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2015年12月

2015年12月31日 (木)

曽田本免許皆伝目録52細川義昌先生の目録

曽田本免許皆伝目録


52.細川義昌先生の目録

*細川義昌先生は、旧姓嶋村善馬17歳の時、下村派下村茂市より慶応2年1866年12月吉日に根元之巻と「林崎重信直伝流居合兵法」の目録をうけています。
 政岡先生の「細川義昌先生の傳書」として「地之巻」に掲載されている細川先生が大正11年1922年3月吉日に発行された伝書では、目録の始めに「無双神傳英信流兵法目録」とされています。
 嶋村善馬が受けた目録の流名は「林崎重信直伝流居合兵法」とあります。
 此の事は巻物を写真に撮られて、木村栄寿先生は「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書集及び業手付解説」P33に載せられています。
 余談ですが、その根元之巻には「此始尋奥州林崎神助重信・・」と「神助」が使われていますが、目録の「林崎重信流居合兵法」ではその奥書に「右林崎甚助重信流居合兵法貴殿・・」と「神助」を「甚助」と書かれています。
 不思議な不一致ですが、土佐はおおらかだったとしておきましょう。
 此処では政岡先生により発表されている、大正11年1922年の細川先生の目録を勉強します。
 この目録も政岡先生の地之巻のものと、下村茂市に依る目録とは同じと思いますが対比もして置きます。(括弧)内は、嶋村善馬の伝書に依ります。
・・
無双神傳英信流兵法目録
(括弧内は林崎重信直伝流居合兵法の目録名)
(事 形)
1、向身 横雲・虎一足・稲妻
1、右身 浮雲・山下し(山下)
1、左身 岩波(岩浪)・鱗返
1、後身 浪返(波返)・滝落(瀧落)
     四方切  向右左後
太刀打三位(立相之位)
1、出合 1、附込 1、請流 1、請込(請入) 1、月影 
(1、絶妙剣 地之巻欠落) 1、水月刀 1、独妙剣 1、心明剣
詰合之位
1、八相 1、拳取 1、岩波(岩浪) 1、八重垣 1、鱗返(鱗形)
1、位弛 1、燕返 1、眼関落 1、水月刀(水月) 1、霞剣
大小詰(大小詰之位)
1、抱詰 1、骨防(骨防□) 1、柄留 1、小手留 1、胸捕 
1、右伏 (1、左伏 地之巻欠落) 1、山形詰 
(1、〆捕) (1、袖摺返) (1、鍔打返) (1、骨防返)
(1、蜻蛉返) (1、乱曲) (電光石火)
*嶋村善馬の伝書は大小詰・大小立詰を合せ大小詰之位としています。
 細川先生が古伝に基づき、下村茂市の伝書を改めたのか、政岡先生が改めたのか判りません。
大小立詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、鍔打返 1、骨防返
1、蜻蛉返 1、乱曲
*政岡先生の地之巻では、左伏、電光石火が欠落しています。
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切(遂懸切) 1、惣捲 
1、雷電 1、霞
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 1、門入
1、戸詰 1、戸脇 1、壁添 1、棚下 1、鐺返
1、行違 1、手之内(手内) 1、輪之内(輪内) 1、十文字
(1、手離剣)
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地極捜(地獄捜) 1、野中幕 1、逢意時雨
1、火対雨(火村風) 1、鉄石 1、遠方近所 1、外之剣(外剣) 1、釣瓶返
1、智羅離風車
居合心持肝要之事(抜刀兵術真心肝要之大事)
1、捕手和居合心持之大事 1、立合心之大事(立相心之大事) 
1、太刀組附位之事(太刀組附位事) 1、太刀目附之事(太刀目付之事)
(1、軍場之剣) 1、野中之幕之大事 1、夜之太刀之大事(夜之太刀)
(1、閨之大事) 1、潜り之大事(潜之大事) (1、帯車之事)
1、戸脇之事 1、獅子之洞出之事 1、獅子之洞入之事
(雷電霞是極刀萬法一心 口伝)
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也
(此九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳者也)
貴殿無双直伝英信流居合就多年御執心太刀次悉令相伝候向後御□専要候若御所望之仁於有之者兼而其人之取罰又指南尤可仍免許之状如件
(右林崎甚助重信流居合兵法貴殿就多年御執心抜刀一術悉令相傳□向後御嗜専用候依而目録免状如件)
・・
*奥書読み下し
(雷電霞是極の刀、萬法一心)
右九ヶ条は之を深く秘す極意也、真実の人に非ざれば努々相伝有るべからざるもの也
(此の九ヶ条は之を深く秘す極意也、真実の人に非ざれば努々相伝有るべからざるもの也)
貴殿は無双直伝英信流居合に就き多年御執心ありて太刀次悉く相伝せしめ候、向後(□)嗜み専要に候、若し、御所望の仁之れ有るに於いては、兼ねてその人の罰文(又 文誤植か)を取り、指南尤もにして之を免許する事くだんのごとし
(右林崎甚助重信流居合兵法を、貴殿多年に就き御執心、抜刀一術悉く相伝せしむ、□向後御嗜み専用に候、依って目録免状くだんの如し)
・・
*この目録を読んで見ますと、政岡先生の書き写された細川義昌先生の原本の行方が気になります。下村茂市より伝授されたものとはどこか違うのです。
 谷村派の大江先生程変えてしまう事は無かったのですが、土佐の居合は、先師の教えをいじって動いているのでしょう。
 伝書集を略2カ月に渡って、掲載して来ました。大江先生は複数に根元之巻を授与されました、細川先生は植田平太郎先生・中山博道先生の名が上がっていますがそれ以外は聞こえてきません。
 中山博道先生は、谷村派の16代五藤正亮先生の弟子森本兎久身先生に土佐の居合を習い免許皆伝と言われます。細川義昌先生からも免許皆伝を貰ったの、間に合わなかったのと云われて、長期にわたって指導を受けたであろう森本兎久身先生が霞んで見えます。
 細川先生の方が社会的地位が高いとか、居合で名が高いなどの単なる権威主義の為せることかも知れません。
 中山博道先生や植田平太郎先生等はその業績からみれば、土佐の居合の免許皆伝などに拘ることもないでしょう。
 大江先生の根元之巻の複数発行(七人とか)が宗家問題の混乱のきっかけであったかもしれません。
 大日本武徳会の段位、戦後の全居連・全剣連・其の他の連盟・個別道場の段位が絡み合って本来の根元之巻及び業目録の価値がぐちゃぐちゃになっているようです。
 連盟の段位は有るが、流派の印可は何もないお化けを生み出しているのも不思議な現象です。
 飛躍しますが流派が連盟に媚びていてはいずれ消えていくでしょう。
 根元之巻は柄口六寸の奥義と居合心を伝えています。根元之巻を持ちながら柄口六寸を指導出来ない。
 業技法の動作や形に拘ってばかりで居合心など聞いたことすらないのでは困ったものです。
 業目録では大江先生の業目録を勝手に変更したり、附け足したり、挙句は他流の業を書き込んでいるものもあります。これなど伝系を蔑ろにするもので、本来別伝として明記すべきでしょう。
 価値の無い形だけの免許皆伝と貢献度による段位では、自己満足に過ぎずに大金のやり取りが横行し、根元之巻を授与されたものが連盟の範士の下であるとするならば流派は不要でしょう。
 
 思いつくままに・・・。
 
 
 

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2015年12月30日 (水)

曽田本免許皆伝目録51細川義昌先生の根元之巻読み下し意訳

曽田本免許皆伝目録


51.細川義昌先生の根元之巻


読み下し及び意訳
*細川義昌先生の根元之巻は政岡先生が大江先生と同じと云う事で省略されていますが下村派の下村茂市先生から嶋村善馬(後の細川義昌)へ授与されたものとは少々異なり寧ろ大江先生が大正10年1921年に鈴江吉重先生に授与されたものの方が近いので、之を読んでみます。
居合根元之巻 大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写 (曽田本2より)
抑此居合ト申者日本奥州林之従大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑(霊)夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎(毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々
古語曰 其進疾 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違
又古語曰 夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然。
読み下し
「そも此の居合と申すは、日本奥州林の従、大明神の夢想に之を伝えしめ奉る。夫れ兵術は上古中古数多の違い他流に有ると雖も、大人小人、無力、剛力嫌わずに兵の用に合う云々。末代相応為る太刀に云う。手近の勝ち、一命之れの有無此の居合に極まる。
 恐らくは、粟散邊土の堺、不審の儀これ有るべからず、唯霊夢に依る処也。此の始めを尋ぬれば、奥州林崎神助重信と云う者、兵術を望み之有るに因り、林の明神に一百有日参籠せしめ、其の満暁に夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たる怨敵に勝を得る云々。
 則、霊夢の如く、腰刀三尺三寸を以て大利を得て、九寸五分に勝事、柄口六寸の勝ちの妙不思議の極意、一国一人の相伝也。 腰刀三尺三寸、三毒、則、三部にただ脇指九寸五分九曜五鈷の内証也。
 敵味方に成る事これ亦前生の業感也。生死一体戦場浄土也。此の如く観る、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世に仏と成るは縁なる事、豈疑い有らん哉。此の居合、千金を積むと雖も、不真実の人には堅くこれを授べからず。天罰を恐れ唯一人に之を伝え授くべし云々。
古語に曰く
 其の疾く進むは、其の速退く云々。此の意、貴賤尊卑を以て前後の輩を謂われずして隔て無く、其の所達せし者には目録印可等相違無く許せ。
亦古語に曰く
 夫れ百錬の構え在りて、則、茅や茨の荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜、自ずから之を思い、神明佛陀に祈る者は、則、忽ち利方を得、是に依り心を済まし身には燦然たり。」
根元之巻意訳
「抑、この居合と申すものは、日本の東北地方の林の大明神により、夢の中に現れて伝えて来たものである。兵術というものは、上古中古より沢山の他流があってその違いは有るであろうが、大きな人、小さな人にも、無力や剛力の人にも嫌う事の無い兵術である。
 いずれ将来、相応に役立つ太刀で、手近の戦いに勝ち、一命の有る無しはこの居合に依って極まるものである。
 この居合は恐らく、天竺から見て日本の様に粟粒ほどの辺境の地の様に、どんな辺鄙な処であろうとも、この居合の役立つ事を不審に思うべきものでは無い。唯、霊夢に依るものである。
 この居合の始めを尋ねるならば、奥州の林崎神助重信と云う者が、兵法を望んで、林の明神に百日余りの参籠をし、満願の日の暁時、夢の中に老翁が現れ重信に告げて言うには、「汝、この太刀を以て、胸の中に持ち続けている怨みの有る敵に勝つ事を得られるであろう」と告げられた。
 則、霊夢の様に、腰刀三尺三寸を以て、敵の脇指九寸五分に勝つ大利である。柄口六寸に勝つ甚だ巧みな不思議な極意である。一国一人に相伝するものである。
 腰刀三尺三寸は三毒である貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知を、三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地である煩悩を打ち破り、仏の慈悲の心で包み込み、それらを成就して、己の運命を切り開く様に、心の内の心理を悟り脇差九寸五分を打ち破る五鈷である証拠である。
 敵味方と成る事は前生の行為に依る報いを受ける事である。生死は一体のもので戦場も浄土である。この様に観れば、現世は大聖摩利支尊天の加護に守られ、来世に仏と成るのは縁に依る事である。
 この居合は千金を積むと言われても、真実で無い人にはけっして之を授けるべきでは無い。天罰を恐れるべきもので、唯一人に伝えるものである。
 古語に云うには、その疾く進むものは、それを速く退いてしまうものである。 この意味するものは、貴賤、尊卑、前後の輩と謂わず、隔て無くその心得る所を為す者には目録印可などを相違なく許せ。
 又古語に云うには、それは、百錬の茅や茨で拭いた別荘や鄙を構えで有っても、兵の利を心懸け夜之を思い、神や仏に祈るものは忽ち利方を得て、心は正しく整理され身は燦然と輝くものである。」
*この意訳は、谷村派谷村亀之丞自雄が土佐の14代藩主山内豊惇公へ弘化2年1845年に献取された根元の巻きから転写しました。(2015年12月13日)
 嶋村善馬(後の細川義昌)が下村派下村茂市より嘉永2年1849年に授与されたものと同様と思われます。
 少しもおかしなところは見られず、根元之巻そのものが、伝えようとするものは、谷村派も下村派も別段これと言って無いと判断できます。
 

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2015年12月29日 (火)

曽田本免許皆伝目録その50細川義昌先生の伝書根元之巻


曽田本免許皆伝目録
50.細川義昌先生の伝書
 細川義昌先生は大正11年に香川に旅行し植田平太郎先生に居合根元之巻及び目録を伝授されています。
 植田平太郎先生は明治10年1877年香川県高松の生まれ、天真正伝神道流剣術を習い、細川義昌先生には大正8年1919年(42歳)師事し大正11年1922年(45歳)に免許皆伝を授与されています。30歳の時27人勝ち抜きで名を轟かせ、三度の天覧試合、など戦歴は多数です。
 政岡先生の「無双直伝英信流居合兵法 地之巻」に細川義昌先生の傳書として掲載されています。
 年月日は大正11年1922年3月吉日で授与された人の名が無い写本と言う事で、恐らく中山博道先生だろうと思われるとされています。
 植田平太郎先生には授与されておられると思いますが、中山博道先生は授与されずに翌年大正12年1923年に細川義昌先生は74歳で亡くなられております。どちらも根元之巻の公開されたのを拝見した事は有りません。
 政岡先生の「地之巻」に有るまま取り上げさせていただきます。
 谷村派の第17代大江正路先生の伝書との違いを勉強して見ます。
*地之巻では細川義昌先生の根元之巻は大江正路先生と同じと云うことなので省略されています。従って「地之巻」に掲載されている根元之巻は政岡先生が授与されたものになります。
 
 恐らく、細川先生の伝書は、木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法 夢想神傳重信流伝書集及び業手附解説」のP31以下の下村茂市から嶋村善馬に慶応2年1866年に授与された根元之巻と同じ内容のものかも知れません。
 
 嶋村善馬は明治3年1870年に嶋村姓から細川と改め細川義昌となります。
 
 細川義昌先生は嘉永2年1849年生まれ、安永3年1856年に下村茂市に入門(7歳)、慶応2年1866年免許皆伝は17歳でした。
政岡壱實先生の「無双直伝英信流居合兵法 地之巻 伝書の発表」昭和49年1974年発行より。
細川義昌先生の傳書
一巻根元之巻は大江先生と同様 
*細川義昌先生の伝書は大江先生と同様の根元之巻であると政岡先生は地之巻に書かれています。
大江先生から政岡先生が授与された根元之巻(地之巻より)
抑此居合術ト申者日本奥州林従大明神夢相二テ奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀云々 手近勝一命有無之極此居合恐粟散辺土堺於不審之儀不可有之唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
*これでは、細川先生の授与された伝書と内容は同じ様なものですが部分的に聊か異なります。寧ろ大江先生が鈴江吉重先生への根元之巻の方が同じ様です。
 太字の部分が異なる処です。内容的にはさして問題は無いと思います。
居合根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写

抑此居合ト申者日本奥州林之従大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑(霊)夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎(毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然。


*根元之巻には道統が記載されていますが、「地之巻」はこれも大江先生と同じとして割愛されています。細川先生は下村派と云われますから大江先生とは大黒元右衛門清勝から以降の道統は異なります。

曽田先生の系譜から道統を作成します。

天真正

林明神

林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門尉光重
万野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
松吉貞助久盛
山川久蔵幸雅
下村茂市

*曽田先生の作成された系譜と木村栄寿本との道統の姓名及び順番の違いは有りません。
 但し、万野團右衛門信定が信貞と一字異なります。

*根元之巻の奥書についても「地之巻」には記載されていません。政岡先生が授与された伝書には以下の様になりますが、此処は木村栄寿本と異なります。原文はそちらをご参照ください。読み下し文を載せておきます。

「貴殿は多年深くお望みに付き、相伝せしめ候、猶向後、御修行に依り、其の切り(目録手附か)極意印可等を授くべきもの也、厚きお心懸け肝要の事に候、よって奥書くだんの如し」


*政岡先生の地之巻による奥書

「貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ」(地之巻より)

「貴殿は多年斯道に熱心錬磨の結果、その蘊奥に達せらるるを認め、ここに我が英信流を相い伝へ候、宜しく、将来、本流の品位をおとすことなく、之が拡張をはかりみだりに他流に媚びず、以て、伝授の責を全うせらるるべし」(地之巻読下し)

大正11年3月吉日

細川義昌

殿(*あて名は無い)

*細川先生に依る伝書は、恐らく下村茂市先生から授与された伝書を写して発行されたと思います。
 これを読んで見ますと、土佐の居合の根元之巻として谷村派、下村派に依る違いなど何処にも見る事は出来ません。寧ろ、伝承されたものは全く同じものとしか言いようのないものです。
 業手附が同じであっても、想定が違い、修行の違い、哲学などの違いは人それぞれです。
 現在の夢想神傳流もこの土佐の居合のお釈迦様の手の内を出るものでは無いのでしょう。中山博道先生が細川義昌先生から伝書を受けていたらと、惜しまれます。
 一般的には免許皆伝は受けられたと聞こえる様に思います。

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2015年12月28日 (月)

ひのえさる(丙申)を思う

乙未(きのとひつじ)の歳も、あとすこしで丙申(ひのえさる)になります。 

今年平成27年2015年の始まる前の、干支を読むのカテゴリ-で日本の行く末はこれで良いのかと、思いつくままに書き込んできました。

来年の干支に先立ちまた思いつくままに書き込んだのは今年の11月1日でした。
昨日、振り返って見たら、去年の思いと何ら変わらないのに驚いています。世の中はそんなものだと言うのでしょが太平洋に浮かんだ日本列島が我々を乗せて何処に行こうとしているのか、何をしようとしているのか、何を国民はすべきなのかよく見えてきません。
お前がボケて居て、変化を読み取れないだけだと言われても、もう何年も太平洋を漂流しているばかりに思えてしまいます。

 明治維新(1868年)から148年、先の敗戦(昭和20年1945年8月15日)から71年経ちます。  この処、維新を境として、若者達のはつらつとした生き様が語られて、あんな時代に生きていたかったとも思う反面、彼らの覇気が残心して敗戦に導いていったとも思われます。現代史を隠さず正しく学ぶと共に、それを正面から受け留め、前に向って戦後71年、殻を破って真直ぐに伸びていきたいものです。高校の歴史の授業も受験向けに選択科目になって居る様ですが、面白いのは古代史や中世史でしょう。しかし現代史は知れば知る程胸が重苦しくなってきます。

 戦後生まれの人も古希を過ぎ、何か、きな臭い匂いもして先行きの平和も、豊かな幸せも何となく不安を感じさせるこの頃です。

封建時代の、身分制度の下で我慢を強いられた大部分の人に、生きるための知恵の一つとして、子供にも摺り込ませた「みざる・きかざる・いわざる」で良いわけはないでしょう。「見て・聞いて・言う」でなければ、そんな時代なのに・・・・。

 隣国の内部にも爆発する予感もして、我が来た道を辿る様に感じます。

 地球の何処かで影を潜め己の利益のみを追求して戦争誘発によるマネーゲームに明けくれる一部の者に操られ、経済的安定も自由も失って心まで貧困になった集団が、行き場の無い思いの表現に意味の無い殺戮を繰り返しているようにも思います。
 其の煽りを食った難民がヨーロッパ諸国に雪崩れ込んでいるのでしょう。
 戦後71年、いつまでも日本中に132か所1024平方キロメ-トルと広大な米国の基地を置いて、安保とか其の上集団自衛権とか言って、既に約束事の実行を果たし、その兵站を担い、利権維持の為に出撃するや金を持って来い、弾薬を持って来い、兵を出せ、づるづると多くの同胞の幸せを再び奪う。そんな事を感じてしまいます。
 集団的自衛権を突き詰めれば、食料自給率をせめて60%以上に上げる施策も思い切って打つ時でしょう。
 先の大戦の反省や謝罪は国外向けにはあるとしても、広島・長崎への原爆投下、東京を始め多くの都市への無差別爆撃に対し、それに導いた指導者からはもとより、米国からの反省と謝罪の声すら聞く事はなかったと思います。パールハーバーの仕返しですか。
 日本国民を戦争へと導いていった制裁に、無差別に殺戮した事は戦争犯罪ではないのでしょうか。
 それ程、当時の国民は、一部指導者に操られ、言いなりになる程の腑抜けだったのでしょうか、或は、洗脳されて勝事を信じて全員が闘う姿勢だったのでしょうか。
 戦後生まれの人で、原爆のおかげで戦争の苦痛から救って貰えたと感謝の声が聞かれました、情けない人です。
 もうじき、今、謝ってもらいたい人達も一人もいなくなってしまいます。
 同時に、悲しくつらい思いをした方達もいなくなってしまいます。
 沖縄の基地移転も、この米軍基地132か所をどうすべきかの議論もないまま、強引に進められて行くとしたらこの国の将来はどうなるのでしょう。
 集団的自衛権に擁護された兵器の生産、戦争を誘発させて武器を輸出する事は多くの産業を活性化させます。手っ取り早い経済政策でもあるのでしょう。
 其の為に電力需給の原発再開では泣けてきます。
 悪魔の手先になって、内紛を起させ武器輸出を容易にし、一部の悪魔どもに稼がせるのでしょうか。
 ・
 先日京都の「ねねの道」を歩いていました、多くは中国、韓国などの外国人で前も後も両脇にも、果ては一休みしたソフトクリ-ム売場の店員さんまでが異国の人です。
 京都のホテルは外国の旅行業者に押さえられ泊まるのも儘なりません。古いお寺を見ても、建物だけでは何ら意味の有る事でも無さそうですが、もっと見てもらいたい、折角来たのだから座禅をするとか、講和を聞くとか、やってもらいたい事など有りそうなものです。
 大震災から5年もたったのに遅々として進まない復興、かさ上げの為の重機が動き回る災害復興。地域活性化戦略の無いまま土地だけかさ上げが完了しても戻って来られる人は居るのでしょうか。
 地域活性化は個々の地域の人達の知恵と努力は当然ですが、この国の将来に向かって、地域だけでは出来ないグロ-バルな戦略が必要でしょう。政党政治では不可能な、日本を引っ張って行く、未来を見通した人を選ぶ選挙を重視しなければならないのでしょう。
 一次産業を活性化して2次、3次産業の勃興を促し東北の港から空港から世界へ向けて発信して行く格好の機会と思います。
 生活の基盤は、故郷を思うだけの年金暮らしのお年寄りはともかくとして、働いて家族が楽しく生活し、そこから新たな歴史を刻むのでなければならないと思うのです。
 政府の強引な政策と地元住民の職業安定に押しまくられるように、原発再開が進められています。どう見ても、安全性は考えられないし、廃棄物処理の方法すらないまま再稼働すべきなのでしょうか。避難された方は、帰る場所も無い。
 原発のプロを名乗っていた自称原発学者も影を潜め無言のままです。電気需要を目論むとかですが、都市周辺の工場は海外移転してしまった現在、産業復興ままならずです。
 地球温暖化を避ける目的にしても、千年を越える地球汚染をいつまで続ければ気がすむのでしょう。
 ・
 オリンピックは、建設需要に頼った経済政策、政治的目くらまし、一過性のお祭り気分ばかりで何も生まず、オリンピックが終わってしまえば其処から継続的に生み出すものもなく、廃墟を残すのみなのでしょうか、オリンピック以後の活用方法を今から準備して行くべきものでしょう。何年で1550億を回収するのでしょう。税金の使いっぱなしではいい気なものです。
 それはそうと、トラックを走れる日本選手の育成は進んでいるのでしょうか、走るのは異国の人ばかりですか。
 善悪の判断も乏しく、感情の赴くままに、此の処聞く残虐な殺人事件などにも憤りを覚えます。
 英語教育や技術者養成ばかりを優先し、人は如何に生き、何を為すべきか、が忘れらた教育政策にも問題がありそうです。
 追い打ちをかける様に、経済的格差社会が口を大きく開けています。貧困家庭を見直す政策もどこか他人事です。少しばかりの金をばらまいても意味の無い事でしょう。
 離婚して母親だけで子育てしている母親が「この子にもきっと素晴らしい才能があると思うの、でも私の経済力では・・と」それでも手は打たれていません。離婚は勝手ですが子供も巻き込まれています。
 列島の下でマグマが活発化し、気候変動が起き、学者の逃げ口上の想定外ばかりが起きています。地球の歴史を見れば想定外なんかあるわけはないと思います。基準値を何処に置くかに過ぎないものです。声高らかに、建設的意見を語る学者が学者でしょう。為政者や先輩教授の言いなりの人は何時まで経っても只の生徒です。学者は物事の根幹を見出し人の為に役立つ人と思っています。
 無駄遣いを埋めるための増税が待ち構えて居ます、税金を増やしても又無駄遣い、やれやれ、蛹のまま閉じこもらずに脱皮すべき時かもしれません。日銀も国債をどんどん買うばかりで借金が増えるばかりです。
 議事堂前に集まった群衆も、今一つうねりになれないようです。かと言って一部の過激な連中が参入すれば暴力がのさばるだけでしょう。過去の全学連や、お隣さんの暴徒のようなやらせデモではね。
 元気な人を見て「元気をいただきました」と口を揃えて言わされている様です。そればかり報道するマスコミ、それで良いのでしょうか。例年の様に、暮れには当り障りのないスポ-つの話しだけが流れてきます。
 ・
 今日も遠くまで見渡せる冬空に、雪を被った富士山が一際美しく丹沢の山並みを裾模様にして聳えています。
 その周辺にもごみの山、噴火も、地震も、原発も、世界遺産も・・。海の中にはプラスチックの粒が漂っています。
この項目は、既に「ひのえさる(丙申)」に載せた物をこの部分だけ師走の押し詰まった時に読み直して見ました。
 
