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2019年7月11日 (木)

曽田本その2を読み解く21スクラップ英信流居合と板垣伯21の2板垣伯

曽田本その2を読み解く
21、スクラップ英信流居合と板垣伯
居合術教師・剣道錬士中西岩樹
21の2板垣伯

 即ち明治26年板垣伯の御尽力に依って高知市新堀竹村與右衛門氏邸内に道場武学館が建てられ、五藤正亮先生が居合の師として聘せられ一般教授の任に当たられたのである。
 それが因となり五藤先生は当時の第一中学校(現在の城東中学校)の校長にして居合を好む渋谷寬といふ人に委嘱されて後同校の居合教師となり、尚他中学校にも招聘せらるゝことゝなった。
 明治31年其の没せらるゝや谷村樵夫先生が之に代り同36年谷村先生の没後大江正路先生が之に代ることゝなったのである。斯くして高知県に於ては五藤谷村大江の三先生に依り居合の命脈を継いで来られ殆ど伝授者も中学卒業者に限られていた如く換言すれば中学生によって居合が保持されて来たかの観がある。
 又一方県外方面では第一人者たる中山先生も此の五藤先生の御門下たる森本兎久身先生に手解を受けられ、更に細川先生に就て修得されて居られるが細川先生は高知県内では殆ど教授せられた事は無い模様で、当時衆議院議員として滞京中板垣伯の御斡旋で中山先生に伝授せらるゝに至ったと承知している。
 爾来中央に在っては中山先生高知県に在っては大江先生の非常なる御努力に依って此の居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人は板垣伯である。
 実に板垣退助伯は舌端火を吐いて自由民権を提唱され高知県をして自由発祥の地たらしめたが、更に不言點々裡に此の居合を広く世に紹介し、高知県をして又此の居合発祥の地たらしめられた。私は自由の神としての板垣伯を知る人に尚此の土佐居合の恩人である板垣伯を知って貰ひ度いのである。

 中西岩樹先生も土佐の人です、手前味噌は当時の人達の県人意識は現在をはるかに超えています、従ってその動静は詳しく把握されているとは思います。
 維新後の政界は、薩長によって牛耳られ土佐は置き去りにされてしまった様な印象もあります。板垣伯は自由民権運動を起し、薩長の政治を政党政治に切り替えようと、推し進めて行かれた様です。明治26年土佐に戻った際に、居合との関わりの逸話なのでしょう。
 誰かが音頭を取らなければ確かに土佐の居合は消えてしまっていたかもしれません。江戸で無雙神傳英信流居合兵法の道場を開いて居た荒井勢哲亡き後は消えて行ってしまった様です。
 奥羽地方に林崎甚助重信の系統の古流が江戸時代にも残って居た様ですが、英信流や大森流とはかけ離れていた様です。北信濃にも無雙直傳流として、長谷川英信や荒井勢哲の足跡が残っている様ですが、江戸末期までに土佐と同様に変形してしまって双方を対比しても目録から同じ呼称を見出しぶつけるのが精一杯です。個人的には無双直伝英信流が全国的に普遍ですから北信濃へ出かけて業合せしてみた方もおられるかもしれません。広島に残された無雙直傳英信流抜刀兵法に依って細川居合と大江居合を研究して見たようにこの土佐の居合の何たるかが垣間見れた様に展開できれば棒振り居合から抜け出れるかもしれません。
 このスクラップの出典は何であったのか何時頃のものか記述がありませんから不明です。恐らく太平洋戦争以前のものでしょう。
 この項を投稿するに当たり参考に、板垣伯に就いて「板垣退助自由民権の夢と敗北」昭和63年1988年の榛葉栄治氏がいたずらに板垣伯を持ち上げる事も無く史実に照らしていて面白く読ませてもらいました。

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