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2019年8月

2019年8月31日 (土)

曽田本その2を読み解く28スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜しむ28の下

曽田本その2を読み解く
28、スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜しむ
岡林九敏
28の下 
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4、抑も土佐英信流居合術は奥州山形の人、林崎甚助重信より出で第7代の長谷川主税助英信といふ人が秀絶せる人で斯道の普及発達を図ったので今まで重信流と言っていたのをまた長谷川流とも英信流ともいふのである。第9代が林六太夫守政といひ高知藩士で城南八軒町に住んでいた。土佐に居合を広めたのはこの人である。それより第15代谷村亀之丞自雄から第16代五藤孫兵衛正亮となり第17代大江正路、第18代穂岐山波雄となっている。
一つは15代五藤正亮から16代森本兎久身氏に伝はりその遺鉢を継いだのが竹村静夫氏で氏は第17代となる訳である。
伝統次の如し
1代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛業正―3代長野無楽入道槿露斎ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門信貞ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井兵作信定ー9代林六太夫守政ー10代大黒元右衛門清勝―11代林益之丞政誠ー12代依田萬蔵敬勝ー13代林彌太夫政敬ー14代谷村亀之丞自雄ー15代五藤孫兵衛正亮ー16代森本兎久身ー17代竹村静夫

5、土佐英信流居合術は前申す如く内容は至って豊富で多岐多様に亘っていたことは古き伝書を見れば一目瞭然である。しかし、維新後斯道も中絶していたところ、明治26年板垣伯帰県の時、土佐居合術の廃絶を惜まれ伯の御周旋の結果幸ひに復活を見、五藤先生が城東中学校居合術教師に聘せられ子弟に教授せらるゝことゝなったのであるが、一般子弟に教ふるところは、大森流、長谷川流、同奥居合(座業、立業)、太刀討の位に止まっていた。それで土佐の居合といへば以上に止まっていた。それで土佐の居合といへば以上に止まってをると思っている人が沢山あるけれどもこれは思はざるの甚しきもので五藤先生の高弟の方々はその上に詰合の位11本、大小詰8本、大小立詰8本、大剣取10本などを習っている。皆二人相対して行ふ技である、彌村氏(竹村氏)は苦心惨憺それ等の高弟を訪ねてその秘奥を極めなほ前年は山川久蔵幸雅といふ居合の達人が百数十年以前に著はせる「神傳流秘書」と称する英信流居合の根本原理から各方法まで詳細説明せる写本を手に入れ欣喜措く能はず研鑽精討を積まれ土佐居合の全貌を体得している、居合術については実際についても理論についてもかゝる達人は日本広といへども恐らく少なかったと思ふ、氏は居合術には特別力を入れ銀行勤務の余暇を以て或は県内に或は県外に実演以て其の発達普及を図り、本年に入っては決然銀行を辞し母校の部道教師となり、本格的に斯道の発展、国民精神の涵養を図らんと期していたのにこの千里の馬が雄々しく門を出で、直に躓(つまづ)いたといふ事はまことに痛惜哀悼に堪えへない次第である。然れども氏が時々印刷して同志に配ったパンフレットは氏の研究の結晶であり生命である。どうか斯道に志ある方々は氏の研究を基礎として練磨を積まれ土佐居合の真髄を後昆に残されんことを(終)


 岡林九敏氏は城東中学校教師の16代五藤孫兵衛先生の後を継いだ谷村樵夫先生の門弟だった様で、竹村静夫氏とは交誼が有ったと云っています。
 此処に書かれている系譜は、曽田先生の記述したものと、一般に云われている16代五藤正亮ー17代大江正路とは違う系譜があると云って初代林崎甚助重信から17代竹村静夫までを述べています。その際9代と10代の間に林安太夫政詡が外されて数字が合っていますがこの系譜はここでしか見た事のないものです。いずれにしても土佐の居合の系譜も大凡位の信頼性しかないのは一般武士の武術系譜としてはその程度のものでしょう。行宗貞義ー曽田虎彦ー竹村静夫の系譜も、五藤正亮ー大江正路ー竹村静夫の系譜も曽田本その2には記述されています。竹村静夫氏の居合は土佐の居合の本流を求めて訪ね歩いたのでしょう。曽田先生との交流も太刀打之位の演武も残されていますので、神傳流秘書のやり取りはこの辺りの人脈から生み出されたかもしれません。
 竹村先生の早逝や太平洋戦争、曽田先生の戦後の混乱と死亡、河野先生の思いを、居合抜きの「かたち」しか受継げなかった昭和、平成の修行者、大江居合以外は無双直伝英信流にあらずといいつつ他流の体術や棒術を平気で取り入れる英信流各派の代表達。これらの事が脳裏を駆け巡っています。
 竹村先生が印刷して配られたパンフレットに依って動き出した方もあったかもしれません、生意気なと無視された人も居るでしょう。ミツヒラブログですら、是を基に古伝を研究され動作を線画であらわした研究成果を示される方も、研究成果を演じたビデオも作成されておられる方々もおられます。
 中には自分たちのやっている事を否定されたと怒り狂っている心得違いの怠け者も居るようです。しかし、私は明治維新で中断し失われた土佐の居合は誰でも学ぶ者は知る権利はある、それによって現代居合はそれとして日本文化の正しい伝承は学ぶ機会を失ってはならないと信じています。
 

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2019年8月30日 (金)

曽田本その2を読み解く28スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜む28の上

曽田本その2を読み解く
28、スクラップ英信流居合術第17代竹村静夫氏の逝去を惜む
岡林九敏
28の上

1、剣道並に居合術の達人竹村静夫氏が昨年末(昭和12年1937年)母校城東中学校からの懇望により多大の希望を抱いて多年勤続の四国銀行を去って母校に入り、爾来同校武道部のため献身的努力を続け、校の内外の信頼を得、その将来は非常に期待されていたところ去る2月8日(昭和13年2月8日)なほ春秋に富む不惑の齢を以て、忽焉長逝したことはまことに哀悼に堪へざる次第である。氏の剣道については述ぶるにその人ありと思ふから私は僭越をも顧みず氏の努力功績を偲びたい。

2、氏の居合術に対する熱心努力はまた格別であった。土佐居合術については、研鑽に研鑽を積んで、その蘊奥を極め、しかしてこれを天下に普及さしたいといふのが氏の大なる願望であった。それで知ると知らざるとを問はず、何人でも土佐英信流居合術について修行した人があれば県内では申すまでもなく他県までも所謂千里を遠しとせず訪問して居合に関する談話を聴聞した、氏が訪問を受けられた方々には田口海軍大佐、森本少将、坂本中将等があり皆英信流居合術第16代五藤孫兵衛正亮先生の教導を受けた達人である。私は五藤先生が城東中学校居合術教師を辞職せられその後を継いだ谷村樵夫先生について青年時代に聊か手解を受けていた関係上氏の訪問を請け自来御交誼を願っていた。かゝる関係で氏の居合については少しく知ってをる所があり筆を執った訳である。

3、土佐の英信流居合術は藩政時代土佐藩士の修めたもので藩校の課目の中、居合術があり、土佐の武士道は居合術に負ふ所大なりといふべきである。真剣を以て行ふ、こゝに居合の特徴がある。正座気を丹田に収めて心を静かにし抜き抜き放つに当っては電光石火間髪を容れず、静中動有り、動中静あり。修行の極致は此處にありといふも過言ではない。山内容堂公が居合に堪能であったことは誰人も知っているところで、板垣伯や片岡健吉、渋谷寛の諸氏は居合術に達してをられた。板垣伯の親戚である谷村亀之丞自雄といふ方は居合術の達人で、居合をもって藩の子弟を教養し、殊に容堂公の信任を得、亀之丞の居合は天下一であるといふ公の称賛を博しておる。亀之丞は英信流居合術の第15代である。土佐居合術の特徴は独立したものであって剣道の附属物でもなければ柔道のそれでも無い。その技は多岐に分れ内容は深遠である。渋谷寛氏が往年城東中学校長となった時、武道を剣道、居合、柔道も三科に分ち、生徒はその中何れを修むるも自由となっていた。ある先生が居合は剣を抜いて切つけるまでの業で、それ以上は剣道であるといったのは土佐居合の特徴内容を知らぬ虚言である。

以下次号

 この竹村静夫氏の英信流居合第17代については、曽田本その2の「無雙直伝英信流居合術系譜」曽田虎彦記に依れば以下の系譜となります。
11代大黒元右衛門清勝ー12代松吉貞助久盛ー13代山川久蔵幸雅ー
14代下村茂市ー15代行宗貞義ー16代曽田虎彦ー17代竹村静夫

しかし、この筆者岡林九敏氏の系譜に依れば以下次号の様になります。

 

 

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2019年8月29日 (木)

曽田本その2を読み解く27スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値27の下

曽田本その2を読み解く
27、スクラップ居合術の実戦敵的価値と教育的価値
居合術教士 西川倍水
27の下

 以上のやうなものであるがさて我が国民は古来剣に対してどんな考へを持って居ったかといふに、刀剣を愛重するの念は極めて深く一種の信仰とさへ称すべきものがあったのである、即ち畏くも皇室におかせられては神代以来三種の神器の一つとして天叢霊剣を伝へ給ひ、武士、百姓、町人の家に至るまで伝家の宝刀を蓄へ、霊的神秘的な威徳あるものとしてこれを尊崇した。従ってこれを神体として祭れる神社も甚だ多い。鎌倉将軍惟康親王が刀工である一文字助真に「剣とは如何なるものか」と問はれた時に助真答へて曰く「百錬の功は精神茲に鍾る、ゆえにその器霊威にして能く神明を動かす之を佩びて海に泛(うかぶ、ただよう)へば鯨鯢(げいげい)も伏し、これを帯びて夜行けば魑魅逃る」と答へている。剣に対するわが国民の態度の一端はこれにても窺ひ知ることが出来る。
 斯様な我が国民性であるからこの剣技によって全国民を訓練するといふことは現今非常時において極めて必要な事であると思ふ。
 昔は武門武士なる階級があって国防に任じたのであるが今日は全国民を挙げて国防をやらなければならない時代となった、今日の戦争は決して陸海軍のみの戦争ではない、実に国民全体の戦争である、国民全体が戦争するためには国家総動員の完璧を期せねばならぬ国家総動員の完璧を期するためには先づ国民個々の動員準備を完全にせねばならぬ、然らば国民個々の準備とは何か、常にその精神と身体とを鍛錬して健全なる国民にして置くことである、精鋭たる国軍は健全なる国民によって組織せられ国民各個人の健全は国民全体の健全である、国民全体の健全は国軍の精鋭となるのである。
 一人一人個人の身心鍛錬の必要たる所以は実に茲に存するのである、この健全なる精神と身体とを兼備した国民を養成するには、わが国幾千年来の伝統を有する剣技の修行に如く者はない。
 大和魂なるわが日本精神は建国の歴史と共にわが皇国の天地に磅礴(ほうはく)する霊気が自然に国民の頭に宿り血管に流れ込み骨肉に浸み込んで育成したもので本来先天的のものである、その先天的の精神が更に武徳として鍛錬せられ中世からは武士道と銘打って益々研礴せられ浄化せられたのである、しかして剣技はわが国武士道の真髄でありまたわが国民性の世界に誇る所の日本魂の根元である。
 故にわが剣技は中正公明なる天地の大道である即ち時と所とを問はず老若男女あらゆる階級あらゆる職業の人々が各自に体得し修行して直に人生行路の指針たり原動力たる生きたる修行法であるといへる(筆者は土佐中学校教諭)

以上

 この文章も出典及びその時期は不明ですが土佐の資料に残されているかもしれません。今時この様な事を云ってみても何を言ってい居るのか気狂い扱いされそうです。
 世界の列強を相手に戦争へ突入していった身の程知らずが、意味をなさない精神論で追い込んで行ったに過ぎないものと思います。それでも快適な地位にある人の発言はしかとするものでしょう。戦争に至らない努力を疎かにして武力行使を国民皆兵で示そうとしたのでは、米国の無差別爆撃を受けても仕方がなかったと云えるかもしれません。
 異なる意見が有っても、つまはじきにされ家族にも害が及ぶと為れば身を犠牲にせざるを得なかったかも知れません。
 私の父も居合の恩師も「戦争を回避する手立てはありませんでしたか、個々の人は決して望まないものに従ったのは何故ですか」の問いに眼を伏せながら、「脳裏に妻や子を思い描いた」と云っていました。
 令和の元号の読み方を誤れば、「和する事を令する」とも読めてしまいます。百年近い頃の文章ですが、大和魂とか霊剣とか個々の人の心の中に潜むもので無理やり押し付けるものでは無いし、武術がまして居合が教育的に特段に優れている理由は、いかに美辞麗句を連ねて見ても見いだせないものです。
 土佐の居合の根元は「敵は只一打ちと打込まする様に振る舞い、一途に敵の柄に打込む也」であって「彼の怒りの色を知って怒りを抑えしむることであって戦に至らざらしめずして勝事、止むことを得ざる時は彼を殺さぬうちは我も死なずの道、彼が気を先に知って直ぐに応ずるの道「神妙剣」といいます。武術はコミュニケーションの最終手段であって、先に手を出したり、相手を威嚇する道具ではない。
 大和魂を如何にと問われれば、如何なる宗教も懐に温かく納め、また必要に応じて思いを巡らせる豊かな心かも知れません。それだけに、権威を嵩に権力を振るう者には、居場所が無くなることを恐れて、自分の思いとは違っても従ってしまう民族性が根強く残って居るのでしょう。

 武士道を掲げて、大和魂を強調していますが、大和心とは、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな」の心なのだと思います。それが猪突猛進の軍人精神になったのは昭和危機以後と歴史家奈良本辰也は見ています。
 また歴史家北島正元は「武士道の理論的な確立には山鹿素行の影響が尤も大きいとされる。素行によれば、武士たるの職分は農工商三民の上に立って、これを強化することにあるとし、そのため気質を正して寛大なる気風を養い、君恩の重きを思って是非を論ぜず忠に励み、仁義によって行動するなど、文武兼備の徳政を積まなければならないとした。明治以降もその気風は残り、スポーツ・労働などにおいてもしばしば「武士道」が強調され、また第二次世界大戦下には臣道実践論を生みだし、軍人だけでなく、全国民に滅私奉公の心構えが要求された。」
 教科書で出来事の年号ばかり記憶させられて来た日本史では読み解く事は大へん難しいものです、歴史には為政者の権力を維持ずる為の施策の裏にあった庶民の思いも綴られなければその国の歴史とは言えないでしょう。
 土佐の居合も同様です・・・ 思いつくままに

