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2019年9月

2019年9月30日 (月)

曾田本その2を読み解く43直心影流兵法目録次第

曾田本その2を読み解く
43、直心影流兵法目録次第

八相 發 破
一刀両断
右轉左轉
長短一味
龍尾 左右
面影 左右
銕破(てっぱ、くろがねやぶり)進退
松風 左右
早船 左右
曲尺
圓連 刀連 體連

  右口傳

1 陰之搆之事
1 陽之搆之事
1 相搆之事
1 相心之事
1 目付之事
1 仕懸之事
1 手之内之事
1 横一文字之事
1 竪一文字之事
1 留三段之事
1 體當之事
1 太刀當之事
1 切落之事
1 吟味之事
1 相尺之事
  
  右口傳

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 功妙剱 口傳
 心妙剱 口傳
 気當  口傳
 権體勇 不行 不帰 不正 口傳
 西江水 口傳
 惣體之〆 口傳
 口上極意之事 口傳
 不立之勝 口傳
 十悪非時 口傳

 カマン カシン トンヨク イカリ ヲソレ アヤフミ ウタガイ アナスリ マンシン
 (我慢 過信 貪欲 怒り 懼れ 危み 疑い 侮り 慢心 ならん曽田メモ)

◎勝と云うは先々先に後能勝は また先々に先後先後と
◎右左後も前も一致して天地万物同根一空
◎書渡し口に伝ふることの葉の常の心に持てばたん連舞(鍛錬)
 右の首 口傳

 以上

右條々極意者有口傳以理為実以実為理也 愈工夫鍛錬二六時中無急慢御勉可為肝要者也 先師杉本(松本)氏目録之旨趣雖為奥義 今足下数年有信仰而二六時中依被勵懇精 不残一塵授之 彌抽丹誠此道有 切磋琢磨工夫可被鍛錬 而猶心妙不測之所免状之時可顕之者也

鹿嶋神傳元祖
杉本備前守藤原正元 (武術叢書には「松本正元」とあり写違ひなりや)
上泉伊勢守藤原秀綱
奥山休賀齊平公▢
小笠原源信斎源長治 (同 玄信齊とあり)
神谷僧心斎平真光
富樫直翁齊源重治
山田一同齊藤原光徳
長沼四郎世然尉藤原▢郷
長沼活然齊藤原▢郷
藤川弥四郎右衛門尉原近義
藤川源郎四郎藤原近徳
藤川弥八郎藤原近▢
藤川弥四郎右衛門藤原 貞
酒井良佑源成大
橘慎吾右衛門橘
天保13壬寅年10月吉日
渋谷小四郎殿 参
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 直心影流兵法目録次第ですが、曽田本その2に何故他流の目録を挿入させたのでしょう。この目録のメモの筆記者は曽田先生ではない様に思われる書体のものです。文字が判らずに▢の部分が幾つも出てしまいました。

 右の條々極意は口伝に有り、利を以て実と為し実を以て理と為す也 いよいよ工夫鍛錬二六時中怠慢無くお勉め肝要なるべきもの也 先師杉本氏(松本氏)目録の旨趣奥義なると雖も 今足下数年信実深く仰ぎてあるとも二六時中懇精に勵まれるに依り一塵残らず之を授く いよいよ丹誠を抽し 此の道切磋琢磨工夫鍛錬あって猶心妙不足の所 免状の時顕わるべきものなり。

 恥ずかしながら読み切れませんが、各條々は口伝に依る極意なので工夫鍛錬怠らず行って実理を得ることが肝要だ。切磋琢磨工夫して鍛錬して居れば心の足らざる所も免状に価するようになる。と言っているのかも知れません。

 直心影流の目録には柳生新陰流と同じような文言が幾つか見られました。一刀両断、右転左転、長短一味などですが他流の事なので深追いは出来ません。
 曽田先生は大正4年発行の早川順三郎による「武術叢書」を片手に手に入れた資料をチェックしている様で、この直心影流兵法目録も見ている様です。
 参考とさせていただいた資料は山田次郎吉先生の昭和12年1937年発行「剣道極意義解」に依ります。曽田本その2の直心影流兵法目録次第は別の資料によるかも知れません。
 

 

 

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2019年9月29日 (日)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の5だまし打ち

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑
質問を受けたる事項次の如し
42の5だまし打ち

2、居合は本来の目的よりして剣道の所謂先々の先にあらずして先又は后の先の一刀と信じますが、上意抜打は別とし(之とて上意と呼びてなすと▢る)一切敵を「だまし」打にする事は無之と信じますが、立膝の岩浪に於て左に向き右足にてトンと踏みたる時敵ハッと右に振りたる其の胸(又はのど)をさすと説くは丁度之にては「ダマシ」打の教あり。本業の正しき祥義を是非御教示の程御願申上益。
 解説「正面より我刀柄を取り押えんとするにより、我先に廻り柄を右によじて刀を抜き敵を突くの技にて決して「だまし打」にてあらず、尚突く時足を「とん」と踏むは突く刀勢を添ふるものなるにより(又一説には敵我刀を押えんとする其柄を踏む心持ありと)音をせずして突くもあること心懸くべし」。


 この河野先生の質問には、人を武器によって殺傷する事の根本的な問題提起が為されています。武術の行使をすると云う事は、人のコミュニケーションの最終手段である事と、単なる真剣勝負との区別もつかないようでは[だまし打ち」程度の言葉遊びが出てしまうのでしょう。

 土佐の居合の古伝には神妙剣の教えが語られていました、すでに曽田本その1で紹介済みですが、ここで再び神妙剣を登場してもらいます。
 「神妙剣:深き習いに至りては実は事(業)無し常に住座臥に之有る事にして二六時中忘れて叶わざる事なり、彼れ怒の色見ゆるときは直に是を知って怒を抑えへしむるの叡智(頓智?)あり、唯々気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に致らしめずして勝を得る也。去りながら我臆して誤り(謝り)て居る事と心得る時は大に相違する也、兎角して彼に負けざるの道也。止事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も死なずの道なり。
 亦我が誤りも曲げて勝には非ず、誤るべき筋なれば直に誤る(謝る)も勝也。
 彼が気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也。委しくは書面にあらわし尽くし難し、心覚えの為に其の端を記置く也。」
 古伝の最終章はこの一文に尽きています。剣道や柔道、相撲などの勝負事で、力と速さの身に頼るのは若い時の事、いずれ体力の衰えによって若者にコロコロ負かされて、悔やんでみても意味のない事です。いかに年をとっても負けないのが武術でなければ生涯修錬する意味など無いに等しいものです。
 古流剣術に秘められている奥義は現代居合による「だまし打ち」は無いと信ずる程度の「安易なうそ」では得られる訳は無いでしょう。

 

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2019年9月28日 (土)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の4林崎先生

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より
42の4質問を受けたる事項

1、林崎先生

1、A 林崎先生は北条泰時第二子説。B 宗時▢▢説。C 足利末期説の三説有之様にて私は▢見的研究の結果、A、B、両説は単なる伝説の様考へられ、小冊子には、足利末期説をとり、足利13代義輝の頃(永禄、元亀)と致して居りますが当研究▢▢▢ます

◎先生(虎彦を指す)の御説の秀吉御学被成云々より致しましても足利末期説を其とするに足る様考へられます
◎北条五代時頼より秀吉迠340年
◎三代泰時ー秀吉迠360年
◎足利五代義量ー秀吉迠160年
◎足利末期十三代義輝より秀吉迠は37年にて何れよりするも足利末期説確かの様ですが如何でせうか。

1、(大森流始祖は大森六郎左衛門との御説に依り確信を得まして心より感謝致します)
 A 就きましては其時代(九代林六太夫先生)迠は正坐大森流はなく、
 B 長谷川流の立膝は英信の初めたものとすれば英信以前には立膝及び正座は無き訳ですが無双神傳流として林崎より伝来せしものは(現今の業を以て称へば)今の奥居合の居業立業のみであったのですか。
結論
1、奥居合の居業、立業は林崎先生以来伝来今日に至る。
2、立膝は英信に始る。
3、正座は(始祖大森六郎左衛門)にて九代林先生の頃より始まる。と見て差支無いでせうか。

◎然して現今大森流を(九代以来)附属せしめて之を無双直伝英信流と称すとして差支へ無之▢(候)也。

 河野先生の曽田先生への質疑は、疑問に思った事の抜粋の様な書き方なので、その謂れが見えません、突然林崎甚助重信の存命した時代を北条泰時の第二子説から始まっています。
 北条泰時は鎌倉幕府の執権ですから元久2年1205年源実朝時代の執権で元久2年から仁治2年1240年まで勤めています。北条時宗は文永5年1268年から弘安6年1283年の期間の執権となります。
  足利時代は延元3年1338年足利尊氏が将軍となり天正元年1573年足利義昭が織田信長に追放されて足利幕府が消滅する迄続いています。
 秀吉の時代は天正10年1582年織田信長が明智光秀に本能寺で攻められ滅ぼされ、豊臣秀吉として関白となったのは3年後の天正13年1586年です。慶長3年1598年に死没し、5年後の慶長8年1603年には徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いて居ます。
 どの様な、資料から鎌倉時代まで林崎甚助重信の生まれを辿ったのか、昭和の初めには様々な、嘘が飛び交ったのかも知れません。結局何を根拠としたか不明ですが、足利末期の人とされたのでしょう。
 林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年1991年発行では重信の生年については「重信の生年については諸説があり確説は無い。参考に文献に記されたものを書いてみよう。」とされています。
 天文11年1542年 林崎明神霊験記
 天文11年1542年 東邦新聞史談
 天文11年1542年 居合神社記
 天文17年1584年か天文13年1544年 武術太白成伝
 天文2年1533年か享禄4年1531年 増補大改訂武芸流派大事典
 明治20年の林崎明神霊験記の著者林多少氏は、代々の別当家であるので、天文11年生まれは口碑として伝承されていたものであろう。とされ、武術太白伝および武芸流派大事典は生歿に不合理で疑問とされています。
 同書の略年表では天文11年林崎甚助重信生誕、幼名民治丸とされています。
 足利末期説で良いのですが足利義輝ではなく足利義晴の時代となります。恐らく、河野先生は、武術太白伝辺りを資料とされたのでしょう。
 
 就ましては、以降の業項目の整理については大江先生も、河野先生も、現今の無双直伝英信流居合兵法では明確な成り立ちの教授はされていない様です。
 大森流は大森六郎左衛門の居合を第9代林六太夫守政によって附属せしめた事も、大江居合の正座之部として稽古されているばかりでその経緯さえ明確に示されていません。
 立膝之部も同様ですが、この立膝之部が長谷川英信によって創作されたと云う明確な資料は見当たらず、英信がどのように優れた人で本来無雙神傳林崎流と云うべきを無雙神傳英信流と云うと古伝神傳流秘書にも記されている程度のものです。
 現今の無双直伝英信流の流名呼称の名付けの由来も大江先生に依る程度の事で不明瞭です。まして正座之部、立膝之部、奥居合之部の業の関連性やそれぞれの部との武術的違いなどの明確性も不十分です。
 次いでですが、正座の部一本目前と立膝之部一本目横雲の違いを武術的根拠をもって説明できないにも関わらず、正座之部は入門業、立膝之部は中級者向け、奥居合之部は上級者向けなどと云うのはナンセンスでしょう。正座の八重垣の受払、立膝の虎一足、奥居合の脛囲は同じ動作に過ぎません、何處が初中上なのでしょう。無理やりこじつけても意味のないことです。
 古伝は、大森流は陽進陰退で「・・開き納又左を引て抜付打込み・・」、英信流は虎一足で「左足を引き刀を逆に抜て留め・・」、抜刀心持之事では柄留で「虎一足の如く下を留めて打込」でした。業名、手附の微妙な違いに反応できる想定によって稽古の質を高めれば理解出来ていくはずです。
 第9代林六太夫守政が土佐にこの居合を持ち込んだ時に、其の侭並行的に附属せしめたにすぎず、大江先生も改変する際にその関連性や武的向上を求める手立てには手を付けられずに終わったのでしょう。居合抜の名人であってもこの辺の資料の研究がなされていないわけですからその流派の権威者と思しき人の発言に依って決めつけてしまうのは、疑問を説いたことにはならいでしょう。  思いつくままに

 

 

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2019年9月27日 (金)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の3大森流流名に就て

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑
質問を受けたる事項次の如し
42の3大森流流名に就て

 其時代、始祖、どーも確信ある材料が無し
イ、林六太夫(9代の)剣の師匠大森六郎左衛門が真陰流の古流五本の形から案出して英信流に附属せしめた・・との説を根拠として(大森流は始祖大森六郎左衛門也)とする一説。

ロ、大森流は之れより以前英信より前にあったもので(然し年代始祖不明)大森六郎左衛門が始祖ではないとの一説。
 同氏の原稿には(福井先生の説を骨子とし)次の様に書いてある也
「当流の正座及び奥の立業は大森流と呼び正流第7代英信の以前より当流の正伝として代々伝来せられたる業にして立膝及び奥の居業は長谷川流と称し英信の創案に成く之れに形を加へ総称して無双直伝英信流と唱ふ」
 尚、太刀打之位、詰合之位、大小詰、大小立詰の四業に付て其の始祖及び年代ご教示を乞ふ。

