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2015年11月

2015年11月30日 (月)

曽田本免許皆伝目録その21伝書の集録

曽田本免許皆伝目録

21、伝書の集録

 林崎甚助重信に依る道統の居合の伝書で根元之巻は正統正流以外にも幾つも発行されていますからその存在は追及することは大した意味を持つとは思えません。
 しかし、根元之巻をどの様な流れで受けていても、其処に書かれている、一国一人の相伝など何時の間にか夢物語となっています。
 根元之巻を持つ事で林崎甚助重信公から我は○○代の相伝者で宗家を名乗る事を許されたと自認する人もあるようです。
 免許皆伝とは、すべての業技法を伝授し、真実の人にはそれを伝える事を許可すると云う意味合いであって、宗家と云うべきか否かは議論するものではないでしょう。
 宗家と称する人も、免許皆伝を多発し業技法を伝承する道を幾つも確保して置くのは意味ある事です、然し、次期宗家を生前に誰々と明確に印可せずに亡くなられた場合、その弟子たちの宗家争奪の争いは起こりうるものです。
 曽田本にある谷村樵夫自庸は土佐の居合谷村派第15代谷村亀之丞自雄より根元之巻を授与された楠目繁次成栄から授与されたものです。
曽田先生は第15代谷村樵夫自庸-16楠目繁次成栄-17小藤亀江とNOを打たれています。
 是は曽田先生の実兄の小藤亀江を17代であると云う思いなのでしょう。
 現在の無双直伝英信流居合道は第15代谷村亀之丞自雄-第16代五藤孫兵衛正亮-第17代大江正路子敬
 明治から昭和にかけて曽田本では、第15代谷村亀之丞自雄-第16代五藤孫兵衛正亮-第16代森本兎久身・・の線も加えられています。是は第16代が森本兎久身にも允可した事を意味するのでしょう。
 森本兎久身には竹村静夫や中山博道も師事したようです。竹村静夫は穂岐山波雄が第18代を引き継いだことを不満として森本兎身に允可を願い出たという話もあります。如何に業技法に優れていてもそれだけを頼りに宗家であると言うことにはならないでしょう。  」
 流の全てを纏め正しくその業技法を伝承し、孤独に耐えられる強い心も必要です。政治力、財力なども後押してくれなければならないでしょう。業師ではただの芸人と言えば叱られそうです。
 余談ですが、全剣連や全居連で段位を允可されていても、自流の業を「我は無双直伝英信流」と流名を述べ乍ら無双直伝英信流の何の印可も段位も持たない幽霊が大勢います。これなど不思議な事とも思わないほど、伝統を継承する意識の欠落は嘆かわしいものです。
 誰々師伝無双直伝英信流と言うべきもので、現在の業目録の形であれば大江師伝でしょう。
 その後、大江先生の弟子達が夫々想定を独自に固定されて指導され、それを頑なに守るとすれば、それは、第17代大江正路伝無双直伝英信流誰々師伝のはずです。

根元之巻を含め伝書が公に読める資料を紹介しておきます。


1、平成3年1991年林崎甚助源重信公資料研究会
 「林崎明神と林崎甚助重信」
 
 ・津軽藩 林崎新夢想流 元禄4年1691年~1714年
  浅利伊兵衛-棟方五右衛門
 ・三春藩 林崎流 元禄7年1694年
  荒澤源右衛門-岡山五郎左衛門
 ・新庄藩 林崎新夢想流 元禄14年1701年
  相馬忠左衛門-田口彦八郎
 ・庄内藩 林崎田宮流 宝永3年1706年
  酒井七右衛門-酒井十平長照
 ・藩不明 林崎夢想流 宝暦8年1757年
  久米作野右衛門-久米儀左衛門
 ・秋田藩 林崎流居合 天明8年1788年
  鈴木五右衛-曲木惣内
 ・秋田・仙台藩 林崎夢想流 寛政2年1790年
  北山長楽軒-五十嵐与五右衛門
 ・新庄藩 林崎新夢想流 寛政3年1791年
  常井大膳-押切傳之進
 ・新庄藩 林崎新夢想流 寛政12年1800年
  梥田梅翁喜栄-小川珍蔵
 ・二本松藩 林崎神流 文化10年1813年
  中川蔵之進-杉村文之進
 ・秋田藩角館 林崎流 弘化3年1846年
  小田野主人-陶 六郎
 ・秋田・仙台藩 林崎夢想流 安政2年1855年
  山嵜隋謙-笠原周治
 ・新庄藩 林崎新夢想流 明治44年1911年
  松坂次郎左衛門-早坂理三

2、昭和29年1955年 
  第20代河野百錬「無双直伝英信流居合兵法叢書」
 
・谷村樵夫自庸-小藤亀江 曽田本写し 
  明治34年1901年 根元之巻
 ・行宗貞義-中村虎猪 長谷川流居合術中伝書 
  曽田本写し 明治39年1906年 
 ・第17代大江正路-鈴江吉重 曽田本写し 
  大正10年1921年 根元之巻
 ・第15代谷村亀之丞自雄-藩主山内豊惇 
  曽田先生より 弘化2年1845年 根元之巻
 ・第19代福井春政-第20代河野百錬 
  昭和25年1950年 根元之巻
 ・第19代福井春政-第20代河野百錬 
  無双直伝英信流紹統印可之巻昭和25年1950年

3、昭和49年1974年政岡壱實
  「無双直伝英信流居合兵法地之巻」
 
 ・第17代大江正路-政岡壱實 大正10年1921年 根元之巻
 ・細川義昌-無名 大正11年1922年根元之巻
 ・第15代谷村亀之丞自雄-山内豊信 
  天保15年1844年根元之巻

4、昭和57年1982年 木村栄寿 
  林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書及び業手付解説
 
 ・下村茂一-嶋村善馬 慶応2年1866年 居合根元之巻
 ・下村茂一-嶋村善馬 慶応4年1868年 居合兵法極意巻
 ・坪内清助-嶋村右馬丞 天保5年1834年 根元之巻
 ・山川久蔵-坪内清助 文政4年1821年 
  真傳流居合極秘書
 ・山川久蔵-坪内清助 文政10年1821年 居合兵法咄
 ・山川久蔵-嶋村右馬丞 天保7年1836年 物語之趣
 ・林政 詡誌 明和元年1764年 老父物語
 ・書者不明 時期不明 英信流居合目録秘訣
 ・同 不明 居合兵法極意巻秘訣 印可部
 ・嶋村易秀 天保10年1839年 居合兵法之和歌
 ・島邑右馬丞易秀 天保7年1836年 居合歌之屑
 ・嶋村易秀 天保7年1836年 右林守政指南仕申候次第
 ・山川久蔵-嶋村右馬丞 文政12年1829年 初抜之法
 ・山川幸正-坪内長順写し 文政10年1827年 
  抜刀心持引歌
 ・嶋村右馬丞 抜刀心持引歌 天保2年1831年写し
 ・坪内清助-島村右馬丞 天保12年1841年 
  神傳流業手付(神傳流秘書)
 ・山川幸正-坪内清助 文政12年1829年
  居合兵法極意書(神傳流秘書)
 ・下村 定-島村義郷(細川義昌) 1860年万延元年 
  抜刀術童蒙初心之心持
     
5、大江正路-山内豊健
6、山本宅治-大田次吉

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2015年11月29日 (日)

曽田本免許皆伝目録その20林崎新夢想流の4

田本免許皆伝目録

その20、林崎新夢想流の4


1、津軽藩の林崎新夢想流伝書
「則為曹洞五位之秘訣 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体而百戦場中使大寂光土也 如此観事現世摩利支尊天之護身符也 此居合千金賜以不貴伹於實當之人可傳附之兵利心懸者晝夜思之祈神明之息得利正見依心濟身耳
畢竟黙然良久云
珊瑚枝々撑着月

(則ち曹洞五位の秘訣と為す、敵味方と成る事、是又前生の業感也、生死一体にして百戦場中大寂光土たらしむ也、此の如く現世を観る事、摩利支尊天の護身符也、此の居合千金を賜うを以て貴からず、但し實當の人に於いて之を伝符すべし、兵利に心懸けるは昼夜之を思い、神明の息に祈り、利を得て正しく観て心済にして身に
畢竟黙然やや久しゅうして云う
珊瑚枝々撑に月付く。)」
2、谷村樵夫自庸より小藤亀江への伝書
「敵味方成事是亦前生之業感也生死一体戦場浄土也如是観則現世蒙大聖摩利支尊天
加護来世成仏縁事豈有疑哉此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々
古語曰
其進疾者  其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈忽得利方是依心済身事燦然
(敵味方と成る事、前生の業感也、生死一体戦場浄土也、此の如く観、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世仏縁となる事豈疑いあらんや、此の居合千金を積むと雖も不真実の人には堅く之を授けざるべし、天罰を恐るべし、唯一人に之を伝え授云々
古語に曰く
其の疾は進み、其の退くは速し云々
此の意貴賤尊卑を以て前後の輩を隔てなく、其の所作は達すると謂わず、目録印可等相違無く許す。
又古語に曰く
夫れ百錬の構えありて、則、茅や茨の荘鄙と兵の利を心懸ける者は、夜、自ずから之を思い、神明佛陀に祈り、忽ち利方を得る、是に依り心は済、身は燦然となる)
3、大江正路先生から鈴江吉重先生への伝書
「敵味方成事是亦前生之業感也生死一體戦場浄土也如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑問哉此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐夫天罰唯授一人伝之云々
古語曰
其進疾者  其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈忽得利方是依心済身事燦然
(敵味方と成る事、前生の業感也、生死一体戦場浄土也、此の如く観、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世仏縁となる事豈疑いあらんや、此の居合千金を積むと雖も不真実の人には堅く之を授けざるべし、天罰を恐るべし、唯一人に之を伝え授云々
古語に曰く
其の疾は進み、其の退くは速し云々
此の意貴賤尊卑を以て前後の輩を隔てなく、其の所作は達すると謂わず、目録印可等相違無く許す。
又古語に曰く
夫れ百錬の構え在り、則、茅や茨の荘鄙と兵の利に心懸ける者は、夜、自ずから之を思い神明佛陀に祈り、忽ち利方を得る、是に依り心は済、身は燦然となる)
*以上が江戸時代の奥州の津軽藩に残された、林崎新夢想流の伝書であり、土佐に伝わった谷村樵夫自庸による林崎甚助重信の英信流居合の伝書です。
そして明治以降の第17代大江正路先生の伝書も谷村樵夫自庸の文言と同じ文言のものでした。
奥州の林崎新夢想流とは後半の処で違いが見られます、仏教用語の簡略化したものが土佐の伝書と云う事は、江戸時代前記に林崎甚助重信公が江戸(川越あたりとも)で指導した伝系に依るものと思われます。
信州松代にも第8代荒井勢哲や第7代長谷川英信の足跡がある様で、そこでの伝書は南山大学の榎本鐘司先生のレポ-トで紹介されています。
無双直伝流の根元之巻序で天明6年1786年に大矢彌五兵衛尉から瀧澤武太夫に伝授されています。
その根元之巻序は略土佐の伝書と同じ文言で綴られています。
第9代林六大夫守政の生きた時代の直後でしょうからその辺の交流の有無を思うばかりです。
「敵御方成事是亦前生之業感也 生死一躰戦場浄土也 如此観 則現世蒙摩利支天加護来世為成仏縁無疑 此居合出千金非真實人輙(すなわち)不可授與之者也」
(敵御方(味方)成る事是前生の業感也、生死は一体、戦場浄土也、此の如く観、則ち、現世では摩利支尊天の加護を蒙り、来世に成仏成るは縁を疑う無し、此の居合千金を出すも真実に非ざる人には、すなわち授与せざるもの也)

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2015年11月28日 (土)

曽田本免許皆伝目録その19林崎新夢想流の3

曽田本免許皆伝目録
其の19、林崎新夢想流の3

1、津軽藩の林崎新夢想流(平成3年発行林崎甚助重信公資料研究会の「林崎明神と林崎甚助重信」より。この冊子は現在復刻版が平成18年に村山市から出されています)

「則如霊夢成得大利腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之妙不思議の極位一国一人之相傳也 腰刀三尺三寸者過現未之三心三身則三宝之王法是為三剱 禅門有十八種剣六種剣十二種剱又是□(濟)家室中重代衲僧截断柊行也 殺人刀活人剣都在掌握中 脇指九寸五分者九品蓮葉剣出離憂苦海海中生死魔軍追倒釋道九曜五古之内証也

(則ち霊夢の如く成し、腰刀三尺三寸を以て大利を得、九寸五分に勝つ、表六寸にして之に勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸は過現未の三心三身、則ち三宝也、王法是を三剱と為す。
禅門十八種の剣、六種の剣、十二種の剣有り、又、是れ済家室中重代衲僧截断の柊(修)行也)。
殺人刀活人剣、都(すべて)掌握中に有り、脇指九寸五分は九品蓮葉剣に憂い苦海中に出離し、生死魔軍を追倒するは釈道九曜五古(鈷)の内証也)」
*この津軽藩の林崎新夢想流の伝書は元禄4年1691年から正徳元年1714年頃のものと考えられています。この内容と同じものが林崎新夢想流として新庄藩に伝わり明治44年1911年まで伝わっています。
2、谷村樵夫自庸より小藤亀江に伝授された居合根元之巻
「則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五分九曜五古之内証也

(則ち霊夢の如く有りて、大利を得、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸、三毒、則ち三部に、但し脇指九寸五分は九曜五古の内証也。)」

3、第17代大江正路先生から鈴江吉重先生へ伝授された根元之巻
「則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也腰刀三尺三寸三毎(毒の読み違いか)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也

(則ち霊夢の如く有りて、大利を得、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸、三毒、則ち三部に、但、脇差九寸五分は九曜五鈷の内証也)
*奥州の伝書に比べ土佐藩のものは此のあたりからの文言に隔たりが見られます。
津軽藩の伝書は仏教用語の様ですから何れ勉強して見たいと思います
榎本鐘司教授のレポ-トによる北信濃に伝わる無双直伝流の伝書では「則如霊夢成得大利以腰刀之三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思儀(議)之極意一国一人之相傳也腰刀三尺三寸三毒則三部但脇指九寸五分者九曜五古之内証也」
(則ち、霊夢の如く腰刀三尺三寸を以て大利を成得し九寸五分に勝事、柄口六寸に勝の妙不思議の極意一国一人の相伝也、腰刀三尺三寸は三毒、則ち、三部により、但、脇指九寸五分は九曜五鈷の内証也)

 

 

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2015年11月27日 (金)

