勝、之妙不思議の極意・・」を指すのでしょう。
その根本にあるものは、「先ず、我が身を土壇となす」のであって、一方的に打ち掛かって行くものでは無いと云うのでしょう。

八相は四方八方竪横自由自在之事である。それ故に何時も事、形の修練して熟成していなければ、時に臨んで習ったことが出来るわけは無い。

「本文には(何を指すのか不明)、教えを広く云う、又、曰く、八相に打ち下ろす所に大事な勝ちがある、則二星である」
此の二星は敵の眼なのか拳なのか、肩腕なのか何れにしても敵の思いを知る事によって八相に打ち下ろす所に応じる事が意味を持つといいます。
新陰流の勝ち口の幾つかがよぎるところです。

此処は新陰流の根元を教えている処でしょう。
外之物と云うのは普通は、流の業技法では無いものを指すのです。
ここでの教えもそのように捉えたいのですが、英信流居合目録秘訣の添え書きに「外の物とは常の表の仕組みより外の大事と云う事也」といいます。
其の上、行連・連達・遂懸切・惣捲形十・雷電・霞八相・大小詰・詰合などが対象ですから少々疑問です。
当流と外の物の整理が不十分なのかも知れません。

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2015年4月24日 (金)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事4惣捲形十

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 4、惣捲形十

 竪横無尽に打振て敵をまくり切る也故に形十と有也常の稽古の格には抜打に切り夫より首肩腰脛と段々切り下げ又冠り打込也

*縦横無尽に打ち振って敵をまくり切るもので、それ故に形十と云うので有る。t常の稽古の方法は、抜き打ちに切り、それより首・肩・腰・脛と上から下に切り返して段々切り下げ、振り冠って打ち込む。

「抜打に切り夫れより首肩腰脛」です。抜打は、前方の敵に歩み行き柄口六寸に横一線の斬り付けをするのか、一刀目の抜き付けは現代居合では失念して居ます。

これは、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事では「五方切」です。
「歩み行内抜て右の肩へ取り切又左より切又右より切又左より切段々切下げ其儘上へ冠り打込也」

*歩み行く内に、刀を抜き出し、右肩に八相に構えて敵の左方から胴へ袈裟に切り、又右脇から左胴下に切り下ろし、又敵の右腰を払い、又敵の膝を左から右に払い、又敵の右脛を左に払い、振り冠って真向に切り下す。
此処では外之物の大事の「抜打に切り」が「抜て」になっています。

大江先生はこれを奥居合立業に残し「惣捲」の業名にしています。
「(進行中面、肩、胴、腰を斬る)右足を少し出して、刀を抜き、其の足を左足に引き寄せ、右手を頭上へ廻し、右肩上に取り左手を掛け稍中腰にて(右足より左足と追足にて)敵の左面を斬り、直に左肩上に刀を取り、追足にて敵の右肩を斬り、再び右肩上段となりて、敵の左胴を斬り、再び左肩上段となり右足を踏み開き敵の右腰を目懸けて刀を大きく廻し体を中腰となして敵の右腰を斬り、中腰のままにて上段より正面を斬る、(左面斬り込みより終りの真面に斬ることは一連として早きを良しとす」

細川義昌先生系統と思われる白石先生は、長谷川流奥居合「五方斬」として「(前方の敵を五回に斬る意)右足を出すと同時に左側にて刀を大きく抜くや直ちに上段に取り、先ず右袈裟がけに斬り振り冠り続いて左袈裟掛けに切り、返す刀にて右より胴を払い腰を落して左より足を払い、再び立姿となり右方より上段に取り真向に斬り下ろす」

現代居合ではこれを「惣捲」として、河野先生は「敵前方より斬込み来るを、我れ抜刀しつつ一歩退き敵刀を摺落しつつ上段となり、敵の退く所を追撃して勝の意にして又多数の敵を追撃する刀法也。
前進し乍ら右足の出たる時刀を水平に抜かける。敵刀を受流し乍ら右足を左足に退き付け上段となり敵の退くに乗じてすかさず右足を踏込み敵の左面に斬付ける。
次に左面に斬込みたる刀の途より上段に冠りながら右足を踏み込むや(左足も連れて)敵の右肩より袈裟に斜に斬込む。
次に同要領にて上段となり右足を踏込みて敵の左胴に斜に斬込む。
次に同要領にて上段より刀先を左方に廻し刃を前に水平に構えるや右足を深く踏込み(左足は其の位置に)乍ら体を沈めて上体を前に延び入る心持にて横一文字に敵の腰部を斬り放ち。
刀先が真右方に来る迄で十分に大きく斬込み刀の止まらぬ内に右に廻して上段に構え直ちに右足より少し踏込む心持にて敵の真向に斬下す。」大日本居合道図譜より

現代風は、随分形を作り上げていますが、大江先生、細川先生の方法は見られなくなって残念です。
特に河野先生は左右袈裟切を全て上段から斜めに斬り下ろしていますが、竹刀剣道の統一法に従った様で、八相、逆八相の教えは無くなっています。
最近は更にコンパクトになって、敵を斬り抜く動作が無く、敵の中心軸まで斬り込み、刀を返すとか、敵に受け太刀になられ乍ら切り返すなど竹刀剣道そのものを得々と指導している先生も居られる様です。

古伝は、おおらかです。河野風は審査や大会の演舞の時ぐらいにして、捲り切りの妙味を大いに稽古しておくのもいいかも知れません。

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2015年4月23日 (木)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事3逐懸切

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 3、逐懸切

 刀を抜我が左の眼に付け走り行て打込但敵の右の方に付くは悪しし急にふり廻りぬきはろをが故也左の方に付て追かくる心得宜し

*逐懸切は刀を抜き左の眼に付け(左青眼に構えて)走って行き、追いつくや打ち込む。但し敵の右の方に付くのは悪い、敵が急に右廻りに振り向いて抜き払って来る事がある。そこで敵の左の方に付けて追い懸ける様に心得るのが良い。

神傳流秘書では抜刀心持之事に「追懸切」が有ります。
「抜て向うへ突付走り行其儘打込也」

刀を抜いて、前方に走り行き間に至れば其の儘打ち込む。
この追懸切の方法の仕方を述べているのでしょう。

此の業は、大江先生が捨ててしまった業か、江戸末期には稽古されなくなったのか現代居合には見当たりません。

細川義昌先生系統と思われる白石先生の長谷川流奥居合に「追掛」が有ります。
「(前方を行く敵を追い掛けて斬る意)正面に対し立姿にて2、3歩前進したる後、左足を踏み出して抜刀用意、右足にて刀を抜き刀先を返し柄を手許にし、左手を柄に添えて持ち中段に構えたる儘にて小走りに追い掛け、左足を踏み出したる時に振り冠り、右足を出すと同時に大きく真向より斬り下す。」

この業の雰囲気は、大江先生の大森流を改変した正座の部の「追風(虎乱刀)」の様ですから、奥居合から抹消したかもしれません。
虎乱刀「是は立事也幾足も走り行く内に右足にて打込み血震し納る也但し膝を付けず」

虎乱刀は敵に接近してから抜き打ちして居ます。逐懸切は抜いてから追掛けて間に踏み込んで抜き打ちます。
同じとは云えそうも有りません。
此の業は、「何を余計な事をしている!」と云って訳も分からない道場主や古参の前でやっていると面倒です。

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2015年4月22日 (水)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事2連達

英信流居合目録秘訣

1.外之物の大事

 2、連達 先跡

 是亦歩行く内に向を刀の柄にて突き左り廻りに後ろへふり廻る拍子に抜打に後ろを切又初柄にて突たる方を切是は我前後に敵を連達たる時の事也旅行抔のとき盗賊抔跡先つれ達時此心行(得の草書の誤認か)肝要也

*是は又、歩み行くところ、前の敵を刀の柄で突き、左廻りに後へ振り廻るや否やに後ろの敵を抜き打ちに切り、又、初めに柄で突いた敵を振り戻って切る。
是は前後に敵と連れ立った時の事である。
旅行などの時盗賊などと跡先になって連れ立った時この心得が肝要である。
この状況は、前後に敵を連れ立って同一方向に歩み行く時の事と解すれば良さそうです。

