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2019年1月24日 (木)

曾田本その2を読み解く1故吉宗貞義先生記録写1誓約

曾田本その2を読み解く
1、故吉宗貞義先生記録写
1.誓約
原文
夫レ居合術ハ独技独行ナルガ故二其之ヲ演ズル二當テハマツ己レカ胸中二敵ヲ作リ敵ノ己レ二加ヘントスル機二先ンシテ以テ勝ヲ制スルコトヲ學フへシ
  △誓約
第1、師ノ指導二従順ナルヘシ
第2、禮儀ヲ重ンシ長序ノ別ヲ正之諸事軽薄ノ行為ナキヲ要ス
第3、猥リ二他人ノ技藝ヲ批評ス可カラス常二己レカ技藝ノ不足ヲ反省スヘシ
読み解く
 居合術と云うのは、一人での行う技であるので、そこで之を演ずる当たっては、己の胸中に敵を作り、敵が己に加えようとする機に先んじて、以って、勝を制する事を学ぶものである。
  △誓約
第1、師の指導に従順であること。
第2、礼儀を重んじ、年長者や古参の者との順序を乱さず、
   諸事軽薄な行為の無い事を要する。
第3、すじ道のたたない、あるいは身分をこえて、むやみに
   他人の技芸の良し悪しを評してはならない。
   常に己の技芸の不足を反省すべし。
 居合と云うのは、刀を抜き空間を切る演武なので、形ばかり出来ても敵の攻撃に応ずる事は出来ないわけで、己に危害を加えようとする敵を思い描き、敵が危害を加えようとする機に先んじて、抜き付け勝を制する事を学ぶのである。
 昔所属していた道場の十段の先生は、「修行が満ちて来れば仮想敵が現れるだろうがまだ見た事が無い」などと馬鹿言ってます。妄想が勝手に浮かぶ様なら頭がおかしい。
 亦ある連盟の会長は「昔は仮想敵を思い描いて居合を抜いていた、今はやってない」だそうです。是も何やってんでしょう。
 是もあれも棒振りの踊なんでしょうね。永年同じ事をやっていれば、業名を云っただけで体が勝手に動いて、如何にも敵を切っている動作をしていると、思っている様です。
 居合を学ぶ意義は、「敵が己に加えんとする機に先んじる」事で、「我から先んじて抜きつける」事では無いと解しているのが現代居合の考え方であって、これは第20代河野百錬先生の居合の考え方になる様です。
 「敵が己に加えんとする機」とは何かが明瞭に語られていない、上意による打ち果たし(放し討ち)、意見の食い違いによる殺意の発生などなど事前の意志は言葉にも顔にも表れるものです。機先を制する場の取り様は、相手が切って懸かる時に応じるのでは機に先んじてとは言い難いでしょう。
 曽田本その1の「英信流居合目録秘訣」にその極意が述べられています。
 「夢うつつの如くの所よりひらりと勝事あり、その勝事無疵に勝と思うべからず、我が身を先ず土壇となして後自然に勝ちあり、その勝所は敵の拳也」この教えは、敵の打ち込んで来るのを待って応じる極意です。現代居合では敵の拳に勝つ教えは失念して、顔面や首、肩下に抜き付け真向に打ち込んだりしています。何処を切っているのか傍目には判りません。
 吉宗先生の考えでは「機に先んじて、以って、勝を制する」を、傍から見るとすれば、敵が「斬る」と声をかけた時、鯉口をきった時、抜刀して斬り込んで来た時などの状況に応じて勝つ技法を学ぶのだと解しておきましょう。
 誓約については、へぼ道場の壁に之を張り付け、得々として武術を学ぶ心得だと云っていました。
 何処かの剣道雑誌にあった誓約を借りて来たものでしょう。吉宗先生の江戸末期から明治の初期における稽古の有り様では、師の教える理合い、師の演ずる形以外に習う手段は無さそうです。流の業技法は師以外に習い様は無かったと思われます。
 まず、教えられれた通りに稽古する。それには何の異論も無いのですが、いつの間にか師と称する者が弟子の全てを制している錯覚に陥り従順の領域を私用にまで広げ、あげくは思想まで同じにしようと縦社会のパワハラを持ち出してしまいます。
 第2の場合も、古参や上段位の者への秩序を乱すなというのですが、ただ長くいただけで段位が上などでは意味のない事で、一度手に入れた段位は永久的で稽古をさぼって、ヘロヘロの醜いものでも上段位だそうで師がそうなら真似をしてパワハラでは意味がない。
 第3は、みだりに他人の技芸を批評するな、と云ってます。
 是も狭い縦社会を乱さないようにする手立てだったのでしょうが、業技法で納得できずに「何故その様にするのですか」の問いに「そのように習った」と答えられたのですが「誰に習った」かよくわからない。
 いい加減な教えと、、いい加減な解釈が横行していたのでは意味の無い誓約でしょう。寧ろ積極的に師は「今日の稽古は、正座の前の抜き付けとする、こめかみに抜き付ける場合相手の状況はどうあるべきで、その状況にどの様に応じるか研究し合おう」とか「打ち込んで来る敵の刀の受け流しは、摺落すべきか請けて流すべきか研究しよう」とか見せかけの「かたち」を超えるだけの稽古法を工夫すべきでしょう。
 この様な、戦前の軍隊調の誓約で縛られては無駄な時間を過ごすだけです。師の自己満足に協力しても意味はなしです。
 師は弟子の進歩を己の取得した時間よりも早くに達せられ、尚且つより高度のものであるように指導出来なければ、師として失格でしょう。
 其の癖「守破離」の言葉だけ述べ立てて「其処まで修行しろ」と云っています。出て行かれたら道場は成り立たなくなります。
 むしろ「習い・稽古・工夫」のスパイラルによる本物の育成に、道場を持った者は尽くすべきで、師そのものがそれだけの力量を持ち学ぶ事が必要でしょう。
 師が「昨日より今日、今日より明日」と学んでいく姿に、弟子は食らいついていくものです。
 
 
 

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