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2016年7月20日 (水)

幻を追ってその7中山博道先生の居合9大日本抜刀法の1序

幻を追って
その7.中山博道先生の居合
9、大日本抜刀法も1序
「大日本抜刀法」は無双直伝英信流の第20代河野百錬先生が、「大阪武徳会当局より(主任師範志賀短範士)形の組織方を不肖河野百錬に任命されたるを以て浅見を顧みず其の目的の下に昭和14年7月新たに組立てしたものにして、主として野外道場に於ける実戦集団教錬を主眼として無双直伝英信流を基礎として之を編成したる立居合なり。」と昭和17年1942年発行の大日本居合道図譜に「大日本抜刀流」として戦前に既に公にされて居ます。
 河野百錬先生41歳大日本武徳会居合術錬士の頃の事です。大日本居合道図譜を発行した時は44歳大日本武徳会居合術達士でした。
此処で中山博道先生がこの「大日本抜刀法」に登場するかと言いますと、香山会の幽芳録に「中山博道先生考案 大日本抜刀法」が収録されています。
 幽芳録には大村唯次先生がその謂れを書かれています。昭和20年春ですから敗色濃い頃、この大日本抜刀法を「仮称大日本抜刀法として考えた」と云って中山博道先生が大村唯次先生に教示されたそうです。
 大村先生は当時神奈川県平塚警察署長だったそうで、平易で呑み込み易いものであったとされています。その後、見直してみてこれを普及したく、公にされたと書かれています。
 目に付いたのは「大日本抜刀法」と有って、河野先生考案の「大日本抜刀流」と一字違い、無双直伝英信流第21代福井聖山先生が無双直伝英信流の業として新たに加えられた「大日本抜刀法」と同名である事。其れに「中山博道先生考案」の文言でした。
この河野先生の大日本抜刀流は福井先生が無双直伝英信流に加えられた時には業数も増やされ、大日本居合道図譜にある大日本抜刀流と動作も異なる部分などあって、全く同じとは言えなくなっていますが、充分その刀法を伝えています。
 中山博道先生の大日本抜刀法と河野先生の大日本抜刀流そして福井先生の大日本抜刀法を稽古して見たいと思います。
 今、此の刀法を前にして思う事は、何処が夫々違うのだろう、其の違いの意味は何だろう、香山会の幽芳録に記載されている「大日本抜刀法」は夢想神伝流に伝承されて居る様に聞かないが何故だろう。何故中山博道先生は之を考案されたと大村唯次先生に告げたのだろう、など駆け巡っています。
 中山博道先生は、大正9年1920年に無双直伝英信流の第17代大江正路先生に4年先んじて大日本武徳会居合道範士になられています。剣道、居合道、杖道などの範士で軍部の指導もされています。
 河野先生が大阪の武徳会の要請で創作した大日本抜刀流も武徳会に上納されて居合道の筆頭に居られた中山博道先生が手を加えられたかも知れません。
 権威ある組織及び人には無抵抗の時代です、そんな風には思いたくありませんが、武道の組織とはそんな処が当たり前です。事実はどうなのでしょう。
 権力があったればこそ戦後、中山博道先生は公職を追放され昭和33年86歳で没しています。
 香山会の幽芳録にある「中山博道先生考案大日本抜刀法」について、武術の手附は出来るだけ原本に見られる文言をそのまま使わせていただきたいと思います。
 まかりならぬと仰る場合はコメントなどで仰ってください。ご相談させていただきます。
 中山博道先生も、幽芳録に公にされた大村唯次先生も、心ある方が稽古される事を望まれておられると思います。
 業手付は、正しく後世に伝えるため、そして誰でもそれに接する事を望まれた為に書かれたものと思います。
「いや違う、誰でもが触れる事によってあらぬ方向に行ってしまい、始祖の思いが失せてしまう、奥義とはそんなものでは無い、権威に因って捻じ曲げられる事も有る」、などご意見、ご指摘いただければ幸いです。
 
 
 

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