« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1 »

2019年8月 4日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐固有の武道居合術の復活
24の4竹村静夫の手記
(昭和11年7月24日高知日々新聞にて)

 我が土佐の居合術長谷川流の▢内無双なるは既に中央に於いても定評ある處であるが残念ながら今日迄只僅かに其一部のみ伝へらるゝに過ぎなかった、然るに▢▢剣客竹村静夫氏の熱心研究は其功を奏し従来の断片的の抜型が全部明かとなり固有の体系を復活し茲に我が居合術の完備するに至りたるは実に欣快に堪へざる所である記者は竹村氏に乞ふて其手記を転載するを光栄とするものである。

無雙直傳英信流居合術
1、伝統
 初代林崎甚助重信ー2代田宮平兵衛重正ー3代長野無楽斎槿露ー4代百々軍兵衛光重ー5代蟻川正左衛門宗績ー6代萬野團右衛門尉信定ー7代長谷川主税助英信ー8代荒井勢哲清信ー9代林六太夫守政―10代林安太夫政詡ー11代大黒元右衛門清勝―12代林益之丞政誠ー13代依田萬蔵敬勝ー14代林彌太夫政敬ー15代谷村亀之丞自雄ー16代五藤孫兵衛正亮ー17代森本兎久身ー18代竹村静夫

2、沿革
 当流の始祖は抜刀中興の祖(奥州の人)林崎甚助重信先生である。第7代長谷川主税助英信先生は始祖以来の達人であって、重信流を無双直傳英信流と改められた。爾来当流を長谷川英信流又は略して長谷川流と呼ぶ様になった。9代林六太夫守政先生は土佐の人で高知城南八軒町に住し居合礼節、和術、剣術、書技、謡曲、俗楽、鼓等人の師となるに足る技16あり、斯道の逸材である。第11代大黒元右衛門清勝先生より當流は二派に分れている。そして何れ劣らず夫々勝れた手の内がある。藩政時代最後を飾る両派の代表的人物に谷村亀之丞自雄先生、下村茂市定先生がある。これより此の二派を谷村派、下村派と呼ぶ。谷村先生は天保の頃潮江に住して藩の師弟を指導せられた。時の藩主容堂公は「谷村の居合は土佐藩第一なり」と讃えられ一日谷村先生をお召の上、御佩刀を出されて「之を抜け」と仰せられた。先生はお側の者に豆を持たせて、之を抜き打ちになすに寸分を違えなかったと云ふ、下村先生は築畠敷に住し嘉永、安政年間藩公より居合術導役を拝命し藩立致道館に於て子弟を教育せられた。御維新▢欧州文明の流入に伴ひ古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。時に明治26年板垣伯帰省せられて土佐居合の全国無比なること並にこれが復活を説かれてより、谷村派の蘊奥を極めたる五藤正亮先生を、材木町新築道場に迎へて一般に指導を乞ふこととなった、五藤先生はこれより追半筋共立学校に於て主として中学生を教授せられた。当時の愛弟子に森本兎久身(海軍大佐)、坂本政右衛門(陸軍中尉)、田口刺戟(海軍大佐)のかくれた諸先生がある。森本先生は明治30年五藤先生の允許を得て上京有信館の門を叩かれた。師範根岸信五郎先生は森本先生の居合を拝見して「海内無双也」と激賞せられた、明治31年五藤先生没後は同派の谷村樵夫先生が専ら指導の任に当たられた。谷村先生は早抜きの名人である。小藤亀江先生は谷村先生の秘蔵弟子であるが、惜しいかな早世せられた。次いで下村派の行宗貞義先生が一線に立たれた。先生の居合には見事なる剱風があり。明治40年頃土佐第一の称がある門下には廣田廣作、曽田虎彦の両先生がある。一方当時の政治家であって而も下村先生の高弟で其の奥義を極められた方に細川義昌先生があった。細川先生没後は武道家として大江正路先生がある。先生は始め下村派を学び後に谷村派を究められ独特の手の内を案出して、大いに斯道の隆昌に貢献せられた。為に多数の門下生が排出した。就中中西岩樹、穂岐山波雄の両先生は其の白眉である。然るに昭和10年頭初穂岐山先生急逝せられ、中西先生渡満せられてより斯道に一抹の淋しさを覚えるに至った。が幸ひ故穂岐山先生の後は福井春政先生が継いでいる。又これより先曽田虎彦先生帰県せられて往年の下村派の復活を見るに至り。余も坂本将軍の錦衣御帰省を契機として往年の谷村派の復活を志し遂に恩師森本先生より免許皆伝を賜り此處に多年の宿願に到達するを得て土佐居合道のため微力を帰している次第である。

