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2016年10月 6日 (木)

曽田本その1の1神傳流秘書を読み解く1抜刀心持引歌1柄口六寸

曽田本その1
1.神傳流秘書を読み解く
1、抜刀心持引歌
1)柄口六寸
抜刀心持引歌
荒井清信公言ふ夫居合をば手近き勝負柄口六寸の大事あり其の形を事となし
前後左右之を知り先居合抜申形は(丸の中に三角)如斯
1 身を正しくして抜申形肝要也
つり□をタトエバ 面 薄桜
1 居合之位 身の掛り 鉢木 口伝
*読み解く
 抜刀心持引歌 
 荒井清信公が言うには、居合とは、近間の敵との勝負をするもので、根元之巻にある極意である柄口六寸、敵拳への抜き打ちに大事がある。その形は、前後左右の状況を知って三角の曲り尺の如く抜くことである。
 いたずらに気色を露わにせず、顔は怒気を含まず、恐れて青ざめず、薄桜であるものだ。
 居合の位、身の有り様は、鉢の木の口伝の如く敵と相対すべきものである。
「鉢の木 佐野に住む貧しい老武士佐野源左衛門常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めて来る。常世は粟飯を出し、大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。
 常世は僧を相手に、今でこそ落ちぶれたとはいえ一旦事あらば痩せ馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付ける、あの僧は実は前執権北条時頼だったことを知る」
お能の出し物ですが、「おもてなしの心を」以て敵を迎えろと云うのです。
 書き出しは、抜刀の際の心持ちを歌で示すというのでしょう。そして居合の根元を柄口六寸である敵の拳へ抜き打ちに抜刀して勝つ事を示唆しています。現代居合の指導者から聞かされた事も、見本を示された事も無い、土佐の居合の書き出しです。
 この一文を目にした時、柳生新陰流の柳生兵庫助利厳が尾張大納言義直候に第四世を相伝する際に進上した[始終不捨書」の神妙剣五之習大事の四項目に「六寸之大事」を思い出しました。
 「是は吾が太刀先三寸を以て敵の拳の三寸を打つ事也」と外伝口伝書にあると柳生延春先生の柳生新陰流道眼に書かれています。
 拳に勝事は、介者剣法においても、素肌剣法においても、当然居合においても戦力を奪ってしまう有効な刀法であったと思われます。
  居合の始祖林崎甚助重信から伝わる根元之巻に「腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之妙不思儀之極意」と柄口六寸の勝ちを極意としています。
 土佐の居合の最も古い伝書は、現在の処この神傳流秘書だろうと思われます。荒井清信公から書き出されています。土佐の居合の第8代荒井勢哲清信のことでしょう。
 この神傳流秘書を書いた或は伝えた人は、荒井清信に師事した事を伝えているのでしょう。
 土佐の居合の系統は、1代目林崎神助(甚助)重信-2代目田宮平兵衛尉業政-3代目長野無楽入道槿露齋、ここまでは奥州と同じでしょう。

 以降は、4代目百々軍兵衛尉光重-5代目蟻川正左衛門宗続-6代目萬野團右衛門信定-7代目長谷川主税助英信-8代目荒井勢哲清信-9代目林六太夫守政-10代目林安太夫政詡、とされています。
 4代目から8代目までは殆どその出自は不明だろうと思います。

 戦国時代が家康によって終焉し、主君を持つ武士と、浪人した武士達、もともと農民であったであろう足軽などの下級武士など、正規の武士と農民との境界線にいた人々、宮本武蔵の様な主君を持たない武芸者などが、江戸初期から中期へかけて、よきに付け悪しきにつけ横行したのだろうと思われます。
 そんな武芸者の一人荒井勢哲清信に、土佐藩の御料理人頭知行八十石の林六太夫が江戸勤番の折りに居合兵法を習ったのだろうと思います。

 林崎甚助重信が抜刀の妙を悟り元服して林崎流を名乗ったのが永禄2年1559年頃(林崎明神と林崎甚助重信より)であったとするならば、土佐の林六太夫守政は享保17年1732年に70歳で亡くなっていると云います(平尾道雄著土佐武道史話より)。生まれは寛文2年1662年でしょう。すでに林崎甚助重信始祖から100年以上の歳月が経って居ます。

 戦の無い時代の武芸ですから、この頃はすでに芸事としての精神性が非常に高くなっています。それが、この神傳流秘書の書き出しにも表れている気がします。
 林六太夫の養子で10代目林安太夫政詡は安永5年1776年に亡くなっています。
 老父物語で始まる、林安太夫政詡の居合兵法極意秘訣が明和元年1764年頃に書かれています。

 神傳流秘書を父である六太夫が書いたものならば、六太夫が30代から50代でしょう。
推定すればこの神傳流秘書は元禄3年1690年頃から明和元年1764年までに書かれているのでしょう。
私は、9代目林六太夫守政では無く、養子の10代目林安太夫政詡の執筆ではないかと確証もなく思います。その原本を山川久蔵幸雅が文政2年1819年に書き写したものなのでしょう。
 原本は既に無く、山川久蔵幸雅の写本が、幾つか写しを重ねて現在まで伝承していると思われます。

 

 

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