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2019年7月

2019年7月31日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の4終礼

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の4終礼

 納刀後互に右足より出で、約四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し右手にて腰の刀を抜き前に置き板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換へ右手は右膝の上に乗せ其儘右足より立ち左足を右足に揃へ互に三歩退き直立となり黙礼を行ひ、更に対向の儘三歩づゝ退り神殿に向ひ礼を行ひ左右に別る。

 大江先生の終礼とは聊か異なる部分もある様です。:「刀を納めたれば互に右足より出で、四尺の距離を取りて左足を右足に揃へ直立し、同体にて正座し、右手にて腰の刀を抜き前に置き、板の間に両手をつきて礼を行ひ、更に刀を右手に持ち竪立とし左手に持ち換え、左腰部に当て右手は右膝の上に乗せ、其まゝ右足より立ち左足を右足に揃へ、互に三歩退り直立となり神殿に向ひ礼を行ひ對向し三歩づゝ退り黙礼を行ひて左右に別る。」
 河野先生右手に持った刀を立てて左手に持ち換えただけで「左腰部に当て」が抜けています。大江先生は神殿の礼の後に互いの黙礼をする様にされていますが、河野先生は互いの黙礼を先に行い、神殿への礼は後にされています。

 河野先生の大日本居合道図譜での終礼:「終礼はすべて最初の作法に準じて、之より互に五尺の距離に進みて端坐、刀礼をなし静かに立上りて小足三歩退りて互に黙礼をなし次に神殿に向ひ最敬礼を行ひ末座に退り御互の礼をなして終る。
 どの様な関係から終礼迄いじってしまったのか疑問ですが、コロコロ変える意味があるのか疑問です。河野先生は大江先生の直弟子では無く18代穂岐山先生に師事されたのですが、穂岐山先生亡き後は19代福井春政先生に師事されたのでしょう。
 福井先生の古伝太刀打之位の終礼:「留之剱、終らばそのまゝ一旦後方に退き血振ひして刀を鞘に納め更に前進し正坐にて刀の終礼を行ひ再度後退して対立のまゝ相互に黙礼をなし、次で神前の敬礼を行ふ」に従ったのかも知れません。形を演武会の出し物、あるいは奉納演武とするならばその流派の仕来たりに従って行えばいいだけのことですからそれでいいのでしょう。

 形の修行が進んでも、この手附の範囲で何時迄も稽古して見ても得られるものは少ないものです。例えば一本目出合の双方抜き合わせ受け留める場合の有り方、仕の上段からの切り下ろしを受け太刀とする教え、それだけで充分とすれば、刀は折れているか刃はボロボロです。どの様に受けるか研究すべきものでしょうし、常に打が導くために受け太刀となる、或は切られ役である必要は稽古が進めば其処に留まるべきものでは無いでしょう。仕が不十分な運剣や間の取り方であれば反対に斬り付けるか、いなしてしまうべきものでしょう。大江先生の形は中学生向きに形成されたものであり、非常に初歩的な、間と間合いの認識を覚える程度のレベルであって、剣術と云えるほどの形とは思えませんが始まりはそこからでしょう。

 

 

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2019年7月30日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書7真方

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
7、真方

 打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩十分に踏み込みて打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は其儘の体勢にありて仕太刀の斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退き其刀を受け留める。互に青眼となり打太刀は、一歩出で仕太刀は一歩退く、青眼の儘残心を示し互に五歩退き元の位置に戻り血振りし刀を納む。

 河野先生の真方と大江先生の真方は、打太刀の動作が異なります。:「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼のまゝ左足より小さく五歩退き上段となり、右足より交叉的に五歩充分踏み込みて、打太刀の真面を物打にて斬り込む、打太刀は右足より五歩出で仕太刀を斬り込むと同時に左足より右足と追足にて退り、其刀を請留める、互に青眼となり打太刀は一歩出で仕太刀は一歩退り、青眼のまゝ残心を示し互に五歩引き元の位置に戻り血拭い刀を納む。

 河野先生は、前回の請流で「仕太刀は左足より斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み退きて青眼になり次に移る」の文章から真方の打太刀を「打太刀は其儘にて左足を出して八相となり、仕太刀は青眼の儘左足より小さく五歩退き上段となり」とされています。その原因は受け流しの初動に河野先生は打太刀が「刀を差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足右足を踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す」と云う事で鍔留で互に五歩退き血振り刀を納めた事を忘れているのです。ですから受け流しの際の双方の間合いは一足一刀の間から五歩離れているのです。当然受け流しの間に至るには五歩の双方の前進が必要です。そして受流しから元の位置に戻るにも五歩の後退が必要なのです。
 大江先生は受け流しの終了の際青眼に双方構えて刀を合わせ五歩退き、河野先生は打太刀をその場に立たせて置いたと云う事になります。

 河野先生の真方は八相に構えて立ったままの打太刀に仕太刀は上段に構えて歩み寄り一方的に打の真向に打込み、打は左足を退き右足を追足に仕の打込みを受けるのです。
 大江先生は双方歩み寄り打は仕を打たんと斬り込む瞬間、仕の斬り込みが早く左足右足と追足に下がり受け留めるわけです。どの様に受け留めるのかは、大江先生の一本目出合の「打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける」のですが、左斜めにの意味が文章からは読み取れず、習慣的に見る形は、柄を左に切先を右上に向けた左傾斜の受け太刀です。

 河野先生の大日本居合道図譜ではこの真方の業名は「討込」と変えられ:「打太刀八相仕太刀中段より互に前進す。間に接するや、打太刀は仕太刀に斬込まんとするを、仕太刀は機先を制して右足を踏込み上段より打太刀の真向に敵刀諸共其の真向より斬下して勝つ。打太刀は左足を一歩退き第一本目の要領にて受ける。次に打太刀は左足より追足にて二歩退き中段となり刀を合はせ、打は三歩出て仕は三歩退りて元の位置に戻り、互に五歩後退して血振り納刀す。」

 此処では双方互に前進するのですが、打は八相、仕は中段に変えてしまっています。大江先生の心持ちを組み込み「打太刀は仕太刀に斬込まんとするを」が、追加されています。
 「一本目の要領にて受ける」形は「打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る」とされ。がっちり刃で受け止める様にされています。大江先生の「刀を左斜にして受ける」の心持および武的配慮が見られません

 古伝神傳流秘書の太刀打之事11本目打込:「相懸又は打太刀待処へ遣方より請て打込み勝也」
 古伝の打込は、文章不十分で動作が出て来ません。打は相がかりでもその場に待ってもいい、“遣方より請て打込み勝”ですから間境でだが打込んで来るので、仕は請けて打込んで勝、を打の打込みを請けてしまってから打ち込むのか、請けると同時に打ち込むのか、ここは業呼称が打込ですから、打の真向打ち込みに仕も真向打ちで合わせ打込む「合し打ち」を研究したいと頃です。打は仕に打ち込まれて請け止めて完了では稽古不要です。

 曽田先生の附口伝太刀打之位打込一本:「双方真向に物打にて刀を合はし青眼に直り退く」

 曽田先生の業附口伝は打込で双方真向に斬り付けます。新陰流の「合し打ち」を思わせるもので、打太刀が仕太刀の真向に斬り下ろすのを仕太刀は同様に打太刀の真向に斬り下ろし勝。土佐の居合に組み込まれた柳生新陰流の影が垣間見れる処でしょう。

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2019年7月29日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書6請流

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
6、請流

 刀を腰に差したるまゝ静かに出で、打太刀は刀を抜きつゝ左足、右足を(と)踏み出し上段より正面を斬り体を前に流す、仕太刀は左足を右足の側面に出し刀を右頭上に上げ受け流し、左足を踏み替え右足を左足に向け打太刀の首を斬る、仕太刀は左足を左り斜に踏み、打太刀は左足より後へ踏み、退きて青眼になり次に移る。

 この請流しは古伝神傳秘書の太刀打之事には同じものはありません。大江先生の独創でしょう。河野先生のスクラップと大江先生の剣道手ほどきとの違いは赤字の部分位です。「左足を踏み変へ右足を左足に揃へて体を左へ向け打太刀の首を斬る」

 大江先生の奥居合立業の受け流しがこの組太刀の請流の元になって居るはずです。:奥居合立業の部受け流し:「(進行中左足を右足の前に踏出し身を変して請流す)左足を出すとき、其左足を右斜に踏み出し、中腰となり、刀の柄元を左膝頭の下として、刀を抜き直に其手を頭上に上げ、刀を斜とし、体を左斜め前より後へ捻る心持にて受け流し、左足を踏みしめ、右足を左足に揃へ、右拳を右肩上に頭上へ廻し下し、上体を稍や前に屈めると同時に真直に左斜を斬る、・・」
 大江先生の奥居合立業の受け流しの動作が英信流居合形には見られません。この奥居合の受け流しで、「刀の柄元を左膝頭の下として」の動作は何を意味するのか分かりません、理屈をつけて見ても意味があるものでは無さそうです。組太刀にない「体を左斜め前より後へ捻る心持ちにて受け流し」の部分は組太刀では簡単に「・・・刀を右頭上に上げ受け流し」です。大袈裟に反り身になって身を捻じる動作の有効性は感じられません。仮想的相手の演武はともすると派手な動きを作り出すのですが、受け流しは敵の打ち下す刀と請け太刀の角度や拍子が大切で、力任せにガチンと受けたのでは軽く受け流すことはできません。
 大きく反って体を捻じって受け流すならば「右拳を右肩上に頭上へ廻し下す」意識は不要でしょう。次いでですが、大江先生の組太刀は打太刀は斬り込んで外されたり、刺突の時「体を前に流す」動作を要求しています。仕太刀の斬り込みを容易にする打太刀の配慮かも知れませんが、居合の稽古では、斬り込んでも体を前に流す事は許されません、稽古の動作と異なる動作は無駄であり組太刀の緊迫感を著しく欠き品位を落とすばかりです。
 大日本居合道図譜の受流でも「・・仕の真向に斬り下すを、仕太刀は右足を左足の右後方に踏み込みつゝ上体を左に披き乍ら(上体を剣先と共に左に廻し乍ら後ろに反らせ敵刀を摺り落す)打太刀の刀を受流す。・・」と文章上はなって居ますが写真は体を開きながら摺り落す様で、悪く言えば刀の鍔元で受けるのではなく物打近くで請ける「逃げ流し」に近い動作でしょう。

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2019年7月28日 (日)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書5鍔留

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
5、鍔留

 互に青眼のまゝ小さく五歩を左足より退き、打太刀は中段となり仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出合ひ乍ら双方上段となり、間合に至りて相打ちとなりて刀を合はす、仕太刀、打太刀、鍔元を押し合ひ双方右足を後へ退き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直ちに上段より右足を踏み込み仕太刀の肩口より切り下す、仕太刀は左足を十分退き体を後方に引きて刀をかわし上段となり、空を打たせ上段より頭を斬る、打太刀は二歩出で、仕太刀は二歩退き、青眼となり互に小さく五歩退き血振り刀を納む。(打太刀は仕太刀を打つ時は中腰となり上体を前に流す)

大江先生の剣道手ほどきの鍔留の手附の内容に対し、河野先生の鍔留は抜けが見られます。:「互に青眼のまゝ小さく、五歩を左足より引き、打太刀は中段となり、仕太刀は其まゝ下段となる、互に右足より三歩出で、打太刀は右足を左足に引き上段に冠り真直に打下し、仕太刀は右足を左足へ引き上段となり、右足を出して打下して互に刀合す仕打鍔元を押合ひ双方右足を後へ引き左半身となり、刀は脇構として刀尖を低くす、打太刀は直に上段より右足を踏み込み仕太刀の左向脛を切る、仕太刀は左足を充分引き上段となり空を打たせ上段より頭を斬る、打は二歩出で、仕は二歩退り青眼となり互に小さく五歩退り、血振ひ刀を納む(打太刀は仕太刀の左膝を打つときは、中腰となり上体を前に流す)

 河野先生の一刀目は、どの様に打ち込んで相打ちなのか判りません。大江先生は双方上段から真直に打ち下す真向打ち合いですから、ここで合し打ちの勝負がつくわけですが、双方刃を返して請け太刀になるか、高い位置で鍔留となって鍔競り合いの押し合いとなるのでしょう。或は打が真向に打込んで来るのを仕は同様に真直に打たずに請け太刀となって摺り込み鍔止めとなる。
 車に別れた場合の打込む部位は、仕の左肩、左腰、左膝、左脛でしょう。大江先生は左向脛を指定しています。河野先生は肩口です、左肩口です。従って大江先生は敢えて上体を前に倒さなくともよいのに「上体を前に流す」と添え書きしています。河野先生の場合は肩口ですから外されれば刀が流れやや前がかりになります。子供向けの稽古形ですから打の体を屈めて仕の打込みを容易にさせている様です。

 この業は古伝神傳流秘書の太刀打之事五本目月影が相当します。:「打太刀冠り待つ所へ遣方右の脇に切先を下げて構へ行て打太刀八相に打つを切先を上て真甲へ上て突付て留め互に押相て別れ両方共車に取り相手打つをはづす上へ冠り打込み勝」
 古伝は打が八相に左面に斬り込んで来るのを右下段の構えから切先を上げ相手の喉を突く様にして摺り上げて鍔競り合いに持ち込んでいます。意味不明な真向打ち合いより稽古としては良い動作でしょう。

 曽田先生の業附口伝は古伝に忠実ですが参考の為に月影:「是も同じく抜て居る也相掛りにても敵待かけても苦からず敵八相にかたきて待ちかくる也敵八相に打処を出合て互に押合又互に開き敵打込む処を我左足を引き立ち直りて打込み勝也」
 此の業付口伝のは「月影仕下打八」と添え書きが施されていますから仕は下段、打は八相の構えとなります。

 第19代福井春政先生の月影:「仕下段、打八相 八相に構へて互に前進、間合を取り(この場合稍々間合を近くとる)、打太刀八相より仕太刀の頭上に打込み来るを仕太刀之に応じて同じく打合はせ拳が行き合ふ瞬間鍔元にて押合ひ更に双方右足を大きく退きて稍々左半身に体を開き剣尖を低くして脇構へとなり続いて打太刀は右足を一歩踏込み上段より仕太刀の左股に斬り込むを仕太刀充分に左足を退きて空を打たせ、立直りて右足を一歩踏出し上段より打太刀の頭上に打下す。・・」
 せっかく仕は下段、打はハ相に構えていても双方八相に構えて前進し上段に構え直して頭上に打込んでいます。是は竹刀剣道の統一された運剣ですが批判の有る所です、竹刀剣道では形は重要視している様に言っていますが疑問です。ついでに脇構からの打込みも一旦上段に振り冠ってから打ち込むのですがこれも疑問です。武的演舞ならばそれも良しでしょう。
 

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2019年7月27日 (土)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書4独妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
4、独妙剣

 打太刀は其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩退りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で右足を踏出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と、追足にて一歩づゝ退き刀を青眼とす。打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺込みて突きを施し上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜に変じ上段に取り、右足を踏み替へて打太刀の首を斬る、互に青眼となりて打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退き互に構ゆ。

