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2019年7月10日 (水)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の1板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
筆者 居合術教士剣道錬士中西岩樹
21の1板垣伯

 近来時局の影響する所が一般的の趣味にしても剣舞詩吟謡曲の如きものが非常に隆興を来たしたやうに思はれるが、殊に武道の方では居合が急激に倍々旺盛となって来たやうに考へられる誠に喜ばしき現象である。
 今から20年前を回顧してみると当時京都の武徳会本部大会に居合を以て出演する者は実に寂寥々たるものであった。而して諸流亦其の抜方斬方に皆各々の特徴が有って、決して今日見るが如き整ふたものではなかった。只独同流にして発祥の地を一にする東京の中山先生の御門下生と高知県よりの出演者が長谷川英信流又は業に依る部分的名称大森流或は長谷川流と称して抜いていた居合が其の抜刀斬突納刀の鮮かな技に於て断然頭角を抜いて居たやうに覚えて居る。
 夫れが今日に於ては毎年の大会出演者実に二百名に垂んとする盛況を呈し、而も高知県を発祥の地とする居合が其の約七割を占め居合界に君臨するの躍進を遂げたといふ事は誠に欣快に堪えない處である。
 之れは居合の所作其のものに負ふ處も決して少くはないであらふが、又は先輩諸先生の並々ならぬ苦心の賜物と謂はなければならぬ。由来高知県より出でた居合は始祖林崎甚助重信先生より第七代目長谷川主税之助英信先生に至って一大進歩を遂げ長谷川流と呼ばれ或は英信流と唱へられ又は長谷川英信流と称せられたもので第十代目高知県藩士林六太夫守政先生之を高知県に伝へて以来連綿と今日に及んだものである。(第十代では無く現在は第九代林六太夫守政とされています ミツヒラ)
 現今流名は右記の外大森流無想直傳英信流夢想神傳流等と言はれているも元来同流に外ならぬ。
 扨此の居合が一時衰微の極にあった剣道の如く否より以上更に深刻に最早既に其の伝統の断絶せんとした場合此の危機を救ふて呉れたのみならず、今日の出世発展の直接原因を造って呉れた恩人が茲にあったとしたならば、我々は大に其の人を徳とし絶大なる感謝の念を捧げて然るべきではあるまいか。
 然らば其の恩人とは誰ぞや?、即ち高知県の大先輩故板垣退助伯である。
 明治二十五、六年頃と言へば大日本武徳会創設前で地方の一般武道は未だ萎微沈滞の域に立った時分である。殊に帯刀禁止令発布後十数年を経過している事ではあり、真剣を打振る居合の如きが文明改化を追ふに急なる国民に顧られそうな筈は無く、五藤正亮谷村樵夫細川義昌等の達人が伝統を受継いで現存して居り乍ら、殆ど之を執心修行せんとする者は無く、又之等の先生も唯単なる余技として死蔵せるに止り或は神職として或は政界の人として時勢に従っていたのである。
 その内に段々居合を知る人も物故し、是等の先生と雖何時迄も在るものではなく、今にして後継者を造らざれば高知藩門外不出の此の武技も遂には世に之を伝へる者が無くなるであらふと非常に痛惜慨嘆されて極力其の復活振興の労を執られたのが板垣伯である。

― 次回へ続く ―

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