曽田本免許皆伝目録その18林崎新夢想流の2

曽田本免許皆伝目録
その18林崎新夢想流の2
奥州に残された、林崎甚助重信の伝書林崎新夢想流の根元之巻は津軽藩に残されたものが今の処最も古いものかも知れません。
土佐に残された谷村樵夫自庸から曽田先生の実兄に伝授された根元之巻の内容は第17代大江正路先生の発行された根元之巻とも少し違います。
そこでこの三部の根元之巻を読み比べてどの様に解釈されてきたのか考えてみたくなりました。
津軽藩に残されたものは山形県に居られた林崎甚助重信公資料研究委員会の方々のご苦労に成る平成3年発行の「林崎明神と林崎甚助重信」にある、津軽藩に伝わった林崎新夢想流の元禄4年1691年~正徳元年1714年ごろの伝書で笹森建氏所蔵の物と云われる写しを使わせていただきます。
他のものは曽田先生の書写された伝書となります。既に津軽藩の伝書の書き出し三行は前回対比してあります(2015年11月26日)ので次から入ります。
1、津軽藩の林崎新夢想流
「手近之勝負一命之有無極此居合 恐於粟散邊土之堺不審之儀不可有之唯霊夢依所也尋此始或時奥州林崎甚助謂者依兵法之望林明神百日参籠満暁夢中告云汝以此太刀常胸中憶持得勝怨敵云々]

(手近の勝負一命の有無、此の居合に極まる、恐らく粟散邊土の堺に於いても、不審の儀之有るべからず、唯霊夢に依る処也。此の始めを尋ねるに、或る時奥州林崎甚助と謂う者、兵法の望に依り林明神に百日の参籠し満暁の夢中に告げて云う、汝此の太刀を以て常に胸中に憶持すれば怨敵に勝ちを得ん云々)

*林崎新夢想流の根元之巻には「百日参籠満暁夢中告云」の処は土佐の説明調子の「一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰く」とは異なります。
2、谷村樵夫自庸より小藤亀江の伝書
「手近勝負一命有無極此居合恐者粟散辺土於堺不審之儀不可有之唯依多夢処也此始尋奥州林崎神助重信云者因兵術望有之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告云曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々」
(手近の勝負一命の有無、此の居合に極まる、恐らくは粟散辺土の堺に於いて、不審の儀之有るべからず、唯多夢(㚑夢・霊夢の誤字であろう)に依る処也、此の始めを尋ぬれば奥州林崎神助重信(甚助の誤字であろう)と云う者により兵術之有るを望み、林の明神に一百有日参篭せしめ其の満暁の夢中に老翁重信に伝えて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たるは怨敵に勝ちを得る云々)
*多夢は誰かの伝書を見て霊夢を異体字の「㚑夢」を読めなかったかして「多夢」としたのでしょう。或は曽田先生の誤認かも知れません。
「神助」については林崎甚助重信を知らず「甚助=じんすけ=じんすけ=神(じん)助」と誤り伝えるとすれば、土佐に伝える以前の道統の誤りだろうと思うのですが、伝書は先師の伝書を写したと思うのが普通で口頭で聞かされ記憶をたどって伝書を作成したとしたら土佐の居合は不思議な伝承としか言い様は有りません。
津軽藩の林崎新夢想流の伝書に略沿っているのですが、目録に依る業名は殆ど一致しません。
どこかで変化したか(長谷川英信の頃か)、免許皆伝書ばかりを盗用したなどもありうるものなのでしょう。
時の流れが疑問を投げかけて惑わされます。
その様な事が譬え有ったとしても、土佐の居合は業も心得も武術の求める所も充分整理された素晴らしいものと思われます。
3、大江正路先生から鈴江吉重先生への伝書
「手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑夢処也此始尋奥州林崎神助重信と云者因有兵術望之林之神明一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信云曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々
(手近の勝ち一命の有無これ此の居合に極まる。恐らくは粟散邊土の堺、不審の儀之有るべからず。唯㚑夢(霊夢)に依る処也、此の始めを尋ねれば、奥州林崎神助(甚助の誤りでしょう)重信と云う者、兵術有るを望に因り、之林の神明一百有日参籠せしめ夢中に老翁重信に云う、曰く汝此の太刀を以て、常に胸中憶持するは怨敵に勝ちを得ん云々。)
*大江先生も此処まではあまり違いは有りません。「唯㚑夢」は直されています。「奥州林崎神助重信」の誤りは其の儘ですから、大江先生この頃(大正10年1921年)林崎甚助重信と云う名を正確に知る事が出来たかわかりません。
*北信濃の天明六年1786年に大矢五兵衛尉から瀧澤武太夫に与えた無双直伝流の伝書のこの部分は「手近勝負一命之有無極此居合恐者於粟散邊土之境不審之儀不可有之唯依霊夢処也 此始尋或時奥州林崎甚助云者兵法之依望林之明神百日参籠満暁告夢中曰汝以此太刀常胸中億持得怨敵勝事云々」と南山大学の榎本鐘司先生の論文に有ります。
こちらの方が、津軽藩の林崎新夢想流の伝書に近い様です。
 林崎甚助重信であって土佐に伝わる林崎神助重信ではありません。
 此処では土佐で言う第7代長谷川英信および第8代荒井勢哲が指導者であったとレポ-トされていますから、この二人は土佐の居合の原点でしょう。
そうであれば、伝書の細部の違いが気になります。

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2015年11月26日 (木)

曽田本免許皆伝目録その17林崎新夢想流の1

曽田本免許皆伝目録

その17.林崎新夢想流伝書の1
江戸時代の伝書として平成3年1991年発行の林崎甚助源重信公資料研究委員会の編著に成る「林崎明神と林崎甚助重信」に津軽藩に伝わるものが掲げられています。
元禄4年1691年~正徳元年1714年頃のもので笹森建美氏所蔵とされて居ます。
津軽藩士浅利伊兵衛均禄(ただよし)から棟方五右衛門に伝授されたものです。
先に曽田本免許皆伝目録として掲載した、谷村樵夫自庸から曽田先生の実兄小藤亀江が授与された根元之巻(明治34年1901年)とは少し異なる処もあるので併読しながら土佐の居合の元があるのか
進めて見たいと思います。
同時に第17代大江正路先生の発行された鈴江吉重先生の根元之巻(大正10年1921年)を並べて見みます。
1、津軽藩「林崎新夢想流」

「抑居合者奥州従林之明神夢想傳之 夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相応之太刀」
(そも居合は奥州林の明神の夢想により之を伝う。夫れ兵法は上古中古数多有りと雖も此の居合は末世相応の太刀)
2、谷村樵夫自庸から小藤亀江の伝書

「抑此居合と申者日本奥刕林之従大明神夢想奉伝之 夫兵術者上古中古雖有数多之違他流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々末代為相応之太刀爾云」
(そも此の居合と申すは日本奥州林の大明神の夢想により之を伝え奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違い有ると雖も、この違い他流大人小人無力剛力嫌わずに合い兵に用ゆ云々、末代相応之太刀と為るに云う)
3、大江先生の鈴江吉重への伝書

「抑此居合と申者日本奥州林之従大明神夢相に〆奉伝夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々末代為相応之太刀云々」
(そも此の居合と申すは日本奥州林の大明神により、夢相に伝えしめ奉り、それ兵術は上古中古数多の違い有ると雖も他流大人小人無力剛力嫌わずに合い兵に用ゆ云々、末代相応之太刀と為る云々)
*津軽藩のものは奥州であって日本奥州ではない。
弘化2年1843年第15代谷村亀之丞自雄から土佐の14代藩主山内豊惇公への伝書が河野先生の無双直伝英信流居合兵法叢書に掲載されています。是は曽田先生から贈られたものと有ります。
「抑此居合ト申者日本奥州林之従 大明神夢相奉伝之兵術者上古中古雖数多之違他流大小人無力剛力不嫌合兵用云々・・」
江戸末期には土佐の伝書は「日本奥州」でした。
「北信濃における無双直伝流の伝承について」報告されている南山大学の榎本鐘司先生の研究の中に天明6年1786年に大矢彌五兵衛尉が瀧澤武太夫に与えた居合根元の巻きが有ります。
此処には「居合根元之巻 抑居合者奥刕自林之明神夢想傳之夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相應之太刀・・」から始まります。津軽藩の「林崎新夢想流」の伝書に似ています。
読み進みますと、とても面白いものです。
以下次回。

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2015年11月25日 (水)

曽田本免許皆伝目録その16大江正路より鈴江吉重

曽田本免許皆伝目録


その16.大江正路より鈴江吉重


*この免許皆伝目録は、曽田本2に紹介され既にこのブログではアップされています。(平成14年8月2日・3日)

曽田本その2を読むの4曽田メモの6メモの6根元之巻1

曽田先生はどうした訳なのか、大正10年に大江先生が鈴江吉重先生に授与した根元之巻を書写しています。
下村派行宗貞義先生から曽田先生は、根元之巻を授与されていないのかも知れません。
行宗先生は大正3年1915年65歳で亡くなっています。曽田先生は明治23年1890年生まれですから行宗先生の亡くなられた時には25歳でした。
高知2中へ入学した時、行宗先生について居合を習い始めたわけで、行宗先生の亡くなるまで13年程度師事していた修行です。
曽田先生は高知2中卒業後高知武徳殿の助教授に抜擢されて行宗先生の後を継いでいる様です。
行宗先生は明治の末から大正始めにかけて京都武徳会本部の居合術教師を勤めていたようですから、亡くなる前は曽田先生との接触は少なかったと推察できます。

根元之巻はそれに依れば一国一人への相伝と云っていますが、いつの頃からか根元之巻を持つ者が複数となり、そしてさらに複数に授与されています。
是は土佐の居合の業技法をことごとく納め終った者への免許皆伝目録であってそれが土佐の居合の宗家を認める紹統允可とは異なるものと理解しています。

居合根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写なり

抑此居合ト申者日本奥州林之従大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑(霊)夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎(毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾 其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然。

以下、根元之巻を読み下します。

*居合術根元之巻
(大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写し 曽田メモ)

抑(そも)此の居合と申すは、日本奥州林之従、大明神の夢相に〆之を伝へ奉る、夫れ兵術は上古中古数多之れ有りと雖もこの違い、佗(他)流大人小人無力剛力を嫌わずに兵の用に合う云々、末代にても相応になる太刀云々。
手近に勝ち一命の有る無しの極み、此の居合。恐れるは粟散辺土の堺(日本国)、不審の義之れ有るべからず、唯霊夢に依る処也。
此の始めを尋ぬ、奥州林崎神助重信と云う者、兵術の望み之れ有るに因って、林の神明に一百有日参籠せしめ、其の満暁の夢中に老翁、重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中億持する怨敵に勝ちを得ん云々。
則ち霊夢に有る如く大利を得ん、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝つ事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸、三毎(毒の誤字)、則ち三部に、但し脇差九寸五分九曜五鈷の内証也。
敵味方に成る事は是れ亦前生の業感也。
生死は一体、戦場浄土也。
此の如く観るは、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙るなり。来世に成仏成るは縁なる事、豈疑い有らん哉。
此の居合、千金を積むと雖も不真実の人には堅く是を授けざるべし。天罰を恐るべきして唯一人に之を伝え授く云々。

古語に曰く
其の進むこと疾き者 其の退くことの速き云々
此の意を以て、貴賤、尊卑隔てなく前後の輩といわず、其の所に達せし者には目録印可等相違無く許せ。

又古語に曰く
夫れ百錬の構え、則ち茅茨、荘鄙とも兵利に心懸ける者、夜自ずから之を思い神明仏陀に祈る者、則ち忽ち利方を得、是の心に依り身を済す事燦然(さんぜん)。

*大江先生が鈴江吉重先生に伝授した皆伝目録です。

大森流之部
1、前身 2、右身 3、左身 4、後身 5、八重垣 6、請流 7、介錯 8、附込 9、月影
10、追風 11、真向

長谷川流之部
1、横雲 2、虎一足 3、稲妻 4、浮雲 5、山下シ 6、岩浪 7、鱗返 8、浪返 9、滝落
10、真向

奥居合之部
1、霞 2、脛囲 3、四方切 4、戸詰 5、戸脇 6、棚下 7、両詰 8、虎走 9、行連 10、連達 11、惣捲 12、惣留 13、信夫 14、行違 15、袖摺返 16、門入 17、壁添 18、請流 19、暇乞 20、暇乞 21、暇乞

形並発声
イーエーイ
1、出合 2、拳取 3、絶妙剣 4、独妙剣 5、鍔留 6、請流 7、真方

右之条々深秘之極意也 非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道熱心練磨之結果其蘊奥二達せらるゝを認爰我英信流居合術令相伝候宜しく将本流の品位を堕す事なく之か拡張を計り漫りに他流に媚ひず以て伝授の責を全ふせられん事を期せらる可し

*右の条々深く之を秘す極意也。真実の人にあらざれば、努々(ゆめゆめ)相伝有るべからざる者也。
貴殿、多年斯道に熱心錬磨の結果其の蘊奥(うんのう)に達せらるゝを認め、爰(ここ)に我が英信流居合術を相伝せしめ候、宜しく将来本流の品位を堕す事なく之が拡張を計り漫(みだり)に他流に媚びず以て伝授の責を全うせられん事を期せらるべし。

*右之条とは、目録全て之事でしょう。

天真正
林明神

林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
万野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮

無双直伝英信流居合術十七代目
大江正路蘆洲
大正十年七月吉日

鈴江吉重殿

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2015年11月24日 (火)

曽田本免許皆伝目録その15小藤亀江の根元之巻奥書

曽田本免許皆伝目録

其の15.小藤亀江の根元之巻奥書

無双直伝英信流居合就多年御熱心太刀次悉令相伝□向後御嗜専要候若御所望之仁於有之者兼而其之人之取罰文御指南尤可仍許免之状如件

明治三十四年六月十五日
 
 谷村樵夫 自庸
 
小藤亀江殿
*無双直伝英信流居合、多年御熱心に就き太刀次悉く相伝せしむ、□向後お嗜なみ専要に候。
若し御所望の仁、之有るに於いては、兼ねて其の人の罰文を取り御指南尤もによって許免之状件(くだん)の如し
明治34年(1901年)6月15日
谷村樵夫自庸
小藤亀江殿
*以上を以って曽田先生の実兄小藤亀江先生の許された根元之巻及び目録を終わります。
無双直伝英信流の根元之巻及び目録はこの谷村樵夫自庸先生から曽田先生の実兄小藤亀江先生へのものが江戸時代の雰囲気を残すものでは無いでしょうか。
曽田本2で紹介した大江正路先生から鈴江吉重先生に大正10年(1921年)7月に伝授された根元之巻の写しがあります。之を次回より勉強して見ます。

