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2015年12月 3日 (木)

曽田本免許皆伝目録その24林崎新夢想流解説の3意味

 
曽田本免許皆伝目録


その24.林崎新夢想流解説の3意味


*津軽藩に残された林崎新夢想流の根元之巻は土佐に伝わる根元之巻より内容が豊富です。
よくその内容を掘り下げませんと、仏教用語に惑わされ、密教に惑わされややもすれば、人智で計り知れない世界まで居合の根元にはあったような錯覚に陥ります。
根元之巻は業技法の修行を終えた者に許されたもので、其処から本来の心の修行をせよというものと思はれます。
何とか読み解いて見ます。
誤りや解釈が違う、という事があればどしどしご意見をいただきたいと思います。
「そもそも居合は奥州林の明神の夢に現れた想に従い之を伝える。
それ兵法は上古・中古数多あると云うけれど、此の居合末世に相応する太刀である。
面と向かった近間の勝負による一命の有る無しは此の居合に極まる。
恐らくは天竺より遠く離れた粟粒ほどの日本であったとしても、この一命の有無が居合に極まると云う事を不審に思ってはならない。
ただ林の明神のお告げが夢に現れたものである。
此の居合の始まりを尋ねれば、ある時、奥州の林崎甚助という者が、兵法を身につけたいと望み、林の明神に百日の祈願を掛けて籠り、その満願の日の暁時、夢の中にお告げがあった。
汝この太刀を以て、常に胸の内に倒さんと念じている怨みある敵に勝つ事を得るであろうという。
すなわち、夢のお告げの如く、大利を得て、腰刀三尺三寸を以て脇指九寸五分に勝つ法である。
表六寸(敵の柄口六寸)にして之に勝つ、互に打ち下ろす頭に、唯、我は一図に敵の柄に打込み勝つ、これは妙にして不思議の極意である、一国一人に相伝するものである。
腰刀三尺三寸は、前世・現世・未来に於ける、真実に浄土を願う心と深く浄土を願い、修行の功徳を回向して浄土に往生しようと願う三心三身であり、すなわち仏・法・僧の三宝に帰依し、王法は三剣によって(草薙剣・都牟刈の大刀・八重垣剣と称される三剣)世俗の法を守る。
禅門には十八種の剣、六種の剣、十二種の剣があるという、又、身を正し、家を整え、家中を重んじ、代って衲僧の思いを截断する、是が修行である。
禅門に於ける殺人刀活人刀による修行の完成の活殺自在は、掌中にあり、脇指九寸五分の剣は九品蓮台に観るように上品・中品・下品とあり、更に夫々の下位に上生・中生・下生とあって都合九つの剣となる。
その苦海の如き運剣を出離し、生死を追求して来る魔軍を追い倒すには釈迦の道に従って九曜五鈷によって運命を斬り開いていく証しであろう。
それは、則ち、曹洞禅の五位、正中偏(凡夫の境地)・偏中正(凡夫から菩薩へ)・正中来(菩薩の境地)・兼中至(偏中至)(菩薩から究竟仏へ)・兼中到(究竟仏の境地)の如く、段階を経て修行する事によって奥義に達するとするものである。

敵味方と成る事は前世の行為に依るものであり、生死はどちらとも言えず一体であって戦場に於いても浄土と見なす大寂光土である。
この如く、現世を観る事は、摩利支尊天によるご加護に他ならない。
この居合は千金を積むと言われても授与するに値する貴い人では無い、この居合を授けられる真実の人に伝うべきものである。
兵の利に心掛けるには、昼夜此の事を思い、神明の息に祈り、利を得て正しく見る事によって、心を済まし静かに座すれば、生死の迷いは、月が珊瑚の枝々に宿す如く、自ずから霧の如く消え去るであろう。」
*津軽藩に残された林崎新夢想流の根元之巻は、このように林之神明に願って得られた極意であって、仏教用語に補完されていますが究極は、「表六寸、所謂、敵の柄口六寸に互に打ち下ろす頭に打込み勝つ」と言う極意を伝授して居ます。そして、「心を済まし静かに座すれば、生死の迷いは、月が珊瑚の枝々に宿す如く、自ずから霧の如く消え去るであろう」と無心になれよと教えてもいます。

 是は、居合のみならず、立合いの剣術にも通ずる極意であって生死の迷いが有っては達する事の叶わない究極の極意でしょう。
 一刀目の抜き打ちで目的を果たす事であって、抜き打ちでは不十分などの言に惑わされていては目的を果たす事は出来ないものです。一刀目で戦闘能力を奪い二刀目の真向打ち下しで止めをさす、などもこの流には本来の事では無く、相手の戦闘能力を奪えば目的は達せられたことになるのです。
 武術の根元は、一刀目で戦闘能力を奪い二刀目で相手を殺すなど、殺す事が目的では無い事を思うべきものなのでしょう。
 武術をよくする者は、往々にして無学の者が多かったと云われます。この津軽藩の伝書もどこか禅坊主が筆耕した様な匂いがすると言えば、土佐の伝書はそれより、コンパクトで見劣りがします。
 そんな事を書けば、誰やらから頭から火を噴く様に罵られるかもしれません。しかし、術理だけでは、いずれ武術修行の限界になり、所属年数と段位のみが頼りの、上から目線のみの情けないものに終わってしまいます。
 最近居合にも多くの欧米の方が修行に来られています。術理では無く「道」を求めて来られる方も在るようです。形は教えられても、武術の心は教えられない、それでは遥々異国から来ても幻滅となります。
 武術の修行に禅的修行を合わせ持つ必要があるのかも知れません。本来は日々刀を抜き付けて先師の教えを思う時、自ずから禅の修行ともなるべきが剣の修行かも知れません。
 思いつくままに・・・。
津軽藩に残された林崎新夢想流の伝書を終ります。

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