 河野居合はこの頃、独りよがりでこれだけ読んでもどうしたらよいか分かりません。三本目の如くとは「仕太刀は右足を踏み出し打太刀の左面を斬る、打太刀は左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす。仕太刀は左足を出し打太刀の右面を斬る打太刀は右足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。仕太刀は右足を出して打太刀の左面を再び斬る打太刀は左足を退きて仕太刀の刀と打ち合わす。」この三度の打ち合わせを、実技で教える場合はともかく文章で省かれては困ります。
 次に「双方右足前で刀を打ち合わせて居ますから、後足の左足から一歩下がり右足を追足し、一足一刀の間に取って切先を合わせ互に青眼となる」。
 「打太刀は右足を一歩踏み込み上体を倒し刀刃を左に向け仕太刀の刀を摺り込んで仕太刀の水月を突く」。「仕太刀は左足を左斜め前に変じ上段となり、右足を左足と踏み変えて打太刀の首を斬る」河野先生の突きは上体を倒して体が伸びた突きですが、刺突の部位の指定がありません。打は低い態勢ですが仕は青眼の直立です、部位は水月にしましたが咽から水月あたり、刃は下向きなのか左右なのかの指定もありません。仕の刀を摺り込むとだけです。仕打共に青眼ですから双方相手の喉に切先をつけた中正眼とします。打は仕の刀の狙いを外す様に摺り込むとすれば刃を左に向けて刀の反りを使って摺り込む様に突くのでしょう。


 河野先生の独妙剣の手附は大江先生の剣道手ほどき其の儘の文章ですから、大江先生の居合の不備はおおらかさと捉えて自得する事になります。
 大江先生の剣道手ほどきに依る英信流居合の型四本目独妙剣:「打太刀は、其のまゝにて八相となり、仕太刀は青眼にて五歩下りて八相となる、仕太刀は左足より三歩出で、右足を踏み出し、打太刀は左足を引きて三本目の如く打合せ、左右と二度打合せ、三度目に左足より右足と追い足にて一歩づゝ退き、刀を青眼とす、打太刀は右足より追足にて仕太刀の刀を摺り込みて突きを施し、上体を前に屈む、仕太刀は突き来ると同時に左足を左斜へ変じ上段に取り、右足を踏み変えて打太刀の首を斬る、互に青眼となり、打太刀は三歩出で、仕太刀は三歩退り、互に構へるなり。」

 曽田先生の業附口伝によるこの業はありません、当然の事ですが古伝神傳流秘書太刀打之事にも此の独妙剣に相当する業はありません。曽田先生は「之は請流のことを記セリ」と解説していますが、古伝神傳流秘書の抜刀心持之事請流の雰囲気とイメージが合いません。太刀打之事請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込を打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留め相手又打たんと冠るを直に其侭面へ突込み相手八相に払ふをしたがって上へ取り右足にて真甲へ勝」

 河野先生の大日本居合道図譜の独妙剣:「打太刀、仕太刀相八相より前進し間に至るや、絶妙剣と同理合ひにて、二度斬結び三度目に仕太刀は打太刀の退く所を其の左面に斬込む、打太刀は二刀目と同様之を受け、互に左足を退きて十分なる同等の気位にて中段となる。打太刀は機を見て右足左足と追足にて、剣を左に傾け摺り込みて仕太刀の胸部を刺突す。仕太刀は左足を左に踏出し(右足の左斜前)体を右に披きつゝ手元を上げて敵刀を捲き返す。(敵剣を己が右斜め下に裏鎬にて摺り落す)仕太刀は、打太刀の刀を右斜め下に摺落しながら右足を左足の方向に退きつゝ上段となるや右足を踏込みて打太刀の首より肩にかけて斬下す。・・」
 大正7年1918年から昭和17年1942年まで四半世紀掛けてこの独妙剣が成立しました。相変わらず打ち合う部位が判らず真向を打ち合って見たり、打が刺突の際上体を過度に倒して延び切って見たり、仕は摺り込んで来る打の刀を摺り落す業を研究せずに左に避けているばかりの獨妙剣を指導して居たり、打の突きは刃を下にして水月を突くなどと云っためちゃくちゃが横行しています。
 まず指定された事を其の儘動作に転換してその意義を悟ってより優れた動作を研究したり、変化に応ずる工夫を心がけるべきものでしょう。組太刀を奉納演武や演武会の出し物として演舞する事に稽古時間を費やすなど無駄な上に情けないことです。

 

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2019年7月26日 (金)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の3業書3絶妙剣

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流形
23の3業書
3、絶妙剣

 打太刀は其まゝにて左足を出して体を斜向きに八相となり、仕太刀は青眼より左足を出して八相となる、仕太刀は八相のまま右より五歩交互に進み出で、同体にて右足を踏み出して右面を斬る、打太刀は八相より左足を退きて仕太刀の太刀と打合はす、仕太刀は左足を出し打太刀は右足を退きて前の如く、打合はせ、打太刀は左足を退きて上段構となりて斬撃の意を示す、是と同時に仕太刀は右足を出して体を右半身とし中腰となりて左甲手を斬る、静かに青眼となりつゝ打太刀は三歩出で仕太刀は三歩退る。以下次号(絶妙剣はここまで、以下とは次の4、独妙剣ミツヒラ)

 大江先生の絶妙剣は河野先生の絶妙剣と同じです。

 この、絶妙剣は古伝神傳流秘書太刀打之事の四本目請入の業と思われます(請込共云う 曽田メモ):「前の如く打合相手八相に打つを前の如く留め又相手より真甲を打を体を右へ開きひぢを切先にて留勝」
「前の如く打合」とは、古伝太刀打之事3本目請流:「遣方も高山相手も高山或は肩へかまへるかの中也待処へ遣方歩行右の足にて出合ふ打込むを打太刀請扨打太刀の方より少し引て裏を八相に打を左足にて出合ふて留相手又打たんと冠るを・・」

 河野先生は仕太刀が進んで打太刀の右面に打ち込み打太刀は左足を引いて之を受け、古伝は仕太刀が右面に打ち込んで来るのを左足を退いて八相に請けています。
 次は河野先生は、仕太刀が左足を踏み込んで打太刀の左面に打ち込み、打は右足を引いて仕の打ち込みを受けています。古伝は右足を引いて裏から仕太刀の右面に打ち込み仕太刀は之を左足を踏み込んで受けています。
 次は河野先生は、打太刀が左足を引いて上段に構える処右足を踏み込んで体を半身にし中腰となって打の上段となった左甲手に斬り付けます。古伝は左足を引いて上段に構える処仕太刀は右足を右斜め前に踏み込んで体を右半身として打の肘に斬り付けます。

 曽田先生に依る業附口伝の太刀打之位4本目請込(請入):「是も同じく相懸りにても敵待かけてもにかからず請流の如く八相にかたぎスカスカト行て真向へ打込也敵十文字に請て請流しの如く裏より八相に打其処を我も左の足を出し請流の如く止むる也敵其時カムリて表より討たんとする所を其侭左の肘へ太刀をすける也」

 曽田先生の業附口伝少々抜けがあるのですが、第19代福井春政先生の業付口伝を修正されたような請込(請入):「相ひ八相より相掛りにてスカスカと進み仕太刀表より打太刀の面を撃つ、打太刀は之れを表十文字に請く。仕太刀更に左足を一歩進め八相より裏に打込むを打太刀右足を退き裏にて請け更に左足を退きて上段に振り冠るところを仕太刀素早く右足を大きく一歩斜め右前に踏込み体を右に開き打太刀の左上膊部を下より掬ひ切りに打つなり。静かに刀を合せ正位に復し互に五歩退きて血振ひ納刀をなす」
 この19代福井先生の請込は、仕太刀が一本目真向、二本目八相から右面に打込んでいます、古伝や曽田先生の業附口伝は一刀目は仕太刀の右面打ち込み、二刀目は打太刀が下がりながら仕太刀の右面に打込んでいます。福井先生はこの業を大江先生の絶妙剣として指導したのでしょう。打太刀が上段に振り冠るところを、右足を右斜め前に大きく踏込んで体を右に開いて打の左上膊部に掬い切りしています。

 河野先生の大日本居合道図譜による絶妙剣は大江先生の居合道形で、第19代福井先生の請込とは似ているのですが異なります。:「打太刀仕太刀共互に足を踏みかへて左足を前に出し八相に構ゆ。打太刀仕太刀互に左足より前進し間に至るや打太刀は上段となりて右足を踏込みて仕の左面を斬込むを機先を制して仕太刀上段となるや右足を踏込みて打の左面に斬下し互に相打となり物打の刃部にて刀を合はす。
 打太刀は仕太刀の気に圧せられて右足を退かんとするを、仕太刀は之に乗じて、左足を踏込みて敵の右面に斬込むをを、打太刀は右足を退き上段より仕の太刀を受ける(斬込む様な様な要領で)。
 打太刀は左足を退きて仕の真向を斬下さんとして上段となるを、仕太刀はすかさず右足を右前方(打の左斜め側面)に踏込み左足を大きく其の後方に進めて踏みかゆるや、上段より打太刀の左腕上膊部に下より掬ひ上げる様に斬込みて勝つ。・・」

 河野先生の大日本居合道図譜の動作は一刀目の切りつけが福井先生と異なります。福井先生は真向打ちで打は之を十文字受けしています。福井先生は古伝の太刀打之位の改変、河野先生は大江先生の居合道形(英信流形)の改変とでも言ったらいいでしょう。
 どこぞの地区の大江先生の居合道形絶妙剣の一本目を双方真向打ちしています。一刀流の切落や新陰流の合し打ちの真似の様ですが、ここは右面に打ち込み受ける、あるいは福井先生の真向打ちを十文字受けすべきでしょう。真向打ちに応じて合し打ちが決まればこの業は其処で終了です。

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2019年7月25日 (木)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書2拳取

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形
23の3業書
2、拳取

 一本目と同じく虎走りに出で、膝にて抜き合わせ仕太刀は左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に引き下げる、打太刀は其のまま上体を稍や前に出し仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て刀尖を胸につけ残心を示す仕太刀は一歩退き打太刀は一歩出でて青眼か前となる(仕太刀は五歩青眼にて退く、打太刀は其まゝにて位置を占む)

 大江先生の剣道手ほどきによる拳取:「一本目と同じく、虎走りにて出で、膝にて抜き合せ、仕太刀は、左足を打太刀の右足の側面に踏み込み、左手にて打太刀の右手頸を逆に持ち下に下げる、打太刀は其まゝにて上体を稍や前に出し、仕太刀は其れと同時に右手の拳を腰部に當て、刀尖を胸に着け、残心を示す、仕太刀は一歩退り、打太刀は一歩出でて、青眼構となる、(仕太刀は五歩青眼にて退り打太刀は其まゝにて位置を占む)

 河野先生の文章と大江先生の文章はそっくり同じです。此の業も古伝神傳流秘書太刀打打之事二本目附入の業になります。大江先生の一本目出合、二本目拳取共に古伝を引用しています。
 古伝の附入:「前の通り抜合せ相手後へ引かむとするを附入左の手にて拳を取る右の足なれども拳を取る時は左の足也」
 古伝と大江先生、河野先生との違いは、古伝は「抜合せ相手後へ引かむとするを附入り左の手にて拳を取る」と相手が抜き付けを留められた圧せられたので一旦下がって建て直す隙に附け込む武術の根幹を大江先生は置き去りにして、仕太刀に一方的に攻め込ませている処でしょう。

 穂岐山先生の直弟子野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考による拳取:「仕・左足を踏みだすと同時に両足の前後も同時踏み換え、而して左手にて敵の右手首を取り稍手前に引く・・打・仕太刀より手首を取られ胸に刀を擬せらる・・」であって、仕の一方的な攻撃です、打が退くそぶりもありません。

 河野先生の大日本居合道図譜の拳取:「・・打太刀は圧せられて後に退かんとするを仕太刀はすかさず左足を打太刀の右足の斜め右前に踏込み右足を大きく後ろに、体を右に披くや打太刀の右手首を左手にて上より逆に握り(中指は手首関節部に、拇指は拳中に)左下方に引きて敵の体勢を右に崩し右手の自由を奪ひ右手の刀を刃を外に向けて腰部に把り剣先を打太刀の胸部につくる。・・」
 大江居合の修正をされて、打が退かんとするのに附けこんでいます。打の右手の制し方はここまで複雑にする意味はないので、右手首を握って、右下に相手を崩せば充分足ります。武術はいたずらに複雑な業を用いる必要は無く最小限の方法で制してしまう事を学ぶべきです。

 河野先生の修正を助けた資料は、曽田先生に依る業附口伝附込と思われます。:「・・敵のひかんとする処を我左の足を一足付込左の手にて敵の右の手首を取る此の時は左下に引きて敵の体勢を崩す心持にてなすべし・・」
 この業附口伝は昭和の10年頃には曽田先生から教えを受けた土佐の方々によって稽古されていた様で、第19代福井春政先生も引用されています。
 嶋専吉先生の無雙直傳英信流居合術形乾の太刀打之位二本目附込:「・・打太刀の退かんとするところを仕太刀跳込むが如く左足を相手の右側に深く一歩踏込み右足をその後方に踏み添へて体を開き、相手の右手首を左手にて逆に捉へ之れを己が左下方に引きて打太刀の水月に擬し之れを刺突の姿勢となる・・」
 付け足されたのが赤字の部分です。福井春政先生は柔術の先生だったとか聞きますがそれが余分な業を持ち込んでしまう原因となるのでしょう。河野先生は福井先生に指導を受けたかもしれません。

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2019年7月24日 (水)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の3業書1出合

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術
英信流居合形
23の3業書
1、出合

 打太刀は柄に手を掛る。仕太刀も打太刀の如く柄に手を掛けて双方体を前方に少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出で、右足を出したる時膝の處にて打太刀は請け仕太刀は抜打にてを合はす、仕太刀は直ちに右足にて一歩摺り込み上段より真面に打込む、打太刀は左足より右足と追い足にて退き刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心を示す。是より互に後に五歩づゝ下り、元の位置に復し血振り刀を納む。

 大江先生の剣道手ほどきによる出合:「打太刀は柄に手を掛ける、仕太刀は打太刀の如く、柄に手を掛け、双方体を前方少しく屈め、虎走りにて五尺の距離に出て、右足を出したるとき、膝の處にて打は請、仕は抜打にてを合す、仕太刀は直ちに右足左足と一歩摺り込みて上段より真面に打ち込む、打太刀は左足より右足と追足にて退き、刀を左斜にして受ける、仕太刀は二歩退り、打太刀は二歩出て、中段の構となり、残心を示す、之れより互に後へ五歩づゝ下り元の位置に帰り血拭ひ刀を納む。