 イの説が一般的ですが、別の説ロについては、聞いたこともそれらしき資料も知りません。河野先生の質問状には、福井先生の説と有りますので、この福井先生は第19代福井春政先生の事だろうと思います。福井先生は何処からその説を持って来たのかあれば楽しいでしょう。
 恐らくこの質疑は昭和10年以降のもので、第18代穂岐山先生が亡くなられた(昭和10年1935年)後に河野先生と曽田先生との交流が有ってからのものでしょう。現在までそれらしき資料の公開はされた事はありません。土佐の何方かが福井先生の残された資料をお持ちの方がおられれば良いのですが、この時代になっても土佐から門外不出でもないでしょう。
 私の使用する資料は古伝神傳流秘書は曽田先生の直筆写本と木村栄寿先生による細川家伝書に依ります。共に大江先生系統のものでは無く、一般に云う所の下村派系統の伝書です。第16代五藤正亮先生系統の谷村派の伝書が不明でせいぜい免許皆伝相当の根元之巻と目録程度のものばかりです。
 これらについて正しい答えは得られそうにはありませんが、古伝神傳流秘書によるところが良さそうです。南山大学の榎本鐘司先生の「北信濃における無雙直傳流の伝承について」の論文から「無双流和棒縄居合目録」により土佐の居合と業名が一致するものを拾うと以下の様です。
括弧内は土佐の古伝神傳流秘書による
 和:使者取(使者捕)・砂乱(五月雨)・弓返し(弓返し)・附入(附入)・左詰(右請)・抜捨(抜捨)・急天(胸点)・向面(向面)・猿猴(遠行)・鐺返し(鐺返) 
 立合の和:行連(行連)・夢相(夢想)・爪捕(裾取)・志けん(支剣)・車附(車附)・玉簾(玉簾)・打込(打込)・燕返し(燕返)・追捕(追捕)
 小具足:11本省略(11本)
 後立合:11本省略(11本)
 小具足割:11本省略(10本)
 大小詰:7本省略(8本)
 立合(詰):9本省略(大小立詰7本)
 大剣:13本省略(大剣取10本)
 棒目録:棒合(棒合)・腰車(腰車)・小手揚(小手上)・小手落(小手落)・見帰り(見返)
 居合向身:横雲(横雲)・稲妻(稲妻)
 居合右身:浮雲(浮雲)・山颪(山下風)
 居合左身:岩浪(岩浪)・鱗返(鱗返)
 居合後身:波返(波返)・瀧落(瀧落)

 この対比から土佐の居合は北信濃の無双直伝流と同じ流れを辿っていると思われます。それでは東北地方ではどうかと言えばニ三行き当たりそうに思えるのですが殆ど別物の様な業名です。北信濃の居合は土佐の居合で云えば大江流の立膝之部に相当しています。奥居合は「三角・四方切・▢乞・棚の下積」の目録にその雰囲気を感じますが不明です。居合は英信流そのものであって、大森流は土佐独特の居合で第9代林六太夫が大森六郎左衛門の居合を取り入れたとするのが自然かも知れません。

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2019年9月26日 (木)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より質問を受けたる事項次の如し
42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

 「英信は其の技古今に冠絶し精妙神技を以て始祖以来の達人として聞へ古伝の業に独創の技を加え茲に流名を無双直伝英信流と改め爾来当流を異称し長谷川英信流又は長谷川流或は英信流と呼ぶに至れり、而して英信は享保頃江戸に於て斯道を研究大成し晩年土佐に▢無して大に之れを広め同地に其の逸材を輩出せしが」以下表右の如く、享保時代として、英信として相違無きや。是は同氏が当流に関する小冊子を発刊するに当り▢ね起したる質疑なり以下何れも同断。

 此処での質疑は無双直伝英信流は長谷川英信が独創したもので、時代は享保の頃でいいのかという質問です。居合の始祖は林崎甚助重信であり流名は、奥州地方では林崎新夢想流、林崎流、林崎田宮流、林崎夢想流、林崎流居合、林崎神流などと云われていた様です。北信濃では無雙直伝流として伝わり、長谷川英信や荒井勢哲などが江戸へ出て道場を起したとされています。その道場へ土佐の林六太夫守政が江戸勤務の際、指導を請け土佐に戻って広めたという説が正しそうです。
 その流名は古伝神傳流秘書に依れば「無雙神傳英信流居合兵法」とされています。
 土佐に持ち込まれた年代は林六太夫の年齢から推し測れば寛文2年1662年林六太夫守政生まれる~享保17年1732年林六太夫守政死す。ですから寛文は1661年~1673年、延宝は1673年~1681年、貞享は1684年~1687年、元禄は1688年~1703年、宝永は1704年~1710年、正徳は1711年~1715年、享保は1716年~1735年でこの享保17年1732年に死亡したわけです。
 林六太夫の時代は寛文・延宝・貞享・元禄・宝永・正徳・享保と7つの年号にそって生きたと云えます。年号と年齢を勘案しますと以下の様です。
 寛文0~11歳
 延宝12~20歳
 貞享21~24歳
 元禄25~40歳
 宝永41~47歳
 正徳48~52歳
 享保53~70歳
 20歳から40歳までに修行することが出来ていれば、土佐に戻って普及に尽力したのが41歳から71歳までとすればその時の最長年号は享保となるでしょう。
 従って土佐における無雙神傳英信流居合兵法は享保の頃土佐に普及されたと云えるでしょう。然し長谷川英信の居合はそれより早い元禄時代とも考えられます。
 城中での座し方が正座と定められてから普及した大森流居合が土佐の居合として今日まで居合の基礎として稽古されている事を考えますと、長谷川英信が林崎甚助の居合の何を改善したのかも知られていない現状では英信流というよりも、大森流の価値の方が高そうです。そうであれば無雙神傳大森流居合兵法の流名もあって然るべきでしょう。
 ちなみに真陰流五本の業からの転用とされていますが、真陰流の業はどういうものであったか不明です、上泉伊勢守の業であれば新陰流の「三学円の太刀」が五本の業から成り立っていますが、どの様に工夫されたのか疑問です。私はこれらの不十分な経歴にメスを入れて掘り下げるよりも一本一本の業や組太刀、棒、和術などを武術として人体の動きを明確に捕え古伝を掘り起こし解り合い語られるべきものと信じています。

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2019年9月25日 (水)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の1英信流に於ける礼式

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より
質問を受けたる事項次の如し
42の1英信流に於ける礼式の件

 主礼は神前玉座に対する礼
 坐礼は刀に対する礼なりと信じ居れるが一説に相当の人にて立、坐共に玉座神前の礼にて坐礼は近世に至りて始まったものだと唱ふるあり 如何

*
 この項は、曽田先生に河野先生が手紙で疑問点を問いただしているものの幾つかです。曽田先生の考えが述べられているものも無いものもあります。礼式については何も述べられていません。この質問が何時何に使うためにされたのかも不明です。
 河野先生は昭和8年1933年に「無雙直伝英信流居合術全」を出されています。その後昭和13年1938年に「無雙直傳英信流居合道」を出し、昭和17年1942年に「大日本居合道図譜」で河野居合を確立しています。この質問事項がどの冊子に反映したのか解りませんが、八重垣会を設立したのが昭和6年1931年だそうですから(大日本居合道図譜より八重垣会の思ひ出)このころから疑問を一つずつ説いて行かれたのでしょう。

 曽田先生との接触の初めは判りませんが、「無雙直傳英信流居合術全」を書かれるには基礎知識が必要だったと思われます。師と仰がれた18代穂岐山先生は昭和10年1931年に亡くなっていますから、師匠亡き後の事か以前からの事か、土佐の居合を紐解く一部にはなりそうです。
 河野先生の質問は、神殿、玉座の礼は立ってするのか坐ってしてもいいのか、坐礼は刀にするものと信じているが如何かという事のようです。

 大江先生の「剣道手ほどき」大正7年1918年より神殿の礼:「刀の鍔元左手に持ち拇指にて鍔を抑へ刃を上にし刀身を斜めとす、直立体にて神殿に向て黙礼をする。」

 河野先生の「無雙直傳英信流居合術全」昭和8年1933年の作法:「神殿又はぎょくざに向ひて刀を抜かざる事(でき得れば玉座を左にして行ふ事)。場に入る時は、鍔元を左手に持ちて拇指にて鍔を抑へ、刃を上にして刀を下げ下座より玉座に向ひ直立体の儘刀を右手に持替へ(この時刃を後方に向け)右側に軽く接し立礼をなす。刀を左手に復して適当の位置に至りて正座す。正座したる時は、刀は恰も左腰に差したる状態にあるを以て、右食指を鍔の下拇指を上にかけて刀を腰より抜き取る気持ちにて右前方に抜き取り、膝の前方中央約一尺の處に鐺を右柄を左方に刃を後方に向けて置き双手を八文字につきて礼を行ふ。」
 ここでは神殿玉座の礼と刀の礼とは別にされています。大日本居合道図譜でも同様ですが、赤字の部分は「刃を自分の方に向け」と変えています。
 

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2019年9月24日 (火)

曽田本その2を読み解く41霊夢

曽田本その2を読み解く
41霊夢

 昭和13年3月14日午前2時頃虎彦霊夢により故行宗先生曰稽古着にて夢枕に立たれ御生前の如く親しく問答を交わしたり而して余は刀の納め方につき御示教を乞ひたる処詳に御伝授ありたり即ち
 「居合技に於て最も秘蔵にして重きをなすものは抜刀。納刀の妙諦を得るにあり、納刀技は鯉口に刀棟を上より降すことなく、開きたる刀を其の侭左斜めに持ち来り棟にて恰も瓜の皮を剥く如く摺り上げ鯉口の処にて巧みに刃を上に返して鯉口を後ろに繰り右手は体の前方に伸ばし指三本にて支へ右手の伸びたる時は鞘と刀身とは一直線になる様心懸くべしと」
 此時先生は見事なる居合刀を持たれて居たが土居君(余を指す)此の刀で抜いてみたまへと云はれたが、何は兎もあれ先生に一本拝見さして頂き度しと請へば先生早速、然らば伯耆流居合を抜いて見せんと立ち上がられたが此の時はかなくも夢醒めて、そぞろの感に打たれたが所謂神秘夢伝とも云ふべきであろう。

 この曽田虎彦先生の霊夢は岩田憲一先生の「土佐の英信流 旦慕芥考」平成元年1989年に第3篇の名士の記録に曽田先生の他のスクラップ等資料と一緒に掲載されています。
 この霊夢から、土佐の居合の納刀について、「鯉口に刀棟を上より降ろすことなく」と下村派の行宗先生は云われています。そう言えば中西岩樹系統も山本宅治系もくるりと上から刀棟を鯉口に下し納刀しています。という事は大江居合もクルリストンだったのでしょうか、行宗先生と師匠は同じ下村茂市定ですから、行宗納刀を教わっていた筈です。
 河野先生の納刀も行宗納刀の形ですから、穂岐山納刀を大日本居合道図譜のころまでに変えたのでしょうか。クルリストンとやって指を斬ったり、納刀しそこなったりしているのを見ていますから有効な方法とは言えないでしょう。残心で自傷するとか見栄えを優先する方法は如何なものでしょう。大道芸を志す場合はクルリストンは投げ銭が多いかな~。

 実はすでにこのブログでも解説しているのですが、河野先生が第18代穂岐山先生に書簡を送り回答いただいた中にも行宗先生同様の納刀がなされるよう解答されています。
 改めてここに記載しておきます。(曾田本その2を読み解く22スクラップ居合の疑義に尽きての解答22の5納刀2019年7月16日)
「答、此場合初心の者に説明するには、血振の時の拳のまゝ手首(少しく)と腕を曲げ刀身を鯉口にあて納むる如くすれ共、実際に於いては練習を積むに従い是にては何となく業の堅くしてやわらか味無き感を来し候、此意味に於いて血振いの位より起動の為め、心持拳を右にかやし直ちに復旧して刀刃を上方に向けつゝ鯉口の位置に運ぶものに候、然れ共是は極く瞬間のものにして他より見て、拳を右に返す動作の明に認め得る如く大きくゆっくりと動作するには無之、只起動の為めつまり動作を速にするために候、然し原則としては拳は返す事無く、血振いの位置より其儘運ぶものなる事を忘れざる事肝要に候。」
 

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2019年9月23日 (月)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の4

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻40の4
福井春政先生より河野百錬先生に伝授したる伝書の写し
無雙直伝英信流居合兵法叢書より抜粋す

根元之巻 大江先生の根元之巻と略同じにつき省略す。

流名 林崎無想流 
   林崎夢想流 

   重信流

名称 
横雲 深山には嵐吹くらし三吉野の
       花か霞か横雲の空
虎一足 猛き虎の千里の歩み遠からず
       行より早く帰るあし引き
稲妻 諸共に光と知れど稲妻の
                     跡なる雷の響き知られず
浮雲 麓より吹上がられし浮雲は
       四方の高根を立つゝむなり
山颪 高根より吹下す風の強ければ
       麓の木々は雪もたまらず
岩浪 行く舟のかぢ取り直す間も無きは
       岩尾の浪の強くあたれば
鱗返 滝津波瀬上る鯉の鱗は
       水せき上げて落つる事なし        
浪返 明石潟瀬戸越す波の上にこそ
       岩尾も岸もたまるものかわ
瀧落 滝津瀬の崩るゝ事の深ければ
       前に立添ふ岩もなきかな 

詰合 極意奥之事
1、発早 1、拳取 1、岩浪 1、八重垣 1、鱗返 1、位弛 1、燕返 1、柄砕 1、水月 1、霞剣

大小詰 大小立詰
1、抱詰 1、骨防扱 1、柄留 1、小手留 1、胸留 1、右伏 1、左伏 山影詰 1、〆捕 1、袖摺返 1、骨防返 1、鍔打返
1、蜻蛉返 1、乱曲 1、電光石火

大剣取
1、無剣 1、水石 1、外石 1、鉄石 1、栄眼 1、栄月 1、山風 1、橇橋 1、雷電 1、水月 

抜刀心持之事
1、向払 1、柄留 1、向詰 1、両詰 1、三角 1、四角 1、棚下 1、人中 1、行違 1、連達 1、行連 1、夜之太刀
1、追懸切 1、五方切 1、放打 1、虎走 抜打(上中下)

英信流
1、横雲 1、虎一足 1、稲妻 1、浮雲 1、山颪 1、岩浪 1、鱗返 1、波返 1、滝落 1、抜打(真向)

大森流(正座)
1、前身(初発刀)1、右身(左刀)1、左身(右刀)1、後身(当刀)1、八重垣(陽進陰退)1、請流(流刀)1、介錯(順刀)1、附込(逆刀)1、月影(勢中刀)1、追風(虎乱刀)1、抜打

以上

第17代範士大江正路 第18第穂岐山波雄 (第19代)福井春政研究協議之上改定する所あり口伝す

奥之部(改訂)
1、霞 1、脛囲 1、戸詰 1、戸脇 1、四方切 1、棚下 1、両詰 1、虎走 1、行連 1、連達 1、總捲 1、總留 1、信夫
1、行違 1、袖摺返 1、門入 1、壁添 1、請流 1、暇乞 1、暇乞 1、暇乞

形(改訂)
1、出合 1、拳取 1、絶妙剣 1、独妙剣 1、鍔留 1、請流 1、真方

以上

外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切 1、總捲 1、霞 1、雷電

上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 1、門入 1、戸詰 1、戸脇 1、壁添 1、棚下 1、鐺返 1、行違 1、手之内 
1、輪之内 1、十文字