 

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曽田本免許皆伝目録その49山本宅治先生より大田次吉先生を終えて

曽田本免許皆伝目録


その49.山本宅治先生より大田次吉先生を終えて


大田次吉先生の略歴を上げておきます。
これ等は大田先生のお弟子さんによる平成23年発行の「玉誠録 我等が師・大田次吉先生伝」に依ります。
大田先生の山本宅治先生への師事は昭和34年1959年入門(67歳)、昭和38年1963年免許皆伝です(71歳)。
居合道の履歴
*明治23年1890年西川倍水生まれる
明治25年1892年大田次吉高知県宿毛生まれる
*山本宅治明治19年1886年生まれ、6歳年上でした。
明治42年1909年大田次吉志願入隊(17歳)
大正10年1918年頃大田次吉退官(26歳)
大正11年1982年大田次吉日体大入学(27歳)
大正13年1924年大田次吉高知県安芸中奉職、
            長尾影房に師事(32歳)
*昭和2年大江正路没す
昭和3年1928年大田次吉退職し立正大に通う
           とか太平洋戦争などあって居
           合から遠ざかっていたと思われます。
*昭和25年1950年第19代福井春政、河野百錬に紹統印可
昭和30年1955年大田次吉居合を西川倍水に
           指導を受け再開。(63歳)
*昭和34年1959年西川倍水没す(69歳)
昭和34年1959年頃山本宅治先生に入門(67歳)
*山本宅治先生(73歳)
昭和38年1963年大田次吉山本宅治先生
          から免許皆伝(71歳)
*昭和49年1974年河野百錬没す(77歳)
昭和51年1976年大田次吉全居連副会長(84歳)
昭和52年1977年大田次吉関東地区居合道連盟結成(85歳)
*昭和53年1977年山本宅治没(91歳)
昭和55年1980年大田次吉「土佐英信流」出版(88歳)
昭和59年1984年大田次吉没(92歳)
 
 大田先生は山本宅治先生に69歳で入門されています。西川先生亡き後、新たに師を求めて前に向って行かれる程の凄い魂を宿されていたのでしょう。
 並の人ではそこで挫折して、衰えていくばかりです。
大田先生の居合を古い動画で見る限り「大きく迫力のある居合を抜いていた」とお弟子さん方は、懐かしんでおられる様です。
 残されたお弟子さんの居合は大田先生に似ていません、寧ろ華麗な洗練されたものです。高弟であった白石五郎先生の実技指導が身についたのでしょう。大田居合は、業技法ではなく慈愛に満ちた「心」が大田居合なのだろうと思っています。 師の指導とはそう云うものなのだろうと思います。
*玉誠録には「宗家を高知へ返還するための執念」の項目が語られています。
 第19代福井春政先生が土佐への思いを断ち切って、昭和25年に大阪の河野百錬先生に第20代宗家を紹統印可されています。(2015年12月23日ブログ)
 「宗家を土佐に戻すという思いは福井春政、山本宅治等の17代大江正路直門の先生方はもとより、土佐居合道界全体のものであった。土佐側の次代宗家候補を西川倍水として返還の話し合いを行うため香川県善通寺で行われた大会に関係者が集まった。しかしなんと西川先生が大会の会場で演武を見ている最中に倒れられて3日後に急逝される」
*西川倍水先生の逝去は昭和34年1959年の事でした。その後、昭和46年1971年に田岡 傳先生に因って第19代福井春政先生がお亡くなりになると(昭和46年2月18日)、福井宗家の遺言と称して、第20代宗家として竹嶋寿雄先生(当時41歳)を、河野先生存命中に、傍系宗家としてたてられています。これでは第19代福井春政先生を辱めるばかりの事です。
 土佐への思いがあったとしても、第20代河野先生存命中に、突然、第20代竹嶋寿雄先生を立てるなど、武士道精神を欠いた行為でしょう。
 既に全国に多くの同志を得ていた無双直伝英信流の剣士を蔑ろにしたただけの自己中の様に思えます。
 第19代宗家福井春政先生が、土佐に次期宗家を立てられずに悩まれた心情は、折りに触れて土佐の剣士に語られ、或は土佐の剣士から攻められたことは、その後の、土佐の剣士の行動から察せられます。
「昭和49年1974年5月21日河野先生が亡くなり大きな動きがあった、8月8日付けで「無双直伝英信流第21代宗家決定に関する通牒」と言う文書が流された。大江正路と穂岐山波雄直門の山本宅治、森 繁樹、田岡 傳、中川 稔、森藤米次、野村譲吉の所謂英信流長老の連名で、次期21代宗家に高知の竹嶋寿雄を推す事に関する賛否を問う内容であった。この通牒は範士全員(英信流の範士のみか?)に送られたと思われる。当然大田先生は竹嶋先生に賛成したはずである。
 しかし結果は福井虎雄が21代宗家の継承者となった、この宗家継承の経緯についてはここに記すだけの資料を持たない。」
「新宗家が決定した後に大田先生は、福井宗家を強く押した当時全居連会長の池田昂浡に対し「7年ゾヨ」と7年後には宗家を土佐に変換することを条件に承知している」
「竹嶋寿雄先生は19代宗家福井春政が亡くなるときの意を受け、高知において傍系20代宗家を継承していた。そして竹嶋寿雄は全居連を離れ全国居合道に所属し別に活動していた」
「竹嶋は流派名を「無双直伝英信流」から「土佐直伝英信流」と替えた。」
*20代河野宗家が存命のうちにも関わらず、20代宗家を押したてたのでは困ったものです。其の上20代河野宗家が没するや、竹嶋先生を21代宗家として賛否を問う通牒とは、之如何にです。傍系を標榜するなら、20代のまゝ押し通し、全国に広がった「無双直伝英信流」の剣士を、土佐の方々で束ねる、施策を打つべきだったでしょう。
 寧ろ傍系として立てずに19代福井先生の遺言として竹嶋先生を21代として河野先生存命中に立てて置き、河野先生に依って紹統されるとか方法もあったろうと思います。
 心無い長老方によって押したてられた竹嶋先生も辛かったろうと思います。
 この居合と言う伝統文化を惜しまれて土佐から広がる事を望み、第19代福井先生は苦渋の中に河野先生に託す決断をされたのでしょう。
 大江先生の居合も「剣道てほどき」に乗って広まって行きました、曽田先生も苦労して集められた土佐の居合の秘伝を瀬戸内を越えて望まれる方に出されています。細川先生も中山博道先生に伝授されています。免許皆伝も香川の植田平太郎先生に出され土佐を出ています。
門外不出を通したい願望は解らぬでもないが、あまりにも稚拙な行為としか思えません。大江先生はそんな弟子を育てはしなかったと泣いておられるでしょう。それは何故だったのでしょう。
 師匠の思いが強ければ、可愛がられたお弟子さんも、師匠亡き後にも「その幻に想いを致す」ものです。うらやましくもあるのですが、師匠の思いをどう受け止められたのか、大田師匠が捨てなかった全居連を幾人かのお弟子さんは師匠が没するや捨ててしまいました、全居連に残られた方を仲間と思わない行為も有るや無しや、けなげな姿というか・・・??を眺めるばかりです。
 昭和46年8月10日の居合道新聞に河野先生の「傍系20代~誕生、正統第20代宗家河野百錬」と題した記事が掲載されています。
「・・此上は分家として心を一にして故先生御意志に反する事無く益々精進を重ね而して徳と力を養うべく心を新たにした次第で分家に於かれても拙意を諒とされて、故恩師の御徳を汚す事無く益々自重精進あらん事を希う次第である」
と、無双直伝英信流宗家としてのらしき発言をされています。
 しかし、続けて「余談であるが、私見としては・・本流の傍系としての代を唱ゆる事は変則と思う=飽く迄も代を唱ゆる者はその流の正統ただ一人のみが本則であると信ずるものである。~此の見地に立って私は将来時期を得て当流の古老と諮り、土佐の国に人を得て正統宗家を紹統する考えであったが~先代の意志に依り茲に当流の20代を唱する傍系が今回誕生した事は各々の見解の相違に依るも私の平素の所管とは相違するものである」
 この文章は、道を外している事への嘆き(寧ろ怒り・・)の声でしょう。
 74,5歳の河野先生の居合を見た大田先生の御弟子さんは、「あんなへぼ居合はやりたくない」といっていたとか。其の御歳であれだけの居合が出来る人は何人居られるでしょう。
 林崎甚助重信の残された居合の伝書の幾つかを読み解いているうちに、「人の業」を垣間見てしまった様です。
 土佐に伝承された居合は、門外不出などに初めは捉われていても、文明開化によって板垣退助の勧めもあって大江先生も細川先生も目覚められ、土佐の素晴らしい武士道文化を広めようと改められたのに、「幻を引きずって」、土佐の長老を筆頭にしたその為され様は、子供の「いじめ」よりひどく考えさせられてしまいます。
 現在でも、似たような話は幾つか聞こえてきます。業技法の違いなど当たり前の事、考え方も、哲学も違って当たり前の事です。然し、分かれた方の居合も、どうやって見ても無双直伝英信流です、夢想神傳流を見て居ても同じ土佐の居合を少しも越えていません。
 何の為に居合を業ずるのか少しも判っていないただの棒振りなのでしょう。
 武術は自ら信じた事を貫く、人と人のコミュニケ-ションの最終手段です。居合を学びながら天地と和す事を学ぶものでしょう。
 

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2015年12月27日 (日)

曽田本免許皆伝目録その48山本宅治先生から大田次吉先生目録

曽田本免許皆伝目録

48.山本宅治先生から大田次吉先生

・目録
英信流居合術名称
正座之部
一番  向身
二番  左刀(大江先生は右身)
三番  右刀(大江先生は左身
四番  當刀(大江先生は後身
五番  陽進陰退(大江先生は八重垣
六番  流刀(大江先生は請流
七番  順刀(大江先生は介錯)
八番  逆刀(大江先生は附込
九番  勢中刀(大江先生は月影
十番  虎乱刀(大江先生は追風
十一番 抜打
立膝之部
一番  横雲
二番  虎ノ一足
三番  稲妻
四番  浮雲
五番  山颪
六番  岩浪
七番  鱗返
八番  浪返
九番  瀧落
十番  真向
奥居合之部 居業
一番  霞
二番  脛囲
三番  戸詰
四番  戸脇
五番  四方切
六番  棚下
七番  両詰
八番  虎走
奥居合之部 立業
九番  行連
十番  連達
十一番 総捲
十二番 総留
十三番 信夫
十四番 行違
十五番 袖摺返
十六番 門入
十七番 壁添
十八番 受流
十九番 暇乞
二十番 仝
二十一番 仝
番外
一番  速浪
二番  雷電
三番  迅雷
型並発声
イ-エ-イ
一番  出合
二番  掌取(拳取の誤字
三番  神妙剣
四番  獨妙剣
五番  鍔留
六番  請流
七番  真方
右之条々深秘之極意也
天真正
林明神
林崎神助重信
田宮平兵衛光重(業政?)
長野無楽入道権露斉(槿露斎?)
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
万野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六大夫守正(守政?)
林安太夫政詡
大黒元衛門清勝
林益之丞政誠
依田万蔵敬勝
林弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
大江正路子敬
穂岐山波雄
福井春政
河野百錬(大江先生に師事した事は無い?)
右は大江正路子敬先生より御相傳を蒙りたる者也
居合道 九段
範士  山本宅治守誠
非真実之人者努々不可有相傳者也
貴殿多年斯道熱心錬磨之結果其温奥(蘊奥の誤字?)二達セラルヽヲ認爰二我英信流居合術之目録一軸(軸の相伝とはいかに?)相傳申所也宜敷将来本流之品位ヲ堕ス事無之ガ擴張ヲ計漫リニ他流ヲ媚ズ以傳授之責ヲ全フセラレン事期セザル可
昭和三十八年
居合道八段
教士 大田次吉殿
*この山本宅治先生の目録は正座之部の業名が大江先生のものと異なります。
大森流の業名を掲げておられますが何故かわかりません。
 大田先生に習われたお弟子さんも大江先生の業名で稽古されていて、此の事に気が付いているのか不明です。
 伝系に大江先生より河野先生が「御相傳を蒙り」と有るが穂岐山・福井先生に師事したとされて、大江先生には直接ご教授頂いたことは無い筈です。
 「右は大江正路子敬先生より御相傳を蒙りたる者也 居合道九段 範士山本宅治守誠」
の書き方ですと、大江先生から山本宅治先生は相伝されていない、河野先生からの様に思えてしまいます。
 此処は相伝しているが、宗家筋では無いと言う姿勢のあらわれかも知れません。
「英信流居合術之目録一軸相伝申所也」の「一軸」の文言は軸に拵えた巻物一巻に居合根元之巻及び業目録を相伝する、と云う意味でしょう。
 大江先生の様に「無双直伝英信流居合術令相伝候」で良いのに何を意図されたのか疑問です。
伝授された年月日が年だけですが、どうしたものでしょう。

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2015年12月26日 (土)

曽田本免許皆伝目録その47山本宅治先生から大田次吉先生

曽田本免許皆伝目録

47.山本宅治先生から大田次吉先生

*是までの処で、大江正路先生から伝授された先生方の伝書を拝読して来ました。
大江先生の直弟子から孫弟子への伝書は第19代福井春政先生から河野百錬先生への根元之巻・目録及び紹統印可を河野先生の無双直伝英信流居合兵法叢書から拝借しました。
 
今回は、土佐の山本宅治先生から、土佐出身ですが東京で居合を広められた、「土佐英信流」の著者大田次吉先生への伝書を拝見してみましょう。
大田先生の根元之巻きは、その著書「土佐英信流」の箱に大部分印刷されています。
 大田先生から御弟子さんへは、免許皆伝の無双直伝英信流根元之巻及び業目録は一人も授与されていないと聞いています。
 大田先生と曽田本のつながりは、天の為せる事と思います。大田先生の御弟子さんが曽田先生の息子さんから「私は居合をやらないから曽田本を持って居てほしい」とお預かりしたものがこのブログになっているわけです。
 この曽田本は、戦前にひたすら、土佐の居合を追い求めた曽田虎彦先生の思いが籠められたものです。このようなものは譬え「あげる」と言われても「金を出して買ったとしても」個人が、勝手に扱うべきものではないでしょう。天からお預かりしたもので、後世に引き継ぐべきで宝物です。
居合術根元ノ巻
抑此居合術ト申者日本奥州林之従大明神夢相(夢想の当て字か)ニテ奉傳之夫兵術者上古中古雖有数夛之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云   手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土於堺不審之儀不可有之唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日会(令の誤字)□□籠(参籠の不明文字ムの下に火、その下に水、大江先生の伝書の写し書きに依る誤りか)其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思儀之極意一国一人之相傳也 腰刀三尺三寸三毎(三毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五六(五鈷の判読ミスか古いの草体)内証也 敵味方成事(古に又)是亦最生(前生の誤字)の業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則也(也の挿入ミスか)蒙大聖摩利□(支の不明文字)尊天加護 来也(世の誤字)成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖千金(積千金の積の字欠如)不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳云々
古語曰
其達疾者 其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔不謂最後(前後の誤字)輩其所作者許目録印可等無相違(大江先生の伝書では此処は「此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違」(ですから山本先生は「達」の文字が欠如しています。達するものには)
又古語曰
夫百錬之搆在則茅茨荘鄙與兵利心懸者夜自思之明神佛陀者祈則忽得利方是依心済身事粲然(燦然の異体字)
居合根元ノ巻読下し
 抑、此の居合術と申すは日本奥州林の大明神により夢想にて之を伝え奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違い有れども他流大人小人無力剛力嫌わずに兵の用に合う云々、末代相応に為る太刀に云う、手近の勝ち一命の有無、此の居合に極まる、恐らくは粟散邊土の堺に於いて不審の儀あるべからず、之は唯霊夢に依る処也。
 此の始めを尋ぬる、奥州林崎神助重信と云う者に因り、兵術有ると之を望み、林の明神に一百有日参籠せしむ、其の満暁の夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中に憶持たる怨敵に勝を得ん云々。
 則、霊夢に有る如く大利を得ん、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意、一国一人の相伝也、腰刀三尺三寸三毒、則、三部に、但脇差九寸五分九曜五鈷の内証也。
 敵味方と成る事、是亦前生の業感也、生死一体戦場浄土也。
 此の如く観るは、則、大聖摩利支尊天の加護を蒙る也、仏と成るは縁なるの事、豈疑いあらんや。
 此の居合千金と雖も不真実の人には堅く之を授くべからず、天罰を恐るべし唯授一人に伝う云々。
 古語に曰く
 其の達する事疾き者 其の速く退く云々
 此の意貴賤尊卑の隔て無く前後の輩と謂わず其の所を作る者に目録印可等相違無く許す。
 又古語に曰く
 夫れ百錬の搆え在りて、則、茅茨荘鄙と兵利を心懸けるは夜自ずから之を思い明神佛陀を祈るは、則、忽ち利方を得ん、是に依り心済み身に燦然。
山本宅治先生の伝書は大江先生の伝書から根元之巻を作成されていると思いますが聊か、判読ミスによる誤字が気になります。
伝書には他人に判読させない様に敢えて誤りの文言も有と云いますが、土佐の伝書に其れは感じられません。
又、仏教用語が判りませんと判読不能に陥ったと言えるかもしれません。
「腰刀三尺三寸三毎(三毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五六(五鈷の判読ミス)内証也」
腰刀三尺三寸は貪・瞋・痴の三毒である欲望・怒り・無知に対し三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地によって煩悩を打ち破り智徳を以って一切を包み込む菩提の心に依って、但(ただ)、脇差九寸五分に勝つのである、己の運命を切り開く五鈷をもって成就する事の証しである。
しかし、土佐の居合の根元之巻が指し示しているように、太刀を以て脇指の討ち込んで来る柄口六寸に応じる業は、失念して土佐の居合では見る影も無いと言えます。
 更に、居合心を曹洞禅によって導こうとする、曹洞五位の教えも、生死を越えて黙然として「珊瑚枝々掌に月着く」の譬えも、聞かされる事の無いものになっている様に思います。
 
 

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2015年12月25日 (金)

曽田本免許皆伝46-2大江先生相伝政岡壱實先生経歴

曽田本免許皆伝目録


46-2大江正路先生相伝


政岡壱實先生経歴
 政岡先生の授与された根元之巻には、発行された年月日が有りません。それで「あれは本物では無い、土佐で大江先生について習った期間が短すぎる。」とか、「全居連に所属しながら全剣連に移籍するなどとんでもない。」
 何を根拠に言っているのか可笑しな人も居る様です。
 土佐では爪弾きしているなど、当時の土佐の居合人の感情に載せられ知りもしないのに、自分の師匠からの又聞きか、何かで思い込んでいる人もいます。
 土佐からは第19代によって大阪の河野百錬先生に宗家紹統印可が為された事も合わせての僻みかも知れません。
 土佐の方が言うのはともかく、内地の方でその程度のレベルで批判しているなどこの世界はどんな根性で成り立っているのでしょう。
 大江正路先生生誕から数えて164年経って、幾つにも分派した土佐の居合がそろそろ分派を越えて御互いに一つに纏まって、それぞれに伝承した居合を披露し交流をしても良さそうなものです。小さく纏まって消えていくのでは、草葉の陰で先師の方々が泣いているでしょう。
 
