« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »

2019年5月

2019年5月31日 (金)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部4後

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部4後

 正面より真後向に正座し、右膝を中心として左廻りにて正面に向きて、動作する事右の場合と同様。

 4番目は敵を背後にして我は後ろ向きに座して居るわけです、左廻りに後ろに振り向いて斬るのですが、すでに正座之部2本目右で左廻りを稽古しています。
 2本目右は90度の左廻り、4本目後ろは180度の左廻りです。此の動作ならば右廻りがあってもおかしくないのですが、稽古は右廻りだけです。
 第15代谷村亀之丞自雄に依る英信流目録に依って古伝神傳流秘書の大森流居合之事二本目の動作を変えてしまったにもかかわらず同じような動作を繰り返させる意味は何処にあるのでしょう。
 古伝神傳流秘書大森流居合之事の二本目は左刀「左の足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震して立時足を前に左の足へ踏み揃へ左足を引きて納る以下血震する事は足を立替え先踏出したる足を引て納る也」でした。一本目が前に座す敵に対し、右足を踏出して抜付け打込んでいるので、2本目は同じ正面に座す敵に左足を踏み込み抜き付け打込むのです、それで左刀と名付けた。15代谷村先生は二本目は左刀なんだから対敵は我の左脇に座さなければおかしい、として業を変えてしまったのでしょう。古伝の意図する処は、抜き付けは右足を踏出しても左足を踏み出しても出来る様にする体裁きを稽古させようとしたのでしょう。
 それでは、谷村先生の大森流2本目が左廻りに90度回転、4本目が同じ左廻りに180度回転は回転角度が大きくなっても同じ様に出来る様に稽古しなさい、と云うのでしょうか。ついでに一本追加して右廻りの180度も有ったらよかったのにと思ってしまいます。それは自分で研究しなさいと云う事なのか、右廻りは後ろの敵には不利だからやるなと云うのでしょうか。それとも右廻りは簡単だから左廻りを稽古しなさいと云うのでしょうか。
 古伝神傳流秘書の後の敵への業名は「當刀」です。読み方すらよくわかりません、あたりとう、とうとう。「左廻りに後へ振り向き左の足を踏み出し如前」、古伝は同じ動作を要求して居ません、2本目と4本目は異なる足捌き体裁きなのです。谷村居合では2本目と4本目は回転角度は違っても同じ動作に過ぎません。何も考えずに無双直伝英信流の業は古来からのもので云われた通りやっていればいい人はそれでいいでしょう。本物を求める人はとことんやってあらゆる状況を考え稽古すべきでしょう。

 この業の意義は、河野先生の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年では、「吾が後方に吾と同方向に向ひて坐せる敵に対して行ふ業にして、其1前と同意義なり」とされています。今度は敵は我が背中を見て座して居るわけで、最も不利な状況です、我を切ろうと思えば即座に切られてしまうのです。後ろの敵を如何にすれば倒せるでしょう。形ばかり何万回と稽古しても此の業で我が背中を見ている敵を倒す事はできません。
 敵も我と同様後向きで座って居て呉れたらどれだけ楽に倒せるでしょう。今までやった谷村居合(大江居合)の右、左の様に河野先生の意義では我と同様の方向を向いて右か左脇に座して居る相手ならば、お互いに向き合う時間があったのです。
 當刀は後では無く、初発刀(前)と同様の抜き付けの心構えが必要でしょう。流派の極意業は最初に習う業に在りとも云われます。初発刀で修錬した腕を「當刀」で確かめることになりそうです。
 
 

| | コメント (0)

2019年5月30日 (木)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部3左

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の2居合術業書 
正座之部3左

 正面より左に正座し、例によって抜き掛けつゝ爪先を立て、左膝頭を中心として動作に移り、右に廻り正面に向ひて刀を右足を踏み込むと同時に抜き放ち、更に雙手上段に真向に割付け血振り刀を納むる事同前(此場合の動作は右の場合と反対の動作なり)

 此処で大江先生の居合を「剣道手ほどき」大正7年1918年と対比してみます。このスクラップは第18代穂岐山先生の指導に従って河野先生がメモしたものとされています。剣道手ほどきは、大江先生と堀田捨次郎先生共著と云う事ですが、大江先生は監修されたかどうか疑問です、現代の大江流無双直伝英信流の最も古い手附になります。
 参考に一本目前、右、左の三本を読んでみます。
1番前
 我が体を正面に向け正座す、右足を出しつつ刀を抜付け前の敵首を切り更に上段になり同体にて前面の頭部を真直に切り、血拭ひ刀を納む。

2番右
 我体を右に向け正座す左足を出しつつ右敵首を切る心組みにて抜付け、同体にて上段となりて前面真直ぐに敵の頭を斬る。此左足を出したる時は右足の膝にて左へ廻る意を以て右足に体の重心を乗せ、左足を軽く出す事に注意すべし、血拭ひは一番と同じ要領にて行ひ、左足を後部へ引き刀を納むる事。

3番
 左に向きて正座し、左足膝にて右へ廻り右足を出して首に抜付け上段に取り、直に頭上に斬り下す、血拭ひは右足を後方に引き刀を納む。

 筆者は堀田捨次郎先生ですから、土佐の居合の伝書は見た事も無いのではないかと思われます。大江先生の業を見ながらメモを取って纏められたと思います。手附の表現の仕方がスクラップと違う様な気がします。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神傳抜刀術昭和49年1974年の大森流之部3、右刀を読んでみます。
3、右刀(右側に座して居る者を斬る)
 正面より左向きに正座し、例により鯉口を切り、右手を柄に掛け刀を抜きながら右脛を立てつつ左膝頭で右へ廻り正面へ向くなり右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付け、左膝を前へ進ませつつ刀を左後へ突込み右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る。


 「剣道手ほどき」に見られる様に大江先生は、古伝神傳流秘書による或は下村茂市の教えも無視して業名称も想定もいじってしまったのでしょう。古伝神傳流秘書の大森流居合之事3本目は「右刀」です。梅本先生の手附と同じ業名となります。大江先生は左右入れ替わって「正座之部 左」です。
 古伝神傳流秘書大森流之事右刀「右足を踏み出し右へ振り向抜付打込血震納る」

 谷村派第15代谷村亀之丞自雄による英信流目録大森流之位右刀「是は左脇へ向いて坐する也、右へ廻り右の足をふみ出し抜付すぐに討込血ふるひの時左の足を右に揃納る時右を一足引納る也」
 
 この谷村亀之丞自雄による手附が、大江先生の頭の中にあるのかも知れません、それは右刀と題しながら「左脇へ向いて坐する」という一節から、敵は我が右脇に居るが、演武では正面左に向いて坐りなさい、そうすれば右脇に敵が居る事になる、というわけです。谷村亀之丞自雄の英信流目録は嘉永5年1852年に書かれています。明治維新まであと16年、江戸末期には土佐の居合も対敵意識が薄れ稽古業として武的演舞になりつつあったのかと、ふと思ってしまいます。
 

| | コメント (0)

2019年5月29日 (水)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座の部2右

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部2右

 正面より右向に正座し、例に依りて抜き付けつゝ爪先を立て、右膝頭を中心として(左足先と)左に廻り正面に向き、左足を踏み出し同時に刀を抜き放ち、右横一文字に切り付け、更に雙手上段にて割付け血振(此時右足を左に踏揃へ左足を後に引きて)刀を納むる事同前。

 一本目は、「正面に正座し」でしたが2本目は、正面より右向きに正座し、十分気の充ちたる時、左手を鯉口に取り左指にて鯉口を切り、右手の全指を延ばしたる儘柄に掛けて握り、膝を左にひねりて刀を」抜きつつ・・ここが例によりとなる部分です。
 この、スクラップの特色は、対敵意識が欠如している事です。一本目前は、前を向いているので前に敵が居るのかなと思うのですが、2本目は「正面より右に正座し、・・十分気充ちたる時・・」です。此の場合の正面とは、一本目の正面、我の正面に敵が居るので、敵に対し我は右向きに正座すると云う事でしょう。敵は我の左脇に座して居る事になります。その場合敵は我の方に向いているのか、我と同様右向きなのか業書きにはありません。

 古伝神傳流秘書の大森流之事2本目は左刀です。敵は正面に座し、我は一本目と違って:「左の足を踏み出し向うへ抜付け打込み扨血震して立時足を前に左の足へ踏み揃へ左足を引て納る」正面の敵を一本目初発刀は右足を踏出し抜き付ける。
 2本目は正面の敵に左足を踏み出して抜付けるのです。この古伝の足捌きの違いは何を意味するのか不明です。抜き付けには左右何れの足でも踏み込めるように稽古せよとでも云うのでしょうか。文章に「左脇の敵に」とか「左廻りに」とかあれば大江居合と同じなのですがこの文章では、正面を向いたままとしか読めません。
 第15代谷村亀之丞自雄による英信流目録では、第12代林益之丞政誠の英信流目録(安永5年1776年)を嘉永5年1852年に書き改めたと奥書があって、「大森流居合之位 左刀:是は左脇へ向いて坐するなりヒタリへ廻り左の足を一足ふみ出抜付直に打込亦血ぶるいをして立時右の足を左の足に揃へ納る時左を一足引納也」と、古伝を書き改めたとされています。

 神傳流秘書では左刀は左足踏み込みの抜き付け、英信流目録では対敵は我が左脇に座すと修正したことになります。曽田スクラップに依る大江居合は、我の正面の右向きに座すことで、左右の業名を入れ替えてしまったわけです。大江居合は、対敵の我に対する位置関係では無く、演武上の位置関係を主体として変えてしまったと云えるでしょう。大江先生系統の無双直伝英信流は現在でもこの様な座し方をしているわけです。

 大江先生は下村派第14代下村茂市定の門弟であったわけで、細川義昌先生の後輩に当たります。
 細川先生の系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部2本目は左刀(左側に座して居る者を斬る)対敵を想定した業名で古伝に従っています。
 「正面より右向に座し例に依り鯉口を切り右手を柄に掛け刀を抜きながら腰を伸しつつ脛を立て右膝頭で左へ廻り正面へ向くなり、左足踏込むと同時に(対手の右側面へ)抜付け右膝を前へ進ませながら刀尖を左後へ突込み諸手上段に引冠り更に左足を踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る」
 「例に依り」の書き出しに、何故か同統の名残を感じます。

 此の業の場合、敵も我と同様我が左脇で右向きならば条件は同じですが、敵は我が左脇で我が方を向いて座して居るならばそれを制するのは厄介です。
 河野先生の無雙直傳英信流居合道では「吾が左側に吾と同方向に向ひて座せる敵に対し行ふ業にして、其の1正面同意義なり」と想定を特定してしまっています。取り敢えず、左廻りに抜き付ける事を稽古せよと云うのでしょう。
 河野先生の大日本居合道図譜では「正面に向き直るや(左側の敵の方向の意)左足を踏出し抜刀せんとす。註、刀身45度の所ー刀を(右拳を)之より左に運ばぬ事。」と云う一文が加わっています。この事に対する明解な解説は現在もされないまま21代、22代、23代と其の儘引き継がれ、幻となって居る気がします。
 座した場合の柄頭は我が正中線上にあるのが、河野居合です。従って右向きに座して、左回りに正面に向いても柄頭は我が正中線上、当然敵の正中線上にあるべきでしょう。
 従って刀身45度の所でも我が正中線上に柄頭はあるべきです。刀を抜き出し乍らですから当然右拳は左へ移動させながら抜き出す事になります。此処までに切先3寸抜いていれば残りの45度は右拳の移動をせずとも我が正中線上に柄頭は保持され、当然敵の正中線上を柄頭が制している事になります。 
 対敵意識の乏しい大江居合では、右向きから正面向きに左回りに廻る、其の途中である正面45度に柄頭があればそこから柄頭を固定してしまい、我が体のみ捻じられて正面向きになってしまいます。当然柄頭は座を外したものとなり、既に体は左に捻じられていますから不十分な手抜となってしまいます。
 河野居合の右の解説は正しいのですが、その説明がなされていません。「そう習った」としか答えられない十段の多い事。

 

| | コメント (0)

2019年5月28日 (火)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の4居合術業書正座之部1前

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の4居合術業書
正座之部1、前

 正面に正座し、十分気の充ちたる時、左手を鯉口に取り左指にて鯉口を切り、右の全指を延ばしたる儘柄に掛けて握り、膝を少し中央に寄せる様にし、腰を左にひねりて刀を抜きつゝ両足先を爪立て、膝を伸び切るや右足を前に踏出すと同時に刀を抜き払ひ、(胸の通り横一文字に)更に雙手上段に振り冠りて真向に割付け、左手を柄より離し左の腰(鯉口の少し下帯の處)に軽くあて、刀先を右に円を描く如く頭上に取りて血振すると同時に立上り、左足を右足の位置に踏み揃ふ(此時膝は伸び切らざる事)夫より右足を一歩大きく後方に引きて、刀を納めつゝ右膝を跪くと同時に納め終りて後、立上りて前足に右足を踏み揃へ、直立の姿勢となりて更に左足より一歩退りて座し次の業に移る。

