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2019年8月 8日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史伝雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史伝
雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の4

 長谷川流居合を土佐に傳へたのは上述の如く林六太夫守政である。林氏の祖先は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕へ、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。
 其子兵部政勝戦死した為め、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曾我部氏に仕へ、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
 其子市兵衛政友、承応年中に逝き、政友の子政右衛門政良初めて林氏を称し、山内家に仕へた。
 延宝3年4月晦日政良病死後、同年5月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行80石、格式新御扈従、料理人頭と云ふ父の職禄も其儘承けたものである。豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗ふ手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せしめたと云ふ逸話も残って居る。
 よろず才能に秀でて、本職の庖丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末枝に至るまで諸芸16般を極め、孰れも人師となるに足りたと云ふ。就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其奥を極め、累々典礼に関する書付けを上って、其都度感賞に與り、元禄10年には加増20石、同16年には更に50石を加へられて、都合150石を賜はり、宝永3年には大扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
 正徳2年には老齢によって大御扈従を免ぜられて馬廻になり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保17年7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊敷5代の藩主に歴任し、君寵の衰へなかったのを見ても。如何に其人格の円熟して居たかを察すべきであらう。

 平尾道夫先生による土佐史談34の雑録の内容は、平尾道夫著昭和36年1961年発行「土佐武道史話」に長谷川流居合として整理され記載されています。
 少々気になったのは、土佐武道史話によると「はじめは知行80石で新小姓の格だったのが、後には160石の馬廻に昇進し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役にまで出世した。太平の時節にこの様な昇進を見ることは異数の例で、それだけに彼の才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。彼の名を後世に残す長谷川流居合は、実は六太夫にとって余技にすぎなかったのである。六太夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70歳で亡くなった。・・」扶持高10石の違いと17日の死亡日が7日の違いが気になりました。
 林六太夫にとって余技に過ぎない長谷川流居合を、神傳流秘書をはじめ多くの目録秘訣を林安太夫に伝え残された事には並々ならぬ能力をお持ちだったと驚くばかりです。

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