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2019年8月28日 (水)

曽田本その2を読み解く27スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値27の上

曽田本その2を読み解く
27、スクラップ居合術の実戦的価値と教育的価値
居合術教士 西川倍水
27の上

 現今最も広く普及されている武道は何といっても剣道、柔道、弓道である、これ等代表的わが国武道と居合術を比較する時はその修行者の数においても雲泥の差がある、しかしこれが戦場における実用価値は遥かにこれ等を凌駕していることは今次事変に参加し実戦の体験者の異口同音とはなる所である。
 即ち居合術は日頃精神を打ち込んで自己の魂としている日本刀(軍隊に在りては軍刀)そのものを以て敵を前後左右に仮想してその場の敵に対し、攻撃する敵に対し退却する敵に対し平坦地は勿論屋内、塹壕内、掩蓋内等狭地に在りてもなほ且つ抜く手も見せず行ふを特徴とする技あるから、その精神においても確に優越して居るといふことは事実である。
 その斬撃の方法においても最も切れ味のよいといはれる引き切りである。即ち刀の中央部を先づ切らすとするものに切り込み刀尖四五寸の所において最大限の威力を発揮する如く手の内を活動させるのである。
 吾人が刀の斬れ味を知るために行ふ試し切りは皆この引き切りでやるのを見ても、切るためには必ず居合流でなければならぬことが判る。
 今次事変において何十人斬等といふやうな赫々たる武道を現はして居る者もあるが、皆居合流の切り方である私も江南戦線に於て実際に之を体得したのであるが抜きつけた場合の刀の高低、刃の方向右臂の力の入れ方左臂の捻り、切り込んだ場合の姿勢、態度等、古人の教への尊いことは今更ながら感服して居る次第である、以上の如くであるから、軍隊においても剣道を演練すると共に、居合術に依って自己の軍刀の斬れ味を知り我が腕前を試し、手の内の作用を会得し、常に自信力をつけて置くといふ事は、腰に刀を佩ぶ帯刀本分者の特に必要なことである。
 将来科学が如何に進歩しても、機械が如何に発達しても、最後の決戦は矢張り活きた人間戦即ち肉弾戦でなければならぬことは今次支那事変が雄弁に物語って居る所である。
 扨て居合術を教育的に考へて見たなれば次の如き価値がある。
 第一に身体的陶冶価値がある。居合を行ふ間において諸器官が鍛錬せられる、即ち身体各部を均斉に発達せしめ四肢の動作を機敏にして全身の健康が増進する。
 第二には知的陶冶価値があることである。形式的には感覚を鋭敏にし直観を正確ならしめ、観念を豊富にし注意を錬磨し記憶、想像、思考、判断等を鍛錬する、また内容的には幾多の知識を習得する。
 第三には道徳的陶冶価値のあることである、即ち忍耐、持久、快活、勇気、規律、節制、勤勉、剛毅、服従等の諸徳が涵養せられる。
 第四には技術的、芸術的陶冶価値のあることである、即ち感情を純化して精緻ならしめ美意識を養ひ創作性等を盛んにし幾多の技能を養ふことが出来る(写真は武装せる西川氏)

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以下次号

 実戦的価値については他の武道もそれなりに称えることが有ろうかと思いますが、真剣をもって稽古する事で得られる斬るという感覚は養われるであろうと思います。但し実戦で役に立つには仮想敵をどの様に認識して運剣するかが大切なのでしょう。
 赤字の部分は、現代居合ではすっぽ抜けて、むしろ斬る部位に浅く当てて押し込んでいく様な指導をして居たりしています。
 業の動作の順番を追っているばかりだったり、形ばかり追うのであれば、独りよがりや、意味の乏しい形に捉われてしまい何十年やっても武術として進歩する事は無さそうです。ゆっくり大きくやっていれば老人体操としては身体的には有効でしょう。
 第二、第三、第四については居合が特出している事とは言えない、何事でも芸事を極める限りは望めるものでしょう。
 

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2019年8月27日 (火)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の5

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知江ノ口小学校 上田蔵刑
26の5

 更に身体上から考へましても偉大なる精神作用が瞬間に行はれるだけあって身体の各機能を鍛錬するため動作軽敏となり四肢、内臓共に強壮なるは明らかで他の運動競技に比較して確に強健なる身体を作るものだと確信するものであります。特に老若男女を問はず四季相通じてしかも寒暑の時期を好機とする点など鍛錬的体育法として最も価値あるものと思います。要するに剣道の目的は剣を通して心身を鍛錬し武士道的人格を養ふのであります。
 以上申し上げました様な剣道の修行は明かに国民教育に重大なる役割を持っているのであります。国民教育の中心は日本精神を養成するが主眼で日本精神の中核は武士道であり武士道は武士の精華であるのであります故に国民教育道場たる小学校に武道を課する必要があるのであります。
 今日わが帝国が世界の日本としてその品位実力を示す所以のものは即ち今日にして成りたるものでなく吾等の先祖が辛苦を嘗めて鍛へたる武道の精神が今日におよんで発現したものと見るべきであると考へます、もし然らば私達は更に将来の帝国を背負ってたつだけの第二の国民を剣道を通じて作ってやり指導してやることが吾々の義務であると思ふ。
 小学校武道が正科として具体化される様にしていると考へます、小学校において学んだ事柄は大人になっても決して忘れない、特に身心の最も発達する児童期に感受性の強いしかも白紙の児童にかかる指導精神を以て対するとき自ら日本人らしく剣を手にして思古するとき忠君愛国の至誠が湧然として湧き起り身心共に将来役立ち伸びる基礎を作ってやる事が小学校に於ける剣道教育の使命であると思ふのであります。
 今や事変は長期戦となり国家は総力を挙げて東亜永遠の平和の基礎確立のため一途邁進をつヾけています、吾等は銃後の完璧を期する覚悟を以て剣道教育に奮闘努力せなければならぬのであります。
 以上私の浅き経験内容から、貧しき愚見の一端を申し述べ、本県における小学校剣道の振興の上に資するところあれば幸甚の至りであります。

以上

 剣道が他の運動競技に比して最も優れている鍛錬的体育法だと云っていますが、他の運動競技の何を理解されていたのか、全く示されていません。要するに剣道を修業する事によって日本精神、所謂武士道精神を養成するのに相応しいと云うのでしょう。武士道精神の中核は人のために我が身を顧みない、君の為、君主のために死ねという事なのでしょう。
 その精神は身心の発達が出来ていない小学校児童に植え付けてしまえば忠君愛国の至誠が湧然と湧き起るものになる、と云っています。小学校教育に剣道を正科として取り入れ号令一過死地に突っ込んでいく捨て駒を養成しようと云う事に乗るべきであるとまくしたてているのでしょう。
 剣道でなくともその様な洗脳教育は出来るでしょう。昭和の初期の剣道は既に勝ち負け優先の早い強いばかりの剣道です。古流剣術の持つ運剣動作の中に組み込まれている精神は抜けてしまっています、指導者の一方的な押付による、パワハラが横行していたでしょう。古の譬え歌を引用しても、剣の心にはなれないものです。寧ろ団体競技の勝ち負けの方が、目的意識の強い遥かに有効な点取り虫を一括して養成できそうです。
 ある無双直伝英信流の一派の指導者が「名人上手、達人はいらない」と嘯いていました。その程度の指導者の元で何を学ぶのでしょう。現代居合の稽古風景にも、師匠が模範演武を行い、柏手を打って門弟がその業を演じています。号令一過如何にも統制の取れた稽古風景に見えるのですがそこには無駄な時間ばかりが流れて少しも達人への道は見えてこないものです。
 意味不明な熟語を羅列して、教養の乏しいものは圧倒されて、何か変だと思いながら従って死んでいったのでしょう。憲法を改正して集団自衛権をそして専守防衛を、米国におんぶにだっこの安全保障も事有れば米国の子供たちに死んでもらうわけにはいかないでしょう。日本精神と踏ん張って再び多くの一般国民を死に追いやるのでしょうか。小学生も10年もすれば立派な洗脳教育を受けた人柱になって死んでくれます。それでいいのでしょうか、このスクラップを読みながら怒りがこみあげて来るのは私だけでしょうか。
 人類皆この地球で生きている人々です、一人も不幸にしないための、世界中の子供たちを対象とした人類愛に満ちて尚且つこの我らの地球を末永く大切にして行く教育指導を望むばかりです。 この項を終ります。

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2019年8月26日 (月)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の4

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26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田蔵刑
26の4

 次に剣道の理想について申し上げたいと思ひます。人間が死に直面するとき程偉大な力を現し死より免れんとするものはありますまい。生死の分れるとき何人も全霊を傾注せざる者はないと思います。しかし生に執着を持ち死を逃れるときはやがてその結果は死を招くことゝなります生死を超越するところに生もなく死もなく自由無碍となるのであります一切の雑念を去って所謂醇午三昧の境地に入る即ち無念夢想の時に我知らず知らずの中に敵の隙に入り勝を得るにいたるのであります。敵を斃そう斬らうとするはこれを客気といひ敵に心を奪われ斬ることに心を奪はれ我が身に心を奪はるので剣道ではこれを止心といって最も悪い病とされているのであります。
 宇宙間の神羅万象これ、個々の差別の上にこそ相対するがその本体の上には萬法一如で渾然全一である。われを中心として彼を見るがゆえに愛憎好悪のこころが動いて寂然不動たることを得ないのであるが、われといふ考へを棄てゝしまへば主観の心は客観の象を共に相忘れて自他一如となって一点の曇りなき明鏡の物の来るに随ってその影をうつし去るに従って消ゆるが如く動くことが出来る。
 この心境を
 うつるとも月も思はず
      うつすとも水も思はず去沢の池
 といふ歌がありますが此の気持になるとき自然に敵に勝つのであります、何事によらずこの所まで達しますとそこには偉大なる精神力が発揮されます。
 彼の神上典膳が姜鬼を瓶諸共に一刀両断致しました話や屋島の合戦に那須与一宗高が扇の的を射落したなども皆この心境における精神力の現れでありませう。
 血なまぐさき戦場を馳駆し君のため身を捨て家を忘れたゞひたむきに突き進む勇壮果敢なる将兵の貴い忠勇行為もまたかかる境地において発揮されるものであります。私はここに剣道の価値の最大なる物を認めこれを剣道の理想と考へています。現在の剣道においてはかかる理想を求めて自己を反省しながら歩みつゞけ、全一無二の境地に入らんと努力精進の中に己といふ人格の統一が出来、そこに確乎不抜の精神と、腹のきまる人間が作られるばかりでなく気品とか沈着とか、礼儀とか、快活とかの社会人として諸徳が具はると思ふのであります。

 以下次号

 剣道の勝を得られるのは、「無念夢想の時に我知らず知らずの中に敵の隙に入り勝を得る」という教えの受け売りから、「血なまぐさき戦場馳駆し君のため身を捨て家を忘れたゞひたむきに突き進む勇壮果敢なる将兵」を求めるに当たり、それには剣道が最も相応しいものと決めつけています。但し小学生から教育するのが相応しい理由は見当たりません。
 「君のため身を捨てる」は君を生かすためには、一般人は身も家も捨てろと云うのですが、身も家も守るために身を土壇となす土佐の居合「無雙神傳英信流居合兵法」にはなりません。君とは、身も家もの象徴が君所謂天皇というのであればそれなりでしょうが、国家の存続のみに固執してしまえば、国民の平安な暮らしはどうでもよく、安易な専制君主であったり民族主義に洗脳教育が横行する原因ともなり安いものです。其の上特定の人間の利権のおもちゃにされてしまうものです。
 現代における剣道を学ぶ最も重要な心は、それがコミュニケーションの最終手段であり、己の信じた道を貫き通す為に、止むおえざる状況で発せられるべきものであって勝たなければ総てが無になるものなのです。そこで重要なのは「己の信じた道」なのですがこれが、権威によって思いもよらない権力を振るわれ、その手先によって歪曲されて更にねじ曲がってしまうのが問題なのでしょう。人類愛などをかざせば非国民であり反逆者の汚名迄着せられてしまう。何故、何の為に戦うのかの根本を置き去りに戦い勝つだけが表に出て多くの不幸を生み出してきたはずです。

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2019年8月25日 (日)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の3

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田蔵刑
26の3

 一般武道の振興につれて、学校武道が叫ばれ遂に44年中等学校の正科となり今年春小学校正科とするの議案も万場可決されたのは国家の将来から考えまして誠に慶賀に堪えません。これは時局の波に乗ったとは言えども武の本義に目覚めわが国民性に即し日本人的血潮が蘇ったためである。我々の血潮にひそむ大和魂が剣を振りしめることによって外に現はれるのだといふことに気付いたためであらう。先程申し上げた様に文を尊び武を卑しむことは国家起隆の敵であります。世界の亡国の歴史を見ても文尊武卑は附きものであります。今回の事変は往年の軍縮華府会議の結果わが国の不利な軍備と国民の尚武気風の喪失によりやれダンスだレヴューだのと流行を追ふ傾向を来し大なるものに附く支那精神が排日侮日となって現れたものであるとも言われています。しかし皇軍の士気は支那の予想を裏切って益々振ひ国民精神は断然光輝を放ったのであります。
 要するに日本精神と武士道とは楯の両面の如く武士道と剣道とは車の両輪の如くで相寄って助長発達したものであります。