現代居合の奥居合立業の「行違」の業です。

神傳流秘書の抜刀心持之事「連達」は「歩み行内前を右の拳にて突其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振向て打込也」

古伝では前の敵は拳で打突しています、此処は柄頭が打突の衝撃も大きくダメージを与えられるし、抜刀の準備にも都合が良さそうです。

それにしても、連達を行違に変えたりのは何故でしょう。
連達は同方向に連れ立って歩いて行くと解されます。行違は相手は前方から歩いてきて行き違うのです。想定違いにしてしまったわけです。

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2015年4月21日 (火)

英信流居合目録秘訣 1.外之物の大事1行連

英信流居合目録秘訣 先生口受の儘を記

外の物とは常の表の仕組より外の大事と云う事也

 1.外之物の大事

 1、行連 左右 右を片手打に左を諸手にて切事も有是れは皆気のりにてする心持也

 歩み行く中ちに刀を抜我が左の方を突其儘冠て右の方を切是は敵を左右につれたち行く時の事也或我を左右より取こめんとする時抔の事也

*英信流居合目録秘訣は曽田先生の書き写された順番では「老父物語・・」で始まった居合兵法極意秘訣明和元申歳孟冬吉辰賜之、明和元申年霜月吉辰賜之の後に続く傳書です。
是は誰が何時書いたのか、それを誰が写して、曽田先生は何処の誰から借り出したのかもらい受けたのか全くわかりません。
推定するには第十代林安大夫政詡が第九代林六太夫守政の口授を其の儘書き記しておいたものと思うのですが、飽くまで推定です。
木村栄寿先生の林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流伝書集及び業手付解説でも出処は細川義昌先生のご遺族からの借り受けた伝書からの様ですが、この英信流居合目録秘訣は、誰からの口授を誰が何時書留めたのかは不透明で判断できません。
内容は、神傳流秘書の抜刀心持之事の業について解説している部分もあって、土佐の居合が浮き彫りになってきます。

外之物の大事を解説している様な、謎めいた「外の物とは・・」の文章は意味が解りません。
他の剣術流派などでは外の物とは、他流の技を取り込んだものとか、他流を指すようですが、ここではそうではないようです。
勝手に解釈すれば、外の物と云う事は、通常行う動作から見られる業の仕方の外にある大事な事、例えば敵との状況や戦う為の心持ちなどを説明して置くと云う事である。というのでしょう。

一番初めは、外之物の大事

行連 相手は左脇及び右脇 右の相手を片手打ちに切り、左に振り向き諸手上段になって切る事も有る。是はだいたい其の時の状況から気乗次第にする心持ちである。
歩み行く時に、刀を抜き出し、我が左の方に対する敵を突き、其の体勢の儘、振り冠って右の敵を切る。是は敵を左右に連れ立って行く時の事である。
或は敵が左右から詰め寄って取籠めようとする時等に使う業である。

神傳流秘書の抜刀心持之事ので「行連」を読んでみますと「立って歩み行内に抜て左を突き右を切る両詰に同事也」是は立ち業です、この業の想定を解説していると考えられます。
「両詰」は抜刀心持之大事の座しての業で「抜て片手にて左脇を突き直に振向いて右脇を切る」

立っているか座しているかの違いで全く同じ様です。
更に「両詰」は「右脇へ抜打に切り付け左を斬る」とも有ります。

現代居合では大江先生が改変されたと云う奥居合居業の「戸詰」・「戸脇」・「連達」・「行連」でしょう。古伝は敵は右、左であって右斜前、とか左斜前、や左斜後などに限定しては無く、左脇方面位の事で角度に依っては体裁きが異なる事も含んでいるはずです。
現代居合は戸詰、戸脇などの場の想定まで入れ込んで複雑に限定していますが其れも古伝には無く、状況次第の大らかさです。
古伝はこの様な自由度によって自ら幾つも場や敵の想定を考え稽古に幅をもたせて深く追及されていたのでしょう。

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2015年4月20日 (月)

居合兵法極意秘訣 6.兵粮丸5毒

居合兵法極意秘訣

6.兵粮丸

 5、毒

 陣中にて湯茶水酒などに我が影のうつらざる時は呑まじ皆毒也心得の為記す。

 右長谷川内蔵助より段々申伝之由

 明和元年申年霜月吉辰賜之 林政詡誌

*陣中で飲む湯茶、水、酒などに我が影が写らない時は、呑んではいけない。皆毒が入っているものである。心得の為に是を記す。

さて不思議な現象ですが、影の写らない毒など在るのでしょうか。有る無しよりもそんな気がした時は呑まないのも芸の内かも知れません。人智を超えた危険を察知する能力もあるかも・・・。

右 長谷川内蔵助は長谷川主税助英信でしょう。より段々に伝えて来た事の由。

明和元年1764年11月吉辰の日之を賜る 第10代林安大夫政詡 誌す

ここで一旦「居合兵法極意秘訣」を終ります。

次回以降は、「英信流居合目録秘訣」として、「先生(第9代林六太夫守政)口受の儘を記す」ものを解説して行きます。
現代の奥居合の元となる教えが盛り沢山に出てきます。

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2015年4月19日 (日)

居合兵法極意秘訣 6.兵糧丸4足痛

居合兵法極意秘訣

6.兵糧丸

 4、足通

 山中往来の時足の裏え「うづ」をきざみ水にひたしぬりて行時は足痛まずはだしにてもいたまず千里達者と申也

*山中を往来する時、足の裏に「うづ」を刻んで水に浸し、それを塗れば足の痛みはない、裸足でも痛む事はない、千里達者というものである。

まず「うづ」とは何だか判りません。
広辞苑には「うず・烏頭」ヤマトリカブトの根、リューマチ、神経痛などの鎮痛に外用。とあります。

漢方医学を明治以降に西洋医学其れもドイツ医学に偏って置き去りにして来ていますが、人類が経験値で手に入れた自然治癒の手助けをしてくれる漢方医学には再び眼を向けて見る価値は有る筈です。
手っ取り早い、病原を削除したり、毒物で退治するばかりが医療では無いでしょう。
科学的な実証が無くても、有名な医者の思い付きと患者の自然治癒力がマッチして良い結果など幾らも有るはずです。

運動会で速く走れる様に、草木の汁を足に塗った思い出などあったりして、何時も一等賞でしたなど、ほのぼのとした思い出でした。

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2015年4月18日 (土)

居合兵法極意秘訣 6.兵糧丸3手負

居合兵法極意秘訣

6.兵糧丸

 3、手負

 手負生死医者無き時早持つべきは一白馬の糞一蓮肉に色香いろにあふり右に味茶一服ほど湯にて早く用うべし此薬をうくる人は本服(復の当て字か)すうけざる人は吐逆す死する也

*手負いて生死の状況で医者もいない時に素早く持つべき手当は、一つ白馬の糞、一つ蓮の肉、それを焦げ色になるまで炙って、味茶一服程湯を入れて飲ませる。この薬を飲んだ人は本復するが、飲まない人は吐逆して死んでしまう。

医学的にどうなのかなどの前に、このような状況になるのは多くの足軽、雑兵の類でしょう。
上士以上は軍医が見てくれたのかも知れません。生き残るための手段は己自身の知識に藁をも掴む思いが沢山詰め込まれていたのでしょう。

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2015年4月17日 (金)

居合兵法極意秘訣 6.兵糧丸2溺死

居合兵法極意秘訣

6.兵糧丸

 2、溺死

 水に溺れ死たるを助るの法

 臍の中に灸をすべし亦□(やまがら・山雀)の黒焼を水にて口へ流入べし一時より内なれば必ず蘇

*水に溺れ死んだ人を助ける方法
臍の中に灸をするのが良い。
また、山雀の黒焼きにしたのを粉にして口へ流し込むとよい、一時(二時間)以内であれば必ず蘇る。

死んでしまっていたらどうしようも無いのでしょうが、緊急処置法を捜しておきました。

・溺れた人を救助したら、たとえ水中でも、一刻も早く頭を後ろにそらせて人工呼吸を始めます。心臓が止まっていたら心臓マッサージもいっしょにおこないます。

・以前は、水を吐かせることが先決といわれていましたが、これは誤りです。呼吸や脈の有無をまず真っ先に調べ、救命処置を行うことが第一です。

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2015年4月16日 (木)

