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2015年12月28日 (月)

曽田本免許皆伝目録その49山本宅治先生より大田次吉先生を終えて

曽田本免許皆伝目録


その49.山本宅治先生より大田次吉先生を終えて


大田次吉先生の略歴を上げておきます。
これ等は大田先生のお弟子さんによる平成23年発行の「玉誠録 我等が師・大田次吉先生伝」に依ります。
大田先生の山本宅治先生への師事は昭和34年1959年入門(67歳)、昭和38年1963年免許皆伝です(71歳)。
居合道の履歴
*明治23年1890年西川倍水生まれる
明治25年1892年大田次吉高知県宿毛生まれる
*山本宅治明治19年1886年生まれ、6歳年上でした。
明治42年1909年大田次吉志願入隊(17歳)
大正10年1918年頃大田次吉退官(26歳)
大正11年1982年大田次吉日体大入学(27歳)
大正13年1924年大田次吉高知県安芸中奉職、
            長尾影房に師事(32歳)
*昭和2年大江正路没す
昭和3年1928年大田次吉退職し立正大に通う
           とか太平洋戦争などあって居
           合から遠ざかっていたと思われます。
*昭和25年1950年第19代福井春政、河野百錬に紹統印可
昭和30年1955年大田次吉居合を西川倍水に
           指導を受け再開。(63歳)
*昭和34年1959年西川倍水没す(69歳)
昭和34年1959年頃山本宅治先生に入門(67歳)
*山本宅治先生(73歳)
昭和38年1963年大田次吉山本宅治先生
          から免許皆伝(71歳)
*昭和49年1974年河野百錬没す(77歳)
昭和51年1976年大田次吉全居連副会長(84歳)
昭和52年1977年大田次吉関東地区居合道連盟結成(85歳)
*昭和53年1977年山本宅治没(91歳)
昭和55年1980年大田次吉「土佐英信流」出版(88歳)
昭和59年1984年大田次吉没(92歳)
 