 地之巻きには、曽田先生が苦心して集められた土佐の古伝神傳流秘書の内容が随所に散りばめられて解説され動作も付けられています。
 天之巻、地之巻共に無双直伝英信流の御研究は奥深いものです。何より武専出身の武術で飯を食う専門家でもありました。
 金沢在住の頃中山博道先生との交流もあった様でその影響をうけたところもある、と云いますが、個性とはそういうものでしょう。
 此処では、それらを思い、大江正路先生の経歴と政岡壱實先生の経歴を重ねてみます。
その上で地之巻を熟読される事をお勧めします。
大江正路先生及び政岡壱實先生経歴
(この経歴は政岡先生の地之巻から抜粋し、当時の世情を合せ作成しました。大江先生の経歴は地之巻が最も詳しい様に思います)
嘉永5年1852年  大江正路 高知県土佐郡旭村に生まれる
嘉永6年1853年  ぺリ-来航
明治1年1868年  戊辰戦争 明治維新 大江正路16歳
明治2年1869年  藩籍奉還
明治3年1870年  大江正路 藩立文武館剣道専業拝命
明治5年1872年  大江正路 士の常職を解かれ廃業20歳
明治6年1873年  徴兵令
明治9年1876年  廃刀令
明治10年1977年 西南戦争
明治15年1882年 大江正路 高知県武術会剣術教授30歳
明治17年1884年 大江正路 同上辞退
            長崎県高島三菱炭坑抗外取締監督
                           ・剣術教士32歳
明治24年1891年 大江正路 同上辞退
明治25年1892年 大江正路 高知共立学校撃剣教士40歳
明治26年1893年 大江正路 同上辞退
明治27年1894年 大江正路 東京芝区有待館撃剣教授42歳
明治28年1895年 日清戦争
            大日本武徳会設立
            大江正路 有待館辞退
            高知県武術会長に推挙せらる43歳
            高知県師範学校撃剣科教授嘱託
明治29年1896年 大江正路 同上辞職
            政岡壱實 高知県吾川郡吾北村に生まれる
明治30年1897年 大江正路 高知県尋常中学校撃剣教授、
                           病気依願退職45歳
             石川県警剣術教師
                          ・石川県立第二中学剣術教授
明治32年1899年 大江正路 大日本武徳会
                         石川地方委員47歳
明治33年1900年 大江正路 病気の為同上辞職
                         石川県を去る48歳
            高知県第二中学校撃剣教授
明治35年1902年 大江正路 大日本武徳会高知支部
                          剣道教授50歳
明治37年1904年 日露戦争
明治45年1912年 大江正路 高知県第一中学校
                          助教諭心得60歳
大正3年1914年  第一次世界大戦
大正4年1915年  政岡壱實 高知一中卒業19歳
大正7年1918年  第一次世界大戦終了
            大江正路 剣道手ほどき発行
大正10年1921年 政岡壱實 京都武専卒業
                         ・研究科入学25歳
大正11年1922年 政岡壱實 金沢三中に奉職
                        ・山砲兵第11聯隊入隊26歳
大正12年1923年 政岡壱實 同上除隊
                        ・金沢三中復職27歳
大正13年1924年 大江正路 大日本武徳会
                          居合道範士72歳
大正15年1926年 政岡壱實 無双直伝英信流兵法
                         免許皆伝30歳
昭和2年1927年  大江正路 死亡75歳
昭和6年1931年  満州事変
昭和11年1936年 第二次世界大戦
昭和13年1938年 政岡壱實 応召バイヤス湾敵前上陸
                         進撃中発病42歳
昭和14年1939年 政岡壱實 除隊43歳
昭和20年1945年 第二次世界大戦終了、敗戦
昭和23年1948年 政岡壱實 金沢第二高等学校併設中学校
                         勤務52歳
昭和24年1949年 政岡壱實 金沢市公立学校教員
                        ・野田中学校教諭53歳
昭和25年1950年 政岡壱實 石川県教育委員会退職
            高知県吾川郡吾北村へ帰る54歳
            福井春政、河野百錬へ無双直伝英信流
                          紹統印可
昭和26年1951年 政岡壱實 高知県小川村村会議員55歳
昭和27年1952年 全日本剣道連盟創設
昭和29年1954年 全日本居合道連盟創設
昭和30年1955年 政岡壱實 土佐高等学校国語科講師59歳
昭和31年1956年 政岡壱實 全剣連居合道代表理事60歳
昭和32年1957年 政岡壱實 剣連居合道範士61歳
            無双直伝英信流居合道天之巻発行
昭和37年1962年 政岡壱實 剣連居合道九段66歳
昭和40年1965年 政岡壱實 高知県体育協会功労賞69歳
昭和41年1966年 政岡壱實 剣連制定居合委員70歳
昭和42年1967年 政岡壱實 土佐高等学校講師を辞任71歳
                   剣連居合道研究委員委嘱
昭和43年1968年 政岡壱實 剣連制定居合7本制定72歳
                   金沢へ転出
昭和44年1969年 政岡壱實 剣連居合道研究委員長委嘱73歳
昭和48年1973年 政岡壱實 死亡77歳
昭和49年1974年   無双直伝英信流居合兵法地之巻発行
 政岡先生の免許皆伝に年月日の無い事については、政岡先生の中学の先輩森 繁樹先生が、「政岡も続けているし、進学後も帰省時には居合を見ているので彼にも根元之巻を支給しようと思う」と大江先生は言っていたと述べられているそうです。
 と、言う事は、大江先生は政岡先生の免許皆伝を書いてはあるが、帰省時に手渡そうとして日付の無いまま持っておられたのでしょう。
 この時代、いらぬ詮索をするより、筆跡鑑定でもすれば済む事ですし、何よりも政岡先生はそれだけの実績が見られる事はこの経歴が伝えてくれます。
 
 剣連に移籍した為に、土佐では全居連に所属して要職についていた人も多く、政岡先生は剣連の要職を狙い鞍替えしたと邪推し、土佐から政岡先生の排斥を口にする者もいて、高知は二つに割れて口も利かなかったそうです。
 政岡先生は、剣連が旧武徳会の自然発生的連盟なので、武徳会出身の自分が剣連居合道部に移るのは自然のことと決心を語られたそうです。
 河野先生の時にも土佐の人達に依って傍系宗家を立てるなど、視野の狭い、僻み根性のどうもそんな風紀があるのでしょうか。土佐は明治維新に多くの俊才を出して近代日本の礎を築いた土地と思っています、ですからそんな風に思いたくないのですが、他に理由があったかもしれません。
 土佐に弟子を残し、息子さんの住む金沢に転出されています。昭和43年72歳の時です。忸怩たる思いもあったろうし、土佐の仲間割れを憚っての事でもあったろうなど思っております。
 
 赤い表紙の「地之巻」には、制定居合が古来からの伝統武術を駆逐してしまう現象を悔やむ思いが語られています。古伝を熟知した手ほどきを示されて、曽田本にある神傳流秘書の解析に大いに助けていただいています。
 前にも書きましたが、形に拘り過ぎて、舞台で踊る踊り子の様に、同じ形で同じ拍子を要求したのでは、多くの流派も、それから分派した先師の努力も不要のものになってしまいます。
 居合は流の手附にそって、師匠の教えを噛みしめ乍ら、一人一人が正しいと信じたものを業ずるものでしょう。
 其の違いを、見極める技量は演じる者にも、審査する者にも要求されるべきものでしょう。
 そして、流の掟は隠さず伝えなければ、制定居合のようなものに居合が駆逐されてしまうでしょう。
 
 
 

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曽田本免許皆伝目録その46大江正路先生相伝政岡先生読み下し

田本免許皆伝目録

46.大江正路先生相伝

政岡壱實先生伝書読み下し

原文
抑此居合術ト申者日本奥州林従 大明神夢相二〆奉伝之 夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流 大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合 恐者粟散辺土堺於不審之儀不可有之 唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之 林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰 汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩 其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
読み下し
*そも此の居合術と申すは、日本奥州林の従大明神の夢相(想の誤字)にて伝え奉る。   
夫れ兵術は、上古中古数多の他流の違い有ると雖も、大人小人、無力剛力、嫌わずに合う兵の用云々。
 末代、相応の太刀と為る云々。手近の勝ち一命の有無此の居合に極まる、恐らくは粟散辺土の堺(境)(*粟散辺土の意味:遠く離れた地にある、粟粒(あわつぶ)を散らしたような小国。インド・中国などの大国に対して日本をさしていうことが多い。仏教語。)に於いて、不審の儀之有るべからず、唯霊夢に依る処也。
 此の始めを尋ぬれば、奥州林崎神助重信(*神助:土佐に伝わった甚助の誤字か、敢えて神助としたかわかりません。谷村亀之丞自雄の伝書も神助、大江先生は神助の名で通しています。福井春政先生は甚助に改められています。)と云う者、兵術を望み有るに因って、之を林の明神に一百有日参籠せしめ、其の満暁の夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀、常に胸中に憶持する怨敵に勝を得ん云々。
 則、霊夢に有る如く大利を得、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
 腰刀三尺三寸、則、三部に、但し脇差し九寸五分は九曜五之(五鈷の判読ミスか)の内証也。
*(此処は、元、三毒則三部であった処、大江先生が三部のみ残されたと思います。三毒は貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知。
 三部は密教の仏部・蓮華部・金剛部、また金剛界・胎蔵界・蘇悉地。金剛界は密教で、大日如来の、すべての煩悩 (ぼんのう) を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を表した部門。胎蔵界は金剛界に対して、大日如来の理性の面をいう。仏の菩提 心が一切を包み育成することを、母胎にたとえたもの。蘇悉地(そしつじ)はそれらの成就。)
*九曜五古は九曜五鈷の間違いでしょう。
 土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。
 平安時代には「九曜曼陀羅」は真言のご本尊として崇拝され、中でも、この九曜文様が「道途の安全の守護」今で言う「交通安全」の霊験あらたかな「おまじない」だ、ということで、公家衆の輿車・牛車・網代輿・雨眉車・文車等の多くに描かれたと伝えられ厄よけの重要な文様です。
*五鈷は五鈷杵の略で金剛杵、密教で煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。
*内訟は内証、仏語、自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。)
 
 敵味方の事、是れ亦前生の業感也(*業感は仏語、善悪の行為が因となって、苦楽の報いを感受すること。 )
 生死一體戦場浄土也(*浄土は五濁、悪道のない仏・菩薩の住する国。)
 此の如く観て、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世に仏と成るは縁なるの事、豈疑い有らんや。
 此の居合千金を積むと雖も、不真実の人には、堅く之を授くべからず。天罰を恐るべし。唯一人に之の伝を授(さずく)云々。
 古語に曰く 其の疾き者は進み 其の速く退く云々 此の意、貴賤尊卑を以て前後の輩、其の所の者と謂わず隔てなく、目録印可等相違無く許す。
 又、古語に曰く 夫れ、百錬の構え在りて、則、茅茨(茅や茨)荘鄙と兵の利を懸ける(心懸ける)者は夜自ずから之を思い神明佛陀に祈る者は、則、忽ち利方を得、是に依って心済み身は燦然。
英信流居合術名稱
正座之部
㈠向身 ㈡右身 ㈢左身 ㈣後身 ㈤八重 
㈥請流 ㈦介錯 ㈧附込 ㈨月影 ㈩追風 (十一)抜打
(*五本目 八重で垣の文字が欠落しています)
立膝之部
㈠横雲 ㈡虎一足 ㈢稲妻 ㈣浮雲 ㈤颪 
㈥岩浪 ㈦鱗返 ㈧浪返 ㈨瀧落 ㈩真向
奥居合之部
㈠霞 ㈡脛囲 ㈢四方切 ㈣戸詰 ㈤戸脇
㈥棚下 ㈦両詰 ㈧虎走 
㈨行連 ㈩連達 (十一)惣留 (十二)惣捲 (十三)信夫 
(十四)行違 (十五)袖摺返 (十六)門入 (十七)壁添 (十八)請流
(十九)暇乞 (二十)同 (二十一)同
型並発声
ヤ-エイ-(*大江先生の鈴江吉重への伝書では「イ-エ-イ」でした。)
㈠出合 ㈡拳取 ㈢絶妙剣 ㈣独妙剣 ㈤鍔留 ㈥請流 ㈦真方
右之条者(条々の判読も有か)深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳也
貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ
読み下し
 右の条は、深秘の極意也、非真実の人には、努々相伝有るべからざる也。
 貴殿多年斯道に熱心に錬磨の結果、其の温奥(蘊奥でしょう)に達せらるるを認め爰(ここに)我が英信流居合術を相伝候。宜しく将来、本流の品位をおとす事なく之が拡張を計り漫(濫)りに他流に媚びず以て伝授の責を全うせらる事を期せらるべし。
天真正
林明神
初代 林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
万野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直伝英信流居合術十七代目
大江正路
政岡一實殿
(*政岡先生のお名前は壹實です、ここでは一實、ブログでは壱實としてあります)

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2015年12月24日 (木)

曽田本免許皆伝目録その45大江正路先生相伝政岡先生原文

曽田本免許皆伝目録

45.大江正路先生相伝政岡先生原文

第17代大江正路先生が弟子に伝授された免許皆伝目録は、いくつかあると聞いています。
 
 此処では、政岡壱實先生への根元之巻及び目録を「無双直伝英信流居合兵法 地之巻」の巻頭の根元之巻写真から虫メガネで判読します。
抑此居合術ト申者日本奥州林従 大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流 大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合 恐者粟散辺土堺於不審之儀不可有之 唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之 林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰 汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩 其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
英信流居合術名稱
正座之部
㈠向身 ㈡右身 ㈢左身 ㈣後身 ㈤八重 
㈥請流 ㈦介錯 ㈧附込 ㈨月影 ㈩追風 (十一)抜打
立膝之部
㈠横雲 ㈡虎一足 ㈢稲妻 ㈣浮雲 ㈤颪 
㈥岩浪 ㈦鱗返 ㈧浪返 ㈨瀧落 ㈩真向
奥居合之部
㈠霞 ㈡脛囲 ㈢四方切 ㈣戸詰 ㈤戸脇
㈥棚下 ㈦両詰 ㈧虎走 
㈨行連 ㈩連達 (十一)惣留 (十二)惣捲 (十三)信夫 
(十四)行違 (十五)袖摺返 (十六)門入 (十七)壁添 (十八)請流
(十九)暇乞 (二十)同 (二十一)同
型並発声
ヤ-エイ-
㈠出合 ㈡拳取 ㈢絶妙剣 ㈣独妙剣 ㈤鍔留 ㈥請流 ㈦真方
右之条を(条々の判読も有か)深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳也
貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥(蘊奥の誤字か)二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ髄(堕の誤字)ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ
天真正
林明神
初代 林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
万野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直伝英信流居合術十七代目
大江正路
政岡一實殿
*この伝書には発行された日付けが見られません。
 大正15年3月10日に第17代大江正路先生より免許皆伝されたと略歴には記載されています。
 地之巻P109にある判読では「右之九条」と書いたのは「右之条」と書くべきを政岡先生の御弟子さん方は読み誤ったのだろうと思います。
 地之巻の大剣取迄は政岡先生が昭和47年秋までに脱稿されており、48年7月9日稽古中にお亡くなりになられています。ですから無双直伝英信流の歴史と変遷は、残された方に依って纏められたのだろうと思います。
大江先生の伝書は他に伝授されたものでは「右之条々」となっています。
参考に右之九条は大江先生の伝書以前にはあるものです、以下のものです。
 是は小藤亀江の伝書にあるものです。(2015年11月12日)
・無双直伝英信流居合目録 
・太刀打之位     
・詰合之位       
・大小詰          
・大小立詰        
・外之物之大事  

・上意之大事   

・極意之大事   

・居合心持肝要之大事
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也
こちらは、谷村亀之丞自雄から山内豊惇公への伝書にあるものです。(2015年12月9日)
・無双直伝英信流居合目録 
・太刀打之位
・詰合之位
・大小詰
・大小立詰
・外之物之大事
・上意之大事
・極意之大事
・居合心持肝要之大事
右九カ条者深秘之極意也非真実之者努々(ゆめゆめ)不可有相伝者也
大江先生が鈴江吉重先生に伝授した皆伝目録です。(2015年11月25日)
九カ条であったものが、四カ条になってしまっています。
・大森流之部
・長谷川流之部
・奥居合之部
・形並発声
右之条々深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也

 

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2015年12月23日 (水)

曽田本免許皆伝目録その44福井春政先生の紹統印可

曽田本免許皆伝目録

44.福井春政先生の紹統印可

無双直伝英信流紹統印可之巻
(昭和25年5月14日、摂州住吉大社御神前に於いて、紹統式典を厳粛に挙行された)

紹統印可
貴殿道縁二依リ昭和二年八月日大日本武徳会大阪府支部二於テ当流二入門シ第十八代宗家穂岐山波雄先生ノ門二学ビ精励斯道ノ研鑽普及二務メ昭和六年大日本居合道八重垣会を組織シ門生ヲ育成其数二千六百余名二及ビ入門以来嘗テ剣ヲ執ラザル日無ㇰ錬磨精進以テ当流ノ奥秘ヲ得昭和二十一年五月二十日大日本武徳会総裁梨本宮守正王殿下ヨリ剣家最高ノ栄誉タル居合道範士ノ称號を授与サレ道ノ為メ尽ス所大ナリ依而流祖並歴代宗家ノ神霊二諮リテ茲二無雙直伝英信流居合兵法正統第二十代宗家ヲ紹統印可スル者也
依而奥書如件
林崎明神
林崎甚助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
萬野団衛門尉信貞
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
大江正路
穂岐山波雄
福井春政
昭和弐拾五庚寅年 正月吉辰
第十九代正統宗家 福井春政
河野稔百錬殿
・・
*この紹統印可は、居合根元之巻同様に、第20代河野百錬先生による、曽田虎彦先生の土佐の居合の古伝神傳流秘書及び曽田先生が収集された土佐の居合関係資料を公開された「無双直伝英信流居合兵法叢書」の巻末に付記されているものです。
 
 曽田先生は書写されたものを河野百錬先生に、昭和23年に送られたと記されています。河野先生との手紙に依る、流の疑問などもあって、やり取りされた事は曽田本に残されています。
 ・
 その、曽田虎彦先生による土佐の古伝を原文のまま「無双直伝英信流居合兵法叢書」として、河野先生は昭和30年1950年に発行されたのでした。
 曽田先生は昭和25年にお亡くなりになっておられ、ご自分で世に出したかった土佐の古伝を河野百錬先生の手をお借りして世に出されたと云えます。
 その巻末に、河野先生は自らの授与された根元之巻、及び紹統印可を公表されています。それは土佐の居合の歴史の中に自らもある事を語っておきたかったからと思うのは間違いでしょうか。
 そうでなければ、他にもこれら免許皆伝目録と紹統印可を載せるべき書物はあったはずです。
 たとえば、この無双直伝英信流居合兵法叢書の発行以降に昭和33年無双直伝英信流嘆異録、或は昭和37年発行の居合道真諦でも良いかも知れません。
 ブログに其の儘、書き込む事は憚られましたが、踏み込ませていただきました。
 河野宗家が紹統印可を授与された21年後の昭和46年1974年に、第19代福井春政宗家が没せられるや、土佐の古老によって福井宗家の遺言と称し傍系宗家が立たれています。
土佐の方に紹統印可をする事が出来なかった第19代福井春政先生の苦汁の思いが傍系宗家を立てられた古老方に理解しえたのでしょうか。
 第20代河野百錬先生が昭和13年1938年に発行の無双直伝英信流居合道で当時錬士の頃であろうと思いますが、そのなかで居合修養の心得があります。
 「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、その習熟するに於いては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の円成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす」。と、述べられています。
 大江先生の改変、河野先生の改変、目に余る程に変えておられます。
 至極を求めて、或は時代に応じての改変であったかも知れません。近年の様に昇段審査や演武競技に良い成績を上げる事を求めて、武術を忘れて形に拘るのとは意義がちがうでしょう。
 戦中戦後を、己の業を磨きつつ、無双直伝英信流を纏められた事に対し、紹統印可を知りながら傍系を立てた土佐の古老とは、何だったのでしょう。
 大江先生の伝書の文言に有る「宜しく将来本流の品位を堕す事なく之が拡張を計り漫りに他流に媚びず以て伝授の責を全ふせん事を期せらる可し」をどの様に受け止めていたのでしょう。
 土佐の居合を全国に広めたのは、無双直伝英信流第20代宗家河野百錬先生と夢想神傳流の中山博道先生だったことを、改めて思い出します。
 ある文章に「居合振興の為、県外に普及の講習などが大江先生時代に(新潟県)実施されていた、その後も阪神地方に講習などがあり、神戸市、大阪市などで盛んになった。
 そこで講習を受けた熱心家で実業家達の中から、援助者が出現し高知県外不出の鉄則も神威を喪失して、十九代何某が大阪市の河野百錬氏に二十代を譲渡した。
 それ以来、宗家などと称する表現が流行した」。
 中山博道先生に接した時の大江正路先生、細川義昌先生の思いをこの文章を書いた人も土佐の人です。この方はどこまで土佐の居合の将来を理解して居たのでしょう。
 居合は、師の話をよく聞き、その動作をよく観て、よくその書き付けられたものを読み、自ら考え修行するものと当代は仰います。
 質問しても答えられない様な師匠は、師匠では無いので、さっさと師を替えた方が良いのですが、その見極めは、自分が如何に勉強して居るか、何を居合に求めているのかによるのでしょう。
 物真似に憂き身をやつし、業の末節に拘り、真似をするだけに留まって、何時の間にか本流から遠くなっている事も知るべきものでしょう。
 
 
 
 
 

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2015年12月22日 (火)

曽田本免許皆伝目録その43福井春政先生の目録の4

曽田本免許皆伝目録

43.福井春政先生の目録の4

*第19代福井春政先生から河野百錬先生へ授与された無双直伝英信流免許皆伝である根元之巻と目録について読ませていただいてきました.
 流の名称と、業名などに第15代谷村亀之丞自雄先生や第17代大江正路先生の伝書とは聊か異なる構成が見られました。
 いよいよ、奥書きになるのですがここにも「おや」と思える様な書き付けが有ります。

 天真正

天から真に伝えられた、いつわり飾らないの意味となるのでしょう。
 この天真正を冠した剣術の流派は飯笹長威斎家直による天真正香取神道流を思わせます。重信は之を習ったこともありうるとすればその天真正を冠する事も有りえます。

林崎明神

*林崎甚助重信はこの林崎明神に祈願して抜刀術を開眼したといわれます。江戸時代には重信公を境内に祀ったのでしょう。
 明治5年の調書には「村社熊野神社・格外社居合神社」、明治11年の調書では「村社熊野・居合両神社」とあります。「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年林崎甚助重信公資料研究会委員会編より。