居合兵法極意秘訣 6.兵粮丸1蕎麦之粉

居合兵法極意秘訣

6.兵粮丸

 1、蕎麦之粉

 ・蕎麦之粉 能酒に浸て日に干しかため亦酒に浸し干し堅め三度酒にひたし干し申也

 ・白米粉にして

 ・人参和人参吉 たとえばそばこ三匁に白米壱匁人参も壱匁まぜ合直径三分程に丸め米の粉を衣に懸けて能干し堅め持べし一粒服すれば二三日飢ず是を食する時は気力常よりつよく勇力大に増也

 ・そばこを仙粉と云 米を寿延と云う 但糯米大に吉

 ・平常の用心にわ人参入れずしても吉旅行等に用意すべし

*戦場に持っていった兵糧丸です。支給された食料とは別に用意したのかもしれません。
家族の思いの籠ったものであれば、生き延びられたのでしょう。

ここは箇条書きになっていますので、其の繋がりが解りずらいのですが、蕎麦の粉をよく酒に浸して日に干して固め、固まったら又酒に浸して干し固め、三度酒に浸して干し固めておく。
白米も粉にしておいて、人参は和人参を用意して、たとえば干し固めた蕎麦粉を三匁に粉にした白米一匁、人参も一匁混ぜ合わせ直径三分くらいに丸めて、米の粉を衣にかけてよく干し固める。それを持って戦陣に加わって行く。一粒服すれば二、三日は飢えることは無くこれを食すれば勇力大いに増大する。
蕎麦粉を仙粉、米の粉を壽延と云う。糯米(餅米)は大いによい。
平常の時の用心には人参を入れなくてもよい。旅行などの時に用意すべし。

兵糧丸の制作で人参はどのようにするのか、準備の仕様がありません。おろし金ですっておくのでしょうか、それとも千切りにして干し人参にしておいて粉に挽くのでしょうか。

雑兵に駆り出されて行く、夫や息子、兄や弟を、恋人を思いせっせと丸めているおなごの姿が目に浮かんできます。
味は、そっと涙を拭いた手で丸めた涙の塩味かもしれません。

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2015年4月15日 (水)

居合兵法極意秘訣 5.組討心得2砥石

居合兵法極意秘訣

5.組討心得

2、砥石

軍中にて砥石無き時古き瓦を求め能く焼きてさまし刀を磨べし甚吉秘すべきなり

*軍中で砥石の持ち合わせがない時は、古い瓦を求めて、よく焼いて冷ましてから刀を研ぐと良い、甚だ善いものである、秘すべき事である。

なるほどそんなものかとも思えますが、研ぎ師の方からはどの様にみられるでしょう。
多少は刃が荒く研がれた方が良いとか、この伝書の書かれた頃は、平和で戦争などは遠い昔の思い出であったのでしょう。
然し武士の心得は、有効な事、無効な事、おまじないや、迷信も含め、細かな事ごとがあったでしょう。
土佐の居合は、南山大学の榎本鐘司先生の北信濃の研究に従えば、市井の剣士に依る教えであったでしょうし、学ぶ者は下級武士、農民と武士の堺に生きた人の習いごとでもあったでしょう。

今でも、何とかキノコが癌に良いとか、実証も無いままに信じられたり、風評なども横行して居ます、昔を笑う資格は誰にも無いものです。

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2015年4月14日 (火)

居合兵法極意秘訣 5.組討心持1組討心持

居合兵法極意秘訣

5.組討心持

1、組討心持

師伝に云軍中にて敵と組打の時下に成りても早指副を抜草摺をたゝみ上差通よし一刀指と必よわるもの也さて首を早く捕る傳は敵之首の骨に刀を突き立我が足にて刀の宗をつよく蹴て踏切るべし此の如くすれば早し咽の下より刀にて首をかき落すと思ふ人は頬當のすがに刀かゝり埒明申さず候深秘すべき也

*軍中での組打ちの時の心得で首をかる方法を述べて居ます。
組打ちで下に成っても、素早く差し添えの短刀を抜いて、相手の草摺を巻き上げて差し通すが良い。
一刺しされると必ず相手は弱るものである。

それから、首を早く捕るには、敵の首の骨に刀を突き立、刀の棟を足で強く蹴って踏み斬ってしまうのが良い。この様にすれば素早く首を取れるものだ。

咽の下から刀を入れて首を欠き切るなど思う人もいるが、頬当の端が刀に当たって埒が明かないのである。此の事深く秘すべきである。

この伝書は明和元年1764年の事です。
既に戦国時代は終わって関ヶ原の戦いは慶長5年1600年ですから164年も前の話しです。
大阪冬の陣が慶長19年1614年、大阪夏の陣が元和元年1615年でした。
天草・島原の一揆は寛永14年1637年です。此の年生れた者でもこの伝書の頃は一人も生きてはいない時代です。
戦陣での首取りなど、武士の心得か昔話だったのでしょう。

太平洋戦争が無条件降伏で終わって70年、其の倍以上の月日が立って居ます。どこまで戦争の事を覚えて居られるのでしょう。
当時は、認識された事の時間は、ゆっくりゆっくり忘れ去られて居たかもしれません。
それ共、武士の心得として常日頃聞かされていた事でもあるかも知れません。

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2015年4月13日 (月)

居合兵法極意秘訣 4.道統8荒井兵作

居合兵法極意秘訣

4.道統

8、荒井兵作

荒井兵作は関東の人浪人也後清哲(勢哲 曽田メモ)と号す

明和元年申歳孟冬吉辰賜之

*荒井兵作は関東の人で浪人である、後に清哲と号した。
明和元年1764年10月申年吉辰の日之を賜う。

誰から賜ったか書かれて居ませんが之は第九代林六太夫守政の言ったことを、第十代林安大夫政詡が書いて誰かに、例えば第十一代大黒元衛門清勝に与えたかもしれません。
その辺は、曽田先生が書かなかったのか、もともと無かったのか良くわかりません。

荒井兵作は古伝神傳流秘書の居合兵法伝来では曽田先生は以下の様に

1、林崎神助重信
2、田宮平兵衛業正
3、長野無楽入道槿齋
4、百々軍兵衛光重
5、蟻川正左衛門宗績
6、萬野團右衛門信定
7、長谷川主税之助英信
8、荒井兵作信定
9、林六太夫守政

10、大黒元右衛門清勝
11、松吉八左衛門久盛
12、山川久蔵幸雅
13、下村茂市定
14、行宗藤原貞義
15、曽田虎彦

と道統を書き表しています。この系譜は下村派と云う事になります。

曽田先生が書き加えた神傳流秘書の「居合兵法伝来」は、9番目までが原本に記載されている伝来の道統です。
林六太夫守政と10番目以降の大黒元右衛門清勝の間に、第十代林安大夫政詡が抜けて居ます。この3人は親類関係になる筈です。
神傳流秘書の筆者は此処に記載の無い林安太夫政詡でしょう。

林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけたが幼かったので、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合を授けた。
之が林安大夫政詡とのこと。
居合は家督とは別に林安大夫政詡から大黒元右衛門清勝に伝わったと云う事で縁戚による相伝です。
大黒元右衛門から林六太夫守政の4代後の林益之丞政誠に伝わったと云う事です。
(平尾道雄著「土佐武道史話」より)

荒井兵作については南山大学の榎本鐘司先生に依る「北信濃における無双直伝流の伝承について-江戸時代村落の武術と「境界性」-の論文からその存在が荒井勢哲清信が北信濃の伝系に見られる小菅精哲斎正継に間違いないと語られています。
委しくは、榎本先生にお尋ねいただければと思います。

道統については以上で終了です。

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2015年4月12日 (日)

居合兵法極意秘訣 4.道統7百々軍兵衛

居合兵法極意秘訣

4.道統

 7、百々軍兵衛

 百々軍兵衛は相知らずとぞ一説には金五中納言に仕人と申よし

*百々軍兵衛については知らないといっています。一説では金吾中納言に仕えた人だといいます。金五は多分金吾中納言でしょう。

金吾中納言は天正10年1582年~慶長7年1602年20歳までの短い人生ですが、秀吉の妻高台院の兄木下家定の五男に生まれ羽柴秀吉の養子となり高台院に育てられ、丹波亀山城主となる。
秀頼生誕によって疎まれ小早川隆景の養子となり小早川秀秋と改名、秀次謀反の連座として丹波亀山城を没収される。
小早川隆景の隠居に依り筑前城主となり30万7千石。朝鮮の役で苦労し、関ヶ原の役で家康に寝返りなど数奇な運命をたどった戦国末期の武将です。