以下次回

* 
 小学校の生徒に剣道を正科として指導すべき事が少しも伝って来ないのは何故でしょう。「武の本義に目覚めたわが国民性に即し日本人的血潮が蘇ったため」と云います。日本国民はそんな民族なのでしょうか。それは剣道の効能が少しも語られていないからかもしれません。剣道を本当に理解して述べていない為かもしれません。
 もう一つ決めつけている「文を尊び武を卑しむことは国家起隆の敵」とか「世界の亡国の歴史を見ても文尊武卑は附きもの」といいます。その根拠が述べられていません。
「日本精神と武士道」と叫んでいるのですが、日本精神とは武士道とは何れも漢字を並べた熟語が居座るばかりで、私の心に響いてきません。何故でしょう。単なる政界や軍部の手先の様なマスコミの扇動にのって踊っている様に思えるのは何故でしょう。私が平和ボケしているのでしょうか。
 こうやってどんどん洗脳され意味も解らず、否定的な事を云えば非国民とされ居場所が無くなるのを恐れて戦争への深入りをして行った戦前の様子がうかがえて此の人の戦後はどうしていたのか気になります。
 

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2019年8月24日 (土)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の2

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校 上田歳刑
26の2

 明治天皇の御製に
 弓矢もて神のをさしめ我が国に
        うまれしをのこ心ゆるふれ
と仰せられてある様に我国は武を以て起ち武を以て成れる国であります顧みますれば我国は神代以来細矛千足国と称えへられていた程で天皇御みずから軍隊を率い給う御制度であった時代、如何にわが国の武威が盛んであったかヾうかがわれます。即ち神武天皇御東征より日本武尊の東方経略から神功皇后の三韓征伐等の事跡がそれであります。
 その後仏教、儒教の渡来によりまして形式的には武道を堕落せしめたがその本質的には非常な発展をしました。即ち奈良時代がそれであります。更に大化の新政時代におきましては大陸文明の輸入に汲々としてその結果その運用をあやまったためかこれまでの国民皆兵の制度に破綻を生じ兵農の二つに分れて遂に武士と云う階級が生れたのであります。
 続いて平安時代におきましては唐制を採用しわが文化の上に躍進せるも全く一面この文を尊び武を卑しむの風を生じ、質実剛健の気風に朝野共に失せて余弊は政令行はれず遂に地方大いに乱れました。此時に当りて討伐に功を奏した源平が盛大を致し遂に平氏亡びてより王権御喪失となり兵馬の大権を鎌倉幕府に御委任なさらなければならぬ様になりました、爾来7百年の長い間権門幾多立変るといへども政権は殆ど武家の棟梁の掌握する所となたのであります。従ってこの封建時代においては忠義といふのは家臣の主君に対する最高至大の道徳となったのでこの道徳を実践する方便として武道を修業して精神の技を錬ったのであります。
 ゆえに戦乱相つぐ足利末期から徳川初代においては最も剣道の隆盛を来し斯道の名人が現れましたかかる間にわが国民の中に武士が融け入ったのであります。 
 しかるに明治維新となり武士階級は無くなり四民平等、帯刀の必要もなくなり明治3年に廃刀令が布かれ軍人警察官以外庶民の帯刀を禁ぜられてよりそこで剣道は全く往時の遺物となり僅かにその影を止めていましたところ10年西南の役に警視庁の抜刀体がその功を奏してより漸次その価値を現し日清日露の両戦後を経ていよいよこれが真価を認められ明治28年には大日本武徳会本部が創設され地方に支部を設けて一般武道の振興をはかられたのであります。

 以下次号
*
 此処までのところは、かって我が国の天皇自らが軍隊を率いたが、武士階級が生まれ王権喪失して武士階級に政権を委ねて来た。明治維新となって四民平等になって廃刀令が布かれ、剣道は不要となった、然し西南戦争、日清日露の戦争で剣道の有効性が見直されたということでしょう。
 此処で明治維新以後の年表を作っておきます。
 1868年明治元年  戊辰戦争年 江戸城を皇居とする
   1869年明治2年  版籍奉還 上士以下の禄を廃止 
 1870年明治3年  兵制を海軍は英式 陸軍を仏式と定める 
 1871年明治4年  寺社領没収 戸籍法制定
 1872年明治5年  学制公布 福沢諭吉学問のすヽめ
 1873年明治6年  徴兵令を定める
 1874年明治7年  北海道に屯田兵制度
 1875年明治8年  学齢を6歳から14歳と定める
 1876年明治9年  廃刀令 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱
 1877年明治10年 西南戦争
   1882年明治15年 軍人勅諭発布
   1889年明治22年 大日本帝国憲法公布
 1894年明治27年 日清戦争
 1895年明治28年 大日本武徳会設立
 1904年明治37年 日露戦争 
   1905年明治38年 旅順のロシア軍降伏


 

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2019年8月23日 (金)

曽田本その2を読み解く26スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命26の1

曽田本その2を読み解く
26、スクラップ小学校に於ける剣道教育の動向と其使命
高知市江ノ口小学校上田蔵刑
26の1時局

 時局は我国教育内容の一大革新を促進せんとしています、しかして小学校に剣道を課することもその中において相当だいなる改新の道であります。時代の要求は茲に真日本人を作ることであらねばならぬ。真日本人とは世界の中で生きる日本人である。如何なる困苦に遭遇するとも、天壌と共に窮りなき皇運を翼賛し奉るところの真日本人的精神を持ち更に不倒の身体を持つ日本人なのである。
 剣道は斯る心身を鍛錬するうえに最も価値ありとする思潮が起り今や時局の波に並行して長足の発展を遂げ、遂に小学校における剣道教育が具現せんとしているのであります。聞く所によれば文部省においてはこの4月より準正科として武道の中、まづ剣道を課し五年以上の男子に木剣による基本剣道を戸外において実施するといふ。素手に中央は勿論遠く、台湾、北海道においても、正科同前に実施せる都市は枚挙に暇ない。若しこの4月より実施の公布を見ないにしてもたゞそれは時期の問題であって余り遠くはない、この機運に向かったのは、一に全国的に小学校が自発的に実施したる結果である。
 しかるにわが土佐の現状をながめたとき、余りにも不振であるのに驚き遺憾に堪えぬ者であります。一般剣道は勿論であるが、小学校剣道の不振は将に全国第一でないかと思ふ。

 何がそうさせたか、その原因を探ねると指を屈する程あるが、それについてはここに適確に申し述べることを避けたい。たゞ土佐人には適しないから不振になったのだといふことは絶対にない、土佐人の尚武的の気象は全国に響いている。維新の大業の底を流れる力は我等の先輩がやったのではないか。吾々の精神には土佐人の血が流れているはずだ。要はその人を得ないからである。指導者が少い上に一般の理解がないといふのはではないが、まだその域に達していないといふことゝ、為政者の奨励に乏しいため三拍子揃って不振を極めたものであると考へるは全然誤れる見方ではないと思ふ。
 しかるに時代の流は、こばむことは出来ない。本県においても今正に澎湃として湧き起って来たのである。
 私はこの機会に本県小学校剣道が発達普及せねば、もう駄目だと思ふ。先ず目醒めよ、小学校においてその実際に従事するものよ。
 以下小学校剣道教育の使命を述べるに先立ち武道と国力の消長、剣道とニッポン精神等について順次申し述べたいと思います。

 小学校に剣道を正科にしようという事ですが、現代でも平成になって剣道などの武道を教育に取り入れて行く動きが行われています。日本の伝統文化の継承を表にしていますが、何が本来の目的なのかよくわかりません。
 武道でなくとも身心を鍛えるとか、集団意識を持つとか幾らでも方法はあるものです。武道の傾向は縦社会を作り上位者によるパワハラを助長する悪習が蔓延しています。日本の官僚もその中にあるもので上意下達ばかりがはびこっても戦前に戻ってしまいます。
 この土佐での小学校への剣道教育導入の仕組みが遅れた事への嘆きを江ノ口校長は述べています。何故取り入れなければならないのかは時局であるとの二文字です。もう少し読み進んでみましょう。

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2019年8月22日 (木)

曽田本その2を読み解く25谷村亀之丞自雄から小藤亀江への免許皆伝その2

曽田本その2を読み解く
25、谷村亀之丞自由から小藤亀江への免許皆伝
その2無雙直傳英信流居合目録

大森流居合之事 11本)赤字は古伝神傳流秘書による

無雙直伝英信流居合目録
1、向身
 横雲(横雲
 虎一足(虎一足
 稲妻(稲妻
2、右身
 浮雲(浮雲
 山下し(山下風
3、左身
 岩浪(岩浪
 鱗返(鱗返
4、後身
 浪返(波返
 瀧落(瀧落
   (抜打

四方切 向・右・左後

太刀打之位
1出合(出合) 1附込(附入) 1請流(請流) 1請込(請入) 1月影(月影) 1絶妙剱(水月刀
1水月刀(独妙剱) 1独妙剱(絶妙剱) 1心明剱(心妙剱

詰合之位
1八相(發早) 1拳取(拳取) 1岩浪(岩浪) 1八重垣(八重垣) 1鱗形(鱗形) 1位弛(位弛
1燕返(燕返) 1眼関落(柄砕) 1水月刀(水月) 1霞剱1(霞剱

大小詰
1抱詰(抱詰) 1骨防(骨防扱) 1柄留(柄留) 1小手留(小手留) 1胸捕(胸留) 1右伏(右伏
1左伏(左伏) 1山影詰(山影詰

大小立詰
1〆捕(袖摺返) 1袖摺返(骨防返) 1鍔打返(鍔打返) 1骨防返(〆捕) 1蜻蜒返(蜻蛉返
1乱曲(乱曲)1(電光石火

大剣取 10本
抜刀心持之事 居業7本 立業17本
坂橋流之棒 13本
夏原流和之事 6種目65本

英信流居合目録秘訣
 (外之物ノ大事 6種
上意之大事 15種
極意ノ大事 10種
居合心持肝要之大事 9種

外之物之大事
1行連 1連達 1遂懸切 1惣捲 1雷電 1霞

上意之大事
 1虎走 1両詰 1三角 1四角 1門入 1戸詰 1戸脇 
1壁添 1棚下 1鐺返 1行違 1手之内 1輪之内
1十文字 

極意之大事
1暇乞 1獅子洞入 1地獄捜 1野中幕 1逢意時雨
1火村風 1鉄石 1遠方近所 1外之剱 1釣瓶返
1智羅離風車

居合心持肝要之大事
1捕手和合居合心持の大事
1立合心之大事
1太刀目附事
1野中之幕之大事
1夜之太刀之大事
1閨之大事
1潜り之大事 戸脇之大事
1獅子之洞出之事
1獅子之洞入之事

右九ヶ條は深く之を秘す極意也真実の人に非ずは努々相伝べき者に有ざるべきなり
無雙直伝英信流居合に就き多年御熱心に太刀次悉く相伝せしむ 向後お嗜み専要に候 若し御所望の仁、之有るに於ては兼ねて其の人の四討文を取り御指南尤許免の状よっで件の如し

明治34年(1901年)6月15日 
谷村樵夫自庸
小藤亀江殿

 小藤亀江の伝授された免許皆伝目録は大方神傳流秘書の業が含まれていると云いたい処ですが、大森流居合之事、坂橋流之棒、夏原流和之事、大剣取がすっぽり抜けています。英信流居合の奥に就いては業手附の形を取らず英信流目録秘訣の業解説を以て伝授した事とされています。従って奥居合を稽古出来ていたかは疑問です。下村派の伝書は神傳流秘書のまま引き継がれたと思いますので、奥居合は抜刀心持之事に従って稽古された可能性はあります。いずれにしても江戸末期から明治では居合抜ばかりが優先的に稽古されて付随する種目が疎かになったと思われます。それでは大江先生は下村派の下村茂市の門下であったろうから神傳流秘書の奥居合は知っていたはず、と思いたいのですがまず指導されなかった、書き付けられた手附は無かったと思えます。明治維新が15歳、武士としての常職を失ったのは明治5年20歳です。下村茂市は明治10年には没しています。谷村派の奥居合はこの小藤亀江の目録からも系統だった業手附は無く心得が先行していると思えます。

 
  
  

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曽田本その2を読み解く25谷村亀之丞自庸から小藤亀江への免許皆伝その1

曽田本のの2を読み解く
25、谷村亀之丞自庸(谷村樵夫自庸)から小藤亀江への免許皆伝
その1根元之巻

曽田本その1より 原本は「昭和20年7月4日午前2時高知市爆撃の際家財道具一切と共に焼失ス」
居合根元之巻(読み下し文としておきます)
 抑此居合と申すは日本奥州林の大明神の夢想により之を伝え奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違い有と雖も、他流大人小人無力剛力嫌わずに兵の用に合う云々。
 末代相応の太刀に為ると云う、手近の勝負一命の有無此の居合に極まる、恐らくは栗地辺土の堺に於て不審の義之有るべからず。唯霊夢に依る處也、此の始めを訪ぬ奥州林崎神助重信と云う者に因り兵術之有るを望み、林の明神に一百有日参篭せしむ、其の満暁夢中に老翁重信に伝えて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たるは怨敵に勝を得る云々。
 則ち霊夢に有る如く腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝つ事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意一国一人の相伝也。
 腰刀三尺三寸三毒則ち三部に但し脇指九寸五分九曜五古之内訟也、敵味方に成る事是前生の業感也、生死一体戦場浄土也、是の如く則ち現世を観るは、大聖摩利支尊天の加護を蒙る。末世に成仏成るは縁の事豈疑い有らんや。
 此の居合千金を摘むと雖も、不真実の人には堅く之を授くべからず、天罰を恐るべし唯一人に之を伝え授く云々。
 古語に曰く
 その疾く進むは、其の速く退く云々、この意貴賤尊卑を以て謂れずして前後の輩を隔て無く、其の所作に達する者に目録允可相違なく許す。
 又古語に曰く
 夫れ百錬の構え在り則ち茅茨荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜自ずと之を思い、神明仏陀を祈り忽ち利方を得、是に依って心済み身事燦然

天真正
林神明
林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
萬野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六太夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林彌太夫政敬
谷村亀之丞自雄
楠目繁次成栄
谷村樵夫自庸
小藤亀江(明治34年6月15日授与)
曽田虎彦(明治38年6月吉日 従実兄亀江伝来)