 河野先生の出合も大江先生の出合も概略変わらないのですが、気になる箇所は赤字の傍線部分でしょう。一つは、虎走りに間を詰める動作です。虎でもネコでも走る動作は水の流れる様な動きです。何処の道場でも前傾がきつく足をばたつかせ品など何処にも見いだせません。大江先生の独創によるのですが、歩兵を死地に追い立てる訓練を想い描いてしまい大江組太刀は何処かおかしいものと思われます。
 次に虎走りに間を詰め同時に斬り込むようですが、仕は抜打に打の膝に斬り込み。打は抜き請けに受けると読めます。
 河野先生はこの時双方刃を合わすのですが、大江先生は刀を合わすと大まかです。
 次の仕の打込で河野先生は抜打した右足前でしょう、その右足を一歩摺り込んで真面に打ち込んでいます。大江先生は右足左足と一歩摺り込んで真面に打ち込む。勝負あって「仕太刀は二歩退く打太刀は二歩出で中段の構となり残心」であれば、河野先生の仕の打ち込む際の「右足にて一歩摺り込み」はおかしい、大江先生の「右足左足と一歩摺り込み」も、足裁きとしては前進しずらい。

 河野先生の大日本居合道図譜の出合では:「互に間合ひに接するや、打太刀は仕太刀の脛に斬込むを仕太刀機先を制して同様に斬付け、膝の所にて刃を合わす。
註-右足を踏込むや腰を十分左に捻りて斬込む。打太刀は仕太刀に圧せられて後に退かんとするを、仕太刀すかさず之に乗じて、踏込みて其真向より敵刀諸共斬下して勝つ。
註‐打太刀は左足より追足にて一歩退き剣先を右に刃を上に柄を左に出し刀を水平に前額上に把る。註-仕太刀は左足を継足して諸手上段となるや右足を一歩摺り込みて打太刀の真向に斬り下す。・・・」と訂正されています。

 足捌きは、稽古の結果でしょう継足捌と決めたのでしょう。
 然しここでは、打が仕に圧せられて、仕の真向打込みを右足を左足に引付て上段になろうとする処、仕の打込みが早く左足を引いて刃を左に物打下に左手を添え刃を上向けて前額頭上に受けずに、刃を右に柄を左にして無理やり受けたのでしょう。何も考えずに師匠に言われたまま、英信流の人も、神伝流の人も真面目にやっています。
 仕に圧せられ、請け止められた刀を摺り上げられるにしろ、打ち返さんと上段に冠らんとするにしろ切先は左にある方が容易です。是も居合道形を演武会の見世物ならばそんな処でやっていればいいでしょう。打太刀は仕太刀に圧せられて下って勝口を得ようとするならば如何様に太刀を捌くか工夫する良い稽古業です。

 古伝神傳流秘書の太刀打ちの事一本目出合では:「相懸りにかゝり相手より下へ抜付るを抜合せ 留て打込相手請る右足なり」と是だけです。後は自分で考えろと云うのでしょう。
 
 古伝の出合の江戸末期の手附を曽田先生は業附口伝として実兄土居亀江の口述と田口先生(不明)から五藤正亮先生、谷村樵夫先生の教えを書かれています。
 古伝と略同じと云えますが、随所に古伝の心持ちと異なる心持ちが有るので、私は第九代林六太夫守政先生の手附とは思えません。江戸末期までに変わって来たか、曽田先生の独創もありそうです。
業付口伝太刀打之位(古伝は太刀打之事であり組太刀は仕組だったようです)一本目出合:「是は互に刀を鞘に納めて相懸りにてスカスカト行、場合にて右の足を出しさかさまに抜き合せ敵引く処を付込みて左足にてかむり右足にて討也、此の時敵一歩退き頭上にて十文字に請け止むる也、互に中段となり我二歩退き敵二歩進み更めて五歩ずつ退く也納刀」
 古伝の「相懸りにかゝり相手下より抜付けるを抜き合わせ 留めて」の心持が何処かへ行ってしまい、双方抜き合わせの相打ちになってしまっています。

 昭和17年1942年戦時中にもかかわらず、嶋専吉という人が土佐を訪れ第19代福井春政先生に太刀打之位を稽古をつけてもらった「無雙直傳英信流居合術形乾」という小冊子を残されています。
その出合:「帯刀のまゝ柄を把りつゝ相掛りにてスカスカと前進(「互に三歩前進」とせるもあり)間合にて右の足を踏出すと共に互に相手の右脚に斬付くる心にて剣尖を下方に抜き合はす。続いて打太刀退くところを仕太刀附け込み左足を右足に進めて振り冠り更に右足を一歩踏込みて上段より打太刀の面を打つ、このとき打太刀は一歩体を退き(右足を軽く退き更に左足を退き)仕太刀の刀を頭上にて剣尖を右方に十文字に請け止むるなり。次で互に中段となり静かに刀を合はせつゝ打太刀小幅に二歩前進、仕太刀二歩後退して中央の位置に就き更めて各五歩(退歩歩幅狭きため五歩となる)退き血振日の上、刀を鞘に納む。」
 足捌きも明瞭になりました。打の受け太刀は「剣尖を右方」とされています。河野流は第19代福井春政先生譲りかも知れません。 

 

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2019年7月23日 (火)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形23の2発声

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直伝英信流居合術英信流居合形
23の2発声

 発声は相互の打合せ、或は受け又は打込みたる時、其業毎にイー、エー、と声を掛け合ふなり

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合之型2、発声:「発声は相互の打合せ、或は受け又は打ちたるとき、其業毎にイーエーと長く引きて声を掛け合ふなり。」
 河野先生の「・・と声を掛け合うなり」は大江先生の場合「・・と長く引きて声を掛け合ふなり」とされるのですが抜けています。このスクラップは大江先生述とされていますが堀田捨次郎先生の記述で大江先生の監修だろうと推察します。このスクラップは曽田先生が大阪八重垣会河野稔先生から譲り受けたのか何かで手に入れたもので、その後昭和8年1933年には無雙直伝英信流居合術全に記載されています。昭和13年1938年の無雙直伝英信流居合道も同様に「・・と長く引きて・・」が抜けています。

 大日本居合道図譜昭和17年1942年では「発声はイーエイと互に斬込みたる時掛け合ふ。(イーはヤアにてもよし)(斬込む瞬前にイーとかけ、斬込みたる瞬間にエイとかける)」
 大江先生の独創による英信流居合の型ですから大江先生の「イーエー」であるべきですが、どうしたわけか河野先生は「イーエイ」に変えてしまっています。この頃河野先生は大阪八重垣会幹事でした、大江先生の独創になるものをいじってしまい教本として発行する事の良し悪しは当時のどなたも異論を発して居ない様です。大江先生は昭和2年1927年には他界されていますし、穂岐山先生も昭和10年1935年には亡くなられています。19代福井春政先生は大江先生の居合道之型より古伝の太刀打之位11本を指導されていた形跡もあります。

 古伝神傳流秘書による太刀打之事には発声についての指定はありません。寧ろ居合の有り様からは無言の方が好ましそうです。大江先生が小栗流か他所で聞き覚えた発声を参考に考え出された発声でしょう。此の発声は打太刀も仕太刀も発声するのでしょうか何処にも書かれていません。適当に仕が「イー」とやり打が「エー」とやる。打の「エー」は間が抜けるから「エイ」とする。
 或いは仕が「イーエー」とやる。土佐の居合の組太刀の太刀打之事も太刀打之位も、詰合もさして高度の術を要さない初心者向けのものですから、木刀同士を打ち合うばかりです。
 居合の裏若しくは無刀に至るものとしては、大小詰・大小立詰・大剣取・小太刀之位が剣術としては高度です。それらは矢鱈掛け声に拘るものではありません。大江先生の居合道形を真剣で演武会で演舞しているもののほとんどが腰の引けた情けない打ち合いですし、木刀では是また矢鱈バシバシ力んで打ち合っています。何処か変です。 

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2019年7月22日 (月)

曽田本その2を読み解く23スクラップ無雙直傳英信流居合術英信流居合形23の1作法

曽田本その2を読み解く
23、スクラップ無雙直傳英信流居合術(其十一)
英信流居合形
大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔
23の1大江正治先生述
作法

 居合の時の同要領にて、神殿に向ひ立礼をなし、後互に十尺位ひの所に対向し(此時刀は左手に)拇指にて鍔を支へ其の握りを腰部に着け四十五度位ひの傾斜に刀を下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、更に約五尺程の距離に進みて向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち替へ前に五寸程離して置き互に両手を板の間に着け礼を行ふ。
 次に一応両手を膝の上に置き、右手にて刀を持ち腰に差し、再び両手を膝の上に置き、更に左手にて鞘を握り拇指を鍔に添へ右手を膝の上に置きたるまゝ右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す。直立したる姿勢にて後に退く事左足より互に五歩とす。
 止まる時は、右足を前に左足を稍や五寸程退きて踏む、此の構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。

 大江正治述と有りますが大江正路の誤植でしょう。
 このスクラップの出処は大阪八重垣会の会誌か何かでしょうが不明です。縦13文字で組まれています。それを切り取って曽田本その2に張り付けられたものです。
 内容は、この作法に見られる記述は河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の冊子の26~30ページンのものとそっくり同じです。
 河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では「第五節居合形之部 第1、無雙直傳英信流居合之形 當流第十七代宗家範士大江正路先生述」から始まり、「其1、作法」略同じ文章です。部分的には例えば「・・右足を前に出し其の足を左足に退き揃へて直立す・・」が「・・右足を前に踏み込み其の足を左足に退き揃へて直立す・・」と変えています。

 大日本居合道図譜では河野流が頭を持ち上げてしまい独創に依る幾つかの問題を残しています。
 表題で大江正路先生の独創された組太刀7本を「第七章 無雙直伝英信流居合道形太刀打の位)」としてしまい、古伝神傳流秘書に云う11本の組太刀である「太刀打之事」及び曽田先生による五藤正亮先生・谷村樵夫先生の業附口伝の古伝「太刀打之位」と 混同させてしまいました。

 組太刀の構えについては、高野佐三郎先生の「剣道」を踏襲されてしまい、当時の帝国剣道形をそれとしています。礼法については以下の通りです。:「相互の礼-道場の末座にて約五尺を隔てゝ対座す。(註 正座の姿勢と同様に端坐して刀は右脇に刃を内に向け鍔を膝の線に置く)次に礼をなす。
 神傳に礼-居合と同要領にて刀を左手に提げて立ち、静かに道場の中央に進み互に十尺を隔てゝ神前に向ひ右手に刀を取替えて神坐に最敬礼を行ふ。
 坐礼-立礼の所にて向ひ合ひて黙礼し静かに進み約五尺を隔てゝ体座す。刀を前に置き居合の要領にて坐礼をなす。
 帯刀-帯刀す。次に左手の拇指を鍔にかけて鞘を握り右足を踏み込みて立ち上がり其足を左足に退きつけて直立し、互に左足より五歩後進して対向す。之より業に移る。」
 河野先生は時節柄大日本帝国剣道形の構えの形に合わせざるを得なかったのは止むおえなかったかも知れませんが、大江先生および河野先生に依って、第9代林六太夫守政が土佐に持ち込んだ無雙神傳英信流居合兵法の多くが失伝する事になったのは否定できないでしょう。

 大江先生の剣道手ほどきによる英信流居合の型 1、作法:「刀は左手に鞘を持ち、親指にて鍔を支へ、其握りを腰部に着け、四十五度の傾斜に下げ、右手は横腹に着け不動の姿勢となり、互に十尺程の距離を取り対向し、一礼を行ひ、更に五尺程の距離に進み、神殿に向ひ黙礼をなす、更に向ひ合ひ静かに正座す、刀を右手に持ち変へ、前に五寸程離して置き、互に両手を板の間に着けて礼を行ふ、一応両手を膝上に置き、右手に刀を持ち、腰に差し、再び両手を膝上に置き、更に左手にて鞘を握り、拇指を鍔に添へ、右手を膝上に置きたるまゝ、右足を前に出し、その足を左足に引き揃へて、直立す、直立したる姿勢にて後へ退くこと左足より互に五歩とす、止まる時は右足を前に左足は稍や五寸程引き踏む、此構にて互に進み出でて第一本目を行ふ。」

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2019年7月21日 (日)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の10業と業との間

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の10業と業との間につきて

 答、総ての業の間には必ず一動毎に少しの間を置き決して一連に行ふものに之無く候、此一連に行ふは最も不可にして少しの間と云ふものは時間的のものにては無く「一動の終りにぐっと確かなる力の締りを」必要と致し候、而して次の動作は新たなる力と気合を以て行ふものに候。
 此の少しの間と云ふは、初心の内は十分落付きて業と業との間に区切りを作り、熟練するに連れて此の間をつめて然して此の業と業との間に力の締りある如く行ふを可と致し候。

 穂岐山先生の仰る「業」は現代居合の「技」かも知れません。是も河野先生の質問の状況が無いので判断に迷います。業とは例えば正座の部ならば一本目前と二本目右の様に異なる想定による業を差します。
 業は一本目前の場合、抜き付けの技、と振り冠りの技、打ち下しの技と云う様な使われ方をしています。
 業と技は広辞苑ではどちらも「すること、しわざ、おこない、つとめてしてする事、職としてすること、しごと」「しかた、方法、技術、芸」「こと、有様、次第」「わざわい、たたり、」「武道、相撲等で、相手に仕掛ける一定の型の動作」で区別が不明瞭です。
 藤堂明保先生の学研漢和辞典では、業は「ぎざぎざとつかえて、苦労する仕事、生活のため苦労してする仕事、すらりとはいかない仕事」。技は「技巧、演技、わざ=手足を使ってほどこす細かい細工またその腕前、たくみ=わざがじょうずである、器用な」などです。

 此処での業とは、一本目と二本目では無く一本目の動作の技法についての質問に穂岐山先生は答えられたものだろうと考えます。現代での統一的な言い方での「技」とします。
 そうであれば、抜き付けの瞬間でも、柄への手懸かり、抜き付ける瞬前、抜き付けの終り。などで「一動毎に少しの間を置き」と云う考えはいかがなものかと首を捻ってしまいます。此処にも対敵意識の乏しい形優先の指導が行われたのだろうと思ってしまいます。

 この答えに対し河野先生は無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年では居合修養の心得で「居合修養の心構へとしては、丹田に気を籠めるに従がい、極めて静かなるところより刀を抜き出し、其の切先の抜き放れ際の一瞬に、敵を両断するの気を最も必要とし、抜刀より納刀迄毫も気の弛み無く、業を大きく、納刀及び納刀後は十分の残心あるべきを要とす。而して錬磨の功を積み業の間を詰める様に努め、総て形に捉わるゝ事なく、一進一退敵によって転化し、只適正なる手の裡により刃筋正しく、充実せる真剣の気力を以て、真に敵を両断するの心持肝要なり。」

 そして、大日本居合道図譜昭和17年1942年では「初心の間は十分に落付きて業を大きく伸び伸びとユックリ行ひ、業と業との間に区切りを作りてなし決して素早く一連に行はぬ事。総ての業は其の一動毎に十分なる気魄を必要とす。即ち「一動の終毎にグット確かなる気力の締り」ある事を最も肝要とし而して次の動作は更に新たなる力と気合を以て行ふ事。然して錬磨の功を積み錬熟するに連れ内に凛々たる気魄を養なひ業の間をつめるよう心懸くる事。」と括られています。