百々軍兵衛は百々軍兵衛光重として古伝神傳流秘書の居合兵法伝来の道統林崎甚助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績

百々軍兵衛光重は土佐の居合の4番目に位置して居ます。
この居合兵法極意秘訣は第10代林安大夫政詡誌、ですから神傳流秘書と異なるのは疑問です。
第9代林六太夫守政の頃には師匠の荒井兵作(勢哲)以前は良くわからなかったかもしれません。

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2015年4月11日 (土)

居合兵法極意秘訣 4.道統6長谷川主税助

居合兵法極意秘訣

4.道統

6、長谷川主税助

長谷川主税助は後に内蔵助と云尾州公に仕千石領す第一弓馬の上手也諸国弓の傳馬の伝得たる人多し

*長谷川主税助は長谷川主税助英信でしょう。然し今伝える処の第七代では無く、6番目に書かれています。
古伝神傳流秘書で7番目に記載され、目録は無雙神伝英信流居合兵法とあり「是は本重信流と言うべき筈なれとも長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也」とあります。

英信の出自は不明です、尾州(尾張)公は江戸時代では徳川家の御三家の一つです。
尾州公に仕えたというこの文章の出処は不明です。
土佐に持ち込まれた英信の名を冠した居合も、流名の由来を含めて良くわからないのが本当の処でしょう。
長谷川英信も主取りは出来ずに名人達人として、武士と農民との境を行き来して武術を教えた江戸時代前期から中期の市井の武術家であったと思う方が良いかも知れません。
林崎甚助重信の居合が時代と共に変化して、英信の頃今様に体系だったと考えてもおかしくはないでしょう。

以下に2012年6月26日のブログ記事を再掲しておきます。

昭和41年8月1日号の全日本居合道新聞に「長谷川主税助英信 身元考」を水鴎流宗家勝瀬光安先生が書かれています。
以下抜粋します。

長谷川主税助英信が、長谷川英信流居合の流祖である事は衆知の事であるが、その身元に関しての細詳はあまり知られていない。
筆者は最近元駿府勤番の士、布施権十郎正秀の後裔の家に伝わる寶蔵院槍術伝書を調査するうち、居合の長谷川主税助英信に該当するらしい人物を発見した。
布施家の寶蔵院流槍術伝書に「長谷川主税助英信は、太平記の越智越前守の末葉也。
讃劦(*讃岐か)に生まれ、後京大阪等を武者修行同様にして廻国なし、江戸芝において竹川無敵、天上天下唯我独尊と看板を出せる時、無敵と仕合をなして、神明前にて高名を現す。
老年の後実子なく甥官兵衛を養子として家を継がしむ」とあり。
槍術に付いては「先師長谷川主税助英信は元来大嶋流の達人也。成年南部に趣き寶蔵院鳳栄に随身し槍法の妙術を得たり。
後推して法蔵院流長谷川派と曰う。
当流にては宝と法と書替えたる事先師英信深き意味あり。
先師英信は紀州家に仕え後浪人となり江戸に居る。
正保年中(1644年~1648年)竹川無敵と真剣の仕合し之に勝ち名を天下に顕す」と誌し。

出生没年に付いては左の通り記載している。
「長谷川主税助英信は文禄七寅壬寅也(文禄は4年までしかありません)、(慶長3年)(1597年)竹川無敵と仕合は正保3年4月(1646年)と也。大阪御陣(慶長19年1614年冬の陣、慶長20年1616年夏の陣)は14歳の時也。
嶋原の陣は37歳の時(寛永14年1637年)也、享保4年巳12月(1719年)死す。歳百十八歳也」

*少々年が合いませんがそう書かれているそうです。

*土佐に居合を持ちこんだ林六大夫は寛文2年1662年生まれ享保17年1732年70歳で没して居ます。林六太夫が生まれた年には英信は62歳です。林六太夫が20歳前後で英信に出合ったとすれば英信82歳さて・・。

但し年代の違う別の目録細註には、紀州の生れとあるが、これは紀州家に仕えたことと、生国とを混同したらしい。

その槍術伝系は左の通りで甲府を経て駿府に伝った。

元祖、宝蔵院鳳栄‐長谷川主税助英信‐長谷川官兵衛英政‐大河原庄兵衛政久-野田市左衛門成方(甲府勤番)-嶋田八郎左衛門利屋(甲府勤番)‐嶋田元次郎利頼(甲府勤番)‐榊原彦太郎政明‐大橋平左衛門豊成‐吉田新五郎種賢‐吉田三十郎種徳‐吉田芳之助種治ー布施権十郎正秀(駿府勤番)
布施権十郎は駿府勤番二百俵高、文久2年5月(1862年)江戸城に於いて剣術槍術を上覧に供士し反物二反を下賜され、又その父権三郎正忠は文化8年2月(1811年)江戸城に於いて一寸二分の強弓を以て弓術を上覧に供し日本一の称を得ている。

この伝書は槍術の伝書だから居合については何も書いていない。従ってこの長谷川主税助英信が、長谷川英信流の英信と同一人物であるとの立証は出来ないが、生国、時代、名前等から考えると同一人物ではないかと考えられる。

この流の槍術には田宮流長谷川派の居合が併せ伝えられている、布施権三郎正忠の武術書上には、田宮流長谷川派の居合を父市郎次正輝につき、寛政二年(1790年)より17年間修業したと誌されている。

或るはこれが今日の長谷川英信流を当時此の地方に於いては田宮流長谷川派と呼んでいたのかも知れない。これだけ資料から一方的な結論は危険だが、若干の信憑性はあるようにも思われる。

註 河野百錬~本稿は6月上旬、勝瀬範士から私に頂いたものであるが、その直後土佐の英信流宗家福井春政先生に、本稿を送付して、ご意見を承った所~英信流の地元土佐には全然長谷川英信公に関する資料は無いとの事であるが、福井先生はかって英信が尾張藩に仕えたとの事を仄聞した事がある。~との御返書を頂いた。駿府布施家に伝わる此の伝書の、英信が英信流第七代の英信公と同一人物かどうかは、勝瀬範士の言う如く、今後の研究にまたねばならぬが、之は洵に当流を学ぶものにとって貴重な掲載を願ったが之を契機に広く当流同人の御研究を切望する次第である。

*その後いかほどの進展があったのでしょう。

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2015年4月10日 (金)

居合兵法極意秘訣 4.道統5万野團右衛門

居合兵法極意秘訣

4.道統

 5、万野團右衛門

 是同秀吉公に仕

*万は萬と思いますが、曽田先生の写されたものは万です。
万は卍の変形で古くから萬の通用字として用いられています。
萬はサソリの象形文字で、サソリはのちに萬と書き、音を利用して長く続く意に当てて萬。(漢和辞典より)

萬野團右衛門でいいのでしょう。正式には萬野團右衛門信定でしょう。
前回の蟻川正左衛門宗績と同様に秀吉公に仕えたといいます。
この出典は何処からなのかわかりません。

現代では、萬野團右衛門信定は神傳流秘書の居合兵法伝来では以下の様に伝えて居ます。

林崎神助重信―田宮平兵衛業正-長野無楽入道槿露斎-百々軍兵衛光重-蟻川正左衛門宗績-萬野團衛門信貞(定)-長谷川主税之助英信-荒井兵作信定(清信)-林六太夫守政-以降も有りますが曽田先生の加筆でしょうから省略します。
この目録には無双神傳英信流居合兵法とあり・・でした。

此処に始祖は林崎神助重信と有ります。土佐の根元之巻では林崎甚助重信ではなく林崎神助重信だったのです。
戦後の根元之巻では神助を甚助に改められている様です。

ルーツが由緒正しかろうとも、そうでなくとも、現代迄其の大部分が伝承され磨き上げられて来た事は素晴らしい事です。
それは、土佐から全国に無双直伝英信流を広める努力があって広まったからとも云えるでしょう。
この神傳流秘書や居合兵法極意秘訣などが、もっと早く公にされそれを正しく学ぶ思いがあったならば、もっと素晴らしい土佐の居合の伝承が実って居たと思います。