初代 林崎甚助重信
(以下十八代穂岐山先生迄連記)
*道統は省略されていますから以下に表記します。(河野先生著無双直伝英信流居合兵法叢書より第7編大江正路先生相伝長谷川流居合術伝書より)
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
萬野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政敬(詡の誤記)
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
大江正路蘆洲
穂岐山波雄
*福井春政と続きます。
林崎夢想流
林崎神伝重信流
林崎神伝流
林崎無雙神伝重信流
右同一之名称也
*この流名は無双直伝英信流とも同一の流である、と言うのでしょう。
林崎甚助重信公を始祖としたとしても、同一と言い切るには問題が有りそうです。
 田宮平兵衛業正(政)や長野無楽入道槿露斎の後の百々軍兵衛光重以降は万野団衛門尉宗続までは、良くわかっていません。
 長谷川主税助英信、荒井勢哲清信も土佐の林六大夫守政の師匠かも知れない位にしか掴みようが有りません。
 
 ちなみに、根元之巻の後に掲げられていた林崎無想流が無く、林崎夢想流だけが此処には上がっています。林崎無双流はどうなったのでしょう。
 さらに言えばここに上がって居る四つは実在していた流名か確証が得られません。
 林崎神社の霊験記・居合神社記では「永禄2年1559年に浅野民治丸元服して神夢想林崎流と称して村名を姓とし、林崎甚助重信と改め仇討の旅に出る」、と、林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」に書いてある程度のものです。
 同書にある伝書から奥羽地方に残された伝書の流名を上げれば、林崎新夢想流・林崎田宮流・林崎夢想流・林崎流居合・林崎神流・林崎流ぐらいなものです。林崎夢想流が一致しますが他は見られません。
神傳流秘書に残された流名は、無雙神傳重信流・無雙神傳英信流です。第19代福井春政先生が河野百錬先生に授与された免許皆伝目録に記載された根拠は何かよくわかりません。
昭和二十五年一月三日
*昭和25年1950年の1月3日にこの伝書は書かれたと言う事になります。
無雙直伝英信流
*「無雙直伝英信流」を第19代正統宗家福井春政先生が河野百錬先生に伝授したと言う事になります。大江先生の大正10年の鈴江吉重先生への伝書では「無雙直伝英信流居合術」です。この辺の違いは、無視すれば良いかも知れませんが何か吹っ切れないものです。
 この年、第19代福井春政宗家により河野百錬先生に紹統印可されています。 
 其処では「「無双直伝英信流居合兵法」正統第20代宗家を紹統印可する者也」と結ばれています。
第十九代正統宗家
居合術範士・柔道教士七段・従七位 
福井春政   花押
大日本武徳会 居合術範士
河野百錬 殿
*第19代福井春政宗家が河野百錬先生に授与された伝書は、大江先生が発行された伝書の形式とは異なります。
 根元之巻はともかく、目録は形式から見れば何か腑に落ちない気がします。
 何か理由があったのかも知れませんが、憶測を出ません。
 流名についてのことも何故過去にあったかも知れない、ご自分でも古伝を稽古されたとは思えない流名を記載しなければならなかったのか納得がいきません。
 土佐の御留流として門外不出であった土佐の居合です。第17代福井春政先生によって土佐から大阪の河野百錬先生に免許皆伝の根元之巻・目録を伝授された事は、この流のその後の発展に大きく影響したもので、今日、全国で此の居合を容易に修行出来る事は其の事が大きく寄与していると思います。
 
 無双直伝英信流の業を学び、その成り立ちを追い求めて来た私は、福井春政先生が其処には全てを書かずとも、土佐以外から宗家を出してでも伝承しようとされた第19代福井春政先生、その意を受け入れ、その証を公にされた河野百錬先生の計り知れない情熱は、土佐の古老の重圧をはねのけたのでしょう。
 第17代大江正路先生も、堀田先生と共著で土佐の居合を「剣道手ほどき」に顕わしていたり、谷田左一先生にも指導されています。細川義昌先生も同様で中山博道先生に指導され夢想神伝流として全国に広まっています。
 江戸時代は、門外不出の理由の一つに武者修行と称する隠密や盗賊など藩外の侵入を防除する方便でもあったにすぎません。
 不思議な免許皆伝ですが、其処には、「土佐だけのものでは無いぞよ」という声が聞かれます。

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2015年12月21日 (月)

曽田本免許皆伝目録その42福井春政先生の目録の3

曽田本免許皆伝目録

42.福井春政先生の目録の3

*此処では第19代福井春政先生から河野百錬先生へ伝授された目録の業名を古伝と対比してみます。
第十七代範士大江正路 第十八代穂岐山波雄 福井春政
研究協議之上改定スル所有リ口伝ス
*17代・18代・19代で協議して無双直伝英信流の古傳を改定したと記されています。其の内容は「口伝ス」ですが、口伝された形跡は見当たりません。何故なのでしょう。
奥之部(改定)
1、霞 1、脛囲 1、戸詰 1、戸脇 
1、四方切 1、棚下 1、両詰 1、虎走
1、行連 1、連達 1、惣捲 1、総留
1、信夫 1、行違 1、袖摺返 1、門入
1、壁添 1、請流 1、暇乞 1、暇乞 
1、暇乞
*奥居合は古伝神傳流秘書では抜刀心持之事です。
古伝と対比してみましょう。左が大江先生の改定した業名、右が古伝抜刀心持之事。
1、霞・・向払 1、脛囲・・柄留 
1、戸詰・・両詰 
1、戸脇・・両詰(左脇を突く) 
1、四方切・・四角の変化業 
1、棚下・・棚下の変形業 
1、両詰・・向詰 
1、虎走・・虎走のやや変形 
1、行連・・行連の左右斬る業 
1、連達・・行連(左脇を突く)
1、惣捲・・五方切の変化業 
1、惣留・・放打 1、信夫・・夜ノ太刀 
1、行違・・連達の変化業 1、袖摺返・・行違の変形 
1、門入・・大江先生独創
1、壁添・・人中 
1、請流・・弛抜変形 
1、暇乞(3本)・・大森流抜打の変化大江先生独創
凡このように奥居合を大方改定しています。改定した理由は書き付けたものが見当たりません。大江先生の独断かも知れませんが、江戸末期には替え業も乱立した様ですから整理されたとも考えられます。
形(改定)
発声 イ-ヱ-イ
1、出合 1、拳取 1、絶妙剱 1、独妙剱 
1、鍔止 1、請流 1、真方
以上
*形も改定したとしています。古伝神殿傳流秘書の太刀打之事の改定と思われます
左側が大江先生の改定した形、右が古伝太刀打之事
1、出合・・・・1、出合
2、拳取・・・・2、拳取
          ・・・・3、請流
3、絶妙剣・・4、請込
4、独妙剣・・独創
5、鍔止・・・・5、月影
     ・・・・6、水月刀
     ・・・・7、独妙剣
6、請流・・独創、弛抜からか
     ・・・・8、絶妙剣
     ・・・・9、心妙剣
7、真方・・独創、打込の変形か。
     ・・・・10、打込
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、惣捲
1、霞 1、雷電
是等は古伝神傳流秘書に無いもので、英信流居合目録秘訣にある項目です。
「外ノ物とは常の表の仕組より外の大事と云う事也」と有ります。
福井先生の目録では此処では名称のみです。
古伝外之物ノ大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、惣捲形十
1、雷電 1、霞八相
古伝は、業の解説又は心得を述べています。名称に少し違いが見られます。
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角
1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添
1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内
1、輪之内 1、十文字 
*上意之大事とは仕物等を言いつけられたりして必ず役目を果たす心得です。是も古伝英信流居合目録秘訣にある項目です。業の心得を述べています。業名は抜刀心持之事の業名です。手之内、輪之内、十文字などは新陰流の業を彷彿とさせます。
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中之幕
1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所
1、外之剱 1、釣瓶返 1、智羅離風車
以上
*是は英信流居合目録秘訣 極意ノ大事にある項目ですが、順番などに入れ違いがあります。福井先生が選択したか、伝書が違うのかも知れません。
参考に古伝英信流居合目録秘訣 極意ノ大事
1、暇乞 1、獅子王剱 1、地獄捜 1、火村風 1、逢意時雨
1、外之剱 1、鉤(釣)瓶返 1、鉄石 1、遠方近所 1、智羅離風車 1、居合心持肝要之大事付大小指違之事居合心立合之大事 1、太刀組附位 1、太刀目附之事 1、野中之幕 1、夜之太刀 1、閨之大事 1、泳之大事 1、獅子洞入 1、獅子洞出
右之条々深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道二熱心練磨之結果其之蘊奥二達セラルルヲ認メ爰ニ我英信流併而始祖重信流居合術ヲ全相伝候宜敷将来本流之品位ヲ堕ス事無ㇰ之ガ普及ヲ計リ漫ニ他流二媚ビズ以テ伝授ノ責ヲ全フセラレン事ヲ期セラル可シ
*右の条々深秘の極意也、真実に非ざる人には努々相伝有るべからずのもの也。貴殿多年斯道に熱心練磨の結果その蘊奥に達せらるるを認め、ここに我が英信流併せて始祖重信流居合術を全て相伝候。よろしく将来本流の品位をおとす事無く、之が普及を計り漫に他流に媚びず以て伝授の責を全うせられん事を期せらるべし。
以下は、伝系の名が付され発行の期日を記した奥書きになります。
気になる処が有りますので次回に廻します。

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2015年12月20日 (日)

曽田本免許皆伝目録その41福井春政先生の目録の2

曽田本免許皆伝目録

41.福井春政先生の目録の2

 第19代福井春政先生から河野百錬先生へ伝授された皆伝目録は、大江先生が直弟子に伝授されて皆伝目録と異なっています。
 大江先生の伝授した目録は、大江先生が指導された無双直伝英信流の業名だけで構成されていますが、福井春政先生の場合は神傳流秘書の業名や曽田先生の業附口伝や大江先生の改変された業名が混在しています。
 目録ですから業の内容は有りませんので、業名と順番などの福井先生のものと古伝等と対比して何かを探って見ます。
 何を伝授し、何が名称のみの羅列なのか不思議な感じです。河野先生はこれ等の全てを稽古されたのでしょうか。
 宗家筋から宗家にふさわしい者への免許皆伝目録の違いでもあれば面白い処です。
 第17代福井春政先生の皆伝目録は、他に見られません。傍系宗家には根元之巻と紹統印可が福井先生から同じ様に手渡されたのでしょうか。
詰合 極意奥之事
1、発早 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 
1、鱗返 1、位弛 1、燕返 1、柄砕 
1、水月 1、霞剱
福井先生の業目録は詰合から始まります。
古伝神傳流秘書 詰合(重信流也従是奥之事極意たるに依て格日に稽古する也)
1、発相 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 
1、鱗形 1、位弛 1、燕返 1、柄砕
1、水月 1、霞剱  以上十本
*古伝と順番は同じですが五本目鱗形が福井先生は鱗返でした。
此れは、曽田先生の業附口伝も鱗形ですから、福井先生の誤認か河野先生の誤認或は誤植か、何処か他の伝書に依るのかも知れません。参考に第22代池田先生の無双直伝英信流居合道解説にある古伝の業種目では鱗形です。
大小詰 大小立詰
1、抱詰 1、骨防扱 1、柄留 1、小手留
1、胸留 1、右伏 1、左伏 1、山影詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返
1、蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火
*古伝神傳流秘書大小詰・大小立詰は夫々独立した項目の業となります。
大小詰(是は業に非ざる故に前後もなく変化極りなし始終詰合組居合膝に坐す気のり如何様ともすべし先大むね此様にする)
1、抱詰 1、骨防扱 1、柄留 1、小手留
1、胸留 1、右伏 1、左伏 1、山影詰
此れは古伝と業名が一致しています。曽田先生の業附口伝では骨防扱が骨防です。
*古伝神傳流秘書大小立詰(重信流立合也)
1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返 1、〆捕
1、蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火
此れは、〆捕の順番が古伝神傳流秘書と異なります。この順番は曽田先生の業附口伝の順番です、業附口伝では7本目電光石火が「移り」の名称になっています。
どうやら、福井先生は古伝は曽田先生の業附口伝より引用しているようです。
大剣取
1、無剣 1、水石 1、外石 1、鉄石
1、栄眼 1、栄月 1、山風 1、橇橋
1、雷電 1、水月 
*大剣取は、手許資料では古伝神傳流秘書にしか無い業です。
大剣取(此太刀打は和之位に有る也)
1、無剣 1、水石 1、外石 1、鉄石 
1、栄眼 1、栄月 1、山風 1、橇橋
1、雷電 1、水月 以上十本
さて、福井先生の古伝の引用資料は何処か他に有るのでしょうか。
神傳流秘書と思うのですが、谷村派に秘められた伝書があるかも知れません。
目録印可とは、其の目録の業をマスタ-して後進の者に指導出来る事が前提です。河野先生の流れの無双直伝英信流居合兵法正統会には、福井先生が目録に記載された項目の多くは伝承されていません。
抜刀心持之事
1、向払 1、柄留 1、向詰 1、両詰
1、三角 1、四角 1、棚下 1、人中
1、行連 1、連達 1、行違 1、夜之太刀
1、追懸切 1、五方切 1、放打 1、虎走
1、抜打(上中下)
*抜刀心持之事と言う名称は古伝神傳流秘書の呼称です。
古伝神傳流秘書 抜刀心持之事(格を放れて早く抜く也 重信流)
1、向払 1、柄留 1、向詰 1、両詰
1、三角 1、四角 1、棚下 1、人中
1、行連 1、連達 1、行違 1、夜ノ太刀
1、追懸切 1、五方切 1、放打 1、虎走
1、抜打上中下 以上十九本
此れは神傳流秘書の儘です。
英信流
1、横雲 1、虎一足 1、稲妻 1、浮雲 
1、山颪 1、岩浪 1、鱗返 1、波返
1、滝落 1、抜打(真向)
*古伝神傳流秘書 英信流居合之事
是は重信翁より段々相傳の居合然者を最初にすべき筈なれ共先大森流は初心の者覚易き故に是を先にすると言えり
1、横雲 1、虎一足 1、稲妻 1、浮雲 
1、山下風1、岩浪 1、鱗返 1、波返
1、瀧落 1、抜打
此れは、順番も業名も同じ様ですが、福井先生と古伝神傳流秘書とは山颪は山下風、滝落が瀧落、抜打は(真向)とは言わない、ように異なります。
大森の部(正膝)
1、前身(初発刀) 1、右身(左刀) 1、左身(右刀) 1、後身(当刀)
1、八重垣(陽進陰退) 1、請流(流刀) 1、介錯(順刀) 1、附込(逆刀)
1、月影(勢中刀) 1、追風(虎乱刀) 1、抜打
*大森の部(正膝)とは福井先生は大江先生の直弟子だったでしょう。大江先生は「大森流居合」と剣道手ほどきでは書かせています。一般には河野先生の昭和8年1933年の無双直伝英信流居合術全では「正座の部」であり「立膝の部」とされています。
第19代福井先生の無双直伝英信流の呼称は変です。此の目録では河野先生も「はて」と思ったでしょう。何故このような事になっているのでしょう。
第十七代範士大江正路 第十八代穂岐山波雄 福井春政
研究協議之上改定スル所有リ口伝ス
*此処は次回の業呼称のついて、業及び呼称を17代、18代、19代で協議して改定したというのです。その口伝は宗家筋に伝わっているか否か不明です。
此処までの業呼称については、昔のままと言う事でしょう。

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2015年12月19日 (土)

 春来草自生

 書道教室の書初めの題材を出しました。
 「春来草自生」
この五文字を新春の書初めとして半切に縦書きしてもらいます。
北宋の景徳元年1004年に道原が編纂した禅宗の「景徳伝灯録」にある公案の一つ。
「兀然無事座 春来草自生」
兀然(こつぜん)として無事に座すれば、春来たりて草自ずから生ず
 自然の流れに逆らわずに、春が来れば自然に草が生える様に、ただじっと座禅すれば、その時が来れば自然に悟りが訪れる。直訳すればその様なものです。
 春が来れば自然に草が芽生えて来る、自然の摂理はそんなものでしょう、何もせずにじっと待っていればその時が来るのでしょうか。かと言って、いたずらに先を急いでみても、人の手で急がせてみても寒さに枯れてしまうでしょう。自然の摂理を蔑ろにした栽培方法も幾らでもあるでしょうが、人の手を借りなければ自立できないものになってしまうでしょう。
 秋が来て実を落としじっと養分を蓄え春が来て芽を出し、根を張り養分を吸い込んで茎を伸ばし葉を茂らせ、太陽を浴びて花を咲かせ蝶を呼び、実を結ぶ。
 時を待ち、やるべき時にやらなければ、うまくいく筈は無いでしょう。無為に遠回りするのもバカげていますが、近道したつもりでも、基礎が出来ていないために直に崩れてしまいます。
 おだてられ、背中を押されてやっては見ても、少しも楽しくなく、上達もままならない、果ては諦めてしまう。自分から進んでやって見た事でも、やって見れば同じ様な事で止めてしまう。
 さて、「春来りて草自ずから生ず」とは、焦らずに準備を整え未来に向かって踏み出していくことなのでしょう。其の道は自ら求めたものであれ、生まれた時からの定めであれ、おだてに乗ったものであれ「春来りて草自ずから生ず」でしょう。
 「うちの嫁は、幼い孫にあれこれ習わせようと無理やり子供の背中を叩いているのよ、「時期が来なけれダメ」と言っても、「小さいうちからやらなければ一流になれっこない」といって聞かないの」よい書初めの題だから正月に皆で書いてみよう」だそうです。
 手本は、一昨日磨ったまま墨池で乾燥させた墨に水を垂らし、淡墨を作って、超長鋒の羊毛筆をもってズル・ス-・ズルズルと行書で書いてみました。
 年明けの皆さんの作品が楽しみです。

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曽田本免許皆伝目録その40福井春政先生の目録の1

曽田本免許皆伝目録

40.福井春政先生の目録の1

*第19代福井春政先生の無双直伝英信流の目録は英信流の和歌の後に「詰合」から始まります。(2015年12月11日福井春政先生の根元之巻1)
 この、各業の位の順番は普通は、大森流・英信流・太刀打之位・詰合・大小詰・大小立詰・大剣取・抜刀心持之事と思われますが、此処では変わった順番です。
 そして、大森之部(正座)で「以上」と一旦括っておいて、協議の上改定したと云います。
 改定したものは奥之部(改定)と形(改定)の二つと言う事の様です、ですから、詰合から大森之部(正座)までは昔のままだというのでしょう。
大江先生の伝書は、大正10年に鈴江吉重先生に伝授したものが曽田本その2にあってそこには、大森之部であり長谷川之部であり、奥居合之部と目録が有ります。それから見ると大森之部は大江先生に従っていますが、英信流は長谷川流でした。(2015年11月25日)
どうも、この流は統一性の無い業名を使いますのでつい「何故」と言いたくなります。
大正14年に大江先生は山内豊健先生に免許皆伝を伝授されています。そこでは、業の呼称は、英信流居合術名称として正座之部・立膝之部・奥居合之部・形並に発声・番外と簡明です。
政岡壱實先生が大江先生から伝授されたという地之巻にある伝書も、業呼称は山内先生のものと同様なのです。
福井先生のものには、曽田先生が書写された古伝神傳流秘書独特の「大剣取」・「抜刀心持之事」の呼称が含まれています。
嶋 専吉先生の土佐での武者修行の「無双直伝英信流居合術乾」(業附口伝に付記2015年10月5日から1月9日)に、曽田先生の業附口伝のままの手附で太刀打之位・詰合之位・大小詰・大小立詰を稽古して居た形跡が読めます。
曽田先生との交流もあったと思われますし、河野先生と曽田先生の交流もご存知だったと思われますので無双直伝英信流の古伝はどのようであったか理解されていたと思われます。
太刀打之事(太刀打之位)が抜けていて、奥之部の元になっている「抜刀心持之事」は残されているのです。
何を意図して目録を書かれたのか不思議です。
次回にそれぞれの業名を古伝と対比しながらもう少し読み取って見たいと思います。

・詰合 極意奥之事
・大小詰 大小立詰
・大剣取
・抜刀心持之事
・英信流
・大森之部(正座)
以上

第17代範士大江正路 第18代穂岐山波雄 福井春政
研究協議之上改定スル所有リ口伝ス

・奥之部(改定)
・形(改定)
・外之物之大事
・上意之大事
・極意之大事

右之条々深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道二熱心練磨之結果其蘊奥二達セラルルヲ認メ爰ニ我英信流併而始祖重信流居合術ヲ全相伝候宜敷将来本流之品位ヲ堕ス事無ㇰ之ガ普及ヲ計リ漫ニ他流二媚ビズ以テ伝授ノ責ヲ全フセラレン事ヲ期セラル可シ

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2015年12月18日 (金)

復帰

 何時もの様に、扉を押して道場に入ると、先客が帰り支度をしていますので「お帰りですか、使わせてもらいます」と一声かけます。軽く会釈して顏を上げますと奥から走り寄って来る女性がいます。
 
 もう二年以上もお会いして居なかった太極拳をされる方が、満面に笑みを浮かべて懐かしそうに手を差し伸べて来られます。思わずその手を握ってしまいました。
 「お元気だったのですね、心配していました」
彼女とはもう何年になるのでしょう、個人稽古に出かけると良く二人きりで広い道場でそれぞれ鏡に向かっていました。
 中休みの時には、足の運びや体の動かし方など、太極拳の裁きを丁寧に教えていただいていたのです。
 
 少し肉が落ちて、お顔もちょっと張りが亡くなった様です、懐かしそうに微笑む顔には人懐っこいえくぼが昔のままでした。
「実は病気をして二年間何も出来ず引きこもっていました、ようやく癒えて稽古を始めました。
その間に仕事も止めてしまいました。もう昔の様に出来ないかもしれませんが体力を取り戻して今度昇段試験を受けて見ようと思います。」
 話しによると、頑張り屋さんでしたから、稽古も仕事も一生懸命だったのでしょう。疲れが溜まって足裏の筋肉に炎症を起こして歩行困難になり、何も出来なくなったそうです。
 この方は、勇気の有る方で、人相の悪い空手の人が数人で大声で稽古して居ますと、「静かにして」と文句を言いに云ったことなど思い出されます。
 この道場に通って何年にもなるのですが、もう何人かが見られなくなってしまいました。稽古中に倒れてしまって、それきりの御老人。
 最後の挑戦と、昇段を目指して毎日来られていたご婦人は、審査に落ちてやめてしまった。
 御主人の転勤で、移って行かれた若いご婦人、この方は相当の使い手でした。
  自転車で転び複雑骨折をされて、間々ならぬ体で弟子を育て上げ道場を任された先生も居られました。この先生からも多くの秘伝の書き付けを弟子でも無い私は頂戴したものです。
 「この世界は、余計な事を言ったり、書いたりすれば頭を叩かれ足を引っ張られるよ」と逢う度に諭されたものです。そのお弟子さんと今では剣を交える事もしばしばです。
 又別に、早抜きがやりたいと言っておねだりする私に、80歳を過ぎて若い時からの修行がたたって足腰を痛められたある先生は、2度も繰り返して見せてくださいました。
 あの人も、この人もお会いする度にいつも、私に稽古場所を譲ってくださいました。
 返り咲いたこのご婦人も、私の為に早速ご自分の場所を提供して呉れて、「さあどうぞ」と仰います。「是からは、健康の為にお稽古をしに来ます。」と仰っています。
 
