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2017年4月17日 (月)

曽田本その1の1神傳流秘書を読み解く8大剣取10水月

曽田本その1
1.神傳流秘書を読み解く
8、大剣取
10)十本目水月
水月
 相手高山我切先を向へさし付行時八相に拂ふを外し拳へ打込ミ勝
以上十本
読み
水月(すいげつ)
 相手高山 我切先を向へさし付け行く時 八相に拂ふを外し拳へ打込み勝つ
以上十本

読み解く
 相手は上段に構え、我は「切先を向へさし付け」ですから正眼に構え切先は相手の喉元又は眉間でしょう。
 正眼に構えスカスカと間境を越すや、切っ先を右に振り左拳に誘い相手我が左小手に八相に払って来るのを、右足を斜め前に踏込み同時に左拳を右肘に引付これを外すや透かさず相手の拳に打ち込み左足を踏み込み詰める。

 柳生新陰流の「くねりうち」をやってみましたが、ここは相手が我が正眼に構えた刀を上段から八相に払って来るのでこれを、刀を上に外し踏み込んで相手の拳に打ち込む。というセオリー通りの方法から研究していけばいいと思います。
 「八相に払う」は何処を八相に払うかは指定されていません。刀など払ってもチャンバラでは無いので意味は無いでしょう、一刀の下に我が戦力を奪える処へダイレクトに打ち込まれるのでなければ此の業は活きて来ません。従って我が拳に打ち込ませる技も学ぶことになります。

 政岡先生は、相手上段、我は正眼に差し出して行く。相手斜めに我が刀を払って来るのを切っ先を下げて外し、ふみこんで小手を取る。

*これは竹刀剣道の常道でしょう。
 相手も太刀で、我が太刀を払う様な方法はどうも好きになれません。
 相手に我が身を土壇となして撃ち込ませそれを外して勝は土佐の居合の根底に流れている様に思っていますがいかがでしょう。

 以上十本

 以上十本で大剣取を終わります。
 太刀打之事十本、詰合十本、大小詰八本、大小立詰七本、大剣取十本、合計四十五本の仕組(組太刀)は現代居合では指導する人も無く、稽古する人も疎らです。
 心ある方は何人かで研究しあって、この「思いつくままに」の仕方を完成させていただければと思います。

 第17代大江宗家の残された形のみに固執し、古伝の形を遺棄する方達も居られます。
 然しその方達は土佐の居合が総合武術であったことを忘れ、他流の形や動作をいかにもそれらしく取り込んでいたりします。
 大江先生の教えだけでは不足と考えられ、総合武術としての修行を目指すとする事には異論などあろうはずは有りません、然し元々あったものを学ぶ事を拒否したのでは先師を蔑ろにする事で恥とすべきものでしょう。
 秘事と称して伝書を公にしてこなかったのか、伝授された方の子孫に其の素養が無かったかは知りません。

 この時代居合に依って人を殺傷するなど論外の事です。日夜弛まず抜きつけていく修行によって己を見つめ直し、あるべき姿を描き出し、其れに向って目指す事が究極の目的でしょう。

 誤りと気づく事があれば素直に直せばよいだけです。いたずらに立場を固執すれば道を外してしまいます。

 弟子を持ち師匠と云われる先生方は文化の伝承を担っていると認識し、たとえそれが己の直近の先師が持ちこんだものであっても、明らかに他流の形や動作であれば、見直して常に古伝と照らした上で古伝に返るべきものと思います。

 古伝は大らかです。自流の古伝を伝える者が無ければ、他流から学んだものを工夫して古伝の大らかな手附から業技法をよみがえらせる事も許されるでしょう。
 現代まで継承される流派は多くは体系的にも充分研究されています。我が国の伝統文化そのものです。
 それが現代風に変化していても決して間違いではない筈です。
 そんな研究を弟子達とフランクに語り合え、稽古する様にならなければこの道は廃れて行くでしょう。
 「俺の習ったものと違う」など当たり前のことなのに、師匠の教えしかやらないなまけものや、不器用な者も所属年数が来れば段位も上がり得々としています。
 あまり意味の無い事で、へぼに任せれば道は外れてしまいます。
 優れた人には自然に人は学びに来るものです。実力がなくとも長年の功績による段位が高く、所属年数が長いだけで道場を任せれば流派は滅び去っていくでしょう。

 個々の指導者に頼らず、統一理論を以て「ルールやかたち」を統一してしまっては、武術を踊りとなしてしまい武的演舞を良しとして伝統文化の破壊ともなりうるものです。一部の管理者によって本質を誤る事も有りうるはずです。

 現代は、この神傳流秘書の様に、誰でもに公開されています。流派の掟は一部の人に隠されたものでは無く、志す万人に公開されて行かないと消えてしまいます。

 一対一の武術など大量殺戮兵器の前に消えてしまっても良いと思われる程に武器の開発が進んでいます。そんな中では日本の武術は意味の無いものと思えるかも知れません。
 剣術から派生していく武術は相手の害意に応じる仕方の手引から始まり、絶えざる修練によって何時如何なる状況でも即座に応じる事が出来る心と柔軟な身体を学ぶものであろうと思うのです。

 古伝などに興味は無いと嘯く古参の人がいます。稽古の度に前に出て、如何にも模範と言う様に得々と演じるのですが何の感動も覚えないのは何故でしょう。

 昨日も今日も何の進化も無い心も見えないかたちだけものです。講習会に行ってきた説明をされても「かたち」ばかりです、その人から何を学べばいいのでしょう。
 審査や大会の演武として教えられただけのことしか出来ない棒振りの弱さが演舞となって出てしまうからでしょう。そこまでです。
 真摯に取り組んだ者だけに武術は微笑みかけてくれると信じています。

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