 この業書は、のっけから動作ばかりを順を追って書き込まれています。何のためにその動作をするのか動作から推測する事になります。居合は対敵相手の武術です、「十分気の充ちたる時・・」は何を意味するのでしょう。第18代穂岐山波雄先生が稽古用に考えられた事としてもおかしい。これでは、一方的に相手に抜き付ける事になってしまいます。現代居合でも何の疑問も無く、気の充ちた時とか二呼吸半から作動するなどでは、何時如何なる変にも応じられる訳はないでしょう。今日入門したばかりの新人相手の事としてももう少し考えるべきでしょう。
 人と対して、自分の思いを伝えるには、十分な心構えであるべきものです、武術はコミュニケーションの最後の手段と思います。方便としての「二呼吸半」とか「十分なる気充れば」にまどわされず、「何時如何なる変に応じる」心と体を持ちたいものです。

 このスクラップと同じ文言で昭和8年1933年に「無雙直傳英信流居合術全」は発行されました。第17代大江先生の「剣道手ほどき」の抜き方及び納め方の解説では「丹田に気力充つるとき静かに左手にて刀の鞘鯉口を握り右手は第二関節を折り拇指の股を柄の鍔元に入れ。五指を静かに握り肘を落し右肩を稍斜め前に出す。左手にて鞘を少しく後へ引き、右手を斜前に出し刀を静かに抜く。此時両足の趾先を立て上体を自然とあげ右足を少し前に出しつつ刀尖三寸の鞘に残し、右足を充分前に踏み出し同時に残りし尖先三寸は抜き・・」大江先生の教えは「丹田に気充つるとき・・」です。

 河野先生の昭和13年1938年発行の「無雙直傳英信流居合道」には、更に克明な抜付けの動作が書き加えられます。そして業の意義として「吾が前面に対座せる敵の害意を認むるや機先を制し直ちに其の首に(又は顔面或は抜刀せんとする腕、以下同じ)斬り付け、倒るゝ所を更に上段より斬り込みて勝つの意なり」。敵の害意を認めるや抜き付けるのだそうです。それでは相手の動作に先を取らなければなりません。のんびり二呼吸や二呼吸半などやってられません。丹田に気充ちるのも待って居られません。

 河野先生の昭和18年1943年発行の「大日本居合道図譜」の正座の部一本目前「意義ー正面に対座する敵の害意を察知するや機先を制して其の抜刀せんとする腕より顔面にかけ斬付けんとする。抜き懸けー敵を確かに見定むる心持にて抜きかける。・・初心の間は剣先三寸位迄極めて徐々に抜き出すも幾千の錬磨を重ねて次第にその速度を早やめ、抜きかけの鍔元より剣先に至るに従ひ抜刀の速度を次第に早くするものとす。抜刀の速度と気をこめる心得に古来序・破・急の教へあり。」ここまで来るのに大正7年1918年から昭和18年1943年ですから25年もかかっています。居合の修行を心の修行とするのは良しとしても、それを強調し過ぎるとバランスを失います。

 初心の頃に身に着けた動作は簡単に抜けないものです。相手をよく見て相手の動きに応じて序破急をもって抜き付ける事に依り先を取る事を学ばなければ、ただ形を演じているばかりになってしまいます。
 このところ、稽古法に工夫の必要の有る所で、目的に向っての習い・稽古・工夫の無いものは只の形ばかりでしょう。

 古伝神傳流秘書では大江先生の正座之部は大森流居合之事と言われます。其の前書きは:「此居合と申は大森六郎左衛門之流なり、英信と格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術之師也、真陰流也、上泉伊勢守信綱之古流五本の仕形有と言、或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶。(記 此の五本の仕形の絶へたるは残念也守政先生の伝書見當らず 曽田メモ)」

 曽田本その1の古伝神傳流秘書の居合兵法伝来には、「目録には無雙神傳英信流居合兵法とあり、是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏後の達人なる故之も称して英信流と揚げられたる由也」と有ります。第9代林六太夫守政が江戸から持ち帰った無雙神傳英信流居合兵法には大森流は目録には無い、林六太夫が話したのは、たぶんこの居合の師江戸での第8代荒井勢哲(兵作信定)に話したのだろうと思います。

 大森流居合之事初発刀:「右足を踏み出し向へ抜付け打込み扨血震し立時足を前の右足へ踏み揃へ右足を引て納る也」

 大江先生の言う正座之部前は大森流居合之事略して大森流初発刀でした。古伝の業手附も何のためにこの業動作を行うかの意義とか理合が示されていません。恐らく習う時に口頭で解説されたのでしょう。初発刀の業名称は大森流の初めに発する刀法だと云うのでしょう。正座に座すとは手附に書かれていません。是も口頭で説明されたのでしょう。現代居合の立膝之部や奥居合居業之部は全て右膝を立て左足を寝かせた居合膝です。
 江戸時代に入って江戸城での座し方が正座に統一されて武士にも町人にも普及して来た時代です、その時代に添ったものとして稽古されて来たのでしょう、その名残が大森流は正坐に座すわけです。
 刀法としては「右足を踏出し向へ抜付け打込み」だけしか書かれていません。「向へ」は前、前面に相対する敵を示しています。抜付は刀を鞘から抜き出すや横一線による斬り付けでしょう。何処へ抜き付けるかは書かれていません。林崎甚助重信の居合の極意業は根元之巻から推察すれば相手の拳へ抜き付けるのですが、初心のうちは肩とか首、こめかみと指導されたかもしれません。そして上段に振り冠って真向に打込む。
 真陰流の抜刀ならば、鞘を倒さず腰に差した状況から、刃を上にしたまま一気に切先を抜き出し、その瞬間目標に切先を向かわせて行きます、目標は敵の柄手でしょう。打込はとどめでしょうから、上段から真向に打ち下すのですが、左面又は右面もあり得ます。
 古伝神傳流秘書の業手附はやるべき事だけしか書かれていませんが、ポイントは外して居ませんから動作を追えば意義が見えてきます。そして武術ですから一つの形から幾つもの動作を思い描くことができます。

| | コメント (0)

2019年5月27日 (月)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の3居合之諸作法

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の3居合之諸作法

1、神殿又は(玉)座上座に向ひて刀を抜かざる事出来得れば玉座を左にして行ふ事

 どこぞの10段は鶴岡八幡の奉納居合で舞殿で神殿を右側にして演武をしていました。この流の教えでは無く昔からの作法として通っているものです。老子の偃武第31「夫れ佳兵は不詳の器なり、物つねに之をにくむ、故に有道者はおらざるなり、君子居りては則ち左を貴ぶ、兵を用ちうるときは則ち右を貴ぶ・・」辺りから来ているのかも知れません。
 大江先生の「剣道手ほどき」大正7年1918年発行でも「神殿又は玉座に向て刀を抜いてはならぬ。刀を抜くときは神殿玉座に向って右の方に体を向く即ち体の左鞘の處を向けて正座す」と明記されています。

2、場に入る時は、鍔元を左手に持ちて拇指にて鍔を抑へ刃を上にして刀を下げ、下座より玉座に向ひ直立体の儘刀を右手に持替へ此時刃を後方に向け右側に軽く接し立礼をなす。

 此の礼法では玉座に向かっての刀の扱いの様ですが、河野先生の大日本居合道図譜では、「刀を右手に持ち替え、刃を下に向け小指が栗形に触る部を握り食指は伸して刀の棟に添へ、刀は45度に保っー上座に対し奉り最敬礼を行ふ」としています。

 全剣連居合の場合も神座への礼は、「右手で「栗形」の下部を下げ緒とともに握って刃が下、「柄頭」が後ろになるように刀を右手に持ちかえる。左手は鞘からはなし手自然に下ろし、右手は「鐺」が前下がりになるように刀を体側にそって自然に提げる。上体を前に約30度傾けてうやうやしく礼を行う」
 全居連も同様ですが、「頭を45度位に下げる」とされています。 

3、刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。

 大江先生の「剣道手ほどき」では「適当の位置に至りて座す」は「直立体の儘道場の中央に出で神殿を左に見て体を右に向け体を前に屈め右手を股に入れ袴を左右に払ひ左手の刀を股に載せて正座す」と克明です。

4、正座したる時は、刀は恰も左腰に差したる状態にあるを以て、右食指を鍔の下拇指を上にかけて刀を腰より抜き取る気持にて右前方に抜き取り、膝の前方中央約一尺位の處に鐺を右柄を左に刃を後方に向けて置き、双手を八文字につきて礼を行ふ。すべて正座の巾は自己の肩巾と同様なる事、足は拇指を重ね両踵の間に臀部を下す。

 大江先生は、「膝の前方中央約一尺位の處に・・」は「体前に出したる刀は左へ返し膝頭より五寸も離し・・」です。五寸では窮屈すぎますから約一尺が程よい位置でしょう。但し体格に応じて其の位置を決めませんと150cmの背丈の人も180cmの背丈の人も同じであるのはおかしい。
 第22代池田先生は「抜き取りたる刀の鐺を、右膝より右45度位斜め前方に、右上肢を一杯伸ばしたる処に置き、刀を左に両膝前一尺余り前に倒して置く」と遠慮がちに直されています。

5、次に右食指を鍔にかけて鍔口を握り、刀を起し膝の前方中央に鞘を軽く突き鞘の下方約三分の一の處に左手を添へて鐺に至りて刀を持ち上げ、刃を上方にして腰に差す。刀を腰に差したる場合は、すべて鍔は両膝の中央線上にあてる注意すべき事。

 大江先生は「鞘の下方約三分の一の處に左手を添へ」のところは「体前に刀を竪て左手先にて鞘の中央より下へ下し鐺を指に掛けて・・」としています。大日本居合道図譜では「・・左手を鞘の下方より運びて鐺を軽く握りて持ち上げ乍ら腰部に運ぶ」とあいまいな動作に変えています。
 次に河野先生「刀を腰に差したる場合は、すべて鍔は両膝の中央線上にあてる」ですが、大日本居合道図譜では「柄頭がほゞ体の中央にある様に帯刀す」と変わっています。

6、終りたる時の作法は大体右に逆行す。
7、座したる時の体勢は、胸をハラズ総て自然体なるを要とし、腰に十分気力を注ぐ事。腰を折らず下腹を前に出す。
8、着眼は目の高さに於ける前方にして、遠山を望む気持ちたるべし。

 着眼については「眼の高さに於ける前方」とされますが、大日本居合道図譜では「正座の着眼は一定の箇所に固着する事無く所謂る八方正面の気を以て、眼の高さに於ける前方に遠山を望む心なる事」と変わって居ません。大江先生の剣道手ほどきでは「眼の視線は正座前方七尺の處を凝視」遠山の目付けを古来から武術では言いますが、大江先生は「凝視しろ」と云います。稍下方に目線があるほうが遠山の目付けになれるものですが、眼の高さで凝視したり、前方七尺の處を凝視では疑問です。
 
 

| | コメント (0)

2019年5月26日 (日)

曾田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の2傳統

曾田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の2傳統

 流祖 出羽国林崎大明神
 初代 林崎甚助重信
 二代 田宮平兵衛業正
 三代 長野無楽入道槿露斎
 四代 百々軍兵衛光重
 五代 蟻川正左衛門宗績
 六代 万野團右衛門尉信定
 七代 長谷川主税助英信
 八代 荒井勢哲清信
 九代 林六太夫守政
 十代 林安太夫政詡
十一代 大黒元衛門清勝
十二代 林益之丞政誠
十三代 依田万蔵敬勝
十四代 林彌太夫政敬
十五代 谷村亀之丞自雄
十六代 五藤正亮
十七代 大江正路
十八代 穂岐山波雄

長谷川英信以前は大森流と云ひ居りしが、此人大いに研究して英信流を興し土佐の国に傳ゆ。

曽田先生コメント、十一代より二派に岐れたれば何れも英信流の系統に属し居るも大江正路先生になり独創を加へ正流に崩れを生じたり。

 曽田先生は伝書を書き写された方ですから、大江先生の居合に満足できるわけはありません。
無双直伝英信流は第11代大黒元衛門清勝によって根元之巻が依田万蔵以外に流れています。此処から二派あるのに、河野先生は一方通行でしょう、と言っているわけです。
 大江先生に就いては「正流に崩れを生じたり」其の通りでしょうが、泣いても喚いても崩れて居ることも知らない中学生に指導し其の中学生が長じて土佐の居合を広めた事は事実です。指導された人は大江先生の独創と知ってか知らずかありがたがる人が多いわけで、崩れていない所など今時見る事も出来ません。門外不出で他人が見る事が許されない伝書の有り様に問題があったのですが、武術が実戦に於て役立った時代は流派の掟は、むやみに伝書を人に見せない、それで当然です。現代は居合で戦うなどありえない事です。武術文化を正しく伝承するために本物を公開し学ぶ事が急がれる時代になって居るわけでしょう。
 居合ばかりでは無く日本史もそうでしょう。明治維新後それまでの武士の歴史が捻子曲げられた歴史もありそうです。明治以降の歴史も正しくは伝わらないまま現在に在る様で、お隣の国の我が国批判も同じレベルの事でしょう。

分派
 第11代大黒元衛門清勝ー12松吉貞助久盛ー13山川久蔵幸雅ー14下村茂市ー15なし(指導を受けた者細川義昌・行宗貞義・大江正路)