極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地獄捜 1、野中之幕 1、逢意時雨 1、火村風 1、鉄石 1、遠方近所 1、外之剣 1、釣瓶返 
1、智羅離風車

以上

右之条々神秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道に熱心練磨之結果其蘊奥に達せらるるを認め爰に我英信流併而始祖重信流居合術を全相伝候宜敷将来本流之品位を堕す事無く之が普及を計り漫に他流に媚びず以て伝授の責を全ふせられん事を期せらる可し

天真正
林崎明神
初代 林崎甚助重信
(以下18代穂岐山先生迄連記)

林崎夢想流
林崎神伝重信流
林崎神伝流
林崎無雙神伝重信流
右同一名称也

昭和25年1月3日
無雙直伝英信流
 第19代正統宗家
 居合術範士・柔道教士7段 
 福井春政 花押
大日本武徳会 居合術範士
 河野稔百錬 殿

 大江先生の根元之巻を前回までに解説しましたが、河野先生の昭和30年1955年発行の無雙直伝英信流居合兵法叢書には第19代福井春政先生から授与された根元之巻および業目録が掲載されています、今回の河野先生の根元之巻の業目録と大江先生のものと対比し大江居合を古伝と絡めて
正当化されています。福井春政先生のころまでに多くの不明であった或は大江先生が中学生向きに改変され切り捨てたものが浮き彫りにされて来ています。
 昭和25年1950年の目録印可の公開ですから、その後の河野先生に依る古伝神傳流秘書の公開「無雙直傳英信流居合兵法叢書」と合わせ、無雙直伝英信流の宗家は充分それを錬磨され次代に引き継ぐ責務が有ろうかと思います。
 さりながら、現今最高段位十段を許された方達の目録には、正座の部、立膝の部、奥居合、番外、抜刀法、居合道型の目録のみです。現代居合は居合抜が本来で他は捨てたと言われるのでは、居合本来の武術としての有り様は全く理解される事無く指導される事となり、連盟居合は兎も角として、無雙直伝英信流居合兵法正統正流としては、せめて太刀打之事・詰合・大小詰・大小立詰・大剣取・抜刀心持之事・居合心をつたえる英信流居合目録秘訣や居合兵法の和歌位は充分指導されるべきでしょう。それらを知らないと云う無雙直伝英信流居合兵法の準範士以上の高段者は段位不相応であり指導者としては失格でしょう。 思いつくままに

 

 

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2019年9月22日 (日)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の3

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写なり
40の3

天真正
林明神
林崎神助重信
田宮兵兵衛業正
長野無楽入道槿露斎
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
万野團右衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六太夫守政
林安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
林益之丞政誠
依田萬蔵敬勝
林弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直傳英信流居合術17代目
大江正路蘆洲
大正10年7月吉日
鈴江吉重 殿

*
 天真正の冠を被った剣術の流派には天真正伝香取神道流が有ります。大江先生は五藤正亮先生の根元之巻を参考にこの免許皆伝を作成されたと思いますが、この流の道統の頭に「天真正・林神明」と書き込んでいます。天真正は香取神道流の頭に書かれているもので林崎神助(甚助)重信が林明神から伝授された神傳であることと、香取神道流の門を叩いたかも知れない事を匂わせます。証明できるものはありません。
 林崎甚助重信の居合は、土佐には伝わったかどうか是も疑問です。長谷川英信や荒井勢哲から江戸での修業が古伝神傳流秘書にある無雙神傳英信流居合兵法の全てでしょう。

 林崎神助重信の神助の文字は弘化2年1843年谷村亀之丞自由から山内豊惇公へ奉授された伝書に記載されています。北条五代記の巻第四に「さて又長柄刀のはじまる仔細は、明神老翁に現じ。長柄の益有を林崎かん介勝吉と云人に伝へ給ふゆへに、かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に、是を伝ふる。・・」とあります。作者は三浦浄心で永禄、元亀、天正、文禄、慶長、元和、寛永と戦国末期から江戸時代初めを生きた元後北条氏の遺臣だったそうです。北条五代記は元和年間に三浦浄心の遺構を整理して成立したものと言われています。北条五代記の史実性はともかく、「かんすけ」は「かん介=勘助=神助」で音は同じです。津軽藩に遺された林崎新夢想流の元禄四年1691年から正徳元年1714年の伝書には「林崎甚助重信」とあって現在の伝書と同じです。何処かで「神助」に変じて明治維新以降まで引き摺って来たのでしょう。

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2019年9月21日 (土)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の2

曽田本その2を読み解く
40、居合根元之巻
40の2目録

 大森流之部
1、前身 2、右身 3、左身 4、後身
5、八重垣 6、請流 7、介錯 8、附込
9、月影 10、追風 11、真向(抜き打ち

 長谷川流之部
1、横雲 2、虎一足 3、稲妻 4、浮雲
5、山下シ(颪) 6、岩浪 7、鱗返 8、浪返 
9、瀧落 10、真向

 奥居合之部
1、霞 2、脛囲 3、四方切 4、戸詰
5、戸脇 6、棚下 7、両詰 8、虎走
9、行連 10、連達 11、總捲 12、總留
13、信夫 14、行違 15、袖摺返 16、門入
17、壁添 18、請流 19、暇乞 20、暇乞
21、暇乞

 型並発声 イーエーイ
1、出合 2、拳取 3、絶妙剣 4、独妙剣
5、鍔留 6、請流 7、真向

右之条々深秘之極是也非真実之人者努々不可有相伝者也 貴殿多年斯道熱心練磨の結果其蘊奥に達せらるゝを認め爰に我英信流居合術令相伝候宜しく将来本流の品位を堕す事なく之が拡張を計り妄りに漫りに他流に媚びず以て伝授の責めを全ふせられん事を期せらるべし

 此処では根元之巻に続き業目録が伝授されています。この業の部および業名で大江先生の大正7年1918年堀田捨次郎共著の「剣道手ほどき」の業名との相違するものは赤字としておきます。この根元之巻は大正10年1921年に発行されたものです。政岡壱實先生へ大江先生は根元之巻及び業目録を伝授された事になっています。
 その伝書との違いは大森流之部:正座之部、前身:向身、真向:抜打、山下シ:颪、真向:真甲、イーエーイ:ヤーエイ・ヤートウなどいくつか見受けられます。
 大江居合はいずれにしても土佐の居合の一部に過ぎず、特に大森流の相手の座す位置を抜きにして我の座す演武場での、前後左右であり、奥居合、居合道型は業名と手附は古伝とは異なります。習うべきであろう太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、大剣取は無く、棒術、和術も抜けています。居合抜だけに特化したものと言えるでしょう。

 

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2019年9月20日 (金)

曽田本その2を読み解く40居合術根元之巻40の1

曽田本その2を読み解く
40、居合術根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写也
40の1

抑此居合と申者日本奥州林之従大明神夢相〆奉伝
夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々末代為相応之太刀云々
手近勝一命有無の極此居合恐者栗散邊土堺不審之儀不可有之唯依霊夢処也
此始尋奥州林崎神助重信云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信云曰
汝以此太刀常胸中憶持者勝怨敵云々
則如霊夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也
腰刀三尺三寸三毎(毒 か)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也
敵味方成事是亦前生之業感也生死一体戦場浄土也
如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉
此居合雖積千金不真実人者不可授之
可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾者 其退速云々
此意貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙興兵利心懸者夜自思之
神明仏陀祈者則忽得利方
是依心済身事燦然


大江正路先生から大正10年1921年に鈴江吉重宛に授与した無雙直傳英信流居合術の根元之巻及び業目録となります。
原文は漢文調ですから読み下し文にします。
 
居合術根元之巻
抑も此の居合と申すは日本奥州林之従、大明神の夢想に之を奉伝せしめる、
夫れ兵術は上古中古数多の違い有ると雖も、他流大人小人無力剛力嫌わず兵の用に合う云々、末代相応の太刀と為る云々、
手近く勝は一命の有無の極み、此の居合恐れるは粟散邊土の堺、不審の儀之有るべからず、唯霊夢に依る処也、
此の始めを尋ねれば、奥州林崎神助重信と云う者、兵術を望み有りて之を林の明神に一百有日参籠せしめ其満暁の夢中、老翁重信に伝えて曰く、
汝此の太刀を以て、常に胸中憶持は怨敵に勝を得る云々、
則霊夢の如く、腰刀三尺三寸を以て大利の有得す、九寸五分に勝つ事、柄口六寸の勝の妙不思議の極意、一国一人の相伝也、
腰刀三尺三寸、三毒三部に但脇差九寸五分、九曜五鈷の内証也、
敵味方に成る事、是のところ前生の業感也、生死一体戦場浄土也
此の如く観るは、則現世大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世の成仏成縁の事、豈疑い有らんや、
この居合千金を積むと雖も不真実の人には堅く之を授くべからず、
天罰を恐るべし、唯一人に授く云々

古語に曰く 其の迅く進は 其の退くこと速し云々
此の意を以て、貴賤尊卑、前後の輩と謂わず隔てなく、其の所を達せし者には目録印可等相違なく許す。
又古語に曰く 夫れ百錬の構え、則茅や茨の装鄙の構え在り、と、兵利を心懸けるは、夜自ずから之を思い、神明仏陀に祈る者は則忽ち利方を得る、是に依り心済み身事燦然。

 根元之巻の要点は林の神明の霊夢に依って奥州の人林崎神助(甚助の誤りか)重信が居合の神傳を得た、その極意は柄口六寸に勝つことで、一国一人の真実の人への相伝である、金を積まれても不真実の者には天罰を恐れ堅く授べからず。貴賤尊卑や立場の違いに拘わらず、兵利を心懸け、寝る間も是を思い、神明仏陀に祈る心掛けのある者は忽ち利方を得る、是に依って心は済み、燦然と輝くであろう。

 

 

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2019年9月19日 (木)

曽田本その2を読み解く39大詰

曽田本その2を読み解く
39、大詰

1、大詰は大きになじると云ふこと也、相手清眼に構る時上段の太刀拳を楯にして敵の顔へ突かけて懸る時、拳へ打込むを、身形を直ぐに跡へ外して上より二星を勝なり、とたんの拍子をぬいて直くに打つ也、此の拍子ちがへば相打になる也、是を栴檀の打ちと云て嫌ふなり、栴檀と云ふは二葉と訓して互に太刀のならぶこと也、習ひに大調子の小調子の大調子と云ってあり、大調子とは無拍子の事なり、小調子とは太刀に拍子をもたせて打つことなり。敵小調子にきらば大調子に勝ち、大調子にきらば小調子にて勝つべし、皆以て相気を闕くこと也、敵の小調子を大調子を以て勝つことを大詰と云ふ也。

 この大詰も武術叢書にある柳生流新秘抄の九箇の大詰です。相手青眼に構える時、我は上段に構へ太刀拳を楯にして上段から相手の顔に突きかける、相手我が拳に打ち込んで来るのを体を後ろに退き同時に上段に冠って打ち外した相手の二星(拳)に打ち込み勝。
 赤羽根龍夫先生の「江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」の大詰:「双方右手を肩の高さに構えた相上段、相手拳を打って来る、我は体を左斜め後ろに開いて太刀を大きく振りかぶって相手の打ちを抜き、右足を踏み込んで面を打つ。」柳生新秘抄の場合は相手青眼、我上段の教えでした、
相手の打ち込みを抜くや打ち込むとたんの無拍子で打ち込み勝、相手が小調子ならば大調子に勝つ、相手大調子ならば小調子に勝つ。相気を欠くことが大事としています。曽田先生による英信流居合目録秘訣の獅子洞入り、獅子洞出は何処かで戸口などの出入の運剣法とされています。小詰、大詰もどこかの流派の業名若しくは心得の聞き覚えを無雙神伝英信流居合兵法を土佐にもたらした第9代林六太夫守政は纏めて見たのかも知れません。
 古流剣術を知って神殿流秘書を読み解こうと、自流では何処にもその糸口が見いだせなく、柳生新陰流を学んでいますが、この大詰は柳生新陰流の九箇之太刀の小詰がそれらしい業です。
 戦国末期の1600年代から1700年代に武術は既に国内は徳川幕府によって統制されて戦闘は無くなって来ています。反面武術は入り乱れる様にしながら発展したのでしょう。他流の業を取り込んだりしながら武術で生きて行った人たちの努力が垣間見れる処です。

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2019年9月18日 (水)

曽田本その2を読み解く38小詰(獅子洞出、獅子洞入ノ事)

曽田本その2を読み解く
38、小詰(獅子洞出、獅子入ノ事)

 1、小詰は尖(するど)になじると云うことなり、相手の右手の膝に太刀を押當るが如くに鋒先をさゝえて構ふるなり、此の形を獅子の洞出と云ひ、洞穴より猛獣のたけって出るに喩ゆ、此太刀さき三寸へつけて弓手の肘を捧げ相手の太刀さきを押ゆる、相手拳を払ふ時、太刀を摺り込んで両腕を押へ詰めて勝つなり、此の有様を獅子の洞入とも云ひ、峰をもって敵の胸板をつらぬくことを小詰と云ふ。

 小詰の出典が書かれていません、これは柳生新陰流の「柳生流新秘抄」の九箇の太刀六本目小詰そのものです。此の出典も早川順三郎の武術叢書に間違いありません。
 曾田先生は、この小詰を英信流居合目録秘訣にある「獅子洞入、獅子洞出」の事だろうとされています。
 獅子洞入、獅子洞出:「是以戸口抔を入る習也、其の外とても心得有るべし、或は取籠者抔戸口の内に刀を振上て居るときは容易に入る事能わず、其時刀を抜て背に負たる如くに右の手にて振り上げ左の手にて脇指を提げうつむきて戸口を入るべし、上より打込めば刀にてふせぎ下をなぐれば脇差にて留る、向ふの足をなぐ可し、獅子洞出是以て洞出入の心得を知らする也。」
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 第9代林六太夫が江戸から土佐に持ち帰った無雙神傳英信流居合兵法の教えの中にある獅子洞入、獅子洞出の図と解説ですがこれでは、柳生新陰流の小詰には程遠いものです。
 あえて言えば、柳生新陰流の小詰は天上の低い場所での勝負に向く太刀でもあると「江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」の著者赤羽根龍夫先生はその著書の小詰に書かれていますので、上の低い洞からの出入りの業として第9代は江戸で長谷川英信か荒井勢哲かに指導を受けたのでしょう。
当時柳生新陰流は将軍家及び大名家に師事されていましたから、英信や勢哲の様な市井の浪人若しくは武士と農民の境目の所属不明の剣士には柳生新陰流は遠い存在だったでしょう。
 小詰の柳生新陰流は、赤羽根瀧夫先生の解説により、打太刀は右膝上に刀を斜め上に向けて立てて構え、仕太刀は打太刀の左胸を切先で突く様に刃を上に向け右手を上向けて刀を捧げ持つようにして間に致る、打太刀は仕太刀の刀を刺突せんと捧げ持つ左柄手を小さく打って行く、仕太刀は拳を打たれる寸前に、打太刀の太刀を刃を上にしたまま左斜め下に打ち落す、仕太刀は刃を下にして打太刀の中心に詰め残心。
 