以下 無雙直傳英信流居合目録 次号

 根元之巻は内容はこんな程度のものですが、林明神に依る霊夢に依って伝授された居合で、その極意は柄口六寸に勝つこと。真実の人にのみ伝授を許すものであることを述べています。
この伝書は谷村派の宗家筋ではない傍系と思われますが、根元之巻を授与されているのでその流派の宗家と見なされるかもしれません。第11代大黒元右衛門清勝より複数に伝授された形跡があり、道統があやふやになってしまったと云えるでしょう。第15代谷村亀之丞自由の時にも第16代五藤孫兵衛正亮と楠目繁次成栄に伝授されていますので更に輪をかいたことになります。併し明治時代にこれ等の道統は絶え或は入り組み大江正路先生が新たに統一した事に成る様に見えるのですが、大江先生は八名程に根元之巻及び目録伝授があります。
 従って土佐の居合の正統正流は「我こそは」が多数発生しています。併しその居合は大江居合に過ぎず所作の末節の違い程度のもので、古伝に戻る事も、より優れたものに進化する事も無く今あると思います。
 大江居合の業呼称をもって、その動作の順番通の形に学んでいるにすぎません。夫々何々連盟とか何々派と称していますがそれだけの意味があるのか疑問です。人それぞれの武術哲学も体つきも違うのですからそれはそれで些細な想定による運剣動作に過ぎません。指導者の真似事で終始している現状は如何なものか疑問です。
 次回はこの小藤亀江の伝書による目録によって大江居合との対比、古伝神傳流秘書との対比を観て行きたいと思います。この項は曽田本その2による曽田先生のメモから発したものとなります。 

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2019年8月21日 (水)

曽田本その2を読み解く25山川久蔵先生の伝へられたる神傳流秘書の中より抜粋

曽田本その2を読み解く
25、山川久蔵先生の伝へられたる神傳流秘書の中より抜粋

◎大森流
 1、初発刀
 2、左刀
 3、右刀
 4、當刀
 5、陽進陰退
 6、流刀
 7、順刀
 8、逆刀
 9、勢中刀
10、虎乱刀
11、抜打
◎長谷川流
奥居合(格を放れて早く抜く)
坐業(括弧内は参考)
 1、向払(霞)
 2、柄留(脛囲)
 3、向詰(腹に取り向を突く)
 4、両詰(イ、戸脇、ロ、戸詰)
 5、三角
 6、四角(四方切)
 7、棚下
 8、虎走
 9、抜打(暇乞)上、中、下
記、山川久蔵先生の伝へられたる伝書は何處より授かりし者なるや、林益之丞政誠先生の門を出たるに如何なる所存に変れるにや一向伝書に不▢林氏の伝書とは違いたる由噂あり
立業
 1、人中(ひとなか)
 2、行連(イ、連達、ロ、行連)▢業
 3、連達(イ、行違、ロ、▢▢行違)
 4、行違(袖摺返)
 5、夜之太刀(暗打)
 6、追懸切(イ、立業の両詰、ロ、▢▢追懸)
 7、五方切(惣捲)
 8、放打(惣留)
 9、門入
10、袖摺返?奥の列に抜打 弛抜(はずしぬき)

 古伝神傳流秘書と大江居合を業名で対比して見たのか、何を目的に羅列したのか疑問ですが、曽田本その2のスクラップの途中に曽田先生直筆のこの部分が綴られています。
 山川久蔵幸雅の伝書と林益之丞政誠との伝書の内容が違うと云っています。
 第11代大黒元右衛門清勝は根元之巻及び目録を松吉貞助久盛と林益之丞政誠の二人に伝授されています。
 松吉貞助から山川久蔵は伝授され次に下村茂市に伝授、その次は細川義昌であろうと思います。細川義昌と同門の行宗貞義と大江正路は伝書を受けていないかもしれません。
 一方の林益之丞から依田万蔵敬勝ー林彌太夫政敬ー谷村亀之丞自雄から五藤孫兵衛正亮ー森本兎久身ーと楠目繁次成英ー谷村亀之丞自庸ー土居亀江のようです。
 細川家から出た伝書は木村栄寿本が示す様に神傳流秘書そのものです。併し谷村亀之丞自庸から土居亀江が受けた伝書はその目録は神傳流秘書簡略版となってフル装備とは言えません。
 五藤正亮先生、大江正路先生の受けた伝書でも発見できればこの辺の違いがもう少し明らかになると思いますが150年の時の流れと高知大空襲による焼失によるものは・・さて、証明できる資料は無さそうです。いずれにしても現在の無双直伝英信流は林六太夫守政が土佐に持ち込んできた神傳流秘書とは業名および奥居合の業名と業の混乱は、経年による変化とは言い難いものです。

 参考に、もう一度林益之丞系統の谷村亀之丞自庸ー土居亀江への免許皆伝を読み直してみます。

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2019年8月20日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流居合術24の8河野稔の2

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流居合術
24の8大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔の2

16、納刀のとき刀先を鯉口につける場合、右手拳をクルット揺らぬ様注意の事、而して最終(其動作の最終)にも殊更に形の上にクギリをつけぬ事。
17、奥居合の納刀の場合、初め刀先を納めたる時、右手拳が鯉口の位置より高き時は一旦右拳をジワット下げて後スット納める事。
18、総ての業を大きくゆっくりと行ふ事肝要なり(但し鍛錬を重ね間をつめる事)。
19、早抜きの納刀は鎺元迄一気に納める事。
20、着眼は動作中は仮想敵に成す事。
21、総ての業に於て真向打下しの手元は高過ぎて左手首の伸切らぬ様注意をする事。
22、立膝、居業の納刀の際に於て前足の引き付けは十分腰に気力を注ぎ前足に体重をかける気味合にて退きつける事。
23、抜打、真向、暇乞の場合は刀を抜き取り頭上に振冠り、上体を起すと同時に爪先に力を入れ踵を十分に後方に退き(膝を後方に退く)て真向打下しの場合上体を前方に乗り出すに備ゆる事。
24、用語、抜きつけ(斬り付け)打ち下ろし(斬り下し)。血振るひ。
25、総て抜きつけの場合は上体は少しも前に俯向けぬ事。
26、抜きつけの時前に踏み出す足と、跪きたる膝頭とは、あまり広く間隔を置かぬ事、即ち前に踏み出したる脚の内方角度は約90度を越えざるを度とし、後脚の膝頭は上体の直線より幾分後方にあるべき事(前足先と後足膝頭との中間に体の重心を置く)。
27、介錯の構へたる刀刃は真上より幾分後方に斜に向く事。
28、正座納刀の場合後方に退く足は十分腰に気力を注ぎて角張るらずスーット退く事而して膝を床に付ける迄は体を上下に少しも揺り動かす事なく極めて静かなるを要す。
29、附込の斬り込みは十分大きく振り冠りて打下す事(但し二度目の斬込みにて仕留むる形なるを以て一回目は幾分浅く二回目は深く斬り込む事。)
30、附込の納刀血振りの場合は腰を十分前に入れる事。
31、立膝(早抜きも同じ)各業の終った時の体の位置は最初座したる位置とあまり変らぬ様注意する事。
 
  以上


 八重垣会の講習会で穂岐山先生に河野先生が注意されたことを書き留めたものとされていますが、自分だけでなく参加者の動作によるものなのでしょう。
 河野先生に依る昭和13年1938年発行の無雙直傳英信流居合道の第八節「居合初心者心得」の内容と略合致します。という事は、河野先生はここに書かれている様に稽古しなさいと云ってるわけですが、さて現行の動作とどの様に関連付けできるのか個々に当たって見たいと思いますが、曽田本その2を全巻読み解いた上での宿題にしておきましょう。
 

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2019年8月19日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流居合術24の8河野稔の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流居合術
24の8大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔の1

 左記は大日本武徳会大阪支部に於ける講習会に際し、私の悪癖に対してご注意賜りたるを(恩師最後の講習会たる昭和9年8月第6回講習会迄の各年度の分)私自信の参考として夫れに書き留め置きしものに付ご了承を乞ふ。
1、納刀の時鯉口に刀尖の納まった時右拳高きに失す、此場合右拳は鯉口の位置より低き事を要す。(? 曽田メモ
2、附込、岩浪、介錯の場合始め刀を抜き出す右手拳は鯉口と同じ高さより下らぬ事、更に此の場合上体が前に屈まぬ様注意する事。
3、立膝の納刀を終りたる時の体勢は正面向之事。
4、颪の柄當は十分に左腕を延ばす事。
5、浮雲の打下しは左膝の外方になし左脚に並行なる事。
6、鱗返、浪返は、両足先は殆ど其のままの位置にて抜きかけつつ廻り、刀先を抜はなちて一文字に斬り付けると同時に左足を後方に退くこと。
7、総て抜き付けの際は鯉口と刀先の縁の切れざる様注意最も肝要なり。
8、横一文字に抜きつけたる位置より刀を雙手上段に振冠る場合、右手拳は左肩前にとる事なく抜きつけたる右拳の位置より直に頭上にとること即ち先づ左肩前にとり然る後頭上にとるは不可、此場合刀尖は肩高きより左に廻すこと。
9、霞の甲手を返して前進する場合は腰を少しも屈めず十分腹を出す事。
10、総ての右一文字抜きつけ並に正座血振い(前に足を踏み揃へたる時)の場合上体は少しも前に屈めぬ事。
11、四方切りの場合左右に刀を返して雙手上段になるときの刀は十分大きくなし敵刀を受け摺り上る気持なる事。
12、棚下の場合、顔面は正面に向けたるまゝ上体を低く十分に前に深く入込みて抜く事。
13、介錯、附込、岩浪の場合刀を前に抜き出す時は顔は俯かず正面に向けること。
14、両詰は十分に大きく深く刀を前方に突き込む事。
15、虎走の前方に進みての納刀及び惣留の追進む時の納刀は鎺まで一気に入れる事 

 以下次号

*
 河野先生、謙虚ですね自分の居合之悪癖と仰いますが、自分の現状は中々わからないので師匠か何方かに注意をしてもらわないと直らないものです。其の上段位が上がって誰も何も言ってくれなくなれば、自分の体が欲する動作に勝手に戻ってしまうものです。ですから私は写真や動画による悪癖は如何なる名人上手にも見られるもので、それから動作を見る事の多い現代の修行者は指導者の悪癖を学んでしまうと考えます。この様なたった一行足らずの文章から本物を学ぶ姿勢も大切と思います。そして何故そうするのか自分でとことん考え師と仰ぐ方がおれば聞いてみるべきです。
 答えられずに、「そう習った」とか「決まり事」などと云うのでは困ったものです。此処の項目は無雙直伝英信流居合兵法正統会では現在でも注意項目ですね。
 河野先生が第18代穂岐山先生に師事されたのは昭和2年1927年です、この項の留め書きは昭和9年1934年迄の間の6回との事です。大日本居合道図譜の「日本最初居合術の会団 八重垣会の思ひ出」によりますと、昭和2年8月に初めて第18代穂岐山先生を大阪武徳会支部に招待して教えを仰ぐとされています。
 八重垣会は昭和6年1931年、会団創立の機運が高まって「居合術八重垣会」と決まったそうです。その後「大日本居合道八重垣会」と改名しています。
 穂岐山先生は昭和10年1935年2月1日に逝去されていますからその前年までの「留め書き」となります。

 赤字及び下線はミツヒラの疑問と思える箇所ですが、無双直伝英信流の各派、夢想神傳流とも。動作を対比してあるべき状況を研究して見たい処です。此処では疑問の指摘のみとしておきます。

 

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2019年8月18日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ無雙直傳英信流之形に就いて24の7河野稔

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ無雙直傳英信流之形に就いて(其13)
24の7大阪居合術八重垣会
剣道錬士河野稔

 當流には左に掲ぐる形7種(66本)を承伝され居るも其詳細説明は後日の機会に是を述べん
1、太刀打ノ位
 1、出合 2、拳取(附込)3、請流 4、絶妙剣(請込) 5、鍔留(月影)
 6、水月刀 7、絶妙剣(當身ヲ行フ)8、独妙剣 9、心明剣 10、打込

2、詰合ノ位
 1、八相(口伝に發早トアリ) 2、拳取 3、岩浪 4、八重垣 5、鱗形
 6、位弛 7、燕返 8、眼関落 9、水月刀 10、霞剣 11、打込(留ノ打也)

3、大小詰
 1、抱詰 2、骨亡 3、柄留 4、小手留 5、胸捕 
 6、右伏 7、左伏 8、山影詰

4、大小立詰
 1、〆捕 2、袖摺返 3、鍔打返 4、骨防返 5、蜻蜒返 6、乱曲

5、外ノ物ノ大事(奥居合ノ事)
 1、行連 2、連達 3、遂懸切 4、惣捲 5、雷電 6、霞

6、上意ノ大事(奥居合ノ事)
 1、虎走 2、両詰 3、三角 4、四角 5、門入 6、戸詰 7、戸脇 
 (8、壁添 抜け)9、棚下 10、鐺返 11、行違 12、手ノ内
 13、輪ノ内 14、十文字

7、極意ノ大事
 1、暇乞 2、獅子洞入 3、地獄捜 4、野中ノ幕 5、逢意時雨
 6、火村風 7、鉄石 8、遠方近所 9、外之剱 10、釣瓶返シ
 11、智羅離風車  以上


 無雙直傳英信流之形に就てと題して、ここでは形の区分と業名の羅列です。「後日の機会に是を述べん」と云っていますから後日に解説があるのでしょう。
 ここに掲載された業名形7種(66本)ですが、河野先生はこの時(曽田先生と交流して資料をもらった戦前の事と思います)まだ古伝神傳流秘書の存在を知らなかったかも知れません。
 この業名の目録の出典はどうやら曽田本その1にある「谷村樵夫自庸先生相伝 免許皆伝目録 従実兄小藤亀江(後に復帰して土居姓)傳来」のもので「明治34年(1901年)6月15日 谷村樵夫自庸 小藤亀江殿」という目録があります。そこには「居合根元之巻」に続き「無雙直傳英信流居合目録」が附随しています。
 目録の書き出しには現在の立膝の部に相当する業名が書かれ、その後に太刀打之位から始まり極意ノ大事が掲載され、その後に「居合心持肝要之大事」9項目書き込まれ、奥書となって居ます。
 残念ながら、この小藤亀江に谷村樵夫自庸からの根元之巻及び目録は「本目録は昭和20年7月4日偽善2時高知市爆撃の際家財一切と共に焼失す」と前書きされています。