 講習会などでも、語られる処ですが、演武会などで拝見する熟練者を自負される方達は皆さん、業をゆっくり大きく一動毎に間を取っています、何時まで経っても初心者の心を持ち続けるのは好ましいにしても、初心の頃に習い覚えた対敵を思い描かない形ばかりの動作を抜けられないのも何か誤った考えに引きずられている様です。

 河野先生の著書『居合道真諦」の大日本居合道無雙直伝英信流嘆異録八項目に生気の無い居合の事:「・・居合の成り立ちが敵に対する刀法である限り、敵の心魂に貫通する(その刀に触るるすべての者に)無限の迫力のある事が第一条件で、しかもその業に丸味があり、侵すべからざる気の位ひを備へた生き活きと躍動するもので無ければ真の居合とは申しがたい。・・」

 ついでに宮本武蔵の五輪書から「上手のする事は緩々と見へて、間のぬけざる所なり。諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざる物也。此たとへをもって、道の理をしるべし。殊に兵法の道において、はやきといふ事悪しし。・・」
 一人演武の居合は勿論のことですが、太刀打や詰合など組太刀では、相方を特定して動作の順番を覚えてしまうと矢鱈早くちょんちょんと演じるのを見ます。ビデオ撮りしてスローで見てみますとそのポイントとなる動作が省略されてしまい形を約束事として早く強いばかりで形に込められた術が消えてしまっています。何百回稽古しても武術の稽古としては意味のないものです。如何に速く強く演じたとしても間が抜けてしまえばこれも何をしている事やら。

 河野先生の質問に穂岐山先生が答えられた十項目を終ります。次回もスクラップで英信流居合形になります。

 

 

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2019年7月20日 (土)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の9颪の柄當につきて

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の9颪の柄当につきて

 答、颪の場合の柄当は、敵が吾が柄を取らんとするを其前かゞみとなりたる敵の顔面中心(人中)を柄頭にて突くものに候。

  河野先生の無雙直伝英信流居合術全昭和8年1933年の立膝の部颪は:「正面より左向に立膝に座し、例に依り左手を鯉口に掛け、鯉口を握りたるまゝ拇指を鍔にかけ右手を柄に掛け、右足を踏み込みつゝ柄頭にて敵の顔面を一撃し、・・・」で顔面の有効な部位を指定していません。

  大江居合の剣道手ほどきの颪:「左向き腰を浮めて右斜に向き、柄止め、直に左へ足を摺り込み、其踵へ臀部を乗せ右斜向体となり、斜刀にて筋変へに打ち・・(敵の眼を欛にて打つ進んで胸を斬り更に頭上を斬る)」

 古伝神傳流秘書英信流居合之事では山下風:「右へ振り向き右の足と右の手を柄と一所にて打倒し抜付後同前但し足は右足也浮雲と足は相違也」
 これは顔面など打たずに右足を踏み込むや、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち倒し、抜き付けるものです。
 大江居合は、「柄止め」だそうです。処が「敵の眼を欛にて打つ」です。
 穂岐山先生は大江先生に中学時代に習いその後も稽古されていた筈です。どこで颪の柄当てが敵の眼から人中に変わったのか不思議なものです。河野先生の無雙直伝英信流居合道昭和13年1938年では:「・・右側の敵が、吾が刀の柄を取らんとすると、吾れ柄を左に逃がして敵手を外づし、直ちに柄頭を以て敵の顔面人中に当て・・」に変わっています。

 夢想神傳流の祖とされる中山博道先生の居合では:「意義-右側面に座せる敵が抜刀せんとするを取り敢えず刀柄を以て其の手背を強打しヒルム所を抜刀して斬りつけ、其の殪るゝを再び正面より胴部に向ひ斬り下ろす業である。動作-正面に対し左向に箕座す。左膝を軸として約九十度右に向くと同時に刀に「反り」を打たせつゝ左手を以って刀を少しく前上方に出し、右足を約一歩前方に踏み着くると同時に鍔を以って敵の手を打つ・・」 古伝の雰囲気は夢想神傳流に引き継がれた様です。但し古伝の「右の足と右の手を柄と一所にて打倒し」は満足に引き継がれていない様です、相手の柄を持つ右手を我が柄で打ち、同時に右足を踏み込んで相手の右膝を踏み付けるのが古伝の教えです。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の山下風:「正面より左向き居合膝に座し、例により左手を鯉口に執り腰を伸しつつ右膝を立て、体を右へ廻し正面へ向くなり右足を引付けると同時に柄を右胸上部へ引上げ、右手を柄に逆手に掛け右足踏出すと共に、鍔にて対手の左横顔を打ち、直右足を引き寄せる。・・」此れも古伝とは雰囲気は似ていますが右足の運びが違う様です。相手の横顔を鍔打ちする独特の習いです。

 颪の古伝山下風の本来の動作は江戸末期には失伝してしまったのでしょう。わずかに残るのは、敵が我が刀の柄を取りに来るのを外して敵を制する、又は敵が抜かんとする右手を柄にて打ち据え敵を制する、のでいずれでもありでしょう。むしろ、「後同前」の引き倒す動作が理に叶っているか先師の教えで充分か疑問です。古伝の手附も意味不明な書き込みです。

 

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2019年7月19日 (金)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の8八重垣

曽田本その2を読み解く
22スクラップ居合の疑義につきての解説
22の8八重垣の動作につきて

 答、右足にて水平に抜きつけ「左足を前に踏み出し膝を床に落ち付く」、(此場合の動作は一動にて行ひ、此動作中に刀を諸手上段に振り冠る)、故にすでに打ち下す時は右膝は床につき居りて納め刀は全体勢(前体勢の誤植?)のまゝにてなし、次に左足を右足の後に大きく踏み開き、(此時左足の動作始まると同時に右膝は床より浮かす)半身となりて脛囲に移る様致し候。

 河野先生の質問が不明ですから、八重垣の何を聞きたかったのでしょう。穂岐山先生の答えを反映しているのは昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道にあるかもしれません。
 無雙直傳英信流居合道は業の動作を順番に解説し次に注意すべき事が組み込まれ、最後にその業の「意義」として何のためにその業技法の動作を行うのかが掲載されています。この八重垣の意義は:「吾が正面に対座せる敵の首(又は顔、腕)に斬り付けたるも不十分にして、敵後退したるを更に一歩追ひ込みて斬り倒したるに致命に至らずして、其の倒れたる處より吾が右の脛に薙ぎ来るを、吾れ受留めて勝つの意なり。」という状況があって動作が展開する事でより理解が深まるものです。然し一方では状況は幾つもありうるのに固定観念にとらわれてしまい変化に応じられなくなる危険性も多く、武的踊りに陥りやすくなります。

 この意義をはじめに居合の教本に書き込まれたのは、中山博道先生の居合をあらわした太田龍峰先生の居合読本昭和9年1934年によります。その陰陽進退の意義:「互に対座せる時急に初発刀の如く切りつけたるも、敵逃れしを以て直に追ひかけ之を斬り倒し、刀を納めんとせし時、再び他の敵より斬り付けられたるを以って直に之れに応じて敵の腰を斬る業である。」

 細川義昌系統の梅本三男先生の陰陽進退は意義として想定を掲げて居ませんが、想定に対して動作がついて来る組立てになって居ます。
陰陽進退:「(前方を斬り 又 薙付け来る者を斬る)「正面に向ひ正座し、例により鯉口を切り右手を柄に掛け、ぬきつつ膝を伸し、右足踏込んで(対手の右側面へ)抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上り左足を右足の前へ踏越しつつ、刀を引冠りて正面へ斬込み、刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)刀を納めつつ右足を跪き納め終りたる所へ(別人が向脛薙付け来る)急に立上り左足を一歩退くと同時に、刀を前へ引抜き切先の放れ際に左腰を左へ捻り、体は正面より左向きとなり(視線は右の対手に注ぐ)刃部を上に向け差表の鎬にて張受けに受け止め、体を正面に戻しつつ、左膝を右足横へ跪きながら、刀尖を左後へ突込み、右諸手上段に引冠り、更に右足踏込んで斬込み血振ひして刀を納め終る」

 大江先生の場合も同様なのですが想定も動作も不十分なので、疑問が湧いても当然です。「剣道手ほどき」大正7年1918年今から101年前に発行された居合の手ほどきです、その八重垣:「正面に向ひ正座す、右足を出し左膝を浮めて中腰となりて首に抜付け、左足を前出して両膝を浮かめて中腰の儘大間に上段に取り前方真直に頭上を斬り下し、この時右膝をつき左膝を立て、同体にて長谷川流の血拭ひをなし刀を納む、この時敵未だ死せずして足部を斬り付け来るにより血拭ひの姿勢より右足を重心に乗せて立ち、直に左足を後方へ開き体を左斜め構ひとし刀を膝の前へ抜きて平とし、膝を囲みて敵刀を受け更に身体を正面に向け上段となり、座しながら頭上を充分斬る、血拭ひは右足を後部へ引き刀を納む。」。
 「首に抜付け・・頭上を斬り下し」は、抜き付け不十分で相手が下がらんとするのを追い込んでと言う説明不足でしょう。状況の想定不十分に動作が優先しているのです。

 古伝神傳流秘書の大森流之事「陽進陰退」:「初め右足を踏出し抜付け左を踏込んで打込み開き納又左を引て抜付跡初本に同じ」是は動作のみで、想定は無く動作の運用条件だけの簡略さで後は、師匠に習えか、自分で考えろと云うものです。

 河野先生より一月ほど早く山内豊健、谷田左一共著による図解居合祥説昭和13年1938年3月が発行されその八重垣には業動作より先に、目的が書かれています。:「正面に対座している敵の首に急に抜き付け、逃げる所を一歩追い掛けて其の頭上を斬る。此の時敵は死なないで、吾左足に斬付け来る敵に、先づ之を受け流し、更に上段から敵の頭上を両断するのである。」

 稽古をするには、意義や目的或は理合が先に示され其の想定を思い描き、動作を着けて行くのは有効でしょう。然し大方は其の想定のみに拘ってしまい、古伝のような大雑把なポイントのみでは想定が描けずどうすべきか頓挫してしまいます。然し闘争の武術として考えればどのような敵の攻撃なのかその場でしかわからないものです。示された動作を元にしてあるだけの想定を思い描きこの業が自然に応じて当を得ている処まで修錬すべきものでしょう。

 たとえば、最初の抜き付けは、十分手ごたえがある、斬り付けが浅い、間が足りない、相手が外した、相手が柄で受けた、刀で受けた、など幾らでも思いつくでしょう。

 

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2019年7月18日 (木)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の7立膝の血振ひ

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の7立膝の血振ひにつきて

 答え、右脇の血振は、真向に打下したる線に並行より少しく剣先が外方に向く位とし、水平線より少し剣尖を下ぐる方宜敷候。

 河野先生の昭和13年1938年の無雙直傳英信流居合道に於ける「右に刀を開きて行ふ血振ひ」:「鍔は膝の高さにて膝の右、拳は脚と五寸位ひの間隔、刀は正面直線の並行線より剣先部にて約三寸位ひ右外方に開くを度とし、刀は水平より心持ち剣先を下ぐる事。此の血振ひは、剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引き裂く気分にて行ひ、刀を右に披く時、剣先を打下したる位置より左に戻す事無く、柄よりも剣先が右に披く程の心持にてなす事。」

 河野先生の昭和17年1942年の大日本居合道図譜の刀を右に披きて血振ひ:「鍔は膝の高さに、右膝より八、九寸程右に披く刀刃正面直線に並行し刃を右に向け剣先を下げる。剣先に十分の気力を注ぎ、両拳は物を激しく左右に引裂く気分にて行ひ、剣先は起動の時左に戻さぬ事。

 河野先生の右に披く血振りは、右膝より五寸位の間隔であったものを何故か、大日本居合道図譜では八、九寸程に間隔が広がりました。剣先は心持ち下げるのですが、右外方に正中線に並行より三寸も開いて居ましたが、大日本居合道図譜では正中線に並行になって居ます。その分右膝から五寸が八、九寸と広がってしまいます。
 剣先が右外方に向いたのでは、幾ら敵を倒した後とは言え正中線を外し過ぎで間が抜けた状態です。
 22代の教本では、右横に披きてなす血振を「横血振い」とされています。:「横血振いした右拳は我が体中央線(臍の線)に対し右約45度位前にありて、且つ、我が正中線より右へ約40cm位外(我が体の一身幅位)にあるを良しとする。」と云う事ですと右膝の右約20cm(約七寸)位でしょう。更に「鍔は膝の線上膝の高さ、切先は我が体正中線と平行かやや僅か右に披いた処、切先は稍々下向き」ここの所は21代福井聖山先生の教本と同じでしょう。
 右脇の血振りは、現代居合では「横血振り」と言う様です。是は教本上では22代によって初めて書き込まれたのかも知れません。

 河野先生の居合道真諦昭和37年1962年の「居合道の基本」に抜き付けのポイントが述べられています。右に披く血振とも共通と思うのでチェックしておきます。:「抜付けたる刀身の位置は、右拳から正面に引きたる直線上に剣先部がある事を初心者指導上の原則とす。されど錬熟の暁は、剣先を以て敵に附入る心気の為め、幾分剣先が内方になるは可なり。此の場合い剣先が外方になると迫力不十分なり・」

 木村栄寿先生の林崎抜刀術兵法夢想神重傳重信流傳書集及び業手付解説抜刀術童蒙初心之心持「血揮開き収(ちぶるいひらきおさむ)は敵に逢いての用たる事にてはなし業の締りを付たる事ゆへ一己一己の事成共異ならさる様にすへし・・開は胸を照し腹を入腰を張拳も一時に尖く開く時は拍子揃て引合よし・・抜付打込開共夫々切先のきける様に心懸へし」
 立膝の血振は、「開く」とか「横に開く」で「よこちぶり」と言われたかどうか判りません。この童蒙初心之心持は「庚申五月下村定 同年六月為童蒙写 島村義郷」と奥書がありますから万延元年1860年五月の下村茂市定が同年6月に島村義郷に送ったもので島村義郷とは細川義昌の幼名になります。此の時義郷11歳になります。

 細川義昌先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術の大森流之部陰陽進退の所に少し解説されています「・・抜付けたるも剣先が届かぬ為、急に立上がり左足を右足の前へ踏越しつつ刀を引き冠りて正面へ斬込み 刀を右へ開き(開くとは血振ひの事)・・」陰陽進退の血振いはこの場面では立膝の部と同じ刀を右へ開く血振いをしています。

 他流の右へ開く血振りについて、田宮流の妻木正麟先生の教えは、詳解田宮流居合 平成3年1991年:「・・決して切先は正中線をはずれてはいけない、再度、敵に討ちかかられても、正中線をとっていることにより、隙のない残心から一転して反撃に転ずることができる。また、左手を腰に当てるのは左腰に力をいれることによって、切先に気迫を込められる。」