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2019年9月17日 (火)

曽田本その2を読み解く37三つの声と云事

曽田本その2を読み解く
37、三つの声と云事

 三つの声と云は、初、中、後の声と云て三つにかけわくる声也、所により声を掛くると云う事専也、声は勢なるによって、火事抔にも掛け、風波にも掛け、声は勢力を見せるものなり、大分の兵法にても、戦より初に懸る声は、いかほどもかさを懸けて声をかけ、又戦ふ間の声は調子をひきひき底より出づる声にてかゝり、勝て後あとに大きに張り懸る声、是三つの声也。
 又一分の兵法にしても、敵をうごかさんため打つと見せてかしらより「エイ」と声をかけ、声の後より太刀を打出す物也。(行宗先生の「敵は真向にて抜かんとかまえるか、声にて、かくれがたく、さま廻て抜き付」とは此の意ならん)。又敵を打ちて後に声を懸来る事、勝を知らする声也、是を前後の声と言ふ。
 太刀と一度に大きに声を懸くる事なし、若し戦の内に懸くるは拍子にのる声、ひきく懸くる也、よくよく吟味有べし。(武術叢書)

 この写しも武術叢書からの引用です。武術叢書が引用したものは宮本武蔵の五輪書「火之巻」に依ります。宮本武蔵が五輪書の冒頭で「諸流の兵法者と行合ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度も其の利をうしなはず。其の程、年十三より二十八、九迄の事也。」とある様に試合に依って身に着けた知恵をまとめたもので、武術の参考はもとより人生の参考ともなる事も多く、海外でも読まれているものです。
 大江先生の組太刀英信流居合之型では、掛け声を掛ける様に指定されています。それは「発声は相互の打合せ、或は受け又は打ち込みたる時、其業毎に「イーエー」と長く引きて声を掛け合ふなり」とされています。是は三つの声でも否定している「太刀と一度に大きに声を懸くる事なし」と違います。「若し戦の内に懸くるは拍子にのる声、ひきく懸くる也」です。
 河野先生の大日本居合道図譜の居合道形の掛声は「発声はイーエーと互に斬込みたる時掛けふ。(イーはヤアにてもよし)(斬込む瞬前にイーとかけ、斬込みたる瞬間にエイとかける)」演武会などや、youtubeを見ていますと大声で勇ましい掛声を出して木刀を振り廻しています。古伝神傳流秘書には掛声の有無は記載されていません。太刀の打込みに合わせた掛声はともすると、力みを呼び「この一刀で真っ二つにせん」と打込み容易に裏を取られるものとなります。戦前の赤紙一枚で徴用された兵士を死地に向かわせ白兵戦に怖気させない為の洗脳とは現代は違って、少しでも武術の奥義をと名人上手を志し日々修錬する人は武蔵の云う「よくよく吟味有べし」に目をやるべきでしょう。

 

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2019年9月16日 (月)

曽田本その2を読み解く36電光影裏斬春風

曽田本その2を読み解く
36、電光影裏斬春風

 鎌倉の無学祖元禅師の大唐の乱に捕へられて斬られるの時無学辞世に右の頌を作られたれば太刀を捨て拝んだと也。
 無学の心は太刀をひらりと振り上げたるは、電(いなびかり)の如くよ、電光のピカリとする間、何の心の念もないぞ、打つ太刀も心はなし、我身にも我はなし、斬らるゝ我にも心はなし、斬る人も空、打るゝ我も空なれば、打つ人も人にあらず、打太刀にもあらず、打たるゝ我も我にあらず、唯イナビカリのピカリとする内に、春の空吹く風を斬ったらば、太刀に覚へもあるまい、斯様に心を忘れきりて萬の事をするが上手の位なり(武術叢書)
*
 「貴殿の兵法に当て申し候はば、太刀を打つ手に心を止めず、一切打つ手を忘れて打って人を切れ、人に心を置くな、人も空、我も空、打つ手も打つ太刀も空と心得よ、空に心を取られまいぞ・(上記部分)・舞をまへば手に扇とり足をふむ、其手足をよくせん、扇を能くまはさんと思うて忘れきらねば上手とは不申候、いまだ手足も心が留まらば、わざは面白かるまじき也、悉皆心を捨きらずしてする所作は皆悪く候」と武術叢書の不動智の功に書かれています。
 不動智とは、沢庵和尚の書いた「不動智神妙録」で、武術叢書はその引用となります。武術叢書は大正4年1916年に早川順三郎によってまとめられたもので武道を志す当時の人によく読まれていた様です。
 不動智神妙録は沢庵が柳生但馬守に向かって、剣禅一如を説いていますが、人として生きるにはどうあるべきかを説いています。曽田先生は武術叢書を読まれた事はこれで認識できます。此の心がどのように土佐の居合に反映されて来たのか、そこのところはどうなのでしょう。

 土佐の居合の指導者の多くは、引き継ぐべき弟子が戦死してしまったり、弟子も指導者も戦地に徴用され根元の伝承を受けられずに形ばかりを思い描いていたのかも知れません。
 無事に帰還した時には師匠は既に亡き人か、時代の大きな転換に萎えてしまっていたかもしれません。弟子も同じでしょう。
 大江先生の門下生は中学生です、武術の根元を伝授される事はできなかったろうし、大江先生もその手附から判断すれば、私は疑問を抱いてしまいます。
 話はずれますが、この大江居合について土佐の古伝との乖離や細川居合との違いを知るにつけ、大江先生は下村定からも五藤正亮からも明治維新の大きなうねりのなかで充分な指導を受けられなかったかも知れない、そのため正しく伝承できずに独創して子弟に伝えてしまったと思うのです。大江先生は武術家だったようですから独創した業はそれはそれで大江居合として十分でしょう、
 此の事を私が語る事が気に入らないと言って、大江信奉者やその流れをくむ今では稽古も出来ない様な人が言ってきました。理論よりも感情が先行するのでしょう、どこの馬の骨か判らないミツヒラに言われたくないのでしょう。
 大江居合は土佐の古伝無雙神傳英信流居合兵法のほんの一部の形に過ぎないのですから、譬え年老いて刀が振れなくとも古伝神傳流秘書を熟読し自らその業技法及び心得を研鑽した上で立合ってもらいたいものです。
 その方は、竹刀剣道を「当てっこスポーツ」と云うのも気に入らないと言って憤慨しています。「当てっこスポーツの何が悪い」と云うのならいいのですが竹刀剣道を誹謗しているとでも思ったのでしょう。私は歳を取って若者の力と速さに打ち負ける様な当てっこでは武術では無いと言って居るだけです。
 竹刀スポーツも武術として昇華された方の中には若者にも十分対応できる方がおられるかも知れません。それには当てっこではない剣術の奥義を学ぶ事が必要だろうと思います。「当てっこスポーツ」と言われて気に入らないならば、60代でも70代でも全日本で総合優勝してもらいたいものです。

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2019年9月15日 (日)

曽田本その2を読み解く35神道無念流

曽田本その2を読み解く
35神道無念流 福井兵右衛門嘉平

 野州の産にして天明年中の人也、姉川上姜太夫と号し田中権田一圓流刀術を学びて其妙を得後諸州を修業し信州に至り飯綱権現に祈り遂に奥旨を悟り自ら神道無念流と号す。
*
 曽田本その2は曽田先生のメモ若しくはスクラップブックです。神道無念流が突然書かれています。神道無念流についてのこの文章はどうやら武術流祖録から書き写したのだろうと思われます。武術流祖録の写しを何処からか借りて来たのか、大正4年発行の早川順三郎による「武術叢書」から書き写したと思われます、原本は漢文で書かれていますから読み下し文にされたのでしょう。

 天明年中の人ですから1781年~1789年に生まれたか死んだかの人、10代将軍徳川家治か11代家斉の頃でしょう。綿谷雪著「日本武芸小傳」の武芸流祖録では、「下野国都賀郡藤葉村の人、今の壬生町藤井だろう、元禄15年生まれ。天明2年83歳で死す」とあります。
 神道無念流の何が曽田先生にその謂れをメモしたくなる理由だったのか、曽田本その2の後の方に神道無念流居合の手附が7ページにわたって書き込まれていますので、思う所があったかもしれません。

 此のブログにも掲載してありますが(2019年8月3日掲載)昭和11年11月の高知新聞に「土佐の居合術の為に 万丈の気を吐く豪勇曽田虎彦氏 傑物、行宗貞義の一の弟子、と長い見出しで曽田先生の履歴を書き込み、此の年10月25日に日本古武道振興会の主催で明治神宮奉納会があり、土佐居合術の代表者として曽田氏と竹村静夫氏が出席し帝都の檜舞台において英信流のために万丈の気を吐いた。そして曽田氏と範士中山博道氏と会見の節、中山範士は曽田氏を尊敬して先輩に対する礼を執り、刀の新しい下緒を贈呈したのであった・・・。」
 この中山博道先生は神道無念流です、新聞のスクラップをすると共に、神道無念流居合についても興味を持たれ資料を捜さられたりしたのでしょう。

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2019年9月14日 (土)

曽田本その2を読み解く34居合術(再掲載2019年5月10日)

曽田本その2を読み解く
34、居合術
余は居合は一兵法即ち居合兵法と称せられ剣道に附随せるものにあらず一派独立せる武術なりと信ず

 居合術は剣術今の剣道の一部門なり
 剣術は立合、太刀打、撃剣等とも称し刀剣の使用法にして即ち抜出したる刀を如何に有用に使用すべきかを教へたるものに付抜刀なくして立合あるべからず、其の用法は刀を腰より抜出しての上のことなり。
 居合術は立合の術、剣術にたいする語にして詰合、坐合、抜刀、鞘の内等とも称し此の立合の根元にして刀を抜く法なり、即ち如何なる場所にて如何なる刀を如何に有効に抜くべきかを教へたるものに付刀の鞘の内にある時より太刀打に至りて了る、故に互に抜刀して相対峙せば既に居合の範囲を脱して後は太刀合なり。
 居合は刀の長短、場所の広狭、地勢の高低、姿勢の坐起、敵の仕懸変化等に応じ臨機変通其の色を悟らせず刀尖を鞘口を脱する刹那確実有効の利を収むべきを教う。
 其の最重要なる点は刀尖の鞘口を脱する瞬間の働なり。

 前回のスクラップで日本刀談義の居合で勝負するという満州刀剣会監事永淵清次氏の考えでは、「居合は即ち剣道でありまして両者の間に稽古の形式で使用する道具が異なっている為これを区別する便宜上片方は剣道、片方は居合と言って居る次第であります。剣道は剣道具を用ひ相手に向かって竹刀で撃突を行ひますが、居合は道具を附けず相手も無く自分で攻防の法を研究するものであります。」
 「居合は即ち剣道である」とはじめに言い切って、道具(防具)をつけて相対してやるのが剣道、居合は道具を附けず相手も無いのが居合だそうでした。それは稽古法でのことで武術的には相対する敵を倒す事には変わりませんね。

 「居合とは現在の姿即ち人が坐って居る、立って居る、歩いて居る、寝て居る等を指したもので合とは合はす、応ずる、即ち電光石火臨機応変直にことを処する意味であります」と居と合を分けてそれらしく居合を解説していました。そんなことは刀を抜いて居ても同じ事で何時如何なる変にも即座に応じるのは居合ばかりの事とは言えません。道場での稽古や、勝ち負けの試合程度の事が頭に浮かんで解説しているに過ぎないと思います。

 「試合上より居合と剣道の異なる点を見れば、居合は剣道勝負の始まる前の試合法であり、剣道は居合で勝負のつかない後の試合法との言えます。真剣の場合は居合と今の剣道とも合わせて完全な試合法と言えます」結果は真剣での勝負では同じ事だと云うのでしょう。あえて分けて居合の素晴らしさを述べても意味は無いと云う事でしょう。居合馬鹿には往々にしてあるもので手前味噌に陥るきらいがあるのですが、それは力量以上の段位などを手にして居合であろうと竹刀剣道であろうと武術とは何か、何を修業するのか、その結果は何なのか、生きることに其れがどのような意味を持つのかと思いめぐらさずに棒振りして来ただけに過ぎないのでしょう。

 「要するに人間居るその儘で如何なる場合にも変に応じ勝を一瞬の裡に制するやう千磨必死の意気込みを以て身心技術の修養鍛錬を行ふ道であります」要するに何時如何なる変に応じる身心技術の修養をするのが居合だと言ってます。剣道だってそれは同じ、他の武術も同じ事でしょう。
 現代では居合ばかりの稽古をして、この無雙神傳英信流居合兵法の事を知らなかった為に起こった居合術の議論に過ぎません。人間の最後のコミュニケーションは武術に依り相手を制するという愚かさをそれでもヨシとするならば、居合の言う鞘の内に相手を制することもあり得るでしょう。その最後の手段で手落ちなく制することが出来れば良いのですが、土佐に持ち込まれた無雙神傳英信流居合兵法には、太刀打、詰合、大小詰、大小立詰、大剣取、和術、棒術、小太刀の稽古業が組み込まれています、それらには、斬り込まれた時も「鞘の内」もそれを制する業が組み込まれているのです。居合は総合武術の一稽古単位に過ぎないと思います。同時にそれら総合武術のいずれにも裏を取られない居合の修練は現代居合の真似っこだけでは不可能です。

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2019年9月13日 (金)

