« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9 »

2019年8月12日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の8

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の8

 山川氏の如く、居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。前者は小児科医下村宗真の子で嘉永5年正月12日居合術体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久3年4月15日居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第6節に述べたから、此所には反復しない。
 右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。山内家第15代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実をかたったものに、左の一齣(ひとこま)がある。
 (上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附随した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合といふものが12本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。7日7夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録223輯)

 山川久蔵幸雅は文政3年1820年に藩から居合指南役を命ぜられています。
 下村茂市が召し出されたのは嘉永5年ですから1852年の事です、其の翌年には米国のペリーが浦賀に来航しています。
 谷村亀之丞自雄は天保8年1837年に稽古扶持として3人扶持を賜り、天保15年1844年には芸家として取り立てられ、文久2年1862年には導役となって居ます。江戸時代末期の50年程の期間が土佐での居合の隆盛期だったように思えます。
 
 平尾先生の土佐武道史話によると、容堂公が谷村亀之丞自雄を師として居合に励み弘化元年1844年に根元之巻と目録を受けているとされています。この頃には複数の者に根元之巻と目録が授与されていたのでしょう。第15代谷村亀之丞自雄から根元之巻及び目録を受けた者は、山内容堂、楠目繁次成栄、五藤孫兵衛正亮という事でしょう。
 

|

« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9 »

曾田本その2を読み解く」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7 | トップページ | 曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9 »