 夢想神伝流の右に開く血振りの解説は、中山博道先生の居合「居合読本」から:「敵を斬ったならば、残心に注意して、直ちに左手を離し右手を体の右側前方に伸ばし左手を腰に当て右手首を外に伏せ、刃を右に向けて刀を稍水平にする」
 何とも不十分で写真が添付されているのでそれで判断せよと云うのでしょうか。写真は角度やモデル本人の癖が表面に出てしまい参考としては十分とは言えません。
 山蔦重吉先生の夢想神伝流居合道では:「手振りの時、刃はやや斜め右下に向き、刀先は正面にまっすぐ向き。水走り程度に前下りになる」この方がまだましです。

 全剣連居合の「右に開いての血振り」:「右拳の位置は右斜め前方にあって、その高さは左手と水平にする。刃先は右に向け、切先は僅かに下げ、右こぶしよりやや内側で止める。」
 委員の方々の検討での結論の形でしょう、決まったと思える形です。この開く血振りで血が100%飛ぶわけでもないでしょう、切った後の残心であり、新たな敵か切った相手が死力を振り絞る事もある筈です、居付かない残心は如何にでしょう、残心と納刀の準備動作と捉える方が正しそうです。

 土佐の居合は、明治の頃には大きく力強い運剣を良しとされたのでしょう。穂岐山先生譲りのこの右に開いての血振りのフィニッシュ形の間抜けは気になります。河野先生の思いは、大江先生から伝承されてきた土佐の居合は居合道真諦や無雙直傳英信流居合道叢書に語られている様です。

 「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、其の習熟するに於ては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の圓成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす。」と河野先生は無雙直傳英信流居合道の居合修養の心得で述べられています。その前半のみに拘わる現代居合ならば、古伝を今一度見直さなければ流派の一貫する精神など解かる筈は無かろうと云う事に気が付かれたのだろうと思います。

 
 

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2019年7月17日 (水)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の6抜付の足

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の6抜付に於ける前方に踏出す足に就いて

 答、前に踏出したる時の足の内方角度(膝の内側)は、九十度よりは少しく小さく上体を前に倒すにあらずして、下腹に力を入れて前に押し出す気味にて、少しく前に掛る方宜敷候、後方の脚は上体の延線よりずっと後方に開き、上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当と考へられ候、尚又此場合体を前がゝるは不可にして、只下腹を前に押出して上体は垂直呑まゝ少しく前懸りとなるを可と致し候。

 正座の部一本目前の抜き付けの際の、前に「踏み出した(右足の)膝の内側の角度は九十度より少し小さく」と云うのですから、九十度の位置になる様に踏出しても、「下腹に力を入れて前に押し出す気味にて」する事で膝頭が前に出た方が良いと云います。従って左足は真直ぐに立てた上体の延線(正中線、重心の位置)より「ずっと後方に開き」ですから左足膝の内側の角度は九十度より鈍角になる様にして、「上体の重心は凡そ前足先と後足膝頭の中間に落ちる位ひを適当」と考えるのだそうです。前足先及び後足膝頭は踏み出した位置から変わっていないので、前足の膝を突き出すとすれば重心位置もその分ズレるはずです。
 「体を前がゝるは不可」は当然とすると、腑に落ちない答えになる様です。「押し出す気味」は心持ち、あるいは平行移動させる、のですが右足の膝の内角を九十度より小さくせよ、左足の膝の内角は九十度より広くと云っています。
 恐らく、重心の位置を右足爪先と左足膝頭の中心に置くよりもグット前を責める意識が強く出るはずですからヒシャゲタ脚のカッコウになる人が多かったと思います。

山田次郎吉先生の身心修養続剣道集義形状記
居合かゝりの足形

Img_0670

1、居合かゝりに足立ては、右を立て左を引きながら抜き払ふを習とす。
1、此の左の膝の所に足を踏めば則ち立ち構への立足一間の幅となる。
1、足幅は広からず又狭からず、一間三足の格たるべし、其の格は一間を三足に歩する程度の所に左の膝を著くるを謂ふ。足を立て替えて右を引くときも是れに同じ。唯足の左右を差ふのみ。
1、立てたる足は右へも左へも偏るべからず、又かゝるべからず。控ゆべからず。指先も亦左を斜に踏むべからず。


 形状記の歩幅は足三足分を一間としています。即ち左足一足、右足一足、左足先と右足踵に一足分開けることで三足一間とされています。立って構えた時の足となります。

 形状記は窪田清音の著述によるもので、清音(すがね)は徳川幕府の旗本、兵学者、武術家で講武所の頭取、兵学師範でもあった。居合、剣術は田宮流とされています。
 この図は居合の抜き付けの足で、右膝は出ない引かない「足首と平」と云っています。

 河野先生の大日本居合道図譜から居合道基本抜き付け「上体は下腹をだし、腰骨に(丹田に)十分なる気力を注ぎて真直に、而て踏出したる右足の膝の内法角度は九十度を超えざる事。後足の膝と上体とは大体一直線をなす事。」とされています。
 穂岐山先生とは一見異なる脚だろうと思われます。但し「抜き付けは腹を後ろに退かずすべて前進する心持を失わぬ事肝要なり」の心持ちは守られています。土佐人の幕府を倒して明治維新に寄与した気が過度に影響しているのかとも思える処です。
 

 

 

 

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2019年7月16日 (火)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の5納刀

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の5正座納め刀の場合

 答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際に於ては練習を積むに従ひ是にてはやわらか味無き感を来し候、此意味に於て血振ひの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候、然れ共是は極く瞬間的のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得るが如く大きくゆっくりと動作するには無之、只起動の為めつまり動作を速にするために候、然し原則としては拳は返す事無く、血振ひの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。

 何ともわかりにくい答えなのですが、それより河野先生の疑問点が見えないので答えの意味が読めないと云った方がいいかも知れません。土佐の居合の納刀は大きく3つある様です。

・一つは、夢想神伝流の檀崎友影先生の居合道教本昭和54年1979年初伝大森流初発刀の納刀:「左手にて鯉口を中指半に五指を上向けて、刃物を横外に握り、中央より僅か左して鞘を左脇にとる。次に右手鍔元附近の刀を拇指と食指の凹部に当て、刀先を鯉口に至るまで右手を右前方に延ばすと同時に左引手をきかせて、一文字になるように納刀三分の一より刃を上にしながら右膝を床板に付け静かに残心を示して納刀する。」

・二番目は落とし込み、切先を上に立て差裏が左肩に接する程に刃を上向きとして刀の棟を鯉口に当て、右斜め前に右手を退いて同時に鞘手も後方に引き、切先を上から鞘口に落とし込むような納刀。

・三番目は、河野流の方法で大日本居合道図譜の居合道の基本より納刀:「左手を鯉口に掛け(中指の中程に鞘口がある様深く握り込み食指にて小さな穴を作る、この時鞘をあまり抜き出さぬ事。左手小指の基部が軽く袴に接触する程にす)剣先を大きく左横に円を描く様に運び(起動の時剣先を右に戻したり又右拳を大きく右にかへさざる事、物打は左肩下5寸位の処に運ぶ)、鍔元四寸位の処の刀棟を鞘口(左拇指と食指の基部の間に刀刃はやや左に傾けて)にあて右手(柄)を低くして刃を真上にして、右四十五度の方向へ素早く引き(この時左手(鞘手)も十分後に引く心持肝要にして同時に鞘手を直に返し鐺の動きはあまり目立たぬ事を良しとす)、刀先三寸を瞬時に納め(長寸の刀は納刀の時腰の十分なる捻りを必要とするも定寸の身に合ひたる刀の場合はさしたる要なく只だ此の場合ひ腰を上下に揺り動かさぬ様注意する事)ながら同方向より静かに納めつゝ(敵、仕掛けなば何時にても応ずるの心所謂残心なり)徐々に腰を下げ右膝を床に付ける。」

・四番目は22代の納刀法で、河野流ですが「剣先を下げたるまま左方に廻しつゝ、(左手(鯉口手)の拇指目掛けて)刀の刃を前に45度位に傾けて鍔元五~六寸位のところの棟を鯉口に運び・・」


 居合は古いものとして太刀を佩いた場合の納刀法を引きずる事は打ち刀としては意味無いものと思われるし、矢鱈早く、其の上自傷する様な納刀法もいただけるものでは無いでしょう。古伝の研究としてはどれも出来て当たり前ですが、これ見よがしな大道芸のようなものは品位が劣ります。安全で充分なる残心を心がけるべきものでしょう。

 河野先生の居合道真諦、無雙直伝英信流嘆異録より納刀の事:「納刀を早く見事にやろうとして不自然に無理をして納刀する人を見受けるが、之は居合之邪道とも云ふべきである。
 納刀は既に目的を達した後の動作で、見事に早く行ふ必要は無いので、極めて自然に行へばそれで十分である。納刀で最も大切な事は、形ちで無く残心のところで、納刀中と雖も何時でも其の儘直ちに抜打ち(不意に起こる敵に応ずる心)し得る体勢(柄前の手の裡)と心構へが最も肝要な所である。
 納刀の時、柄を上から押へて鐺よりも柄を低く下げたり、柄手を柄から遊離させたりする人があるが之は居合の真意を解せぬ甚敷いもので最も不可な仕方である。
 角帯をして帯刀した刀の角度で納刀するのが正道で、角帯をして柄を鐺よりも下げる事は事実上不可能な事は明白である。」

 そう云いつつも、切先を上げて肩下五寸に物打を運べば、柄手は自然にやや下ってしまいます。他流の先生方も似たようなものです。血振りの右拳の高さが左手の高さで、其処から切先を上げない様に刀を鯉口に運ぶ22代の納刀で完成したと云えます。
 戦前はもとより戦後間もない映像の有る先生方の中には、血振りから「クルリストン」と落とし込む映像が見られます。江戸時代末期には意味のない、見せ場を好んだのでしょうし、簡単な方法を敢えていじって得々としている芸人がもてはやされたかもしれませんし、現代にもその様な事は大いにあり得るものです。武術は最も簡単な術で結果を出すもので、ややこしいものは一見凄そうですが無駄な事です。

 

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2019年7月15日 (月)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の4腕と刀の角度

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の4腕と刀の角度は九十度にて可なるや

 答、第二項に説明の通り、約三十度位広角となすを可と致し候、之又然らざる時は引切の気味となり、且充分刀尖に気勢籠らざるものに御座候。

 第二項の抜粋
 「右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可と致し候、拳を其の線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位ひ鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候・・」

 抜き付けの際、大きく引き切り左右の肩の線上まで引き切ると切先を正面に向ければ腕と刀は九十度になります。それでは引き切ることになって面白くないと云うのです。
 そこで、左右の肩を結ぶ線上から右拳を六七寸前方へ出した位置で止めろと云うのです。丁度踏み出した右足の膝の線上となる筈です。其の位置で切先が正面に向いて居れば、百二十度位の広角になると云うのです。

 河野先生の大日本居合道図譜の正座の部前の抜き付け:「斬り付ける時は剣先にて敵を逃さじと追い込む気勢を以って小指、無名指をぐっと強く握り締め、拇指の基部にて押し、拳を折らずに十分握り鎺元が右膝の線上にある程に剣先を出す。」
 22代の解説は、「即ち、斬り付けたる時、剣先は己が進行方向の中央線と平行にあり、右拳は正中線に対し右45度位の位置にある様に実施する」とされています。
 河野先生のこの質問は二項を充分理解出来なかった為でしょう。それは戦前戦後の土佐の居合の抜き付けの多くが左右の肩の線上近くまで大きく引き切る人がいたことに由来すると思われます。

 居合しか知らない現代居合人は、抜き付け、打ち下し共に業の途中にあるもので其処に居付かないと云う考えに乏しいものです。それを良しとする指導者も多く、力任せに矢鱈早い抜き付けをさせたり、両肩が盛り上がる程の打込みをさせたりしています。そうかと思うと力ないヘロヘロ抜付けなのにそこに居付いてしかとしています。どちらも対敵意識の乏しいもので武的演舞の域を越えられません。

 

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2019年7月14日 (日)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の3刀尖は拳の高さ

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の3刀尖は拳の高さと同じ水平線上にあるや

 貴説の通りなるも幾分下るも宜しく候、是は刀は水平なるを原則とするも、前方より見たる時刀の裏を見せず表を見するやう致し候、(刀の下方を見するより上方の面を見するを可とす。)

 河野先生の昭和17年1942年発行の大日本居合道図譜初心者心得33則の第三抜き付けでは「・抜き付けたる刀の高さは。肩をおとしたる状態に於て両肩を連ぐ水平線より上らぬ事。(心持ち低く抜刀する事)。
・刀は水平を原則とするも剣先部が上るよりも幾分下る心持なる事。」と言われ、穂岐山先生に手紙で確認された通りの方法となります。

 22代の解説では、「斬り付けたる時、両肩に力を入れる事なく自然体に両肩を落とし、右拳及び右腕、剣先は右肩の高さより上に上がらぬ事が大切である。斬り付けたる刀刃は水平にして右真横に向かひ、剣先やや下がるは可なるも余り下げてはならない。

 「切先の高さは拳の水平線上か」との質問に、穂岐山先生は原則はそうだが稍々切先下がりが好ましいと仰います。その理由は「前から見た時刀の裏を見せず表を見する様にする」と云う事ですが、理由にはなって居るのかどうか疑問です。
 切先は勿論、刀刃も稍々下向き、と言われる処がありますが、さて何れもどのような効用が期待できるでしょう。小細工をせずに水平に運剣する事のみを目指し稽古する、狙った所に抜き付けられる様に稽古する。居合は仮想敵相手の一人演武ですからともすると相手の無い運剣が横行しがちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年7月13日 (土)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の2抜付けの右拳の位置

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の2抜付けの場合の右拳の位置に就いて

 第18代穂岐山波雄先生の解答
 「右拳の位置は、左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可と致し候、拳を其線上に置く時は所謂引き切りの気味と相成り面白からず、拳を少し前方に出し従て腕と刀との角度は九十度よりも約三十度位ひ鈍角に広く開きて握りしめると同時に、少し刀を前に出す心持肝要に御座候、此時の気持は抜きつけに限らず真向其他の切り付けと同一に御座候、剣道に於て面に打込みたる時手を握り締めると共に前に出す気持ちと同様に御座候。」

画像は、曽田本その2曽田先生の手書きによる抜き付けの絵。

Photo

「右拳の位置は左右の肩を結ぶ線上より拳の位置に於て約六七寸位ひ前方に出づるを可」ですが、右は不可、左は可と言う絵なのでしょう。
 やや右半身のため是では右拳は左右の肩を結ぶ線上になってしまいます。左右の肩を結ぶ線上は正対し右拳は六七前方とは云えそうにありません。

この写真は大江先生の剣道手ほどきに載っている抜き付けの正面からのものです。

Img_0669

 「抜き付けたる時は胸部を充分左右に開帳し丹田に力を入れる」と有りますが、左右の肩の延長線上に右拳がある様に見えてしまいます。「腕と刀との角度は九十度よりも三十度よりも鈍角」と穂岐山先生は述べておられますが、どう見ても九十度でしょう。
 穂岐山先生は曽田本その2にある曽田先生の左側の絵を指摘されているのでしょう。