 先日50年のキャリアの有る方が、「腰が痛くてこれ以上続けられない、私の居合をやめます」と言って去って行かれました。「私の居合をやめます」の「私の居合」とは何だったのかとお聞きしたい気持ちで一杯です。
 きっと、元気な時の、ご自分の演武に酔っておられた頃の「幻を追って」その様に出来ない自分に結論を出されたのでしょう。
 誰にでも訪れる、老いによる衰え、不慮の事故、ご家族の事、仕事の事、環境の変化いろいろあるでしょう。
 然し50年何を大事にされてきたのでしょう・・・ある先生は90歳を過ぎた母親から「お前は何時まで棒振りしとる」と叱られたと頭をかいて居ました。何度も入院しながら今でも、後進の指導や海外の剣士のお世話などされておられます。その方の、ゆっくり丁寧な居合には、幾つかの手術で斬り刻まれ、骨にはボルトを通し、生死の境を乗り越えて、道場の隅で抜いて居られた姿が眼に焼き付いています。
 
 50年も「棒を振って居ただけ」なら止めてしまっても別におかしな事ではないでしょう。それとも「私の居合」はやめて、是からは「本来の居合」を求め続けられるのでしょうか・・・・そうでなければ今日までは健康維持の為、それとも師匠の「幻に追われて」の棒振りだったかも知れません。
 何糞とばかりに、我が眼前に現れる日を待って居ます。居合は棒振りでは無い・・まして人殺しの稽古などでは決してない。
 
 
 
 
 
 
 
 

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曽田本免許皆伝目録その39福井春政先生の道歌

曽田本免許皆伝目録

39.福井先生の道歌
*第19代福井春政先生に依る、河野百錬先生への免許皆伝目録には、前回の不思議な「流名」の次に「名称」と題をつけて居合道歌が書かれています。(2015年12月11日曽田本免許皆伝目録35福井春政先生の根元之巻1)
 従来の皆伝では、根元之巻の後に無双直伝英信流目録が来るのですが、是も独特の構成です。
流名
林崎無想流
             重信流
林崎夢想流
 
名称
横雲   深山には嵐吹くらし三吉野の
             花か霞か横雲の空
 
虎一足  猛き虎の千里の歩み遠からず
             行より速くかへるあし引
 
稲妻   諸共に光と知れど稲妻の
             跡なる雷の響き知られず
 
浮雲   麓より吹上げられし浮雲は
             四方の高根を立つゝむなり
 
山颪   高根より吹下す風の強ければ
            麓の木々は雪もたまらず
 
岩浪   行く舟のかぢ取り直す間もなきは
             岩尾の浪の強くあたれば
 
鱗返   滝津波瀬上る鯉の鱗は
             水せき上げて落つる事なし
 
浪返   明石潟瀬戸越す波の上にこそ
             岩尾も岸もたまるものかわ
 
滝落   滝津瀬の崩るゝ事の深ければ
             前に立添ふ岩もなきかな
*この構成を見て、気が付いたのは、曽田本の古伝神傳流秘書の構成が「抜刀心持引歌」から始まって、順に居合兵法伝来—大森流居合之事-英信流居合之事-太刀打之事・・・でした。その「抜刀心持引歌」の後半にここにある歌が有ります。
業名も歌も其の儘です。(2014年9月12日~9月20日抜刀心持引歌8~16)
 
・横雲
 遠い三吉野の奥山には春の嵐が吹いているのだろう、さくら吹雪が横雲になって霞の空を吹きつけている。
横雲の横一線の抜き付けを当てたのでしょう。
やたら気張って、力いっぱい振り回したり、恐ろしい般若の形相で演じる人などはこのような業歌を口ずさんで、業をイメージして見るのもいいかも知れません。
・虎一足
 虎は千里往って千里還る
虎は1日に千里の遠くへ行ってまた戻ってくる。勢い盛んなことのたとえ。
寅年の干支の処でこんな諺があったのを思い出します。
虎は大きいものは胴長250cm、体重280kg位で縄張りは10~20平方km、一日に徘徊する距離10~20kmだそうです。
この歌は、立膝に座し前面の敵の抜き付けを、左足を引いて切先を下にして抜き打ちに受け払い真向に斬り下す、すさまじい業です。その抜き付ける際の左足は後方に引く其の足捌きの素早い動作を歌に詠み込んだものでしょう。
・稲妻
 この歌は稲妻の様子を歌ったもので、稲光の後に音がすると歌っています。
英信流の三本目稲妻にこじつけると、敵が上段から打込んで来るのを立ち上がり様刀を抜いて小手に抜打ちに切り付ける、ここが稲光の閃光の様に鋭く素早い処でしょう、即座に振り冠って真向に打ち下す処は後から追ってくる雷鳴でしょう。
敵は雷鳴を聞く猶予も無く両断されているのです。
・浮雲
 谷間から湧き出る様に雲が山頂を目指して吹き上げられて行きます。山頂付近は浮雲が集まって頂きが見えなくなってしまいます。
この歌と英信流(立膝の部)四本目浮雲をイメージするのですが、立膝から右側の敵が我が柄を取ろうとする手を避けて、ふわ~と立上り、敵が「しまった」と退がろうとするのに合わせて、足を踏みもじて抜き付けて行く。
其の時、勢いよく動作を付ければ敵は慌てて間を離れてしまいそうです。
 ふわ~と仕留めるのが心理的にはよさそうです。などとごつごつ演じている人を見て思っています。
・山颪
 山颪は山の上の方から吹き降ろされる風で、其の風が強く、麓の木々には雪も降り積もらない、と詠んでいます。
英信流(立膝の部)の颪にこの歌をイメージすると、敵が我が刀を取らんと手を出すのを外し、しまったとする敵の顔面を打ち据える、この場面に当てるか、敵の手をするりと外して、ドンと顔面を打ち据え、逃がさじと胸に抜き付ける場面にイメージするか、颪は相手次第です。
・岩浪
 岩礁に打ち寄せる浪が強くて、舵を取り直す間もなく乗り上げてしまったと言うのでしょう、    岩浪の場合、対敵の害意が動作に現れないうちに先んじて攻撃して居る様な教えをしている処も有る様です。
 刀を抜く処を敵に見せない様に抜出し、敵に向くや否や刺突する。
或は、敵が柄を取りに来るので刀を抜出し、柄を取らせない様にして敵に振り向いて刺突する。
・鱗返
 左脇の敵が我に仕掛けんとする機先を制して、中腰に立ち上がり右に振り向き、左足を後ろに引くや横一文字に抜き付け、真向に切り下す業です。
 瀧を遡上し鱗を光らせる鯉は、瀧の落ち口まで上がっても落ちることはない。と言うのでしょう。
 歌と業がマッチしているような気がしませんが、鱗返の業名から読まれた歌で、鱗の文字があればよい、程度でしょう。
・浪返
 明石の海峡に打ち寄せる波に岩尾も岸もたまったものではない。という歌でしょう。
 浪返は、後ろに座す敵の害意を察し、振り向きざま抜き打ちに斬り真向に切下ろすという業です。
 歌のイメージを被せれば、怒涛の様に打ち寄せるが如く、後ろに振り向き、左足を後ろに引いて横一文字に抜きつけ即座に上段に振り冠って真向に打ち下ろし勝つ、敵には何もさせない様な鋭く威圧する気を持った振り向きの動作が必要でしょう。
 敵にすれば押し寄せる波のように迫ってくる我に、一瞬戸惑う瞬間です。
 我は左足を引いて抜きつけます。敵には引く波の中から切っ先が不意に顔面に伸びて来る様に思えるでしょう。
・瀧落
 流れ落ちる瀧の勢いに岩も削り取られ、落ちる瀧を阻む者も無い様だ。
 瀧落は、座している処、後ろから鐺を取られたので、敵の手を振り捥いで、刀を抜くや振り向いて敵の胸部に刺突し真向に切り下ろす、という大技です。
 敵に後ろから鐺を取られ静かに立ち上がる処は、緩い渓谷の流れで、そこから瀧の落ち口を一気に落ちるように敵の手を振り捥ぎ、刀を抜き出し後ろに反転し刺突する処は瀧の落下の如く怒涛の様に突き込んで行く・・留目は滝壺。
*第19代福井春政先生は、河野先生への伝書の根元之巻の後に意味不明な「流名」を書き、続いて「名称」と称して英信流の業名に付けられた歌を書き込まれました。
 業技法には長けている当時の土佐の剣士に何か語り懸けたかったのでしょうか。
 それとも河野先生に歌心も無双直伝英信流にはある程のものなのだから、それも「正しく伝承する様に頼むよと」言っているのでしょうか。
 そう言えば、河野先生は「大日本居合道図譜の第12章先哲の明教」の居合理歌としてこれらの歌も、この伝書を授与される前にご存知だったようです。
 

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ルリタテハの羽化

今朝(12月17日)出がけに靴を引き寄せますと、靴の裏にルリタテハが着いていました。
昨日(12月16日)は、サンルームに入り込んでバタバタする小さな影が写りますので覗いて見ると、ルリタテハでした。昨日、今日と気温が高く日中などTシャツでも良い位でした。
16日のサンル-ムに入り込んだのは、外から羽化して跳び込んだものと思われます。
17日のは、11月16日に台湾ホトトギスの葉を食べつくし、残っていた花も綺麗に食べてしまい翌日、そのタイワンホトトギスで蛹になっていたものです。
この子は、玄関に置いてある茶釜の灰に茎ごと刺して置いたものが羽化したのです。
サンル-ムの子は、外へ追いだしてやりました、越冬して生き残り春には飛んで見せてくれればと思います。
 靴の裏に着いて居たのは、知らぬ間に潰してしまったので触角を震わせていましたが助け様はありませんでした。成虫の採集記録として標本にさせてもらいます。
逃がしてあげたのも、標本となったのも少々小ぶりです。
 
 ルリタテハは、北海道より九州、南西諸島にいたる各地に分布し、国外では朝鮮半島、中国、台湾よりインドにわたって分布、スマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、フィリピンなどの山地帯にも産する。蝶としての発生は暖地では普通年3回(6~7月・8月・9月)、北海道あたりの寒冷地では年1回(8~9月)の発生と言われます。越冬は蝶の姿とされています。食草はサルトリイバラ・ホトトギス・オニユリ・ウスバユリなどです。
 我が家の子等は、11月半ばに蛹となったのでそのまま冬越するかと思っていたのですが
この暖かい温度に反応してしまったのでしょう。
 
 今夜はグット冷え込んできました、それでも例年より随分暖かです。気候温暖化で小さな生き物の生活もどんどん変化を余儀なくされている様です。

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2015年12月17日 (木)

曽田本免許皆伝目録その38福井春政先生の流名

曽田本免許皆伝目録

その38.福井春政先生の流名

*第19代福井春政先生から河野百錬先生に伝授された根元之巻は前回、読み下しと、意訳をして見ました。
目録に入る前に「流名」とした不思議な書き付けが有ります。
「居合術根元之巻
抑此居合と申者日本奥州林之従 大明神夢相奉伝之夫兵術者上古中古雖数多之違他侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云云 末代為相応之太刀尓云手近勝負一命有無極此居合恐者粟散辺土堺不審之儀不可有之唯依多夢処也此始尋奥州林崎甚助重信云者因兵術望有之林崎明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云云 則如多夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五歩事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云云
古語曰
其進疾者  其退速云云
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者夜自思神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身耳燦然」

流名
林崎無想流
            重信流
林崎夢想流
*此の「流名」の意味する処は何なのでしょう。林崎無想流も林崎夢想流も共に重信流であるという表示の仕方です。
 第19代福井春政先生の頃、既に東北地方の伝書の存在が聞こえていたでしょう。
 曽田先生との交流もあったでしょうし、その豊富な知識も得られたでしょう。
 土佐の居合の通称は、大森流居合、長谷川流居合、英信流居合でおおよそ通じていたはずです。
 其の事は土佐武道史話(昭和36年1961年発行)を書かれた平尾道雄先生も「長谷川流居合は、こんにち無双直伝英信流、また略して英信流ともよばれている抜刀術で、・・・・流祖を遠く求めるならば出羽国楯岡の林崎甚助で、林崎夢想流とも、甚助の実名にちなみ神伝重信流とも称えられた・・」と書いています。
この第19代の免許皆伝目録の奥書きに以下の様な書き付けがあったのを覚えておられるでしょう。(2015年12月11日)
天真正
林崎明神
初代 林崎甚助重信
(以下十八代穂岐山先生迄連記)
林崎夢想流
林崎神伝重信流
林崎神伝流
林崎無雙神伝重信流
右同一之名称也
昭和二十五年一月三日
無雙直伝英信流
第十九代正統宗家
居合術範士・柔道教士七段・従七位 
福井春政   花押
大日本武徳会 居合術範士
河野百錬 殿
*其処でも(同一名称也)となぜか無双直伝英信流を林崎甚助重信公に結び付け土佐の無双直伝英信流の正統性を誇張しているのか、土佐独自のものでは無い事を伝えようとしているのかを計りかねています。
 福井先生から、河野先生への伝授は、土佐藩の御留流としてあったものを始めて異国の者に伝授するわけで、土佐の連中からの反対もあったでしょう。
 実は下村派の細川義昌先生は香川の剣道で有名な植田平太郎先生へ大正11年に既に皆伝許可をされています。
 その伝系が現在でも伝承されていると聞いています。白石元一先生の居合はその頃のものでしょう。
 土佐の剣士にとって、福井先生が河野先生に伝授せざるを得なかった背景には土佐にはこの居合を広めるだけの力量を持った方が当時おられなかった事が一番でしょう。
 如何に業技法に優れた剣士であっても、術に優れているだけでは、それ以上にはなりえないでしょう。
 人としての度量、健康、職業や経済力、政治力などがなければならないでしょう。
 大阪で八重垣会2600名の同士を得、無双直伝英信流の手順を整理され、広めていく力を持った文武両道の剣士は河野百錬先生が突出されていたのだろうと思います。
 その辺の心配りが、敗戦後この土佐だけでは消えてしまうという当時の実情が、無双直伝英信流はもはや土佐のものでは無いと云うものを書かせたのではと思います。
 この火は昭和46年1971年6月に福井春政先生から田岡 傳先生への遺言として傍系第20代宗家が立たれています。
 土佐の藩外不出の思いが、第19代福井先生に.再び燃え上がったのでしょう。
 当時の「全日本居合道新聞」に河野百錬先生は「・・本流の傍系としての代を唱ゆる事は変則と思ふ=即ち飽く迄も代を唱ゆる者はその流の正統ただ一人のみが本則であると信ずるものである。~此の見地に立って私は将来時期を得て当流古老と諮り、土佐の国に人を得て正統宗家を紹統する考えであったが~先代の意志により茲に当流の20代を唱する傍系が今回誕生した事は各々の見解の相違に依るも私の平素の所信とは相違するものである」
 傍系の宗家を自分のメガネに合わないと云っているのか、河野先生の思いが無視された事を「平素の所信と相違」と言わせたのかでしょう。
 その後も河野先生が亡くなる(昭和49年1974年)と其の傍系宗家は土佐の幾人かの推薦者にまつられて21代宗家継承とか・・。
 その後、無双直伝英信流から分派し、これに「土佐」の冠をつけています。
飽くまでも土佐なのでしょう。
 福井宗家が流の将来を考えてしたことにも拘わらず、流を分断し、土佐に宗家を戻しても何か意味の有る事でしょうか。
 その傍系20代は、その時21代として正統20代河野先生の後に立てていれば自然に受け継がれていった筈です。そして土佐に宗家が戻ったでしょう。
 大森流・英信流は封建時代の土佐藩の藩士に伝承されたものであって、当時は容易に藩士は藩外に出られず、まして藩の武術を藩外に持ち出す事は出来なかっただけの事だったはずです。
 全国に広がった無双直伝英信流はそんなものではないはずです。
 古伝神伝流秘書に有る居合兵法伝来では、「目録には無雙神傳英信流居合とあり是は本重信流と言うべき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚げられたる由也」とあります。
 無双直伝英信流とは「直伝」が「神傳」でした。
 近年南山大学の榎本鐘司先生の論文から北信濃に長谷川英信や荒井勢哲が「無双直伝流」を広めていた実績があるとされています。
 土佐の居合は、荒井勢哲に第9代林六大夫守政が習い土佐に持ち帰ったものなのでしょう。ですから、林崎本流からはかなり離れたものになっている筈です。
 「無双直伝英信流」は「無双神傳英信流」と「無双直伝流」との混成でしょう。無双と無想、夢想と無双、神傳と直伝はどこかで混乱したのでしょう。
 第19代福井宗家の伝書を眼にした時、ふと、思ったのでした。

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2015年12月16日 (水)

曽田本免許皆伝目録その37福井春政先生の根元之巻読下し

曽田本免許皆伝目録
その37第19代福井春政先生の根元之巻2読下し

原文は第19代福井春政先生から第20代河野百錬先生に昭和25年1950年1月3日に伝授されたもので、河野百錬先生の昭和30年1955年発行になる無双直伝英信流居合兵法叢書に掲載されたものを昭和38年1963年の再版本からの引用です。
林崎甚助重信公の居合の伝承を紐解きながら、根元之巻はともかく無双直伝英信流の今日の有り様が見渡せるもので、変化する様子がうかがえます。
原文
居合術根元之巻 

抑此居合と申者日本奥州林之従 大明神夢相奉伝之夫兵術者上古中古雖数多之違他侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云云 末代為相応之太刀尓云手 近勝負一命有無極此居合 恐者粟散辺土堺不審之儀不可有之唯依多夢処也此始尋奥州林崎甚助重信云者因兵術望有之林崎明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云云 則如多夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五歩事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云云
古語曰
其進疾者  其退速云云
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者夜自思神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身耳燦然

*居合術根元之巻読下し

抑(そも)此の居合と申すは、日本奥州林之従、大明神の夢相(想の誤字)に之を伝へ奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違いといえども、他(?)佗(他)流大人小人無力剛力を嫌わずに兵の用に合う云々、末代にても相応になる太刀に云う。
手近の勝負一命の有無此の居合に極まる、恐らくは粟散辺土の堺、不審の義之れ有るべからず、唯、多夢(霊夢の異体字「㚑」を違えて「多」の異体字「夛」の文字から「多」と当てたと思われます、誤字)に依る処也。
此の始めを尋ぬ、奥州林崎甚助重信(神助を甚助に改めています)と云う者、兵術の望み之れ有るに因って、林崎明神(大江先生は「林之神明」)に一百有日参籠せしめ、其の満暁の夢中に老翁、重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持する怨敵に勝ちを得ん云々。
則ち多夢(霊夢の間違いでしょう)に有る如く大利を得ん、腰刀三尺三寸を以て九寸五歩(分の誤字、誤植?)に勝事、柄口六寸の勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸、三毎(毒の誤字というより大江先生のまま)、則ち三部に、但し脇差九寸五分九曜五鈷の内証也。
敵味方に成る事は是れ亦前生の業感也。
生死は一体、戦場浄土也。
此の如く観るは、則ち現世に大聖摩利支尊天の加護を蒙るなり。来世に成仏成るは縁なる事、豈疑い有らん哉。
此の居合、千金を積むと雖も不真実の人には堅く是を授けざるべし。天罰を恐るべし、唯一人に授くと之を伝う云々。

古語に曰く
其の進むことの疾き者 其の退くことの速き云々
此の意を以て、貴賤、尊卑前後の輩といわず隔て無く、其の所に達せし者には目録印可等相違無く許せ。

又古語に曰く
夫れ百錬の構え、則ち茅茨荘鄙と兵利に心懸ける者、夜自ずから之を思い神明仏陀に祈るは、則ち忽ち利方を得、是の心に依り身を済すに燦然(さんぜん)。

*19代福井先生は大江先生から伝授されたであろう根元之巻を写したとは思いますが、誤字もあって写しただけの様な感じです、然し林崎神助重信が林崎甚助重信になっています。
神助を甚助に直すだけの証拠はどこにあったのでしょう。
現在では、当たり前の事ですが、「ふと」、気になります。

*現代風に意訳して見ます。(小藤亀江の根元之巻の意訳と同じです)

 そも居合というのは、日本の奥州林の大明神の夢想によって、之を伝えて来たものである。その兵術は、上古、中古、数多の他流に依る違いは有るとはいえ、大きな人にも小さな人にも、力の弱い人も、剛力な人にも、合わないと云う事の無い兵術として用いられる云々。
 
いつか、此の太刀を以て爾(汝)の身近に起こる勝負での一命の有無は此の居合に極まるを云うのである。
 
此の居合、恐らくは粟散辺土の堺【辺境の地)に至る共、之に不信を抱いてはならない。ただ、霊の夢に依る処である。

 此の始まりを尋ねるならば、奥州に林崎甚助重信という者に因って、兵術を林崎神明に得る事有ればと、百一日参篭してその満願の日の暁時に、夢の中に老翁が現れ、重信に告げて、「汝、此の太刀を以て、常に心に思い抱く怨敵に勝つ事が出来る云々」、
 
 すなわち、霊夢に有るように、腰刀三尺三寸を以って大きな利を得て、九寸五分の脇差しに勝つ事、すなわち柄口六寸を以て勝つ事で、其の妙不思議な極意である。一国一人への相伝である。
 腰刀三尺三寸は貪・瞋・痴の三毒である欲望・怒り・無知に対し三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地によって煩悩を打ち破り智徳を以って一切を包み込む菩提の心に依って、五鈷を持って己の運命を切り開き成就する事を悟るものである。
 敵味方になる事は、是、前生の因縁の報いであり、生死一体の戦場も浄土の様に思うものである。
 これに観られるように、現世は悟りを得られた仏に見守られ、未来の災いを摩利支尊天によって加護を蒙り、来世では成仏し得る事を疑わないであろう。
 此の居合は千金を積まれても真実で無い人に、決して授けてはならない、天罰を恐れるべきものである。唯一人に之を伝える云々。

