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2016年4月 3日 (日)

幻を追ってその7中山博道先生の居合7比較の6意義

幻を追って

その7.中山博道先生の居合

7、比較の6居合の意義

太田龍峰先生の「居合読本」に依る居合の意義を読んでみます。
「居合とは、刀の抜き方、納め方、撃突、防禦の諸法を居坐りの儘、行ふ術であって、又は、抜刀術
とも云ふのである。元来武士の嗜みとして、何時、如何なる場合にあっても、危機に臨み、急変に応ずることを得て、電光石火一瞬に勝を制せんがための刀の使術と身体の運用とを錬磨する術である」(昭和9年1934年発行居合読本第一編総論第一章居合の意義より)

*この文章は、昭和13年1938年発行の河野百錬先生の無双直伝英信流居合道第一章総論の第一節 居合の意義につかわれているのと意味は同じでしょう。河野先生はこの居合読本を読まれていると思います。
「居合は、我が日本精神の象徴たる、肇国の大精神を宿す霊器日本刀の威徳に依りて、心を修むる道にして、剣道の立合ひに対する所謂る居合ひの意なり。
 而して古来より居合の勝負は鞘の中にありと称せられし如く、抜刀の前既に心意気を以て敵を圧し閃光一瞬にして、勝つの術にして、元来敵の不意なる襲撃に際し、能く直ちに之に応じ、先又は後の先の鞘放れの一刀を以て電光石火の勝を制せんがため、剣道の一分派として武士の間に創案されたる刀法にして、坐居の時、又は歩行する時、其他あらゆる時と場所に於ける、正しき刀法と身体の運用を修得し、精神を錬磨する大道なり。」
*大正7年1918年発行の「剣道手ほどき」にある、大江・堀田先生共著による「無双直伝英信流居合術の由来」では以下の様に居合に就いて書かれています。
「我国で武道と申すものは弓馬槍剣の道であります。此道の中で今日では剣道が一般に亘って心身を修養する事に用ゐられて居りますが、茲に謂ふ居合術は即ち剣道の一つで、竹刀を持って練習するときは先づ剣の取扱ひ方及び使ひ方を弁へないと真の目的に沿はないのであります。
 居合術は真剣でありますから其の刀を一振一撃するときは気籠り油断なく攻撃的精神が充溢して居るのであります。居合の抜き付けは敵が不意に切って来るとき、突いて来るとき、其先を制する業でありまして全く気合の働きであります。此居合で業と気合を練習してから竹刀練習に応用致さば相手の先を制することは極めて容易であります。
 普通剣道修養者は、居合術は竹刀を以て打ち合ふ以外の者である様に心得て居るが夫れは甚だ誤って居ります。真の居合術といふものは竹刀練習の基本ともなるべきもので、今日の竹刀練習は稍々もすれば棒振りに流れ、體育を主として精神を離れる傾向がありますから。竹刀練習の基礎たる気合と業を充分に修養致したならば其打ち込動作の地盤が出来るのでありまして固い地盤によりて充分修養致さなければ真の精神的の竹刀を使ふことが出来ないのであります。」
*「剣道手ほどき」では、居合そのものについての考察を置いて、竹刀剣道への修養の一環であるかの如き感が否めませんが、述べて居る事は、「居合の抜き付けは敵が不意に切って来るとき、突いて来るとき、其先を制する業でありまして全く気合の働きであります」に集約されています。「気合と業を充分に修養」する事に意義があるといっています。
 この頃の教書は、「居合読本」が最も良く整理されていて読みやすく構成されて居る様です。従ってその後の教本の手本ともなって居ると思います。

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