 「少し刀を前に出す心持ち」は河野先生の大日本居合道図譜の抜き付け(斬付け):「抜付けたる時は剣先にて敵を逃がさじと追込む気勢にてグット小指無銘指を握り締め、拇指の基部にて押し、拳を折らずに十分に握り、鎺元が右膝の線上にある程に剣先を前に出す。」と云う事で河野先生は、大江先生、穂岐山先生の教えとは違います。22代の教本では「上体を正面に正対し、右拳は正中線に対し右45度位の位置にある様に実施する」と河野先生の抜き付けに補足されています。

 「此時の気持ちは抜きつけに限らず真向其他の切り付けと同一・・剣道に於て面に打込みたる時手を握り締めると共に前に出す気持ちと同様」と有りますが、ここは大日本居合道図譜では雰囲気が異なる様です。穂岐山先生の書簡による真向打ち込みの雰囲気は面に打ち込み更に押し込む様な言い回しです。河野先生の打下し(斬り下し):「(敵の水月の辺りまで斬下す。)1、左右の肘は胖か(ゆたか)に伸すも、極度に延び切りては自由なり難し工夫すべし。
 2、頭上にて円形を切る心持にて敵の頭部より胸部を斬り下す時刀の速度最も速烈、刀の留まる辺りは柔らかなる事」
 3、右拳の上部は膝の高さ、鍔は膝の線迄出し剣先部は低く床上八寸位迄斬下す。」

 穂岐山先生の抜き付け、打ち込みの雰囲気は竹刀剣道の打込みが丸出しの様です。河野先生はこの部分は穂岐山居合を取り込まなかったと云えるでしょう。22代の教本では「斬り下す時、身体固着したままで実施せず前進する心地にて斬り下ろす気持ちが大事である。正座の部前の場合、体諸共前進しながら(対敵との間合いにより)斬り下ろすも可なり。」とされています。(対敵との間合いにより)と但し書きが施されています。前進する心持ちと、間合いにより前進するのとは違います。

 

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2019年7月12日 (金)

曽田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義につきての解説22の1抜付の右拳

曽田本その2を読み解く
22、スクラップ居合の疑義につきての解説
22の1正座抜付けの場合の右拳の高さに就いて

 故穂岐山先生より数回に亘りて筆者に賜はりし御書簡の写し
 右拳の高さは、左右肩の高さに同じ。

 居合の疑義について河野先生は、疑問点が浮かぶと第18代穂岐山波雄先生に手紙を出され、その後回答をいただいていたのでしょう。
 昭和13年1938年発行の無雙直傳英信流居合道には第7節に居合の質疑解説として記載されています。
 前書「本稿は、昭和3年、故穂岐山先生より、筆者が書面を以てしたる質問に対し、賜りたる御書簡にして当流の居合を学ばんとする者のため、又得難き文献と信じ原文の儘茲に掲ぐ。」

 昭和3年1928年河野先生の質問に対する穂岐山先生からの回答と云う事で、昭和2年1927年に大江先生76才は亡くなられていますから穂岐山先生は第18代を引き継がれて間もない頃でしょう。河野先生は昭和2年1927年29才で穂岐山先生に師事されています。

 穂岐山先生の回答を原文のまま記載します。
「正坐抜付けの場合右拳の高さに就きて右拳の高さは、左右の肩の高さと同様に候。」

 河野先生の大日本居合道図譜では正座の部第一本目前「剣先も、拳も、脆(せい、もろい、肱の誤植か)も肩の高さより上らぬ事。」

 曽田先生のスクラップの出典は恐らく、河野先生の無雙直傳英信流居合術全昭和8年1933年発行と内容は同じですが、活字印刷物のスクラップで無雙直傳英信流居合術全とは印刷形態が異なります。八重垣会などで配布されたものかも知れません。 

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2019年7月11日 (木)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の2板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
居合術教師・剣道錬士中西岩樹
21の2板垣伯

 即ち明治26年板垣伯の御尽力に依って高知市新堀竹村與右衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当たられたのである。
 それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寬といふ人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝことゝなった。
 明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の没後大江正路先生が之に代ることゝなったのである。斯くして高知県に於ては五藤谷村大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。
 又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兎久身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就て修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。
 爾来中央に在っては中山先生高知県に在っては大江先生の非常なる御努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。
 実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめたが、更に不言點々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合発祥の地たらしめられた。私は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰ひ度いのである。

 中西岩樹先生も土佐の人です、手前味噌は当時の人達の県人意識は現在をはるかに超えています、従ってその動静は詳しく把握されているとは思います。
 維新後の政界は、薩長によって牛耳られ土佐は置き去りにされてしまった様な印象もあります。板垣伯は自由民権運動を起し、薩長の政治を政党政治に切り替えようと、推し進めて行かれた様です。明治26年土佐に戻った際に、居合との関わりの逸話なのでしょう。
 誰かが音頭を取らなければ確かに土佐の居合は消えてしまっていたかもしれません。江戸で無雙神傳英信流居合兵法の道場を開いて居た荒井勢哲亡き後は消えて行ってしまった様です。
 奥羽地方に林崎甚助重信の系統の古流が江戸時代にも残って居た様ですが、英信流や大森流とはかけ離れていた様です。北信濃にも無雙直傳流として、長谷川英信や荒井勢哲の足跡が残っている様ですが、江戸末期までに土佐と同様に変形してしまって双方を対比しても目録から同じ呼称を見出しぶつけるのが精一杯です。個人的には無双直伝英信流が全国的に普遍ですから北信濃へ出かけて業合せしてみた方もおられるかもしれません。広島に残された無雙直傳英信流抜刀兵法に依って細川居合と大江居合を研究して見たようにこの土佐の居合の何たるかが垣間見れた様に展開できれば棒振り居合から抜け出れるかもしれません。
 このスクラップの出典は何であったのか何時頃のものか記述がありませんから不明です。恐らく太平洋戦争以前のものでしょう。
 この項を投稿するに当たり参考に、板垣伯に就いて「板垣退助自由民権の夢と敗北」昭和63年1988年の榛葉栄治氏がいたずらに板垣伯を持ち上げる事も無く史実に照らしていて面白く読ませてもらいました。

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2019年7月10日 (水)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の1板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
筆者 居合術教士剣道錬士中西岩樹
21の1板垣伯

 近来時局の影響する所が一般的の趣味にしても剣舞詩吟謡曲の如きものが非常に隆興を来たしたやうに思はれるが、殊に武道の方では居合が急激に倍々旺盛となって来たやうに考へられる誠に喜ばしき現象である。
 今から20年前を回顧してみると当時京都の武徳会本部大会に居合を以て出演する者は実に寂寥々たるものであった。而して諸流亦其の抜方斬方に皆各々の特徴が有って、決して今日見るが如き整ふたものではなかった。只独同流にして発祥の地を一にする東京の中山先生の御門下生と高知県よりの出演者が長谷川英信流又は業に依る部分的名称大森流或は長谷川流と称して抜いていた居合が其の抜刀斬突納刀の鮮かな技に於て断然頭角を抜いて居たやうに覚えて居る。
 夫れが今日に於ては毎年の大会出演者実に二百名に垂んとする盛況を呈し、而も高知県を発祥の地とする居合が其の約七割を占め居合界に君臨するの躍進を遂げたといふ事は誠に欣快に堪えない處である。
 之れは居合の所作其のものに負ふ處も決して少くはないであらふが、又は先輩諸先生の並々ならぬ苦心の賜物と謂はなければならぬ。由来高知県より出でた居合は始祖林崎甚助重信先生より第七代目長谷川主税之助英信先生に至って一大進歩を遂げ長谷川流と呼ばれ或は英信流と唱へられ又は長谷川英信流と称せられたもので第十代目高知県藩士林六太夫守政先生之を高知県に伝へて以来連綿と今日に及んだものである。(第十代では無く現在は第九代林六太夫守政とされています ミツヒラ)
 現今流名は右記の外大森流無想直傳英信流夢想神傳流等と言はれているも元来同流に外ならぬ。
 扨此の居合が一時衰微の極にあった剣道の如く否より以上更に深刻に最早既に其の伝統の断絶せんとした場合此の危機を救ふて呉れたのみならず、今日の出世発展の直接原因を造って呉れた恩人が茲にあったとしたならば、我々は大に其の人を徳とし絶大なる感謝の念を捧げて然るべきではあるまいか。
 然らば其の恩人とは誰ぞや?、即ち高知県の大先輩故板垣退助伯である。
 明治二十五、六年頃と言へば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振る居合の如きが文明改化を追ふに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤正亮谷村樵夫細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修行せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
 その内に段々居合を知る人も物故し、是等の先生と雖何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を伝へる者が無くなるであらふと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。

― 次回へ続く ―

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2019年7月 9日 (火)

曽田本その2を読み解く20スクラップ居合之流派及始祖

曽田本その2を読み解く
21、居合之流派及始祖

英信流  長谷川主税助英信
大森流  林崎甚助重信(大森六郎左衛門 曽田メモ)
田宮流  田宮平兵衛業正
一宮流  一宮左太夫照信
一傳流  丸目主水正
関口流  関口八郎右衛門氏心
上泉流  上泉権右衛門秀信
柔新心流 久瀬猪左衛門定勝
水野流  水野新五左衛門重治
新田宮流 和田平助正勝
真影山流 影山善賀清重
化顕流  那須五左衛門家次
制剛流  梶原源左衛門直景
 其他 力信流、柳剛流、新陰流、鞍馬流、等剣道の一派に依り生まれたる諸流あり。

 この居合之流派及始祖のスクラップも何処から斬り抜いたのか、誰がいつ書いたものなのか判りません、無雙直傳英信流居合術の最終13暇乞に続けて書き込まれていますから、河野百錬先生のものかも知れませんし、河野百錬先生がどこかから持ってきたのかも知れません。
 この頃、河野先生の著述にある居合関係の事は、何処かで読んだものや、受け売り、自分で思い込んだものなどが羅列されて、知識欲旺盛な頃だったと思われます。
 曽田先生の書かれたものでは無いのは大森流のところでダメ出ししていますからそれとわかります。
 流派や始祖を知ってもその居合の根元が不明となって、それらを知りたくとも目録が出て来る事すら無さそうです。ましてその流の業と心を伝える真の伝承者が現存する流派は幾つあるのでしょう。
 曽田本の様な伝書の写しでも残っていればいいのですが難しいでしょう。土佐の居合ですら「古伝には興味がない」と云った怠け者が、踊りまがいの形を演じる時代です。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書ですら見た事も読んだことも、ましてその業技法の解説や指導すら受けた事が無い人がほとんどです。何年か前のことですが、夢想神傳流の木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流伝書集及び業手付解説」昭和57年1982年発行、昭和63年1988年再版が世に出ている事を知っていても「あれは夢想神傳流の史料だと思って読みもしなかった」と言う無双直伝英信流の方がおられました。木村先生の意図か、夢想神傳流を戦後に起された居合では無く遠い昔からある様に思わせぶりの題名だったり、目次にも工夫があったりして単なる興味本位の方にはその様に受け取られてしまったのでしょう。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書は昭和30年1955年に発行され、更に昭和38年1963年に再版されていますが非売品であった事と、大江居合全盛期で手に入れられた方も高齢でこれを研究する意欲が乏しかったのでしょう。今では原本は何冊残っている事でしょう。限られた図書館でしかお目にかかれない、忘れられた貴重な資料です。原文の儘ですが読めば意味が通じ大江居合を齧った方ならば動作も演じる事も可能です。
 古伝は日本の武道文化そのものです、それを今に伝える事はその業技法の奥にある心だろうと思います。時期が来たから昇段した、金を払って手に入れた段位などに何の意味があるのでしょう。
 連盟などの昇段審査で昇段した方が「自流の免許皆伝より価値がある」と云う幻に惹かれて、多くの人が連盟段位を求め自流の段位や免許皆伝を蔑ろにしています。
 連盟の審査では自流の業技法も心持ちも知らない他流の人がどのように審査できるのでしょう。其の為に連盟の制定した居合を中心に稽古を重ね、統一した業技法を演じて審査を受けています。当然連盟では制定した居合の業技法の数々を講習会を何回も開き更に詳細に統一してしまいます。

 流派の始祖が書き残された伝書を容易に読むことが出来ればどんなに素晴らしい事かと思うばかりです。

 宮本武蔵の五輪書や兵法35箇条、柳生宗矩の兵法家伝書も剣術志願の人以外にも、海外でも親しく読まれ人生の参考にも供されて読み継がれている事を見ても、武術は只の棒振り人殺しの手段では無いことを語っています。
 現存する伝書も多くは目録程度のもので、其の流の業名が書きならべられているものばかりで今では何の役にも立たない唯の古文書です。それすらボロボロの反故として捨てされる悲しい時代です。
 先日ある無双直伝英信流の九段の方が「真剣で居合をやってきたが、この日本刀は高額を払って手に入れた、私が存命中はいいのだが、我が子達はそんなものは、遺品として残さないでほしい」と言われたと云う。
 日本刀は江戸時代初期のものや現代もの、家伝や自ら購入したものなどあるのですが、商品価値は商売人に任せるとして、この世に生を受けて限られた人生を思えば、是等を一時預かりしていると思うばかりです。
 そういえば断捨離と称して持っていたもので使わなくなったものをゴミとして捨て去るのではなく、欲しいと云う人に譲る仕組みは昔からあるのです、大事に使って「おふる」の流通に出すべきでしょうね。
 
 
 

 

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2019年7月 8日 (月)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部13暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部13暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につき頭が座に着かんとする所迄下げて、間も無く刀を抜き取りて動作する事前に同じ。
以上

 大江先生の暇乞については前回の處で20番と21番が入れ替わっている事を述べておきました。
 河野先生の暇乞
 11、暇乞 「両手を前につきてわずかに頭を下げ礼をなす。」
 12、暇乞 「両手を前につき頭をやゝ深く下げて刀を抜き取り」
 13、暇乞 「両手を前につき頭が座に着かんとする所迄下げて、間も無く刀を抜き取り」

 大江先生の暇乞
 19番暇乞 「両手を膝上に置き黙礼し」
 20番暇乞 「両手を板の間に付け、頭を板の間近く下して礼をなし」
 21番暇乞 「両手を膝上に置き黙礼よりやゝ低く頭を下げ」

 大江先生の暇乞は20番21番の入れ替わりを訂正したとしても、19番と21番は両手は膝上で20番が両手を板の間に付けています。河野先生も穂岐山先生直伝とは言っても土佐と大阪です、穂岐山先生の講習はどの程度の回数か判りませんが、このスクラップを残す程度の教えは受けられたのでしょう。
 無雙直傳英信流居合道で居合修養の心得として「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、其の習熟するに於ては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の圓成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす。」と精神論を述べるに当たり先師の教えの形を改変するべきではないと云いつつ大江居合を改変されています。
 とは云いつつも、大江居合は堀田捨次郎先生の書いた剣道手ほどきに、大江居合の業技法が正しく反映されていたかは疑問です。業名については大江居合の各呼称であるかも知れません。
 河野先生は昭和30年1955年に無双直伝英信流居合兵法叢書を発行されています。是は曽田先生から曽田本を送られ、曽田先生が亡くなられて5年後の事です。
 古伝神傳流秘書を読まれそれを世に出されるに当たり、それまでの穂岐山居合や大江居合の誤り(古伝との違いと云った方が無難かな)に気づかれた事でしょう。然し第20代を允可された身として、大江居合は間違いだから直せとは声を大にしては言えなかったでしょう。
 