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2015年11月23日 (月)

違師伝交流稽古

違師伝交流稽古

  今年もあと一月余りを残す事になってしまいました。三連休ともあって新幹線の乗り場は、大きな荷物を抱えた人で一杯です。
 降り立った駅に、懐かしい顔が今年も笑顔一杯に出迎えてくれます。毎年続けて来た、師伝の異なる方々との交流稽古会を今年も11月21日、22日の2日間行いました。
 同じ無双直伝英信流でも第17代大江正路先生の直伝であるとしていても、当時のお弟子さんは大江先生に習った時期や、人に依っては指導内容が違うでしょう。まして、そのお弟子さんから代を重ねて来れば、同じ理合でも動作が異なるものです。
 居合は、理合によって自分の頭の中に仮想敵を描いて、その仮想的に向かって技を繰り出す空間刀法です、間合いや、拍子の少しの違いでも技法の変化が起こるものです。其の上人は、育ちは勿論のこと、身長も体重も筋力も性格も性別も哲学も夫々です。幾らでも異なるものが生み出されます。
 其れにもかかわらず師匠の真似をして「之が当流の掟だ」として狭い範囲に無理やり押し込まれて得々としているのです。
 半面、どんなに、其処からはみ出て見ても、釈迦の手を出られない孫悟空です。
 今回の課題は、一人演武の空間刀法ではなく対敵を相手にした太刀打をそれぞれ披露してその真髄を学んで見ようとするものです。
 ここでの、稽古形は、大江先生が中学生向きに改変された無双直伝英信流居合形七本では無く、土佐に伝わって来た、古伝太刀打之位(神傳流秘書の太刀打之事)十本の稽古です。
 形は、江戸末期には、防具と竹刀によって実戦に近い動作を促成で身に着けさせる稽古法に取って代わられた様に思えますが、本来白刃の下をかいくぐって来た先師が残された取って置きの稽古業で之を充分稽古する事によって、幾つもの課題が解決されるはずです。
 平和な江戸時代には、いつの間にか、形を、狭い申し合わせの打ち合いの「かたち」に押し込め、足の運びは何歩で、ここで振り冠り、ここに打込まれるのでこのように受けて・・など、テレビでみる歌手や踊り子の演舞同様なものになってしまったのでしょう。
 それでは喧嘩慣れした無法者に勝てるわけもなく、決められた「かたち」から外れた打込みには為す術すらなかったのでしょう。
 
 現在の形の演武を見ていますと、見事に恰好よく美的武術を演じています。中には真剣を以て打ち合う振りをして「如何にも」と得々と演じたりしています。
 ひどいのは、合同演武と称して、号令一過、足並みそろえて、打ち合う音まで合わせるが如き踊りまがいの集団剣の舞を演じています。
 第20代河野百錬先生は「形は姿勢を正確にし、眼を明らかにし、技癖を去り、太刀筋を正しくし、動作を機敏軽捷にし、間合いを知り、気位を高め、気合を練るなど甚だ重要なものなり。
 形を演ずるに当たりては充分に真剣対敵の気合を罩(こ)め、寸毫の油断なく、一呼吸と雖も苟(いやしく)もせず、居合の法則に従ひ確実に演錬すべし。形に最も重んずべきは単に其の動作のみならず実に其の精神にして、気合充実せず、精神慎重を欠かば、如何に軽妙に是を演ずるとも一の舞踊と択ぶ所なし。学者の心すべきところなり。」と言われています。
 是だとて、形を演ずる心懸けの息を出ていないかも知れません。形は人前で得々と演じたり、足並みそろえて演じるものでは無く、その与えられた、手附から繰り返し稽古する事により、必勝不敗の秘術を身に着ける事を学ぶ事で有る筈です。
 背丈を合せ、申し合わせのままに、合同演舞(武??)とはなんなのでしょう。かと言って、はじめに形を覚えなければ、何事も進歩する能わず共いえます。大人のチャンバラはそれなりにそこまででしょう。
今回は、師匠に習ったままを拝見します、その技法を解説してもらいます。同じ師匠筋の太刀打ちならば申し合わせの部位に打ち込まれもしますが、師伝違いでは其の都度戸惑うものです。何回も他道場を渡り歩いていても新鮮な驚きと発見に高ぶってきます。
 太刀打之事一本目出合だけでも、参加された方々の動作は随所に自分と違う事に気が付きます。わからない処は、質問し、やって見るのです。
 此の形は何を学ばせようとしているのか、そのポイントは何だろう・・。この先生の師伝の意図する処は是かも知れない、是非覚えたい、などそんなこんなで三時間半で六本迄進むのが精一杯でした。翌日に更に残り分を、稽古し合います。
 形の持つ、奥の深さがひたひたと染み込んで来きます。
 大江先生以前の古伝です、一旦失伝された物が復元されて伝承されたものですから、業毎に最後に古伝神傳流秘書の業手附を読んで見て、検証して見る事も忘れない様にしてみました。
 大江先生以前の古伝太刀打之位(太刀打之事)の復元は政岡先生の地之巻に行われています。
 政岡先生は復元にあたり「秘伝書を基として出来るだけの関係書類を参考として復活したものでありますので不合理な点、変だなあと思われる処、斯ありたいものだなどのお考えが多い事と思いますので、御気付の点に就いては大小となくお申出下されたく御互に手を取り合って正しいものを再現し後世に残し伝えたいと念願でありますのでご協力お願いたします」
と、綴られております。政岡先生は地之巻発表の一年前に77歳で稽古中にこの世を去っておられます。地之巻発表以前からご研究の有ったものですから既に半世紀を過ぎて、政岡先生に縁のある方々とこの太刀打之事を研究し合えたのは、きっと政岡先生の御導きによるものかと、しみじみ地之巻を開いています。
 

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曽田本免許皆伝目録その14小藤亀江の根元之巻目録の8

曽田本免許皆伝目録


その14.小藤亀江の根元之巻目録の8


*小藤亀江の根元之巻に付随する目録は無双直伝英信流居合目録として英信流、今の立膝の部から始まり、太刀打之位・詰合之位・大小詰・大小立詰・外之物之大事・上意之大事・極意之大事目録允可されて居ます。
繰り返しますが坂橋流之棒、夏原流和も神傳流秘書に残された大剣取も第9代が取り入れた大森流居合もこの允可の中にはありません。
次にある目録は以下の様です、これらも解説がありませんから何を伝授されたのかわかりません。
居合心持肝要之大事
1.捕手和合居合心持之大事
1.立合心之大事
1.太刀目附事
1.野中之幕之大事
1.夜之太刀之大事
1.閨之大事
1.潜り之大事 戸脇之事
1.獅子之洞出之事
1.獅子之洞入之事
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也
今回の九ヶ条の目録は、居合心持肝要之事 付 大小指違之事で2015年5月22日~5月30日に其の内容をアップしてあります。
此処では、詳しい解説は省略しますのでバックナンバーをご覧いただきたいと思います。
ここに或る一番目の「捕手和合居合心持之大事」は見当たりません。
二番目は、曽田本では「居合心立合之大事」の題名です。内容は太刀合うに当たって我が身を土壇となして敵の打ち出す処を何心なく応じよ、と言う様な事が述べられています。
付けたりの部分は、この九カ条は深く秘すの極意也で真実の人にあらざれば努々相伝有るべからざるもの也。
この允可状を見てもなにも理解出来ないでしょう。
小藤亀江へ允可された目録は以上です。いずれも、題のみ、ですからそれに付随する解説書を渡されて書写したか、口授のみであったか判りません。
曽田先生は明治38年1901年に小藤亀江の允可状を見てコツコツと資料を集め書写されたと推察します。

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2015年11月22日 (日)

曽田本免許皆伝目録その13小藤亀江の根元之巻目録の7

曽田本免許皆伝目録

その13.小藤亀江の根元の巻目録の7

 曽田先生の実兄小藤亀江先生が谷村亀之丞自庸から明治34年1901年に授けられた根元之巻の目録は、無双直伝英信流居合目録・四方切・太刀打之位・詰合之位・大小詰・大小立詰までさらっと流してきました。
 目録には手附がありませんから流す以外に手は無いのです。
 ここまでで、不思議に思ったのは、ここには大森流居合がありません。
 大森流は元々林崎甚助重信の居合にも長谷川英信の居合にもなかったもので、「此の居合と申すは大森六郎左衛門の流也英信と格段意味相違無き故に話して守政翁是を入れ候六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流の上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言う・・」
と云うわけで古伝神伝流秘書では「無双神殿英信流居合兵法に大森流の居合を入れたと云っています。
 現在の夢想神伝流の初伝大森流居合と言う様に、繰り入れられて100年以上経って居ても明治になっても大森流は別扱いであったのかも知れません。
初伝の目録と言うのも発行されていたのでそちらに譲ったとも言えるでしょう。
現在の奥居合は第17代大江正路先生が構成されて改変されたものと聞いて居ます。
 これも、大江先生以前に失伝して細々とこんなものだろう位に稽古されていたような気がしてなりません。
 大江先生が改変されていたならば何か確たるものがあっても良さそうですが見当たりません。
 私が大江先生についてこのように書きますと、大江先生を誹謗中傷するかの如く思われる方もおります。然しいたずらに神格化すべきものでは無く解る範囲で明らかにすべきものでしょう。
さて、小藤亀江の伝授された目録の続きです。
外之物之大事
行連・連達・遂懸切・惣捲・雷電・霞
上意之大事
虎走・両詰・三角・四角・門入・戸詰・戸脇・壁添・棚下・鐺返・行違・手之内・輪之内・十文字
極意之大事
暇乞・獅子洞入・地獄捜・野中幕・逢意時雨・火村風・鉄石・遠方近所・外之剱。釣瓶返・智羅離風車
*是等の目録は曽田先生の資料では「英信流居合目録秘訣」に残されているもので、之を誰が書き残したのか、曽田先生は誰から見せてもらい書写されたのかも不明です。
 「英信流居合目録秘訣  先生口受の侭を記」とあります。恐らく第10代林安太夫政詡に依って明和元年1764年に第9代林六大夫守政から口授されたものを書き込んだものだろうと思います。
 
 細川先生の所から出た「英信流居合目録秘訣」も誰が何時書いたのか不明ですから、場合に依っては曽田先生の書き写されたものは細川先生の所から出たものかも知れません。
 英信流居合目録秘訣は2019年4月21日~5月21日までに書き込んであります。是は克明に業の解説がされています。
 是だけのものを何故変えてしまったのか、替えるべき理由は何かを疑問に思います。
 若し第17代大江正路先生の独断に依るならばものすごい罪悪感にさいなまれた筈です。
 私は、時の中学生向きに学校教育向けに変えたと云う説にはあまり感じるものはありません。それを、向きになってあ-だ・こーだ言っているのでは情けないでしょう。
 寧ろ大江先生が学び始めた頃には元の業は不透明になって来ていた様に思えます。
現代でもどんどん業技法が変化しているのは戦後制定された全剣連居合でも全居連刀法ですらおこっている程なのです。

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2015年11月21日 (土)

曽田本免許皆伝目録その12小藤亀江の根元之巻目録の6

曽田本免許皆伝目録

その12.小藤亀江の根元之巻目録の6

小藤亀江の根元之巻に付随する目録は業名のみですから業技法を確認する事は出来ません。
 無双直伝英信流居合目録・四方切・太刀打之位・詰合之位・大小詰、今回は大小立詰です。
大小立詰
1〆捕・2袖摺返・3鍔打返・4骨防返・5蜻蜓返・6乱曲
以上6本です。
古伝神傳流秘書でも大小立詰(重信流立合也)
1袖摺返・2骨防返・3鍔打返・4〆捕・5蜻蛉返・6乱曲・7電光石火
 以上本です。電光石火が小藤亀江の根元之巻には欠如して居ます。
 古伝と順番業名にも違いが見られます。(2014年11月26日~2014年12月2日)
曽田先生が竹村静夫先生と研究された業附口伝の大小立詰
1〆捕・2袖摺返・3鍔打返・4骨防返・5蜻蜓返・6乱曲・7移り
 以上7本です。(2015年11月3日~2015年11月11日)
 業附口伝と神傳流秘書と出は「移り」が「電光石火」でした。
*ここまでが、仕組(組太刀)です、以降は現在の奥居合の業名になります。

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2015年11月20日 (金)

曽田本免許皆伝目録その11小藤亀江の根元之巻目録の5

曽田本免許皆伝目録

その11.小藤亀江の根元之巻目録の5


小藤亀江の根元之巻に付けられて居る目録は、無双直伝英信流居合目録・四方切・太刀打之位・詰合之位、今回は大小詰です。
大小詰 
抱詰・骨防・柄留・小手留・胸捕・右伏・左伏・山影詰
以上八本です。是も手附が付随しませんので内容は不明です。
曽田先生が書き込まれた業附口伝の大小詰(2015年10月26日~11月2日)
抱詰・骨防・柄留・小手留・胸捕・右伏・左伏・山影詰
以上八本。業名も順番も同じです。
古伝神傳流秘書の大小詰(是は業にあらざる故に前後もなく変化極りなし始終詰合組居合膝に座す気のり如何様ともすべし先大むね此順にする)
抱詰・骨防扱・柄留・小手留・胸留・右伏・左伏・山影詰
以上八本です。骨防に骨防扱と扱の一字があったのに無くなっています。
古伝はおおらかでした、順番はどこからでもいい、気が乗った処から稽古したら・・程度でした。

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2015年11月19日 (木)

曽田本免許皆伝目録その10小藤亀江の根元之巻目録の4

曽田本免許皆伝目録


その10.小藤亀江の根元之巻目録の4

*小藤亀江の根元之巻は無双直伝英信流居合目録の次は四方切、仕組の太刀打之位九本、続いて座しての仕組詰合之位十本です。
 是も業名だけですから内容は解りません。
詰合之位 八相・拳取・岩浪・八重垣・鱗形・位弛・燕返・眼関落・水月刀・霞剱
古伝神傳流秘書では、太刀打之事の後は坂橋流之棒が棒合五本・太刀合之棒八本続きます。
小藤亀江が根元之巻を受けた明治34年1901年には既に土佐の居合から坂橋流之棒は失伝してしまったのでしょう。
古伝神傳流秘書の詰合(重信流也従是奥之事極意たるに依而格日に稽古する也)
八相・拳取・岩浪・八重垣・鱗形・位弛・燕返・柄砕・水月・霞剣
(2014年11月7日~2014年11月16日)
眼関落が柄砕、水月刀が水月と異なりますが、根拠はありませんが恐らく同じ動作であったろうと思います。
詰合之位も、業附口伝に有った十一本目の討込がありません。(2015年10月15日~2015年10月25日)
太刀打之位も詰合之位も双方真向に打ち合う業は十本目の霞剣が真向打合い物打で合わせるのですから討込は後世の者に依って追加されたのでしょう。
十一本目を行うならば、一刀流の切落とし、新陰流の合し打ちを稽古した方が有意義なように思います。
お互いに受け太刀に成らず、真向に打合い、相手の刀を落とし我が刀は相手の頭上に打ち込まれます。