古語に曰く
其の素早く進んだとしても、それは速く退いていく云々。
此の意は、貴賤・尊卑・前後の人を差別する事無く、それを為す者を以てしても、目録印可を相違なく許し達する謂れは無い。
又、古語に曰く
それ、百錬を積んで構えをこらそうとも、すなわち茅や茨の素晴らしい荘鄙であろうとも、兵の利を心懸け、夜自ずから之を思い、明神佛陀を祈り、忽ちその利方を得るのであって、是に依って心は済み、身には燦然と輝くものである。
*根元之巻が述べている処は「腰刀三尺三寸を以って大きな利を得て、九寸五分の脇差しに勝つ事、すなわち柄口六寸を以て勝つ事」であり、真実の人以外は伝授するなと言うものです。
 極意の柄口六寸については無双直伝英信流(土佐の居合)では業技法の伝承が薄れてしまった、消えてしまったと云う方が正しいと思います。
 そして、煩悩を取り払い心を済まし無心になれば身は燦然と輝くであろうと言うのでしょう。

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2015年12月15日 (火)

曽田本免許皆伝目録その36福井春政先生の根元之巻1

曽田本免許皆伝目録

その36.第19代福井春政先生の根元之巻1
第20代河野百錬先生著「無双直伝英信流居合兵法叢書」昭和38年1963年再版より。
原文
正統第19代福井春政先生相伝書
昭和25年(1950年) 第20代 河野百錬に印可之巻

居合術根元之巻
抑此居合ト申者日本奥州林之従 大明神夢相奉伝之夫兵術者上古中古雖数多之違他侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云云 末代為相応之太刀尓云手近勝負一命有無極此居合恐者粟散辺土堺不審之儀不可有之唯依多夢処也 此始尋奥州林崎甚助重信云者因兵術望有之林崎明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云云 則如多夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五歩事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云云

古語曰
其進疾者  其退速云云
此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者夜自思神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身耳燦然

流名
林崎無想流
            重信流
林崎夢想流

名称
横雲   深山には嵐吹くらし三吉野の
             花か霞か横雲の空
虎一足  猛き虎の千里の歩み遠からず
             行より速くかへるあし引
稲妻   諸共に光と知れど稲妻の
             跡なる雷の響き知られず
浮雲   麓より吹上げられし浮雲は
             四方の高根を立つゝむなり
山颪   高根より吹下す風の強ければ
             麓の木々は雪もたまらず
岩浪   行く舟のかぢ取り直す間もなきは
             岩尾の浪の強くあたれば
鱗返   滝津波瀬上る鯉の鱗は
             水せき上げて落つる事なし
浪返   明石潟瀬戸越す波の上にこそ
             岩尾も岸もたまるものかわ
滝落   滝津瀬の崩るゝ事の深ければ
             前に立添ふ岩もなきかな 
詰合 極意奥之事
1、発早 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 
1、鱗返 1、位弛 1、燕返 1、柄砕 
1、水月 1、霞剱
大小詰 大小立詰
1、抱詰 1、骨防扱 1、柄留 1、小手留
1、胸留 1、右伏 1、左伏 1、山影詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返
1、蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火
大剣取
1、無剣 1、水石 1、外石 1、鉄石
1、栄眼 1、栄月 1、山風 1、橇橋
1、雷電 1、水月 
抜刀心持之事
1、向払 1、柄留 1、向詰 1、両詰
1、三角 1、四角 1、棚下 1、人中
1、行連 1、連達 1、行違 1、夜之太刀
1、追懸切 1、五方切 1、放打 1、虎走
1、抜打(上中下)
英信流
1、横雲 1、虎一足 1、稲妻 1、浮雲 
1、山颪 1、岩浪 1、鱗返 1、波返
1、滝落 1、抜打(真向)
大森の部(正膝)
1、前身(初発刀) 1、右身(左刀) 1、左身(右刀) 1、後身(当刀)
1、八重垣(陽進陰退) 1、請流(流刀) 1、介錯(順刀) 1、附込(逆刀)
1、月影(勢中刀) 1、追風(虎乱刀) 1、抜打
第十七代範士大江正路 第十八代穂岐山波雄 福井春政
研究協議之上改定スル所有リ口伝ス

奥之部(改定)
1、霞 1、脛囲 1、戸詰 1、戸脇 
1、四方切 1、棚下 1、両詰 1、虎走
1、行連 1、連達 1、惣捲 1、総留
1、信夫 1、行違 1、袖摺返 1、門入
1、壁添 1、請流 1、暇乞 1、暇乞 
1、暇乞
形(改定)
発声 イ-ヱ-イ
1、出合 1、拳取 1、絶妙剱 1、独妙剱 
1、鍔止 1、請流 1、真方
以上
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、惣捲
1、霞 1、雷電
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角
1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添
1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内
1、輪之内 1、十文字 
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中之幕
1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所
1、外之剱 1、釣瓶返 1、智羅離風車
以上
右之条々深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道二熱心練磨之結果其之蘊奥二達セラルルヲ認メ爰ニ我英信流併而始祖重信流居合術ヲ全相伝候宜敷将来本流之品位ヲ堕ス事無ㇰ之ガ普及ヲ計リ漫ニ他流二媚ビズ以テ伝授ノ責ヲ全フセラレン事ヲ期セラル可シ
天真正
林崎明神
初代 林崎甚助重信
(以下十八代穂岐山先生迄連記)
林崎夢想流
林崎神伝重信流
林崎神伝流
林崎無雙神伝重信流
右同一之名称也
昭和二十五年一月三日
無雙直伝英信流
第十九代正統宗家
居合術範士・柔道教士七段・従七位 
福井春政   花押
大日本武徳会 居合術範士
河野百錬 殿
*第19代福井春政先生は第20代河野百錬先生に昭和25年1950年に免許皆伝を伝授されました。
此の免許皆伝目録は、これまでに見てきたものとは、根元之巻はともかく、皆伝目録に違いが見られます。
次回以降に其れを考えて見たいと思います。

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2015年12月14日 (月)

曽田本免許皆伝目録その35福井春政先生の印可状序

曽田本免許皆伝目録

その35.第19代福井春政先生の印可状序

 無双直伝英信流の印可状は第20代河野百錬先生に第19代福井春政先生が伝授されたものが、河野先生の昭和30年1955年発行の無双直伝英信流居合兵法叢書に掲載されています。
 この無双直伝英信流居合兵法叢書は、下村派の曽田虎彦先生の伝書の写しを手に入れ、それらを曽田先生亡き後に発行されたものです。曽田先生は昭和25年1950年に亡くなられています。
 曽田先生は、ご自分で出版されたかったろうと思いますが、戦後の混乱期に日本武術は封印されていた時期であり、時を得られなかったと思います。
 随って、第19代福井春政先生から第20代河野先生への伝書は曽田本とは無関係ながら、大いに関係するものと河野先生はご自分の印可状を、其処に掲載されたのでしょう。
 福井先生から河野先生へは、根元之巻及び紹統印可の二巻が伝授されています。
 昭和30年1955年から38年1963年にかけて、河野先生が正統正流の宗家である事を明らかにされ、公開された思いは、如何なるものか考えて見たいと思います。
 この無双直伝英信流居合兵法叢書は、当時非売品でもあり、どのくらい出回ったのかわかりません。
 古書として流通では見当たらず、一部の方の蔵書として本箱の奥に、又は、その方の子孫の方によって不要の物として処分されてしまったのでしょう。図書館に保存されているとは思います。
 河野先生は曽田先生が書き写された古傳なので、原文のまゝ公開され、読み下しや解説には手を付けられていません。又、それ以上の古傳収集にも手を付けられませんでした。後世の者に委ねるとされています。
 曽田本の欠陥は、何時、何処の誰から伝書を書き写す事を許されたのか、或は譲り受けられたのかが全くわからない事です。
 曽田虎彦先生の創作と言われても反論は出来ません。然し剣に志して修行された剣士の純粋な思いはそれを跳ねのけて余りあるものでしょう。
 今回、福井先生発行の河野先生への伝書のアップは、躊躇していました。
しかし、曽田先生と河野先生の交流を知れば、曽田本との関係の深さを思います。土佐の居合は、根元之巻を以て最高の認定とする考え方もあるやに聞いています。英信流に宗家など無いという考え方もあった様です。
 高知県外門外不出の居合を、大江先生始め高知の方々が居合振興につとめ、県外に普及された為、県外の人に依って大きく普及して行ったわけで、県外不出は成り立たなくなったのでしょう。
 19代福井春政先生が河野先生に20代を譲渡したのも頷けます。
 土佐藩の時代は、根元之巻を伝授された人の中から藩主への師範や藩校での師範筋の人が代表されたのでしょう。
 谷村派・下村派の派閥も業技法では無く、藩内での地位の変遷に依る事も考えられます。
 明治時代にはそれも崩れ、政治的に整理できる大家が居なかったと思います。
 そして根元之巻を伝授されたのみで幾つもの宗家を名乗る今様の状況を思いますと、その公開と解説をさせていただきたく此処にアップさせていただきます。御関係の方にはこれでご容赦いただきたく思います。

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2015年12月13日 (日)

曽田本免許皆伝目録その34山内豊健公の伝書意訳

曽田本免許皆伝目録


その34.山内豊健公の伝書意訳


*土佐の藩主山内家を大正7年1918年15歳で継がれた従四位子爵山内豊健公への第17代大江正路先生の免許皆伝目録(大正14年8月吉日1925年授与豊健公22歳、居合を大江先生に習い始めて7,8年でしょう)は、第14代藩主山内豊惇公へ献取されたものから比べますと、文言を含め、大江先生の往時の弟子と何ら変わる所は見当たりません。
 旧藩主の後継者に対する、心配りが見られない処は明治維新後既に57年半世紀が過ぎています。
 大江先生も昭和2年1927年に亡くなられていますから、この豊健公への伝授は大江先生が亡くなる2年前、大江先生74歳のことです。未だ、修行途中の孫の様な若者に免許皆伝目録を授与するには心残りもあったろうと思います。
 
この免許皆伝目録を見た時、他の直弟子の方々と何ら根元之巻にも目録にも変わる処も無く、特別気を配りながら書かれた形跡も見当たりません。寧ろ山内豊健と書くべき処山内豊倢と書き間違っても気が付かずに授与されている事に不思議なものを感じます。
 
 受けた豊健公もそのままにしてあるところも、何か拘らない、師弟関係の人情味を感じるのです。
 野村凱風先生が残された「無双直伝英信流居合道能参考」に「かって第17代の宗家大江正路先生が当流を修めるものゝ中に其意義などを充分納得せずして我流に解釈を下し、とんでもないことをやっている人のある事を嘆かれ高知在住の穂岐山先生をはじめ十数名の達人を集められ今は亡き山内容堂公のお孫さんに当たる山内豊健子爵邸の大広間で講習会が行われ私(凱風先生)もその末席を汚したのである。当時山内豊健氏は剣道、居合道其に教士で其後谷田左一先生と共著で「図解居合道詳説」を出版して居らるゝ。
 さて大江先生は懇切に一本一本について解説しながら講授、我流や誤解を戒められた・・」
 この文章では、直接豊健公に向けて「とんでもない居合」と言ってはいませんが、特別扱いもせず大江居合を講習されている様子がうかがえます。
 今時、山内家のお殿様居合を業じるのが当然とばかりに、無双直伝英信流とは一味違うものと、一般に思われていますが、飽くまでも第17代大江正路先生の教えを元としたものでそれ以上でも以下でも無いものでしょう。
 豊健公は幾つかの武道流派を習い独特の教えを残されたか、豊健公の教えを受けた者が
他流の教えを持ちこんだかはわかりません。
 何処にでも見られる事ですが、師伝と称して我流や誤解による独特の形や動作に拘り修行本来の目的を忘れる事もあるものです。
山内豊健公の伝書意訳
 抑、この居合と申すものは、日本の東北地方の林の大明神により、夢の中に現れて伝えて来たものである。
 兵術というものは、上古中古より沢山の他流があってその違いは有るであろうが、大きな人、小さな人にも、無力や剛力の人にも嫌う事の無ない兵術である。
 いずれ将来、相応に役立つ太刀で、手近の戦いに勝ち、一命の有る無しはこの居合に依って極まるものである。
 この居合は恐らく、天竺から見て日本の様に粟粒ほどの辺境の地の様に、どんな辺鄙な処であろうとも、この居合の役立つ事を不審に思うべきものでは無い。唯、霊夢に依るものである。
 この居合の始めを尋ねるならば、奥州の林崎神助重信と云う者が、兵法を望んで、林の明神に百日余りの参籠をし、満願の日の暁時、夢の中に老翁が現れ重信に告げて、言うには、「汝、この太刀を以て、胸の中に持ち続けている怨みの有る敵に勝つ事を得られるであろう」と告げられた。
 則、霊夢の様に、腰刀三尺三寸を以て、敵の脇指九寸五分に勝つ大利である。柄口六寸に勝つ甚だ巧みな不思議な極意である。一国一人に相伝するものである。
 腰刀三尺三寸は三毒である貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知を、三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地である煩悩を打ち破り、仏の慈悲の心で包み込み、それらを成就して、己の運命を切り開く様に、心の内の心理を悟り脇差九寸五分を打ち破る五鈷である証拠である。
 敵味方と成る事は前生の善悪に依る行為に依る報いを受ける事である。生死は一体のもので戦場も浄土である。この様に観れば、現世は大聖摩利支尊天の加護に守られ、来世に仏と成るのは縁に依る事である。
 この居合は千金を積むと言われても、真実で無い人にはけっして之を授けるべきでは無い。天罰を恐れるべきもので、唯一人に伝えるものである。
 古語に云うには
 その疾く進むものは、それを速く退いてしまうものである。 この意味するものは、貴賤、尊卑、前後の輩と謂わず、隔て無くその心得る所を為す者には目録印可などを相違なく許せ。
 又古語に云うには 
 それは、百錬の茅や茨で拭いた別荘や鄙を構えて有っても、兵の利を心懸け夜之を思い、神や仏に祈るものは忽ち利を得て、心は正しく整理され身は燦然と輝くものである。
目録については、割愛します。
奥書きの意味
 以上の目録の一つ一つは、深く秘せられた極意である。真実で無い人には努々相伝してはならない。貴殿は多年この道に熱心に錬磨し其の結果蘊奥を達した事を認め、ここに我が英信流居合術を相伝する。
 宜しく将来、本流の品位を堕す事無く、この拡張を計って、みだりに他流に媚びずに伝授された責任を全うする事を期すものである。
「本流の品位を堕す事無く、この拡張を計って、みだりに他流に媚びず」の部分はこの伝書を読まれた方の修行の心得として如何様に解釈されるか、「品位を堕すな」は品位のあり様は個々の人生哲学に由来するでしょう。しかし抜き付け一本に全ての思いを籠めて無心に抜き付ける居合でありたいと思います。
 「この拡張を計って」は、無双直伝英信流の業ずる人の数を増やせと言ってはいないでしょう。飽くまで「真実の人」に相伝すべきものだと云っています。
 此処は業技法の教えを守っていたずらに術を増やし、其の為に他流の方法を取り込んだりして媚びを売るなと諭されていると思います。
 この部分は、大江先生の伝書に見られるもので他には見られません。思う処があったのでしょう。
・ 
その後、第19代福井宗家のこの部分は「本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之ガ普及を計り漫に他流二媚ビズ・・」と、」普及と云う言葉に変えられています。
 大江先生の思いは伝わらないのでしょう・・。あの豊健公の大広間での講習会がふと頭を過ります。
思いつくままに・・・・。
 
 
 
 
 
 

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2015年12月12日 (土)

曽田本免許皆伝目録その33山内豊健公の伝書読み下し

曽田本免許皆伝目録
その33.山内豊健公の伝書読み下し

居合術根元之巻
抑此居合ト申者日本奥州林之従 大明神夢相二メ奉傳之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極 此居合恐者粟散邊土於堺不審之儀不可之有唯依㚑夢(霊夢)処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之 林之明神一百有日令□籠(叅・参籠であろう)其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思儀之極意一國一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎則三部尓但脇差九寸五分九曜五銘(五鈷 の鈷を銘と書き間違い)之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真實之人者堅不可□(援とあるが爰(ここに)の誤字でしょう))之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之搆(構)在則茅茨荘鄙與兵利心懸者夜思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然

*読み下し
 抑、居合と申すは日本奥州林の従、大明神の夢想に之を伝え〆奉る。夫れ兵術は上古中古数多他流の違い有ると雖も、大人小人無力剛力嫌わずに兵の用に合う云々。
 末代相応の太刀に云う、手近の勝ち、一命の有無之れ此の居合に極まれる。此の居合恐らくは粟散邊土の堺に於いて不審の儀之有るべからず。唯、霊夢に依る処也。
 此の始めを尋ずぬ、奥州林崎神助重信と云う者、之兵術有るに因って之を望み、林の明神に一百有日参籠せしめ、其の満暁に夢の中で老翁重信に告げて曰く、汝、此の太刀を以て、常に胸中憶持たる怨敵に勝を得ん云々。
 則ち、霊夢の如く有りて腰刀三尺三寸を以て大利を得、九寸五分に勝事、柄口九寸五分に勝の妙不思儀の極意、一国一人の相伝也。
 腰刀三尺三寸は三毒、則、三部に但、脇差九寸五分は九曜五の五鈷の内証也。敵味方になる事是亦前生の業感也。生死一體戦場浄土なり、此の如く観るは現世に摩利支尊天の御加護を蒙り、来世に成仏するは縁ある之事豈疑い有らんや。
 此の居合千金を積むと雖も不真実之人には堅くこれを授けるべからず。天罰を恐るべし唯一人に之を伝う云々。
古語に曰く
 其の進は疾く、其の引くは速し云々。
 此の居合貴賤尊卑を以て、前後の輩と謂わず隔て無く所を作す者には、目録印可等相違なく許す。
又古語に曰く
 夫れ百錬の構え在りて、則、茅や茨の荘鄙であっても、兵の利を心懸ける者は夜之を思い、神明佛陀に祈る者は則、忽ち利方を得是に依り心済み身は燦然。
英信流居合術名稱
正座之部
一番 向身、二番 右身、三番 左身、四番 後身、五番 八重垣、六番 請流、七番 介錯、八番 附込、九番 月影、十番 追風、十一番 抜打
立膝之部
一番 横雲、二番 稲妻、三番 虎ノ一足、四番 浮雲、五番 颪、六番 岩浪、七番 鱗返、八番 浪返、九番 瀧落、十番 真向
奥居合之部
一番 霞、二番 脛囲、三番 四方切、四番 戸詰、五番 戸脇、六番 棚下、七番 両詰、八番 虎走、九番 行連、十番 連達、十一番 惣捲、十二番 惣留、十三番 信夫、十四番 行違、十五番 袖摺返、十六番 門入、十七番 壁添、十八番 請流、十九番 暇乞、廿番 仝、廿一番 仝
型並二発聲
イ-ヱ-イ
一番 出合、二番 拳取、三番絶妙剣、四番 獨妙剣、五番 鍔留、六番 請流、七番 真方、
番外一 速浪、仝二番 雷電、迅雷(仝三番の文言が欠落)
右之条々深秘之極意也 非真實之人者努々不可有相傳者也 貴殿多年斯道二熱心錬磨之結果其蘊奥二達セラルヽヲ認め爰二我英信流居合術ヲ相傳候宜シク将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之カ擴張ヲ計リ漫二他流二媚ヒス以テ傳授ノ責ヲ全フセラレン事ヲ期セラル可シ
*読み下し
右之条々(正座の部・立膝の部・奥居合の部・型ならびに発声)之深く秘す極意也。真実に非ざる人には努々相伝有るべからざるもの也。貴殿、多年斯道に熱心に之を錬磨す。結果其の蘊奥に達せらるゝを認め、ここに我が英信流居合術を相伝候。宜しく将来本流の品位を堕す事なく之ガ拡張を計りみだりに他流に媚びず以て伝授の責を全うせられん事を期せらるべし。
天真正
林明神
初代
林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗續
万野團右衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林 益之□(丞の誤字か)政誠
依田萬蔵敬勝
林 □(彌の誤字)太夫政敬
谷村亀之□(丞)自雄
五藤正亮
無双直伝英信流
居合術十七代目
範士 大江正路
大正十四年八月吉日   花押
山内豊倢(健の誤字)殿

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2015年12月11日 (金)

曽田本免許皆伝目録その32山内豊健公の伝書原文

曽田本免許皆伝目録


その32.山内豊健公の伝書原文

*土佐の第14代藩主山内豊惇公が第15代谷村亀之丞自雄から献取された無双直伝英信流居合術の免許皆伝目録を読んできました。
一部分ですが次の第15代藩主山内豊信(容堂)公も谷村亀之丞自雄から免許皆伝目録を献取受されていました。
 今回は山内豊健公明治36年1903年生まれ、昭和21年1946年43歳逝去が第17代大江正路先生から大正14年1925年【豊健公22歳の時)に授与された免許皆伝目録を拝見させていただきます。
山内豊健公の根元之巻原文
居合術根元之巻
抑(抑の文字を手偏では無く木偏で書き出されています)此居合ト申者日本奥州林之従 大明神夢相二メ奉傳之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極 此居合恐者粟散邊土於堺不審之儀不可之有唯依㚑夢(霊夢)処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之 林之明神一百有日令□籠(叅・参籠であろう)其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思儀之極意一國一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎則三部尓但脇差九寸五分九曜五銘(五鈷 の鈷を銘と書き間違い)之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真實之人者堅不可□(援とあるが爰(ここに)の誤字でしょう))之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所作者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之搆(構)在則茅茨荘鄙與兵利心懸者夜思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
英信流居合術名稱
正座之部
一番 向身、二番 右身、三番 左身、
四番 後身、五番 八重垣、六番 請流、
七番 介錯、八番 附込、九番 月影、
十番 追風、十一番 抜打
立膝之部
一番 横雲、二番 稲妻、三番 虎ノ一足、
四番 浮雲、五番 颪、六番 岩浪、
七番 鱗返、八番 浪返、九番 瀧落、
十番 真向
奥居合之部
一番 霞、二番 脛囲、三番 四方切、
四番 戸詰、五番 戸脇、六番 棚下、
七番 両詰、八番 虎走、九番 行連、
十番 連達、十一番 惣捲、十二番 惣留、
十三番 信夫、十四番 行違、十五番 袖摺返、
十六番 門入、十七番 壁添、十八番 請流、
十九番 暇乞、廿番 仝、廿一番 仝
型並二発聲
イ-ヱ-イ
一番 出合、二番 拳取、三番絶妙剣、
四番 獨妙剣、五番 鍔留、六番 請流
七番 真方
番外一 速浪、仝二番 雷電、迅雷
右之条々深秘之極意也 非真實之人者努々不可有相傳者也 貴殿多年斯道二熱心錬磨之結果其蘊奥二達セラルヽヲ認め爰二我英信流居合術ヲ相傳候宜シク将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之カ擴張ヲ計リ漫二他流二媚ヒス以テ傳授ノ責ヲ全フセラレン事ヲ期セラル可シ
天真正
林明神
初代
林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗續
万野團右衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林 益之□(丞の誤字か)政誠
依田萬蔵敬勝
林 □(彌の誤字)太夫政敬
谷村亀之□(丞)自雄
五藤正亮
無双直伝英信流
居合術十七代目
範士 大江正路
大正十四年八月吉日   花押
山内豊倢(健の誤字)殿
宛名が山内豊倢殿になっています。大江先生は印可された人の名をミスっています、大正14年は1925年で大江先生73歳です。
 山内豊健先生の居合を習われた方達が一堂に会して稽古会を行った際、山内豊健先生を忍び稽古会の呼称を無双直伝英信流山内派とされたそうです。
 いつの間にか、それが山内家に伝わる殿様居合として伝承された独特のもの、「無双直伝英信流山内派」である様に思い、思われて来ています。
 第15代谷村亀之丞自雄の伝書を観ても、当時の藩主に特別な業技法を伝えた形跡は見られません。
それでは、明治生まれの山内豊健先生は如何にと思うのですが、その伝書にも特別なものは見当たりません。
特定の人の集まりが定着しますと、それまでの普遍的な業技法が、師匠の癖や、思い込み、或は想定違いによって変化して特化する事はあるでしょう。
 近代では、土佐の居合を学んだ中山博道の弟子に依る夢想神傳流が顕著なものです。
 これなど手附を読みますと、無双直伝英信流そのものであって、想定と所作に違いが見られる程度で、博道先生の書かれた解説では何ら違いを感じません。
 伝書と実際は違うと云われても、十人十色であり、限りなく直近の師匠に似るものです。

