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2019年8月15日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の2

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政
24の6居合術教士県道錬士中西岩樹の2

 先づ林六太夫守政先生までの直系を掲げてみると次の通りである。池田豊後・助五郎政弘・助五郎政勝・権吉郎政久・市兵衛政友・五左衛門政良・六太夫守政
 即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
 池田豊後は大和の人で一條家に仕ふる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469~1487年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随ひ弊多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。
 政弘は宗閑と號し爾来一條家に仕へている中槿花一朝一條家が久しからずして滅亡し豪族長曾我部氏興るにおよび其子助五郎政勝之に仕へ兵部と称し後従軍して戦死し当時7才であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕へ権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜ふて處士となり南隣大津に居住していたそして長曾我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間死没した後子五左衛門政良が山内氏に召出され御料理方となるに至った此の五左衛門政良こそ仍(乃ち)林氏の初めである。
 而して姓を林氏に改めた政良は萬治3年(1661年)山内二代の藩主忠義公の命により礼節を其宗家伊勢家に学び寛文10年(1671年)4代豊昌公の時宗邑80石を給ふて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝3年(1675年)4月晦日病死したので翌5月晦日六太夫先生が跡を嗣ぎ城南八軒町に居住した。

 文明年間と云えば1469年~1487年ですからたった11年間です。12代足利義尚の時代、応仁の乱の後土佐に入り土佐一條家を成したそうです。その一條家に従って林姓の元の姓である池田豊後が随身して土佐に下った。池田豊後は郷里大和へ帰ってしまい、子の池田助五郎政弘を土佐に残して置いた。そんな中で「槿花一朝」ムクゲの花の様に朝咲いて夕べには萎れる様に「はかない夢を見た様に」土佐一條家は滅亡してしまった。
 林六太夫の父池田五左衛門政良は土佐藩主山内氏に召されて御料理方となって居ます。年代は明らかでありませんが承応元年1652年から明暦3年1657年の間でしょう。萬治3年1660年には2代藩主山内忠義公から80石賜っています。延宝3年1675年に没しています。其の年林六太夫は後を嗣でいます。

 

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