曽田本その2を読み解く33スクラップ日本刀談義居合で勝負する

曽田本その2を読み解く
33、スクラップ日本刀談義 居合で勝負する
大連日々新聞昭和18年1月22日掲載
満州刀剣会監事 永淵清次

 世或は居合を以て徒に長い刀を一瞬に抜くものと考へるが如きは思はざるも亦甚だしいものであります。居合は即ち剣道でありまして両者の間に稽古の形式で使用する道具が異っている為これを区別する便宜上片方は剣道、片方は居合と言って居る次第であります。
 剣道は剣道具を用ひ相手に向って竹刀で激突を行ひますが、居合は道具を附けず相手も無く自分で攻防の法を研究するものであります、居合とは現在の姿即ち人が坐って居る、立って居る、歩いて居る、寝て居る等を指したもので合とは合はす、応ずる、即ち電光石火臨機応変直に事を処する意味であります。
 要するに人間居るその儘で如何なる場合にも変に応じ勝を一瞬の裡に制するやう千磨必死の意気込み以て心身技術の修養鍛錬を行ふ道であります。又試合より居合と剣道の異なる点を見れば居合は剣道勝負の始まる前の試合法であり、剣道は居合で勝負のつかない後の試合法とも言へます。真剣の場合は居合と今の剣道とを合せて完全な試合法と言えます。で勝負を争ふ際鞘から刀を敵より一寸でも早く抜き得れば一寸の勝を生じます。居合を鞘の内と呼びますのはこの意味であります。又刀が鞘を放れると同時に勝負がついて了ふ事も指して居ります。居合の応用に就ては支那事変で面白い例があります。准尉居合錬士の方の話であります。
 最初の戦闘で白兵戦になって日本刀を抜いて向ふと支那兵は非常に日本刀を恐れて逃げ廻り中々うまく斬る事ができませぬので居合の応用を考へました。次の戦からは刀は鞘に納めて突撃します敵は逃げぬのみか却って攻撃に出て来たので近附きながら抜打に敵の右の腕又は股に切りつけ、怯む所を体当たりで倒して致命傷を負はしたのであります。この方法で六十六人切って而も刃こぼれ一つ出来なかったといふことであります。
 然し刀を抜いて人を斬るのみが居合の全部だと思ふのは非常な誤りでありまして抜かない事が大切であります。人に交わるに愛敬虔温和を第一として何事も先づ人を立てゝ自分を後に苟くも大儀名分の明かなる時のほかは刀の柄に手をかけぬ、抜かざるに敵を制する精神が居合の本旨とされている事は申す迄もありません。
 日本刀は日本人と離るゝ事の出来ないものでありまして日本人にして三尺の秋水を見ますと厳粛な感に打たれると共に非常になつかしい感じが湧いて参ります。決してこれを以て人を害しようと言ふ感じは怒らないのが普通であります。却ってその刀剣から祖先の武勲を偲び又日本歴史を思ひうかべ軈ては(やがては)建国の精神迄会得する事が出来るのであります。居合はその尊厳なる刀の正確有効なる用法を講ずるものでありますから之に依って始めて人と刀の一致を見る事が出来るのであります。人剣一致の妙境に達しまして居合は剣に依り剣は居合に依り益々その徳が現れて参るのであります。
 居合修行に大切なる刀の條仲を簡単に申述べますと身長五尺三四寸の人なれば刃渡り二尺三四寸迄が適当であり重さは軽くなく重くない手頃のものを選びます。刃は最初から研ぎ出した刀を用ひなるべく刃引は避け度いものです。但し年の者初歩の稽古、一斉指導の場合書物に依る独習は手加減を要します。次に柄は居合巻といふ平巻きに作りますが普通の太刀巻きで結構であります。初心の時は鯉口を損ぜぬ様金具を嵌めるのも一つの方法であります。鍔は稍々小さい方が無難です。修行上の詳細なる点は与へられた紙数では之を露す事が出来ないので割愛致します。
 近代戦は新兵器の戦ひであり科学の戦でありまして居合の如きは迂遠千萬のものゝやうに思はれる方もありませうが、平素居合におうて鍛錬した精神体力こそは実に近代戦においても沈着果敢冷静水の如く勇猛烈火の如き活躍をなす根幹なすものであります。勝敗の決は依然として日本刀銃剣を以てする白兵戦が握っている事を考へれば思い半に過ぎるものがありませう。

 このスクラップは満州刀剣会監事の永淵清次という人が大連日々新聞に書いたものを、曽田先生は斬り抜いて曽田本その2に張り付けたのでしょう。
 昭和18年には既にニューギニアのブナで日本軍全滅、連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン上空で戦死、アッツ島全滅、前年の末にはガダルカナル島撤退が始まっています。決してこの様な日本刀による白兵戦などの世界とは思えません。意味不明の日本刀による精神の昂揚を説いて見ても、何の感動も起こらない、寧ろ嫌悪感の方が先に立ちます。近代兵器の前に多くの同胞を失い、守るべき妻や子まで巻き込まれて死んでいった、私にとっては父母の時代です。その一つにこの様な精神論があって他国から見れば無差別殺戮止む無しであったかもしれません。

 相変わらず真剣を以て居合の稽古をするのと模擬刀に依るのとは違うなどとおかしなことを言って居る人も居ます。材質が違えば感じが違うのは当たり前ですが、そんな事に拘っていては木刀や棒や竹刀など意味のないものになってしまい高い日本刀での居合以外に稽古する事もおかしなことになってしまいます。
 そんな人に限って、高段位になっても指から血を流している、初心の頃に形ばかり指導され、嘘の精神論を信じているへぼ居合人です。本物の修行の行きつく先は無刀であり、進んで神妙剣であるものです。

 スクラップはここまでで終わります、次回から再び曽田先生の直筆のメモになります。
 

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2019年9月12日 (木)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の8

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の8昭和19年5月18日高知新聞掲
光栄に輝く剣の生涯 ひたむきな精進に心魂注ぐ

 山梨武徳会支部の道場開きのとき大分剣客が方々から甲府に集まった、このとき川崎善三郎氏は門奈正というふ人と立合ふことになった、この門奈正は川崎氏よりも少し先輩で水戸藩の人、弘道館で修行し明治になってから小澤寅吉の東武館に入門し一刀流と田宮流居合の免許皆伝を受けそれから警視庁に入り下江秀太郎について磨をかけた剛の者だ、
 一本一本と取り合うて勝負になると川崎氏は相手の竹刀を敲き落とした、それからまだ対ってくるのを得意の足搦みで続けざまに五度倒した、何しろ相手の門奈は五尺八寸に近い偉丈夫、それに引きかへ我が川崎氏はちっぽけだ、それにコロコロやられたから余程残念さうだったといふ、
 その後数年経過した或日、この門奈と久し振りに立合ふことになった、ところがこのとき渡辺昇男爵が見えていた、渡辺男爵は元肥前大村人で斎藤新太郎門下の神道無念流の達人であった、その渡辺男爵が以前の川崎氏と門奈との試合の模様を知っているものだから、川﨑氏を呼んで「門奈をもう一度あんな目にあはしてみろ」といふ、その一方門奈には「今度は仇を討ってみろ」といってつまり双方をけしかけたわけだ、試合となると川崎氏は門奈が小手を得意だといふことを知っていたので十分に用心をして心中あはよくば例の足搦みを喰はしてやらうと意気込んでいた、すると相手はヂリヂリと退る、川崎氏も隙を窺いながらヂリヂリとつめより、柵のところまで追ひつめた、ここだッと「お面」と板の間を蹴って飛び込むと、見事に「お胴ッ」とやられた、しまったと思ったがもう遅い、次にもやはり其の手で、結局三本ともしてやられた、試合が終わると門奈が「川崎、川崎」と大きな声で呼び「仇をうったぞ」といった、それで川崎氏は「参った、いかにも恐れ入った」といったので一同が大笑ひになった、
 その後父専輔氏が七十七歳で病没したので土佐へ帰り各中等学校の剣道師範および大日本武徳会高知支部の名誉教師として晩年を全うしたが、その八十五年の生涯を顧るに幾度か天覧、台覧の試合にも出場の光栄に浴し、殊にはじめての天覧試合のときに畏くも天皇陛下より竹刀料五百匹、皇后陛下より紅帛一匹を賜はった、最近では昭和4年の天覧試合のとき高野氏と共に審判をして御紋章入りの金賞牌を拝受する栄に浴した、このやうな数々の光栄を蒙ったことは一介の剣士として面目この上もないことであり、同時にそれはどんな場合にも“剣”といふことを念頭から離さず勵んだ賜ものであらう(完)

 以上で川崎善三郎の剣に生きた生涯の記事は終わります。この記事は高知新聞という地方紙に掲載されたものですから、川崎善三郎の関係者は川崎氏、高橋氏。高野氏という様に氏をつけていますが、土佐以外の人で立ち合った人は呼び捨てとする程偏ったお国自慢でほほえましいのですが幼稚な感じは拭えません。
 昭和19年1941年の記事で、切り抜きは78年前のものですから当時の新聞紙やインクの良し悪しは判りませんが印刷が薄れていたり、印字が欠けたり、ぼやけて判読不能の文字が多く、メモ帳の寸法に折られて張り付けられていますから折り目の部分はますます判読不能になってしまいます。幸いなことに、読まれた人も少なそうですのでここまで読み取ることが出来ました。
 川崎善三郎先生の略歴をこの新聞記事から並べてみます。
 安政3年1856年  生まれる
                             父 川崎専輔
文久3年1863年  7歳 剣道稽古始める
「武道家の子は幼少から十分な素地をつくらねばならない」との父親の方針
           切返 5年間 
           型  2年間

 慶応2年1866年  10歳   寺小屋に入る
 明治4年1871年  15歳 道具をつける
   明治10年1877年 21歳 西南戦争 四等巡査になる
   明治16年1883年 27歳 大阪に撃剣試合遠征(大江正路も同行) 
                           高橋赳太郎と立合う
 明治19年1886年 30歳 警視庁入庁 高野と出合う 
               この頃山岡鉄舟の春風館に入門
 明治20年1887年 31歳   芝山での天覧試合野試合参加
 明治22年1888年 32歳 警視庁へ道場破り 川崎・高橋・高野で撃退「三傑三郎」となる 

 明治33年1900年 44歳 山梨県巡査教習所剣道教師となり甲府在住 
   昭和4年1929年  73歳 天覧試合審判で御紋入り金賞牌を受ける  

 昭和00年      父専輔死去(77歳)土佐に帰り中学校剣道師範
            大日本武徳会高知支部名誉教師              

 昭和19年1941年   85歳 没す
 

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2019年9月11日 (水)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の7

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の7昭和19年5月17日高知新聞掲
関脇を足搦めで屠る 東京大相撲甲府巡業中の珍話

 日清戦争の最中に広島の仮議事堂で天覧試合をしたことがあった、その後川崎氏は土佐へ帰っていた当時の土佐の剣客には馬淵桃太郎、小松孫四郎、馬詰栄馬などがいた、かくて川崎氏は明治33年の春山梨県巡査教習所の剣道教士を仰付かって甲府に行った、時の山梨県知事は後に高知県知事にもなりまた文部次官になった石原謙三、書記官が例の西久保弘道、それから警察部長が後に北海道長官になった岡田文次の諸氏で何れも剣道は今の三段位の腕前であったので、当の川崎氏は非常に優遇されたものだ、
 その頃東京大相撲の常陸山一行が巡業に来て雨でニ三日休みになった、或日道場へ力士が多勢見物に来た、ところが関脇の稲川が“俺も一本やってみる”といひ出した、何しろ素人と言へ二十七、八貫もある図体でそれに力稼業の男だ、うっかり相手になって痛い目にあふのは厭だからみんな尻込して結局川崎氏に廻ってきた、「さうかよろしい、やらう」と云っている処へ噂を聞いて西久保書記官が常陸山と一緒にやってきた、常陸山は非常に意気込んでいる稲川に「よせ、よせ、相撲取りが撃剣をするといふのは道にないことだ、道にないことはよせ」斯ういって制めたけれども稲川は元気を煽られているのでどうしても承知しない、すると西久保書記官が「面白い、では俺の道具を貸すからやってみろ」といふことになり川崎氏も道具をつけて道場に出た、川崎氏は東京に修行しているとき逸見宗助先生から「筋肉をきたえているものを相手にするときは尋常では駄目だ、脉を打たんといけない」とかねがね教はっていたので面倒になれば腕の内側に一本見舞って痺れあげさせてやる覚悟であった、
 さて立合になると稲川はいくら打たれてもいい、相手の身体に竹刀をあてさへすれば勝だといふのでまるで牛が突きかかるやうに飛び込んで打ちかかってきた、それをニ三回受け流すと川崎氏は例の足搦みで稲川を道場の真中にドスンと倒した、慌てて起き上がるや否やまた足搦みでさすがの稲川兜を脱いだ。
 明治36年の5月には八王子甲府間の鉄道が開通することになった、さて開通式の当日は甲府はじまって以来の賑ひで近郊近在から見物人が集まって町がはちきれさうな人出であった、開通式も滞りなく終ると祝賀の大宴会があり、宴会が済んで町へ出た時はもう夜になっていた町の混雑は絶頂に達している、川崎氏は渡辺千春と連れだって家へ帰らうとしたが途中の交通整理を消防の人々がやっている、腕には刺青をチラチラさせていた、そして今日はお上の手伝いをしているといふので特に意気が高かった、ところが喧嘩好きな千春は人混みを歩くうちにあっちこっちでぶつかっては喧嘩をはじめた、消防が制めるのだが、その制め方が生意気だといふので腹を立て、それから消防の姿を見るとポカンと殴りつける。
 川崎氏は何分人に揉まれながら歩いているのでそんなことはちっとも気がつかずに平気で悠々と歩いて春日町まで来ると千春に別れて家に帰った、そして寝ようかと思っていると門口をドンドン叩くものがある、出て見ると近所のお内儀さんが血相変へて「いま露地の口で消防が集まって、ここだ、ここだ、川崎の家はここだ、と騒いでいる」といふ、また近所の男が駆けつけて来て「五十人ばかりの消防が手に手に鳶口を持って相手は剣術使ひだから油断すな」とのことだといふ、当の川崎は一向に訳がわからないので「何も消防から喧嘩を売られる覚えはない」と平気でいたけれども近所の男は心配して荒井警察部長のところへ注進に行った、川崎氏は話がわからぬうちに殴り込まれるといけないと思って戸をしっかりとしめて様子を窺っているとドヤドヤと押しかけてくる足音がする、「叩きのめせ、殴り殺せ」いきまいており今にも戸を打破って雪崩れこまうとする気配だ、川崎氏はそんな理不尽なことをすれば覚悟があると決心して身構へをしていた、
 そのとき、急を聞いて駆けつけた荒井警察長の話によって事の顛末がのみこめた、それは千春が乱暴したことを川崎氏がけしかけたと誤解したのである、兎に角かうして無事に済んだけれども一時は血の雨が今にも降るかといふ大騒ぎだった。
 