大江先生直伝の先生方やその後の傍系の方々の動画を手に入れて拝見させていただいています。
個性豊かで力強いのですが、どう見ても癖だらけで真似るべき「かたち」とは思えないのです。
横一線の抜き付けが鯉口から斜めに斬り上げられていたり、鞘引きの鐺が不必要に右に振られていたり、其の為か意図しない半身になっていたり、振り冠った刀が意味無く背中にくっついていたり、斬り下しの際弾みを付けあおる様に二段打ち下しになっていたり、血振いの切先が高く天を衝く様に上がっていたり、上体がギッタンバッコンしていたり、請け流しなのか逃げ流しなのか判らなかったり、気迫十分に力いっぱい介錯されたらたまりません。
一方的に竹刀打ち同様ポンポン打ち込んで相手を追い越してしまいそうです、
バタバタ追い懸けてこられたら全速力で逃げ出します。
飛び上ってドンと両膝を床に打ち付け抜き打ったり、意味不明の無茶苦茶です。
その反面、土佐以外の後進の先生方を「居合の居も知らんくせに」と笑っています。迅速で力いっぱいであれば切れるとばかりです。
長年の修錬に培われた納刀はさすがです、きっと何度も血を流されたお蔭様でしょう。

当然の事乍ら一人として同じ業なのに同じ動作では無いのです。
業の動作の順番を習い覚えた初心者が一人稽古で身に付けてしまった思い違いしたままを修錬した理合も術理もそぐわない悪癖と同じなのでしょう。

大江先生は指導された時期によって動作が違っていた、など何かで読みましたが、どうでしょう・・。
大江先生直伝と知れば誰も昔はあんなものだったのかと思って、素晴らしいと云うばかりです。

山本宅治先生の書簡に「・・其れから御頼みがありますが老生の英信流居合に付き御批判がありましたなれ如何なる事でも差閊(支)へはありませんから御通知に預り度(たく)老生の研究に当てたいと考えて居ます現在は某(それがし、誰の誤字)も申してくれないので一寸も分りません御遠慮せず御申して下りませ其を喜ぶ者であります岩田先生の手紙ご参考下さりませ・・」と心を許す弟子に送られています。

岩田先生も何か山本宅治先生の居合に率直に質問されたのでしょう。昭和34年頃の事です。
大家と云われる先生には誰も批判などする事も出来ないのです。大家でなくとも1、2年の兄弟子程度にもそんな風潮が漂っているのです。

こんな事で日本の伝統武芸などと云っていたら笑われてしまいます。
山本宅治先生のこの批判してくれと云うのは素晴らしい事です。
そのお弟子さんであった大田次吉先生の「弟子たるもの師匠の出来ぬ事でもやらねばならぬ」は師弟共に素晴らしい心と思いませんか。

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2015年4月 9日 (木)

居合兵法極意秘訣 4.道統4蟻川正左衛門

居合兵法極意秘訣

4.道統

 4、蟻川正左衛門

 蟻川正左衛門は秀吉公に仕し人也

*今伝わる道統は以下の通り
始祖林崎甚助重信
2代田宮平兵衛業正
3代長野無楽斎槿露
4代百々軍兵衛尉光重
5代蟻川正左衛門宗鑟(續)
6代萬野団右衛門尉信定
7代長谷川主税英信
8代荒井勢哲清信
9代林六太夫守政
10代林安太夫政詡

この居合兵法極意秘訣では蟻川正左衛門は4番目に位置しています。
特に順番の目安が数字で示されていないのですが、3代までは今伝わるものと同じなので4代と5代の入れ替わりと云うよりよくわかっていなかったと考えたほうが良いかもしれません。

なぜなら、この居合兵法極意秘訣による道統の書かれている順序は以下の通りです。
1.林崎甚助重信
2.田宮平兵衛業正
3.長野無楽斎槿露
4.蟻川正左衛門宗鑟(續)
5.萬野団右衛門尉信定
6.長谷川主税英信
7.百々軍兵衛尉光重
8.荒井兵作(勢哲)

4番目以降の順序が今伝わるものとは違っています。
長野無楽斎に繋がる、三之宮左太夫照信(一宮左太夫照信)以下も見られません。
長野流、一宮流として一流を立てなのか、林崎の道統は百々軍兵衛か蟻川正左衛門かこの辺は不透明なのでしょう。

荒井勢哲、長谷川英信が北信濃の松代藩内で郷士や農民に武術を教えていた様子が垣間見られます。
彼らが居場所を求めて転々とする中での出会いだったかもしれません。

そんな事は無い、当流を誹謗中傷するな、との御叱りがあっても、証明するものが無いのですから今後の発掘が楽しみです。
往時の武芸者は、殆ど使い捨ての助っ人集団で、仕官の叶った武芸者は少ないものです。
武士と農民の狭間を生きた人達の習いごとであったり、農村を夜盗から守る助っ人であったりしたのでしょう。

現在の無双直伝英信流なども、師は誰々と名のある師匠の流れでもいつの間にか幻の如しの感があります。
お弟子さん方が如何に師を慕ってみても、書物や動画に残り、後世の人が見知る事が出来なければ、その師の人となり、居合への思い、業技法の優れた見識が伝わることは稀でしょう。

今伝わる明治以降のテキスト本で、多くは前に出された書籍の真似に過ぎない中で、その人の修得された業技法とその道への思いを伝えて来る先師のテキストは以下のものだろうと思います(敬称略)
山内豊健・谷田左一共著の居合詳説
白石元一の大森流・長谷川流・伯耆流居合術手引
河野百錬の無双直伝英信流居合道・大日本居合道図譜・居合道真諦
政岡壱實の無双直伝英信流居合兵法地之巻
中川申一の無外流居合道解説
妻木正麟の詳解田宮流居合
檀崎友影の居合道教本
山蔦重吉の夢想神傳流居合道
笹森順造の一刀流極意
柳生延春の柳生新陰流道眼
鈴木安近の鹿嶋清孝先生伝新陰流居合
赤羽根龍夫の江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ
岩田憲一の古流居合の本道・師伝芥考土佐の英信流・土佐の英信流旦慕芥考三谷義里の詳解居合無双直伝英信流
松峯達男の居合の研究夢想神伝流
池田聖昂の無双直伝英信流居合道解説
前田英樹の剣の法。

多くの剣士は俺の流派では無い、やり方が違うと云うだけで手に取ろうともしない、稽古しようともしない、そんな狭量な心に拘るよりも流派を越えて、伝えられた業技法をひたすら稽古して道理を得た方が良さそうです。

文章に残された仕方は著者が目指すものであって、著者自ら演じた業が文章に合わないなど当然の事です。
良き指導者であり著者は普遍的真実を語っている筈です。

元関東地区の会長であった大田次吉先生がある酒宴の席で「弟子たる者は、師匠のできないことでも、やらねばならぬ!」とおっしゃったと言う。この言葉が全てを語っていると思うのです。
幻を追うは、稽古を付けられた、その時の師匠の居合の形でもなければ、映像に残るものでも無く、心から弟子を愛し学び得た事を伝えようとされた、あの一言・一動なのだろうと思います。

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2015年4月 8日 (水)

居合兵法極意秘訣 4.道統3長野無楽斎槿露

居合兵法極意秘訣

4.道統

3、長野無楽斎槿露

長野無楽斎槿露は田宮重正の弟子也井伊侍従に仕え五百石下さる者の頭勤るなり九十一歳にて死すと云う無楽斎弟子三ノ宮左太夫照信と云う有武田勝頼に仕刀術の妙得たる人と申す

*この長野無楽斎についても本朝武芸小傳に依ったと思われます。
無楽斎は田宮平兵衛重正の弟子と云って居ますが、奥州地方に残された傳書では以下の様です。
・津軽藩の林崎新夢想流では、林崎甚助重信―田宮平兵衛照常―長野無楽斎槿露―一宮左大夫照信
・三春藩の林崎流では、林崎甚助―田宮平兵衛―長野無楽斎-中譒三九郎
・新庄藩の林崎新夢想流では、林崎甚助重信―田宮平兵衛照常―長野無楽斎槿露―一宮左太輔照信
・秋田藩の林崎流居合では、林崎甚助重信―長野無楽斎槿露―市宮左大夫忠重
・二本松藩の林崎神流では、林崎甚助重信―永野無楽入道槿露
・秋田・仙台藩の林崎夢想流では、林崎甚助重信―永野無楽斎
などがあって、長野無楽斎槿露は林崎甚助重信直弟子とも取れます。