 無双直伝英信流居合兵法叢書の発行は土佐の古伝を現代居合を学ぶ者に問うたことになるわけで、間違いやその奥深さにいつかは古伝を学んで正すべきものは正すべきと考えられたろうと思います。
 余計な事を云ったり、したりして居場所が無くなるのを恐れている様では、昔はとか武術はなどの事は口にすべきものでは無いでしょう。当たらず触らずの人生など送っていても面白くも無いものです。

 曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術を終ります。
 

 

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2019年7月 7日 (日)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の15居合術業書奥居合立業之部12暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部12暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につき頭をやゝ深く下げて刀を抜き取りて、動作する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより20番暇乞:「(頭を下げ礼をする)両手を板の間近く下して礼をなし、両手を鞘と柄に同一に掛け直ちに上に抜き上段となり、前面を斬る。」

 20番暇乞は「両手を板の間近く下して礼をなし」ですから頭の下げ過ぎの様です。大江先生の監修に過ぎず、堀田捨次郎先生が書き下ろしたとしてもおかしい。21番暇乞:「(中に頭を下、右同様に斬る)両手を膝上に置き黙礼より稍や低く頭を下げ礼をなし、右手を柄に掛け刀を斜に抜き上段にて斬る。(止め)(立合終り)」

 剣道手ほどきは20番と21番の手附が入れ替わった様です。この暇乞いは古伝にはありませんし、細川先生の教えも抜打一本だけに過ぎません。礼の仕方が黙礼、両手を膝上に置いて頭を黙礼より稍や低く下げる中の礼、両手を板の間近くまで下ろしての礼、頭の下げ様で人の位をわけて居た時代の教えかも知れませんが、明治30年以降の中学生に指導する居合の業として適切であったかどうか疑問です。
 この暇乞いの抜打は、頭の高さばかり手附に書かれていますが、腰を屈めて礼をする瞬間に前面の敵が抜き打って来るのを、体を起しながら抜刀し敵刀を受け流し(摺り落とし)抜き打つすさまじい業の有り様を思わせるものです。

 河野先生も、大日本居合道図譜では、「上体を起こしながら直に抜刀し諸手上段より打下す」とされています。

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2019年7月 6日 (土)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部11暇乞

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部11暇乞

 正面に向ひて正座し、両手を前につきてわづかに頭を下げ礼をなす間も無くうつむきたるまゝ両爪先を立て刀を抜き取り、左肩側に刀を突込む如く双手上段に振冠り真向に切り込み(膝を乗り出し)刀を開きて血振り刀を納めつゝ両踵の上に臀部を下し納め終る。

 大江先生の剣道手ほどきでは奥居合の19番目に当たります。:「(黙礼)正座し両手を膝上に置き黙礼し、右手柄に掛かるや刀を斜に抜き付け上段にて斬る。」

 第18代穂岐山先生直伝と言う野村條吉先生の無雙直傳英信流居合道能参考より19番暇乞其の1:「正座し、両手を膝の上に置き対手に黙礼、右手は柄左手は鞘の鍔際を握るや刀を前に抜き、直ちに上段にかぶり真向を斬る。同様にて血拭い納刀す。

 細川義昌系統の梅本三男先生による居合兵法無雙神伝抜刀術英信流奥居合之部20抜打:「(対座して居る者を斬る」正面に向ひ対座し、刀を鞘なり前腹へ抱へ込む様に横たへ両手を前につかへ頭を下げ礼をして俯きたるまま、両手引込め鯉口と柄へ執り急に腰を伸しつつ刀を右前へ引抜き刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み、刀を開き納めつつ両足の踵上へ臀部を下すと共に納め終り、爪先立てたる足先きを伸し正座して終る。」
 この抜打には、その1、その2、その3の違いは述べられていません。
 細川先生の教えに依る抜打ちは大森流にも英信流にもあるのですが、奥居合のみ「刀を鞘なり前腹へ抱へ込む様に横たへ両手を前につかへ頭を下げ礼をして俯きたるまま」という如何にも暇乞風の礼が示されています。
 次の刀の抜き方で、「刀を右前へ引抜き刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み」は大森流の抜打も英信流の抜打も同じです。

 古伝神傳流秘書の抜刀心持之事では「抜打上中下」と有るばかりで暇乞の表記はありません。曽田先生のメモ書きが「(暇乞三本)格の低き者に対する黙礼の時、等輩に対する礼の時、目上の者に対する礼の時」と何かある様な書き込みが付されています。
 基本的には大森流居合事にある抜打が元であると解されます:「坐して居る所を向より切て懸るを其のまゝ踏ん伸んで請流し打込み開いて納る尤も請流に非ず此所筆に及ばず」であり、英信流居合之事抜打は:「大森流の抜打に同じ事也」と括られています。

 抜打の抜刀で、刀を前に抜いて左後へ突込み諸手上段」の記述は古伝の相手に斬り込まれ請け流しに相手刀を摺り落して上段に冠る、身を土壇となす教えが失伝しているのでしょう。
 暇乞の業名から、暇乞いの際、不意に相手を突き倒し斬り付ける教えが英信流居合目録秘訣極意ノ大事に示されています:「暇乞 仕物抔を云付けられたる時抔其者の所へ行て四方山の咄抔をして其内に切べし隙これ無ときは我が刀を取て復近日と立さまに鐺を以て突き倒し其侭引ぬいて突也、又は亭主我を送て出るとき其隙間を見て鐺にて突たおして其侭引ぬいて突くべし」
 この暇乞の際の教えを、暇乞だから卑怯な不意打と安易に解釈してしまい、現代居合での奥居合の暇乞は正式な演武会などでは演じてはならないと云う、お触れがあるやに聴き及びます。
 現代版暇乞いは、古伝の抜打です、相手が挨拶の際切って掛るので相手刀を摺り落して諸手上段から斬り下す、最も居合らしい凄い業なのです。先ず古伝の大森流居合之事抜打を手附通りに十分稽古した上でその心持ちを理解した上で指示すべきだったものでしょう。最近の正座の部の抜打ちも、立膝の部の真向も、対敵より抜打ちに真向に打込まれるのを受けるや摺り落して打込む抜き打ちの極意が見られず、抜いて振り冠って打ち下す踊りの様です。

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2019年7月 5日 (金)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部10受流

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
2の5居合術業書
奥居合立業の部10受流

 正面に向ひて進みつゝ、静かに鯉口を切り正面より打ち来る敵刀を受流すために、直ちに柄に右手を掛け同時に左足を右方(正面に向ひ90右に)に踏込て刀を頭上より左肩先に抜き取りて敵刀を我が刀の表にて受流し、更に右足を左足の後方に開き刀を頭上に振り冠りて右足を左足に踏み揃へ両足を左方に(其位置にて)揃へ、(両爪先が左斜に向く)同時に双手上段にて真向に割付け刀を開き血振り納刀する事前に同じ。

 大江先生の剣道手ほどきより受流:「(進行中左足を右足の前に踏出し身を変して請流す)左足を出すとき、其左足を右斜に踏み出し、中腰となり、刀の柄元を左膝頭の下として、刀を抜き直に其の手を頭上に上げ、刀を斜とし、体を左斜前より後へ捻る心持にて受け流し、左足を踏みしめ、右足を左足に揃へ、右拳を右肩上に頭上へ廻し下し、上体を稍や前に屈めると同時に真直に左斜を斬る、揃へたる足踏みより左足を後へ引き、血拭ひ刀を納む。

 細川義昌系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神傳抜刀術には奥居合に受流の業はありません。大江先生は大森流の流刀を奥居合立業に改変したか、古伝神傳流秘書抜刀心持にある弛抜を受流に改変したのでしょう。
 古伝神傳流秘書抜刀心持之事弛抜:「前の如く歩み行敵より先に打を体を少し開き弛して抜打に切也」

 河野先生の奥居合立業之部受流は、進行中敵が切って来るので、左足を右足前方右に踏み込み体を左入身になって刀を抜き表鎬で受け流しています。特に身を捻ると云うより刀の切先を下げて摺り落す様に思えてしまいます。
 大江先生は、請ける・体を捻る・流す・反るの順番が読み取れます。河野先生、右足を右に踏み上段に振り冠りつつ受け流した敵に左足を向け、右足を左足に引き付け双手上段から真向に斬り下す。

 此処で河野先生の納刀では大森流の流刀、正座之部の請流の血振り納刀をするようには書かれていません。足捌きも無く「刀を開き血振り納刀する」で終わっています。その後の無雙直傳英信流居合道では受け流しの動作に変化は見られませんが「左足を後に退き血振い納刀す」とされ「注意-正座の受流と大体同要領を以て行ふなり」としています。

 奥居合として請け流しを稽古するならば、古伝神傳流秘書抜刀心持之事弛抜(ゆるみぬき、はずしぬき 読みは不明)を稽古する方が楽しいものです。それも設対者を設けて、打ち込んでもらい、相手の打込みをぎりぎりまで待って躱して打込む、刀で請けて流す様な事はしないことでしょう。
 相手も抜刀心持にある抜打を演じてもらうのです。抜打:「歩み行中に抜打に切敵を先に打心也」
 この抜打は細川先生系統梅本三男先生の居合兵法無雙神伝抜刀術抜打:「(出合頭に斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り右手を柄へ掛けるなり、右足踏込み、出合頭に(正面へ)抜打に斬付け、左足を右前足に踏揃へると同時に刀を納め終る」この手附からは、右足を踏み込んでいますから片手抜打が妥当でしょう。諸手真向打ならば左足を踏み込みつつ刀を上に抜き上げ諸手上段となるや右足を踏み込み真向に斬り付ける。

 請ける仕太刀は、片手抜打ちならば左足を右足右前に踏みつつ刀を抜き出し、敵が片手打ちに抜き付けて来るのを、踏み出した左足を後方に退くや刀を上に左肩を覆う様に抜き上げ、諸手になるや右足を右前に踏み込み 体を右に躱しつつ斬り下す。斬り込む部位は本来打太刀の拳でしょう。

 奥居合を稽古するのに、居業を立業に変えるだけの稽古ならば、初期の段階で稽古させておくべきものです。

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2019年7月 4日 (木)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部9壁添

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部9壁添

 正面に向ひて立ち、両足を真直に爪先を立て左腕を脇に着けて動かさずして右手を柄に掛け、刀を上方に抜取り双手上段に取りて打ち下す、(此場合柄は下腹に接近し、刀尖は両足先に近き所迄切付く、)血振は打下したる状態にて右に刀を開きてなし、次に右拳を前より静かに納め終る、(左側に壁がありて普通の如く刀の抜けざる場合なり)

 大江先生の剣道手ほどきより壁添へ:「(進行中立留り両足を踏み揃へ上に抜き直下に斬下し竪立に刀を納む)中央に出で體を直立とし両足を揃へ刀を上に抜き上段となりて趾先を立てゝ真直に刀尖を下として斬り下し、其體のまゝ刀尖を下としたるまゝ血拭ひ刀を竪立として納む。」

 此の動作は、古伝神傳流秘書抜刀心持之事人中に相当します。:「足を揃へ立って居る身にそへて上へ抜き手をのべて打込む納るも躰の中にて納る」

 大江先生は何故奥居合では業名を変え動作まで変えてしまったのか解りません。
 古伝の抜刀心持之事では、場の状況による業名では無く敵との対応に依る業名が優先しています。しかし棚下と夜之太刀が場の状況下での動作になって居ます。古伝の人中は「ひとなか」では「立って居る身に添へて上に抜き・・躰の中にて納む」とは人の大勢いる所では、周りの人を傷つけない様に体の中で抜けと云うのです。
 大江先生は古伝の行違を袖摺返に変えてしまい人中での人を押し退けて前面の敵を斬る業を独創してしまったので、「ひとなか」での抜刀法では無く「壁添へ」壁に挟まれた狭い場所での抜刀法に想定を変えてしまった様です。
 河野先生は更に「左側に壁がありて普通の如く刀が抜けざる場合」とされています。それでは、右側はどうなってるんでしょう。説明不足です。
 取り敢えず壁があって抜くのが上にしか出来ないとします。その抜き上げる際、「左腕を脇に着けて動かさずして右手を柄に掛け、抜取り」左手で鯉口も切らずに抜刀するそうです。
 次の上段からの斬り下しは、「河野先生の場合疑問点が二つ、一つは「爪先を立てゝ・・刀を上方に抜き取り上段に取り」と不安定な足裁きをさせて置いて「刀尖は両足先に近き所迄切付く」のですが、踵を下したまま抜き取り、上段から打ち下す際、踵を上げて斬撃力を増すべきでしょう。河野手附ではふらついた手打ちにしかなりません。習い始めの頃は「自分はまだ居合に向く体作りが出来ていない、修行が足りないからだろう」と素直に自分の不甲斐なさを嘆いたものです。更に敵を真っ向から斬り下すのを何故爪先まで斬り下すのでしょう。その必要は、不必要な爪先立ちを先にしてしまったので意識的に大きく振り下すことで良しとしたのでしょうか。
 
 細川義昌先生系統の梅本三男先生に依る居合兵法無雙神傳抜刀術では「人中」:「(群集中にて前の者を斬る)正面に向ひ、直立の儘(刀は落差に)鯉口を切り右手を柄に掛けるなり、刀を上へ引抜き(左より背部へ廻し)素早く諸手となり、前者へ斬込み(両足の間へ斬下す)其儘刀を開き、柄を上へ引上げ(刀尖を真下に釣下げる様にして)納め終る(体は直立の儘動かさぬ事)」
 斬り下しは「両足の間へ斬下す」ですから河野先生と同じでしょう。切先下がりであれば体の内側で血振りが容易そうです。
 納刀の説明で「刀尖を真下に釣下げる様にして」とは我が体前は空いているのに、不自然な要求ですが四角な筒の中での運剣の稽古と考えれば良いかも知れません。
 古伝の大らかさはドンドン失われて尾ひれがついてゆくものなのでしょう。

 英信流居合目録秘訣の上意之大事壁添:「壁に限らず総じて壁に添たる如の不自由の所にて抜くには猶以て腰を開きひねりて躰の内にて抜突くべし、切らんとする故毎度壁に切あてかもいに切あてゝ仕損ずる也、突くに越る事なし、就中身の振廻し不自由の所にては突事肝要」と有ります。
 不自由な所では突くべきなのでしょう。是は古伝神傳流秘書抜刀心持之事向詰にあります。向こうとは正面の敵に応ずるもので:「抜て諸手を懸け向を突打込也」
 これは大江先生の両詰で稽古した業になります。両詰:「(抜放け諸手にて真向を突き斬る)座したる處より右足を少し出して、刀を抜き、柄元を臍下に当て、右足を踏出して、前方を諸手にて突き、其姿勢のまゝ、上段にて前面を真向に斬る。」
 