*
 「長谷川英信以前は大森流と云ひ居りしが、此人大いに研究して英信流を興し土佐の国に伝ゆ」と有ります。昭和8年1933年発行の河野先生著による「無雙直傳英信流居合術全」も全く同じ文言で、書かれています。土佐の居合は元大森流と云われていたと堂々と書いたわけで其の謂れは知っていたのでしょうか。
「無雙直傳英信流居合術全」の発行についてその内容の良し悪しは、此の複製本を配布した岩田憲一先生の前書きが付されています。
「第18代穂岐山波雄先生が大阪八重垣会を指導されていた時、現20代宗家河野百錬先生に記録させたものでその製本された時18代宗家が山本宅治先生を訪問し本書を提示されたので丁度居合はせた中西岩樹先生と三人で致道館に行き正座業一本目より読み上げつつ演武して先ずは大江正路先生(第17代)教示のものして足りるものと三名の意見が一致したものだそうであります(山本宅治先生)。
 河野百錬先生も非常に若い折りでもあり穂岐山先生教示のまま記されたものと考えられこれを穂岐山先生が監修されているので現在第17代大江正路先生の技法を追及したり亦正流の技法の根本に触れんとすれば簡明に記録された本書が一番適当なものと考え同好の各位に領布する次第です。書中所々に記入等印されているのは山本宅治先生の記入でありこれもご参考になれば幸甚に存じます。昭和44年4月25日複製(岩田憲一記)昭和44年5月7日受け。」
 この冊子は関東の川久保瀧次先生(山内派の宇野又二先生直門坂上亀雄先生、及び河野百錬先生から学び昭和41年発行無雙直傳英信流居合道の手引著者)が昭和44年5月7日に受け取ったものというものです。
 従って、河野先生の冊子の元は18代穂岐山先生の当流の認識によるものと云えるでしょう。18代宗家ですら土佐の居合の歴史を知らなかったとしか言いようはありません。

 河野先生は昭和13年1938年に「無雙直傳英信流居合道」を発行されて居ます。居合術全発行の5年後に当たります。この頃から曽田先生との交流もあった様で、居合術全の誤りを正されて土佐の居合を認識された様です。
「長谷川主税英信は、其の技古今に冠絶し、精妙神技を以て始祖以来の達人として聞え、古傳の業に独創の技を加へ、茲に流名を無雙直傳英信流と改め・・而して英信は享保の頃、江戸に於て斯道を研究大成し、晩年土佐に帰国して大いに之を弘め・・当流に述ぶる所の正座の業は大森流と呼び、当流9代林六太夫守政の剣道の師大森六郎左衛門が真陰流古流五本の仕形より案出したるものにて、之を無雙直傳英信流に附属せしめたもの也と伝へられる。・・」継ぎはぎだらけの土佐の居合の歴史をたどり、居合の沿革を無理やり仕立てた感は否めない。証拠もないものは不明或は確証はない、または何々に記述されている、自分はこう考える、などの文言を使うべきだったでしょう。河野先生の書物はバイブル的存在感がありましたから、一般には信じられ安易に使われてしまったのは権威に頼り過ぎの武道愛好者の欠点です。その割には、河野先生の「無雙直傳英信流居合兵法叢書」曽田本の写しを蔑ろにされた昭和の居合人は何処か抜けていると思えて仕方がありません。

 土佐の居合の正式呼称は「無雙神傳英信流居合兵法」であって、「本来「無雙神傳重信流」と言うべき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之を称して英信流とあげられたる由也」とされています。ミツヒラによる古伝研究会は、古伝神傳流秘書による「無雙神傳英信流居合兵法」の研究会です。
 長谷川英信の「古伝の業に独創の技を加え」は何をどの様にしたのか全く不明です。
 当時の武士の作法が正座を主とするようになってきていますから、大森流の取り込みは当を得ています。立膝の所作は戦国時代以前からの踏襲に過ぎません。英信が土佐の人であったなど全く出自は不明です。当時の一般人は殆ど出自が判らなくて当然の事でしょう。

| | コメント (0)

2019年5月25日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の1河野稔

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の1大阪居合術八重垣會剣道錬士河野稔

 居合は剣道の一分派なり。古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後、敵を制するに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し、然る後刀を下すものなり。
 居合は攻撃精神の充実せる而も秘めて静かなる気分を養ひ、更に技術的には真剣の用法を以て本則とす。心は本来静かなるものなり。始め事無き時は寂然不動天地万物一体にして、事あるや其迅き事電撃も只ならず。是至静極まるが故なり。静中動あり、動中静ありと云ひ、更に心の体を以て是を動静一貫と云ふ。
 孫子曰く、静かなる事林の如く、迅き事風の如しと。故に居合の術は心静に体胖(ゆたか)にして天理自然に従ひ業を行ふを以て正理となすものなり。
 居合は勝負の理に拘りて勝負を離れ、己に克ちて己を正し業に依りて心気を治むるの心法なり。故に形を正し武夫の武き心を心とし、毫も怠慢する事なく誠を以て学習する時は神明に至らん事必然なり。
 大江正路先生の句
心気力一定一刀瞬息石火無妙術也 (心気力一つに定め一刀瞬息石火無妙の術也)
居合術之要諦於先看破敵気色   (居合術の要諦は先ず敵の気色意向を看破し)
意向即座瞬間振自刀粉砕敵    (即座瞬間にして自刀を振るい敵を粉砕す)


 このスクラップは曽田本その2に出典は何か、定かにされていません。曽田先生がどこかから見つけ出したものを切り抜いて、メモ帳に張り付けたものです。

 無雙直傳英信流居合術の表題で筆者は大阪居合術八重垣会剣道錬士河野稔と有ります。第20代河野百錬先生の記述になるもので、昭和8年1933年発行された「無雙直傳英信流居合術全」の発行以前に八重垣会で稽古の際、会員に配布されたもののスクラップだろうと推測します。第18代穂岐山波雄先生から口伝口授で河野先生が習った業をまとめた参考資料でしょう。
 今回の處は業手附の書き出しの部分です。「無雙直傳英信流居合術全」の書き出しと同じ様ですが幾分言い回しなどに違いがあります。 河野先生は明治31年1898年の生まれですからこの時35才となりす。武ばった様な漢文調の言い回しで意味不明と云った方が良い文章です。居合の有効性を箇条書きした表題にすぎず、解説してもらわなければその言いたいことは伝わりそうもありません。判った振りをしたい人は勝ってです。

 書き出しの「居合は剣道の一分派なり」について曽田先生は「分派にあらず」と否定しています。既にこの曽田本その2で読み解いています。(2019年5月9日曽田本その2を読み解く15居合術)
 「余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に附随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず」と居合は分派では無く独立した武術なんだと解釈されています。

*
 この、スクラップと昭和8年に発行された「無雙直傳英信流居合術全」との書き出しの違いをチェックしておきます。あわせて昭和13年発行の「無雙直傳英信流居合道」及び昭和18年発行の「大日本居合道図譜」、更に昭和37年発行の「居合道真諦」ともチェックしておきます。
1、居合は剣道の一分派なり
◉スクラップ「居合は剣道の一分派なり。古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後敵をせいするのに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し、然る後刀を下すものなり。」

◉居合術全「居合は剣道の一分派なり、古来より居合の勝負は鞘の内にありと称せられし如く、彼の剣道が刀を抜きて後敵を制するに対し、居合は寧ろ抜刀の以前に於て、気を以て敵を制し然る後刀を下すものなり。

◉無雙直伝英信流居合道「居合は、我が日本精神の象徴たる、肇国の大精神を宿す霊器日本刀の威徳をに依りて、心を修むる道にして、剣道の立合ひに対する所謂る居合の意なり。而して古来より居合の勝負は鞘の中にありと称せられし如く、抜刀の前既に心意気を以て敵を圧し閃光一瞬にして、勝つの術にして、元来敵の不意なる襲撃に際し、能く直ちに之に応じ、先又は後の先の鞘放れの一刀を以て電光石火の勝を制せんがため、剣道の一分派として武士の間に創案されたる刀法にして、坐居の時、又は歩行する時、其他あらゆる時と場所に於ける、正しき刀法と身体の運用を修得し、精神を錬磨する大道なり。」

◉居合道図譜「居合とは剣道の立合ひに対する所謂る居合の居にして、元来敵の不意の襲撃に際し直ちに之に応じ、先又は後の先の鞘放れの一刀を以て電光石火の勝を制する必要より、剣道の一分派として武士の間に創案されたる刀法にして、坐位の時又は歩行する時其他あらゆる場所に於ける正しき刀法と身体の運用を錬磨し己が心を治むる道である。」

◉居合道真諦「居合とは剣道の抜刀後の立合いに対するいわゆる居合(即ち抜刀前の心構へと、抜刀の瞬間に敵を制する刀法)の意にして、元来敵の不意の襲撃に際し直ちに良くこれに応じ、先または後の先の鞘放れの一刀を以て、電光石火の勝を制する必要より、武士の間に創案されたる独自の剣法にして、坐位の時、または歩行する時、その他あらゆる時ところにおける正しき刀法と身体の運用を錬磨し、己が心を治さむる道である。」

2、精神論
◉スクラップ「居合は攻撃精神の充実せる而も極めて静かなる気分を養ひ、更に技術的には真剣の用法を教ふるものなり。居合は静を以て本則とす。心は本来静かなるものなり、始め事無き時は寂然不動天地万物一体にして、事あるや其迅き事電撃も只ならず、是至静極まるが故なり。静中動あり、動中静ありと云ひ、更に心の体を以て是を動静一貫と云ふ。孫子曰く、「静かなること林の如く迅き事風の如し」と。故に居合の術は心静に体胖にして、天理自然に従ひ業を行ふを以て正理となすものなり。居合は勝負の理に拘りて勝負を離れ、己に克ちて己を正し業に依りて心気を治るの心法なり。故に形を正し武夫の武き心を心とし、豪も怠慢する事なく誠を以て学習する時は神明に至らん事必然なり。

◉居合術全 同文

◉無雙直傳英信流居合道「居合の至極は、常に鞘の中に勝を含み、刀を抜かずして天地万物と和する所にあり、所謂る武徳修養の一転に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養い、義勇奉公の、誠の心を鍛錬する、処世の大道に外ならざるものなり。而て形より心に入り、業に依りて心を養ふとの教への如く、我が日本刀に依り、正しき刀法と身体の運用を極はめ、以て心剱一如の妙所を悟り、枝の末節に拘るゝ事無く、常に武道を一貫する精神を本とし、終生不退の錬磨により、人格の錬成に努め、夫々与へられたる自己の天職に尽くすは、之即ち武徳を発揮する所以にして、実に斯道の目的とし又た武道の精髄とする所なり。

◉居合道図譜「居合は元攻防の術を得る事に始まったが、今日之が(修養)の目的は定められたる武技を通じて、剛健なる身体を鍛錬し、己が精神の錬磨をなすにあり。(極限)すれば其の根元とする所は所謂る武徳修養の一点に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養ひ(一死奉公の誠の心を鍛錬し)以て個々の明徳を明らかにする(処世)の要道に外ならぬものである。

◉居合道真諦「居合は元と攻防の術を得ることに始まったが、今日これが(修行)の目的は、定められたところの武技を通じて、剛健なる身体を鍛錬し、己が精神の錬磨をなすにあり。(換言)すればその根本とするところはいわゆる武徳修養の一点に帰す。即ち礼儀慈愛に富む質実剛健の精神を養い(誠心を錬り)、以って個々の明徳を明らかにする(所世)の要道に外ならぬものである」( )は居合道図譜とやや異なる部分。


 いつの時代の河野先生の文章でも居合に就いて、回りくどい言い回しと精神論を混ぜ込んで意味不明にしている事は変わらない様です。最後の居合道真諦では「居合は剣道の一分派」という意味不明な文言が消えています。
 要約すれば、「居合とは坐位の時或は歩行中その他に於いても敵の不意の襲撃に対し直ちに之に応じ、鞘放れの一刀を以て勝を制する武術である。其の為には正しい刀及び身体の運用法を身につけ、何時如何なる状況にも応じられる心と、体を磨かざるを得ないものである。」と云いたかったのではないでしょうか。精神論を前面に押し出せば意味不明になってしまいます。業形ばかりでは不意の襲撃に応じられるわけはないでしょう。


 古伝の求める居合は総合武術の一環の中に組み込まれているもので、居合の根元は柄口六寸にあるものです。居合だけ取り出して見て、その優位性を述べて見ても、返し業は幾らでもあるもので、究極の處は無刀の世界に至り、神妙剣に行きつく事を示唆しています。
神妙剣は既に曽田本その1の巻末に解説していますが、改めて掲載します。

◉神妙剣「深き習いに至りては実は事(業 曽田メモ)で無し常住座臥に有の事にして二六時中忘れて叶わざる亊なり。彼れ怒りの色見ゆるときは直に是を知って怒りを抑へしむるの叡智(頓智)あり唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦にいたらしめずして勝を得る也。去りながら我臆して誤りて居る事と心得る時は大いに相違する也、兎角して彼に負けさるの道也、止む事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も不死の道也、亦我が誤りをも曲げて勝には非ず、誤るべき筋なれば直に誤るも勝也。彼が気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也、委しくは書面にあらわし尽くし難し、心覚えの為に其の端を記し置く也。」