無楽斎は上州箕輪城主長野信濃守の一族で武田に滅ぼされ、奥州で林崎甚助に弟子入りしたとも云われます。

弟子の三ノ宮左太夫照信は本朝武芸小傳では一宮左太夫照信となっています。
武術流祖禄では、さらに上泉孫次郎義胤にその宗を伝授したとあります。

上泉孫次郎義胤は上泉伊勢守の族縁と云われ無楽斎から術を受け、上泉権右衛門と云う者が柳生兵庫と居合で勝負し尾張に伝わった様な話もある様です。柳生新陰流の抜刀はこの上泉孫次郎義胤による林崎甚助重信の抜刀を繋ぐ一つかも知れません。

山田次郎吉の日本剣道史によればこのような幾つか逸話があります。出典は武芸名家伝のようですが不明です。

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2015年4月 7日 (火)

居合兵法極意秘訣 4.道統2田宮平兵衛重正

居合兵法極意秘訣

4.道統

 2、田宮平兵衛重正

 田宮平兵衛重正は関東の人也林崎重信に従い抜刀の妙を得実に変を尽し神に入る後に對馬と改む其子對馬守長勝父の伝を受て同妙を得池田三左衛門輝政公へ仕ふ老年常圓と改め紀州大納言頼宜公へ仕ハ百石を領す其子掃部長家後又平兵衛と改此人の弟子多くて諸国にて田宮流と云て末流多し此平兵衛は△大猷院様へ召し出され其術を台覧備え奉る其名を天下に顕す其子三之助朝成後常快と号す其子次郎右衛門成常中納言吉宗公に仕奉末流諸国に多し

*この田宮平兵衛重正は、西條藩に伝わる妻木正麟宗家の田宮流では田宮平兵衛業正であって成正・成政・茂正・重政などとあるされています。
奥州地方の伝書では、津軽藩の林崎新夢想流では田宮平兵衛照常、三春藩の林崎流では重正、新庄藩の林崎新夢想流では照常、と照常が使われて居た様です。同一人であるかは不明です。

この道統の田宮平兵衛重正については、前回同様日夏繁高による本朝武芸小傳(千城小傳)の漢文調を改めて部分的に改変して記載されています。
本朝武芸小傳の田宮平兵衛重正の後半に付されている文章
「北條早雲記曰、勝吉長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛成政という者是を傳うる、成政長柄刀をさし諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんぢうの利、其外神妙秘術を傳へしより以後、長柄刀を皆人さし給へり、然に成政が兵法第一の神妙奥義と云うは、手に叶ひなばいかほども長きを用ひべし、勝事一寸ましと傳たり。」

田宮流については武術流祖録、撃剣叢談などにも記載があります。

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2015年4月 6日 (月)

居合兵法極意秘訣 4.道統1林崎甚助重信

居合兵法極意秘訣

4.道統

 1、林崎甚助重信

 林崎甚助重信は奥州の人也林崎明神を祈て刀術之精妙を悟ると云えり中興抜刀の始祖也北条高時に仕る長柄之刀に益有事を明神老翁に現し伝えしよし始は神助勝吉ともいえるよし林崎明神とは奥州楯岡郡に林崎明神と云有鹿島大明神也
伝に曰く長柄の刀とて只長くする事にあらず世人刀之鞘に空鞘する人有是無益也不用心也同空せば一寸にても柄を長くせよ敵に當り徳有べしと云事也夫とも刀の柄は二尺三寸の刀にても柄を八寸にせよと也

*この林崎甚助重信の由来は、江戸時代の本朝武芸小傳巻六にある処と、書き出しから「・・・中興抜刀之始祖也」まではそっくり同じです。

本朝武芸小傳(千城小傳)は「正徳甲午秋八月葛慮林信如序」とありますから正徳甲午は正徳4年1714年に日夏繁高によって書かれたものに序文を依頼されたので、繁高を知らないけれど序を書いたと云って居ます。
巻末には「正徳甲午冬12月橘直養跋」とありますから橘直養によって後書きされています。
手許にあるものは享保元年1716年に版行されたものの様です。
従って年代的には第9代林六太夫守政(寛文2年1662年~享保17年1732年)が手にしたことはありうるでしょう。この居合兵法極意秘訣は六太夫の養子第10代林安大夫政詡により明和元年1764年に書かれていますから十分本朝武芸小伝(千城小傳)を手にしているでしょう。

「北条高時に仕る~」以降は何処かからの聞き及んだものとの混合だろうと思います。

北条高時は鎌倉幕府の14代執権で嘉永元年1304年~元寇3年1333年、新田義貞に攻められ自刃して居ます。
林崎甚助重信(定説では天文11年1542年~元和3年1617年)がこの北条高時に仕えたとするのは当てはまらない様です。
本朝武芸小傳の「北条5代記曰く、長柄刀のはじまる仔細は明神老翁に現じ長つかの益あるを林崎勘助勝吉という人に傳へ給う」の小田原の後北条氏と混濁しているのでしょう。

本朝武芸小伝では「愚曰、勘助は謄写のあやまりならん歟、5代記には勝吉とあり、傳書に重信と有、明神老翁に現じて傳え給うというは、鹿島の神をいへるか、傳書には奥州楯岡の近辺に林崎明神と云う神社あり、勘助此の神を祈りて妙旨を悟とあり」

林崎甚助重信に就いて書かれている、武芸書
・北条5代記:慶長年間1596年~1614年 三浦浄心
・居合明心之巻:承応2年1653年~宝永3年1706年 庄内藩酒井十平長照
・和田流居合正誤:享保10年1725年 藤田貞固
・日本中興武術系譜略:明和4年1767年
・武術太白成伝:武術太白成伝(原本不明) 山田次郎吉日本剣道史より 
「生国は奥州でなく、相模の産である。
文禄4年5月10日48歳より慶長3年9月15日に至る7年間武州一ノ宮今大宮の社地に居住し、陰陽開合の理に基いて工夫を凝らし、生善正勝という辞を押立て、純白伝と号して飄然諸州を歴遊の途に上ったとある。
時に54歳の秋紅葉正に色つく時であった。
星霜移って元和2年2月28日武州川越の甥高松甚兵衛の許を訪れ明年7月まで滞在して20日再び鳥藤を鳴らして奥羽の旅程に立越えたのは73歳。残躯を天に任せて復帰っては来なかったのである。故に一宮流奥幸四郎施主となって、享保元年7月20日川越の蓮馨寺に墓碑を建立し、良仙院一誉昌道弱心大信士の法号を鐫(せん・ほる)し、一部生国相州鎌倉の天照山光明寺の過去帳に其の名を留めて、永く菩提を弔う料としたということである。」

林崎甚助重信の謂れはこの程度のものです。より史実に照らしたものは見られません。

「伝に曰く長柄の刀とて只長くする事にあらず世人刀之鞘に空鞘する人有是無益也不用心也同空せば一寸にても柄を長くせよ敵に當り徳有べしと云事也夫とも刀の柄は二尺三寸の刀にても柄を八寸にせよと也」については、文章が解りにくいのですが、読んでみます。

伝える処に依れば長柄の刀と云って、ただ柄を長くするのでは無く、世の中の人は刀の鞘を必要以上に長くして空鞘にする人もある。
是は何の益する事も無く不用心である。
同じ様にするならば一寸でも柄を長くすれば、其の分敵に届く距離が遠くになり得である。
夫れとも、2尺3寸の刀でも柄を8寸にした方が良い、と云うのもある。この一行は前章との関連が良くわかりません。
太刀の柄を一寸でも長くし、腰刀の2尺3寸のものでも8寸柄にした方が良いと云うのです。
此の場合柄は8寸、刃渡は1尺5寸の脇指をさして云っているのかも知れません。

居合をされる方が8寸柄を云われるのはこの辺から来ているのかも知れませんが此の場合の効能は別の様です。


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2015年4月 5日 (日)

