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2019年8月 9日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐の於けるその普及について24の5平尾道夫の5

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の5

 居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸で無かったから、別に師匠役などの任命はなかった。併し個人として之を門弟に授けた為めに、此以後長谷川流居合は小栗流無外流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。六太夫の子安太夫政詡を経て、六之丞政長、其弟益之丞政誠彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝へて居る。益之丞政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であらう。
 六太夫の二男脩之丞正靖は、甚三郎と改めて小栗流師家足立茂兵衛正藹の後を継いだ。益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政13年正月22日其技を以て特に召し出され、三人扶持御馬廻り末子に列し、屢々藩主豊資公の感賞に與ったが、後ち池田和太夫と改名、天保2年7月18日病死して、後は断絶した。楠目成徳の「手抄」24巻には、「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀の術を伝へ、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書25巻には「文政の頃林八郎次彌太夫の弟と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次八郎次と諸人に称誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云へり」と見えて居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

 この林家のメンバーを現在言われている道統に従って並べてみると以下の様になります。
 9代林六太夫守政ー10代林安太夫政詡ー(11代大黒元右衛門清勝)―12代林益之丞政誠ー(13代依田萬蔵敬勝)―14代林彌太夫政敬ー(15代谷村亀之丞自雄)―(16代五藤孫兵衛正亮)―(17代大江正路子敬)・・。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によれば、第9代林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけて助五郎政彬と縫之丞正靖(脩之丞正靖)であったが幼少の為、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合伝授を授けた。これが第10代林安太夫政詡である。名字から推し測れば、第10代林安太夫の後は、第9代林六太夫の妻の実家大黒家から第11代大黒元右衛門清勝が道統を継いだのでしょう。
 第12代林益之丞政誠は第10代林安太夫の子であったかこの平尾道夫先生の著となる土佐史談と土佐武道史話だけでは読み取れませんが、恐らく12代は10代安太夫の子であったろうと思いたいのは私の勝手です。
 第13代依田萬蔵敬勝は何処にも其の謂れが無いのでわかりませんが、第12代林益之丞政誠の長男が第14代林彌太夫ですから12代の後は弟子の中の優秀な者であって、その後は林家に戻され林彌太夫が14代になったのでしょう。
 それ以後は優秀な弟子が選任されたと思われます。

 第17代大江正路先生は大黒元右衛門の後に分離した下村派の第14代下村茂市定の弟子でしたから、谷村派の第16代五藤孫兵衛正亮の後を継ぐ事が出来たか疑問ですが、五藤正亮亡き後、引き継いだ谷村樵夫自庸も亡くなってしまい、維新後の事なので其の辺の事は幻の中なのでしょう。家は継ぐ事は出来ても芸事を血筋のみで引き継ぐ事は大変難しい事でしょう。それは現代の方がより難しくなっている様にも思えます。 

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