 此の目録を授与した谷村亀樵夫自庸は、谷村派の第15代谷村亀之丞自由ー楠目繁次成栄ー谷村樵夫自庸ー小藤亀江の系統になります。
 現在無雙直傳英信流居合の系譜として知られるのは、第15代谷村亀之丞自由ー第16代五藤孫兵衛正亮ー(第17代大江正路子敬)が正統正流であるならば傍系と云う事になるでしょう。

 いずれにしても、江戸期の谷村派の伝書はこの根元之巻と目録に依るのでしょう。此処には大剣取も坂橋流之棒も夏原流和もありません。大森流も無いと云う事になります。
 谷村派には林六太夫が江戸から土佐に持ち込んだ無雙神傳英信流居合兵法はどの時期かに省略された残りの業だけが伝わって来たと云えるかもしれません。それでは下村派は如何にと云う事になるのですが山川久蔵幸雅が書き写した神傳流秘書が引き継がれた細川義昌先生の家に残るのだろうと思います。但し業技法の経年変化は細川先生から香川の植田平太郎先生から広島に伝わった梅本三男先生の業手附に現れています。

              

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2019年8月17日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人林六太夫先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹先生の4

 又或る時八軒町に火災アリ火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛小隅を取って投出し泉水一つ越して向ふの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであらふかと皆の人は驚嘆したといふ。
 又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此處には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であらふ庖丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水中に下してすすぐこと実に妙見る人の目を駭した(おどろかした)、先生は傍の船にて之を見舷側に倚掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず彼の料理する人も己の業を恥ぢてやめたといふ。昔の御料理方は逆も手が利いていたさうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたといふが仲々出来る業ではない。又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷り落ち易いものである、それを箸で挟み水中で数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであらふ。
 又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(や)まなかったといふ一例に次の記録がある。偖又(さてまた)在江戸而諸国の士集合之時奥人某鉛子除之法を知ると称し一時数人鳥銃の口を揃へて対ひし事ありしに我此の法を行而放事不能終とて自負したるを満坐妄言なりと思惟大笑其人怒気甚敷公等予之言不信笑事不安今其術可見とて火縄に移火座中の人々に持たせ一々消而通りしに人眼不遮一時滅火人々初て驚失笑罪謝六太夫深感其術学欲後日其宅訪ふて懇乞需しかと先に笑はれしことを以て許容せざりしかは大に侮いて假令妄言なるも白笑フ事勿益無事也とて此事を證として子孫を戒めたりと云ふ。
 天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの16を得ていられたのである。ー(終)ー

 林六太夫の逸話の意味は何なのかスクラップを写し乍ら何も際立ったものを持たないので、火事場の働きにしても、磁器を箸で挟んで洗われても是と云って、へそ曲がりの私は感動する事もありません。いざという時に力を発揮し、些細な事でも見過ごさず熱心に稽古して磨き上げれば器用さはより秀でる事はあり得るものでしょう。
 偖又(さてまた)で始まる逸話は読みずらい漢文調ですが、要はたとえ妄言であっても軽々しく人を笑いものにするような無益な事をしない様に子孫を戒めたと云うのでしょう。
 

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2019年8月16日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹
・ 
 先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め書は佐々木文山に就いて之を能くする等和術砲術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸16を得ていたといふから大したものである。
 而して先生は宝永3年(1707年)12月22日御料理頭より第扈扈従役に進められ礼節方を兼ねられ正徳3年(1714年)8月病の為め拝辞し同月24日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘御馬廻りとなり山内第8代豊敷公の時享保17年(1733年)7月17日71才で八軒町の邸に病没せられたが其間第4代藩主豊昌公、第5代豊房公、第6代豊隆公と3代の藩主に仕へ貞享3年(1687年)6月君主より故実の御下問あった時詳細記述して之を奉り殊の外の御褒辞と共に白銀若干を賜ふた外元禄20年(1708年)12月12日禄20石を加増され更に同16年(1704年)9月4日故実礼節究極の功労旁々又も50石を加増されて旧禄に合し150石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
 斯くの如く3代の君主に仕へて寵衰へず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたといふことは容易の事ではない之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺はれる。
 先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養ふやうな事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流田宮流等の居合が有ったにも拘わらず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷い(やかましい)ものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一人熱心に練磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。
 当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡先生が嗣がれて後林氏が二人迄嗣がれている、六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其ニ三をご紹介して筆を擱くことにする。
 先生は前述の如く幼にして家を嗣がれたそして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為15歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁ふと言ったを甚だ尤至極と考へ江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習ひ始めた文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖いろはより始めるは小一人なりと呆れたが其年より在府3年間精力を盡し遂に能書となり藩邸中弟子の礼を執る者が多かったといふ。

 中西岩樹先生の林六太夫の解説で、「剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め」と有るのですが、第8代荒井勢哲の二代目は荒井勢理だそうです。この荒井勢理とはどの様な人物なのか、どの様な文献もしくは説話から出されたものなのか、私は知りません。中西岩樹先生が昭和8年1933年土佐史談会発行の冊子に無雙直傳英信流居合に就いてと云う論文を書かれています、其処に「南路志は、守政の養子10代林安太夫の物語りとして、守政の居合剣術は荒井二代の勢哲より直伝なりと記し・・。」とあります。荒井勢哲の後は荒井勢理なのかは見えません。南路志の原書に因って確認して見る方法も有ろうかと思いますが、南路志自体も信頼できるものかは疑わしいものでしょう。土佐のお国自慢の裏附けの一つぐらいで良いのでしょう。

 林六太夫守政は平尾道夫氏の土佐武道史話では享保17年(1732年)7月7日70歳で没したとされています。土佐史談では7月17日なので土佐武道史話が誤植かも知れませんが亡くなった月はともかく日にちはどうでもいいでしょう。

 平尾先生の土佐武道史話では山内5代に仕えたとされています「豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷」ですが中西岩樹先生は「第4代藩主豊昌・第5代豊房・第6代豊隆公三代の藩主に仕へ」とされています。第7代豊常の時には隠居し第8代豊敷の時に亡くなったと解釈するのかも知れません。

 水野流、田宮流居合が土佐ではすでにあった所に林六太夫の居合が広まった様に書かれていますが、之も英信流を引き立てるだけの挿入かも知れません。江戸に参勤交代のお供で出れば江戸の剣術道場は幾つもあったのでしょうから特に藩として取り上げなければ個人の自由だったかもしれません。
  

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2019年8月15日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の2

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政
24の6居合術教士県道錬士中西岩樹の2

 先づ林六太夫守政先生までの直系を掲げてみると次の通りである。池田豊後・助五郎政弘・助五郎政勝・権吉郎政久・市兵衛政友・五左衛門政良・六太夫守政
 即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
 池田豊後は大和の人で一條家に仕ふる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469~1487年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随ひ弊多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。
 政弘は宗閑と號し爾来一條家に仕へている中槿花一朝一條家が久しからずして滅亡し豪族長曾我部氏興るにおよび其子助五郎政勝之に仕へ兵部と称し後従軍して戦死し当時7才であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕へ権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜ふて處士となり南隣大津に居住していたそして長曾我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間死没した後子五左衛門政良が山内氏に召出され御料理方となるに至った此の五左衛門政良こそ仍(乃ち)林氏の初めである。
 而して姓を林氏に改めた政良は萬治3年(1661年)山内二代の藩主忠義公の命により礼節を其宗家伊勢家に学び寛文10年(1671年)4代豊昌公の時宗邑80石を給ふて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝3年(1675年)4月晦日病死したので翌5月晦日六太夫先生が跡を嗣ぎ城南八軒町に居住した。

 文明年間と云えば1469年~1487年ですからたった11年間です。12代足利義尚の時代、応仁の乱の後土佐に入り土佐一條家を成したそうです。その一條家に従って林姓の元の姓である池田豊後が随身して土佐に下った。池田豊後は郷里大和へ帰ってしまい、子の池田助五郎政弘を土佐に残して置いた。そんな中で「槿花一朝」ムクゲの花の様に朝咲いて夕べには萎れる様に「はかない夢を見た様に」土佐一條家は滅亡してしまった。
 林六太夫の父池田五左衛門政良は土佐藩主山内氏に召されて御料理方となって居ます。年代は明らかでありませんが承応元年1652年から明暦3年1657年の間でしょう。萬治3年1660年には2代藩主山内忠義公から80石賜っています。延宝3年1675年に没しています。其の年林六太夫は後を嗣でいます。

 

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2019年8月14日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士
中西岩樹先生の1

 大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無雙直傳英信流の事である。
 私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。
 而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘わらず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸に其絶滅を免れ現代迄伝統して来たことについては
1、伝へられた土地柄が建依別の古称ある尚武の国で人間が総体男性的であり武張っていること。
2、伝へられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整へた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。
3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公又文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜馬現刑務所所在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用ひられたこと、の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったといへば
1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。
2、交通不便なるに加へ当時の事情が鎖国的であったこと。
3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又稀に有っても未だ他国者には一切伝授せぬといふ気風が残っていて機運が熟していなかったこと。等に基因しておるのである。
 私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基を造られた恩人故大子敬(正治)細川善馬(義昌)両先生の事及び少し遡って其絶滅の危機より救はれた恩人故板垣退助伯の事績を衷心より有難く思ひ感謝の念に堪えないのである。
 此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた事があるやうに記憶するので今回は更に其昔に遡り最初に此の居合を土佐に伝えへた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみやうと思ふ。

Img_0689
中西岩樹先生

 土佐の料理人頭であった林六太夫が藩主の参勤の際江戸に伴われて、当時江戸で道場を開いて居た荒井勢哲に居合を習ったのでしょう。どれくらいの期間江戸の居られたかは分かりません。せいぜい3年程度のことでしょう。併し幼少の頃より武術を嗜んでいれば十分ともいえる期間かも知れません。
 土佐藩内に認められ居合が定着したのは1800年代初めの事で明治維新まで50年か60年の事と推察します。居合術だけならば形を学べば、家で畳一帖も有れば稽古可能です。
 土佐の居合が、江戸時代に日本全国に普及しなかったのは、江戸での道場開設が荒井勢哲以降消えてしまったと想像できます。其の上習いに来ていた門人も下級武士が専らでしょうから、個人の域を超える事は出来なかったでしょう。荒井勢哲以外に藩から出て江戸に道場を開く程の剣客を生み出せなかったこともあるかもしれません。
 明治維新以降の剣術の衰退は当然の事で、板垣伯による土佐に残そうとする推進が寄与した事は大きそうです。それが寄与して土佐の中学校での稽古が始まっています。
 維新後土佐から職を関東関西ひいては全国に移さざるを得なかった土佐の下級武士個人個人の時代背景も土佐の居合が土佐を出て行った背景にある筈です。この中西岩樹先生の論文が何時何によって発表され曽田先生のスクラップになったのか、曽田先生はその事が分る事を残して居ませんからわかりませんが、恐らく昭和5、6年から昭和15、16年のことでしょう。其の頃から大阪の河野百錬先生が八重垣会を仕切られていたと思います。曽田先生は昭和25年には亡くなられていますから、時代を思えば戦前のものと云えそうです。
 お国自慢が居合に寄せられ強いのも、薩長に牛耳られていま一歩政権に満足できなかった土佐にとっての自慢できるものだったのでしょう。

 以下次回
 

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2019年8月13日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の9

 明治になって有名なのは細川義昌氏であらう。鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、入神の技だったそうである。大正12年2月23日75歳で物故したから、其技を實見した人々も少くあるまい。維新の勤王家松島隆成氏も長谷川流の達人であった。畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。即ち燈心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云ふ。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。是は私が直接遺族から承はった話である。松島氏は明治33年59歳で他界した。大江正路も有名だったが、先年長逝し、現今では其の門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。流技は就れも長谷川流とその分派大森流。
 伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後7代長谷川英信に至り、所謂長谷川流起り、8代荒井勢哲、9代林六太夫・10代林安太夫、11代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、12代坪内某、13代島村某、14代松吉某、15代山川某(久蔵か)、16代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て18代が現警視庁師範中山博道氏である。以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むることを得れば、一層その密接なるを確める事ができやう。以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。
 註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。
 註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐伝人伝、後侍中祖書系図牒、手抄を主に、高知県武徳会井上衛氏の報告。及び私の見聞を加へた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて盡く之を示さない。

 この平尾先生の土佐史談は昭和7年1931年のものだろうと思います。細川義昌先生の蝋燭の芯を薙ぎ切った話が松島隆成氏の行為に読み違えそうになる、その文章力には「ちょっと」と云いたいのですが、私も似たようなものです。松島隆成に就いては聞いたことがありません。大江先生は昭和2年1927年76歳で没しています。この雑録の5年前の事でしょう。
 伊東芳夫氏は山形県楯岡の人ですから、林崎神社の辺りの人です。土佐の居合の系統迄よく知ってはいなかったのでしょう。谷村派と下村派が混在してしまっています。荒井勢哲までは江戸での無雙神伝重信流でもいいでしょうが、土佐に入ってからは無雙神伝長谷川流(英信流)でしょう。
 平尾先生は土佐の居合を「長谷川流」と云っていますが、土佐での呼び方は「英信流」の方が強かったかもしれません。現代では「英信流」それも「無双直伝英信流居合兵法」だそうです。「無双直伝」は何処から持ってきたのか、大江先生によると云われている様ですが、さて。
 平尾先生の資料は江戸時代のもので広範な流祖に就いて書かれたものですが、史実とは云えない箇所も個別にはあるので、全面的に信頼は出来そうにありません。寧ろ土佐内部にまだ眠っている資料があると思うのですが、明治維新による無用な反故に過ぎなくなり、更に高知空襲で焼失、戦後の核家族化による家の歴史観念の欠如は高知だとて資料は少なそうです。

 平尾道夫先生の雑録を終ります。
 

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2019年8月12日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の8