居合兵法極意秘訣 3.居合仮名5刀術

居合兵法極意秘訣

3.居合仮名

 5、刀術

 夫刀術は専ら人に勝事のみを好むにあらず大変に臨ては生死を明にするの術也常に此の心を養ひて其術修せずはあるべからずと古人云えり我が道を尽し家法を以て命をする所是刀術の極意とぞ   林 政詡 誌

 明和元年申歳孟冬吉辰賜之

*夫れ刀術は専ら人に勝つ事だけを目的とする事では無い。大変に臨んだ時には生死を掛けてする術なのである。
常にこの心を養ってその術を修業しないなど、あるべきではないと、古人は云っている。
我が道を尽くし我が家の掟を持って命がけでする事が、まさに是刀術の極意である。

林 安太夫政詡

明和元年(1764年)申歳(甲申きのえさるとし)孟冬(初冬、10月)吉辰(吉日)之を賜う

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2015年4月 4日 (土)

神傳流秘書の棒の流名訂正

神傳流秘書の棒の流名訂正

曽田虎彦先生の神傳流秘書にある棒術の流名について訂正させていただきます。

記事としてアップした流名 は以下の通りです。
「棒合 是は板橋流之棒也と言」

訂正する流名
「棒合 是は坂橋流之棒也と言」

訂正すべき理由は、過日木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流伝書集及び業付解説」の正誤表をお探しの読者の方から、木村先生は坂橋とあって正誤表に板橋との訂正が見られないとのご指摘をいただきました。

再度原本の曽田本を開きましたところ、神傳流秘書では上記の様に「棒合 坂橋流之棒也と言」と有って、坂の土偏を木偏に小生が誤認して板橋流之棒と記述してしまいました。
お詫びと共に現在掲載して居るすべての坂橋流之棒関係記事を訂正いたしました。
尚、木村栄寿先生の神傳流秘書、河野百錬先生の神傳流秘書も総て坂橋流之棒となっています。いずれも手書伝書からの書き写しに依るもので現存する手元資料ではそれ以上正否を追及する事は現段階では不能です。
ミツヒラブログは曽田本を元としていますので曽田本のミツヒラの誤認は状況から訂正すべき事です。

「棒合 坂橋流之棒也と言」の坂橋流の流名表示は一か所しかありません、「坂」か「板」かの一字のみによる対比出来るものは神傳流秘書の中には他に見当たりません。

業名の研究課題は残ります、政岡壱實先生の無双直伝英信流居合兵法地之巻では居合兵法の内容と題する記述に神傳流秘書によるとして「棒合 是は板橋流之棒也と云う」とあり、「板橋流之棒」と記述されています。

訂正しました記事

神傳流秘書14-4棒
神傳流秘書を読む6.棒合 2014年10月26日~10月29日
神傳流秘書を読む7.太刀合之棒 2014年10月30日~11月6日

曽田本を読む英信流目録1,2,3,4、
棒太刀合之棒 2013年5月24日~5月31日
棒合 五つ 2013年6月1日~6月5日
心持之事 2013年6月6日~6月10日
極意之大事 2013年6月7日~6月18日
尚この英信流目録には坂橋流である流名表記は有りません。

坂橋流之棒についての発生と伝承の詳しい事は不明です、残された伝書はこれを元に動作を研究し稽古しうるものと思っています。
夢想神傳流あるいは無双直伝英信流を学ぶ方の内、棒術を他流で学ばれておられる方は是非、坂橋流棒を手附けによって演じられると違う居合が見えてくるかも入れません。

坂橋流之棒ですが南山大学の榎本鐘司先生の「北信濃における無双直伝流の伝承について」の論文から該当する業名をピッキングしてみました。

滝沢家所持の資料より
・棒合(神傳流秘書棒合)
・すね払(神傳流秘書脛砕・英信流目録脛砕)
・腰車(神傳流秘書腰車・英信流目録腰車)
・小手揚(神傳流秘書小手上・英信流目録小手揚)
・小手落(神傳流秘書小手落・英信流目録小手落)
・見帰り(神傳流秘書見返・英信流目録見返)
・笠場(神傳流秘書笠之羽・英信流目録笠之羽)

北信濃では和や棒、居合は長谷川英信と小菅兵作(荒井勢哲)により指導されて居たのであろうとされて居ます。
土佐の居合は第九代林六太夫守政によって土佐にもたらされたとされます。
北信濃にまで修行に出かける余裕は無かったろうと思われますので江戸に在住の折りに長谷川英信と荒井勢哲に何らかの接触が有って稽古されたものと思われます。
荒井勢哲は北信濃の時代に既に御年80歳とも・・。
詳しくは南山大学の榎本鐘司教授の論文をご検討下さい。

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居合兵法極意秘訣 3.居合仮名4麓なる

居合兵法極意秘訣

3.居合仮名

 4、麓なる

 麓なる一木の色を知りかほに
          おくもまだみぬみよし野の花

 心妙中勇の位不住之妙

 荒磯海の波間かきわけかつく海士の
          いきもつきあへずものをこそおもへ

 慈円歌に

 柴の戸ににほはむ花はさもあればあれ
          ながめてけりなうらめしの身や

*歌心で林六太夫守政が伝えようとする、居合心なのでしょう。

・麓に咲いている一本の桜の木を見ただけで、三吉野の山奥の桜の様子を知った顔しているよ、と歌って居ます。
さて、剣の勝負では敵の起こりを察知して機先を制する。或は敵の動きを良く見て待って動けとか、歌を思い出していましたら頭のてっぺんにずしんと一本。

・人智では計り知れない様な中での勇気とは心を留めない事、とでも言うのでしょう。

・荒海をかき分けてゆく海士は、息を休める暇も無く、波に翻弄されながらも目的の処に泳ぎ渡っている、どの様に思うのであろう。そんな風に居合心で読んでみました。

・慈円は平安時代末期の天台宗の僧です。この歌の元の意味と、居合心の掛け合わせに悩みます。
みすぼらしい庵に住まう乙女の姿に、ほのかな思いを抱いたのでしょう。違う処に住んでいればもっと美しく匂うものを、眺めているばかりでどうすることもできない。と色っぽくよんでみました。
先師は何を伝えたかったのでしょう。思う処に思う様に相手の動きなどある訳はない。心を沈めて良くみなさい、とでも言いうのでしょうか。
心無く、唯、形のみ追う棒振りに明け暮れていては歌もよめません。

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2015年4月 3日 (金)

居合兵法極意秘訣 3.居合仮名3易に曰

居合兵法極意秘訣

3.居合仮名

3、易に曰

易に曰無思無為寂然不動感而遂通於天下之故

古詩云眼裏有塵三界宱心頭無事一生寬

孔子曰匹夫不可奪志

以-心 伝-心 教外別伝

天-上 天-下 唯-我 独尊

一-月 萬-水 二-運有天

生死在命

*易に曰く 思うこと無く、為すこと無く、寂然として動かず感じて遂に天下の故に通ず。

*古詩に云う 眼裏に塵ありて三界に宱し心頭事無くして一生寛。

*孔子曰く 匹夫の志奪うべからず。

*以心伝心教外別伝

*天上天下唯我独尊

*1に月 万に水 2に運は天に有り

*生死在命

この辺りの引用は享保12年1727年に佚斎樗山(丹羽忠明1659-1741年)による「田舎荘子」から「猫の妙術」を読んで話したのだろうと推察します。
樗山は「天狗藝術論」を書いています。中国の易経、孔子、老子、荘子などの教えが取り入れられています。
武術書として解り易く、第九代も読んだのだろうと思います。

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2015年4月 2日 (木)