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2019年9月10日 (火)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の6

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の6昭和19年5月16日高知新聞掲
三傑三郎は斯くして出来た 夜通し猛稽古をつけた精神力

 明治20年6月、芝山の彌生社で天覧試合があり、そのとき野試合があった、わが川崎氏等三人は三本勝負を天覧に供する光栄に浴し野試合には関係がなかった川崎氏は白軍から助太刀を頼まれたので加はった。
 敵軍を見渡すと奥宮警察署の永井利胤氏が紫の襷をかけて指揮している、この永井氏には川崎氏が最近の方面会で敗けたことが有るので、今度はやってやろうと乱軍の中を縫ふて近寄った、▢て永井氏と向ひ合ふと同氏はパッと打込んで来る、そこを例の足搦みで見事に倒したが何れ入乱れての乱闘だ、倒れたが百年目で大せいの白軍の者にポカポカとやられて永井氏はたうとう気絶してしまった、
 次に明治22年頃警視庁に道場破りがやって来た、それは旧榊原藩の指南役で戊辰に越後に出陣した時の鬼の指物をつけて武勇を轟かし豪剣の名も高かった柴田克己、薙刀の名人の長尾俊久、それから鎖鎌の大家大久保某の三人で揃ひも揃って手強い人物ばかりである、すると上田馬之助先生は川崎氏等に「この相手はお前ら三人で始末しろ」といった、そこで三人はジャンケンをして順序を決めたところが、高野、高橋、川崎といふ順になった、まづ薙刀の長尾が樫の木の薙刀を持って出て来た、この薙刀を腰のあいだにいれてひっかけつりあげて投げつけるのが長尾の得意だといふ、高野氏は薙刀の峰を踏んで落すところを胴をとり、最後に小手を取って見事に破った、次に高橋氏が出て勝ち、最後に川崎氏が飛込んで面をとり、それから足搦みでさんざんやっつけた、次が鎖鎌の大久保だ、ところが鎖鎌といふものは、六尺ばかりの鎖の先に分銅がついていてブンブン振り廻す、こちらの竹刀に搦みつけて引きよせ脇に挟んでいる小太刀で打つといふ厄介な代物である、川崎氏が長尾に勝って下ってくると、高野氏と高橋氏が何か相談していたが高橋氏が「川崎、貴公は鎖鎌をやった経験があったはずだな」といった、それで、川崎氏が「いかにもある」と答へると「それなら大久保は貴公一人でやってくれ、柴田は俺たちが引受ける」といふ、さうなるとわが川崎氏は厭とは言へぬ性分だ「承知した」と引受けてしまった、
 かくていよいよ大久保と立合ふことになった、型の如く互に礼を交はして立ち上がらうとすると、目の前一尺ばかりのところに相手の分銅が来ていた、しめたと思って左足でひょいとその分銅を踏まへて立上った、大久保は肝腎な得物が使へぬので狼狽している、そのところを一撃で鎖鎌を叩き落し、飛び込んで行って大久保のさしている小太刀を奪って胴をついたのでさすがの大久保も完全に参った、
 一方柴田も高野、高橋両氏が見事に勝ち道場破りの大敵を無事に撃退したので、上田先生から一同は大へん褒められた、それでこの当時この三人ー川崎善三郎、高野佐三郎、高橋赳太郎は「三傑三郎」と畏敬されて剣客の中に知れ渡った、
×   ×
 その頃吾妻橋所の道場開きがあり川崎氏等十人が稽古をつけに行ったことがあった、ところがこの十人を叩き潰してやらうといふので各署から選り抜きのものが二十人づつ詰かけ手具脛ひいて待っていた、稽古は晩の六時から始まったがそれからぶっつづけに一息つく暇もなく交る交る出てくる先方は叩き潰すつもりだから新手をひきかへひきかへ無二無三に打ってくるとうとう夜中になると他のものは皆叩き潰されて残ったのはわが川崎氏等三人だけだ、もうそのときはクタクタになって羽目板に身をもたせてやっと竹刀を持っているのだが、相手はそれを無理やりに道場の中ほどへ引張り出して足を払っては転がし、背中などをさんざん殴るのだ、もう駄目だ、と声を上げようと思って横を見ると高野氏も高橋氏もフラフラしながら兎に角闘っている、それを見ると何くそと勇気をしぼり出してまた立ちあがる、
 十二時を過ぎた頃には三人とももう無我夢中で羽目板にへばりついて相手に殴られるままになっている、もう目の先がまっ暗で何も見えないところがそのうちにだんだん白みかけるとその道場の隣に鶏屋があって、そこに飼ってある鶏が鳴きはじめた、すると俄かに三人とも元気が出てさあそれからは片っぱしから出て来る奴を殴り倒し朝の六時まで頑張り通して引上げた、家へ帰るとそのまま寝床へ転がりこんだが、それから二週間といふものは夜も昼もない、ただウツラウツラ眠っていた、ときどき起きて小便に行くだけだが、その小便も二週間位は血の小便であった、これを見ても如何に猛烈な闘ひであったかが察せられるとともに、こんなにも頑張れたのは春風館で修行したおかげであらう。

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2019年9月 9日 (月)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の5

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の5昭和19年5月14日高知新聞掲
剣道に年齢はない心眼明かなれば幾歳でも使へる

 あっちこっちの道場へ行っても手に立つものがいないので聊か天狗になった我が川崎氏に高橋氏を誘ひ二人で春風館(山岡鉄舟先生の道場)に乗込み玄関番の書生に名を名乗って試合を申し込んだ、すると書生は奥へ引込んだがそのまゝでなかなか出て来ない、玄関で二時間あまりもまたされた挙句やっと道場に通された、そしてまたその道場でも待たされた、
 二人はまだかまだかとぢりぢりして待つことまた二時間、すっかり痺れをきらした頃内弟子の佐野といふ男が物も言はずに現れた、二人は妙な奴ぢやと思ったが我慢していよいよ立合をするのだからと二人が道具をつけようとすると佐野が口を開いて「いや、それにはおよびません」といふ、そして木剣二振り道場の真中に組んだまま末席に坐った、
 さてはきっと型を見せてくれるのだろうと高橋氏と話しあひながらまたニ三十分経つと奥の方から足音が聞えて来た、二人は固唾をのんでいると鉄舟先生が四五人の高弟をつれて出て来た、純白の刺子の稽古衣に小倉の縦縞千筋の袴を穿いて真黒い頬髭を靡かせ這入ってきた、二人は思はず感に打たれて今迄張切っていた肩肱をすぼませてハッと頭を下げた鉄舟先生は黙って正面にピタリと着座する、そこで佐野が「先生がお立合いひ下さる」と言った、二人が頭を下げると、それに押かぶせて「ついては当道場の掟として試合とあれば素面、素小手で木剣で立合ふことになっているから左様御承知ありたい」といふ、それまでいい加減鉄舟先生の感に打たれている二人はそれを聞くと縮み上がって返事が出来ず、顔を見合せていた、すると佐野が一段と声を張り上げて「言葉を改めろッ」といふ、二人は何のことだかわからないのでどう改めるのだと訊くと、「御指南願ふといへ」といふのだ、それで二人は「御指南願ひたい」といふと佐野がそれを高弟に通じる、高弟はまたそれを鉄舟先生に申し上げる、すると鉄舟先生は黙ってうなづいたまますうつと奥へ這入って行った、
 それから道具をつけて、高弟衆に稽古を願ふと、二人はいやはやもう散々に叩き据えられてヘトヘトになり頭を巻いて春風館を出た、すっかり天狗の鼻を折られてしまったわけである、その後佐野の紹介で二人は春風館に入門することになり、高野氏も改めて入門した、一応春風館は評判の稽古の厳しいところだが、特に入門した三日は胆だめしだといって、立ちも這ひも出来なくなるほど荒稽古させられる、それが済むと普通になるのだが、普通と言っても他所の道場の二倍も三倍も荒い稽古であった、この稽古がどれだけ為になったものか、すなはち後に「三傑三郎」と称して畏敬される三剣豪の素地をこの時つくったのである、
 さて入門すると鉄舟先生はこの三人を特に目をかけて指導した、また勝海舟先生など見えられた時は隣室で話しを聴くことも許された、鉄舟先生の稽古といふのは三尺三寸の竹刀を持ち非常に柔らかな稽古振りであったが、いくらこちらが打ったところで、ピリッとも態度が崩れないので一向に打ったやうな気がしない、得意は突きで「一本行けッ」と一喝すると、二、三寸竹刀が離れているのにゴクリと突かれたやうな気がしたといふ、鉄舟先生はそんな豪傑であったが人を呼ぶのに決して呼び捨てにはせず、年少の川崎氏等に対しても必ず「川崎君」といふ風に呼んだ、
 そして鉄舟先生は川崎氏等の門下生に対し「剣道には年齢がない、心眼さへ明かなれば幾歳になっても使へる」といふことと「逆足は踏むな」それから「欲を捨てろ」とよくいはれたものだ、それは剣の上だけでなく事実鉄舟せんせいは欲をすてられた方であった、思ふに我が川崎範士が恬淡で清貧にあまんじ85年の大生涯を全うしたのは蓋し鉄舟先生の薫陶によるところ大であろう。

 「剣道には年齢がない、心眼さへ明かなれば幾歳になっても使える」
 大抵の人は40過ぎぐらいから若い者には勝てないと云って益々、段位と所属年数、役職の上下に拘って使えない剣道を続けている様です。歳を取れば使えないものならば稽古しても意味は無さそうです、何か間違った稽古をして来たのでしょう。幾つになっても役立つものが武術なのでしょう。
 足腰を痛めている五、六十代の人が大勢います、練習法も間違っているのでしょう。早い強いばかりに拘って見てもどんどん筋力は衰え関節は摩耗して行きます、一ケ所に負荷のかからない運剣を身に着け、鍛えるべきものも変えて行かなければならない筈です。それが鉄舟先生の」「非常に柔らかな稽古振り」に現れていたのでしょう。「心眼さへ明か」とはどの様にすべきなのでしょう。一言で言い表すことが出来る人も居るでしょうが、心眼が明らかでも体が思うようにならなければそれは明らかとは言えそうもない。幾つなっても使える心眼は課題です。

 「逆足は踏むな」は歩み足の動作が身に付けば其れによって可能かもしれません。右足前だけの運剣動作や、剣先と逆の足捌きで居付いてしまったのでは是もそこまでなのでしょう、それとも更に奥が籠められているかもしれません、課題でしょう。

 「欲を捨てろ」は、素直な気持ちでより良いものを学ぶ気持ちがなければ捨てられない、勝気ばかりの人は何も身に付く事は無いし、身も心も不十分なのに無い物ねだりしても結果は得られそうにもありません。初心者や素人相手に多少習って出来る業を仕掛けて悦に入っている人も結果は其処までの様です。是も課題です。
 

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2019年9月 8日 (日)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の4

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の4昭和19年5月13日高知新聞掲
高野氏との初顔合わせ剣客雲集す明治20年の東京

 明治19年春青運の志を抱いて上京した青年の川崎善三郎氏は未だ東京の水に慣れないでウロウロしている頃の或る日料亭へひっぱりあげられたことがある。二階に上ると廊下のつきあたりに大きな姿見があった、それまでそんな大きな鏡を見たことのない川崎氏だったので向ふから自分によく似た奴が来ると思って吃驚したといふ、そんな挿話を撒いているうちにだんだん東京に慣れて来た。
 明治20年の警視庁管下は六方面に別れていて第一は品川、高輪麻布など第二は久松町、京橋日本橋などといふ風に一方面に四つか五つの署が属していた、そして毎月各方面で方面会といふ剣道の試合を催した、従って月に六回は方面会がありこの会には各署から優秀なものを選手として出し部長なども必ず出席して見物した、既記のとほり三島総監の奨励によって諸国から剣客が集まって来ていたので警視庁にはなかなか使手が多かった、わけても難物と名をとったのが伊藤良彌、野津元三郎、小石川署の斎藤竹次郎、下谷署の門宗正そのほかは元佐倉藩の兼松直庸、これは鏡新明智流で桃井の四天王の一人だった、そのうちに大会があってその時川崎氏が顔を合わせたのが両国署の高野佐三郎氏(三傑三郎中の唯一の現存者)であった。
 高野氏は秩父大宮の松平下総守陣屋の指南版番で小野派一刀流の高野苗正といふ人の孫である、その前に上京したとき猿屋町署の堀口といふ剣道四段、柔道四段で警視庁切っての力持と組打をして捻ぢつけ洟汁を垂さしたといふ剛の者なので、これこの手でひっくり返されていたかは油断がならぬわいと思った、ところが先方も先方で両国署長の宮内警視はわざわざ高野氏を呼び「高輪の川崎は足癖が悪いから気をつけろ」と注意した、わが川﨑氏は足掴みが得てで大概の敵手ほらである、結局の勝負は引分けとなったがやはり川崎氏は足掴みでやったことはやった、それ以来川崎氏はこの好敵手の高野氏とも親交を結び高橋氏と三人で稽古もしまた大いに遊びもしたものだ。
 当時川崎氏は一等巡査の資格で月俸十円弁当代一日六銭にして一円八十銭服代月割一円六十銭、別手当三円その他半年に短靴料二円、一ヶ年に長靴料五円であった、其頃下宿代が大体六畳二円といふのが相場でそれには三食とランチ、火鉢が含まれていた、天保銭一つで風呂に入って蕎麦が二杯喰へた、高輪から神田まで俥をとばして五、六銭、牛肉屋の“いろは”では五十銭で二人で存分に飲み食ひ出来た、そんな時代だから本俸ともに十四円内外の月収があれば豪勢な暮らしが出来たものだそのうちに川崎氏も高野氏も高橋氏もどこの方面へ行っても滅多に敗けない、あっちこっちの道場へ行っても手に立つものがいないので聊か天狗になった、それである日高橋氏に「どうだ、春風館へ行ってみようではないか」というと高橋氏は立ちどころに賛成した。春風館は山岡鉄舟の道場だ、高野氏は十七歳のとき金鎖神社の神前試合の恨みから春風館に入門して修行したことがあるので誘はなかった。