3、型
 當流は他流に見るが如く単なる抜刀術或は剣道に附属した居合鞘の内のみではなく立派に独立した土佐独特の居合道である、即之に附属する大森流を加へ換技共に47本の技の他に、太刀討の位、詰合の位、大小詰、大小立詰がある。太刀討の位は所謂太刀討で抜刀術を加味した剣道の型である。詰合の位は実に抜刀術の至極とも云ひ▢当流の極意とするところである。又大小詰、大小立詰は抜かずして勝つ即刀、鞘の内にあって敵を制する技で当流の大精神を表徴せられたものである。
 当流の骨幹をなす之等の型は明治31年五藤先生の没後全く廃っていたものである。それを40ヶ年後の今日復活し得たのは、余如きの到底独り研究し得らるべきものではなく、之は森本先生の御示教は申す迄も無く田口刺戟先生の心からなる御指導と御鞭撻の賜に他ならないのであった、又之を如実に発表することを得たのは真に曽田虎彦先生の御協力の賜である。
 型の内容は左の通りである。
 イ)太刀討の位
  出合、付込、請流、請入、月影、水月刀、絶妙剣、独妙剣、心妙剣、他に打込一本の口伝あり
 ロ)詰合の位
 八相、拳取、岩浪、八重垣、鱗形、位弛、燕返、眼関落、水月刀、霞剣、他に口伝討込一本あり。
 ハ)大小詰
 抱詰、骨防、柄留、小手留、胸捕、左伏、右伏、山影詰
 ニ)大小立詰
 締捕、袖摺返、鍔打返、骨防返、蜻蛉返、乱曲、他に移り口伝一本あり


 土佐の居合の歴史を一気に語りかけて来る様です。総合武術であった土佐の居合が、明治以降居合抜ばかりが稽古されて型は置き忘れられてしまった事を嘆きようやく田口刺戟先生、曽田先生と共に演じられるようになったと喜んでいます。ここには古伝神傳流秘書に在る大剣取が抜けています。田口刺激先生の指導に無かったものか、曽田先生による実兄小藤亀江の指導に抜けているとすれば第16代谷村派後藤正亮の教えが抜けている、要するに谷村派には大剣取は伝わらなかったかも知れないと云えそうです。当然の様に小太刀之位などはその後も聞こえてこないものです。
 然しこれから2年後竹村静夫先生は昭和13年1938年に39才で亡くなられています。日本は戦争に深く突入して行き、土佐の居合の先生方も次々に徴兵で連れ去られ、これ等の型も再び消えて行ったと思われます。現在は土佐の居合が総合武術だった事すら忘れられている時代です。
 有る時、無双直伝英信流居合兵法の十段を印可された方が、宗家より頂いた目録を拝見しました。目録ですから根元之巻は無く、長年に渡って精進した事を讃え目録皆伝となります。目録の内容は正座の部11本の業名、立膝の部の業名10本、奥居合の部21本、番外4本、抜刀法11本、英信流居合形7本でした。是で無双直伝英信流居合兵法の10段允可された事で権威と権力を手にした如くの振る舞いには呆れてしまいました。
 初代関東地区連盟の会長が大江先生から根元之巻を伝授された山本宅治先生によって根元之巻及び目録を伝授されています。目録は英信流居合術名称とされ正座の部11本、立膝の部10本、奥居合之部21本、番外3本、型7本です。
 之が土佐の居合の現状なのです。是では土佐の居合を知っている人など居ないも同然です。指導出来るわけもなく微細な「かたち」に終始して演武会用の武的棒振り踊になるのも当然でしょう。其の上土佐の居合の何たるかもその業名すら忘れ去られているのが現状です。
 連盟の段位取得優先思考が蔓延し、流派の正しい伝承を置き去りにしている指導者のなんと多い事か・・思いつくままに。

|

« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1 »

曾田本その2を読み解く」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐の居合の為に24の3曽田虎彦 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1 »