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2015年12月10日 (木)

曽田本免許皆伝目録その31山内豊惇公の目録

曽田本免許皆伝目録

その31.山内豊惇(とよあつ)公の目録

無双直伝英信流居合目録
1.向身 横雲・虎一足・稲妻
1.右身 浮雲・山下し
1.左身 岩浪・鱗返
1.後身 浪返・滝落
 四方切 向・右・左。後
太刀打之位
1、出合 1、附込 1、請流 1、請入 
1、月影 1、絶妙剣 1、水月刀 1、独妙剣
1、神妙剣
*古伝神傳流秘書の太刀打之事では、出合・附入・請流・請込・月影・水月刀・独妙剣・絶妙剣・心妙剣・打込。
附込は附入でした。
絶妙剣・水月刀・独妙剣の配置が古伝と変わっています。
心妙剣は神妙剣で土佐の伝承は曖昧です。
詰合之位
1、八相 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 
1、鱗形 1、位弛 1、燕返 1、岩関落
1、霞剣
*曽田先生の業附口伝にある討込が、ここにはありません
大小詰
1、抱詰 1、骨防(もぎ) 1、柄留 1、小手留
1、胸捕 1、右伏 1、左伏 1、山影詰
大小立詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、鐺打返 1、骨防返
1、蜻蛉返 1、乱曲
*古伝神傳流秘書の大小立詰は順番が、1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返 〆捕 蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火 
古伝の鍔打返が鐺打返は鍔を鐺と誤植したと思いますが、鐺では業を知らないままの業名となってしまいます。江戸末期には既に失念している名のみの業かもしれません。
古伝神傳流秘書に有る大剣取が有りません。是は失伝したと思います
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、惣捲 
1、雷電 1、霞
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 
1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添
1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内
1、輪之内 1、十文字
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中幕
1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所
1、外之剣 1、釣瓶返 1、智羅離風車
居合心持肝要之大事
1、捕手和居合心持之事
1、立合心之大事
1、太刀組附る位之大事
1、太刀目附の事
1、野中之幕之大事
1、夜之太刀之事
1、閨之大事
1、クグ利之大事
1、獅子之洞出之事
1、獅子之洞入之事
右九カ条者深秘之極意也非真実之者努々(ゆめゆめ)不可有相伝者也
*右九カ条は深く秘す極意なり、真実に非ざる者に努々(ゆめゆめ)相伝有らざるもの也。
 右九カ条は①無双直伝英信流居合目録 ②太刀打之位 ③詰合之位 ④大小詰 ⑤大小立詰 ⑥外之物之大事 ⑦上意之大事 ⑧極意之大事 ⑨居合心持肝要之大事の九カ条を指します。
 この九カ条も、現在は無双直伝英信流居合目録を除いて大方失伝しているか名が残って居るばかりです。
 曽田本の英信流居合目録秘訣(2015年4月21日~5月21日)に外之物之大事・上意之大事・極意之大事の詳細を収録してあります。
 居合心持肝要之大事(2015年5月22日~5月30日)も収録してあります。
敬白去天保十一(1840年)庚子年三月二十六日臣自雄所学之無双直伝英信流之居合術 可奉授
*敬白(敬って申す)去る天保11年1840年かのえね3月26日臣(谷村亀之丞)自雄が学ぶ所の無双直伝英信流の居合術を奉授すべし。
公孫豊惇公肯蒙
尊命辱
御居合拝視実以聡敏明篤温習勉強雖暑寒無間断経年戴六ヶ年干今 臣竊(ひそか)惟技亦頗可到正道而己於爰(ここに)謹而献取受於師秘旨目録伝来之秘事矣(い)誠恐頓首頓首
*公孫豊惇公(藩主の孫である・・)に道理をも弁えず肯蒙し、尊命を辱ず。
御居合を拝視するに、実に以て聡敏、明篤、温習に勉強、暑さ寒さにも間断なく、年を経て今ここに六ヶ年となる。
臣、ひそかに、この技、また頗る正道に至るべくして己ここに、謹んで師に受けし秘旨伝来の秘事を献取す、誠に恐れながら頓首頓首(とんしゅ・低く頭を下げて敬う)。
弘化二年(1845年)乙己(巳)年十二月十八日
*弘化2年(1845年いつみ年12月18日
谷村亀之丞  自雄花押
*第15代宗家谷村亀之丞自雄 自雄の花押
*根元之巻はともかく、この目録の奥書は明らかに藩主に対してのものでしょう。
 後に掲載するのですが第17代大江宗家から山内豊健公への免許皆伝目録は、通常の弟子の範囲をこえないものです。(2015年12月11日)

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2015年12月 9日 (水)

曽田本免許皆伝目録その30山内豊惇公伝書読み下し


曽田本免許皆伝目録

その30.山内豊惇公伝書読み下し

正統第15代 谷村亀之丞自雄先生相伝

免許皆伝目録
 土佐藩主、山内豊惇(とよあつ)公に奉授の伝書にして山内家に伝承所蔵されたる本巻二部(根元之巻及び無双直伝英信流居合目録)は曽田氏を通じて著者(第20代宗家河野百錬先生)に贈られたるもの也
*曽田本その1・その2共にこの伝書の写しは記載されていません。この流の貴重な資料として確実に保管されて居る事を祈ります。

居合根元の巻

 抑(抑々そもそも)此の居合と申すは、日本奥刕(奥州)林の大明神の夢想に従て之を伝え奉つる、兵術は上古中古数多の他流の違い有と雖も、大人小人、無力・剛力、嫌わずに兵の用に合う云々。末代相応の太刀と為ると云う、手近の勝負一命の有無此の居合に極まる。
 恐らくは、粟散辺土の堺に於いても不審の儀之れ有るべからず。唯多夢(㚑夢の読み違い・霊夢)に依る処也。

 此の始めを尋ぬれば、奥州林崎神助重信(*神助は甚助の誤かその様に土佐には伝わったか?)と云う者に因り、兵術これ林の明神に有るを望み、一百有日参籠令(せしめ)其の満暁の夢の中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中に憶持たる怨敵に勝を得る云々。
則、多夢(霊夢)に有る如く腰刀三尺三寸を以って大利を得、九寸五分に勝つ事、柄口六寸に勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。腰刀三尺三寸は三毒則三部に但し脇指九寸五歩(分 誤字)、九曜五古(五鈷の判読誤り)の内訟也。
 敵味方と成る事、是亦前生(前世)の業感也。生死一體は戦場浄土也。是に観る如く、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世の成仏成るは縁の事、豈疑い有らん哉。
 此の居合は千金を積むと雖も不真実の者には堅く之を授けるべからず、天罰を恐るべし。唯授一人に之を伝う、云々。

古語曰く
其の疾く進むは、其れ速く退く云々。
此の意、貴賤、尊卑を以て、前後の輩に謂れずして隔て無く、其の所作に達する者を以って目録印可等相違無く許す。
又古語曰く
夫れ百錬の構え在りて、則、茅茨荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜自白(?)之を思い、明神佛陀を祈り、忽ち利方を得、是に依って心済み身に燦然(*光り輝く)たる事なり

天神正

林明神
 
林崎神助重信
 
田宮平兵衛尉業正
 
長野無楽入道槿露斎
 
百々軍兵衛尉光重
 
蟻川正左衛門宗続
 
万野団右衛門尉信定
 
長谷川主税助英信
 
荒井勢哲清信
 
林六大夫守政
 
林安太夫政詡
 
大黒元右衛門清勝
 
林益之丞政誠
 
依田萬蔵敬勝
 
林弥太夫政敬
 
谷村亀之丞自雄    自雄花押
 
 
弘化二年(1843年)乙巳  十二月十八日
 
 
 
 

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2015年12月 8日 (火)

曽田本免許皆伝目録その29山内豊惇公伝書

曽田本免皆目録

その29.山内豊惇公伝書

この、伝書は河野百錬先生が土佐の伝書を収集され纏められた「無双直伝英信流居合兵法叢書」昭和38年再版によるもので第八編に納められているものです。
土佐の国主への免許皆伝であり、第15代谷村派正統宗家に依るものですから原文のまま表し、次いで河野先生も付けられていない読み下しを付けて見ます。
伝書は根元之巻と目録の二巻をもって授与されています。
正統第15代 谷村亀之丞自雄先生相伝

免許皆伝目録

土佐国主、山内豊惇公に奉授の伝書にして山内家に伝承所蔵されたる本巻二部は曽田氏を通じて著者に贈られたにもの也

居合根元之巻
抑此居合ト申者日本奥州林之従 大明神夢相奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違他侘流大小無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀尓云手近勝負一命有無極此居合 恐者粟散辺土於堺不審之儀不可有之唯依多夢処也 此始尋奥州林崎神助重信云者因兵術之望有林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰 汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如多夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五歩事柄口六寸勝之妙不思儀之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毒則三部尓但脇指九寸五歩九曜五古之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔前後輩不謂達其所作者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙与兵利心懸者自思神明佛陀祈則忽得利方是依心済身耳燦然

天神正
林明神

松崎神助重信
田宮平兵衛尉業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛尉光重
蟻川正左衛門宗続
万野団右衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六大夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄    自雄花押


弘化二年乙巳  十二月十八日
無双直伝英信流居合目録
1.向身 横雲・虎一足・稲妻
1.右身 浮雲・山下し
1.左身 岩浪・鱗返
1.後身 浪返・滝落
 四方切 向・右・左。後
太刀打之位
1、出合 1、附込 1、請流 1、請入 
1、月影 1、絶妙剣 1、水月刀 1、独妙剣
1、神妙剣
詰合之位
1、八相 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 
1、鱗形 1、位弛 1、燕返 1、岩関落
1、霞剣
大小詰
1、抱詰 1、骨防(もぎ) 1、柄留 1、小手留
1、胸捕 1、右伏 1、左伏 1、山影詰
大小立詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、鐺打返 1、骨防返
1、蜻蛉返 1、乱曲
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、惣捲 
1、雷電 1、霞
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 
1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添
1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内
1、輪之内 1、十文字
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中幕
1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所
1、外之剣 1、釣瓶返 1、智羅離風車
居合心持肝要之大事
1、捕手和居合心持之事
1、立合心之大事
1、太刀組附ル位之大事
1、太刀目附ノ事
1、野中之幕之大事
1、夜之太刀之事
1、閨之大事
1、クグ利之大事
1、獅子之洞出之事
1、獅子之洞入之事
右九カ条者深秘之極意也非真実之者努々(ゆめゆめ)不可有相伝者也
敬白去天保十一(1840年)庚子年三月二十六日臣自雄所学之無双直伝英信流之居合術 可奉授
公孫豊惇公肯蒙
尊命辱
御居合拝視実以聡敏明篤温習勉強雖暑寒無間断経年戴六ヶ年干今 臣竊(ひそか)惟技亦頗可到正道而己於爰(ここに)謹而献取受於師秘旨目録伝来之秘事矣(い)誠恐頓首頓首

弘化二年(1845年)乙己(巳)年十二月十八日
谷村亀之丞  自雄花押


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2015年12月 7日 (月)

曽田本免許皆伝目録その28山内豊惇公伝書初めにの2

曽田本免許皆伝目録

その28.山内豊惇公伝書初めにの2

山内家第15代藩主山内豊信(容堂)公の先代藩主が第14代山内豊惇(とよあつ)公です。
第14代藩主豊惇公は第12代藩主山内豊資の次男で兄の第13代山内豊煕が嘉永元年1848年7月10日に死去した為、9月6日に家督を継いで藩主となります。
その12日後の9月18日に25歳で死去してしまいます。
豊惇公の後を継いだのが第15代山内豊信(容堂)公です。
ここで、土佐藩主14代、15代の履歴を簡単に見てみます。
不充分なものですから、書き込みを躊躇いたしましたが、どなたかが修正していただきたいと思います。
文政7年1824年6月6日 
第12代藩主豊資の次男として豊惇生まれる
文政10年1827年       
豊信(容堂)山内分家1500石の南家に生まれる
天保11年1840年3月26日 
豊惇(16歳)、谷村派第15代宗家谷村亀之丞自雄に師事す(豊信(容堂)13歳で同年12月8日に師事しています)
天保12年1841年 
豊信長谷川流を習う(豊信14歳) (*ウイキペディアにあるが出典確認できず) 
天保15年1844年11月15日豊信(容堂)皆伝目録 献所受 (政岡先生の地之巻より)  
弘化2年1845年12月18日 
豊惇(21歳)谷村亀之丞自雄より皆伝目録献取(豊信(容堂)18歳)
豊信(18歳)長谷川流免許皆伝(*出典確認できず)
嘉永元年1848年9月6日 
豊惇(24歳)第14代藩主となる
嘉永元年1848年9月18日 
第14代山内豊惇(24歳)死去
嘉永元年1848年12月27日 
山内豊信(21歳)第15代藩主となる。
明治5年1872年6月21日
山内豊信(容堂)死去(45歳)
*政岡先生の地之巻を取りますと、豊惇公より豊信公の方が一年弱先に皆伝目録を受けた様に見えます。
 どちらも、藩主に為る事が判っていたわけでは無いでしょうが、分家の豊信(容堂)公の方が時間が自由にあり、やりたいことがより出来たかな、など思ってしまいます。 

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2015年12月 6日 (日)

曽田本免許皆伝目録その27山内豊惇公伝書初めにの1


曽田本免許皆伝目録

その27.山内豊惇公伝書初めにの1


河野百錬先生の昭和30年発行無双直伝英信流居合術兵法叢書には正統第15代谷村亀之丞自雄先生相伝による土佐の第14代国主山内豊惇公(とよあつ)の免許皆伝目録が編入されています。是は、私の手元に有る曽田本その1にもその2にも書写されていないものです。
  河野先生はこの伝書を曽田氏を通じて贈られたものだと無双直伝英信流居合兵法叢書のこの豊惇公の伝書の冒頭に記されています。曽田先生がどこから手に入れられたのか定かではありません。
山内家と言えば居合では無双直伝英信流山内派を呼称される方々がおられます。其の方達は、第15代土佐藩主山内豊信(容堂)公(文政10年1827年~明治5年1872年45歳没)のお孫さんである山内豊健公(明治36年1903年~昭和21年1946年43歳没)が大正14年1925年に第17代大江正路先生より根元の巻きを伝授されていますので、豊健公の指導を受けられた系統の方々が集まっての稽古会の際、稽古会の名称に「無双直伝英信流山内派」を呼称されたと聞いています。
その居合は大江先生指導の谷村派を元とする事は間違いないでしょう。
 土佐の藩主だからと言って、殿様居合として特別な業技法を大江先生から伝えられたとは思えません。寧ろ、大江先生から豊健公ばかりでなく他の大江先生の直弟子の方々が独走するのを戒められた稽古会の様子がうかがえる追憶が残されています(野村凱風先生著無双直伝英信流居合道の参考昭和40年1965年発行)。
 ある会では、山内派を名乗る事について、明治天皇より山内容堂公の功績によってたてられた山内子爵家の居合として、山内派を名乗った事に由来する事が土佐武道史話にあるなどと何か山内派とは元々第17代大江正路宗家の弟子達とは、一味違う様な印象を持たれる事が書かれていますが、平尾道雄先生の土佐武道史話にはその様な記事は見当たりません。
 無双直伝英信流山内派として独特な居合の様に思わせるべきものか疑問です。
 山内豊健公は、明治36年生まれですから山内容堂公に居合を習えるわけもなく、第17代大江先生を師とされておられたのですから正統無双直伝英信流谷村派および幾つかの所作に大江先生が習われていたとされる長谷川流の下村派が混入していたかとは思います。
 其の他の武術は、いくつか身に着けられていたかとも思います。
 昭和21年以降山内豊健先生を忍びその道統の方達に依って独自の進化をされたものと察します。
 容堂公の居合熱はすごく、「七日七夜の間休みなしの猛稽古を続けた。数人の家来がこれに参加したものだがあまりの烈しさにみんな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずかに二人か、三人にすぎなかったそうだ。(史談速記録)
 容堂公の気性のはげしさがこの談話のうちにもかんじとれるし、その居合もただの殿様芸では無かったらしい。師匠の谷村亀之丞は・・・(昭和36年1961年発行平尾道雄著土佐武道史話より)」
 容堂公の師匠は谷村亀之丞自雄ですが、伝書が伝授されたかは不明です。いずれどこからか出てく来るか楽しみです。
 出て来たとしても、それは山内派が江戸末期から既に独特のものという証しにはならないでしょう。
追記
 実は見落としていたのですが、大江先生の直弟子政岡壱實先生の昭和49年1974年発行の「無双直伝英信流居合兵法地之巻」に徳川末期の伝書として次の様な文章が有ります。   
 天保時代谷村亀之丞自雄より山内豊信公(豊重・容堂)に送りし伝書(本文前と同じ、是は政岡先生へ大江先生が送られた伝書の根元之巻及び目録を指しています)
右九カ条・・・相伝者也
敬白 天保11庚子年12月8日臣自雄所学之無双直伝英信流居合術可奉授 公孫豊信公旨蒙尊命辱御居合拝見実次聡敏明篤温習勉強雖暑寒無間断経年十年戴す五箇年予今臣竊(ひそか)推技亦頗可謂致正道而巳於点謹而献所受於師秘旨目録伝来之秘書矣誠恐誠恐頓首頓首
天保15年申辰年11月15日
谷村亀之丞  花押
*天保15年は1844年の事です。政岡先生はこの山内豊信(容堂公)の授与された伝書を見ているのでしょう。容堂公への伝書は、上記の様に簡略されていますので参考までとします。いずれどなたかが全貌をお示し下さるでしょう。
 今回は土佐藩主第14代山内豊惇(やまうちとよあつ)公の伝書をこれから読んで行きます。

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2015年12月 5日 (土)

曽田本免許皆伝目録その26林崎新夢想流明治時代

曽田本免許皆伝目録
その26.林崎新夢想流 明治時代

林崎甚助源重信公資料研究委員会編「林崎明神と林崎甚助重信」に依る研究調査で見られる、江戸時代の伝書、「林崎新夢想流 津軽藩 元禄四年1691年~正徳元年1714年頃」のものを読んできました。
「林崎新夢想流 新庄藩」の明治四十四年1911年松坂次郎左衛門臣盛から早坂理三へ伝授されたものを読んでみます。早坂理三は13歳で免許皆伝を受け大正15年1926年に28歳で亡くなっています。相当の術理に長けた達人だったようですが、13歳でどこまで根元の巻きを理解出来るかは自分と思い合わせると、夢物語です。然しどの道でも術理に達した者には理解出来るのでしょう。
新庄藩「林崎新夢想流」原文 明治44年1911年 早坂理三
「(抑)居合者奥州従林之明神夢想傳也夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相応之(太)刀手近之勝負一命(之)有無極此居合恐於粟散邊土之(堺)不審之(儀)不可有之唯所依霊夢也尋此始或時奥州林崎甚助謂者依兵法望林明神百ヶ日参籠満暁告夢中二云汝此太刀常憶持胸中得勝怨敵云々則如(霊)夢成得大利腰刀三尺三寸以勝九寸五分表六寸而(勝之 欠如)妙不思(議)(之 欠如)極意一国一人相傳也 腰刀三尺三寸者過現未(之)三心三身則三宝也 王法是為三剱禅門有十八種剣六種剣十二種剣又是済家室中重代衲僧截断修行也 殺人刀活人剱都有掌握中脇指九寸五分者九品蓮葉剣之出離憂苦海中生死追倒魔運(軍 の誤字)釈道九曜五古(鈷の誤字)之内証也 則曹洞五位之秘訣敵味方成事是又前生(之 欠如)業感也 生死一躰而百戦場中使大寂光土也 如此観事現世摩利支尊天之護身符也 此居合以賜千金不貴但於實當之人可傳附之兵利懸心者昼夜思之祈神明(之 欠如)息得利正見依心済身耳
畢竟黙然良(稍々)久云
珊瑚枝々掌着月」

*新庄藩「林崎新夢想流}読み下し。

抑居合は奥州林の神明より夢想に之を伝えらる、夫れ兵法は上古中古数多有ると雖も此の居合末世相応の太刀、手近の勝負一命の有無此の居合に極まれる。恐らく粟散邊土の堺に於いて不審の儀、之あるべからず。此の始めを尋ねる、或る時奥州林崎甚助と謂う者、兵法の望みに依り林明神に百ヶ日参籠満暁の夢の中に告げて云う、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たる怨敵に勝を得る云々、 則霊夢の如く成し腰刀三尺三寸を以て大利を得九寸五分に勝、表六寸にて勝つの妙不思議の極意、一国一人の相傳也、 腰刀三尺三寸は過・現・未の三心三身則三宝也、王法是を三剱と為す、禅門十八種の剣、六種の剣、十二種の剣有り、又是済家室中重代衲僧截断の修行也、殺人刀活人刀都(すべて)掌握中に在り、脇指し九寸五分は九品蓮葉剣に憂い苦海中に出離し、生死魔軍を追倒するは釈道九曜五鈷の内証也 則、曹洞五位の秘訣と為す、敵味方成る事是亦前生の業感也  生死一体にして百戦場中大寂光土也 此の如く現世を観る事、摩利支尊天の護身符也 此の居合千金を賜うを以て貴からず、但實當の人於いて之を伝附すべし、兵利を心懸ける者は昼夜之を思い、明神の息に祈り利を得、正見心に依って身済に畢竟黙然としてやや久しく云う、珊瑚枝々撑に月着く。