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の8

 山川氏の如く、居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。前者は小児科医下村宗真の子で嘉永5年正月12日居合術体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久3年4月15日居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第6節に述べたから、此所には反復しない。
 右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。山内家第15代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実をかたったものに、左の一齣(ひとこま)がある。
 (上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附随した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合といふものが12本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。7日7夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録223輯)

 山川久蔵幸雅は文政3年1820年に藩から居合指南役を命ぜられています。
 下村茂市が召し出されたのは嘉永5年ですから1852年の事です、其の翌年には米国のペリーが浦賀に来航しています。
 谷村亀之丞自雄は天保8年1837年に稽古扶持として3人扶持を賜り、天保15年1844年には芸家として取り立てられ、文久2年1862年には導役となって居ます。江戸時代末期の50年程の期間が土佐での居合の隆盛期だったように思えます。
 
 平尾先生の土佐武道史話によると、容堂公が谷村亀之丞自雄を師として居合に励み弘化元年1844年に根元之巻と目録を受けているとされています。この頃には複数の者に根元之巻と目録が授与されていたのでしょう。第15代谷村亀之丞自雄から根元之巻及び目録を受けた者は、山内容堂、楠目繁次成栄、五藤孫兵衛正亮という事でしょう。
 

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2019年8月11日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7

曽田本その2を富み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及
24の5平尾道夫の7

 林氏の門に出でて、最も其名を謳はれた者に山川久蔵がある。名は幸雅、もと錠八とも称した。山川久右衛門幸艦の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。林氏との関係に就き、「手抄」24巻に左の如き噂を載せてある。
 山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の傳授(皆傳なるべし)致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取りに参り申さず、相わからざる事也。夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。其後久蔵は門弟を取立師家に成れり。長谷川流の傳書は何方より授かりしにや、林氏の傳書と違ひたるよし、或人より承はる。
 これは非常に興味ある問題だが、如何ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚かられる。山川久蔵は文政3年正月9日、藩から居合術指南役を命ぜられ、其心掛厚きを以て切符拾石を加増された。弘化3年2月9日には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年10月8日病死した。同苗古文次の子鋼八幸永が跡を相続したが家督は継いで居ない。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によると、「谷村亀之丞と同時代に山川久蔵(幸雅)が居合師家として活躍していた。是は林彌太夫の門人だったが、いつしか林家をはなれて別に伝書をうけ、門人を教えるようになったので当時の世評にもなったが、その系譜をたどると山川久蔵から松吉某、島村某、坪内某とさかのぼって大黒元右衛門に至るそうである。すなわち大黒元右衛門は伝書を林益之丞にゆずると同時に坪内某にもあたえたわけで、楠目盛徳は山川久蔵のことについて「長谷川流の伝書は何方より授かりしにや。林氏の伝書とは違ひたるよし或人より承る」と、その随筆手抄に書いている。これがいわゆる大森流ではなかったか。
 山川久蔵は、その伝書を下村茂市(定)にゆずり、細川義昌を経て、昭和初期に警視庁の剣道師範として知られる中山博道に及んだそうで、多年土佐にその伝統をつないだこの居合伝は中山博道につたわることによって県外に出たわけである。」

 山川久蔵が手に入れた伝書は第11代大黒元右衛門が第12代林益之丞政誠と、また一方で第12代松吉貞助久盛にも伝授された事があったと云う事で、事実はどうでも納まったのでしょう。
 林益之丞が受けた伝書と、松吉貞助の受けた伝書が違うと云う事で、平尾先生は大森流がどちらかに無かったのではないかと仰っていますが、その根拠が不明です。今手元にあるものは山川久蔵系統のもので、其処には大森六郎左衛門は林六太夫の剣術の先生だった、その先生がもたらした大森流居合だと記されています。
 「此居合と申すは大森六郎左衛門之流也、英信流に格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流之上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言」と云う事でもし平尾先生の想像が正しければ林益之丞に伝授されたものには大森流は無かったかもしれません。
 それよりも、林益之丞系統から出たと云う伝書の存在が判りません。松吉貞助系統の細川義昌先生からの伝書は木村栄寿先生に依って公開されていて、私の曽田本と神傳流秘書等同じ内容のものです。
 土佐の居合が中山博道先生によって土佐を出た以前に第16代五藤孫兵衛正亮先生の門弟森本兎久身によって中山博道は土佐の居合を学んだし、大江正路先生と共著の剣道手ほどきによって堀田捨次郎より土佐から出ています。
 土佐でもこの居合の正しい伝承はよく解らない。判らなくなってしまったほど明治維新は多くの日本の伝統文化を抹殺して来たと云えるのでしょう。

 

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2019年8月10日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の6

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の6

 林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝壽と云ふ者が妙手であった。槍術家の新國彦九郎に一寸計の杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云ふ。御小姓格渋谷彌五平勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和9年5月10日を以て病死した。林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。
 林彌太夫政敬先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。皆大男にて、左平太が技前は業小なれども豪気なる居合也・彦八は業大きく行込み、強く錬熟したり。亀之丞先生も彦八氏と同じく上手也。彦八氏、亀之丞氏とは技前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立たんことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄25)
 亀之丞は谷村久之丞自凞(じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保8年稽古扶持として三人扶持を賜った。同15年には同流の芸家として取立てられ、文久2年にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

 居合抜の妙について、「一寸ばかりの杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して」と有るのですが、現代居合でこんな事が出来る人はいるのでしょうか。一寸と云えば3cmそこそこ、杭とは楊枝のようなものと思えばいいのかも知れません。この様な芸当はともかく、抜き付けるべき部位にピタリと抜き付けるのは至難の業です。現代居合の抜き付けは正坐の部一本目前ですら、敵の右肩から首こめかみと相手の動作によって動く位置を特定していますが、抜き付けの動作では腰を延び切って、抜き付けた右拳の位置は右肩の高さで斬り付けた刀刃水平に走らせています。こんな抜き付けで動く高さの目標に斬り付けられる訳はありません。斬り付ける相手の部位など、据物同然の抜き付けです。形に拘り過ぎて役立たずの稽古法が問題なのかとも思えます。根元之巻では勝つ部位は敵の拳です。
 古流剣術の抜刀を稽古していますが、相方に小手を着けてもらい斬り込んでくる小手に抜き付ける稽古をしています。或は抜刀せんとする小手に下から抜き付けています。抜刀してからの剣術でも小手に斬り込むとか右面左面目標物に見事に斬り込むもので、動く相手の太刀をかわして小手に斬り込むわけで、現代居合の様に抜き付けたフィニッシュの決まった状況を優先してしまいますと目標など無いも同然なのかとも思います。
 この、雑録にある見事な両断は稽古次第で出来る様になれるかもしれません。出来ると思えない人には出来るわけはないでしょう。動かない仮想敵を相手に稽古している様では無理でしょう。ましてかって指導を受けた先生の様に仮想敵は修行の末に現れるなどの嘘つきには絶対に無理なことです。

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2019年8月 9日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐の於けるその普及について24の5平尾道夫の5

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の5

 居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸で無かったから、別に師匠役などの任命はなかった。併し個人として之を門弟に授けた為めに、此以後長谷川流居合は小栗流無外流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。六太夫の子安太夫政詡を経て、六之丞政長、其弟益之丞政誠彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝へて居る。益之丞政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であらう。
 六太夫の二男脩之丞正靖は、甚三郎と改めて小栗流師家足立茂兵衛正藹の後を継いだ。益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政13年正月22日其技を以て特に召し出され、三人扶持御馬廻り末子に列し、屢々藩主豊資公の感賞に與ったが、後ち池田和太夫と改名、天保2年7月18日病死して、後は断絶した。楠目成徳の「手抄」24巻には、「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀の術を伝へ、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書25巻には「文政の頃林八郎次彌太夫の弟と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次八郎次と諸人に称誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云へり」と見えて居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

 この林家のメンバーを現在言われている道統に従って並べてみると以下の様になります。
 9代林六太夫守政ー10代林安太夫政詡ー(11代大黒元右衛門清勝)―12代林益之丞政誠ー(13代依田萬蔵敬勝)―14代林彌太夫政敬ー(15代谷村亀之丞自雄)―(16代五藤孫兵衛正亮)―(17代大江正路子敬)・・。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によれば、第9代林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけて助五郎政彬と縫之丞正靖(脩之丞正靖)であったが幼少の為、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合伝授を授けた。これが第10代林安太夫政詡である。名字から推し測れば、第10代林安太夫の後は、第9代林六太夫の妻の実家大黒家から第11代大黒元右衛門清勝が道統を継いだのでしょう。
 第12代林益之丞政誠は第10代林安太夫の子であったかこの平尾道夫先生の著となる土佐史談と土佐武道史話だけでは読み取れませんが、恐らく12代は10代安太夫の子であったろうと思いたいのは私の勝手です。
 第13代依田萬蔵敬勝は何処にも其の謂れが無いのでわかりませんが、第12代林益之丞政誠の長男が第14代林彌太夫ですから12代の後は弟子の中の優秀な者であって、その後は林家に戻され林彌太夫が14代になったのでしょう。
 それ以後は優秀な弟子が選任されたと思われます。

 第17代大江正路先生は大黒元右衛門の後に分離した下村派の第14代下村茂市定の弟子でしたから、谷村派の第16代五藤孫兵衛正亮の後を継ぐ事が出来たか疑問ですが、五藤正亮亡き後、引き継いだ谷村樵夫自庸も亡くなってしまい、維新後の事なので其の辺の事は幻の中なのでしょう。家は継ぐ事は出来ても芸事を血筋のみで引き継ぐ事は大変難しい事でしょう。それは現代の方がより難しくなっている様にも思えます。 

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2019年8月 8日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史伝雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史伝
雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の4

 長谷川流居合を土佐に傳へたのは上述の如く林六太夫守政である。林氏の祖先は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕へ、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。
 其子兵部政勝戦死した為め、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曾我部氏に仕へ、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
 其子市兵衛政友、承応年中に逝き、政友の子政右衛門政良初めて林氏を称し、山内家に仕へた。
 延宝3年4月晦日政良病死後、同年5月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行80石、格式新御扈従、料理人頭と云ふ父の職禄も其儘承けたものである。豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗ふ手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せしめたと云ふ逸話も残って居る。
 よろず才能に秀でて、本職の庖丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末枝に至るまで諸芸16般を極め、孰れも人師となるに足りたと云ふ。就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其奥を極め、累々典礼に関する書付けを上って、其都度感賞に與り、元禄10年には加増20石、同16年には更に50石を加へられて、都合150石を賜はり、宝永3年には大扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
 正徳2年には老齢によって大御扈従を免ぜられて馬廻になり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保17年7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊敷5代の藩主に歴任し、君寵の衰へなかったのを見ても。如何に其人格の円熟して居たかを察すべきであらう。

 平尾道夫先生による土佐史談34の雑録の内容は、平尾道夫著昭和36年1961年発行「土佐武道史話」に長谷川流居合として整理され記載されています。
 少々気になったのは、土佐武道史話によると「はじめは知行80石で新小姓の格だったのが、後には160石の馬廻に昇進し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役にまで出世した。太平の時節にこの様な昇進を見ることは異数の例で、それだけに彼の才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。彼の名を後世に残す長谷川流居合は、実は六太夫にとって余技にすぎなかったのである。六太夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70歳で亡くなった。・・」扶持高10石の違いと17日の死亡日が7日の違いが気になりました。
 林六太夫にとって余技に過ぎない長谷川流居合を、神傳流秘書をはじめ多くの目録秘訣を林安太夫に伝え残された事には並々ならぬ能力をお持ちだったと驚くばかりです。

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2019年8月 7日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の3

3、同流に関して土佐に傳へられる文献は、私の知る限りに於て、林安田大夫の話として南路志71巻に収められた次の一節である。
 無雙流の居合は、林崎甚助重信より始まる。林崎は北條五代目に仕へ、此流を以て後太閤秀吉公御学ならせらる、無雙流と云ふ名を始て御附ならせしと也。其後塙團右衛門に傳はり、團右衛門より長谷川内蔵助に傳へ、内蔵助より荒井勢哲に傳へ、夫れより子の勢哲に傳へ、夫れより近年の兵作に傳へ、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の術鍛練の由云々。
 真偽は別として、先づ上述の如くである。その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信7代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神傳英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱ふ」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであらう。神傳重信流に神影流の古流五本の仕形を加へて、大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行はれて居ると云ふ。

 南路志については見た事もありませんし、興味はあっても事実とは違うようですから、興味の有る方にご研究をお任せしておきます。私の興味はあくまでも土佐に持ち込まれた「無雙神傳英信流居合兵法」と称する古伝の研究と復元であって机上の研究は別物です。業技法のヒントを得るための史料には大いに興味はあります。土佐史談のこのスクラップの文面が掲載されたのは昭和7年1931年の事の様です。従って3項の前段の文章は、平尾道夫先生も書かれている様に「真偽は別として」に過ぎません。


 林六太夫守政によって伝えられた土佐の居合の古伝神傳流秘書には、「居合兵法伝来」と題して道統は以下の様です。
林崎神助重信ー田宮平兵衛成正ー長野無楽入道槿露斎ー百々軍兵衛光重ー蟻川正左衛門宗績ー萬野團右衛門信貞(定)-長谷川主税助英信ー荒井兵作(勢哲)信定(清信)-林六太夫守政ー以下に(大黒元右衛門清勝ー松吉ハ左衛門久盛ー山川久蔵幸雅ー下村茂市定ー行宗藤原貞義ー曽田虎彦)とされています。以下にある名は山川久蔵幸雅及び曽田虎彦の追記でしょう。
 目録には無雙神傳英信流居合居合兵法とあり是は本重信流と言べき筈なれども長谷川氏は後の達人なる故之も称して英信流と揚られたる由也。
 大森流居合之事 此居合と申は大森六郎左衛門之流也英信流と格段意味無相違故に話而守政翁是を入候六郎左衛門は守政先生剣術之師也真陰流也上泉伊勢守信綱之流五本之仕形有と言或は武蔵守卍石甲二刀至極の伝来守政先生限にて絶へ。

 この神傳流秘書の存在は平尾先生はまだ知らなかったか、土佐の所有者によって門外不出だったかもしれません。伝統の末尾は林六太夫で切れていたと思います、従って六太夫の後は今日云われている林安太夫政詡で古伝神傳流秘書の筆者も安太夫であったろうと大森流の謂れを読めば推察できます。