 

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2015年11月18日 (水)

曽田本免許皆伝目録その9小藤亀江の根元之巻目録の3

曽田本免許皆伝目録

その9.小藤亀江の根元之巻目録の3

*無双直伝英信流居合目録の「向身・右身・左身・後身」の次は古伝神伝流秘書にも現代居合からもその実態が意味不明の「四方切 向・右・左・後」でした。
これは四方の敵に囲まれた場合の英信流の運剣動作を云うのだろうとは想像します。
しかし後に出て来る心得の「上意之大事」に「三角・四角として存在しますので、その形かも知れません。
その次は「仕組」いわゆる「組太刀」です。
太刀打之位
出合・附込・請流・請込・月影・絶妙剱・水月刀・独妙剱・心明剱
*この小藤亀江の根元之巻に依る無双直伝「英信流居合目録の太刀打之位は業は9本です。目録は業名のみですから内容は解りません。
古伝神伝流秘書の太刀打之事
出合・附入・請流・請込・月影・水月刀・独妙剣・絶妙剣・心妙剣・打込
*小藤亀江の目録とは順序が異なる上、漢字(明と妙)にも違いが見られます。
更に10本目には「打込」が配置されて居ます。
小藤亀江の目録には、業名のみで手附がありませんので業の内容の比較は出来ません。
(神傳流秘書の太刀打之事は2014年10月16日~10月25日)
曽田先生が実演した太刀打之位は、小藤亀江の口伝に依って復元されたものでその手附は
「業附口伝」として2015年10月5日から10月14日までに解説してあります。
業附口伝に依る太刀打之位
出合・附込・請流・請込・月影・水月刀・絶妙剱・独妙剱・心明剱・打込一本
*業附口伝は小藤亀江の師匠筋になる第15代宗家谷村亀之丞自雄-楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸-小藤亀江の道統になるもので何処かで何かがあったのでしょう。
この業附口伝は河野先生の昭和13年発行の無双直伝英信流居合道に掲載されて居ます。

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2015年11月17日 (火)

曽田本免許皆伝目録その8小藤亀江の根元之巻目録の2

曽田本免許皆伝目録

その8.小藤亀江の根元之巻目録の2

土佐の居合の下村派吉宗貞義先生の弟子であった曽田虎彦先生の実兄は小藤亀江で後土居亀江に戻っています。
曽田先生も土居家の四男で亀江は三男でした。
小藤亀江は土佐の居合の谷村派の第15代谷村亀之丞自雄の系列で楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸の道統ですから、正統正流の第15代谷村亀之丞自雄-第16代五藤孫兵衛正亮-大江正路子敬の道統から見れば傍系となるのでしょう。
曽田先生は実兄を谷村派第18代である様に番号を振っています。
小藤亀江の流れは18番目で途絶えます。
第20代正統宗家河野百錬先生の頃も、大江先生から根元之巻を授与された方が河野先生系統が土佐以外の方である事を嫌ったのか、権力を手にしたかったのか、自分と違う業の意義と動作に危惧を抱いたのか、傍系宗家を土佐の幾人かが募って傍系宗家を押し立ています。
林崎甚助重信公の居合は神夢想林崎流として立ち上げられ、時を経て林崎流、林崎夢想流、林崎新夢想流、などに流名を変えながら、田宮流、伯耆流、無外流などを起し、同時に江戸や北信濃では無双直伝流、土佐では長谷川流に変化し大森流を加え、無双直伝英信流となっているものでしょう。
現在でも無双直伝英信流の後に何とかと付け足したり、土佐を強調した流名を付けておられる処もある様に聞きます。
そして、連盟とか協会と称して仲間を募って組織化して居ます。
土佐お留流とかに拘り、全国に広まったものを、土佐から出たのだから土佐の指導者に依って宗家筋を戻す事を夢見たであろう先師は既に没して居ます。
その思いを聞かされて育った土佐生れならともかく、そうでない弟子も、時の移ろいの中でどの様に師匠の思いを保持できるのでしょうか。
ある、付けたりを名乗る宗家の方は、「特に別の形のものでは無く、吾々は谷村派を修業している」とはっきり仰います。
谷村派も下村派も私にはその区別がつきません。
半身の抜き付けが下村派で今の夢想神傳流などと云うのも後世のこじつけで確証など無いものです。
谷村派の正対なども之も様々で同様です。
譬え同じ業であっても、想定が違えば動作は異なります。
あえて付けたりを名乗る程のものでは無いでしょう。
まして、連盟を押し立てる程の意味合いが有るでしょうか。
夫々の先師の教えをかたくなに守れば、師伝違いは先師の数だけ出来てしまいます。
2代目では何人、3代目ではと更に増えてしまいます。
書の手本で王羲子を良く学んだ書は何処か似ているものです。
「この業を、この想定で演じよ」と言われればこの流の者は似たものになる程度で良いもので、2、3の統一動作を持てば事足りそうです。
寧ろ、門を閉ざして他を受け入れなければ、個性豊かであっても、激しいばかりであったり、他からの教えも得られず、無駄の多い剣の理には程遠いものになる様です。
先師の癖ばかり引き継がずに、多くの剣士の教えに耳を傾け、眼を凝らし、取り入れるべきものは取り入れる厳しさも欲しいものです。
この時代、求めれば幾らでも剣の理は得られるものです。
・・・・
横道にそれました。

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2015年11月16日 (月)

曽田本免許皆伝目録その7小藤亀江の根元之巻目録の1

曽田本免許皆伝目録

その7.小藤亀江の根元之巻 

無雙直傳英信流目録の1
1、向身 横雲・虎一足・稲妻
1、右身 浮雲・山下し
1、左身 岩浪・鱗返
1、後見 浪返・瀧落

四方切 向・右・左・後
この目録は英信流ですから現在の立膝の部と同じです。
順序もこのようになって稽古されたのでしょう。現在の真向は見当たりません。
この英信流目録の次に四方切が置かれています。
向(前)・右(真右)・左(真左)・後(真後)ですから十字の交点に我は坐すのでしょう。
この四方切の後には、太刀打之位・詰合之位・大小詰・大小立詰と形が続き、大剣取は見られません。
外之物之大事・上意之大事と現在の奥居合の原型が続きます。
そして極意之大事とあるわけで、それが長谷川英信の居合なのでしょう。
棒も和も見られません。
上意之大事に三角・四角が配されて居ます。それでは四方切とは何なのでしょう。是は不明です。
*この居合根元之巻では、無双直伝英信流目録が伝授されたわけで、大森流居合・坂橋流之棒・夏原流和は目録外です。
土佐の居合無双直伝英信流谷村派第15代谷村亀之丞自雄から楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸-小藤亀江への伝授の何処かで置き忘れて来たものと思われます。或はそれ以前の11代大黒元右衛門清勝-12代林益之丞政誠-13代依田萬蔵敬勝-14代林弥太夫政敬の内の誰かでしょう。
私は谷村派・下村派の分離して直に谷村派に神傳流秘書が伝わらず失伝した様に思います。
11・12・13代あたりかと思います。それは下村派の山川久蔵絡みかな、など妄想です。

*大江先生の発行した根元之巻の業目録は山内豊健先生へ授与されたものでは、「英信流居合術名称」と題して「正座之部・立膝之部・奥居合之部・型並に発声」と目録の構成は改められて居ます。
ここに記した小藤亀江への目録の構成は、細川義昌先生が発行したものと同じ形式です。
谷村派には継承された根元之巻が無かったかもしれません。
*更に、榎本先生の北信濃の「無双流和棒縄居合目録」天明3年1783年の天明3年大矢蕃昌編述・滝沢登愛所持とされる資料に或る居合のところの目録は以下の様です。
1、向身 横雲・稲妻・水引□□
1、右身 浮雲・山嵐
1、左身 岩波・鱗返
1、瀧落
九ノ腰
1、両釣
1、三角
1、四方切
1、上意ノ段
1、□乞
1、棚ノ下積
*奥羽地方に残された江戸時代の元禄7年1694年の三春藩の林崎流などに記載されている業名 
表(荒波・胸取)
左(敷詰・・右(五倫砕・則抜・□之刀・引□・忍・順釼・・惣留)
後左右 (見聞身諾)、立合(惣平崩・入合・剱諾・明・稲妻・無閒・行連・行□)・・
秋田藩の天明8年1788年の林崎流居合の居合目録次第
第一 初重、第二 押抜、第三 除身、第四 開抜、第五 幕越、第六 胸刀、第七 頭長
向之次第
第一 取□、第二 切先反、第三 左除、第四 懸蜻蛉、第五 胸刀、第六 頂上、第七 逆頂上
以下省略
聞き慣れない業名が付記されて居ます。(林崎明神と林崎甚助重信 参照)
早計に判断できませんが、奥羽地方の林崎新夢想流や林﨑流は林崎甚助重信の居合が残されて居る様に思えてきます。

北信濃や土佐は江戸初期から中期に至る頃には、長谷川英信の頃までに、業の数々は新たに編成し直されたものが伝わった様に思えます。
既に林崎甚助重信の刀法は、失伝してしまっていたと云える気がします。
しかし、しっかりと根元之巻の文章は引き継がれて居ますので林崎甚助であろうと神助であろうとこのような、藩に仕官も適わずにいた市井の剣客の流儀は記録も無いものです。
しかし、よく今日までさしたる違いも無く伝承していると思います。
それだけ洗練された習いやすい体系が作り上げられていたと云えるものです。
改めて古伝神傳流秘書を見直してしまいます。

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2015年11月15日 (日)

曽田本免許皆伝目録その6小藤亀江の根元之巻道統

曽田本免許皆伝目録

その6.小藤亀江の根元之巻道統

天真正
*いつわり飾らないの意味となるのでしょう。この天真正を冠した剣術の流派は飯笹長威斎家直による天真正香取神道流を思わせます。重信は之を習ったこともありうるとすればその天真正を冠する事も有りえます。
 
林の明神
*出羽の国最上郡大倉郷の、林崎にあった素盞鳴尊を祀った熊野神社で後居合神社として合祀された神社。
林崎とはその一帯が藻湖といわれる湖水であった事に由来するようです。
林崎神社が記録に現れたのは正安2年1300年神鏡一面が奉納された頃であり、林前寺の門前町として林崎村が生まれた永承年中1046年~1057年ころから正安2年1300年の間に熊野神社(林崎明神)が遷座されたのであろう、と、昭和8年の「居合神社記」の著者三澤茂氏が推定して居ると「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年林崎甚助重信公資料研究会委員会編には書かれて居ます。
奥州の辺鄙な処の神社のことですから真相は不明でしょう。
林崎甚助重信はこの林崎明神に祈願して抜刀術を開眼したのでしょう。
江戸時代には重信公を境内に祀ったのでしょう。
明治5年の調書には「村社熊野神社・格外社居合神社」
明治11年の調書では「村社熊野・居合両神社」とあります。「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年林崎甚助重信公資料研究会委員会編より。

林崎神助重信
*林崎の姓については、永禄2年1559年浅野民治丸抜刀の妙を悟り、元服して新夢想林崎流と称して村名を姓とし、父浅野数馬の仇を討って故郷の林崎に帰還した。と浅野姓を改姓したとされますが、この辺りには林崎姓は幾つもあって元々林崎であろうとするのも頷けます。
名の神助は「甚」と「神」との誤認による誤記かも知れません。
土佐の居合古伝神傳流秘書の「居合兵法伝来」でも「林崎神助重信」と有ります。
南山大学の榎本鐘司先生の研究に依る、北信濃に残された無雙直伝流の天明6年1786年に大矢彌五兵衛尉から滝澤武太夫に与えられた「居合根元之序」には林崎甚助重信であって「神助」の名は有りません。
正しく根元之巻が土佐に伝わったか疑問を持っても不思議ではありません。
第17代大江正路宗家から出された根元之巻も「神助」でした。
昭和38年に出された山本宅治守誠先生から大田次吉先生に授与された根元之巻には「林崎神助重信」です。
どの様に誤認と確証があったとしても土佐の居合は「神助」でいいのでしょう。
戦後の根元之巻の幾つかでは「甚助」となっていますがこの変更もその変更理由が公では無く疑問です。
田宮平兵衛尉業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛尉光重
蟻川正左衛門宗績
萬野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
楠目繁次成栄
谷村樵夫自庸
小藤亀江 明治三四年六月十五日
(曽田虎彦 明治三八年六月吉日 従実兄亀江伝来 曽田メモ)
この伝系は根元之巻の伝承であって決して宗家継承とは言えないのでしょう。
谷村亀之丞自雄は現在では谷村派第15代宗家と認識されて居ます。楠目繁次成栄以下は居合の極意業を伝承したと云う事になるのでしょう。
正統宗家は16代五藤孫兵衛正亮・17代は大江正路とされています。
戦後傍系宗家が立たれて我こそは宗家とされて居ますが、無双直伝英信流の業技法の乱れが顕著でない内は良いのですが、いかがなものでしょう。

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2015年11月14日 (土)