 270年前の文章の方が判りやすく、「そうであったか」と頷けるものです。河野先生のものは一段も二段も高い所から見下ろして、こうあるべき論を述べたもので戦前の軍国主義の担い手である事を感じてしまいます。
 神妙剣は人が人と共に生きていく為のコミュニケーションを語っています。武術の有るべき道を示していると思うのです。縦社会の論理で押しとうせば居合を学ぶ意味も価値もないものでしょう。

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月24日 (金)

第20回古伝研究の集い

土佐の居合 古伝神傳流秘書による古伝研究の集い
第20回古伝研究の集い
 無双直伝英信流、夢想神傳流の古伝神傳流秘書を曽田虎彦先生の直筆本から読み解いて江戸時代中期の居合を研究しています。
 今年は、主として大小詰・大小立詰を研究いたします。
 師伝が如何様であろうとも、古伝をご存知の方は少ないものです。ご参加いただいた方が、夫々「我が師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。俺の指導に従えと云う武道にありがちな事とは異なります。

      記
1、期日
・令和元年6月13日(木)
 15:00~17:00 鎌倉体育館
・令和元年6月27日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年7月11日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
・令和元年7月25日(木)
 15:00~17:00 見田記念体育館
2、住所
見田記念体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
Tel0467-24-1415 
鎌倉体育館
248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
Tel0467-24-3553
3、アクセス
 JR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
 (駐車場 鎌倉体育館に有り)
4、費用:会場費等の割勘つど 500円
5、参加申込み 直接会場へお越しください
  Email :sekiunn@nifty.com
6、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
  湘南居合道研修会 鎌倉道場
7、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
  令和元年5月24日 松原記す

| | コメント (0)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の12行宗藤原貞義先生

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の12恩師 行宗藤原貞義先生

 明治10年西南戦争時代陸軍歩兵大尉の官職にありたるも後定見の衝突より退官一時看守長なれど奉職し居たり、其後零落し明治34年頃第二中学校門衛となりたり居合術は尤も達人にして下村茂市先生の高弟なり。
 五藤正亮、谷村樵夫等没後時の大日本武徳会総裁の宮伏見宮貞愛親王殿下の御前にて居合を仕り(明治40年頃ならんか)天下一流の達人なりと御褒▢を賜りしと云う。

 後東都武徳会本部の居合術教師たり(明治の末期より大正の初期の頃)故に門弟には東大生、三高学生多数ありたり。惜しむべし大正三年十月没せらる。当大正二年には細川義昌先生、昭和二年には大江正路先生相次で没せられたり。

 余虎彦恩師行宗先生に師事する事久し、即ち幼少14才にして入門(第二中学校入学)爾来在学五ヶ年親しく御指導を賜り今日に至るも・・。

 Img_0418

 吉宗貞義先生の年表
 嘉永3年1850年  生まれる
 万延元年1860年  向髪角入11才
 明治維新1868年  18才
 明治2年1869年  藩籍奉還19才
 明治9年1876年  廃刀令26才
 明治10年1877年 西南戦争大尉転戦27才
            師下村茂市没す 
 明治23年1890年 曽田虎彦生まれる 
 明治36年1903年 曽田虎彦高知二中入学13才
            吉宗貞義53才
 明治41年1908年 曽田虎彦高知武徳殿助教授18才
 大正3年1914年  没す64才
            曽田虎彦24才
 昭和25年1950年 曽田虎彦没す60才    

            

 

| | コメント (0)

2019年5月23日 (木)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の11大江正路子敬(蘆洲と號す)

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の11大江正路子敬(蘆洲と號す)

 大江正路子敬(蘆洲)の読みですが、おおえまさじしけい(ろしゅう)と読みます。いつの間にか「おおえまさみち」と読まれています。私が「おおえまさじ」と云いますと、直にダメ出しをされるのです。
 ロイ・キヨオカ著増谷松樹訳の「カナダに渡った侍の娘 ある日系一世の回想」草思社発行を読まれた方は気が付くでしょうが、之は大江正路先生の娘さんの回想録で其処に「大江正路(おおえまさじ)」と読ませています。
 正しい呼び名はともかく、大江正路先生のカナダに渡った娘さんの回想録から、大江先生の人柄や生活が垣間見られ感慨深いものです。著者のロイ・キヨオカは大江先生の孫にあたる人となります。
 大江先生の居合が古伝の伝承を踏みにじった様に私の古伝研究は語っていますが、消え去ろうとしたものを繋いできた思いは簡単に真似できるものでは無く、まさに現代居合の中興の祖と云えるでしょう。
 明治維新によって職を失った武士の生活は決して楽では無かったと察しられます。したがって正しく伝承する事すら困難であったと思えるのです。
 この本が、明治の人となりをしみじみと味わわせてくれます。
 お陰様で土佐の居合を学ぶことが出来た上に、古伝を紐解くきっ掛けもそれによって得られたと思っています。ただし現代居合や竹刀剣道だけでは決して古伝の心持ちを味わう事は出来そうにありません。
 横道かも知れませんが、私の近くの農家のおばあさんは93才です。毎日畑へ出て耕したり、雑草を刈ったり、種まきや、イモ類の植え付けをしています。其の動作は何処にも力が入っていない静かな動きで、遠い昔の武術を忍ばせます。大江先生の時代はすでに古伝の心を失伝してしまった時代でしょう。西洋風の真似事やその指導法を取り込んで多くの人が、歳と共に使い物にならない体になって居ます。
 若者の速さや強さに負けるのでは武術とは言えそうにありません。

 旧姓濱田と云ふ高知江ノ口の人剣を馬詰栄間に居合は五藤正亮に就て学び大日本武徳会剣道教士、居合術範士にして元第二中学校剣道教師として奉職し一方居合術も担当せり。後第一中学剣道教師、武徳会高知支部剣道教士たり、谷村樵夫没後は居合術をも担当せり。昭和2年没せらる。

 大江先生の年表
 嘉永5年1852年  生まれる
 明治維新1868年  戊辰戦争出陣16才
 明治3年1870年  藩立文武館剣道専業拝命18才
 明治5年1872年  常職を解かれる20才
 明治9年1886年  廃刀令24才
 明治10年1877年 西南戦争
            第14代下村派下村茂市没す
 明治15年1882年 高知県武術会剣道教授30才
 明治17年1884年 剣術教授辞退
            長崎高島三井炭鉱取締役監督32才
 明治24年1891年 長崎高島三井炭鉱辞退39才
 明治25年1892年 高知共立学校撃剣教士40才
 明治26年1893年 高知共立学校辞退41才
 明治27年1894年 日清戦争
            東京芝区有待館撃剣教授42才
 明治28年1895年 大日本武徳会結成
            有待館辞退
            高知県武術会長推挙
            高知県師範学校撃剣教授委嘱43才
 明治29年1896年 同上辞退44才
 明治30年1897年 高知県尋常中学校撃剣教授45才
            同上病気辞退
            石川県警剣術教師
            石川県立第二中学校剣術教士
 明治31年1898年 五藤正亮没す64才
   明治32年1899年 大日本武徳会石川地方委員47才
   明治33年1900年 石川県を去る48才
                                  高知二中剣道教授
   明治35年1902年 武徳会高知支部剣道教授50才
 明治38年1905年 穂岐山波雄・森茂樹高知二中で大江に師事
            谷村樵夫没す
 明治41年1908年 政岡壱實高知一中入学
 明治42年1909年 高知一中赴任57才
            政岡壱實、堀田捨次郎大江に師事

 明治45年1912年 高知県第一中学校助教諭心得60才
 大正6年1917年  山本晴介大江に師事
 大正7年1918年  大江・堀田共著「剣道手ほどき」66才
 大正13年1924年 居合道範士73才
 昭和2年1927年  大江正路没す76才

| | コメント (0)

2019年5月22日 (水)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の10第16代五藤孫兵衛正亮

曽田本その2を読み解く
19、無雙直伝英信流居合術の傳統
19の10第16代五藤孫兵衛正亮

 高知城下入新町の人馬廻り格、亀之丞に就て居合を学び其の蘊奥を極む。明治26年板垣伯帰懸せられし際、伯は武道の嗜み深く其の精髄を会得されて居らるゝこととて、同志の者当時材木町にあった武学館に招待し一場の講話を希望▢せしに、伯は英信流居合術又松嶋流棒術の功績を賛美し、其の廃絶を惜しまれ誰か其の術を継承し、居合術の如き抜く人もなき時とて漸く正亮の居合修養深きを知り、伯より子弟指導のことを話し素封家竹村家に謀りて道場を建設せしめ此の處にて居合を教ふることとなり、其の後時の第一中学校長渋谷寬氏の居合術が身心鍛錬に特効あるを認め正亮を聘して生徒指導の任に当たらしめたり。
 明治31年没す年64歳
記 五藤氏没後谷村樵夫後を継ぎ生徒を指導し居たるも明治38年没す、享年61歳
  此の門弟に土居亀江(旧姓小藤)抜群の技ありたり、土居虎彦(現曽田姓)-実兄
* 
 此の曽田先生の文章のもとになるのは、中西岩樹先生による「英信流居合と板垣伯」であろう。曽田先生のスクラップの中にあるものなのですが、その出典の有りようは不明です。
 「・・・明治25、6年頃と言へば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振ふ居合の如きが分明改化を追ふに急なる国民に顧られれさうな筈は無く、五藤正亮 谷村樵夫 細川義昌等の達人が傳統を受継いで現存して居り乍ら、殆んど之を執心修行せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
 其の内に段々居合を知る人も物故し、之等の先生と雖何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を傳へる者が無くなるであらふと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。
 即ち明治26年板垣伯のご尽力に依って高知市新堀竹村與右衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当られたのである。
 それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寬といふ人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝこととなった。
 明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の歿後大江正路先生が之に代ることゝなったのである。斯くして高知県に於ては五藤、谷村、大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。
 又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兎身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就いて修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。
 爾来中央に在っては中山先生高知県に在っては大江先生の非常なるご努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。
 実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめたが、更に不言黙々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合発祥の地たらしめられた。私は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰ひ度いのである。」

 この文章を読みながら、第19代福井春政先生から、大阪の八重垣会を運営された河野百錬先生に第20代が招統印可され、後に岐阜の福井聖山先生に第21代が招統允可された際、土佐人の幾人かが画策して土佐へ戻さんとして、新たに土佐英信流なるものを創設したりして纏まっていたものを分離させたりした事が思い浮かびました。その後も個人的な感情から分離独立する者もあって、相互の融和も無く、板垣伯の思いも知らないことになってしまったことを残念に思います。
 失われようとするものを残さんとした大江先生の居合も、それぞれがあらぬ方に向かいつつあるようです。古伝が示された今、もう一度古伝復元を計り本物を見つめ直す時期でもあるでしょう。

| | コメント (0)

2019年5月21日 (火)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の9第15代谷村亀之丞自雄

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の9第15代谷村亀之丞自雄

 高知城下潮江の人馬廻り格山内容堂公に就せられ御前に召され御佩刀を以て居合を抜きし事度々あり入神の技人を驚かす。

 谷村亀之丞自雄は谷村久之丞の次男、第14代林弥太夫の弟子で居合の名手として天保15年1844年に家芸として一家を立てている。土佐藩主14代山内豊惇公及び15代容堂公の居合の師でもあった。文久元年1862年10月3日病死、居合は五藤孫兵衛正亮が引き継ぐ。(土佐武道史話より)
 山内容堂公は15代谷村亀之丞自雄を師として弘化元年1844年に居合根元之巻と目録を受けている。このブログでも容堂公の先代山内豊惇公へ送られた根元之巻及び免許皆伝目録について解説しています。
 曽田本免許皆伝目録その27山内豊惇公皆伝2015年12月6日から。
 この豊惇公への根元之巻は河野百錬先生の無雙直伝英信流居合兵法叢書に曽田先生より送られたものと記述されています。根元之巻で気になる処は「奥州林崎神助重信」と始祖を「神助」としてあり「甚助」ではありません。
 また、目録は居合は現代居合で云う立膝の部、奥居合は四方切と外之物之大事、上意之大事、極意之大事に依りますもので、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事になります。組太刀は太刀打之位、詰合之位、大小詰、大小立詰。
 太刀打之位と詰合之位という云い方が古伝神傳流秘書では、太刀打之事或は詰合ですから第15代の当時は・・之位と云う言い回しが出来ていたのか、河野先生によって書き加えられたのか解りません。
 坂橋流之棒及び夏原流和は目録には無く、すでに失伝していたか他流を習っていたので除外したか判りません。
 居合心持肝要之大事に「捕手和居合心持之事」と一行あるばかりです。しかしこれを見る限り15代までは古伝神傳流秘書の手附に従って稽古され目録が伝授されていたと考えられ、次の代16代五藤孫兵衛正亮に引き継がれたものと思われます。現代居合の業名称及び組太刀は第17代大江正路先生に伝わらなかったか、大江先生自ら改変されたと判断できます。

| | コメント (0)

2019年5月20日 (月)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の8第11代大黒元右衛門清勝

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の8第11代大黒元衛門清勝

 高知市帯屋町の人
 大森流は此の人の拵しものと云う人あるも誤りならん、実は大森六郎左衛門に始まりたる林守政の剣道師なり。
 此の清勝より二派に分れたり、故に代記を省略して諸先生の略歴に止む。