 真陰流は新陰流と違うのか誤認か判りません。恐らく古流五本の仕形であれば新陰流の「三学円の太刀」でしょう。この太刀を林安太夫は見ているのかも知れませんが稽古していないので絶えてしまったと嘆いています。宮本武蔵の二刀流も林六太夫は学んだのであろうことも此の文面から推察され林六太夫の熱心さが伝わってきます。大森流は英信流を元として詰合、大小詰、大小立詰、大剣取、夏原流和などを総合し、当時正座の座り方が城中で奨励され一般に普及していった中で、それを元にした大森六郎左衛門の独創だろうと思います。

  

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2019年8月 6日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の2

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社傳に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐一雲齊を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。後、山城国伏見に於て一雲齊を討って本望を果し、更に将軍足利義輝の上覧仕合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其以前に於て抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神傳重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶさうである。
 上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其後同家に随身して、維新に及んだと云はれ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起し、其子對馬守長勝は、初め池田輝政に、後ち徳川頼宜に仕へて、之を紀州に傳へた。水戸に於ては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽齋槿露は、初め小田原北條家に、後ち彦根井伊家に仕へ、一宮大夫照信は、甲州武田家に仕えへて抜刀一宮流を始めて居る。仙台には幕末に重信17世嫡傳と称する堀津之助共徳、及び大規定之助安廣あり、新庄戸澤家に平賀清兵衛あり、江戸に於ては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)依田市左衛門等が声名を博したと云ふ。其他野州宇都宮にも其流があり、神傳重信流は数派に分たれてかくの如く全国に普及して居る。

 此の項の内容の実証は明らかではなく、いくつかの史料を断片的に繋いだようで平尾先生の文章とは思われません。昭和の時代に手に入れられる程度の史料からの抜き取りではこんなものかも知れず、また土佐の人にはこれでも土佐の居合の優秀な事を思い描かせ、お国自慢に更に気を吐くネタともなったと思います。
 林崎甚助重信に就いては平成3年発行の林崎甚助源重信公資料研究委員会による「林明神と林崎甚助重信」の復刻版を村山市が発行元になって居ますから、それを求められれば、この雑録よりもう少し納得できる内容が得られるかもしれません。いずれにしても、市井の剣術使いの趨勢が正しく残されるなど当時としてはあり得ないでしょう。

 林崎甚助重信の生涯も霞の中から幻が見える程度の者に過ぎず、それもまた良いのでしょう。その居合の何たるかはもっと分からないとしか、云い様はありません。「昔はこうだった」とか「武術ではこうだった」など見て来たような嘘をつくことはできません。

 参考に「林崎明神と林崎甚助重信」に記載されている伝書の流名は以下の通りです。
 津軽藩 林崎新夢想流
 三春藩 林崎流
 新庄藩 林崎新夢想流
 庄内藩 林崎田宮流
 秋田藩 林崎流居合
 秋田・仙台藩 林崎夢想流居合
 二本松藩 林崎神流居合
 以下略す。

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2019年8月 5日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1

曽田本その2を読み解く
24スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の1

 ー特に此一篇を屢々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県稲岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐー
 1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴ひ、かなり古くから行われたやうである。土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈忠左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝へたる人であるが、亦居合の名手として伝へられる。或時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云ふ懇望があった。忠左衛門は之を快諾したが、暫らくして人々にうち向ひ、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云ふのである。人々が呆然として顔見合せているのを見て、忠左衛門は笑ひながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云ふので、試にその小姓を呼んで調べて見ると、果して言の如く見事に切断せられて居たと云ふ。忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其後土佐藩士人の間に伝へられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於て大いに其本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝へられた長谷川流居合そのものである。

 曽田本その2には曽田先生の直筆の居合に就いての蘊蓄が書かれているのですが、更に進んで、資料集めも積極的であったと思われます。この平尾道夫先生の「長谷川流居合と土佐に於ける其普及について」も何処からそれを切り取って張り付けたのか何も書かれていない為にその扱いに苦慮しました。
 平井道夫先生の著書「土佐武道史話」は高知新聞社発行で昭和36年1961年に出されたものは土佐の居合を学ぶ方にも良く読まれているものと思います。その序に代えて「戦争を否定し、暴力を排斥する現代の日本で、おこがましくも武道とはなにごとか、と目をむく人があるかもしれない。だが、武というのは「戈(ほこ)を止める」の二字から形成されたもので、つまり戦争否定の思想をあらわした文字だと教えられたものだ。してみると、戦争や暴力がいやなのは昔の人も現代人とかわりはなかったはずで、武道とはその語意平和道に通ずるものと解釈してもさしつかえはあるまい」と武力を賛美するのでは無く、武をもって和する心を学ぶ一端を示そうとされる気持ちが伝わってきます。
 この雑録のスクラップは土佐史談34に掲載されたもので、曽田先生は土佐史談34の95Pから100Pまでを外されて曽田本その2のメモ帖に張り付けられています。1項目から9項目に別れていますので項目ごとに日を追って掲載させていただきます。今ならスキャンするなりコピーするなりの事が出来るのですが、私の手元には土佐史談34の冊子の95~100ページが生の儘あります。

 この平尾先生の文章から、土佐には小栗流の朝比奈忠左衛門可長によって大栗流剣術に附随した居合が行われていたのでしょう。そこへ林六太夫守政によって江戸から新しい居合が入って来たのでしょう。土佐藩第3代忠豊公の時代に小栗流居合を親しんだ土佐の人に、あえて林六太夫は居合を家業とせずに本職の料理人を務め居合を余技としていたのも、第4代忠豊・5代と豊房・6代豊隆・7代豊常・8代豊敷と五代の藩主に仕えたのもその人柄を思わせます。
 ともすれば俺が、我こそはと人を押し退けてまで自己顕示しようとする人の中で、土佐の居合の「夢うつつの如くの所よりひらりと勝」とか「我が身を先づ土壇となして後自然に勝」などの極意は新陰流の活人剣を思わせるもので、信頼できる風雅な趣にいつの間にか居場所が出来ている人だったのでしょう。

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2019年8月 4日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐固有の武道居合術の復活
24の4竹村静夫の手記
(昭和11年7月24日高知日々新聞にて)

 我が土佐の居合術長谷川流の▢内無双なるは既に中央に於いても定評ある處であるが残念ながら今日迄只僅かに其一部のみ伝へらるゝに過ぎなかった、然るに▢▢剣客竹村静夫氏の熱心研究は其功を奏し従来の断片的の抜型が全部明かとなり固有の体系を復活し茲に我が居合術の完備するに至りたるは実に欣快に堪へざる所である記者は竹村氏に乞ふて其手記を転載するを光栄とするものである。

無雙直傳英信流居合術
1、伝統
 初代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛重正ー3代長野無楽斎槿露ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門尉信定ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井勢哲清信ー9代林六太夫守政―10代林安太夫政詡ー11代大黒元右衛門清勝―12代林益之丞政誠ー13代依田萬蔵敬勝ー14代林彌太夫政敬ー15代谷村亀之丞自雄ー16代五藤孫兵衛正亮ー17代森本兎久身ー18代竹村静夫

2、沿革
 当流の始祖は抜刀中興の祖(奥州の人)林崎甚助重信先生である。第7代長谷川主税助英信先生は始祖以来の達人であって、重信流を無双直傳英信流と改められた。爾来当流を長谷川英信流又は略して長谷川流と呼ぶ様になった。9代林六太夫守政先生は土佐の人で高知城南八軒町に住し居合礼節、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽、鼓等人の師となるに足る技16あり、斯道の逸材である。第11代大黒元右衛門清勝先生より當流は二派に分れている。そして何れ劣らず夫々勝れた手の内がある。藩政時代最後を飾る両派の代表的人物に谷村亀之丞自雄先生、下村茂市定先生がある。これより此の二派を谷村派、下村派と呼ぶ。谷村先生は天保の頃潮江に住して藩の師弟を指導せられた。時の藩主容堂公は「谷村の居合は土佐藩第一なり」と讃えられ一日谷村先生をお召の上、御佩刀を出されて「之を抜け」と仰せられた。先生はお側の者に豆を持たせて、之を抜き打ちになすに寸分を違えなかったと云ふ、下村先生は築畠敷に住し嘉永、安政年間藩公より居合術導役を拝命し藩立致道館に於て子弟を教育せられた。御維新▢欧州文明の流入に伴ひ古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。時に明治26年板垣伯帰省せられて土佐居合の全国無比なること並にこれが復活を説かれてより、谷村派の蘊奥を極めたる五藤正亮先生を、材木町新築道場に迎へて一般に指導を乞ふこととなった、五藤先生はこれより追半筋共立学校に於て主として中学生を教授せられた。当時の愛弟子に森本兎久身(海軍大佐)、坂本政右衛門(陸軍中尉)、田口刺戟(海軍大佐)のかくれた諸先生がある。森本先生は明治30年五藤先生の允許を得て上京有信館の門を叩かれた。師範根岸信五郎先生は森本先生の居合を拝見して「海内無双也」と激賞せられた、明治31年五藤先生没後は同派の谷村樵夫先生が専ら指導の任に当たられた。谷村先生は早抜きの名人である。小藤亀江先生は谷村先生の秘蔵弟子であるが、惜しいかな早世せられた。次いで下村派の行宗貞義先生が一線に立たれた。先生の居合には見事なる剱風があり。明治40年頃土佐第一の称がある門下には廣田廣作、曽田虎彦の両先生がある。一方当時の政治家であって而も下村先生の高弟で其の奥義を極められた方に細川義昌先生があった。細川先生没後は武道家として大江正路先生がある。先生は始め下村派を学び後に谷村派を究められ独特の手の内を案出して、大いに斯道の隆昌に貢献せられた。為に多数の門下生が排出した。就中中西岩樹、穂岐山波雄の両先生は其の白眉である。然るに昭和10年頭初穂岐山先生急逝せられ、中西先生渡満せられてより斯道に一抹の淋しさを覚えるに至った。が幸ひ故穂岐山先生の後は福井春政先生が継いでいる。又これより先曽田虎彦先生帰県せられて往年の下村派の復活を見るに至り。余も坂本将軍の錦衣御帰省を契機として往年の谷村派の復活を志し遂に恩師森本先生より免許皆伝を賜り此處に多年の宿願に到達するを得て土佐居合道のため微力を帰している次第である。

3、型
 當流は他流に見るが如く単なる抜刀術或は剣道に附属した居合鞘の内のみではなく立派に独立した土佐独特の居合道である、即之に附属する大森流を加へ換技共に47本の技の他に、太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰がある。太刀討の位は所謂太刀討で抜刀術を加味した剣道の型である。詰合の位は実に抜刀術の至極とも云ひ▢当流の極意とするところである。又大小詰、大小立詰は抜かずして勝つ即刀、鞘の内にあって敵を制する技で当流の大精神を表徴せられたものである。
 当流の骨幹をなす之等の型は明治31年五藤先生の没後全く廃っていたものである。それを40ヶ年後の今日復活し得たのは、余如きの到底独り研究し得らるべきものではなく、之は森本先生の御示教は申す迄も無く田口刺戟先生の心からなる御指導と御鞭撻の賜に他ならないのであった、又之を如実に発表することを得たのは真に曽田虎彦先生の御協力の賜である。
 型の内容は左の通りである。
 イ)太刀討の位
  出合、付込、請流、請入、月影、水月刀、絶妙剣、独妙剣、心妙剣、他に打込一本の口伝あり
 ロ)詰合の位
 八相、拳取、岩浪、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剣、他に口伝討込一本あり。
 ハ)大小詰
 抱詰、骨防、柄留、小手留、胸捕、左伏、右伏、山影詰
 ニ)大小立詰
 締捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蛉返、乱曲、他に移り口伝一本あり


 土佐の居合の歴史を一気に語りかけて来る様です。総合武術であった土佐の居合が、明治以降居合抜ばかりが稽古されて型は置き忘れられてしまった事を嘆きようやく田口刺戟先生、曽田先生と共に演じられるようになったと喜んでいます。ここには古伝神傳流秘書に在る大剣取が抜けています。田口刺激先生の指導に無かったものか、曽田先生による実兄小藤亀江の指導に抜けているとすれば第16代谷村派後藤正亮の教えが抜けている、要するに谷村派には大剣取は伝わらなかったかも知れないと云えそうです。当然の様に小太刀之位などはその後も聞こえてこないものです。
 然しこれから2年後竹村静夫先生は昭和13年1938年に39才で亡くなられています。日本は戦争に深く突入して行き、土佐の居合の先生方も次々に徴兵で連れ去られ、これ等の型も再び消えて行ったと思われます。現在は土佐の居合が総合武術だった事すら忘れられている時代です。
 有る時、無双直伝英信流居合兵法の十段を印可された方が、宗家より頂いた目録を拝見しました。目録ですから根元之巻は無く、長年に渡って精進した事を讃え目録皆伝となります。目録の内容は正座の部11本の業名、立膝の部の業名10本、奥居合の部21本、番外4本、抜刀法11本、英信流居合形7本でした。是で無双直伝英信流居合兵法の10段允可された事で権威と権力を手にした如くの振る舞いには呆れてしまいました。
 初代関東地区連盟の会長が大江先生から根元之巻を伝授された山本宅治先生によって根元之巻及び目録を伝授されています。目録は英信流居合術名称とされ正座の部11本、立膝の部10本、奥居合之部21本、番外3本、型7本です。
 之が土佐の居合の現状なのです。是では土佐の居合を知っている人など居ないも同然です。指導出来るわけもなく微細な「かたち」に終始して演武会用の武的棒振り踊になるのも当然でしょう。其の上土佐の居合の何たるかもその業名すら忘れ去られているのが現状です。
 連盟の段位取得優先思考が蔓延し、流派の正しい伝承を置き去りにしている指導者のなんと多い事か・・思いつくままに。

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2019年8月 3日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合の為に
24の3万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏
傑物、行宗貞義の一の弟子
(昭和11年11月海南新聞にて)