・参考に・・
津軽藩「林崎新夢想流」原文 元禄4年1691年~正徳元年1714年頃
(平成3年居合審部会発行 林崎甚助源重信公資料研究委員会編 より)

 

「抑居合者奥州従林之明神夢想傳之夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相應之太刀手近之勝負一命之有無極此居合恐於粟散邊土之堺不審儀不可有之唯霊夢依所也 尋此始或時奥州林崎甚助謂者依兵法之望林明神百ヶ日参籠満暁夢中告云汝以此太刀常胸中憶持得勝怨敵云々 則如霊夢成得大利腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之妙不思議の極位一国一人之相傳也 腰刀三尺三寸者過現未之三心三身則三宝也 王法是為三剱禅門有十八種剣六種剣十二種剱又是□(濟)家室中重代衲僧截断柊(修の当て字)行也 殺人刀活人剣都在掌握中脇指九寸五分者九品蓮葉剣出離憂苦海中生死魔運(軍の誤字)追倒釈道九曜五古之内証也 則為曹洞五位之秘訣敵味方成事是亦前生之業感也 生死一体而百戦場中使大寂光土也 如此観事現世摩利支尊天之護身符也 此居合千金賜以不貴 伹於實當之人可傳附之 兵利心懸者晝夜思之祈神明之息得利正見依心濟身耳

畢竟黙然良久云

珊瑚枝々撑着月」

 

*津軽藩「林崎新夢想流」読み下し。

 

そも居合は奥州林の明神の夢想に従り之を伝う。夫れ兵法は上古中古数多有れども、此の居合末世相応の太刀である。手近の勝負一命の有無、此の居合に極まる。

 恐らく、粟散邊土之堺に於いて不審の儀之れ有るべからず、唯、霊夢に依る所也。

 此の始めを尋ねるば、或る時奥州林崎甚助と謂う者兵法之望に依り、林明神に百日の参籠し満暁の夢中に告げて云う。汝、此の太刀を以て常に胸中憶持たる怨敵に勝を得ん云々。則ち霊夢の如く成せば、腰刀三尺三寸を以て大利を得、九寸五分に勝つ、表六寸にして勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。腰刀三尺三寸は過現未の三心三身、則ち三宝也、王法是を三剱と為す。禅門十八種の剣、六種の剣、十二種の剣有り、又、是れ済家室中重代衲僧截断の柊(修)行也 殺人刀活人剣、すべて掌中に有り、脇指九寸五分は九品蓮葉剣に憂い苦海の中に出離し、生死魔軍を追倒するは釈道九曜五古(鈷)の内証也。 則ち曹洞五位の秘訣と為す、敵味方と成る事、是また前生の業感也。生死一体にして百戦場中大寂光土たらしむ也。 此の如く現世を観る事、摩利支尊天の護身符也。

此の居合千金を賜うを以て貴からず、但し實當の人に於いて之を伝符すべし。兵利に心懸けるは昼夜之を思い、神明の息に祈り、利を得て正しく見、心済の身により

畢竟黙然やや久しゅうして云う

珊瑚枝々撑に月着く。

*明治44年1911年の新庄藩の林崎新夢想流の根元之巻と元禄4年1691年~正徳元年1714年頃の津軽藩の林崎新夢想流の根元之巻は、200年の時を経てもほぼ同じ様な綴りでしょう。

 土佐の伝書は少しいじりすぎでしょう。

 明治時代のものは、誤字脱字が目立ちますが、丁寧な楷書で、ところどころ行書、草書交じりで書かれています。仏教用語はどこまで理解されていたのか聞いてみたいものです。

東北地方の伝書は他にもありますがこの辺で一旦締めて置きます。

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2015年12月 4日 (金)

曽田本免許皆伝目録その25林崎新夢想流の目録

曽田本免許皆伝目録
 

その25.林崎新夢想流の目録

1、曽田本免許皆伝目録には業名が目録に記載されていますが、林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」に有る津軽藩の林崎新夢想流伝書(元禄四年1691年~正徳元年1714年)には目録部分の資料の記載が線画でありますが一部分しかありません。
林崎新夢想流居合極意秘術唯授一人目録
・左身次第 :開抜・左足・鞭詰・肢去抜・向足

*残念ながら是だけです。是は笹森建美氏所蔵のものですから現存する伝書でしょうから其の外の業目録もあるかも知れません。

2、津軽藩の居合はYouTubeで修武堂さんの現代版で見られますので、業名と動作を見てみましょう。
・表身  :押立・押抜
・表向身 :防身・除身・幕越・胸刀・頭上
・右身  :突入・抜詰・手取技・柄取・臥足
・左身  :開抜・左足・鞭詰・肢去抜・向足
・外物  :取違・寄足・寄身・懸蜻蜒・逆手・胸之刀・逆頭上

*現代の、無双直伝英信流や、夢想神傳流の業動作とは一見して違和感を持ちます。
近間で、設対者の持つ脇指に三尺三寸の太刀で応ずる居合です。
何度も繰り返し拝見して、そこに現代居合に通ずるものを感じられればと思います。
同時に根元之巻の述べて居る「表六寸而勝」を見る様です。
3、林崎新夢想流で寛政三年1791年に常井大膳から押切傳之進宛てに伝授され伝書が河野先生の「居合道真諦」の巻頭資料に有りますから其処から業目録は参照して見ます。
林崎新夢想流居合極意秘術大事唯授一人
・(表身・表向身) :押立・押抜・防身・除身・幕越・胸刀・頭上
・左身次第 :開抜・左足・鞭詰・肢去抜・向足
・右身次第 :突入・抜詰・手取抜・柄取・外足
4、林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」に有る新庄藩の林崎新夢想流伝書(明治44年1911年)松坂次郎左衛門臣盛が早坂理三に伝授したものの目録を見てみます。
唯授一人
・万事抜 千金位
・表次第 :押立・押抜・防身・除身・幕越・頭上
・向次第 :押刀・掛蜻蛉・立蜻蛉・胸刀・突留・移抜・□勝
・左之次第 :位附・位打・仕去抜・向足
・右之次第 :燕返・鍔止・手取・置刀・押開
*津軽藩の林崎新夢想流の伝書が現在では最も古いのでしょう。何れ何処からかより古い林崎甚助重信の直筆の伝書が発見されるかも知れません。
笹森順造先生の「一刀流極意」に詰座抜刀と立合抜刀が掲載されています。この詰座抜刀詳解を読んでいますとそこにはこの林崎新夢想流居合と現代居合の影がチラつきます。

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2015年12月 3日 (木)

曽田本免許皆伝目録その24林崎新夢想流解説の3意味

 
曽田本免許皆伝目録


その24.林崎新夢想流解説の3意味


*津軽藩に残された林崎新夢想流の根元之巻は土佐に伝わる根元之巻より内容が豊富です。
よくその内容を掘り下げませんと、仏教用語に惑わされ、密教に惑わされややもすれば、人智で計り知れない世界まで居合の根元にはあったような錯覚に陥ります。
根元之巻は業技法の修行を終えた者に許されたもので、其処から本来の心の修行をせよというものと思はれます。
何とか読み解いて見ます。
誤りや解釈が違う、という事があればどしどしご意見をいただきたいと思います。
「そもそも居合は奥州林の明神の夢に現れた想に従い之を伝える。
それ兵法は上古・中古数多あると云うけれど、此の居合末世に相応する太刀である。
面と向かった近間の勝負による一命の有る無しは此の居合に極まる。
恐らくは天竺より遠く離れた粟粒ほどの日本であったとしても、この一命の有無が居合に極まると云う事を不審に思ってはならない。
ただ林の明神のお告げが夢に現れたものである。
此の居合の始まりを尋ねれば、ある時、奥州の林崎甚助という者が、兵法を身につけたいと望み、林の明神に百日の祈願を掛けて籠り、その満願の日の暁時、夢の中にお告げがあった。
汝この太刀を以て、常に胸の内に倒さんと念じている怨みある敵に勝つ事を得るであろうという。
すなわち、夢のお告げの如く、大利を得て、腰刀三尺三寸を以て脇指九寸五分に勝つ法である。
表六寸(敵の柄口六寸)にして之に勝つ、互に打ち下ろす頭に、唯、我は一図に敵の柄に打込み勝つ、これは妙にして不思議の極意である、一国一人に相伝するものである。
腰刀三尺三寸は、前世・現世・未来に於ける、真実に浄土を願う心と深く浄土を願い、修行の功徳を回向して浄土に往生しようと願う三心三身であり、すなわち仏・法・僧の三宝に帰依し、王法は三剣によって(草薙剣・都牟刈の大刀・八重垣剣と称される三剣)世俗の法を守る。
禅門には十八種の剣、六種の剣、十二種の剣があるという、又、身を正し、家を整え、家中を重んじ、代って衲僧の思いを截断する、是が修行である。
禅門に於ける殺人刀活人刀による修行の完成の活殺自在は、掌中にあり、脇指九寸五分の剣は九品蓮台に観るように上品・中品・下品とあり、更に夫々の下位に上生・中生・下生とあって都合九つの剣となる。
その苦海の如き運剣を出離し、生死を追求して来る魔軍を追い倒すには釈迦の道に従って九曜五鈷によって運命を斬り開いていく証しであろう。
それは、則ち、曹洞禅の五位、正中偏(凡夫の境地)・偏中正(凡夫から菩薩へ)・正中来(菩薩の境地)・兼中至(偏中至)(菩薩から究竟仏へ)・兼中到(究竟仏の境地)の如く、段階を経て修行する事によって奥義に達するとするものである。

敵味方と成る事は前世の行為に依るものであり、生死はどちらとも言えず一体であって戦場に於いても浄土と見なす大寂光土である。
この如く、現世を観る事は、摩利支尊天によるご加護に他ならない。
この居合は千金を積むと言われても授与するに値する貴い人では無い、この居合を授けられる真実の人に伝うべきものである。
兵の利に心掛けるには、昼夜此の事を思い、神明の息に祈り、利を得て正しく見る事によって、心を済まし静かに座すれば、生死の迷いは、月が珊瑚の枝々に宿す如く、自ずから霧の如く消え去るであろう。」
*津軽藩に残された林崎新夢想流の根元之巻は、このように林之神明に願って得られた極意であって、仏教用語に補完されていますが究極は、「表六寸、所謂、敵の柄口六寸に互に打ち下ろす頭に打込み勝つ」と言う極意を伝授して居ます。そして、「心を済まし静かに座すれば、生死の迷いは、月が珊瑚の枝々に宿す如く、自ずから霧の如く消え去るであろう」と無心になれよと教えてもいます。

 是は、居合のみならず、立合いの剣術にも通ずる極意であって生死の迷いが有っては達する事の叶わない究極の極意でしょう。
 一刀目の抜き打ちで目的を果たす事であって、抜き打ちでは不十分などの言に惑わされていては目的を果たす事は出来ないものです。一刀目で戦闘能力を奪い二刀目の真向打ち下しで止めをさす、などもこの流には本来の事では無く、相手の戦闘能力を奪えば目的は達せられたことになるのです。
 武術の根元は、一刀目で戦闘能力を奪い二刀目で相手を殺すなど、殺す事が目的では無い事を思うべきものなのでしょう。
 武術をよくする者は、往々にして無学の者が多かったと云われます。この津軽藩の伝書もどこか禅坊主が筆耕した様な匂いがすると言えば、土佐の伝書はそれより、コンパクトで見劣りがします。
 そんな事を書けば、誰やらから頭から火を噴く様に罵られるかもしれません。しかし、術理だけでは、いずれ武術修行の限界になり、所属年数と段位のみが頼りの、上から目線のみの情けないものに終わってしまいます。
 最近居合にも多くの欧米の方が修行に来られています。術理では無く「道」を求めて来られる方も在るようです。形は教えられても、武術の心は教えられない、それでは遥々異国から来ても幻滅となります。
 武術の修行に禅的修行を合わせ持つ必要があるのかも知れません。本来は日々刀を抜き付けて先師の教えを思う時、自ずから禅の修行ともなるべきが剣の修行かも知れません。
 思いつくままに・・・。
津軽藩に残された林崎新夢想流の伝書を終ります。

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2015年12月 2日 (水)

曽田本免許皆伝目録その23林崎新夢想流解説の2

曽田本免許皆伝目録

その23、津軽藩 林崎新夢想流解説の2

1.津軽藩「林崎新夢想流」原文
(平成3年居合審部会発行 林崎甚助源重信公資料研究委員会編 より)

抑居合者奥州従林之明神夢想傳之夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相応之太刀手近之勝負一命之有無極此居合 恐於粟散邊土之堺不審之儀不可有之唯霊夢依所也
尋此始或時奥州林崎甚助謂者依兵法之望林明神百日参籠満暁夢中告云汝以此太刀常胸中憶持得勝怨敵云々
則如霊夢成得大利腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之妙不思議の極位一国一人之相傳也
 
腰刀三尺三寸者過現未之三心三身則三宝之王法是為三剱禅門有十八種剣六種剣十二種剱又是□(濟)家室中重代衲僧截断柊行也
殺人刀活人剣都在掌握中脇指九寸五分者九品蓮葉剣出離憂苦海中生死魔軍追倒釋道九曜五古之内証也
 
則為曹洞五位之秘訣敵味方成事是亦前生之業感也
生死一体而百戦場中使大寂光土也
如此観事現世摩利支尊天之護身符也
此居合千金賜以不貴伹於實當之人可傳附之
兵利心懸者晝夜思之祈神明之息得利正見依心濟身耳
 
畢竟黙然良久云
 
珊瑚枝々撑着月


2、読み下し省略
 
3、意味
先ず、言葉の意味を探ります。

1.粟散邊土の堺:
  仏教語で、遠く離れた、粟粒(あわつぶ)を散らしたような小国。インド・中国などから見て日本をさしていうことが多い。粟散国(そくさんこく)。粟散辺土(そくさんへんど)。

2.霊夢:
  神仏やそのお告げが現れる不思議な夢。
 
3.参籠:
 祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること。

4.満暁:
   願い毎の叶う 満願の日の暁時
 
5.億持
    心に念じて思いとどめること。常に念頭に置いて忘れないこと。
 
6.表六寸:
  神妙剱他流にては心を明に〆敵の働を見よと云とは大に違へり生死のさかいなれば平 気とは異り然れども忘るまじき事一つ有り則柄口六寸也柄口六寸実は抜口の事に非ず極意にて伝る所は敵の柄口六寸也かまえは如何にも有れ敵と我と互に打下ろすかしらにて只我は一図に敵の柄に打込也先我身を敵にうまうまと振ふて右の事を行ふ事秘事也是神明剱也
 津軽藩の林崎新夢想流では「表六寸」ですが土佐を含め奥羽地方の伝書でも「柄口六寸」と書かれています。
 
7.腰刀三尺三寸
 腰刀三尺三寸は刃渡を指すのか、鞘を払っての長さなのかはともかく太刀を云うのでしょう。約1mの太刀を帯していたとも思えます。
8.過現未の三心三身
  前世と現世と来世三世 の至誠心(真実に浄土を願う心 )、と、深心(深く浄土を願う心 )、回向発願心(修行した功徳を回向して浄土に往生しようと願う心 )
 
9.三宝:
 仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物を指し、この三宝に帰依し、その上で「授」することで正式に仏教徒とされる。
10.王法:
  仏法に対する世俗の法律や慣習のこと。
 
11.禅門十八種の剣、六種の剣、十二種の剣有り:
  在家(ざいけ)のまま仏門に入り剃髪(ていはつ)した男性。入道(にゆうどう)
 
12.斉家室中重代衲僧截断:
  修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)「礼記」大学から天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。 ところから斉家いえととのう。
家をととのえ、家中を大切にし衲僧を截断する。
 
12.殺人刀活人刀:
  禅宗で、師が修行者の智慧のはたらきをとどめ、修行の完成に向かって自由自在に導くはたらきを活殺自在の剣にたとえた言葉。
 
13.九品蓮葉剣:
  九品浄土(9の等級に分けられた浄土)や九品蓮台(同様の蓮台)を単に九品と呼ぶ。浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方。九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のこと。
 
14.苦海:
 大海のはてしないように,はてしない苦につきまとわれ,さいなまれている世界のこと。輪廻転生を繰返す六道の世界を海にたとえていう。
 
15.魔軍:
 悪魔の軍勢。仏道を妨げる一切の悪事のたとえにいう。
 
16.釈道:
  お釈迦様の道とでも云うのでしょう。釈道安の「大師の本は釈迦より尊きなし」から。

17.九曜五古:
  九曜は日本では、土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。平安時代には交通安全に霊験があるとして車文に多く使用された。
 インド天文学やインド占星術が扱う9つの天体とそれらを神格化した神で、繁栄や収穫、健康に大きな影響を与えるとされた。
 此処では陰陽道の九星との混同もありうるかも知れません。
 「五古」は一般的は五言古詩を刺す様ですからここは「五鈷」であろうと思います。
  五鈷杵(ごこしょ)中央の刃の周囲に四本の刃を付けたもの。仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を、インド神話上の武器に譬えて法具としたものである。
 
18.曹洞五位:
  曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。(wikipediaより)
その曹洞宗の五位とは、禅の境地を頌(詩)で表現したもので、一夜を五つに区分した五更転に対応させ、正中偏・偏中正・正中来・兼中至(偏中至)・兼中到の五つの境位と言われます。
修行のランク付けと悟りの状況を表し、凡夫の境地(正中偏)・凡夫から菩薩へ(偏中正)・菩薩の境地(正中来)・菩薩から究竟仏へ(偏中至)・究叫竟仏の境地(兼中到)
此処では曹洞五位にある様な修行の段階を経て奥義に達し、と言う様に捉えれば良いのかとも思います。奥義の意味も、より深い悟りを意味するのだろうと思います。
 
19.前生の業感:
 前世の善悪の行為が因となって、苦楽の報いを感受すること。
 
20.百戦場中大寂光土:
 戦場に於いても、法身の住んでいる浄土。真理そのものを世界としてとらえた、一切の浄土の根源的な絶対界。寂光土、寂光浄土がある。

21、摩利支尊天之護身符:
  摩利支尊天は太陽の陽炎(かげろう)が神格化されたもので、「開運・勝利」の鎮守。
 摩利支尊天は三つの顔と六本の腕を持ち、頭には宝冠、身には甲冑を着け、七頭の猪に乗っている。

22.實當の人:
  真実に当てはまる人

23.畢竟黙然:
  つまるところ口を噤んで座す。

24.珊瑚枝々撑に月付く:
  この文章は、碧巌録百則の「僧、巴陵に問う。如何なるか是れ吹毛の剣。陵云く、珊瑚枝枝撑著月」から来ているのでしょう。
 払っても払いきれない迷いの霧は、珊瑚の枝々が夫々月を支え、月を宿す様に、何の苦も無く自ずから霧消す。とでも言うのでしょう。

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2015年12月 1日 (火)

曽田本免許皆伝目録その22林崎新夢想流解説の1

曽田本免許皆伝目録

 

その22、津軽藩 林崎新夢想流解説の1

 

  1. 津軽藩「林崎新夢想流」原文

(平成3年居合審部会発行 林崎甚助源重信公資料研究委員会編 より)

 

抑居合者奥州従林之明神夢想傳之夫兵法者上古中古雖有数多此居合末世相應之太刀手近之勝負一命之有無極此居合恐於粟散邊土之堺不審儀不可有之唯霊夢依所也 尋此始或時奥州林崎甚助謂者依兵法之望林明神百日参籠満暁夢中告云汝此太刀常胸中憶持得勝怨敵云々

則如霊夢成得大利腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之妙不思議の極位一国一人之相傳也

腰刀三尺三寸者過現未之三心三身則三宝之王法是為三剱禅門有十八種剣六種剣十二種剱又是□(濟)家室中重代衲僧截断柊行也

 

殺人刀活人剣都在掌握中脇指九寸五分者九品蓮葉剣出離憂苦海中生死魔軍追倒釋道九曜五古之内証也

 

則為曹洞五位之秘訣敵味方成事是亦前生之業感也生死一体而百戦場中使大寂光土也

如此観事現世摩利支尊天之護身符也

此居合千金賜以不貴伹於實當之人可傳附之

兵利心懸者晝夜思之祈神明之息得利正見依心濟身耳

畢竟黙然良久云

珊瑚枝々撑着月

 

2、津軽藩「林崎新夢想流」読み下し。

 

そもそも居合は奥州林の明神の夢想に従り之を伝う。夫れ兵法は上古中古数多有れども、此の居合末世相応の太刀である。手近の勝負一命の有無、此の居合に極まる。

 恐らく、粟散邊土之堺に於いて不審の儀之れ有るべからず、唯、霊夢に依る所也。

 此の始めを尋ぬれば、或る時奥州林崎甚助と謂う者兵法之望に依り、林明神に百日の参籠し満暁の夢中に告げて云う。汝、此の太刀を以て常に胸中憶持たる怨敵に勝を得ん云々。

則ち霊夢の如く成せば、腰刀三尺三寸を以て大利を得、九寸五分に勝つ、表六寸にして勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
腰刀三尺三寸は過現未の三心三身、則ち三宝也、王法是を三剱と為す。

禅門十八種の剣、六種の剣、十二種の剣有り、又、是れ済家室中重代衲僧截断の柊(修)行也

 

殺人刀活人剣、すべて掌中に有り、脇指九寸五分は九品蓮葉剣に憂い苦海の中に出離し、生死魔軍を追倒するは釈道九曜五古(鈷)の内証也。

 

則ち曹洞五位の秘訣と為す、敵味方と成る事、是また前生の業感也。生死一体にして百戦場中大寂光土たらしむ也。

此の如く現世を観る事、摩利支尊天の護身符也。

此の居合千金を賜うを以て貴からず、但し實當の人に於いて之を伝符すべし。

兵利に心懸けるは昼夜之を思い、神明の息に祈り、利を得て正しく見、心済の身により

畢竟黙然やや久しゅうして云う

珊瑚枝々撑に月付く。

 

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