 河野先生は「両詰」に拘って無雙直傳英信流居合道の奥居合居業の部両詰では:「意義-吾が両側に障害ありて、刀を普通の如く抜き得ざる場合にして、前の敵を刺突して勝つの意なり。」
 同じく壁添では「意義-吾が前面に敵を受け、左に壁ありて普通の如く抜刀し得ざる場合左上方に刀を抜きとりて斬り仆すの意なり。(右に壁ある場合も同意)」と補足されています。
 大日本居合道図譜では、:「意義-我が前面に敵を受け、左又は右に壁ありて抜刀自由ならざる場合ひ、刀を上方に抜き取りて敵を仆すの意なり」と進化してきています。
 人中なり、壁添で前方が開いているならば前に抜き出し刺突する古伝の向詰が有効です、前に抜き出しつつ刃を下に向け下から切り上げる抜刀をしっかり稽古する事で、敵の仕掛けてくる場合に応じられる勢中刀(月影)、稲妻などを身幅の中で抜刀する事も良いでしょう。

 古伝の人中が群集の中での抜刀法であったものを、壁の様な障害物が左側にある場合の抜刀法に変えてしまいおかしなものになった様です。動作は同じ事ですから「おおらか」に想定を巡らせてこの業の何故を思って見るのもいいのでしょう。然し古伝を伝承しているとか、昔はこうだったなどの嘘はつかずに、現代居合ではとか、明治時代に失伝寸前の土佐の居合の教えでは位の謙虚さが欲しいものです。或ははっきりと大江正路先生の居合ではと云うべきでしょう。この奥居合には居合の業と云うよりも人中では周囲の関係のない人を傷つけるな、と言っていると思うべきでしょう。


 

 

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2019年7月 3日 (水)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部8門入

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部8門入

 正面に進みつつ、例に依りて鯉口をきり右手を柄に掛け右足を出し前に抜き左足を踏み出して右拳を後方に引き(刀身は水平にして刀尖は鯉口の近くに)右足を踏出し、同時に右拳を前方に突込み左足を中心として左に廻りつゝ諸手上段に冠りて右足を大きく後方に踏込みて切り下し、更に左廻り(左足を中心として)には正面に右足を踏込みて切り下し、納刀する事前に同じ(頭上に鴨居又は門等ありて、刀尖が閊へる場合に行ふ業)次下次号。

 下線の右足の踏み込みについて、曽田先生のメモ「足踏みは右足を出して突きたる儘左廻りに後方を斬り又右廻りに前方を斬る足踏みは変へざるなり」

 大江先生の剣道手ほどきより門入:「(進行中片手にて前を突き後を斬り前を斬る)右足を出したる時、刀を抜き、左足を出して、刀柄を握り、腰に当て刀峯を胸に当て、右足を出して、右手を上に返し、刀刃を左外方に向け、敵の胸部を突き、其足踏みのまゝ体を左へ振り向け、後へ向き、上段にて斬り、直に右へ廻り前面に向き上段にて斬る。

 曽田先生も大江先生も足踏みを変えずに前後を斬って居ますが、この業で得るべき心得は何も示されていません。門の想定を考えた時、斬り込む際上が閊える場合の斬り込みは棚下の様にすべきでしょう。棚下でも現代居合の様に棚下から抜け出して斬る様なおかしな想定では無く、棚下で斬る想定で稽古すべきものでしょう。足踏みを変えずに後ろを切り前を斬る。是では門から抜け出ていません。
 河野先生の足踏みでは、後の敵を斬る時は門の中心から抜け出ていますが、振りかえって前の敵を斬る時は門の中心に体軸はあるので斬り込みは後ろと同前とは言えません。

 河野先生の大日本居合道図譜の門入りの意義:「我門の出入りに際し、門の内外に多数の敵を受けたる時(前後に多敵を受けたる場合と同意)我れ門の真中に進み内外の敵を仆すの意なり」ですから、是は古伝の棚下での運剣を学ばなければ不覚を取りそうです。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事棚下:「大森流逆刀の如く立って上へ抜打込む時体をうつむき打込是は二階下様の上へ打込ぬ心持也」この教えは現代は棚下から抜け出る教えに変わってしまったので、上が閊える場所での運剣は稽古業には無くなってしまいました。

 門入は古伝神傳流秘書抜刀心持之事には業名および業書として存在しません。居合兵法極意秘訣の當流申伝之事に:「門戸出入之事夜中うたがわしき處にては先ず我が足より先へ出すべし、刀鞘共にぬきかけて我が首之上にかぶりて出入すべし三方のワザワイ止るなり、其上は時々自分自分のはたらき有るべし。」と有ります。
 又、英信流目録秘訣の上意之大事に門入の解説があります。:「戸口を出入するの心得也戸口の内に刀をふり上て待つを計り知るときは刀の下緒のはしを左の手に取刀を背負いてうつむきとどこおり無く走り込むべし、我が胴中に切かくるや否や脇指を以て抜つけに足をなぐべし。」

 これらの教えをミックスして門入と云う業を大江先生は独創したかも知れません。細川先生系統の梅本三男先生の居合兵法無雙神傳抜刀術にはそれらしき業は見当たりません。
 下村派第14代下村茂市から細川先生に業手附として伝わるものが無かったのでしょう。大江先生の独創された業であったと云うより、谷村派第18代穂岐山波雄先生の教えに門入の動作があったのでしょう。大江先生の教えと云えます。
 それにしても「門入」と云うのならば河野先生の(頭上に鴨居又は門等ありて、刀尖が閊へる場合に行ふ業)の動作が河野先生にも大江先生にも文章でその動作が見えないのは何故なのでしょう。既に棚下で刀が天井に当たるのを避けた運剣を稽古して来ています。
 河野先生の右足を踏出す足捌きは、状況次第で出しても出さなくても良いのでしょうが、大江先生の独創された業ならば更に独創するなと言えるでしょう。
 河野先生は、右足の踏み出しは大日本居合道図譜でもスクラップ同様に踏み込んでいます。刺突の刀刃の向きですが大江先生は「右手を上に返し、刀刃を左外方に向け、敵の胸部を突く」ですが、河野先生は、無雙直傳英信流居合道でも大日本居合道図譜でも「刃を外にして」ですから、右手を上に返さず、刃を右側外向きにされています。
 同様の突き業は立膝の部瀧落にあるのですが、大江先生の瀧落の突きは「胸に当てたる刀を右手を伸ばし刀は刃を右横に平として突き」あります。門入りは「刃を左外方に向け」しかも「右手を上に返し」です。手を上に返すと簡単にはたき落されてしまいますし、衝撃によって握りが外れる可能性は高いものです。手を下に向け、柄を右手上腕部下に納めるべきでしょう。

 

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2019年7月 2日 (火)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部7袖摺返

曽田本その2を読み解く
20スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部7袖摺返

 正面に進みつゝ例に依りて鯉口を切り右手を柄に掛け右足を踏出すと同時に刀を抜き出し、右足を左足にひきつけつゝ両腕を前に組み、右足を進めて両腕を左右に大きく広げ、左足を出したる時双手上段に振冠り更に右足を踏み込みて打下す。敵と我との間に他人があり其れを押し除けて敵を斬るの意。

 大江先生の剣道手ほどきより袖摺返:「(進行中抜放ち、刀を左の身に添へ群集を押開き進みつゝ斬る)右足の出でたる時、刀を静に抜き、直ちに右手は上へ左手は下へ胸の處にて組見合せ、足は左右と交叉的に数歩出しつゝ、両手肘に力を入れて、多数の人を押し分ける如くして、左右に開き、直に上段に取りて、中腰にて右足の出でたるとき、前面を斬る、(両手を開く特は、両手を伸ばす、肘の處を開くこと)

 この大江先生の袖摺返は古伝神傳流秘書の行違の変形です。替え業と云った方が良いかも知れません。業名の袖摺返は大小立詰の一本目にある袖摺返から盗んだものでしょう。

 大江居合の袖摺返の方法で群集をかき分けて、かき分けた人に疵を負はせずに敵と向い合えるか疑問です、然も抜刀しての動作ですから居合とは言えそうにもありませんが、現代居合ですから現代の手附の儘に演じるばかりです。

 古伝神傳流秘書抜刀心持之事行違:「行違に左の脇に添へて拂ひ捨冠って打込なり。」
 この行違は、しっかり稽古して置きたい業の一つでしょう。特にすれ違う寸前に抜刀して刃を左外向きに左腕外に添えて、すれ違いざまに引き切る様に摺り切ってすり抜け、即座に左回りに振り返って振り冠り後ろから打ち込む。

 古伝神傳流秘書大小立詰袖摺返:「我が立て居る處へ相手右脇より来り我が刀の柄と鐺を取り抜かせじとする時其儘踏みしさり柄を相手の左の足のかゞみに懸け中に入り又我右より来り組付をひじを張り体を下り中に入る。」

 行き違うのですから敵は我が正面より歩み来って我が左脇を摺れ違って行こうとする、我は刀を抜き放ち刃を外に向け左脇に添えて行き違い様に敵に斬り付けてすれ違うや、刀を右肩から上段に振り冠りながら左廻りに斬り付けた敵に振り向きざま真向より斬り下す、と言う大技です。

 細川義昌先生伝の梅本三男先生居合兵法無雙神伝抜刀術の行違:「(摺違ひに左側の者を斬る)正面へ歩み往きつつ(右側を通り)鯉口を切り、左足踏み出しながら右手を柄に掛け、右足を踏出すなり刀を向ふへ引抜き、左足踏出しつつ(刃部を外へ向け)左腕外へ突込み、更に右足踏出すと共に摺違ひに刀を向ふへ摺抜き(対手の左側を軽く斬り)直ぐ左斜に振返へりつつ、諸手上段に振冠り右足踏込んで斬込み刀を開き納め終る。」

 細川先生は大江先生の兄弟子に当たります。大江先生は業の内容について十分学んだかどうか疑われるものです。良く解釈すれば、古伝の業は、不意打ちのきらいがありますから、中学生向きには古伝を改変して、群衆を押し退けて前面の敵を斬る業にした、とも取れそうですが、さて如何なものでしょう。
 上意打ちであれば、いかなる理由があろうとも、役目は果たさなければなりません。又相手との思想の違いから最後の手段として戦わざるを得ない状況下での闘争であれば、相手も使い手である事もありそうです。そこまで業の意義をとやかくする前に、その状況下での行違う場合の業技法の修得はすべきものでしょう。
 ポイントは、行き違う何処で抜刀するのか、どの様に相手の何処を拂い捨てるのか。仮想敵も描けない者には古伝を学ぶ事も出来そうにありません。

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2019年7月 1日 (月)

曽田本その2を読み解く20スクラップ無雙直傳英信流居合術20の5居合術業書奥居合立業之部6行違

曽田本その2を読み解く
20、スクラップ無雙直傳英信流居合術
20の5居合術業書
奥居合立業之部6行違

 正面に向ひて進みつゝ、右足を踏み込みて鞘諸共抜出し、柄頭を以て敵の顔面を一撃し、其のまゝ刀を上に抜取りつゝ体を左方より後に向き(足は其儘)双手上段に振り冠て後方の敵に切り込み、更に右廻り正面になりつゝ真向に割り付けて刀を納め終る事前に同じ(詳細は口伝の事)

 大江先生の剣道手ほどきより行違:「(進行中正面を柄頭にて打ち、後を斬り又前を斬る)右足の出でたる時、(敵顔面を柄頭にて)左手は鞘と鍔を拇指にて押へ、右手は柄を握りたるまゝ前方に伸し、柄当りをなし、其足踏みのまゝ体を左へ廻して、後方に向ひつゝ、抜き付右手にて斬り、直に前方の右へ振り向き上段に斬る。」

 どちらの文章も不十分な表現ですが、両方読んでみると動作が見えて来る様です。河野先生の「詳細は口伝の事」は何でしょう。
 河野先生の無雙直傳英信流居合道昭和13年1938年の行違:「意義-吾れ前進し、敵両名前後して進み来る時、敵の両者の間に至りてすれ違ひざまに前面の敵の顔面人中を柄頭にて当て、後に振向きて先頭の敵を仆し、更に旧に向き直りて前面の敵を仆して勝つの意なり。 
 注意-武士の歩行は帯刀の関係上、現今と同様左側通行なりしを以て、其の心持にて行ふ事。
 動作-正面に向ひて直立し、前に進みつゝ左手を鯉口に拇指を鍔に掛け、右手を柄にかけるや、右足を踏み込み鞘諸共も左腕を十分延ばして抜き出し柄頭を以て敵の顔面を一撃し、其のまゝ刀を上に抜きとりつゝ体を左より廻りて後に向き(足は其位置にて)て双手上段となり後方の敵に斬り下し、更に右より廻りて正面になりつゝ双手上段に振冠りて真向より斬り下し、血振ひ納刀す。」

 河野先生の言われる「詳細は口伝の事」が、さて含まれているのでしょうか。大江先生は「・・後方に向ひつゝ、抜き付右手にて斬り」ですから、右片手抜打ちして後方の敵を倒し、「前方の右へ振り向き上段に斬る」前方の右へ振り向きの意味が疑問ですが、現代風にやれば右廻りして、上段ですから諸手になって斬り下すのでしょう。

 古伝神傳流秘書抜刀心持では、この行違は「連達」となって居ます。「歩み行内前を右の拳にて突其儘に左廻りに振返り後を切り又前へ振向て打込也」
 連達ですから、前後に敵を受けて同一方向へ歩み行く際の攻防でしょう。我から仕掛けてまず、柄頭では無く拳で前の敵の後頭部を打ち、即座に左回りに振り向きざま後方の敵を斬る、其の侭振り向いて前の敵を斬って居ます。
 大江居合はここでも、敵は我が前方より二人して近づいてくるので行き違う際の攻防です。そこで河野居合の武士の左側通行が約束されているからそのつもりで演武しろと云うのです。現代居合はどう見ても行き違う動作は無く、連れ達の動作ばかりです。想定をいじったら動作もいじらなければおかしいでしょう。
 敵が前方より来るならば、一人目をやり過ごしてその二人の間に右足を斜め前に踏み入れ柄当てしてから後ろに廻る・・。之が口伝。でも動作は連れ達のまま右への踏み込みはしない。

 古伝の行違は:「行違に左の脇に添へて拂ひ捨冠って打込也」。
 此の場合は、敵は前方より我が左側を行き違いに行こうとしている攻防としてとらえていますが、指定されていないので右側を通る場合にも応用できなければならないでしょう。
 大江先生はこの業名を、拝借してしまったのでしょう。現代居合では次の業「袖摺返」が近いものになります。古伝はおおらかですが当を得た動作であるべきでしょう。

 細川居合では梅本先生の行違は:「(摺違ひに左側の者を斬る)・・」ですから古伝と同じです。
 連達は:「(前後の者を斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り右手を柄に掛けるなり抜打に(前の者へ)斬付け直ぐ(左廻りに)後へ振返へりつつ諸手上段に振冠り右足踏み込んで(後の者へ)斬込み刀を開き納め終る。」
 前の敵を抜き打ちに斬って振り向いています。下村派14代の教えは何処かおかしかった、敵の位置情報が連れ達の場合としては不明確、是では前後に詰めかけられた場合とも取れます。古伝の心は失われていたのでしょう。

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