 第11代大黒元右衛門勝清から12代、13代、14代は二派に分れたので曽田先生に省略されてしまいました。
 大黒元右衛門清勝は伯母が第9代林六太夫守政の妻になっていたので縁戚と云う事になる。馬廻り、知行二百五十石の家柄であった。(土佐武道史話より)
 大黒元右衛門清勝の後は曽田先生の無雙直伝英信流居合術系譜では、下村派と谷村派に分派したとされています。

 下村派
 11大黒元右衛門清勝ー12松吉(好)貞助久盛ー13山川久蔵幸雅ー14下村茂市ー15(行宗貞義、細川義昌、片岡健吉)
   
 谷村派
  11大黒元右衛門清勝ー12林益之丞政誠ー13依田萬蔵敬勝ー14林弥太夫政敬ー15谷村亀之状自雄

 林六太夫守政の養子林安太夫政と林益之丞は居合上手であったらしい、林弥太夫は林益之丞の子。
 依田萬蔵敬勝は林益之丞の門下で抜群の誉があり、留守居組で三人扶持切符八石の小身であった。
  大黒元衛門によって松吉(好)貞助も伝書を受けている様で、林弥太夫の門人だった山川久蔵は師家を離れ別に伝書を受けて門人を取っていた。遡ると、山川久蔵ー松吉(好)貞助ー島村右馬丞ー坪内清助長順ー大黒元右衛門だそうです(土佐武道史話より)。
 土佐武道史話では大黒元右衛門から伝書が林益之丞と坪内長順にも与えられたとしています。
 谷村派、下村派の謂れは谷村亀之丞、と下村茂市の姓を取ったものと思われます。この二人の活躍した時期は明治維新を挟む1868年前後、大黒元右衛門が11代を受け継いだのが林安太夫の死後(安永5年1776年)です。既に92年の歳月が過ぎ、師家は5代に渡ります。従って双方の交流が無かったとすれば多くの違いがあっても良さそうですが、顕著なものは見当たりません。
 谷村派の抜き付けは正対し、下村派は半身とかどうでも良さそうな違いを得々と述べている人を見ますがさてどうでしょう。状況次第でどちらでも出来て当たり前でしょう。仮想敵相手の居合は、師匠の思い込みと癖が顕著に出るものです。形に拘り過ぎればただの武的踊りになります。拘らなければ理合不明の一人よがりに陥るものです。

 

| | コメント (0)

2019年5月19日 (日)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の7第10代林安大夫政詡

曽田本その2を読み解く
19、無雙直伝英信流居合術の傳統
19の7第10代林安大夫政詡

六大夫の養子なり。

曾田メモはこれだけです。
 前回の林六大夫のところで、平尾道雄先生の土佐武道史話(昭和36年1961年発行)より引用させていただきましたが、最後の所を再録させていただきます。
 「・・妻は大黒茂左衛門(勝盛)の娘で、助五郎政彬、縫之丞正晴の二男をもうけたが、二人とも幼年だったから、安田道元という医師の次男をもらって家督と居合伝を授けた。これが安大夫正詡である。安永5年(1776年)8月10日、安大夫が病死するとその家督は助五郎の長男六之丞政長が相続した。
 林六大夫守政ー安大夫政詡-六之丞政長ー益之丞政誠ー弥大夫政敬ー政之丞政護ー亀吉茂平
 林氏の系譜は右の通りだが、このうち六大夫の養子安大夫と益之丞とは特に居合上手として有名で、門人たちも多かった。」

 土佐の居合が定着したであろう頃の年表を作って見ましたが、歯抜けで想像の域を出る事はありません。
 寛文02年1662年 林六大夫生まれる
 享保17年1732年 林六太夫没70歳
 明和元年 1764年 林安大夫 居合兵法極意秘訣を誌す
 安永05年1776年 林安大夫没年齢不詳
 文政02年1819年 山川久蔵 神傳流秘書を写す

 山川久蔵が書き写した神傳流秘書は、恐らく林安大夫が50歳(正徳2年1712年)から70歳(享保17年1732年)ごろに記述しただろうと思います。
 林安太夫の「老父物語を書き付け置く、久しき事故失念之事多し、あらまし此の如く覚え候まま記し申す也」で始まる居合兵法極意秘訣は安太夫の死ぬ12年前には書き上げられていた様です。六太夫の死後32年経っています。聞き覚えの記憶であそこまで克明に書けるとは思えませんから、六大夫のメモ書きや、安太夫が指導された時のメモ書きなどをまとめたのでしょう。 

| | コメント (0)

2019年5月18日 (土)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の6第6代林六大夫守政

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の6第6代林六大夫守政
高松城下南軒町に住す馬廻り格なり父を政良と云う寛文3年生、礼節、居合、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽▢等人の師たるに足る技十六ありしと云う、享保17年7月17日歿行年70才。

第9代林六大夫守政については平尾道雄先生の土佐武道史話の長谷川流居合に詳しいので新たな事が分らない限り林六大夫守政の項目をお借りします。
 林六大夫の先祖は池田豊後といって中村一条家の家来であった。その子孫は一条家没落後長曾我部家に仕え、その後長曾我部浪人として大津に住み、林とあらためて山内家に仕えたもので、六大夫のときは御料理人頭という役目であった。
 四代の太守豊昌のお供で江戸参勤の途すがら、淀船でさる西国大名とであったことがある。船中にむかえて御馳走がはじまったが、料理をつとめる六大夫が、まな箸で皿鉢をはさみ、船べりから川の水をすくって洗う手ぎわがとてもあざやかで、船中の主客が感動したという逸話が残っているほどで、このコック長ぶりの見事さがなにかほかにも通ずるところがあったらしい。
 本職の包丁はいうまでもなく弓、馬、剣、槍などの武芸もみんな印可を受けていたし、謡曲や鼓までその技をきわめ、其の中でも有職故実は伊勢兵庫に学び、書道は佐々木文山に習って当時抜群のほまれがあった。
 はじめは知行八十石で新小姓の格だったのが、後には百六十石の馬廻に昇格し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役まで出世した。太平の時節にこのような昇進を見ることは異数の例で、それだけにかれの才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。
 かれの名を後世にのこす長谷川流居合は、実は六大夫にとって余技にすぎなかったのである。
六大夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70才で亡くなった。妙に7に縁があるというので世間のうわさになったそうだが、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊數の五代に仕えて、その信頼がすこしも衰えなかったのを見ても彼の円熟した人がらがわかるし、長谷川流系譜のうちでも其の位置は重視されている。
 前記のごとく江戸浪人荒井勢哲からその皆伝をうけたが、居合を表芸とはしなかったにで師匠格などには任命されなかった。
 妻は大黒茂左衛門(勝盛)の娘で、助五郎政彬、縫之丞正晴の二男をもうけたが、二人とも幼年だったから、安田道玄という医師の次男をもらって家督と居合伝を授けた、これが安大夫正詡である。(平尾道雄著 昭和36年発行土佐武道史話より)

*
 平尾道夫先生の土佐武道史話は昭和36年発行ですから、曽田本その2の林安大夫守政の略歴はそれ以前に伝わっていたものから曽田先生は引用されたのでしょう。
 第9代林六大夫守政は逆算して寛文2年1662年生まれ、享保17年1732年に没しています。
 曽田本その1の居合兵法極意秘訣(英信流居合口受(授)秘訣)は養子の第10代林安大夫正詡になるもので明和元年1764年のものでした。養父の物語を忘れないうちに書き付けたとしています。それで養父六大夫亡き後32年も経って居ます。
 それでは、土佐の居合の原本と云える曽田本その1の無雙神傳英信流居合兵を書きあらわした古伝神傳流秘書は何時頃書かれたものなのでしょう。料理番頭となって江戸勤番の際に荒井勢哲に師事したとして根元之巻を授与されるとすれば、土佐への往ったり来たりが無くとも10年、あれば20年はかかるでしょう。20歳から始めていれば40歳でしょう。他の江戸での習いごとを考慮すれば50歳ころ1711年1正徳元年頃でしょう。残りの人生は20年、書き終わったのは60歳として1720年頃享保5、6年でしょうか。
 荒井勢哲の指導法は判りませんが、当時の口伝口授による教え、あるいは業の順番だけ教えて後は自得する指導法でしたら林安太夫の武的能力及びポイントを捕えた文章表現力には圧倒されます。メモの見本の様に思えます。
 指導を受けるたびに克明に覚を書き留めていったのでしょう。現代では居合しか稽古せずに40年も経ってようやく真似っこの目録允可ではお粗末です。神傳流秘書の業数は174本になるものです。

| | コメント (0)

2019年5月17日 (金)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の5第7代・第8代

曽田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統
19の5

第7代長谷川主税助英信
土佐の人江戸に出て信定に▢(就)て居合術の研鑽をなす英信流の一流を起す故に又長谷川流とも云う。

第8代荒井勢哲清信

 長谷川主税助英信について平尾道夫先生の土佐武道史話では「長谷川主税助を土佐の人だと説く人もあるが、そんな確証もないし、また主税助の生涯についても世間には知られていない。当流第5代の百々軍兵衛と同名の人は土佐にいたが、この人の実名は直実といって伝書の軍兵衛光重と同一人だと軽々に決める事はできない」
 お国自慢は何処にでも居て当たり前でしょうが、土佐では明治維新を成し遂げた誇り高きお国なんでしょう。確証が無くとも云い切って来る処が土佐っぽらしい。
 
 北信濃の無雙直傳流の研究をされている南山大学の榎本鐘司先生の「北信濃における無雙直傳流の伝承について―江戸時代村落の武術と『境界性』-」を、原文のままお借りして第7代長谷川英信と第8代荒井勢哲を、考えて見たいと思います。
「無双直伝英信流の祖として有名な長谷川英信の経歴については不明な点が多いが、滝沢家文書では「越中の人」としている。この英信流は土佐に伝承し、これによって現在も居合道の主流として盛んに行われているが、この系統では長谷川英信の次に荒井勢哲清信、そして土佐藩士の林六大夫に継承されたとしている。ここでいう荒井勢哲清信が、滝沢家の系統の小菅哲斎正継であることはまちがいない。『大矢氏物語書留』(滝沢家文書)には小菅精哲斎正継を「荒井兵作」の改名であるとしており、また『朝陽館漫筆』に「荒井清鐵」について次のようにある。「荒井精鐵、又曰、熊谷兵作と云者、やわらを鍛錬して教へける少分なる者のうへ、不仕合有て所を立ち退、江戸へ出、師家を立、渡世とする間に、彌功積て、今は荒井清鐵など名乗り、やわらを脇へなして居合剣術など指南して奇妙不思議を得たりなどと言はやさる。最早80歳計成べければ、奇妙を化るも尤なり。」この記述は、松代藩の神道流師範であった落合保考の宝永年間(1704年~1711年)の著述にもとずいており、兵作(荒井兵作、荒井清鉄、荒井勢哲清信、小菅精哲斎正継)はこの頃に80歳ほどであったと記されるのであるから、元和・寛永(1615~1644)の頃の生まれとなる。すると長谷川英信もこれと同時期、あるいはこれ以前の人とみなければならない。兵作は「越後国高田の牢人」(大矢氏物語書留)とされるが、『朝陽館漫筆』には「少分鳴る者のうへ、不仕合有て所を立退、江戸へ出、師家を立」とある。その後、武州を遍歴して江戸で名をあげ、最後には信州倉科村に住した。もともと「やわら」を得意としたが、常陸国田宮彌兵衛正信という人物から林崎居合の相伝をうけ、江戸では居合剣術を家業としていたとされる。土佐の英信流居合の系統では長谷川英信が協調されるが、滝沢家や松代側の史料では長谷川英信は和(やわら)の相伝者であり、新しい林崎流系統の居合は小菅(荒井)正継によって加えられたことになる。」以上が榎本先生の論文になります。

 長谷川英信も荒井勢哲も榎本先生の論文から「秘密性・非公開を原則とした武士を基盤とする近世流派武術とは次元を異にした、農民の生活様式としての伝承的な武術の存在」によって育まれた武術家であったと推察します。
 この辺の研究はとても面白そうですが、いずれ又の機会に譲るか、どなたか興味のある方にお任せします。無双直伝英信流の道統の出自は長野無楽斎以降は、歴史の記述に書き込む事を望まれない身分の人達によって整えられてきたものと考えられます。
 土佐への伝承は、江戸に於て荒井勢哲から料理番であった林六太夫が学び伝えた武術として認識できそうです。

 

| | コメント (0)

2019年5月16日 (木)

曽田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の4第4代から6代

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の4第4代から6代

第4代百々軍兵衛尉光重

第5代蟻川正左衛門宗績

第6代萬野団右衛門信定


第4代から第6代については、その出自も足跡も判りません。第9代林六大夫守政が土佐にもたらした時に、そのように話されたのかと思うのみです。
第7代長谷川主税英信、第8代荒井勢哲清信が江戸若しくは北信濃における林崎甚助重信の伝承者であればその方面の武士と農民の間を生きた市井の武術者であったのでしょう。