 大田先生は山本宅治先生に69歳で入門されています。西川先生亡き後、新たに師を求めて前に向って行かれる程の凄い魂を宿されていたのでしょう。
 並の人ではそこで挫折して、衰えていくばかりです。
大田先生の居合を古い動画で見る限り「大きく迫力のある居合を抜いていた」とお弟子さん方は、懐かしんでおられる様です。
 残されたお弟子さんの居合は大田先生に似ていません、寧ろ華麗な洗練されたものです。高弟であった白石五郎先生の実技指導が身についたのでしょう。大田居合は、業技法ではなく慈愛に満ちた「心」が大田居合なのだろうと思っています。 師の指導とはそう云うものなのだろうと思います。
*玉誠録には「宗家を高知へ返還するための執念」の項目が語られています。
 第19代福井春政先生が土佐への思いを断ち切って、昭和25年に大阪の河野百錬先生に第20代宗家を紹統印可されています。(2015年12月23日ブログ)
 「宗家を土佐に戻すという思いは福井春政、山本宅治等の17代大江正路直門の先生方はもとより、土佐居合道界全体のものであった。土佐側の次代宗家候補を西川倍水として返還の話し合いを行うため香川県善通寺で行われた大会に関係者が集まった。しかしなんと西川先生が大会の会場で演武を見ている最中に倒れられて3日後に急逝される」
*西川倍水先生の逝去は昭和34年1959年の事でした。その後、昭和46年1971年に田岡 傳先生に因って第19代福井春政先生がお亡くなりになると(昭和46年2月18日)、福井宗家の遺言と称して、第20代宗家として竹嶋寿雄先生(当時41歳)を、河野先生存命中に、傍系宗家としてたてられています。これでは第19代福井春政先生を辱めるばかりの事です。
 土佐への思いがあったとしても、第20代河野先生存命中に、突然、第20代竹嶋寿雄先生を立てるなど、武士道精神を欠いた行為でしょう。
 既に全国に多くの同志を得ていた無双直伝英信流の剣士を蔑ろにしたただけの自己中の様に思えます。
 第19代宗家福井春政先生が、土佐に次期宗家を立てられずに悩まれた心情は、折りに触れて土佐の剣士に語られ、或は土佐の剣士から攻められたことは、その後の、土佐の剣士の行動から察せられます。
「昭和49年1974年5月21日河野先生が亡くなり大きな動きがあった、8月8日付けで「無双直伝英信流第21代宗家決定に関する通牒」と言う文書が流された。大江正路と穂岐山波雄直門の山本宅治、森 繁樹、田岡 傳、中川 稔、森藤米次、野村譲吉の所謂英信流長老の連名で、次期21代宗家に高知の竹嶋寿雄を推す事に関する賛否を問う内容であった。この通牒は範士全員(英信流の範士のみか?)に送られたと思われる。当然大田先生は竹嶋先生に賛成したはずである。
 しかし結果は福井虎雄が21代宗家の継承者となった、この宗家継承の経緯についてはここに記すだけの資料を持たない。」
「新宗家が決定した後に大田先生は、福井宗家を強く押した当時全居連会長の池田昂浡に対し「7年ゾヨ」と7年後には宗家を土佐に変換することを条件に承知している」
「竹嶋寿雄先生は19代宗家福井春政が亡くなるときの意を受け、高知において傍系20代宗家を継承していた。そして竹嶋寿雄は全居連を離れ全国居合道に所属し別に活動していた」
「竹嶋は流派名を「無双直伝英信流」から「土佐直伝英信流」と替えた。」
*20代河野宗家が存命のうちにも関わらず、20代宗家を押したてたのでは困ったものです。其の上20代河野宗家が没するや、竹嶋先生を21代宗家として賛否を問う通牒とは、之如何にです。傍系を標榜するなら、20代のまゝ押し通し、全国に広がった「無双直伝英信流」の剣士を、土佐の方々で束ねる、施策を打つべきだったでしょう。
 寧ろ傍系として立てずに19代福井先生の遺言として竹嶋先生を21代として河野先生存命中に立てて置き、河野先生に依って紹統されるとか方法もあったろうと思います。
 心無い長老方によって押したてられた竹嶋先生も辛かったろうと思います。
 この居合と言う伝統文化を惜しまれて土佐から広がる事を望み、第19代福井先生は苦渋の中に河野先生に託す決断をされたのでしょう。
 大江先生の居合も「剣道てほどき」に乗って広まって行きました、曽田先生も苦労して集められた土佐の居合の秘伝を瀬戸内を越えて望まれる方に出されています。細川先生も中山博道先生に伝授されています。免許皆伝も香川の植田平太郎先生に出され土佐を出ています。
門外不出を通したい願望は解らぬでもないが、あまりにも稚拙な行為としか思えません。大江先生はそんな弟子を育てはしなかったと泣いておられるでしょう。それは何故だったのでしょう。
 師匠の思いが強ければ、可愛がられたお弟子さんも、師匠亡き後にも「その幻に想いを致す」ものです。うらやましくもあるのですが、師匠の思いをどう受け止められたのか、大田師匠が捨てなかった全居連を幾人かのお弟子さんは師匠が没するや捨ててしまいました、全居連に残られた方を仲間と思わない行為も有るや無しや、けなげな姿というか・・・??を眺めるばかりです。
 昭和46年8月10日の居合道新聞に河野先生の「傍系20代~誕生、正統第20代宗家河野百錬」と題した記事が掲載されています。
「・・此上は分家として心を一にして故先生御意志に反する事無く益々精進を重ね而して徳と力を養うべく心を新たにした次第で分家に於かれても拙意を諒とされて、故恩師の御徳を汚す事無く益々自重精進あらん事を希う次第である」
と、無双直伝英信流宗家としてのらしき発言をされています。
 しかし、続けて「余談であるが、私見としては・・本流の傍系としての代を唱ゆる事は変則と思う=飽く迄も代を唱ゆる者はその流の正統ただ一人のみが本則であると信ずるものである。~此の見地に立って私は将来時期を得て当流の古老と諮り、土佐の国に人を得て正統宗家を紹統する考えであったが~先代の意志に依り茲に当流の20代を唱する傍系が今回誕生した事は各々の見解の相違に依るも私の平素の所管とは相違するものである」
 この文章は、道を外している事への嘆き(寧ろ怒り・・)の声でしょう。
 74,5歳の河野先生の居合を見た大田先生の御弟子さんは、「あんなへぼ居合はやりたくない」といっていたとか。其の御歳であれだけの居合が出来る人は何人居られるでしょう。
 林崎甚助重信の残された居合の伝書の幾つかを読み解いているうちに、「人の業」を垣間見てしまった様です。
 土佐に伝承された居合は、門外不出などに初めは捉われていても、文明開化によって板垣退助の勧めもあって大江先生も細川先生も目覚められ、土佐の素晴らしい武士道文化を広めようと改められたのに、「幻を引きずって」、土佐の長老を筆頭にしたその為され様は、子供の「いじめ」よりひどく考えさせられてしまいます。
 現在でも、似たような話は幾つか聞こえてきます。業技法の違いなど当たり前の事、考え方も、哲学も違って当たり前の事です。然し、分かれた方の居合も、どうやって見ても無双直伝英信流です、夢想神傳流を見て居ても同じ土佐の居合を少しも越えていません。
 何の為に居合を業ずるのか少しも判っていないただの棒振りなのでしょう。
 武術は自ら信じた事を貫く、人と人のコミュニケ-ションの最終手段です。居合を学びながら天地と和す事を学ぶものでしょう。
 

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コメント

ミツヒラ様
お世話になります。無銘です。
玉誠録、私も読みました。
師匠への愛に溢れた本です。
居合道には光と闇が混在します。
私は私の居合道が光の道であることを自問自答しながら進みたいと思っています。
どうぞよい年をお迎え下さい。
毎朝楽しみにしておりますので、来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

無銘さま
コメントありがとうございます。
玉誠録の筆者は私の大好きな先生です。
大好きだからと言って、迎合したのでは、一方通行で「思いつくままに」にはなりません。
真実を求め、人の言に惑わされず信じて歩み続ける事であり、道が誤りであれば元に戻って歩き直せればよいと思っています。
毎日、ご拝読いただきありがとうございます。
来年も宜しくお願いいたします。
          ミツヒラ

投稿: 無銘 | 2015年12月28日 (月) 13時57分

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