曽田本免許皆伝目録その5小藤亀江の根元之巻訳

曽田本免許皆伝目録

その5、小藤亀江の根元之巻 訳

 抑々居合というものは、日本の奥州林の大明神の夢想に従い、之を伝えて来たものである。
 その兵術は、上古、中古、数多他流に依る違いは有るとはいえ、大きな人にも小さな人にも、力の弱い人も、剛力な人にも、合わないと云う事の無い兵術として用いられる云々。
 いつか、相応の太刀と為る、汝に、身近に起こる勝負で一命の有無の極まる処を云う。
 此の居合を、恐れ、粟散辺土の地の堺に至る共、之に不信を抱いてはならない。
 ただ、夢に現れた霊に依る処である。
 此の始まりを尋ねるならば、奥州に林崎神助(甚助)重信という者、兵術を之れ林の神明に有ればとて、百有日参籠してその満願の日の暁時に、夢の中に老翁が現れ、重信に告げて曰く、「汝、此の太刀を以て、常に胸中に思い抱く怨敵に勝つ事が出来る云々」
 則、霊夢に有るように、腰刀三尺三寸を以って大きな利を得て、九寸五分の添え差しに勝つ事、すなわち柄口六寸を以て勝つ事で、其の妙不思議な極意である。一国一人への相伝である。
 腰刀三尺三寸は貪・瞋・痴の三毒である欲望・怒り・無知に対し三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地によって煩悩を打ち破り智徳を以って一切を包み込む菩提の心に依って、但、脇差九寸五分に勝のである、己の運命を切り開き五鈷をもって成就する事を悟る証しである。
敵味方になる事は、是、前生の因縁の報いであり、生死一体の戦場も浄土の様に思うものである。
 これに観られるように、則、現世は悟りを得られた仏に見守られ、摩利支尊天によって加護され、来世は成仏し得る事を疑わないであろう。
 此の居合は千金を積まれても真実で無い人に、決して授けてはならない、天罰を恐れるべきものである。唯一人に之を伝える云々。
古語に曰く
 其の疾く進んだとしても、それは速く退いていく云々。
 此の意は、貴賤・尊卑・前後の輩に隔てる事無く、それを為す者を以てしても、目録印可を相違なく許し達する謂れは無い。
又、古語に曰く
それ、百錬を積んで構えをこらそうとも、すなわち茅や茨の素晴らしい荘や鄙であろうとも、兵の利を心懸け、夜自ずから之を思い、明神佛陀を祈り、忽ちその利方を得る。是に依って心は済み、身は燦然と輝くものである。
・・
*この訳文で根元之巻が言わんとする所はつかめます。
 然し其処に或る「腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意」は文字を訳しても一向に伝わって来ません。
 腰刀三尺三寸を大太刀の寸法として見るのか、九寸五分を、敵と我との間合いと考え、その大太刀の運剣法の極意とも取れます。
 いや添え差しの操法だとも勝手に解釈してしまいます。
 柄口六寸についても、敵の柄を持つ小手であろう、いや上泉伊勢守の新陰流の云う「是は吾が太刀先三寸を以て敵の拳三寸を打つ事也」かもしれません。
 現在では、土佐の居合無双直伝英信流を習う限りは、明瞭に柄口六寸は口に出して稽古すらしたことがないものでしょう。
 根元之巻はこの武術の形目録であって、さらに奥に或る奥義は形でも文字に表されたものでもないのかも知れません。
 其処には現代居合では理解しがたい太刀の操法を秘めて居たのでしょう、奥羽地方に何処かで伝承されて居るかもしれません。
 それは、土佐に伝わった古伝神傳流秘書に形としては伝わっていません、老父物語りに語られた「居合兵法極意秘訣」にも感じる事は出来ますが明瞭ではありません。
 もっと古い林崎甚助重信の時代の介者剣法にまで遡って研究し直すものかも知れません。
 密教などの仏語が頻繁に添えられて居ますが、其処に捉われても根元之巻は多くを語ってくれないでしょう。
 呪術が秘められていたと妄想するのは自由ですが、それでは剣術を学ぶのではなくなってしまいます。
 命を懸けて闘わざるを得なかった戦国時代の事ですから、人事を尽くして天命を待つ事も有りえたでしょう。その位の解釈で良いと思うのですが、いかがでしょう。
 現代の無双直伝英信流及び夢想神傳流を学ぶ者が、業技法の末節に拘って演武(演舞?)の美を追求しつつ、あの人の教え、此の人の教えと迷いながら、それでも日々稽古を重ねる中から此の一振りの意義を悟り、読み解くものかも知れません。
 次回は、この根元之巻の道統です。さらりと流します。

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2015年11月13日 (金)

曽田本免許皆伝目録その4小藤亀江の根元之巻読下し


曽田本免許皆伝目録


その4.小藤亀江の根元之巻読下し

居合根元之巻
抑(抑々そもそも)此の居合と申すは、日本奥刕(奥州)林の大明神の夢想に之を伝え奉つる、夫れ兵術は上古中古数多他流の違い有と雖も、大人・小人、無力・剛力、嫌わずに兵の用に合う云々。
末代相応の太刀に為ると云う、手近の勝負一命の有無此の居合に極まる。
恐らくは、粟散辺土の堺に於いて不審の儀之れ有るべからず。
唯㚑夢(霊夢)に依る処也。

此の始めを尋ぬれば奥州林崎神助重信(*神助は甚助の誤かその様に土佐には伝わったか?)と云う者に因り、兵術有るを望み林の明神に、一百有日参籠令(せしめ)其の満暁に夢の中で老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中に憶持たる怨敵に勝を得る云々。
則、霊夢に有る如く腰刀三尺三寸を以って大利を得、九寸五分に勝つ事、柄口六寸に勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸は三毒則三部に但し脇指九寸五分、九曜五古(五鈷)の内訟也。
敵味方と成る事、是亦前生(前世)の業感也。
生死一體は戦場浄土也。
是に観る如く、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世の成仏成るは縁の事、豈疑い有らん哉。
此の居合は千金を積むと雖も不真実の人には堅く之を授けるべからず、天罰を恐るべし。唯一人に之を伝、云々。
古語曰く
其の疾く進むは、其れ速く退く云々。
此の意、貴賤、尊卑を以て、前後の輩に謂れずして隔て無く、其の所作に達する者を以って目録印可等相違無く許す。

又古語曰く
夫れ百錬の構え在りて、則、茅茨荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜自白之を思い、神明佛陀を祈り、忽ち利方を得、是に依って心済み身に燦然(*光り輝く)たる事なり
*以下に、見慣れない、聞きなれない言葉を解説しておきます。
*奥刕は奥州、刀は刂(りっとう)を三つ並べれば州です。
*粟散辺土は我が日本国、粟粒の様に小さな辺境の国
*霊夢、㚑は霊の異体字
*三毒は貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知、三部は密教の仏部・蓮  華部・金剛部、また金剛界・胎蔵界・蘇悉地。
 金剛界は密教で、大日如来の、すべての煩悩 (ぼんのう) を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を表した部門。
 胎蔵界は金剛界に対して、大日如来の理性の面をいう。仏の菩提 心が一切を包み育成することを、母胎にたとえたもの。
*蘇悉地(そしつじ)はそれらの成就。
*九曜五古は九曜五鈷の間違いでしょう。
 土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。
 平安時代には「九曜曼陀羅」は真言のご本尊として崇拝され、中でも、この九曜文様が「道途の安全の守護」今で言う「交通安全」の霊験あらたかな「おまじない」だ、ということで、公家衆の輿車・牛車・網代輿・雨眉車・文車等の多くに描かれたと伝えられ厄よけの重要な文様です。
*五鈷は五鈷杵の略で金剛杵、密教で煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。
*内訟は内証、仏語、自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。
*業感は仏語、善悪の行為が因となって、苦楽の報いを感受すること。
*浄土は五濁、悪道のない仏・菩薩の住する国。
*大聖は仏道の悟りを開いた人の尊称。釈迦、菩薩。 
*摩利支尊天は、陽炎(カゲロウ)を神格化した女神で、陽炎のように目に見えなくとも常に身近に進路の障害になるものや厄を除き、ご利益を施してくれる。武士の間でも戦勝の神として信仰されお守りとされた。
 軍神とされる一方、五穀の結実を豊かにする農業の神ともされる。三面六臂で、走駆する猪に乗っているとされるものが多い。
*豈有疑哉、豈疑い有らんや、どうして疑があろうか、疑いは無い。
*第茨は茅茨 ぼうじ、かやといばらの誤字か。
・・次回はこの根元之巻を現代風に訳してみましょう。

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2015年11月12日 (木)

曽田本免許皆伝目録その3小藤亀江の根元之巻原文


曽田本免許皆伝目録

その3.小藤亀江の根元之巻原文

居合根元之巻

抑此居合ト申者日本奥刕林之従大明神無想奉傳之夫兵術者上古中古雖有数多之違他流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々
末代為相応之太刀爾云手近勝負一命有無極此居合恐者粟散辺土於堺不審之儀不可有之唯依多(㚑の誤)夢処也
此始尋奥刕林崎神助重信云者因兵術望有之林之明神一百有日令参篭其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々
則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也
腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五分九曜五古之内訟也
敵味方成事是亦前生之業感也
生死一體戦場浄土也
如是観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁事豈有疑哉
此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々

古語曰
其進疾者   其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者
許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則第茨荘鄙與兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈忽得利方是依心済身事燦然

天真正

林明神
    林崎神助重信
    田宮平兵衛尉業正
    長野無楽入道槿露斎
    百々軍兵衛尉光重
    蟻川正左衛門宗績
    万野團右衛門信定
    長谷川主税助英信
    荒井勢哲清信
    林六太夫守政
    林安太夫政詡
    大黒元右衛門清勝
    林益之丞政誠
    依田萬蔵敬勝
    林弥太夫政敬
    谷村亀之丞自雄
    楠目繁次成栄
    谷村樵夫自庸
明治三十四年六月十五日
    小藤亀江
明治三十八年六月吉日従実兄亀江伝来
    曽田虎彦

無双直伝英信流居合目録
 1.向身           横雲・虎一足・稲妻
 1.右身           浮雲・山下し
 1.左身           岩浪・鱗返
 1.後身           浪返・瀧落
 
四方切             向・右・左・後
 
太刀打之位      出合・附込・請流・請込・月影・絶妙剱

                            ・水月刀・独妙剱・心明剱

詰合之位        八相・拳取・岩浪・八重垣・鱗形・位弛
               ・燕返・眼関落・水月刀・霞剱
 
大小詰           抱詰・骨防・柄留・小手留・胸捕・右伏
               ・左伏・山影詰  
 
大小立詰        〆捕・袖摺返・鍔打返・骨防返・蜻蜒返
              ・乱曲
 
外之物之大事  行連・連達・逐懸切・惣捲・雷電
・霞
 
上意之大事   虎走・両詰・三角・四角・門入・戸詰
            ・戸脇・壁添・棚下・鐺返・行違・手之内
            ・輪之内・十文字
 
極意之大事   暇乞・獅子洞入・地獄捜・野中幕
            ・逢意時雨・火村風・鉄石・遠方近所
            ・外之剱・釣瓶返・智羅離風車

居合心持肝要之大事
1.捕手和合居合心持之大事
1.立合心之大事
1.太刀目附事
1.野中之幕之大事
1.夜之太刀之大事
1.閨之大事
1.潜り之大事 戸脇之事
1.獅子之洞出之事
1.獅子之洞入之事
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也

無双直伝英信流居合就多年御熱心太刀次悉令相伝□向後嗜専要候若御所望之仁於有之者兼而其之人之取罰文御指南尤可仍許免之状如件

明治三十四年六月十五日  
           谷村樵夫自庸
小藤亀江殿
 
*原文のまゝ記載いたしました。次回は読み下し文としてみます。
 

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2015年11月11日 (水)

曽田本免許皆伝目録その2小藤亀江

曽田本免許皆伝目録

その2.小藤亀江の根元之巻

土佐の居合、無双直伝英信流の根元之巻は下村派行宗貞義先生の弟子曽田虎彦先生の
実兄の小藤亀江が受けたものを参照します。
小藤亀江は土居家の三男で小藤家へ養子に出た後土居亀江に戻ります。
小藤亀江への根元之巻は谷村派の谷村樵夫自庸から授与されて居ます。
曽田先生は土居家の四男ですから曽田家へ養子に出たのでしょう。
この頃家督を継ぐために頻繁に行われて居た養子縁組の事と思います。
それにしても兄弟で谷村派、下村派を別々に稽古して居たわけで、その違いなどを明確に説明された物など当時の書物からは判断できません。
業の違いをそれらしく、谷村派は横一線の抜き付けは「正対する」、下村派は「半身」と云った大家も居られます。
しかし谷村派にも半身の先生も居られてその様な業技法の違いでは無く、藩内での何らかの地位を取る為の政治的なものと考えた方がよさそうです。
小藤亀江の根元之巻は明治34年6月15日谷村樵夫自庸から授与されたもので、谷村樵夫自庸は楠目繁次成栄から、楠目繁次成栄は第15代谷村亀之丞自雄から授与されたものです。
第17代大江正路系統では第16代五藤孫兵衛正亮、第15代谷村亀之丞自雄と戻ります。
曽田先生は、第15代谷村亀之丞自雄、第16代楠目繁次成栄、第17代谷村樵夫自庸、第18代小藤亀江とNOを振って居ます。
そして自らを小藤亀江から明治38年6月吉日に従実兄亀江伝来曽田虎彦と書き加えています。
目録は、無雙直伝英信流居合目録とあって、内容は向身・右身・左身・後身の英信流の業名9本、四方切 向・右・左・後の4本、太刀打之位、詰合之位、大小詰、大小立詰、外之物之大事、上意之大事、極意之大事、居合心持肝要之大事と目録が付されて居ます。
大森流に付いては特に目録からは見られません。

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2015年11月10日 (火)

曽田本免許皆伝目録その1居合根元之巻

曽田本免許皆伝目録

その1.居合根元之巻
曽田本には土佐の居合の免許皆伝目録いわゆる根元之巻が記載されて居ます。
明治34年(1901年)6月15日に谷村樵夫自庸から小藤亀江に伝授された根元之巻です。
谷村樵夫自庸は谷村派第15代谷村亀之丞自雄-楠目繁次成栄-谷村樵夫自庸と連なる系統になります。
谷村派第15代谷村亀之丞自雄の系統は一般に第16代五藤孫兵衛正亮-第17代大江正路蘆洲と道統を繋いでいるとされます。
第17代大江正路先生も何人かに根元之巻を授与されていますのでその系統は土佐の居合を引き継ぎ伝統を次代に引き継いでいく使命を預けられたとし、中には土佐の居合の宗家であると自認している方もおられるようです。
宗家紹統印可と業技法の奥義を窮めその伝授を允可する根元之巻との区別が不透明な事によると思われます。
第20代河野百錬宗家の昭和30年発行の無双直伝英信流居合兵法叢書では河野百錬先生に第19代福井春政先生より昭和25年1月3日付けで居合根元之巻が伝授され、同年5月に「無双直伝英信流居合兵法正統第20代宗家紹統印可」が授与されて居ます。
後に河野宗家は、正統では無い傍系宗家を名乗る者が現れ苦慮され、現在も多々見受けられます。
土佐の居合の流名について、無双直伝英信流と名乗る事について、何時からどの様な経過で名乗ったのか良くわかりません。

 河野先生の「無双直伝英信流居合兵法叢書」では、大江正路先生相伝長谷川流居合術伝書と題し、居合術根元之巻が弘化2年1845年乙巳12月18日に谷村亀之丞自雄から伝授者山内豊惇(とよあつ・第14代土佐藩主)への伝書が掲載され、其処には既に業目録に「無双直伝英信流居合目録」奥付けに「敬白去天保11(1840年)康子年3月26日臣自雄所学之無双直伝英信流居合術 可奉授」と流名が付記されて居ます。