 

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2019年9月 7日 (土)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の3

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32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の3昭和19年5月12日高知新聞掲
両剣士を結ぶ申試合 負け嫌ひで而も人善しの反面

 明治16年のこと、この時分は撃剣試合の興行といふことが流行して高知でも堀詰座でやったりしたが、その後十人ばかりの剣士が大阪に遠征したことがある、大将は馬詰栄馬といふ両刀使ひの達人で元の致道館の師範、副将が馬淵桃太郎ーこれは桃井の高弟で箕浦猪之吉が妙国寺で切腹したとき望まれて介錯した使ひ手だーその他は深瀬幸太郎、志和幹作、郷千代次、前野新作、大江正路および当の川崎氏などで一行は大阪につくと土佐堀の土佐人経営の岡村旅館に泊まった、試合の場所は高島座で大入満員であった、勝負がつくと羽織や帽子を舞台に投げつけるそれを行司が披露すると剣士がそれを持って投げた客のところへ挨拶に行く、もちろん木戸銭をとったのでまるで芸人か相撲のやうな待遇を受けた。
 高島座の試合がすむと今度は長堀の警察署へ招かれて試合することになった、川崎氏はこのとき当時長堀署の剣道師範をしていた故高橋赳太郎範士と立合ふことになった、川崎氏は長堀署で立合ふ以前に相手の試合振を見ていたので此奴は手強いぞと思った、そこで試合の時ちょっと竹刀を合わすと直ぐ組打を挑んだ、組打となると「参った」といふまでやるのである、坂本龍馬が日根野塾にいるとき同門の岡林譲蔵とやって組みふせられて「労れた 労れた」といって「参った」と言はなかったといふ有名な話がある。
 それで川崎氏と相手の高橋氏は竹刀を捨てて組打をはじめたが30分ばかり上になりしたになりやっているともうどちらもヘトヘトになった、それで馬詰が「もうよからう」といったが秋山は「死ぬるまでやらせ」といふ、二人はそこでまた半時間ばかりやったが遂に両方とも息をつけないやうになて倒れてしまった、これが将来両剣豪を結ぶ縁となり川崎氏は高橋氏に勧められて一年ばかり神戸の監獄の師範をしたことがある、さうしているうちに東京では警視庁の三島総監が大いに武道を奨励しているので諸国から剣客が雲の如く集まっているといふ噂を聞いた。
 川崎氏は元修立社の社長であった水野寅次郎が当時三等警視で勧め小石川の署長をしており、その方からも勧められていよいよ上京を決心し明治19年の春に国を出た、かくて高輪署の剣道世話係、奉職し雨宮潤三郎の下に勤めることになった、一方相手の高野氏は一足お先に上京して警視庁本部剣道世話係になっていた、その頃同本部には上田馬之介、樋口政之、逸見宗助、下江秀太郎、得能関四郎などというせんせいなどが大取締役で師範をしていた。
 上京した川崎氏は実弟の伊賀彦氏当時慶応義塾に通学していたのでその下宿に同居した、実弟の伊賀彦氏慶応義塾に学ぶやうになったのは次の理由による、父専輔氏が伊賀彦氏に「時勢は変わった、兄は剣で身を立てたが、お前は学問をやれ」と言ったので明治16年に高知一中を卒業すると直ぐに上京したのである、これは余談だが明治16年度高知一中卒業生といふのは伊賀彦氏一人だ、それといふのはその時に自由党の職員がみんな罷めさせられたので同級生が悉くストライキをしたのに伊賀彦氏一人加はらなかったからである、
 さてその下宿屋は田町六丁目の大通に沿った田井といふ家で故上村大将夫人の実家で屋号は井ノ口屋といった、そこには川崎氏の親友の高田逸馬といふ高知県警部が三年前から上京して警官講習所に通っていて止宿していた、東京の水にすっかり慣れていた伊賀彦氏も高田氏も初めて出て来てウロウロしている川崎氏にいろいろ知恵をつけたがある日のこと三人で雑談していると伊賀氏が「兄さん、あんたはちと金を持って来たか」と訊ねるので、国を出るとき持って来た三十円に手をつけていなかった川崎氏は「少々持っちょる」と答へた、すると高田氏が「その金はどういふ風にして持っているのか」と訊くので「大切に懐中しちょる」と答へると「そりゃいかん、東京は生馬の目を抜くとこじゃ、大金を提げ廻っては危険ぢや、是非とも畳の下へでも匿して置くがよい」と忠告してくれた、それでその夜川崎氏はその三十円を紙にくるんで畳の下へ入れて置いた、翌日チョット外出して帰って見ると、二人は居ない、どこへ行ったのかと思って下宿のお内儀に尋ねると「何だか知らぬが、貴方のお部屋でゴソゴソしていて、やがて二人とも大笑ひに笑ひながら雀躍りして出て行かれましたよ」かといふ、さてはと思った川崎氏は急いで部屋へ行って畳を捲ってみたら三十円は影も形もなくなっていた、なるほど東京は生馬の目を抜くところぢやと感心したといふ、二人はその夜へべれけになって帰ってきた。
 

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2019年9月 6日 (金)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の2

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の2昭和19年5月11日高知新聞掲
最初の五年は切返し 次の二年は型ーこれを基本に稽古

 川崎善三郎翁は7歳のときから正式に稽古を始めたが、はじめの五ヶ年は切返しばかり、次の二ヶ年は型ばかりやった大体稽古はこの二つが肝要であり、これはちょうど軌道をつけるやうなものでこの軌道がしっかり出来ておらんと本当の修行が出来ないからである、そんなわけで道具をつけて叩き合う稽古は15歳になってからであった、その頃の稽古は足腰が立たなくなるまでやり、へたばりこんでしまっても呼吸が調ふとすぐまたかかっていくといった具合であった。
 寺子屋に通ひはじめたのは十歳の頃で師匠は同じ新町の近森といふ人、ここで手習をはじめ、小学、大学、論語、孟子などの素読から謡曲まで習った、自宅の道場の稽古は朝五時から七時まで父はそれをすまして十時から午後の三時ころまで致道館に行った、寒稽古は午前二時から始めたものだそれから当時新町に住んでいた足軽の結城金次郎の親父が講の金を受取って比島から帰って来る道で、比島の金次といふ悪黨に殺されたことがあり、金次は捕へられて処刑されたそのとき金次郎は十二三であったが七十あまりの祖母とともに仇討の形式をとった、こんなときには剣道の師匠は門下生を連れて刑場に行く、つまり見物させるのだ、川崎氏も父に連れられて握り飯とウルメを持って見物に行ったものである。
 西南戦争頃の土佐はなかなか物騒であった、板垣とか後藤とかいふ大頭連は野に下るし、片岡健吉は帰って来て立志社を興すし政府の方でも目をつけている、それに古勤王黨の連中が大久保や岩倉の組織した政府に反感を持っているので、今にも動乱がはじまりそうであった、川崎氏の父なども長岡郡の池知退蔵、野市の北の新宮の森輿太郎、野市の大石円(もと彌太郎)などと気脈を通じており、同志の森脇直樹が当時三等警部であったから、その手を通じて同志の壮士を巡査にして各地に配り軍用金なども密かに集めていた、新町の田中亨、池上平などはそれで一等巡査になり、川崎氏も四等巡査になって赤岡の屯所の御庄といふ人のもとに勤めた、元来はニ十歳にならぬと資格がないのだが十七、八の壮士もどしどし採用したもので当の川崎氏などもその組で月給が四円で滞在日当ニ十銭の割であった。
 西南戦争がすむと鹿児島から壮士がニ、三百人来て警部や巡査になった、この時に森脇等はことごとく免職されたのだ、その薩摩の連中は戦争をして来た連中ばかりでなかなか気が荒く高知の壮士連と事毎に衝突した、高知にはその頃たくさんの社があった、北▢に逍遥社、上街に開成社、北新町に共行社、江ノ口に有信社、潮江に▢陽社、中浦戸町に修立社、久万に精到社、水通に南嶽社、大川筋に南洋社といった具合で荘士連は腕まくりして太いステッキをつき紙緒の皮草履を穿いて闊歩し、政論を闘はして慷慨悲憤をし薩摩人の巡査とよく衝突した、各社とも壮士の若いのは十二、三歳のものもあり、それが結構一人前に暴れたものである。
 川崎氏は共行社に属していたが、この共行社には一号、二号、三号、四号といふ風に階級があり川崎氏は年少ではあったが二号であり随分と悪戯をしたものだ、それから共行社は山稽古、浜稽古といふこともしたし時には安芸まで十里を日帰りすることもやったが、列を作って歩いてうちに音頭とりが「マガリナシ、マガラズ二、マッスグユケ」と号令をかけると田辺島あたりの曲っている道でも真直ぐに歩く、田の中をどしどし歩くのである、川があってもその号令のときはザブザブと横切らなければならなかった。
 

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2019年9月 5日 (木)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の1

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の1昭和19年5月10日高知新聞掲
剣に全心魂を打混む 七歳にして既に道場に出る

 天下の剣豪範士川崎善三郎翁は昭和19年5月2日午前9時50分高知市帯屋町95の自邸で85歳の生涯を終った、幼少7歳にして父君川崎専輔翁に手ほどきを受けてからその終焉まで斯道に研鑽すること実に前後70有余年、稀に見る長年月の練達者であった、父専輔翁は愛児善三郎を育成するについても「武道家の子は幼少から十分な素地をつくらねばならない」とあって、7歳ですでに道場に連れ出して竹刀を持たせたほどであって、その稽古振りも決して並一通りではなかった、それだけにその進歩の物凄さは驚くばかりであった、しかも氏は尚これ以上で足れりとせず当時高知の一流剣士数氏について猛烈な指導を受けたので技倆はいよいよ上達、遂に海南土佐にそのひとありと謳はれるに至った。
 当時高知県出身で警視庁警視を奉職していた山本正幹、水野虎次郎の両氏は、この少年既に一家の風格を備へた川崎氏の非凡な腕前を認め、招いて警視庁に入らせた、時に明治19年である、氏は直ちに高知警察署に奉職し剣道助教を拝命したが、教授の傍ら上田馬之介逸見宗助、下江秀太郎等当時の錚々たる剣豪について血を吐くやうな稽古を積むこと実に十星霜におよんだ、げに氏の▢▢は死物狂ひだった。生命を賭しての精進だった、余りの猛稽古に下宿へ帰っても二階へ上がれず、仕方なく梯子段を這ひ上がった、飯を食うにも茶碗も持ち上げられなかった、もともと天才的な技量を持った上にかうした猛練習である、たちまち東都武道界に断然頭角を現し、そのヒタと構へた無外流必殺の剣尖は真に天下無敵まことにめざましいものであった、折しも東京には小野派一刀流の達人高野佐三郎氏(埼玉)あり、無外流浅田一伝流の達人高橋赳太郎氏(兵庫)あり、ともに斯界に麒麟児の名を馳せていたがこれもわが川崎善三郎氏を加えて「三傑三郎」と称して畏敬した、いふまでもなく三氏とも郎の字がつくからだ、その三羽烏のうち高橋赳太郎範士は既に物故し今はわが川崎範士逝き残るはただ高野範士のみとなり一抹の寂寥を感ぜしめる、▢々われらはいま翁の面影をしのび「武道土佐」はもちろん我が国武道界に遺した翁の大きな足跡をたどってみよう・・
 剣道範士川崎善三郎翁の祖先は長曾我部の家家臣で川崎黒右衛門といった祖父の代になってはじめて山内家に仕へてお城下の新町俗に井出淵に住んでいた、父はもと久助といったが殿様筋の名前に差障りがあるのでおもてむきは専輔と改めていた、新町には其の頃軽格の者ばかり住んでいてその若い連中は南瓜組といふ黨を組んで盛んに暴れまはったが、その乱暴の中でも川田金平の黒ミツチャはとりわけ有名であったといふ、
 当時中新町二丁目には番太小屋があったが南瓜組の者が夜遊びに行って帰りに「番太、何刻か」と聞くと、番太はうるさいものだからいつでも「昨夜の此の頃じゃ」と返事をすると、それが面憎いといふので白ミツチャと黒ミツチャが発頭人になって番太が眠っている隙に大勢で番太小屋を取り囲み外から戸をしっかりと閉め窓から辛子で燻し立▢▢、番太が目を覚ましてコンコンとむせ返りながら出ようとすると三、四人で番太小屋を担ぎあげて川へ投げ込むぞと脅かし御頭番太を恐れいらしたといふ、
 それからまた後に武市半平太先生の勤王黨に入り大阪で井上佐一郎を暗殺したり久松喜代馬が女房を貰ふたところが、それが生意気ぢゃといふので南瓜組の者が土瓶に濃い▢を一ぱい詰めて持って行き、婚礼の席で撒き散らした、この乱暴は公の沙汰になって横目が探索に来て調べあげると、発頭人はやはり川崎久助と川田金平だとわかて二人はオヅコメ(押込め)で謹慎のことになった、わが川崎善三郎氏はかうした負けぬ気の父の長男として万延元年4月20日に生まれた、この父は井出淵の自宅で道場を開く一方、藩校致道館の剣道取立役を命ぜられて出勤した、
 その頃の門人の主なものは例の久松喜代馬、天誅組の吉村寅太郎、後に堺で切腹した箕浦猪之吉、武市先生の片腕で獄死した島村▢吉などであった、その当時土佐藩は勤王と佐幕が争って参政の吉田東洋が殺されたり、武市先生が切腹したりするやうな騒ぎであったが、父は専ら武道にいそしんで政治むきのことはかんけいしなかった、善三郎はこの父に連れられ弁当を提げて武道館へ毎日通ったのである(写真は晩年の川崎善三郎)

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 昭和19年の高知新聞に掲載された川崎善三郎とその周辺について5月10日から16日の1週間の掲載を切り抜いて曽田本その2に張り付けてあります。
川崎善三郎先生は5月2日に85歳で亡くなったもので、その逝去を惜しんで記述されたものです。75年前太平洋戦争真っただ中の事でインクも薄れて画数の多い漢字は文字が不明瞭でその上文字の大きさも今時の新聞の半分位ですから虫眼鏡が無いと読み進められません。随所に▢で読めませんとしてあります。特に解説すべきものでも無いので転記のみとしておきます。