 土佐の居合術は英信流とて全国的に有名であり京都武徳殿においても特に英信流を日本武術の精華として尊重し中等学校でも武道の科目に編入しておる程だが現代この土佐居合術の代表的人物は何といふても曽田虎彦であらふ。
◇曽田氏の師匠は有名な行宗貞義氏である、行宗氏は西南戦争の時にたいいとして各地に転戦した剛のものだが後ち感ずるところあって断然軍服を脱ぎすて、一時看守長を勤めたこともあり、其の後ち更に零落して第二中学校の門監にまで成り下っていた。
◇当時二中の武術教師は桑山直澄氏であったが或時に行宗、桑山の居合が取り組まれ中島町に居合の古武士で名高かかった真田翁がその居合を見物し、行宗氏の妙技を嘆賞して、二中に行宗がをる以上、桑山は教師たる資格がない早速罷めろと言って行宗氏が門監から昇格して二中の居合の先生となった、大江正路氏の如き剣客も行宗の足許へ寄りつけぬと云ふ評判で其の実力は大したものだった。
◇この居合術の神たる行宗氏には沢山の門弟があったが夫等数多き俊傑の中で行宗門下の五傑と称せられたのが曽田虎彦、鈴江吉重、弘田弘作、そして海軍大佐の伴次郎、中村虎猪などの人々であった。
◇此等五傑の筆頭たる曽田氏は元と二中の生徒で、行宗氏が一年から五年まで我が子の如く教へたといふ一事を以って、如何に師の行宗氏が年少曽田氏の将来に望みを属してゐたかが判り同時にその曽田氏が如何に居合術の神によって鍛錬せられたかを想像することが出来る、果然その曽田氏は嚢中の錐として鋭脱し二中を卒業するや、高知武徳殿の助教師に抜擢せられ茲に師の衣鉢を継ひだのである。
◇すなわち世間からみれば曽田氏は第二の行宗となったわけで堂々たる英信流の指南役に推しあげられた形となった、そこで今一度行宗氏の実力が振り返へて見直す必要が出来た。何でも明治四十年頃であったが範士の中山博道氏が態々来県して行宗氏の弟子となり又三重県人堀田捨次郎といふ柔道の範士も亦た来県して行宗氏の門に入った敢へて多くを語らずとも此の二つの事実は行宗氏その人の畏敬すべき其の妙技と実力とを極めて雄弁に物語ってをるではなかろふか。
◇本年10月25、日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のために万丈の気を吐ひた、そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった。斯くて長谷川英信流第七代の師範たる曽田虎彦氏は日本の武道界において天下的人物たる折紙を附けけられことを我等は土佐の誇りとして読者と共に欣快の拍手を送る写真は曽田氏。
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行宗貞義先生
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曽田虎彦先生
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 昭和10年11月海南新聞に記事として掲載されている曽田先生の師行宗貞義先生、曽田虎彦先生に就いての記事ですが、時代背景が伝わって来るようです. 

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2019年8月 2日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合術に就而24の2谷村秀喜

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐の居合術に就而
24の2日本刀荘谷村秀樹

 無雙直傳長谷川英信流の本場たる土佐国に於ては、現在土佐出身の自分等は当流を内訳して(中西流)と(穂岐山流)の二派としております。同じ土佐の英信流であって前記二派の異なる点を一言にして曰ひ現さしむれば、穂岐山流は形としては美練され観る目誠に華やかなる形其ものである。
 然るに中西流は率直で然も機敏であり、真剣味充実し理論徹底し自ら鬼気迫る実戦其ものの技である。
 一例を挙るに穂岐山流では抜刀から刀が鞘に治まる迄総而の形が裕長にして動静が大きく華やかなるを特徴とす。中西流に於而は総而の形が敏捷にして動静は穂岐山流に比してやゝ小さく生気漲りて敵を斃すを目的とし、然も理論的に研究され、利剣其ものである。中西流の抜刀は刀身が今正に鞘を払はんとして切先三寸鞘に残りたる時切先に気力を充実さして体をヒネリて刀身を撥出して敵を弾力斬にするのである。弾力斬とは例へば一本の竹の根本と先を両手にて握り、之を円形に引枉て(ひきまげて)一方を放ちたる際の弾力気分を言ふ。即ち此気分る以而敵を斬り付けるのである。形が技であり技が形である居合術の総而の動静が理論徹底して居なければならぬ。
 一例するに大森流の五本目八重垣の形に於而抜付に敵の首或は胴を斬りて次に面を割る、而て血振りをなし刀が鞘に治まりかけて残心を入らんとする時、倒れたる敵は半ば起きあがりて自己の右足を払ひに来れるにより、更に刀を抜付けて敵刀を撥き返し、直に間髪を入れず敵の面を割る。此の処までは両派共大同小異であるが、此処に於而理論の異る点である。此場合穂岐山流では其場に於而左脚を屈すると同時に敵の面を割る。中西流に於而は其場より更に左足を一歩踏出すと同時に右脚を屈して面を割る、此の左足一歩踏出す点が中西流として理論の徹底したる点である、何故なれば自己の最前方に出たる右足を敵が払はんとする時には自己と敵との間隔は敵の刀身と延びたる敵の腕との長さの間隔があることは何人と雖も言を俟たざる(またざる)ところである。然らば敵と自己との間隔は少くとも五尺位の間隔はあるのが当然である。故に前述穂岐山流の如く其場に於而左脚を屈して斬付けたる処で、剣先は敵に届き憎い理論となる。故に中西流では右足を一歩踏出して斬付けるのである。斯くすれば完然に自己の剣先は敵に達し、目的を果たし得べきである。斯くの如く中西流は無雙直伝長谷川英信流表形四十二本、番外三本共此の理論が徹底致して居ります。
 尚一言して置きたいのは当流には表形の他に裏形が更に四十二本ある事をご参考迄に申添て置きます。
 =居合刀種々あり=市電細工谷停留所前 日本刀荘

 穂岐山流と中西流と云っていますが、その居合の演武を見る機会はすでになく、穂岐山流はゆったりと大きく華やかだけれど理論が今一と云う。中西流は形が敏捷でやゝ小さいが理論的だと述べています。刀屋さんの両者の見立てですが、中西流の軍配を思わせます。
 穂岐山流は大きくゆったり美麗と中西流の率直で機敏が見た目の違いで、理論の違いは想定の違いと言えるのでしょう。八重垣の動作の違いで其の事は明らかです。然し現代居合の形だけが全ての人には中西流は理解できないかもしれません。
 中西流も相手はこうあるだろうと言う思い込みが強すぎれば土佐の居合の真似をしただけの異なるものになってしまうのです。
 表の形四十二本には裏の形が更に四十二本あるそうですが、全く知りません。太刀打之事10本、詰合10本、大小詰8本、大小立詰7本、大剣取11本はあっても裏の形として現代居合で42本の話題や手附に就ての話は聞いたことはありません。其の他に古伝坂橋流棒13本、夏原流和54本、更に小太刀之位6本を加えれば119本になります。裏とは表の業の返し業のイメージがありますがどの様なものだったのでしょう。この辺の処も古伝を知らないだろう谷村秀樹氏の聞きかじりが膨らんだのでしょう。
 土佐の居合の古伝の凄い所は、根元之巻に記されている柄口六寸に勝つ極意にあってそれに至る初歩の稽古業が目録に在る業名に過ぎないのです。
 其の心持ちは「ガッサリと明けて敵は只一打ちと打込まする様に振る舞う事、構は如何にも有れ我と互に打ち下ろす頭にて只我は一図に敵の柄に打込む。先ず我が身を土壇と為して後自然に勝、その勝所は敵の拳なり」すでに失伝した奥義と言えます。
 曽田先生のスクラップはその出典が記載されていないものがほとんどです、これも何を切り抜いたのか解りません。然し居合の心を伝えてきます。

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2019年8月 1日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐居合に就いて24の1竹村静夫

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐居合に就いて
昭和11年2月10日日本武道にて
長谷川流第18代
居合術教士 竹村静夫

 土佐居合を語る者は藩政時代に於る谷村派並に下村派の両派を究め、而て徳川幕府中期迄辿り、一国一人の相伝也しと云ふ当流の根元を究むるに非ざれば未だ其の器に非ず。
 いやしくも土佐居合を説く者は、只々先師の教へを遵奉するに止まらず、克く両派の教へを含味して其の理論と実技とが相一致する、即其の呼吸、気位並気合、間合、刀法等総てが今日の剣法に合致し得るものでなければならない。
 斯道に志す人々は決して机上の空論に依って当流の手の内を兎角云々することなく、当流各本の教へに付き夫々吟味して先師の教への那邊にあるかを悟り、真の教へは単なる架空的なものではなく実際と理論と合致したるものであることを究めなくてはならない。

 斯道に志す人々が「居合は人を切るものではない、腹の教へである」と説かれるのを拝聴するが誠に然りである、然し乍ら夫れを説かれる迄には深甚の研究と努力を積むにあらざれば未だ其の資格は認められない。其の腹即斯道の極意に到達する迄にはよりよく錬磨して、真に心剱一致の妙諦を悟られたいものである。

 国家に於ける必勝の軍隊練成の主眼が那邊に存するか、邦家が36年の危局に際し穀然として外患を圧倒するのは何故か、形の上に於て国家と個人の差こそあれ斯道究極の目的は「居合とは人に切られず人切らず只つゝしみて平に勝て」であって、刀鞘の内にあって敵を制する迄に至らなければならない、これが為めには常住坐臥不断の精進によって、全国無比なる当流の奥旨を悟るべきである。

 尚当流は他流に見るが如く単なる抜刀術にあらずして、独立した土佐独特の居合道である。即47本の居合の他に太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰の秘伝の存することを忘れてはならない。
 余は土佐居合道の復活に志すこと多年、今や邦家非常の秋に際し各方面の御示教とご協力のもとに当流の隆昌を期し度いと念ふ。(終)


 このスクラップは日本武道に掲載されている竹村静夫の執筆で、曽田先生はそれをスクラップとして張り付けて置いたのででしょう。土佐の居合は単なる抜刀術ではない、それには師の教えに留まらず、谷村派も下村派も理解し、尚江戸中期の土佐の居合の古伝をも理論と実際を合致させて究めなければ当流を究めたなどと云えないよ、と云っています。

 残念ながら、谷村派、下村派の居合は現今ではこれが夫れと認識できるものにはならず不思議なものとしか言いようは無い、竹村静夫先生の時代には明確に区別できたのだろうかと思うばかりです。
 私の手元資料では曽田先生に依って写された江戸中期の古伝神傳流秘書で何処から出たものでその出典が不明なのですが、木村栄寿本と軸がぶれませんから然るべき家から出たものとしています。
 夢想神傳流の木村栄寿先生による林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流が江戸中期の居合の心持ちを伝えてくれるものになります。細川義昌先生の家から出た資料で恐らく曽田先生の古伝資料と異なる資料集だろうと思われます。
 河野先生の無雙直傳英信流居合兵法叢書は曽田本の写しですから新たなものは得られません。
 政岡壱實先生の無雙直傳英信流居合兵法地之巻は大江居合を残しながら神傳流秘書を参考にされています、その無双直伝英信流居合兵法之形は仕打の動作をそれぞれに分け写真入りで解説したもので参考にされている人も多いようです。然しその動作は竹刀剣道の動作が随所に見られ、独自の解釈が気になります。原本の儘知恵を絞って研究すれば良いのですが分解写真と権威者の解説がつくとそれに頼ってしまうようでは古伝に至るのは難しいでしょう。
 
 このブログの読者の方々にも実際に古伝を研究し稽古をされる方もおられます。竹村静夫先生の叱責から80年以上経ってようやく「古伝を研究している」と仰り其の研究成果を文章や絵や動画などにされて、私にまでお送りいただきお目にかかれるようになりました。
 反面、古伝研究によって現代居合や形を否定されたと言って、邪魔者扱いされる不勉強な方もおられ、この竹村静夫先生の論文は厳しい叱責でしょう。

 居合は、「人を切るものではない、腹の教へである」と云うが言葉で理解しても、「より深い研究と努力を積む」のを怠ったのでは土佐の居合がわかったなどとは言わせない、そんな資格は無いといいます。
 仮想敵相手ならまだしも、教えたがりの兄弟子の手取り足取りの真似事居合が何処でも横行しています。習った事と違うと「あれはおかしい、武術ではあんな事はしない」など知ったかぶりもあっちこっちで聞きます。其の内「居合は腹で斬る」などと云って、どうやるのかお手本をお願いすれば腰の抜けた腕力ばかり、より深い研究と努力は自ら課すもので、其の手助けに道場があるべきものです。初心の内はともかく多くの道場がやっている稽古風景は、軍隊の調練みたいな掛け声に合わせた合同稽古で真似っこ養成所みたいなものです。それで30年40年の在籍だそうでご苦労な事です。

 何故この業はこうするのか、こうしてはいけない理由は何か、気の利いたものは疑問は一杯ですが、道場長に聴いても「そう習った」としか答えられない。
 居合の和歌など研究課題にすらならない唯の棒振りではお粗末です。正座の前一本だけで2時間を掛けて研究し合う姿勢など何処にも無いから棒振り体操に終始し、結果は武術ではなく、段位取得や演武競技による武的試験問題の稽古に過ぎない物になってしまっています。其の上高価な日本刀を持ちだし「本身は模擬刀と違う」などと分かった様な嘘を言っています。

 竹村静夫先生の土佐の居合の賛美は裏を返せば何も出来ていないじゃないかという嘆きでもあるのでしょう。

竹村静夫先生

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 曽田メモ:此の抜付は勢余りてか上体が前に懸り過ぎて感心出来ざるものとす。抜き付の時眼の付け処注意刀尖を見るにあらず敵から眼付を離すべからず。

 竹村静夫略歴
明治35年1902年 生まれる
大正 3年1914年 城東中学入学12才
           剣道居合に熱中
昭和11年1936年 第二次世界大戦
           陸軍戸山学校天覧武道場で曽田虎彦
                               と太刀打之位演武打太刀
昭和13年1938年 没す39才

系統 下村派第14代下村茂市定―行宗貞義―曽田虎彦―竹村静夫

 

 

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