天保11年1840年には谷村派第15代谷村亀之丞自雄は無双直伝英信流を学び終えていて山内豊惇に可奉授と云う事になります。谷村亀之丞自雄の師は谷村派第14代林弥太夫政敬であろうと思います。

今回の曽田本免許皆伝目録に依る居合根元之巻は明治34年(1901年)6月15日に曽田先生の実兄小藤亀江のち土居亀江に伝授された伝書で、其処には業目録では「無双直伝英信流居合目録」とあり、奥付けには「無双直伝英信流居合」と明記されて居ます。

無双直伝英信流の流名を大江先生が名乗った様に聞こえて居ますが、大江先生は嘉永5年1852年生まれですから有りえない事になります。
平尾道雄著土佐武道史話(昭和36年1960年発行)に下記の様な文章があります。
「文化の頃・・土佐ではこの頃長谷川流と大森流が行われていたらしい。
後年この流は統一されて、大正の末期には無双直伝英信流、略して英信流とよぶことになったので、これは大江正路の主張によるものであった、英信流は目録を授けて免許とし、根元の巻を授けて皆伝とする。
目録は位を7にわけて76業あり、ほかに9ヶ条の口伝をそえて純然たる居合道をたてたものである・・」
この文章に大江先生が命名された様に、大江びいきの方に依って惑わされたようにも思います。
ついでながら、大江正路宗家が授与されたであろう根元之巻や宗家紹統印可などは、存在したかかどうかわかりません。
大江先生の発行されたものは見られます。


尚、この曽田本の居合根元之巻は谷村派の系統でありながら、曽田先生は小藤亀江の後に自らを、明治38年6月吉日 従実兄亀江伝来 曽田虎彦と書かれて居ます。
この小藤亀江の根元之巻は、「本目録は昭和20年7月4日午前2時高知市爆撃の際家財道具一切と共に焼失す」と曽田先生は書かれて居ます。
心なしかその文字に無差別爆撃の戦火に失ったものへの激しい怒りを感じてしまいます。

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2015年11月 9日 (月)

曽田本業附口伝その4大小立詰7移り

曽田本業附口伝

その4.大小立詰


七本目 移り(伝書になし 口伝 曽田メモ)

敵後より組付きたるを我体を落して前に投る也
(後より組付体を下り前に投げる 五藤メモ)

*曽田先生は第15代谷村亀之丞自雄の業附口伝書には無いけれど口伝があるので書き込んだと言うのでしょう。
後ろから羽交い絞めにされたので体を低くして前に投倒すという技です。

伝書に無いと言うのは、谷村派15代には伝わっていないと言うことでしょうか。古伝神傳流秘書には「電光石火」という業名であります。
「前の如く後より来り組付を体を下り相手の右の手を取り前に倒す」

神傳流秘書 大小立詰 七本目 電光石火

 如前後より来り組付を躰を下り相手の右の手をとり前に倒す

 以上七本

*すごい業名です電光石火です。後ろから組付かれた時は即座に相手の右手を取って体を沈めて前に投げる。
一本背負いを彷彿とさせます。
後ろから羽交い絞めにされたので、相手の右手をそのままでは取れそうもない場合は、体を沈めて相手の手が緩んだ処を一本背負いでしょうか。

*業名は業附口伝の大小立詰めでは「移り」になっていますが手附は神傳流秘書の大小立詰の電光石火とほぼ同様です。
これらの業は業では無いので変化極まりなし、よりよい方法、状況に応じた瞬時の判断を研究すべきでしょう。

以上七本で大小立詰は終わります。
此処も相手は小太刀、我は太刀を帯して行います。
この大小立詰は見る機会が殆ど有りません。之だと言う伝系も有るのか無いのか失伝してしまった業でしょう。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰移り
「伝書になし、口伝 打太刀仕太刀の後方。 打太刀後より組付き来るを仕太刀体を落して前に投るなり。」

*曽田先生の業附口伝と同じです。嶋 専吉先生の「無双直伝英信流居合術形乾」を終了します。

以上で業附口伝を終わります。

業附口伝は土佐の居合の下村派15代行宗貞義先生の弟子曽田虎彦先生が谷村派の16代五藤正亮先生、谷村派14代谷村自雄先生の業附口伝書をもとに田口先生(?)と実兄の谷村派土居亀江先生の口伝に依って、谷村派・下村派竹村静夫先生と実演したもので参考にまとめたものと序文に書かれています。

ここには組太刀が4種類記載されていました。
太刀打之位・詰合之位・大小詰・大小立詰です。
神傳流秘書にあった大剣取がありません。
英信流目録にあった小太刀之位もありません。
業の細部は古傳神傳流秘書の太刀打之事・詰合・大小詰・大小立詰と異なる業名、その順番や動作がありますが総じて同じものと云えます。

江戸末期から明治にかけて細々と稽古されていたもので現在の夢想神傳流にも無双直伝英信流にも失伝してこれらを全て打てる道場は少なかろうと思います。
現在打たれている無双直伝英信流居合道形は谷村派第17代大江正路先生に依る太刀打之位を元にした独創形であって、古傳太刀打之事或は太刀打之位とは別物です。

この業附口伝のそれぞれの形は、一対一の攻防ですから、居合ならば正座の部、立膝の部が何とか理解出来、竹刀剣道、柔道、合気道などを少々齧って居れば手附だけで形を打つ事は出来るはずです。
但し、武術として学ぶには奥深いものがあるので申し合わせの形の認識であったり、誰々師匠の直伝位の認識では形を順番に従って打てただけに終わりそうです。
これ等を稽古するには文章をよく読み、それに従って書かれている通り演じてみることが大切です。どうしても抜けがあってどうしたら良いかわからない事がある時は幾つも想定して次の動作と違和感のないものを選択するのがよいでしょう。

ここにも習い・稽古・工夫のスパイラルが求められます。習いとは、師匠が居ても古伝は全く知らない師匠が殆どです。古伝の文章が師匠であり、自分の武的達成度も師匠でしょう。
そして、何より大切なのは、相方と座学で業を理解し合う事かも知れません。

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2015年11月 8日 (日)

曽田本業附口伝その4大小立詰6乱曲

曽田本業附口伝


その4.大小立詰


六本目 乱曲

6.乱曲
前後に立ちて行く也敵後より鐺を取りクルクル廻し引く也我其の時すぐに後向きて左右何れなるやを見合せ右手なる時は我左足にて敵の右足を又左手なる時は我右足にて敵の左足を掬い中に入る也
(後ろより鐺を取りクルクル廻し引其の時左右を見合せ中に入る 五藤メモ)

*敵は我が後ろを並んで歩いて行く時、敵後ろから我が鐺をつかんでクルクル廻しながら引く。我は其の時すぐに振り返って、敵が鐺を握っている手が右手か左手かを見極め、右手で握っているならば左足を踏み込んで敵の右足を掬い、左手ならば右足を踏み込んで敵の左足を掬い付け入って中に入る。

我が鐺を敵が右手で取るならば敵の出足は右が普通でしょう。左ならば左足でしょう。
その敵の出足を我は左ならば右足で、右ならば左足で掬うのです。

神傳流秘書 大小立詰 六本目 乱曲

 如前後より来り鐺を取り頻りにねじ廻し刀を抜かせじとする時後へ見返り左の手か右の手にて取たるかを見定め相手左の手ならば我も左にて鯉口を押へ相手右ならば我も右にて取る後へ引付んとするを幸しさり中に入り倒す

*前の蜻蛉返の様に相手後ろより歩み来たり我が鐺を取る。トンボ返しの場合は相手は「我が右の手を取り刀の鐺を取り背中に押付られたる時」でした。
乱曲は、我が鐺を左手か右手で取ってねじ廻し抜かせない様にするのです。其の時我は後ろを振り返って相手が左手で取っていれば我も左手で鯉口を押える。
相手が右手を出して鐺を取れば右半身になっているでしょうから、我も右半身になるとでも思えばいいのでしょう。
「相手右ならば我も右にて取る」ですが、我は右手で何処を取ればいいのでしょう。
左手は鯉口を握るのは常識でしたら右手は柄でしょう。
文章からは鯉口を右手で取ると読めます。
相手後ろへ引かんとするを幸いに、後ろへ下がり相手の懐に入るようにして足払いで倒す。

*この乱曲と前の蜻蛉返の様に、英信流の瀧落も鐺を取られています。瀧落では鐺を取られ後ろを振り向き右手か左手か確かめていますがその違いは何も示されていません。

左右の手と足の関係は、この際、研究しなおして見るのもいいかもしれません。

この事については政岡先生の無双直伝英信流居合兵法地之巻に瀧落の解説で述べられています。
「参考 これは(瀧落は)右手で鐺をとられた時の動作であるが、もし左手で握っておれば「左足を出し腰をおし出しつつ右手を柄にかけ、右胸に引き、鐺を左腿に添え、強く左前に出して、敵の手を振りもぐ」の動作は、左右とつぎ足で出て腰を右前に出す気持ちで、柄は左前に引きよせて敵の手をふりもぐべきである。この練習は行われていないが、後出の形(大小立詰の形乱曲参考)に於いては、右手で取られた時と左手で取られた時と両様の動作が行われている」

*古伝大小立詰を知らない現代の先生方では「なぜ瀧落で後ろを振り向き左右の手を見極めるのか」の質問に応じられないで「そう教えられた」で片付けられてしまうでしょう。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰乱曲
「前後に立ちて行く。 打太刀後より鐺を取りクルクル廻し引く、仕太刀その時直に後向きて左右何れなるやを見合せ右手なるときは仕太刀左足にて打太刀の右足を、又左手なるときは右足にて打太刀の左足を掬ひ中に入るなり。」

曽田本業附口伝と同じです。

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2015年11月 7日 (土)

曽田本業附口伝その4大小立詰5蜻蜒返

曽田本業附口伝

その4.大小立詰

五本目 蜻蜒返

打は仕の後より仕の右手首を後に引き鐺を前に押す直ちに右足を以って掬い中に入る也鐺を後に引き右手首を前に押す時は左足を以って中に入る也
(後より右の手首をおさえ跡へ引左手鐺をおさえ前におす時中に入る 五藤メモ)

*蜻蜓返(せいていかえし・とんぼかえし)は蜻蛉返(せいれいかえし・とんぼかえし)です。
打は仕の後ろより仕の右手首を右手で掴んで後ろに引き左手で鐺を前に押す。仕は直ちに右足を打の足の間に踏み込んで密着する。
鐺を後ろに引き右手首を前に押す時は左足を打の足の間に踏み込み密着する。
五藤メモは前半の方法を言っているのでしょう。
右手を後ろに引かれ、鐺を前に押されれば強く逆らわずになされる儘に右に体が回りこみますからそのまま右足を踏み込み相手の足を掬い刈ればいいのでしょう。

立膝の部の瀧落の様です。この場合は右手あるいは左手も制せられています。其の上で瀧落を稽古してみるのもいいかも知れません。

神傳流秘書 大小立詰 五本目 蜻蛉返

相手後より来り我が右の手を取り刀の鐺を取り背中に押付られたる時其儘後へしさり中に入て倒す

*蜻蛉はトンボです。蜻蛉返ですから反転と思う処です。
相手後から来て我が右手を右手で取り刀の鐺を左手で取って背中に押付けて来る、其の時その体勢の儘後づさりして相手に密着するや体を低めて投げ倒す。
さて前に倒すか後ろに倒すか、状況次第ではどちらでも出来そうです。
倒すにあたっては、相手に密着して足技を併用するなり工夫次第でしょう。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰蜻蛉返
「打太刀は仕太刀の後ろに立つ。 打太刀、仕太刀の後より仕太刀の右手首を後ろに引き鐺を前に押す。仕太刀直ちに右足を以て掬ひ中に入るなり。
鐺を後に引き右手首を前に押すときは左足を以て中に入る。」

*曽田本業業附口伝と同じですが、業手附が「打は仕の後ろより仕の右手・・」を嶋先生は「打太刀は仕太刀の後ろに立つ。・・」と、変えて居ます。
些細な違いですが「後ろより」と「後ろに立つ」では状況に違いが出ます。
古伝を読む時は其の違いをどの様に判断するかが業が活きて来るか否かの差になります。

此処には無いのですが、大剣取の無剣で「相手居合膝に坐し居処へ小太刀をさげかくる相手抜打つを・・」の文章で「小太刀をさげかくる」を、訳して「小太刀を引っ提げて進む」としたのでは、間違いではないのですが、「小太刀を無形の構えにとり、間境でふと止まり掛って行く」もっと深く読めば「小太刀を無形の構えに取り間境を越すや小太刀の切先を少し上げて懸って行く起こりを見せるや相手抜き打つ・・」位迄読み取りませんと、無形の構えの有り様も、敵の抜打ちも只の申し合わせの踊りになってしまいます。

蜻蜒返(せいていかえし)・蜻蛉返(せいれいがえし)となりますがどちらも「とんぼ」でしょう。

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2015年11月 6日 (金)

曽田本業附口伝その4大小立詰4骨防返

曽田本業附口伝

その4.大小立詰

四本目 骨防返

互に対立する也打は仕の柄を両手にてとりに来る也我は右手にて敵の両手を越して柄頭をとって両手にて上にもぎとる也
(敵両手にて柄を取る時引廻しもぐ 五藤メモ)

*互いに向き合い立っている所、打が仕の柄を両手で取りに来る、取られる際仕は右手で打の両手を越して柄頭を握り左手を添えて上にもぎ取る、と言う動作は至って単純です。五藤先生は上にもぐではどうかな、引き廻しもぐだろうと言う分けです。
座業のように顔面に一当てしてから柄頭を取ってもぐも出来そうです。

神傳流秘書 大小立詰 二本目 骨防返

 相懸りに懸りて相手我刀の柄を留めたる時我右の手にて柄頭を取り振りもぐ也

*此の業は神傳流秘書では大小詰の二本目骨防扱に有りました。「立合骨防返に同じ故に常になし」と大小詰ではいつもは稽古しないと言っていました。

大小立詰めは、打太刀は小太刀を差し、遣方は太刀を差しての立業です。
双方スカスカと歩み寄り、相手が我が刀の柄を両手で取って抜かさない様に押し付けて来る。
我は透かさず右手を柄頭に取って柄を上に引上げ相手の手を振りもぐ。
相手の我が柄を取るのが、右手だけ、両手、左手など在りそうですが工夫次第でしょう。
振り捥いだら、後は抜き打ちでも柄當でもありでしょう。
古伝は語らずです。