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2019年9月 4日 (水)

曽田本その2を読み解く31スクラップ橿原神宮で古武道大会31の2

曽田本その2を読み解く
31スクラップ橿原神宮奉納武道各流大会
見よ、武道日本の誇り 
輝く五十八流派の奥義演武

 奈良県、日本古武道振興会共催本社後援の紀元ニ千六百年奉祝橿原神宮奉納全国古武道各流型大会は27日午前9時から橿原神宮苑建国会館で挙行、開会式に先だち日本古武道振興会会長小山松吉氏、同理事長松本学氏および宮村奈良県知事ら一同打揃って神宮神殿に参進、玉串を奉奠、参拝ののち宮村奈良県知事、松本理事長の開会挨拶あり、ついで、古武士の面影をしのばせる七十八歳の佐藤政五郎、羽口彦三両翁をはじめ十歳の杉野茂男、十一歳の勝瀬光安君や十八歳の乙女可皃睦子嬢ら百三十名が武道日本が古くから誇る各々五十八流派が開始された。
 劈頭まづ古来武道を奉納する際に四方の悪魔を蹴散らしたといはれる日置流弓術鳴弦、四方詰を東京府の浦上栄氏が静中動の秘儀を遺憾なく発揮し、ついで福島県の菅野武雄氏が牛渡八郎右衛門の武田流陣貝術、わづか十歳の杉野茂男君がわが国武道中興の祖飯篠長威斎の編み出した香取神刀流の居合術、手更(?)剣術、太刀術、棒術、長刀術の形をしめし、さらに無雙直傳英信流(曽田虎彦 メモ)諸賞流以下十流派の演技が行はれ午前の部を終り午後一時より現代講道館柔道の元祖ともいはれる磯又右衛門の天神真楊流七十六歳で矍鑠たる八木寅太郎翁ほか三名によって天地も裂けよの気合で行はれ、次いで往時の機銃を想はせる連続速射土居彦太郎氏の日置流石堂竹林派の弓術堂前形、また現代に珍しいチョン髷姿もいかめしい嘉納軍次、古賀栄作両氏の独特の掛声と八相の構を武蔵の二天一流剣術の型、笹森順造、小館俊雄両氏の物凄い切落し妙技を見せた小野派一刀流剣術の型、九尺の大太刀軽々と昔の弁慶の勇武を偲ばしめる直元流大長刀術の型、真の気合と精神の漲る古井亀太郎、福田彦平両翁の勇壮な伯耆流居合術、その他いづれの型もみな不惜身命の境地を偲ばしめ、観る者をいたく感動せしめた。
 演武の途中小山会長は「古武道の意義と必要」の題下に現代行はれつゝある武道の競技化を避けて真に気合のこもったわが国独特の皮を斬らして肉を斬り、肉を斬らして骨を斬るといった真に正しい古武道の精神を強調した約四十分にわたる講演があって再び柳生流居合術、大東流合気柔術はじめとして二十五流派の型は武道精神を遺憾なく発揮し祖先の勇武を昭和の今に観るの感を抱かせ盛会裡に五時過ぎ散会した。

 この新聞切り抜きは昭和15年5月28日(火曜日)に発行されたもので新聞社は不明です。高知新聞であればもう少し土佐の居合を書き込むと思われますが無雙直傳英信流7文字に終わっています。
 この記事を読みながら、5年後の昭和20年には、多くの国民が戦争で命を失い、国土は焦土と化して肉親を失い、無条件降伏に陥った得体のしれない扇動に引きずられていった時代を思い起こします。
 同じあやまちを繰返さない強い意志を持ち、同じ地球に生きるものとの愛に満ちてつながっていきたいと心から思います。
 土佐の居合を指導するものは神妙剣を学び伝えていくもので、安逸な居場所に胡坐をかいているものでは無いでしょう。「気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に至らしめずして勝を得る也、さりながら我臆して誤り(謝り)ている事とは心得る時は大に相違する也、兎角して彼に負けざるの道也、止む事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も死なずの道也、亦我が誤りをも曲げて勝には非ず、誤る(謝る)べき筋なれば直ぐに誤る(謝る)も勝也、彼の気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也」

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2019年9月 3日 (火)

曽田本その2を読み解く31スクラップ橿原神宮で古武道大会31の1

曽田本その2を読み解く
31スクラップ橿原神宮で古武道大会
31の1本県より二氏が出場

 日本古武道振興会では今回紀元ニ千六百年を奉祝し併せて万邦無比なる古武道を通じて日本精神の昂揚に資するため奈良県と共同主催により来る27日橿原神宮外苑建国会館において橿原神宮奉納全国古武道各流型大会を挙行することゝなり同会より依頼状を発したる所本県よりは無双直伝英信流居合兵法の奥秘伝たる太刀討之位、詰之位を奉納のため代表として錬士曽田虎彦、同田岡傳両氏が出演することゝなり土佐居合道のため気を吐く事となった、時局柄空前の壮挙とてその盛会は今から大に期待されている。

 このスクラップは曽田先生の覚書を綴った直筆和綴じ本の中に切り抜きが張り付けられているものです。次回に当日の奉納大会の模様が記事となって、張り付けられています。
 其処には珍しく切り抜きの年月日が残って居ます。昭和15年5月28日(火曜日)に発行された新聞記事となります。翌昭和16年12月8日真珠湾攻撃、日本は米英に宣戦布告しています。

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2019年9月 2日 (月)

曽田本その2を読み解く30スクラップ剣道の元祖が出した皆伝は土佐にあった

曽田本その2を読み解く
30、スクラップ剣道の元祖が出した皆伝は土佐に在った
土佐は日本一の尚武の国
衣斐家の系図で判明

 今回の支那事変によって勇猛果敢な皇軍の行動は世界列国の魂をあくまで挫いたのであるが、この果敢な精神は大和民族が祖先伝来から培はれた武士道的精神の発露である、しかしてこの武士道精神は剣道的精神と同一であり吾国の剣道こそは世界何れの国も模倣する事の出来ないものである、現に全国各地では、“俺の国が真の尚武の国であり武道発祥の地である”、と宣伝し殊に薩摩は二尺一寸の大太刀で一撃の早術といはれている“自見流”の本場として自慢しているが、今回高知市江ノ口退役陸軍砲兵大佐衣斐直夫氏の筐底から衣斐家に伝はる系図を発見し(衣斐大佐岳父故衣斐水根翁が秘蔵していたもの)、その結果現在に伝はる剣道は岐阜の山奥に生れ土佐へ来て実を結び元祖丹石入道の免許皆伝は土佐にあったことが判明し同時に土佐が天下一の尚武の国であることが立證され郷土史家驚喜せしめたと共に全国の史談会並に図書館へも通知し従来の誤謬を訂正する事となった。
 衣斐家にあった系図によると衣斐家の元祖衣斐丹石入道は織田信長に仕へた戦国武士であったが六十余歳に達した時(▢)、岐阜の牛洞(現在の揖斐郡清水村附近で大垣市から四、五里北方の山中)に隠遁し只管剣法の工夫に精進し遂に其の蘊奥を極めるに至った、当時天下一の剣豪として知られ高弟に神▢伊豆、疋田文五郎、柳生但馬守、塚原卜伝の四天王を持つ上泉伊勢守が京都にのぼる途中丹石入道のことを聞き疋田文五郎をして立合しめたところ一撃のもとに敗けたので今度は自ら立合ったがこれもおよばず遂に弟子の礼を執ると申し入れた、しかし丹石は既に隠遁し手洞の自見寺にあって仏に仕へる身であったのでこれを断った、当時丹石の高弟に野中兼山先生の曽祖野中伯山と東郷大将の先祖東郷長門守(當郷と書いてある)があった、東郷は修行二ヶ年で帰国し野中のみ専念修行したので技は悉く進み遂に丹石から免許皆伝を受け且つ丹石の愛娘周容夫人を貰ひ受けた。
 それから三年経過をなし一旦帰国した東郷が再度師を訪ふたところ丹石はすでに遷化したあとであったので免許を受くる事が出来ず丹石のいた自見寺に因んで、自見流(鹿児島では自源流と書く)ととなへ鹿児島で師範をなし門弟を殖し現在日本に誇り得る自見流となったものである。
 これを子孫に伝へ野中兼山先生もこの流を汲み山内入国と共に土佐へ来ても丹石の流儀である二尺一寸の法を守り断の一字で押し通したが晩年無実の罪を得て幽閉せらるゝやこの皆伝一切を海中に投じ滅絶せしめたと兼山先生の一人娘“おえん”さんが泣く泣く書いてあるのも実に哀れである。
 即ちこれによって見る時は山内入国と共に免許皆伝の野中兼山一家や丹石の血流である衣斐家が悉く来国してとさの偏土に剣法の華を咲かせていたことも明かな處である、なほ丹石の流れをうけて剣聖と呼ばれた人々並に流儀は大体左の如きものである。
 ▲人物 師岡一羽齊 △塚原卜伝 
 ▲鐘巻自斎 △伊藤一刀斎 △神古典膳 △小野二郎右衛門 △上泉伊勢守 △神後伊豆 △疋田文五郎 △柳生但馬守 △柳生十兵衛 △瀬戸口備後守 △宮本武蔵 △吉岡兼法
 ▲流派 天神龍、一羽流、神道一心流、有馬流、夫道流、神陰流、疋田流、卜伝流、柳生流、中條流、東軍流、長谷川流、小野派一刀流、自源、無明流、念流、抜刀一伝流等
 右につき中島図書館長は語る
 尚武の国として知られているのは薩摩と土佐であらう、薩摩は昔から自見流が盛んであるが薩摩の人々は自見流の元祖は瀬戸口備後守で備後が岐阜の山中で天狗にならったものと考へている、又どの書物にもそう書いてある、この一寸疑問を生じたので鹿児島の図書館へ照会したところが根源は知らぬとの回答であった、しかし衣斐家の系譜によりハッキリなった訳で早速同図書館へ通知してやる心算である。

 このブログの投稿は2012年7月だったと思います。早速衣斐家のゆかりの方からコメントをいただき、このスクラップは高知新聞の記事であったようです。資料としての信頼性がどの程度であったかは此の文面からは受け取れませんが、そう云う事もあり得るでいいのでしょう。詮索したり薩摩の自源流の伝承をいじって見ても意味ある事でも無さそうです。
 尚この記事の人物や各流派が丹石入道とどのようにかかわったかどの様な資料から選択されたのか分かりませんので、これもそういう見方がかも知れないで良いのでしょう。詮索して見た所で剣術使いの事は出自はもとより判らないと云った方が正しので、伝承された物語からその流の思いを感じられれば、いいかなと思っています。
 土佐の薩摩及び長州へのやっかみは、明治維新からこの頃までも尾を引いている様で昭和の日本人の子供じみた気分が彷彿として愉快です。
 尚「武士道精神は剣道的精神と同一」と云う事が呑み込めません。ご教示いただければ幸いです。多くの日本人は言葉の意味も解らずに誰か権威者の発言や新聞などの記事、近年はテレビなどのマスコミが伝える「言葉」をそのまま受け取って分かった顔をする癖がついている様です。


  
 

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2019年9月 1日 (日)

曽田本その2を読み解く29スクラップ肉弾三勇士の祖

曽田本その2を読み解く
29、スクラップ肉弾三勇士の祖は遠く秀吉征韓役に
明軍の火薬庫を爆破した
島津軍の自爆三勇士

 過ぐる上海事変に肉弾三勇士を産み、今次変に際しても数限りなき肉弾勇士を産んだが大和民族の忠勇義烈な精神を遺憾なく発揮した恐らく肉弾勇士の元祖である341年の前自爆勇士の史実がこのほど明かにされた。東京淀橋区西大久保2201陸軍少将原田二郎氏が昨夏文禄、慶長年間豊臣秀吉の征韓の城砦研究に赴き明軍の残した文化を調査中「泗川島津軍の三軍が我が軍(明軍)火薬庫を爆破し我が軍は敗退した」といふ項があって慶長3年10月朝鮮攻略に出動していた日本軍を殲滅しやうと明軍は20万の大軍をもって各地に逆襲、参謀島津義弘は騎兵五千を率ひて泗川新塞城に拠りこの大軍を防いだがこの時義弘の臣瀬戸口彌七郎重治、佐々木次郎右衛門光明、市来清十郎宗綱の三人が明兵の衣類甲冑を着用して敵中にまぎれ込み敵情偵察を行ひ最後に火薬の貯蔵庫にしのび込み火を点じて爆破壮烈なる自爆を遂げた史実を明軍が記録したものでこれにより島津軍は大勝を得たのである。
 この史実は島津家の「旧記雑録」(国土史)に記録され筮底深く秘められ島津家の信心する稲荷大明神の赤狐白狐が敵中に忍び込み火薬を爆破したといふ伝説として伝へられているもので、帰朝した原田少将が島津家について調べて見るとこの肉弾三勇士の瀬戸口家は血統が絶えへて現在11代目の戸主が世田谷区赤堤町2の460陸軍少将瀬戸口彌太郎氏と解り佐々木家は鹿児島県始良郡加次木丹土佐々木勲氏に伝って居り、市木(来)家だけは絶へてしまったことが解ったので近く両氏の系図によって三勇士の史実について調査することゝなった。

 この文章は第一次上海事変昭和7年1932年の事で、鉄条網を突破するために破壊工作をする志望者を募り三十数名が志願しその内3名が選ばれおこなわれたもので、当時の新聞でも取り上げられたようです。鉄条網は破壊されて三名は爆破に巻き込まれて死亡、実際は自爆であったのか事故であったのか疑問のある処だったようですが、大和民族の美談として三名は二階級特進し軍部の宣伝に使われた様です。
 その爆弾三勇士の祖が秀吉の朝鮮出兵時の話として、明軍の火薬庫を破壊した島津軍の話が明軍の古記録に在ったというわけで、武勇を誇示しながら戦争へ戦争へと駈足で進んで行ったのでしょう。
 曽田先生がこのスクラップを曽田本その2に張り付けたわけはなんだったのでしょう。緻密な作戦を立てて行うべき破壊行為を、自爆行為で達成させるような事では、近代戦としては先が見えていたでしょう。
 

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