南山大学の榎本鐘司せんせいによる「北信濃における無雙直傳流の伝承について」という論文に幾つか面白い事が書かれています。土佐に居合をもたらしたのは第9代林六大夫守政である事は現代居合の無雙直傳英信流を学ぶ人はご存知の通りと思います。では林六大夫は何処で誰から居合を学んだのでしょう。
榎本先生の論文に第8代荒井勢哲及び第7代長谷川英信について記述があります。其の辺は次回に廻すとして、第4代、第5代、第6代に至る流れを榎本先生の資料から垣間見て見ます。

無雙直伝流の伝統(滝沢家文書より)抜粋
天真正-7飯篠山城守直傳(家直)-8日名智哲斎清正-9日名太郎作清成-10井上勘蔵信光-11伴長門守高實-12番助九郎實行-13成田-14須田勘達入道朝久-15分邊三左衛門尉国房-16百々軍兵衛尉光重-万野團右衛門尉信貞-大加原意信斎幸次-19長谷川蔵之助英信-20小菅清哲斎正継(荒井勢哲)

北信濃の無雙直傳流は天真正ですから天真正鹿取神当流飯篠家直の系統を継ぐものと云えそうです。林崎甚助重信の伝書には「天真正」の三文字が例えば「天真正林明神林崎甚助重信-田宮平兵衛照常・・」のように書かれています。林崎甚助重信は林明神により居合を開眼した始祖であると同時に鹿取神当流を学んでもいた證共なります。
北信濃の伝系には林崎甚助重信の名は見当たりませんが百々軍兵衛尉光重辺りから林崎甚助重信の居合を伝承した様に林六太夫に伝わり土佐に持ち込まれたのかも知れません。土佐の居合の系統にある第5代蟻川正左衛門宗績の名が北信濃の伝統には見られませんが、江戸時代の武士と農民の間にある武術の伝統ではこんなものと云えるかもしれません。

| | コメント (0)

2019年5月15日 (水)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の傳統19の3第3代目長野無楽入道槿露斎

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の傳統
19の3第3代目長野無楽入道槿露斎

第3代
◯長野無楽入道槿露斎
無楽入道と称す業正の弟子
近江井伊家に仕え禄二百石を領す90余歳まで長寿

本朝武芸小伝巻六
◯長野無楽斎槿露
長野無楽斎槿露は刀術を田宮重正に学びて精妙を得、後井伊侍従に仕え、九十有余にて死す。
◯一宮左大夫照信
一宮左大夫照信は、妄執武田家土屋惣蔵麾下士にて武功居多也、天正八庚辰年九月武田勝頼上州膳城を攻める時、一宮脇又市と相共し城戸に入り槍を合わせ武勇を震う、且つ刀術を長野無楽斎に学び其の妙を得る、今に至り一宮流を称し末流諸州に在り。又上泉孫次郎義胤という者あり、一宮と共に無楽斎に従い神妙を得る。

山田次郎吉先生の日本剣道史による無楽流(長野槿露)
長野無楽斎槿露に起こる抜刀術で、武芸小伝には長野を田宮一門としてあるが、今伝系に由ると、林崎甚助の門である。槿露は上州箕輪の城主長野信濃守の一族で、武田に討亡されたる後、出羽に漂ひ来たって林崎に居合術を学び、更に工夫を加へて一家を為した。これを無楽流といって、羽州殊に会津に昌んに行はれた。槿露は常に牛に乗って女子に口縄を執らせて歩行き。上下の差別なく交り、寒来れども爐せず、一生不犯であったといふことだ。最上の人沼澤長政に其傳を授け、之よりして世々羽州に流儀が残った。上泉伊勢守の孫義胤も無楽に就て学んだといふ。此の人90歳までいたといふから、元和以後まで存命であったらう。

長野無楽斎の門に上泉孫次郎義胤といふ者があることは、武芸小伝に記している。長野は上州の信濃守業政の一族で、孫次郎は上泉伊勢守の族縁の者である。武芸名家伝に由れば、無楽斎が流を伝へて上泉権右衛門英信と云者、尾州の柳生兵庫が許へ来って居合を以て勝負を望んだところ互角の成蹟であったので、兵庫大に賞賛して尾張公へ吹挙して仕官さした。これが無楽流上泉派と称して流行した。其の門に若林四郎兵衛あり四郎兵衛後又別れて二派となり続々相継で尾州に其箕裘をとどめたのである。

 

| | コメント (0)

2019年5月14日 (火)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の伝統19の2第2代田宮平兵衛尉業正

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統
19の2第2代田宮平兵衛尉業正

第2代田宮平兵衛尉業正(武術叢書には重正とあり)
重信の弟子抜刀の妙を得後對馬と改む其の子長勝箕裘の術を継き池田輝政に仕ふ後紀州に赴頼宜に仕へ八百石を領す。

武術叢書とは早川純三郎によって大正4年1915年に発行された武術叢書の事でしょう。其の中の「本朝武芸小伝巻六」の田宮平兵衛重正についての文章の引用でしょう。本朝武芸小伝は日夏繁高によるものでその序文を書いた葛慮林信如が序文に干城小伝序と題しています。本来は本朝武芸小伝でしょう。正徳4年1714年第7代徳川家綱の時代、徳川吉宗の一代前になります。

武術叢書から田宮平兵衛重正について読んでみます。漢文で書かれていますから読み下し文としておきます。
 「関東の人也、刀術を好み東下野守元治に学び神明無想東流奥旨を究む、後又、林崎重信に就いて抜刀の妙を得る、実に変をを盡し神に入る、後對馬と改む。其の子對馬守長勝其の術を継ぎ常圓と號す、紀伊頼宜卿に仕え奉り、子孫箕裘の芸を伝え、芳名千歳に揚ぐ。末流諸州にあり、重正より其の術を学ぶもの若干、特に長野無楽斎槿露、三輪源兵衛傑出たり。」

山田次郎吉の剣道集義による千城小伝では、上記文章に続きがあります。全文掲載させていただきます。
 「田宮平兵衛重正は関東の人也、林崎重信に従って抜刀の妙を得る、実に変を盡し神に入る。後對馬と改む。其の子對馬守長勝箕裘の術を継ぐ。池田三左衛門尉輝政に仕う、後仕え至りて常圓と改む、紀州に赴き大納言頼信卿に奉仕す、采邑八百石を領す。其の子掃部長家後平兵衛と改む。大猷大君田宮の芸を見んと欲し、頼宜卿に命じて江戸に召さる、登営して其の術を台覧に備え奉る、その名を日域に顕わす。其の子三之助朝成後常快と號す。其の子次郎右衛門也常箕裘の芸を継ぐ、中納言吉宗卿に奉仕す。其の末流諸州に在りて千歳に芳名を伝うと云うべきか。
 斎木三左衛門清勝という者あり、紀州人也、幼弱より田宮長家に従って練習年有りて後朝成に従い終に其の宗を得る、延宝年中江都に来たり其芸を以って鳴る。
 北条早雲記曰、勝吉長柄刀をさしはじめ、田宮平兵衛成政といふ者是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し、柄に八寸の徳、みこしにさんぢゅうの利、其の外神妙秘術を伝へしより以後、長柄刀を皆人さし給へり、然に成政が兵法第一の神妙奥義と云うは、手に叶ひなばいかほども長きを用ゆべし、勝事一寸ましと得たり。


 林崎甚助重信の居合は第二代は田宮平兵衛業正(重正、成政)として土佐には伝えられたのでしょう。
東北地方ではどうであったか、江戸時代の伝書から眺めてみます。
 林崎甚助重信公資料研究委員会による林崎明神と林崎甚助重信に依ります。
津軽藩 林崎新夢想流 林崎甚助重信ー田宮平兵衛照常ー長野無楽斎槿露
三春藩 林崎流    林崎甚助重信ー田宮平兵衛重正ー長野無邑斎槿露
新庄藩 林崎新夢想流 林崎甚助重信ー田宮平兵衛尉照常ー長野無楽斎槿露
秋田藩 林崎流居合  林崎甚助重信ー長野無楽斎槿露ー市宮左大夫忠重

 

| | コメント (0)

2019年5月13日 (月)

曾田本その2を読み解く19無雙直傳英信流居合術の伝統19の1流祖

曾田本その2を読み解く
19、無雙直傳英信流居合術の伝統19の1
△第一代(流祖)
 ◎林崎甚助重信
正親町天皇の永禄年間の人(約380年前(昭和11年1936年))(約460年前平成31年2019年)
 羽前国北村山郡に生る幼より剣術を好み郷里林崎明神に祈願を込め百日の満願の▢居合術を授り其の技神に入ると云う。
 重信が林崎明神への奉納額に「千早振る神のいさをし我うけて万代までも伝へ残さむ 永禄四辛酉四月願邑當処浅野改林崎重信謹百拝」

林崎甚助重信に就いての江戸時代の日夏繁高による本朝武芸小伝巻六
 林崎甚助重信は奥州人也、祈林崎明神に祈り刀術の精妙を悟、此の人中興抜刀の始祖也
 北条五代記曰、長柄刀のはじまる子細は、明神老翁に現じ長づかの益あるを林崎勘助勝吉といふ人に伝え給ふ、愚に曰、勘助は謄写のあやまりならんか、五代記には勝吉と有り、伝書に重信と有、明神老翁現じて伝へ給ふといふは、鹿島の神をいへるか、伝書には奥州楯岡の近辺に林崎明神と云神社あり、甚助此神を祈て妙旨を悟るとあり。


志賀義言仲敬の日本中興武術系譜略の重信
 林崎甚助、奥州人、重信于奥州楯岡林崎明神、刀術の精妙を悟と云う、此の人中興抜刀の始祖也


武術流祖録
 抜刀中興祖 林崎甚助重信
 奥州の人也、林崎明神に祈り刀術の精妙を悟る、此の人中興抜刀の始祖、其の技術神妙也、門に田宮平兵衛重正其の宗を得る。


武術太白伝
 林崎甚助名は氏賢相模の産である。文禄4年(1595年)5月10日48歳(54歳)より慶長3年(1598年)9月15日に至る7年間武州一宮の社地に居住し、陰陽開合の理に基いて工夫を凝し、生善正勝という辞を押立て純白伝と号して飄然諸州を歴遊の途に上った。時に54歳(57歳)の秋紅葉正に色つく時であった。
 星霜移って元和2年(1616年)2月28日、武州川越の甥高松勘兵衛の許を訪つれ、明年7月まで滞在して、20日再び鳥藤を鳴らして奥州の旅程に立越えたのは73歳(76歳)残躯を天に任せて復た帰って来なかったのである。故に一宮流奥幸四郎施主となって享保元年7月20日川越の孤峯山蓮馨寺に墓碑を建立し、良仙院一誉昌道寂心大信士の法号を鎬し、一部生国相州鎌倉の天照山光明寺の過去帳にその名を留めて、永く菩提を弔う料とした。
(武術太白伝は見当たらず、山田次郎吉の日本剣道史より抜粋、後の林崎甚助源重信公資料研究委員会による林崎明神と林崎甚助重信参照すミツヒラ)


北條五代記巻第四
 見しは昔。関東北條氏直時代まで。長柄刀とて人毎に。刀の柄をながくこしらへ。うでぬきをうて。つかにて人をきるべく體たらくをなせり。・・人聞て其むかしの長柄刀。當世さす人あらば。目はなのさきにさしつかへ見ぐるしくも。おかしくも。あらめとわらひ給ふ所に。昔関東にてわかき輩。みな長柄刀をさしたりし。・・さて又長柄刀のはじまる子細は。明神老翁に現じ。長柄の益有を林崎かん介勝吉と云人に伝へ給ふゆへに。かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に。是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し。柄に八寸の徳。みこしにさんぢうの利。其外神妙秘術を伝へしより以後。長柄刀を皆人さし給へり。然に成政兵法第一の神秘奥義といつは。手に叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。勝事一寸にして伝たり。其上文選に。末大なればかならず折。尾大なればうごかしがたしと云々。若又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をば。をそれよと云をきし。光武のいさめを。用ゆべしと云りむかしの武士も。長きに益有るにや。太刀をはき給へり。長刀(なぎなた)は古今用ひ来れり。扨太刀長刀を略して。一腰につゝめ。常にさしたるに徳有べしそれ関東の長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは。大益なるべし。



 いずれにしても、林崎甚助重信については、その生まれなど確証が取れそうもありません。実在の人物とされていますが其の足跡は不明と云った方が良さそうです。
 林崎神社の霊験記などによれば
天文11年1542年 林崎甚助重信 幼名民治丸生誕(霊験記)
弘治2年1556年  浅野民治丸、林崎明神に百日参籠し、抜刀の神伝を授かる(伝書)
永禄2年1559年  元服して、神夢想林崎流と称し村名を姓とし、林崎甚助重信と改め仇討の旅に出る(霊験記等)
永禄4年1561年  京で仇を打ち帰郷、林崎明神に「信国」の刀を奉納


 


 


 


  

| | コメント (0)

2019年5月12日 (日)