曽田先生による五藤先生の業附口伝大小詰二本目骨防
「互に対座、打は両手にて仕の柄を握る仕は右拳を顔にあて其のひるむときに乗じ右足を柄越にまたぎ右足内側より右手を柄に添へ右足にて敵の両手を押払うと同時に柄を防取る也此の時敵は我右脇へ匍ひ倒る也
(向ふて居る両手にて柄を押し付る時直に右手にて面へ当て其儘に乗り右足をふみ込み柄へ手をかけもぐ)」

*五藤先生の大小立詰の骨防返「引廻しもぐ」も稽古しておくと良いかも知れません。
形ばかりに拘って稽古熱心であっても、喧嘩慣れしたやくざにはコロッと負ける話も聞いたような・・。

江戸末期に竹刀による試合稽古に慣れた者に古流の「かたち」だけの稽古しかしていなかった者が打ち負かされる話も聞きます。
申し合わせの形稽古で打太刀が打ち易い様に仕太刀に打ち込む隙を作って打たせる、身長も似たような者同士で稽古する。
足踏みも所定の踏み数で稽古するetc・・。
何故ですかと問えば「昔からの形稽古のやりかただから、上達したら変化もする」と云うのですが「何時も同じ人と、同じ形ですね」とやると「演武会の出し物なのでこうする」やれやれです。
其の上「大会の合同演武だからばらばらにならない様に組同士が動作を合せて」動作は愚か、足数も歩幅まで合わせ、打ち合った位置から、戻る位置まで合わせています。
武的演舞の究極です。
大方は軍属上がりの師匠の指導に依るのでしょう。乾いた号令が響いています。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰骨防返
「互に対立す。 打太刀、仕太刀の柄を両手にて捉りに来るを仕太刀右手にて打太刀の両手を越して柄頭をとって両手にて上に捥ぎ取るなり。」

*曽田本業附口伝の儘です。

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2015年11月 5日 (木)

曽田本業附口伝その4大小立詰3鍔打返

曽田本業附口伝

4、大小立詰

三本目 鍔打返

互に対立する也打は仕の抜かんとする右手首をとる也仕は右手を放すと同時に左手に持てる鍔にて打の手首を打つ也
(抜かんとする時其の手首を押へる左手にて敵の手首を打 五藤メモ)

*これはお互いに相掛に進み仕が両手を刀に掛け抜かんとするところ、打は仕の右柄手を右手で押さえて抜かせじとする。
仕は柄から右手を放すと同時に打の右手首を左手で鍔を以って打ち付ける。

五藤先生は、柄手を押さえられたので左手で打の右手首を打つ、としています。この場合は仕は右手を柄から放さず、左手を鞘から離して打つのでしょう。ダメージは曽田先生の方が大きいでしょうが、咄嗟に柄手を放すには普段から稽古で充分慣らしておきませんと難しそうです。

この業は大小立詰の三本目です、神傳流秘書でも三本目に位置します。

神傳流秘書 大小立詰 三本目 鍔打返

 相懸りに懸り我刀を抜かむとする其の手を留られたる時柄を放し手を打もぐ也

*この業はすでに、大小詰の四本目小手留で解説しています。

四本目小手留「立合の鍔打返に同じ故に此処にては不記」

立業ですから相懸りに懸り合って、我は柄に手を懸け抜こうとする処、相手が右手を取って押さえられる。我は柄手を離し相手の手を鍔で打ち付けもぐ。

右手で柄を握った処を相手に右手で押さえられる、或は両手で押さえられる、そこで柄から手を離し、左手に持つ鍔で相手の手を打ち据えもぐ、と読んでみました。

古伝は「手を打ちもぐ」とばかりですから想像を働かせるところでしょう。

時代が下がると、どんどん技が固定化されていくのはいつの時代も同じです。より克明にと云うことか、特定しないと満足できないようです。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰三本目鍔打返
「互に対立す。 打太刀は仕太刀の抜かんとする右手首をとる、仕太刀は右手を放すと同時に左手に持てる鍔にて打太刀の手首を打つなり。」

*曽田先生の業附口伝のままです。

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2015年11月 4日 (水)

曽田本業附口伝その4大小立詰2袖摺返

曽田本業附口伝

その4.大小立詰め

二本目 袖摺返


打は横より組み付仕肱を張りて一當すると同時にすぐに打の刀を足にすけて後に投る也
(五藤先生は一當して中に入り刀を足にすけ後へ投ると記せり 曽田メモ)左右共同前
(横合より組付ひじを張り一當して中に入り刀を足にすけ跡へ投げる左右共に同前 五藤メモ)

*古伝大小立詰の二本目袖摺返の業名は、大江先生が独創した無双直伝英信流奥居合立業の七本目袖摺返に業名を使用されていました。
元はここにあったものです。
大江先生は土佐の居合をコンパクトに纏めて居合そのものを習いやすくして総合武術としては捨てるものは捨てると実行されたといわれます。

打が横より両手で組付いてくる、仕は両肘を張って打の腹部に肘当てを食わし、体を低くして密着し柄を打の足に掛けて打を後ろに投げ倒す。
「打の柄を打の足に掛けて・・」大小詰めですから打は小太刀です、「打の小太刀を打の足に掛け・・」は疑問です。
「仕の太刀の柄を打の足に掛け・・」ならば出来そうです。
「組付かれ肘を張りて一当てする」肘鉄が思いつきましたのでやってみました。
「打の刀を足にすけ・・」ですがこの場合打の刀を足に掛ける方法が思い浮かびません。仕の柄でいいのでしょう。五藤先生のメモ書きでは誰の刀か不明です。

この業は古伝新傳流秘書では大小立詰の一本目に置かれています。

神傳流秘書 大小立詰(重信流立合也) 一本目 袖摺返

 我が立て居る処へ相手右脇より来り我が刀の柄と鐺を取り抜かせじとする時其儘踏みしさり柄を相手の左の足のかゞみに懸け中に入り又我右より来り組付をひじを張り躰を下り中に入る

*立って居る処へ、相手我が右脇から近寄って来て、我が柄を右手で鐺を左手で取り抜かさない様に鐺を背なかに押し付けて来る、我は其の儘後ろにさがり、柄を相手の左足のかゝみに懸けて体を低めて中に入り退き倒す。
又相手が我が右より近づいてきて組付くのでひじを張って相手の組み付を緩め腰を低くして中に入り退き倒す。

相手の攻撃は、古伝は柄と鐺を取って抜かさない様にする、業附口伝は横から組み付いて来る、何時の時か変わってしまったのでしょう。

神傳流秘書の大小立詰一本目は袖摺返ですが五藤先生の業附口伝は二本目が袖摺返です。
一本目は「〆捕」で業の内容が異なります。〆捕は神傳流秘書では四本目に位置します。
順序は好きなようにしてもいい、気乗り次第だと云って居ましたが敢えて順番を変えた理由が解りません。

業名の袖摺返は大江先生が奥居合立業の七本目袖摺返として古伝抜刀心持之事の十一本目行違を改変した業に名付けています。
大江先生が奥居合を改変されたと言われていますが其の痕跡は追跡できません。
大江先生以前に変えられた様な気がしています。もし大江先生が独断で古伝を改変されたならば、何を考えてされた事でしょう。
長谷川英信の時代は甲冑を着た剣術から、素肌剣術に変わった時代でしたからその業技法への転換は頷けます。
明治以降は伝統文化の伝承と白兵戦に怖気つかない兵士予備軍の育成にあったとも思われます。変える理由があるのでしょうか。
寧ろ、大江先生に伝書は伝わらず、業名ばかりが伝わり内容が解らなかったと思う方が自然です。
このような事を云いますと、大江宗家を冒涜する様な事を言うなと仰る方もおられます。無双直伝英信流を当時学ぶ者さえ無かった時代に、中学生に指導し継承された功績は大きいものですが、分けも無く神格化すべきものでも無いでしょう。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰二本目袖摺返
「打太刀は仕太刀の横に立つ。打太刀横より仕太刀に組みつく、仕太刀肱を張りて一と當てすると同時に直に打太刀の刀を足にすけて後に投るなり(五藤先生は「一と當して中に入り刀を足にすけ後ろへ投げる」と記せり)左右共同前。

*曽田先生の業附口伝其の儘です。

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2015年11月 3日 (火)

曽田本業附口伝その4大小立詰1〆捕

曽田本業附口伝

その4大小立詰

一本目 〆捕
互に対立する也打は両手にて仕の柄を握るを仕は左手を以って打の左手首を握る也更に此の時すぐに仕は右手にて打の両腕を締め込み我体を台にして之を極める也
(敵両手にて柄を取る左手にて敵の左の手首を押へ右手にて敵の両肘折を押へ体を込み〆付る 五藤メモ)

*仕は太刀を差し、打は小太刀を差し互いに相対して立つ。立ち位置は手を伸ばせば相手に十分触れる事ができる距離を想定します。
お互いの体格を合わせる様な、安易な稽古はせずにどんな人とでも勝てる事を学ぶべきでしょう。

互いに向かい合って立ちます。打は両手で仕の柄を握って抜かせないようにします。仕は左手で打の左手首を握り、即座に打の両腕の肘に右手を掛け、体をぐっと付け込んで極める。
五藤先生は「左手首を押へ、・・・両肘折を押へ・・」と押へると記述されています。

神傳流秘書 大小立詰 四本目 〆捕

 相懸りに両方より懸る時相手両手にて我刀の柄を留我左の手にて相手の脇つぼへ入れて両手を〆引上如何様にも投る也

*古伝神傳流秘書では四本目でした。曽田先生による五藤先生の業附口伝大小立詰では〆捕は一本目になっていました。
大小立詰は我は太刀を差し、相手は小太刀を差しての立合いです。
刀を抜く以前の攻防を習うもので、居合は刀を抜くものとばかり思っていたのでは、柄に手を懸けるや制せられてしまいます。

双方相懸りに歩み寄る時、相手我が柄を両手で押さえて抜かさない様に制して来る。
我は左手で相手の脇坪に一當して怯む隙に、相手の両手を抱きかかえ締め上げ左足を退くや体を沈め左脇に投げ倒す。

此の場合は、我は柄に手を懸けている、或はいない、特に指定されていません。
三本目の鍔留が柄に手を掛けた処其の手を留められていますから、ここは柄に手を懸ける前に相手に柄を制せられるとするのでしょう。

「両手を〆上げ」は相手の両腕の肘のかがみを裏から抱く様に締め上げるのでしょう。

*第九代の林六太夫守政の時代から150年程後の業手附が五藤先生のものでしょう。
古伝は、相手の脇坪に一当てしていますが、業附口伝では相手の左手を押えて、相手の両肱を右手で押さえこんでいます。
其れでなければならないと言う事ではないと思いますが先ず指示された通りと云うのが稽古の筋でしょう。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小立詰一本目〆捕
「打太刀、仕太刀互に対立す。打太刀は両手にて仕太刀の柄を握るを仕太刀は左手を以て打太刀の左手首を握る、更にこのとき直に仕太刀は右手にて打太刀の両腕を締め込み己が体を台にして之を極めるなり」

*曽田先生の業附口伝其の儘です。

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2015年11月 2日 (月)

曽田本業附口伝その3大小詰8山影詰

曽田本業附口伝
その3.大小詰
8、山影詰
打は仕の後ろに坐す後より組付也其時仕は頭を敵の顔面に當て敵ひるむ隙きに我刀を抜きて打の組みたる手を切る也
(五藤先生は一当てしてそりかえると記せり 曽田メモ)

(後ろより組付頭を一当して仰向けにそりかえる 五藤メモ)

*曽田先生の手附で業は充分理解できます。細かいところですが、打・仕と言っておきながら敵・我と出てくるので「おや!」と思ってしまいますが、校正しているものではなく曽田メモですから意味が通じればいいでしょう。曽田メモの挿入も特に意味はなさそうです。

打は仕の後ろに双方立膝に坐しいる、打は腰を上げ仕の後ろから両手を廻し仕の左右の上腕を羽交い絞めにする。
仕は即座に後頭部で打の顔面を打つ、打がひるむ隙に太刀を抜いて打の組み付いている手を切る。
後藤先生は、顔面に後頭部で一当てして仰向けに反り返って打の組み付を外す。

これも神傳流秘書を読み返して見ます。

神傳流秘書 大小詰 八本目 山影詰

 是は後より相手組を刀を抜き懸其手を切ると一拍子に我も共に後へ倒るゝ也

後ろから相手が抱き着いて我が両腕を絞めして来る時、刀を抜き上げて組み付いている相手の手を切りその拍子に後ろに相手と一緒に押し倒れる。

後ろから両肘の辺りをがっちり羽交い絞めされたら、刀は抜き出せません。やはり顔面当ては稽古から外せそうもありません。
不意の羽交い絞めか、我が刀に手を掛けたのを制せられたのか、この場合は神傳流秘書は何も言って居ません。
状況はいろいろでしょう。

これらの形は、「かたち」を学んで実戦に役立つものにしませんと、喧嘩慣れした暴漢には勝てないと言われます。
申し合わせの「かたち」では演舞(武)会の余興です。一つの業から何通りもの変化を場に応じてこなせる様にするものでしょう。師匠に習った方法だけがすべてで、他所で見聞きしたものを「違う」と言って否定するのは心得違いです。
それと、古伝を学ぶ時は、まず書かれている文章の通り動作を付けて見るべきで、抜けた部分は想像するのですが、尤も自然な続きの動作を模索すべきで決めつけてしまうと古伝では無くなってしまいます。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小詰八本目山影詰
「打太刀は仕太刀の後ろに坐す。打太刀、仕太刀の後より組みつく、その時仕太刀は頭を打太刀の顔面に當て打太刀の怯む隙に己が刀を抜きて打太刀の組みたる手を切るなり。
(五藤先生は「一と當てして仰向に反り返へる」と記せり)。」

*この、嶋先生の文章の括弧の部分は曽田先生のメモ書きそのものです。
やはり、18代穂岐山先生・19代福井先生・20代河野先生いずれも、谷村派の組太刀は伝書に依る伝承はされず、下村派の曽田虎彦先生の写された伝書に基づいて稽古されたと云う事が実態だったと判断できます。

以上で大小詰八本の業は終了です。

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2015年11月 1日 (日)

ひのえさる(丙申)

