« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2 »

2019年8月 5日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の1

曽田本その2を読み解く
24スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の1

 ー特に此一篇を屢々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県稲岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐー
 1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴ひ、かなり古くから行われたやうである。土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈忠左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝へたる人であるが、亦居合の名手として伝へられる。或時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云ふ懇望があった。忠左衛門は之を快諾したが、暫らくして人々にうち向ひ、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云ふのである。人々が呆然として顔見合せているのを見て、忠左衛門は笑ひながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云ふので、試にその小姓を呼んで調べて見ると、果して言の如く見事に切断せられて居たと云ふ。忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其後土佐藩士人の間に伝へられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於て大いに其本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝へられた長谷川流居合そのものである。

 曽田本その2には曽田先生の直筆の居合に就いての蘊蓄が書かれているのですが、更に進んで、資料集めも積極的であったと思われます。この平尾道夫先生の「長谷川流居合と土佐に於ける其普及について」も何処からそれを切り取って張り付けたのか何も書かれていない為にその扱いに苦慮しました。
 平井道夫先生の著書「土佐武道史話」は高知新聞社発行で昭和36年1961年に出されたものは土佐の居合を学ぶ方にも良く読まれているものと思います。その序に代えて「戦争を否定し、暴力を排斥する現代の日本で、おこがましくも武道とはなにごとか、と目をむく人があるかもしれない。だが、武というのは「戈(ほこ)を止める」の二字から形成されたもので、つまり戦争否定の思想をあらわした文字だと教えられたものだ。してみると、戦争や暴力がいやなのは昔の人も現代人とかわりはなかったはずで、武道とはその語意平和道に通ずるものと解釈してもさしつかえはあるまい」と武力を賛美するのでは無く、武をもって和する心を学ぶ一端を示そうとされる気持ちが伝わってきます。
 この雑録のスクラップは土佐史談34に掲載されたもので、曽田先生は土佐史談34の95Pから100Pまでを外されて曽田本その2のメモ帖に張り付けられています。1項目から9項目に別れていますので項目ごとに日を追って掲載させていただきます。今ならスキャンするなりコピーするなりの事が出来るのですが、私の手元には土佐史談34の冊子の95~100ページが生の儘あります。

 この平尾先生の文章から、土佐には小栗流の朝比奈忠左衛門可長によって大栗流剣術に附随した居合が行われていたのでしょう。そこへ林六太夫守政によって江戸から新しい居合が入って来たのでしょう。土佐藩第3代忠豊公の時代に小栗流居合を親しんだ土佐の人に、あえて林六太夫は居合を家業とせずに本職の料理人を務め居合を余技としていたのも、第4代忠豊・5代と豊房・6代豊隆・7代豊常・8代豊敷と五代の藩主に仕えたのもその人柄を思わせます。
 ともすれば俺が、我こそはと人を押し退けてまで自己顕示しようとする人の中で、土佐の居合の「夢うつつの如くの所よりひらりと勝」とか「我が身を先づ土壇となして後自然に勝」などの極意は新陰流の活人剣を思わせるもので、信頼できる風雅な趣にいつの間にか居場所が出来ている人だったのでしょう。

|

« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2 »

曾田本その2を読み解く」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐固有の武道居合術の復活24の4竹村静夫の手記 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の2 »