曾田本その2を読み解く18居合術と剣道との関係

曾田本その2を読み解く
18、居合術と剣道との関係
 剣道、柔道は今や中学校の正科となり且つ武徳会に於ても之れが奨励をなすを以て大に其普及発達をなし益々隆盛に向ひつゝあるは実に喜ぶべきことで而して我が居合術は剣道の一派にて実に剣道とは密接の関係あり。(?対立せるものならん 曽田メモ)
 居合術は剣理用法整然たるものがある所謂普通剣道の基として深味があるから徳川幕府時代には盛に之を習修し一層謄力の養成に資する所がある。
 然るに當今立派なる武道家殊に剣道家に在て単に竹刀の業のみを以て能事卑しくとなし真剣用法は勿論日本刀の名称すら知らざる者多々あるは実に痛嘆に堪へざる所である。
 茲に於て之れを慨し居合術の効果を力説し之が普及に力むることの必然たるを疑はず。
 居合術と剣道とは共に其の目的を一にし且つ其用法は多岐に渡り臨機変通の要諦を尽くしたるものにて剣道とは唇歯捕車(?)の如し。
 然るに世人稍もすれば居合術を単に保存的武術視し敢て重きを置かざるものあるも是れ誤れるの甚しきものにて居合術の真義を解せざるものといふべし。
 この文章も、曽田先生が何処からか見聞きしたものをメモしたものと思えるものです。真剣刀法の重要性を力説している様ですが、手前味噌のレベルを越えるものとも思えません。
 往々にして、居合とか古流剣術の愛好家が陥るレベルで、竹刀剣道は当てっこスポーツとして発展して行けばいいもので、フェンシングと竹刀スポーツは似たような位置づけでしょう。
 竹刀スポーツはスポーツとしてとことんやればいいだけでしょう。古流剣術を習いに来て、竹刀ではなどと云っていても形は真似られても技など決まらないものです。
 居合は見世物演舞と武術と分けてどちらも出来て当たり前、古流剣術も当てっこスポーツと別物として、おおらかにやればいいだけです。まぜこぜにしたい人はまぜこぜに。
 其処に精神論を持ち込んで居合は優れているなど言って見ても、優れた竹刀スポーツ家はそれはそれで優れています。真剣を持っていてもダメなものはダメ。
 居合だとて、指導者の真似っこの形を追って上手いの下手だの、段位がどうしたのと言っているうちはダメなもので同じ事だろうと思います。
 日本刀の名称など知っていてもそれがどうした、日本刀を神聖ししてどうするのでしょう。知らなければ同じ土俵で稽古するのが厄介なだけです。居合術の効果を力説と云っていますが効果など人それぞれの状態によって違うものでしょう。
 足腰不自由な爺さんが、相変わらず長い刀を以って手元も足元も決まらず演舞している姿は決して素晴らしいものでも、優れた武術でもない、ただ頑張っている姿に敬意を表するばかりです。
 武術と云いたいのならば、足腰が幾つになってもしっかりしている事、強く早い運剣も軽く往なすことが出来る事。よく竹刀剣道を長くやってきた人が、このごろ若者に勝てなくてと言ってます、若者に負ける様な稽古しかしてこなければ負けるに決まっているものでしょう。
 武術家を自称するならば武器が無くとも応じられるものを持っているかでしょう。
 居合術の有効性を大声で論じて見ても、認められない自己顕示欲の発揮できないストレスに過ぎません。
 
 
 

| | コメント (0)

2019年5月11日 (土)

曾田本その2を読み解く17居合の伝書開巻第一に

曾田本その2を読み解く
17、居合の伝書開巻第一に
 「居合とは人に斬られず人斬らず只請け止めて平らかにせよ」
とあるも、正義人格平和を第一義諦としたことが分明する。
 日本刀が真に日本刀として武士道を発揮するも凶器として武士道を汚すも此の根本相違からである。
 居合の特徴は実に我が武士道の表徴とも謂うべき日本刀を以て錬磨するところにあって、日本刀は単に之れを見るだけにても精神修養となる、まして之を帯して或は座し又は立て進退撃刺の状をなすにおいておや。
 居合は運動の方面より見るも、自身の筋肉を働かし厳寒の時と雖も15分乃至20分の練習を行ふ時は流汗淋漓の有様で、近時人情浮華に流れ質実剛健の風を払ひ利を見て義を顧ず、或は軽佻詭激(けいちょうきげき)の言旨、道の基礎を危からんしめんとする時、日本刀を揮て心身の鍛錬をすることは確に時世に鑑み一種の清涼剤たらざるを得ないのである。
 「抜かば斬れ抜かずは斬るな此の刀只斬ることに大事こそあれ」
 居合の伝書を開くとまず一番先に「居合とは人に斬られず人斬らず只請け止めて平らかにせよ」とある。と云っていますがこの伝書とは何を指すのか解りません。
 曽田本その1の古伝神傳流秘書の開巻第一は抜刀心持引歌から始まります。その一首目は「帆を懸て急ぐ小舟に乗らずとも行水鳥の心知るべし」でした。
 巻末の居合兵法の和歌では一首目は「居合とはへちまのかわの段袋すっかりとしてみはどっちやら」から始まり、三首目に「居合とは人に切られず人切らず唯請とめて平にかつ」と出てきます。
 この曽田本その2は、何時書き込まれたものか明確には判りませんが、昭和の初めころから21年頃に書かれたものだろうと思います。曽田先生派昭和20年に高知空襲で家も家財も焼かれこの書き込んだ覚えを大切に抱えて土佐を出ている様です。昭和25年に逝去されています。
 この項を読んでいますと、何時の時代にも真摯に居合に取り組んだ者が他人に抱く違和感を曽田先生は感じておられた様に思います。然しそれは、真摯に取り組んだ人に課せられた己自身へのものであろうと思います。

 

| | コメント (0)

2019年5月10日 (金)

曾田本その2を読み解く16居合術の意義並修業の目的

曾田本その2を読み解く
16、居合術の意義並修業の目的
 剣を学ぶは道を学ぶであって凶器を弄ぶでないとは古哲の言である。居合術は真剣を以て行ふ正真正銘の剣道であるから、其の目的とする所は実にここにある、然らば吾人は居合に因て如何なる道を学ぶか。
 身心の鍛錬をするのである、(人として 中不明 曽田メモ)忠孝、礼儀、廉恥、質実、剛健、諸徳を養成するのである。身心の鍛錬は之を調身・調心・調息の三つに分類することが出来る。
 調身とは姿勢を調へることである。
 居合には始終礼儀、座る、立つ、抜き付、打ち下、皆夫々の作法姿勢があり而して全身の元気を気海丹田に収ることになって居る、之れが調身である。
 健康上より云ふも錬謄上より云ふも気海丹田に力を入ることの肝要なることは敢て喋々する迄もなく禅学等皆然り。
 調息とは呼吸を調へることである。
 呼吸には風、喘、息、気の四種あり。息が調相余り乱相であるけれども正気は武道の重んずる處である。
 調心とは精神を調へることである。
 大敵を見て懼れず小敵を見て侮らず、無念無想万物一如の域に達するのを究極するので、此處に達するには慎独克己から始まるのである、古来より我が日本武士道に於ては正義を貴ぶ。
 居合術の意義並びに修行の目的を述べています。どこかで聞き及んだことの様ですが、心身の鍛錬の域を出ていません。
 曽田本その1の巻末に「神妙剣」として以下の事を古伝は伝えています。
 「正義を貴ぶ」と云いつつ正しいと信ずることも無く、ただ安住の地を求めるだけの者には無用かもしれません。
神妙剣
 深き習に至ては実は事(業 曽田メモ)で無し常に住座臥に有之事にして二六時中忘れて不叶事なり、彼れ怒の色見ゆるときは直に是を知って怒りを抑へしむるの叡智あり、唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に至らしめずして勝を得る也、去りながら我臆して誤(謝の誤字か)り居る事と心得は大に相違する也、兎角して彼れに負けさるの道也、止む事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も不死の道也、亦我が誤をも曲げて勝には非ず、誤るべき筋なれば直ぐに誤(謝か)るも勝也。
 彼が気を先に知てすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也、委しきは書面にあらわし尽し難し、心をぼえの為に其の端を記置く也。

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 9日 (木)

曾田本その2を読み解く15居合術

曾田本その2を読み解く
15居合術
15の1居合術
居合術
余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に附随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず
居合術は剣術今の剣道の一部門なり
 剣術は立合、太刀打、撃剣等とも称し刀剣の使用法にして、即ち抜出したる刀を如何に有用に使用すべきを教へたるものに付、抜刀なくして立合あるべからず、其の用法は刀を腰より抜出しての上のことなり。
 居合術は立合の術、剣術に対する語にして詰合、座合、抜刀、鞘の内、等とも称し此の立合の根元にして刀を抜く法なり、即ち如何なる場所にて如何なる刀を如何に有効に抜くべきかを教へたるものに付き、刀の鞘の内にある時より太刀打に至りて了る、故に互に抜刀して相対峙せば既に居合の範囲を脱して後は太刀合なり。
 居合は刀の長短、場所の広狭、地勢の高低、姿勢の座起、敵の仕懸変化等に応じ臨機変通、其の色を悟らせず、刀尖鞘口を脱する刹那確実有効の利を収むべきを教ふ。
 其の最重要なる点は刀尖の鞘口を脱する瞬間の働なり。
 居合は独特の兵法であって、剣道に附随するものでは無いと云い切っています。剣術は腰から刀を抜いてからの用法であって、居合は刀が鞘の内にある時から始まり太刀を打ち込む事で終わる。
 居合の最重要な事は刀尖が鞘口を脱する瞬間の事なのだと云うのです。

| | コメント (0)

2019年5月 8日 (水)

曾田本その2を読み解く14無双直伝無双直傳英信流目録14無双直伝14の2目録

曾田本その2を読み解く
14、無双直傳英信流居合目録
14の2目録
目録
      
1.向身  横雲
      虎一足
      稲妻
1.右身  浮雲
      山下し
1.左身  岩浪
      鱗返
1.後身  浪返
      瀧落
 四方切  向  右
      左  後
 太刀打之位(九本)
   出合、附込、請流、請込(請入)、月影、絶妙剱、水月刀、独妙剱、神妙剱
 詰合之位(十本)
   八相、拳取、岩波、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剱
 大小詰(八本)  
   抱詰、骨防(モギ 曽田メモ)、柄留、小手留、胸捕、右伏、左伏、山影詰
 大小立詰(六本)
   〆捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蜓返、乱曲
 外之物之大事
   1.行連(両詰) 立業にて右へ抜き付け左足を踏み替え左を切る
   1.連達(両詰)  々  左を突きて右を切る
   1.遂懸切 々 (大森流十番に同じ)之は刀を抜き霞て追懸け右足にて突きを見せ冠りて切る
   1.惣捲(五方切)々 横面、肩、胴、腰を切る(切り返し)
   1.雷電  々  之れは大剣取の内にあり、此の太刀打は和之伝に有
   1.霞  座業にて一本目の如く横一文字に抜き付け同時に返し更に切る
 上意之大事
   1.虎走 座業にて小走に進みて抜付けて切り納刀退きつつ抜付け切る(抜口の(鞘口)外に見へざる様大事なり)
   1.両詰(向詰)立業柄を臍にとり前を突き切る座業にもあり
   1.三角 立業長谷川流八本目「浪返」に似て抜きて刀を身に添へ右廻りに正面へ払ひ打後真向へ打込むなり
   1.四角 立業の左後を突き右後を切り請けながら左斜前を切り右斜前を切る
   1.門入   立業にて右足にて前を突き振り返りて後を切る尚前をも切るべし
   1.戸詰(両詰)座業右へ抜き付け左を切る
   1.戸脇(両詰)座業左を突き右を切る
   1.壁添(人中の事)立業抜く時刀を身に添へ抜くなり四囲狭き場所にて切る業也人中(ひとなか)の事
   1.棚下 座業 抜く時は大森流八本目順刀の如く斬り込む時膝をつく也頭上低き所にて前方を切る
   1.鐺返 立業 之は行違ひに相手の手をとり直に後ろに廻り鐺を取りて前へ押し倒す也
   1.行違 立業 柄頭にて前を突き振り返りて後を切る 〇後を突きて前を切る
   1.手之内
   1.輪之内
   1.十文字
 極意之大事
   1.暇乞 後使者斬り二つあり
   1.獅子洞入
   1.地獄捜
   1.野中之幕
   1.逢意時雨
   1.火村風
   1.鉄石
   1.遠方近所
   1.外之剱
   1.釣瓶返
   1.智羅離風車
 此の目録は業名だけが記されていた筈で、曽田先生が解説を付けたものと思われます。
 これを解説しますと一冊の本が書けてしまいますので、端折ります。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 7日 (火)

曾田本その2を読み解く14無双直伝英信流居合目録14の1目録

曾田本その2を読み解く
14、無双直伝英信流居合目録
14の1目録
此の伝書は実兄土居亀江が恩師谷村樵夫先生より伝授せられたるものを写したるもの也。
(昭和20年7月4日午前2時高知市空襲家財諸共焼失したり。)
◎本伝書伝二巻は別に蔵す
 本書と共に得難きものなれば大切に保存し後世に伝ふべきものとす 虎彦筆山記
 目録の前書きに、実兄土居亀江が谷村派第16代楠目繁次成栄の弟子谷村樵夫自庸から授与されたものを書き写したものだと云っています。
谷村派第16代は五藤孫兵衛正亮とされた目録は、第17代が大江正路として一般に流布されています。第16代楠目繁次ー第17代土居亀江で切れてしまっています。
 曽田先生は、下村派第14代下村茂市定ー第15代行宗貞義ー第16代曽田虎彦ー竹村静夫と位置付けています。目録允可されているかどうかは不明です。
 無双直伝英信流の道統を目録授与により伝承している様に見えますが、証明できるものは現物以外に無いので「そう言っている」程度で良いのでしょう。
 大江先生が授与されたものも誰も見ていない様ですから疑問ですが、大江先生から8人ほどが授与されたと聞いています。業目録の前に根元之巻が授与されて一般的にはその流派の師範格になったのでしょう。第11代大黒元右衛門清勝以降は根元之巻を授与されたものが複数記載されそれぞれ、道統の宗家を名乗ったかどうかでしょう。
 その縦社会に属するものは、其処を拠り所としている様ですが、意味があるかどうか疑問です。かと言って全居連や全剣連の段位制度には流派をないがしろにしてしまうわけでこれも疑問です。