来年2016年平成28年の干支は「ひのえさる(丙申)」です。
 
明治維新(1868年)から148年、先の敗戦(昭和20年1945年8月15日)から71年経ちます。
 この処、維新を境として、若者達のはつらつとした生き様が語られて、あんな時代に生きていたかったとも思う反面、彼らの覇気が残心して敗戦に導いていったとも思われます。
 現代史を隠さず正しく学ぶと共に、それを正面から受け留め、前に向って戦後71年、殻を破って真直ぐに伸びていきたいものです。
1、丙(ひのえ・へい・ひょう)は火陽兄
十干の三番目、原字は魚の尾が左右に張り出した形。
植物の根が地中でカラを破って、左右に張り出した時期を表す。
火の燃えて広がる様。
熟語では、
・丙丁(火のこと)
・丙夜(五夜の一つ。日没から夜明けまでの時間を五つに分け其の三番目、三更、三鼓)
・丙尾(ピンと左右に開いた魚の尾)

2、申(さる・しん・もうす)
は陽
十二支の九番目、雷光を表し、真っ直ぐに伸びる、作物が伸び切った時期。
時間では今の午後四時前後の二時間。
方角では西南西。
動物ではさる(猿)。
申の文字は稲妻を表す象形文字で、手で真直ぐにのばす、引きのばす。
読みでは、しん・もうす・さる・のべる・のばす
熟語では、
・申請(役所へ願い出る)
・内申(内々に申し述べること)
・申時(申の時、午後4時、及び其の前後の2時間)
・申申(しんしん、のびのびくつろぐ、きちんと整った様)
上申・申述・申奏(上の人に意見を述べる)
・具申(意見などを細かに申し述べる)
・追申(追伸、前につづいて申す)
・申命(徹底させる)
・申金(割まし金)
・申破(役所に事実を報告する)
・申教(無実の罪である事をのべて助ける)
・申理(無実の罪の申し開き)
・申達(上級官庁から下級官庁に文書で指令を出す事)
・申解(言い訳する、述べる)
・申報(上位者に報告する)

3、猿を読み込んだ漢詩
早發白帝城  李白 早(つと)に白帝城を発す りはく
朝辭白帝彩雲閒 (朝(あした)に辞す白帝 彩雲の間)
千里江陵一日還 (千里の江陵 一日(いちじつ)にして還る)
兩岸猿聲啼不住 (両岸の猿声啼いて住(や)まざるに)
輕舟已過萬重山 (軽舟已(すで)に過ぐ 万重(ばんちょう)の山)

 
4、猿を詠み込んだ俳句
初時雨猿も小蓑をほしげなり 松尾芭蕉

5、猿を詠み込んだ万葉集
痛醜  賢良乎為跡  酒不飲  人乎熟見者  猿二鴨似   大伴旅人
(あなみにく、さかしらをすと、酒飲まぬ、
人をよく見ば、猿にかも似む おおとものたびと
ああ醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、
よくよくみたら、猿に似ているようだ)

6、申・猿の諺を幾つか
・見ざる聞かざる言わざる
  打ち消す助動詞に「ざる」を「猿」にかけて、欠点や、
 あやまち、都合の悪い事を見ない、 
 聞かない、言わないという戒め。
・三つの猿より思わざるがよし
 見ざる、聞かざる、言わざるの三匹の猿より心に
 妄念を抱かないのが良い。
・犬猿の仲
  仲の悪いたとえ
・猿真似
 表面だけ他人のまねをして飾るものをあざけって言うことば。
・猿も木から落ちる
 優れて居る人でも時には失敗する事があるという譬え。
・上手な猿が手を焼く
 上手な者が油断などにより失敗する事がある譬え。
・利口の猿が手を焼く
 利口者が能力を過信して思いのほかに困難にあって
 収拾がつかなくなることのたとえ。
・猿の空ノミ
 かっこうだけで何もしていないことのたとえ。
・猿の水練、魚の木登り
 見当違いな事をすることのたとえ。
・猿の尻笑い
 自分の尻が赤いにもかかわらず他の猿の尻が赤いのを笑う、
 自分の欠点に気付かず他  
 人の欠点を笑うことの譬え。
・猿に木登り
 教える必要のない者に教える事の譬え。無駄な事をする譬え。
・猿に烏帽子
 人柄に相応しくない事の譬え。
 外観をよそおっても内面が伴わないことのたとえ。
・猿が仏を笑う
 小利口な者が深い知恵の有る人の偉さも分からずに嘲ること。

7、丙申昭和31年1956年生まれの有名人
・役所 広司 (俳優)
・小堺 一機 (タレント)
・榎木 孝明 (俳優)
・陳 建一 (料理人)
・大地 真央 (女優)
・浅田 美代子 (女優、歌手)
・野口 五郎 (歌手、俳優)
・桑田 佳祐 (ミュージシャン)
・新沼 謙治 (歌手)
・島田 紳助 (元タレント)
・幸田 シャーミン (ニュースキャスター)
・余 貴美子 (女優)
・ガダルカナル・タカ  (タレント)
 
8、丙申はどんな年だったのでしょう。
60年前の丙申(ひのえさる)から遡って見てみます。

昭和31年1956年
・原子力委員会設置
・日ソ交渉再開
・鳩山首相軍備否定の現憲法反対答弁し取り消す
・フィリピンと賠償協定調印
・憲法調査会法公布施行
・経済白書「もはや戦後では無い」
・石原慎太郎「太陽の季節」で芥川賞受賞
・売春防止法公布
・南極に昭和基地建設開始
明治29年1896年
・日本郵船、欧州航路開始
・日清戦争後の増税登録税、酒造税、営業税、葉タバコ専売法
・製鉄所官製公布
・三陸地震津波死者27,122人
・第一回オリンピック、アテネで開催
天保7年1836年
・将軍 徳川家斉
・ロシア船択捉島来航
・越前で打ちこわし
・甲州天保一揆
・三河加茂一揆
・江戸神田に御救小屋
・陸奥南部藩一揆・打ちこわし
・全国飢饉死者十万人
安永5年1776年
・将軍徳川家治
・高野山で打ちこわし
・池大雅没
・上田秋成雨月物語
・平賀源内エレキテル
・アメリカ独立宣言
・スミスの国富論
享保6年1716年
・将軍徳川家継、徳川吉宗
・吉宗、間部詮房、本田忠良、新井白石ら罷免
明歴2年1656年
・将軍徳川家綱
・シャム船の通商許可
・浅草に鋳銭座
・盗賊取締り五人組強化
・江戸に町名主制
慶長10年1596年
・後陽成天皇
・秀吉明使、朝鮮王子来朝を求める
・秀吉朝鮮再出兵
・26聖人の殉教
・慶長の大地震
天文5年1536年
・後奈良天皇
・将軍足利義晴
・細川晴元本願寺証如を大坂に破る
・北条氏綱、今川宇氏輝、甲斐に武田信虎を破る
・織田信秀三河に侵入撃退さる
・狩野元信唐絵屏風
文明8年1476年
・後土御門天皇
・将軍足利義尚
・桜島噴火
・尼子清定土一揆を破る
・今川氏親、太田道灌、伊勢宗瑞(北条早雲)と和解
応永23年1416年
・称光天皇
・将軍足利義持
・関東管領足利持氏上杉氏憲らに鎌倉を追われる(上杉禅秀の乱)
延文元年1356年
・後光厳天皇・後村上天皇
・将軍足利尊氏
永仁4年1296年
・伏見天皇
・将軍久明親王
・執権北条貞時
・鶴岡八幡宮焼失
嘉禎2年1236年
・四条天皇
・将軍藤原頼経
・執権北条泰時
・若宮大路に新御所造営
・興福寺衆徒蜂起
安元2年1176年
・高倉天皇
・院政後白河法皇延暦寺で天台戒を受ける
・藤原秀衡一切経書写
・河津祐奏工藤祐経に射殺さる
永久4年1116年
・鳥羽天皇
・白河法王
以下略・・・
9、つれづれ
 戦後生まれの人も古希を過ぎ、何か、きな臭い匂いもして先行きの平和も、豊かな幸せも何となく不安を感じさせるこの頃です。
 隣国の内部にも爆発する予感もして、我が来た道を辿る様に感じます。
 地球の何処かで影を潜め己の利益のみを追求して戦争誘発によるマネーゲームに明けくれる一部の者に操られ、経済的安定も自由も失って心まで貧困になった集団が、行き場の無い思いの表現に意味の無い殺戮を繰り返しているようにも思います。
 戦後71年、いつまでも日本中に132か所1024平方キロメ-トルと広大な米国の基地を置いて、安保とか其の上集団自衛権とかこじつけて、その兵站を担い、利権維持の為に出撃するや金を持って来い、弾薬を持って来い、兵を出せ、づるづると多くの人の幸せを再び奪うのでしょうか。そんな事を感じてしまいます。
 
 先の大戦の反省や謝罪は国外にはあるとしても、広島・長崎への原爆投下、東京を始め多くの都市への無差別爆撃に対し、それに導いた指導者からはもとより、米国からの反省と謝罪の声すら聞く事はなかったと思います。
 日本国民を戦争へと導いていった制裁に、無差別に殺戮した事は戦争犯罪ではないのでしょうか。
 それ程、当時の国民は言いなりになる程の腑抜けだったのでしょうか、或は勝事を信じて全員が闘う姿勢だったのでしょうか。
 もうじき、今、謝ってもらいたい人達も一人もいなくなってしまいます。
 同時に、悲しくつらい思いをした方達もいなくなってしまいます。
 
 沖縄の基地移転も、この132か所をどうすべきかの議論もないまま、強引に進められていくとしたらこの国の将来はどうなるのでしょう。
 集団的自衛権と兵器の生産、輸出は多くの産業を活性化させます。手っ取り早い経済政策でもあるでしょう。
 ついでに、内紛を起させ武器輸出を容易にし一部の悪魔どもに稼がせるのでしょうか。
 
 先日京都の「ねねの道」を歩いていました、多くは中国、韓国などの外国人で前も後も両脇にも、果ては一休みしたソフトクリ-ム売場の店員さんまでが異国の人です。
 
 かさ上げの為の重機が動き回る災害復興。地域活性化戦略の無いまま土地だけかさ上げが完了しても戻って来られる人は居るのでしょうか。
 地域活性化は個々の地域の人達の知恵と努力は当然ですが、この国の将来に向かって、地域だけでは出来ないグロ-バルな戦略が必要でしょう。政党政治では不可能な人を選ぶ選挙を重視しなければならないのでしょう。
 一次産業を活性化して2次、3次産業の勃興を促し東北の港から空港から世界へ向けて発信して行く格好の機会と思います。
 生活の基盤は、故郷を思う年金暮らしのお年寄りはともかくとして、働けて家族が楽しく生活し、そこから新たな歴史を刻むのでなければならないのです。
 
 政府の強引な政策と地元住民の職業安定に押しまくられるように、原発再開が進められています。どう見ても、安全性は考えられないし、廃棄物処理の方法すらないまま再稼働すべきなのでしょうか。
 原発のプロを名乗っていた自称原発学者も影を潜め無言のままです。電気需要を目論むとかですが、都市周辺の工場は海外移転してしまった現在、産業復興ままならずです。
 
オリンピックは、建設需要に頼った経済政策、政治的目くらまし、一過性のお祭り気分ばかりでは、何も生まず、オリンピックが終わってしまえば其処から生み出すものもなく、廃墟を残すのみなのでしょうか。
 
 善悪の判断も乏しく、感情の赴くままに、此の処聞く残虐な殺人事件などにも憤りを覚えます。
 英語教育や技術者養成ばかりを優先し、人は如何に生き何を為すべきかが忘れらた教育政策にも問題がありそうです。
 
 列島の下でマグマが活発化し、気候変動が起き、学者の逃げ口上の想定外ばかりが起きています。地球の歴史を見れば想定外なんかあるわけはないと思います。基準値を何処に置くかに過ぎないものです。
 
 無駄遣いを埋めるための増税が待ち構えて居ます、やれやれ、蛹のまま閉じこもらずに脱皮すべき時かもしれません。
 議事堂前に集まった群衆も、今一つうねりになれない。
 
 元気な人を見て「元気をいただきました」と口を揃えて言っている様です。そればかり報道するマスコミ、それで良いのでしょうか。
 元気付けられる事を望むのではなく、自らが元気でなければと思うのですが。
 
 

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曽田本業附口伝その3大小詰7左伏

曽田本業附口伝

その3.大小詰

七本目 左伏

右伏の反対業也

(左脇に坐す右手胸をとり其の手を押へ前へ伏る 五藤メモ)

*「右伏の反対業也」といって省略されてしまいました。

六本目 右伏
打は仕の右側に並びて坐す打左手にて仕の胸をとる仕はすぐに其の腕を巻き込みて逆手をとり前に伏せる也
(右脇に坐す左手にて胸を取り其の手を押へ前に伏せる 五藤メモ)

七本目 左伏 を読み込ん見ます。
「打は仕の左側に並びて坐す打右手にて仕の胸をとる仕はすぐに其の腕を巻き込みて逆手をとり前に伏せる也」
(左脇に坐す右手胸をとり其の手を押へ前へ伏る 五藤メモ)

打は腰を上げて右に振り向き右足を右前に踏み込んで仕の胸を右手で取る。仕はすぐに腰を上げつつ打の右手肘を左手で巻き込んで右手で打の手首を取り逆手を取って打を前に俯けに倒す。

神傳流秘書 大小詰 七本目 左伏

 是は左の手を取る也事右伏に同左右の違計也尤も抜かんとする手を留められたる時は柄を放し身を開きて脇つぼへ當り又留られたる手を此方より取引倒す事も有也

*前回の右伏の逆でしょう。座し方に指定は無いのですが、此処は我が左側に相手は並び座すとします。
相手腰を上げ我が左手を取る。我右手を相手の斜めに首筋から廻し胸を取り身を開いて左に押し伏せる。

我が抜かんとして柄に右手を懸けているならば其の右手首を相手に取られて抜かさない様に押し付けて来る。我は此の時柄手を放し、左足を引いて左に開き、鍔を持つ左手で相手の脇坪に柄頭で打ち当てる。
又、柄手を留められた場合、柄手を放し相手の手を取り左手を相手の肘に懸け体を開き引き伏せる事も有。

右伏・左伏も状況に応じて臨機黄変に対処する事を教えている様です。

古伝は、流の奥義を悟られない様に抜けだらけの文言が通例と聞いていますが、寧ろ微細な業技法に拘らず千変万化の動作を要求している様に思えます。

現代居合は、昇段審査や競技大会の審査に容易な様に限られた技法を突き詰めてしまい
古伝の大らかな奥深さを忘れています。

武術は形ではない、と古流剣術の先生から強く指摘されます。現代居合が形にこだわり振り冠りの角度は・・、など些細な処に目を付けるほどの事ばかりをしています、武的美術を求める競技の様になってしまいます。

嶋 専吉先生の第19代福井春政先生の大小詰七本目左伏
「(右伏の反対の業なり)」

 

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