居合兵法極意秘訣 3.居合仮名2先師の咄

居合兵法極意秘訣

3.居合仮名

 2、先師之咄

 先師之咄の由良知は耳に五音無は耳の本躰也故に五音を聞て違ふこと無若し常に耳に一音も有れば五音違う故に五音無きを耳の至善とす

口も五味無きは口の本躰也口に五味無き故に能く五味を別ち違うこと無若し一味にても有れば違ふ五味無は口の至善とす

人に善悪無は心の本躰也善悪無故に善悪を弁て各あやまる事無し若し之有時は善悪供に違故善悪無を心の至善とすかるが故に至善は心の本躰也

語云好く為す無く悪く為す無く三之路に順じ其の善有は其の善を亡適う無く莫く無く義の興に従う又云可も無く不可も無し

右居合兵法事(業)形大よう覚候事此如く道理をも少し合点せざれば高位大名の師となる事能わず能々工夫有べし

*先師(第九代林六太夫守政)の話しであるが、人が生まれながらに持っている判断能力といわれる良知(陽明学による)について、耳はもともと五音など無いのが耳の本体である。
五音とは宮きゅう=唇音、商しょう=歯音、角かく=牙音、徴ち=舌、羽う=喉音を言うのだろうと思います。
それで、五音を聞いて聞き間違うことがない。もし常に耳に一音でもあれば五音は違うように聞こえるだろう。だから五音を持たない耳がこの上もなく善いといえる。

口にも五味の無い事が口の本体である。
五味とは仏教で云う処の乳味、酪味、生酥味、熟酥味、醍醐味だそうですが不勉強で解りませんが生の乳からできる発酵乳製品の最後が醍醐ですから酒でしょうか。専門家にお応えをいただければと思います。
分かりやすいのは甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の基本味でしょう。
口に五味が無いので良く五味を味わえて間違える事がない。若し一味でもあれば違ったものになるであろう。口に五味のない事がこの上もなく善いと云える。

人に善悪のない事は人の本体である。
善悪をもたないので、善悪を弁えて過剰になる事も無い。もし善悪のどちらかでもあるとすれば善悪共に違うものになるであろう。善悪をもたない事が心のこの上もなく善いと云える。
そういうわけで、至善は心の本体である。

語に云う、良く為すでも無く、悪く為すでも無く、三の路に順じ其の善があれば其の善を亡くし、適う事も無く、莫が無く、義の興りに従うものである。
又云うべき事も無く、云うべからざるものも無い。

右の通り、居合兵法の事(業?)形、大方覚えたならば、このような道理も合点していなければ大名の高位、大名の師となる事は出来ない。よくよく工夫することである。
ここで、「高位大名の師となる事能わず」の解釈ですが、高い位の大名とも取れますが、大名に高位で抱えられると読みたい。
それは武術を極め取りたてられる者の地位が以外に低い、それは単なる武芸者である場合が多いからでしょう。棒振りが譬え上手であってもそれは芸人に過ぎず、それだけの事であって、漢籍や軍学に培われた人としての哲学もなく、それ以上の役には立たないと見抜かれてしまうからでしょう。
土佐の居合も術理ばかりを追うのではなく随所に散りばめられている教えに今一度心を置いて見る事だろうと思います。

第九代林六太夫守政の話しとして、第十代林安大夫政詡が書き留めたものですが。
思いこみに居付かず無の境地で、受け留めれば真実を認識できる、依って義の興りに従い可も不可も無い、此の道理を解らなければ大きな事を為す事は出来ない。と教えたのでしょう。

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2015年4月 1日 (水)

居合兵法極意秘訣 3.居合仮り名1の2肩敵の拳に當る

居合兵法極意秘訣

.居合仮り名

1の2、肩敵の拳に當る

 1、 肩敵の拳に當る

*打ち込む際、相手の拳に我が肩が当たるほどの高さで打ち込んでいくのでしょう。
甲冑を着た介者剣法を思わせます。
柳生新陰流の柳生石舟斎宗厳が孫の兵庫助利厳に与えた新陰流截相口伝書事(慶長8年1603年)にある「身懸五箇之大事」の二番目に「敵のこぶし吾肩にくらぶべき事」との教えがあります。
兵庫助が尾張大納言に印可相伝の際(元和6年1620年)に進上した「始終不捨書」では身を前懸かかりにして構えては居着いてしまうから、前を豊かにして「直立たる身の位」で、打ち込み勝時に「身之懸五箇」とすべきだと改善しています。

2、 右の手短  左のひじ長

新陰流截相口伝書事「身之懸五箇之大事」を上げておきましょう。

第1 身を一重に成すべき事

第2 敵のこぶし吾肩にくらぶべき事

第3 身を沈にして吾拳を盾にしてさげざる事

第4 身をかかりさきの膝に身をもたせ跡のえびらをひらく事

第5 左のひじをかがめざる事

*これは第5項目の教えでしょう。
右手は柄の鍔際を握っていますから容易に前に出ますが、左手は肘が曲がって刀が前に伸びて行かない事を戒めているのでしょう。右手は少しゆったりと肘を曲げ、左手の肘を伸ばすように心得ろと言うのでしょう。
居合の切下ろした拳の位置が臍前一拳から一拳半ですと少々剣先の伸びは少ないようです。
袈裟切などでは特に左肘が曲がりますから師伝を研究し直す処です。
腰で斬る腹で斬るならば左の肘は屈みません。
かと言って天井をスイープさせてフィニッシュで両拳を臍前に引き込んでくるのも見るからに納得できません。刃筋の通った動きは切先の円形を描く放物線状の動きにもある筈です。

3、 右の足にて太刀を下し左の足にて勝を取る

*これは、どうやら第4項目に当たるのではないでしょうか。
右足を踏み出し右足の膝に重心を乗せるように太刀を打ち込み、左足膝を伸ばして、一重身になって勝。
この文章からは、右足を踏み込んで中墨に打ち込み上太刀になるや左足を踏み込んで太刀を摺り込んで敵の甲手から腹部へ刺突するとも読めます。

4、 左の肩を向る事・1 手字

*これは、左の肩を敵の方に向ける事によって左肩の前に出た一重身となり、敵が左肩に打ち込んで来るのを十文字勝ちすると言うのでしょう。
第1項目で「身を一重に成すべき事」ですから構えの基本は右足前か左足前の一重身を推奨しています。
これは敵を誘う手立てかも知れないと思うのです。
「手字種利剣の目付」などと言う新陰流の教えから、目付は敵の動きを察知する大切なもので手字は「衣の内合して衣文成るを太体の手字と云う也、手裏見は手の内也」十兵衛の月之抄より
ですから目付の場所は敵の両肩から着物の合せの辺りを遠山の目付をすると言うのでしょう。そこへ打ち込んで十文字勝ちを取るのでしょう。

5、 足一本の事・1 峯谷二星

*足一本の事が不勉強で解りません。
次の峯谷から類推すれば踏み出す足一本で敵の動きを峯谷の動きで察知して踏み込み足一本で切り下すとでも読めます。
新陰流では足を揃えて立ったりするのを嫌う様です、また大きく左右の足を開いて打込めば最も嫌う居付になってしまいます。

峯谷は嶺谷、腕のかがみ、両腕の伸び縮み、をいう。兵法家伝書より。
右肘を嶺左肘を谷。

その際の、二星は目付であって、正しく切り込む目付をさすのでしょう。
目付は敵の目を見て動きを知ることでもあるのです。
もう一つは敵が柄を握って居る両拳へ目付をしろとも云います。
此処では峯谷である肩拳の辺りに目付をするのがよさそうです。

6、 右におこり左におこり無刀の事

*新陰流截相口伝書事に見られませんが、敵の打ち出す刀が右からであろうと左からであろうとその起こりに合わせ無刀でも応じられる、というのでしょう。
三学円の太刀の右旋左転かな、などと思って見ます。
大森流居合之事の冒頭にある「上泉伊勢守信綱之古流五本仕形有と云う」はこの三学円の太刀と思われます。

古流剣術や居合を考え乍ら稽古して行きますと、無刀も剣を持っても同じ事と気付かされます。解るは出来るならばと思うのですが・・・。

 右のケ条常に我が心中に能く覚えるべき事也

*林六太夫守政が学んだ新陰流の中にこの教えががあると思われます。

*前回(2015年4月1日)のなぞなぞの様な文言を何とか解いて見たいとしたのですが不勉強でここまでです。
何れにしても大森六郎左衛門が第九代林六太夫守政の剣術の師匠で上泉伊勢守信綱の真陰流ですからこの「新陰流截相口伝書」の内容は、真陰流(新陰流)を習う上では当然のこととして伝わったと思って間違いはないでしょう。
そして、林六太夫守政一代の事として失伝したのでしょう。
その心持まで失念してしまったのでしょうか、居合兵法極意秘訣はこれからです。
読者の方からのご教示をいただければ幸いです。

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