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 6日 (月)

曾田本その2を読み解く13陸軍戸山学校天覧武道場

曾田本その2を読み解く
13、陸軍戸山学校天覧武道場
長谷川英信流居合
太刀打之位
請込1業
打太刀竹村静夫、仕太刀曽田虎彦
昭和10年10月25日
日本古武道振興会主催明治神宮奉納武道に出席したるを機に戸山学校に招かれて演武したるものなり。
陸軍戸山学校天覧武道場にて(昭和10年10月26日写)
打太刀竹村静夫・仕太刀曽田虎彦
Img_0484
昭和10年11月海南新聞にて
万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏
傑物、行宗貞義の一の弟子
土佐居合術の為に
土佐の居合術は英信流とて全国的に有名であり京都武徳殿においても特に英信流を日本武術の精華として尊重し中学校でも武道の教科目に編入してをる程だが現代この土佐居合術の代表的人物は何といふても曽田虎彦氏であらふ。
曽田氏の師匠は有名な行宗貞義である、行宗氏は西南戦争の時大尉として各地に転戦した剛の者だが後ち感ずるところあって断然軍服を脱ぎ捨て、一時看守長を勤めたこともあり、其の後ち更に零落して第二中学校の門監にまでなり下っていた。
当時、二中の武術教師は桑山直澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かった真田翁がその試合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がをる以上、桑山は教師たる資格がない早速罷めろと言って、行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江正路氏の如き剣客も行宗の足許へ寄りつけぬと云ふ評判で其の実力は大したものだった。
この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったがそれら数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江重吉、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我が子の如く教へたといふ一事を持って、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを臆していたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る、果然その曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられここに師の衣鉢を継ひだのである、
すなわち世間から見れば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に推しあげられた形となった、そこで今一度行宗氏の実力を振り返へて見直す必要が出来た、何でも明治40年頃であったが範士の中山博道氏が態々来県して行宗氏の弟子となり又三重県人で堀田捨次郎といふ柔道の範士も亦来県して行宗氏の門に入った敢えて多くを語らずとも此の二つの事実は行宗氏とその人の畏敬をすべきその妙技と実力とを極めて雄弁に物語ってをるではなかろふか。
本年10月25日、日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のため万丈の気を吐ひた、そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった、斯くして長谷川英信流7代の師範たる曽田虎彦氏は日本の武道界において天下的人物たる折紙を附けられたことを我等土佐の誇りとして読者諸君と共に欣快の拍手を送る写真は曽田氏。
Img_0515


 海南新聞の記事ですが、土佐のお国自慢は可愛らしいものです。
 今では、読めばすぐにとんでもないと苦情の来るような大尉から「門監」に成り下がるなどの職業の貴賤を平気で述べています。時代の為せるものと云えます。
 行宗貞義をよいしょするのに大江正路は足元にも及ばないと云っています。中山博道にも指導したとかどこまで事実を押さえて書いたのか疑問だらけ、博道を指導したからすごい人と云いたかったのでしょう。と云う事は博道はものすごい人と思えますからそれ以下に土佐人はされてしまったのでしょう。
 昭和10年の新聞ですから、この頃生まれた方がこんな風に育てられたか、とふと思ったりして・・・。

 

| | コメント (0)

2019年5月 5日 (日)

曾田本その2を読み解く12無雙直伝英信流居合術系譜12の2参考

曾田本其の2を読み解く
12、無雙直伝英信流居合術系譜
参考
岩田憲一著
旦慕芥考(平成元年989年発行)
無雙直伝英信流居合術系譜
岩田憲一先生の旦慕芥考第三編は名士の記録が纏められています。
その124Pに前回曽田先生の無雙直伝英信流居合術系譜と同様の構成により系譜が纏められています。
 曽田先生の残された土佐の居合、曽田本その2を読み解くに当たりここに掲載させていただきます。
Img_0511

| | コメント (0)

2019年5月 4日 (土)

曾田本その2を読み解く12無雙直伝英信流居合術系譜12の1原本写し

曾田本その2を読み解く
12、無雙直伝英信流居合術系譜
無雙直伝英信流居合術系譜
Img_0482_2
Img_0494
Img_0495
Img_0491
 曽田先生の手書きによる系譜になります。文字も小さくて読みずらいのですが眺めてみてください。
 初代林崎甚助重信から11代までは大凡土佐の根元之巻、目録允可などでおなじみだったでしょう。
 12代以降は明治・大正・昭和を生きて来られた曽田先生が纏められたもので貴重な研究結果でしょう。

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 3日 (金)

曾田本その2を読み解く11英信流大小立詰11の7移り

曾田本その2を読み解く
11、英信流大小立詰
11の7移り
参考
曾田本その1
古伝神傳流秘書
大小立詰
7本目
電光石火:如前後より来り組付を体を下り相手の右の手を取り前に倒す。
曾田本その2
業附口伝
英信流大小立詰
7本目
移り:(口伝 山川先生の伝書には「電光石火」とあり)敵後より組付きたるを我体を落して敵を前に投ぐる也(真揚流の投業の如 曽田メモ)
五藤先生教示:後より組付体を下り前へ投る。
 業附口伝の業名は「移り」、古伝は「電光石火」です。何処でどうなったのでしょう。
 江戸末期から明治の土佐の居合は消えそうになっていたのでしょう。伝書も伝わらず正しい指導も受けられずいたのでしょう。
 もう一つは、下村派には古伝が伝わっていたが、谷村派には伝わらず口伝口授が唯一の伝承法だったかもしれません。
 谷村派からの伝書は見た事も聞いたこともありません。従って何処かおかしいものになったのではと思う次第です。確証はありません。出来るだけ早いうちに事実を手に入れたいものです。
 業附口伝は曽田先生の書き記したもので、実兄土居亀江からの口伝、田口先生(不明)の指導によるものです。
 古伝の電光石火は「体を下り相手の右の手を取り前に倒す」ですから、柔道の一本背負を彷彿とさせます。
 業附口伝は「我体を落して敵を前に投ぐる」で、相手の右手を取れとは言っていません。体を落とす事によって投げる、やり方は自分で工夫しろというのでしょうか。
 大小立詰を以て曽田先生の業附口伝は終わっています。古伝神傳流秘書の大剣取は曽田先生に実兄からの口伝は無かったのでしょう。
 以上を以て古伝神傳流秘書以前に河野百錬先生が無雙直伝英信流居合道(昭和13年発行)によって居合人に公にされてしまった、曽田先生が実兄土居亀江からの口伝を記録した業附口伝を終ります。
 業附口伝が戦前に先行して出てしまったので、その業名や動作もそれを研究して古伝の組太刀を学んでしまったと云うのが事実の様です。
 曽田先生は古伝を出版したかったと弟子の山本俊夫に戦時中に語っています。出版できずに亡くなられ、その意志は河野百錬先生によって無双直伝英信流居合兵法叢書によって昭和30年に初版が出版され、昭和38年に再版されています。
 手に入れられた方も有った様ですが、書棚の隅に仕舞われたままそれを学ぶ人も無く眠ってしまった様です。
 同じような事は、夢想神傳流の木村栄寿先生による、細川家から借用して読み下しを出版された林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流も古伝神傳流秘書が搭載されているにもかかわらず、夢想神傳流の方々の研究は聞く事も無いのが実態でしょう。
 大江正路・中山博道両先師の居合を見直す資料がありながら、「英信流はこうだった」などの見て来たような嘘をついても意味のない事です。
 少なくとも、奥居合や組太刀は古伝に戻さない限り武的踊りに終わってしまうと思います。

 

 

 

 

 

| | コメント (1)

2019年5月 2日 (木)

曾田本その2を読み解く11英信流大小立詰11の6乱曲

曾田本その2を読み解く
11、英信流大小立詰
11の6乱曲
参考
曾田本その1
古伝神傳流秘書
大小立詰
6本目
乱曲:如前後より来り鐺を取り頻りにねぢ廻し刀を抜かせじとする時後へ見返り左の手か右の手にて取りたるかを見定め相手左の手ならば我も左にて鯉口を押へ相手右ならば我も右にて取る後へ引付んとするを幸しさり中に入り倒す。
曾田本その2
業附口伝
大小立詰
6本目
乱曲:(左右あり)我と敵とは前後に立ちて行く也、敵後より右手にて鐺をくるくる廻す也、我此の時直に後向きて左右何れの手なるやを見定め右手なる時は我左足にて敵右足を掬ひ中に入る也、若し左手なる時は我は右足にて敵の左足を掬ひ中に入る也。
五藤先生の教示:後ろより鐺を取りくるくる廻し引時左右を見合せ中に入る。
 古伝の場合振り向いて見て、相手が左手で我が鐺を取っていれば、我も左手で鯉口を押さえ、右手ならば右にて(鯉口を)取る。此処までは業附口伝にも引き継がれています。
 そして古伝は相手が後ろ(背中)に引き付けようとする。それを幸いとして「しさり中に入る」のですが業付口伝は鐺を取った相手の手が左右どちらかなのか見定め直に「右手なる時は我左足にて敵右足を掬ひ、左手なる時は右足にて敵の左足を掬ひ」中に入る、のです。
 外見上の動作は同じ様に見えるでしょうが、状況をしっかりとらえて相手の動作に即座に反応する稽古も大切な処で、一方的に形動作を進めてしまうと、上手に見えても役立たない事は多いものです。
 この乱曲は、英信流の瀧落の時の鐺を取られた時の想定と考えられます。
 瀧落では「刀の鞘と共に左の足を一拍子に出して抜て後を突きすぐ右の足を踏込み打込み開き納る。此事は後よりこじりをおっ取りたる処也故に抜時こじりを以て当心持有り。」でした。相手に握られた鐺を振りもいで振り返って刺突し打込むのでした。
 乱曲では振りもぐとは言っていませんが、鐺を取った相手の左右の手を見定めるや、刀を握る手は相手と同じ様に右ならば右、左ならば左で取り、相手が背中に押付て来るや其の拍子に左手の時は左足から下るや左回りに振り向き、右手の場合は右足から後ろに下がって右廻りに振り向き相手に附け入り、相手の出足を掬って倒す。
 古伝は、「しさり中に入り倒す」だけですが、「しさる」だけで中に入れますが、倒すには向かい合わせになった方が倒しやすく、振り向く拍子に握られた鐺も外せると考えます。
 業附口伝は古伝の言い足りない部分を補ったとも見られるのですが、先ず文章の順番通りに動作を付けて見ましょう。
 乱曲と瀧落の動作に関連性が感じられます。
 政岡先生は地之巻で瀧落(滝落)で「・・振り返って左右何れの手で鐺を取っ居るかみきわめて・・」とされて右手で鐺を取られた時の動作は「左足を出し腰を押し出しつつ右手を柄にかけ、右胸に引き、鐺を左腿に添え、強く左前に出してふりもぐ。若し左手で握っておれば左右とつぎ足で出て腰を右前に出す気持ちで、柄は左前に引きよせて敵の手をふりもぐべきである。」として乱曲で行われている事を示唆されています。

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 1日 (水)

曾田本その2を読み解く11英信流大小立詰11の5蜻蜓返

曾田本その2を読み解く
11、英信流大小立詰
11の5蜻蜓(蜻蛉)返
参考
曾田本その1
古伝神傳流秘書
大小立詰
5本目
蜻蛉返:相手後より来り我が右の手を取り刀の鐺を取り背中に押付られたる時其儘後へしさり中に入て倒す。
曾田本その2
大小立詰
5本目
蜻蜓返:打は仕の後より仕の手首を後に引き鐺を前に押す直ちに右足を以て掬ひ中に入る也。
五藤先生の教示:後ろから右の手首をおさへ跡へ引き左手鐺をおさへ前へおす時中に入る。
曽田メモ:中に入るとは上から逆に横抱きすることならん。鐺を後に引き右手首を前に押したる時は此の反対となる。
*
曾田本その2
業附口伝 
蜻蜓返
Img_0474
 古伝は、相手が「我が右の手を取り刀の鐺を取り背中に押付られたる時」です。
 業附口伝では、「仕の右手首を後に引き鐺を前に押す」
 想定が違います、いずれであっても、我は右足を後ろへ引き右廻りに中に入り右足で相手の左足を掬い倒す。古伝の方法で充分と思われます「後ろへしさり中に入り倒す」の中に入りをどの様に読み解くかによるのでしょう。

 曽田メモと線画の方法も否定する必要はないでしょう、しかし簡単な動作が一番です。

| | コメント (0)

« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »